無彩の迷宮

 

序、陰陽

 

地獄よりなお深いかとも思われるその場所では、不足しているものが一つあった。

カルマンの迷宮地下八層は、地下七層ほど見た目強烈な衝撃を受ける場所ではない。魔物はますます強くなる一方だし、危険度は高くなる一方なのだが、それが恐怖の全てではないのだ。そこには、あるべきものが一つだけ不足していたのである。それは、色彩であった。

基本的に何処の階層も、必用に応じた構造をしている。元々都市だったり、神殿だったり、建物だったり、様々な用途に応じて作られた物が迷宮と化したのだから、当然の話である。どんな迷宮にも、進めば変化があり、最終的には出口が待っている。八層にも、それは当然ある。しかしこの階層には、少なくとも入り口付近には、生活感が存在しないのである。あの七層にすら、様々な生き物が生態系を作り、暮らしているという息づかいがあった。如何にそれが人間には苦しく臭いものだとしても、暮らしている者達には身近な空気が其処にはあったのである。他の階層は言うに及ばず。王墓である四層にしても、かって人が暮らしていた形跡が随所にあったのだ。そう言ったものは、無形の色であった。階層ごとに存在する、形のない呼吸であり、容姿であり、無音の自己主張であった。生きている者達が生活する、或いは生活していた。それは例えどんなものか分からなくても、その場には残り続ける。不可視のタペストリーなのだ。そのタペストリーが、この階層には、徹底的に不足しているのである。

地下八層にたどり着いたゼルは、最初そんな印象を受けた。そう八層への道を尋ねる弟子に応えた。詳しい八層への通路を教えると、ゼルは弟子が、ファルーレストが拠点にしている宿を後にしようとした。

「ゼル様、あの」

「うん?」

「まだ、死に場所を探しているのですか?」

ファルらしくもない、気弱な問いであった。彼女が悩んでいるのは、良く知っている。ゼルはファルにとっては数少ない理解者であり、恩人である。だから必死に気遣ってくれているのだ。だがゼルの、戦士としての本能は、それを凌ぐほどに強く重い。

「私は自らの限界まで強くなった。 ならば、求められる答えはただ一つ。 それは必然的なものだ」

今、到達出来る究極にある事を、ゼルは自覚している。今後衰えていくのが、どれほど恐ろしいかも、よく分かっている。死に場所が欲しいと思うのは、それほど卑劣な事なのであろうか。確かに生きて欲しいというファルの言葉にも一理がある。ライムも同じような事を言う。だが、こればかりは、聞き入れるわけには行かなかった。

「ファル、いずれお前にも分かる時が来る」

弟子の言葉を断ち割るように、敢えて重ねて言うと、ゼルはその場を後にした。

 

王城に出仕したゼルは、王の寝室の前にいた。オルトルード王の病状は最近更に悪化したと言われており、病状に関しては箝口令が敷かれている。長い廊下の先にある寝室の前には、難しい顔の騎士達が六人も護衛に当たっていた。ゼルが彼らを下がらせると、心配してやってきたライムが何か言いたげにした。だが、ゼルは手を振って彼女も同じように下がらせた。

ゼルは何事かと聞く王に、王女奪回作戦の顛末を伝え、頭を垂れた。奪回に成功したとはいえ、王女を一時奪われたのは事実。当然死を覚悟した彼は、飄々としつつも、財産を整理して王の元へ赴いていた。しばしの沈黙の後、王は少し覇気がない様子で、扉の向こうから応える。

「ゼル。 お前は死にたいのか?」

「……」

「お前がずっと死に場所を探しているのは、余も良く知っておる。 しかし、今死んだらそれは犬死にだ。 戦士として死に場所を探すよりも、忍者ギルドの長として、今後の栄達の為身を粉にしてみてはどうだ?」

「御意……」

咳き込む王。やがて、かって世界最強の一角に数えられたオルトルードは、しわがれた喉から更に言葉を絞り出した。

「元々非公式の任務であるし、しかも困難なものであったのだ。 オリアーナを一度は浚われたが、それも状況から見て仕方がないだろう。 宰相派を撃滅し、オリアーナを奪回した功績を認めて不問とする。 ……ただ、無罪放免と言っても、プライド高いお前は納得せぬだろう」

「御意」

「ならば、罰として新たに任務を言い渡す。 宰相が死んだ今、オリアーナの護衛はあの双子だけで充分だろう。 ……それに、近いうちに、騎士団にも事情を明かしても良くなる」

「不吉な事を申されますな」

あくまで会話は淡々と、静かに続いた。ゼルにしてみれば、王も死に場所を探している事はよく分かっていた。だから、それを臭わせる発言が出ても、心の準備は出来ていたのだ。

「不吉というか? 混沌を極めていた情勢に、光が見えようとしておるのだ」

「まだこの国には、貴方の力が必要です、聖王陛下」

「それをいうなら、あの娘や、忍者ギルドにも、まだまだお前の力が必要だ。 忍者ゼル」

からからと、乾いた笑い声が、戸を隔てて聞こえ来た。ゼルは何処かもの悲しかった。世界最強を誇った王が、混沌の大陸に平和を築き上げた王が、こんな事を言う場に居合わせるとは。恐れ多いながらも、自身をその身に置き換えてみると、またもの悲しい。ゼルは部下達にこんな気持ちを味あわせていたのかと、今更ながらに思ったのだ。

「ゼルよ。 お前の弟子達は、程なく地下九層に達するだろう。 サンゴートのカールを退けたという時点で、あの者達は間違いなく世界最強の戦士となった。 彼らには、必ず成し遂げられるはずだ。 そしてお前に与える罰、即ち新たな任務は、ベルグラーノとの共闘だ」

「騎士団長殿との、ですか?」

「うむ。 ……あやつの元にも、この国を代表する武人達が集結しようとしておる。 お前もその一員となり、自らの弟子をサポートする盾となれ」

ゼルは複雑な気分を味わって俯いた。彼は騎士団長を別に嫌ってはいない。しかし、向こうが徹底的に自分を嫌っているのは良く知っている。それを承知で今まで散々からかっても来た。歴戦の武人でもありながら、何処かいたずらっ子じみた所のあるゼルは、からかうと面白いように憤慨するベルグラーノで遊んできたのである。一方で、それである以上、一緒にチームを組んで迷宮を探索する事になったら、と思うとぞっとする。ファルのチームほどではないが、此方も高度な連携を組む必要があり、そのためにはいがみ合うもの同士では話にならない。下等な魔物ならともかく、上級の魔神との戦いも今後は想定される。はてさて、どうしたものかと思案しながら、王命だから逆らう事も出来ず、ゼルはその場を後にした。

廊下の奥で、沈痛な表情で待っていたライムに幾つかの指示を出すと、ゼルはそのまま騎士団の本部に向かった。以前は敵意むき出しだった騎士達だが、今日はどういう訳か、敵意は感じているようだが丁寧に奥へと通してくれた。昨日壊滅した宰相派の近衛兵達のリーダーである近衛兵長が、応接間で尋問されている。それを横目に、騎士団長室へと通された。驚いて思わずゼルは足を止めていた。其処では、意外な人物達が揃っていたのだ。しかも、完全武装である。

一番左にいるのは侍アオイ。ゼルも一目置く、恐らく現在ドゥーハンで最強の侍だ。妖刀村正を自在に使いこなすその剣腕は、ファルの報告でも相当なものだと聞いている。その隣には、鎧のような筋肉を全身に纏い、腕組みして立つ壮年のドワーフ。恐らくドワーフとしては、最も有名な一人である、ドワーフ旧王ベルタン=オウディウスだ。背負った巨大なバトルアックスは、良く磨き抜かれていて、敵の血を吸える瞬間を今か今かと待ちわびているようであった。そして、騎士達の中でも理性的でバランスがよい能力を持つリンシアが、少し居心地悪そうに二人の後ろに立っていた。実のところ、地味なリンシアは騎士団長について豊富な実戦を経験しており、ファル達とも何度も共闘し、かなりの修羅場を潜っている。今の彼女は、相当な実力者であると断言して構わない。彼女の腰にぶら下がっているのは、カシナートの逸品だ。恐らく戦場での活躍は、もう騎士団長にそう引けを取らないだろう。また、彼女とベルグラーノを合わせれば、並の僧侶以上の回復機能を発揮する事が可能だ。

執務机に座っていたベルグラーノは、ゼルを見ると軽く舌打ちしたが、それでも出来るだけの笑顔を作って歩み寄ってきた。

「良く来てくれたな、ゼル殿。 話は既に陛下から聞いている」

「いえいえ。 しかしまあ、そうそうたる面々ですな。 これから魔王にでも戦いを挑むのですかな?」

「ははは、そんな所だ。 有能な僧の調達には間に合わなかったが、代わりにベルタン殿の協力を仰ぐ事が出来た。 後は魔術師だな。 誰か高名な術者に、協力を仰ごうと思っている所だ」

「錬金術師のウーリ卿は? サイオニクスのハインマン師は?」

ゼルが名を上げた二人は、どちらも高名な術者である。前者は錬金術ギルドの中でも、最強の実力者と知られており、ギルド長のギョームと並んで双璧と呼ばれているエルフだ。ギョームがマクロ的な錬金術研究者なのに対して、ウーリは自己戦闘技術としての錬金術完成に身を注いでおり、その実力は超一流の域に達している。強力な魔物討伐で幾つも功績を挙げた結果、エルフとしては異例の爵位受領を受けており、現在は彼方此方で様々な研究調査をしているとか言う話である。数年前に錬金術師の間で禁忌とされている人工生命の創造を行おうとして謹慎処分を喰らっていたが、呼び出す事に成功すれば強力な戦力としてカウント出来る。実は密かにカルマンの迷宮に潜っているという噂もあるが、確認はされていない。ハインマンはユグルタでも一二を争うヒューマンのサイオニクスで、馬車を念力で持ち上げたとか言われる、ある意味伝説的な存在だ。年齢が少しかさんでいるが、まだまだ現役で、三年前にはハリスで暴れていたレッドドラゴンを見事に退治して見せた。術者が基本的に少ないサイオニクスのギルドを纏める責任者で、今は確かドゥーハンに来ているはずである。

「どちらも声を掛けたが、まだ返事がない。 ただ、ハインマン師はほぼ絶望だろう」

「ふむ。 双方共に多忙な方々であるし、仕方がありますまい」

「そこで、フリーの術師で、有能なものを徴募したい。 ゼル殿には、誰か心当たりはないか」

「そうですな。 攻撃の主力を担える人材となると、かなり難しいですなあ。 探索の補助を出来そうな人材なら知らぬでもないのですが」

ファルの報告にあった、メラーニエというエルフの魔術師。まだ幼いが、スルーの魔術をほぼ極めきっているとかで、殆ど戦闘能力がないにもかかわらず、地下五層を盗賊のフェアリーと一緒に危なげなく彷徨いているとかいう。ファルの情報から得た存在だが、もし巡回が目当てで有れば、使える人材である。だが、メラーニエの説明を聞いたベルグラーノは、首を横に振った。

「それでは駄目だ。 我々は巡回するだけではなく、うごめくものや、魔女と戦わなければならない。 それにはあの魔女と対抗する、とまで行かなくとも、駆け引きくらいは出来る存在が必要になってくるのだ」

「うごめくもの、それに魔女となると、確かにメラーニエ嬢では難しいですなあ。 確かに適所ではありますまい。 しかし攻撃術が得意な者といっても、単純にメガデスが使える、というような輩では問題外でしょう。 私の弟子の報告書によると、うごめくものはいずれも不可思議な防御能力を備え、戦闘には相当な工夫を必要とするとあります。 魔力が高いだけの唐変木では、まるで役に立ちますまい」

「難しいのはそこだ」

弟子、と言う所で、ベルグラーノは心持ち顔を上げていた。この分では、この男もファルを相当に意識しているのであろう。無理もない話で、もう何度も騎士団と共闘しているし、その実力は充分彼らのまなこに焼き付いているはずだ。

宮廷魔術師として最強の実力者であるリュートとエミーリアは、現在動かせる状態にない。冒険者として高名な魔術師は何名か居るが、ゼルの見たところ地下七層以降の探索に耐えられるとは思えない。宮廷魔術師最強の実力者であるリュートとエミーリアが、コンデと同じ程度の実力なのだ。ファルのチームの現在の実力は、正に推して知るべし。メガデス級の攻撃魔法を使える術者ならかなりの数がいるが、それに加えて豊富な実戦経験を持ち、優れた応用力を持つ人材となるとかなり限られてくる。各国の軍属魔術師か、或いはウェズベル師の弟子に適当な人物が居ないか。思案するゼルに、リンシアが手を挙げた。

「すみません、あの……」

「うん? どうしましたかな」

「私に心当たりがあります。 少し前に不幸な事故があって、ずっと自室に引きこもっていた方です。 魔力は相当なレベルで、うごめくものの知識も豊富です」

「ほう? その者は、今は立ち直っているのか?」

女の子としては短い、でもどうしてか魅力的な髪を揺らして、リンシアは頷いた。

「ウェズベル師の弟子で、名前はポポー=ミルゴット。 もしよろしければ、私が声を掛けてきますが」

「良し、頼む。 私は私で、色々ともう少しつてを当たってみよう」

騎士団長は手を叩いて、部下の騎士達を部屋に呼び込み、様々な指示を与えて下がらせた。同時に呼ばれていたアオイやベルタンも退室し、ゼルも一緒に下がろうとしたが、騎士団長に呼び止められた。

「ゼル殿、少し話がある」

「はて、何でしょうか」

「……貴公はドゥーハンを、思っているか?」

「そうですな。 ドゥーハンそのものよりも、私が忠誠を捧げているのは、オルトルード王と、彼が築いた未来有るドゥーハンですな」

殆ど即答したゼルは、あまりにすらすらと応えられたので、むしろ自分で驚いていた。単純な意味での国家などに忠誠を誓う必要はない。忠誠を誓うべきは、多くの可能性を秘めた活力有る国家や、それを産み出す有能なる個人。そういった思考を出来る時点で、ゼルは忍者という枠を超えた存在であったかも知れない。

「ならば、私と同じだ。 今まで私は貴公を嫌っていた。 だが、今後は手を組み、一緒に未来の為戦っていきたいと思っている。 ドゥーハンの為には、それが最適だと思うからだ。 虫の良い話だが、受けて貰えぬだろうか」

「……確かに虫がいい話ですが」

ベルグラーノは、嫌々ながらも、それでも手をさしのべてきた。手をさしのべるというのは、騎士にとっては相手が同盟者だと認める事で、最大の譲歩行動だと言っても良い。少年のような純な心を持つベルグラーノに対して、ゼルはふと悪い虫が騒いだ。年齢にして半分以下の、この真面目で子供っぽい騎士団長は、今まで体の良い玩具だった。そしてそう思う事が、相手を憤慨させ、溝を深めてきた事も分かっている。悪戯心を納めて、ゼルはさしのべられた手を取った。

「お受けいたしましょう、騎士団長閣下。 まだ、貴方には明かせぬ事もありますが、それでも良ければ」

「……王の、陛下の意向なのであろう?」

「その通り。 私の独断ではありません」

「ならば仕方があるまい。 正直私はそう言う話が好きではないのだが、貴公を憎んでも仕方がないからな。 これからもよろしく頼む。 共にこの状況を打開しよう」

ゼルの小さな手を、ベルグラーノの逞しい手が、改めて強く握りしめた。オルトルード王の側近として、光と影に位置する彼らが手を組んだ瞬間であった。

 

1,天才の憂鬱

 

久しぶりにドゥーハン王都に買い物に出たエーリカは、思う存分ウィンドウショッピングを楽しんでいた。死神戦での消耗も比較的緩く、いち早く体調を回復させた彼女は、空いた時間を自分のストレス発散に当てていたのである。普通ショッピングをするには市場がある南区に赴くのが良いのだが、彼女は北区へ向かっていた。技術区である北区にも確かに店はあるが、いずれも玄人好みな場所ばかりで、普通の娘が好むような品は少ない。にもかかわらず、エーリカはそれを承知の上で、北区をふらついていた。

辺りには壮麗な寺院や、豪壮なギルド本部が立ち並んでいる。一角では、ドワーフの何とか言う鍛冶師ギルドの新しい本部が作られていた。ドワーフの鍛冶師ギルドはドゥーハンに存在するものだけでも三十を超すと言われ、頂点にある統合ギルドに皆所属はしているものの、いずれもいがみ合いを続けている。これは互いに競争させる事によって、新しい技術を効率よく創設する目的によるもので、長く続けられてきた技術開発戦略に基づいていた。そしてそれは、今までずっと成功を収め続けてきたのである。無論水面下で対立してはいても、有事の際には一致団結して事に当たる仕組みも取られているのだ。

埃の匂いと、建材の香り。積み上げられていく石。ある程度邪魔にならない距離を保ったまま、エーリカは新たに命を吹き込まれていく建物を見上げていた。

「懐かしいわね……」

独語が漏れていた。幼き頃の思い出が、建築現場を見ると脳裏より浮かび上がってくる。急ピッチに進む復興の中、泥だらけで遊ぶ子供達。エーリカも、多少変わっていたとはいえ、その一員だったのだ。

しばし行き交うドワーフ達と、作り上げられていく建物を見ていたエーリカは、やがてその場を後にし、本格的なショッピングに移った。玄人志向の彼女には、むしろ北区にて売っている品物の方が好ましいのである。再び歩き出した彼女は、思う存分ウィンドウショッピングを楽しんだ。ドワーフの高度な技術の産物である、ヒューマンには少し無骨な腕輪が陳列されている。結婚指輪もあったが、このデザインではヒューマンには売れないであろう。手に取ってみると、戦士がファッションの為につけるようなものである。そのくせ、愛の言葉が刻んであるのだ。ドワーフの場合は是で問題ないのだろうから、ヒューマンとドワーフの文化的溝は結構大きい。今度はヒューマンの職人が作った店に入ってみる。此方は確かに女の子好みなアクセサリーがあるが、しかし技術がどうしても劣る。一部のアクセサリーなどは、多少の衝撃でぼろぼろ崩れそうだった。イミテーションらしい宝石が挟まった安物のアンクレットは、存在そのものと同じく、酷く軽かった。

しばらくウィンドウショッピングをした後は、軽く仕事を始める。あまり効率が良くないから、こういう暇があるときにしかできない、少し趣味が入った探索作業だ。

サンゴートの技術さえ、此処ドゥーハン王都北区では見つける事が出来る。南区では量産品として売られている品物の先達となる商品が、地味な店にひっそりと転がっていたりする。目利きとしての手腕さえ有れば、此処は宝の山なのだ。試しに、弓矢を扱う店に入ってみる。クロスボウボルトの鏃でさえ、南区で販売されているものとは技術が違う。良いものも悪いものも、南区では見た事もないものがずらりと並んでいるのだ。鏃だけではない。柄の素材も、量産品では絶対にあり得ないようなものが多く使われ、様々な色の矢が所狭しと並べられている。此処は一種の実験場なのである。

ただし、商売をする人間としては失格な部分も多くある。例えば、南区の店では店員がすぐに飛んできて、客の手伝いをしたりするものだ。しかし北区の店では、店主は職人本人がしている事が多く、客の扱いを知らない。

「少し、これを試させてくれる?」

エーリカが奥のカウンターにいるノームの店主に言うと、彼は不機嫌そうにむっつりと頷いた。中には試し撃ちを断る店主さえ居るから、これはまだまともな部類に入る。気むずかしい客なら不機嫌になって帰ってしまう所だが、エーリカは全然気にせず、幾らかの矢を掴んで試し撃ちに適当な、店の奥にある広間へと出た。矢が無数に突き刺さったままの案山子が、無造作に放置してある。幾つかを眺め回してから、使えそうな案山子の矢を全部引っこ抜いて、きちんと立てかける。そして、持ってきたクロスボウを構えると、矢を装填した。

がつん、がつんと案山子に矢が突き刺さる音が響き続ける。目を付けた何本かをすぐに撃ち尽くしたエーリカは、すぐに矢を引き抜いて、案山子に空いた穴を調べ始める。店主が首を伸ばして此方を見ているのに気付いて、エーリカは初々しい笑顔を向け返す。

「何? どうしたの?」

「ん、いや、良い腕をしていると思ってな。 あんた、狙撃手か?」

「いいえ? ただ、愚僧の仲間に狙撃手が居るから、彼女の為に少し買い物を、ね」

神経質そうな店主の顔に、驚きと困惑が浮かんだ。即ち今のエーリカの台詞は、彼女以上の腕前の狙撃手がいるという意味だからだ。店主はすぐ奥に引っ込み、別の矢を何本か取りだしてきた。話が早くて助かる。ある程度相手の知能程度が高いと、話をとても進めやすい。店主が持ってきた矢の中には、最初から魔法が掛かっているものや、鏃が銀などの特別製のものもあり、いずれも試しがいがありそうなものばかりであった。

エーリカにとっては遊びだったが、遊びとは真剣にやるものだ。彼女が子供の頃から、それに代わりはなかった。

 

……エーリカ=フローレスはドゥーハンの南部、アンス・トラレル州の州都フォボスにて産まれた。今も初々しい彼女だが、子供の頃も、癖のある黒髪を頭の後ろで縛っていたエーリカはとても愛らしかった。才能があるという点では、彼女はコンデと共通していた。しかし大人しくて鈍くさかったコンデと比べて、正対称であったとも言える。何しろ大変お行儀が悪く、もっとも好きな事といえば悪戯だったほどなのだから。幼い頃から、エーリカは現在の姿を想像させるほどに、過剰に逞しかったのである。

アンス・トラレルと言えば、バンクォー戦役で四度に渡って戦場になった地であり、州都も何度となくサンゴート軍によって蹂躙された。現在は奇跡的な復興を遂げてはいるが、州の彼方此方には当時の破壊の爪痕が未だに残っている。彼女が子供の頃には発展作業よりも復興作業の方が活発で、王都から派遣された工事監督官が地元の住民を雇って、積極的に建築工事や土木工事を行っていたものである。住民にとって工事現場での労働は丁度良い小遣い稼ぎになった為、エーリカの両親も積極的に現場に出て、稼いでいたものであった。特にエーリカの家の近くにあった見事な大橋は、街の新たなシンボルであり、住民達は自分たちでそれを作ったという誇りを抱いていたのである。

小銭を稼いで満足している両親に対して、エーリカは随分と変わっていた。子供でさえ小遣い稼ぎの為に工事現場に出かけていくのに、それらに興味を見せず、悪戯をすることに血道を上げていたのである。彼女が仕掛ける悪戯はいずれも致命的なものではなかったが、その一方で極めて巧妙かつパンチが効いていた。

例えば、ある日橋の建築を行うべく集まった人夫達は、本日分の昼食が尽く消えているのに気付いてパニックに陥った。たまに泥棒が出るからである。慌てて周囲を探し始めた彼らをあざ笑うように、消えた食事は今日工事する橋の上に綺麗に並べられていた。しかもそれは文字をかたどっており、(エーリカ参上)等と書かれていたのである。いくらかの食料が消えていたが、それは皆悪くなっており、橋の外に放置されていた。

またある日では、工事の際に用いる足場の床板が、尽くピンク色に塗装されていた。しかも手が込んだ事に一部は青色に塗装されていて、それは腐っていて取り外す必要があるものばかりだった。翌朝外す予定の足場に、現場監督のデフォルメした落書きがされていた事もあった。

道に張ってあるロープを切ると、上からバケツが降ってきた。見え見えの落とし穴を避けて歩くと、横からはたきに叩かれ、落とし穴に強制的にダイブさせられた。二段の仕掛けにエーリカが飽きると、三段、四段の悪戯が工事現場の人夫や、通行人を襲うようになった。いずれも怪我をするほど深刻ではないが、一方で大人の神経を逆撫でするものばかりであり、しかもいつエーリカが忍び込んだのか仕掛けをしたのか誰も気付かなかった。無論悪戯の楽しさに目覚めた頃は、捕まって尻を叩かれた事もある。加減を間違えて、怪我をさせてしまった事もある。だが、エーリカは二度と同じミスを繰り返さなかったのだ。

エーリカは一匹狼型のいたずらっ子で、徒党を組んで悪さをするような真似はしなかった。時々頭に来た大人がエーリカを怒りに来る事があったが、彼女は捕まる事さえなく、まるで煙のようにいつも姿を消した。悪さをするのではなく、単純ないたずらに過ぎないので、誰も本気で怒る事が出来なかったという理由もある。こうして幼い有り余るエネルギーを、エーリカはいたずらに費やし続けたのである。それは十歳になるまで続き、十歳になったらぱたりと止んだ。思いつく限りありとあらゆる悪戯のパターンをやり尽くしてしまったエーリカは、飽きたのだ。その頃には、(アンス・トラレルの悪戯姫)の話は街中で知らぬものがないほどだったから、彼女の(引退)を残念がる人間は決して少なくなかった。飽きはしたものの、悪戯をする事によって培った頭の回転の速さは、後々エーリカにとって大きなプラスになってくるのである。

周囲の子供達がやっているような遊び、例えば単純に体を動かす球技や、ましてやおままごとなど、エーリカには退屈なだけだった。天才の素質を持っていた彼女にとって、それらの終末点はすぐに見えてしまうからだ。斜に構えていたエーリカは、当然友達が少なかったが、別にそれで何とも思わなかった。元々エーリカは、孤独を全く苦にしないタイプの人間であった。仲間に依存する事で自己形成するような脆さは、彼女の内にはなかったのである。一方で、幼児期には既にエーリカは自身を嫌っていた、と思い出が語っている。何でも出来る一方で、終末点を見切るとすぐに飽きてしまうその性質。それはやがて徹底的な合理的思考と、冷酷なまでの現実主義を彼女の中で形成していったが、それを彼女自身は決して快く思っていなかったのである。

ある日、彼女はちょっとした怪我をして、天主教系の寺院に赴いた。むろん布教寺院ではなく、医療寺院である。其処は戦場のような有様であった。一刻一秒を争う手当。闇雲に回復魔法を掛けるだけでは、却って悪化してしまう怪我。ぴりぴりした空気。カルテに書き込まれる複雑な文章。人が怪我をしたというのは、とても不幸な事のはずなのだが、不謹慎にもエーリカは、この場の面白さに興味津々であった。それからエーリカは、時々わざと怪我をしてまで医療寺院に足を運んだ。そして、其処にある奥の深さと、常に退屈しないであろう状況に、心躍らされた。理性の部分は、それが下劣だと反論する。しかし本能の部分は、面白くて仕方がないと、心を後押ししたのである。

医療僧になるには、回復魔法を修得するだけでは足りない。冒険者ギルドに登録しているような医療僧の中には、回復魔法が使えるだけ、というような連中もいる。しかし実際に医療寺院で活動するには、魔法だけではなく、様々な技術も必要とされてくるのである。特にエーリカが心躍らされたのは、常に一秒を争う現場の状況である。処置が遅れれば壊死し、手当が遅れれば息が止まる。その強烈な緊迫感と圧迫感は、否応にもエーリカの心を、夜闇に舞う花火が如く躍らせた。

図書館通いが始まったのは、その直後の事であった。そして独力で、わずか三年で試験に合格すると、エーリカは正式に医療僧となり、戦いの場に飛び込んだのである。

エーリカは確かに自己の嗜好で医療僧を始めた。しかし彼女が救った人間の数は、同僚の誰よりも多い。エーリカは冷酷な現実主義者であったが、同時に人間の精神の仕組みを良く知っていたし、情そのものが無いわけではなかったからである。

彼女は誰よりも短時間で、様々な医療技術を習得した。回復魔法の腕よりも、そちらの方がむしろものを言った。そして彼女は笑顔の使い方や、精神状態が病状に影響する事なども知っていた。患者を勇気づける事によって、回復がずっと速くなる事を、経験則的に知っていたのである。これは悪戯を散々行った際に、人間の心理変動を計算に入れていた事が、後に聞いてきたのである。動作を行った際、人間がどういう反応を示すか、エーリカは大体予想する事が出来たのだ。無論人間によって個体差があるが、それでも充分に彼女はその幅をカバーする事が出来た。そうやって計算ずくでやっていた部分も大きかったが、エーリカは何処かで患者の事をきちんと彼女なりに気遣っていた。そうでなければ、如何に天才の素質を持つ彼女であっても、此処までの成果を若くして上げる事は出来なかっただろう。

ドゥーハン王都へ位置替えになったのは、十七歳の時。その能力と識見が買われて、地方の医療寺院ではもったいないと、院長が判断した為である。そして一年が経った頃、アウローラが現れたのである。

 

「一体是は、どういう事なのよ!」

苛立ち紛れに、荘厳な彫刻がなされた白い壁を蹴りつけるエーリカ。彼女に足を蹴られた天使は無言のままであった。エーリカは舌打ちすると、今度は拳で天使の臑を打ち、身を翻してスタッフルームへと戻っていった。周囲の後輩や部下達が、恐れを持ってその背中を見やり、首をすくめている。腕を失った者、黒こげになった者、首が千切れかけてまだ生きている者。ありとあらゆる怪我人の姿が、其処にはあった。蘇生魔法という、死者を復活させる超大技もあるにはある。だが成功率は三割にみたず、しかも一流の回復魔法使いが六人以上集まらないと行使出来ず、その上半日近くかかるので、今は行えない。そんなものを使っていたら、助かる患者を十人以上見捨てる事になるからだ。エーリカは今日、二桁に達する患者を救えなかった。正確には彼女のチームが、である。明らかに経験不足な人間に、重荷が回りすぎている。エーリカ自身にも負担が大きく、またどうしようもない患者ばかりが回されてくる。エーリカは部下を責めたのでもなければ、自身に憤りを覚えたわけでもない。こんな状況、即ち神に腹を立てていたのだ。

アウローラが現れてから、仕事場の有様は一変した。今までも様々な病人や怪我人が担ぎ込まれては来たのだが、迷宮での被害者が大量に運び込まれるようになり、手が回らなくなってきたのである。エーリカに遅れて、各地から優秀な医療僧が送り込まれてきたが、それでも人員が足りなかった。中には回復魔法の腕は凄いが医療知識がほとんど無いものもいて、一年あまりで僧長の地位を確保していたエーリカは、苛立ちのあまり怒鳴りつける事すらもあった。職場では、彼女の変貌ぶるに驚く者もいた。最近は見かけ上すっかり大人しくなった彼女は、故郷で悪戯姫などと言われていた事など、誰にも知られていなかったからである。

エーリカは、戦場での医療が労働災害や病気に対する医療とは別物だと悟った。それを必死に勉強し、対応策を身につけてはいった。だがそれにも限界があり、対応しきれなくなった。エーリカですらそうなのだから、他の僧侶達の右往左往ぶりと来たら酷いものであった。こんな時、病気や労働災害の際に無力だった冒険者医療僧が力を発揮した。彼らを見直したエーリカは、積極的に頭を下げて、その技術を吸収していった。やがて技量を増していった彼女は、寺院で患者を待つよりも、これはむしろ迷宮に入るべきだと考えた。迷宮の様子を聞く限り、このままでは被害が増すままだと、エーリカは素直に悟る事が出来たからである。騎士団や軍の対応も不可解だが、彼らに文句を言うだけで行けないはずだと、エーリカは考えていた。事実この二十年以上、彼らはドゥーハンを立派に守り続けてきたのである。バンクォー戦役では、見事にサンゴートを叩きのめし、平和の礎を築いたのである。今回彼らが不可解な動きを見せているのは確かだが、それでも全否定するのはあまりにも無粋な忘恩行為だ。そんな後ろ向きで手前勝手な背信行動よりも、まず自分が動く事を考える方が遙かにいい。

そうと決めると、エーリカは冒険者ギルドに足を運び、更には寺院に辞表を提出した。寺院は驚いたが、正直世界レベルとなってくるこの場所では、エーリカが一人抜けただけで人員が枯渇するわけでもない。渋々ながら、辞表を受け入れてくれた。医療寺院の給料は、特にドゥーハン王都のここサレム寺院の給料はかなり良い。当座の生活費には、全く問題がなかった。サレム寺院の寮を出て新しい生活基盤を確保すると、エーリカはマニュアルを手に自らを鍛え上げた。まず彼女が武器として選んだのがフレイルであった。フレイルは力が無くても大きな威力を振るう事が出来る武具で、特に鎧の上から相手に打撃を与える事が出来る所が大きい。鎧を着せた案山子に対して素振りをするのだけではなく、様々に実戦を考慮した訓練を続けた結果、彼女は鎧の内側に効果的な打撃を与えられるようになった。

続いて行ったのは、回復魔法の再訓練である。医療僧として寺院の中にいた頃も、回復魔法は必須の存在であった。だが詠唱速度や回復力にはまだ不安があり、それらを早める必要があった。詠唱の高速化技術に関して記述した書物を読みあさり、すぐに効果的な方法を見つけた手腕は、独力で医療僧の登用試験に受かっただけの事はある。受験生であった当時のノウハウが役に立ったのだ。

そして、最後に重要だったのが、攻撃魔法の技術であった。様々な回復魔法を身につけてはいたエーリカだったが、それと同系統の僧侶系攻撃術には殆ど造詣がなかった。詠唱自体はすぐに覚えられた。魔法の発動もそれほど難しくは無かった。しかし、難しいのは命中させる事であった。詠唱した集中力を保ったまま、発動した攻撃魔術をまっすぐ飛ばすのは極めて難しいのだ。そればかり訓練している魔術師やサイオニクスなら何とかなる部分もある。しかし防御や回復が専門である医療僧には、それは一から行わなければならない苦行であった。後で話を聞いたのだが、冒険者医療僧も、皆此処では苦労すると言う事であった。中には攻撃術を使わないものすらいるとか、そんな情けない話も耳に飛び込んできた。エーリカはそれでも執念で様々な文献を読みあさりながら、自分でそれらを試し、腕を上げていった。天才の素質を保つエーリカは、一週間ほどである程度の速度で動き回る的には当てられるようになり、鼠程度になら百発百中出来るようになった。後は実戦で鍛えるだけだと、粉々になった鼠の死体に手を合わせながら、エーリカは考えていた。

最後に、仲間を得る必要があった。冒険者ギルドで、エーリカは一週間ほど掛けて、仲間になりそうな相手を物色していた。魔女が現れて暫くし、カルマンの迷宮の恐ろしさが皆に浸透した為か、エーリカの見る所ろくな人間が居なかった。どいつもこいつも如何にして迷宮で危険なく稼ぐかしか考えておらず、ベテランが魔女を避けるにはどうこう、等と話していたりするのだ。長期的な戦略を練って、魔女を撃破しようと考えているチームなど一つもなく、エーリカは落胆を押さえる事が出来なかった。

元々見た目の格好良さから、冒険者は美化される事が多い職業である。実際の彼らは自由云々以前に荒事を含めた何でも屋と言った色彩が強く、特に強力な一部を除いて、手強い魔物とは戦いたがらず、安全な仕事ばかり選ぶ傾向が強い。子供の頃に行った胸躍る冒険と、実際に命がかかった殺し合いを一緒にして貰っては困るのも事実。まずは技術はなくとも向上心のある新人を選んで、次はチームの中核になるベテランだなとエーリカは考えながら、ギルドに通い続けた。

「よぉ。 てめえ、新人か?」

そんな風に、声を掛けてきた相手が居たのは、四日目の事であった。振り向くと、其処には何やら剣呑な目つきをした、ドワーフの青年が居た。どういう訳か髭を殆ど生やしておらず、着込んだ鎧はとても不慣れそうだ。

「ええ。 愚僧も新人よ」

「お、流石にわかっちまうか。 俺はロベルド。 あんたは?」

「エーリカ。 エーリカ=フローレスよ」

「早速だが、不慣れな者同士くまねえか?」

こんな話を持ちかけてくるという事は、恐らく誘ってくる者さえ居なかったのだろう。そう思いながら、エーリカはドワーフのロベルドを観察した。ざっと見た所、相当に拗ねた所がある若者だ。髭がないのも、わざとしている可能性が高い。だが鎧は実用性の高いものを揃えているようだし、力もきちんと鍛えているようだ。様々な患者を診てきたエーリカは、相手がどれくらいの筋力を持っているのか、殆ど瞬間的に分析出来る。

「そうねえ、どうしようかしら」

「なんだよ、てめえも俺の髭が気にいらねえのか?」

「髭なんかどうでもいいわ。 貴方、魔女を倒す自信は?」

「今はねえよ。 だが、いずれ力を増してぶっ殺してやる」

それで充分だった。後は力の充実を図りながら、連携の強化を目指していけばよい。少なくとも、この青年が嘘を付いていない事は、エーリカにはよく分かった。悪戯をやりなれた彼女だからこそ、下せた判断であった。

「その言葉、聞きたかったわ。 是非仲間として、今後の勝利を目指しましょう」

手を伸ばし、ロベルドと握手する。笑顔を浮かべるエーリカに、ロベルドは少し困惑しているようであった。最初の戦友は、こうして出来たのである。ファルらとエーリカが出会うのは、この直後の事であった。

 

思う存分買い物を楽しんだエーリカは、帰途についていた。先ほど彼女自身が威力を確認したクロスボウの矢を百本ほど束ねて荷物に入れ、その他にも色々買い物を終えた後である。安く大量に買い込めたので、エーリカはほくほくであった。この勝負は、彼女の勝ちであった。

エーリカにとって、遊びと真剣勝負の間に立つ垣根は非常に低い。幼い頃から遊びに血道を注ぎ、全精力を傾けてきたから、というのもある。相手をだませればエーリカの勝ち。相手に悪戯を阻止されてしまえば負け。そういった価値観念は、いたずらにすっかり飽きた後も健在であった。あくまで自己基準内での勝負。医療僧になったときも、勝ったと自分で思った。将来有望な仲間を得た時も、勝ったと思った。逆に医療僧として限界を感じた時には、負けたと思ったものである。それを内向的だとか言う人間もいるが、それによって目標を非常に設定しやすくなるのだ。そして自己目的の着実な設定は、目的達成に非常に大きな力を発揮するのである。それは、個人にとっての道しるべなのだ。是を内向的だという者は、大概他人が指定した道しるべに満足している。社会道徳だったり、恋愛感情だったり。そういったものが他者によってもたらされている事にさえ気付かない事も多い。他者に道しるべを設定されるくらいなら、内向的だと嘲られようが、自己目的設定をした方がどれだけましか。エーリカはそんな風に考える人間であった。

宿の、良く磨かれた樫の戸を開けて、中へとはいる。入り口の足下にある出っ張りを踏み越えて中にはいるのは、エーリカなりの拘りだ。見回すと、働いている従業員達と、奥で料理をしているエイミ、それに居間のテーブルで冒険者の一人と机上遊戯に興じているフリーダが見付かる。フリーダーは最近無機質ながらも他の冒険者と交流するようになっていた。ファル譲りのその不器用な交流方法は最初こそ倦厭されたが、今では却って愛され、特に女性の冒険者達には可愛がられていた。フリーダーはすぐにエーリカに気付いた。

「ただいまー。 今帰ったわよー」

「お帰りなさいませ、エーリカ様」

ぱたぱたと駆けてきたフリーダーに、束にしたクロスボウボルトをおみやげだと言って手渡し、自身は部屋に戻る。皆あの宰相戦で疲れ果てているのだし、たたき起こすのも可哀想だ。此処からは、リーダーとしての彼女の仕事である。今後の戦略をきちんと練り、探索を効率よく進める為の準備をし、皆の生還率を上げねばならない。

八層以降の情報はほとんど無い。ゼルに行き方を教わり、抽象的な情報を聞いたくらいである。情報がない、というのは戦略上致命的な事だ。初回の探索は、皆の実力強化と、威力偵察程度の意味しか持ち得ないであろう。ただでさえ、地下七層の魔物にすら手こずっているのである。此処で無理をするのは自殺行為であった。出来れば、八層の探索は早めに切り上げて、七層を重点的に調べたい所だと、エーリカは考えていた。少なくとも、この時点では。

「八層で、お金になりそうなものがあればいいのだけど」

七層の状況から考えて、八層には何か有れば大いに助かる。そんな本音が、エーリカの口からぼそりと漏れていた。

戦略の詰めは、夜中にまで及んだ。一種の遊びであるのだが、だから故に手は抜かない。そんなエーリカの信念が、彼女を動かし続けていた。

 

2,無彩の迷宮

 

地下七層は、相も変わらず不気味に蠢き続け、饐えたような匂いを放ち続けている。それが危険ではないと分かった今も、どうしても好きになれない光景である。

蠢く肉の階層にはいるのは、まだこれで三度目。今までの入念な探索に比べると、極めてせっかちである。ただ、皆の力も増しているし、決して無理をしているわけではない。後は戦闘経験を増やし、各自技を磨いていき、効率よい探索ルートを探していき、地盤を固めて先に進む。地味だが、重要な仕事である。今回は時間的に余裕もあった為、地下六層できっちり休んでからの探索開始であったが、長い通路が多くある事や、生息する魔物の戦闘能力から言っても、油断などできようはずもない。まずはゼルに教わった地下八層の入り口まで赴く。八層を軽く様子見してから、地下七層を丁寧に探索していき、ショートカットルートや安全な道を探す。それが今回の探索の方針であった。無論それは第一プランで、状況に応じて様々に変える事を、エーリカ自身が明言している。

何度か手強い魔物と交戦し、少なからず消耗しながら、まずはこの間宰相と死闘を演じた広間にまで到達する。其処は綺麗に片づけられていて、証拠品も既に押収され、死体も片づけられていた。確かに死者の書など、放置するには物騒すぎる品物も多く、後続の冒険者にでも渡ったら決して良い方向に事態が動きようもない。八層への入り口はこの奥なのだと、ゼルは言っていた。そして、気になる事も。

「生活感が無いってのは、どういう事なのかのう?」

床に書かれた魔法陣の跡を視線で追いながら、コンデが先に言ってくれた。ファルも小さく頷くと、それに便乗する。

「今までの階層は、魔物が住んでいたり、人が生活したり、そう言った跡があった。 これから赴く八層には、そういったものがないのでは?」

「げせねえな。 それだけのサイズの建物だったら、どうしたってそういう跡が残るんじゃねえのか? だいたい、八層にだって魔物が住んでいやがるんだろ?」

「さあて、どうでしょうね。 情報無き議論は混迷を呼ぶだけよ。 まずは八層に行って、其処を調べてからよ」

死闘の舞台だった部屋の中、入ってきた所とは殆ど逆の位置に、奥へ通じる通路があった。その辺りからまた蠢く肉が壁を覆い、時々異臭をまき散らしている。その通路は下へ下へと果てしなく延び、更なる深き闇へと通じているかのようであった。途中、幾つか通路が合流している。それらの通路は上に向かって延びており、しかもかなり先まで続いている様子であった。ひょっとすると、ゼルも見つけていないショートカットルートが、その先にあるかも知れない。

肉のチューブをずっと降りていくと、やがて足下の感触が変わった。壁を何度か拳で叩いたファルが、後ろの皆に警告する。

「肉が減ってきた」

「ということは、いよいよ近いようじゃのう」

そうこうしているうちに、どんどん肉厚が失われていった。壁を分厚く覆っているという状態から、壁に所々張り付いている状態へ移行し、最後には申し訳程度に壁にこびりついている、という有様になった。ぐじゃり、ぐじゃりと鳴っていた靴音が、かつん、かつんという硬質に変化していった。それに伴って、湿気も異臭も収まっていった。

階段が終わった。

周囲は真っ暗であった。戦闘隊形を取りながら、周囲にロミルワの灯りを飛ばす。刀に手を掛けたまま周囲を伺うファルは、奇妙な感覚を味わっていた。階段が繋がっていたのは、真四角な空間である。壁には細工も補修跡も何もなく、ただのっぺりと金属だか何だかよく分からない素材で作られた灰色の存在が何処までも続いている。天井も似たような有様で、所々丸いへこみがあり、その中に球体がぶら下がっていたが、それ以外は何もなかった。そして、床である。六層や五層ですら、床には少し歩くと様々な変化があったというのに、此処の階層の床はずっと灰色のまま奥まで続いている。今、何の工夫もないただの箱の中に自分が居るのだと、ファルは気付いていた。

今まで強烈な異臭が漂っていたからかも知れないが、全く何の臭いもしないという此処の状況が、却って危険なものにも思える。それに、ずっと奥まで何の変化もない状況だというのも、七層とは違う意味で気色が悪かった。師匠の言葉が脳裏にて甦る。確かに、異常なまでに生活感のない空間であった。壁には模様どころか、凹凸すらない。

「一度キャンプをはって、消臭剤で匂いを落としてから、少し奥に進んでみましょう」

「魔物の気配そのものはある。 交戦が予想されるが、いいのか?」

「構わないわ」

「しかし、まるで神が作りかけで飽きてしまった箱庭のような雰囲気だな。 この建物を造った連中は、何を考えていたのだ?」

ヴェーラが不満げに言う。確かに、探索するには七層と違う意味で、気色の悪い場所であった。ロミルワの光球が天井近くでふらついていたが、無生物であるのに、この空間では嫌にその動きが生き物じみて見えた。

 

奥へ奥へと進むほど、皆の苛立ちは募り始めた。最初の、四十メートル四方ほどの、文字通りの箱の丁度端に、別の部屋への入り口があった。というのも、扉などという気が利いたものはついておらず、壁がただ単純に四角に切り取られているだけであったからだ。壁に空いた四角の穴の向こうには、当然のように同じような部屋が続いていた。奥にある部屋は、いずれも百メートル四方という常識外の規模を誇ったが、性質が同じである以上あまり良い印象はない。壁を触りながら、その素材を把握しようとしていたロベルドが、苛立ち紛れに吐き捨てた。

「此処を作った奴、何を考えていやがった。 これはどう見ても骨材だぞ」

「骨組みだけと言う事か?」

「ああ。 この建物は骨組みだけ作って放棄されていやがるんだ。 ふざけやがって、これじゃあこの建物が可哀想だぜ」

「建造途中で放棄せざるを得ない理由があったのかもしれないだろう」

「そういう感じじゃねえんだ。 手を抜いたわけじゃあねんだが、根本的に中途半端な作りになってやがる。 住むとか、作業するとか、そう言う事を一切考えてないんだよ、この作りは」

心底苛立った様子で、ロベルドが吐き捨てる。隣の部屋も、その隣の部屋も、更に隣の部屋も、似たような案配であった。

ほぼ同じサイズの四角形が、際限なく連なっている。そんな印象を与える空間である。気色が悪い事この上ないと言うよりも、何もない事自体が悪意となって覆い被さってくる。壁に何かしらの仕掛けが有ればそれでも変化を呼んだのだろうが、それすらもない。各部屋の構造は殆ど同じで、何の息吹も感じられない。ロベルドが怒るのも、ファルには分かる気がした。

苛立ちが爆発する前に、それが現れたのはむしろ幸運であったかも知れない。遠くから聞こえてきた羽音に、エーリカが素早く皆に壁を背にするよう指示する。巨大な翼を羽ばたかせ、至近に降り立ったその影は四体。体長にて三メートル強、全身を紫の頑強な鱗と屈強な筋肉で覆った魔界の住人、デーモンであった。人間に近い形をしているが、背中には巨大な蝙蝠に似た翼が一対有り、頭には無数の角が生え、瞳は紅く輝いている。図体もレッサーデーモンに比べて二周り大きく、ねじくれた角や紅く光る瞳から放たれる威圧感は桁違いである。ファルにはよく見える、彼らの体を覆う魔力が如何に桁違いか。形作る筋肉と骨格が企画外れのものか。話によると、これで中の上程度の魔界の住人だというのだから、かの世界の恐ろしさがよく分かろうというものだ。体格的には五層以前で散々交戦したオーガと大差ないが、一目で実力が桁違いだと分かる。多分、殆どの魔法は全く通用しないだろう。睨み合いは数秒。エーリカがハンドサインを出した瞬間に、敵が動いた。

魔神が、殆どノーモーションで、巨大な拳をファルに叩き付けてきた。予備動作が見あたらず、相当錬磨された拳だと一目瞭然である。間一髪回避が間に合わなければ、顔が潰されていた所だ。紙一重で体を捻り、顔のすぐ脇を通り過ぎていく拳を横目に、態勢を低くし、横に跳ね逃げる。残像を、魔神の左拳が抉り抜いたのは、直後の事であった。最初の右の拳は囮、二番目の、今の腰を据えた左の拳が本命。あれほどの巨体で、あれほどの速さの攻撃を放ってくるのである。一瞬たりとて油断は出来ない。そのまま抜刀したファルは、体を泳がせた魔神の脇腹に一太刀入れようとし、舌打ちして飛び上がりざまに、体のほんの下を通り過ぎた尻尾を半ばより切断した。筋肉の固まりである尻尾は唸りを上げて跳ね飛び、空中で態勢を整えようとしたファルを、体を半回転させた魔神の翼が一打ちする。魔神も体勢を崩していたとはいえ、何しろかなり大きく、しかも筋肉も発達した巨大な翼だ。ガードはしたが、地面に強か叩き付けられるのは避けられない。呻きつつファルは起きあがり、魔神を見据えた。不敵に余裕を浮かべ続ける魔神は、フェイントを二重に入れ、それを避けられカウンターを入れられても更に反撃を行ってくる程の相手だ。立ち上がったファルを、羽ばたいて軽く浮き上がりつつ見下ろす奴は、とても侮れるような存在ではない。

「おおおおおおおらあああっ!」

叫び声を上げて、ロベルドが自身の前に立ちはだかった魔神に斧を振り上げ、敵が振り下ろした刃のような爪を迎撃している。響き渡るは、金属がぶつかり合うとしか聞こえぬ恐ろしい激突音だ。魔神の爪をまともに喰らったら、人間などどうなってしまうのか、想像するのも恐ろしい。その隣ではハルバードの長さを利して、ヴェーラが敵の手の内を探るのに終始しており、彼らを飛び越した魔神が、空中から後衛を強襲しようとしていた。ファルは無言のまま、尻尾から血を垂らしつつ正拳を突き込んできた正面の魔神の一撃を紙一重でかわすと、焙烙の封印を喰いちぎり、相手の拳を下から突き上げるようにして放り上げる。敵が拳を引き焙烙を避け、体を半回転させて、腰を使って当て身をかけてくる。抜いた刀を盾にして自らも後ろに飛び、途轍もなく重量のある体当たりを何とかいなすと、続いて斜め上から振り下ろされた裏拳を、殆ど地面に張り付くようにしてかわす。魔神が驚きに顔を思わず上げたのはその瞬間だった。彼の真上で焙烙が炸裂、翼の一枚を木っ端微塵にされた魔神が落下してきたのだから無理もない。ファルは最初から、後衛を狙って中空から襲いかかろうとした魔神を狙っていたのである。フリーダーがクロスボウで足止めを出来る事、その際の敵の位置も計算しての投擲であり、魔神の更に一枚裏を掻いた行動であった。落下した魔神は、ロベルドと交戦していた一体と激突、体勢を崩した魔神はロベルドのバトルアックスをもろに顔面に貰う事となった。悲鳴を上げる同僚の声を聞いて、顔を真っ赤にした魔神が、地面に張り付くようにして力を充填していたファルに、覆い被さるような拳の一撃を叩き付けてきた。その体勢で一番避けにくい攻撃を熟知しているのだ。ファルは舌打ちして、真下から敵の喉を狙う事を断念、横に飛び避ける。魔神が、地面すれすれに膝蹴りを叩き込んできたのは、直後だった。

がつんと凄い衝撃が来て、一瞬意識が飛んだ。地面に倒れている、いや転がっている事を自覚するまで数秒か、それの正確な時間も分からない。鳩尾にもろに入ったのだと、頭より先に体で理解する。頭上から、追い討ちの拳が降ってくる。それが、嫌にスローモーションに見えた。だが、誰かの悲鳴混じりの声が響き、それが意識をクリアにする。拳に、真横からクロスボウボルトが突き立つ。落ち来る死の速度が一瞬鈍る。今ぞ、正に必殺の好機。

跳ね起きたファルが、軽く拳に弾かれつつも、魔力集約点にそって刃を走らせる。蹌踉めきつつ踏みこたえ、揺れる視界を落ち着かせていく。拳から盛大に鮮血を吹き上げ、悲鳴を上げる魔神が瞳に映る。今の一撃が、敵の鱗の脆い点をもろに抉り、拳を殆ど真っ二つに切り裂いたのだ。大きく息を吸い込み、刀を体に隠すようにして、駆ける。必殺の拳を唐竹割りにされ、尻尾もない魔神は、必死にそれでも頭突きを見舞ってきた。魔神の頭には無数の角が生えており、相互加速の形であったから、もし避け切れなければ致命傷になっていただろう。だが速度は、ファルの方が勝っていた。両者が交錯し、そして互いがいた位置を奪い、立ちつくす。

ファルが刀を振り、鮮血を落とすのと、頸動脈を両断された魔神が地響き上げて倒れるのは同時であった。苦痛に揺れる頭を押さえながら、ファルは左右に素早く視線を巡らす。翼を一枚失った魔神が右隣でロベルドと交戦しているが、今丁度コンデの放った増幅クレタが顔面を直撃。視界を失って数歩下がる所を、ロベルドが間を詰めて猛攻を仕掛けている。そのすぐ側には、先ほど彼に顔を割られた魔神が、血みどろのまま倒れて動かない。ヴェーラは死闘を横目で身ながらあくまで様子見に徹し、殆ど下がることなく魔神の攻撃を捌き続けていた。彼女はちらりと戦況を見ると、一歩下がってみせる。魔神はそれにつけ込もうと一歩進みかけ、慌てて飛びずさって中空に浮き上がった。なかなかどうして、簡単には引っかかってはくれない。もし此処で一歩前に出ていたら、ファルは敵の死角に潜り込む絶好の好機であったのだ。そうすれば、如何に魔神といえども、かなり余裕を持って勝てたのは間違いなかった。

斜め九十度に魔神を挟むようにして、ファルとヴェーラはじりじりと間合いを詰める。魔神は子供の背丈ほどの高さに浮いたまま、両者と一定距離を保ち続け、進もうとも下がろうともしない。ファルは先ほど一度地面に叩き付けられ、鳩尾にも強烈な一撃を貰っている。痛みはずっと持続しており、あまり長期戦は続けられそうにない。ぐらりとファルが腰を落とすのと、魔神が不意に横にずれるのは同時だった。着地すると全身の筋肉を躍動させ、跳ね上がるようにしてヴェーラへと飛ぶ。そしてハルバードで牽制しつつ下がろうとする彼女に強引に肉薄、肩口を深々抉られながらも、力尽くで体当たりし跳ね飛ばした。

悪い判断ではない。もし此処でファルを狙えば、殆ど力を温存していたヴェーラに、もろに真横から攻撃を浴びる事になる。それくらいなら、まずは力を残しているヴェーラを叩いて置いて、ついで半死人であるファルにとどめ、という考えである。しかし、結果的にそれが致命傷となった。ファルは魔神が思っていた以上に底力を持っていたからである。

壁に叩き付けられて、ずり落ちるヴェーラ。そして魔神は、今度はファルにとどめを刺そうと振り向き、既に今のタイミングに死角に潜り込んでいたファルを見失う。中空へ飛ぼうとするデーモン。その尻尾を、ついで背中を蹴って、ファルが首の横、頸動脈へと刃を突き立てていた。

「が、があ、ぐああああああああああっ!」

鮮血迸る傷口を押さえようと、或いは刀を突き立てているファルをむしり取ろうと、魔神が天を拝むように手を挙げる。しかしそれより速く、ファルは刀を引き抜きざまに、更に血管を抉りきり、飛び退く。桶から撒いたような、多量の血が吹き上がる。だが流石に魔界の住人、のけぞり血泡を吹きながらも、体を半回転させ太い尻尾を振るって、最後の一撃を叩き付けてくる。ファルは着地後すぐに体勢を崩し、地面に片膝を着いてしまう。避けきれない。唸りを上げて迫る太い尻尾。だがそれを、まっすぐ飛んできたハルバードが貫通、強烈なベクトルを与えて軌道をそらし、ファルを殴打死から救った。横倒しになる魔神は、白目を剥き、痙攣しつつも、鋭い爪で地面をひっかき続けていた。

「すまない、助かった」

「なに、いつも助けられてばかりだからな。 火神アズマエルの加護を貴公にわけるくらい、当然だ」

魔神の血で青く濡れた刀を杖に体を支えるファルに、ハルバードを絶妙のタイミングで投擲したヴェーラが、壁にもたれかかったまま言った。

 

四体のデーモンを辛くも屠り去ったもの、此方もかなり損害は大きい。ファルは二度に渡って有効打を浴びていたし、壁に叩き付けられたヴェーラも相当に疲労している。疲労が少ないフリーダーとコンデがすぐキャンプを組み、エーリカが矢継ぎ早に印を組んで回復魔法を発動させる。魔界の住人は、人間世界で死ぬと塵になってしまう。デーモンもその例に漏れず、既に彼らの死体は塵となり、形を残してはいない。わずかに、痛々しい血痕が床に残ったくらいである。痛みを必死に押し殺しながら、横になってエーリカの回復魔法を受けつつ、ファルは言う。

「これは、予想以上に手強いようだな」

「七層の連中も手強かったけど、さっきのレベルの相手が標準だとすると、此処は文字通り地獄ね。 生半可な覚悟では踏み込めないわ」

「何という事じゃ。 おそろしいのう、怖いのう」

「しかし、当機を含め我々の実力も増しています。 決して探索は不可能ではないと思うのですが」

弱気なコンデに、フリーダーがフォローを入れた。もっとも、フリーダーの場合ただ事実を指摘しただけなのかもしれないが。ロベルドは先ほどの戦いで激しく魔神と刃を交えたため、まだしびれが残っているという右腕を上下させ、エーリカの顔を見る。

「で、どうするんだ? 七層の探索に戻るのか? それとも、もう少し此処を漁るのか?」

「そうねえ。 結論を今出すより、態勢を立て直す方が先かしらね」

エーリカの言葉に、今の戦いが相当に厳しかった事を、皆で改めて思い出す。フリーダーが見張りに立ち、壁に背を預けて皆で休憩に入る。壁は冷たく、この階層の空気そのものと同じく、まるで息づかいや生活感が感じられない。作り手は、いったい何を意図してこんな冷たい空間(これを建物と呼ぶのは多少不快である)を創造したのか。

「いつまた、何が出てくるか分からないわ。 少し皆頭を休めて、休憩しましょう」

誰にも異存はなかった。ほんの一時だけの安息は、またたくまに過ぎ去っていった。

 

3,吸血鬼王の逃避

 

ヴァンパイアはリッチと並んで、不死者のなかでは最強を争う双璧である。吸血鬼と呼ばれる彼らは、駆け出しの冒険者でも知るほどに圧倒的な存在であり、その恐怖を知らぬ者などいない。生き血を求めて夜な夜な徘徊する闇の王。強大な魔力と、圧倒的な肉体能力を持つ魔物の貴族。ダークヒーローとしてもっとも人気がある存在である事は疑いなく、良く伝説的な英雄の敵手としても歴史に登場する。その破壊力は、ちょっとした軍隊に匹敵するとさえ、一般には思われている。

しかし、現実問題、吸血鬼によって殺される人間など殆ど居ないのが現状だ。非常に危険度の高い迷宮の奥で遭遇してしまった冒険者の集団や、たまたま吸血鬼の目の前に姿を晒してしまった人間などがその餌食になるのだが、その数はベノア大陸全土でも、年間百人を超すかどうか。リッチもそうだが、殺人が自己目的化しているマクベインのような例外を除けば、彼らが人を殺す事は極めて希なのである。理由は簡単で、まず第一に絶対数が少なすぎる。特にヴァンパイアロードと呼ばれるような強力な吸血鬼を作るネクロマンシーの秘術は、失われて久しい。古代より生き残っているヴァンパイアは流石に強いが、むしろ自らの保身の為に、手当たり次第に人を襲うような真似はしないのである。頭の悪い力の弱い吸血鬼が村を滅ぼしたとか、そういう話はあるにはあるが、すぐに軍隊や強力な使い手に滅ぼされてしまって生き残った例は皆無だ。ヴァンパイアが多くの人間よりむしろ紳士的な例すら多い。かといって、彼らが人間を殺さないとか、手加減をするとか言う話が有れば、それは大間違いである。あくまで彼らにとって人間は餌なのだ。各個体が人間を殺す頻度はそれなりに高いのである。何しろ、捕食者なのだから。

カルマンの迷宮にも、そのヴァンパイアは住んでいる。齢は実に八百才に達し、文明の興亡すら見た事がある驚異的な高齢のヴァンパイアだ。名前はフルラウス。恐らくベノア大陸といわず、世界に存在する吸血鬼の中でも、魔界で貴族になっている連中を除けば最強の一人である。日光に耐性がないのを除けば、並の術者のディスペルでは歯が立たないほどに強力で、今まで三桁半ばに達する襲撃者を返り討ちにしてきた。大陸東部に存在した、現ササン王国の元となったカイミール朝ササン王国。その宮廷魔術師であった彼は、王朝の滅亡に際し、ネクロマンシーの秘術を使って生き延びる事に成功した。そして様々な遍歴を経て今この迷宮に住んでいる。彼はヴァンパイアではあるが、きざな青年でもなく、美形でもない。見た目は少し猜疑心が強そうな老紳士だ。細長い体は肉の欠片もないように見える。頭髪は豊だがすでに真っ白であり、口元で整えられた髭と耳の下で繋がっている。眼光は鋭く、口元もへの字に引き締まり、相対する者に愛嬌とか愛想とかを一切見せない。というよりも、誰にも心を許さず、誰にも油断しない。それが彼がずっと生き延びる事が出来た秘訣であった。実際問題、彼は百戦百勝といった華々しい戦歴の持ち主ではない。敵の数が多かったり、実力が高かったりと言った場合は素直に逃げを選ぶ事で、生き残ってきた策士である。自己の存在を強調するのではなく、あくまで影にとけ込む事で、今まで存在を保ってきたのである。

そんな彼であるから、危険の匂いを嗅ぎつける事に関しては、他の追随を許さない。その嗅覚が、今この迷宮が極めて危険な場所になりつつあると告げていた。

地下深くに埋もれたこのディアラント遺跡に、フルラウスは三十年ほど前から住み着いている。苦労して住み着く事に成功した此処は、人間がまず降りてこれないほどの深さにあり、最近アウローラが妙な仕掛けをしてくれるまでは極めて安全な場所であった。だがアウローラが別の迷宮につなげた上、様々な魔法的な仕掛けを施してくれたお陰で、一転して極めて危険な場所へと成り下がり、挙げ句直後にとんでもない怪物までもが姿を現した。(うごめくもの)である。フルラウスは当然その存在を知っていた。幸い一度目、二度目は不完全体で降臨した上に、アウローラとその眷属が屠り去った。不完全覚醒の際に人類最強の傭兵かと思われる連中が全滅したが、そんな事はどうでもいい。更にその後二回の降臨に関しては、この八層よりもずっと上の階層での出来事であったし、驚くべき事に人間が実力で屠り去った。だが、今回起ころうとしている覚醒は危険だ。そうフルラウスは感じていた。もう奴は、生贄さえ揃えば完全体で降臨する事が出来る。最初からフルパワーというわけには行かないだろうが、例え一割しか力を発揮出来ずとも、あのディアラント文明に決定的な打撃を与えた化け物だ。そんなものの覚醒に巻き込まれたら、確実に死ぬ。八百年という長きを生きてきたが故に、フルラウスは生に貪欲だった。彼は逃げる事にした。しかし、彼が入ってきた通路は、魔女がこの迷宮を弄くった時にふさがれてしまった。しかも迷宮の外には、現在が絶頂期にあるドゥーハン王国がある。迷宮攻略には何故か微々たる戦力しか投入していないようだが、彼がのこのこ外に出ていけば、瞬く間に世界を代表する使い手達に袋だたきにされるだろう。ヴァンパイアは強いが、一国を一人で相手にするほどではない。強力な魔法も使えるが、一流の使い手が十人束になってかかってきたらかなわない。ならば、保有する戦力を全てかき集め、それを囮にして逃げるしか無かった。配下には知性を持たない血のみを求める不死者、レッサーヴァンパイアが結構な数居る。ヴァンパイアの最大の特色は、吸血の結果死に至らしめた相手をヴァンパイアとして甦らせる事が出来る点にある。レッサーヴァンパイアというのは、吸血という特性のみを受け継いだ不死者であり、意識を持たず、貪欲に人間を襲って血を貪り啜る。身体能力も高く、故に脅威も大きく、人間の目をそらすには格好の材料となる。此奴らを最大限温存しつつ迷宮を夜に出、そして人間に袋だたきにされている間に、さっさと遠くへ逃げ去る。これしかない。そう決断して、蠢く者が復活する前に、フルラウスは逃げる事にしていた。極めて身勝手な考えだが、他に生き残る方法もない。既に騎士団が迷宮内部に噴く数カ所詰め所を作り、入り口をかなり強力に固めている事は、彼も知っているのだ。何でも一度外側から突破されたとかで、囮を使うとしても其処を抜けるのには一苦労しそうであった。

使い魔を放って綿密に敵の戦力配置をはかるのに三日かかった。急ピッチで進めた為に、何とか三日で済んだと言っても良い。ただでさえ最近の八層は、強力な負の力に引き寄せられた常識外の能力を持つ強大な魔物達と、アウローラが呼び出したデーモン共の巣窟だ。彼らとの小競り合いで、配下のレッサーヴァンパイアは日に日に数を減らしており、フルラウスは冷や汗のかき通しであった。敵の戦力配置と、兵力移動を計算に入れて、脱出路を考えるのにほぼ半日。そうして、ようやくフルラウスは手近にいる部下達を連れ、脱出に移った。

しかし、問題があった。此処最近、新鮮な血を飲んでいなかった彼の脳は、信じがたいほどに劣化が進んでいたのだ。人間の襲撃に怯えながら、張りつめた空気の中にいた頃の彼なら絶対にしないような判断ミスを重ね、失敗を続けていた。だが、やはりそれ以上に。平和すぎる空間での長時間の生活で、やはり彼は基本的な意味での牙を研がれてしまったのである。どんな強壮な獣でも、平和に鈍磨されてしまえば、それは家畜に等しいのであった。

状況から考えて、彼はまず冒険者を襲撃するなりして、転移の薬を入手して、それを活用するべきであった。また、もっと情報収集をする必要もあった。もし彼が、五層以上にいるサッキュバスに話を聞く事が出来ていれば、彼女らが使っている秘密の抜け道から、安全地帯に抜け出せただろう。八層の状況を全てだと思いこんでしまい、柔軟な思考を捨ててしまっていたのだ。彼自身で浅い階層に行き、そこで手駒を増やすという手もあった。ジャイアントやオーガのヴァンパイアなら、相当強力な切り札として活躍してくれるはずだったのに。鈍磨した彼は、兵力を集めて強行突破に近い形で逃げ出す事に拘りすぎた。それが致命傷になる事に、いまだ彼は気付いていない。

 

何度かの戦いを経て、八層を奥へ奥へと進んでいた。エーリカは、皆が適度に休めた後、静かに八層の探索を続行すると告げた。反対する者は居なかった。どうせ今後嫌でも散々強敵と争う事になるのである。ならば七層に戻って探索するよりも、この階層で強敵と争い、技を磨いた方がよい。そういったエーリカの言葉に、頭で納得したと言うよりも、今後更に魔物が強力になるのは確実だという事情がゆえに体で理解したのである。ただ、七層の探索がまだかなり厳しいのは事実。ある程度探索を進めたら、余力のあるうちに七層へ戻りたいのが実情であった。七層をまともに横切るよりも、少しは通りやすい道を探したいからだ。特にあの血の滝。あそこを通るのは兎に角危険だし、染みついた臭いがずっと体からとれないのだ。

八層は何処まで行っても寂しい四角い箱の連続であった。念のため部屋の入り口に印を付けてみたり、戻ってみたりしたが、同じ所を行ったり来たりしているわけではなかった。まるで蜂の巣のように、無個性な箱が連続している。臭いもなければ色もなく、まるで牢屋の中だ。そういえば囚人に与える刑罰には、無個性な部屋の中に閉じこめ、無音の中で過ごさせるものもあるとか。此処での探索の辛さを考えると、その刑罰が如何に効果覿面か、よく分かる気がファルにはした。

しばし時を経て、ファルが足跡を見つけた時には、皆が安堵の息を漏らしたほどである。足跡は、時々途切れつつも、東へ一直線に向かっていた。ざっと見たところ、大した使い手ではない。どうしてこんな階層を歩けているのか不思議なほど不用心で、しかも怯えが露骨に現れていた。足跡の乱れからそれを看取ったファルが皆に言うと、顎に人差し指の先をあてながら、エーリカが小首を傾げた。皆足を止め、声を低くして、周囲の気配を伺いながら相談にはいる。

「全滅した冒険者チームの生き残りかしら? それとも、宰相派の生き残り?」

「弱者を装っている、という事はないか? 奸智なる古狐を思わせるこの辺りの魔物なら、それくらいは涼しい顔でやりそうだが」

「この足跡は、特徴的で見覚えがある。 ハリスの僧兵の靴だ。 足跡の乱れは恐らく本物だろう。 少なくとも私には、これがふりだとか偽装だとか、そういったものには見えない」

「当機もファル様に同意します。 この足跡には、精神の乱れが露骨に現れていると分析出来ます。 当機の見たところ、足跡は女性で、恐らく成人したばかりです」

「……ふむ、そうね。 トラップには最大限の注意を払って、追ってみましょうか」

ファル自身も分かっている事だが、罠の可能性も低くはない。ファルをごまかしきれるほどの相手かも知れないのだ。コンデは頷くと、一旦目を閉じて精神集中し、魔法を利用したトラップが発動した時に備えた。ファルは少し先行し、周囲の地面に気を配りつつ、皆を守る目となる。そう言った行為が、単調で気味が悪いこの階層の探索に、ぐっとメリハリをもたらす事となった。

やがて、行き止まりにたどり着いた。そこは、幸いな事に、変化のある空間であった。

同じように四角い箱を思わせる部屋であり、壁も床もまるで無個性なまま、奥へ奥へと伸びている。そして部屋中には、四角い奇怪な箱が山と積まれていた。箱は絵に描いたような正方形で、角が少し出っ張っており、六面は僅かにへこみ、何カ所かで筋状かつ規則的に盛り上がっている。部屋に大量に積み上げられた箱は、半ばが壊され、中身を空気にさらしていた。箱の中に何かが潜んでいる可能性は極めて高い。足跡は、其方へ続いて蛇行しながら伸びていた。無言のまま、皆を置いてファルが歩き、それに近づき行く。そしてしばしの時を経て、手招きをした。そして、戦闘態勢を崩さない皆の前で、箱の一つに手を掛け、一気に一面を外した。近くで見ると、この箱は一面が簡単に外れるようになっている。蓋の機能が有るのだ。そしてこの箱は、カギとなるらしい部分が劣化して壊れていた。箱の一面が床に落ちるとほぼ同時、ヒステリックな金属音が響き渡った。

「きゃあああああああっ! いやあああああああっ!」

無言のまま箱に手を突っ込み、中にいた者を引っ張り出す。ファルが後ろから口を押さえ、魔物を呼び寄せかねない悲鳴を止めた。涙を流しながら、埃まみれの体を震わせるそれは。全身ボロボロの、哀れなほど埃まみれの、全身から異臭を漂わせているハリス僧だった。前で品定めするように自分を眺める五人を見て、怯えるばかりのその僧は、フリーダーの予想通り、まだ若い娘だ。ファルが見た所、相当な潜在魔力を有しているが、いかんせんまだまだ錬磨が足りない。押さえているファルは殆ど力を入れていないのに、もがくばかりで逃れる事も出来ないのが、その証拠だ。もしエーリカなら、隙を見てすぐに拘束を外してみせるだろう。取り合えず娘を取り押さえたまま箱から離れると、エーリカは拘束を緩めるようファルに目配せし、出来るだけ優しい声で言う。隣では、フリーダーとロベルドが左右に展開し、敵の接近に備えていた。

「大丈夫、落ち着いて。 愚僧たちは魔物じゃないわ」

「んー、んーんー、んーっ!」

必死に娘は首を振ろうとするが、ファルが口を押さえている為上手くいかない。もぞもぞと動こうとする僧を抱えたままの状況に危地を覚えたファルは、エーリカに言った。声は零下に達している。

「頸動脈を押さえて気絶させるか? 尋問は後でも出来るだろう」

「だーめ。 やめなさい」

「いつもだったら拳骨をくれて黙らせるのではないか? 貴公らしくないな」

「……この子にそれは逆効果よ」

エーリカは視線を少しだけ降ろし、すぐ戻した。ファルもその意味を悟った。あの箱の中で震えていた僧は、外に用を足しに行くなどと言う余裕はなかったのだ。手を離してやると、僧はへたり込んで、まるで子供のようにしくしく泣き始めた。静寂に満ちた空間に、水面に渡る波紋のように、押し殺した泣き声は響いていた。

強烈な恐怖がショック療法になる事はある。事実、迷宮に入ったばかりの頃、エーリカはそれを統率の手段や、パニック解消の手段として時々使った。しかし精神崩壊の引き金になりかねないほどの恐怖にずっと晒されていた者に、更に恐怖を与えても無意味である。むしろ精神を破壊してしまうだけだ。

「一つ部屋を戻って、其処の隅でキャンプ張るわよ。 急いで」

慰めるにしても、落ち着かせるにしても。泣き声が響き続ければ、現実問題として魔物を呼び寄せるだけだ。感傷だけで生きていく事が不可能な世界が、ここカルマンの迷宮であった。エーリカの指示は、それを端的に示していた。

 

ロミルワの灯りを最小限にまで落とし、手早くキャンプを張る。暗い階層では、ロミルワの灯りを休憩中に落とすのは定石である。そうでないと、自分の位置を敵に教えてしまうからだ。ロベルドが見張りに就くのを横目で見ながら、ファルは先ほど受けた傷を一つずつチェックしつつ、ハリス僧の娘と、エーリカの会話を横目で見ていた。落ち着かせ、尋問するのはエーリカの得意分野だ。ボディチェックして武器を取り上げるくらいはしたが、実際問題、エーリカならこの娘が不意に殺意を抱いたとしても、確実に返り討ちに出来よう。他にも、コンデが既に魔法的なチェックを終え、娘に不審な魔法が掛けられていないかは調べ終えている。魔物が人間に擬態している可能性もないと、コンデは言った。

ファルは別にどうとも思わなかったが、そうでなかった者もいる。露骨に軟弱なこの娘を見て、ヴェーラは終始穏やかならぬ表情であった。だが、夢魔インセルスに対して怒りを爆発させた時に比べると、彼女はだいぶ精神を落ち着かせ平常を保つ修練を積んでいた。娘と目を合わせはしなかったが、それだけで済ませていたのである。かってのヴェーラであれば、考えられない事であった。

ユナ=ルネットと名乗った娘は、最初は泣くばかりであったが、エーリカが丁寧に慰めた結果だいぶ落ち着き、様々な話をしていた。汚してしまった法衣はキャンプの端っこに積んであり、今は非常時用に持ってきた粗末な着替えを貸して貰って着ている。泣き腫らした目が痛々しい彼女は、特に美人というわけでもなく、むしろ地味な顔立ちだ。ファルが感じたとおり、かなりの魔力の持ち主で、その辺を買われ若くしてハリスの高僧になったのだという。だがその結末がランゴバルド枢機卿の護衛としてカルマンの迷宮に入る事となり、宰相の謀反に巻き込まれる事だったとすると、あまりの悲惨な展開に言葉も出ない。話によると、ユナは最近まで魔法的な洗脳をされていたそうで、それが最近不意に解けた。昔のランゴバルドだったらそんなヘマは絶対にしなかっただろうといいながら、ユナは自らの肩を抱きしめて視線を落とした。

「同僚の内、魔力が強い者達は皆宰相の儀式で殺されてしまいました。 なんであんな良い人達が、あんな邪悪な儀式で命を落とさなければならなかったのでしょう。 神はいったい、何処で何を見ておられるのでしょう。 私も、神を侮辱する儀式に参加して、同僚を、皆を、一人も、一人も救えなくて。 う、ううっ」

「さあ、ね。 ただ、分かっているのは、例え神様が居るとしても、この世から悲惨な事件や凄惨な矛盾がなくなる事はない、という現実よ。 神様が何かどうこうしてくれるとしても、それは死後の世界とか来世での話でしょう」

さらりとエーリカは言う。神への信を絶対とする僧侶らしくもない台詞だが、反面エーリカらしい台詞ではあった。ロマンチストでは、今までの戦いで見せた人使いの妙や、現実的な戦術展開は不可能である。エーリカは僧侶ではあるが、それ以上に冷徹無比な現実主義者であるのだ。ただ、医療僧にはある程度皆そう言った傾向があるが、エーリカほど徹底している者は珍しいだろう。

その後は、具体的な話に移った。同僚を虐殺されたうえ、神を冒涜する儀式に参加させられ、恐怖で何も出来なかった。その悲しみは深く、全てを一度に話すというわけには行かなかったが、一つ一つ丁寧にエーリカは聞いていった。鈍い胴の針の山の中から、紅くさびた鉄の針を探して取り除いていく。そんな慎重な作業であった。洗脳されていた間の記憶もあるという事で、罪悪感に苦しみつつも、ユナは一つ一つ事実を掘り出していく。

現在、ランゴバルドは宰相派の生き残りと、大天使を連れ、八層で動き回っている。目的は分からない。ただ、イザーヴォルベットがどうのこうのというのを、ユナは聞いたと語った。その他にも、幾つか問題視するべき事があった。一つには、サンゴート騎士団がドゥーハン騎士団の許可を得て、三十名ほどでこの八層まで来ている、と言う事。別に彼らは敵ではないが、首領の女騎士、調べた所によるとヴァイル=ドゥーリエとやらは、激しい性格でかなり執念深いという。ひょっとすると敵対行動を取ろうとする可能性もあるから、油断しすぎるのは禁物である。ただ、此方は危険度としてはどちらかと言えば低い。問題は、もう一つであった。

「ヴァ、ヴァンパイアロードじゃと!」

「はい。 何度か大天使や自我を失った私たちが、その配下と交戦しました」

「ひいい、恐ろしいのう」

コンデが頭を抱えるのも無理はない。ファルだって、思わず今の戦力と、有効と思われる戦術を頭の中で再確認していたほどだ。ヴァンパイアといえば冒険者の誰もが知る最強の魔物の一つ。しかもロードと呼ばれる連中となると、リッチと双璧を為す殆ど伝説的な存在で、昔話に出てくるような勇者が傷つきながらもからくも倒すような輩だ。以前戦ったマクベインは、不完全体のリッチであっても、途轍もなく強かった。全力でのファルと、村正を自在に扱うアオイを相手に五分以上の戦いをして見せたのだ。それを考えると、完全体のヴァンパイアロードがどれほどの相手か、想像するも寒気がする。

「のう、エーリカ殿。 今日はつかれておることだし、一旦戻らぬかの

だまりなさい

いきなり弱気な事を言うコンデを一言で静かにさせると、エーリカは更に詳しく話を聞きだしていく。

「ユナさん。 敵の戦力や、居場所、それに目的は分からない?」

「はい、その……敵は集結を続けているという話を聞いています。 この階層の彼方此方に散っているらしいヴァンパイアが、連絡を取り合って、一所に集まろうとしているとか」

「明らかに、何かしらの作戦行動の前触れね」

更にエーリカが何か言おうとした瞬間、ファルが刀を手に立ち上がった。外で異変が起こったのを感じたからである。

ロベルドと見張りを代わったフリーダーが、目を細めて心持ち顔を上げた。気配がする。しかも、部屋の奥でも無ければ、壁でもない。天井からである。すぐに皆に警告し、無音のまま構えを取る。天井からの足音に続いて、この部屋の周囲から、足音が集まってくる。いずれも床だ。それの集結を待つように、天井を影が移動していた。まるでヤモリか何かが這いずるように、重力を無視するかのように、するすると滑らかに移動していく。まだ此方は気付かれていないが、しかしあまり気付かれたくはない雰囲気であった。キャンプを出たファルは、自身もそれを確認する。キャンプの奥では、ユナが小さく悲鳴を漏らし、小さく縮こまってがたがたと震えていた。ロベルドはバトルアックスを低く構え、声を低くしていう。

「おいファル、なんだあれ。 知ってるか?」

「さてな。 ただ、どうみても戦闘能力は高そうだ」

「ヴァンパイア、じゃろうの。 やれやれ、噂をすれば影が差すとは、先人は良く言ったものじゃのう」

「へえ、あれが」

驚きを顔中に湛える皆の機先を制するように、エーリカがさらりと言った。この娘は好奇心の固まりに近いとファルは良く知っているが、それにしてもある意味恐ろしい。危険さえなければ、神にでも魔王にでも平気で近づいていきそうだ。

「何故わざわざ天井を歩いているのだ? 奇襲はともかく、攻撃回避には不利な気がするのだが」

「さあ、ね。 蝙蝠とかと同じ性質があるんじゃないの?」

「ふむ……しかし傍目からも、連中の警戒ぶりは少々異常だな。 まるで狼を怖れる子兎のようだ。 襲撃を怖れているようだが」

既に皆気配を消している。普段びくびくしているコンデでさえ、もうこういった時には気配を消せ、まるで水面下に潜むワニのように敵を奇襲出来る。伊達に八層まで来ていない。以前コンデの事を、いずれウェズベル師にも迫れると、ファルは言った事があった。今、その言葉は、もう冗談でもないし過剰表現でもない。ごく普通の、目の前にある事実だ。

天井にいた奴が、音もなく地面に降りると、それを中心に連中は徐々に集まっていく。遮蔽物がないこの部屋では、いくらかなり距離があるとはいえ、あまり面白くない。しかし部屋の入り口という入り口から吸血鬼共は入り込んできており、簡単に脱出は出来そうにない。しかし、躊躇していれば、じきじり貧だ。一つだけ安全な場所があるとすれば、先ほどユナを救出した、箱が積んである部屋だ。其方からは、吸血鬼は現れていない。そっちへ移ってやり過ごすのが、一番現実的な策ではあった。敵の数は既に十を超えているのだ。いざというときは、転移の薬を使ってさっさと逃げるのもいい。何にしても、敵の戦力から言って、あまり手段を選んではいられそうもなかった。

ただ、それらは消極的な考えである。ロベルドとヴェーラがキャンプを纏めたのを横目で見ながら、エーリカはしばし考えていたが、やがて顔の前を飛ぶ虫を追い払うかのように、さらりと言った。

「叩き潰しましょう」

「……まあ、判断としては妥当だな」

今後、どうせ嫌でも戦う相手である。多少疲れていると言っても、まだ充分に戦える余力が残っている以上、その戦力を削ぐのが損であるはずがない。戦う事が決まると、気持ちを切り替えた皆の表情が引き締まる。既に怯えや逡巡は、その顔には残っていなかった。

 

4,静かなる奇襲

 

ヴァンパイア達は、暗い部屋の中、静かに集結すると、移動を開始していた。数は結局十三まで増え、それ以上にはならなかった。十二体はふらふらと歩いているのだが、一体だけやたら動きが良いのがいる。隙もないし、周囲の警戒もかなり手慣れている。ネクロマンサーなどの人間かと一瞬思ったが、コンデは首を横に振った。ファルには遠目で魔力流は分からないのだが、コンデの話によると、奴が一団の中で最も強烈な負の気配を漂わせているのだという。それは明らかに人間の気配ではないそうだ。

「レッサーヴァンパイアは我々でも何とか出来ました。 でも、ロードではないにしても、それ以上のクラスの相手だと、もう我々にはどうしようもありませんでした。 あれは、人の子が勝てる相手ではありません」

そう、追撃を開始する前、ユナは言った。怯えきった様子でついてくるユナには、何もしなくて良いから逃げに専念する事、皆から離れないようにする事を言い含めると、追撃に移った。足音も気配も消し、六人は追跡する。滑るように闇を進みながら、動きが良い一体を視線で指し、エーリカがハンドサインを出した。仕掛けるタイミングも、それには当然示されている。もう、ファルとコンデも既に先行して、簡単なトラップを張り終え、戻ってきた所であった。

遠距離から強力な魔法を叩き込んで一網打尽と言う手は使えない。相手には仮にロード級ではないにしても、群れを統率している強力なヴァンパイアが一体混じっている。距離を置いて、気配を最小限までに殺しているから奴に気付かれないのだ。もしジャクレタなど詠唱しようものなら、即座に気付かれて先手を譲る事となる。速射式ジャクレタなら先手を取れる可能性もあるが、それでは致命傷を与えられるかかなり疑わしい。そこで、ピンポイントで相手にダメージを与え、混乱した所を集中的に叩く策を用いる。相手を叩く際に用いる策略そのものは先人の用いたものに習うが、効果的な事は既に実証されている。

フリーダーが既にクロスボウに装填しているのは、エーリカが先日買ってきた銀製の鏃を持つクロスボウボルトだ。鏃だけではなく、矢の柄にも浄化の意味を持つ呪文が刻んであり、ザイバを掛けた矢とほぼ同じ破壊力を持つ。多少割高だが、おそらくデーモンなどにも効果は高いし、わざわざザイバを掛けずとも使えるという点が何よりも大きい。ついにエーリカの攻撃開始を意味するハンドサインが飛ぶ。フリーダーは腰を落とし、タイミングを待つ。そして、連中が、足を止めた。

部屋と部屋の間にある入り口に、先回りしたファルが紐を渡し、コンデがロミルワの最小限にまで落とした光源を其処にくくりつけておいたのだ。コンデはなにより長い年月を生き、戦闘用ではないにしても様々な術を知っているから、こういう場合は兎に角応用が利く。遠隔操作する術はなくとも、様々な隠し弾を持っているのだ。自らの手を離れても長時間光を維持、そして紐が切れたら光が消えるようにも術を掛けて、コンデはその場を離れた。ファルは幾つか、知能の低いレッサーヴァンパイア程度なら引っかかり、知能のある冒険者なら引っかからない程度の罠をロープに仕掛けて置いて、その後に続いた。そして現在に至る。

フリーダーだけではなく、エーリカもロベルドも、クロスボウを構えてタイミングを待っている。ばちんと音が響いてきたのは、ファルが仕掛けたトラップに、レッサーヴァンパイアが引っかかった音であろう。影が一つ弾かれて、目の辺りを押さえてもがいている。殺気と怒りが混じった悲鳴が聞こえる。とても人のものとは思えぬ、押し殺したような苦痛の声だ。落ち着いた動きの影が、滑るようにロープへ向かう。そして、周囲をヴァンパイア共が警戒し始める。それを指揮しながら、落ち着いた動きのヴァンパイアが、ロープを切って落とした。エーリカの指示が飛んだのは、その瞬間であった。狙うは、先ほどまで、ロミルワが灯っていた地点である。

「てえっ!」

三本の矢が、唸りを上げて飛ぶ。そしてそのうち二本までが、ロープを切り落としたヴァンパイアの体に、深々と潜り込んだ。同時にコンデが新しいロミルワの灯りを飛ばし、敵集団の側で最大光度にする。暗闇の中で巨大な光を出現させると、何が起こるか。光の中にいる者は、外が全く見えなくなる。逆に光の外にいる者は、光の中がまるで劇場の舞台が如くよく見える。いや、劇場での舞台は、この効果を実に効果的に利用しているのだ。混乱する相手に、更にフリーダーが、エーリカが連続して矢を浴びせ、惜しむことなく高価な銀のクロスボウボルトを浴びせかけた。

「おのれえええっ! 人間共ガアアッ!」

次々に矢で打ち抜かれ、右往左往するレッサーヴァンパイア達の真ん中で、二本の矢に体を貫かれて倒れていたリーダーらしきヴァンパイアが、淀みなき人語で言った。彼はそのままふらつきつつ立ち上がり、手を振るって、部下達に指示を飛ばそうとする。だが更に彼に三本の矢が、同時に襲いかかる。体を二本の矢で貫かれていたにもかかわらず、驚くべき身のこなしで彼は二本まで避けた。しかし最後の一本、狙いにねらいすましたフリーダーの一矢が、彼の頭を貫通、肉を吹き飛ばしていた。

「ギャアアアアアッ!」

頭を半分吹き飛ばされ、仰け反りながらも、ヴァンパイアは手を振り抜き、部下達に反撃の指令を出す。ロベルドがクロスボウをしまって戦斧を取りだし、ファルもヴェーラも得物を抜く。牙を剥いて、十体近いレッサーヴァンパイアが、低い態勢で野犬のように躍りかかってきた。先頭の一体が、エーリカの放った矢にうち倒され、横転する。それを最後にエーリカも詠唱に移る。この辺りまでの指示は、既にハンドサインで確認済みだ。

「キシャアアアッ!」

暗闇の中、紅く光る目が流れ、迫り来る。牙を剥いたヴァンパイアが、仲間の死に全く動じることなく襲いかかってくる。闇に目が慣れた現在、彼らの姿が見える。かって衣服だったらしいものを体に纏った彼らは窶れ、髪を振り乱し、全身を腐らせている。それでいて、ゾンビやライフスティーラーなどとは比較にならない身のこなしだ。全身のバネも並の人間を遙か凌いでいるし、身を纏う魔力もかなり凄まじい。これは速射式のジャクレタでは、殆ど意味がなかったかも知れない。恐らく実力は、レッサーデーモンと同じか、それ以上か。

ファルが前に出、飛び出してきたヴァンパイアの刃を、振るい上げた刀で下から迎撃する。元が人間の爪とは思えない強度で、ぎいんと凄い音を立ててファルの忍者刀と弾きあった。そのまま真横に回り込み、低い態勢から脇腹にかぶりつこうとしてくる一体の頭を押さえ、受け流しつつ地面に叩き付ける。ザイバが唱え終わるまでは、フリーダーの狙撃をあてにしつつ、敵の後衛への攻撃を阻害しつつ、自身の身も守らなくてはならない。先ほどの狙撃を見ても分かるように、ヴァンパイアを頂点とする不死者の特性は、兎に角タフな事だ。自らの核となる部分を魔法的な打撃によって破壊されるか、体を粉々にされるまで絶対に死なない。今はじきあった一匹が、爪を振るって迫ってくる。長く鋭い爪を紙一重で避け、敵の後頭部を掴んで側に引きつけつつ、鳩尾に膝蹴りを叩き込む。普通の人間なら是で悶絶している所だが、相手は不死者だ。二発連続で膝蹴りを叩き込み、首筋に相手の吐息を感じる前に、そのまま相手の胸元に残る衣服を利して背負い投げする。地面に叩き付け、更に頭を蹴飛ばす。首が折れた気配がするが、腐敗した汁をたっぷり含んだ爪が抉り抜くように、飛び退いたファルが今まで居た空間を切り裂いていた。そして奴は、首が折れたまま、平然と立ち上がってくる。下がったファルに、二方からヴァンパイアが迫ってくる。ロベルドもヴェーラも手こずりながら、何とか襲いかかってくるヴァンパイア共をいなしている状態だ。一人頭三体を防がねばならない。近い方の一体へ自ら間合いを詰めると、牙を剥くそれに頭突きを掛け、蹌踉めいた所を蹴り倒す。後ろから突っ込んでくる一体を、振り向きざまの回し蹴りで、ヴェーラと交戦中の一体に向けはじき飛ばす。更に、首をへし折った一体が迫ってくるのを横目で見ながら、次の一手をうとうとしたファルは、反射的に刀を振り上げていた。凄まじい勢いで飛んできた矢が、刀身と激しくぶつかり合う。態勢がぐらつく。同時に、ヴァンパイアが体当たりを掛けて来、避けきれずファルは跳ね飛ばされていた。小さな体なのに、尋常なパワーではない。これはレッサー(下級)であっても、不死者の中では最強クラスかも知れない。

先ほどデーモンに受けた傷に、もろに一撃を喰らったファルの闘志は、衰えては居ても未だ折れてはいない。調子に乗って飛びついてきたレッサーヴァンパイアを、立ち上がりつつ刀を振るって、下から顔面を割ってやる。顔面を真っ二つにされたヴァンパイアは流石に顔を覆って飛び退き、ファルは矢を投げてきた相手を見据える事が出来た。先ほど、フリーダーに頭を半ば吹き飛ばされた、指揮官らしきヴァンパイアである。奴は頭部を半ば失いつつも、クロスボウ並みの威力で、矢を(投擲してきた)のだ。半分しか残っていない顔で、奴はにいと笑った。そして、詠唱を始める。珍しく慌てたエーリカの指示が飛び、詠唱途上の奴に、ファル達の支援を後にしたフリーダーの狙撃が襲いかかる。肩を貫かれた奴が、それでも滅びず蹌踉めくだけで、矢を引き抜くのを舌打ちして見やりつつ、ファルはまた飛びついてきた下級吸血鬼に裏拳での一撃を見舞って、ひるんだ所を地面に投げつけていた。

「ふう、ふうっ、ふうっ!」

汗が飛ぶ。自分に迫る肉体能力の持ち主を、三体同時に相手にしているのだから、当然息も上がってくる。しかも敵のスタミナはほぼ無限で、それをスキルでカバーしなくてはならないのだ。相手に知能がなければそれなりにやりやすいのだが、今交戦している吸血鬼共は戦い慣れしていて、そこらの不死者とはまるで格が違う。エーリカに焙烙は温存するように指示されている。より戦いは苦しいが、此処で乗り切れなければ、先などない。ヴァンパイアは立て続けの波状攻撃では埒が明かないと悟ったらしく、等距離を保ったまま、三方向からじりじりと迫ってくる。しかも、ファルが躊躇すればすぐにでも後衛を狙おうとしているのが見え見えだ。鋭い牙をむき出しにして、吸血鬼共が飛びかかってきた。三体同時に。同時にファルも動き、正面の吸血鬼に前蹴りを喰らわせてはじき返す。更に右側の、先ほど顔面を割ってやった一体を、後ろ回し蹴りを与えて弾く。その瞬間、最後の一体に後ろから組み付かれた。単純な筋力は吸血鬼の方が強い。そのまま奴は、ファルの肩にかぶりつこうとした。肘打ちを当てるが、離れてはくれない。むしろファルの非力さをあざ笑うように、側頭部に頭突きを浴びせてきた。

「ぐうっ!」

頭の中に星が飛ぶ。まだか、ファルは心中で呟きつつ、もう二度肘打ちをあてて牙の到達を防ぎ、面倒くさげに相手がもう一撃頭突きを入れようとしてきた瞬間を狙って、左手で、頭突きを掛けてきた相手の鼻を下から突き上げてやる。激しく頭を跳ね上げられた吸血鬼だったが、角度を変えただけで浅く頭突きが入り、ファルと吸血鬼は激しく弾きあっていた。

二度も吸血鬼から至近の頭突きを浴びたファルは、すぐには立ち上がれなかった。余裕を見せながら、三体の吸血鬼が、じりじり迫ってくる。側頭部の肌が破れて、血が出ているファルは、頭を振って意識をクリアにしようとするが、なかなか上手くはいかなかった。

「遅いぞ」

「これでも最大速度よ!」

刀を杖に立ち上がりながら、ファルは後衛へと珍しく愚痴を入れていた。エーリカが場合によって手を抜いているのは、ファルも薄々気付いているが、それにしても毎度厳しい戦いになるのは正直辛い。コンデのザイバが完成し、皆の武具を、淡く魔力の光が覆っていた。輝き始めた刃をふり、ファルは吸血鬼共を指先で招いた。意味は通じ、牙をむき出しにしたレッサーヴァンパイア共は、怒濤の如き勢いで迫ってきた。だが、もう勝負は決している。今までの戦いで、ファルはとっくに敵の魔力集約点、すなわち不死者の弱点である核を見切っていたのだ。

「シャアッ!」

殆ど体当たりするような形で、一体目に突貫したファルが刃をひらめかせ、かって心臓があった位置に、ミリ単位の正確さで貫き入れていた。ぼっと音がしたのは、吸血鬼の体が燃え上がったからである。そのまま崩れ、灰になっていく不死者を踏み台にし、ファルは跳躍した。そして驚く吸血鬼を、脳天から切り下げ、その過程でコアを真っ二つにしていた。更に一体が、低空から、レスリングのタックルを思わせる動作で組み付いてくる。しかし、吸血鬼に有効打を浴びせられる現在の状態で、それは残念ながら自殺行為だ。ファルは自身も態勢を低くし、てこの原理で強烈なタックルをこらえると、刃を非情に突き落とした。首を後ろから刺し貫かれた吸血鬼は絶叫、蒼い炎を上げながら、灰になっていった。

油断した瞬間を狙い、風切り音がして、クロスボウボルトが飛んできた。胸を狙って飛んできたそれを、刀を盾にして防ぎ通すが、勢いは凄まじく、少し後ろに飛ばないと殺しきれなかった。回転しながら床に落ちる矢。痛む全身。ファルは刀を振って、まだ少し燃えている吸血鬼の残骸を払い落とす。燃え残った花火のように、それは僅かな光を発しつつ、地面に落ち散らばっていった。矢を弾いた際、跳ね上がったそれに軽く肩口を裂かれたファルが、頬に飛んだ血を手の甲で拭いながら、一人ごちていた。

「さて、最後は……手を下すまでもないか」

顔を上げたファルは、今の一撃が、断末魔であった事に気付いた。フリーダーの矢を六本以上受けた指揮官らしい吸血鬼は、燃え上がり始めていた。顔を半分吹き飛ばされ、心臓に一本、胸に一本、腹にも一本矢を刺したままの姿で、しかも燃え上がりながらまだ立っているのだ。吸血鬼の凄まじさを見せつけながら、体を崩落させながら、奴は笑っていた。最初の奇襲で、本当は致命傷を受けていたのかも知れない。だが、それでも此処まで戦い抜いた、奴の力をこの場の誰もが認めていた。奴に狙撃戦で勝ったフリーダーも凄い。しかし、この場で最大の印象を残したのは、立ちつくしていた奴の姿であった。

「あは、はははは、はは、はははははは、はははは……」

燃え尽き、灰になり果てるまで、奴は笑っていた。何もない空間に、奴の笑いが、ずっと響き続けていた。自分でレクイエムを奏でながら、吸血鬼は滅び、消滅していった。

混乱する吸血鬼達を、勢いを増したファル達が追い討ちする。戦いが終わった時には、もう笑い声は止み、静かな死の静寂がその場に戻ってきていた。

 

ファル達が吸血鬼の一団に勝利したほぼ同時刻。八層の入り口でも、戦いが始まり、そして終わっていた。状況は若干異なったが、鮮やかな展開であった点はほぼ同じであった。八層の入り口にたむろしていた吸血鬼の集団に、六人の人間が正面から出くわし、遭遇戦となったのである。吸血鬼の数は十一体、その中の一体はロード級には達しないものの、知能も有れば戦い慣れもしている猛者であった。それでも彼らが敗れた原因は、人間達が常軌を逸した手練れであったからだ。

「流石だ、ベルタン王。 腕はバンクォー戦役の頃から衰えていないな」

「とんでもない話だ。 今の俺など、当時のオルトルードに比べればただのしなびた老兵に過ぎないさ」

「いやいや、お二人とも、想像以上の力ですな。 このゼル、ただ単純に感心するばかりですぞ」

「貴様の力も相当なものだ、ゼル殿。 何故今まで認める事が出来なかったのか、己の不徳と不明察を恥じるばかりだ」

会話しつつ、油断無く最後に残った敵を見据える彼らは。蒼く輝く剣を持つ騎士がベルグラーノ。巨大な戦斧を構えるのがベルタン。そして、騎士団より支給された、強力な魔法が掛かった手甲を両手に填めているのがゼルである。後衛にいるのは油断無く戦況を見据えるリンシアと、今回はサポートに回ったアオイ、それに杖を横に構え、敵を見据えるポポーであった。以前はどじで人なつっこい光を目に浮かべていたミルゴット家の娘は、今は心に鬼が住んだかのように鋭い目つきで、動きもきびきびしていた。髪も短く切りそろえ、そしてぽっちゃりしていた以前と違って痩せている。痩せた彼女は綺麗と称されるに充分な容姿であったが、そう思わせるよりも、凄惨さを先に見た人へと植え付けた。元々彼女は、あのウェズベルの弟子。今までは平和すぎる性格のため戦闘には向かなかったが、今はもう違う。

生き残った最後の一匹が、牙をむき出しにして、半ば自暴自棄の突撃を掛けてきた。その突進を軽くいなすと、騎士団長は真っ二つに、唐竹割りに、容赦なく斬り下げる。他の吸血鬼同様、燃えて塵になっていく吸血鬼の残骸を踏み越えて前に進みながら、ベルグラーノは言う。

「何か、良くない事が起こっているようだな。 先行しているサンゴート騎士団は、何をやっているのだろうか。 ヴァンパイア共は、彼らのなれの果てではないようだが」

「奴らは有能だが、我らを出し抜く事ばかり考えているでな。 信用しすぎない方が良いだろうて、騎士団長」

「うむ、分かっているが……」

「騎士団長、急ぎましょう。 吸血鬼共は明らかに何かしらの作戦行動に基づいて動いていました。 早く奴らの狙いを突き止めないと」

ベルグラーノがこういった話が苦手である事を知るリンシアが、助け船を出してくれた。頷くと、騎士団長は八層へ一歩を踏み出す。五人の猛者達が、それに続いた。

 

5,吸血鬼王の最後

 

長年の調査で、吸血鬼王フルラウスは、地下八層がどういった場所であったのか知っている。八層の半分ほどは無個性で無機的な場所だが、奥の半分は一応生活感残る空間になっており、其処を調べた結果知る事が出来たのである。そして、どうしてこの階層に、あのうごめくものマジキムが実体化しようとしているのかも。

本来なら、此処は極めて安全な場所であった。確かに食料を得る為外に出かけるのには不便であったが、魔神など間違っても湧いてでない場所であったし、アウローラが妙な事をしてくれなければ、マジキムだって復活する訳がなかったのだ。夜逃げ同然に、此処から脱出する必要だってなかったのだ。かといって、情けない話ながら、フルラウスはアウローラに戦いを挑もうとか復讐しようとかは一切考えていない。戦っても勝ち目がないからである。

そして今の、脱出計画も、端から頓挫しようとしていた。八層入り口で、拠点確保を行っていた部隊からの連絡が途絶し、様子を見に行った者も帰ってこない。更には、八層各地に散っていた連中を集めて回っていた部隊の連絡も途絶し、其方も様子を見に行った者が帰ってこない。保有兵力はいきなり半分に減ってしまったのである。蒼白になる彼の周囲には、知性もないレッサーヴァンパイアが二十三体、知能を持つヴァンパイアが一体しか残っていない。これでは、如何に暴れさせても、すぐに騎士団に制圧されてしまうのが目に見えていた。当然、彼らを盾にして逃げる計画も頓挫だ。爪を噛む彼の耳に、接近する足音が飛び込んできた。

「おのれ、おのれ……おのれ……!」

度重なる判断ミス。決断力の鈍磨。かって三桁に達する敵を返り討ちにした頃の面影は、もう無い。判断力にしても、決断力にしても、使わなければどんどん衰えていくのだ。勿論衰えた分は取り戻す事も出来るが、過去の栄光に胡座をかいている以上、それも難しい。ぎりぎりと噛んでいた爪からは、ついに黒い血が流れ始めていた。

「殺してやる! 皆殺しにしてやる!」

寝言を吐き捨てると、彼は立ち上がり、周囲に迎撃の指示を飛ばし始めた。かってだったら、まず敵の力を見て、それからどうするかを考えただろう。逃げる事も視野に入れて、破れた際も再戦を期し、牙を磨いたに違いない。絶望的な正面決戦を考えてしまっている時点で、既にもう彼の命運は尽きていた。

「逃げるべきなのではありませんか?」

「やかましいっ! 下等な人間共にコケにされて、黙っていられるか! 連中を皆殺しにしてヴァンパイアにし、王都を血の海に変えてくれるわ!」

部下の視線に呆れすら混じっている事に、フルラウスは気付いていなかった。かって磨き抜かれた老獪さで、ベノア最強の吸血鬼だった男は、完全に衰え果てていたのである。力自体は衰えていないと言う事実が、彼の精神的な鈍磨を更に加速していたのは、皮肉と言うほか無い。

足音は徐々に増えつつ、近づき来ていた。ぎりぎりと歯を噛みながら、吸血鬼王は愛用の黒い剣を鞘から引き抜いていた。

 

手当を終え、一旦帰還を考えていたファル達が八層入り口で出会ったのは、意外な者達であった。騎士団長ベルグラーノを始めとする、ドゥーハン軍最強かと思える面子である。ファルとアオイとは何度か組んで行動した事もあり、精神的に相通ずる存在だ。ロベルドは相変わらずベルタンと目も合わせようとしなかったが、気にはしているようだった。そして最も交友関係が深いリンシアはファル達に気付くと大きく手を振って、最初に警戒を解くのに貢献してくれた。それにしても驚きなのは、ポポーとゼルの存在である。ゼルはファルに対して、肩をすくめるだけで多くは語ろうとはしなかった。ポポーはというと、エーリカに言われなければ気付かなかったほど、雰囲気が変わっていた。まるで魔神が魔王でも乗り移ったかのようである。

「何だか、会った頃のファルさんみたいだわ」

痛々しいとエーリカが言うが、ポポーは無言だった。そればかりか、軽く一礼だけすると、周囲の警戒に入ってしまった。その背中を見送りながら、ファルは言う。

「当初の私に似ているかはともかく、立ち直れただけましとするべきなのかな」

「そうね。 あんなに好きだった先生が、あんなことになってしまったのだものね」

エーリカは小さく息をつくと、騎士団長の元に駆け寄って、笑顔で頭を下げた。微妙に声のトーンが変わっているのは気のせいか。騎士団長もエーリカを悪くは思っていないようだが、もし二人が結婚でもしたら尻に敷かれるのは目に見えている。しばしエーリカは笑顔のまま事務的な話をしていたが、やがて不意に真面目な表情に戻り、皆を手招きした。ロベルドは嫌々ながら歩み寄ってきて、側に立っているベルタンとやはり目は合わさなかった。彼の事情を知るファルとしてみれば、あまりそれを責める事も、二人の間を取り持つ事も出来ない。

一番最後に着いてきたユナは、騎士団を見るとひっと息をのんだ。騎士団長も剣に手を掛けようとしたが、エーリカが彼女の事を手早く説明すると、安堵して剣から手を離してくれた。彼女の処遇は後で検討するとしても、何も今此処で処分する必要はないのである。

少し緊迫した空気の中、エーリカは皆を見回しながら言った。

「此処でも吸血鬼との交戦があったらしいわ。 つまり敵は、八層以上の階層へ進む為に、拠点確保をしていた可能性が極めて高いわ」

「となると、我らが交戦した相手は、それに連動して何かしらの作戦の元に行動していた、という事か?」

ファルの言葉に、エーリカは静かに頷いた。

「ほぼ間違いないわね。 それにしても、どういうつもりなのかしら。 戦力から言っても、ドゥーハン王都を落とすのは無理でしょうし」

「浅い階層で下等な獣人や冒険者をヴァンパイア化して、戦力を増してから、というのは考えられないか?」

「そうだな。 もしそうだとすると、極めて危険な事態だが」

そうもっともな意見を述べたのはベルタンである。騎士団長もそれに賛同して見せたが、エーリカは数秒の思考の後、その仮説には現実味がない事を断言した。

「それだったら此処で戦力を集めるより先に、大本になる奴が上層で動かないとおかしいわ。 こんな風に戦力を纏めて動いたら、騎士団の詰め所に見付かって、確実に騒ぎになるもの。 浅い階層で異変が会ったなんて話、聞いても見てもいないし、その可能性は排除してもいいでしょうね」

「当機の見たところ、転移の薬を狙って冒険者を襲おうとしていたようにも思えませんでした。 彼らの目的は、単純な戦力の集結、それによる何かしらの作戦行動だと思われます」

「フリーダーちゃん、何か仮説はない?」

「例えば、もっと強力な脅威から逃れる為の、逃避的行動とか」

そうフリーダーが言った瞬間、ファルの脳裏にうごめくものという単語が点灯した。今更デーモンやら魔女に圧迫されて、吸血鬼王が逃げようとしているとは考えにくい。フリーダーの頭を撫でながら、エーリカは目を細め、苛烈な光を其処に湛えた。

「どうやら、帰るのは大仕事を片づけてからになりそうねえ」

「おお、手伝いをしてくれるか」

「よろこんで。 それに吸血鬼王を屠る事が出来れば、愚僧達の名は後世に残るでしょうし、ね」

初々しい笑顔で言うエーリカ。彼女は既に、この場を飲んでいた。

 

そのまま軽く作戦を立てると、二つの集団は一旦離れ、八層奥へと進んでいった。何度かデーモンや、七層から這い込んで来たらしい魔物と交戦するも、数自体が少なくそれほど消耗する事はなかった。マッピングし終えた地図を見ながら、吸血鬼王がいると思われる辺りへと急ぐ。闇の中、負の気配がそれにつれてどんどん強くなってくる。

壁に張り付いたファルが、しばしの沈黙の後、皆を指先で招いた。向こうの部屋に、嫌に強い気配がするのに気付いたのだ。扉と言うよりも、(壁に空いた四角の切り込み)から向こうの部屋を伺うファルは、静かに頷いた。いる。確実に。

「数は二十から二十五。 一体は先ほど交戦したリーダー格並。 もう一体は、確実にさっきのリーダー格より数段手強そうだ。 残りはレッサーヴァンパイアだろう」

「戦力はさっきの約倍。 此方の戦力消耗を計上し、騎士団長達の支援をあてにするとして……」

「彼方の部屋は、見覚えがあります」

不意に口を開いたのはユナだった。続きを言うように表情で促すエーリカに、彼女は続けて言う。

「あの部屋当たりから、八層の雰囲気が変わり始めるのです。 この奥は、人が生活していたか、生活する為に作ったか、そういう跡が残っています」

「それは助かる。 なんというか、こう無口で無表情で無愛想な空間にいると、息が詰まりそうであったからな。 火神アズマエルよ、地獄のような場所から出られる事を感謝します!」

「え、ええと、その。 あの部屋の事ですが」

「続けて。 的確な情報は、勝利へのカギよ」

ユナは頷いて、色々と喋り始める。部屋自体は百メートル四方ほどで、この階層に無数にある他の場所とほぼ同じ。ただ一つ特色があって、外にある部屋の壁に一つボタンがあり、それを押すと巨大な扉が音もなく降りて来るというのだ。入り口も、出口も、その仕掛けがあるという。

「それを使って、吸血鬼をつぶせないでしょうか」

「止めた方が無難ね。 ただ、それを利用した戦術は幾つか考えておきましょう」

「どうでも良いが、もう敵の首領は此方に気付いているぞ」

向こうを伺いながら、ファルは皆を見ず単純に警告を飛ばした。程なく騎士団が此方に到着し、同じように、壁に張り付いて言う。

「後方等に敵の別働隊は存在しない。 恐らく、この中にいる連中が敵の残存戦力だ」

「分かりました。 中の敵は、既に此方に気付いている様子です。 気をつけて下さい」

頷くと、騎士団長は剣を抜いた。蒼く輝くその刀身は、すらりと長く、油を塗ったように滑らかで、そして鋭利だ。皆の視線が集中している事に気付いたベルグラーノは、苦笑した。

「ウェズベル師の形見だ。 先日、我らが特殊迷宮攻略部隊を編成している時に、スタンセル大将に譲り受けた。 君達の事も紹介しておいたから、近日中に声が掛かるかも知れない」

「良い剣ですね。 強力な魔法が掛かっているようですが」

「通称、聖騎士の剣。 何でも三百年前にいた聖騎士クランクライルが使っていたとかいう剣を元に、ウェズベル師が鋳造し直したものだそうだ。 製造にはカシナートが関わっているそうで、今日実戦投入したが、いやはや素晴らしい切れ味だ」

其処までは剣に対するのろけであったが、其処からは騎士団長としての表情が戻っていた。

「どうする? 強引に踏み込むか?」

「それは愚行でしょう。 敵戦力を削り取ってから、ヴァンパイアロード本人に総力戦を挑むのが最上かと思います」

「となると、まず敵を此方に引きずり出した方が賢明だな」

つかつかと、フリーダーが前に歩いていく。残り半分ほどになった、銀の鏃を付けたクロスボウボルトを矢立に入れている。五十本用意してきたのだが、流石に弓矢の類は消耗が激しい。同時に、コンデが前に出た。そして詠唱を始める。皆の表情が引き締まる。エーリカはハンドサインを複雑に組み、ファル達は皆それに頷いた。

戦いが始まった。

 

最初に動いたのはコンデであった。ロミルワの光球を発生させると、それを自動操作で敵が潜む部屋に放り込む。そしてその中央ほどの天井で、最大出力に照らした。同時にフリーダーが部屋の入り口の前に跳びだし、敵の潜む部屋にクロスボウボルトを叩き込んで、すぐに跳ね避ける。伏せろ、等とは誰も言わない。フリーダーが立っていた地点と言うよりも、敵の部屋から膨大な炎が噴きだしたのは次の瞬間であった。敵としては当然の手だが、此方が姿を見せた瞬間に攻撃魔法を集中して叩き込んできたのだ。間一髪逃れたフリーダーが、次の矢を装填するより早く、第二の攻撃魔法が炸裂する。今度は膨大な雷が、敵の部屋から噴きだし、扇形にファル達が居る部屋の半ばをなぎ払った。流石に吸血鬼、凄まじい火力である。今度は焙烙を取りだしたファルが飛び出し、敵の部屋へと放り込む。敵の攻撃魔法が、焙烙の火力によって炸裂し、誘爆する。膨大な煙が敵の部屋に満ちる。更に同じようにしてフリーダーが跳びだして、今度は詠唱中の吸血鬼を狙撃によって粉砕した。燃え、崩れ落ちていく吸血鬼。その仲間達が放つ攻撃術が届く前に、ファルもフリーダーも、すぐに逃げてしまう。似たような駆け引きが数度繰り返された結果、ファルが皆に対して頷いた。来る。

「キシャアアアアアッ!」

部屋から吸血鬼達が飛び出してきた。既に剣を抜きはなっていた騎士団長を先頭に、皆がそれを迎撃する。敵は十体以上、次々に部屋から飛び出し、鋭い爪を振るって襲いかかってきた。あたらべかざる勢いであり、じりじりとファル達はおされ、後退した。部屋の入り口を挟んで右側にファル達が、左側に騎士団長達が布陣していたが、それぞれ奥へと徐々に押し込まれていく。吸血鬼達は次々に部屋から飛び出し、その数が十八を超えた頃、エーリカが頷き、後ろへ向け指示を飛ばした。ユナが走る。吸血鬼の二体が、非戦闘員の彼女を見つけて追おうとするが、その前にロベルドが立ち塞がった。

「俺らを無視して行けると思うな! ダボがあっ!」

淡い光を纏った大斧が、避けようとする吸血鬼を粉砕した。右に回り込んだ一体が爪を振るってロベルドの首筋を狙うが、冷静にドワーフの青年はショルダーガードでそれを防ぎ、髪の毛を数本散らされつつもカウンターの当て身を入れる。更に外側を回ってもう一匹がユナを追う。その爪が、ハリスの僧を狙い、伸びる。そして、首筋に届こうとした瞬間。側頭部を銀の鏃を持つ矢に貫かれ、吸血鬼は崩れ落ち、燃えて灰になっていった。ユナは、壁の角にたどり着き、其処にある小さなボタンを何度か押した後、皆へと振り返った。

「行きますっ!」

「了解っ!」

拳を固めて、ユナが一番大きなボタンを、奥へと叩き込んだ。するすると壁が降りてきて、奥の部屋と此方の部屋を遮断したのは、次の瞬間であった。吸血鬼は一匹も倒れず逃れたが、その瞬間、エーリカが声を張り上げ、至近に迫った吸血鬼をフレイルで殴り倒し、頭を踏みつけながら言った。

「総員、反撃開始!」

今までわざと守勢に達していた皆が、反撃を開始した。ファルはまとわりついてきていた三体に突撃、先頭の一体の首をはね落とし、右から襲いかかってきたもう一体を、態勢を低くしてからのサマーソルトキックではじき飛ばした。着地してから体勢を崩すようにして地面すれすれに体を落とすと、地面を這うような状況から、跳ね上げるようなローで敵の足を払い、倒れてきた吸血鬼に刃を突き刺す。騎士団長も突き掛かってきた一体を盾で余裕を持って受け止め、聖騎士の剣とやらを振るってその顔面を粉砕した。ヴェーラが突きだしたハルバードが、回避しようとした吸血鬼を、まるで蛇のように匠に動いて貫く。本隊と遮断された吸血鬼は、本気を出した人間達の猛攻の前に、見る間に数を減らしていった。

今落とした壁が、向こう側から、どんどんと凄まじい音を立てて殴られていた。壁は見る間にへこんでいる。レッサーヴァンパイアは殆ど此方に引きずり出したが、残りの吸血鬼王が此方に出てくる前に、雑魚を殲滅する必要があった。

「シャアアアアッ! キシャアアアアアアアアアッ!」

数体の吸血鬼が胸を仰け反らせ、異様な声を上げた。間違いなく呪文詠唱だ。フリーダーが素早く矢を放って何体かは黙らせるが、全てが止められるわけもない。一瞬の後、凄まじい炎の渦が辺りを荒れ狂う。押し殺した悲鳴を上げて、ヴェーラが片膝を着いていた。ファルも相当な火傷を負い、舌打ちして壁に手を突き、それを支えに立ち上がる。皆魔法攻撃を軽減する防具を付けてはいるが、それでも今の火炎の渦は凄まじいものがあった。調子に乗り、更に詠唱しようとする一体の喉に、フリーダーが放った最後の銀の鏃のクロスボウボルトが突き刺さる。半減した敵を、周囲から包囲し、切り伏せる。だが、その数が七体を割った瞬間。落とした扉が、砕け、憤怒の形相の老人が其処から現れた。額には血管が浮き、髭に覆われた口元はふるふると震えている。威圧感、圧迫感、いずれも尋常ではない。ファルはすぐに悟った。この老人が、吸血鬼王であると。彼の後ろから出てきた小柄な女吸血鬼も、きちんと着衣を身につけ、知性の輝きが瞳に宿っている。そちらは軽く跳躍すると、騎士団長の前に立ちはだかった。

「……此方は、我々に任せろ」

吸血鬼の一体を盾で押し戻しながら、ベルグラーノが言う。エーリカは頷き、皆を促して、すぐに隊形を組み直した。フリーダーが前に出る、攻撃重視の隊形であり、彼女が勝負を掛ける時に使う陣形でもある。

「人間共が、下らない真似をおおおおおおおおおおおおっ!」

老人が吠え、その全身から凄まじい障気が吹き上がった。

 

吸血鬼はリッチ同様、他の不死者と一線を画す存在である。リッチが魔力という点を重視しているのに対し、吸血鬼は肉体能力に重きを注いだ。故に生者よりも早く強く、何よりも頑丈なのである。事実、不死者に対して必殺の威力を持つ銀の鏃を付けた矢を六本以上も喰らって、立っていた程なのだから。しかも今相対しているのは、それより更に強い(王)である。ディスペルにしても、一体何発打ち込めば有効打になるのか、見当もつかない。攻撃魔法も、普通に放ってはまず通用しない。

この脅威に対してエーリカは、コンデと協力しグルヘイズの巣から拾ってきた識別ブレスレットにあった技術を利用して作り出した、新しいアレイドを使う旨を事前に告げていた。ファルには何の役にも立たなかったのだが、エーリカには非常に参考になる技術だったのだ。一言で説明すると、時限式の魔法発動の技術であり、詠唱の際に少し語句を弄る事によって可能となる。呪文詠唱の際に発する言葉は(言霊)といい、それぞれが魔法的な意味を持っている。その全てを解明している者は殆ど希で、解読は難航しているのが現状だ。新しい術があまり世に出回らないのもその辺が理由で、その一端を為したという意味で、識別ブレスレットを持っていた今は亡き術者は天才だったといえよう。その技術を使えば、魔法を一点に閉じこめ、特定時間後に発動させる事が可能なのだ。焙烙を始めとして、似たようなマジックアイテムもあるのだが、それぞれを相当な時間と労力で作っている事を考えれば、これが如何に革命的な技術かは明らかだ。

ただし問題点も多い。まず第一に、発動を止める事が出来ない。更にもう一つに、媒体が必要になってくる。これは金属でも何でも良いのだが、発動時に魔法の力をそれに込めるのだ。ただし、剣などに込める場合、それを刺したままにしないと意味がない。是が意味する事は、必殺の好機をつくり、絶妙のタイミングで敵に刺さないと行けない、という事なのである。矢を使う手もあるが、それだと発動のタイミングが曖昧で、安定しない事が既に証明されている。即ち、今回の大役は、ファルに回ってきている、という事だ。無論それを使わずとも倒せるようなら、其処まで危険な賭には出ない。あくまで是は、最後の切り札である。

吸血鬼王は右手に大振りの剣を持っている。刀身は黒く、吸血鬼王の障気をたっぷり吸い込んだのであろうか、禍々しい気配を常時放っていた。六人と、吸血鬼王の間合いがじりじりと迫る。すぐそばで死闘が行われているのだが、もう両者の目には入っていない。きっかけは何であったのか。そう、隣で戦っていた吸血鬼の一体が、ベルタンに木っ端微塵にはじき飛ばされ、吸血鬼王にその破片が飛び散った事であった。瞬間、踏み込んだヴェーラが、神速の突きを放っていた。

「せえええいあああっ!」

剛槍一閃、虚空烈断。空を切り裂く穂先を、吸血鬼王は愛剣で軽く跳ね上げ、踏み込んで半回転しながら、ヴェーラの胴を狙って一撃を叩き込もうとする。瞬間、吸血鬼王に突進したロベルド。一瞬、吸血鬼王の対応が早い。破壊の戦斧が彼の身に届く寸前、跳躍、斧の上に乗ってロベルドの顔面を蹴り、その反動すら利し後方へ飛ぶ。そこで待っていたのはフリーダーである。そのまま吸血鬼王が着地する瞬間を狙い、胴を目掛けて突きを繰り出す。しかし健気なその穂先は、吸血鬼王の服を切り裂くに留まる。人間場慣れした身軽さで、いや重力でも制御しているのか、ふっと何の力も加えていないのに体勢を横に崩した吸血鬼王。彼は、フリーダーの一撃をどう考えても人間では不可能な動きで、避けて見せたのだ。そのまま彼は側転の要領で一回転し、地面に両手をつくと、体を回転させてヴェーラとフリーダーに同時に蹴りを見舞い、はじき飛ばした。ファルを思わせる技だが、別にファルのオリジナルではない。吸血鬼王が息をのんだのは次の瞬間。今の隙に死角に潜り込んだファルが壁を蹴って跳躍、吸血鬼王の絶対死角、即ち真上から強襲を掛けたのだ。それをどうしてか察知したヴァンパイアは、再びどう考えても重力を無視している動きで体を横倒しし、側転から空中で体をひねってバクテンし跳躍、ファルのギロチンが如き一撃を軽く服を裂かれつつも避けた。そして自らが壊した落とし戸を踏み、さっきまで自分たちが潜んでいた部屋へと飛び込む。鼻を押さえたロベルドが先頭に、皆がその後を追う。これで流れ弾に当たる可能性は、多少低くはなった。後方で爆発が起こる。構っている暇はない。

服に付いた傷、二つ。それを避けるようにして埃を払いながら、吸血鬼王は怒りが籠もった凄惨な笑みを浮かべる。そのままヴェーラが突きを繰り出し、吸血鬼王はそれを弾きつつ、逆側から飛んできたファルの回し蹴りを片腕で止め、更に連続して繰り出されたローも危なげなく避けつつ言う。

「ほう、なかなかやるな……」

「一つ聞きたい。 貴様、今の動き、どうやった」

ファル達は重力や他の要素も含め、物理的には如何に早くとも逃れられないタイミングで攻撃を仕掛けた。サンゴートのカール王ですら、ヴェーラとフリーダーの連係攻撃の前には無力だったのである。今の動きを解明出来ないと、一撃を入れるなど夢のまた夢だ。ローを避けた吸血鬼王は数度バックステップし距離を取ろうとするが、そうはさせない。四人は包囲するように回り込み、連続して攻撃を掛けつつ言う。無論相手が言うはずもないと分かっていてブラフを掛けているのだが、驚くべき事に、吸血鬼王は自慢げに言う。

「人間には無理だろう、ああん?」

「無理だが、それがどうした」

「どうせ貴様らはすぐ死ぬ。 だから冥土のみやげに教えてやろう。 私は常に魔力で作った風を身に纏い、それによって動きを加速しているのだ」

ぽかんとしたのはファルだけではない。ロベルドさえ呆然としている。一瞬皆の攻撃が止まったほどだ。それを都合のいい意味に取ったらしく、吸血鬼王は牙の生えた口を開けて高笑いである。

「くははははははっ! 私の事を散々コケにしおって、貴様らは吸血鬼として、数百年は雑用にこき使ってくれる! さあ、祈りの言葉でも……」

「あなた、バカでしょう」

あまりにストレートな言葉に、吸血鬼王が固まった。空気すら凍結する中、エーリカは印を組みハンドサインを出しながら、続ける。ファルが数度それにハンドサインを返し、エーリカは頷いた。

「まだ勝ってもいないのに、自分の能力を包み隠さず敵に披露する奴の事は、バカって言うのよ。 アホらしい、色々推測立ててたのに、全部無駄じゃない」

「な、な……きさ、きさま、誰に向かって、ものを言っている!」

「ただのバカに向かって」

「き、き、きさまあああっ!」

暴発した吸血鬼王が動く前に、ファルが動いていた。至近まで間を詰めた彼女が、大上段に振りかぶった刀を振り下ろす。吸血鬼王は下がりながらそれを跳ね上げる。受け止めるのではない。途中から嫌な予感を感じたファルは刀を引き、それが結果的に命を救った。物凄い烈風の如き音と共に、跳ね上がった刀が、ファルがいた地点を両断していた。凄まじい力である。後方に跳ね飛んだファルは、ロベルドが突撃し、その刃を吸血鬼王が押さえ込むように刀を振り下ろして迎撃する様を見やった。ロベルドはそれに対し直前で刃を引き、既に斜め後ろに回り込んでいたヴェーラが逆に刃を突き出す。苛立った様子で、吸血鬼王は全身を低く沈め、周囲に旋回するような形で刀を振り回した。黒く光っていた刀が、周囲にうなり声に似た音をばらまき散らす。

「がうあっ!」

「くうっ!」

どん、と凄い音がして、壁のような衝撃波が全員を地面に叩き付けていた。そのまま吸血鬼王は刀を振り上げ、今度は地面に叩き降ろす。慌てて横に飛んだファルは、自分が居た地面が鈍い音を立てて陥没する音を聞いた。剣圧ではなく、微妙に違う。吸血鬼王はそのまま口をもごもごと動かし、詠唱に入る。黒い剣が輝き始める。

「させん!」

爆発が起こる。吸血鬼王の顔面に、速射式のクレタがぶつかったのである。蹌踉めく吸血鬼王に、最初の衝撃波をファルの陰に隠れていた為、無事だったフリーダーが飛びつく。彼女は腰を落とすと、摺り足で前に出ながら、六回、連続して高速の突きを繰り出す。うち二発が軽く入り、忌々しげに下がりながら吸血鬼王は再び刀を振り上げる。その腕を狙って、今度はエーリカが放ったクロスボウボルトが飛ぶ。舌打ちした吸血鬼王は衝撃波を飛ばすのを断念し、それを弾き落とした。この間に立ち上がったロベルドが、額から流れる血をものともせず、低空からタックルを掛ける。更にヴェーラが、上段を抉るように、体を旋回させてハルバードの斧の部分を叩き付けた。首と足を同時に狙う攻撃、上以外に避ける術はない。舌打ちした吸血鬼王。彼は上へ飛び、既に其方にスタンバイしていたフリーダーと正面から顔を合わせた。既に彼女の右手はランスモードである。ファルの肩をジャンプ台にして、即席のS・Jアタックで飛んだのだ。

「おおおおおおおおおっ!」

蒼白になった吸血鬼王が叫び、力任せに剣を振り下ろし、フリーダーを正面から迎撃した。結果は、全くの五分。両者は均等にはじき飛ばされ、地面に叩き付けられた。同時に速射式のクルドが発動し、巨大な氷柱が吸血鬼王を押しつぶす。絶叫が上がった。

「ぎゃああああああああああああっ!」

瞬間的な沈黙。ぴしり、と氷に亀裂が入る。そろそろ全員の息も相当に上がっている中、エーリカが言う。

「やはりね。 今ので確信したけど、彼奴の能力、風じゃないわ。 むしろ、地ね」

もし風であったら、今のフリーダーの攻撃も、難なく避けられたはずだ。今まで吸血鬼王は、地べたの寸前でしかあの能力を使っていない。それは、彼の能力が風であるという事と矛盾している。

「お、おのれ、おのれ……!」

氷を割り、傷つき現れた吸血鬼王。着衣は既にぼろぼろで、額からは黒い血が流れ続けていた。びゅんと刀をふり、つぶてのような小さな衝撃波を飛ばしてくる。皆それを避けきれずに仰け反り呻くが、倒れるほどではない。短時間とはいえ、激しい攻防で息が上がっているエーリカだが、それでもにやりと、極めて小悪魔的な笑みを浮かべてみせる。額を流れる、血を拭いながら。

「騙された、と思ってた?」

「人間が、人間が、人間が!」

「エーリカ、いつから、分かっていた?」

「能力をべらべら言い始めた時から」

「シャアアアアアッ!」

わめき散らした吸血鬼王が突っ込んできた。もはや(王)とか(ロード)とか言われる者の威厳はなく、ただの狂気に支配された怪物である。ロベルドが先頭切って駆けだし、バトルアックスで突進を正面から受け止めてみせる。そしてヴェーラと協力して、左右から激しく攻め立てる。五合、六合、八合、十一合、火花が散る。吸血鬼王は流石に遅くなってきているが、それでも此方の疲労はそれ以上だ。ファルは攻撃参加の指示を出されていない。そればかりか、コンデが詠唱している術の内容に気付いて、ファルは戦いの終わりが近い事を悟った。

ファルが先ほど出したハンドサインは、嘘だ、という意味であった。ファルにしてみれば、至近から顔を合わせている以上、回避に風の魔力を使っていない事は分かっていたのだ。むしろ何かに体を引っ張らせて、それで避けているような感触を受けていた。それを分かった上で、エーリカは重力を無視した動きをしても避けられないように戦術を組んだのである。それと分からないように。最後にフリーダーの動きを見て吸血鬼王が驚いたのは、ようやくそこでエーリカの狙いに気付いたからなのだ。

それにしてもあの体格でクルドで潰されてもまだ平気だとは、うごめくものオルキディアス並の耐久力である。速射式とは言え、今のコンデの力だと、クルドにも相当な魔力がこもっている。また、やはりあの能力を持っている以上、クリティカルヒットはどうしても狙いづらい。いまの攻撃が決定打にならないとすると、手は一つしかない。激しく攻めるロベルド、ヴェーラ、フリーダーをあしらい続ける吸血鬼王。吸血鬼王が、地面の近くでないとあの超回避能力を使えないことは分かっている。正体はよく分からないが、ともかく性質さえ分かれば対応策はある。しかし何しろ相手は吸血鬼の王である。魔力集約点をついても、簡単に倒せる保証はない。

「やるわよ」

エーリカの言葉が、最終攻撃の開始合図であった。無言でファルは紅いリボンを取りだして髪を後ろで結び直し、風に揺れないようにする。そして上着を放り捨て、刀を鞘に収めた。勝負は一瞬。力を惜しむ意味はない。

「せえっ!」

コンデがファルの刀の鞘に触れ、小さく頷く。時間は丁度十秒。最後の攻防が始まった。

 

「10、9、8、7」

カウントが始まる。フリーダーが後ろに跳び、右腕に手を当てる。吸血鬼王はそのまま下がり、並行してヴェーラが走る。ロベルドは何と斧を捨てた。そして小さく息を止め、片手を地面に突いた。

「おおおおおおおっ!」

全身をバネとし、ロベルドが跳躍し、地面すれすれを走る。時々地面を蹴って加速しているというに相応しいその移動は、地面を飛ぶと言うのが真とも言える。その圧倒的な勢いに、流石に吸血鬼王が目を見張る。刀を振り上げて迎撃しようとする。その瞬間であった。真横に回り込んだフリーダーの手が、ランスモードとなったのは。更に、逆の斜め後ろには、血が混じった汗を飛ばしながら、ヴェーラが回り込んでいる。

「6、5、4、3」

「させるかあああああああっ!」

「……っ! ああっ!」

渾身の一撃を込めて、吸血鬼王が刀をフリーダーに向けて振り下ろした。凄まじい衝撃波が彼女を真上から叩き潰し、地面に押しつける。思ったより効果が低い事に吸血鬼王は苛立つ。あの子供くらいなら、ぺしゃんこの肉煎餅に出来るはずなのに。そんな苛立ちが周囲に溢れてくる。注意が散漫になった瞬間。彼に、ロベルドがショルダータックルをもろに決めた。正面から受けきれなかった吸血鬼王は、肋骨が折れる音を聞いた。蹌踉めき下がる彼を、斜め上からヴェーラのハルバードが強襲する。だがあり得ないベクトルを受けた動きで、吸血鬼王は倒れ込むようにしてそれを避けた。そして、地面すれすれに飛んでくる矢を見て、唖然とした。エーリカが放ったものだ。その鏃が魔力を帯びて輝いているのを見て、吸血鬼王は逡巡する。結果として彼は、跳躍し、避ける事を選んだ。軽い跳躍。だがそれが命を落とす要因となった。

遠くからファルが駆けてくる。ファルの速度を今までの戦いで見切っていた彼は、にいと笑い、ヴェーラの返す刃を剣を振り上げて防ぎながら、着地して迎撃する戦術を練ろうとした。その瞳が大きく見開かれる。どういう事だ、あり得ない。さっきよりもずっと早い。おかしい、体がぶれるほど早いなど、あの人間に、出来るはずが、出来るはずが。

「2、1!」

どずん。そんな、極めてシンプルな音がした。

間合いを侵略しきったファルは、ロベルドの背中を踏み台に、体ごと吸血鬼王にぶつかり、その寸前に抜いた刀を突き刺していた。地面に近いだけあり、吸血鬼王は不可解な回避能力を使ったが、体の中心を狙った一撃を避けきれなかった。全運動エネルギーを伝達しきったファルは、急所を外しクリティカルヒットには至らなかった事を知りつつも、満足し、着地した。そして言った。

「忌ね」

そのまま極限まで酷使している体の最後の力を振り絞り、吸血鬼王を天井目掛けて蹴り上げる。刺さったままの彼女の剣が、光り始める。

「こ、これは、これは、これはあああああああああああっ!」

何が起ころうとしているか悟った吸血鬼王が、必死に刀を抜こうとする。しかし、間に合わない。

「0。 さようなら、ヴァンパイアロード様」

ぎゃあああああああああああああああぁああああああっ!

エーリカがカウントを終えるのと。刀に封じ込まれた最大出力ジャクレタが、内側から吸血鬼王を完膚無きまでに灰燼に帰すのは。完全な同時であった。

 

真っ二つに折れた吸血鬼王の剣が、地面に転がり、見る間に朽ちていった。ファルは飛びそうになる意識を必死に立て直しながら、地面に倒れているフリーダーを抱き起こす。乾いた音を立てて落ちてきた彼女の刀も大事だが、フリーダーの体と命はそれに比較出来ない。デーモンや吸血鬼共との戦いで受けた傷に加え、吸血鬼王が何度も放った衝撃波、更には最後のリミッター外しの反動。それらが彼女の体を徹底的に痛めつけていたが、フリーダーの安否を知るまではまだ倒れるわけには行かなかった。

「フリーダー! 無事か、フリーダー!」

手ひどく傷ついていたが、フリーダーはファルの呼び声に、うっすら目を開けた。風ではなく、吸血鬼王の攻撃は魔力を利した、地面に関係のある何かしらだった。それが彼女の命を救ったのは、ほぼ間違いない。周囲の地面には罅が入り、神が戯れに手形を取ったかのような有様となっていた。

「ファル様、ご無事……です……か?」

「ああ。 私は無事だ。 お前は?」

「錬金術ギルドで……少し休ませて貰えば……明日にでも戦闘続行可能です……」

フリーダーを抱きしめたまま、ファルは首を横に振っていた。不思議と目頭が熱くなった。背後では、騎士団長の声が聞こえていた。

「見せて貰ったよ。 素晴らしい戦いだった」

「いえいえ。 騎士団長こそ、愚僧達よりも早く勝っていたではないですか」

「……スタンセル大将には、私からじかに話をしておく。 君達には今後、騎士団に最大限の協力をお願いしたい」

「喜んで。 ただ、愚僧達の損害も見ての通り凄まじい有様で。 詳しい話は戻ってからに致しましょう」

軽く会話を交わしていたエーリカが此方に戻ってきた。ロベルドを助け起こし、ヴェーラもびっこを引きながらファルの側に片膝を突く。乱戦の中、敵の分断に貢献してくれたユナも、ファルの側にちょこんと座った。育ちが良いらしく、何とも動作に洗練された上品さがある娘だ。コンデが腰を下ろし、大きく、大きく息を吐いた。

「やれやれ、寿命が十年縮んだわい。 まさかあのヴァンパイアロードと戦う事になるとはのう」

「じゃあ、もう寿命残ってないかもね」

「ひ、ひどいのう、悲しいのう」

泣き真似をしてみせるコンデに、皆それぞれのやり方で笑って見せた。エーリカはもう少し探索をしてから帰るという騎士団長達に手を振ると、転移の薬を取りだしたのであった。

「さあ、帰りましょう」

笑顔で発せられたその言葉には、誰にも異存がなかった。

 

6,近づく復活

 

吸血鬼は全滅したわけではなかった。騎士団長達と戦った上級ヴァンパイアは、爆発で粉々になったと見せかけて、さっさとその場を離れていたのである。彼女はフルラウスの衰えを良く知っていた。だからわざと、サッキュバスから得ていた五層の脱出路を教えなかった。彼女は自由になりたかったのである。

かっての彼女の主君は有能な存在だった。冷酷な男だったが、それでも部下として着いていくのには刺激があった。しかし今は部下を無駄に死なせるだけの、判断力も決断力も衰えた愚物に過ぎなかった。そんなもののために、命を捨てる理由など無かった。重力操作の能力を奪えなかったのは残念だが、それはそれ、これはこれである。

「さあて、さっさとこんな所からは逃れて、何処かに潜伏するとしますかね」

マントを翻し、彼女は歩き出す。ファル達の全ての敵が滅びているわけではない。それを象徴するような存在である彼女は、闇の中を静かに歩き去っていった。

 

八層の奥には、膨大な質量を誇る肉の山が築かれた場所があった。其処では復活を待つうごめくものマジキムが、コアとなる獲物を待ち続けていたのである。ただし、うごめくものの中でも上位の存在である彼は、非常に用心深かった。

最初の、カルマンの迷宮におけるうごめくものの降臨。その際、条件が揃ったのは確認したのだが、ラスケテスレルもまだ出現していなかったし、何より不審な要素を覚えた彼は、部下であるヴェフォックスを使った。ヴェフォックスに自分の能力を貸し、衣を着せる形で、条件を満たした場所へと降臨させたのだ。結果は散々であり、不完全体のヴェフォックスは丁度いい生贄を逃がしたばかりか、アウローラに倒されてしまった。元々いくらでも作れる存在だから良いとしても、これは大きな痛手であった。続いて訪れたチャンスも、用心深くアンテロセサセウを使ったが、此方も同じ結果を辿った。

此処には何かある。条件は非常によいのだが、それにしても異常な何かがある。マジキムはそれを悟り、最終殲滅者にも警告した。同僚のスケディムは知能を持たない完全破壊兵器であるから、警告する意味はなかったが、それにしてもおかしい。集められるだけの情報を集めながら、マジキムは現状の理解と、続いてのチャンス到来を待ちわびていた。

そして、ラスケテスレルの現世降臨が終わった今。そのチャンスが間近に近づいていた。心躍らせながら、マジキムはその到来を待った。ランゴバルド枢機卿という名を持つ、最高の生贄の到着を。

 

八層の奥で、ランゴバルド枢機卿と、サンゴート騎士団が正面から出くわしたのは、不幸とも幸福とも言い難かった。敢えて言うなら必然である。サンゴート騎士団は五チームに別れて探索を続けており、いずれ枢機卿を発見していたのは必然の流れであったろう。サンゴート騎士団を率いるヴァイルは、傲慢な唇をつり上げて、ランゴバルドを挑発した。

「反逆者の老いぼれが、こんな所で何をふらついている。 墓が欲しいのなら、さっさと迷宮を出てオルトルード王の前にでもひれ伏すが良い」

「くっくっくっくっく、サンゴートの小娘が。 儂の目的はそんな下らぬ事ではない」

「ほう、ではなんだというのだ?」

「お前達と重なり、そして異なる目的だ。 儂はただ、神が見たいのだよ」

ランゴバルドの目には、狂的な執念はあれど、妄想や狂気は無い。ヴァイルはせせら笑いつつも、剣を引き抜いていた。洗脳されているハリス僧や護衛兵達がそれに対抗するように武具を構える。大天使のみ、腕組みして状況を見守っていた。

「神が見たければ死ね、反逆者の背教者。 神には天国ででも、地獄ででも、好きに会うが良かろう。 うごめくものの前菜にしてはちと不足だが、それでも我が剣の錆くらいにはなろう」

「ふっ……くだらぬ。 天国だの地獄だの、そんなものが本当にあるとでも思っているのか? 神はそんな所にはいない」

ランゴバルドの言葉はあまりにも衝撃的であり、戦闘的であるが故に信仰も厚いサンゴート騎士達が色を失ってざわめいた。あまりにもランゴバルドの言葉は、常軌を逸していた。天主教等の宗教が普遍的に信じられているこの時代、その台詞は正に世界への反逆だったからである。

「では、魔神や天使は何処から来たというのだ」

「お前が言っている天国や地獄では無い、此処とは別の世界。 それだけだ。 魂が死後向かうのは、そんな所ではない。 善行を積んだ者が天国へ行き、悪行を重ねた者が地獄へ落ちる、か。 ふふ、下らぬ。 下らぬ故に、儂は神を見てみたい」

「ほざけ、背徳者。 この様な狂夫の言葉になど耳を貸すな! 皆、かかれえっ!」

サンゴート騎士団が殺到してくる前に、大天使マリエルが立ち塞がる。ランゴバルドは彼女に、足止めをしろとだけ言い残し、八層の奥へと単身向かっていった。マリエルは形だけ頷くと、一緒に残された護衛兵や僧侶達をサンゴート騎士団にけしかけ、にやにやしながら戦況を見守っていた。

マリエルは知っていた。イザーヴォルベットの出現条件を。そしてそれには、ランゴバルドの暴走が必要である事も。天界から与えられた彼女の目的は、表面上イザーヴォルベットの撃滅。しかし、真の目的は。

『さあ、あのランゴバルドの事だ。 むざむざ生贄になる事もなく、少しは楽しませてくれそうねえ』

血が飛び散り内臓がぶちまけられる戦場。その有様を見ているというのに、眉一つ動かさず指揮を続けながら、マリエルは思っていた。自己の手で、うごめくものを支配し、その力を手にする瞬間を。

天国はないが、地獄は確かにあった。そう、此処カルマンの迷宮は、無数の欲望が渦巻く地獄であった。

 

(続)