異界の神殿

 

序、リシュルエール沃野決戦前夜

 

オルトルード王は、対外的には現在病の床に伏しているという事になっており、事実謁見の間に現れる彼はやつれ果て、日々衰えているように見える。だが是はどうしたことであろうか。王宮の中庭において、王が身の丈以上もある剛剣を振るっている。しかも若者のような精悍さで、熟練者のような精密さで、老人のような老獪さで、である。案山子は次々と斬り倒され、砕けては地面に飛んでいく。それを見守っているのは、ライムと彼女の部下数名、それに近衛兵の中でも忠誠心を評価された数名のみ。踏み込みは鋭く、切り返しは鮮やかで、息づかいに乱れはない。健康体だったとしても、すでに老境に片足を突っこみかけているはずの王のこの動きを見たら、殆どの者が唖然として口を開けっぱなしにするだろう。事実、ライムもそうだった。

王が顎をしゃくり、更に案山子が運ばれてきた。今度は木の芯ではなく、鉄の芯を入れて、しかも鎧を着せたものだ。王はゆっくり剣先を降ろし、腰を下ろし、肩の高さで地面と水平にする。その眼光は鷹の如し。視線の矢が、鎧の中枢を打ち抜く。皆が瞬きしたその後に、場に巨大な変化が訪れていた。案山子が一つ、輪切りになって転がっていたのである。

「す、凄い……」

「他言無用にな」

「は、はいっ!」

思わず感嘆を漏らしたライムに、王がぴしゃりと言った。

「これでも、戦役の頃に比べるとだいぶ衰えた。 しかし、全盛期でもあのカールには勝てなかっただろう。 己の衰えが呪わしい。 実力の不足が嘆かわしい」

「……」

「幸い、余がさび付き朽ちる前に。 余が求めていた者達が育った。 後は老体が、未来への道となり、全てを切り開くだけだ」

タオルで汗を拭きながら、衰えなどまるで感じられぬしっかりした足取りで、王は自室へ歩いていく。生唾を飲み込んで、ライムはその後ろ姿を見送るばかりであった。

「あの人、やはり英雄なんだ」

部下の前で、ファルと双翼を為す忍者の新星は、無意識のうちに呟いていた。

バンクォー戦役について知らないベノアの民は居ない。それはサンゴート王カールが起こした大陸レベルの動乱であり、その過程で多くの人命を奪った忌むべき時代。一つの時代と言っても良いそれが集結した時、ドゥーハン新王オルトルードの治世による、新しい平和が訪れていた。

確かにバンクォー戦役は地獄の動乱であった。だがその前の世界が平和だったわけではない。腐敗が進んだ各国は失政を繰り返し、特に旧ドゥーハン王家の凄まじい堕落ぶりは周辺各国に知れ渡り、民衆は塗炭の苦しみの中にいた。英雄の登場が嘱望されたのは当然のことであり、王家の排除もまたしかり。戦後オルトルード王の改革が最小限の抵抗でスムーズに進んだのも、暗黒の時代を民衆が覚えており、旧王家を見放していたという点も大きいのである。何時の時代も、滅ぼされても文句が言えない王家というものは存在する。旧ドゥーハン王家は、その見本のような存在であった。

悪逆な王家を滅ぼした聖王オルトルード。輝ける彼を知らない者はベノアの何処にも居ないが、一方で彼の半生は、意外と知られていない。傭兵をしていた事のみが知られ、何処で産まれ、何処で育ち、何処で剣の技をはぐくんだかは、誰も知らないのである。実は肉親であるオリアーナ王女ですら、父の幼少時の事情は知らない。風説や定説はあるのだが、それらの真偽を問われても、王は寂しく微笑むばかりであった。

彼の父も母も既に生きてはいない。彼の故郷の村も、すでにない。跡継ぎとしてのオリアーナの力量はまだ未知数だが、それでも国が瓦解しないようシステムはきっちり整え、不安要素も可能な限り排除した。後残る仕事は一つのみ。オルトルードの心は、針のような鋭い集中と共に、それにむけ飛んでいたのである。

 

オルトルードはドゥーハンの片田舎に生を受けた。彼に名字はない。それが必要ないほどの田舎で産まれたのだ。木こりの父と狩人の母の間に産まれ、体格と度胸に恵まれた彼は、必然的に力を武器にして人生を切り開いていく道を選んだ。そしてそれに最適だったのが傭兵であった。若い彼はひたすらに剣を振るい、戦場で血を浴び、酒場で安酒をかっくらい、貴重な人生を殺伐とした世界で浪費した。是からも分かるように、若き日の彼は決して英雄ではなく、何処にでもいる刹那的な青年だったのである。そしてたまたま彼には、周囲にはない、天賦の才が備わっていたのだ。

現在よりも遙かに紛争の種が多く転がっていた当時、冒険者と傭兵の間に横たわる垣根は、幼児がまたげるほどに低かった。元々冒険者には盗掘を行う者も多くいるし、盗賊行為を働く者も少なくないと言った、ダーティな側面がつきまとっている。これは結局彼らが暴力を金銭に換えて生活している者達だという現実が大きく関わっている。暴力と理性は並び立つのが非常に難しいものであるし、力を得て道徳を踏みにじりたくなる人間は少なくないのである。実際問題、警察機構は法という力によって道徳を遵守させる為にあるのであり、どのような形であれ是がなければ国家も社会も成立しない。ただでさえ人間はそう言う生物であり、それが力を得たらどうなるかは正に自明の理。一般の人間が冒険者に抱く偏見は、現実とそう離れていない、真実に極めて近しいものなのだ。まして戦乱の世である。オルトルードは傭兵と冒険者の間を行ったり来たりしながら、ある時は戦場で人を殺し、ある時は古代文明の遺跡に潜って魔物を切り伏せた。才能と経験が融合した結果当然のように優れた実力が産まれ、二十歳を過ぎた頃には彼は既に名声を築き、傭兵達に入れば隊長格を任され、冒険者となれば確実にリーダーを務めた。彼は個人の戦士としても優れていたが、同等以上に指揮官としても優れていた。そしてその素質を、誰よりも豊富な実戦経験が伸ばしていったのである。彼は戦いの名人であったし、理性を吹き飛ばして刹那の衝動に従い、武器を敵に叩き付けるのも嫌いではなかった。しかし味方に対する思いやりは本物で、特に弱者に手を掛けることはなかった。この辺りの行動が、義によって結びついた仲間を作り出し、彼の出世街道を手助けすることとなる。彼は貧乏人であったから、金の価値を知っていた。貧しい生活も知っていた。だからこそ、比較的大多数の気持ちも容易に理解することが出来た。後の世で、オルトルードが貴族の出身であれば、バンクォー戦役は起こらなかったのではないか等という議論も発生したが、それは机上の空論である。オルトルードは貧しい環境から這い上がり、故に力を手にすることが出来た人間であった。この辺りはファルと事情を同じくしている。温室育ちの可憐な花よりも、牛に踏まれ馬に噛まれそれでも立ち上がってきた雑草の方が強いに決まっているのだ。

二十代半ばになった頃から、彼は軍に正式編成された。それに伴い、百人単位の人間を指揮する事が多くなってきた。その結果、今までのやり方では通用しなくなってきていた。読み書きは出来るようになっていたし、彼方此方歩き回った結果豊富な知識を得てもいたが、それだけではまだまだ足りなかったのだ。多数の軍を指揮するには、才能だけでは駄目だった。人心掌握については、オルトルードは天性の才能を持っていたが、それのみでは軍団レベルでの戦闘には勝てなかった。敗戦の悲しみを知りへこむ彼に助言を与えたのが、彼の才を認めたウェズベルであった。若い才能を見たウェズベルは、渋る彼に半ば強引に様々な軍学書を与えた。そしてそれは、オルトルードにとって正に天恵となった。豊富な経験に理論が重なった結果、大陸屈指の名将が誕生したのである。それ以降のオルトルードは、戦に出れば百戦百勝、時に七倍の敵を寡兵にて撃滅し、六度に渡って勲章を受けた。後に大陸一という勇名を馳せるシムゾン隊も、オルトルードが戦場を駆け回っていた時代には、そこら辺に転がる一部隊に過ぎなかったのである。貪るように書物を読み、若き日の経験を練り合わせていくオルトルードは、何時しか不敗の名将となっていた。彼は頼もしい仲間達に支えられ、優秀な部下達に背中を任せ、戦場を駆け回り、自らの権限を拡大していった。若き日の仲間達の中には、あのドワーフ王ベルタンもいる。早くから部下にした者の中には、あのゼルもいた。オルトルードは身分や出身に関係なく優秀な人材を幕下に集め、地固めに余念がなかった。野心に駆られたからではない。まだ若い彼は、ただ単純に自分が学び身につけたものを試したかったのだ。

そして、バンクォー戦役が勃発した。

凄まじいまでの功績にもかかわらず、それまでのオルトルードは中堅以下の将軍に甘んじていた。しかし本格的なサンゴートの侵攻が開始され、前線が各地で突破され、ドゥーハン軍が劣勢に立たされると、事情は変わり始めた。精鋭を率いて各地でサンゴート軍を振り回し始めたオルトルードを、軍上層部も無視出来なくなってきたのだ。カール王の振り回す狂剣によって、高級士官が次々に討ち取られたという事情もあった。オルトルードの地位は鰻登りに上がり行き、やがてドゥーハン軍の実質上最高司令官となる。そして彼は、劣勢に立っていたドゥーハン軍を立て直し、猛反撃を開始するのである。

オルトルードが匠だったのは、戦だけではない。彼はサンゴートの凶行にうんざりしていた周辺各国を裏側から次々と味方に引き入れ、各地でゲリラ戦を展開したのである。ゲリラ戦で最も激しい活躍をしたのはランゴバルド枢機卿だが、オルトルードも正規兵を自ら率いてゲリラ戦を行い、各地でサンゴート軍の拠点や補給基地を潰して回った。軍本隊は狭隘なユッツアールツ山脈に配置、サンゴート軍の侵攻に対して万全な態勢を整えさせ、守りに徹して相手の目を引きつけることに終始した。この近辺はベルタン王や彼の部下達が協力して行い、カール王がドゥーハン王都を目前に歯がみする間に、見る間にサンゴート軍は足下から切り崩されていった。各地で味方を失い、補給路を断たれたサンゴート軍はついに撤退を開始し、その背を追ってドゥーハン軍は莫大な戦果を上げた。兵の半ばを失い、追いつめられたカールは敗残の兵を全て招集し、決戦を行うべく準備を整えた。それを追うオルトルードの耳に、嫌な情報が飛び込み来たのは、その直後のことであった。ドゥーハン王家に、不穏な動きあり、である。そして彼がそれに対処する前に、悲劇が起こった。出撃した王は部下共々、それどころか迎撃に出たサンゴート軍共々行方不明になったのである。戦いの場となった森は全面荒れ地となり果て、其処此処に戦いの跡が残っていた。そして不可思議な事に、兵士の姿どころか鎧一つ発見出来なかった。地面も何かに抉られたように砕けており、調査に出た兵士達は何が起こったか分からないと、激高する上官達に報告するしかなかった。だが、彼らは命を救われる。夕刻、たった一人で、オルトルードが自陣に帰還したからである。

右往左往する首脳部の元に帰ってきたオルトルードは、全身に血を浴び、そして険しい表情をしていた。カール王の居ないサンゴート軍を滅茶苦茶に蹴散らした後、王都にて一大粛正を実行するのは、この直後のことである。

 

1,地下九層へ

 

ドゥーハン騎士団の最精鋭すら到達していないカルマンの迷宮深層、地下九層。当然の事ながら、其処の記録は何処にも残っていない。それは同時に地下九層への道を誰も知らないと言う事も意味している。ファル達にしてみれば、八層を隅から隅まで探す必要が生じていることをも意味していた。

八層の深部にそびえ立つ柱の如き建物は、前回の対マジキム戦で中央部が吹っ飛び、元々がたが来ていた構造に致命傷が加えられた観がある。ただ、どういう訳か原形を保ったまま建っていて、崩れる予兆はない。建物の中央にあるコア部分も、焼け付きながらも残っており、それが原因やも知れない。美しい柱から、不格好な朽木と化した建物を見上げながら、ファルは呟く。

「本当に、あんな事を出来る奴に勝ったのだな」

「実感がない?」

「ああ。 生きているのが、今でも不思議だ」

肘で小突くエーリカに、素直に応えながら、ファルは率先して歩き出す。相変わらず廃墟同然の建物の中。待ち伏せしている魔物が居ないことを確認すると、皆を手招きする。これからこの建物を最上部まで登るという事を考えると、多少気が重かった。

今回の探索は、七層の綿密な調査や、八層の未到達地点の探索がメインであった。決して弱くない魔物達と最小限の交戦で切り抜けながら、七層に関してはかなり有意義な発見があった。階層の最深部にあった通路を調べた結果、かなり大幅なショートカットが出来る道を発見出来たのである。何よりあの生臭い液体を大量に浴びる滝を回避できるため、八層に入ってからの消臭作業を行わずとも良くなり、行動時のタイムロスを大幅に削減することが出来た。今まで七層のほぼ全域を回っていたことを考えると、今回の発見は大きい。ローパーによく似た敵にしても、あの巨大な蛸にしても、出来れば戦いを避けたいほどに手強い相手であるのは間違いないのだ。意気上がった所で、地下八層の探索に移ったわけだが、そのまま探索が上手くいく、という訳にはいかなかった。

何処までも広がっている野原にしても、人工的に作られた小川にしても、敵の襲撃を回避する盾は何処にもなく、遭遇し次第交戦は避けられなかった。朽ち果てた遊戯道具らしきものも各所にあったが、いずれも何の探索の助けにもならなかった。ある程度の目星を付けた後生活空間だったらしい(村)の探索に移ったが、此方も改めて全体を回っていると半ばがおそらくマジキムの手によって破壊されており、その他も魔物共の巣窟となっていて、探索は困難を極めた。上を見れば、高みをドラゴンが飛んでいる。上から攻められたら面白くない。奴らの襲撃も警戒し続けなければならず、それも大きな探索の障害となった。そして結局隅から隅まで大雑把に回った結果、九層へ繋がる階段など何処にも発見出来なかった。まだ探索していないのは、地面に空いていた穴の下。即ち水が溜まった、極めて危険な暗い空間の何処か。或いはマジキムと交戦した建物の最上層か。雰囲気的には九層地下の方にありそうだが、それを提案するとエーリカは首を横に振り、建物を先に調べることを決定した。結果、今ファルは先頭に立って、半ば崩れかけた建物の中を歩いているのである。

崩落が激しい建物の中は、自らが書いた地図が頼りだ。今までに書いたこの迷宮の地図は、一体何枚になるのか。ざっと見ただけでも、各階層ごとに数十枚に達している。歩き回った距離を考えると、広大極めるドゥーハン王都を隅々まで回るよりも遙かに長い。都市そのものである六層などはまだまだ一部しか知らないわけで、完全に各階層を隅から隅まで回ると、ひょっとすると今まで書きためた地図の数十倍になるかも知れない。地図の見落としがないか慎重に周囲を見回すファルに、後ろから声が掛かった。

「おい、ファル」

「うん?」

「悪ぃが、後で相談に乗って欲しいんだ」

「珍しいな。 私で良ければ、いつでも相談に乗るぞ」

軽く言ったが、ファルは他人の相談になど乗った試しがなかった。戦闘における技術レベルでの相談なら良いのだが、パワーを最大限に生かした戦いであれば、むしろロベルドの方が遙かに上だ。小首を傾げながら、壁がボロボロに崩れている階段を登る。階段には砂利がまぶされたかのように散らばり、一歩ごとにじゃりじゃりと音がした。

不意に視界が開けた。マジキムと戦った場所にまで到達したのだ。

床には奴が開けた大穴が何カ所も空いている。壁は丸ごと吹っ飛んでいて、遙か遠くまで良く見渡すことが出来た。真ん中には巨大な柱が立っていて、壁が焼き付きながらも健在だ。しかし、その他には何も残っていない。破壊をそのまま具現化した空間が此処であった。もし王都で奴と戦っていたら、王都そのものが廃墟になっていたのではないかと、ファルは思った。

「あの中央の柱が無事だと言うことは、上へ向かう階段も無事ね」

エーリカが胸をなで下ろす。コア部分の内部に階段があることは、既に確認済みだ。何カ所かは塞がっていたし、狭くて暗い為魔物が兎に角多いので、今までは意図して避けてきた。

「マジキムもすげえが、ディアラントの文明もすげえな。 俺らの技術だったら、多分間違いなく建物自体が倒壊してやがるぜ」

「……やはり、ロベルド。 貴公はこの文明を尊敬しているのだな」

「ああ。 認めたくはなかったが、確実にそうらしい。 すまんな、フリーダー。 気分悪かったらそう言ってくれ」

「当機にはよく分かりません。 ロベルド様がディアラント文明の技術力を愛好するのは、技術者としての本能であると分析しておりますので」

目を細めたロベルドが、もう一度ごめんなといいながら、大きな手でフリーダーの頭を撫でた。フリーダーは笑顔を浮かべるのが上手い。誰に対しても、極上の笑みを浮かべてみせる。それが笑顔に見える筋肉の動作だと分かっている今でも、不思議と心が安らぐ。同時に胸の奥がちくちくと痛む。

コアになっている大きな柱には扉がついていた。扉は焼け付いていて、取っ手は吹っ飛んでおり、押しても引いても動かなかった。あれほどの死闘の中にあったのだから無理もない話である。どちらにしても、本気で登るのなら、数フロア分の階段が塞がっていたり崩れていない事を期待するか、或いはそれを取り除く覚悟で行かねばならない。扉の前でしゃがんでしばし考え込んでいたファルに、ロベルドが歩み寄りつつ言う。

「俺がぶっ壊そうか?」

「いや、二三実験したい事がある。 下がっていてくれ」

扉には筋状に亀裂が入っていて、ひしゃげて若干歪んでもいる。国光を抜いて立ち上がると、ファルは切っ先を戸に向け、数秒の沈黙の後、ゆっくり踏み込んで優しく突きだした。乾燥した音と共に、刃が壊れかけた戸にめり込む。そのまま左手を右手に添え、短い呼吸と共に渾身の力を入れて床を踏み、気合いを込めて更に刃を奥に押し込んだ。大きな音が響く。罅が扉に入っていく。ファルが国光を引き抜くのと、ばらばらに砕けた扉が辺りに散らばるのは同時であった。

「おっ、すげえな」

「今のはなんだ? 今までのクリティカルヒットとも違うようだが。 さながら陶器の瓶を槌で割り砕いたようだな」

「クリティカルヒットの発展系かしら。 何にしても、素晴らしいわ」

国光の力と勘違いする者は一人も居ないので、ファルは今更ながらに少し安心した。埃を拭って刀身を鞘に収めると、邪魔な扉の破片を足で蹴飛ばしてどかしながら言う。

「敵の魔力集約点を突くことで、相手を一撃の下死に至らしめるのが、クリティカルヒットだ。 これは物体にも応用可能なことが、今までの戦いで証明されていた。 それらを重ね合わせて考えた後に、この技を編み出すことに成功した」

「どういう事じゃの?」

「魔力集約点は、結論から言えばその存在の構造的な欠陥だ。 其処を突くことで私は一撃の死を敵にもたらしてきた。 今やって見せたのは、魔力集約点を貫いた上で更にそれに致命的な打撃を浴びせ、敵の構造そのものを死に至らしめるのではなく完膚無きまでに粉砕すること」

此処まで来ると少し過剰なのではないかと、ファルも内心思った。これは敵を倒すだけではなく、原型を止めないほどにまで破壊する技だ。それに加えて、これを発動する為には今まで以上に入念な敵の観察と、針の穴に百発百中させる研ぎ澄ましきった集中力が必要になる。偶然に近い形で編み出しはしたものの、あまり実用性はない技だと、ファルは自嘲的に分析していた。

話を終えると、ファルは先行してコアに入る。中は当然のように真っ暗で、所々だけ灯りが生きていた。ファルは布をくわえて呼吸音を消すと、階段を登り始めた。コア部分の壁は厚く、その中を階段が螺旋状にうねりながら登っていた。手すりは所々破れていて、下には真の闇が広がっている。石を落としても、いつまで経っても音が帰ってこないほどの高さにいるのだと、今更ながらに思い知らされる。慎重に気配を消し、闇の中を走る。先ほど見た分では、四フロア以上、上にある階層はマジキムとの戦闘による破壊を免れている。その辺りで一旦コアの外へ出るのも手だが、一気に上まで登りきるのも当然一つの選択肢であった。集中して階段を登る。時々壁が剥落していたり、大きな壁の欠片が転がっていたりはしたが、進む事に支障はなかった。結局外に出る必要性はなく、ファルは進めるだけ進む事に決め、気配を可能な限り消して階段を登り続けた。

十四フロア分ほど登った状態で、扉が壊されて光が入り込んでいた。この辺りは、もう八層の天井に食い込んだ所だ。階段も丁度行き止まりになっており、いずれにしても出る必要があった。影が外に漏れないよう慎重に立ち位置を工夫し、外をうかがう。生唾を飲み込んだのは、その直後であった。

 

ファルと共に部屋に入り込んだエーリカも、思わず足を止め、その奇怪な光景に見入っていた。エーリカが驚いているのだから、フリーダーを除く他の者達がどんな有様だかは、わざわざ言うまでもないことだ。

六層から七層、七層から八層へ入った時もそうだが、この迷宮はあまりにも突拍子もなく雰囲気が変わる。今までとはあまりに違う空間が何の前触れもなく現れる為、百戦錬磨の者達でも一瞬硬直せざるを得ないのだ。

今までの未来的な空間は何処にも存在していなかった。変わりに其処にあったのは、真っ黒い固まりの山であった。固まりはクリスタルのように結晶化しており、氷のように冷たい光を放ち、壁から床から天井から飛び出していた。うっすら自家発光しているそれのお陰で、部屋は薄黒い幻想的な雰囲気に包まれ、ご丁寧なことに小さな光る虫まで飛んでいる。部屋の奥には、固まりによって縁取られた通路がある。よく見ると、八層を形づくっていたのと同じ素材で出来ている。だが、角を黒い固まりが埋めているし、壁自体もびっしり固まりが覆っていて、傍目にはそう見えない。水晶にも似ているが、取りだした安いナイフでつついてみると、氷程度の強度だ。少し力を入れて叩いてみると、氷菓子を砕いたような音と共に、ぼろぼろと崩れ落ちた。崩れても固まりは黒い光を放ったままで、部屋の雰囲気に変化は全くない。

「……なんだこれは。 水晶にしては脆すぎるようだが」

「俺もこんな鉱物は見たことがねえぜ。 鉱物かどうかもわからねえ」

「そうじゃの。 アダマンタイト原石でもないようだし、オルハリコン原石とも少し違うようだのう。 ミスリル原石にしては光りすぎておるし、ふむふむ……」

分厚いメモ帳を取りだして、辺りを見ながら頷き始めるコンデ。ファルは欠片を一つ瓶に入れると、ナイフの刃の状態を確かめた。取り合えず、ナイフの刃に変動はない。フリーダーに視線を向けると、珍しく彼女は知らないと言った。これはディアラント文明の産物でもないと言うことか。持ってきている干し肉で触ってみても、特に異常は起こらない。手袋を外して素手で触ってみると、ひんやりと冷たい感触が帰ってきた。

「今までの傾向からして……」

手の甲で軽く叩きながら、エーリカが言う。

「次の階層は、これが一杯あるのかしらね」

「生き物の腸よりずっとマシだろ?」

「奥へは行けそうだ。 近辺に魔物の気配もない」

ファルがじゃりじゃりと固まりを踏みながら、ついてくるように皆へ促した。部屋の奥にあった通路は、どうしてか下へ下へと延びている。もうこの辺りから、八層からは隔離された空間なのやも知れない。固まりには尖ったものもあるし、踏むと危ない。注意しながら、ゆっくり角が取れた階段を下りていく。黒い光が満ちる空間は、下へ下へと伸び続けていた。奥からは、ひんやりとした空気が流れ込んでいた。

今までも階層の間にある階段は、どれも非常に長かったが、これはその中でも特に突出していた。八層の、柱のような巨大な建物を、丸ごと降りきるよりも高度差があるかも知れない。しかも踊り場がない。

「これは、転ぶと危険だな。 まるで魔王の元へ通じる滑り台のようだ」

「嫌なこと言わないで。 うごめくものだけでも大変なのに、魔王に何て出てこられたらたまったものじゃないわ。 しかもこの迷宮では、何が出てきたっておかしくないのよ」

ヴェーラにエーリカが的確で恐ろしい釘を差す。事実多くの魔神が出現するこの迷宮に、魔界の王である究極の闇、魔王が住んでいないと誰が言い切れるだろうか。多くの物語ではあっさり退治されている魔王だが、実際に倒したとされる人間はベノア大陸の歴史上まだ存在しない。階段を下りる、ただそれだけの作業が、不意に緊張感溢れるものへと変貌した。

果てしない下り階段の先に、ようやく変化が訪れる。平らになった床を踏みしめ、分厚く固まりに覆われた通路を抜けると、ファルの眼前には驚異的な空間が広がっていた。

階段の先にあったのは、テラスのように張り出した空間であった。テラスからは数本の通路が、遠くに見える巨大な建物に延びている。テラスの下は深い深い闇で、底は何も見えない。天井も何も見えない。どうしてか、遠くで雷が鳴っているような音がした。

遠くに見える建物は、まるで神殿である。深い闇の底からせり上がった茸の傘のような形の大地に鎮座するそれは、尖った天井が無数に天井へ向けて伸び、黒光りする外壁は畏怖を与えるよう計算し尽くした作りとなっている。高度は僅かに今建っている地点よりも低いか。中央部にある巨大な球体は、遠目から見ても分かる強烈な黒い光を放ち続けている。テラスの縁には、一応手すりがついていて、それにも黒い固まりがフジツボのようにびっしり着いていた。壁に無数に付いている窓は、どうしてか神殿の目のような印象を周囲に与えた。手すりに触れて、細かい固まりを落とすと、ファルは周囲をより念入りに観察する。闇の底からは、数本の光の帯が伸びていて、定期的に揺れて周囲を照らしていた。神殿に伸びる通路を観察し、ファルは硬直する。通路は勝手に動き、神殿へと乗るものを運ばんとしていたからだ。これはあの恐るべきエスカレーターと同じではないか。階段状になっているか、ほぼ平面であるかの差はあるが、以前グルヘイズ戦で嫌と言うほど乗らされたエスカレーターは、ファルにとって軽くトラウマになっていた。見る間に冷や汗がびっしりと額に浮き、差し出されたタオルで慌てて拭う。拭った後も湧いてくる冷や汗。ゆっくり振り向くと、フリーダーが困惑しきった様子でいた。

「ファル様、あれはエスカレーターではありません。 危険はありません」

「アハハハハハ、見透かされてるぞ、ファル!」

「やかましい!」

憮然として手すりに手をついたファルは、何にしてもアレに乗らねばならぬことに改めて気付き、大きく嘆息していた。通路自体は、透明なチューブに包まれていて、恐らく外から襲撃される恐れはない。触れてみた所硬度は鋼鉄どころではなく、魔神の攻撃にもそう簡単は屈しないだろう。だが、自走する通路というもの自体が、ファルには高位の魔神にも勝る恐怖であった。笑い続けていたロベルドは、不意に真顔に戻り、周囲を見回す。

「……此処は、ざっと見たところ恐らく六層と同じくらいの地下深度にあるぜ。 何か関連がありそうだな」

「成立の背景が似ていると言うことか?」

「かもしれねえな」

「一つ言うとすれば、今までの階層とは比較にならんほどの障気が充ち満ちておる、という事じゃろうの。 やれやれ、ここに来る前であったら、入った途端に心の臓が止められておったじゃろう」

確かに、階層の奥からは信じがたい程の密度の障気を感じる。何が潜んでいるか全く見当がつかない魔境だ。エーリカが促し、皆歩き出す。闇の奥へ、繋がる道へと。

 

2,門

 

蒼白になったファルが、壁に手を着いて沈黙していた。フリーダーが呼びかけつつ背中をさすっているが反応しない。気持ちが悪いわけではないのだ。ただ、エスカレーターとは比較にならないほど長かった自走通路に乗り続けた上に、その間ずっと黙って集中力を維持していたため、降りた途端ストレスが限界に達したのである。ファルは背中を丸めて、ただ精神力が回復するのを待っていた。苦手なものにずっと乗り続けるのは、以前のエスカレーターで経験済みだが、今回のは長さも違えば環境も違った。乗ってみて分かったのだが、自走通路は透けていて、下が丸見えだったのだ。それもストレスの原因となっており、右往左往する精神を整えるのに、今は全力を注がねばならなかった。心配そうに背中を撫でてくれるフリーダーの小さな手が、ファルには嬉しくもあり、悲しくもあった。

九層入り口にあったテラスのように、崖の上に張り出したような大地は狭く、手すりも何カ所かは劣化して壊れていた。手すりに黒い固まりがびっしりついている点では、入り口と全く同じである。

神殿は間近で見ると、実に荘厳な建物だった。六層に立ち並んでいた巨大な建物群と匹敵するほどの大きさがあり、黒い不思議な素材にて壁を形作っている。壁には黒い固まりが全く張り付いておらず、所々に見える窓にも然り。雰囲気そのものが、側による人間を威圧している事が、間近によるとありありと分かった。四層にも神殿はあったが、それとは規模も格も全く違う感じだ。この神殿は、例え溶岩に飲まれても、堂々たる態度で立ち続けるのではないかと、見るものを錯覚させた。

入り口はアーチ状で、奥へ奥へとずっと通路が続いているのが見える。アーチの天井部分には黒く発光する石が埋め込まれており、荘厳な雰囲気を作り出していた。床はむき出しだが、ひょっとするとかっては絨毯が敷かれていたかもしれない。

魔物の数が少な目の八層入り口でキャンプを張って体力回復は行ったが、それでも八層をまんべんなく回ったことにより、消耗は決して少なくない。魔物がひしめいている気配が濃厚なこの神殿に足を踏み入れるということは、多量の勇気を必要とした。無論ファル達は、それに充分なほどの勇気を保有しており、行動に躊躇はなかった。

「そろそろいい?」

「別にいつでも構わない」

エーリカの言葉に壁から手を離すと、冷や汗を拭いながらファルは皆に合流した。そのまま六人は隊形を保ったまま、いにしえの神殿へと足を踏み入れる。奥から魔物の咆吼が聞こえ来るが、それは別にいつものことだ。

巨大なアーチ状の通路はずっと奥まで続いていた。左右には小さな通路が無数に延びており、この通路を中心として建物が設計されていることは一目瞭然だ。しばし慎重に足を進め、入り口が遠くに小さな点として見えるようになった時。奥に、巨大な何かが見え始めた。

それは門であった。

 

慣れたもので、ファルが調べ始めると、他の皆はすぐに散開して周囲を伺いに掛かる。もうエーリカがわざわざ指示を出さずとも、このレベルの行動意志ならツーカーの呼吸で伝わるのが嬉しい所だ。

丁度通路を全部塞ぐ形でそびえ立つ門は、真ん中が四角く区切られており、其処が開くのだと一目で分かる。ただ、その開く部分だけでも高さ七メートルを遙かに越し、横幅も四メートル以上はある。かんぬきも取っ手もないが、変わりにファルでも手が届く辺りに鍵穴が二つあり、いずれも不可思議な形をしていた。一つは十字のような形をしており、今一つは三角形である。不思議と鍵穴からは薄青い煙が立ち上り続けており、それが途切れることは、どうしてか無かった。

扉自体は左右に巨大な獅子の絵を配した豪勢な作りで、神殿の他の部分と同じく黒をメインとした色調となっている。高級感は確かにあるが、黒と赤だけでこうも統一され尽くしていると、多少息が詰まる。更に不思議なことに、扉は中央部分がうっすらと透けていて、向こうが見えるのだ。向こうはずっと同じように通路が続いていて、遙か先は見えなくなっていた。ロベルドに振り返ると、彼も肩をすくめて首を横に振った。扉の素材は壁と同じ。魔力の流れを視る限り、突いて崩せるような点はないし、全力での攻撃を浴びせても壊せそうにない。ファルが周囲を調べたのは、鍵穴がフェイクではないかという可能性を考慮してのことだが、それは失われた。手の甲で何度か叩いてみる。金属と言うよりも、むしろ魔法によるシールドと言った感触であった。ランタンで鍵穴を照らし、小型の手鏡などの幾つかの専門道具を介して覗き見る。精緻なその構造に驚きが、心の奥から沸々と沸き上がる。ファルは急いで道具をしまい込むと、後ろで立っているエーリカに刀の鯉口を切りながら言う。抜いたのには、当然理由がある。

「カギを見つけないとどうにもならないぞ、これは」

「あのたくさんある脇道を全部調べていかないと行けないって事? 骨ねえ」

「その前に、分かっているだろうが客だ。 相当に手強いぞ、気をつけろ!」

前に飛び出て低く構えるファルの前で、床に黒い染みが出来、複数の人影がせり上がってくる。王冠のようなせり上がった頭を持ち、デーモンに拮抗する体格を持つその存在。全身が溶岩のように光っており、翼は四枚。数は翼と同じく四体。ご丁寧なことに乱杭歯並ぶ口の上には目も四つあった。全身を覆う焼け付くような魔力の流れから、魔神と言うことは一目で分かるのだが、一体何者か。慎重に相手の姿から正体を検索しようとするファルに、いち早くそれを終えたコンデが言語化した警告を発した。

「なんということじゃ。 あれはピットフィーンド! 灼熱の体を持つ魔神ぞ!」

「ほう、あれが」

高揚が体の奥から沸き上がってくる。ピットフィーンドとは、魔界の奥深くに住むという魔神であり、歴史上地上に現れたことは数えるほどしかない。最上級の魔神が現れた時に共に現れた記述がある程度で、当然上司と一緒に大災害をもたらして来た曰く付きの存在だ。実力はデーモンを更に上回り、強力な炎の術を使いこなし、自由自在に空を飛び回る。無論並の魔法など効きもしない。更に彼らの後ろからは、馬蹄の音が空中から響き迫ってきた。空中を走り来たのは、足が八本ある巨大な黒馬だった。大きさは五メートルほどもあり、小型のガスドラゴンを凌ぐ大きさだ。空中をそれが走るたびに、足下から炎が立ち上り、すぐに消える。此方の正体はファルにもすぐに分かった。

「此奴は、スレイプニルか」

「なんてこった、伝説に出てくるような化け物がいきなり二種類もお出迎えかよ!」

ロベルドが生唾を飲み込む音が、ファルにも聞こえた。スレイプニルとは、神の乗馬にもなる事があるという、魔界原産の強力な馬だ。空を疾走するその姿はあくまで雄々しく、しかし性質は凶暴で、神々ですらてなづける事には手を焼くという。肉食で、下級のドラゴンを凌ぐブレスの能力を持っている。足下から上がっている火は、彼らが魔力を利して飛んでいる良い証明であろう。じりじりと両者が間合いを詰める中、杯のペンダントを揺らして、不敵にヴェーラが言った。

「流石は九層だな。 火神アズマエルよ、汝の非力な僕にどうか加護を!」

その叫びが、開戦を告げる合図となった。

「シャアアアアアアアアアッ!」

地上の馬とは随分違う泣き声を上げて、スレイプニルが首を大きく空へそらした。喉がふくれあがる。間髪入れずにその喉にクロスボウボルトが突き刺さるが、馬は殆ど意に介さず、それどころか喉の傷口から炎を吹き出させつつも、火の滝をファル達へと投擲してきた。帯状の炎の息が、空間を焼き尽くし、轟音を上げて迫り来る。

視界が紅蓮に覆われる。何とか飛び退いて直撃は避けたが、もしまともに喰らっていたら一撃で消し炭だ。馬は頭を振り振り、前足を伸ばし、喉に刺さった矢を無理矢理引っこ抜いた。喉に出来た傷が見る間に塞がっていく。見とれている暇はない。残像を残すほどの速度で浮き上がったピットフィーンドが、炎の巻き付いた拳を斜め上から叩き付けてきたからだ。摺り足で後退して避けようとしたファルは、本能的に危険を察して身を低くし、横転して斜め上から飛んできた一撃を避けた。床を直撃した拳が、超高温を発し、蒼い炎が空気中にぶちまけられる。壁に付き、正面から迫ってくるピットフィーンドに向け跳躍、二度地面を蹴り、顔面に膝蹴りを叩き込む。仰け反った魔神の棘だらけの頭。国光の鞘でそれを強打し、回転しつつ頭上を越える。着地したファルは、振り返って構え直し、顔を押さえるピットフィーンドと、一匹目が動いた隙に斜め後ろに回り込んでいた、フットワーク軽く左右にぶれる二匹目の姿を確認した。拳を下がってかわさなかったは、此奴の存在を察知したからである。下がっていたら恐らく頭上からの一撃を貰ってぺちゃんこにされていただろう。最初から二匹がかりでファルを潰しに来たらしい。デーモンも相当な体術の使い手であったが、此奴らに至っては戦略的な判断力まで持ち合わせている。空高く舞い上がった一匹と、地面から高速で迫ってくるもう一匹。フリーダーは空飛ぶ馬を迎撃するのに精一杯であり、此方を支援する暇はない。ロベルドもヴェーラも、後衛にピットフィーンドの猛攻を通さないようにするだけで精一杯だ。力量的に五分かそれ以上の相手を、当面一人で迎撃せねばならない。だが、呪文詠唱というものが時間を大量に浪費する以上、それは仕方がないことであり、多くの戦いで経験したことでもある。当面凌ぎきれば、エーリカが適切な支援攻撃を飛ばしてくれる。規定の未来であるそれを信頼し、ファルは繰り出される拳を左右へ避ける。超高温の圧力が、ファルの髪の毛を数本持っていった。腰を入れた良い突きだ。構えや体格が良いだけではなく、技術的にも斜め上から飛んでくる突きは芸術的とも言える素晴らしさである。交戦相手でなければ眺めていたい所で、当然、避けるのは極めて困難だった。更に言えば、突きを入れてきた瞬間、カウンターを決める隙もない。こういった超絶的な技量を持つ相手との戦いの場合、勝負は一瞬となるが、それはあくまで人間が相手の場合。クリティカルヒットを決めるにしても入念な調査が必要であり、ちょっとやそっとの傷では、奴らはびくともしない。加えて現在の状況下では、正面から猛攻を仕掛けてきている相手はともかく、空を飛びつつ隙あれば後衛を狙っているもう一体も牽制し続けねばならない。奴らが後衛に殺到したら、如何にエーリカでも対処は出来ないのだ。

ファルが上の気配を伺った瞬間、真正面から、ピットフィーンドが踏み込んでくる。構えからして、正拳だ。右手に構えた国光の切っ先を、地面すれすれまでに低くし、自らも間を詰める。国光の切っ先が、火花を上げながら黒い床を走る。肩の捻りを生かし、最大限まで加速した拳が、真っ正面から飛んでくる。真っ正面からの一撃だが、その速さ、圧力、並の使い手が放つものではない。しかもそれは、蒼い炎を放つほどに灼熱を纏っているのだ。だが、これは好機でもある。渾身の一撃は、同時に最大の隙も産むのだ。

放電音がして、直撃コースだった拳が、ほんの僅かだけ避ける。ピットフィーンドの目に映るは、鉄で補強された無骨な鞘。刹那の一時、踏み込む寸前にファルが腰から外して投擲したのだ。それは針のように鋭く指の一点に打ち当たり、僅かにずれた拳は致命的な隙間を産む。僅かに出来た、拳の下の死角にファルが踏み込む。そして、床を滑って最大限に加速した国光を振るい上げつつ、一気に脇の下を通り抜けた。

「!」

正面から迫ってきたピットフィーンドの、肘から二の腕にかけて大きく切り裂かれ、悶絶して蹌踉めくのを背に。空で機会をうかがっていた一匹が、絶妙のタイミングで舞い降り、ファルに覆い被さるような拳の連打を浴びせてきた。ラッシュである分、火が出るほどの重さはないが、しかしファルも渾身の一撃を見舞った直後。タイミングとしてはいやらしいほどに完璧だ。右、左、斜め上、三発の拳をかわし、ここぞとばかりに繰り出された本命の左拳を、国光を盾に避け、はじき飛ばされる。壁に背中から叩き付けられたのは威力を分散させる為で半ば計算尽くだが、それでも凄まじい痛みが全身を襲う。

「ガアアアアアアッ!」

腕を切り裂かれたピットフィーンドが悲鳴を上げたのが、ファルが叩き付けられたのとほぼ同時。国光を取り落とさなかったファルは、とどめとばかりに突っ込んできたピットフィーンドを正面から見据え、僅かに体をずらす。巨体と、巨大な壁が正面からぶつかり合う。轟音が響、誇りが天井から落ちてきた。

ファルの右耳の一ミリ隣。ピットフィーンドの鱗に覆われた膝が、壁に突き刺さっていた。その膝からは鮮血が垂れ落ちている。血はファルの顔にも掛かっていた。嫌に生臭く、熱い血であった。ファルが伸ばした国光は、奴の腹に深々つき刺さっており、今までの戦いで見切った魔力集約点を正確無比に抉っていた。口から血泡を吹くピットフィーンド。その右手が、震えながら上がり、炎を宿す。奴の巨体に覆い被さられ、身動き出来ぬファル。だが、彼女は突きだしている右手に左手を添え、気合いと共に剣に衝撃を込めつつ、声を振り絞った。

せあああああああああああっ!

ピットフィーンドの全身に罅が入り、鮮血が吹き出す。白目を剥いたピットフィーンドがぐらりとゆれ、ファルを巻き込んで横倒しになった。先ほど見せた、クリティカルヒット完成型を、ピットフィーンドの体に叩き込んだのである。塵になっていくピットフィーンドの亡骸の中で、体を起こしたファルは、腕を押さえて唸り続けるピットフィーンドと正面から顔を合わせた。間髪入れず、真横に重い一撃が飛んできた。反射的に身を伏せねば、頭が吹っ飛んでいた。

横殴りに放たれた蹴りであった。ピットフィーンドは片足でバランスを取り、そのまま今度は前蹴りを叩き込んできた。壁に叩き付けられたそれは、神殿そのものを揺動させるかのようであった。足の力は手の力の数倍に達し、蹴り技は隙が大きい一方で破壊力は拳技の比ではない。間合いから離れねば、遠からずザクロのように体を砕かれる。周囲の戦況も良くはない。高速で飛び回るスレイプニルは、ブレスを連続で後衛目掛けて放ち、暴れ回っている。フリーダーはそれの対処に掛かりっきりだし、エーリカも時々詠唱を中断して避けに専念している。舞うようにしてハルバードを振り回すヴェーラは若干ピットフィーンド相手に押し気味に戦いを進めているが、隣で立ち回っているロベルドは相性が悪い相手に苦労しており、だがそれをきちんと自覚して守勢を主に増援を待っている様子だ。下がろうとするファルに、それを見越してピットフィーンドは翼を上手く使い、片足にもかかわらず摺り足で下がった距離をそのまま詰めてきた。人間ではどうしても出来ない荒技だ。敵は片腕をほぼ使用不能だが、ファルも拳を一発受け、もろに体重を浴びていないとはいえ敵の倒壊に巻き込まれている。続けて繰り出された斜め下からの蹴りを避けきれず、片腕をかすられてファルは大きく弾かれた。床に投げ出されたファルは、感覚が喪失した右腕を無理に酷使し、横へはねのける。ピットフィーンドが飛びかかり、踏みつけてきたからだ。そうしてくることを予想していたからこそ、無理に動いたのだ。感覚が無くなった、先ほど敵の蹴りがかすった右腕に激痛が走る。流石に眉をひそめるファルは、床に投げ出されていた鞘を走りざまに拾い上げると、嵐のように飛んでくる蹴りを何とかいなしつつ、じりじりと下がる。頭に血が登っているピットフィーンドは、ファルを追って迫ってくる。エーリカのハンドサインが目に入ったのは僥倖であった。そのままファルは、時々凄まじい蹴りをいなしきれないふりをしながら、ついに目的の地点にまで到達した。動きを止めたファルに、ピットフィーンドが踵落としを叩き付けてくる。その頭上に、巨大な影が逆落としに迫った。顔を上げるピットフィーンド。速射式のクルドをまともに頭に喰らい、瞬間的に意識を失ったスレイプニルが、その顔面を直撃した。バランスを崩したピットフィーンドが、落ちてきたスレイプニルに押し倒され、大きな隙ができる。ここぞとばかりにフリーダーがクロスボウを連射し、魔神の四つある目に次々と矢が突き刺さっていった。視力を失ったピットフィーンドが、吠え猛り暴れ狂う。ファルは意図的に気配を出してやり、浮き上がりつつあるスレイプニルとの間に割り込む。渾身の一撃を視力を失ったピットフィーンドが繰り出し、それは不幸な悪魔馬の腹を直撃した。

「ギャアアアアアアアアアッ!」

骨を数本纏めてへし折られた悪魔馬は、機動力を生かす間もなく地面に叩き付けられ、断末魔の絶叫を上げた。下がったロベルドが喉を一息にバトルアックスで叩ききる。ロベルドに迫ろうとする、今まで彼が相手していたピットフィーンドに、手が空いたフリーダーが連続して矢を叩き込む。支援攻撃に移ったのだ。それは、戦いが守勢から攻勢に転じた事も意味していた。ファルは目が見えないピットフィーンドに再び相対すると、痺れる右手に左手を添え、侍のように上段に構えた。普段なら決して取らぬ構えであるが、右手の握力が半分以下に低下している現在仕方がない。狙うは腹部の急所である。ピットフィーンドもその気迫を察し、腰を落とし、最後の一撃を繰り出す構えを見せた。地面を蹴ったのは、図らずも両者全く同時。

「シャアアアアアアアッ!」

「せあああああああああっ!」

閃光がぶつかり合い、弾け会った。ファルが前のめりに地面に倒れるのと、腹に国光を生やしたピットフィーンドが崩れ伏すのは、同じ瞬間のことであった。

流石、魔界の深部に住む魔神。目が見えないにもかかわらず、ファルの肩に一撃をかすらせた。全身に走る痛みに、気を失いかけつつも、ファルは何とか体を起こす。視界の隅では、攻勢に転じたヴェーラが、ついに最後に残った魔神を切り伏せていた。

 

応急処置を済ませて、すぐに戦場を離れる。脇道の一つは、横へ何処までも伸びており、その先に頑丈な扉に守られた広い部屋があった。先ほどの、床から這い出してきたピットフィーンドの例もあり、この階層ではもう何処から敵が出てくるか知れたものではないが、見晴らしが良く休憩をするには適当な場所であった。役に立たないかも知れないが、兎に角無音結界を張って、もっとも深手だったファルの右手の治療に取りかかった。骨こそ折れてはいなかったが、裂傷が手の甲に走っており、肉離れも起こしている。このままではこの後の探索に支障をきたす。エーリカは溢れるような光を放つ強力な回復魔法を何度か掛けて治療を施しながら、ため息がちに言った。

「今まで散々思ったけど、この迷宮に出てくる魔物は異常よ。 一番攻略難易度が高いディアラント遺跡でも、おそらく此処まで無茶苦茶な奴は出てこないわ。 今更な話だけど、浅い階層でもジャイアントが普通に彷徨いてるんですもの。 信じられないわ」

「魔神ピットフィーンドがいたという事からしても、ひょっとして此処は魔界に直結しておるのやも知れぬのう。 この辺りの階層には、もう地上界の魔物など存在しておらぬのやも知れぬの」

二人の会話を右から左に聞き流しながら、ファルは痛む腕のことを思っていた。

ファルは非常に強力な破壊力を有しているが、その一方で受ける損害も非常に大きい。地味に戦っていたヴェーラは、手傷は負いはすれどまだ戦えた。それに対し、ファルは二体のピットフィーンドに致命傷を与え、スレイプニルに決定打を与えたと同時に、自身もすぐには戦闘続行出来ないほどの傷を貰っている。油断しているわけではないのだが、大きな怪我を貰う確率は皆の中で一番大きい。エーリカは小言を言わない。むしろ会うたびに心配して小言を言ってくるのは、他人である騎士リンシアだ。正義や信念を押しつけてくるのならともかく、小言自体は別に不快ではない。この辺のさじ加減は、ファル自身にもよく分からない。リンシアの性格自体が原因かも知れない。

「こればかりは、仕方がないわね」

七度目の回復魔法を終えたエーリカが、包帯を巻きながら言う。並大抵のことでは諦めないエーリカの表情には、珍しく深い憂慮が浮かんでいた。

「ファルさんは戦闘スタイルから言っても、ぎりぎりのライン上を渡ることが多いですものね。 まして力が接近しているか、自分以上の相手ばかりいるこの迷宮ではなおさら」

「ああ。 出来るだけ攻撃は貰わぬよう立ち回っているが、簡単にはいかないな」

「……それと、もう一つ。 ううん、これは良いわ。 あることが別に(良い)訳でもないし」

ファルが聞き返さなかったのは、特に興味がなかったからだ。フリーダーがハンカチを出して、額の汗を拭いてくれる。彼女が新しく新調した皮鎧は、随所に竜の鱗をちりばめた強力な代物であり、今回もスレイプニルのブレスを結構浴びながら体の方をしっかり守ってくれた。

どうしてか怪我を減らしたいなと、心配しきった様子のフリーダーを見ると、冷静沈着なファルも漠然と思うのであった。ただし、怪我を減らそうとすれば、それは戦闘スタイルを崩すことにもつながり、戦闘力の低下も招く。エーリカもぼそりと漏らしたように、ファルが受ける大量の怪我は、膨大な戦果の代償でもあった。

「少し休んだら、探索に戻りましょう」

「ああ。 ……今回ばかりは、早めに切り上げた方が良さそうだな」

この階層では、多分無音結界は何の役にも立たず、キャンプで休む間も決して気は休まらない。それを敏感に感じているファルは、そんな言葉を漏らしていた。

 

3,王と王女とカギと魔女

 

七層最深部にあったような、四角い大きな機械が、無数の明かりを点滅させている。周囲には太い管細い管様々なものが縦横無尽に走っており、どういう訳か部屋がとても涼しく保たれている。三つ目に入った脇道の奥にあった部屋は、そんな場所であった。無論何度も戦いを経てのことであり、消耗も深刻だ。よって、この部屋を調べ終えたらすぐに帰還することが決定している。

フリーダーはすぐに大きな機械へ向かい、目も止まらぬ速さで無数にあるボタンを叩き始める。ファル達はすぐに扇状展開し、周囲を警戒に当たるが、フリーダーの作業はそれほど時間を掛けずに終わった。部屋の東端にあった小さな機械がカードを吐きだし、それを何の躊躇もなく変化させた右腕に取り込みながら、フリーダーは言った。

「作業は全て完了しました。 この階層について、全てはありませんが、ある程度分かりました。 それに、様々な情報も副次的に入手する事が出来ました」

小さな虫が、入り組んだ管の間を這いずっていく。ああいう連中もいるだろうに、劣化せず稼働しているのは流石である。一つしかない部屋の入り口を見ながら、ファルは言う。

「で、結論は?」

「此処は、ディアラントにおける信仰の中心地点だった場所です。 当機達オートマターには存在自体が臥せられていて、今メインデータ;lasjdoqにldkfjwhfwして情報を取り込むまで、未知の存在でした」

「ディアラント人も、神を崇めていたの?」

「それが妙なのです。 此処はベノアでの言葉に訳すると、セントラルパンデモニウムと名付けられています」

確かに妙な話であった。何かの間違いではないかというコンデに、フリーダーは間違いないと断言した。

パンデモニウムは、万魔殿という空想上の建物を意味する言葉だ。それは魔界の深部にある魔王が住む宮殿で、文字通り万の悪魔が務めているのだとかいう代物である。何故信仰の中心である建物に、そんな名前を付けるのか。更にフリーダーは、奇妙なことを続けていった。

「此処はディアラント文明の中でも特殊で、一定以上の社会的地位、今のベノアで言えば公爵以上の貴族クラスでないと、入ることすら許されては居なかったようです」

「となると、愚僧達のなかでは、コンデさんしか入れないわけだ」

「恐れ多いことを。 今の小生には、実質上そんな地位はないわい」

「勿論冗談よ。 フリーダーちゃん、続けて」

「不思議なことに、魔界の存在のデータが多数此処には納められていました。 それも戦闘目的のデータなどではなく、まず名前、身長や体重、それに年齢など、殆どが人格を持った相手と接する為に必要なものばかりです」

更にフリーダーは続けた。しかもその情報は、驚くべきものばかりであった。

このセントラルパンデモニウムは、ディアラント文明の首都にあり、一方で生産や交通には一切関与していなかった。そのくせどうしてか技術流出の形跡があり、此処にあった技術がディアラント文明に供与されていた形跡があるという。親しげに交遊していたと言うよりも、畏怖を持って接されていたというのが正しいようで、公式訪問はいずれも短時間で片づけられている。そしてそういった訪問を出迎えたのは、魔神ばかりである。特に高位の魔神になると紳士的で理知的な性格を持つという話は有名だが、そんな最上位クラスの魔神ばかりがこの建物には来ていたというのだ。そして人間が、それを訪問し、歓談して帰っていったというのだ。神学者が聞けば卒倒するような話である。信仰心が薄いファルでさえ、正直驚きが隠せない。

「と言うことは、この建物は、ディアラント人が造ったけど、管理していたのは魔神……そういうこと?」

「と言うことになるようです。 他には、ディアラント文明の栄枯盛衰が、三百年ほどに渡り、大雑把に記録されています。 うごめくものが現れてからは、記録はカットされていました」

「おいおい、一体どういう事なんだよ!」

「これは仮説だけど……此処はディアラント人には信仰の対象だった。 一方で、此処を管理している魔神は、別の目的で使っていた。 愚僧が推測するに……何かしらの監視機構として、この建造物は機能していた」

顎に手を当てたまま、エーリカは推理を皆へ披露していった。

「ひょっとすると、ディアラント文明は魔界の技術力によって成り立った文明だったのかも知れない。 そして何らかの理由で技術を提供した魔神達が、人間を監視する為にこの建物を使っていた。 そうすれば、奇怪な情報の数々に、整合性を持たせることが出来るわ」

「な、何とも……その……驚くべき仮説じゃの。 確かに一部のディアラント文明研究には、その技術が異世界からもたらされたのではないかというものもあるが、まさかそのソースに魔界を持ってくるとは。 相変わらず恐ろしいのう、エーリカ殿は」

「まあ、その仮説がどうなるかはおいておこう。 となると、やはりうごめくものは、魔界とは関係のない存在なのだろうか。 或いは魔界が何かしらの理由で、ディアラント文明を滅ぼす為に現世に呼び出したのか?」

「それが……イザーヴォルベットという記述があるうごめくものについては、此処の情報でも畏怖を持って扱われています。 それに被害がどうこうという記述もあるので、おそらくうごめくものと魔界は関係がないと思います」

確かにうごめくものを魔界が操っていたなら、被害などと言う記述はしないだろう。どちらにしろ、魔界と関係する相手であっても、そうでなくても、手強い相手であることは間違いない。それにしても、多くの知識を得て、却って謎が深まった気がする。考え込む皆に、フリーダーはもう一つ、直面する謎に対する情報を提示した。

「それと、あの大きな扉なのですが」

「うん?」

「あれについては、情報が存在しません。 建物の大まかな構造の情報はあったのですが、それの何処を探しても載っていないのです。 構造的にも妙な存在ですし、ひょっとすると後から付け加えたものなのかも知れません」

「うふふふふふ、まさか自力で其処までたどり着く人間が居るとは思わなかったわ」

反射的に皆が構えを取る中、不意に響渡った声は、揶揄するように部屋中に満ちていった。声の主を捜して、ファルは妙な機械に気付いた。先端部が丸く膨れた棒で、膨れた部分は網状の外皮を持ち、棒の部分には横に無数の筋が入っている。膨れた部分の中央には穴が空き、へこんだ中には複雑な機構が見て取れた。機械であることは間違いないのだが、それから人の声、しかも一度だけ聞いたあの魔女アウローラの声が漏れ来るとは思いもしなかった。やはり、ディアラント文明は底が知れない。

「魔女、アウローラか!」

「何処だ、出てきやがれっ!」

「落ち着きなさい。 相手に敵意はないわ」

ロベルドに冷静に言うエーリカは、それでも冷や汗をかきつつ、油断無く辺りを見回している。不意にさっきまでフリーダーが触っていた機械が音を発し、無数の文字が映っていただけの画面が揺れる。其処にアウローラの顔が映し出されるまで、殆ど時間的間隙は無かった。ファルも驚いたが、コンデなどはひいっと悲鳴を上げて、エーリカの後ろに隠れようとした。それを見て無邪気に笑うアウローラには、どうしてか邪気が感じられない。それが故に感じられる危険さも尋常な次元ではない。

改めて近くで見ると、アウローラは目が覚めるような美人であった。噂には聞いていたのだが、確かに常軌を逸した、背徳的な美貌である。緩やかで艶やかな黒髪を、紅く爪を塗った白すぎる手で掻き上げながら、魔女は言葉を続ける。

「オルトルードに伝えなさい。 契約の一端は成り、王女は解放されると」

「契約、だと……」

「ヴェーラさん、静かに。 アウローラ、オルトルード王に、今貴方が言ったとおりのことを伝えるのなら別に異存はないわ」

「そう。 物わかりが良くて助かるわ。 ご褒美に、それを持って行きなさい。 きっとそれを王に見せれば、更に話が早くなると思うわ」

床の一角が開き、酒場のテーブルほどの台がせり上がってくる。三角柱の紅い棒がそれには乗せられており、棒が現れると同時に魔女の姿は消えた。沈黙が場に戻ってきた。それはとても重苦しかった。鎖が着いていて、小じゃれたアクセサリのようになっている三角柱を持ち上げてみる。嫌みなほどに、あの大きな扉の鍵穴と大きさが一致していた。腕組みしたまま、エーリカは言う。その声は低く、何処か地震を想わせる迫力があった。

「取り合えず、はっきりしていることがあるわ」

「な、なんだよ」

「オルトルード王と魔女アウローラは、裏で連携して行動していた、という事よ。 そしてオリアーナ王女はそれに巻き込まれる形で、本人の意思いかんに関わらず迷宮に閉じこめられていた。 あの様子だと、本人同意の上での可能性が高いけどね」

識別ブレスレットがはまっている右手を軽く持ち上げる。どうしてかそれが、いつもよりずっと重く感じた。固めた拳がギリギリと音を立てる。言われてみれば、思い当たる節はいくらでもあった。ファルはオルトルード王を尊敬していたし、今後だってそうだ。だが、この件に関しては、王に対して確かな憤りを感じていた。尊敬した結果、相手の全てを肯定してしまうような愚劣さと、ファルは無縁であった。怒りを感じているのは、ファルだけではなかった。殴打音が響き渡った。エーリカが、アウローラが消えた辺りに、拳を叩き付けていたのである。ゆっくり振り返ったエーリカの顔には、魔神を思わせる恐るべき笑顔が浮かび、全身からは灼熱のオーラが吹き上がっていた。

「場合によっては、愚僧、怒るわよ。 止めないで頂戴」

「それに関しては私も同じだ。 オルトルード陛下の返答次第では、王都に血の雨を降らせてくれよう」

頷きあうファルとエーリカの後ろで、どうしてか他の四人が蒼白になって後ずさっていたのは秘密である。

王宮に殺気だった二人と、それに引きずられる形で残る四人が殺到したのは、これより半日ほど後のことであった。

 

忍び装束の襟をそれとなくなおしながら、ファルは殺気立つ心を無理矢理押さえつけ、エーリカに次いで足を踏み出した。困惑する衛兵達は、妙に殺気立っているエーリカとファルに怯えながらも、きちんと案内してくれる。どうしてか、後ろの四人が、衛兵達に同情するような視線を向けていた。

王宮に足を踏み入れるのは、これが二度目になる。一度目は緊張するばかりで、周囲を田舎もののように見回すばかりだったような気がする。天気も良くて空気も心地よく、庭師に挨拶を返したような記憶があった。今日は些か状況が異なる。迷宮の外に出た途端、土砂降りに見舞われた。睡眠を取りたいのを我慢して、正装に着替えるとすぐに準備して宿を出てきた。迷宮を出ると休みたがる癖が体に染みついてしまっているので、とてもだるい。それが苛立ちを無闇に増幅して、ちょっとしたきっかけだけで理性が飛びそうであった。ごうごうと場の空気にそぐわぬ音を立て降り続ける雨の音も、かんに障った。

衛兵にあの三角柱を見せるだけで取り次いでくれたことから言い、ほぼエーリカの推理は間違いがない。大股で王宮の中を歩いていくと、前から歩いてきた騎士団長に鉢合わせていた。騎士団長の顔にも緊張が張り付いており、敬礼を交わすと、歩きながら小声で話す。

「おはようございます、騎士団長閣下。 今日は陛下に御用ですか?」

「うむ。 実は今大急ぎで呼び出されたのだ。 リンシア達は迷宮の入り口で待機して貰っている。 本当なら、今日も迷宮に出かけたかったのだが」

「其方は何か進展が? 此方は地下九層に達しました。 他にも、七層のショートカットルートを開発しました。 後で報告書を冒険者ギルドや忍者ギルドに提出しますので、目をお通し下さい」

「此方は六層の探索がほぼ終わった。 一カ所、六層最深部に、もう一つ詰め所を作れそうだ。 七層に関しても、君達が発見したルートを後で検証し、騎士団に交付することにしよう」

七層入り口側に詰め所が作れるとすると、確かに探索がある程度楽になる。礼を言いながら、もうファルは謁見の間側まで来ていることに気付き、口をつぐんだ。

騎士団長と別れて、衛兵に促されて謁見の間に進む。眉をひそめたのは、王が其処には居なかったからである。代わりにいたのは、きちんと正装したライムであった。正装したと言っても、忍び装束ではなく、ドゥーハン軍の正式供与服である。忍者がこういったきっちりした軍服を着ているのは、どうしてか奇妙な違和感があった。ライムの周りには、見知った顔が幾つかある。軍服を着ているが、皆情報収集系の忍者であった。

「ライム、何故に、この様な所にいる」

「ファル、久しぶり。 皆を案内するように、陛下に仰せつかっているわ。 此方へ来てくれる?」

 

ライムに通されたのは、応接間とは全く違う趣の部屋であった。雰囲気的には執務室に近く、執筆机には現にインク壺とペンが置かれている。周囲の調度品もよく手入れされていて、此処を管理している人間の緻密な性格が伺える。やがて、皆が入ってきたと戸は別の戸から、王が入ってきた。ファルの眉がやはり跳ね上がる。王は窶れているどころか、全く健康に問題が無さそうに見えたからだ。容姿だけではなく、足取り、視線の移動、体重の移動、全て健常者以上に完全だ。つまり、王の体調不良というのは、嘘だったと言うことになるのだ。以前、何かしらの化粧をしているのではないかと、ファルは疑いを抱いた事がある。それは的中していたのだ。

三角柱のカギを机の上にゆっくり置くと、エーリカは静かに、だが途轍もない威圧感が籠もった声で言う。

「説明を頂けますね? 陛下」

「……今、騎士団長に、オリアーナを迎えに行かせた。 後で彼の小言はいくらでも聞くつもりだ。 それと、君達も騙していてすまなかった」

「騙していた理由によります、陛下。 理由によっては、この王宮を火の海にさせて頂きますわ」

エーリカは本気だ。ファルも彼女が暴れ出したら躊躇無く加勢するつもりだ。今まで迷宮で一体どれだけの人間が命を落としてきたか、わざわざエーリカが声高に言及するまでもない。金目当ての盗賊擬きも多かったし、権力欲に取り付かれた自称勇者も多くいた。しかし、王の忠臣達が、王を尊敬する者達が、それと同数以上にあの暗い穴蔵の中で命を落としてきたのだ。エーリカの怒りは当然のことであり、王を尊敬するファルもとても止める気にはなれなかった。

今のファル達がその気になれば、実戦経験不足の王宮の兵士などそれこそ草か何かのように踏み蹴散らす事が出来る。詰め寄るエーリカに、王は静かに嘆息した。

「君達は、膨大な犠牲の上に産み出された人類最強の存在だ。 そしてうごめくものに対抗する、最後の切り札でもある。 ならば、何故自分たちが戦っているのか、余とアウローラがどうして契約したのか、知っておく権利があろう」

「……」

「全てはあの日、リシュルエール沃野での決戦が行われる前の日に始まった」

王は過ぎ去った歴史のひとこまを見つめながら、静かに話し始めた。

バンクォー戦役最後の日とも言われるリシュルエール沃野決戦。その前夜、オルトルード王とカール王が引き連れていた、合計一万近い兵がこの世から忽然と消えたのは、有名な事実である。オルトルード王がその経緯を語ろうとしない為、今までその真相は謎に包まれていたが、王はそれを静かに暴露した。

 

ドゥーハン各所から結集した軍は、各地での小競り合いも優勢に進め、既に天を衝かんばかりの意気を有していた。それらを束ねて制御しながら、オルトルードは匠に兵を移動させ、カール王との衝突を避けながら、敵の戦力を削り続けていた。勿論彼も、陣地の奥でふんぞり返っていたわけではない。少数の精鋭を連れて自ら敵陣を毎晩のように奇襲し、疲れ果て食料も残っていないサンゴート軍を痛めつつけ続けた。既に集結したドゥーハン軍は三十万以上という史上空前の戦力を有しており、これに対してサンゴート軍は本国からの増援を加味しても二十万に達しないことも報告されている。しかも補給がとぎれがちで、兵士達の士気は低く、まともにここ数日食事を取っていない事も確認されている。サンゴート軍が陣取っているリシュルエール沃野の周囲は天険の要塞だが、既に其処を攻略するべく徹底的な情報収集が行われており、戦ったら絶対に勝てると、オルトルードは確信していた。後はカールを如何にして押さえ込み、その足下を崩すかだが、それに関してもオルトルードには秘策があった。まず第一に攻城用クロスボウである。城門すら貫く巨大射撃兵器を、対カール用に三十個も用意してきたのだ。カールが突撃してきたら、クロスボウでの集中斉射に加えて、これを一斉に叩き込む。それをも突破した場合は、落とし穴、それに十人がかりで詠唱した攻撃魔法を複数ぶち込む。更には投石機などで迎え撃つつもりであった。実際問題、オルトルードは其処までしなくても勝てると、今までのカールの戦いぶりから判断はしていた。しかし部下達を安心させるには明確な準備が必須であり、念には念を入れるという意味もあり、過剰なまでの兵器を用意していたのである。

その日もオルトルードは、訓練が足りない兵士三千ほどを率い、朝靄の中敵陣へ向かっていた。もともと傭兵だったオルトルードは練度の低い兵士を如何にして鍛えるかに習熟していたし、もうリシュルエールの周辺は彼の庭にも等しかった。無論周辺は精鋭で固め、油断などはしない。だが、オルトルードには不安があった。危険を覚えた時に感じる、妙な胸騒ぎが、彼の中で渦巻いていた。鬱蒼と茂る森を抜け、小高い平原に出る。森に部下達の大半を残し、青々と草茂るそこで、馬上にて敵陣を眺めやるオルトルードに、部下の一人が不安に満ちた声を掛けてきた。

「オルトルード閣下」

「うむ」

「先ほど、ゼル様の配下が書状をもって参りました。 急ぎの用件だとか」

敵には気付かれていないことを確認した上で、オルトルードは頷き、一旦森へ戻って書状を広げた。そこには穏やかならぬ事が書きつづられていた。ドゥーハン王家主導で、オルトルードを排除しようとする動きがあるというのである。確かにサンゴート軍を追い払った各地での歓迎ぶりや、民衆のオルトルードへの信頼は、腐敗し堕落した王家などとは比較にもならない。オルトルードは傭兵時代の経験を生かして兵士達の士気を高く保つことに務めており、彼らがほとんど略奪行為を行わなかったのもそれに大きく寄与していた。それ故に、王家がオルトルードを煙たく思っているのは知っていた。何しろ、何度もアサシンを送り込まれたからである。オルトルードを更迭しようと言う動きもあったらしいが、彼無くしてサンゴートに勝てるわけがないことは良く知られており、部下達もオルトルード以外の主を受け入れるわけもなかった為、其方は見送られていた。ゼルがわざわざ書状を送ってきたと言うことは、王家がまた別のことを考えた、ということであろう。眉をひそめて書状を読み進めるオルトルードは、嫌な予感がする語句に当たった。

「うごめくもの……?」

「は、はあ。 うごめくものとは、なんでしょうか」

「歴史上幾度も出現している破壊者だ。 正体は分かっておらぬが、今までに幾つもの国家や文明が滅ぼされている。 王家は奴らを呼び出す方法を古書から引っ張り出して、何かの目的で使うつもりだという話だ。 既に実験は完成し、既に戦場に投入可能な状態だという。 あの冷静なゼルが、用心せよと念を押してきよるわ」

オルトルードは爪を噛んだ。王家の連中がバカ揃いだというのは知っていたが、まさかこれほど危険な存在に手を出すとは。実験だけでどれだけの人間が殺されたのだろうか、正直見当もつかない。

実際、この戦いが終わったら、オルトルードは引退することも考えていた。充分な富は蓄えたし、故郷に戻って静かに暮らすことも悪くないと思っていたのだ。しかしゼルの報告で、その気は一切無くなった。王家の連中は生かしておけぬ。自浄作用も少しは期待していたのだが、それもないことが明らかになった。出来るだけ早めに戦いを終わらせ、奴らを消し去るしか、この大陸における未来はない。そして、手紙の最後の一節に、オルトルードの決心を盤石とする一文があった。

手紙を握りつぶしたオルトルードの拳は震えていた。部下達の困惑を余所に、彼は呟いていた。

「父よ……母よ……!」

「閣下? いかがなされました!?」

「我が故郷が……王家の連中によって焼き討ちにされた! 生存者は……ゼロだと言うことだ」

そしてこの情報が届いたと言うことは、既に敵は動きだしていると言うことだ。硬直したオルトルードの脳裏を、故郷の光景が掠め去る。無口だが優しかった父。豪放磊落で快活だった母。自分を理解し、快く外の世界に送り出してくれた二人の笑顔。邪悪なまでの怒りが、将軍の全身を焼く。そしてそれが、却って意識覚醒の助けとなった。オルトルードは虚脱から立ち直ると、すぐに部隊を纏めるように指示した。そして、伝令を飛ばし、本陣にも守りを固めるように指令した。矢継ぎ早に手を打つ彼の耳に、喚声が飛び込んできた。同時に複数の矢が飛来し、或いは生身の喉に、或いは鎧に突き刺さる。

「敵が現れました! 数、およそ四千!」

「将帥旗があります! カール王率いる最精鋭です!」

「……読めたぞ、古狸どもが。 全員、散れ! 本陣に逃げ込め!」

馬に飛び乗るオルトルードの指示で、ドゥーハン軍は四方に散った。オルトルードには敵の手がもう分かっていた。カール王に出撃したオルトルードの居場所を知らせ、交戦に陥った所でうごめくものを投入、双方を纏めて皆殺しにするつもりだ。王家はスパイも飼っているし、総力を挙げれば不可能なことではない。歯ぎしりするオルトルードの前で、状況は加速度的に悪くなっていった。

カール王が巨大な戦斧を振り回し、既に全身を鮮血に染めながら、森の中を驀進してきた。オルトルードは周囲の最精鋭を率いて迂回、その部隊の横っ腹に食いつき、敵兵を当たるを幸いに切り伏せながら、必死に味方の退路を作った。だが、それらの努力は水泡に帰した。周囲から、地鳴りのような音が響来る。そして、オルトルードの本能が、全力での待避を求め、脳裏に警告を最大限の音で鳴らし来た。空が曇る。周囲の障気が濃くなっていく。動物たちが逃げ出し、高みへ登っていた太陽に異変が生じた。黄金色の太陽が、夕日が如き赤一色に変じたのだ。この時になると、既にサンゴート兵にも乱れが生じ始めていた。大斧を振り回していたカール王も、唖然と空を見上げ続けていた。

「隔離結界……!」

オルトルードが呟く。以前ベルタンや他の仲間達と一緒に強力な魔術師と戦った時に、同じ現象を見たことがあった。空間を余所と隔離する最高等魔術の一つで、空間転移術と並ぶ、失われた秘法である。現在では古代のマジックアイテムを使うしか展開方法が無く、滅多に見られる代物ではない。おそらくドゥーハン王家は、秘蔵していた全ての力をこの作戦に投入してきたのだ。空を飛んでいた鳥が、見えない壁に跳ね返されて落ちてくる。オルトルードは、部下を散らせたことが失敗だったと、今更ながらに悟り、慌てて皆を束ね始めたが、遅きに過ぎた。森の各所から、恐怖の悲鳴が上がる。闇の中からせり上がるようにして、具現化した恐怖が実体化していく。空を、得体が知れない影が覆い尽くしていく。陽光を遮らんばかりのそれらは、周りに充ち満ちつつ、歓喜の咆吼を上げた。

後に知るのだが、この時現れたのは最下級のうごめくもの、アンテロセサセウとヴェフォックスであった。しかし、最下級であっても、その破壊力は正しく悪夢であった。沸き上がるようにして地面から這い上がってきたのは、死人の肌色をした巨大な芋虫。額には大きな角があり、見る間に其処へ魔力が集中していく。人間ではどうやっても追いつけない超高速詠唱だ。数十体の巨大な芋虫が、体をくねらせながら、絶望的な術を同時に発動する。

「アモーク!」

それは、本来かまいたちを起こす術であり、僧侶系術の中では高位に位置する攻撃術である。破壊力はかなり高いが、絶望的なほどではない。だが芋虫共が放ったそれは、もうかまいたちなどと言う生やさしい代物ではなく、魔王の肉切り包丁に等しかった。人体が他愛もなく切り裂かれ、鮮血が飛び散る。鎧や剣すらも引きちぎられ、絶叫も上がらぬまま、兵士達が地面に叩き付けられていく。むしろ悲鳴は、真上から上がった。

「た、たすけてくれえええええっ!」

空から襲いかかってきたのは、翼が四枚もある、ドラゴンより大きな怪物であった。それはかぎ爪で兵士達を数人纏めてつかみ取ると、巨大な口に躊躇無く放り込んだ。そして口から光の束を、地面で逃げまどう兵士達に投擲する。爆発が連鎖して起こり、千切れた人体が木々や砂塵とともに舞った。

「ひるむな! 一体一体に集中攻撃しろ! 活路はあるはずだ!」

オルトルードは叫びながら、自らも愛剣を引き抜き、巨大な芋虫に駆け寄りざまに一撃を浴びせた。しかしどんな魔術師の強力な防御結界も切り裂いてきた剣が、乾いた音と共にはじき返されてしまう。舌打ちした彼は馬に鞭をくれ、首をもたげて追ってくる敵を匠に誘導しながら逃げ回る。巨大な口を開けて、真っ赤な口を開けて、芋虫が凄まじい勢いで追いかけてくる。尻を囓られて馬が竿立ちになる。しかしその時、既にオルトルードはその背に居なかった。そのまま竿立ちになる馬に背中からかぶりつく芋虫。その背中に、オルトルードの剣が突き刺さっていた。今の瞬間に近くにあった木へ飛びついた彼は、馬を囮にして敵の背後に回り込み、先手を取ることに成功したのである。身をよじって暴れる芋虫の背中からは、白濁した血が流れ出していた。背中からなら攻撃が通る。オルトルードは剣で敵の体内をひっかき抉りながら、部下達に大声で呼びかけた。

「後ろから攻撃しろ! 背中は無防備だ!」

柄まで剣を埋め、更に頭に向けて一気に引き裂く。絶叫した芋虫は不意に塵になり、風にながされて消えていった。地面に叩き付けられたオルトルードは、何とか立ち上がると、目を覆わんばかりの惨状に愕然とした。既に周囲は掃討戦に移っており、芋虫共は兵士達をむしゃむしゃと食べ、歓喜の咆吼を上げている。空を舞う巨大なドラゴンに似た存在も、真っ赤な口をせわしなく動かして、かぎ爪一杯に捕まえた食物を頬張っていた。歯を噛むオルトルードに、足音が近づいてくる。振り向いたオルトルードの目に、カール王の姿が飛び込んできた。オルトルード同様、白い異様な血液にまみれた戦斧を手にしていた。

「アンテロセサセウに、ヴェフォックス……」

「知っているのか、カール王」

「サンゴートにも二度現れたことがある、うごめくものだ。 数万の犠牲と引き替えに知った奴らの弱点を、こうもあっさり見つけるとは。 我が軍を此処まで追いつめたことはあるな。 褒めてつかわすぞ、オルトルード」

「……それは、死に行く者の余裕か?」

最初の一斉射撃の時にやられたか、カール王は脇腹を大きく裂かれ、自らの血にもまみれていた。彼は不死身の怪物などではない。そう、目の前の現実が証明していた。乱れた息を整えながら、カールはにいと凄絶な笑みを浮かべていた。周囲の芋虫共が、徐々に此方へ集まってくる。奴らの視線は、怪我をしているカールに、比較的多く注がれていた。

「そうかもしれぬな」

「これは……恐らくトチ狂ったうちの王家の連中の仕業だろう。 少ない脳味噌でよく考えたものだ。 ……我が両親も、既に殺されたそうだ」

「そうか。 奴らを余が殺せぬのは残念だ」

「生き残ったら、私が奴らを皆殺しにしてやる。 だから、生き残ることを考えろ、カール王!」

何故、残虐非道なカールにそんな声を掛けたのか、オルトルードは分からなかった。今の短いやりとりの中、カールの中に悲しみと人間性を感じたからかも知れない。しかし、現実は残酷だった。兵士達を食らいつくしたうごめくもの共が、包囲を狭めてきていたからである。もう逃げ道はなかった。

芋虫が巨体からは信じられない身軽さで飛びかかってくる。横っ飛びに跳ね避けたオルトルードは、押しつぶされ、喰われていくカールの姿を見た。カールはばりばりと引き裂かれながらも、悲鳴一つあげず、最後の力を振り絞り相手の頭に一撃を叩き込んでいた。頭を割り砕かれたアンテロセサセウが塵になっていき、血を吐きつつ満足そうにカールは死んだ。死体に、アンテロセサセウが群がり、むさぼり食う。頭の中を沸騰した血液が蹂躙し、オルトルードは吠えていた。

「う、うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!」

その時。

振り上げた彼の手を華奢な手が掴み、何処か別のところへと連れ去ったのである。

それが、バンクォー戦役最後の戦いである、リシュルエール沃野決戦、その前日に起こった出来事であった。

 

「死を覚悟した余を助け出したもの。 それこそが、あの魔女アウローラだった。 奴が語ることはあまりにも恐ろしく、そして決断を強いられることだった。 結果的に余は奴の提示した契約を受け入れた。 だが、今でもそれを後悔している。 ひょっとすると、もっと良い解決策があったのではないか、とな」

王は語り、目をつぶった。彼は更に語り、自らが体験した恐怖の姿を、皆へ披露していった。

 

気が付くとオルトルードは、暗闇の中にいた。周囲には何もなく、ただ延々と闇のみが広がっていた。死んだのではないかとオルトルードは思ったが、しかしそれにしては脈もあるし思考もはっきりしている。彼はヴァンパイアを含む不死者ともかなりの回数戦ったから、死者が決して脈も持たず、余程高位の存在でなければ統一された意識も持たないことを知っていた。

闇の中なのに、どうしてか床はあった。壁もかなり高いが天井もあった。目が慣れてくると、そこが広い部屋だという事が見えてきた。ひんやりした、まるで墓穴の中のように寂しく冷たい場所だ。嘆息したオルトルードは、足音が近づいてくるのに気付いた。剣を抜こうとして、それを無くしてしまったことに気付き、オルトルードは二度目のため息をついた。良い剣だったのだ。

やがて、人影がはっきり見えてきた。優雅に歩いてくる其奴は、女だった。若い女だった。近づいてきて、絶世の美女だと分かった。更に近づかれ、それが絶世などと言うレベルではなく、正に背徳の結晶とでも言うべき破壊的な美貌であることが分かった。オルトルードは今まで結構な数の女性に会ってきたが、それでも見たこともないほどに美しかった。何というか、常識的な美貌とは、根元的な次元が違う印象である。それを見て、オルトルードは却って警戒心を刺激されていた。何事も度が過ぎれば体に毒だ。美貌も度が過ぎてしまうと、却って畏怖の対象となるのである。女が指を鳴らすと、部屋に薄明かりが満ちていく。そして、彼女は整いすぎた形の、桜色の唇を開いた。

「初めまして、オルトルード」

「そなたは、何者だ」

「私の名はアウローラ。 名前くらいは聞いたことがあるでしょう?」

「そうか……そなたが」

オルトルードは、剣が手元にないことを心底残念に思った。アウローラの名は彼も当然知っている。あのうごめくものに比肩すると言われる、破壊と魔性の根元。彼女によって滅ぼされたとされる国は数限りなく、無謀にも挑んで消し炭にされた冒険者の数は河原の小石の数ほどもあろう。

「安心しなさい、別に取って喰べやしないわ」

「さあて、それはどうだかな。 私を助けたのは何故だ、アウローラ」

「貴方に見込みがあるからよ。 私の目的を果たしうる逸材としては、数百年ぶりの存在だわ、貴方は」

「余を利用する為に生かしたか。 だが、そう長い時を経ず、貴様は後悔することになるぞ」

怖くないわけはない。事実アウローラの超絶的な魔力は、話しているだけでも肌から伝わってくる。この女は強い。剣を持っていても、それどころか仲間達がこの場にいても、勝てるかどうかは分からない。だが、不思議とオルトルードは落ち着いて、冷静に啖呵を切ることが出来た。それに対し、魔女はあくまで冷ややかで、ころころと鈴を転がすように笑う。まるで老人が幼児をあやすように、余裕のある動作であった。

「うごめくもの、は知っているわね」

「無論だ。 歴史上何度も出現し、破壊と災厄をまき散らしてきたものども。 破滅と悪の権化と言っても良い。 そして、さっき私の部下達を無惨に喰い殺した憎き仇だ」

部下達を喰い殺したあの姿、禍々しき邪悪の者ども。オルトルードは今日の無念を、決して忘れはしない。あのカール王ですら、うごめくものに比べれば理知的で会話が出来そうな雰囲気であった。

「うふふふ、今日貴方が目撃したのは、うごめくものでも最下位の者達。 血迷ったドゥーハン王家の者達が、浮浪者や奴隷を数千人も殺して凝縮した命と負の思念の結晶を作り、それと儀式魔術を使って呼び出した、いわば奴らの使い走り」

「あれで……使い走りだというのか」

「そう。 そして遠からず、この大陸には奴らの上役が現れるわ。 その能力は、あんな使い走り共とは比較にもならない。 そして二度目の飽食の時を迎え、人間共を今度こそ残らず食らいつくしてしまうでしょう」

今まで何処か楽しげだったアウローラの美しい顔に、その時初めて陰りが見えた。

思えば、歴史の彼方此方に登場するアウローラは、正体不明の存在である。様々に悪い噂もあるし、事実多くの人間も殺している。が、間近で真実の姿を見てみると、何処か憂いと悲しみも秘めているようにも見える。彼女の口から紡ぎ出される言葉は、オルトルードには、悲鳴にも聞こえていた。

「私の目的は、奴らの根元的な抹殺よ。 オルトルード。 そのためには、貴方を利用するのが最善なの。 まあ、貴方が駄目というのなら、座して三度目の機会を待つだけのこと。 私にはいくらでも時間があるのだから」

「話を、聞かせて貰おうか」

「あら? どういう風の吹き回し?」

「私にとっても、あのうごめくものが人類を食い尽くすなどと言う許し難き暴挙は耐えられぬ、という事だ。 それに、わざわざ危険を冒して、あの状況から私を助けてくれたのだ。 話くらいは聞くのが筋だろう」

「うふふふふ、物わかりが良くて助かるわ。 流石に数百年に一人の逸材ね」

アウローラは指を鳴らす。無数の図が空に浮かび上がり、形を為していく。どれほどの技術があればこんな事が出来るのか、想像出来ない。やがて蟻の巣のように連結した図を指さしながら、魔女は蠱惑的な唇を動かした。

「これはカルマン。 私が四百年がかりで設計した檻よ」

「檻、だと?」

「そう、檻。 うごめくものを呼び出し、その力を削ぎ、そして滅ぼし去る為に作り上げた檻よ。 今から二十年の後、私は是の入り口を、現在のドゥーハン王都に開放する」

「それで私は、何をすればよいのだ」

「貴方の仕事は、最強の戦士の育成よ。 うごめくものを倒しうる、最強の存在を育て上げる、ただそれだけ。 方法は問わないわ」

アウローラの言葉には、冷酷な響きがあった。

「遅かれ遠かれ、この大陸にうごめくものが現れ、文明と人類を食らいつくすわ。 カルマンの迷宮に現れた奴らを倒せなければ、結局放置しておくのと同じ結果がもたらされるでしょうね」

「……」

「保険として、貴方のもっとも大事な存在を、その時に人質に取らせて貰うわ。 ただ、地下九層、魔界に匹敵する魔境に到達出来る者が現れたら、その時は人質を無事に帰してあげる。 せいぜい必死に頭を回転させる事ね」

アウローラの言葉には、根本的な人間に対する不信が宿っていた。オルトルードは、自分が基本的に信頼されておらず、ギブアンドテイクの関係を築かされようとしている事に、敏感に気付いていた。だが、その方が交渉としては却ってやりやすい。

「貴様は、ずっと憎み続けた仇を屠ることが出来る。 私は、人類社会に害を為し続けた、うごめくものの脅威から民を守ることが出来る。 確かに、どちらにも損はない。 ……が」

「何をためらっているの?」

「強さというものは、犠牲によって築かれるものだ。 一体奴らを屠り去るのに、どれほどの犠牲を強いられるのか、私には分からぬ」

「八千八百万」

唐突に切り出された、途轍もない数字に、オルトルードは唖然とせざるを得なかった。それはベノア大陸に現在存在する人間の数より、何割か多かったのだ。

「ディアラント文明が滅びた時、奴らに殺された人間の数よ。 今度も、恐らくほぼ同数の人間が喰われるでしょうね」

「そうか、よく分かった。 如何なる犠牲を払っても、奴らを屠り去ることを約束しよう」

「うふふ、それでよろしい。 二十年後を、楽しみにしているわ。 それは、プレゼントよ。 今の技術でも、ぎりぎり再現は出来るはずよ」

アウローラが指を鳴らすと、オルトルードの胸元に、小さなブレスレットが降りてきた。同時に、周囲の空間が、ぐるぐると回っていく。気が付くと、オルトルードは血まみれのまま、自陣の近くに倒れていた。手には、今の出来事が嘘ではないことを示す証拠があった。緋色の宝石を埋め込んだ、不思議なブレスレットであった。

 

「……余はそれから、国内の安定と、秩序の構築に尽力した。 戦乱を保つことによって、質の高い戦士を産み出し続けることも考えたが、それはあまりにも民への負担が大きすぎる。 それよりも、国力を高め、社会情勢を改善し、何かあっても被害を最小限に押さえることが肝要だと思ったからだ。 余の尽力と裏腹に、戦いの種はいくらでもあったし、危険な魔物も存在したし、結局争いは消えなかった。 多少世は平和になりはしたが、軍人が減り冒険者が増えただけで、戦士と呼べる人間が減ることはなかった」

蕩々とオルトルード王は語る。腕組みしたままのファル、情報を整理すべくメモをとり続けているエーリカ。フリーダーは無表情のまま、情報の整理統合に務めている様子である。他の者達は三者三様の表情で、事態を把握することが精一杯の様子であった。

「冒険者達はカルマンの迷宮の中で鍛え上げられ、強くなり、やがて君達の様な存在が出現する事になった。 また、迷宮に入り込む様々な勢力を、余は敢えて黙認し、内部での権力闘争も好きにさせた。 そうやって争えば争うほど、最後に凝縮された強さは究極的なものになるからだ。 中に犯罪者も送り込むのを黙認したのも、ウェブスターの凶行を黙認したのもそのためだ。 記憶を固定し定着させるあのブレスレットによって、君達が力を増したことは言うまでもない。 ただ、話に聞く君達の応用力は、正直余の想像を超えていたがな。 うごめくものに対する準備は整ったのだ。 だが勿論、その過程で騎士団や冒険者を無為に大勢死なせたことは分かっている。 それは許し難き余の大罪であり、許されることでもないとな。 余を慕う者達も、多く死地へ送り込んでしまった。 故に余は、行動に責任を取るつもりでもある。 幸い、既に余が命を落としてもこの国はびくともしないよう、システムを作り上げることには成功した。 家臣団も、ベルグラーノとゼルとオリアーナを中心にまとまる事が出来るだろう」

「ええと、責任を取って死をお選びになるつもりですか?」

「死を覚悟して、余も戦いに赴くつもりだ。 自殺をするつもりはない」

「これは愚僧の意見ですが、陛下はまだこの国に必要なお方です。 安易にそんな道を選ばれては困ります」

今まで黙って話を聞いていたエーリカが、メモ帳をぱたんとたたみ、静かにだが非常に重い言葉を吐いた。目はしっかりとオルトルードを見据えている。ファルも一歩進み出ると、どんと自らの胸を叩いた。

「陛下の意志、目的については分かりました。 それならば、私にも陛下を恨む事は出来ません。 むしろ、陛下が苦渋の末に下した決断、感服する次第です」

「美化はいくらでも出来る。 だが、それと余がした真実はべつのものだ。 それに余でなければ出来ぬ事もある。 逃げるわけには行かない」

「陛下。 我らは、陛下には死んで頂きたくないのです」

不思議と言うべきか。それは別に力む事もなく、選ぶでもなく、自然とファルの内から出た。その言葉に、仲間達も賛意を示してくれる。驚いているのはライムだった。彼女も、ファルが視線を向けると慌てて首を縦に振り、同意を示してくれる。

「私の妹は、陛下のお陰で病死を免れ、良心的な孤児院に入る事が出来、今は宿の女将を立派に務めています。 そして今、陛下の告白を聞いて、私は陛下が信を持つに値する、この世では珍しい人間の一人だと確信する事が出来ました。 陛下、どうかまだ無茶な事はなさらず、健康と余命をお保ち下さい」

「君は冷徹刃の如しと聞いていたが、驚いたよ。 忍者ファルーレスト」

「噂は真実です。 しかし、その冷徹な刃も、時に己の鋭さを疎ましく思うのです」

もしこの王のような人物が、自らの周囲に一人でも居たら。幼い時分、心の道を踏み外す事はなかったのだろうに。エイミも苦労する事がなかっただろうに。好きな子供の前では不機嫌な表情になり怖がらせ、仲間には随分長い間心を開く事もなく。そんな偏屈な奴になる事もなかっただろうに。どうしてか、そんな言葉が、ファルの中で渦巻く。ファル自身、今まで自らの中に形作られていた事が嘘だとは思っていない。人間は現在でも信用していないし、その性質が悪だと断言も出来る。しかし、もしこの様な人物が側に一人でも居たら。家族とではなく、盟友として側にいたら。もう少し優しい、いや違う。そんな錯覚的な感情ではない。いうならば、尖っていない心。すなわち、もう少し丸い心を持つ事が出来ていたのではないかと、ファルは痛恨の想いでいた。だが、想いと現実世界での実現は別の話だ。彼女の経験が、ぎりぎりの戦いと決断の中で普通の人間などより何十倍も錬磨された密度の高い経験が、それを冷酷に裏付けていた。

「余は王だ。 国の危機に、王宮に隠れていてどうしようか。 それに信頼出来る戦力の一つを投入せずに、手をこまねいている事などは出来ぬ」

オルトルードがオルトルードであるが故に。ファルが信頼出来ると感じた、本当に数少ない人間であるが故に。王はファルの言葉をはねのけた。王は今の為にありとあらゆる準備をしてきたのだ。そして決して無謀ではないその計画性も行動力も、却って危機を呼ぶ事があるのである。王はエーリカと同じタイプの、天才型の人間だ。人間くさいところや、深い所での情けがある所も何処かにていた。

「明後日、九層にて余は待っている。 三角柱のカギを持って、例の扉の所まで来るようにな」

迷いを斬り捨てるかのように、王はぴしゃりと言い切った。ファルにはその決断を責める事など出来なかった。

 

4,戦いの前の日常

 

王の心は動かない。仮にも混乱の世を終わらせ、大陸レベルでの平和をもたらした英雄だ。少なくともファルの言葉は届かない。王は既に自らの意志で決定し、そのためにずっと準備をし続けていたのだ。ファルだって、同じ立場にいたら、きっと制止の言葉をはねのけただろう。痛いほどに立場は分かるからこそ、強引な手段には出られなかった。

王宮に乗り込む前に抱いていた怒りは、綺麗に雲散霧消していた。オルトルード王はファルが思っていた以上の人物だった。今では報恩以上に尊敬の念を彼へ抱いている。だが、それが故に。自室で土砂降りの空を見上げる。どぶ川のような、薄気味悪いこの空のように、ファルの心は曇っていた。エーリカは翌日出撃する事を告げると、自室へ引っ込んでしまった。おそらく戦術の練り込みを行っているだろう事は、見当がつく。後は意志疎通の効率化と高速化を、ファル達の方からも図らないと行けない。だが、今はそんな事をするほど、心の燃料が残ってはいなかった。

修羅場を潜ってきたファルには分かる。ああいっていたが、王は死ぬ気だ。死んで、自らが道となるつもりだ。無論ファルも常に死を覚悟して戦っているが、そういったものとは根本的に違う。王の周囲に漂う死臭は、尋常なものではない。きっと明後日、王は戦いの中で命を落とす。数限りない戦いを経験して来たファルには、それが痛いほど分かった。彼が抱いている罪悪感と、民の為にことを為さねばならぬ使命感は、心に鋼鉄の舵を作り上げていた。それを曲げる事など、魔神にだって不可能だ。ようやく会えた、本音のオルトルード王は、その気高き姿が故に、ファルのさしのべた手を取らなかった。

「のこるうごめくものは、スケディムと、それにアシラ……」

そのどちらかと、明後日戦う事になる。そして、必ず倒さねばならない。心の中で硬く硬く誓うファル。顔を上げたのは、戸を叩く音に気付いたからである。こんな近くまで接近を許すとは、不覚であった。殺気がなかった事もあるが、自らの精神に深く沈殿してしまい、外界を遮断しすぎていた。咳払いをすると、戸の向こうからロベルドが言った。

「おう、ファル。 その、迷宮の中で話した事なんだがな」

「ん、なんだ?」

「実は技術面で、情報を交換したいんだ」

戸を開けて見ると、ロベルドは等身大の大きな鏡を持っていた。彼は着いてくるように促し、裏庭に降りると、鏡を塀に立てかけた。裏庭は洗濯物を干す事も考慮して、簡単な屋根が付けてある。雨水が薄い屋根を乱打する音に混じって、宿の喧噪が、壁を通じて、僅かに聞こえ来ていた。

「ファル、お前、魔力視強化瞑想法で手に入れた魔力視能力を、敵の弱点を見る為に使っているよな」

「そうだ。 他にも、高速で移動する際に、空気の切れ目を見つける為などにも使っている。 それに何か新しい装備を仕入れる時にも、強度や空気抵抗を総合的に判断する為にも使っているな」

「やっぱり、そうだろうな。 俺はお前と逆で、自分の力を強化する為に使ってた」

「ほう?」

そういえばロベルドは、最近怪力という言葉ではくくれないようなパワーを見せている。ジャイアントとまともに打ち合ってみたり、この間はヴァンパイアロードに猛烈なショルダータックルを浴びせて有効打にしていた。ちょっとこの辺の破壊力は、パワーにおいて人間の中ではリズマンに次ぐドワーフであるからと言う理由だけでは説明が付かない。自らを祭器によってトランス状態にして、総合的な能力を強化しているヴェーラ同様、何かしらの手段で自らを強化しているのは見当がついていたが、確かに魔力流をコントロールして肉体強化を行っているというなら納得も行く。私服のままのロベルドは、肩を回しながら、大きな鏡に自らの全身を映す。

「鏡を通すと、魔力流がよく見えるんだ。  作りが良い鏡になるとなおさらな。 知ってたか? わざわざこれ、装飾ギルドに頼んで作ってもらったんだぜ」

「いや、初耳だ。 鏡には特殊な魔力があると聞いていたが」

「知らない事は率直にそうだって言って貰えると、話が早くて助かるぜ。 その辺は頑固なお前も素直だよな」

「良く意味が分からないが、それでどうするのだ?」

「何、理論的にはそう難しくねーよ。 瞑想法のポーズを取って、精神を落ち着かせ、全身の魔力流を良くする。 後は、強化したい場所に精神を集中して、そこの魔力流の流れを良くしていく」

砕く為に見るか、強くする為に見るか。ファルとロベルドの発想で、根本的に異なるのが其処であった。どっかと腰を下ろしたロベルドに頷くと、ファルは確かに彼の体を巡る魔力流が効率化するのを見た。欠点はあるにはあるが、細く短く、クリティカルヒットを浴びせるのは相当に難しそうだ。全身の魔力の巡りが良くなると、自然と筋力や血流も強化され、思考も速くなるというわけだ。無論この辺りは、実戦で鍛えに鍛えているロベルドだからこそ意味を為してくる事だ。ファルも全精神力を集中して、リミッター強制開放時に思考の加速を行っているが、ロベルドのそれはナチュラルに常時行えるという利点があり、実力の根本的な底上げに繋がる。

ただ、ロベルドの場合は、ウェイトリフティングなどを通じて、自己の肉体を詳細に知っているという利点がある。何処の筋肉が何処に繋がっているか、何処の神経を圧迫すればどう痛いか、理論ではなく感覚として知っているのだ。医療技術を持つエーリカの場合は理論的に知っているわけだが、この場合はそれより有利だといえる。ファルも自分の肉体を物として見るよう訓練はしているが、ロベルドほど徹底して感覚的に判断出来るわけではない。ともかく、大いに話そのものは参考となった。ファルは素直に礼を言った。

「なるほど、試してみよう」

「今度は交代な。 クリティカルヒットの事を教えてくれ」

「此方もそれほど難しくはない」

ファルのクリティカルヒットは、何度も皆に説明しているとおり、敵の魔力流を詳細に観察し、その最弱点に一撃を叩き込む。是によって、一見思いも寄らぬ場所を突く事によって、敵を屠り去る事が出来る。更に一度突いた致命点を更に粉砕する事により、敵の構造自体を瓦解させる事も可能だ。ただ、大きな欠点がある。未知の相手と戦う場合、長時間の(見切り)が必要となる事だ。これらの話を技術ベースで通していくと、腕組みしながらロベルドはふんふんと頷いた。

「時間を掛けて、敵を観察しないと行けない……か」

「今まで技術ベースでの解説をしなかったのも、聞かれなかったということ以上に、分かっているとおり貴公の戦闘スタイルに向いていないと言う点だ」

殆ど髭が生えていない顎をさすりながら、ロベルドは考え込む。やがて今や世界最強の戦士の一人である彼は、小さく指を鳴らした。

「いや、長期戦になると、多分相手の弱点を注視して攻撃するってのが絶対に効いてくるはずだ。 お前みたくピンポイントで貫通出来なくても、致命点に近い場所に攻撃していけば、闇雲に攻撃するよりもダメージは確実にでかいだろ?」

「なるほど、そういう考えもあるな」

確かにロベルドのいう事にも一理がある。ファルの場合は、基本的なパワーが敵に劣っているから、最後まで狙いを悟られない方が望ましい。一方でロベルドは相手が多少ガードした所で、それを力尽くで打ち抜いてダメージを通す事が出来る。バトルアックスという大味な武器の性質上、ピンポイントで狙う事は出来ない。しかし軽量の相手ならば、ガードごと魔力流集約点の周辺ごと敵をうち砕く事が出来るのだ。相手の魔力流集約点を見る事が出来れば、確かに多少はプラスになる。

「ありがとな。 役に立ったぜ」

「それは良かった」

「……なあ。 陛下、明後日死なないといいんだけどな」

空気が凍った気がした。ファルが感じていた事を、ロベルドも気付いていたのだ。

「あまり気にするな。 これは戦だ。 命をかけて戦うのは、うごめくものも俺らも陛下も同じだ。 同じ舞台に居るんだから、同じリスクを背負うのは仕方がねえことだろ」

「そんな事は分かっている」

「お前が分かっている事は、俺も知ってるよ。 後は、整理するだけだろ?」

「……ああ」

戦場に連れ出される兵士には、徴兵などによって望まぬ戦に狩り出されたものも少なくない。一方で、傭兵や騎士や志願兵など自己責任で戦っている者も居る。前者はともかく、後者は命を奪う仕事で生計を立てている以上、死を覚悟しているのが当然だ。王もファル達もその後者に当たる。ならば、ロベルドのいう事は正論となる。ファルもそれは分かっている。ただ、納得出来るかどうかは話が別だ。心の整理を付けねばならない。普段ならどうとでもなるはずなのに、どうしてか今日は上手くいかない。これはファルの問題だ。他の誰にも手助けは出来ない。

「じゃあな。 俺はもう明日に備えて休むぜ」

「ああ。 色々情報をすまないな」

ファルの考えを察してか、ロベルドはそれ以上何も言わず、鏡を抱えて宿に引っ込んでいった。雨足は衰えることなく、ずっと降り続いていた。

 

傘を差して雨の中出る。入り口で、タオルを手渡しながら、心配げにエイミが長い睫に彩られた目を伏せた。

「あまり遅くならないようにしてください、おねえさま」

「ん、分かっている」

分かってはいるし、遅くなるつもりはない。それ以上エイミは何も言わなかった。不思議と、今日は誰とも距離を取りたかった。

最初に向かったのは忍者ギルドだ。相も変わらずの掘っ建て小屋は、彼方此方雨漏りしていて、辺り中に盥やバケツを置いて、水を受け止めていた。長老達にレポートを提出して、大まかに必要事項を説明した後、帰ろうとしたファルは引き留められた。

「ファルーレスト、待て」

「何用でしょうか」

「ん、大した事ではない。 若い連中の稽古を付けて欲しいと思ってな。 少しだけで良いんだ。 頼めないか?」

長老達の中でも最年長の上忍が言い、そこそこ鍛えているらしい若い忍者が三人、促されて頭を下げた。ファルは頭を掻きながら、冒険者ギルドの訓練場に移動するよう皆に言う。

いわゆる訓練場は、冒険者ギルドの建物内部に設置されている。武器の扱い方や、魔物との戦い方などを学習する場所であり、世界最大のギルドである此処にある訓練場の規模は相当なものである。今日は土砂降りなので、実戦用の半分ほどは閉鎖されている。だが残り半分の屋内にある模擬戦闘用訓練場は開放されており、其処に皆と共に移動すると、ファルは腰の国光を外して長老に預けた。若い忍者の内、一番背が低い黒髪の青年が進み出、頭を下げる。何処かその目に侮りがあるのを、ファルは見逃さなかった。長老が青年の肩を叩きながら、皺だらけの顔に期待を浮かべた。

「佐助だ。 ユグルタ出身で、この間此方に来たばかりだ。 腕はかなりたつ」

「お願いします、ファルーレスト様」

「ん。 では、最初から全力で掛かってこい」

佐助の顔に浮かぶ侮りがより露骨になる。ファルは内心嘆息しながら、ゆっくり腰を落とし、構えを取った。頭の中がさえ渡る。今まで部屋でうじうじ悩んでいた時と違い、模擬であっても戦いに入ると、体が勝手に集中するのだ。この辺はもはや習性に近い。別に自嘲は覚えない。ファルは戦いそのものを、決して蔑んではいないからだ。前触れ無く、佐助が地を蹴り、中段からの突きを放ってきた。良い突きだが、ピットフィーンドのそれに比べると止まって見える。

勝負は一瞬であった。ファルは摺り足で滑るように間を詰めると、突きを左手で軽くガードしつつ、腹に右掌底を叩き込んだ。数メートルも吹っ飛んだ佐助という青年は背中からもろに地面に落ち、身動きしなくなる。伸びきる前に止めたのもあるが、基本的なパワーそのものが足りない。もっと腰を入れて打たないと、カルマンの迷宮に出現する魔物には通用しない。摺り足が甘いのも欠点だ。

観客からどよめきの声が挙がる。今の佐助という青年、新人にしては腕も悪くない。実際、新人の中ではかなり上位になるだろう。先ほどの侮りも、おそらく今まで故郷で不敗であった事が関係しているに違いない。だが、そんなプライドなど、此処では、実戦の場では何の役にも立たない。現有の戦力。それがもっとも重要な世界なのだ。経験を積めばどうなるか分からないとか、昔はどうであったかとか、そんなものは一瞬の判断が勝敗を決する実戦の前では塵芥も同然なのである。

ようやく起きあがった佐助は、何が何だか分からないと表情で言っていた。長老に助け起こされた彼は、静かにまだ戦えると主張する。ファルはつかつかと近づき、指先で額の魔力集約点を(彼女にとっては)軽く押してやる。がくんと青年がのけぞり、蒼白になって咳き込んだ。

「未熟を自覚したら、休んでいろ。 摺り足は甘いし、突きも腰が入っていない。 そんな実力でカルマンの迷宮に入ったら、一日で死ぬぞ」

「……くそっ!」

「次」

次の青年が進み出る。緊張しているのが見え見えだ。体格的には佐助より上だが、筋肉の密度や動きは劣る。

「イフレルだ。 グルテンの奥地からスカウトしてきた」

「い、イフレルでず。 上忍様、よろしぐおねげえしやすだ」

激しく訛りが含まれるベノア公用語に、ファルは眉をひそめた。これだと正直情報収集系忍者は厳しい。戦闘系忍者になるには、さっきの青年のような、闘争心が欲しい所だが、この青年に備わっているのか、ファルは不安を覚えた。

青年の体格はファルより二回り大きい。構えを取るファルに、遠慮がちに構えを取ったイフレルは、殆どノータイムで見境無く突っ込んできた。ぎりぎりまで引きつけると、ファルは隣を抜けざまに足を払い、更に上体を軽く崩してやる。顔面から地面に突っ込んだイフレルは、そのまま目を回してしまった。周囲の観客から失笑が上がる。だがファルは、観客ほどこの青年を低く評価しなかった。長老に助け起こされたイフレルに、ファルは静かに言った。

「案外度胸はあるな。 後は判断力と技術を身につけろ」

「へ、へい」

「次!」

最後に進み出たのは、ファルより少し小柄な娘だった。金髪の、整った顔をしている娘で、だが青い目にはファルのとは違った意味での鋭い光が宿っている。地味な忍び装束の上からも、女性らしい体の線がくっきり見える。観客が口笛を鳴らすと、いちいち娘は不機嫌そうな顔をした。動作も冒険者や忍者と言うよりも、いちいち女性らしさが前に出てくる。

「ユイン=フェーベルトだ。 ドゥーハン南部のロクトールスで、少し前にちょっとしたギルドの関連作業があって、その時にスカウトした。 情報収集系忍者を目指していたのだが、戦闘系に転向したいそうだ」

「よろしく。 ファルーレスト……様」

頭を下げるのが辛そうだ。没落貴族か、裕福な家のお嬢だなと、ファルは判断した。体のバネ自体はそれほど悪くない。しかし、問題が一つある。ファルが腰を沈めると、今までの二人より格段に良い動きで、ユインという娘は躍りかかってきた。

「はあっ!」

低い態勢からの、スライディングするようなローキックに続いて、一歩下がったファルへ連打を放ち、続けて抉り上げるような回し蹴りを放ってくる。ひゅっと鋭い音を立て、鼻先を靴先が掠める。更にもう一段、回し蹴りを、側頭部を狙ってかけてくる。悪くないが軽い。ぱちんと左手で弾くが、すぐに態勢を立て直し、拳のラッシュで間を詰めてきた。何とも血気盛んなお嬢ちゃんだ。動きも先の二人に比べて格段に良い。転向したいと言うからには、結構前から修練を重ねていたのだろう。軽く攻撃をいなし続けるファルに、お嬢ちゃんは激しい言葉を叩き付けてくる。

「逃げていないで、勝負しなさいっ!」

「君は面白いな」

「っ!」

自分がドラゴンの前にいる子犬だと気付かないユインは、あっさり挑発に乗った。数歩を跳ね飛ぶようにして下がると、跳躍してからの踵落としを仕掛けてくる。その瞬間、ファルも同じように動いていた。僅かに体の軸をそらすと、雷のような突きを顔面にはなったのだ。蒼白になったユインはあっさり目をつぶってしまう。哀れに思ったファルは手を開いて、喉を掴み、そのまま地面に押し倒した。下卑びた喚声を上げていた観客達は、もう静まりかえっていた。多分新人冒険者としては、このユインという娘が現時点で最強だと、皆気付いたのであろう。喉から手を離すと、ファルは全く息も乱さず言った。

「攻撃の筋は良いが、防御が甘すぎる」

「……」

「もう少し精神を落ち着かせて見ろ。 戦いの間だけでも良いから、鏡のように精神をとぎすませると良いだろう。 そうすれば、相手の力や、動きがもっと良く見えてくる」

目を潤ませていたユインは、助け起こされながら、ふんと悔しそうに鼻を鳴らした。どうやら後輩共も、皆一癖も二癖もありそうな奴らであった。

軽く戦うと、どうしてかもやもやは晴れていた。戦いそのものは、どう美化しても殺し合いであり潰し合いだ。だがその中で、落ち着き、居場所を見つけ、ナチュラルに(居る)自分がいる。改めてファルはそれを学んだ気がした。三人組を、冒険者ギルドの研修医に休憩室に運んで貰いながら、長老は言った。

「流石だな。 ファルーレスト。 もはや我ら老いぼれでは、束になっても君には勝てぬだろう」

「いえ。 学ばせて頂いたのは此方の方です」

「そうか。 戦いの道は過酷であるが、学ぶ道も多いからな。 迷いは晴れたと、判断して良いのかな?」

流石に年の功である。ファルはしばし目を細めて長老を見て、今一度礼を言った。外より響く雨音を背に、ファルは続けた。

「あの三人組が一人前になる頃には、この混乱も一段落するでしょう」

「だと良いのだがな。 我らも出来る事を必死にやり遂げるしかあるまいて」

無言のままファルは頷いていた。結局、能力の外にある事は出来ないのである。ならば、他者との連携や自己の錬磨によって能力を拡張するしかない。長老に礼をして、ファルは冒険者ギルドの中を歩きだす。ギルド本部にも提出する書類があるし、ベテランチームがどの辺まで潜っているか確認もしたい。もし機会があれば、他のチームがどれほどの実力を持っているか、見極めてもおきたい。七層以降に潜れるチームが居るようなら、手を組んで、今後の探索の情報交換などをしておきたいからだ。自分に出来ない事はどうしても出来ない。しかし出来る事はしておくべきだ。ファルはそんな風に思う。訓練場の周囲を彷徨くと、幾つか有名なチームとすれ違った。ファルに対して敵意や観察の目を向けてくる者はいない。向けてくるのは尊敬や畏怖の目ばかりだ。不快ではないが、それではファルのチームと共闘は出来ない。対等と言わずとも、せめて対抗心くらい燃やしてくれる、逆に言うと燃やせるチームでないと、情報交換は厳しい。

傘をさし、ギルドを出る。得られた情報は少なくないが、決して多くはない。ぬかるんだ地面。泥が靴に絡みついてくる。

少なくとも。あの半人前達が迷宮深層に投入されるような事態だけは避けたい。雨音の中歩きながら、ふとファルは思っていた。

 

図書館によって情報を集め、彼方此方の店を見て武具を補充した後、イーリスの家に寄る。雨がざあざあ降っているのに、相変わらず彼女の家は怪しい噴煙を吹き上げており、其処へ向かうファルに対して、住民は不安の視線を向けてきた。相変わらず戸は鍵が掛かっておらず、開けっ放しである。しかし、戸を開けると異臭と煙が出迎えしてくれるわけで、こんな家に入ろうという物好きな泥棒は少ないであろう。

「イーリス、いるか?」

愚問だとファルは思う。家に入って煙の発生源に踏み込むと、机にイーリスが突っ伏していた。慌てない。肩を揺すってやると、ちゃんと動く。引き起こして頬を叩いてやると、寝転けていたイーリスは、ゆっくり目を開いた。ファルが叩いたのと逆の頬と、枕にしていた机には、はっきり涎の跡が残っていた。

「んあ?」

「おはよう」

「んあ?」

「お・は・よ・う。 問題無さそうだな、イーリス」

目を擦っていたイーリスは立ち上がると、まるでゾンビのように手を前に出してふらふらと歩き出し、煙を大量に発していた容器を持ち上げ、上から下から覗き始めた。いつもの事なので、ファルは怒らない。

「良かったぁ……成功した」

「おはよう。 目が覚めたか?」

「あ、ファル。 いつから其処にいたの?」

「ずっといた」

ファルは怒らない。

「ちょっと待ってて、お茶にするから」

変な液体が入っていたのと同型の容器を取り出すと、躊躇無く茶を注ぐイーリス。すげなく自らの分を断ると、ファルは腰を下ろす。そして残念そうに茶を啜るイーリスを横目に、迷宮から回収してきた土やら何やらを取り出し、机の上に広げた。

「それと、今日は重要な話が二つある」

「うん、何?」

「一つは、犬を飼え。 このままだと、変質者に入られて殺されるぞ」

イーリスが蒼白になった。そして首をふるふると横に振る。

「い、いやっ! 犬はいやっ!」

「変質者ではなく、犬がいやなのか?」

「いやああああああっ!」

想定外の反応であった。イーリスが犬を嫌いらしいのはファルも知っていたが、此処まで極端な反応を示すとは思っても居なかったのだ。まあ、イーリスは冒険者としてもそこそこの力を持っているし、その辺の変質者など相手にならない。万が一を考えて今のような提案をしたのだが、本人が怯えすら湛えるのなら引っ込めるだけだ。

「い、犬なんて連れてきたら、私舌噛んで死ぬからね! ねっ!」

「分かった、犬は連れてこない。 だから落ち着け」

「ほんと? 嘘だったら怒るよ?」

「嘘ではないし、連れてこないから、その釜を床におけ」

涙目で頭上高く一抱えもある釜を持ち上げていたイーリスは、ため息をついて席に戻った。友人であるファルとしても、時々この娘の反応は分からない。さっきの反応からして、犬に対して何かトラウマを持っているのは間違いなさそうだが、それに触れるのは正直野暮であった。向こうが相談に乗ってきたら受ければよい。そう思って、ファルは二つ目の話に移った。

「もう一つは、カルマンの迷宮の事だ。 実はな、魔女に興味深い話を聞かされた」

そのままファルは、差し障りがある部分はぼやかして、イーリスに大体の事情を説明した。考え込んでいたイーリスは、ポーズを崩さないまま言った。

「一体、アウローラって何者なの?」

「それは、私にもまだ分からない」

「伝承によると、数百年も前から、かの存在は各所に現れているのでしょう? 昔の大魔術師の中には、何百年も生きた者がいるそうだけど、それともまた次元が違う。 ひょっとして、不死者なのかな」

「私は違うと思う。 一度遠くから本体を見たが、不死者とは印象が違った」

だが、人間というのにも違和感がある。あの図抜けた美貌は一体なんだ。ファルも上の上の中と言われる美貌の持ち主だが、アウローラと比べると蛍と業火だ。

そういえば、今まで奴の正体について、まじめに考えた事はあっただろうか。あの作り物めいた極端な美貌は、しかし何処かで見た事があるような。

「魔神か天使?」

「どちらも違う。 ひょっとして……」

「ん? 思い当たる節があるの?」

「ああ。 ……研究を続けてくれ。 私は戻ってから、その方向を検証してみる。 助けになる事なら、どんな些細な事でも構わない。 報告してくれ」

話を切り上げると、ファルは急いで外に出た。なりふり構わず外に出たので、雨に濡れて慌てて傘を差したほどである。

新しい焙烙を濡らさないよう、出来るだけ急いで戻る。宿に戻ると、エーリカがフリーダーに着せ替えをして遊んでいた。フリーダーはタートルネックのセーターと長ズボンとスニーカーという出で立ちで、小物を色々追加されて遊ばれていた。造作がいいから何でも似合う。タオルで頭を拭き、雨水を搾った傘をエイミに渡しながら、ファルは言った。

「ただいま」

「おかえりなさい、おねえさま」

「温かい飲み物を一つ、私の部屋に運んでくれ」

それだけいうと、フリーダーに目配せし、自室に戻る。しばしして、温かい飲み物を置きに来たエイミをそのばに呼び止めて置く。やがて、部屋にさっきの格好のまま、フリーダーが部屋に来た。

「何でしょうか、ファル様」

「うむ。 実は、聞き難い事なのだが」

「ファル様の質問には、可能な限り全てを応えさせて頂きます。 遠慮などなさらず、おっしゃってください」

「……戦闘型オートマターの寿命は、どれくらいだ?」

エイミが口に両手を当て、蒼白になった。フリーダーは別に何の変化も示さない。

「型式にも寄りますが、大体十万年から四百万年ほどです。 もしもオートマターが豊富な情報量を蓄え自己メンテナンスが出来るようになれば、半永久的に可動可能だと思います。 ちなみに当機は百三十万年は可動可能です」

「なるほど、そうか。 すまない、非礼な事を聞いた」

「何が非礼なのですか?」

「そうだな。 非礼ではないな」

フリーダーの頭を撫でると、エーリカの元へ戻って遊んで貰うように言う。頷くと、フリーダーはぱたぱたと駆けていった。飲み物を啜り、ファルは自らの目尻を擦った。

「すまないな、エイミ。 勇気の出汁に使って」

「ううん、支えにしてくださって嬉しいですわ」

「……一つ、はっきりした事がある」

ファルは意図的に言葉を切った。そして、大きな躊躇いと共に言う。

「アウローラは、オートマターだ。 ありとあらゆる状況証拠が、それを裏付けている」

沈黙の中、ファルは拳を机に叩き付けた。

「一体誰が……一番悪いのだ」

それに応えられる者など、何処にも居ない。ファルの問いは、虚しく流れるばかりであった。

 

5,王女の帰還と……

 

地下六層に、ゼルに案内されて向かった騎士団長。彼は最初その人を見た時呆然とし、次いで不死者である事を疑って剣を抜きかけ、不死者でない事をポポーに指摘されて再度呆然とした。次に彼が行ったのは、その人の前で、ゼルに食ってかかる事であった。

「き、貴様あああっ! 分かっていて、このお方が生きておられる事を黙っていたな!」

「聞かれてませんが?」

「おのれ、おのれええっ! 其処になおれ! たたっ斬ってくれる!」

二人とも、控えなさい

手甲を下げて遊び半分に構えを取るゼルと、顔を真っ赤にして本気で上段に構えるベルグラーノを、静かにその人が叱責した。地下六層の、複数に張られた防御結界の中で守られていた、王女オリアーナが。その威厳ある言葉に、はっとした騎士団長は慌てて膝を折り、剣を納める。もとよりリンシアもベルタンもポポーもアオイも跪いていた。かっては穏やかでたおやかで、国民皆の娘として愛されたオリアーナ。だが今の彼女には、それに加えて、深く静かな威厳が備わっていた。彼女は満足げに、刃を納めた二人を見やった。

「事情はおいおい説明します。 それよりも、ゼル。 騎士団長が此処に来たと言う事は、いよいよ時が来たのですね」

「はっ。 我が弟子とその仲間達が、地下九層に達しました。 アウローラが張った転移妨害の結界は解除されていて、もう地上に戻る事が出来ます」

「そうですか。 分かりました。 騎士団長!」

まるで若き日のオルトルード王に叱責されるようだと思いながら、ベルグラーノは言った。

「はっ! 殿下!」

「わたくしを地上まで護衛しなさい。 これより王宮に入り、政務を纏める準備に掛かります。 くわえて国民に演説する原稿を用意し、重臣達を呼び集める準備を行いなさい」

「すぐに準備いたします!」

背筋を伸ばし、騎士団長は立ち上がった。リンシアに指示を飛ばし、転移の薬を二つ用意させる。一つはリンシア自身が帰還する為用いさせ、王女を迎える準備を整えさせる。あまり待たせるわけにも行かないから、まず入り口の騎士団詰め所に準備をさせ、それから王宮に使者を飛ばして貰う事になる。説明をすると王女は快く頷き、もうしばし待つ事を承諾してくれた。ふと気付いたベルグラーノは、傍らのゼルへと聞く。

「ゼル、貴公はずっと殿下を護衛していたのか?」

「ええ。 其処の二人と一緒に」

「礼を言う。 先ほどは熱くなってしまって済まなかった」

「別に構いやしませんよ。 団長の性格は知ってますからね」

意外にも、騎士団長は挑発には乗らなかった。王女の存在が、いい感じにこの男にブレーキを掛けているのだ。

「その通りだな」

「さて、そろそろ時間でしょう」

「うむ。 殿下、では地上へ戻りましょう。 宮中の天気監察官によると、今日は雨である可能性が高いとか。 御身を濡らすやも知れませんが、お許し下さい」

「構いません。 騎士団長、御苦労様です」

王女の表情は優れない。ゼルも微妙な表情を浮かべている。その意味を騎士団長が知るのは、しばし後の事となる。

 

朝、昨日の土砂降りが嘘のように晴れた。数日は豪雨が降り注ぐという宮中の天気監察官の予想は見事に外れたのだ。だが、出撃するファル達の表情は重い。今日の出撃が、如何に重い任務を背負っているか、知っているからだ。

日差しが地面を乾かす。程良い堅さに成りつつある土の上で、バックパックを背負いなおしたフリーダーが、備品の状態を読み上げた後言った。

「クロスボウボルトの本数に問題はありません。 焙烙の本数にも異常ありません」

「俺も問題ないぜ。 今日も魔神でもなんでもぶったぎってやらあ」

「私も問題ない。 火神アズマエルは、今日も哀れな僕を見守っていてくれる」

「小生も問題ないの。 ラインス様の杖は、今日も神々しく輝いておるわい」

コンデは愛用の杖を撫で、横に構えた。最初はあれだけ難色を示していたのに、今やこの杖は彼の体の一部のように馴染んでいる。

「私は問題ない。 体調は整え終えた」

「そう。 じゃあ行くわよ」

ファルの肩を叩くと、エーリカが先頭に立って歩き出す。

心に迷いを抱えていても、気負いはしない。なぜならそれがプロというものだから。迷いがどうのこうのといった些細な事で、戦闘力は乱さない。なぜなら、根本的に戦いの中で生きる者だから。ファルは別にそんな自分を哀れんでもいないし肯定もしていない。ただそれだけの事として認識している。

ファルは歩き出す。その目に、昨日心によどんでいた躊躇はもう残っていなかった。

 

(続)