絡み合う妄執

 

序、名宰相の転落

 

地下七層の闇の中で、高級酒を片手に蜷局を巻いている若い男。気力も勇気も判断力の無くしたその男が、かっては辣腕と言われていた。しかし、今の姿を見て、それを信じる事が出来る者は皆無であろう。極限まで転落し、崖の下で立ち直れないその男こそ、ドゥーハン王国宰相、ウェブスターであった。

ウェブスターというのは通称である。実際の彼の名は、フェリー=ルフォール=ウェブスター。しかし殆どの人には、公爵号であるウェブスターの方で呼ばれている。理由は簡単で、フェリーもルフォールも非常にありふれた名前の為、かえって使いづらいからだ。各地でオルトルード王の構築したシステム内とは言え着実に業績を重ね、三十前にして宰相の重職を得た若き天才。オリアーナ王女の婚約者として、次代のドゥーハンを背負うと目されていた栄光の人。しかし彼は、自ら望んで階段を踏み外してしまった。ただ待っていれば、栄光に溢れた未来が転がり込んできたというのに、である。

彼を駆り立てた理由は、私怨であった。そしてそれは、彼以外誰も納得しないような、偏狭な理屈に基づくものであった。

バンクォー戦役の直後、軍を引き連れて凱旋したオルトルード王は、ドゥーハンの国政腐敗の元凶であった旧王家の者達を一部の大貴族と合わせて誅殺した。彼らは保身の為にサンゴートへ情報を売り渡し、国民の血税を使って戦時中も贅沢放題と、国民の怒りを一心にかっていた。それゆえに反対する者はおらず、王宮の兵士達も殆どがオルトルードに味方した為、殆ど無傷のままにクーデターは終わった。旧王家は度が過ぎたオルトルードの名声を敵視しており、何度もアサシンを送り込むなどしていた事も判明し、誰もがその罪とオルトルードの正統性を認めた。旧王家の者達の太りすぎた醜い体躯が処刑台に引きずり出された時には、民衆が歓声を上げたほどである。その後三年ほど、各地にて火種がくすぶった。主に旧王家の残党や、それに与する大貴族達が裏で煽ったものであった。だが新生オルトルード王の政策が見事であった事、旧王家は皆に等しく憎まれ恨まれていた事、何よりオルトルードが民衆の絶大な支持を得ていた事などがあり、殆ど発火する事もなく沈黙していった。しかし豊に生まれ変わったドゥーハンの土壌の下で、くすぶり続けていた火も存在していたのである。それが、ウェブスターであった。彼は、旧王家の生き残りであったのだ。

オルトルードはその事情を知っている。バンクォー戦役の直後、妾腹の上にいまだ幼い彼を哀れに思った王が密かに助け、重臣に預けて教育させたのである。元々天才の素質があったウェブスターは見る間に頭角を現し、十七才という異例の若さで上級役人登用試験に合格、その後はシステムの範囲内ながら実力で這い上がっていった。少なくとも彼はそう思っていた。実際、旧王家内で犬猫並みの扱いを受けていたウェブスターは幼少期の記憶をすっかり喪失しており、物心ついてからは商家の養子として生活していたので、違和感が生じる事もなかった。

全てがおかしくなったのは、オルトルードによって、彼に真実が告げられてからである。宰相になり、名実ともにドゥーハンの重鎮となった彼は王に呼び出され、バンクォー戦役の直後に起こった政変と、自身の出を告げられたのである。

転落の日々が始まったのは、その直後だった。自身の才能で、実力で這い上がってきたとウェブスターは思っていた。故にプライドは肥大していた。肥大していたが故に、ちょっとした傷でも大きく広がり、内部を腐らせ始めた。そして治療する術もなかったのである。自身で這い上がったという(客観的事実)が、実は王の影からのバックアップ、それも同情に起因していると分かった時の、ウェブスターの絶望やいかほどのものか。彼の自信は脳天からうち砕かれ、以降は奇怪に歪み、変形していく事となった。彼は筋金入りのエリートであったが故に、挫折には徹底的なまでに脆かったのである。特に、精神的な挫折には。エリート意識は、彼の地位を押し上げる原動力に、確かになった。だが同時に、彼を破滅の坂へと突き落とす悪意の腕にもなったのである。

質が悪かったのは、少なくとも正面からは、彼の異変は見えなかった事である。程なくオリアーナとの婚約も決まったが、それで何かが晴れる事も無かった。彼の闇は深く深く沈殿していく事となった。だが、それが爆発するまでには至らなかった。理由は簡単だ。オリアーナとの婚約が決まった以上、ドゥーハンを内側から壊すのに最適な立場を得たと彼は考えていたからである。いつのまにか彼の歪んだ妄想は、自分を(迫害)した、ドゥーハンを滅ぼす事に向いていたのであった。本来旧ドゥーハン王家の出身である自分は何もせずに全てを得る事が出来たはず、という歪んだ非現実的な空想も、いつの間にか彼の心を支配していた。自己決定自己判断が全ての男であったが故に、妄想はどんどん歪んで曲がりくねり、客観性を彼の心から消失させていたのだ。彼は自己の目的の為に、つまりドゥーハンを瓦解させる為に、今まで以上にせっせと仕事に励んだ。各地の整備を行い、土地を富ませ、もめ事を丁寧に解決していった。皮肉な話であるが、それは崩す為に作った、積み木の城だった。少なくとも、宰相にとってはそうだった。

そして、第二の挫折が彼を襲う。魔女アウローラの襲来である。それによって切り札であるオリアーナを失った宰相の心は、もう手遅れなほどに歪み、原型を失ってしまった。配下の調べで、迷宮内にどうもオリアーナが隠れているらしい事が分かった時には、もはやウェブスターは世界の何処にも居なかった。其処にいたのはエリートでもなんでもなく、妄想によって己の精神世界を形作った、一個の怪物に過ぎなかった。妄想は糸を引いて彼の体を包み、崩壊しつつある自我をがんじがらめに縛り上げる事でどうにか保った。それである以上、まともな判断力が失われていくのも当然の結果であった。この頃から、ついにウェブスターの異常は表面に出るようになり始めた。政務はいい加減になり、目は血走ってぎらつき、明らかに言動が支離滅裂になった。酒量も増え、部下に命じて自室に女を連れ込んで、乱行を重ねるようになった。かっての(清心な)宰相はもう何処にも居なかった。心ある者達は主君の異変に気付き、離れていった。そして立身出世ばかりを求める、表面上有能なものばかりがなり代わっていった。挙げ句の果てに、ウェブスターはそれらの甘言を喜びこそすれど、叱る事も窘める事もなくなっていた。

周辺の異常に、宰相は気さえ付かなかった。彼は調査の結果、まず古代世界の兵器である武神オグに着目した。先行調査していたゼルの報告書により、カルマンの迷宮の深部はディアラント文明の遺跡、しかもその中枢である事は分かっていた。それである以上、オグも其処にあると確信した彼は、王女探索はマクベインに任せつつ、アサシンやランゴバルドを使って死の兵器を探した。オリアーナの出自と、その使用意義も知っていた彼は、表面上平静を装いつつ、内心は狂気の哄笑を上げ続けていたのである。オリアーナを使えば、オグを起動できることが分かっていたからだ。そしてオグを起動すれば、まずあの小憎らしい魔女を捻り潰し、その後にドゥーハンを破滅させる事もたやすいはずであった。

しかし、此処で第三の挫折が待っていた。考えてみれば当然とも言える話なのに、かっての明晰さが嘘のように衰えた彼の頭は、その事実に気づけなかった。古代文明がうごめくものによって滅ぼされた以上、その守護神と言われたオグが無事である可能性など、皆無に等しいのだ。案の定五層で発見されたオグは、重要部分が粉々に壊れ、とても再起動出来るような代物ではなかったのである。

五層にあった複数のオートマターは、既にドゥーハンに接収された。この状況下で、己の野望を果たす事など間違いなく不可能だとも思えたのに、なおもウェブスターは絶望の中食い下がった。其処へ今は亡きマクベインが、強力な古代の邪法を記した書物を発見してきた。それを読み中身を理解したウェブスターは、オリアーナさえいれば、そに記された最強最悪の術を発動可能である事に気付いた。しかし彼の精神はもうずたずたに傷つき、再起が不可能などに堕ちきっていた。今彼を支えているのは、無数の妄想が形作った、細く長く摩滅した命綱に過ぎない。それが切れれば、もはや彼は立ち直る事かなわず、哀れな廃人へと成り下がる事疑いない。

アルコールの力を借り、心に残った最後の炎を燃やしながら、ウェブスターは自身にとっての(最後の希望)の到着を待った。それが破滅に繋がっていると、無論承知した上で。結局、彼は優れた精神力を持つ人間であったのかも知れない。三度もの致命的な挫折を味わいつつも、いまだ目的へと前進し続ける精神力を有していたのだから。

「宰相殿」

自らを呼ぶ声に、ウェブスターは顔を上げる。目はすっかり酒ににごり、かっては端正さに女達の心を釘付けにした顔には無精髭が生い茂っている。責任放棄に仕事の放棄、マクベインなどの犯罪者を使った事に対する、騎士団の正式な詰問に対しての沈黙。それらを続けた結果、もう彼の居場所はドゥーハンにないというのに。どうしてか、ウェブスターは未だ自分を、宰相として認識していた。

声を掛けてきたのは、ランゴバルド枢機卿である。数秒間のブランクを置いてそれに気付いた宰相は、ゆっくり口を開いて、酒臭い吐息を周囲にばらまいた。

「なんだ。 何用だ、枢機卿」

「ふふふふふ、ついに我が配下の天使共が、お望みの人物を捕獲しましたぞ」

「……そうか」

捕獲された、という人物が、背中をつつかれて蒼白な顔で前に進み出てきた。かっての婚約者、オリアーナ王女である。宰相はふんと鼻であざ笑うと、もう一口酒を呷った。悲しげにそれをみながら、王女は花びらのような唇を開いた。

「フェリー、あなた、どうしてこの様な事を」

「やかましい。 成り上がりものの娘が」

あれほど優しかった婚約者の口から、これほど下劣な罵声を投げかけられたというのに。オリアーナは眉一つ動かさなかった。

「もう、間に合いません。 私が父上にお頼みしても。 あなたはもう、宰相ではありません。 王にだってなれません」

「はん、だからどうした。 それに、今から私が滅ぼす国の王になど、もう興味など無いわ。 貴様は地獄で、奴が自分の所へ来るのを待ち続ければいい」

「……可哀想な人」

「敗者が勝者に同情だと! 分をわきまえるがいい、売女があっ!」

酒瓶を投げつけたウェブスターは、それが割れる音は聞いていても、どうなったかまでは見えなかった。アルコールが視界すらも濁らせ、現実に対する認識力を低下させていたからだ。

そのまま机に伏したウェブスターは、いびきをかき始めた。暗く濁った悪夢の中へ、落ち込んでいったのである。

 

「やれやれ、ひどい婚約者もいたものですな」

隣の部屋で、七層特有の肉が蠢く壁の中で、オリアーナにへらへらと追従しているのはランゴバルドであった。一面蠢くピンク色の壁に覆われた部屋は、七層では当たり前のものだ。壁も心臓の弁のように肉で作られていて、手動で開閉する仕組みになっている。むしろ先ほどまでウェブスターが居たような、腐食しては居ても、壁床が金属やそれに類する素材で作られた部屋、いうならば(本来)の姿を保ったままの部屋の方が珍しいのである。この階層に置いては、生物の内臓が如き異相こそが標準なのだ。

部屋の片隅に座ったオリアーナは、蒼白なままであった。服は多少汚れてはいるが、酒のしぶきはついていない。酒瓶は、先ほどからランゴバルドの一歩後ろで腕組みしている少女が、目にもとまらぬ高速の手刀で弾き砕いたのだ。少女の背には純白の翼がある。ランゴバルドに付き従い、そしてオリアーナを誘拐する事に成功した、冷徹な大天使マリエルである。大天使マリエルに手を振って外の見張りに移るよう言うと、ランゴバルドは腰をかがめ、皺だらけの手で王女の顔を掴んで自分に無理矢理向けた。

「王女、もし儂が貴女を此処から助け出す、といったらどうしますかな?」

「貴方の目に真実はありません。 私は嘘に騙されはしません」

「ふふふふふ、流石は英雄王の娘よ。 何も支援無く助かる見込みがないのに、その堂々たる態度。 もう三十年わしが若ければ、思わず味見をしたくなったかもしれませんなあ」

舌なめずりして、ランゴバルドは王女の顔から手を離した。精一杯の虚勢を張っている王女に、ランゴバルドは肩をすくめてみせる。

現在、宰相派は地下七層に籠城しているも同然の状況だ。そして籠城というものは、現状を突破する何かしらの切り札がなかったり、或いは外部からの援護が期待出来ない場合には絶対にとってはならない策である。実戦経験を豊富に持つランゴバルドが、その辺を知らぬ訳がない。現に彼は、この状況を、ステップの一つくらいにしか考えていなかった。

部屋を出ると、ランゴバルドは腕組みしているマリエルの耳に、口を寄せた。

「現時点の、保有戦力は?」

「私を含め、天使が二名。 僧兵七名、護衛兵四名が健在です。 アサシンは昨晩の点呼ではまだ七名が残っていました」

「ふむ……宰相の持ち札は?」

「近衛兵二十一名。 宮廷魔術師四名。 ただ、此奴らはもう戦意を無くしていて、戦闘では使い物になりません。 後は王女と、くだんの書物のみですが」

小さく頷くと、ランゴバルドは通路に出、誰の視界にも入らない隅にはいる。そこで彼は腕組みをし、思考の錬磨を開始した。天使がマリエル入れて二名という事は、ゼルにぶつけた一体は敗れ去ったと言う事だ。大きな手札を失ったが、如何にゼルとはいえども、あの天使を相手に楽に勝てるわけがない。確かに札は失ったが、それなりの効果は期待出来た。

彼には確固たる目的があった。それは宰相同様、極めて個人的な動機であり、他者に理解出来るような代物ではなかった。そしてそれを叶えるのに、大量の血が必要であるという点でも共通していた。

人間は、利己的な生物である。それに頭脳の出来は関係ないし、能力の錬磨もしかり。ランゴバルドは間違いなく世界を代表する術者の一人であったが、それが人格の高潔さとは何の関係もない事を証明する一人でもあった。

「ふむ。 戦力の無駄使いは、此処では避けておいた方が良いな。 後の事を考えると、温存した方が無難か」

老妖怪の目に、妖しい光が宿る。そしてそれは一瞬後に歓喜へと移り、更には恍惚へと変化していった。

「神よ……お目にかかれる時がいよいよ間近に迫って参りました……」

老人のその言葉を聞いた者は、誰もいなかった。

 

1,疲労抱擁

 

冒険者の業界は、かなりハードな世界である。労働災害に遭う確率は高いし、仕事の危険度は鉱山採掘にも匹敵する。自由というイメージが前面に出されがちであり、確かにそれも間違いではないのだが、それには膨大な責任が伴うのである。多くの場合、それは代価として命を要求する。世界が比較的平和である現在も、冒険者が身を置く世界には、膨大な危険が充ち満ちているのだ。それは大小様々であり、中にはとても小さく、しかしながら深刻なものもある。例えば、睡眠を邪魔されるというような事も、その一つに分類されるのである。

ファルが地下七層の探索から帰還し、宿に戻って睡眠に入り、僅か五時間後。自室の戸を叩く音に、ファルはベットの中で身じろぎした。冒険から帰還したばかりの者は、余程の事でなければ絶対に起こさないのが礼儀だ。これは膨大な体力を消耗しきった末での睡眠である事が殆どだからで、魔術師などの後衛職に至っては、睡眠は魔力の回復を行う大事な時間である。それを中断される事は、文字通り死活問題なのだ。

苛立ちながら布団から顔を出すファルは、小声で自分を呼ぶエイミに気付いた。戸を開けると、其処にはナイトガウンを羽織ったエイミが、ランタンを下げて立っていた。廊下に設置されているランプの火は既に消えている。目を擦りながら、些か不機嫌さを込めて、ファルは言う。

「どうした。 急用か?」

「ええ。 おねえさま、ぼろぼろの魔術師の方が、急用だとかで参られましたわ。 もう意識を手放してしまわれましたけど」

「魔術師?」

欠伸をかみ殺しながら、ファルは宿の階段を下り、一階へと足を踏み入れる。魔術師とこういう場で言う時、それは広義の意味となる。錬金術師、サイオニクス、それに冒険者魔術師といった魔法を使う僧侶以外の後衛職を差すのだ。これは、実際に魔法を使う所を見ないと、職業の判断が付きにくい為だ。玄人になると衣服の癖や歩き方で見分ける事も出来るが、それも確実ではない。エイミの言葉は、カバーする範囲が広い、適切なものであった。ちなみに僧侶は、特徴的な僧衣などで非常に見分けやすいために、魔術師とは間違っても呼ばれない。

何にしても、ぼろぼろとは確かに穏やかではないが、もめ事の解決なら騎士団や冒険者ギルドに行った方が早い。ファル達は確かに最近知名度をぐいぐいと上げてきているが、それにしてもこんな街の隅にある宿にわざわざ来る事はない。となると、知人が助けを求めに来た可能性が高い。知人の魔術師というと、ポポーやメラーニエ、それにイーリスか。イーリスなら怒鳴りつけた後に、七層から持って帰ってきたあの肉片を含めたサンプルでも渡そうかと思いながら、ファルは居間の戸を開けた。其処には、予想と異なる人物が布団を敷いた床に寝かされ、エーリカの治療を受けていた。

ファル好みの、幼い少女の魔術師である。耳が尖り、体そのものが華奢な事から、エルフだと分かる。可愛い子供が大好きなファルは、無論誰かも覚えていた。以前、ゼルの所で見た双子の片割れ。リュートという方の子だ。痛みから失神している様子で、傷だらけの彼女に連続して回復魔法を唱えながら、エーリカは額の汗を拭った。

「結構痛めつけられているけど、致命傷は綺麗に避けているわ。 冗談抜きに、コンデさんと良い勝負が出来るわね、この子」

「確かにこの間の足運びを見た限り、魔術師にしてはなかなかどうして、動きもかなり良さそうだったな。 腕から言って、宮廷魔術師か? こんな幼い魔術師で、高名な冒険者が居るとは聞いていない」

「さてね。 何にしても、意識を取り戻したら聞くだけよ」

「……もう、とり、戻して、いる、わ」

うっすら目を開けて、リュートがエーリカを見た。エーリカが視線で、体を起こさないように促し、もう一度回復魔法を唱え始めた。小さく、本当に弱々しく頷くと、エルフの魔術師は言葉を丹念に選ぶように、しかし恐らく渾身の力を込めて言う。

「王女様が、さら、わ、れた」

「やはりね。 あんな重要な場所を守っていた貴方が此処にいるというのは、それ以外に考えられないものね」

眉をひそめるファルの前で、エーリカはしゃあしゃあと言った。怪訝そうに小首を傾げているのはエイミだ。だが咳払いしてファルが視線を向けると、自然にその意図を察してくれた。

「他の皆様も、起こしてきますわ」

「頼む。 ……やれやれ、こんな状態で、また迷宮に向かわねばならないかもしれないな」

強力な毒を持つヒドラとの戦いは、今までの強敵達との死闘に比べ、決して楽ではなかった。体力消耗的にはそれ以上と言っても良い。エーリカが丹念に解毒の魔法を掛けてくれたお陰で、奴の血毒は体から抜けている。しかしその一方で、解毒の過程で獰猛なまでに体力を奪われたのも事実。ラスケテスレル戦やオルキディアス戦ほどではないが、普通の人間なら後遺症を残すほどに消耗したのだ。体力回復の為にも、今は深く安らかに眠っていなければならないのである。本当ならば。しかし、リュートの状況を見るに、そうも言っていられない。状況は文字通り一刻を争う。不完全な状態で迷宮に向かわねばならない。今回の探索は、体力面で大きなハンデを背負う事になりそうだった。

そうこうしているうちに、他の皆が起きてきた。ナイトキャップをかぶったままのコンデは、大あくびをしながらジルに支えられて起きてきたし、ロベルドに至っては目の下に隈を作っていた。どうでもいいが、ロベルドの着ているパジャマは、水色の実に可愛い配色である。怪訝そうにそれを見るファルに、ロベルドは全く余裕無く、低い声で威圧するように言った。対し、ファルは説明するのも面倒くさかったので、後ろ手でリュートを指すに留まった。

「何だよ、こんな時間に」

「……アレを見ろ」

「あん? ……! 成る程、な」

目は覚め果てたが、だが疲れは取れない様子で、ロベルドが近くのソファにもたれかかる。ほどなくフリーダーとヴェーラも起きてきて、全員が揃った。皆疲労で沈黙している中、唐突にエーリカは額の汗を拭いながら振り返る。

「フリーダーちゃん」

「はい」

「イーリスさんの所に行って、焙烙を補給してきて。 出来るだけ沢山。 ファルさんの採取してきたサンプルもついでに置いてきて」

頷くと、フリーダーは素早く着替え始める。今回一番疲労が少ないのが彼女だから、この仕事をするのも仕方がない事だ。続いてエーリカはいつも通りてきぱきとした指示を飛ばす。

「ファルさんは、ヴィガー商店及びギルド系の雑貨屋に行って、消耗品の補給。 後、出来ればマジックポーション類を買ってきて頂戴」

「分かった。 あれば、だがな」

ファルは頷き、自らも部屋に戻って着替え始めた。マジックポーションというのは、魔術師の魔力を回復させる特殊な薬品の事だ。ただし、あまりにもまずいので、普段はワインやシロップ類に混ぜて飲む。マジックポーションというのは、何に混ぜてあるかの差であり、飲みにくいそれを皆好みで選ぶのである。ただ、殆どの場合は安ワインに混ぜてある。あまりにもまずいため、皆色々なカクテルを工夫して作り出し、結果種類が色々出来たのである。当然生で売っている場合もあるが、混ぜて熟成した場合の方が、僅かながらに効果が高い事も知られており、それを買うのは玄人だけだ。なお、定説では、混ぜものの方が効果が高い理由は、味に対する精神的な圧迫感が関係している、という事になっている。

そして重要な事がある。マジックポーション類では消耗した魔力はたいして回復しない上に、体力までは回復出来ない。体力の消耗は精神力の鈍磨も産む。即ち、殆ど焼け石に水程度の効果しか期待出来ないのである。とてもではないが、全体的な戦力の底上げに貢献出来るような存在ではない。高価な割りに人気がないのはそのためで、上級の魔術師が切り札に使う事がある、程度の代物である。そんなわずかな量の水を欲している焼け石が、今のエーリカだ。つまり、それだけ事態は切迫していると言って良い。

普段着に着替える必要も余裕もない。ファルが忍び装束に着替えて居間に戻った時には、既にフリーダーは出かけて、エーリカがリュートに尋問している所だった。エーリカは医療僧であった為、非常に病人の尋問が上手い。任せて置いて問題はない。エイミに出る事を告げて、外に飛び出すと、其処は明け方であった。朝早くに起こすのは気が引けたが、戦略会議に加わっている以上、ルーシーも立派な運命共同体だ。此処は心を鬼にして、起きて貰うだけであった。

意外な事に、店はもう開いていた。入り口の看板には、店番を使って朝から晩まで営業しているというような意味の言葉が書いてあった。何というか、こういった着眼点は流石である。人件費が抑えられる以上、こうやって余剰人員を減らし、普段は儲からない時間を活用するのはなかなかたいしたものだ。実際冒険者は夜に帰ってくる事も少なくないし、生活時間を通常の人間と逆にしている者達もいるのである。流石に慣れていないらしく、店番のオークはこくりこくりとしていたが、ファルが咳払いをするとすぐに飛び起きる。こうしてみると、オークは残酷であっても純粋な種族だ。彼にルーシーを呼びに行かせながら、ファルはもう品定めに移っていた。クロスボウボルトの束をばらして、鏃を調べてみる。どれも結構高品質の品だ。これをフリーダーが使うのだから、中途半端な代物を持って帰るわけには行かない。まして今日は皆疲れているのだ。

「まさか、深夜営業に、最初にあんたが来てくれるとは思わなかったわ」

「ほう? 今日がこの変則営業の初日か?」

「そーよ。 流石にみんな慣れてないから疲れてるわ。 んで、用件は?」

「マジックポーションを貰おう。 一番効果が強い奴をな」

大あくびをするルーシーは、オーク達を呼んで、指示を出しながらそれに応える。

「何であんなものを? あんたたちくらいの冒険者なら、あれがどういうものかは熟知しているでしょ?」

「ハイコストローリターン。 だが、迷宮内で短時間に魔力を回復出来る手段でもある」

「キャンプはって休めばいいでしょ? 大体、寝起きに見えるけど、まさか」

「そう、今回の任務は時間がない。 今から迷宮に行くつもりだが、それでも迂遠かも知れないほどだ」

ルーシーが外套を羽織り始めたのを見て、ファルは少し表情を緩めていた。事態を即座に把握して、仲間の為に会議に参加しようというのだ。ルーシーは状況次第では資金援助もしてくれる。無論、無謀だと思ったら止めるつもりであろう。実際ファルのチームの、大口スポンサーの一つであるヴィガー商店を切り盛りする彼女だ。幼くしてチームの運営権の一端を所持しているし、それを使って今まで何度か皆を助けてくれた。意見をする、とか。反対意見を言う、とか。それをしてくれる人材がどれほど貴重か、いなくなってみないと分からないものなのだ。

ルーシーを連れて宿に戻ると、リュートは半身を起こせるほど迄もう回復していた。逆に蒼白なのはエーリカである。小さな手で可愛く、湯気立つカップを掴んでいるリュートは、疲労困憊のエーリカを気遣い、わざとゆっくり喋っている様子であった。やがて話自体は終わり、エーリカはメモ帳とにらめっこしながら思考の整理に入った。フリーダーはまだ戻らない。距離から言って、エーリカが情報を纏め終わるまではたっぷりかかりそうであった。ヴェーラは壁際で腕組みしてこくりこくりとしているし、コンデは濃い茶を何杯も飲んで、何とか意識を止めようと必死だ。そんな彼らを見回していたルーシーは、リュートの所で視線を止めた。

「貴方、ひょっとして近衛新緑騎士団魔術師のリュート様?」

「あら? どうして私を知っているの? 今は宮廷魔術師をやっているけど、確かに昔は近衛新緑騎士団にいたわ」

「どうしても何も、私の父は近衛新緑騎士団に武器を納入していたのよ」

「で、近衛新緑騎士団って?」

如何にも暇そうなロベルドが退屈潰しと言った様子で言うと、リュートは苦笑していた。エーリカは視線でファルを指し、女忍者はやれやれと肩をすくめた。

「オルトルード王が親エルフ、親ドワーフなど、異種族との交流と共存を積極的にはかっているのは知っているな」

「当然だろ」

「それで、エルフ族の親人間派が、友情の証も込めて派遣しているのが新緑騎士団。 ドワーフが編成したのが閃紅騎士団。 まあ、どちらもそれほどの戦力はないし、今回の迷宮攻略には参戦していないのだがな。 その中で、王直属の精鋭を特に編成したのが、近衛新緑騎士団だと聞く」

「おー、そーか。 エルフが作った友好騎士団が。 そうかそうか」

しきりに頷いているロベルドを見るリュートの瞳が冷めているのは、仕方のない事である。元々ドワーフとエルフは接点が少なく、その上相性が決して良くない。エルフはヒューマンのように、火のように敵を憎む事はないのだが、しかし相当に繊細で、ちょっとした事で心に壁を作って相手を受け付けなくなる事が少なくないのである。対しドワーフは、余程の事がないと種族レベルの相手を恨まないが、少しがさつすぎる。がさつなドワーフと繊細なエルフは、互いの間に暗黙の溝を作っている。それは差別や虐待を産むほどに深刻ではない。だが友になるほど浅くもないのである。要するに、根本的な精神的要素の違いが、双方の友愛をはかるには大きすぎるのだ。

皆の視線が集まったのには理由がある。焙烙を束と抱えて帰ってきたフリーダーが、額の汗を拭いながら言ったからだ。彼女が抱えるは山と束ねた焙烙。彼女自身は、狙撃と機動戦のエキスパート。危険物をこれ以上もないほど組み合わせた存在が、今皆の眼前にて、額の汗を拭っていた。

「ただいま戻りました」

「お疲れさま。 じゃ、皆揃った所で、会議を開くわ」

エーリカの言葉に重圧を感じるのは、間違いなく彼女に余裕がないからだ。猛り狂う魔王をこの宿の中に出現させたくなければ、出来るだけ彼女を怒らせないよう心がけるしか無かった。焙烙を抱えたフリーダーよりも更に危険な、チーム最強の存在は、笑顔すら浮かべず会議を開始した。

 

黒板にチョークで判明事項を書きながら、エーリカはそれを線で有機的に結んでいく。穏やかではない単語がそれによってつながり、形を為していく。ただの絵から、息をする生物へと化していく。即ち、皆が直面している現実という、悍馬にだ。それを如何にして乗りこなすか、皆で話し合わねばならないのだ。入念に準備すれば、そうでないよりも遙かに勝率は高くなり、素人でも悍馬を手なづけられる可能性がある。それを怠れば、如何なる強者でも現実に振り落とされる可能性がある。彼ら冒険者が住んでいるのは、そんな世界だった。可能性、可能性、また可能性。かも知れない、という予測の連鎖、連結。しかしながら、それは決して馬鹿には出来ない。それを馬鹿にし続けるものには、未来がないのだ。如何に現実的にそれを組み合わせるかで、生存率が三割も四割も変わってくる。数字が血や汗に混じって大きく幅を利かせる、それが一流の冒険者が持つ現実の姿だ。

黒板に並ぶ言葉に、真剣に考え込み始めたルーシーへ、エーリカがチョークで黒板を叩きながら、何か諭すように、無言の威圧を込めながら言った。いつもよりも、幾分手荒なやり方だ。疲労が、エーリカの攻撃性を、ただでさえ温度が高い炎の槍を、熱いだけではなく鋭くしていると、ファルには分かった。ファルにしても、それは同じなのだ。恐らくほぼ間違いなく。是からはいる迷宮で、魔物に対する攻撃は、皆いつもより更に激しくなるはずだ。下手をすると、それは虐殺と呼べるレベルになる可能性もある。こうなってしまうと、善悪の定義だとか、人間と魔物の存在だとか、誰にも優劣が付けられなくなってくる。いや、元から優劣など無い事が、露骨に表へ出てくるのだ。

「勿論、他言無用に願うわ、ルーシーさん」

「わーってるわよ。 まだ死にたくないもの。 ドゥーハンそのものに追われるなんて、はっきりいってぞっとしないわ」

「よろしい。 では、もう一度確認するから、必要ならメモしなさい。 状況は以上の通りよ。 昨日我々がカルマンの迷宮を後にした四時間ほど後、おそらくランゴバルド枢機卿の召喚したと思われる天使が二体、オリアーナ王女の保護されている建物を襲撃。 十三分ほどの交戦の結果、防御結界は全て突破されて王女は拉致され、護衛についていた魔術師二人、リュートちゃんとエミーリアちゃんは負傷。 そしてもっとも頼りになりそうなゼルさんは行方不明。 騎士団の仕事で席を外していたものの、帰りが遅すぎる事から、おそらく待ち伏せにあったものと思われる。 受けた損害から考慮して、リュートちゃん達は自力でのオリアーナ王女の奪還を諦め、我々に協力を依頼。 転移の薬を使用してカルマンの迷宮を脱出、この宿までやってきた」

エーリカはそこまで言って言葉を切った。今彼女が説明したのは事実関係だけである。これから、更に話を掘り下げるべく、エーリカは黒板を数度神経質に叩いた。

「現在宰相一派は、地下七層で籠城しているという話よ」

「そういえば、何を籠城しておるのかのう、かの者達は」

「宰相一派は、幾らでも不審な行動をしている。 以前は、どうしてか武神オグを探していた。 また、宰相自身が、壊れたオグを見て絶叫し落胆した姿は、皆克明に覚えているだろう。 マクベインはどうやらオリアーナ王女を捜していたらしいし、それはゼル様からも確報が取れている、 忍者ギルドから得た情報によると、最近は騎士団に連絡すらよこさず、そればかりか義務になっている王への定時連絡さえしていないらしい。 国際指名手配犯マクベインを使った事に対する詰問状は届いているのに、その返事もしていないのだとか」

「わけが分からないな。 まるで幼児が編んだ首巻きのように、横の連絡が取れていないのか? そもそも奴らは、何故今回のような暴挙に出た? いや、語弊があるな。 何故に、こんな事をずっと企んでいた?」

ヴェーラのぼやきも無理もない話である。宰相一派は、そもそも魔女アウローラを倒す為に、ハリスに協力を要請し、今必死の探索を続けているのではないのか。それなのに。

皆が視線を見合わせる。確かに騎士団を襲ったのは、天使だった。ハリスでも殆ど召喚し操れる者が居ない天使が迷宮をそうやすやすと徘徊しているわけもないから、あれはランゴバルド枢機卿が召喚した個体だ。奴は騎士団の足止めをしていたが、目的は何だろうか。考えられるのは、オリアーナ王女の誘拐に会わせ、その邪魔を封じた。それ以外には考えられない。

「で、俺らはどうするんだ、エーリカ」

「協力するのが吉だわ。 王女様を取り返すわよ。 当然、実力行使でね」

「……リスクは高いが、リターンにも相当な期待が持てるな」

「そうね。 あまり公にしなくても、恩は確実に売る事が出来るわ」

恩を売る事が出来る。案外軽視されがちだが、世界最大の国家に、返せないほどの恩を着せる事が出来る。それがいかほどに大きな事か。

ファルにしてみれば、これは願ってもない事であった。彼女の目的の一つは栄達である。未だ小さな忍者ギルドを大きく育て、受けた恩を返したい。そのためには、今回のミッションは必須であった。王女を助けたいという気持ちは、さほど強くない。これは冷酷と言うよりも、迷宮地下六層等という超危険地帯にいた以上、こういった事態になるのは覚悟の上であろうと割り切って認識していたからだ。人の命がかかった事を計算で割り切るのは良くない、とヒステリックに反応する事も出来るし、それは悪くない。だが、それは生き方や生活の方法、それに自分の進む道を好きに選べる人間の理屈だ。

また、今の状態でがむしゃらに助けに向かっても、二次遭難になる可能性が高い。救出計画を行う事は、ファルだって反対ではない。実際問題、もし相手が王女でなくても、彼女は助けに向かったかも知れない。ただし、それはあくまで生還率を上げる手を全て打った後の話だ。

「そうね、じゃあ今回、あたしからも出資させて貰うわ。 マジックポーション、ただで良いわよ」

「ありがとうルーシーちゃん。 恩に着るわ」

「それにしても、ね。 まさかあの敏腕宰相が血迷って、それをぶちのめす手伝いをするとは思わなかったわ。 出資に見合う成果を上げて頂戴よ、貴方達」

大きくルーシーはため息をついていた。無理もない話である。此処しばらくの、ドゥーハン周辺における貧民救済策の実行や、細部での立案作業は、宰相がやっていたのである。奴に恩を感じている者は少なくない。ファルにしても、ひょっとするとその一人になっていた可能性もある。

「後は奴らが具体的に七層の何処にいるか、だけど」

「それに関しては、大体見当がついているわ」

「それは心強い」

「詳しくは七層入り口で待機しているエミーリアに聞いて。 ゼル様も生きていたら、そこで待っていてくださると思うわ」

疲労しきった顔に、リュートが無理に笑顔を浮かべた。後は細かい所を詰めていき、リュートが宿に駆け込んでから一時間にて、精神的な切り替えも含めて準備が全て整った。きちんと情報収集と下準備をあわせて再出撃に掛かった時間としては、とても短い部類にはいる。

武装を整えて宿を出ると、まだ陽は昇っていなかった。だがその時はもう、皆の顔に疲労こそあれど、眠気は残っていなかった。

 

2,七層の闇

 

地下七層へ続く長い長い階段。滅びた都市から、得体が知れない生物の体内へと道をつないでいるそれを通るのは、今回で二回目となる。だいぶスピーディに事を運ぶ事が出来たとはいえ、八度の交戦を経て、六時間半を費やして後にたどり着いた場所である。ただでさえ蓄積している疲労は、更に濃くなってきていた。案の定皆の凶暴性は増しており、攻撃は無駄に激しくなり、押さえつつも皆イライラしていた。コンディションは最悪だが、一刻の猶予も惜しい今、いつものようにキャンプを張って疲労を回復している余裕はない。七層の魔物達の戦闘能力を考えると、決して良い状況とは言えない。現にエーリカは、持ってきたマジックポーションを、既に四本も空にしていた。コンデも似たような状況である。バックパックがだいぶ軽い。十二本持ってきたマジックポーションは、もう三分の一にその数を減らしているのだ。

階段を下りきる。額の汗を拭いながら、今人類が足を踏み入れる事が可能な、最も深い階層へ入り込む。周囲は暗く、噎せ返るような湿気に満ちている。一瞬だけ、ファルは、ロミルワの灯りが周囲を照らした結果、其処に普通の迷宮がある、などという空想をしていた。しかしそれは空想に過ぎなかった。灯りが周囲を照らすと、其処には気色の悪い、生物の内臓が如き天井と壁が広がっていたからである。

「イーリスは、何か言っていたか?」

「いいえ。 サンプルを調べてみないと、何も分からないと言う事です」

「そうだろうな。 この様な超絶奇怪なる迷宮、人類の如何なる勇者も見た事があるまい」

「ただ、今まで我々が持ち込んだ資料に関しては、少しずつ分かってきている事がある、という事でした」

普段なら即応する所が、少し遅れた。ファルは周囲の気配を探り、ロベルドとヴェーラと隊形を組みながら、視線も向けずに問い返す。

「聞こう」

「下層に行けば行くほど、回収される物品にも負の魔力が蓄積しているそうです」

「やはりな」

「それだけではなく、蓄積している負の魔力が、下層であるほど深く熟成されているそうです」

頷ける話である。毎日潜っているからよく分かるが、下層へ行けば行くほど障気が濃くなっていく。七層などは、非戦闘員にとって深海に等しい。即ち、足を踏み入れた途端、超絶的な負の障気に心を押しつぶされて悶死する。良くしても、発狂は免れない。ファル達はある意味、毎日少しずつ体を慣らしつつ、深い階層へと潜水しているのだ。敵は強くなってきているが、それと同時に、障気への耐性がなければ深き闇の底へは向かえないのである。カルマンの迷宮とは、海に近い存在だった。深く潜ればそれだけ水圧は増し、生きていく環境としては厳しくなっていく。光は届かなくなり、地上の生物とは生態も姿もかけ離れた魔物が蠢くようになっていく。

「具体的には、一つ階層を潜るたびに、障気が1.3倍ほど増えているそうです」

「となると、此処七層は、一層の何倍かのう」

「だいたい八倍になります」

「なるほど、これは今になって考えてみると、騎士団の精鋭だけを投入して正解だったのだのう。 こんな所に新兵を投入したら、強力な魔物に襲われる前に、発狂してしまうわい」

ゆっくり首を振りながらコンデが言う。歩きながらにしては、いつもより少し皆声が大きい。疲労のせいか、多少集中が緩いようであった。エーリカが口に人差し指を立てて当てたので、皆慌てて口をつぐんだ。

ファルが無言のまま、左を見たのには理由がある。左の通路の奥から、足音もなく歩み寄る、小柄な人影に気付いたからである。数は二つ。

「疲れている所、すまないな」

「いえ、当然の事です」

頭を下げたファルに、頭に包帯を巻いたゼルが苦笑してみせる。その後ろからは、びっこを引きながら、リュートにそっくりなエルフの魔術師がよてよてとついてきていた。大きな杖を、歩行用の補助用具として。足にかなり深手を負っているらしいが、瞳に瞬く光を見る限り、着いてくる意志に代わりはないようである。ゼルは皆の疑問を先読みしたように、頭の包帯を指さした。

「だいぶやられたよ。 何とか勝ったがね」

「流石は師匠。 天使と交戦したのが私であれば負けていたでしょう」

「さあ、どうだろうな。 それに、お前達だったらあんな天使、苦もなく勝っていただろう」

地で自分を褒めちぎるファルに、ゼルは冷静に事実を指摘し、着いてくるように促す。ゼルはファル達が騎士団と共に天使とヒドラを倒した事を聞くと、小さく頷いた。

「それは苦労しただろうな。 この階層の魔物は、私でも一人で戦うには分が悪い」

「騎士団と協力するべきなのではありませんか?」

「……いや、それはまだ時期が早い」

騎士団と共闘しないと言う事は、つまり騎士団も王女が生きていると知らない事になる。そういえば、それを裏付ける状況証拠は幾らでもあった。躍起になって六層を探っている宰相派に対して、騎士団は六層を七層への足がかりとしか考えていなかった。それに騎士団員は、王女の護衛に一人もついていなかった。騎士団長はゼルを随分敵視していたとファルは聞いている。ならば、あの性格からしても、騎士団長が事実を知っていれば絶対にゼルと一緒に王女を護衛したはずだ。ゼルの魔手(不快な言葉だが)から、王女を守る為に。今は少しでも心を許してくれていればいいのだがと、ファルは情報の修正更新を祈った。

「此処にいる面々や、騎士団長は、信用するに値すると私は思いますが」

「信用出来るさ。 だからこそ、交戦意欲を今は裂きたくないのだ」

戦友としては信頼出来るが、個人個人の行動までは信頼出来ない。用心深いゼルらしい台詞である。

「王女救出という理由でなく、宰相側の撃破という目的で共闘は出来ませんか?」

「王女を騎士団側に発見されたらまずい。 今はまだ、彼らにも知られたくない」

粛々と皆は進む。蠢く床を踏んで、血管の内部のような通路を延々と進んでいく。囂々と凄い音が遠くからしてきた。以前も通った、血の川だ。骨と筋肉繊維で出来たような橋が架かってはいるが、赤黒い液体が流れゆく様は、此処が地獄なのではないかと見た者を錯覚させる。

この階層は、他の階層に比べて、兎に角通路が長い。それに加えて、魔物の絶対数が著しく多い。その結果何が起こるかというと、前後から挟まれやすいのだ。他の階層であれば、適当なホールや袋小路で交戦し、背中を取られないように立ち回る事が出来る。しかし一本道の通路の前後から襲われると、正直面白くない。

「殿軍は任せろ」

まだ本調子ではない様子だが、罪滅ぼしをするかのように、ゼルが言った。如何に留守中を突かれたとは言え、王女を奪取されたのは、彼の責任だ。或いは死ぬつもりかも知れない。ゼルが死に場所を求めている事を、ファルは良く知っていた。そして悩んでいた。望むままに死なせてやるべきなのか。頬を張ってでも生きろと言うべきなのか。ファルの、数少ない好きな人間がゼルだ。だからこそに。悩みは深刻だった。

ファルが先頭に立って、生きた橋を渡り始める。橋の幅は二歩ほどであり、向こうまで三十メートルほどもある。真ん中は湾曲しており、少し高くなっていて、丁寧な事に天井から筋のようなものでつるされていた。筋のようなものは柔軟に撓っていて丈夫そうだが、ぬらぬらと油のような液体で湿っていて、信頼しすぎるのも危険そうだった。

踏み出す。足下はしっかりしているが、やはり他の床と同様、泥を踏むような感触であった。踏みしめても滑らない。心中安堵したのは、やはり以前フリーダーが落ちた事が気にかかっているからか。こんな川に落ちたら、どうなるか本当に分からない。絶対に、落ちるわけには行かない。むろん、落とすわけにもだ。

湾曲している辺り、即ち緩やかな上り坂は、最も滑落が予想される場所であった。だが、この生きた橋は、泥橋と違い、踏みしめた奥は随分しっかりしていた。靴も戦闘を考慮した、しっかり踏んばれる頑丈な奴だ。他の皆の靴も大差はない。踏みしめ、異様な橋を渡り行く。頂点はすぐに過ぎた。横を見ると、橋を釣っている(筋)がすぐ側にあったが、とても触る気分には慣れなかった。気持ち悪いのではなく、切れそうで不安なのだ。

ファルが渡りきると、すぐに後続に手を振った。そして抜刀して、何時襲撃を受けても大丈夫なように備える。川を渡っている相手を、その半ばで襲うのは戦闘の基本だ。そして、敵はその基本を守った。

「急げ! 足を踏み外すなよ!」

ファルが叫んだのは、此方にロベルドがたどり着き、ヴェーラが渡り始めた直後だった。橋の向こうの、通路の奥。闇の中から、大きな影が這いずりだしたからである。それは多くの足を持ち、迷宮を揺らす事もなく、ずるずると、ずりずりと、這いずってきた。

「蛸か?」

「へえ、あれがデビルフィッシュって奴かよ。 なるほど、気味悪がられるのも分かる気がするな」

「食べると美味いぞ。 色々な食べ方も出来て、奥が深い食材だが……」

「文字通り、食うか食われるか、だな!」

びゅんと大斧を振るロベルドが、着実に間合いを詰めてくる大蛸に、にやりと宣戦布告の笑みを叩き付けていた。

 

「吸盤に気をつけろ! 吸い付かれたら、まず取れないぞ!」

大蛸は、びゅんと唸りを上げて足を叩き付けてくるような事はなかった。音もなく柔らかく、それでいて重大な質量と共に、八本有る足を叩き付けてくる。知っているのだ。自分にとっては、柔らかく叩き付けるのが一番効果的である事を。蛸の足に着いている吸盤は、暴れるカニを押さえ込み、ばりばりと貪るのに何の支障もないほど強力だ。小さな蛸のものでも、張り付かれたら剥がすのは一苦労だ。この、どうみても直径二十メートル強もある奴の吸盤に張り付かれたら最後、ずるずると奴の足の下へ、口がある地獄の底へと運ばれて行くのみである。

集中力が落ちているのもあるが、それにしても、やたらゆっくり振られる蛸の足が、いやに避けにくい。今まで早い敵とばかり戦ってきた事もあるが、こう計算し尽くされた遅さというのは、速さと同等、いやそれ以上の恐ろしさを持っているのだと、ファルは悟った。そういえば球技でも、わざと遅いボールを放る技術があるのだとか、聞いた事もあった。敵は遅い。だが遅くとも、ぎこちなくはない。動きは滑らかで、そして強靱だった。

「おおうりゃあっ! 死ねやボケがあっ!」

ロベルドが、地を這ってゆっくり迫ってくる足にバトルアックスを叩き付け、その手応えに眉をひそめる。蛸の体は弾力の固まりである。刃は食い込んだが、相手が遅い事もあって切断するには至らず。逆に巻き込まれそうになって、慌ててロベルドは跳びずさった。その退路は、一秒ごとに狭まっていく。

再生力過剰の敵達と戦って、何度嫌な相手だと思っただろうか。今もまた、嫌な相手と対戦していると、ファルは考えている。先ほどから見ていると、この蛸に再生力はない。有るとしても、例のイソギンチャクやヒドラのように、泡を吹きながら即座に傷を修復していくような力はない。しかし、柔らかく、遅い。それだけで、超再生能力にも匹敵する嫌らしさを構築しているのであった。

ファルは二本の足にゆっくり追われながら、焙烙を取り出し、封印を食いちぎった。赤熱してくるそれをわざと持ち続け、敵の足に突っ込んでいく。そして自らを巻き込もうとした瞬間、残像を残すほどの速さで跳び、丸まろうとする敵の足の間に、焙烙を残した。

跳躍した自分を、爆圧が更に高く舞わせる。敵の足の動きを見ながら、空中で姿勢を調節し、有利な地点で着地しようとしたファルは、橋の向こうからの、エーリカの警告を聞いた。

「ファルさん! 斜め上!」

反射的に刃を盾にしたファルは、異様な感触を感じた。それは、いうならば、巨大な布団に押しつぶされる感覚。不意に敵が素早く足を動かした事は分かったのだが、あまり強烈な一撃を受けたという感覚はなかった。しかし、だというのに。まるでドラゴンにはじき飛ばされたかのようにファルは吹っ飛び、地面に叩き付けられて、二度バウンドした。足が迫ってくる。口の中の血を吐き捨てると、ファルは何とか立ち上がり、迫る足を斬り払って後方へ跳び去る。焙烙の一撃をもろに受けた蛸の足は、ぶすぶすと煙を上げ、先端部は黒こげになっていた。しかし、まだまだ全く勝てる気がしない。周りに聞こえるように言ったのは、ロベルドにも注意を促す為だ。

「敵本体に近づくと、不意に動きが早くなるの……か?」

「ああ、油断ならねえな!」

「加勢するぞ! 火神アズマエルよ、闇から這い出た不敵な海の眷属に誅戮を!」

ヴェーラが祈りの言葉と一緒に場へ飛び込み、長い柄を持つハルバードで近づこうとする足を牽制する。それと同時に、蛸は戦法を変えた。不意に体を浮かせると(ゆっくりだったのに、随分急に見えた)、真っ黒な液体を、大量に周囲へぶちまけたのである。

戦場が血まみれなのは当たり前の話だ。戦場では噎せ返るような血の臭いが満ち、気が弱いものは発狂してしまう事もある。相手を殺さずに勝つ、そんなことは超絶的なほどに力量が離れた相手にしか出来ない。少なくとも意図的には。きれい事は一切通用せず、現実と能力だけが勝敗を支配する。それが戦場の姿だ。

だから、血まみれというのも、色々に判断し利用して行かねばならない。

戦場が、屋外で有れば、危険要素は見た目と臭いのみでいい。その臭いも強烈な要素にはなるが、多くの場合致命傷にはならない。まずいのは、むしろ屋内戦の場合だ。形のある床、血が染みこまない床の場合、まき散らされ乾かない血は、すなわちワックスと同じである。滑れば格下の相手にも負ける。屋外戦と異なり、屋内戦では血はかなり直接的に有効な兵器になるのである。そしてそれは勿論、他の液体でも同じ事だ。

蛸は大量に液体をばらまいた。ロベルドも、ヴェーラも、むろんファルも、それを目に喰らうようなヘマはしなかった。しかしそれは、油同然の潤滑性を持っていたのである。踏み込んでみて、ファルは愕然としていた。敵は全く速度を落とさず迫ってくる。それに対し、味方は機動力を半分以下に減らされたも同じだ。後ろには、囂々と音を立て流れる血の川。正しく絶体絶命の危地であった。

ちらりとファルは後ろを見る。橋を渡って後退する事を考えたのである。だが、後方では戦闘音が響き始めていた。どうやら戦いの音を聞きつけ、敵に増援が現れたらしい。延々と長い通路は、待ち伏せにこれ以上もないほど有利だ。舌打ちすると、ファルは断固死守を決意し、ゆっくり伸びてきた蛸の足を飛び越えざまに鋭く切り裂いた。着地時に足が滑りそうになり、嫌らしいほど正確に迫ってくる足に取り付かれそうになるが、間一髪バックステップが間に合う。ロベルドもヴェーラも状況は殆ど同じだ。敵は傷をかなり作っているが、それによって動きが鈍った様子はない。

「がうあっ!」

ロベルドが壁に叩き付けられ、蹌踉めきながらも何とか迫ってくる触手から逃れる。ヴェーラも顔面をはり倒されて横転し、必死に転がって絡め取ろうとする触手の魔から逃れ去った。皆損害は甚大だ。こんな時こそ、冷静にならねばならない。深呼吸し、疲労に曇る思考を落ち着かせていく。魔力流を見るには、だいぶ集中力がいる。今までも無意識レベルでそれをやっていたし、気配を濃くしたり薄くしたりと言った程度はもうそうしようと思うだけで実行出来る。しかし、敵の弱点まではまだまだ見切れない。どうしてもこの相手には違和感がある。蛸が吐き散らした液体を蹴立てて走りながら、ファルは必死に頭を落ち着かせる。吸盤に捕らえられたらアウトだ。それまでに、後衛がたどり着くまでに、何とか策の一つも考えなくては。

「ファルさん! 右に逃げて!」

反射的に右へ飛び退く。左からいつの間にか、床を這うようにして触手の一本がにじり寄ってきていたのだ。ファルが飛び退くのと、エーリカが速射式のバレッツを放つのはほぼ同時。一抱えもある巨大な魔力球は、無音のままファルがいた空間を掠め去り、蛸の顔面を直撃した。

顔面と形容したが、それは両目の間という意味だ。更に二発、速射式のバレッツが跳ぶが、触手が上がって盾になり、はじき飛ばす。無論触手も大きく弾かれて激しく揺れ、一本に至っては千切れたが、本体は全く無事だ。だが、これだけで、ファルは勝機を見出していた。今の攻防で滑って転びそうになったが、何とかそれは回避した。額の汗を拭いながら、エーリカのからかうような声を聞く。

「私が行くまで保つー?」

「保たないだろう。 この蛸がな!」

ファルが手を振ったのは、勝利を確信して、味方にそれを示したかったのではない。刀を投げ捨てたのだ。そしてそのまま、先ほど床にたたきつけられた際に損傷した上着も体から剥がし、放り捨てる。後で回収すればいい。少し油臭くなっているかも知れないが。

橋の上に立つエーリカの後ろには、今の速射式バレッツのために連れてこられたらしいコンデもいる。おそらくは命中精度の問題から、狙撃役はエーリカがかってでたものとみえる。エーリカのハンドサインは、遠くからもよく見えた。そしてそれは、ファルの考えに合致していた。顔を見合わせ、理解したヴェーラとロベルドが、低く低く構えるファルに、後ろから声を掛けた。

「一瞬で決めろ!」

「任せておけ」

勝負の合図は、真上から叩き付けられた、二本の巨大な触手であった。それに対し、真っ正面からファルは自己に出来る最高速度で突貫し、左からロベルド、右からヴェーラが突撃する。蛸の動きが目に見えて鈍ったのは、その瞬間だった。

蛸は体の左右に目がついており、広範囲を視認する事が出来る。だが、それが弱点にもなる。立体的に見る事も難しいし、何より本当の前、しかも至近の相手は認識出来ないのである。左右に残像を残してぶれながら触手をかいくぐって跳躍したファルが、至近に迫った敵の触手を踏み台代わりに利用して、高く高く身を舞わせる。そして空中で姿勢制御し、魔力視し、態勢を整えて落下する。そして、蛸の、人間で言えば額の部分に、運動エネルギーを全て凝縮した蹴りを叩き込んだのである。流石に蛸が苦しそうに身震いする。更に、後ろからは、エーリカの詠唱が聞こえきていた。

「我が心は光の剣。 闇を裂き、光を祝福し、敵を砕く矢とならん! 我が守護者の名、それは月神アルテミス!」

詠唱はまだ半ばである、そして指示された作戦もだ。左右に分かれたヴェーラとロベルドは、激しくなる触手の迎撃をかいくぐりつつ、敵の目へと肉薄していく。ファルが触手のおよそ半数を引きつけている為、ずっとスムーズに。だが、二人ともほぼ同時に、必死に蛸が振るった触手にはねのけられ、飛ばされる。同時に、エーリカの呪文が完成した。

「その矢、全てを射抜く高貴なる一撃なり!  貫け、そしてうち砕け! フォース!」

僧侶系の数少ない攻撃呪文、フォースである。バレッツの上級魔法で、弓矢のように凝縮した魔力の固まりを敵に叩き込む。エーリカが放った光の矢は、空間を驀進し、そして寸分違わず、ファルが蹴りを叩き込んだ地点に潜り込み、そしてはじけた。

「グルオオオオオオオオオオオオオッ!」

大量に血をぶちまけながら、蛸が咆吼した。額に空いた大穴からは内臓のようなものが漏れ、鮮血が噴きだしている。巨体を揺すり、めったやたらに暴れる蛸に、ファルは焙烙の印を食いちぎって、冷酷に宣告した。

「忌ね」

無茶苦茶に振り回される触手にはじき飛ばされ、壁に叩き付けられるのと。ファルが焙烙を投げ、それが蛸の額の傷に潜り込むのは同時。悲鳴が、蛸の体内で炸裂した焙烙の爆音と重なり、奇怪な即興曲を奏で上げていた。

 

「はあ、はあ、はあ……ぐうっ!」

壁からずり落ちたファルは、全身に走る痛みが冗談では済まないレベルに達していることを悟ったが、どうしようもない。まだ蛸は痙攣していて、触手は活発に辺りをまさぐっていた。頭をもがれた昆虫と同じである。大した生命力だった。

敵の断末魔に巻き込まれないように慎重に距離を取り、刀を拾い上げながら、ファルは敵の奇怪な特性に気付いていた。

この敵には、体表面に、致命的な構造欠陥がなかったのである。どんな存在にも、軽く突くだけで倒せるような構造欠陥があり、それを魔力視で看破出来る。その看破した地点を貫き抉ってやるのが、ファルの必殺技であるクリティカルヒットだ。無論今の蛸にも、貫きやすい地点はあった。空中からの蹴りで、蹴破ったのが其処である。しかし、それだけでは、致命傷にならなかったのも事実であった。

体が原始的な生物になるほど、その傾向は強い。犬や猫などの、体が非常に複雑な生物は、すぐに致命点が看破出来る。人間やドラゴン、魔神などもそうだ。上級の魔神になるとどうなるかは分からないが、少なくともレッサーデーモンはそうやって弱点を突く事が出来た。何故かこの蛸には、それが出来なかった。ファルの疑問に、動きが鈍くなって行く蛸は応えてくれない。内側からの爆圧で眼球が飛び出し、もう何も見えない様子なのに、蠢き続けるその姿は何処か哀れだった。

後衛ではまだ戦いが続いている様子だ。エーリカに、もう蛸を倒した事を告げると、彼女は頷いて今度は後衛の指揮に戻る。ハンドサインを的確に飛ばして、見る間に戦況をひっくり返している様子だ。

肉体へのダメージも深刻だが、それよりも精神への打撃が深刻だ。先ほどの高速機動では、滑る床の摩擦係数まで計算して、全身を動かした。とんでもない精神力を使ったのは当然の事で、今も反動で思考が鈍っている。甘いものを食べたい。貪欲に、甘いものを脳が欲している。吐き気がこみ上げてくる。膝を無意識の内についてしまう。思えば、師匠との戦いの時。リミッターを完全解放し、戦いが終わった後は気絶していた。だから分からなかったが、意識がある場合には、これほどの責め苦が体をさいなむのか。今後、使うのは最小限に押さえる必要がありそうだった。

「大丈夫か? まだ寝ると危険だぞ」

「ん、すまない。 少し肩を貸してくれ」

傷だらけのヴェーラに肩を貸して貰って立ち上がりながら、ファルは朦朧とする意識の中、此方に駆け寄ってくるエーリカを見た。勝ったのだ。流石だ。ただぼんやりと、ファルは頭の中で、エーリカを賞賛し続けていた。

 

何とか休めそうな場所を見つけた時には、皆が疲れ切っていた。丁度部屋のように膨らんだ空間で、敵に奇襲される恐れが少ない。この階層では、下手をすると部屋そのものに襲われる可能性もあるのだが、もうそんな事に留意しては居られない。

シートを敷いて、その上に皆座る。疲労の激しいファルは休みに入り、ゼルが見張りに立ってくれた。後衛はレッサーデーモン六体に襲われたそうなのだが、エーリカの巧みな指揮と、フリーダーの的確な狙撃及び支援で、見事に難局を乗り切る事が出来たらしかった。無論、コンデに匹敵する術者であるエミーリアの援護も軽視出来ない。

六層のグルヘイズの巣を始めとした各所から、回収してきた識別ブレスレットは、勿論一通り試している。しかし、このリミッター上限外しのリスク軽減方法は見付からない。どれもこれも単純な技術ばかりであり、それも役に立たない事はない。だが、聴覚強化呼吸法や魔力視瞑想法といった、広く応用出来る技は全くない。ぼんやりと気色悪く蠢き続ける天井を見ながら、ファルは何か良い対応策はないか考え続けていた。

「ファル様、おのみになりますか?」

「ん……すまないな」

フリーダーが水筒を渡してくれた。今は何があっても、真っ先に甘いものを取らねばならないと、本能的に分かっている。飲んでみると、甘い果実ジュースだった。砂漠で水を得たように、ファルはそれを一気に飲み干していた。いつもになくぐっと飲み干したせいか、ロベルドの治療に当たっていたエーリカが、不安そうに言う。

「大丈夫?」

「あ、ああ」

「精神疲労回復には、糖分の摂取が最適です」

「ディアラントでは、そんな知識も広まっていたのか?」

無言でフリーダーが頷く。技術と精神は関係ない。どんな下劣な精神の持ち主でも、誰もが認める素晴らしい技術を作る事が出来ることもある。逆にどんな高潔な人間でも、誰もに鼻で笑われるような駄作しか作れない事もあるのだ。

「宰相派の居所は、見当がついているのですか?」

「だいたいね。 この階層は上下二層に分かれていて、今は上層。 此処から一旦下層に降りて、奴らが居る地点まで忍び寄る」

「戦力が足りなくねえか? 連中は近衛兵も連れてきていると聞くぜ?」

「いや、近衛兵は計算に入れなくて良い。 ハリスの僧侶達もだ。 アサシンと、天使二体、それにランゴバルド枢機卿だけをカウントしていれば大丈夫だ」

不思議そうな顔をするロベルドだったが、ファルには大体分かった。宰相派はずっとこの階層にいるのだ。しかも、近衛兵達などの下っ端は、恐らく宰相が何を考えているのかも理解していまい。駐留する目的も意味も分からずに、こんな人外の地に居続けて、精神がまともなまま保つわけもない。

「時間は、大丈夫でしょうか」

「王女様が、此処に何故契約でとどまっているのか。 奴らはほぼ間違いなく知っている。 何かしら儀式をするにしても、あと丸一日以上は余裕があるはずだ。 ……まして、だ」

「?」

「実は、転移の薬をちょろまかして、何とか逃げ出してきた奴が三日前にいてな。 転移の薬を使う際に余程焦っていたらしく、右腕を失ってしまっていたが、大体の話は聞く事が出来た」

注目する皆の真ん中で、背中の羽をきれいに畳んだゼルは、苦笑して肩をすくめて見せた。

「宰相は、もう正常な精神を宿していない」

「あれほど理性的に、今まで様々な事をこなしてきた、あの宰相が?」

ドゥーハン人に聞いても、ハリス人に聞いても、グルテン人に聞いても、ほぼ間違いなく同じ応えが帰ってくる問いがある。ドゥーハンの宰相は、どんな人か、がそれだ。殆どの人間は、理性的で有能な政治家、と応える。サンゴート人すら、皮肉や苛立ちを交えつつも、評判は良いらしいなとでも応えるだろう。エーリカの驚きは確かな事であった。

「ええと、その、あれじゃ。 七層の障気にやられてしもうたのではないかのう?」

「いや、違うな、コンデ老。 五層でも、宰相は少し様子がおかしかった」

「では奴は、ずっと前から、闇に巣くう怪物が如き狂気を隠していたのか?」

ああでもないこうでもないと話し合う皆を見ながら、ゼルは少し悩んだ後、言った。

「奴はいずれにしろ処分しなければならない。 抹殺許可は、既に王に取ってある」

「……」

「奴が何か口走るかも知れないが、それは他言無用にな。 おそらく国家機密が絡んでくる」

闇がどれだけ深いのか、その一言で、皆がうっすらと理解していた。

 

3,血肉の奥に

 

儀式は続いていた。酔いが醒めた宰相の緩慢な指示で、部屋の中央に魔法陣が書かれ、眠らされた王女が横たえられ。そして蒼白になっているハリスの僧兵四名が、磁石から割り出した東西南北に立ち、必死に呪詛を唱えていた。彼らが信奉する、天主教の神を冒涜する呪詛をである。

魔法陣には、神を冒涜する言葉や魔神を賞賛する語句が敷き詰められていた。それにもかかわらず、ランゴバルドも抗議しない。ハリス僧にも、抗議しようと言う者は居なかった。あろう事か、天使であるマリエルもインヴォルベエルも、白けきった目で儀式を見守っている。

人間が、少数の人間が、天主教の神を冒涜しても、天使には痛くも痒くもないのである。ふうんと思って、場を見守るだけの事なのだ。それを良くランゴバルドは知っていた。ハリスの僧侶達は、此処から生きて帰る事だけが精一杯だった。この極限状態で、生きる事を信仰に優先させた彼らを、誰が責める事が出来ようか。なお、最後まで拒否した硬骨漢もいた。彼らの運命は、魔法陣を書く文字の材料になり果てる事だった。

儀式は交代交代で、もう六時間も続いている。血走った目で、横たえられている王女を見ながら、宰相は呟き続けていた。

「後少し、後少し、後少し、後少し……」

魔法陣から、ぞわりと、黒い気配が浮き上がる。それは王女の周りにまとわりつき、うねり、徐々に気配を濃くしていった。

「誰を呼び出すかは、決まっておるのですかな?」

皮肉たっぷりにランゴバルドが言うと、宰相は口の端をつり上げ、舌なめずりしながら言った。かっての水も滴る美男子は、もはや何処にも居なかった。

「当たり前だろう。 適任は、奴以外にあるまい。 ドゥーハンを最も蔑み、憎み、滅ぼそうと人生を掛けた男だ。 くく、くくくっくく、くははははははははははははは!」

宰相が呟いた名前を聞き、ランゴバルドは表面上同意しながらも、肩をすくめていた。確かに最適な、そしてある意味最悪の組み合わせであったからだ。ただ、一つはっきりした事がある。類が友を呼ぼうとしている。それだけであった。

 

それは階段と言うよりも、筒だった。管と言っても良い。肉で出来たチューブ。いや、そのまま腸の中身。下り坂になった肉の筒が、下へ下へと伸びている。奥は見えない。ロミルワの光でも照らし切れない。二番目を歩いているヴェーラが、通路よりも更に狭い、細かい襞が蠢き続ける壁を見て、吐き捨てた。

「ぞっとしないな。 これではまるで、生き物の消化器官を下っていくようだ」

誰も消火液が噴き出したりして、等という不謹慎な事は言わない。それが如何に皆の探索意欲を削ぐか分かっているからだ。

「それにしても、此処は一体何なのだ? 巨大なる魔神の体内か?」

「実はな、ディアラント文明の何かの建物が変化したものだというのは分かっている」

最後尾のゼルの言葉が、思わず皆の注意を引いた。多分皆の注意を引きつけすぎては良くないと思ったか、エーリカが会話の代行をしてくれる。

「証拠はあるのですか?」

「七層下部に、元の形を残した部屋が一カ所だけ有る」

「……それは、何処ですか?」

「宰相が籠城している場所だ」

ゆっくりと曲がりくねった筒を抜けると、相変わらず気色の悪い光景が其処には広がっていた。ただ、違う事が一つあったが。

七層下部には、灯りがあったのである。天井や壁から突きだしている奇怪な器官が発光しているのだ。床には一切無い。数メートルおきにそれは並んでいて、蛍のものよりずっと強い光を発していた。無言でロミルワを消しても、灯りは充分だった。念のため、天井近くに灯りを一つ浮遊させて置いて、探索は開始された。

魔物の絶対数が多いのも、頷ける話であった。この辺りには、人が入った形跡がほとんどない。冒険者が多くはいる階層、一層や二層では、魔物が出にくい地域というのがあるが、それは入り込む冒険者や騎士団によって適度に間引かれているからだ。無論以前一層で見たように、徒党を組んだ魔物が、安全地帯と目される場所で人間を襲撃する事も少なからずある。経験の浅い冒険者は、そういった事態に直面するとひとたまりもない。

「突破まで、出来るだけ戦いたくはないのだがな……」

ファルが呟き、前から飛んでくる数体のレッサーデーモンを見て、刀を抜きはなっていた。

エルフ族の年齢は、ヒューマン族の年齢と全く合致しない。以前ファルがどこぞの文献で見たところによると、エルフ族といっても、部族によって成長の仕方が異なるのだという。サンゴートの黒き森に住む連中は、長い事子供のままで、大人になるとヒューマン並の速度で老いていくとかいう。一方ドゥーハン王都の側の森に住む連中は、定速度で成長していくものの、その速度が物凄く遅く、ヒューマンの十五倍から二十倍かかるとも言う。一番多いのは、大人になるまではヒューマン並の速さで育ち、大人になってから非常にゆっくり老いていくタイプで、これは生存に対する有利さからも数が多いのだとも推測出来る。ただ、生来優れた魔力を持つ上に、閉鎖的なコミュニティで生活しているエルフ族は、身を守る必要性から基本的に能力が高い。今凄い速さで印を組んでいるエミーリアも、その例に漏れてはいない。

兎に角詠唱が早い。驚くコンデの横で、エーリカのハンドサインに会わせて、的確な術を次々に敵陣へと叩き込んでいく。コンデに比べて火力と命中率はだいぶ落ちるが、それでも流石は宮廷魔術師だ。これなら、後衛の援護に回るよう、エーリカに指示された意味も分かる。

最後のレッサーデーモンが、ファルの一撃で頸動脈を切断された。大量に血を蒔きながら倒れるレッサーデーモン。それらの死を確認しながら、ファルは後ろへ言う。

「師匠は、何処まで進んだのですか?」

「八層までは行った事がある。 後で行き方を教えておく」

素早く戦いの場を離れ、迷宮の奥へ奥へと進む。皆が眉をひそめたのは、そのあまりにも異質な光景が見えたからである。それは、血の滝であった。細い通路の脇には、遙か遠くまで血の池が続いている。そして道のすぐ横に、おそらく七層の上層部から落ちてきたらしい血の滝があり、大量の血色の液体が降り注いでいた。滝の裏側を通らないと向こうへは進めない。当然ながら、紅いしぶきが周囲に舞い散り、臭いも凄まじい。とにかく生臭いのだ。

「やだ、これ、洗濯が大変よ」

服に散った紅い点にぼやいたエーリカが、しばし考えた後、何回かに別れて進むように皆へ指示した。滝の裏側にいる以上、皆で一緒に進んだら、奇襲を受けた時に対応出来ない。滝の幅は十五メートルほどで、駆け抜ければすぐだ。二人一組で渡ると、丁度四回で渡りきれる。

「滑らないように気をつけて。 滝壺がどうなっているか分からないし、血の池に何が住んでいるかも分からないわ」

確かに滝の勢いはかなり強い。血の池に生じている波紋も大きいし、漂う異臭も奇襲を避けにくい要素となっている。無言のまま、ファルとフリーダーが最初に進み出た。フリーダーは少し考えた後、槍を背中に背負って、ショートソードを抜き出す。マグスと呼ばれるブランドの剣で、的確な値段と切れ味で人気がある良品だ。今彼女が手にしているものは、エンチャントも施されていて、見かけよりもずっと切れ味は鋭い。使い方によっては、不死者を葬り去る事も可能だ。

「行くぞ」

「はい。 ファル様」

「大丈夫か? こんな異常な環境だが、怖くないか?」

「人間が言う恐怖なら感じません。 当機は、いまだに恐怖という感情を良く理解出来ません。 ファル様が居なくなる事を思うと、それに近いと思われる感情を覚えますが、物理的な脅威に恐怖は感じません」

本来それはあまりよい事ではないのだが、仕方がない。雑念を追い払うと、ファルはフリーダーを連れて、紅い水の落下音に向けて歩き出した。凄まじい轟音である。滝の規模から言っても、これだけの池だか湖だかが出来るのは無理のない話であった。

ロミルワの光が先導してくれる。滝の外側にも一つ常駐してくれているから、湖の中から襲われない限り奇襲は防げる。それにしても、この紅い液体はやはり血なのだろうか。生臭いのだが、微妙に違う気もする。滝の裏側に入り込むと、狭い通路を小走りで行く。やはり少し滑りやすい。コンデには気をつけて貰わないとまずそうだ。

随分長く感じる。頬や手の甲に、液体がどんどん付着していく。気持ち悪い。帰った後は、真っ先に風呂に入って流したい。先ほどの蛸が吐き散らした液体にまみれた上、この血に似た液体にまみれた服を洗濯するエイミが、今から可哀想だった。それに、今後の探索でも此処を通るとなると、毎回洗濯しなければならない事になる。気が重い。

滝を抜けると、すぐにフリーダーがクロスボウを構えて、腰を落とした。ファルも手を振ると、刀を抜いたまま、前方と滝への注意を怠らない。すぐにロベルドがコンデと組んで歩き始めた。生唾を飲み込まざるを得ない。視界は最悪だし、先手を取られると危険すぎる。

しばしの沈黙の後、血だらけ(に見える)ロベルドとコンデがこちら側についた時には、ファルは心底安心して嘆息していた。続いてエーリカが、エミーリアを連れて滝の裏側に入る。ロベルドに前への警戒を任せて、ファルは滝の方を注視し、不測の事態に備えた。次の瞬間だった。

ウナギのように長い生き物が、不意に湖面を蹴散らして、躍りかかってきた。長さは二メートルほどもある。滝を見ていたフリーダーは、奇襲に為すすべなく、呆然と立ちつくしたままだ。無言のままファルは踏み込み、ウナギに一太刀入れた。首をはねられたウナギはくるくると回転し、湖に落ちた。見るもおぞましい光景が広がったのは、その直後だった。

無数のウナギが、命を落としたウナギに躍りかかり、食いちぎり、引きちぎった。内臓がぶちまけられ、皮の破片が飛んでくる。急いで此方へ来るようファルが手を振り、フリーダーを後ろに庇った。道幅はどこも同じ程度で、この惨劇から逃れようとしても無理だ。早く皆と合流したい。冷や汗が、背を滝のように流れ落ちていった。

「な、なあ」

静寂を取り戻した湖を見て、ロベルドが言う。

「落ちたら、ひとたまりもねえな」

「……言うな。 敗者の末路だ」

想像を絶するほど危険な場所を通っていた事に改めて気付いて、皆が戦慄した。ぐっと口数が減ったのは、むしろ当然の事だった。

湖面には、今や無数のウナギが、体をくねらせながら泳いでいる様が見て取れた。エーリカとエミーリアに続いて、ゼルとヴェーラがたどり着いて、皆無言で湖の側を離れた。もしあの時、ウナギに食いつかれてフリーダーが落ちていたら。自分が死ぬ事を想像するよりも、それはずっと恐ろしかった。早足でファルについて歩きながら、フリーダーは言う。

「ファル様?」

「ん……何だ?」

「恐怖という感情が、今少し分かった気がします」

「そうだな」

ファルが考えていた事を、フリーダーも考えていてくれたのかも知れない。今のウナギに食いつかれて、ファルが湖に引きずり込まれたときのことを。

「まだ目的地までは暫くかかる。 気を抜くな」

ゼルの声が聞こえた。緩んでいた表情を引き締めなおし、ファルはまた歩き始めた。

 

4,歪みと妄執

 

サンゴートのカール王と言えば、伝説の暴君(狂王)の再来とも言われた、大陸最強の武人であった。バンクォー戦役の立て役者でもある彼は、その絶大な武力によって周囲に知られ、内部では異常な狂気の持ち主としても知られていた。バンクォー戦役で不可解な死を遂げたものの、サンゴート内部では彼の生存を信じる者もいるとかで、未だに内外に響く畏怖は強大である。事実、彼の武勇の前には、オルトルード王さえ赤子も同然、等と言われたのだ。そしてオルトルードも、一対一では奴と戦うなど、常々部下に言っていた。それほどに、カール王の武勇は絶大だったのである。現在まで、恐らく彼を超える武人はベノア大陸に存在していない。ウェズベル師や、全盛期のオルトルードでさえ、奴との戦いは避けたがるだろう。ランゴバルドが連れているマリエルでさえ、確実に勝利をもぎ取れるかは疑わしい。

カール王の強さは、兎に角情けというものを一切持っていなかった、という事に尽きる。彼は稽古の際も手加減をせず、ドラゴンやデーモンを相手にしていつも剣を振るっていたと記録にある。人間では相手にならなかったのだ。また、一回ごとに相手を確実に殺してしまうので、稽古の後を片づける専門の掃除屋を、サンゴート王宮では雇っていたと言われている。

カール王は感情の存在を疑われていたが、それはない。部下がドゥーハンの話をすると、ぎりぎりと歯を鳴らして、黒檀の机を拳でたたき割った(!)と、バンクォー戦役最後の(リシュルエール沃野決戦)でドゥーハン軍の捕虜になった将軍が証言している。カール王は極端に口数が少なく、意志の疎通は難しかった、と。常に側に控えているラスラエル将軍が皆への取り次ぎをしていたが、彼は三人目の取り次ぎだった。カール王は、取り次ぎのものが嘘を言うと、皆の目の前で首をへし折ったからである。こういった場合、取り次ぎ役は絶大な権力を得る事が多いのだが、カール王の周辺事情は例外だった。

国政に関しては、カール王の妹で、理性的な事で知られる盲目のミスライラ宰相が取りしきっていた。実はカールが死んで一番安堵したのは彼女だと言われている。カール王は貪欲に軍事費を彼女に無心し、逆らえずに泣く泣く高めた国力を削り取って渡していた、といわれているからだ。カール王は圧倒的な暴力で成った絶対者であった。彼が失脚しなかったのは、常勝不敗だったからであり、戦に一度でも負けていればクーデターで王座を追われていた事は万に一つも疑いない。また、サンゴートという国柄の、強き事に重きを置く風潮も、彼の存在を認める一因となっていた。事実、彼の超絶的な強さを妄信する、一種の狂信者も多かったのである。

彼がバンクォー戦役を起こした要因だが、彼の妻の血筋をネタにした一種の恐喝であった。在位から六年にして、既にユグルタとグルテンから膨大な領土をむしり取っていた彼は、ドゥーハンに領土の無心をも要求したのである。彼の政略結婚で、まだ十三の時に結婚させられた妻が、ドゥーハン王家の血を引いているというのが根拠だった。そのあまりに無茶な要求から、すぐに戦になり、彼は水を得た魚の如く、血を前にした悪鬼の如く、暴れに暴れ、虐殺に虐殺を重ねた。部下が証言している。カール王は明らかに、殺す事を楽しんでいたと。小さな村に乱入し、怯える子供を嬉々として大剣で両断した事は、捕虜になったラスラエル将軍を始め多くの者が証言している。毎晩捕虜を殺し、時にはその肉を喰らった事も、信じがたい事だが事実として証言されている。彼はドゥーハンを潰したかったから、彼に出来る方法で喧嘩を押し売りし、暴力を振るう事に酔ったのである。そしてそんな事だから、戦争に負けたのだ。

彼はケダモノの一種と思われがちだが、人間だと存在証明していた。利己的で極めて近視眼的ながらも、自己なりの正義を主張していたからである。それは復讐であった。彼は幼少期、悪辣を極める陰謀で、両親を惨殺されている。それは後に旧ドゥーハン王家の差し金だった事が分かっているのだ。また、彼は幼少期、女の子と間違えるほど大人しい子供であった事も、乳母の証言で分かっている。結論から言うと、彼は最初から狂っていたのではない。人為的に、人類社会によって狂わされたのである。

その狂気の王は、魂だけになり、闇の底に沈んでいた。彼を無理矢理引きずり上げたのは、同じ狂気を孕む男。ドゥーハン宰相、ウェブスター公爵であった。

 

通路に張り付いたファルが、皆を手招きする。見張りはいるが、やる気はない。というよりも、もはや目の前で手を振られてようやく気付くか、といった有様だ。目は濁っていて、逃げられるものならすぐにでも、という気配が濃厚だ。

士気が衰えているとは予想していたが、此処まで酷いとは思っていなかった。ただ、敵には上級天使もいるし、勝てそうだと思えば気力をなくしている近衛兵も牙を剥く可能性がある。

「トラップの存在は?」

「魔法的なものは分からないが、物理的なものはない。 ……というよりも、見ろ」

ファルが顎をしゃくる。見れば、辺りには血痕や服の切れ端が散らばっていた。蠢く肉の床上、何かを引きずっていったような痕もある。顎をさすりながら、ロベルドが見張りを見て、哀れみを込め言う。

「これじゃあ、魔物に喰ってくださいといってるようなもんだな。 見張りどころか、肉屋の生きたショーケースだぜ」

「降伏を呼びかけてみてはどうだろうか。 これでは正直、武の振るいようがない。 偉大なる火神アズマエルは、無為な虐殺などは好まない」

「どうでもいいけど、早くしてくれる?」

思いがけない人物から催促が飛んだ。今まで殆ど喋る事もなく、ついてきていたエミーリアである。彼女は這いずるようにしてファルの下に出ると、小さな手で、宰相が隠れている部屋を指さす。

「さっきから、あの部屋で溢れている魔力が尋常じゃないの。 何かしようとしているはずよ」

「何か、とは、具体的に何だ?」

「分からない。 だけど、凄く嫌な予感がする」

嫌な予感。常人には、行動の指針を示す際、毛程度の役割しか果たさない。しかし魔術師などの超感覚が発達した連中には、それは天恵に等しい。ファルも魔力流の強烈な乱れを、確かに感じ取った。

「ひっ!」

見張りが悲鳴を上げる。彼らが守っている部屋の内側から、真っ黒な障気が溢れ出てきたからである。壁や床が泡を吹きながら萎んでいく。しなびて腐って、崩れ果てていく。あれほど気持ちが悪いと思ったのに、何処か哀れに見えた。

「踏み込むわよ!」

エーリカの指示が飛ぶと同時に、全員が飛び出した。目を白黒させる近衛兵に、ファルが蹴りを叩き込んで黙らせると、そのまま部屋の奥へと入り込む。そこは右往左往する近衛兵達やハリスの僧兵で一杯だった。障気は既に其処に充ち満ちていて、彼らは入り込んできたファル達を見ると、蒼白になり、一人が武器を捨てると皆それに習って、地面にはいつくばった。リーダー格らしい立派な鎧を身につけた男が、哀れな声を出した。

「こ、降伏する! だから助けてくれ!」

「随分虫がいい話だな」

「宰相閣下に、いやあの男に連れられて迷宮にはいったが、こんな事になるとは思ってもいなかったのだ! 我々に、ドゥーハンに逆らう気など毛頭無い! 奴の悪行の証言なら幾らでもする! だから、だからこの地獄から出してくれ! もういやだ!」

「部屋の隅でじっとしていろ!」

不意にゼルが跳躍した。その意味を悟っているのは、ファル達だけであり、近衛兵達は激しい金属音が響くまでぽかんとしていた。刀を引き抜いたゼルが、大仰な手甲をつけ槍を持った天使と、空中で絡み合い、静止していた。一瞬後に力の均衡を崩して弾きあい、壁を蹴って敵に躍りかかりながら、彼は叫んだ。

「此処は任せろ! 早く奥へ!」

無言で頷くと、七人は部屋の奥へと飛び込んだ。心臓の弁のように、肉で出来た扉を蹴り開けて、中の部屋に展開する。上級天使の襲撃、それに枢機卿による上級攻撃魔法の洗礼を想定し、フリーダーなどはいつでも詠唱を阻害出来るようにクロスボウを構えていたし、エーリカも防御魔法の準備をしていたのだが、その必要はなかった。

その部屋は、他の部屋と根本的に違っていた。

まず、気色悪い肉に覆われていない。金属だかもよく分からない素材で、壁床天井が形作られ、奥行きは百メートルほどもある。所々に、錬金術ギルドにあるような透明なシリンダーが立ち並んでいるが、ほぼ全てが壊れており、中身は空だった。所々から突きだした、土筆のような器具は発光しており、部屋に灯りをもたらしている。ディアラント文明の産物だと、一目で明らかだ。ゼルの言葉は正しかったのである。この奇怪な階層は、もともとディアラント文明の建物だったのだ。何故こうなったのかは分からないが。

素早く左右を見回し、上下も確認して、最も襲撃に気を使った大天使が居ない事を、ファルは知った。ランゴバルドも居ない。アサシンの姿も見えない。それに、報告よりもハリス僧兵の数がずっと少ない。その所在は、すぐに明らかになった。

部屋の中央には巨大な魔法陣が書かれていて、どす黒い障気は其処から噴きだしていた。周囲に点々とちる亡骸は、おそらくハリス僧のものであろう。衰弱死したらしく、皆蝋細工のような有様で、無惨だった。魔法陣の中央には、高笑いを続ける宰相。彼の前に、子供の背丈ほどの高さに、仰向けに浮かんでいる王女の姿。王女は眠っているように見える。腹に見えないロープを結んで引っ張りあげたように、手はだらりと垂れ、体も弓なりで、冷や汗を掻いていた。そして魔法陣の中央床には、黒い書物らしきものが置かれ、障気は其処から噴きだしていた。魔法陣の構造を見て、コンデが呻く。

「なんと。 あんな魔法陣の中に入れられたら、普通の者ならものの五分で干物にされてしまうはずじゃ」

「王女さまあああっ!」

エミーリアが杖を鳴らして、必死に駆け出す。高笑いを続けていた宰相は、ようやくそれで此方に気付いたようだった。その全身を包んでいる黒い障気が、もはや事態が逼迫しきった事を告げている。彼の目は爛々と紅く光り、もはや人のものとは思えない。

「何者だ? こんな所に何をしにきた?」

「良くもしゃあしゃあと! 王女様を返しなさい、この異常者!」

「ははははは、王女様? それはもう死んだはずだろう?」

「分かり切っている事を! 四の五の言わずに、さっさと王女様を帰すのよ、ばかっ!」

余裕たっぷりの宰相に比べて、ぎりぎりとエミーリアは歯を噛むばかりである。彼女の肩を掴んで下がらせ、代わりに前に出たのはエーリカであった。

「宰相閣下。 冒険者をしているエーリカという者です」

「ほう、君が。 噂は聞いているぞ。 以前一度だけ見かけた事があったが……」

「覚えて頂いていたとは光栄ですわ。 それに、この様な事になって残念ですが」

「はははははは、そう言うな」

余裕たっぷりに言う宰相であったが、エーリカは既に相手をのみ、目に冷笑を浮かべていた。そして、さらりと爆弾発言を叩き込む。

「何故、このような血迷った真似を?」

「何だと? 口の利き方を知らぬようだな、所詮は野卑な雌猫か」

「どう見ても、発狂しているようにしか見えませんが? 理性をうりにしていた貴方らしくもない、実に下らない、稚拙で、ばかばかしい挙動ですわねえ。 私が雌猫なら、貴方はさしずめ蛇に噛まれた哀れな老猿でしょうが」

見る間に蒼白になっていく宰相に、エーリカは後ろ手でハンドサインを出しながら、更に挑発を繰り返す。

「イエスかノーかで応えなさい。 王女様を帰せ。 イエスならこの場で楽に殺してやるわ。 ノーなら、この場は生け捕って、後でたっぷり拷問を加えて脳味噌を正気にしてから、四層の溶岩に突き落として焼き殺してあげるわ」

「き、き、きさ、きさま、お、おれを誰だと、思っている!」

「イエスかノーかも応えられない貴方が、まさか宰相だとでも主張するつもり? 私が事実を指摘してあげるわ。 ただの馬鹿よ、今の貴方は」

「う、おおおおお、おお、おおおおおっ! 雌猫が、ふざけ……!」

目に爛々と光を宿した宰相が吠え猛った瞬間、物凄い金属音が響いた。ロベルドがバトルアックスを横倒しにしたのだ。宰相ばかりか、度肝を抜かれて唖然とやりとりを見ていたエミーリアまで、一瞬固まった。次の瞬間。宰相の喉には、深々とクロスボウボルトが突き刺さっていた。今の瞬間を、フリーダーが突いたのである。

ファルが同時に走る。そして三秒半で浮いている王女との距離をゼロにし、引っさらって魔法陣から飛び出た。そのまま味方へ走る彼女は、喉を貫かれた宰相が、ゆっくり横倒しに倒れるのを見た。幾ら何でも脆すぎる。そのまま、エーリカが速射式のバレッツを叩き込む。宰相の頭部が、熟れすぎた果実のように砕け飛んだ。

それが、地獄の狂想曲の幕開けだった。

 

宰相の、吹っ飛んだ頭の辺りには、血ではない何かが飛び散っていた。黒いのだが、血ではないと一目で分かる。なぜなら、蠢きながら、元の形を取り戻していくからだ。

「濃厚な不死者の気配がするわ」

エーリカが皆に警告し、自らはディスペルを行うべく印を組み始める。ファルは彼女がディスペルを発動した瞬間、魔法陣の外を回って味方に合流する事に成功していた。ぐったりした王女を床に降ろすと、エミーリアがその体にすがりつき、皆を見上げて力強く頷く。王女様は命に代えても守る。無言の意思表示が其処にあった。

「ひひ、ひはははは、ひひゃははははは、はははは、はは」

吹っ飛んだはずの宰相の頭が、哄笑を上げ始めた。ディスペルの光、それもどのハリス僧でも舌を巻くほど強烈な、が宰相を包む。しかし、首がない宰相の体に巻き付いた障気を払い落とす事は出来なかった。もう一度のディスペルが無為に帰した事で、舌打ちしたエーリカはザイバに切り替え、コンデと共に詠唱を開始した。むっくりと、死体が起きあがる。いや、それはもう死体ですらなかった。

「わあああたしいいぃいいいはああああ、帰って、きたああああああああ! 余おおおおおおはああああああああああ、かああえってええええええええ、きたあああああああ!」

めきめきと音がして、宰相の体が内側からはじけた。無数の黒い蛇、いや蛇のように凄まじい密度を有する障気が、くねりながら舞い、(ヒトガタ)と化した宰相の周りを蠢き、螺旋を形作る。ぼたぼた、ぼたぼた、ぼたぼた。どうしてか、宰相だった(ヒトガタ)から垂れる黒い液体の、床へ落ちる音が、部屋中で乱反射する。それが、螺旋状に蠢く障気が立てている音だと、頭で理解するまで七秒。じりじりと下がるファル達。

「反魂の秘法。 死した者の魂を呼び寄せ、何かしらの媒体に宿らせる」

不意に割り込んだ声に、ファルが視線だけ向ける。戦闘態勢を取らなかったのは、敵意も戦意も感じられなかったからである。視線の先には、どうやらファルが入ったのとは別の入り口から入ったらしいランゴバルドと、少女の姿をし、酷く冷たい瞳を持った天使がいた。ランゴバルドは、変貌していく宰相と、必死に呪文をくみ上げるエーリカを交互に見ながら、愉快そうに知識を披露した。

「カルマンの迷宮にて発掘された、ディアラント文明のネクロマンシー技術の粋を集めた秘書、死者の書。 ネクロマンシーを志す者なら伝説として皆知る書物だ。 オリアーナ王女を媒体に、同書に記されたネクロマンシーの秘術を、己の体に実行する。 くくくくく、復讐の為とは言え、なかなか出来ることではないのう」

「王女様を、その術を実行する為に浚ったというの? 何故、王女様が実行の為の媒体になるの?」

「さあてな。 それは王女自身に聞いてみるが良い。 この茶番の下らぬ動機も、その愚かな若造が、自ら話してくれるだろう」

「で、貴様は、そんな所で何の為に、高みの見物をもくろむ?」

返答次第では叩き殺す。そんな意味を秘めたファルの問いにも、ランゴバルドは顔色一つ変えない。

「質問が足りぬだろう? 何故、わざわざこんな事を教えると思う?」

「知るか」

「答えは簡単だ。 儂は、神を見てみたいのだよ。 この迷宮の奥に蠢く真相を知る強者が増えれば増えるほど、儂の望みは近くなる。 くくくくく、くくくくくっ、くくかかかかかかかか!」

あまりにも予想を外れる応えに、ファルは拍子抜けし、変貌を続ける宰相からじりじりと下がりつつ、ランゴバルドへ問い返した。

「何を言っている」

「ふふ、まあいい。 マリエル、もう少し下がるぞ。 結界を張れ」

「承知」

「精神を集中して! 来るわよ!」

エーリカの声が部屋に轟くと同時に、黒き障気がはじけ飛び、吹き荒れた。

 

5,死神帝

 

障気が吹き荒れ、辺りを覆い尽くす。ガードポーズを取ったファルは、何か声が聞こえるのを感じた。あまりにも曖昧な、抽象的な声の為、正体には気づけなかった。が、何処か聞いた事があるような、そんな声だった。障気の嵐は、すぐに一点へと収縮していく。ガードを降ろしたファルが、ゆっくり目を開けると、さっきまで元宰相が立っていた辺りに、何か別の者が居た。そして、障気ではない、別の何かが噴きだし来ていた。

それは、圧倒的なまでの憎悪だった。

今、形を為した存在は、人間ではない。強いていうならば、(ヒトガタ)としか呼びようがない。(ヒトガタ)の全身から溢れているのは、戦意でも敵意でもないし、高揚でも陶酔でもない。ただ一つ、圧倒的な憎悪のみ。どうしてか、相対する六人は、それにすぐ気付いた。エミーリアは必死に王女を引きずって部屋の隅まで後ずさり、そこで全力の結界を張り、震えながら戦況を見守っている。

ヒトガタはサンゴート騎士のような、黒い鎧を身につけていた。右手には二メートル以上もある大斧。牛を簡単に解体出来るほどの凄まじい業物だ。雄牛をかたどったらしい兜の庇からは、爛々と紅く輝く双眸が覗き、一歩ごとに攻城兵器を叩き付けるようなとんでもない圧迫感が来る。ただの憎悪なのに、憎悪に過ぎないのに。ひっとコンデが悲鳴を上げる。ファルも、膝が笑わないように押さえるので精一杯であった。ただでさえ、連戦でダメージが蓄積しているのだ。ふとした事で、恐怖に飲まれかねない。唇をいつの間にか噛んでいたのは、防衛本能からか。

エーリカがザイバの魔法を完成させる。ブーストされた魔力の光が、六人の武具を等しく包む。神々しく輝く武具を前にしても、ヒトガタは動ぜず、一歩、また一歩と歩み来ていた。エーリカはまだ攻撃を指示してこない。誰もが、固唾をのみ、エーリカの決断を待った。

「余は」

「俺は」

「ベノアの王、カール」

「ドゥーハンの真の王、フィリベルト=ド=ナヴァール」

「「我は、ドゥーハンを憎み、滅せんと欲するものなり」」

一つの体しかないのに、二つの声色が漏れ出る。そして不思議と、高度な連携を保ちつつ、それは言う。声色が重なる。二人の存在が、同時に言ったかのようであった。

「カール……まさか、サンゴートのカール王か?」

「それよりも、フィリ……ナントカって、誰だよ! 宰相の本名は、確かフェリー何とかだろ?」

「おそらくは、名前からして、ドゥーハン旧王家の末流じゃろうの。 よく似た名前を、以前読んだ資料で、先代ドゥーハン王の妾に見た事がある。 恐らく今のが、宰相の真の名前なのじゃろう」

「なるほど。 宰相はあの無能で悪辣な、旧王家の生き残りだった、というわけか」

ファルが吐き捨てる。エーリカも決して好意的な瞳ではない。無理もない話である。ドゥーハンに産まれた者にとって、旧ドゥーハン王家は正に悪の象徴だ。普通、新しい王朝が誕生すると、旧王朝の悪行をせっせと宣伝する。しかし、オルトルード王はそんな事をしなかった。理由は簡単で、誰もがそれを知り、今更ほじくり返す必要すらなかったからである。

ヒトガタが、空いている左手を、ハリス僧の亡骸に翳す。すると、死体は見る間に崩れ、灰になっていった。誰にでも、今の光景の意味は理解出来る。死体に残っていた力を吸収し尽くしたのだ。上級の不死者が備えているエナジードレインと呼ばれる力である。ヒトガタは笑った。兜で顔は見えないのに、どうしてか笑った事が、皆にも分かった。憎悪の中に浮かぶ、一筋の笑み。ただし、狂気に彩られた。

「余は、この迷宮に住む者、全てを食らいつくすだろう」

「俺は、そうして力を付けるだろう」

「「全ては、復讐の為に。 我らが、復讐の為に!」」

エナジードレインを行った不死者は、力を増すと言われている。この迷宮の魔物を片っ端から食らいつくした不死者が、もし迷宮の外に出たら。確かにぞっとしない話である。ゆっくりヒトガタが歩み寄ってくる。エーリカの指示はまだ飛ばない。

「ま、まだかよっ!」

恐怖に負けて、ロベルドが吠える。しかし、エーリカはまだ動かない。更にヒトガタが距離を詰めてくる。圧倒的な威圧感に、コンデは膝を突きそうだ。ヴェーラも、ファルも、立っているのが精一杯だった。冷や汗が頬を伝い、空中へしずくとなって身を投げ、床にぶつかり砕け散る。幾つ目の汗が、床で飛び散った頃だったろうか。エーリカが、攻撃開始の指示を出してきた。

前衛三人が、弾かれるように、三方向へ跳んだ。ファルは殆ど真右に、ロベルドは正面から突撃し、ヴェーラがそれに続く。エーリカが素早く印を組み始め、フリーダーが腰を落として狙撃の態勢に入る。

「おおおおおおっ! 喰らいやがれええええっ!」

全身弾丸と化して、ロベルドがヒトガタへ食らいつかんと迫る。一度誰かが押さえつければ、後は袋だたきに出来る。だが、敵は避けもしないし、下がりもしない。代わりに右手をたかだかと挙げ、そして斧を右へなぎ払った。

焙烙が十本纏めて、炸裂したかと思えた。

床が爆発して、閃光が左から右へと通り過ぎる。本能的にロベルドが飛び下がらねば、木っ端微塵に砕けていた所だ。魔法ではない。技でもない。斧を振り落とした圧力によって、即ち単純な風圧によって砕いたのだ。これを剣圧という。この場合斧圧だが、そんな事を言っている場合ではない。

非常識な一撃に蹈鞴を踏んだロベルドに代わって、エーリカが印を切り終えた。最小威力の、速射式バレッツだ。光弾は、軽量が故に超高速で飛び、ヒトガタの顔面にぶち当たる。相手が顔面をそらした隙に、ヴェーラがハルバードを斜め下から抉り込む。その刃が、激しい激突音と共に止まる。柔らかく斧を回したヒトガタが、柄で受け止めたからだ。間髪入れずに、ファルが放った手裏剣が、三本連続してヒトガタの鎧、そして兜に叩き付けられる。ハルバードごと身を引くヴェーラにあわせて、フリーダーが連続して二本の矢を叩き込む。二歩、ヒトガタが下がり、その間を埋めるようにファルがロベルドとあわせ突撃する。ゆっくり斧を振り上げたヒトガタが、無造作に降ろす。

「ぐおああああっ!?」

ロベルドが、ファルが吹っ飛ぶ。床板など、最初からなかったようだった。さっきは横に薙がれた剣圧が、今度は縦に振るわれたのである。結果、ヒトガタの足下が爆裂し、破片を周囲にまき散らしたのだ。決して動きは早くない。しかし、物理的な力そのものの度が外れすぎている。地面で呻いているロベルドの鎧には、床の破片が突き刺さっていた。ファルもまだ起きあがれず、額の血を拭いながら、何とか身を起こした状況だ。爆心地にいたはずのヒトガタは平然と立っている。乾いた唇を、エーリカが静かになめ回した。

「やはりね。 カール王と言えば、あのオルトルード王でさえ、絶対に一人で近づくなと言ったバケモノ。 簡単には勝たせて貰えそうもないわ」

「しかし、動きは存外遅いの?」

「その通り。 何かありそうねえ」

続けてエーリカは印を組む。ハンドサインも出す。向こうはまだ本気ではないが、それは此方も同じ事。

跳ね起き、真横からファルがドロップキックを掛けたが、蹌踉めくだけですぐにヒトガタは態勢を立て直す。斧を振り上げたヒトガタを見て、数歩バックステップする。追撃するように、斧を振り下ろそうとしたヒトガタの横っ面に、クレタの火球が着弾した。炎に包まれる黒い姿。炎の中から、平然と出てくる黒い姿。斜め後ろからヴェーラが、斜め前からロベルドが突撃を掛け、綺麗にタイミングのあったWスラッシュを決める。一瞬の空白。だが、ロベルドの顔には絶望が浮かんだ。

「やったか?」

「駄目だ、きいてねえ!」

ぶんと、凄い音がして、斧が振り下ろされた事を、皆が認識する。爆発的な風が巻き起こるのはその直後だ。至近まで接近していたロベルドとヴェーラは他愛もなく吹っ飛ばされ、下がろうとしていたファルも、ガードポーズを取りつつも後ろへ跳ね飛ばされる。更にもう一撃、斧を振り上げようとするヒトガタの肘に、クロスボウボルトが突き刺さる。今まではじき返されていた矢が、初めて突き刺さった瞬間であった。ザイバで魔力を帯びているのだから、効かないはずがない。効かないはずがないのだが。

無造作にヒトガタは矢を引き抜き、放り捨てる。そして、倒れているロベルドに向けて、悠々と歩き始めた。

「俺に逆らうとは、愚かな蛮人だ」

「余にその程度の腕で一矢報いようとは笑止千万」

「「灰燼に帰し、来世でも恐怖に包まれ暮らすがよい」」

「おかしいわねえ。 インパクトの瞬間、動きは止まっているし、効いていないはずがないんだけど」

斧を振り上げ掛けたヒトガタが、側頭部に叩き付けられたフレイルに、流石に蹌踉めいて、更に脇腹に叩き付けられた二撃目に耐えきれず、横殴りに吹っ飛んだ。今のタイミングで死角から回り込んだ、エーリカの一撃であった。激しい金属音を響かせて地面に倒れ込むヒトガタ。ロベルドを引きずり起こして、安全圏に下がりながら、エーリカはなおも敵を観察する。ファルは視線を送って指示を仰ぐのだが、彼女はまだ敵を見続け、思考をフルスピードで回転させているようだった。

殆ど間をおかずに、ヒトガタが跳ね起きる。非常に重そうな鎧を着ているのにもかかわらず、軽業師のように、体をバネにして跳ね起きたのだ。間髪入れずに、斧を横薙ぎに振り、空気に叩き付ける。圧倒的な力に、空気は押しのけられ、鉄砲水のようにエーリカとロベルドを襲った。人形のように飛ばされた二人は、他愛もなく壁に叩き付けられて、ずり落ちる。更に斧を振り上げようとするヒトガタに、真後ろからファルが踵落としを叩き込むが、少し蹌踉めくだけだ。慌てて引こうとするファルに、ヒトガタがねらい澄ましたような裏拳を見舞う。ガードが間に合わず、ファルは自分で引いた分も会わせて四メートルほども飛ばされて、壁に叩き付けられた。コンデが生唾を飲み込む。ラスケテスレルでさえ、攻撃をすれば結界に跳ね返されたり、効いたりした感触があった。こんなとらえどころのない相手ははじめてである。今までそう大威力の攻撃はしていないが、全く通用しない、という事態は例がない。味方にもそうたいしたダメージはないのだが、精神的な打撃は大きい。

「なーるほど、大体分かったわ」

そんな中、エーリカが埃を払って立ち上がる。逃げ腰になっていた者達が、やっとそれで精神的な態勢を立て直す。だが、次の瞬間、意味の分からない行動を始めた。自らの頬を、何度となく叩き始めたのである。ぱん、ぱん、と、鋭い音が響く。やがて右の頬を腫らしたまま、エーリカはゆっくり歩いてファルに近づき、その頬を張った。瞬間、世界が反転した。

 

「……!?」

蹌踉めいたファルが、踏ん張って倒れるのを裂け、唖然とエーリカを見る。ぼやける世界の中で、彼女はにこにこと笑いながら、親指を立てて下へぐっと突きだした。

「なるほど、な」

「そう、こういうことよ」

頬を腫らしたエーリカが、満足げに頷いた。ファルが抜刀し、自分の体に突き刺さっていた黒い触手を無言で切り裂いた。それと同時に、もやがかかっていた頭が、随分はっきりしてきた。

部屋の様子は一変していた。ファルはエーリカに刺さっていた触手も斬り捨てると、魔法陣の中央に立つ、巨大な人影を睨み付ける。

身の丈、実に七メートル強。巨大な斧を手にしたその姿は、無数の髑髏によってくみ上げられた、異形のヒトガタであった。例えるなら、屍でくみ上げた巨塔である。さきほどまでの姿も、人間と言うには違和感があったが、これはもう人間の原形をかろうじて残している、という程度の異形だ。髑髏を積み上げた異形のヒトガタからは、無数の黒い触手が伸び、部屋中でもぞもぞと蠢いていた。先ほどまで、攻撃時のカウンターを行っていたのは、間違いなく是であろう。ロベルドもヴェーラも、コンデもフリーダーも、その体には、例外なく触手が突き刺さっていた。しかも自分で、その凶事に気付いていない。ヒトガタの体の中央には、元宰相の、もう正気を一切残していない顔が埋まっており、哄笑を上げ続けていた。

「ひひひひひひひひ、よく、よく分かったな、ひひ、ひひひひっ」

「今まで色々な相手と戦ったけど」

ロベルドに刺さった触手をフレイルで叩き潰し、拳骨を頭に叩き込みながら、エーリカが哄笑する宰相に不敵な笑みを浮かべた。

「攻撃を跳ね返す奴、受け流す奴、攻撃を受けても再生する奴。 でも、あなたは受けても全く平気だった。 色々な種類の攻撃を敢えて浴びせているにもかかわらず、ね。 それに、自分からは一切攻撃せず、相手に対してカウンターだけを返しているのも、変だったわ」

ファルがフリーダーとコンデに刺さっている触手を切り伏せ、ヴェーラも助け起こして触手を引きちぎる。正気に戻った皆は、状況の急変に唖然とし、慌てて隊形を組み直して、蠢く小山の如き敵を見守る。

「それに、貴方の目的から考えると、いちいち一人一人撃破していくタイプでは効率が悪すぎる。 さっきの戦闘スタイルは、あまりにも非効率的すぎるものね。 適当に弱った所を、纏めて補食するつもりだったんでしょう?」

「ひひ、ひひひひひひっ!」

「さあ、ここからが本番よ」

「ひひゃはははははははは! 本番、本番だと? 我が何もせず、ただ貴様らを踊らせているだけだとでも思っていたのか?」

エーリカは笑顔を崩さないが、確かに宰相の言葉通りだ。ただでさえ疲労が蓄積しているのに、全身から力が抜けている。先ほどまで刺さっていた触手、おそらくは宰相が真の姿を現す際の一瞬の虚脱、あの時刺さったものであろう、が力を奪い去っていたのは間違いない。無為に繰り返した攻撃も、消耗の一因となっているのは疑いない所だ。高笑いしながら、宰相はさらにファル達を追い立てる。

「くわえて俺には、催眠を破られても、まだまだ奥の手が幾らでもある! ひひひひひ、雌猫共が、もはや光を見る事は無いと思え!」

部屋に書かれている魔法陣は、当然のように無事。それから、黒い障気がまだまだわき出してきている。ファルが周囲を見回して舌打ちしたのも当然だった。辺りの床から、滲み出すように、無数の腐敗した手が伸び上がってきたからである。それは地獄の穴から自らを引きずり出すように、姿を現す。或いは甲冑を付けた、或いは法衣を身につけた、戦場で死んだらしき不死者達だ。何も死体がない所から呼び出した、という事は。元々この場にいなかった存在を、余所から呼び出したと言う事だ。

この手の、存在を別の場所から呼び出す術を、召喚魔法という。

「召喚魔法。 また、偉く厄介な術を使うわね」

「ち、畜生、幻覚って事はねえのか?」

エーリカがハンドサインを出すと、頷いたフリーダーが、呻きながら近づいてきた一体をショートソートでなぎ払い、体勢を崩した所で切り伏せる。不死者は腐汁を垂らしながら飛び散り、床に沈み込んでいく。連中は次々と床から湧きだし、数は見る間に三十体を超え、更に増え続けた。下等なゾンビばかりだが、しかしこの数は。逃げ腰になるコンデ。彼をせせら笑うように、宰相の体から伸びた無数の黒い障気の渦が、次第により集まり、剣の形を為していく。

「さああ、あああらあああ、にいいいいいいいいいい! きひひひひひひひひっ!」

「それを飛ばしてくるとでも言うのかしら?」

「その通りだ! ひひひひひ、粉々に砕け散れええっ!」

巨大な剣が、黒い障気の束が、四つ、唸り上げて迫り来る。周囲は人垣を為す不死者共。そしてファル達の疲労はピークに達している。まさしく、絶体絶命の状況である。しかし、襲い来る死の影を見ながらも、エーリカは口の端をつり上げた。そして、複雑なハンドサインを繰り出しつつ、言う。

「勝負は一瞬! 残りの総力を掛けて行くわよ!」

皆が頷き、ハンドサインの意味を理解し、そして、同時に散った。

 

5,刹那の攻防

 

後に、この戦いを部屋の隅で目撃していたエミーリアは、こう述懐している。

「まるで、巨大な生き物が、あのバケモノを押し倒して、のど笛を喰いきったようでした」

アレイドという技術が、ドゥーハン上層部の人間へ、強烈な印象を残した最初の瞬間であった。巨大な不死者と化したフェリー=ルフォールは、アレイドを身につけた最初のチームの手によって屠られた敵として、その名を後世に伝えている。不名誉と、少しばかりの同情と共に。

 

散開した六人は、それぞれが粘つくような時の中にいた。全神経を集中し、残った全体力を集中し、あの巨大なヒトガタを葬り去る。それ以外に、生き残る術はない。飛び来る四本の魔剣が、嫌にゆっくり見えた。

「お、お、お、お、お、お、お、おおおおおおおおっ!」

全身傷だらけのロベルドが叫ぶ。そして、真っ正面から突撃していく。彼を阻もうと、うぞうぞゾンビが立ちはだかるが、猪の突撃を妨げようとする案山子に等しい。腐った肉の山を蹴散らし、蹴散らし、ロベルドは突撃した。その前を阻むように、魔剣が二本、低高度から迫る。更に二本は、二本ともコンデへ目掛け飛んでいく。ロベルドが目を見開く。これ以上もないほど、大きく広く。そして、一本目を、振り上げたバトルアックスで跳ね上げた。ぎいんと、激しい金属音がした。更にもう一本。脇腹を切り裂かれつつも、それを小脇に受け止める。そして、彼の脇を超え、飛び出したのが二人、フリーダーとヴェーラである。ロベルドの鮮血を浴びながら、ヴェーラは吠え、残った不死者を蹴散らし、魔法陣へと踏み込んでいた。

「宰相、その首、貰ったあああああっ!」

「笑止ぃいいいいいいいっ!」

宰相の、迎撃をもくろんだような憎悪の叫びをはねのけながら、ヴェーラが、魔法陣を走る。不死者の肉で汚された、乾涸らびたハリス僧の亡骸で彩られた、その上を。その前に立ち塞がったのは、先ほど、幻の中で戦い続けた黒騎士。不思議と、巨大なヒトガタの中から、ぬめりと自然に現れたのだ。ハルバードを低くし、食肉目のように突き掛かるヴェーラ。斧を低く構えなおし、それを迎撃する黒騎士。

豁然、二つの武器が鳴り、火花を散らす。ヴェーラの突撃を受け止めた黒騎士は、彼女を跳ね飛ばすと、踏み込み、追撃の、大上段打撃を見舞おうとする。先ほどの緩慢さが嘘のような、異常な速さだ。しかも、速いだけではない。振り下ろされた斧が、地面を砕き、木っ端微塵に吹き飛ばす。先ほどの幻の中との戦いと、全く代わらぬ常軌を逸した力だ。しかし、違う事が、一つあった。ヴェーラが、そしてフリーダーが、力を出し惜しみしていなかった事である。

食肉目の猛獣を思わせるしなやかさで、ヴェーラが体を捻り、斧から振るわれた剣圧の威力指向上から、体の中心点をそらす。死の刃は、ヴェーラの脇腹から下胸部を削り取りながら、壁へと飛び、そこで爆算した。床に倒れ、跳ね起きたヴェーラは、そのまま側転し、左に回り込む。逆に、僅かに遅れて突いてきたフリーダーが、左回りに跳ねる。黒騎士が斧を振り上げながら体をひねる。動きに合わせ、完全に。打ち合わせした上で動いているヴェーラ達に合わせてきているのは、天才を超える超絶的なとしか言えぬ戦闘センスから来るものだ。攻防は刹那、超速の世界での出来事。血しぶきが飛び、地面に落ちるその前に。神速で突き出されたハルバードと、呼吸を完全に合わせたフリーダーの槍の一撃が、前後から黒騎士を刺し貫いていた。斧は、一瞬遅く、ヴェーラの側頭部を捉えるに及ばない。

「む、むおおお、おおおおおおっ!?」

やはり今度は効く。動きが止まった黒騎士が、身をよじって咆吼した。魔力を帯びた武具が、鎧を貫き、ずぶずぶと黒騎士の体へ潜り込んでいく。そしてヴェーラが身を低くするのと、先ほどの会話中、ずっと印を切っていたエーリカが、呪文を発動するのは同時だった。

「貫け、そしてうち砕け! フォース!」

放たれた光の矢は、数体の不死者を消し飛ばしつつ、七つに分裂してヒトガタたる宰相の巨体を襲う。肉が各所ではじけ、飛び散る。二本の剣の一つを何とか避けたものの、もう一本に右足を深く貫かれ、体ごと床に縫いつけられたコンデが、満足げに口の端をつり上げ、白目を剥いて倒れた。二人係で詠唱を特殊加工し、呪文の効果を広範囲に拡大する。地下五層の橋上での戦いで実戦発投入したアレイド、呪文拡散陣により、フォースを複数に分割して、巨体にぶつけ当てたのである。七つに分かれた矢全てを宰相に着弾させたエーリカの手腕も凄まじい。が、流石に此処まで戦い抜いた宰相も、まだまだ屈しはしない。煙上がる体を立て直し、哄笑す。

「笑止! 痒いわ!」

「ファル、いけええっ!」

「なんだとっ!」

宰相が叫ぶ、同時に皆と別方向に移動し、観察を続けていたファルが、不死者の影から躍り出、ヴェーラの体を蹴って高く高く飛ぶ。息を合わせて、体を跳躍台とし、高空から敵を襲う技。体を低くしたのは、アレイドS・Jアタックを行うための伏線だったのだ。飛んだファルは、すらりと刀を抜き去ると、巨大なヒトガタの右首筋から、地面へと、一気に切り下げていたのである。同時にフリーダーが、槍を手放し、バックステップする。その数六度。そして、左手を右手にあてながら、宰相へ向け走る。

「お、おおおおお、おああああああっ!」

だん、と物凄い音を立てて、ファルが着地する。汗が飛ぶ。前のめる。凌ぎきったと、宰相がうすら笑みを浮かべる。フリーダーが駆ける。前のめりによろけつつも、驚くべき執念で拳を振り、ヴェーラを叩き飛ばした黒騎士。その頭を蹴り、更に今度はファル自身の体を踏み台にして、高く飛ぶ。二段目のS・Jアタックだ。目を見開く宰相。驚きにそれが染まる瞬間と、同時であった。フリーダーが、その右腕を、ランスモードへと可変させたのは。槍を捨てた瞬間から、丁度此処まで五秒。ファルが、フリーダーを見上げ、叫び上げた。

「上から二メートル!」

「お、おのれ、そんな、そんな……!」

フリーダーが、跳躍した勢いそのまま、あのうごめくものオルキディアスさえ避ける事に血道を上げたランスモードの右腕を、ミリ単位の正確さで叩き込む。そして、既にファルが見つけていた魔力集約点。ヒトガタの縦に走った傷口、その刃の投入点の、最上部から二メートルの地点。其処を、全力を集中した渾身の一撃で、貫き砕いていた。

巨体を貫通したフリーダーが、地面に着地しきれず、床にはいつくばるようにして叩きつけられた。巨体が揺らぐ。不死者達が崩れ果てていく。黒騎士が、霧となっていき、ヒトガタへと吸い込まれていく。もはや笑い声一つあげられず、目を剥いている宰相に、冷酷にエーリカが印を切りながら宣告した。

「終わりよ」

ディスペルの光が、ヒトガタを包み、焼き溶かしていく。迸る絶叫。今度はディスペルが確実に効いている。もがくヒトガタに、二度、三度、四度、そして五度。崩れ、溶け、小さくなっていくヒトガタに、びっこを引きながら、ロベルドが歩み寄っていく。そして、斧を、最後に残った力で振り下ろしていた。

 

「まさか、これだけの力を手に入れておきながら、たった六人に負けるとはな……」

魔法陣の中央、僅かに残った障気の固まりが、ぶつぶつと呟いていた。口調には抑揚がなく、もう正気が保てていないのは、誰にでも分かる。

「俺を侮辱したオルトルードに復讐出来ると思ったのに、残念だ」

「我を虐げ続けたドゥーハンに鉄槌が下せず、無念よ」

「……最後に、動機でも話すと良いわ。 愚僧はね、自分でも嫌になるほど記憶力が良いから、覚えて置いて、あとで本にでも書いてあげるかも知れないわよ」

唯一立つ余力があるエーリカが言った。他の面々は、もう立ち上がる事さえ出来ない有様だ。ランゴバルドは、天使もろとも、いつのまにか消えていた。結果的に、最後の時間を宰相とそれにカール王は、有意義に使った。

「……俺は実力で這い上がった。 誰の力でもないし、斡旋されたわけでも後ろ盾が居たわけでもない。 俺は自分の血なんてどうでも良かった。 俺の誇りは、自力で宰相にのし上がった事だった」

宰相の恨みがましい声が響く。声は小さい。だが、果てしない憎しみが籠もっていた。

「それを奴は、自分が哀れに思って助けた、後ろ盾をずっとしていた、などとほざきやがった! 俺は、俺がよってたつものを、砕き、踏みにじり、汚した奴を絶対に許さぬ!」

「……そういう、事だったの」

「そうだ。 だが、力及ばず、我は敗れた。 無念だ……」

宰相が言葉を止めると、今度はカール王が、くぐもった声を、無念そうに漏らし始めた。宰相の者と同質の、凄みがかかった憎悪が、言葉の形を取り、吐き出し続けていた。

「余は別に何も望んでいなかった。 だが、余が力を持っている、と言うだけで、ドゥーハンのクズ共は全てを奪っていった。 両親も、妹の光も、妻の未来も。 余は復讐することに決めたのだ。 あんなクズ共にも、そして奴らを寄って立たせた愚民共にもだ」

「……なるほど、ね」

エーリカは小さくため息をついた。そして小さくなっていく障気を見据えて、静かに言う。

「最後に、言っておくわね。 愚僧は、貴方達を可哀想だなどとは思わないわ。 貴方達の復讐は、貴方達にとっては正しい事だったのだものね。 そして愚僧達にとっては、生きる為に邪魔な思想だった。 それだけよ」

エーリカは、決して否定しなかった。ファルは、それを聞きながら、小さく頷いていた。やはりこのリーダーに着いてきて良かったと。エーリカは魔法陣の中に進み出ると、天主教の神へと捧げる、祈りを歌い始めた。そして、ディスペルの印を切る。

「貴方達、来世では、誰も恨まずに生きられると良いわね。 恨んでも、憎んでも、苦しいだけよ。 それが分かった以上、何の意味もない人生などではないわ」

「お、おおおおお、なんと、いう。 俺は……そう……くるしかった……つらかった……いたかった……!」

「くるし、かった。 くるし、かった……! 余は、苦しかった……!」

先ほどまでは、あれほど抵抗していたのに。浄化の光に焼かれる二人の声は、何処か安らいでいた。

「主よ。 汝が哀れな者を救う存在だというのなら。 もっともこの世で哀れな者達に、救いと幸せな来世を与えたまえ」

エーリカの声が、天主教の神に届いたかどうかは分からない。だが、一つはっきりしているのは。二つの哀れな魂は、消え去る時、とても安らかな声であったということだ。

額の汗を拭ったエーリカが、ファルのすぐ側にへたり込んだ。ファルも寝ころんだまま体を起こせず、震える手を僅かに挙げて、親指を立てるのみだった。

「……勝ったな」

「どうしたの? そんなに優しく笑って」

「いや、よく分からない。 だが、敵を否定しないというのは、見ていて、心安らぐのだな」

「誰にだって、正義はあるのよ。 それを押しつけ合うから、戦いがどんどん酷くなっていく。 たとえ戦い合うとしても、相手の正義を否定しないで、少しずつでも、部分的でも良いから認めていく。 そうすれば、きっと正義を押しつけ合っていくよりも、ずっと良い未来が待っているはずよ。 それが、愚僧に出来る精一杯。 敵は遠慮なく叩き潰すけど、命は奪うけど。 その存在まで否定するつもりはないわ」

エーリカは、蒼白なまま笑った。不思議だった。疲れ果てている笑み。なのに、何処かそれは、寺院に飾られている神像などよりずっと優しい微笑みだった。

 

6,終わりの扉が開く時

 

宰相の部下達が、皆武器を捨て、何人か一塊りに転移の薬で帰っていく。何度かそれを繰り返した後、事態を聞きつけた騎士団が部屋に駆けつけ、以降の処理を引き受けてくれた。どうやら寝ている所をたたき起こされたらしいベルグラーノは不機嫌そうだったが、宰相が倒れた事、ファル達が殆ど寝ずに此処に来た事を聞くと、表情を崩して素直に礼を言った。既にゼルは、エミーリアと共に、六層へ戻った。かなり厳しい道のりだが、彼らなら大丈夫のはずだ。次に迷宮に来た時、王女の様子も含めて、見に行くつもりである。

「もう、こんな無茶をして。 団長が六人に増えたみたいですよ」

「すまぬな。 何しろ急に情報が入って、一刻を争う事態だとも聞いたのでな」

「今度からは、余裕を持って探索してください。 エーリカさん、貴方に言っているんですよ」

「はいはい、ごめんなさい」

頬を膨らませて、リンシアが回復魔法を掛けてくれる。確かに楽になるが、疲労は消えない。周囲を騎士団員達が哨戒する中、部屋の隅にある、四角い金属の箱を漁っていたフリーダーが、びっこを引きながらファルの方へ戻ってきた。リンシアが包帯を巻くに任せながら、ファルは顎をしゃくって説明を求める。

「ファル様、興味深い事が分かりました」

「ほう」

「この階層は、元々ディアラントの食料プラントだったと結論出来ます。 階層を覆っている肉は、l;adhfiojhwaifwaghやごみを餌にして増殖する食料として開発されていたものが、無人になったこの建物で繁殖し、全体を一つの個体として完結してしまったものだと、研究データに残っておりました。 この部屋が無事だったのは、中央コントロール室として設計されたからで、他にも色々なデータが残っておりました。 例えば、このチップは、当機に適合したメモリになっています。 戦闘データと形態変化データを得られそうです」

目を細めて、ファルはフリーダーの解説を聞く。彼女としては、別にこの気色悪い階層が何であろうと知った事ではないのだ。逆に、エーリカは興味津々の様子である。

「他に何か分からない? あの蠢く肉の危険性とか」

「危険性はほぼありません。 この自己増殖性の肉は、人間に害がない食性を保つように、調整されて設計されています」

「そっか。 ふふ、良い事を聞いたわ」

満足そうなエーリカに対して、不思議そうにフリーダーとファルを見比べているのはリンシアだった。やがて、騎士達が彼女に手を振り、わざと強く傷口を縛りながら、リンシアはファルに念を押す。

「痛いと思ったら、もう無茶は止めてください。 フリーダーちゃんが悲しみますよ」

「出来るだけ気をつける。 いつもすまない、リンシア殿」

頷き、リンシアは部下達の元へ戻っていった。ファルはフリーダーの頭を撫でながら、たまには冗談でも言おうと思い、実行した。

「リンシア殿は、フリーダーのいいマスターになってくれそうだな」

「当機も、リンシア様の行動は緻密で、頼りがいがあると思います。 でも、当機のマスターは、ファル様だけです」

二秒だけ沈黙した後、ファルは包帯だらけの腕を上げて、わしわしとフリーダーの頭を撫でた。嬉しかったからである。

「少し休んだら帰るわよ。 これからすることは、まだまだ幾らでもあるのだから」

エーリカが水を差し、他の者達に肩を貸して一カ所へ集め始める。戦いが終わったら、帰らなければならない。そして休んで、次の戦いに備えなければならない。探らねばならない事も多い。王女の事も、今後を考えると、知らぬ訳にはいかない。こんな危険地帯で、のんびりしている暇など無いのだ。戦いに生きる者達の現実を指揮する、厳しい姿が其処にあった。

 

戦いが終わった七層に比べて、風雲急を告げていた場所がある。地下八層である。八層には、この度チーム別での探索を許されたサンゴート騎士団が、一足早く足を踏み入れていた。騎士達は三十人ほどであり、六人の魔術師、四人のジェルミ寺院僧を連れていた。普通、迷宮探索に的確なのは、六人から七人のチームとされている。そこでサンゴート騎士団は、本国からの援軍も併せ、六人のチームを五つ編成して、それを有機的に活用して強行突破をはかったのである。事実、八層にたどり着いた時には、三人の騎士が命を落としていた。しかし彼らは怖れもしなかったし、指揮官である女騎士ヴァイルは自信満々であった。彼女には秘策があったからである。どんな相手でも、確実に倒せる秘策が、である。

「ヴァイル殿下」

「うむ」

「実は、興味深いものを見つけました。 どうやら、先達の日記らしいのですが」

無言のまま、うやうやしく差し出された日記をヴァイルはめくり始める。やがて、彼女の口の端は、三日月のようにつり上がっていた。

「者ども、喜べ」

「はっ」

「どうやら、うごめくものは近くに居るぞ。 手柄を立て、ドゥーハンの軟弱騎士共を見返す時だ!」

歓声が響き渡った。

 

金属音が威圧的な、特徴的な軍靴の音を踏みならして進むサンゴート騎士団とは違う場所で、考え込む人影もあった。ランゴバルド枢機卿である。彼は腕組みする天使を放っておいて、何かの肉片を前に考え込んでいた。黒い床の上には、その正体が分からない肉片が、点々と散らばっていた。周囲はアサシンと、何人かの心をなくしたハリス僧が固めていた。

「ふむ……おそらくは、此処がそうだろうな」

「……」

「ひひひひひ、やはり間違いない。 此処では二度に渡り、うごめくもの、お前達が言うイザーヴォルベットが具現化しておる」

血色に変色した床を叩いて、ファルに(神が見たい)と言い放った枢機卿は、楽しそうに言った。

「先ほどの戦いでは、神が見られなかった。 しかし、今度こそは、或いは……」

ぶつぶつと枢機卿は呟き、何処かを目指すように歩き始める。周囲を固める者達もそれに続く。冷笑をひらめかせたのは、天使マリエルであった。

「私が一番嫌いなのはねえ」

彼女の視線は、ランゴバルドの背中に注がれ続けている。

「自分は特別だって考える、人間そのものよ。 貴方が見たい神とやらが、何かは知らない。 でもねえ。 それは人間などどうでも良いと考える、人間とは別の存在よ。 それが自分だけは良く扱ってくれるとでも、本気で思っているの? ふふふ、だから人間って大嫌い。 だって、馬鹿だもの」

マリエルの言葉が、的を射ていたかは分からない。しかしはっきりしている事も一つある。その特別には、マリエルも入らなかった、と言う事だ。

 

十層の最奥にある、魔女アウローラの研究室では、オペレーター達が戦慄に満ちた声を上げていた。迷宮監視室に入ってきたパーツヴァルに、部下達が怯えの混じった声を掛ける。

「パーツヴァル様」

「どうした、何を焦っている」

「マジキムの反応がどんどん強くなっています! 近くを通りかかった魔物を次々に取り込み、実体化の準備を整えている模様です! 急がないと、何かしらのきっかけで具現化しかねません!」

「すぐ、アウローラ様に声を」

「その必要はないわ」

部屋の入り口には、もうそのアウローラが立っていた。敬礼する部下達の前を歩きすぎ、メインモニターの前に立った魔女は、激変し続ける数字の群れを見ながら、うっとりした。

「いよいよ時が来たのね。 一体どれだけ待ったのかしら」

「アウローラ様、悠長な事を言っている場合か」

「今回も、様子見よ」

ぴしゃりと吐かれた言葉には、流石にパーツヴァルも唖然とした。マジキムと言えば、うごめくものの中でも最強の一角を為す存在だ。それを放っておく等、正に自殺行為といえる。しかし、パーツヴァルは何も言わない。アウローラは奔放であっても、常に数手先まで考えて行動する。それをリズマンの騎士は、良く知っていたのだ。

「大丈夫、なのだな」

「大丈夫、よ」

「ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ、そう急くな、パーツヴァル。 わしらはユカイに高みの見物といこうではないか、ん?」

なれなれしく肩を組み、顎の下を撫でながら狂った錬金術師が言う。パーツヴァルは鼻を鳴らすと、部屋を大股で出ていった。いざというときに備え、多少なりとも訓練をする為に。

 

八層の奥にいる、二つの死の影が、獲物を察して動き始めた。それは終わりの始まりを、魔女の出現に端を発した悲劇の終幕を意味していた。

悲劇の最後に来るのは、惨劇か、それとも幸福か。それはまだ、誰にも分からない。ただ、八層の奥にうごめく闇の力は尋常なものではない。それだけは確かだった。彼は触手を伸ばし、獲物を待つ。早く来い、早く来い、早く来い。舌なめずりして、目を光らせて。地獄の扉を、此処に開く為に。

 

(続)