「変身ネコミミ格闘少女に骨太な倫理性を見る」

 

■SF作家平井和正の初期作品群は「人類ダメ小説」と呼ばれることがある。デビュー作『殺人地帯』において、主人公が「人間の抱える闇」に触れて、「闘いを放棄」する形で「消極的自死」を選ぶことに表されるように、作者によれば「人類はダメさの責任をとって切腹すべきではないか」という感受性から「人類ダメ小説」は生みだされた。

 

■「人類ダメ小説」と呼ばれる作品の中で、ほぼ最後期の作品であり、最も知られる作品は『ウルフガイシリーズ』と呼ばれる一連の作品である。「自然の精霊」の化身とも言える「日本産狼男」が主人公。人間社会の中で生きていく「人間とは近いが人間では無い者」が人間の業(ごう)を「告発」する、という構図が度々繰り返される作品だった。

 

■『ウルフガイシリーズ』は作者自身が言うところの「ベクトル感覚」によってグイグイと作品世界に引き込まれる作品であり、当時中学・高校生だったワタシは、気が付けば主人公に感情移入し、主人公と共に「人類はダメだッ」とばかりに憤ってる自分に気が付き、いい知れない気恥ずかしさを感じたものだった。

 

■この時感じた「気恥ずかしさ」は、いったい何だったのだろうか。

 

■『白虎戦舞』の主人公零香は、物語の発端では小学生の少女。とある切っ掛けにより、父親は「心を砕かれた」状態となって、傍目からは自分の世界に籠もって狂乱しているように見え、母親はそんな父親に驚き他人を頼ってしまったばかりに妖しげなカルト宗教に捕まって「行方不明」となる。親類、学校の教師、児童相談所を初めとする公的機関、級友達……大人も子供も、他人はだれも事態の打開を助けてくれない。ある者は「好意と同情」は抱いてくれても具体的な方策も実行力も無く、ある者は弱みにつけ込んで財産や権益等をかすめ取ろうとし、ある者は弱った零香をいたぶることで快楽を得ようとする。

 

■そこに方位神 白虎の使いを名乗る異形のものが現れ、零香を「神子相争」と呼ばれる「闘い」に誘う。異界のバトルフィールドで「仮の肉体」で零香と同じく悲惨な境遇の子らとの闘いを数年に渡って続け、勝ち残る度に「幸片」という「任意の相手に幸運をもたらすもの」を得るという。

 

■零香は闘う相手が、あるいは「父親が人を疑うことを知らないことにつけ込まれて『保証人』を背負わされ、商売道具の工場も腕や指も壊され、心も壊された結果、ホームレス生活に追い込まれた」り、「家庭内虐待の結果、親族からも“ゴミ捨て場”と呼ばれる家に送り込まれたものの、そこで自分を親身になって助けてくれた『ねえちゃん』が度重なる挫折で心を砕かれてしまった」りといった、それぞれ「背負うもの」があると知り、自分が勝つことは相手の「幸福」を奪うことだと知った上でも、戦いに勝って「幸福」を自分のものとし、父や母を助けることを決意する。

 

■とはいえ、神子相争のフィールドに一旦入ると「ギブアップするか、一分以上気絶するか、死ぬか」しないと負けにならないという。「仮の肉体」とはいえ、あるいは足先が炭化し、あるいは耳を千切り取られ、あるいは鉄骨に腹を貫かれ、あるいは血とはらわたを吹き千切られながら超高空から落ち……と、「一分以上気絶していられるほど、甘い闘いではない」と神使が言うとおり、闘いは凄惨を極めたものとなって行く。参加者は皆、自分たちの「幸福」を求めて必死であり、時に闘いで「首を掻き殺して幸福をもぎ取った」相手の状況が改善されているか気に掛けたり、時に「苦しまないよう、とどめを」心がけたり、闘いの場以外で思わぬ「再会」に驚き、不思議な、それでも闘いに差し支えないよう心がけた親交を結んだりしつつ、いざ闘いになれば容赦なく、徹底的に勝ちを求め、「幸福」を求める。

 

■「幸福の素(もと)」である「幸片」が手に入ればそれで即事態改善、かというとまったくそんなことはなく、「幸片」はあくまで「長期的に見れば、対象者にとって幸福側に働く偶然」が起きるだけであり、無駄にしないためには慎重に状況を把握し、タイミングを計り、使った後は効果を見極めなければならない。更に言えば、零香の例でいうと、母親に関してカルト被害者の会との折衝、「銀月本家」の権益を求めて蠢く親族との「旧家の一族内政治的パワーゲーム」等、「幸福な偶然」に頼れない事への対処が求められる。自ら考え、行動することが必要であり、フィールド内だけで“闘い”が完結することはない。

 

■こうまで凄惨で(一見)「救いがない」ように見える物語を読むうち、ワタシの中に、どうしても「見ていられない……」という気持ちがわき起こる。「まだ小学生の女の子じゃないか。こんなコトさせちゃいけない……」

 

■では、もし零香が上記のような「同情」を言われたら、どう答えるだろうか。きっと鼻で笑い「私は私なりにやってるよ。で、あなたは『どうする』の? 何をしてくれるの? どういうプランを持ってるの?」

 

■これと裏表になるのだろうが、かつてのワタシが「人類ダメ小説」を読んで「吹き上がった」ように、零香に対して「周りの大人は何やってんだ。なんて酷いヤツらなんだ」と言えば、やはり鼻で笑って「彼奴らのことはいいよ。で、あなたは『どうする』の?」

 

■零香を含め、神使に誘われた娘達はみな、「人類の業(ごう)」と呼べるものによって、悲惨な状況に突き落とされている。しかし、それが例えどんなに凄惨で「他人の幸福を後回しにする」やり方であれ、自らの考えと行動によって、状況改善を図る。「幸片」は先にも述べたように「幸福な偶然」、事態改善の切っ掛けにしかならないし、神使達はそれぞれ優しく、気遣いはしてくれても、フィールド内の闘いにおいても、外の闘いにおいても、「助言」しか許されていないし、それ以上は「有害」であると知っている。

 

■彼女たちは「他人はあてに出来ない」と骨の髄から思い知らされた上、厳しい闘いを通じて常に「幸福を得るため、勝つためには自分で考え、行動するしかない」と再確認し続ける。いや、そもそも初めから、闘いに参加する前から「(父を、母をあるいは『ねーちゃん』を)助けるには、自分でなんとかしなければ」と考えていた。神使のサポートや「幸片」を得る手段が無い神子相争への参加前はまだ、どう考え、行動すれば良いかは分からなかっただけなのだ。

 

■だからこそ、凄惨な闘いに敢えて、自身の決意によって参加した。そこに「彼奴らが悪いから」という「甘え」は(事態の改善になんら資することがない故に)微塵もなく、思考と行動の“主語”は自分自身であり、その結果の“責任”は自分でとり続ける。そればかりではなく、彼女たちはしだいに、ある意味で「闘いを楽しみ」始める。言い方を変えれば、「闘う力」を得ることを楽しむ。かつての「自分で助けなければ」という、意欲はあってもどう行動すれば良いか分からない日々から脱却しつつある自身を楽しむ。

 

■ここでふと、中学・高校の頃、「人類ダメ小説」を読んで「ヤクザ映画を見て肩で風切って歩く」風の陳腐な高揚に「気恥ずかしさ」を感じたワタシ自身を思い出す。

 

■あれは、主人公と共に「人類はダメだッ」とばかりに憤ってる自分自身が「人類の一員」であるという、なんとも笑える青臭さに気付いたからではなかったか。「ダメだダメだ」といいつつ、「で、どうするよオイ?」と問われる事など考えもせず、憤って「スッキリ」してハイ、おしまい……ではなかったか。。。

 

■零香達『白虎戦舞』のヒロイン達は、確かに悲惨な状況に苦しんではいても、決して「同情」するような対象なのではなく、むしろ、自分が何を求めるか明確に知り、そのために考え、行動する「力」を得ることを楽しんでさえいる。零香の前に現れた神使が開口一番言った「汝が望むなら、牙と爪を与えるために来た」というのは、まさに言葉通りだった。望まなければ、得られない。望んだだけでは、得られない。望み、リスクとコストを考え、状況を分析し、闘いに臨み、結果に責任を持つ……。そんな闘いが三年もの間続く。

 

■闘いを通じて、それぞれ大きな「力」……それは直接的な戦闘力のみならず、権力、魔力、知力……それらを合わせた「総合力」、を得、それを「如何に使うか」を考え、結果に責任を持てる「大人」へと成長をとげる。成長譚。なんとも骨太なバトル小説である。