黒い翼

 

序、翼のあり方

 

それは、黒い翼であった。

少し前から、噂には聞いていた。空を舞う黒い翼があると。

鴉ではない。もっとずっと大きい翼である。

しかして、猛禽でも無い。

なぜなら、翼しか無いからだ。その巨大な翼と翼の間には、どう見ても体らしきものが見当たらないのである。

それなのに、どうしてか一対のその翼は、ずっと空を舞っている。何かを、探し求めているかのように。

見上げる先にいる翼は、月を背景に、ずっと旋回を続けている。おかしなものであり、その異常な有様を、誰も気づかないのだった。まあ、それも無理も無いことなのかも知れない。

此処は都会から離れた、小さな湖の上。

しかもいわゆる塩湖で、生物は何も住んでいない。あまりにも塩分濃度が高すぎて、住めないのだ。

黒い翼を眺めやっているのは、水着で浮かんでいる、まだ成熟していない女である。

長い髪は、塩湖にばらまかれ。その瞳は、ぼんやりと黒い翼を見つめるばかりであった。

やっと見つけることが出来たというのに。

この達成感のなさは、どうしたことだろう。

女、エルはそう呟いた。

退屈だとさえ思う。明確な怪異が、眼前で起こっているというのに。

エルは、面倒くさいと思いながらも体を起こし、泳ぎ始める。近くに停泊させている、無人のゴムボートに向かって。

辺りに浮かんでいる塩の塊をかき分けて、ボートに上がった。大きなボートである。這い上がっても、ひっくり返ることも無い。ボートの上で体を拭きながら見上げるが、まだ翼は其処にあった。

カメラを向ける。

何枚か、写真を撮った。

素人のエルが撮った写真である。ピントも完璧にあっているとは言いがたい部分がある。その上、デジカメだ。どうせコレを撮ったところで、いろいろと文句をつけられて、トリックだの何だのと言われるのだろう。

だから、世間に発表する気は、さらさら無い。発表する気は無いが、別の方法で、仲間内では楽しむつもりだ。

早速撮った写真を確認する。黒い翼は、きちんと写っていた。美しい満月を背に。

それだけで、エルには充分だった。

タオルをかぶって、ゴムボートの上で黒い翼を見上げる。

まだ、体無き黒い翼は。月を従えるかのようにして、或いは見下ろされるかのように、ずっと湖の上を、旋回し続けていた。

 

1、誰にも知られないこと

 

大きくあくびをしたエルは、黒板に書かれる数式を、ノートに写していた。この学校くらいだろう。こんな古典的な授業を、未だにやっているのは。

バイトをしてためたお金を使って、旅行をする。それも、国境を越えた隣の国まで。中学生だというのに、随分贅沢な趣味だという級友もいるが、昔は高校生でもバイトが許されなかった事を考えると、今のうちにやっておかないと損だとも思う。いつ、またバイトが出来なくなるか、知れたものではないからだ。

既に西暦22世紀になってからしばらくなるが、タイムマシンが開発されることも、宇宙に人類が進出することも無い。その代わり人口爆発だけはどうにか収まり、紛争や世界大戦も鎮静化しつつあった。

人類全体の、活気と熱量が失われつつあるとも言われている。

だが、治安は前世紀に比べると非常に安定してきている。爆発的に進歩していた科学は、ゆっくりとしか進まなくなったが、それでも誰も不平をこぼしてはいなかった。

チャイムが鳴る。古典的なチャイムが。

授業が終了して、眼鏡を掛けた老婆の先生が、礼をして出て行った。男女関係無しに、学生達がめいめいのびをしたり、或いは集まったり。授業の復習をしたり、それぞれ散らばり始めた。

「ねえ、エル」

「どうしたの?」

隣に座っている佐倉琴美が、話しかけてくる。

東洋から来た先祖を持つ彼女は、最初の授業で自己紹介するとき、エスペラントと並べて漢字で自分の名前を書き、周囲を沸かせたものであった。

「また、何処か旅行に行ってたの?」

「ちょっとね」

「いいなあ。 ちょっと贅沢だね」

「贅沢、ね」

バイトの内容を思い出して、エルはちょっと苦笑した。

旅行のために、エルは脳とネットワークを接続する機械を使って、バイトを行った。脳の処理能力を外部に一部貸し出すことによって、小金を得るというものである。現在でも肉体労働のバイトは禁止されている。だから、中学生で金がほしいときには、こういう変わり種をやるしかない。

簡単なバイトではあるのだが、案外面倒くさい。脳の一部が演算に使われているのが分かるのだ。その内容はあまり覚えてはいないが、しかし何ともいえない不快感と、終わった後の虚脱感が生々しい。

出来ればあまりやりたくないバイトだが。

また出かけるときのことを考えると、効率や賃金からも、これがベストなのだった。

既にバイト先に、エルは常連として知られているようである。旅行に行くために、毎度利用しているのだから当然か。

「それで、どこへ行ってきたの?」

「隣の国の湖」

「湖?」

「そう。 秘境なんだけど、ちょっとした塩湖があってね。 ぷかぷか浮かんで来たよ」

黒い翼のことは言わない。

あれを見に行くことが目的だったのだが、それを説明しても理解なんかされないからだ。以前、親しかった友人に変人扱いされて不快感を味わってから、一切旅行の目的を他人に話さないようにしている。

それが故か。

余計にエルは、変人扱いされるようになっていた。

「何だかエル、また変な旅行に行ってきたんだね」

「変言うな」

「あいた」

デコピンすると、琴美は大げさに痛がる。無論じゃれているだけだ。

変人であるというか、変人扱いされているエルに近づいてくるのは琴美くらいなので、本気で叩くようなことはしない。

あくびをして、次の授業の教科書を取り出す。

後ろに回った琴美が、エルの髪をいじくり始めた。今日はポニテにしているのだが、リボンの結び目をほどいている。

「なにー?」

「ちょっと乱れてる。 直してあげるよ」

「どうぞ勝手に」

「もう、だめだよ。 自分の髪なんだから」

嬉しそうなので、放っておく。

別に、困ることでも無かった。

 

世話を焼きたがる琴美は、学校では殆ど唯一と言って良いエルの友人だ。

だが、学校の外では、少々事情が異なる。

家に戻ると、体感型のネットワークにつなぐ。脳を多少いじる事で、殆どの人が現在では利用できるようになっている特殊なネットだ。かってのインターネットよりも遙かに大容量のデータをやりとりすることが出来、その結果作り出された疑似空間だ。ある種のワールドシミュレーターと言っても良いだろう。

ヘルメットをかぶり、幾つかの生命維持装置をオンにしてからネットワークにつなぐと、大量の光を浴びた後、新しい世界が周囲に広がる。時間にして、三秒ほど。今では、どこの家庭にもこのシステムがある。

髪を掻き上げると、真っ白な床を踏んで、エルは歩き出した。制服のままだが、別にそれでもかまわない。

正常な床。綺麗な空気。本物と、全く変わらない。

自分のホームスペースを出ると、宇宙のような空間に出る。若干薄暗く作られているのは、光を目立たせるためだ。

満点に輝く無数の星。

その全てが、誰かのホームスペースだったり、或いは様々な娯楽施設、店であったりする。

勿論オンラインゲームなどでも利用されているシステムであり、他にも様々な用途がある。変わったところでは、医療用にも最近は使われている。精神病の治療には、非常に効率が良いのだそうだ。

また、このシステムのメンテには、様々な人手がいる。エルが行ったバイトもその一つであり、末端のシステム維持や保守点検など、どうしても簡単な作業が必要な部分でも人手が必要になってくる。

だからその周辺も含めて、多くの人間が潤っていた。

面白いことに、ある程度の利益が見込める一方、人件費も掛かるシステムなのである。人口が増えなくなりつつある今、世界のどこでも手が足りなくなっている。そのため、労働者の人権は、前世紀よりもずっと向上している。その中でこのシステムは、象徴的な存在となっていた。

世界的な貧富格差はだいぶ縮まったとも言われているが、それにはこういう敷居の低い広域システムの普及が大きな役割を果たしている。

科学は、爆発的には進歩していない。

だが、こういう部分で、テロと民族紛争が地獄を作り出していた前世紀よりも、ずっと暮らしやすくなっているのだと分かる。現在では最貧民でも、寒さに凍えて餓死することは滅多に無くなっている。

人口と労働の釣り合いがとれている今、このシステムは世界の基幹となっていた。

宇宙に踏み出す。

浮き上がるのでは無い。空に向けて、歩くのだ。

数歩で、後は泳ぐように。体を動かさずとも、意思だけで進んでいける。周囲の星が流れるように、後ろに飛んでいく。

まずは幾つかのルータを経由して、大手のポータルサイトに。IPも既にV8が施行され、かってよりも遙かに大量のアドレスを容易に取得できるようになっている。だからこそ、非常に広大なネットの社会は、此処まで現実に近づいたのだともいえる。

側に、光。

ナビゲーション用のプログラムだ。奴は機械的な声で聞いてくる。

趣味でナビゲーションプログラムを人形のようにしたり、或いは美しい少女のようにしたりする場合もある。だが、エルは実用性のみを考慮して、光の塊にしていた。

「ハイ、エル。 今日はどこへ向かいますか」

「コミュニケーションスペース。 いつもの所」

「かしこまりました」

かってOSに付属していたブラウザは、特にOSのカーネル部分と連結している種類はトラブル発生装置などと言われ、著しく評判が悪かった。だが、現在はそんなことも無い。かなりアバウトな指示でも、的確に実行してくれる。

やがて、幾つかのルータを抜けて、目的の場所に到着した。

宇宙空間を抜けて、降り立つ。其処はいかにもなネッシーのCGが入り口に飾られた、初見お断りの雰囲気を漂わせる異空間であった。遊園地のようにも見えるが、中は基本的にコミュニティスペースである。

UMAを愛好する人間が集まったコミュニティだ。

この時代になっても、謎の生物の噂は絶えない。チュパカブラは未だに噂が消えていないし、幾つかの湖では謎の大型生物の目撃例が未だに上がっている。ネッシーにしても、まだ目撃例が出ている。

勿論、その中には、生存の確率が著しく低いものや、明らかに生物だとは思えないものも多く混じっている。

たとえば、入り口右手に多数のデータボックスが雑然と並べられているのは、ヒトガタ。一時期南極の海に生息するという噂が流れた、超巨大UMAだ。人間の形をしていて、南極海に出たことのある者なら誰もが知っているなどと言われていた。

ボックスに触ると、画像が再生される。

殆どは想像図ばかりだが、クオリティが高いものも少なくは無い。

モケーレ・ムベンベのデータも多数ある。コンゴに生息していると言われた巨大な生物で、恐竜の生き残りでは無いかと言われていた。だが、現地の人間は大きな生き物を何でもムベンベという説も根強く、それが二十一世紀の後半でほぼ照明されてしまうと、一気に下火になった。

実際には、大型のカバか象ではないかと言われていて、そうで無いとしても未知の生物である可能性はほぼ皆無だと結論づけられてしまっているUMAだ。既にマニアからも忘れられている存在である。

奥へ歩いて行く。

何名か、既に来ているようだった。

「よお、エル!」

手を挙げたのは、フクマ。日本語で、魔が隠れているという意味なのだという。

ネットに意識を投入するときはだいたいアバターと呼ばれる仮の姿を取るのが普通だが、どうもフクマは違うらしい。でっぷり太った中年の気がよさそうな男性で、口元の髭は何年も切っていないように見える。アバターを使わないという事では、エルと同じだ。

その側で、幾つかのデータを公開しているのは、崑崙。こちらは中国系の人物であり、今復興が進んでいるネパールの出身だ。歴史上最後の大国同士の戦争と言われたネパール戦役で家族を亡くしたそうだが、今はそこそこ裕福に暮らしているという。アバターは痩せた中年男性の姿をしているが、実際にはまだ若いそうである。

二人とも、此処の常連だ。

同じ趣味を持つ同士でもある。同様の常連は十数人いて、いずれもエルの友人であった。何名かとは実際に外であった事もある。しかし、あった事のある者は、今の時点ではここにいない。

「フクマ、崑崙、こんばんは」

「学校が長引いたのか?」

「それもあるんだけれど、とっておきのデータがとれたから、持ってきたの」

「おお、それはそれは」

全員がエスペラントでしゃべっているが、これは高度な翻訳機能のおかげだ。おそらく言語に直すと、エスペラントを使っているのは多分エルだけ。フクマは日本語だろうし、崑崙は中国語だろう。

サポートソフトの手を借りて、以前見た黒い翼を再生する。

脳に様々な機能を追加できるようになった今。これくらいのことは朝飯前だ。

コミュニケーションサポートツールの進歩は早い。近年ではアバターの表情調整、会話時のサポート機能などで、コミュニケーションが下手な人間でも、こういう場でやりくりをしやすいようにしているものもある。実際に、現実世界で会話補正をするものも存在していて、人類薙いでのコミュニケーションは以前よりも円滑になっている。

見た映像の再生も、これらツールの機能の一つ。ただ、少し現物のリミッターを、自分で外してあるのだが。

塩湖に浮かんで見た黒い翼。

その視角情報を皆で共有した。崑崙もフクマも、感嘆の声を上げる。ただし、崑崙は何処か冷めているというか、不思議な嫌悪感が声に混じっているような気がした。

「コレは凄い。 UMAという枠を超えているかも知れない」

「確かにオカルトの域だ。 分析を掛けてみよう」

口々に言う二人。

実際に分析能力が高いフクマが、複数のツールを同時に動かし、解析を開始する。

崑崙が、形容しがたい口調で言う。

「君は勇気があるなあ。 この湖には危険な生物はいないとはいえ、随分時間が掛かったんじゃ無いのか」

「バイトでためたお金で旅行に行ったのだし、これくらいは楽しまないと損よ」

「それもそうか。 しっかりしてるな」

崑崙は現実でもサポートツールを使って会話をしているらしく、対人関係が苦手だという。だから、エルが実際の姿でここへ来ていると言ったときは、驚いていた。もっとも、実際の居場所を検索されないように、制服のデザインだけは微妙に変えているのだが。

昔だったら、女子中学生の一人旅なんか自殺行為だった。

だから、今の治安がよい世界に感謝しなければならない。みんな豊かだと言うことは、それだけ心に余裕があると言うことなのだ。実際、殺人事件などの件数も、以前の世界とは比較にならないほど少ない。その代わり、人類の繁殖率も相当に下がっているようなのだが。

映像を拡大したり補正したりしていたフクマが、作業を終えた。

他に何名か来る。

中にはアバターさえ使わず、声だけ(しかも人口音声)だったり、或いは文字だけで入ってきているものもいる。中でも、いつも文字だけしか使わない通称カノンは、珍しく興奮している様子だった。

彼女が開いたウィンドウには、文字がかなりの早さで書き込まれ、スクロールしている。

「凄いなあエル。 良くこんな所に行って、こんなの見られるね」

「ありがとう、カノン。 そう言ってもらえると、嬉しいよ」

「分析が完了。 驚いた。 これは実際にこの場に存在しているよ。 人間の目ってのはかなりいい加減で、幻覚とか願望とかを結構実物としてとらえてしまうんだけれど、この映像にそれはない。 トリック無し、完璧な本物だ」

「凄いなあ。 此処のコレクションとしては、至高の一品になりそうだね」

早速、皆にデータを配布する。

四十分ほど空を旋回していた黒い翼は、やはり今見ても不思議きわまりない。存在としては、鴉の翼に似ているが、もっとずっと大きい。かといって、全く体の部分が見えないのは、どういうことなのか。

「これは、どういう存在なんだろう」

「縄張りを見回る猛禽に動きが似ているね。 でも、都市伝説の通り、体が見えないのはどうしてだろう」

「そもそも、本当に体が存在しているのかな。 ほら、此処を見て。 背後にある月が、きちんと見えている。 保護色にしてはできすぎているよ。 透明にしても、内蔵や血液まで透明な鳥類なんて、常識外にもほどがある」

わいわいと、会話が続いた。

ぼそりと、聞き慣れない声がした。いつも兎のぬいぐるみで場に入ってくるラビットという人物が、発言したのだ。性別さえ分からない存在で、声を聞いたことがある者さえまれだ。

エルもこのコミュニティに参加してから二年経っているが、ラビットの声を聞いたのはこれで三回目だった。声は小さく、サポートツールが聞き取っていなければ、理解できなかっただろう。

サポートツールを動かして、内容を再確認する。

「私の見たのと、少し違う」

「ラビット、君も黒い翼をみたのかい?」

「見た。 エルのが偽物とは言わないけど、違う」

「見せてくれないか。 僕が分析してみるよ」

崑崙の声に、ラビットはだんまりを決め込んだ。

しばらく根気よく待つと、データを提供してくる。多分、ツールの操作に手間取っていたのだろう。

かなり荒い画像が出てきた。

これは、或いは数年前の記憶か。古い記憶になると、専門のツールでも呼び出しが難しい場合がある。

「かなり画質が荒いな。 何年前の記憶だい」

「記憶じゃ無い。 記憶だと自信が無いから、ビデオカメラの映像」

「ビデオカメラ?」

旧時代の遺物に、流石に崑崙も声を上げた。

記憶からデータを引っ張り出せるようになった今、ビデオカメラは殆ど意味をなさなくなっている。映画の撮影に使ったりするくらいだ。写真はエルが使っているデジカメを例に出すまでもなくまだ一部で需要があるが、それより先にほぼ民間からは絶滅してしまったのである。

映像を見ると、四枚の何か細い線のようなものが、ゆっくり空を移動している。

それは昆虫の羽のようで、鳥に近いエルが見たものとは、確かに根本的に違っていた。腕組みして考えてしまう。

「これ、同じものとは思えない。 ラビット、一体どこで見たの?」

「もう覚えてない」

ラビットはしゃべらず、文字だけで返してきた。兎のぬいぐるみの上に浮かんでいるウィンドウに、文字の羅列が表示されている。

淡々とした応答だが、本人はこれでも一生懸命なのかも知れない。コミュニケーションツールが豊富に出回っている今、その手段も様々なのだ。

「解析完了。 ビデオカメラの映像なんて、触るのは久しぶりだよ」

「フクマ、どうだった?」

「うーん、何ともいえないけれど、手を加えている形跡は無いね。 アングラのツールまで使って調べてみたけれど、多分本物だと思う」

画像が拡大される。

虫の羽のようなものは、交互に羽ばたくようにして、ゆっくり空を流れている。色は黒いが、やはりエルが見たものと同じとは思えない。

分析によると、空の状態から、時間はだいたい十年前から十二年前。そうなると、ラビットはそれ以上の年と言うことか。或いは自分より年上かも知れないなと、エルは思った。

「おっと、もうこんな時間だ。 僕は家事をしなければならないから、落ちるね」

「ご苦労様、専業主夫」

「何、これくらいは安いものさ」

先にフクマが落ちる。彼が専業主夫として、三人の子供を支えているらしいことは、皆にとって周知である。家事の負担が減っている現在でも、三人の育ち盛りを抱えると、それなりに大変なのだ。

時間も遅くなってきたし、他の常連も次々に落ちる。夜型の生活をしている人間もいるが、今日は来ていなかった。崑崙は、データを解析したいと言って持って行った。別に流出して困るようなデータは入れていない。だから、持ち帰ることを別に拒まない。

最後に、ラビットとエルが残った。

沈黙が、少し気まずい。

「ラビット、貴方のデータ、今までどうして出さなかったの?」

「偽物だって言われるのが嫌だった。 だから、他の人が見るまで待っていた」

「みんな、そんなことしないよ」

「分からない。 少なくとも、前にいたコミュニティでは、裏切られた」

ラビットが落ちる。

ちょっと、悲しいなとエルは思った。

 

実は、ネット上で裏切られたことは、エルもある。

以前、UMAに興味を持つ前に通っていたコミュニティは、アイドルのファンサイトだった。そこでエルは、男の子のふりをして、会話に興じていた。

小学生の頃である。

今時、小学生がネットのコミュニティに通うことは珍しくない。そのため、安全を考えて擬装用のツールやアバターが用意されており、その頃はエルもそれを使っていた。最近売り出し中のそのアイドルは人なつっこい性格(少なくとも、表向きは)で知られており、綺麗な格好をしたお姉さんが好きな年頃と言うこともあって、エルはアイドルの情報集めに夢中になっていた。

そこでコミュニティに参加したのだが、そこで大きな失敗を犯した。

仲良くなった一人と情報交換をしている内に、どういう弾みか、素性がばれてしまったのである。

住んでいる場所というような致命的なデータは露出しなかったが、女子小学生という事がばれてしまうと、後は大変だった。コミュニティでは、露骨に周囲の見る目が変わった。中には、性的な話題を振ってくるような連中までもが現れた。

身の危険を感じたエルはコミュニティからの接続を切った。

アイドルのデータも全て破棄した。しばらくはネットに足を運ぶことさえもがおっくうになった。

だが現在、ネットにつながないと、学校の宿題さえも出来ない時代である。学校も子供からネットを取り上げるのでは無く、どうネットとつきあっていくかを教えていく時代なのだ。

だから、少しずつ立ち直ることを、エルは選んだ。

やがて、どうにかして自力で立ち直ると、アイドルでは無く、今度はUMAに興味が向くようになった。

UMAのおもしろさに惹かれた最初の理由は、今でも良く覚えていない。だが、はまりこむと、後は一直線だった。アイドルの時もそうだったが、決してエルはネットそのものが嫌いだった訳では無いらしい。

今では、むしろ平然と、自分の姿でネットにログインしている。面白いことに、どんなに言っても、これが素の姿だとは信じてもらえていないらしい。よほどのブスだからだろう。こんな面をぶら下げてネットに入ってくるなんて、よほどの物好きだ、というわけだ。

それはそれでいい。

エルは自分を美人だなんて思っていないし、むしろブスだろうと思っている。実際問題、男が寄ってきたことなど一度も無い。

いずれにしても、エルはかってのショックを乗り越えることが出来たのだ。

ラビットが同じような悲劇を味わったのなら、何とか助けてあげたいとも思う。

だが、下手に笑顔で近づけば、逃げてしまうのは目に見えている。傷ついた心というのは、簡単に癒やせるものではないのだ。

一旦ホームスペースまで戻ると、今日得られた収穫を整理した。そのまま宿題も済ませてしまう。それが終わった後は、純粋にリフレッシュのために、ヒーリングプログラムを動かした。脳を安らかな状態にすることで、負荷を減らし、翌日の活力にするプログラムである。

現実世界に復帰すると、九時を過ぎていた。

夕食を食べる。

両親は両親で、別のネットにつないでいる。食事は、前世紀よりも遙かに進歩した冷凍食品で済ませた。

 

2、狭間の翼

 

学校の帰り道、琴美にアイスクリーム屋に誘われた。他の女子と時々歩いているのを見かけるから、コミュニケーションの一旦だろう。バイト代を浪費することになるとは思ったが、これも勉強の一環だ。

店に入る。

いかにも女の子をターゲットにしているような、少女趣味の内装。店員もかわいい系の制服を着ていて、いかにも男子お断りな雰囲気の店である。値段もリーズナブルであった。まあ、バイト代を食いつぶすことも無いだろう。

何とも派手なトッピングをしているアイスだったが、意外と悪くない。殆ど意味もなさそうな色とりどりのチョコには全く味がしなかったが、こういうのは一種の付け合わせだし、誰も気にしない。

「ねえ、エル。 熱心にバイトしてるみたいだけど、学校で友達は作らないの?」

「興味が無いかな」

寄ってくるなら別に良い。だが、寄ってこない相手と、仲良くしようとは思わない。

別に寂しいと思ったことは無い。コミュニケーションなんか、必要最小限こなせば良いのだと、本気でエルは思っている。親友が出来れば、熱心に交友関係を作ればいいのである。

「そうかあ。 あまり知らないと思うけど、エルと友達になりたいって子、多いんだよ」

「何それ。 金目当て?」

「違う違う。 エルってさ、無頓着だけど綺麗じゃない。 自立してる雰囲気があるから男子に人気もあるし、あやかりたいって思う子は多いみたいだよ」

はあと、思わず気が抜けた声を漏らしていた。

誰が男子に人気がある。

自衛能力くらいは持っているが、自立した雰囲気とは何か。確かにバイトをしてそのお金で旅行には行っているが、その程度、今時小学生でもしている。ネットに関係した事で、お金はある程度稼げるのだ。

現在、ホームレスにまで転落する人間が少ないのは、それが原因である。

演算能力や単純な脳の機能の間借りだけでも、結構必要量が確保できていない部分が多いのである。そのため、ネット界隈では、金がかなり行き交っている。長年の苦労の末、法がしっかり整備された今では、昔ほどの無法地帯でも無い。

極論すれば、引きこもりであっても。脳の機能をネットにある程度貸し出せば、喰うくらいの費用は稼げるのである。

そんな状態だから、別にエルは自立などしていない。

しばらく、無言で考え込んでしまった。

「あれ? エル?」

「ひょっとしてからかってる? 私、自分の事ブスだって思ってるんだけど」

「じょ、冗談でしょ」

「嘘なんか言ってどうするのよ」

そもそも、美人の基準というのもよく分からない。

アイドルが好きだった頃、いろいろ美人の基準というのを勉強したことがある。様々な方法を用いて分析も行った。

結果は、意味不明、だった。

いろいろなアイドルがいて、美人美人ともてはやされる者も多かった。だが、どんな風に分析しても、決まった結論など出てきはしなかった。

「それに、自立なんてしていない。 今時誰でも出来るくらいのことしか、していないよ」

逆に琴美が呆然としているのに気づいて、エルは黙り込んでしまった。

しばらく、気まずい沈黙が続いた。

「エル、何だかそんな風に考えるの、悲しいよ」

「悲しいも何も」

「あー、もう、ごめん。 今日の話、聞かなかったことにする。 でも、エルのことをブスだなんて、多分誰も思っていないよ」

客観は正義では無いが、琴美が嘘をついているようにも、エルには思えなかった。

そのまま、味がしないアイスを食べ終えると、店を出る。

並んで家路を歩く。

だが、気まずい空気の中、結局最後まで、何もしゃべることは無かった。

 

ブスでは無い、か。

ネットに接続したエルは、緩速モードにして体感時間を遅らせると、ホームスペースで横になって転がった。

脳に直接情報を流し込むネットだから、こういうことも出来る。前世紀の終わりくらいに確立された技術で、ぼんやりしたいときなどには最適の方法だ。ホームスペースにはベットもソファも用意してある。その気になれば、映像なども見ることが出来る。

だが、今はそんな気にはなれなかった。

個人のプライバシーと言うこともあり、ホームスペースには何段階かのセキュリティがもうけられている。一番外側の、他人にもいる事が判断できる場所もあるが、最も内側になると、どんな違法ツールを用いても存在は把握できない。今、エルがいるのは、そんな最高セキュリティの最内部ホームスペースだった。

何度か寝返りを打つ。

ゆっくり時間が流れていくのが分かる。

コミュニティ仲間から、簡易メールが届いた。ブラウザを立ち上げて観てみるが、他愛ない内容だった。ブラウザを落とす。ネットの接続を切って、現実に帰還。今日は、コミュニティに行く気にはならなかった。

夕食を食べた後、鏡を漠然と見つめる。

子供の頃は、男の子からブスと何度となく言われた面だ。かなり目が大きかったことから、狐目とか言われた。反論しなかったのは、やはり当時から、美醜の判断がつかなかった、からかも知れない。

何気なしに、貯金通帳を観る。

今の所持金だと、UMAがいそうな場所への旅行はかなり難しい。

エルが住んでいる辺りは都会とは言いがたい場所だが、しかし今の時代、UMAの目撃談もかなり限られてきている。ある程度の知識を持っているエルだが、逆に言えばだからこそ、近場にUMAはまずでないだろうと判断することが出来ていた。

しばらくごろごろしてから、やっぱりネットにつないだ。

メールが何通か来ている。全部を確認した後、あくびをしてUMAの情報を漁りに出かけることにした。バイトをする気にもならないし、虚脱感を紛らわせるには、これが一番である。

大手のポータルサイトに行くと、ニュースをざっとあさる。

紛争関連のニュースは、四日更新されていない。世界でもまだ少数の国で紛争が続いてはいるが、その規模は小さくなる一方だ。飢餓や貧困に関するニュースも、また扱いが小さかった。

何か面白そうな、UMAの情報は無いかと、探してみる。

ふと、目がとまった。

黒い翼の目撃報告が来ている。オカルト関連のニュースである。

場所は、なんとエルの家の近場だ。とはいっても、歩いて行けるような距離では無くて、国内、という意味でだが。

動画も出ている。勿論、記憶からの抽出映像であった。

どうも市街地らしい。ビルなどにモザイクが掛けられているのは、プライバシーを配慮しての事か。

黒い翼は、戦闘機の尾翼のような形をしていた。真っ黒なのだが、殆ど羽ばたくことも無く、三枚の翼をゆっくり動かして旋回している。エルがみたものとも、ラビットのものとも違っていた。

ラビットにメールを送ってみる。

知っていると、返答があった。

「みんな違うのは、何でだろう」

「分からない。 でも、生物には見えない」

「うん。 一番生物に近いのは、ラビットが観た奴だね」

「何だか、自信がなくなってきた」

返答からして、或いは自分が観たものこそ正しいという、内心での自負があったのかも知れない。

それを考えると、確かに今回の映像は驚きだろう。

しばらく空を旋回していた黒い翼は、唐突に消えた。髪を掻き上げると、エルはホームスペースに戻る。関連のニュースを集めるように、サポートプログラムに指示を出してから、だが。

最プライベートエリアに入ると、サポートプログラムが集めてくるニュースに、順番に目を通していく。

それによると、どうもあの黒い翼が目撃されたのは、エルが旅行に行った二日後の事であるらしい。

目撃者は三十人ほど。深夜帯の小さな商店街という事もあって、その程度の人員しか黒い翼を目撃しなかった。それぞれのインタビューも乗せられているが、殆どが現実感が無い言葉を残していた。

不思議だ。

エルも、黒い翼を観たとき、どうも現実感が無かった。

だが、複数の証言と抽出映像からも、黒い翼が確かにそこにいたことは事実なのである。集団幻覚の類では無いだろう。

またメールが来た。ラビットからだ。

無口であまり他人に関わりたがらないラビットだが、調査能力はかなり優れている。時々、どこからか、面白そうなものを見つけてくる。だから、無口で置物のようにしゃべらなくても、コミュニティでも一目置かれていた。

「五年前に、そっくりのが目撃されてる」

動画を確認。

地球のほぼ裏側での動画だ。目撃人数はごく少数。

だが、この飛行機の尾翼のような姿、確かにさっきみたものとそっくりである。

考え込んでしまう。エルが観たものとも、ラビットが観たものとも違う。或いは、別物のUMAなのだろうか。

ふと、目撃者の名前を観て、驚いた。

佐倉琴美とある。

こういうニュースで、実名が出てくるというのはどういうことなのか。ちょっと調べてみると、更に驚くべき情報が出てきた。

明日、学校で聞いてみよう。

そう、エルは思った。

 

翌朝。

学校で琴美と会ったのは、教室で、であった。琴美は気まずそうに視線をそらしたが、エルは気にせず踏み込む。

「聴きたいことがあるの」

「何?」

「こういうもの、観たこと無い?」

手のひらの上で、立体映像投影装置を起動させる。

他の女子達も遠目に見ている中、少し大きめの、黒い翼を出現させた。

教室に、ざわつきが広がった。オカルトかよという声も聞こえる。エルは気にせず、じっと琴美の反応を待った。

「知らない」

「そう。 じゃあ良いわ」

「どういう意味?」

「別に。 これを観た人が、貴方と同姓同名というだけのことよ」

一瞬だけ、帯電した空気が間に流れたが、それもすぐに消えた。エルはこの時、琴美から興味を失ったからである。

考えて見れば。

他の人間もそうだが、あまり興味が無いのだ。絡んでくるから一緒にいたが、それも今になって思えば何でだろうとも感じる。

琴美は社会を形成する立派な歯車の一つだ。非常に複雑な女子生徒のコミュニティにもしっかりなじんでいるし、その中で居場所も確保している。

だが、エルははっきり言って、そんなものには興味が無い。

ネットでの関係が希薄だの偽物だというような話は、随分過去のことだ。法整備や支援ツールの充実によって、むしろこっちの方が暮らしやすい傾向さえ出てきている。ネットと人間は、もう離れられない関係になっているのだ。

実際、学校に来なくなる生徒も多いが、代わりにネット上での教育プログラムも施行されている。

学校など行かずに、数々の化学賞を取った人間だっている現状だ。教育機関は、今後は存在しなくなるとさえ言われているのである。

どうでも良いと思って、授業を受けた。

だが、昼休み。

振り返ると、琴美は泣いていた。何だか教室が気まずいなと思ったら、こういうことだったのか。

無数の視線を感じる。いらだちを覚えたエルは、弁当箱を鞄に詰め込む。続いて教科書類も。

何度か失敗はしたが、何とか詰め込み終える。

「分かった。 消える。 それで良いでしょう?」

そのまま、床を蹴りつけながら、教室を出た。

何だかばかばかしくなったし、このまま学校をやめようかと思った。今まで友人だと思っていた琴美も、あんなだったのである。授業に魅力も感じないし、学力だって別に普通にネットで補える。

携帯端末が鳴る。

メールだ。ラビットからだった。

「何か収穫はあった?」

「別に何も」

「何か知っているような雰囲気だったけれど」

「そうね。 でも不発だった」

よく分からないが、あの様子では知らないだろうし、知っていたとしても聞き出せはしないだろう。

だったら、別にもうどうでも良い。それが本音だった。

帰り道を早足で歩いて、途中アイス屋を見かけた。別に美味しいアイスでもなかったし、どうでもいい。

何だか、さっきから急速に無気力になっている気がする。

理由は、よく分からなかった。

それさえも、どうでも良くなりつつあった。

家に帰る。

両親がいるわけも無く、ベットに転がる。幾つか番組表を見てみるが、これといった面白そうなものもない。ネットに潜るかと思ったが、しかし。一つ、やっておきたい事があった。

ホームスペースに入った後、キーボードからサポートプログラムを呼び出す。

学校での一連の事を再生。助言を求めた。

「これは、貴方の発言が、何かしらの心の傷を刺激したのでしょう」

「心の傷、ね」

「佐倉琴美というこの子は、クラスでも人気があるようです。 その一方、貴方はどちらかと言えば徒花に近い。 周囲の生徒達はただでさえ普段からやっかみを感じているのに、アイドルを泣かせたとなれば、やはり反感につながるのでしょう」

「ふーん……」

分かったような分からないような。

やっかみもなにも、エルがクラスの連中に、何か不利益なことをしたことがあっただろうか。いや、一度も無い。

団体行動の類では、周囲の邪魔にならないように動いていた。

学業の類いも、成績を自慢したことは一度だって無い。美人だ自立しているだなんて、お笑いぐさでしか無い。

関わる気が起こらないのだ。

「前にアイドルというものを分析したことがあるけど、どうもよく分からない。 何、要するに私がアホだったら、人気が出るって事?」

「多少頭が悪い方が、人間関係を円滑に進められる、という研究もあるようですが、全面的には同意できません」

「だよねえ。 琴美はじゃあ、なんで人気があるの?」

「諸説があるので決まった答えはいえないのですが、やはりコミュニケーションとの相性は存在するのでしょう。 佐倉琴美さんは、おそらくそれが天性のものとして備わっているのだと思えます」

じゃあ、努力なんかするだけ無駄か。

無駄な努力をして、クラスに無理になじもうとして、その結果傷ついて。何ら意味の無い行動では無いか。

一時期の先進国では、豊かな生活をしている人間の子弟がいわゆるニートとなる例が多発したようだが、それは人間社会にメリット以上にデメリットが多すぎるからだ。ストレス社会などと言われるように、高度に組織化され巨大化した社会では、そのデメリットが命に関わるレベルで出現するようになる。

それを無視して、社会になじめないのは本人が悪いという風潮が作られ、結果大量の自殺者を出しもした。

戦争と同じ、人間の愚かすぎる業は、いつの時代も絶えることは無い。

この時代では、かってほどコミュニティの存在は絶対では無い。学校もしかり。別にニートであってもお金を稼ぐのには困らないのである。

「じゃ、学校やめるかな。 生活には困らないし」

「コミュニケーションには相性がありますし、短絡的に考えるのでは無く、もう少し様子を見てはどうでしょうか。 一日か二日休んで、気分を切り替えるのも有効です」

「ふうん、分かった。 じゃあ、休学届を出してくれる?」

「そこまで大げさで無くても、風邪で休んだとでもすれば大丈夫でしょう。 ただし、部屋にこもりすぎると、体は衰えます。 ネット接続時に、疑似運動プログラムを動かして、筋肉を活動させると良いでしょう」

好きなようにさせる。

コミュニケーションツールは、先人の苦労の末に改良を重ねて作られた。傀儡にしないように、駄目にしないように、主体性を失わせないように。

かって、ロボットが人類に取って代わるSF小説が大量に生産されたこともあり、その調整は念入りに念入りに行われたのだ。

幾つかゲームをやってみたが、どうも気乗りがしない。早々に停止すると、何だかむなしくなったので、ネットも切り上げた。

ベットに横になると、もう寝ることにする。随分早いが、睡眠導入用の道具なんかいくらでもあるのだ。

携帯端末が鳴る。

ラビットかと思ったが、違った。崑崙からである。そういえば、データを解析したいと言っていたか。

「データの解析が完了した。 出来るだけ早めに連絡をくれると嬉しい」

寝ようかと思っていたが、別に良いかと思い直す。

そのまま、エルはネットにつないだ。

 

UMAのコミュニティに向かう途中に、崑崙に連絡。

星の海を飛びながら、話を済ませておいた。

今日はあまり多くの人数もおらず、コミュニティは閑散としていた。元々それほど大がかりなコミュニティでは無いのである。今はそれなりに人が来るようになっているが、昔は来てもデータを整理するだけ、という日もあったのだ。その甲斐もあって、内装はとても充実したが。

コミュニティスペースのすみで、ぽつんとラビットが座っている。

他には誰も来ていない。聞いてみるが、まだ誰もいないと応えるだけだった。

崑崙が来る。そして、開口一番に言った。だが、言う前に、どうしてか不思議な間があった。

しゃべるのをためらっているようにも見えたのだが。何故だろう。

「あの映像だけれど、面白いことが分かったよ」

「どんなこと?」

ラビットも顔を上げる。

やっぱり、ここに来ているくらいである。UMAの事には、真っ先に興味が動くのだろう。

「実は、いろんな角度から空気の流れを調べてみたんだけれど。 あの黒い翼には、共通して面白いことが起きているんだ。 羽ばたいているんだけれど、全く空気は乱されていない」

「それはつまり」

「実体が無いって事さ。 しかし、面白いのはこの先だ」

実体が無いと言うのは、つまり幻覚かというと、そうでも無いらしい。

どの映像にも共通していることなのだが、きちんと影が存在しているそうなのだ。どの映像というところで気になったが、ラビットが片手を挙げる。

つまり、映像を提供したと言うことか。

「僕はいずれ、あの湖に行ってみようと思う」

「良いところだったよ。 治安も悪くない」

「そうか。 ちょっと僕の国からは遠いけれど、行ってみる価値はありそうだね」

周辺のことを、幾つか聞かれた。

塩湖は体が浮きやすいから、周囲が観光地になっている事が多い。一番有名なのが死海だ。

非常に浮力が高い死海では、泳げない人間でも体が簡単に浮く。その上、危険な生物は一切存在しない。

一時期は観光客が持ち込むゴミが問題になったが、それも長年の有志の努力によって解消されていると聞く。つまり、それだけ観光資源として魅力的だと言うことだ。

エルが出向いた塩湖も、それは事情が同じである。

犯罪などが起こらないように、周囲では念入りな監視が行われている。観光客を呼び込むには、治安は第一だからだ。

崑崙が落ちると、ラビットが文字を飛ばしてくる。

「実体が無いってのは、どういうことだろう」

「面白そうだけれど、本当になんなんだろうね。 影はあるみたいだし、そうなると、蜃気楼なのかな。 実体は何処か別に存在していて、見えているのは光の屈折で見える影だったりとか」

「もしそうだったら面白い。 でも、憶測」

「……そう、だね」

ちょっと崑崙の調査結果に、興味が出てきた。

だからエルも、今まで入手したデータを元に、調べてみようと思った。

コミュニティから落ちると、ホームスペースでデータを並べる。動画を何回か再生できるようにするほか、自分が見た映像を、もう一度確認してみる。

ゆっくり旋回する黒い翼は、何度も羽ばたいているが、真ん中にあるべき筈の体は何度観ても存在しない。そして今、翼の方にも実体が無いと言う話が出てきた。

何カ所かで、確かに崑崙が言うとおり、影の存在を確認できた。しかし、改めて観てみると、優雅な動きである。

勿論、これを観た記憶もある。

だが、脳内での記憶は、やはり時間と共に変質する。微妙に記憶と違っている部分もあり、早めにデータを抽出しておいて良かったとエルは思った。

三十分ほどで、影は何処かに消えてしまう。

だが、調べがいのある三十分だ。それに、崑崙もこれを何十回と再生したのだと思うと、ちょっと嬉しい。同好の士による解析は、やっぱり心を弾ませてくれるものなのだ。

そこで、不意に泣いていた琴美のことが、鮮烈に脳裏に浮かび上がった。

分からない。

人間の価値観は人それぞれとはいえ、何で琴美は泣いた。

まさか、あれを目当てに友のふりをしていたとでも思っていたのか。だとすれば、なおさら興ざめだ。

他の黒い翼の映像も、解析してみる。

崑崙ほどのスキルは無いから、どうしても時間が掛かる。だが、どうせ時間は余っているのだ。多少は浪費するくらいでいい。

他の映像でも、どうも影はきちんと存在しているようだ。

そうなると、或いは黒い翼は、変幻自在なのか。あれは全部同じ存在で、見え方だけが違っているのか。

もしそうだとすると、生物の枠を完全に超えた存在である。

多分、UMAという枠ではかることさえ出来ないだろう。

無論、過去、現在に存在していた生物のどれとも当てはまるわけが無い。保護色付きの鳥と言うだけで、とんでもなくレアな存在なのだ。それなのに、こうも節操なく彼方此方に現れているとなると。

やはり、謎だとしか言うほか無かった。

勿論UMA好きとしては、興味が引かれる対象である。

だがその一方で。

少しずつ、この黒い翼に、エルは興味以上の何かを感じ始めていた。

 

目を覚ます。

ネットから落ちたら、すぐ寝てしまったので、それからの記憶は当然無い。

パジャマを制服に着替える。

休もうかと思っていたのだが、まあいいやと思い直した。

両親はエルに一切干渉しない。今の時代では特に珍しくも無いことである。だから、朝食の時も顔を合わせることは無かった。他の人間の両親同様、薄情なわけでは無い。勿論世の中には、子供とべたべたする両親もいるにはいるが、それは希な存在となりつつある。

学校へ赴く。

途中、同級生を見かけた。

ハブにされてへこむような柔な精神の持ち主では無いと言え、ちょっとどういう反応を見せるかは気になった。だが、むしろ向こうの方が慌てたようで、さっさと先に急ぐ。どういうことだろうかと、小首をかしげてしまった。

「お、おい、エル」

男子生徒の一人が、声を掛けてくる。

緊張しているのが丸わかりだ。

「どうして、来たんだ」

「何? 学校には貴方の許可を得なければ、来ちゃ行けないわけ? それは知らなかったな」

「そ、そうじゃない。 ただ、その。 佐倉がさ」

「そういえば、あの子なんで泣いてたの? 貴方琴美のことが好きだったよね。 聞いてるんじゃ無い?」

見る間に男子生徒は真っ赤になる。中学一年生くらいだと男女生徒は反目する可能性の方が高いが、二年になるとませた奴はカップルになり始める。女子の方が異性を意識し始めるのは早いが、男子もじきにそうなる。三年になると、色気より食い気というような奴は、むしろ子供っぽい事になってくる。

この男子は比較的ませている方で、琴美を意識しているのが丸わかりだった。琴美の方はいつも苦笑いをしていて、男子に気が無いのが見え見えだったが。

「そ、そんなのは、おまえに関係ないだろ!」

「傷につけ込めば、簡単に落とせるんじゃ無いの? あ、私と一緒に歩いてるのみられると、まずいかもよ?」

意地悪く笑うと、慌てて男子生徒は周りを見回し、舌打ちして先に行ってしまった。からかいすぎたか。琴美がどうして泣き出したのか、これでは分からない。

学校の入り口でセキュリティにカードを通す。サポートプログラムは律儀に休日扱いにしていてくれたらしく、多少操作をしなければならなかった。

あの反応からすると、以前も黒い翼の事を聞いてきた奴がいた可能性がある。それが心の傷になったのか。首をかしげながら教室に。

いつも先に来ている琴美がいない。

代わりに、エルをみて、他の生徒達は一斉に黙り込んだ。

まあ、別にどうでも良い。教科書類を広げて、授業の準備に入る。弁当も朝調理ロボットが、栄養バランスを考えて作ってくれた。今日は体育があったなと思い、ジャージを出していると、後ろに気配。

琴美だった。

「……」

「何?」

責めるような視線で、琴美はこっちをみている。

そんな風にみられても、分からない。分からないと、興味も失せる。

今まで唯一のリアルでの友人と言っても良い存在だったが、エルは自分でも不思議なくらい、その関係の維持に関して冷淡だった。

無言のまま、琴美は自分の席に行く。

エルは教科書を広げると、ホームルームの準備をした。昨日はさっさと早退したが、教師はどう出るだろう。

教師が来る。担任の教師は恰幅の良い中年の男性で、ひげ面からゴリラとあだ名で呼ばれている。

ゴリラは、エルをみて少し驚いたようだった。

そういえば、ゴリラもかってはUMAで、人間を襲って喰うとか信じられていたか。実際にはチンパンジーよりも遙かに理知的で心優しい類人猿なのだが。

「エル、休みだという報告があったが」

「じゃあ、今から帰りましょうか?」

「そう急くな。 まあ、来たのなら良いことだ」

それ以上、教師は何も言わなかった。余計なことを言うと、エルがまた帰ると思ったからかも知れない。

教師と生徒というよりも、以前とは教育の形が違っている。義務教育が、多くの子供の心に傷を植え込んだ時代もあったが、今は昔よりはだいぶ環境が緩くなっている。

プリントの類が紙媒体として配布されることも無い。

今では、ネットを利用して、各人のメールアドレスに転送されるからだ。体感ネットを使わずとも、メールなんぞは携帯端末からいくらでも取り出すことが出来る。その気になれば、学校の備品であるネットワークプリンタから印刷することも簡単だ。

最初の授業は数学。

ずっと、その間琴美は話しかけてこなかった。しかし絡んでくるあいつが何もしないと暇だ。携帯端末をいじって、黒い翼の情報を調べる。他に目撃例が出ていないか。或いは、他に面白そうなUMAはいないか。

それも調べていると、咳払いの声。

さっきの男子生徒だ。

「な、なあ。 佐倉をあんまり悲しませるなよ」

「そう言われても、何を悲しんでるのか分からないし」

「……ちょっと聞いた話だけど、おまえが見せた奴、佐倉にとっては悲しい過去らしいんだよ。 何だかあれのせいで、随分ひどい目に遭ったとか何だとか。 おまえが不思議なもの好きだって知ってるけど、佐倉はそうじゃないし……なあ」

「平木くん、余計なことは言わないで」

琴美の声を、久しぶりに聞いた。

振り返ると、琴美が目に涙を浮かべて、そっぽを向いていた。

それほど、大きな心の傷なのか。

心の傷という点では、分からないでも無い。だがやっぱり、事情がよく分からないのであれば、どう接したものかはよく分からなかった。

時間はあっという間に過ぎていき、五時間目。

既に昼飯の後で、眠くなってくる時間帯だ。今日は体育と言っても、男女合同でバスケットボールである。

そろそろ、身体能力に差が出てくる年頃だ。

体育だと、それが露骨に現れる。合同授業の場合、男子の独壇場になりがちだ。

しかし、このクラスには琴美がいる。

バスケットボールで、琴美が大暴れしている。3Pシュートを危なげなく決め、リバウンドでもあっさりボールを奪った。凄まじい勢いで、無言で暴れている琴美をみて、例の男子生徒は唖然としていた。

「そういえば、平木だっけ?」

「そういえばって、ずっと同じクラスだろ」

「そうだっけ?」

どうでもいい事は、覚えない。

だから、覚えていなかった。まあ、琴美のことが好きな男子ということだけ知っていれば充分だ。

「琴美、大暴れだねえ」

「ああ。 もう良いから、謝ってこいよ」

「怒ったり泣いたりした理由が分からない。 だから、謝っても意味が無い」

はっきり言い切ると、平木はため息をついた。

「あの後佐倉、ずっと泣いてたんだぜ」

「それで?」

「良心とか、痛まないのかよ」

勝手な言いぐさだと思う。

じゃあ、エルが苦しかったとき、傷つけた連中は何か謝ったというのか。あれも結局はエルが悪いとか言う話になって、有耶無耶にされたような気がしてならない。そもそも何が悪いのか分からない現状、どう謝れば良いのか。

バスケットボールのチームが交代した。

エルが今度は入る。入るとき、一瞬琴美をみた。むっとむくれて、こっちをみていた。

何だか対抗意欲がわいてくる。それ以上の点を取ってやろうと思った瞬間。

生徒達が、騒ぎ出した。空を指さし、口々に言っている。

「何だよあれ!」

つられて、空をみる。

其処には。

エルがみたものとも、以前報告されたものとも全く違う、黒い翼が旋回していた。

 

黒い翼は全体的にはグライダーに似ていたが、戦闘機の尾翼に近かったタイプとは違い、三個くらいの翼が連なる形であった。とても空が飛べそうなデザインには見えないが、しかしゆっくり空を旋回している。

先生が来た。

黒い翼をみて、退避するように生徒達に促す。エルもバスケットボールをやりたかったが、まあ確かに退避が判断としては間違っていないだろう。今まで黒い翼に襲われたという例は無いはずだが、前例の無い事象などいくらでもある。

当然、先生は警察も呼んでいたようだ。ちょっと騒ぎが大きくなってきた。

校舎に退避した生徒達は、当然窓に鈴なりになっている他の生徒達をみて、かなり大事なのだとやっと気づいたらしい。動揺の声が上がり始めていた。

「すげえ。 何だろあれ」

「ニュースでやってなかったっけ。 あんなのが目撃されたって」

口々に生徒達が言い交わしている。

エルは一人その場を離れると、屋上に向かう。其処の方が、よく見えるだろう。襲われる危険については考えているが、しかし塩湖では大丈夫だった。

手を引かれる。

振り返ると、琴美だった。

「エル」

「何」

「どこへ行く気? 今、一人で行動したらどうなるか、分かってるはずでしょ」

「知らないよそんなの。 離して」

今時、生徒の居場所を探る方法などいくらでもある。特に学校では、先生などが緊急時には特殊なGPSから居場所を探る事が出来るようになっている。

だが、琴美は離さない。

「そんなに、あの黒いのが大事なの?」

「大事だね。 少なくとも、クラスメイトやらよりはね」

「馬鹿っ!」

いきなり大声でひどいことを言われたので、ちょっとびっくりした。

体操服のズボンポッケから、琴美が携帯端末を取り出す。そして、ぐっと突きつけてきた。

其処には、エルとのメール記録が残っていた。

驚いたのは、その名前である。

「崑崙!?」

「ネット上じゃ、珍しいことじゃないでしょ。 エルが貴方だって気づいたのは結構最近だけどね」

あまりにもそのままだったから、却って気づかなかったのだという。

しかし、どうして崑崙が。

琴美がエルの行動で態度を硬化させてからも、ネット上では今までと変わらなく振る舞っていたのに。あれはサポートツールによる演技だったのか。或いは、自身はホームスペースにいて、アバターだけ飛ばして自動で動かしていたのかも知れない。

「なんでネット上で私が一歩引いて貴方と接してたと思う? このままじゃ、きっと現実から興味を無くしてしまうと思ったからだよ」

「それが何か問題でも?」

「あるよ! ネットが無くなったら、貴方どうするの」

ネットが無くなるか。それは、確かに考えたことも無かった。

既にインフラとして非常に強固な存在となっているネットだが、確かに無くなったら事だ。そういう考えもあるか。

でも、そうなると。

何故あのとき、泣き出したのかがよく分からない。

手を離してもらう。屋上へ上がるのはやめた。琴美に事情を聞く方が、面白そうだと思ったからだ。

「どうして、あのとき泣いたの?」

「それは……」

「私頭良くないし、言ってもらわないと分からないよ」

「それは、ネット上での行動と、貴方が全く同じだったから」

琴美は言う。

エルはネット上でも、残酷に見えたという。興味のある事以外には極めて冷淡な様子が、気になっていたのだとか。

「貴方は自分にさえ冷淡で、自分のことブスだとかひどいこと言うし。 それに、黒い翼の事で私のことを探り出したら、私のことも道具だと思ったような行動に出るし。 だから、悲しくなったの」

「……ふうん」

何だか、よく分からない。

窓の外を見る。黒い翼が、少しずつ、高度を上げていた。

多分あの様子では、危険は無いだろう。

だが、琴美は。無言のまま、黒い翼を見上げている。

異変が起こったのは、その時だった。

 

気がつくと、病院にいた。

どうやら、何か大きな災害が起こったらしい。包帯を巻かれていて、点滴も受けていた。ナースコールを押すと、すぐに医師が飛んできた。

「良かった。 自分のことが分かるね」

「はあ、まあ」

「名前は?」

「エルです」

カルテを見ていた医師は、状況を説明してくれた。

何か得体が知れないものが、エルの学校に現れた。そして、不意に爆撃をして、生徒多数を殺傷したのだという。

あの黒い翼が。

人を襲ったというのか。しかも、死者多数とは。

「私の他に、けが人は?」

「君の友人は無事だが、生徒だけでも十人以上が命を落とした。 だが、君が意識を取り戻したのは、幸いだった」

両親が、流石に来てくれた。

話を聞くと、エルは三日以上眠っていたという。何でも爆撃の爆心地近くにいたそうで、助かったのは奇跡に近かったそうである。

UMAは、ただ観察の対象だと思っていた。

考えて見れば、ゴリラなどが有名になったのは、その凶暴性(事実は全くのデマであったが)が喧伝されたからである。チュパカブラなども、山羊を襲うというその吸血鬼じみた生態が話題になったはず。

実際に実害が無かったから、それらは笑い飛ばせていた。

だが。現実に姿を見せた以上、ネットの存在とは違う。確かに、琴美が止めてくれなければ、今頃消し炭だったのかも知れない。

「琴美は?」

「大丈夫だ。 多少の怪我はしているが、意識ははっきりしている」

「そう」

ネットと現実は、別だ。だが、そこにいるのは、人間である事に変わりは無い。

だから、同じように接するべきだとエルは考えていた。だからこそに、アバターも自分自身を使い、何も誤魔化すことなく接してきた。

かって、己を虐げた連中の不実を憎むが故に。

しかし、いつか何処かで、現実感が喪失していたのかも知れない。だから、大けがをすることになった。

ネットでは、心が傷つくことはあっても、体はまず傷つけられない。

しかし、現実では。体も傷つくのだ。

琴美が崑崙だったとすると、それにあの反応からすると。

黒い翼の件で、昔何かあったのだろう。エルの行動だけで、泣いたのだとはやっぱり思えないのだ。

大事な人に裏切られたのか。或いは。

しかし、聞きただすのはやめようと、エルは思っていた。

もしも、琴美がちゃんとしゃべってくれればそれでいい。そう、決めていた。

病室でしばらく過ごす。ネットも少し断つことにした。状況を確認するためにつないだが、やはりひどいことになっていた。だから、体の負担を減らすためにも、しばらくはつなぐ時間を減らそうと決めた。

代わりに活字の本を読む。

活字の本など、読むのは随分久しぶりだというのに。

どうしてか。読んでいて、とても楽しかった。

 

3、兎の山

 

退院したエルが真っ先に向かったのは、学校であった。

辿り着いてみると、予想以上にひどいこととなっていた。エル達がいた辺りは、綺麗に吹き飛ばされていて、未だにブルーシートが掛けられている。中に入ってみると、壁は吹っ飛び跡形も無い。確かにこれなら十人以上の死者が出たというのも納得できる。修復は出来るのだろうが、多分現場検証が必要なのだろう。それに、廃校になる可能性も高そうだった。

コミュニティの面々には、既に無事を伝えてある。

かって、エルはネットでひどい目に遭った。

だが今度は、現実でひどい目に遭った。だから、どっちでも失敗しないように、これからはバランスを取らなければならないだろう。

一旦外に出る。しばらく、休校状態の学校を見上げる。

「エル?」

「えっと、誰だっけ」

振り返ると、琴美の事が好きな男子生徒。

誰だったか、名前を思い出せない。しばらく考え込んで、思い出した。そういえば、平木だった。

「無事だったんだな」

「おかげさまで」

「俺も、指を二本取られちまったよ」

といって、平木は右手を見せてくれる。

厳重に包帯を巻いていると言うことは、多分クローン培養した指がまだ定着していないのだろう。今では指くらい簡単に再生できるようになっている。若い内は、定着させることも難しくは無い。

ただ、やはり相当に痛いらしい。

エルも爆発に巻き込まれて、意識が無い間に左目と、右足の指何本かを交換したらしい。それくらいひどい傷だったのだ。もっとも、意識が無い内に結構強引な定着処理をしたらしいので、あまり覚えていないが。

「あいつ、どうなったの? 黒い翼」

「噂に聞いたところだと、軍が来て撃墜したらしいぜ。 ただ、残骸は何処かへ持って行っちまったって話だけど」

「ふうん……」

そうなると、あれはもうUMA扱いでは無くなるのかも知れない。

しかし、そうなると。一体何だったのだろう。

十年も前から出現記録があり、今までは攻撃してくることも無かった。それなのに、どうして今回に限って。

平木に礼を言うと、家に帰る。

まだあまり長距離を歩いてはいけないと言われているのだが、気にしない。これくらいはまあ問題ないだろう。

自室のベットに転がると、ネットに接続。

アバターを鏡に映す。

しばらくネットを使っていなかったから、アバターの服装は初期化されている。白いワンピースを着た自分の姿。ブスだと思っていたが、琴美の言うことを信じるのなら、どうやら美人に入るらしい。

顔をなで回してみる。

卵形の顔。若干切れ長の二重。黒い髪。

そういえば。あの翼も、黒かったか。指を鳴らして、鏡のプログラムを消す。ごろりと白い床に転がって、時間緩和プログラムを使ってぼんやりする。

しばらくぼんやりした後、気絶する寸前の映像を呼び出してみた。

真っ白になる直前、黒い翼はその体の一部を千切って、こちらに投げていた。それが大爆発したと言うことなのだろう。

メールが来た。ラビットからだ。

「退院したの? 良かった」

「どうにか無事よ」

「そう。 コミュニティには来られる?」

「いずれね。 ちょっと休むけど」

もしも、ヒトガタやチュパカブラが人間を襲って喰らっていたら、今と同じようなマスコット扱いはされなかったのだろう。

今後、黒い翼はUMAではなくなる。おそらくは特定外来生物あたりに指定されて、駆除の対象になるだろう。

だが、その正体は何だろう。

死体を軍が回収したと言うことは、それも判明しているのだろうか。

メール。

今度は、崑崙。琴美からだった。

以前は中国語で、翻訳ツールを使わなければならなかったのだが。今度は最初から、エスペラントで打ってきている。

「学校へ行ったって、平木君から聞いたよ」

「ああ、うん。 琴美は家?」

「うん。 学校を廃校にするか、今決めてる所なんだって。 そうなると、私達は別の学校かなあ」

琴美とエルは成績にかなり差がある。

近くの学区には、それぞれに丁度良い学校がある事を考えると、引き離される可能性は低くないだろう。

メールだと面倒くさいので、チャットウィンドウを開く。

プライベート空間同士をつなぐことも出来るのだが、其処まではしない。ウィンドウの開設には、向こうも同意した。開くと、どうやら風呂上がりだったらしい琴美の映像が映し出される。

琴美は容姿が若干幼いが、それでもアイドル扱いされている。

やはり、美的基準というのはよく分からない。

「崑崙と前チャットしたときは、ちゃんとアバターで表示されたのに、妙な気分だね」

「それくらい普通だよ。 エルは逆に用心深くしないと」

「私は平気。 この姿も、しばらくアバターだって思い込んでたんでしょ?」

「それはそうだけど」

エルの周辺セキュリティは、あの事件以降、並のものとは一線を画するレベルで敷いている。

独自のセキュリティサーバまで建てているほどであり、ハッキングを掛けられてもまずはねのけることが可能だ。サポートツールにも、言ったらまずい言葉は遮断するように、厳重にプロテクトを掛けてある。

まあ、それでも絶対は無い。

ネットで痛い目に遭ったエルだから、これだけの防備をしている。今後はリアルでも、同等以上の防備が必要だろう。

「それにしても、あの黒い翼って何だったんだろう」

「……あのね、エル」

「ん?」

「本当は、前にあれをみたことがあるの。 多分貴方が見つけた琴美って、私の事よ」

そうだろうとは思っていた。

多分、あれがトラウマになっているのだろうとも。

「で、どうして、アレがトラウマになったの?」

「前も、同じ事が起こったから」

「え?」

前回、琴美がみたとき。

黒い翼は、いったんは人々の前から消えた。

だが、その直後である。

死者三十人以上を起こす大爆発が、近くの街で発生したのだという。

「ぴんと来たの。 あれ、絶対あいつの仕業だって」

「それは勘?」

「そうだよ。 でも、誰も信じてくれなかった。 警察にも話をしたんだけど、それどころじゃ無いって追い返されて。 あげくにはクラスメイトからも、うそつきよばわりされた」

それは、少しエルの状況と似ているかも知れない。

琴美は、泥を吐き出すように、言う。

「だから、話を聞かせてってエルが言ってきたときにはショックだったよ。 前に取材を受けたときは、嘘つきの寝言を記事にしてやるって雰囲気で、記者が半笑いでメモとってたから。 あれの仕業だって部分も、削られてたし」

「……そうだったんだ」

ごめんねと、素直に謝罪の言葉が出た。

うつむいて、琴美も受け入れてくれた。

一旦、チャットを切る。今日はもう流石に寝ようと思ったその瞬間、メールが来る。ラビットからだった。

「ちょっと興味深いデータが手に入った。 目を通して欲しい」

珍しいものを見つけてくるラビットである。それに、ひどい目に遭ったとはいえ、UMAに対する興味が消えたわけでも無い。

メールを開いてみると、動画だった。

再生してみる。

映し出されたのは、多分何処かの市街地である。周囲にスモークが掛かっているのは、ジャミングが原因だろう。

其処を、トラックが通りがかる。

荷台には、何か黒いものが積み込まれていた。

チャットウィンドウを開けて欲しいと、連絡が来た。ラビットだった。

ラビットは相変わらず兎のぬいぐるみのアバターを使っている。声も、合成音声であった。

「これ、きっと、黒い翼の残骸。 軍が黒い翼を撃墜して、すぐの映像」

「これは、滅茶苦茶だね」

「うん。 それで、此処をみて欲しい」

拡大される一部画像。

かなり急いで詰め込んだらしく、ほんの一カ所だけ、見えている場所がある。

どうも、それは。コードらしかった。血管では無いだろう。

「これは、一気にばらまくか、或いは隠しておいたほうが良さそうだね」

「……うん」

「そっか。 これ、そもそも生物でさえ無かったんだ」

長年の疑問が、氷解した。

形がどんどん変わるわけである。これは何処かの国の軍事兵器だったのだろう。攻撃をしてきた理由は分からないが、いずれにしても生物では無い。

UMA扱いされた兵器など、史上初かも知れない。

「なかなか目撃されなかったのも、多分ステルス性能の確認のためだったんだろうね」

「内緒にした方が良い」

「そうだね。 知らないふりをしておこう。 もしも私達に命の危険があった場合は、ネット中にばらまくようにしておくよ」

ラビットとの回線を切る。

天を仰ぐ。

ホームスペースだから、床も壁も、柔らかい白色だ。だからこそに、思う。

世は、どうしてこうも無情なのだろうと。

ネットを切ると、体感ネットのヘルメットを外す。ベットの上で体を伸ばして、自室を出た。

両親が帰ってきている。

たまには、両親と話してみようか。

そう、エルは思った。

 

4、懲りない面々

 

UMAのコミュニティに出向くと、先に崑崙が来ていた。

こちらでは、知らないふりをするように、事前に話を済ませてある。それにしても、星の数ほどあるコミュニティなのに。不思議なこともあるものだ。

フクマが来た。

アバターを変えている。以前と違って、蛇のような姿をしたアバターだ。しかも全身が白い。

「や、揃っているね」

「フクマさん、何があったの?」

「ああ、うん。 黒い翼の件が、残念な終わり方をしたから、秘蔵のデータを出そうと思ってさ」

黒い翼は、結局あっさりと解決した。

というのも、流石にあれだけの被害を出して、隠蔽というわけにも行かなかったのだろう。かっての国だったらともかく、今はネットを使っての情報伝達も早く、隠せるものとそうでないものがハッキリしている。

軍内部からの告発で、あれが試運転中の無人戦闘機で、AIの暴走の結果民間に大きな被害が出たことがハッキリした。以前の爆発事故も、やはりこれによるものだった。周囲の空気が乱れていなかった理由も判明した。ステルス機能の一環であり、微量の空気を噴射して、調整していたのだ。

とんでもないハイテク戦闘機だったわけである。

調査を進めた結果、AIの何カ所かに致命的なバグが発見された。軍の御用SEが組んだAIが、開発時間が足りなくて幾つか致命的なミスコードを内部に含んでいたのである。しかも、それを取り切れていなかったのだ。

プロジェクト、ブラックウィングというその計画は、そのまま凍結。

軍は被害者に全面的に謝罪し、それで事件は解決した。UMAのファンには、一番悲しい結末であった。

エルにしても、指と目玉を失ったり、それらをクローン品と交換したりといろいろ面倒な事になったが、どうにか医療費は国が負担してくれることになったし、あまりもう恨んではいない。

琴美はというと、結構今回のことは応えている様子である。だから、もう黒い翼の事は、話さないこととした。

以前はさっぱり分からなかったことも、今では少し理解できる。

だが、根本的なところで、変わろうとは思わなかった。

「コレをみてくれ。 ギアナ高地で撮影された映像だ」

「お、これは、まさか翼竜ですか?」

ギアナ高地には、不可思議な生物が多数生息している。他と切り離された空間だという事が一番大きいが、しかし理屈抜きに神秘的な生物ファンとしてはたまらない地域である。幾つかの固有種は奇妙きわまりない姿をしているし、みていてとても楽しい。そればかりではなく、確かに翼竜などの目撃報告も上がってきているのだ。

「コウモリじゃ無いの?」

ラビットの声を聞いて、周囲が驚く。

あの事件以来、不思議とラビットはしゃべるようになった。どうしてかはよく分からない。だが、エルといろいろ話していて、秘密を共有することになったのが大きかったのかも知れない。

何かしらの秘密を共有するというのは、大きな絆につながる。

いずれ、機会があったら直接会ってみたいと、エルは考えていた。

「コウモリの可能性もあるが、分析の結果は、この辺りの形状がコウモリには見られないと分かっている」

「新種かも」

「もう少し、データが欲しいな」

わいわいと議論が交わされる。

フクマがせっかく秘蔵のデータを出してくれたのだからと、他の面々もいろいろと秘蔵品を出してくれる。

ヒトガタの映像集には、かなり貴重なものもまじっていた。当然どれもがファンアートなのだが、中にはプロが書いたものもあった。

ゴリラの文献は皆を沸かせた。UMAだった頃のゴリラを書いた文章は、とにかくその凶暴性が強調されており、まるで別の動物のことを書いているかのようだった。中には、未開民族の一種と書いているものまであった。

いろいろと面白いもののなかで、ひときわ珍しいものを、崑崙が出す。

カッパに関するものであった。

20世紀初頭、日本の四国で撮影されたとされているものである。川の中に、小さな人型が映り込んでいた。当然白黒である。

「これは珍しい。 今時カッパかい?」

「民俗学としては重要な存在だけれど、UMAのカッパをみるのは久しぶりだ」

わいわいと騒ぐ。

多分、ここにいる誰もが、実在のUMAだとは思っていないのだろう。

実際、現実に発見されるUMAは多く存在している。だが、それと楽しむためのネタ的なUMAは別種の存在だ。

黒い翼は、後者だった。

或いは、現実とネットの関係に似ているかも知れない。だが、今回の件で、エルは思い知った。どちらがどうと言うことも無いのだという事実を。

崑崙に軽く断って、コミュニティを出る。

皆、懲りない。

だが、エルは少なくとも変わろう。

星の海を見つめて、そう思う。

現実は、ネットと同じか、或いはそれ以上に奇異に満ちている。

 

(終)