ディアラントの真実

 

序、ささやき来る声

 

「死にたい」

闇の奥から、そんな声がした。声がするようになったのは、つい最近からの事であった。自殺志願者特有の乱れた意識はない。その声には悲しみと、統一された意志の力があった。その声は、正気のまま、(死)を望んでいた。

「はやく死にたい。 今度こそ死にたい」

声はヒューマンの成熟した女のそれに近い。甲高くもなく、低すぎもなく。落ち着いた、何処か威厳すら感じさせる声であった。

「だからこそ、今度は死ぬわけにはいかない」

声に相変わらず乱れはない。明らかに前後矛盾した事を言っているのに、である。

「わらわは死なねばならぬのだ」

再び、意味不明な声が響いた。

 

アウローラが地下十層に構えている研究室では、にわかに動きが活発になっていた。研究員達は様々な資料を抱えて歩き回り、モニターをチェックして様々な準備に余念がない。腕組みして壁際に佇んでいるパーツヴァルは、技術者達が精力的に働くのを見ながら、傍らで口の周り中を汚して甘い果実をお行儀悪く貪り喰らうアインバーグに言う。

「まさか、スケディムまで屠り去るとはな……」

「ひゃっひゃっひゃっひゃ、戦ってみとうなったか? リズマンの勇者よ」

「それもある。 だが、それだけではない」

パーツヴァルの頭の上に鎮座する、美しい鶏冠が揺れる。アウローラはスケディムの死を受けて喜んでいたし、それを見てパーツヴァルだって嬉しかった。アウローラがどれほど深い悲しみを身に秘めているか良く知る彼だからこそ、彼女が喜びモニターの前で羽目を外している姿を見て、肩の力が良い意味で抜けるのを感じたのだ。しかしそれは同時に、来るべき日が近づいている事も意味している。

「まあ、わしには戦いそのものを喜びとするような趣味もないし、お前さんの気持ちもわからん。 アウローラ様の下で闇の炎さえ完成させる事が出来れば、後はどうでもよいしのう」

「根元的な点で相互理解出来る存在がいるとすれば、それは頭の中身を直接つないだ者くらいだろう。 どちらにしろ、表面的な言葉や表情で理解を図っている以上、完全な意味での相互理解などできるものか」

「ひゃっひゃっひゃ、確かにヒューマンと言わずドワーフと言わず、人間は他者を(理解した)のではなく、(理解したつもり)になっているだけだからのう。 程度の大小はあれどな」

「別に俺は、それでかまいやしないのだがな」

壁から背を離すと、パーツヴァルは研究員達の間を見て回った。さぼるような奴はいないが、彼も状況は把握していないと行けないからだ。幾つかのモニターを見ているうちに、彼は足を不意に止めていた。

「うん?」

「いかがなされました、パーツヴァル様」

「このモニタ。 流れ込んでいる(異空)での障気に、乱れがないか?」

「アウローラ様に既に報告しました所、我らで今のところすることはないそうです。 なんでも、奴が、アシラが形を為す前触れだと言う事でして」

腕組みしたパーツヴァルの前で、研究員はモニターのチェックと情報の整理に戻る。リズマンの勇者は画面を眺め続けていたが、やがて方天画戟をひっつかみ、言った。

「少し異空を見てくる」

「気をつけて下さい。 最近は魔界から派遣された魔神達も気が立っています」

「ああ」

適当に頷きながら、彼は地下十層で唯一安全なアウローラの研究室を出た。外には並の人間なら即座に気死させられる程の障気が満ちあふれている。それをかき分けるようにして、パーツヴァルは向かう。アウローラが設定した檻の最下層、最大のうごめくものを閉じこめ屠る為に作り出した空間の罠、異空へと。

彼は見てみたかったのだ。アウローラが滅ぼす事を求めて止まない、全ての元凶の姿を。その胎動するおぞましき形を。

 

1,魔界の嘆き

 

ここ数日はとても雨が多い。一日中降り続いて、翌朝は晴れたと思ったら、今度は二日続けて降り続くという案配である。地面はぬかるみ、空はどんよりと曇りつづけている。この地方の季節としては、雨が多い時期であるのも確かなのだが、それにしても今年の雨は少々異常だった。

カルマンの迷宮にも、雨の影響はある。地下一層などには、天井がない場所が幾つかあり、迷宮の中にいるのに雨に濡れる事がある。地下二層以降になると、流石に雨の影響はなくなってくるが、服が湿って重くなると若干動きが悪くなる事もある。戦闘中は良いのだが、それ以外の場合に、湿気が多くて戦意を削がれるという事もある。雨が降る事によって涼しくなると言う効果もあるが、総合的にマイナスの効果がもたらされることがより多い。

体力が回復しきっていないファルは、自室でぼんやりと寝ころんでいた。頭の中身がどんよりとしていて、どうも気力が湧いてこないのだ。だらけているといっても、無論ノルマである肉体鍛錬はこなした後である。しかし、心身に活力を欠くのは疑いのない事実であった。疲労と安心感、様々な事件を目の当たりにした混乱が、精神力を著しく削いでいたのである。兎に角、色々な事がありすぎた。スケディムとの戦い、王の退位宣言。どちらも分かり切っていた事だが、後者などは情報が改めて入ってくると、やはり感慨が大きい。時代の節目にいる事を実感させられ、敬愛している王の時代が終わった事も否応に悟らされる。そして、王が死なずに、生きる道を選んでくれた事も。頭の中で整理が着くまで、心に余裕はもたらされそうにない。

窓を開けて見ると、雨は衰える様子はない。雲も分厚く、時々雷も鳴っている。この分だと、明日の探索は傘を差して迷宮に向かう事になりそうだ。窓から下を覗くと、エイミが宿の入り口をせっせと掃除していた。小さく嘆息すると雨戸を閉めて、大きく欠伸をしてベットに転がり、目を閉じる。今日は休むべきだし、休まないと翌日の探索に響く。どうせ雨だし、外に出る気も起きない。そのまま寝てしまおうとしたファルの耳に、聞き慣れない男の声が響いてきたのは、直後の事であった。まだ若い男の声だが、口調は落ち着きすぎていて、少し不自然だった。そして、この異様な気配は。迷宮の中でも目立ったそれは、巧妙に隠していたとしても、この王都では異常な存在だった。

「此処に、エーリカ=フローレス殿のパーティが滞在していると聞くが?」

「あの、どちら様ですか?」

「これは失礼した。 儂はクライヴ=ハミントン。 その名を告げれば、すぐ分かって頂けると思う」

ファルは文字通り飛び起きていた。慌てて枕元に手をやり、国光を取る。その名前は、地下九層で遭遇したエルダーデーモンのものだ。奴に敵意はなかったが、しかしエルダーデーモンである。奴がその気になれば、この一区画を粉々にするのもたやすい。ファル達が総力戦を挑めば倒す事も可能かも知れないが、そのとばっちりで王都の一部はこの世から永遠に消えて無くなるであろう。

扉が叩かれた。すぐに忍び装束に着替えて戸を開けると、もう武装したエーリカが其処に立っていた。ロベルドや、ヴェーラも緊張を顔に湛えて出てくる所であった。コンデはごそごそと部屋の中で音を立てているが、これは恐らく大慌てで寝間着を着替えているのだろう。少し遅れて、フリーダーがマグスの剣を引き下げて部屋から出てきた。

「ファルさん」

「ん、分かっている」

「あの野郎、地上にのこのこと出てきやがったか。 場合によっちゃあ……」

「そういきり立たない。 可能な限り情報を整理して、戦闘は最後の手段よ」

エーリカが戦意たぎらせるロベルドを黙らせると、丁度それに合わせるように、エイミが下から呼びかけてきた。

「エーリカ様、おねえさま、そこにいますか?」

「ああ、何用だ?」

我ながら白々しいと思う。だが、この辺のやりとりは、必要なものだ。

「お客様ですわ。 居間にお通ししておきますので、降りてきてくださいね」

適当に応えると、エーリカとファルは頷きあった。やっと出てきたコンデにハンドサインを送り、無言で最小限の時間で居間まで駆け抜ける。武装しているファル達を見て、冒険者達が何事かといった視線を向けるが、意に介さない。エイミの不安そうな顔をちらりとだけ見やり、一気に居間に入り込んだ。

居間で待っていたのは、紅いセーターを着こなし、靴を覆うほど長いズボンを穿いた青年だった。細い目と切りそろえた黒髪が特徴的な、異様に落ち着いた青年である。彼は机に脚を投げ出す事もなく、武装して入ってきたファル達に戦意を見せるでもなく、余裕を込めて言う。

「おお、来たか。 何、そんなに構えなくとも大丈夫だよ」

「ふふ、失礼なのは承知しているけど、ごめんなさい。 私たちと貴方では、基本的なポテンシャルが違いすぎる。 是くらいの用心は許して貰える?」

「ふむ、それもそうだな。 不意に押し掛けた失礼もあるし、妥当な行動だな」

クライヴは苦笑するでもなく怒るでもなく、大物全として軽く会釈してさえ見せた。それを合図に、エーリカが彼の向かいに、ファル達もめいめいソファに腰掛けた。完全武装だが、若干雰囲気は緩む。エーリカは武具を床に置くと、肩をすくめて言った。

「わざわざ来てくださって感謝しているわ。 前に聞きそびれた事、教えに来てくれたの?」

「察しが良くて助かる。 儂にはシノフ茶をくれないか? 後はそうだな、フェトルートの砂糖焼き菓子が茶請けにあると良いのだが」

「その店、もう十年も前に潰れたわよ。 二百年も続いた老舗だったらしいけど、残念だったわね」

「おお、なんと。 王都に遊びに来る時には、いつも楽しみにしていたのになあ」

心底残念そうに言うクライヴに、敵意や戦意は感じられない。それにしても、フェトルートとは。以前エーリカに聞いたのでファルも知っていたが、それは貴族御用達の超高級菓子店だ。舌がとろけるような、素晴らしく美味い焼き菓子の店だったそうだが、貴族が力を失って社会的な富が均一化し、徐々に売上が落ちていってついに店が潰れてしまったのだという。話によると店のシェフはまだ健在で何処かのホテルで働いているそうだが、それをわざわざ探してくるのは、仮に出来るとしても今すぐには不可能だ。それにこの店は、つくる菓子こそ美味しかったものの、貴族べったりで平民をコケにするような言動を店主がしていた事もあり、恨みも買っていた。そんな事情だから、下手に探しだてしてもシェフの身が危険である。ファルは手を二度叩くと、まだ少し心配そうに部屋に入ってきたエイミに、シノフ茶を七人分、それに適当な茶請けを用意するように頼む。ぱたぱたと走っていくエイミの背中を見送りながら、エーリカが続きを言った。

「さて、そろそろ何が起こっているのか、何が起こったのか、教えてくれる?」

「およそ七千五百年ほど前のことだ」

「それはまた、随分と剛毅な話だな」

「そうさな、人の一生から見ると確かに途方もないスケールの話であるな。 その頃、我らが住む魔界に、一つの変化が訪れていた。 天変地異でもなければ魔王の不予でもない」

皆の顔を見回しながら、クライヴは芝居気たっぷりに言った。

「平和の到来だよ」

静かにクライヴは語る。魔界の歴史を。彼らが辿ってきた苦境の数々を。

 

魔界は人間が暮らすにはとても厳しい世界である。荒れ狂う天候、容易に作物など作れぬ痩せた土地、噴火を繰り返す火山群、大地に亀裂産む地震。場所によっては硫酸の雨すら降る。昼夜の気温差が八十度を超す地域も珍しくない。そんな環境に、最初生物はいなかった。現在生物が存在しているのは、余所から持ち込まれたからである。異端思想迫害から逃れる為に天界を離れた天使達の子孫がそれであった。彼らを堕天使という。魔神の先祖である。

堕天使達は枯れ果てた世界を耕し、またそこで生活するべく生物としての自らを鍛え上げていった。強靱な肉体、圧倒的な体力、常軌を逸した生命力。それらを得る為に魔神達はありとあらゆる事をした。怖気が走るような実験もした。それらには、未来ある若者達が、更なる未来の為に進んで身を投げ出した。それら悲壮な努力が実を結び、魔神達は魔界で繁殖し、数を増やせるほどにまで種として強くなった。だが、魔界の人口がある程度に達した頃、彼らの存在を察知した天界との戦いが始まった。魔神達の生存環境は加速度的に悪くなっていった。個々が強いだけでは、この新たなかつ最悪の苦境を乗り切る事は出来なかった。

魔神達は強固な政治を執る事によって苦境を脱出するべく計り、民衆も団結し積極的に事に当たった。国力をじりじりと上げ、防戦一方だった天界への反撃をするべく牙を研ぎ、政治のシステムを整備して社会そのものの強靱さを増した。必死の努力を繰り返した結果、やがて苦しかった戦況は徐々に好転し、科学技術はじりじりと増し、民衆が積極的に参加する政治のシステムも練り上げられていった。事態を憂慮した天界は、「異端思想の悪魔共を殲滅する為に」歴史上類を見ないほどの大軍を派遣。至高神自らが陣頭指揮に辺り、魔界との総力戦に突入し、敗北した。四つの会戦で、地の利を得た魔界軍は自らも大きな被害を出しつつ天軍を撃破。至高神を戦死させ、魔界を守り抜く事に成功した。穏健派の次代至高神との間で不戦協定が成立したのが、それからすぐの事であった。

不戦協定と言っても、互いの国家には侵入しないと言う程度の代物であったが、それでも得る物は大きかった。今まで戦争に振り分けていた国家的なパワーを、国力強化につぎ込み、社会の安定の為に費やす事が出来たからである。飽きるほど繰り返した天界との戦争の結果、常軌を逸するほど科学技術は増しており、効率よく運営する国家体制も整備されていた。また、いくら和平が成立したと言っても、天界を信用するのは危険すぎる。その結果魔界はそれからも自らを強くする事に余念無く、社会的に安定がもたらされたのがおよそ八千年前。もはや魔界の国力は天界と完全に肩を並べ、魔神達はようやく平和が来た事を実感したが、その一方で閉塞に突き当たった事も実感した。そんな時であった、人間の魔術師が開けた空間の穴が、魔界に繋がったのは。

魔神達は早速その穴を調査し、人類社会、即ち今ファル達が住んでいる世界の存在を知った。ここで、意見が二つに分かれたのである。

人間の築く文明を調査した魔神達は驚いた。あまりにも文明の興亡ペースが速すぎるのだ。無意味な殺し合いを繰り返し、全く進歩しない生物。過去を否定して未来を美化し、先人の築き上げた物を業火に蹴込んで平然とする生物。厳しい環境で生きてきた魔神達はシビアな考えの持ち主だが、それでもこの環境はあまりにも驚くべき物であった。過去あってこそ未来も進歩もある。失敗を生かしてこそ社会の進歩はある。なのに、あまりにも無駄に命を散らし過去を焼き払うこの世界は一体なんだというのだ。人間世界はそもそも空気の性質が魔界と違い、弱い魔神は理性を喪失してしまう事も報告されていた。定住は不可能だと魔界の技術者は結論し、滞在は効率的かつ短時間で行わねばならなかった。

新しい世界との接触が、文明の新しい段階を呼ぶ。それが必ずしも良い方向に向かうとは限らない。そんな事は分かり切っていたはずだったのに、魔神達はショックを受けた。彼らは一旦人類とのコンタクトを脇に置き、相談を重ね、やがて二つの意見が生じた。

一つは放置派とでも言うべき集団。おりしも天界が人間界を発見して調査を開始していた事もあり、丁度良い機会だから手を引いて、此処ではない別世界と交流を深めようと言う者達であった。当然新しい世界をまた探すのだから、その労力は膨大なものとなる。一方で、それとはほぼ逆の意見を有する集団も生じた。此方は積極関与派とでも言うべき者達である。人間社会が未熟なのは仕方がない事で、文明の興亡が早いのも彼らの寿命に起因している。もし我らによる後押しがあれば彼らは偉大な文明を築く事が出来、将来的には我らの頼もしいパートナーになりうるというものであった。両者の意見にはそれぞれ理があり、一概に間違ってはいなかった。しばしの討論の結果、双方は折衝案を用いる事にて妥協した。それは、人間世界で最も良心的かつ長期間持続している文明に、自らの力の一端を与え、様子を見ようと言うものであった。良い結果が出れば問題ないし、悪い結果が出ればそこで綺麗さっぱり諦める事が出来る。放置派もそれで納得し、天界との交渉も行われ、ゴーサインが出された。魔界がそうして接触した文明は、ベノア大陸南西部に広がる、ディアラントと呼ばれるものであった。

 

そこまで言うと、クライヴは茶を啜り、エイミが持ってきた地味な色合いの茶請けを頬張った。楕円形の、くすんだ緑色をした菓子で、ファルも口に入れてみたが、見かけ通り非常に地味な味わいだった。ただ、シノフ茶にはとても合っていて、茶請けとしてはベストであった。

「うむ、この茶請けの菓子はとても美味しいな」

「いいから、続きを聞かせて貰いたい」

エイミを褒められているようで、少しファルは嬉しくなったが、仏頂面のまま続きを促す。クライヴは落ち着いた物で、茶をもう一啜りしてから、話に戻る。徐々に確信に潜り込み行く話は、鋭利さを増しつつあった。

「魔界はあまり最初から人類に期待してはいなかった。 だから、当時まだぺーぺーだった儂が任務の責任者に選ばれた。 まだ若かった儂は調子に乗って、全力を尽くして人間との交渉に当たった。 儂は積極関与派に属していてな、ディアラント人が偉大な文明を築けるはずだと、信じて疑わなかった。 たまたま最初に接触したディアラント人が善良だった事が、有頂天だった儂を更に盲目にした。 此奴らとなら理想的なパートナーになれると思いこんでしまったのだ。 儂は陣頭指揮を執ってディアラント文明に接触し、セントラルパンデモニウムを建築し、注意深く色々な技術を渡した。 今、それらの事と、それから起こった事を考えると、後悔の念しか浮かんでこない」

もう一口茶を啜るとクライヴは、深淵に落ち行くような、ディアラントの闇を語り始めた。

 

魔界がディアラント文明を実験の対象として選んだ理由は幾つかあった。まず文明内の不文律が、他の文明に比べて清潔であったこと。文明自体が二百年以上という、他では類を見ないほどの長期間続いている事。優秀な人材を多数配しており、周辺諸文明からの侵攻を危なげなく何度も退けている事、などである。

積極関与派のクライヴを実験の責任者とした魔界は、注意深く選びながら科学技術をディアラント文明に譲渡した。クライヴ自身は初めて大きな任務を任された事もあり、大乗気であった。彼は何処かのぼせ上がってしまっていた。超現実主義者の魔神と比べて、理想を真面目に信じる事が出来るディアラント人は、何処か未知の存在であり、エキゾチックな魅力溢れる相手だったのである。たまたま接しているディアラント人に善良な者が多かった事も、クライヴの目を曇らせた。結果、闇は徐々に、確実にディアラントを蝕んでいったのである。

クライヴの後押しもあり、幾つかの技術を得たディアラント人は、自らの文明を見る間に発展強化していった。社会の矛盾を解決し、生活のレベルを上げ、他の文明の侵攻を粉砕して安全な社会を作り上げた。緩く温かい平和が、ディアラント文明そのものを覆った。そして歯車が狂い始めた。たった三十年で、クライヴが信じたディアラント人は、闇の深層へ足を踏み外したのである。余所から借り受けた技術力を持っているだけなのに、彼らは自己の能力が高いと錯覚してしまった。周辺文明との格差も、それを押し上げた。そして清潔そうに見えた不文律が、却って選民思想を押し上げてしまった。結果、彼らは魔神も鼻白む凶行を文明レベルで開始したのである。

まず彼らが始めたのは、労働力の確保であった。豊かな生活を実現出来るようになった結果、積極的に労働したいという人間が減ってきたからである。その結果、文明衰退の予兆を感じたディアラント人は、有り余る化学力を駆使して周辺の文明を蹂躙、住民を奴隷として連れ帰った。今までは専守防衛を貫いていた分、心の奥底にある他文明への恨みは深く、侵略は破壊を伴い残虐を極めた。制圧した異国の都市では、日常的に蛮行が行われた。奴隷として連れ帰った者以外は皆殺しにする事も少なくなく、「劣った文明」を焼き尽くす事もままあった。ただ、これに関しては他の文明も大差はなかったし、ディアラント文明が特に酷い事をしていたわけではないと弁護をする事も出来る。古代文明では敗者を奴隷にする事は当たり前であり、他を否定して焼き尽くす事も珍しくなかったのだ。ただ、それは「周りがやっているから自分も犯罪を犯して良い」といった、極めて低次元な弁護に過ぎない。

そしてディアラント人は、更なる凶行に走った。自文明の人間に比べて著しく能力が劣る(とディアラント人は考えた)奴隷達を有効活用する為に、人体改造技術を駆使し、彼らをオートマターへと改造したのである。オートマターは肉体強化され、(長時間稼働する)ようにされただけではなかった。精神も強化され、ディアラント人には絶対に逆らえないようにされていたのである。オートマター達の記憶は全て消去された。これはディアラント文明人にとって、「野蛮な」文明の生活記憶など、何の価値もない存在だったからである。魔界が持ち込んだ人権などと言う概念は、ディアラント人同士の間にはあっても、他文明の人間には働かなかった。なぜなら、ディアラント人にとって、人間とはディアラント人のみを指したからである。

ディアラントにて改造されたオートマターの多くは奴隷労働を課せられ、人間よりも遙かに強化されたその身がすり切れるまで働かされた。壊れれば勿論ごみとして捨てられた。一部は表皮や骨格から改造されて、性玩具として用いられ、此方も飽きられたら捨てられた。魔界はこれらの凶行を見て唖然としたが、それが払拭される事は結局無かった。魔界が呆れているのを見て取ったディアラント人は、魔界の環境用に調整したオートマターを幾らか魔界に上納したのである。クライヴを始めとする魔界政府の外交官はうんざりしたが、労働力が足りているなら食料にでもしてくださいと何の臆面もなく言い放ったディアラント文明高官に絶句し、とりあえず上納品を受け取って魔界政府に対応を要請した。ちなみに、この時上納されたオートマター達は結局自我を取り戻せず、自由を与えられた彼らの子孫は人類に深い憎悪を抱いている。

魔界政府がディアラント文明の暴走に唖然としているうちに、狂気の暴走は更に加速を増していた。周辺文明を支配したディアラントは、各地から資源を略奪し、高層ビルが建ち並ぶ巨大都市を幾つも建造していった。後に伝わる「理想郷」としての姿は、ディアラント人が自らの力を見せびらかす為に招待した、屈服させた他文明の人間が書き残したものである。やがて、敵がいなくなったディアラント文明には、絶対的な平和が訪れた。(平穏な日常)に飽きた彼らは、コロシアムにてオートマターや魔物を戦わせて楽しむようになった。この過程で戦闘目的のオートマターが創られている。この頃になると、流石に魔界政府もディアラント文明の高官に苦言を呈するようになってきたが、自らを至高の文明の担い手だと錯覚してしまった彼らは聞く耳持たなかった。呆れた事に、彼らは自身を神とさえ称していたのである。

コロシアムでの殺し合いは日々ヒートアップし、歪んだ商業原理に基づいて、ディアラント人は更なる刺激を求めた。彼らは異界にゲートをどんどん開け、客受けしそうな存在を自世界に引っ張り込んでは、コロシアムで殺し合わせた。時には小さな子供をドラゴンに虐殺させたりといった、考えられない凶行すらもしていた。異界へゲートを開ける技術が、彼らをして、最後の一線を踏み越えさせてしまったと言える。こればかりは魔界政府が供与した技術ではなかったが、それにしても快楽の為だけに他世界の存在を殺し合わせるとは。この時点でディアラント文明の将来は決まってしまっていたのかも知れない。魔界政府ももう完全に閉口し、以降は技術供与を停止して、事態を静観するようにクライヴに命じた。もうこの頃にはクライヴもすっかり目が覚め、人間を冷めた目で見るようになっていた。クライヴは気付いていた。これこそが、人間の本質である事を。人間の中に眠る真の姿が、今暴き出されているだけだと言う事を。表面的なエキゾチックさに騙されて、自分が舞い上がっていただけだと言う事を。現実の存在に夢を重ね合わせ、酔っていただけだという事を。

ディアラント文明の凶行はその後も続いた。そして彼らは、自ら地獄への扉を開けてしまった。

そう、「うごめくもの」、イザーヴォルベットの出現である。

 

「実は、うごめくものの正体については、我々にもよく分かっていない」

沈黙し続けるファル達の前で、二杯目の茶を啜りながらクライヴは言った。自責を恥じることなく前に出し、自らの罪をきちんと認めるその姿勢には、ファルも感じる所があった。長く生き、それによってきちんと自らを高めている存在だと、素直に悟る事が出来たのである。

「ただ、分かっているのは、奴らには七種類いると言う事。 種類に関しては、恐らくもう君達も知っているだろう。 他には、異界のゲートをディアラント人が開けた結果、出現したと言う事。 そして天使も魔神も、奴らには歯が立たないと言う事だ」

「どういう事なの? 魔神の実力はカルマンの迷宮で嫌と言うほど目にしてきたわ」

「奴らの纏っている防御結界が厄介な代物でな。 天使も魔神もそれによって攻撃を中和されてしまうのだ。 ましてや、此方の世界では、われら魔神はとても分が悪い。 下級の魔神は基本的に理性を喪失してしまうし、上級の者達だって気が高まって冷静な判断が出来なくなる。 此処の空気は、基本的に我らには毒なのだよ。 それに……」

クライヴは別に恥じるでもなく、言い切った。

「ディアラント文明が滅ぶのは自業自得だった。 これ以上奴らを助けてやる義理など、我らにはなかった。 それでも魔界は何度か派兵し、その度に返り討ちにあって多大な被害を出した。 魔界軍がうごめくもの撃破を諦めたのは、三度目の戦いで、一万以上の被害を出してからだ。 儂も魔界軍の撤兵には反対しなかった」

「……」

「儂が憎いか? 人間から見れば、憎いのは仕方がない事だ。 好きなだけ恨んでも構わないぞ」

「いいえ。 貴方の責任じゃないわ。 愚僧たちが同じ立場であったら、別の決断を下したかも知れないけど、貴方の判断も間違ってはいないでしょうね」

エーリカがぴしゃりと言い切る。ファルも同意見であった。ただ、同じ状況でディアラント人であったら、うごめくものに最後まであらがっただろう。立場の違いによる決断の違い。それをファルはきちんと知っていたし、理解もしていた。小さくクライヴが頷いたのは、何を意味していたのか。彼は残っていた茶を一息に啜ると、最後の核心に触れ始めた。

「……うごめくものによって、わずか数ヶ月でディアラントは瓦解した。 奴らの侵攻を危惧する魔界政府と天界政府だったが、どうしてかうごめくものはそんな素振りを見せず、その後も人間界に限定して時々出現しては文明をむさぼり食った。 やがて、ディアラント文明の生き残り達が築いていた文明も全て滅び去り、魔界は人間世界からの撤退を正式に決定した」

 

ディアラント文明は数ヶ月で瓦解したが、決してやられっぱなしだったわけではない。苦しい戦況の中、逃げ延びた一般人は大勢いた。ただし、どういう訳か高度な文明を持ち出そうとする者には容赦なくうごめくものが襲いかかり、丸腰で逃げる者は比較的無事であった。元々他から借り受けた技術であったし、そんな状態で見る間にディアラント文明が解体していったのは無理もない話であったかも知れない。また、戦闘面に関しても、ディアラント文明は一部において善戦した。戦闘型オートマターはアンテロセサセウを何十体も撃破していた。中上位に位置するラスケテスレル、オルキディアス、マジキムはそれぞれが皆終戦までに撃破されていた。それらを成し遂げたのは、ディアラント文明が最後に作り出した二体の決戦兵器によるものだという事までは現在までに判明しているが、その正体まではまだ分かっていないのが現状だ。どうも一体は武神オグらしいのだが、奴はマジキムとの交戦で倒されており、その直後にマジキムを倒した存在の正体がよく分かっていない。

うごめくものの首魁であるアシラは、空間を丸ごと切り取る能力を持っていた。奴によって大戦末期、セントラルパンデモニウムは何処とも知れぬ異界へと飛ばされてしまい、魔界の技術を持ってしても探し当てる事が出来なかった。パンデモニウム内には機密資料や技術資料が残っており、それらが天界やましてや人類にでも見付かると極めてまずい。魔界は必死に行方を捜したが、結局見付からず、戦々恐々としていた。それを探し当て、魔界に接触してきたのが、アウローラである。アウローラは自らをうごめくものを滅ぼす者だと名乗ると、古代ディアラント文明の遺産とも言うべき数々の技術を見せ、魔界へ協力を依頼してきた。

人間世界への干渉がそもそもトラウマになっていた魔界であったから、アウローラとの交渉は長期間に渡った。結局魔界はクライヴを交渉担当人としてアウローラに当たらせ、僅かな兵力を望んだ期間に貸し与えるという契約も結んだ。もともと下級の魔神には好戦的な者も少なくなく、いざ募集を掛けると結構な人数が作戦への参加を希望した。契約が成立しはしたが、その後はアウローラにもうごめくものにも大した動きはなく、人間世界にて様々な文明が急ピッチで興亡を繰り返すのを、魔界は冷めた目で見つめていた。その幾つかはうごめくものによって滅ぼされたが、かってのディアラント文明滅亡のような超巨大カタストロフは数千年間起こらなかった。

不意にアウローラから具体的な作戦の草案が持ち込まれたのは、三十年ほど前の事である。大雑把に言って、アウローラの作戦は以下のようなものであった。

1,うごめくものを倒しうる人間を育てる。

この条件だけなら、まず無理といいきって良い。一番弱いヴェフォックスとアンテロセサセウですら、人間の中で最強の存在が歯が立つかどうかと言うレベルであり、マジキムやスケディムに至っては魔神が保有する最大の攻撃手段である水素爆弾すら防ぎきるのだ。魔界政府の当惑に反して、アウローラは更なる付加要素も提示して見せた。

2,うごめくものをおびきだし、力を弱める。

これには幾つかの条件が必要になってくる。まず最初に、うごめくものをおびき出さなければならない。今まで人間世界で何度もうごめくものの出現は確認されていたが、その法則について魔界政府は把握しきっていなかった。アウローラは充分な根拠となる膨大な研究データを提示、魔界政府をその点で納得させた。また、そのレポートを通して読めば、連中の力を削ぐ方法も理解出来た。それらを見て心を動かした魔界政府に、アウローラは更にもう一つの付加要素を提示した。

3,うごめくものの本体を根本的に滅ぼす

うごめくものがどうやら異界からの干渉で、人間世界に誕生しているらしいと言うのは、数千年の研究によって明らかになっていた。アウローラはそれを行っている存在を滅ぼす手段を開発したというのである。

魔界の上層部はレポートを読んで議論した結果、事態をクライヴに一任した。クライヴはそれまで定期的にセントラルパンデモニウムの残骸を管理していたが、アウローラの求めに応じて、うごめくものを閉じこめる檻の一部としてそれを使う事を承諾した。クライヴから見ても、アウローラが数千年がかりで準備した作戦は、成功率が高いと思えたからである。

結局現在に至るまで、アウローラの正体は判明していない。分かっているのは、アウローラがうごめくものに激しい憎悪を抱いている事。魔神でも天使でもなく、そして人間でもない事。カルマンの迷宮が、うごめくものを倒す為だけに作り上げられた事。そして、奴の言葉が、はったりだけではないと言う事。等である。

クライヴは既に自身でも、ファル達の手によってラスケテスレル、オルキディアス、マジキム、そしてスケディムが倒されているのを確認している。その戦いの際、確かにうごめくものは力を弱めていた。ラスケテスレルやオルキディアスはともかく、結界の弱点を突かれたとは言え、マジキムやスケディムが人間に倒されているのだ。ファル達の実力が常識外という点もあるが、それ以上に彼らの力が何かしらの手段で弱体化していたのは間違いない。

人類が呼び出してしまった、具現化せし破壊。その滅びの時は、アウローラの手によって、もう間近な所まで近づいているのである。

 

別に興奮するでもなく、淡々と話を終えたクライヴが、もう一杯の茶をエイミに頼む。身を乗り出したロベルドが、その静かな目をのぞき込んだ。

「要するに俺達は、あんたらの計画によって半ば意図的に作り出された、て訳だな」

「そういうことになるな」

「むかつくな、はっきり言って。 だけどよ、あんたの立場も分からないでもねえ」

「なんというか、あまりにも色々な事が一片に分かりすぎて、頭が破裂しそうだのう」

コンデが大きく嘆息した横で、ファルも事態への驚きを隠せない。それにしても、今のクライヴの話が本当だとすると、アウローラはうごめくものと戦う為に行動してきたと言う事になる。そして、うごめくものが一体何者なのか、ほぼ確実に把握している。一瞬だけ、ファルはクライブに、アウローラがオートマターである事に気付いているか問いただそうかと思った。だが、クライヴはほぼ確実に幾つかの事を意図的に隠しており、それを指摘する事によって態度を硬化させる可能性がある。喉まで出かかったその言葉を飲み込むと、ファルは軽く手振りを交えながら言った。

「我々は、愚かな先祖の尻ぬぐいをしなければならない訳か」

「君達だけにそれをさせるわけには行かない。 なぜなら、儂にも罪の一端が確実にあるからだ。 だから儂も協力してきた。 そして、君達だけに今真相を開かしているのも、最前線に立つ者には知る権利があるからだ」

長い事、クライヴはそれを一人で背負い込んできたに違いない。アウローラの事を決して嫌っていない様子からもそれが分かる。誰にも背負っているものはある。それを分担出来れば楽になる。だが、分担しようと、決して重みそのものが消えるわけではないのだ。剛胆なヴェーラが、大きく肩で息を吐いた。彼女もロベルド同様、話を聞いている間中、辛そうにしていた。

「偉大なる火神アズマエルは、この有様を見たら何と言われるだろうか。 まるで泥の中ではいずり回る狂気に落ちた兎の喜劇ではないか」

「魔界だって長期的なスパンで見れば同じようなものだ。 だが、その中で生きるのもまた一興だ」

「……辛いぞ、それは」

「構わぬ」

ファルは自らの問いに即答したクライヴを嫌いにはなれなかった。ファルはクライヴよりずっと短い期間だが、そんな人生を送ってきたからだ。だからそれがどれだけ辛いか良く知っていた。だが、クライヴは別にそれで構わないと言う。自責がその心にあるのは明白だが、それ以上の強さも心に併せ持っている存在だと、ファルは自然に悟っていた。彼は確かにうごめくものを呼び寄せた原因の一端を担っていた。だが、それを責める資格は人類の誰にも無い気がした。

雨足はまだ衰えない。傘を差して、クライヴは一人カルマンへと帰っていった。天より降り来る雨粒が、見る間に彼の足跡をかき消していった。

 

2,決戦前夜

 

クライヴの長い話から解放され、居間に戻った皆はめいめい武装を解き、沈黙の中新しく出された茶を啜った。しばし無言であった皆の中で、最初に口を開いたのはエーリカだった。

「一番悪いのは、一体誰なんだろうね。 ディアラント人か、奴らに凶器を与えてしまった魔神共か、それともうごめくものか」

重すぎるその問いに答えられる者は居ない。

凶行を続けたディアラント人だが、老幼も含む者達も含めて皆殺しの憂き目を見ている。それに凶行自体が、当時の彼らにとっては普通の事だったのだ。倫理観念が時代によって逆転する事はいくらでもある。驕り高ぶったのは事実だが、彼らの全てを責めるわけにも行かないだろう。

魔神は積極的に凶行に関与したわけではない。確かに凶器の元となる物を渡してしまったが、それを間違った(現在人の視点から見て)方法に使ったのは魔神ではなくディアラント人だ。あまり強く出なかったとは言え、それに苦言も呈している。うごめくものに対して軍を派兵し、交戦まで試みている事から言っても、彼らを責めるわけにも行かないだろう。先ほど話したクライヴの様子から見ても、魔界にいる魔神はそれほど非理性的ではないのかもしれない。無論、過大な期待は禁物だが。

後は、うごめくものだが、これについてはまだ分からない。だが、今までの様子を見て判断する限り、会話が通じそうな相手ではなかった。ロベルドが軽く机を叩いた。

「畜生、うごめくものが何なのか、アウローラに聞くしかないのか。 もうこうなったら、俺らも無関係とは言いきれねえもんな。 思惑通り踊るのは癪だが、踊らせている方だって命をかけて泥水を啜って来た奴らだ。 一方的にそれを否定したんじゃ、俺の戦士としての誇りが廃る」

「そうだな、私も同意見だ。 それに現実的な問題として、あの魔女は、見た目よりもずっと好戦的だという事がある。 さながら炎のような、或いは高貴な雌竜のような。 だから自分より弱い相手には、恐らく何も話はしないだろうな。 うごめくものを滅ぼせるかどうか確認する為、我らに命がけで戦いを挑んでくる可能性も低くない」

杯を握りしめて、ヴェーラが言った。アウローラに手が届いたと言うよりも、今まで実感がなかった事が、ついに現実として目の前に立ちはだかってきた。ファルも握り拳が冷や汗でぬめるのを感じた。

「ウェズベル師と、彼が連れていた屈強な冒険者でも歯が立たなかった相手じゃ。 小生達も、生きて帰れるか分からぬの……恐ろしいのう」

「大丈夫。 愚僧達は、あのスケディムだって退けたのよ。 今なら、戦いになったとしても、絶対に勝てるわ」

「やれやれ、孫のような年の娘に何度励まされた事か。 小生は結局、一生おなごに頭が上がらぬようじゃの」

「ふふ、まだまだコンデさんは長生きするわよ。 それに、決して女の子の尻に敷かれ続けていた訳じゃないと、愚僧は思うわよ」

きょとんとするコンデは、エーリカの言葉の意味が分からないようだった。ヴェーラもロベルドも遠慮無く笑い、空気が和む。ファルは別に笑わなかったが、エーリカの言葉の意味は分かった。コンデの妻は、夫を愛していたと、普通に悟る事がファルにも出来たからだ。ファルは一息に残った茶を飲み干すと、フリーダーの頭に手を乗せて言う。今しかないと思ったからだ。

「今のうちに告げておく」

「はい、なんでしょうか、ファル様」

「アウローラは……オートマターだ」

「……!」

ロベルドとヴェーラが蒼白になり、一瞬置いて立ち上がった。コンデは唖然とカップを取り落とし掛け、パニックを半ば起こし掛けながらまじまじとファルを見る。彼の手にあるカップは斜めに傾き、熱い茶がどぼりと机にこぼれた。フリーダーは無表情のまま、ゆっくり小首を傾げた。事態を理解出来ていないのは明白だ。

「もう一度言う。 アウローラは、自我を持ったオートマターだ」

「お、おいっ! そんな、そんなはずは!?」

「是は事実だ。 あらゆる状況証拠が、事実だと告げている」

すがるようにロベルドがエーリカを見るが、エーリカは腕組みしたまま静かに頷いた。わなわなと震えていたロベルドが、やがて拳を机に叩き付けた。ファルの代わりに、感情を代弁してくれるこの若きドワーフは、やはり頼もしい仲間であった。

「ち、畜生、畜生……! こ、こんな事が、あっていいのかよ!」

「火神アズマエルよ! この世に、光はないというのですか!」

「先ほどクライヴの話を聞いて確信した。 おそらく、ディアラント文明末期に創られた決戦兵器の一体がアウローラだろう。 ならば、全てつじつまが合う。 何故うごめくものをああまで憎悪するのか、基本的に戦いそのものを好むのか。 だいたいおかしいと思っていた。 数千年に渡って歴史に登場し続けたアウローラは、名前もなく、ずっと同じ若さのままだったという。 自意識の強い天使や魔神なら、名前を必要としない訳がないし……」

ファルが言葉を切ったのには、当然理由がある。後ろ向きに倒れ掛けたフリーダーを抱き留めたからである。ファルの反射神経があったからこそ出来た事であった。額に触れてみると、酷い熱であった。心臓が激しい勢いで、上下に飛び跳ねた。無言のままエーリカが駆け寄り、すぐにフリーダーを抱きしめてソファに寝かせる。うつろな目で虚空を眺めながら、フリーダーは何かぶつぶつと呟き続けていた。てきぱきと処置を始めるエーリカ。ロベルドが拳を固め、フリーダーを直視出来ない様子で呟いた。

「畜生……!」

「さっきヴェーラが言った事に、私も同感だ。 アウローラは、自らを倒しうる存在に、今後の事態を託すつもりだろう。 奴がオートマターであるならなおさらな。 戦いは避けられない」

「てめえ、こんな時まで、何いってやがるんだ!」

「殴りたければ殴れ。 だが実戦で事態が明らかになるより、心の準備をして貰っておいた方がよい」

ファルの胸ぐらを掴み、頬を殴ろうとしたロベルドの拳が急停止した。煮えくりかえる胸を抱えているのはファルも同じだ。こんな事態だから、勝つ為に最善手を尽くさねばならない。そんな風に頭が回る今の自分が、ファルはあまり好きではなかった。だが、何かを得れば何かを失う。大きな物を得るにはそれだけ大きな物を失う。失う物は、決して時間だけではない。強くなれば人は必ず変わるのだ。それは必ずしも、良い方向とは限らない。エーリカはいつもこんな悩みを抱えていたのではないかと、ファルは今更ながらに強く強く思う。

無言のままヴェーラがハンカチを差し出す。その時になって、やっとファルは自分の頬が、熱い透明な液体によって濡れているのに、ロベルドが拳を止めた理由に気付いた。

エーリカがフリーダーを背負い、彼女の部屋に連れて行く。ファルは無言で涙を拭いながら、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。

ファルは心の何処かで甘えていた。いつものように、無機質にフリーダーが応えるのではないかと思っていたのだ。

「相手が意識あるオートマターであっても、当機には関係ありません」

そんな答えが、容易に想像出来た。だからこそ、事実を直視するのが厳しかった。ファルはやはりフリーダーの事を分かっていなかった。最近あの子は心を創り、表情が豊かになってきていたではないか。ファルの側にいると言う事以外、何も欲求を見せる事は無かったからと、安心していた自分が愚かだった。フリーダーは傷ついた。心に谷を創ってしまった。やはり私は無能だ。どうしようもないクズだ。涙は、拭っても拭っても止まらなかった。ついに抑えていた感情が、皮を破って爆発した。

「く……おおおおお……うぉあああああああああああああああっ!」

初めてファルはその時、仲間の前で、声を上げて泣いた。

 

地下十層。九層の魔物の能力から考えても、文字通り未知の魔境だ。魔界でも怖れられるような強大な怪物がひしめいていてもおかしくない。正直、ファルでも怖い。無言のまま黒麦芽酒をあおる。今までも、是が最後かも知れないと思って、飲んだ時はいくらでもある。今の仲間達とチームを組む前にだって何度かあった。いつの間にかそれに慣れていた。だから、殆どの場合、恐怖は感じなかった。だが、今は怖い。

クライヴがわざわざ此処に来た理由は、ファルにも分かっている。アウローラの計画が大詰めに来ていると言う事だ。アウローラの事だ、自らの素材そのものを実験媒体として、戦いに投入してくるかも知れない。今までの話を総合すると、そしてフリーダーの献身的で無謀な戦い方を見ていると、無茶な行動に出るアウローラが容易に想像出来る。そして、それを倒した時の、フリーダーの嘆きも。フリーダーは最近、ファルが傷ついた時は特に強く感情を出す。怒りより、喜びより、悲しみばかりが表に出てくるが、何もないよりずっとましだ。だが、ずっとましだと思っていたそれも、今は煩わしい。アウローラを倒した時、フリーダーはこらえきれないかも知れない。そうなった時のことを考えると、ファルも悲しい。

黒麦芽酒を飲み干す。脳にもやが掛かり、ぼんやりとしてくる。アルコールは良い。現実から実に容易に逃避出来る。頭の中で自分を痛めつける妄想に浸るのが、一番たやすい現実逃避だった。罪悪感が、それをさせた。最も罪深い自分をせめて頭の中で痛めつけ続けるのが、今できる最大の贖罪だった。無言のまま俯いて、時々アルコールを胃へ入れながらそれを行っていると、エーリカの声がした。

「ファルさん、隣いい?」

「構わない。 どうした?」

顔を上げたファルは、エーリカの隣にフリーダーもいる事に気付いた。フリーダーはファルをじっと見つめていた。とても悲しそうな目だった。

「ロベルドは寝ているし、ヴェーラさんは外に出かけていったわ。 何だかアズマエル神を信仰する者同士のコミュニティがあるとかで、其方に顔を出すつもりのようね。 ジルさんの話だと、コンデさんは自室で飲んでいるらしいわ。 きっと奥さんと二人っきりで話しているのね」

「……」

「昼間の事、まだ気にしているの?」

「私は無能だ。 思いつく最善手があれしかなかった」

「そうねえ。 愚僧だったら、きっと最後まで隠していたわねえ」

自分はエイミに葡萄酒を頼みながら、エーリカはファルの向かいに座る。所在なさげにしていたフリーダーも、促されてその隣に座った。アルコールでぼやけた視界。フリーダーが揺れている。

「大丈夫か?」

「はい。 もう当機は戦闘続行可能です」

フリーダーの表情はやはり優れない。

「すまなかったな」

「何故謝られるのか分かりません」

「フリーダー、私は……」

「当機は、アウローラがオートマターであっても、構わず破壊します。 当機の忠誠は、ちゅ、ちゅう、忠誠、ち……」

フリーダーの目から涙がこぼれ落ちる。ファルの頭に掛かっていたもやが、急速に晴れていった。そんな時、口を開いたのはエーリカだった。

「こんな下らない運命を設定した神様に会う機会があったら」

「……」

「私が代わりにフレイルで殴り倒して、鎖でふんじばって油を掛けて丸焼きにしてあげるわ。 絶対に許してはおかないから、安心して」

それは過剰に暴力的で、乱暴な言葉であった。だが、フリーダーは流れ落ちる涙をハンカチで拭きながら、エーリカに小さく頷いた。ファルもジョッキを机に置き、同じように頷いた。

「私は神のいる場所へはいけないだろう。 だから、エーリカ、代わりに頼む」

「ええ。 だから約束して。 みんなで生きて帰って、いつかこの過酷な運命に晒された事も克服出来るくらいまで、長生きしましょう」

「当機は、その……」

「アウローラだって、戦いを望むとは限らない。 難しいけど、戦って破壊しなくても済むかも知れない。 何でもかんでも運命なんてものの思うとおりにはさせないわ」

そのリーダーの言葉が、どれほど勇気をくれるか。ファルはこのリーダーに着いてきて、やはり良かったと思った。

「明日は早くから準備をするわよ。 二人ともゆっくり休んで、英気を養っておいて」

そして、きちんと締めも忘れない。にっと笑って親指を立てると、エーリカは自室に引き上げていった。わずかな沈黙の後、ファルはエイミに黒麦芽酒をもう一杯頼むと、フリーダーの頭を撫でながら言った。

「今度も、必ず生きて帰ろう」

「……はい」

「ディアラントはもう滅びた。 アウローラだって、助けられないかも知れない。 だがアウローラがいたと言う事は、他にも生きているオートマターはいるかも知れない」

ファルは知っている。あのレイバーロードがオートマターであった事を。ならば他にも、いてもおかしくはない。

「何か欲しい物やしたい事はないか? 私に出来る事なら手伝うぞ」

「当機はもっと情報を得たいです」

「分かった。 そうだな、陛下に頼んで、何日か国立図書館をお前の貸し切りにしてもらおうか」

「本当ですか?」

フリーダーの顔が明るくなった。いつもの完璧に作った笑顔ではなく、もっと子供らしい生の笑みだ。

「ああ、本当だ。 私は忍者ギルドの名声以外に、欲しいものは特にない。 地位や権力を要求すれば迫害されるのは分かり切っているからな。 政治的な権限のない名誉職を適当に見繕って貰って、後はギルドのバックアップに務めるつもりだ。 その際に、我が儘の一環として、それくらいは聞いてもらうさ」

「有り難うございます、ファル様」

フリーダーの笑顔が戻った事が、ファルにはどうも心地よかった。何とか翌日の戦いに向かえそうだ。ファルの心に、温かい灯りが戻っていた。

 

3,十層へ

 

周囲を見回し、ファルは呟く。何度も何度も通り過ぎた、そして恐らく今回で最後に通る事になる場所。

「いつもと同じだな」

「ああ、そうだな」

「いやというほど、いつもと同じで、それが却って恐ろしいのう」

「火神アズマエルは、きっと私を守ってくれる。 私の仲間である皆も、温かく大きな手でお守り下さるだろう」

「コンディション万全。 いつでも戦闘態勢に入る事が出来ます」

エーリカ以外の皆がそれぞれに応える。エーリカはしばし迷宮入り口を見やっていたが、少しだけ残念そうに、そして振り切るように言った。

「さ、みんな、行くわよ!」

皆歩き出す。ファルもそれに当然従った。

 

宿の前には、今まで戦いを支えてくれた者達が集まっていた。エイミを先頭に、コンデの世話をしてくれたジル。ジルは最近は宿になくてはならない人材となっていて、ファルも随分世話になっていた。資金面でのバックアップをしてくれたルーシーと、色々細かい所で手伝ってくれたオーク達。そして今まで何度となく顔を合わせ、時々情報交換もした冒険者達。フリーダーと仲良くなったユッケ少年や、世話になった店の人達。エイミが声を掛けて、皆を集めてくれたのである。

「頑張ってきなさいよ。 少なくとも、無様な戦いであたしの顔に泥は塗らないでね」

いつもの調子でルーシーは言う。だがその憎まれ口には、少なからず温かい信頼が含まれている。ジルは無言でコンデのローブを手入れしていて、最後に埃を丁寧に払っていた。コンデはこの娘に尻を叩かれなければ、とても亡き妻の為に戦う事などで気はしなかっただろう。そしてコンデがいなかったら、ファル達は此処まで進めなかったに違いない。ユッケ少年は、正面から宿に来るようになってから、別にファルに拒まれなくなった。彼はフリーダーに向けて、もじもじと言った。

「その……僕が手伝えないのは心苦しいんだけど……だからその……頑張って」

「はい。 当機は今回も全力を尽くします」

微妙にかみ合わない会話であったが、フリーダーは別に少年を拒否していない。それを横目で見ながら、ファルは唯一の肉親にひとことだけ言った。

「行って来る」

「いってらっしゃい」

エイミからの返答も簡潔を極めた。目尻を拭って、エイミが笑顔で手を振る。ファルも頷き、生きて帰る事を誓う。エーリカに促され、皆歩き出す。

これは最後の戦いの出発点だ。湿っぽくてどうする。だがどうしてか、ファルは最近涙腺が緩くなったようだった。フリーダーもしきりに目尻を拭っている。宿は徐々に遠くなっていった。

迷宮前でも、見送りにはそれなりの人数が来てくれた。

以前何度か関わったエルフの幼い魔術師メラーニエは、ミリーと一緒に見送りに来てくれた。最近は五層で問題なく探索を行えているそうで、上級の冒険者チームから誘いが来る事も少なくないと言う。将来暮らすのに問題ない収入はもう得たとかで、幼い顔に不器用な笑みを浮かべて見せたので、ファルは思わず不機嫌モードになる所であった。上級の冒険者と言えば、ヨッペンも見送りに来てくれた。女の子の魔物が大好きな彼は、今までも情報に報酬をくれる上客の一人であった。彼は今回の探索でも何か良い情報が得られたら買うと言って、手を振って去っていった。イーリスも見送りに来てくれた。彼女は人目を気にして、却って目立つ黒フードで全身を覆って現れた。びくびくしながら、ファルに焙烙と、今までの研究成果をまとめた資料を渡すと、そそくさと逃げ去っていった。苦笑したファルは、素早く去っていくその後ろ姿に、心中で礼を言った。以前宿に取材に来たリディは、エーリカにインタビューした後、他の者達にも手慣れた様子で一言ずつ話を聞いていった。後は彼女による死亡記事が出されないように、頑張るだけである。

騎士団長ベルグラーノは、今までと多少印象が代わっていた。今までは良く言って若々しい、悪く言えば幼い雰囲気が彼にはあったのだが、もうそれは残っていない。熟成した大人の、凄みと強みだけがその顔にはあった。騎士団長は、わざわざ出迎えてくれて驚くファルに、頭を掻きながら言った。

「騎士団長」

「これから私は、魔女を倒した後と、君達が失敗した時のための準備に取りかかる。 一緒に戦う事が出来ないが、許して欲しい」

「いえ、至極まっとうな行動です。 迷宮内は私共にお任せ下さい」

「うむ。 無事に帰還することを祈って居るぞ」

ファルは頭を下げると、騎士団長と話したそうなエーリカに代わった。エーリカは声のトーンを一オクターブ上げると、妙にしとやかになって、笑顔など交えつつ騎士団長と色々話し始めた。少し時間が空きそうなので国光の手入れを始めたファルの耳に、騎士達の驚きの声が響いた。エーリカに次いでファルも慌てて頭を下げる。

「おお、陛下!」

「!」

「うむ、任務ご苦労」

陛下も、いや前陛下も、隣にゼル師匠を連れて見送りに来てくれたのだ。それが何よりファルには心強かった。宿をエイミに見送られながら出た時には雨足も強く不安も多少はあったが、それらによって綺麗に拭き去られていた。王は跪こうとする兵士達を制止すると、隣に控えて苦笑いしているゼルに視線をやり、言った。

「退位した余はもう英雄王ではなく、ただの一老戦士だ。 老戦士は老戦士に相応しく、己に出来る事をする必要がある。 ゼルはそのため借り受けるぞ、エーリカ」

「はっ!」

「うむ。 アウローラの事は汝に一任する。 混乱の元凶として斬り捨てるも、和解に最大の努力を計るも自由だ。 どちらにしても、余は最大限の事後サポートをしよう」

「ご厚意痛み入ります、英雄騎士オルトルード」

それはエーリカらしい、失礼でも過剰でもない適切な褒め言葉であった。騎士達を割って歩いてきたのは、ベルタンである。ベルタンはしばしロベルドと視線をかち合わせ、無言の火花を散らしていたが、やがてオルトルードに歩み寄って、敬礼しながら言った。

「お久しぶりです、陛下」

「その呼び方はよせ、ベルタン。 王という点で、いや、今や旧王という点で、貴公と余は同格の存在だろう」

「ふっ、最大優先順位が間違っているぞ。 俺と貴公は仲間という点で同志だろう」

「うむ、そうだな」

「……良かった。 心の鬼は綺麗にいなくなったようだな。 まだ仕事がある陛下に代わり、俺が最後まで君達の戦いを見届ける。 そして、これは戦友への贈答品だ」

ベルタンの言葉に応えるように、ドワーフの娘が大きな斧を持ってきて、ロベルドに手渡した。娘はどうもロベルドの好みの外見らしく、柄にもなく髭のないドワーフの戦士は視線を娘からそらしたりしつつ、大斧を受け取った。無言のまま斧を上から下から見ていたロベルドは、布を柄に巻きながら言った。

「……ドワーフの戦斧か」

「ああ。 俺が今のお前にやれる、最大の宝物だ」

ロベルドは鼻を鳴らし、今まで使っていた戦斧を代わりに父へ渡した。ベルタンは苦笑いしながら、息子のお下がりを受け取った。ドワーフの戦斧とは、ファルも聞いた事がある、最高峰の戦斧だ。刃には強力な魔法を掛けたミスリルを用い、柄はしなりと重量を考慮した最高の作りで、なおかつ滑りにくい。何度か素振りしていたロベルドは、ファルに小声で囁きかけた。

「すげえぜ、この斧。 マジで洒落にならねえ最高の斧だ。 あいつにしては気がきいてやがる」

「……そうか」

ファルが視線を戻すと、エーリカも何か貰っていたようだが、それは彼女の位置からは見えなかった。やがて、支援用に騎士団が用意した人材がぽつぽつ集まり始める。ファルだけではなく、この場にいる誰もが、これが決戦になると理解したのは間違いない。

「では、陛下、行って参ります」

「うむ。 何があったとしても、決して悪いようにはせぬ。 安心して戦い抜いてまいれ」

共に刃を振るった者同志の感応が、王の言葉に嘘がない事を、ファルに伝えていた。ファル達の背を、騎士団の喚声が後押しする。もう何度目か分からない、だが恐らく最後になるカルマンへの出陣が、こうして始まった。

 

ファル達の前を歩いているのは、騎士団の増援である。チームは二つ。一つのチームは、スケディムとの戦いで生き残ったオートマター達。残りのチームは、以前騎士団長が八層を攻略した際に組んでくれた者達を再編成した物であった。旧ドワーフ王ベルタン、侍アオイ、そして騎士リンシアを前衛に据え、後衛は魔術師ポポーと、それに驚くべき者達が加わっていた。一人はサンゴート騎士団のヴァイルである。ヴァイルはマジキム戦で愛剣を失ってしまい、今回は僧侶魔法を使っての後方支援がメインとなる。前は兎に角荒々しい印象ばかりを受ける娘であったが、今はどうしてか、随分と穏やかな印象であった。もう一人は、オリアーナ陛下を護衛していたメラーニエである。女王陛下が今回の任務の為に派遣してくれたのだと、入り口でゼルがファルへ教えてくれた。

流石にチーム三つが同時に入り込めば、気配も大きくなり、魔物も呼び込む。無数のコボルドとオークが隊の前後から現れ、戦闘が開始される。刀を抜こうとしたファルへ、騎士団長から預かり受けた聖騎士の剣を引き抜いたリンシアが言った。

「雑魚は我々で掃討します。 みなさんは体力の温存を考えてください」

「いざとなったら参戦するわよ?」

「ご心配なく」

飛んでくる矢を肘に付けた丸盾で防ぎながらリンシアはコボルドとの間合いを詰め、繰り出してくる槍を剛剣ではじき返し、返す刀で一息に切り伏せる。ベルタンもロベルドとの血縁を確信させる剛性の突進を見せ、立ち塞がる相手を纏めてねじ伏せ叩きのめす。アオイは村正を構えたまま中位置に立ち、飛んでくる矢を斬り払い、後衛に行かぬように守り続けていた。後衛はと言うと、隙を見て軽めの攻撃魔法を時々打ち込むだけである。援護が必要ないほどであった。強くなっているのはファル達だけではない。歴戦に次ぐ歴戦で鍛えられたリンシアは特に腕を上げているし、騎士団の者達だって迷宮が開かれる前と今では比較にならない実力を身につけている。最後のオークをリンシアが切り伏せる。死者どころか、負傷者も出ていなかった。敵の無力化を確認しながら、リンシアは油断無く声を張り上げた。

「後方! 被害はありませんか!?」

「被害アリマセン」

無機質なオートマターの声が響く。機械的と言っても良いし、無生物的と言っても近い。後方はオートマターの部隊に任せてある。一番危険がない中衛にファル達を据えて、体力の温存を図るのだ。実際、こういった行動は有り難い。毎度の攻略で、一番のネックになっているが、目的地まで如何にして体力を温存するかと言う事なのだ。例えば八層まで行くと、時間的にまるまる半日かかる。その間当然魔物との交戦は避けられない。実力差が開いていると言っても、彼らは実戦用の武器で武装し、人をゆうに殺せる攻撃魔法を備えた存在だ。油断すれば死ぬ。今回リンシア達が負傷者を出さなかったのだって、油断せず容赦なく相手を叩きのめしたからだ。まだ一層だからだと油断しているような連中は、ファル達の手助けをするには物足りなさ過ぎる。

何度も通ってきた一層だが、崖に渡された吊り橋など、危険な箇所は何カ所もある。殆ど無言で三つのチームは奥へと進み、疾風のように駆け抜ける。途中現れる魔物を切り伏せ、なぎ払い、二層へ入り込み、三層を通り、四層へ抜ける。五層でケンタウルスの群れを斬り払い、ワーウルフの集団を焼き払い、六層へ。空を舞うドラゴンの目に触れぬよう、今まで何度も駆け抜けた道を進む。今の実力と戦力でも、ドラゴンに空から襲撃されると面白くない。人間は、所詮どれほど強くなっても、その程度の脆弱な存在にすぎないのだ。グルヘイズに勝てたのは、情報を徹底的に調べ上げ、勝つ為の準備をきちんと積み上げたからの結果だ。無策のまま正面から挑んで空から襲い来るドラゴンに勝てるような人外は、ファルの仲間には存在しない。

無数の巨大建物群が立ち並ぶ六層は、クライヴの話を聞いた後改めて見ると、また不思議な空間であった。うごめくものの最後の一体アシラは、空間を切り取る能力を持っているという。それによってこの空間や、それに九層が創られたのだとする。其処までは不思議ではないが、そうなるとこの昼なのか夜なのかよく分からない空が気になってくる。今居るこの空間は何処なのだろうかと、知らなかった時には浮かび来なかった疑念が浮かんでくる。ドゥーハンの何処かなのだろうか。ベノアの何処かなのだろうか。或いは、もっと遠く離れた、未知の地なのであろうか。星も見えない空だから、星を用いて位置を知る事は出来ない。今はただ、分からないとしか言えないのが悔しい。

内臓蠢く七層は相変わらず気色が悪い。この肉がディアラント文明にて食用に作り出されたもののなれの果てだという事実を伝えると、何時来ても嫌そうにしているリンシアが、ますます青ざめた。

「気持ち悪いですね。 こんなものを食べるつもりだったのですか?」

「正確には、これを料理して食べるのだろう。 それに、下手物は美味である事が可能性がある。 舌がとろけるほどの味かも知れないぞ」

タイミングが悪かった。膨れていた壁の一部が、異臭をまき散らしながら縮んでいったからだ。真っ青になったリンシアは顔を背け、遠慮しておきますと言って先に歩き始めた。普段の冷静さからは考えられない線の細さだ。

「リンシアさん、かわいい。 ファルさんと違って、細かい所で女の子してるわねえ」

「それがどうした?」

「ううん。 別に何でもないわ」

女の子らしくする事が、それほど重要なのか。ファルがそれに対してそもそもの嫌悪感を持っている事を知るエーリカだから、静かに引いたのだと分かる。リンシアにとって幸いなのは、あの血の滝を抜けなくても良い事だ。前八層でヴァンパイアロードと戦った際、リンシアは後々までずっと機嫌が悪かったとファルは聞いている。それは不死者と戦ったと言う事よりも、あの血の滝を抜けるのが嫌だったのだと、ファルは知っている。何しろさっき、血の滝を抜けずに済むと言った時、リンシアはそれは嬉しそうだったからだ。ただ、あんな場所は、ファルだって出来れば通りたくない。

二部構造になっている八層へ入った頃、オートマターが二体減っていた。倒されたわけではないのだが、オートマターは攻撃魔法をほぼ受け付けないと同時に回復魔法をも受け付けず、こういった所の探索ではそれが大きなネックになる。四体になったオートマター達は、前衛後衛に二分し、再編成した。だが、彼らの献身的な戦いがあったからこそ、人間達は無傷かつ最短時間で此処まで来る事が出来たのだ。

八層以降になってくると、無音結界を張っていても気配を察するような魔物が彷徨いているし、ファル達といえどもうかうかできない。今までの探索で判明している最短距離を最短時間で進む。それでも魔物との交戦は避けられない。五度の戦闘を経て九層にたどり着いた時には、もうオートマターは皆地上へ戻した後であった。流石に疲労が濃くなってきた皆を見回し、エーリカは言った。アオイは遠くに見えるセントラルパンデモニウムの威容に興味津々の様子であったが、エーリカの言葉にすぐ視線を戻す。

「八層に戻って少し休んでから行く? この先の魔物は、正直洒落にならないわよ」

「いや、進もう。 俺達は引くという選択肢があるが、君達にそれはないだろう」

「……まだ十層への階段を見つけていないと言っても?」

ベルタンが凍り付いた。無理もない話である。今エーリカが吐いたのは、下手をすると九層全域を是から探索せねばならないと言う意味の言葉だ。そして八層の非常識な階層から見ても、九層に置いてもそれが常識的な位置にあるとは限らない。そして当然の事だが、先ほど六層の詰め所で休んだ際に、既に分かっている九層の構造は皆に伝達済みである。つまり、である。下手をすれば螺旋状に地下へ降り続ける回廊と、その左右にある扉を延々と調べ続けねばならないのである。最下層に階段があればまだ良いのだが、そんな都合のいい事態はそうそう望めない。ちなみにクライヴも、別れ際に階段の位置は教えないと明言していた。

「俺はそれでも行く」

「……」

「俺の息子が、これから最下層の地獄へ挑もうとしているんだ。 それなのに、親がその道を切り開く事が出来ないなんて、情けねえ話だ。 かってドワーフ一族を束ねていた男のすることじゃねえ。 だから俺は、絶対に最後まで進む」

白い顎髭が覆い被さった胸鎧を、ベルタンはどんと叩いた。その様は、確かに英雄オルトルード王の仲間であった。ロベルドは腕組みしたまま、父を見ようとはしない。だが鼻を鳴らす事も、舌打ちもしなかった。

「私も行きます」

続いたのはリンシアだった。彼女は先ほど蠢く肉壁に右往左往していた様子など微塵も見せずに、力強く言った。

「うごめくものを何体も撃破している実績を持つ貴方達を、決戦の地に送り届けるのが、私が頂いた任務です。 それに誇りあるドゥーハン騎士団が決戦の場所から憶測だけで逃げ出すなんて、あってはならない事です」

「私も同感。 というよりも、義父の顔に泥を塗りたくない。 それに……」

アオイも言う。彼女の手には最強の刀である村正が、獲物を求めて怪しく輝いていた。アオイはどうも普段の戦闘では力をセーブしている気がある。以前マクベイン戦で見せたような激しい行動を、その後何度かの戦いでは見せていない。それが何を意味するのか、薄々ファルは知っていた。

アオイは村正と共生関係にある。それは、強さを得ると同時に、どうしようもない副作用をも産むのだ。その副作用に勝てない者は狂鬼と化す。だがアオイはその闇を認め、一緒に住む事を選んだ。だから、こんな事を言った。

「九層の、それに出来れば十層の魔物を斬ってみたい。 欲求レベルでの話だけど、これは私の今の数少ない願い」

「ひゅう、恐ろしい姉ちゃんだぜ」

「他の者達は?」

「私は決まっているだわさ。 先生を殺したアウローラを破壊する為に、十層へ確実に貴方達を送り届ける。 私はそのためだけに、病院のベットから出てきたのだわさ」

目に深淵の闇を湛え、ポポーが言った。彼女の湛える闇の一端は、ファル達にも関係がある。だから決して頭ごなしにそれを否定は出来なかった。続いて口を開いたのは、小さなエルフの魔術師。以前ゼルと共に死神帝ウェブスターと戦ったエミーリアだ。

「女王陛下の為に、極めて成功率の低いミッションに進んで参加してくださった、貴方達を深層へ届けるのが私の任務よ。 絶対に届け抜いて見せるわ」

「私は、誇りを取り戻したい」

黒い鎧に身を包んだヴァイルが最後に言う。

「マジキムに木っ端微塵に砕かれた武人としての誇りを、せめて奴を倒した貴様達を助ける事によって僅かでも埋めたい。 だからこそ、今回の任務に参加した。 殺された部下達の恨みも、少しでも晴らしたい。 だからこそ、私は最後まで逃げない」

多少の不統一性はあった。だが、思考のベクトルは、間違いなく同一の方向を向いていた。十二人の勇士は頷きあうと、透明なチューブに包まれた移動式通路に飛び乗る。セントラルパンデモニウムが、嫌と言うほど確実に、皆へ近づいてきた。何処かで雷が鳴る。地鳴りのような音もする。

ここに来るのは三度目になるが、何時来ても恐るべき威圧感であった。クライヴの話によると、ディアラント文明時は魔神が正気を失わないように、内部の環境は魔界に近づけていたのだという。今ではその機構が失われてしまい、そればかりかアウローラの手によって上層からどんどん濃い障気が流れ込んでいて、内部環境は混沌の一文字にて表せるほどに乱れている。以前オルトルードと共に内部を駆け抜けた際、頑強な巨大カニをファルは目撃したが、あんなものではない。もっと様々な異形が今では巣くっていて、時々自室にも入り込んでくるのだとクライヴはぼやいていた。

移動式通路が終わった。もうエスカレーターがないと良いのだがと想いながら、ファルは心を落ち着かせ、周囲を見やる。取り合えず、入り口に敵影はない。無言のままリンシア達は前衛に展開した。

「エーリカさん、探索のプランは?」

「そうねえ。 まず九層の最下階に降りて、スケディム戦を行った広場から順番に調べていきましょう。 あそこが一番十層に降りる階段がある可能性が高いわ。 其処が駄目だったら、螺旋状に下がる通路を、下から順に調べていくしかないわね」

「やはりそれしかないか。 まずはあのエレベーターまで、一気に駆け抜けるしかないな」

「そうもいかせてもらえないようだな……」

ファルが構えを取り、素早く皆が前後に展開する。以前交戦した巨大カニが、群れながらもそもそと此方に歩き来ていた。連中は頑丈で、魔法も効きにくく、かなり手強い。真っ先に前に出たのは、今度はアオイである。それに続くようにしてベルタンが出、若干下がった状態をリンシアが維持する。

「一気に道を切り開く。 撤退戦に備えてくれ」

「確かにまともに相手にするには体力的に厳しい相手ね。 お願いするわ!」

「承知した」

別に叫ぶでもなく、吐き捨てるでもなく。吠え猛るような戦いは、アオイの中で、マクベイン戦を最後に消滅したのかも知れない。振るわれる村正。カニが巨大な鋏を上げてそれを防がんとするが、村正はあきれ果てた剣威で鋏の半ばまで食い込んだ。下がろうとするカニに、ベルタンが突撃し、チャージを掛けると、分厚い甲羅が鈍い音と共にめり込んだ。泡を吹きながらもがくカニから二人は素早く飛び退き離れる。アオイは村正を振り回して近づくカニを片っ端から斬り、ベルタンはやはりロベルドの父だと分かるパワープレイで敵を叩き屠っていく。更に二人の間に割って入ったリンシアが、カニの傷に精密な剣での一撃を叩き込む。カニの群に、三人が楔を打ち込んでいくのだ。カニは重量とパワーを武器にして戦っているが、村正と彼らの相性は悪すぎる。カニの分厚い甲羅は生半可な武器なら問題にしないが、いざそれを貫かれると中身は非常に脆い。アオイの村正はそれを貫く切れ味と、カニの天敵とも言える速さを併せ持つ、正に天敵と言って良い武具だった。アオイの行く所、カニはじりじり下がる。ベルタンがその穴をこじ開け、リンシアが固定していく。やがて、皆が通るに充分な穴が開く瞬間が到来した。

「走って!」

エーリカが叫び、ファル達を最後尾に、皆走り出す。本来後衛になる者達を中に庇い、紡錘陣形を取ってカニの群へと飛び込む。傷つきながらも、カニは必死に人間共をにがさんと包囲網を縮めるが、しかし今までの戦いでエーリカには彼らの弱点が既に見えていた。

「こいつらには斬撃より打撃よ! 魔法はフォースで、ベルタンさんかロベルドが砕いた場所を狙って! 一度内部に攻撃が通れば、後は致命傷まで素通りだわ!」

「おおっ! まかせとけっ!」

「後衛は出来るだけ敵に近づかないように逃げ回って! 挟まれたらお終いよ!」

そう言いながらも、エーリカは自らフレイルを振るい、傷ついたカニを容赦なく打ち据えていった。かなり良いフレイルらしく、先端部の鉄球は魔力の輝きを放っている。それにエーリカの卓絶した力量が加わり、フレイルは正に俗称通りの存在と化していた。この手の武器は血を大量にまき散らす事から、聖水スプリンクラーと俗に呼ばれるのだ。アオイが無言のまま、一番大きい群れのボスらしいカニを斬り伏せ、突破口を創る。そして今度は自らが最後尾になって、後衛を先へ進ませた。先頭に立ったのはリンシアで、ファルは敵中を抜けると、牽制を続けるアオイの隣に残った。それを見て、ヴェーラも足を止めて、その隣に残った。

「少し足止めしてから追うぞ」

「それが良さそうね」

「此奴ら、動きは鈍いが、一方向へ走るのは結構早いからな。 確かに足止めは必要だ」

人間より大きなカニ達が、傷ついたものも、そうではないものの、顎をがちがちならして迫ってくる。アオイはカニを見つめながら、静かに言う。

「目的の扉は覚えているの?」

「問題ない。 むしろ、ピットフィーンドが出てくる事の方が心配だ」

「此奴ら、あんまり斬りがいがない。 鋏を抜けると、中が柔らかすぎる」

村正を振ってカニの体液を振り落とすと、アオイは先頭切って突っ込んできたカニの鋏を飛び越え、頭上から脳天割りの一撃を叩き込む。叩き潰されると言うよりも、ねじ千切られたカニが、ずしんと凄い音を立てて地面に崩れ落ちる。そのアオイを狙って真横から鋏が飛んでくるが、これはヴェーラが真下に滑り込み、跳ね上げるようにして関節を抉った。下がるカニは捨て置いて、ファルは疾走、カニの一体を飛び越えながら刀を振るってその両目を斬り落とし、手裏剣を投げてもう一体の片方の目玉を潰した。エーリカは、抜ける際にハンドサインで言った。抜ける時は動きを封じろ、抜けた後は視界を封じろ。鋏を振り回すカニは、隣のカニの甲羅を激しく叩き付け、足の一本をもぎ千切る。素早くカニの群の中を飛び回りながら、目に着いたカニの視界を、或いは国光で、或いは手裏剣で、片っ端から潰していく。四体目のカニの目玉を潰した瞬間だった。ヴェーラの声が飛びついてきた。

「ファル!」

無言で飛びのき、金属音を背に転がり、跳ね起きる。振り向いた先では、絶妙のタイミングで振り下ろされた鋏と、それを防いでいるヴェーラの姿があった。

「やはり、どうしても攻撃を貰うと、思ってな! 火神アズマエルよ、我にこのカニを撃破する力を!」

ギリギリと下がりながら、ハルバードを盾に、ヴェーラがにじり下がる。猛烈な鋏の圧力からは、さしものヴェーラも逃れがたいのだろう。アオイも数体に追いすがられ、額から汗を飛ばしている。そろそろ限界だ。そもそも装甲が厚い相手はファルと相性が悪く、倒すにしても相当な苦労が必要となる。ファルは無言のまま、数度サイドステップし、ヴェーラを押さえている鋏の関節に斜め上からの蹴りを叩き込んだ。丁度てこの原理で関節部分に強烈な負荷が掛かり、関節から体液が吹きだし、カニが慌てて下がる。その際に、カニが振り回した鋏が、空中にいるファルを直撃した。空中にいる間は、どうしても重力と慣性と風には逆らえない。どうにか直撃の際に国光を盾にし、壁に叩き付けられる時に受け身を取れただけでも超人的な行動だ。しかし、ダメージは大きい。五メートル近く飛ばされたファルは、通路の壁に思い切り叩き付けられ、血を吐きながらずり落ちる。膝が笑うが、無理矢理黙らせる。口の端の血を拭きながら、ファルは叫んだ。

「引くぞ!」

「良し!」

ヴェーラもアオイも、隙を見て逃げてくる。ファルは懐から出した焙烙の印を喰いきり、蟹の群の前方に投げつけ煙幕にすると、びっこを引きながらヴェーラ達を追った。

 

合流してからも、苦しい戦いは続いた。回復魔法は勿論掛けたが、壁に叩き付けられたダメージは大きい。エーリカ達はマジックポーションで魔力の回復に務めていたが、かさばるそれは持って来られる量に限界がある。痛みを我慢しながら、ファルは戦わねばならなかった。ピットフィーンドはひっきりなしに現れ、強力な攻撃魔法や、異常な熟練度を誇る体技で攻め込んできた。ファルだってクリティカルヒットを決めなければ簡単には勝てない相手だ。他にも、カニもスレイプニルも群れを為して襲ってきたし、立ちはだかるレイバーロードは正に鉄壁であった。リンシア達も善戦していたが、それでも大損害は免れない。何とか九層の最下層にたどり着いた時には、もはやその疲弊は無視出来ぬ物となっていた。その幾らかはファル達が受ける被害だった事を考えれば、どれだけの助けを受けているのか、考えられないほどだ。チューブ状のエレベーターで、スケディムがいた場所まで降りる。その間、エレベーターの床にへたり込むようにして、特に支援組の後衛は休み込んでいた。

スケディムと戦った暗い広い場所は、改めて調べてみると奇妙な所であった。幸い周囲に魔物の気配は一切無い。あれだけ凄まじい破壊が振り回されたのだから無理もない話である。エレベーターの監視に回った後衛をガードする人員を何人か残すと、ファル達は周囲に散る。砕かれ散らばった黒い結晶が、空からうっすらと降り注ぐ光や、エミーリアやコンデが放ったロミルワに照らされて、きらきらと輝いている中、ファルは歩く。何の音もないこの空間は、正に押し殺した死の世界だ。

スケディムとの交戦の跡は広範囲に及んでおり、まともな形で残っている結晶は殆ど存在しない。踏むとじゃりじゃりと音がして細かく砕ける結晶の破片は、決してまんべんなく転がっているわけではない。スケディムが衝撃波を叩き込んでくれた場所や、火球を降らせてくれた場所を中心点として、ほとんど散らばっていない地点も少なくなかった。逆にそう言った場所は床が派手に砕けたり焦げたり、中には露骨に足跡が残っている場所もあった。

エレベーター近くに残ったエミーリア、コンデ、ポポーと、彼らの護衛のヴァイルを覗く八人は、それぞれ二人一組で周囲に散っている。ファルと組んだのはリンシアである。無口なファルに、リンシアは周囲を見回して積極的に話しかけてきてくれた。

「凄まじい戦闘痕ですね。 本当にこんな事が出来る相手を倒してしまうなんて」

「違うな。 陛下が準備をしてくれていたから、何とか戦えただけだ。 我ら六人だけでは、確実に負けていただろう。 今回だって、我々の盾になってくれたオートマター達が居なければ、此処までこの程度の消耗で辿り着けはしなかった。 我々は神でもなければ無敵でもない。 多少君達よりも戦闘能力が高いだけの人間だ」

「ご謙遜を。 それよりも、この広間、端は何処にあるのでしょうか」

「そういえば、建物の構造上、幾ら何でも此処は広すぎるな。 柱の一本くらいあってもおかしくはないと思うのだが……」

ロベルドでなくとも、それくらいの事は分かる。ロベルドは外に出ればいちいち建物について話してくれるし、新しい階層に来れば其処についてのコメントを必ず残してくれる。だからファルも、多少は昔より建物に詳しい。

振り返ると、ロミルワの光が八の字に飛んでいた。先ほど取り決めた合図だ。壁が見付かったという。リンシアに頼んで此方もロミルワを飛ばし、もう少し奥まで行ってみる合図をする。了承の答えが、すぐ返ってきた。

「知ってはいたが、流石だな。 魔術師魔法まで修得しているのか」

「簡単な物だけです。 攻撃魔法は一つも使えません」

「それでも充分だ。 魔法の才能がゼロの私に比べれば、ずっと立派だ」

「いえいえ、駄目ですよ、そんな。 私なんかおだてたって、何も出ません」

真っ赤になって頭を振るリンシア。普通の娘ならそれを見て笑うのだろうかなどと想いながら、ファルは一点に視線を固定した。天井に向け、細い筋が伸びている。遠くに見えてきた壁の事などは、もはや眼中にない。雑談が漏れるのは、周囲に魔物の気配がないのが明白だからだ。それでも、最小限の音量でだが。しかも、油断は微塵もない。

「リンシア殿は、どのようにして騎士団に入ったのだ?」

「私はスラムの出身で、たまたま戦闘のセンスがあって、陛下の貧民救済政策もあって、妹と一緒に軍に入れたんです」

「……」

「陛下のお陰で、随分に良い生活が出来てます。 妹は戦闘センスが足りなくて曹長止まりですけど、私はもしかすると副騎士団長になれるかも、なんて褒めて貰える事もあって、もう感無量です」

実際問題、リンシアは騎士団長を現在でも充分務められる力量の持ち主だ。騎士を百人連れてくれば、そのうちの九割九分までは勝てないだろう。ファルの見たところ、単純な戦闘センスだけならベルグラーノ騎士団長すらも凌いでいる。死闘に次ぐ死闘で、見る間に腕を上げているのがその良い証拠だ。その上シビアな考えもきちんと出来て、考え方もしっかりしている。ただ、少し甘い所があるのが、ファルには不安要素になっていた。それに戦いが基本的に好きではないようだから、平和な時代には案外早く腕を落としてしまうかも知れない。適正が若干足りないのだ。彼女はファルが一点に向け歩いているのに気付いて、声量を落とし、表情を引き締めて追ってきた。

「何か、見つけたのですか?」

「……嫌なものを見つけた。 出来れば見たくはなかったが、逃げるわけには行かない」

「?」

その細いものは、近づくに連れて徐々に正体が見えてきた。壁に添って斜めに天へと延びる、一本の何かだ。人が乗れるほどの太さで、斜め下から見上げると、何か指向的に動いているのが分かる。一番上は遠くて見えない。壁はゆっくり内側に湾曲し、ずっと続いている。要は現在のファル達は、大きな半円の中にいるわけだ。

リンシアが頷いて、発見せりの合図を送る。ファルはうんざり仕切った表情でそれを見つめ続けていた。九層入り口にあった擬きではなく、今度は本物だ。軽く貧血を覚えて、ファルは床にしゃがみ込んで頭を抱えていた。物凄く長い。何かの嫌がらせとしか思えない。

壁に添って、遙か高みまで伸び続けているのは。ファルがこの世で最も怖れる存在、唯一避けて通るもの、恐怖の具現。絶対に乗りたくない物にして、永遠の天敵。そう、即ちエスカレーターであった。

 

すぐに集まった皆は、エーリカの指示で二チームに別れる。最初にエスカレーターの乗ったのは、露払いのリンシアチームであった。彼女は物珍しげにエスカレーターを眺めていた。

「不思議ですね。 自分で動く階段ですか」

「エスカレーターと言うそうだ。 ディアラント文明時代には、少し大きな建物には普通に設置されていたのだという」

「? ファルーレストさん、顔が真っ青ですよ」

「あはははは、ファルってばよ、実はエス……ふぐおっ!」

無言のままファルが放った回し蹴りが、ロベルドを壁に叩き付けていた。大の字になって壁からずり落ちるロベルドを見ながら、リンシアは頬を掻きつつ言う。

「何かあったらすぐに連絡します。 何、私たちだって、何が出てきたって簡単にはやられはしません」

「おう。 気をつけていってきなよ」

何事もなかったかのように立ち上がって埃を払うロベルドを苦笑と困惑を混ぜた表情で見やると、リンシア達はエスカレーターに乗った。ヴァイルが最後までエスカレーターの乗るのを躊躇していたので、ロベルドは遠慮なく笑った。

上から合図が程なく来る。時間的には全く問題ない。その上、階段発見の合図も一緒に、である。勿論ファルはいやいやながら我慢して最後尾に乗り、エスカレーターを見ないように、ずっと壁を見ながら冷や汗を掻き続けていた。物凄く長い時間が経っても、まだまだエスカレーターが終わる気配はない。ファルにとっては、どんな拷問訓練よりも辛い一時であった。

やがて、エスカレーターは終わった。それは恐らく、エレベーターで下りていた距離から考えると、このドームの真ん中ほど。その真ん中ほどに、人二人通れるほどの通路が壁際水平に渡されており、エスカレーターは其処へ繋がっていた。精神力を使い果たし、自らの肩を抱いて座り込んでいるファルの背中を、心配そうにフリーダーがさする。唖然としてるリンシアに、エーリカが笑顔のまま言った。

「誰にも苦手な物はあるのよ。 ファルさんは、それがエスカレーターなだけ。 ちなみに彼女、男は嫌いだけど子供は大好きなのよ、此処だけの話」

「は、はあ。 なるほど」

「そういえば、騎士団長は何が苦手なの?」

「あ、はい。 そういえば甘い物が苦手だとか言っていました。 恥ずかしい話ですが、魔女がこの迷宮を創るまでは、騎士団でも下っ端でしたので、騎士団長の食事を見る機会はなくて断言は出来ないのですが」

「この戦いが終われば、いくらでも食事くらい同席出来るわよ。 地位持ちの上、騎士団長の代理として此処までこれる貴方なのだから、ね」

さらりと話題をすり替えると、エーリカは顎をしゃくって階段へ案内してくれるように促す。ファルはその厚意に感謝しながら、隊列を組み直して皆と一緒に歩き出した。十層までは間もない。出来るだけ精神を平衡状態に戻しておかねばならない。

階段の位置はすぐに分かった。ロミルワを消しても大丈夫だった。迷宮の中にもかかわらず、其処からは光が漏れ来ていたからである。周囲の壁に張り付いている黒い結晶とコントラストを為す白い光が、あふれ出すようにして広がっていた。

生唾を飲み込み皆に先んじて、ファルが最初に歩き出す。光は多量だが、まぶしいという程ではない。階段も確認出来るし、壁に走っている煉瓦状の亀裂もよく見える。トラップもない。しばし周囲を調べてから、ファルは皆を呼び込み、露払いの六人と一緒に歩き始めた。

エスカレーターを丸ごと降りているのではないかと思えるほど、階段は長かった。光はどうやら壁や床そのものから発せられているようで、下のフロアから放たれているのではないのが救いだ。最初はそれを懸念していたのだが、何とか最悪の予想は免れた。無言の侵攻の後、不意に道は開けた。ベルタンが生唾を飲み込む音が、ファルには良く聞こえた。

「上の五人を呼んで来る」

「あ、ああ」

「やだ……綺麗……」

両手で口を押さえ、リンシアが夢心地で言った。無理もない話である。

作りとしては二層に近い。洞窟の中と言った感じで、区切った通路はない。天井は高く、壁も広い。辺りには光が充ち満ち、そして驚くべき光景が広がっていた。壁も、床も、天井も。皆同じ素材で創られていたのだ。ポポーが腰をかがめ、触りながら言う。

「本物だわさ」

「なんて美しい迷宮……」

「……そうだな」

ファルも素直に美しいと思った。ベノアを騒がす希代の魔女アウローラが住むには、確かに相応しい場所であるかも知れない。

其処は、水晶で創られた迷宮であった。

 

4,魔女の元へ

 

異空より戻ってきたリズマンの勇者パーツヴァルは、悄然としていた。まさかアシラがあれほどの怪物であったとは。想像さえ出来ない事態であった。もう少し近づいたら即座に喰われていただろう。無言のまま腰を落とす彼に、オペレーターの一人が声を掛けてきた。

「パーツヴァル様」

「うん?」

「例の連中が到着しました。 魔物と交戦しながら此方に向かっています」

ついに来る時が来た。パーツヴァルは勢いよく鶏冠を揺らして立ち上がる。彼は武人であり、強きものには当然興味がある。アシラに感じた恐怖が、強者と戦う事による高揚に置き換わっていくのを実感しながら、パーツヴァルは舌なめずりした。方天画戟が喜んでいるのが、彼の手にも伝わってくる。おおそうか、お前も嬉しいか。そんな事を呟きつつ、パーツヴァルは言う。

「闇の炎の調整は終わっているな」

「はい。 先ほど最終試験が終わった模様です」

「ならば、もう何も不安要素はないな」

明らかにパーツヴァルは強がっている。もうアウローラが何をするつもりか知っているから、だ。無論最大限、可能な限り運命にはあらがうつもりで居る。だが長年戦いの中で生きていた勘が、それが無理だと告げていた。だから強がり楽しむ事で、無理矢理自分を納得させていた。

アウローラが歩いてきた。脇には錬金術師アインバーグを連れている。そして外からは、昨日アウローラが捕まえた(奴)が蠢き回る音が響来ていた。

「出るわよ」

「あくまで、力を試すだけだ」

「……」

アウローラの沈黙は、文字通り音がないにもかかわらず、何よりも雄弁であった。

 

多数の分岐点を一つ一つ潰しながら、奥へと進んでいく。丁寧にマッピングしながら、先へ進む可能性を探る。行き止まりに突き当たっては戻り、分岐点に当たっては進み、壁に添ってトラップを調べる。いつもながらの作業が行われ、ファル達は着実に進んだ。迷宮の材質が水晶だろうがミスリルだろうが関係ない。そうやって丁寧に調査し進む事によって、彼女らは生き残ってきたのである。

「しかし、本当に美しい迷宮だな。 火神アズマエルの宮殿として捧げたいほどだ」

「神さんもさぞ喜ぶだろうな。 ……これは、結論から言えば自然洞窟だ。 殆ど手が入った形跡はないぜ」

「いや、よく見ろ。 非常に細かいが、何カ所か削るようにして水晶を摂った後がある」

ロベルドの言葉に、ベルタンの指摘が重なる。ロベルドが噛みつくかとファルは思ったが、若き戦士は水晶の壁を撫でながら意外な反応を見せた。

「本当だ。 俺とした事が、見逃してやがったぜ。 でもこれは多分個人レベルの採集だな。 組織的に手が入ったわけじゃねえ」

「いや、お前は腕を上げたな。 今の見立ても、マスタークラスの職人並だ。 もう(不肖の)息子は卒業だ」

「ハン、今更何言ってやがる」

悪態にも敵意はない。ファルは少し安心した。

「ロベルド、他に何か気付く事はないか?」

「あん? そうだな、生物が行き交ってる跡が山ほどあるが、大きさも重さもまばらだな」

「それなら私も気付いた。 魔物の気配も、今までの比ではないな」

「やれやれ、こんな美しい迷宮だというのに、恐ろしいのう」

最小限の声量で、情報を交換したり愚痴を言い合ったりする。当初懸念されたロベルドとベルタンの確執も、今は昔の物語であった。二人が完全に溝を修復するまではまだまだ時間も掛かろうが、取り合えず現在の戦場で問題はない。皆はしずしずと進む。十層に入って暫くは敵影もなかったが、それもすぐに過去形となった。幾つかの通路を抜けた先、胃袋のように膨らんだ広間に出て、其処を抜けようとした瞬間の事である。

通路の前方を塞ぐようにして、ざわざわ、ざわざわと音がする。ゴキブリや小虫であれば問題ない(人によっては大問題だ)が、この階層でそんな無害な存在が群れを為しているわけがない。案の定、前方から現れたのは、世にも奇怪な生物だった。見かけは三層や四層に多数生息しているリザードフライによく似ている。似てはいるが、全身が灰色で、三周りも大きい。リザードフライは単体では人間の脅威になりそうにないが、このサイズだと子供くらいなら軽々と浚って頭からかじれそうだ。更に恐ろしいのは、連中の口からは青白い炎が漏れていて、其処に触れた物が白濁して崩れていると言う事である。ベルタンが顎髭を扱き、斧を構えなおしながら言った。

「あれは確かストーンフライ、だな。 一度深い遺跡の奥で見た事がある」

「確か古代の何処かの文明が生物兵器として創って、放置して自然繁殖してしまったというあれか?」

「おお、そうだ。 俺達もえらく手こずってな」

ファルの言葉に、ベルタンはじりじりと間合いを計りながら言った。冗談ではない。早速洒落にならない相手の登場であった。ストーンフライはリザードフライを品種改良した生物であり、単体では今のファル達には敵には成らないが、その特殊能力が厄介なのだ。連中が口から吐くブレスは、触れた物全てを石とかし、崩し滅ぼすのである。小型で敏捷で攻撃性が強いという事が厄介さを後押ししており、噂では魔神ですら姿を見たら接触を避けるという。何処かの愚かな古代文明が生物兵器として作ったものの、手に負えずに自らにとどめを刺す刃にしてしまったという曰く付きの存在で、繁殖力が低く闇を好み高音でないと卵を産まないと言う条件がなければ、人類は此奴らに駆逐されていたかも知れない。奴らの数はおよそ三十、いやらしくも道を塞ぐようにして飛び交っていた。奴らの勢力圏内に入れば、即座に襲いかかってくるだろう。しかも多角的に、だ。広間の出口は他にない。杖を構えて生唾を飲み込み、エミーリアが言う。

「大魔法で遠距離から吹き飛ばす?」

「俺は勧めない。 奴らは対魔無効化オーラを纏っていて、かなり強力な攻撃魔法でも簡単には倒せない。 逆に煙幕を使って一気に懐に飛び込まれる怖れもある」

「何とか避けては通れないかのう」

「相変わらずだな、コンデ爺さん。 えーかげんに腹くくれよ。 どうして実際に戦闘にならないと勇気が湧かないんだよ」

憎まれ口を叩くロベルドの表情にも余裕はない。石化という能力に加え、飛び交って多角的に攻撃して来るという点を考えると、このまま突破して犠牲を最小限に押さえるのは難しい。ましてや、ファル達はともかく、露払い組六人の疲弊はとても大きいのだ。コンデは臆病なようだが、いつも泥をかぶって慎重論を提示してくれてもいるのである。それを知っているファルは、事態を静かに見守っていた。が、嫌な気配を感じて振り向き、舌打ちする。

「どうやら、あまり考えている時間は無さそうだな」

後ろから、猛烈な威圧感が迫ってくる。水晶を踏みしめて近づき来るのは、毒々しい色の鱗で全身武装したパイロヒドラであった。更に、ストーンフライの背後から、ずしんずしんと足音がする。向こうに見えるのは、巨人族で最強と言われる、紫色の巨体を誇るポイズンジャイアントであった。体高こそさほどではないが、兎に角頑強な巨人で、ちょっとやそっとの攻撃魔法ではびくともしない。パワーも凄まじく、ファイヤージャイアントなら二体同時につり上げるという。更に血液には毒があり、それを浴びるだけでもかなり危険だとか。今までも大乱の時には時々姿を見せている魔物であり、知名度は高い。同時に、そのとんでもない危険度もだ。隊形をじりじりと変えながら、リンシアが言った。ファル達が巨人とストーンフライに、リンシア達がヒドラに、それぞれ向き直る。

「パイロヒドラは、我々で引き受けます」

「分かったわ。 ハエ共と、巨人は此方で引き受ける」

「生き残ったら、地上でまた会いましょう」

「ああ。 その時は、美味しい店でも教えてくれ。 私も、今後多少はそう言う事をしてみるつもりだ」

ファルは言い、前を飛び回っているストーンフライと、ポイズンジャイアントを見やる。かなりの難敵だが、何とか突破しないと先はない。後方からは、吠え猛るパイロヒドラの威容が、背中へ直に伝わり来ていた。どちらにしても、もう時間はない。エーリカの、いつも的確なハンドサインを確認すると、六人は一丸となって地を蹴った。

 

無言のままエーリカが印を組み上げる。コンデも同じく印を組み、二人の詠唱が完全に重なる。最近ファルも、詠唱のリズムを聴いて速射か魔法協力か判断出来るようになってきた。魔法協力の時と違い、わずかに、ほんのわずかにぶれがあるのだ。そのぶれは決して不快な物ではなく、心地よいリズムとしてのぶれなのだが、シンクロするような魔法協力とはわずかにだが決定的に違った。だがエーリカは魔法協力に似せて速射をする事も出来るらしく、何度も例外的な詠唱を耳にしている。何から何まで先の手を用意している、恐ろしい娘であった。六人は斜めに走りながら、ジャイアントとストーンフライへの間合いを詰め走る。ポイズンジャイアントは巨体を揺らして、鬱陶しそうにファル達を正面に据えるべく、体をずらす。ストーンフライはジャイアントに目もくれず、通るだけなら何もしないと言った風情である。奴が大きく息を吸い込み、毒に満ちたブレスを吐きださんとした瞬間、コンデが杖を構え、圧縮した魔力を炎に変え撃ちはなった。それは火の粉をまき散らしながら仰角に飛び、ストーンフライを一匹も落とさず、ジャイアントの顔面を直撃した。

「ぐうおおおおおっ!?」

魔法抵抗力が高いと言っても、火の固まりを顔面にぶつけられた事に違いはない。ジャイアントはブレスを周囲に吐き散らかしてしまい、呆然とした。当然の話で、それはストーンフライにとっては攻撃行動だったからである。一斉にストーンフライは興奮状態に陥り、ポイズンジャイアントに襲いかかった。そのままエーリカはクロスボウを取りだし、フリーダーもロベルドもそれに習う。唸りながら太い腕でポイズンジャイアントは次々にストーンフライを叩き落とし、ストーンフライはポイズンジャイアントに石化のブレスを吹き付ける。注意が完全にそれた隙を突き、次々に唸りを上げてクロスボウボルトが飛んで、ストーンフライを一匹また一匹と叩き落としていく。地面に落ちたストーンフライの一匹を、忌々しげにジャイアントの膨れた足が踏みつぶした。ファルは手裏剣を構え、ヴェーラと一緒に此方に飛んでくるストーンフライを警戒し続ける。

「向こうの戦況は?」

「此方を手助けする余裕はないようだな」

「打ち合わせ通り、物資を多少浪費しても、最小限の消耗で行くわよ!」

ファルが無言で手裏剣を投げ、一匹此方に飛んできた奴を叩き落とす。突進して一気に突破するのは、ストーンフライが全滅するか、魔力集約点を特定してからと決まっている。ファルは勿論その際に、ポイズンジャイアントにクリティカルヒットを叩き込まねばならない。待ちに徹しているのもそのためだ。無言のまま、ストーンフライを減らしていく仲間達の間で、ファルはジャイアントに視線を注ぎ続ける。ストーンフライは人間側の援護射撃もあり、見る間に数を減らしていく。その分ジャイアントの攻撃は苛烈になり、ファルが出なければならない時間も早く迫ってくる。やがて、最後のストーンフライが地面に叩き付けられ、踏みつぶされた。体の彼方此方を石にされたポイズンジャイアントが、唸りながらファルの方を見た。魔力集約点を特定出来たのは、その瞬間だった。

「コロス! ブッコロシテヤル!」

クリスタルの床を踏みならしながら、ジャイアントが迫ってきた。体の彼方此方を剥落させ、紫色の血をまき散らしながら。血色の足跡を残しながら。見上げた戦闘意欲であった。無言のまま全員が散開する。拳を固めたジャイアントが、雄叫びと共に、仰け反った。拳を放とうとした瞬間、右目に矢が突き刺さったからである。石化した顔面に刺さった矢は、硬くなった事で却って脆くなった体を砕き、より奥にまで突き刺さった。突撃したロベルドとヴェーラが、踏み込むと神業に近い技量で、石化している場所にWスラッシュを左右から決める。左から突撃したロベルドは脇腹に、右から突撃したヴェーラは肘に。崩れながらも、両手を上げて二人に打ち落とそうとしたジャイアントの大きな瞳にわざと映るよう、ファルが飛ぶ。そして彼女は、奴の膝を蹴って跳躍、飛び越えざまに頸動脈を切断していた。如何にパワーがすさまじくとも、此処まで同士討ちで疲弊していればひとたまりもない。ファルが紫色の血を国光から振り落とすのと、ジャイアントが無惨に倒れ伏すのは同時であった。

後方ではまだ戦いが続いている。炎を吐き散らしながら暴れ狂うパイロヒドラを、何とかリンシア達は押さえ、じりじりと押していた。敬礼すると、ファル達六人は走る。水晶のホールで響いている戦闘音は、見る間に遠ざかっていった。

水晶の宮殿の中、六人は走る。自らの姿を壁や床が映し、時々はっとさせられる。たまに転がっている死体はいずれもむさぼり食われており、大きさも大小様々であった。時々ドラゴンの死体さえ転がっている。立ちはだかる魔物共は、ドラゴンをも時には獲物にする連中なのだ。眩く輝く迷宮は、ファル達を幻惑し、そして恐るべき魔物と戦う姿を映し続ける。巨大なミミズがのたうち回り迫ってくる。エーリカが放った速射式フォースがその体を抉り、ロベルドが斧で一息に切り倒す。ファルが焙烙の印を喰いきり、もがくそれに投げつけ容赦なくとどめを刺す。煙を上げてまだ痙攣しているそれを飛び越え、一丸になって進む。すぐに新手が現れる。激しいが短い戦いの後、血の海に沈める。急いで道をマッピングしながら、ファルは舌打ちした。

「厄介な構造だ。 七層に近い」

一つ一つの通路が長く、しかも下手に明るい為、敵の襲撃をかわしにくい。しかも敵はどうみても肉体能力で人間を遙かに凌ぐものばかりだ。マッピングを終えた頃、後ろからまた魔物が現れる。先ほどのような大戦力ではないのが救いだが、それでも戦いで確実に皆は消耗していく。笛を手にした、軽快なステップを踏む魔神だ。クライヴの言う、正気を失っている部類にはいるようだから、魔界では下っ端に当たる輩だろう。呆れた話である。尋常ではないプレッシャーを放っていて、これで下っ端だというのだから。全身を一枚の布で作ったと思われるぴったりした服で覆った其奴は、重力を全く感じさせない。壁や天井を軽々とステップしながら、見る間に近づいてきた。反応出来たのはファルだけだった。

片一方が刃になっている笛が、異常な剣筋で飛んできて、抜刀したファルが慌てて受け止める。火花が散る。刃のすぐ先はコンデの頸動脈だった。腰を抜かすコンデを背に敵と均衡状態になるファルは、冷や汗が流れるのを感じていた。どうしてか論理的ではない異様な剣筋なのに、ファルが今まで見たどんな達人のそれよりも鋭かった。無言のまま掌底を腹に叩き込み、僅かに下がった所で顎を蹴り上げる。だがまるで手応えがない。魔神はけらけら笑いながら空中で数回転し、来た時同様ぴょんぴょんステップしながら逃げていった。逃げると言うよりも、仲間を呼びに行ったと考える方が打倒であろう。無言のまま全員で隊形を組み直し、奥へと走る。あんな奴が複数でて来たら対処出来るか分からない。通路の奥へ、兎に角走る。やがて、唐突に通路が開けた。

巨大な鯨の口。それがその場に相応しい表現であった。比較的天井の低い広間が、ずっと遠くまで続いている。鍾乳石のような、或いはつららのようなクリスタルが天井からぶら下がり、奥の方は僅かに上り坂になっているようだ。ロベルドが額の汗を拭い、吐き捨てた。

「畜生、ファル、全体像ぐらいは掴めたか?」

「皆目見当が付かないな。 此処が地下六層ほどの広さを持っていればお終いだな」

無論一度撤退して来直すという手はある。しかし、エーリカはさっき、詰め所でイーリスの報告書に目を通しながら言ったのだ。そして今、その台詞を再現した。

「今回で正真正銘最後にするわよ。 どうやら、時間が無さそうだわ」

歩き出した皆もエーリカの言葉が何を意味するのかは薄々気付いているようだった。恐らく、最後のうごめくものがまもなく現れるのだ。何かしらの連続性を資料からかぎ取ったのか、或いは状況証拠をつなげた結果の推論か、それは分からない。しかしエーリカに信頼感はある。彼女は今まで決死の作戦を何度も行ってきたが、理不尽な命令は一度として下した事がない。厳しい戦いに意図的にしていた節はあるが、それも戦力強化を図っての事だ。

水晶の坂というのも奇妙だが、滑らないように気をつけて一歩一歩登る。坂の再頂点に着いた頃には、ファル以外の五人もそれを視認する事には成功していた。坂の上は明らかに手が入った跡があり、床は平らに慣らされ、その上に幾つか奇怪な物が並んでいた。六層以降、嫌と言うほど見てきたディアラント文明所産の機械。不思議なのは、その上に妙な物が浮かんでいる事である。手を伸ばしてみると、透けて通り抜けてしまう。

「フリーダー、これは何か分かるか?」

「kkllsdfghfhlasdkefohfiwehfです。 現在の言葉に直すと、立体象という所です。 実体がない、立体の絵だと考えてください」

「ふむ……で、此奴らは……」

「こっちがアンテロセサセウ、ヴェフォックス、スケディム。 ……クライヴの言葉にあった、ディアラント文明滅亡までに撃破されていないうごめくものの姿だわ。 アンテロセサセウは大勢倒されていると言っていたけど、あれは確か量産型という話も聞いているし、個体個体としてはともかく、存在としてはどうなんでしょうね。 ……アシラは無いようだけど」

なるほど、言われてみれば。ファルは納得して映像の数々を見た。体を丸めてはいるが、話に聞く、或いは直に見たうごめくものの姿が其処にあった。しかし、何故体を丸めているのだろう。まるで眠りに入る動物のような姿だ。それに対してファルが疑問を呈そうとした瞬間、鈴を鳴らすような美しい声が場に響いた。

「うふふふふ、ついに此処まで来る事が出来たのね。 嬉しいわ」

「アウローラ!」

かつん、かつんと足音を響かせて、迷宮の奥からアウローラが現れる。全身から焼け付くような強烈な魔力を放つ彼女の後ろには三つの影。一人は以前見たリズマンの戦士だ。方天画戟を持ち、全く隙のない動作でゆっくり歩いてくる。その動きには貫禄を越えた、一種の威厳が備わっていた。ファルは強くなった、だからこそに分かる。このリズマンは勇者と呼ぶに相応しい存在だと。ユグルタ最強の冒険者二人を捻り潰したのも、無理はない事だったのである。そして、彼らの後ろから、悪寒に似た圧迫感が迫ってくる。がさがさという無数の足音。それに混じって、かたかたという何かがぶつかり合う音がする。姿をゆっくり見せたそれは、あまりにも異形であった。

一言でそれを説明すると、骸骨でくみ上げられた百足と言った所である。頭部は巨人の物よりも大きそうな髑髏で、その少し下には鎌状になった四本の腕が。そして全身には、高位の魔神を思わせる強烈な魔力を纏っていた。この奇怪で特徴的な外見は、ファルも聞き覚えがある。

「サイデルか……!」

「サイデルじゃな。 伝承のものよりも、一回り大きいようだ。 気をつけい!」

サイデル。殆ど伝説的な魔物で、魔界の住人なのか人間世界の魔物なのか、或いは魔神なのか生者なのか、いずれも全く分かっていない。判明しているのは、その巨大な鎌が凄まじい切れ味を持っていて、生半可な腕では近づいた瞬間に真っ二つにされる事。そしてメガデスを始めとする高位の攻撃魔法をいとも簡単に使いこなしてみせる事、等である。巨体もそうだが、接近戦も魔法戦もそつなくこなす、難敵中の難敵である。人間が倒したという例は、ほんの二三件しか報告されておらず、昔話でも最強の魔物として良く引き合いに出される。

そのサイデルは、滑るようにクリスタルの床を這い進みながら、アウローラの前になめらかに出てきた。骨が組み合わさったような姿をしているのに、驚くほど音が出ない。戦うつもりだ。一気に皆の顔に緊張がみなぎる。事前にアウローラと戦う際の打ち合わせは幾つかしてきたが、アウローラの護衛にこれほどの強敵が出てくるとは、ファルも予想していなかった。

「サイデルは知っているわね」

「無論だ」

「うふふふふふ、面白い事教えてあげる。 このサイデルって、人間世界で発生した魔物で、歴とした生き物なのよ。 餌は主に植物で、骨のように見えるのは外骨格。 強力な魔法は、彼らが長く生きるうちに、自衛手段で身につけるのよ。 ただね、性質はとても凶暴よ。 竜や魔神とは違って、彼らは年を取れば取るほど凶暴になっていくの。 ふふふ、おかしいわよね」

アウローラはとても楽しそうだった。幼い少女のような純粋さだ。一瞬ファルはプレッシャーを与える為の手の一つかと考えたが、どうも様子がおかしい。アウローラはひょっとして、単純にサイデルの説明を楽しんでいるのではないか。そんな風に感じる。だが純粋なだけではなく、底知れない老獪さも感じる。サイデルはアウローラの攻撃命令を待っているようで、かたかたと歯を鳴らして威嚇しつつも、此方の間合いに入ってくるような事はない。一歩前に出たのは、エーリカであった。

「アウローラ、まともに話すのは初めてね。 愚僧はエーリカ=フローレス。 このチームのリーダーをしているわ」

「うふふ、貴方がエーリカね。 オルトルードにも劣らぬ能力、此処まで来るのを楽しみに待っていたわ」

「ありがとう、嬉しいわ。 早速だけど、もう戦いはやめましょう」

大胆な発言である。しかしエーリカにも、アウローラにも、余裕が充ち満ちていた。どちらも理解しているのだ。このやりとりでは、激発には至らないと。

「うふふふ、どうして?」

「うごめくものなら、愚僧達が倒す。 その前に、無駄な消耗はしたくないの」

「消耗だったら回復してあげるわ。 私には部下も大勢居るし、この階層に安全地帯も食料もため込んである。 そんな事よりも、私くらい倒せない者達では、アシラに勝てる望みは微塵もない。 その事実の方が重要よ」

「アシラが手強い相手だというのは、クライヴ氏の話からも見当が付いているわ。 なら、なおさらの事、共同戦線を張った方が勝率は上がるのではないかしら?」

エーリカの言葉には強制するような響もないし、ましてや揶揄するような調子もない。非常に話は理性的に進んでいた。だがファルは、ぴりぴりした空気の存在も敏感に感じ取っていた。エーリカは知っている。アウローラが説得できないことを。アウローラもまた知っている。何を言われようと、自らが引くつもりが無い事を。愚かな戦いだが、七千年の因果が絡んだ戦いだ。数十年しか生きていない人間が、それを安易に否定する権利は、恐らく無い。

「勝率は上がらないわ。 その程度の事では」

「……それほどまでに強いのなら、愚僧にも手に負えるか分からないわよ」

「七千年間、ありとあらゆる想定から、何十度も戦闘を試みた。 結論から言えば、私を越える存在が戦いを挑んでも、奴を倒す事は不可能よ。 しかし私は、奴を滅ぼす手段を開発する事に成功した。 そしてそれは、私にはどうしても扱えないの」

「……それを使って、奴を倒せと?」

アウローラは無言で頷く。エーリカは頬を掻いていたが、静かに息を吐き出した。

「分かったわ。 その話は、貴方を叩きのめしてからゆっくり聞く事にする。 貴方なり、貴方の部下なりにね」

「分かればよろしい」

「……ただ一つ約束しなさい。 もし愚僧達が貴方を殺さず勝ったのなら、命を大事にして欲しい」

「そんな選択肢はないわ。 それに……まさか私に対して手加減出来るとでも思っているの?」

アウローラの眉が跳ね上がる。もう皆の戦闘準備は済んでいるが、それでも雷のような緊張がファルの脳髄を走り抜けた。始まる。七千年生きた魔女と、その配下達との死闘が。刹那の油断が壊滅に繋がる、極限の戦闘が。エーリカは全く臆さず、口の端をつり上げる。ファルも恐怖は感じない。だが、何年ぶりかに。武者震いを覚えていた。

「仮定の問題よ。 勿論、端から殺すつもりで行くわ」

「うふふふふ、嬉しいわ。 やっと……終わりに出来るのだから」

ゆっくりと両手を広げたアウローラが、水平にそれをさしのべ、頭上へと持ち上げる。柔らかく頭上で何かを掴むような動作。それが戦いの始まりを意味するものだと、ファルが気付くのと、それが飛ぶのは同時。

アウローラの掌の間に収束した光が炸裂する寸前、フリーダーが放った矢が躍りかかる。矢の軌跡はまっすぐ魔女の胸へ。魔女はふっと手を振り、矢を胸に突き刺さる寸前で跳ね飛ばした。無論魔法は未発動だ。打ち合わせ通りである。

サイデルが蛇行しながら、一気に間合いを詰めてくる。その体を最大限に生かす、最高速を出せる動きだ。砂漠に住むガラガラヘビのような敏捷性で、奴は迫ってくる。その前に立ちはだかるのはヴェーラである。そして、ゆっくり、徐々に歩調を早めてくるリズマンの勇者の前には、ドワーフの斧を構えたロベルドが立ち塞がった。既に予定通りだ。敵の前衛は、この二人で押さえ込む。十体でも、二十体でも、三十体であろうとも。押さえればそれで良い。コンデはそのサポートだ。そして、エーリカとフリーダーは隙を見ながら、アウローラの魔法発動を阻害する。基本的に矢の装填が早いフリーダーをメインに、エーリカは他の敵後衛を牽制しつつサポートに当たる。そして、ファルは。

「……!」

「よそ見しているんじゃねえっ!」

最初に気付いたのはリズマンの勇者。だが伺う隙を、ロベルドは与えない。ユグルタ最強の冒険者がふたりがかりでも勝てなかった相手を、彼は一人で押さえ込んでいた。もうファルは、誰の視界の中にも居ない。今の一撃、矢がアウローラを襲った瞬間。皆の視線が其方に向いた瞬間。サイデルの巨体を盾代わりにして、横に飛んだのである。気配は消し、とっくの昔に割り出していた奇襲に最適な地点に隠れ込んでいる。後は隙を見ながら味方の援護をし、そして最終的には魔女に致命傷を浴びせるだけだ。既に交戦状態になっている現在、味方と視線を交わす事も望ましくない。時々エーリカが出すハンドサインを待ち、柔軟に戦いを行うしかない。

この戦いの至上命題は各個撃破であり、最上の優先度を有する課題はアウローラの撃破だ。今見せたような、超高速の詠唱と、人間の域を超えている魔力からもたらされるとんでもない攻撃魔法を封じなければ、此方に勝ち目はない。三層で、アウローラが冒険者に刃を向け、結果部屋ごと吹っ飛んだ。その惨禍を、ファルは今でも目に焼き付けている。今のファル達は高度な装備を身につけている。魔法防御力にしても、物理防御力にしても、強力な魔力付与によって並の鎧とは比較にも成らない性能だ。だがそれにしても、アウローラが放つ魔法は荷が重い。特にコンデ当たりがまともに喰らえば、死とは行かなくとも一撃で戦闘不能に陥るだろう。奴に魔法を撃たせたら負ける。だから撃たせず、接近戦に持ち込んで撃破する。押さえ込むのはフリーダーとエーリカの仕事。そして、一撃必殺の攻撃を叩き込むのはファルの仕事だ。ファルの手の中で、音無く鯉口を切った国光が、敵の白い肌を切り裂く瞬間を、今か今かと待ち続けていた。

 

5,迫り来る闇の女王

 

遠くから激しい戦闘音が響き来る。アウローラの研究室に残った非戦闘員達は、不安に満ちた顔で、話し合っていた。

「アウローラ様、生きて戻ってくれるかなあ」

「難しいな。 あのお方は、死に場所を探していた節がある。 それに……」

「勝っても負けても、もう何もする事はない、か」

奥に置いてある闇の炎が、ちらちらと光を放っていた。あれを叩き込んでしまえば、もうアウローラの役割は終わりだ。研究員達はそれを知っている。失敗したら、研究資料を持ってもう一度闇の炎を作り出し、次のチャンスを待つしかない。アウローラは七千年待った。次は一万年か、二万年か。

研究所内に設置されているモニターには、死闘の様子が映し出されている。パーツヴァル相手に、五分の駆け引きを行うドワーフの戦士。サイデルの猛攻を受け流しながら、装甲の隙間に一撃を叩き込んでいる褐色肌の人間の騎士。アウローラに呪文を唱える隙を与えず、アインバーグにも隙を見せない後衛の二人。詠唱を続け、的確に味方を支援し続ける老魔術師。最初にはもう一人敵に人員が居たが、それは姿が確認出来ない。

「逃げたのかな」

「いや、それはないだろう。 奇襲をするチャンスを伺っていやがるんだろうよ」

「アウローラ様を殺さないでくれると良いな……」

「でも、アウローラ様は、生き続ける事を望んでいない。 数千年の孤独の辛さ、きっと誰にもわからねえさ」

皆、またモニターに戻ろうとする。その時であった、警告音が鳴り響いたのは。年かさの研究員が、振り返って苛立ちをぶつけた。

「何だ?」

「アシラが、第二段階に入ろうとしています」

「! 何だと、それはどういう事だ! 早すぎる!」

「わ、分かりません! ただ、このままだと後二十三時間ほどで、採集形態になります!」

最終形態ではない。採集形態だ。その言葉の恐ろしさを嫌と言うほど知っている研究員達は、等しく青ざめていた。残り二十三時間。ということは、どうにか手に負えると算出されている第三段階を、八時間ほどで超えてしまう。そうしたら、もう奴を倒すどころではない。(魔孔)は閉じてしまうし、アシラの能力は人間の想像を遙かに超える。お終いだ。ベノア大陸は灰燼に帰す。

「何てこった、どうしてこんな事に!」

「戦いを止めさせろ! 協力して事に当たって貰うしかない!」

「その判断はアウローラ様がする事だろう! ……あのお方は、俺達の言う事など、聞きはしない」

しばしの無言が場に満ちる。アウローラは言った。何が起ころうと、戦いに介入するなと。介入したら殺すと。戦いはすぐ終わる。だから、その後に言えと。

「準備だけは、しておこう。 いざというときは、この迷宮を外界から切り離す。 多分一時しのぎにしか成らないだろうが」

研究員達の長は静かに言った。皆モニターの前から離れ、慌てて仕事に取りかかる。出来る事は少ない。だが誰も、諦めようと言う者はいなかった。

 

(続)