生ける迷宮

 

序、識の外

 

宰相ウェブスター麾下の者達が最初其処に足を踏み入れた時、息を飲まない者はいなかった。地下七層はあまりにも人外の地であったのだ。地下六層も人知を超えた場所であったが、それでも其処は人がつくりし土地だと一目で分かる。だがしかし、しかしである。地下七層には、そう見える要素が一つもなかったのである。

階段を下りた先にあったのは、薄ピンク色で、肉としか見えない蠢く壁であった。床も天井もぬらぬらと揺れ、定期的に蠕動し、異様な生物臭を放っている。この階層は文字通り生きている。一目でそれが分かる現象であった。幸いなのは、消化液やそれに類するものが溜まったりはしていない事であるが、状況の異様さは訪れた者の心を確実に締め付けた。ウェブスター麾下の者の内、訓練を受けたアサシンや枢機卿が連れてきた天使はまだ良かった。だが枢機卿麾下の僧侶達や、ウェブスターが直接連れてきた近衛兵の中には、発狂する者が少なからずでていた。そして彼らは、群れを離れた老草食獣が辿るのと同じ運命を、迷宮の中にて辿っていった。何しろこの階層の魔物と来たら、六層の魔物以上の戦闘力と狡猾さを誇るのだ。楽に仕留められる獲物を、みすみす見逃してくれるわけもなかった。今日もまた一人死んだ。いつまで心が持つか。いつまで魔物達の攻撃をしのげるか。蒼白な顔で、ウェブスターの部下達は、そればかり話し合っていた。

彼らの士気がここまで衰えたのは、宰相の無気力ぶりが間違いなく要因の一つである。かっての鋭気も誇りも無くした宰相は、確かに魔物に対して恐怖を見せるような事こそ無かったが、代わりに部下達への指示を一切出さなくなった。宰相の部下達は命をつなぐ為に敵国人も同然のランゴバルド枢機卿に頼らざるを得ず、希望も気力も失っていった。数人がかりで徒党を組んで、逃げ出そうとした者もいる。だが群れから一部が離反するのを魔物達は手ぐすね引いて待っており、元々組織力も戦闘力も騎士団に劣る彼らは逃げ切れなかった。おそらくランゴバルド枢機卿はそれを知った上で、逃亡する者を引き留めようとしなかった。ウェブスター麾下の者達には、一秒ごとに死期が近づいてきていた。

彼らが致命的な激発に陥らなかったのは、魔物が徒党を組んで総攻撃を仕掛けてくる気配がなかったからである。ランゴバルド枢機卿の召喚する天使の実力や、彼が側に置いている少女の姿をした残虐な大天使の戦闘能力は、七層の魔物を遙か凌ぐ。それである以上、賢い魔物達は迂闊に手を出しては来ない。それにランゴバルド枢機卿自身も、並はずれた魔術の力を持つ天才だ。結局身を守るには彼らの言う事を聞くしかなく、枢機卿も天使も言う事さえ聞けば酷い命令をだしたりもしなかったので、何とか心を支える事が出来たのである。異様な迷宮の環境で、ストレスを蓄積させつつも。

かって、彼らはエリートだった。難しい試験を突破し、何年も勤め上げ、ようやく手に入れた高給取りの立場。苦しい仕事を勤め上げ、手中に収めた誇りある仕事。その結実こそが、今彼らが目にしている現実であった。そして、今の彼らは。闇に怯え、未来に絶望する、ただの哀れな子羊の群に過ぎなかったのである。そして子羊の群が辿る運命などというものは、昔から決まり切っているのであった。

 

七層で悲劇的な死をまつばかりの宰相一派に対し、六層で網を張っている天使達は至って楽天的であった。天界の戦士足る彼らの実力は六層の魔物を上回っていたし、何より退路があるというのが大きい。彼らのボスであるマリエルは恐ろしかったが、それでも言う事さえ聞いていれば、無茶な命令を出す事もなかった。少なくとも、今までは。

彼らの主である大天使は、天界が抱えるヒットマンである。その上、筋金入りのサディストであり、正真正銘の異常者であった。その戦闘力は地上に派遣されている天使の中でもトップクラスであったが、その嗜好は殺戮だけに向けられていた。彼女にとって、殺しても良い相手である魔神が跳梁跋扈する此処は、正にパラダイスであった。内から沸き上がる殺戮衝動を解消出来るこのカルマンの迷宮は、正に至福の地であった。そして、それこそが天使達の安全を保証していた。マリエルは心底殺戮を楽しんでおり、適度にストレスを発散していたため、彼らに被害が降りかかる事はなかったのである。確かにマリエルは異常者の部類に入る存在であったが、ヒットマンとして非常に有能である事も事実。それの首に縄を付けるべく部下として派遣された天使達は、いつ上司の持つ凶器の刃が自分たちに向くか冷や冷やし通しであったのだが、この迷宮にはいるようになってからだいぶ安心出来るようになっていた。刃を向けられる魔神は気の毒であったが、そんなものは自身の命には代えられないのである。

有能な人材というものは、基本的に偏りも大きい。マリエルの場合はそれが精神面での歪みという形で顕在化している。それの手綱を引く為に付けられた鎖である天使達は、何時食いちぎられるか怯えながらも、今はその可能性が低いと安心しているのだ。彼らの小さな幸せが終わる時は、実は至近まで迫っていた。だが天使達の誰もがそれを知らず、或いは知らない振りをしていた。小さな幸せは、小さな存在にとって、全てとなるうるのであった。

小さな幸せは、世界を成り立たせていく大事な要素だ。一番世界に多くあり、一番多くの種類を持ち、総合すれば一番貴重な存在だ。そして、もう一つの側面も秘めている。

世界の変革の為、大きな存在の行動の影。簡単に踏みつぶされてしまう、儚いものなのである。残念ながら、それが真実だった。

天使達が顔を上げる。捻り殺したレッサーデーモンの死骸の上で、何の物か分からない肉片を囓っていたマリエルが、一点を凝視したからである。地下六層の北東部の空を。

「見つけた……!」

残虐な大天使の顔に、嗜虐が張り付いていた。血汁滴る肉塊を前にした、獣の微笑みであった。

 

1,生きていた王女

 

ファルにとって、暗闇は良く慣れた環境である。暗闇の中で動く修練は嫌と言うほどやったし、今探索しているカルマンの迷宮も明るいとは到底言えない。だから、今浮かんでいる闇の海も、決して嫌な場所ではなかった。

ずっと闇の海で生きてきた。光が欲しいと思った事はない。自分の大事な者が、光の中にいればそれでいい。欲望が希薄なファルにとって、別にそれは悲哀を秘めた事でもなければ、自らの欲求を押し殺した事でもなかった。ファルは一般の人間を潜在的な敵と見なしていたから、彼らの中にいることを良い事だ等とは思っていなかったのである。生活が楽になるのは事実だが、それ以上でも以下でもないと考えていた。ファルにとって、光とはその程度の認識でしかない。

だから、別に闇の海の中、光が見えても手を伸ばしたりはしなかった。別に欲しくなかったからである。海草のように絡みついてくる闇の中、ゆらゆらと漂うのは、心地が良かった。ひんやりとした何もない雰囲気こそ、彼女が望むものだった。安らぎの根元であり、発生源であった。

世界には、エイミと、フリーダーと、仲間達。それにオルトルード王。それらだけ居ればよい。後は何にもいらない。本音が強く強く出る。だから、ファルが反応したのは、その大事な人の声によってだった。

それ以外の人の声も、少し前から聞こえ来ていた。だが、そんな声なんて、どうでも良かったのである。だが、その声に反応しないわけには行かなかった。大事なフリーダーの声には。

「ファル様! ファル様!」

随分必死な声だ。フリーダーは表情こそ随分豊かになったが、口調はいつも一本調子だった。そのフリーダーが、必死に自分を呼んでいる。声は揺れている。泣いている時特有の状況だ。フリーダーがどうして(作られた)か知り、完全に理性を吹き飛ばしたファルを止めた時以来の、涙混じりの声。心の綱。それは今回も、ファルの意識を現世に引き戻した。

ゆっくり目を開けると、其処は知らない部屋だった。無機的な壁、無機的な天井、無機的な床。地下六層特有の、見た事も聞いた事もない技術の産物だ。師匠と相討ちになり、エーリカが手当をしてくれた所まで、ファルは覚えていた。致命傷は避けたとエーリカは言っていたが、ただで済むような傷でもなかった。光がある。ドラゴンと交戦する前に、エスカレーターに乗った建物で見た光源から放たれる、指向的な光が、適度に拡散しつつ部屋を満たしている。右手の指先に力を入れると、それは柔らかい感触を返してきた。ゆっくり首を動かす。隣では、ファルの手を握ったまま、フリーダーが眠っていた。頬には涙の跡が付いていた。座り込んだまま、手を握って、背中を丸めてこくりこくりとしているフリーダーは。最初の無機的な反応が嘘のように、感情を豊かに持つ可愛らしい子供だった。どうしてか、眠っているのにそれがよく分かる。どうやら彼女が叫んでいたのは、随分時間的に前の事らしい。彼女の声が覚醒の引き金になったであろう事は確かだ。しかし実際に目が覚めたのは、もうフリーダーが疲れて眠ってしまってから、というわけだ。人間の意識はそう都合良く出来ていない。ずれは必ず生じるのである。

体を起こそうとして、まだ全身が痛い事に気付く。無理矢理リミッターの上限を上方修正して、全身の筋肉を極限まで酷使したのだから無理もない話である。無理をする事もないかと、ゆっくり頭を左右に向けながら、事態確認を続ける。全身にはまだ包帯が巻かれている事、視界には師匠の姿がない事、を確認した頃。ファルの手を握る小さなフリーダーの手に変化があった。柔らかい握力が生まれ、視線を向けると、うっすらフリーダーが目を開けていた。

「ファル様……?」

「心配を掛けたな。 私は無事だ」

「当機は、当機は、その……」

フリーダーの両目から涙がこぼれ落ちた。何度も戦いだから仕方がないと言い聞かせているというのに。敵が傷つくのと同様、自分だって傷つくものだと言い聞かせているというのに。聞き分けのない子供。だが、不思議と憎くはならない。

フリーダーの涙が、床へとこぼれ落ちる。天井から放たれる光を、乱反射させながら。宝石は床に砕け、散った。

「泣くな。 泣いた所で、何一つ解決などしない」

「……でも……前は」

「前は前だ。 お前が泣いても私は嬉しくない」

フリーダーは笑顔を浮かべている。なのに涙は止まらない。妙な話であった。以前のフリーダーなら、涙一つ零しはしなかっただろう。今のフリーダーは、同じ状況でこうも泣く。そして不思議と今のフリーダーの方が愛おしい。

子供はおいたもするしわがままを言うし、ぴーぴー泣くものだ。今のフリーダーの方が自然な存在なのだと分かる。かってより今の方が、正しい姿なのだ。ディアラント文明によって掛けられていた精神暗示が弱くなっていると一目で分かる。理由は時間が経ったからか、激しい戦闘で成長を続けたからか、或いは第三の理由か。

第三の理由の所在が、ファルには分からなかった。不思議と、ファルの手を握るフリーダーの握力が強くなった。少し気がゆるんだファルは、少しだけ表情を緩めていた。

「まあいい。 私の前であれば、幾らでも泣いていい。 ただ、他の者の前では絶対に泣くな。 その他大勢に弱みを晒す事は、特にお前のような特殊な立場の存在は、絶対にやってはならないのだ」

「ファル様、まるで……」

「うん?」

フリーダーは何かを言いかけたが、不意に喉に物を詰まらせたような表情になって、黙り込んだ。蒼白になった彼女はしばし頭を振っていたが、心配するファルに、大丈夫、と応えた。フリーダーの涙が止まるまで、少し時間がかかった。

 

落ち着いたフリーダーを隣に暫くそのまま寝ていると、エーリカが温かいスープを持ってやってきた。タイミングがよい事から、ひょっとすると影で見ていた可能性がある。彼女は回復魔法をファルに掛けながら言う。手当の仕方は随分と乱暴だが、いつもながら見事な手際であった。

「どう? 調子は」

「まだ動くには早い」

「的確で客観的な分析ね。 その通りよ。 で、寝たまま聞いて欲しいんだけど」

「例の、貴公以上の癒し手の話か?」

無言のままエーリカは頷き、ファルの頭頂部の方を見ながら言う。

「もうゼルさんは治っているわ。 他の皆は、外で既に見張り中よ」

「何!」

「分かった?」

「ああ。 なかなか常識外の能力だな」

フェアリーは体力が弱い。肉体的な耐久力も、快復力もだ。ファルと同じ深手を負ったとして、同じ回復魔法と手当では、復帰に数倍の時間がかかるはずだ。師匠は並のフェアリー冒険者と比較出来ないほどに肉体を鍛え込んでいるが、それにしても二倍の時間は確実に掛かる。師匠の事だから多少やせ我慢をしているとしてもおかしくはないが、それにしても回復が速すぎる。エーリカの回復術の腕前はまず一級と言って良いから、ちょっと桁が外れていると言える。その癒し手とは一体何者なのか。こんな階層にいて、しかもゼルが守っているというのだから、相当なVIPである事だけは分かるが。

「取り合えず、今は寝ていなさい。 治ってから、改めて挨拶して貰うわ」

「それが賢明のようだな。 フリーダー、もう私は良い。 お前も警備に回れ」

「はい、ファル様」

「相変わらずクールねえ。 スープ自分で食べられる?」

「問題ない」

痛いからと言って、ずっと動かないわけには行かない。体をゆっくり起こして、持ってきて貰ったスープの椀を手に取り、口へと運ぶ。芋と数種類の野菜を煮込んだ濃厚な味付けだ。ちょっと啜っただけで、栄養を重視した料理だと一発で分かる。此処には結構豊富に物資もあるらしいと、この料理からも明らかだ。

「どれくらい経った?」

「ゼルさんとの総力戦から四分の三日ほど」

「では、そろそろエイミが心配しているな。 治療の為にも、一度地上に戻らないか?」

「もう少し待ってくれる? ゼルさんが本調子に戻るまでは、此処に残りたいのよ」

どうやら余程重要な存在を、ゼルは守っていたらしい。ならば何故、ファルとの全力の勝負を行ったのか。ゼルは確かに武人であるが、責務に武人としての本能を優先させるような人であったか。何か別に思惑があったのだと、考えるのが自然な知の運びであった。

それから何度か回復魔法を掛けて貰い、食事をして。急ピッチに体を回復させて。しばしして、ファルは問題なく歩けるようになっていた。無論まだ本調子ではないし、全身痛いのだが、その辺を歩き回るには問題ない。伊達に体を鍛え抜いては居ないのだ。肩を貸そうかというエーリカの言葉を謝絶して、戻ってきた皆に頭を下げる。時間を取らせた事を素直に謝ると、皆笑って許してくれた。そして六人そろい、奥の間へと歩を進めた。

周囲を見回すと、淡い光が壁や天井に添って流れている。天井の発光器具から放たれる物とは明らかに別である。魔力の流れが、特に目を凝らさずとも見えるほどだ。随分厳重な結界であった。騎士団の詰め所よりも更に強力な結界が、複数重に張られている。これだったらドラゴンのブレスに耐えきる事が可能なほどである。無論、殆どの探索術も騙しきれる。

最奥には、エルフの子供が、ドアの左右に控えていた。全く同じ顔をした子供であり、紅い服と白い服をそれぞれ着ている。彼女らは興味津々にファルの顔を下からのぞき込み、紅い服の方が戸を開けて中へ通してくれた。

「双子か?」

「リュートと、エミーリアというらしいわ。 紅い方がリュートちゃん」

「どちらも優れた術師のようだが」

「結界作ったのは彼女ららしいわ。 まあ、コンデさんよりは実力があるでしょうね」

さらりと冗談を言うエーリカに反応するほどの余裕がファルにはなかった。部屋の中へと入り、獣皮を敷いた中央に座っている者を見たからである。驚きがまず沸き上がり、困惑がそれに続いた。エーリカが跪かなければ、そのまま唖然としていた可能性が高い。其処にいたのは、あまりにもあり得ない存在だったからである。

「オリアーナ王女、愚僧の仲間達をお連れいたしました」

「!」

「傷は癒えたのですね。 ゼルからいつも話は聞いておりました。 たけき忍者ファルーレスト=グレイウインド」

驚きから立ち直れないファルは、ただ傅くだけしかできなかった。今彼女の目の前にいる女は、姿形からしても、間違いなくファルが聞くオリアーナ王女であったからだ。

オリアーナ=ドゥーハン。オルトルード王の愛娘にして、ドゥーハン王国の跡取り。華美すぎない貌と穏やかな性格で、誰にも愛された王女。魔女の呪いで既にみまかり、その葬儀には大勢の内外関係者が詰めかけた。そのはずであったのに。まさか癒し手が、このオリアーナ王女であったとは。しかし、王女が僧侶魔法に精通しているなどと言う話は、ファルにさえ初耳だ。だいたい、何故オリアーナ王女が此処にいるのか。国内で最も危険なカルマンの迷宮内部の、しかもこんな深い階層に、である。此処に比べれば、噂に聞くサンゴート南部の暗黒スラム街の方がまだ安全なほどである。ファルは盛大に行われた葬儀の事を聞いている。確か棺の中には、眠っているような王女の亡骸が納められていたはずだ。民衆は王都の中央通りで、皆王女の亡骸に涙した。今此処にいる王女とやらが本物だとすると、一体あの時民衆が見たのは何だったのか。ただ、ゼルが護衛していた事や、この防御結界の性質から言っても、この王女が本物である可能性は極めて高い。それに、もう死んだという王女の振りをするメリットが、どうしてもファルには思いつかなかった。表情には出さなかったが、ファルの困惑は感じ取ってくれたようで、オリアーナは優しげで誰にでも好かれそうな貌に微笑を浮かべていた。

「まだ、全てを開かす事は出来ません。 契約に従って、私は此処にいなければならないのです」

「分かりました。 私には理由を聞き返す権利もありませんし」

「貴方を呼んだのは、私と、父王と、後もう一人。 ある方の願いを達する事が出来る存在、であるかもしれないからです」

ある方。王と願いを一緒にし、王女を契約によってこんな所に閉じこめた存在。それは一体誰だ。各国の王か、或いはそれに類する存在か。ちょっとファルには思いつかなかった。

「迷宮の奥を目指しなさい。 全ては其処にあります」

不可解な話ばかりであったが、その言葉にだけは納得出来た。深く深く、ファルは傅いていた。エーリカが促して、皆順々に部屋を出る。ファルは後ろ髪を引かれながらも、皆について部屋を出た。一体この迷宮には何が潜んでいるのか。何が隠されているのか。また、分からない事が、謎が、上乗せされていた。

部屋の外には、ゼルが腕組みして待っていた。まだ本調子ではないようだが、既にファルよりは十全な状態になっており、部屋から出てきた六人を見回しながら言う。

「分かっているとは思うが」

「はい。 他言はしませんわ」

「そうしてくれ。 さもなくば、ドゥーハンそのものが君達を追う事になるからね」

さらりと強烈な脅迫を言葉に混ぜるゼルは、ふっと力を抜いた様子で言った。

「実際、私はこれ以上敵を増やしたくないのだ」

「……まさか、宰相一派は?」

「その通り。 彼らが探しているのは、オリアーナ王女だよ」

「しかしまた、何故に」

疑問は幾つもある。情報が何故漏れたかに関しては、経路が疑問ではあるものの、相手はドゥーハンのトップであるし、それは致し方ない。契約とは一体何なのか。一体誰と結んだのか。何故宰相はオリアーナ王女を狙うのか。宰相はオリアーナ王女と婚約までしていたのである。そして最大の疑問が残っている。王は、何故この迷宮に介入しないのだろうか。弱体化した宰相派は、如何に天使を召喚出来るランゴバルド枢機卿を有するとはいえ、ドゥーハン王国が総力を挙げれば一ひねりに出来る程度の存在でしかない。或いは介入しないのも、契約とやらの一つだというのか。困惑するファルの思考を先読みするように、ゼルは冗談めかして見せた。

「まあ、事情はまだ話せない。 しかし私自身は安心しているよ」

「どういう事でしょうか」

「ファル、お前の実力はもう私に並んだ。 つまり今後は私の分身として、七層以降の攻略を任せておける。 つまり私自身は、此処の防衛に専念出来る。 それに、騎士団長のサポートにも、ね」

相変わらず師匠の思考は読めない。もとより食えない人だし、生きてきた年数がファルの四倍近くもあるのだ。今の台詞にした所で、何処まで王の命令でやっているのかも分からない。聞いた所で、はぐらかされて終わるのが関の山だ。

建物を出ると、地下六層は薄暗くなっていた。(夜)が来ているのだ。天井には星がないが、何処までも続く薄暗いそれは、闇夜の帳と同じであった。

 

2,不幸な初恋

 

今日もあの子が、あの宿からでてきた。いつも通りの時間だ。薄紫の髪の毛に、薄紫の瞳、少し色素の薄い肌。普段見かけない組み合わせは、とても魅力的だ。それに、センスの良い着衣。空色のワンピースだったり、健康的な半ズボンだったり。そして(出かける)時に付けている皮鎧も、型にはまっていて、素敵だった。勿論一番魅力的なのは、彼女が振りまいている、とっても素敵な笑顔である。

クライツラ協会NO89宿の側の路地に隠れて、成人どころかまだ手足も伸びきっていないユッケ=フロント少年は、高まる胸の鼓動を押さえきれなかった。彼は十一才になるヒューマンだ。そして彼が恋心を生まれて初めて寄せた存在は、フリーダーと周囲に呼ばれている事が、既に確認済みである。そして、冒険者である、と言う事も。

子供の冒険者は珍しいが、絶対に存在しないというわけでもない。天才的な魔法の素質があったりする子供は、早くから大人に混じって勉強し、中には冒険者として各地を冒険する者もいる。仮にもドゥーハン王都都民である彼は、一応それらを知識として持っていた。当然の事ながら、冒険者が如何に労働災害にあう比率が高い危ない職業かも知っている。もちろん、カルマンの迷宮の危険度が、普段冒険者達が接している環境の中でも最悪を極める事もだ。フリーダーが皮鎧を着て、仲間らしい大人達と一緒にカルマンの迷宮に出かけていくのを見ると、いつも心配でご飯も喉を通らなくなった。だから、今日のフリーダーが、空色のワンピースと可愛いピンクのリュックをしょってでてきた時には、心底安心したものだ。

フリーダーは遊びに行くのではない。買い物に行くのだ。時々物凄く美人だけど物凄くおっかないお姉さんと、談笑しながら行く事もある。笑顔を浮かべているのはフリーダーばかりだが、それでも遠目に見て分かるほど幸せそうだ。ただ今日のように一人で出かける事も多く、そんな時は、今日のように、抜き足差し足で後を付けるのである。

度胸がないから声もかけられないユッケ少年は、そうしてフリーダーを見ているだけで幸せだった。

ユッケ少年は、決して裕福な存在ではない。ドゥーハン王都に住んでいる者達は、世界的な水準から見れば裕福な生活をしているが、それでもそれが幸せに直結するわけではない。まして、全員が全員裕福な生活をしているわけでもないのだ。

彼の両親は冒険者で、各地でさほど強くもない魔物と戦ったり、荷物の護衛などをしながら生計を立て、三十少し前に引退した。冒険者の中には後衛職を中心に老境まで現役で過ごす者もいるが、逆に前衛職は三十前に引退する事が少なくない。ユッケの両親であるフロント夫妻は双方共に前衛職の戦士であったし、特に才能に恵まれていたわけでもなかったから、三十前の引退は無理もない話であった。引退するまでにこつこつためてきた蓄えで王都の一角に小さな家を持つと、夫妻は雑貨屋をひらいて、冒険者相手の商売をするようになった。冒険者が欲しがるものを良く知っているが故に、小さくとも雑貨屋はそこそこの利潤を毎年あげて、何とか喰うには困らなかった。ユッケが生まれた頃には、もう雑貨屋の売り上げは軌道に乗っていた。そして少年が店の手伝いを出来るようになった頃から、歯車が狂い始めたのである。

大陸最後の火種であったグルテンの内戦が完全に終わった結果、軍人の需要が各国にて下がりきったのだ。無論小さな紛争は各地で起きているし、強力な魔物はまだまだ健在である。故に常備軍は必要だが、何処でもこれ以上の軍増員が見込まれなくなった。現状だけの兵員で充分になり、これ以上の補充が必要なくなったのである。結果幾つかの大手商店が提携を始め、対冒険者ビジネスの開拓に乗り出したのである。軍人から冒険者に転向するものも少なくなかったし、事実それは儲かった。冒険者ギルドと本格的に提携した大手商店は圧倒的な資本をバックに業界を荒らし回り、貪欲に利潤を飲み干していった。そしてその煽りをもろに喰らったのが、フロント夫妻が経営しているような、中小の店舗である。

何しろ敵はネットワークにしても商品配備にしても、桁が違っている。ましてや流通網が完全ではないこの時代、例えドゥーハンの治安が幾ら良くとも、余所の土地から運ばれてくる品物は貴重品だ。冒険者を大勢雇ったり時には軍に協力を依頼し、大量輸送が可能な大手資本には、どうしても中小の店舗は対抗出来ない。それでも常連の冒険者の中には、贔屓にしている店をよく利用してくれる者も居たが、それも全員ではない。それに常連が多少居た所で、経営が好転するわけではないのだ。団結して抵抗しようとする者達もいたが、それにも限界はあった。

かくして、フロント夫妻の雑貨屋の経営は火の車になった。ユッケは資金繰りに頭を抱える両親を見ながら育ち、少年と呼ばれる所にまで何とか成長した。学校には行けそうもないと、少年は覚悟を決めている。平凡な力の持ち主だった両親に剣技を教わりもしたが、才能が不足しているらしく、まるでものにならなかった。何処の軍でも剣は必須科目だから、ドゥーハン軍には入れそうもない。騎士団などもってのほかである。両親の知り合いの冒険者に頼んで稽古を付けて貰ったりもした。槍を始めとする長柄武器、斧、フレイル等の打撃系武器、弓矢、それに魔術師魔法に僧侶魔法。サイオニクスは知っている人が居なかったし、錬金術はそもそも金がかかりすぎて最初から員数外。結果的に、サイオニクスと錬金術を除く全てを試して見たのだが、剣と何一つ状況は変わらなかった。冒険者になって両親を支えるほど稼ぎたいという少年のささやかな望みは、才能が無いという冷酷な現実によって、脳天から砕かれていたのである。

冒険者達の戦場は、一芸の世界、と言われている。剣技だけで頂点まで登り詰めた男が居る。狙撃の腕前だけで英雄になった少女が居る。卓絶した僧侶魔法の腕前だけで、聖女と呼ばれた娘もいる。無論万能型の英雄も少なくないが、冒険者達のあこがれになるのは、他の才能はなくとも一つの技を極め上げた一芸天才達だ。しかしその一芸すらが、少年にはなかった。少なくとも、今まで少年は見つける事が出来なかった。

だからこそ、ユッケ少年は深い劣等感にさいなまれていた。幼いのに冒険者としていっぱしの腕前を持っていると明かなフリーダーに恋をしたのも、その辺が原因であった。其処まで冷静な分析は、いまだ少年には不可能ではあったが。今、ユッケ少年は口を利いた事もない相手に恋していた。それは間違いのない事実であった。

フリーダーはぱたぱたと走る。恋する者特有の症状だが、一旦惚れると相手の一挙一動が全て愛しく見えてくる。普通に走ってるだけのフリーダーを後ろから見ながら、少年は胸の鼓動が高まるのを押さえられなかった。少年は息を殺しながらフリーダーを追い続けた。

ふいに、その襟首が掴まれたのは。フリーダーが三軒目の店、主に雑貨を扱うギルド御用達の大手店舗に入った直後だった。

 

地下六層から帰還した頃から、フリーダーは自分を付けている少年が居る事を知っていた。気配を消すのは下手くそだし、発見してくれと言わんばかりの杜撰な追跡方法だったから、フリーダーには一目瞭然だった。カルマンの迷宮で、闇に潜む魔物達と戦い続けたフリーダーにとって、そんな隠れ方では、目の前に置いてあるのと同じ認識が可能だ。無論捕まえても良かったのだが、放って置いたのには理由がある。殺気も悪意も感じなかったし、無意味な接触を試みてくる様子もなかったからである。

フリーダーはファルほど一般人が嫌いではない。というよりも、深層心理に強力な暗示が掛けられていて、一般の人間が困っている事を直接的に認識したら自動的に助けにはいることが義務づけられている。ただ、それを抜きにしても、一般人そのものに致命的な不信や憎悪を感じていないのだ。ディアラント人は嫌いだということを最近自覚したが、このドゥーハンに住む人達は、別にフリーダーを虐待するでもないし、ファルに非礼な言葉を浴びせるわけでもないから、嫌いではなかった。正確に言うと、どうでも良い相手だった。少なくとも、今の時点では。そのどうでも良い相手に追いかけ回された所で、フリーダーには感じるものもなかったし、困る事もなかった。

ただ、どうでもよかったのは、あくまでフリーダーに限定した話である。

少年が追跡を初めてから二日後、夕食の席でフリーダーはファルを含む皆にその事実を告げた。同時に、ファルの顔色が物凄い速さで変わった。特に危険はないとフリーダーは言ったのだが、ファルは収まらない様子だった。少年が何かしようとしても、フリーダーには充分に撃退出来る実力があったし、自信もあった。それを信頼して貰えていないようで、少しだけフリーダーは悲しかった。

今日も少年は付けてきている。そしてその後ろには、既にファルが居た。信頼するファルは無茶な事もしないだろうと思い、フリーダーは買い物を続けていた。

 

「ひっ! ひあっ! ぎゃっ!」

路地裏に少年の押し殺した悲鳴が響く。ユッケは襟首を掴み上げられ、空に放り上げられた。そして回転して落ちてくる所を、のど首を掴まれ、煉瓦壁に背中から叩き付けられたのである。片手でユッケを放り投げ更にはつり上げたのは、いつもフリーダーと一緒にいる物凄く綺麗だが物凄く怖いお姉さんだった。ユッケは両親の仕事上、怖い人も色々見てきたが、このお姉さんは次元が違う。顔の造作が図抜けて綺麗な分、恐怖が数倍ましに増幅されている。目を至近から見ただけで絶息しそうになった少年は、作り損ないの笛が如く、ひゅうひゅうと、悲鳴にさえならない声を漏らし続けた。身動きなど出来るわけがなかった。お姉さんの握力はまるで万力で、容赦なく首が絞まる一歩前まで少年の首を掴み上げていたからだ。怖いお姉さんはそのままゆっくり目を細め、左右に少年を揺らす。脆弱な少年の頸骨は、今にもばらばらになりそうだった。まるでそのまま刃を突き刺すような視線を向けたまま、怖いお姉さんは、全く冗談ではない口調で言った。

「遺言は? 三分くらいは覚えておいてやるぞ」

少年は死を覚悟した。天主教の神に必死に祈った。せめて天国へ行けますように。いきなり理不尽に殺されようとしているのに、それに抗議しようなどと言う気は一切起こらなかった。あまりにもとんでもない殺気をぶつけられた結果、恐怖で脳味噌がショートしたからである。第三者の声が割り込んだ瞬間にも、少年は何も出来なかった。

「其処までにしておきなさい」

「いやだ」

「それ以上やると、その子の体の前に、心が壊れるわよ」

不意にお姉さんの握力が緩んで、少年は尻から地面に叩き付けられた。逃げ場のないユッケはそれすらも忘れて、悲鳴を盛らしながら後ずさりしようとして、壁際でもがいた。その時ようやく優しそうなお姉さんがいるのに気付いた。医療僧の簡易式法衣を着た、何とも初々しいお姉さんだ。鬼のような形相を浮かべた怖いお姉さんと、優しげなお姉さんが並んでいるのには、何処か強烈な対比じみたものがあった。優しそうなお姉さんは多少眉をひそめて、腰に手を当てながら、怖いお姉さんに言った。

「まったく、たかが子供相手に、何を本気できれてるのよ」

「本気だったら、もうこれの首は胴と永遠の別れを終えている」

「せめて指の一本にしておきなさい。 首はやり過ぎよ」

「それは首の後でやるつもりだった」

会話がいちいち怖すぎる。小便を漏らさないだけでも、どれほどの労力を必要とした事か。優しそうなお姉さんも、怖そうなお姉さんの同類だ。しゃがみ込んで震えたまま、ようやく少年はその事実に気付いていた。必死に神に祈る少年に、優しそうな方のお姉さんが、にんまりと笑顔を向けてきた。

「君、名前は?」

「ひっ! あ、あの、そ、その」

「質問には答えようね? 次そんな声出したら、一本ずつ指を貰うわよ?」

「ユッケ! ユッケ=フロント! ユッケ=フロントでっす!」

「良く出来ました。 偉いわね、ユッケ君」

暖かい手がユッケの頭を撫でる。そして耳を撫でながら顎の下へとはいる。のど頸を撫でながら、お姉さんは優しい笑みを浮かべ続ける。それが死神の物だと、少年はとうに気付いている。今も、この優しそうなお姉さんが気紛れを起こしたら、少年の首はポキリだ。

「ファルさん、これはどう見ても無害よ。 放っておきなさい」

「いやだ。 フリーダーの後をつけ回している奴が居ると思うと気分が悪い」

「だって。 ユッケ君。 君がフリーダーちゃんを追いかけ回さなければ、何もしないで済ませてあげるんだけど?」

顔を至近からのぞき込みながら、優しそうなお姉さんが言う。ユッケはある種の甲虫のように、必死に頷くしかなかった。もしユッケに勇気があれば、フリーダーを影から追いかける事もなかっただろうし、今こうやってつるされたり脅かされたりする事もなかっただろう。

「よろしい。 ファルさん、もう許してあげましょう」

「そうだな、フリーダーに害がないのなら、こんな子供などどうでも良い事だしな」

「ふふ、じゃあ行きましょう」

優しそうなお姉さんが率先して歩き出し、怖そうなお姉さんがちらりとユッケの目を睨んでから、その後について歩き出した。遠ざかっていく怖いお姉さん達の足音を聞きながら、少年は自らの心の弱さを呪った。少年はそれ以上何も出来ず、その場で枯れ木が倒れ朽ちるように気絶した。

 

雑貨屋に入る直前、自分を追いかけてきている少年がファルに捕獲された事に、フリーダーは気付いていた。気付いてはいたが、それはファルが個人的な感情でやっている事だし、自身には関係がないと思ったので、そのまま店へ入って買い物を始めた。実際問題、少年がこれからどんな目に遭おうと、フリーダーの知った事ではない。間接的なこの状況では、精神に掛けられている暗示も無力だ。相手が一般人であっても、直接的な危機を五感で認識しなければ、それは働かないのだ。このあたりの徹底的なまでの冷酷さは、暗示と薬物と手術と魔術によって体も頭も散々弄られた結果の、歪みの一端であった。そしてその歪みは、ファルに共通する場所が何処かあった。秩序を保っていた歪みが、この間のオルキディアス戦直前の出来事以来激しく揺らいでいる点でも、ファルとフリーダーは似ていた。

雑貨屋にしても武器屋にしても食品店にしても、フリーダーは買い物を任されるようになってから、自分で品揃えなどから分析して選んでいる。ギルドの認可を受けている雑貨屋は、値段が均一なのに加え、迷宮の探索に必要な品をほぼ揃えているのが特色だ。結界を作成する為に必要な水。これは専門の魔術師が、流れ作業で作っているといつだかエーリカが言っていた。ディアラントほどではないが、一応この文明にもそれだけの生産システムがあるわけだ。他にも、テントの材料や、投げナイフにクロスボウボルト。クロスボウボルトは一回の探索で百本以上使う事も珍しくないので、定期的に購入して揃えておく必要がある。投げナイフは用途別に様々な大きさと種類があり、何本かは常にストックしていた。ファルが使う手裏剣に関しては、ファル自身がギルドから入手しているらしく、また雑貨屋でも見た事がない。それに戦いの後可能な限り回収して再利用しているのを良く目撃する為、貴重品なのだろうとフリーダーは推察していた。

必要な品を揃えていくと、雑貨屋の主人が声を掛けてきた。頭が禿げ上がった中年の男性で、脂ぎった健康的な頬をしており、喧嘩でもしたのか前歯が半分ほど欠損している。

「おお、フリーダーちゃん。 良く来たな」

「はい。 いつもお世話になっております」

何度かの学習の結果、理想とされる受け答えは既にマスターしている。笑顔を浮かべながら頭を下げると、主人は成熟した女性を見るような目でフリーダーを見ながら言う。観察から分析すると、フリーダーを性欲解消の材料としたい様子だ。だが不文律にそれが背くせいか、そわそわするばかりで実行には移そうとしない。無論フリーダーとしても、主人が秘めたる欲望を実行に移そうとしたら逃げるつもりだが。

「いつも大変だねえ。 ほら、その、今日も少しおまけしてあげよう」

「有り難うございます」

雑貨屋の主人は念入りにフリーダーの手を触りながら、釣り銭を増やしてくれる。よく分からない行動だが、この位で満足するのなら問題ないと、フリーダーは思う。ただ、これ以上の事を要求してくるようなら、面と向かって拒否することはなくとも、二度とこの店には来ない。

買った物を手際よくバックパックに詰めて店を出ると、先ほどの少年の気配が消えていた。ファルの気配もである。帰り際に路地裏に目がいく。するといつも後を付けてくる少年が倒れていた。

暗示が働く。直接的な人間の苦境を見た際に発動する、精神の深奥まで根を下ろしている根本的で強力な暗示だ。それはだいぶ弱まってきているとはいえ、まだまだ効果は絶大だ。倒れている以上、助けなくてはならない。多少ちぐはぐではあったが、それは仕方がない事である。そもそも、精神を弄られ暗示を掛けられるという状況で、(まとも)な精神構造が維持されるわけもないのだから。

駆け寄って少年を抱き起こし、バイタルサインを調べてみるが、どれも正常だ。特に打撲傷や骨折もない。目を回して倒れているだけである。素早く頭の中に固定記憶として格納されているマニュアルが働き、適切な処置方法を引っ張り出す。まずは少年が誰かを確認する事。確認出来た場合は、保護者がいる場所へと連れて行く。確認出来ない場合は、信頼出来る公共機関へと連れて行き、その後の対応を仰ぐ。それらを反芻しながら、フリーダーは少年の持ち物を探り、やがて上着の袖に住所と名前が裁縫されているのを発見した。名前はユッケ=フロント。南区の一角に雑貨屋を構えているフロント家の長男。体格や成長度合いからして、十歳前後。住所もそれほど遠くないし、すぐに搬送出来る。バックパックを背中から降ろして手に持ち変えると、少年を背負って、フリーダーは歩き出した。脱力しているからそれなりに重いが、荷物を詰め込んだバックパックとあわせても移動に全く問題ない。自分より大きな相手を背負うくらい、肉体を散々強化されている上に、戦いに次ぐ戦いで鍛えに鍛えられたフリーダーには軽いものであった。

数分歩くと、もう少年の住所が見えた。一旦少年を降ろして戸を叩くと、商売人らしい営業スマイルを浮かべた中年の男性が姿を見せる。口ひげを蓄えた、少し窶れた男性は、目を回しているユッケ少年を見て素っ頓狂な声を上げた。

「ユッケ!」

「命に別状はありません。 特に怪我もしていません。 意識を失っているだけです」

「あんた、此処まで此奴を背負ってきてくれたのか? ありがとうな」

「いえ、当機は当然の事をしたまでです」

バックパックを背負いなおしたフリーダーの前で、右往左往しながらユッケの父は店の奥へ叫ぶ。心の奥まで動揺が充ち満ちていた。

「ジーナ! ユッケが倒れた! 店の奥へ運ぶから手伝ってくれ!」

「なんだって! それは本当かい!?」

「ああ、親切な女の子が連れてきてくれてな! 早くしてくれ!」

フリーダーには大体少年が気絶した経緯が想像出来ていた。だから、親切という表現は間違っていると、何処か心の底で思った。

そのままフリーダーはなし崩しに少年の手当を手伝う事になり、御礼だ何だと店の奥へと連れ込まれる事となった。

 

とても怖かった。きっと迷宮に住んでいる恐ろしい魔物共よりも、あの人達の方が怖いのだろうと、ユッケ少年は夢の中で思っていた。

しかし、言われてみれば、あの怖いお姉さん達の台詞にも一理があった。何しろ、あのフリーダーという女の子を追いかけ回していたのは事実なのだ。遅かれ早かれこういう日が来た事は間違いが無く、それが今日だった、というだけであったのだ。そう考える事で、少しだけユッケは自責し、そして落ち着いていた。

もうあの子を追いかけるのを止めよう。素直にそう少年は思っていた。確かにストーカー呼ばわりされても仕方がないし、何よりあの子に迷惑なはずだから、と思考が進む。あの怖いお姉さん達は、きっとフリーダーの保護者で、それが出てきたと言う事はもうあの子も知っているはずだ。そして迷惑だと思ったからこそ、保護者に言ったのだろう。そう自然に考えた少年は、悔しいと思いながらも、どこか諦めがついていた。

ぼんやりとした意識の中で、自分がベットの上で寝ている事に気付く。毛布が掛かっていて、隣に誰かが座っている事も分かる。父さんか母さんだろうかなと思い、何気なしに少年は呟いていた。

「父さん? 母さん?」

「違います」

「え?」

聞き覚えのある声に、急速に少年の意識が戻っていく。額に、ひんやりとした感触があった。やがて少年は、あのあこがれのフリーダーが、自らの額に手を当てているのに気付いた。

一発で眠気が吹っ飛ぶ。胸郭の中で心臓がはね回る。フリーダーは小首を傾げると、少年の額から手を外し、真っ赤になって硬直する少年の手首を握り、呟くように言う。

「バイタルサイン正常。 ジーナ様、ロンデル様、ユッケ様の意識が戻りました」

「おお、良かった!」

「もう、馬鹿な子だよ! 私たちをこんなに心配させるなんて!」

フリーダーの後ろでは、ユッケの両親がむせび泣いていた。

「ほら、ユッケ。 そのお嬢さんに御礼をいいな」

「あ、あの、その……あ、ありがとう、ございます」

「礼には及びません。 当機は当然の事をしたまでです」

「あ、あの、その、待って!」

立ち上がろうとしたフリーダーを、必死の勇気を振り絞って、ユッケは引きとめた。立ち上がりかけたフリーダーの顔に侮蔑が浮かんでいないので、少年は心底ほっとした。相手の一挙一動に喜び悲しむ事が出来る純粋さこそ、幼さが持つ特権的な感情である。今、勇気が残っているうちに。少年は決意し、言葉を選んで、そして言う。

「ごめんなさい。 迷惑ばかり掛けて」

「迷惑を被った覚えはありません。 ユッケ様が謝られる必要はありません」

ユッケ様、という言葉に、また少年は真っ赤になった。あこがれの人からそんな風に呼ばれるなんて、夢のようだった。さっきも同じように呼ばれていた事にも、舞い上がった少年は気付いていなかった。真っ赤になって俯いたまま、寂しさを覚えつつ、少年は続ける。

「も、もう、二度とあんな事しないよ」

「……どうしてユッケ様が罪悪感を覚えるのか、当機には分かりません。 ただ、どうしても当機との面会を望むのであれば、正面から宿へ出向かれればよろしいかと愚考します」

事情を察した様子で、ユッケの母は腕組みし、少年を見下ろしていた。分からない様子の父は小首を傾げていた。

フリーダーはそのまま去っていった。許して貰った。そう思った少年は、歓喜の涙を流していた。

 

予定の買い物時間よりも、だいぶ遅れてしまった。家路へと、自然と足が急ぐ。ファルが怒るかも知れないが、それは全て自身に責任がある。如何なる罰も、フリーダーはあまんじて受けるつもりでいた。急いで道を歩きながら、ふと、フリーダーは先ほどの光景に、自分を重ね合わせていた。目を回し、別に傷ついたわけでもないユッケ少年に、その両親達は取り乱し、涙まで流していた。目を覚ました時にも同じように、涙を流していた。この間ファルが深く傷ついた時、フリーダーはどうしても涙が止まらなくなった。もしフリーダーが深く傷ついた時、ファルは泣いてくれるのだろうか。ラスケテスレル戦の直後、必死になってファルがフリーダーを助けてくれた事は、もう知っている。しかし、今はどうなのだろうか。もやもやした、無為で無駄な気持ちが、胸の内に沸き上がっていた。このところ、どうもこういった無駄で非効率的な感情ばかりが浮かんできてしまう。このままではファルの役に立てなくなるかも知れない。そう思ったが、ファルの教えを踏襲して、フリーダーは無表情のままで居た。

宿に着くと、いつもは自室で資料の整理や、近くの空き地で修練をしているファルが、居間のテーブル前に腰掛けて、そこで資料整理をしていた。フリーダーが帰ってきた事にすぐに気付いたファルは、視線で向かいに座るように促す。席に着いたフリーダーは、エイミやエーリカ、それにフーツ中のロベルドとコンデの視線が集まるのを感じながら、頭を下げた。

「申し訳ございません、ファル様。 帰りが遅れました。 この罰は如何様にも」

「何故遅れたか、その理由を聞いてからだな」

無論何一つ偽る事も無いし、隠す事もない。全てをありのままに話したフリーダーは、落ちかかる罰を受けるべく、事情の説明を終えてから目をつぶった。しばしファルは無言のままであった。口を開いたのは、いつまでも変化がない事に不信を感じたフリーダーが、目を開いてからであった。

「ファル様?」

「ん? ああ、別に罰を下すようなことでもない。 部屋に戻って休んで良いぞ」

「はい、そうします」

「……フリーダー。 その子供がここに来る事が、お前にとって迷惑ではないのだな?」

「危険性もありませんし、いてもいなくても困りません」

頬杖をついて考え込んだファル。そを前にして、フリーダーは何故マスターが考え込んでいるのか不思議に感じた。しかも随分複雑な顔で、である。エイミが運んできた茶を一口啜り、ファルは片手をひらひらと顔の前でふった。

「なら別に構わないだろう。 分かった。 疲れを取る為にも、もう休め」

 

フリーダーが居間を後にした後。ファルの向かいに座ったロベルドが、にやにやしながら言う。それに続いて、ヴェーラも斜め向かいに座った。

「随分心が狭いじゃねえか。 微笑ましい恋愛ぐらい、彼奴の好きなようにさせてやれよ」

「……」

「私もロベルドと同意見だ。 初恋の時は、随分緊張したし、怖い思いもした。 あの子に惚れた子がいるのだったら、皆で見守ってやればよいではないか。 ほほえましい程度のストーキングであったわけでしな」

「ああ、あの子が、フリーダーが普通のヒューマンだったら、そうしていただろうな」

ファルの言葉に、居間がしんとなる。思春期の娘を持つ父親のようなファルの言動を皆微笑ましいとでも思っていたのは、この反応で明らかだ。ファルは内心うんざりしたが、別にそれにコメントするような事もなく、茶の残りを飲み干した。いつものように、ファルの行動の裏には、考え抜かれた鋭い刃が隠されていたのである。見たところ、それに気付いていたのはエーリカだけだ。茶を下げに来たエイミが、少し寂しそうに言った。

「私も、エルフの先祖返りに産まれたせいで、随分苦労しました。 ましてフリーダーちゃんは体を色々弄られていて、大人になれないのかもしれない、と聞いています。 おねえさまがフリーダーちゃんの周囲の環境に気を使うのも、分かる気がしますわ」

「なるほど。 確かに茨の道を行く娘だ。 若さで何かをして良い状況ではないものな」

平均的な環境に産まれた若者なら、苦労多くしても、若気の至りには努力次第により自身で決着を付けられる。だがフリーダーやエイミのように特殊な環境に産まれた者は、慎重に生きる道を選んでいかないと危ない。簡単に命を落とす事が想定されてしまうのだ。例えるなら、一般人の人生は、起伏はあれど山道のようなものだ。だが特殊な背景を持つ者の場合、それは吊り橋に近い物となるのである。エイミの例でそれを良く知るファルは、必然的にフリーダーの事でも神経質になっているのである。まあ、それだけでないのは、ファル自身も多少自覚はしていたが、それを口に出すのは野暮という物だ。

「フリーダーはいわゆる一般常識を殆ど身につけていないし、生活環境レベルでの保身にも無頓着だ。 であれば、其処は保護者である周囲の大人、この場合は私が補ってやらなければならない。 周囲の人間関係も、極力注意を払わないと危険だ」

「でもフリーダーに、全然その気は無さそうだったぜ?」

「残念ながら相手はそうではない。 子供と三日あわざれば、別人と考え警戒せよという言葉もある。 子供はいつまでも子供ではない。 そして恋愛感情に駆られた者は、何をしでかすか分からない」

ファルは知っている。あの子供が、フリーダーとファル達が一緒に迷宮に出かけていく様子を見て、悲しそうにしていた事を。今は何も出来ないが、そのうち勝手に危機感やら道徳意識を募らせて、馬鹿な事をしでかさないとも限らない。

「成る程、確かに一理ありやがるな。 俺の配慮が足りなかった。 悪かったな、ファル」

「いや、別に貴公が謝る事ではない。 それに、今後は私自身があのユッケとかいう子供を観察する。 万が一の凶事など、起こさせはしないさ」

「フリーダーちゃんを拘束するんじゃなくて、あくまで影から守り続けるつもりなのね?」

「無論だ。 そしてそのやり方が、結局私の性分にあっている」

根っからの忍者だからこそ言える台詞であった。その後は自然に話題が地下七層攻略の件に移り、情報が殆ど出てこない其処への希望的観測へと更にシフトしていった。

 

翌朝、いよいよ七層探索の時がやってきた。皆浮ついた気持ちは捨て去り、迷宮探索へと心を完全に切り替えていた。きちんと準備し終え、宿を出たフリーダーは、あのユッケ少年が俯いて立っているのに気付いた。ファルが急角度で眉をひそめるが、別に何も言わない。正面から来たのだから、特に文句を言う筋合いはないと思ったのだと、フリーダーは推測していた。真っ赤になって俯いている少年に、フリーダーは小首を傾げた。

「何か御用でしょうか」

「う、うん。 あの、頑張って……危ない目に遭わないと……嬉しい」

「どうして貴方が当機の事を心配するのですか?」

凄く寂しそうな表情をした少年の横を、フリーダーは通り過ぎる。少年は結局何も言えず、その場に立ちつくしていた。しばししてから。

「頑張って! いってらっしゃい!」

宿の方で、必死に少年が手を振っていた。フリーダーは手を軽く返した。迷宮に入った時は、もう少年の事は忘れ、迷宮探索に全ての心を切り替えていた。

「まだまだ時間が必要そうねえ」

不可解な独り言をエーリカが言った。意味は、フリーダーには分からなかった。

 

3,臓物の階層

 

相変わらず危険な地下六層だが、道が分かると言う事は危険度が数割減った事を意味する。ある程度安全な道ももう分かるし、何処を通れば目的地に進めるか分かるというのは大きい。それでも何度か交戦を経て、地下七層へと入り込む。今度も長い長い階段が下へ伸び続けていて、下階からはより深い障気が溢れ来ていた。

七層への階段は真っ暗だった。異様な匂いが周囲に溢れていて、湿気も強い。魔物の気配は今のところ無いが、視界はゼロに等しい。コンデがロミルワの術を唱え、大きな光の球を作り出す。階段の壁は、六層の建物を形作っていたのと同じ材質だが、嫌に腐食が進んでいた。明るい六層の探索に慣れたからかも知れないが、真っ暗な階層がこの先にあると思うと、流石に緊張が全身に満ちる。

最初に七層へ足を踏み入れたのはファルだった。だが、足を踏み入れるのを躊躇した。無理もない話であった。光の球に照らされたその場所は、異界としか言いようがない場所であったからだ。

「なんだ此処は。 巨大なる生き物のはらわたか?」

柔らかい地面を踏みつけて立ちつくすファルに続いて七層に入ったヴェーラが、生唾を飲み込みながら言う。地面は薄ピンク色の、まるで肉のような弾性を持っていた。壁もそれに等しく、所々うごめき胎動している。湿度が高いのは、壁に所々開いた穴から、何とも形容しがたい気体が漏れているからだ。

「ひいい、恐ろしそうな場所じゃのう」

「気味がわりいな。 おいフリーダー、是は何だか分かるか?」

「いえ、当機にも、この様な場所に対する記録の持ち合わせはありません」

「これは、文字通り何があるか分からないわ。 みんな、気をつけて」

皆を押しのけて前に出たエーリカが、異様な周囲の様子を見回して言う。そして彼女はおもむろにフレイルを振り上げると、地面に叩き付けていた。フレイルは打撃を主にする武器であり、力が無くても大きな効果を上げられる。主に鉄製の頑丈な鎧が普及した世界で発達したものであり、鎧の上からでも中の人間に有効打を浴びせる事が出来る。当然、直撃させれば人間の首くらい簡単にへし折る事が可能だ。しかし、そのフレイルの一撃は、床に柔らかく食い込んだだけで、砕くまでには至らなかった。

エーリカが皆に階段へ下がるように促す。フレイルを上げると、鉄球が食い込んだ辺りは多少へこんでおり、薄紫の液体がにじんでいた。それもすぐに床にとけ込み、へこんでいた地面も元に戻っていく。床に手袋越しに触れていたエーリカは、今度は手袋を外して床にダイレクトで触っていた。そして、皆へと振り向いた。

「……どうやら、床はかなり頑丈よ。 傷は付くけど、すぐに再生するみたいね。 この液体や床自体に、危険な要素は無さそうだわ。 少なくとも、この辺の床には、今の時点ではね」

「相変わらず大胆だな、オイ」

無言のままファルが刀を抜き、蠢いている壁へと斬りつけた。壁に一直線の筋が入るが、薄紫の液体が僅かにこぼれただけで、すぐに肉が盛り上がり元に戻っていく。コンデが軽く印を組み、光球を高く飛ばす。六層と違い、此処には天井があった。壁以上に活発に蠕動する、気色の悪い天井であったが。

「コンデさん、光球を複数とばせる?」

「うむ? 今なら三つは行けるが、どうしてじゃの? 光球を多く出すと、それだけ疲れるのじゃが。 それに、奇襲をかけるのも難しくなりそうじゃのう」

「この階層はどう見ても生き物よ。 もし、天井から消化液でも降って来られたら、ひとたまりもなく全滅するわ。 敵に発見されやすくなるけど、そのリスクを押しても視界を広げておいた方が良いわ」

ひっと悲鳴を上げたコンデが、慌てて印を切ってもう一つロミルワの光球を呼び出す。より強い光が周囲を強く照らす。奥へ奥へと広がる迷宮が、それによって露わになってきた。てきぱきと指示を飛ばしながら、エーリカは最後に言う。

「転移の薬、用意しておいて」

何があってもおかしくない状況。普段以上に気が抜けない場所。それは当然の指示であった。いつも転移の薬を預かっているフリーダーが、いつでも取り出せるように、バックパックから懐へ移し換えた。やがてファルが最初に、皆が続いて歩き出す。新しい階層に来た時の、いつもの光景であった。

 

静かだった六層に比べて、七層は賑やかだ。そんな事を、歩きながらファルは思った。賑やかと言っても、決して好感が持てる賑やかさではなかったが。辺りでは壁が脈打つ音、何かはじけて飛び散る音、そういった異音がひっきりなしに響いていた。闇のオーケストラと言うに相応しい、異常な音の集合体である。相手がどんな美人であっても、小さくなって体内へ侵入したらさぞ気色悪いだろうと、ファルは思った。

皆冷や冷やしていたが、無理もない事である。奥へ進めば進むほど、この階層の異様さはますます露わになってきていたからだ。

壁には所々隆起した瘤があり、時々風船が割れるようにはじけて、周囲に青紫の液体とくさいガスをまき散らす。はじける時の独特の音は、土左衛門の腐った腹がガスを吹き出す時にも似て、夢に見そうなほど気色が悪かった。血管らしきものも壁床問わず彼方此方に埋まっていて、定期的に大きな音を立てながら脈動している。酷い臭いもする。湿気も不快指数だ。我慢出来ないほどではないが、長時間の探索になってくると、こういう不快要素が非常に大きな壁になってくる。精神集中の邪魔にもなるし、敵の接近も気付きにくくなる。床も決して平らではないし、傾斜も激しい。滑るほど床が濡れていないのは幸いであった。こんな異常な状況では、いつ壁が動き出して押しつぶそうとしたり、床に口が出来て皆を飲み込もうとしたり、そんな悪夢のような状況が生まれるか分からない。それらを杞憂として笑い飛ばせないのが、今いる階層なのだ。扉や宝箱に擬態する怪物もいるが、階層そのものがそれであるかもしれないのである。

そんなマイナスだらけの要素の中で、落ち着いたエーリカが中心にいる事は、皆を安心させた。常に冷静沈着なリーダーは此処でも少なくとも表面上平静を保ち、皆の支柱になり続けた。口調はいつも通りで、苛立っている様子も緊張している様子も一切無い。そういったリーダーの落ち着きが、どれほど皆の支えになるかは、言うまでもない事だ。このリーダーが居て本当に良かったと、時々ファルは思うのであった。

「それにしても、階層そのものが生き物だとは、思いもしなかったわ」

「しかし妙だ。 壁や床に攻撃しても、反撃してくる様子がないな」

「反撃出来ないほど弱っている、という事はないわねえ。 多分蚊に刺されたほども効いていないんでしょう」

ファルが刀を引き抜き、皆が戦闘態勢を整える。それと同時に会話が止んだ。蠢きつつ、にじり寄ってくる影が六体。いずれも人間よりも大きく、そして強烈なプレッシャーを放っている。ゆっくり腰を落とすファルが、隣でバトルアックスを構えるロベルドに言う。

「気をつけろ、見た事がない相手だ」

「ああ、分かってる!」

周囲は狭い通路になっていて、囲まれる恐れはない。少し傾斜した通路の先、いわば坂の上から、何か得体が知れない相手は蠢きながら近づきつつあった。

「ローパーかの?」

コンデがかなり危険度の高い迷宮に住む、不定形の怪物の名を上げたが、少し違う印象をファルは受けた。海に住むイソギンチャクに近い生物、それが第一印象である。体は筒状になっていて、上部には口らしき物があり、良く撓る触手が沢山ついている。上半分ほどはだいぶ細くなっていて、首はかなり自在に旋回させる事が出来るようだ。そして下には木の根に近い構造をした足が多く生えていて、それを器用に動かして、近づき来ていた。

触手に捕らえられたら面白くないのは一目で分かる。円筒形の口には鋭い牙が生えていて、アレに捕らえられたら骨までかみ砕かれてしまうだろう。エーリカのハンドサインを見ながら、ファルは小さく頷き、摺り足でゆっくり前に出た。敵が攻撃行動に出たのは、その直後だった。

敵の体上部にある、無数にヤスリのような歯が生えた口。体をよじり、此方へと向けてくる。ほとんど間髪入れず、びゅんと唸りを上げて、触手が飛んできた。それも、一番前にいるファルにではなく、前衛の間を縫うようにして、まっすぐコンデを狙って、である。触手の動きは早く、前衛はファルも含めて誰も対応出来なかった。だが、獲物に届く直前には流石に速度が落ち、素早く動いたフリーダーが槍を振るって触手を跳ね飛ばす。だが続けて三本、四本と触手が伸び、いずれもがコンデを狙って襲いかかってきた。敵は六体。それがかわりばんこに、口の周りに生えている触手を伸ばして攻めてくる。かなり効率的な波状攻撃である。しかも、半分ほどの触手は身を守るように、体の近くで揺れていた。隙が無く、無駄打ちになるのが分かり切っていたから、ファルも手裏剣やナイフでの中距離攻撃を仕掛けられなかった。

「ひい! なんで小生ばかり狙ってくるのじゃ!」

「無駄口叩かない!」

エーリカの鋭い叱責が飛ぶ。どちらが年長者か分からないほどだ。そのままファルは、敵が触手を繰り出した瞬間を狙い、無言で焙烙を敵に投げつけ、数歩飛び離れる。イーリスが改良を加えた結果、威力が上がっている焙烙は、敵の真ん中に綺麗に落ち、そして爆発した。煙と火の粉がファルの所まで飛んでくる。驚きと一緒に。

「お、おい! 火神の息吹の如き一撃だったのに、効いていないぞ!」

「流石にこの階層の相手は、ただの攻撃では通じないな」

ヴェーラの驚きも無理はない。敵は六体とも健在であった。多少焼けこげてはいるが、受けた傷は見る間に溶け、肉が盛り上がり、何事もなかったかのように再生していく。だが、再生させきりはしなかった。一瞬敵の攻撃が緩んだ隙を見計らい、エーリカがコンデとの魔法協力による特大のバレッツを叩き込んだのである。狙いは必殺、先ほどファルの焙烙が穿った傷。一撃は容赦なく、狙った場所を直撃した。体をよじらせ、訳が分からない音を立てながら、先頭の一匹目が大量の体液をまき散らし崩れていく。だが、敵は動じる様子もない。仲間の屍を踏み越え、うぞうぞと確実に前進してくる。そして、触手での攻撃が再開された。前進を開始した連中には、もう何処にも傷などない。距離が迫るにつれて、触手での猛攻は更に激しさを増す。じりじりと下がり、今度は自分たち前衛にも飛んでくるようになった触手を弾きながら、ファルが呟く。だいぶ速さに目は慣れてきたが、一撃一撃に冷や冷やさせられる。

「桁違いの再生能力だな。 一撃で致命傷を与えないと無理か」

「おい、このままだとじり貧だぞ!」

「焦らない! 下手に動くと自滅するわよ!」

皆の焦りが着実に出ている。普段よりも平常心が失われている今の状況では、無理もない話である。ただ、エーリカの指示は着実に出続けており、それが皆の心にかろうじて均衡を保ち続けているのだ。

攻撃の合間を縫って、エーリカがハンドサインを出す。まずフリーダーが素早くクロスボウに持ち替えて、飛んでくる触手の合間を縫って一撃を叩き込む。それ自体は敵の良く撓る触手に叩き落とされるが、ハンドサインを見たファルが小さく頷き、残像を残すほどの速さでジグザグに走り、先頭の一体への間を一息に詰めた。敵が身を守る為至近で揺らしていた触手の、真上から叩き付けてくる数撃をかいくぐり、敵本体へと刀を突き刺す。今までずっと狙っていたタイミング、更には生体魔力流を見切っての刺突である。原始的で単純な構造の生物は基本的に頑丈だが、それでも神経が束ねられていたり、生体機能が集中している箇所は必ずある。ファルの一撃は、それを確実に捕らえていた。身をよじらせた怪物は、歯をすりあわせ、聞き苦しい金属音めいた悲鳴を上げた。

斜め上から二本、更に斜め下から一本、イソギンチャクに似た怪物が、自らの身に致命傷の牙を突き立てたファルへ、憤怒の反撃を叩き付けてくる。力任せに刀を引き抜き、最初の二本を刀で斬り払うファルだったが、最後の一本は避けきれず、ガードしつつ後ろに飛んで受け流す。六メートルほど飛ばされたファルは、受け身を取って起きあがり、口の端についた血を拭いながら立ち上がる。彼女の視界の中では、攻勢に出たロベルドが一息に敵を唐竹割りにし、ヴェーラがハルバードを口の中に叩き込んで、刃を引きながら半ばまで切り裂いている姿があった。二人がバックステップしたのは、コンデが唱えていた増幅ザクレタの火球が飛ぶのとほぼ同時。敵陣中央に着弾した破滅の炎は、傷ついてもがくイソギンチャク共を、纏めて焼き払っていた。もともと増幅ザクレタとファルの焙烙とでは火力が違うし、先ほどと違い敵は深手を負っている。傷は再生しきれず、触手は焼けて縮れていき、傷は泡を吹き出しながら萎んでいく。ファルが刀を叩き込んだ一体に至っては、激しく痙攣した後、内側からはじけ飛んでいた。猛烈な異臭が周囲に立ちこめる。眉をひそめたファルは、まだ敵の最後衛にいた二体が無事なのを視認して、舌打ちした。かなり体は焼けこげているが、体表面から大量の泡を吹き出させ、一瞬ごとに傷を修復している様子が見て取れる。この戦いは勝てる。しかし、敵が皆こんな調子で度外れた生命力を見せるは、今後の探索が如何に厳しくなるかを象徴しているようだった。

「おおおおおおっ、くたばれええええっ!」

盲目的に突撃したロベルドが、再生途上の敵に体当たりを掛け、何度もバトルアックスを叩き降ろした。尋常な様子ではない。まるで何か質が悪いものに取り付かれたかのような有様であった。血しぶきが飛び散る。肉片が砕ける。逃げ腰になる最後の一体に、ロベルドがぎらついた目を向けた。

 

何とか戦いが終わった後、小部屋のような空間を発見出来、そこでキャンプを張る事となった。通路の脇に出来た空間で、入り口はそこそこ狭く、内部の環境は比較的安定している。流石に生きた床の上に直に座るのは気持ちが悪かったが、あまり贅沢は言っていられない。最後までぐずっていたコンデも、渋々と言った様子で腰を下ろしていた。結界を張り終え、それらを見届けてから、ファルは見張りを始める。その後ろで、ロベルドがエーリカに詫びていた。

「すまねえ。 何かムラムラっときちまって、見境無くやっちまった」

「……ねえ、ロベルド。 イソギンチャクを唐竹割りにした時、何か浴びた?」

「? お、おう。 そうだな、敵の血を多少貰ったけど、それがどうしたんだ?」

「原因はそれね。 厄介な階層だわ、ここは」

小さく嘆息すると、エーリカは周囲の皆を見回しながら、いつになく真剣な表情で言う。

「この階層、多分全体が心理的トラップになっているんだわ」

「? どういう事じゃの?」

「この気色悪い壁に床、それに酷いニオイに強烈な湿気。 真っ暗で、何処からどんな攻撃が来るか分からない状況。 強大で圧倒的な攻撃能力こそ無いけど、しぶとく頑丈で頭がいい敵。 その上、奴らの血には、凶暴性を誘発する物質まで含まれている。 こんな所で戦い続けたらどうなると思う?」

エーリカが言う横で、壁の一部が膨らみ、ガスを吹き出しながら萎んでいった。体力的には休めるが、階層そのものが生きているという事実を鑑みるに、精神的には休めそうもない。目を覚ましたら階層そのものに半分消化されていた、等という事態も想定出来るのだ。今までの階層は、未知の場所であっても、そんな非常識さはなかった。しかし此処では、それが非常識であるとは言い切れないのである。

「冗談じゃねえ。 考えたくもねえ」

「まともな判断は一秒ごとに難しくなるわね。 六層と違った意味で、長時間の滞在は危険だわ。 愚僧を信頼して貰うしかないけど、愚僧だって精神力には限界があるし、いつまでも冷静でいられるとは限らないわ」

即効性では無いだろうが、こうやって壁が噴きだしているガスなどにも、どんな効果があるか分からない。魔物が住んでいる以上、致死性のものではないはずだが、凶暴性が増すようなガスであると、蓄積していくと危険だ。

無言のままファルは瓶を取りだし、周囲を警戒しつつ、壁の一部やガス、血らしい液体を別々に採取していった。壁から肉をそぎ取ると、すぐにそれは泡を吹きながら縮んでいった。どうもこの肉、他の肉と連結していないと、すぐに腐れてしまうらしい。分析はイーリスに任せるとしても、気が重い作業である。通路の方を伺い、魔物の襲撃を警戒しつつ、ファルは会話に参加した。

「探索を短めにするしかないな」

「となると、探索のランニングコストが割高になるのう」

「支出が明らかに収入を上回ると、当機は計算いたします」

「その分積極的に騎士団でも手伝うしかないわね。 この状況下で、金がかかるなんていってられないわ」

エーリカの言葉はいちいち正論である。確かに、ランニングコストを気にして命を落としては本末転倒だ。

迷宮の探索における収入の一つは、落ちている物の回収にある。古代文明が残した武具やマジックアイテム、先達冒険者の遺品になる道具などなど。そういった物を回収して売れば、かなり良い金になるのだ。そして金があれば、色々な武具や道具を豊富に購入出来ると言う事を意味し、戦略の幅が大きく広がるのである。だが、この階層ではそれすら期待出来そうにない。地下六層がそう言う意味では宝箱にも思えた。ランニングコストが割高どころではない。下手をすると、今までの貯蓄を食いつぶしてしまう。六層を探索して収入を得つつ下を目指す方法もあるが、それではますます先へ進むのに時間がかかってしまう。

「出来るだけ早く突破したい所だが……」

「だが、あの黒耀の魔女アウローラが、六層の下につなげた階層だ。 もし六層よりも広かったりしたら、火神の加護があっても突破には時間がかかりそうだ」

ヴェーラの言葉は、正に禁句を口にした物であった。事実は最悪の予想を更に裏切る。ため息をつき掛けた皆の前で、エーリカが手を叩く。

「もう少し探索してみましょう。 殆ど入り口の此処で、其処まで結論を急いでは損だわ」

「そうだな。 どうも最近悪い方にばっかり考えていけねえや」

「! 誰か来た」

ファルの言葉に、不意に場が緊迫した。

 

4,黒騎士

 

現れたのは、騎士達の集団であった。数は八名、いずれもヒューマンという偏った編成で、更に偏った事に一人を除く全員が黒い鎧を着ている。一人はファルも見覚えがある人間であったが、残りは知識上知って居るだけの相手であった。

「サンゴート騎士団か」

「ベルグラーノ騎士団長もいるわね」

ロベルドとエーリカが口々に呟く。一旦結界の機能を解除したファルに、剣に手を掛けた騎士団長は、驚いたように言った。

「む? 君達は」

「お久しぶりですわ、騎士団長」

「おお、おお。 エーリカ殿と、その仲間達だな。 久しぶりだな。 あれからも多々なる活躍をしているようで、様々な武勇談を聞いているぞ」

「光栄ですわ、閣下」

会話を進めるのはエーリカに任せて置いて、ファルは自発的に周囲の警戒に当たる。それにしても、サンゴート騎士団とベルグラーノ騎士団長が一緒に探索をするとは、ドゥーハン軍も状況が変わったとしか言いようがない。確かに王が騎士団の本格的投入を許してくれないせいで、人材不足だとはファルも聞いていたが。

サンゴート騎士団は何度も詰め所で見たとおり、いずれも無表情で無機的であり、黒い鎧がこれ以上もないほど似合っていた。鉄の軍団と呼ばれた同騎士団は、鉄のように強く、鉄のように冷たい、という二つの意味を併せ持つ。非人間的な訓練と箇々の感情を軽視し、全体としての統率を絶対視する風潮で、最強の名を恣にしてきたのである。バンクォー戦役で壊滅的な打撃を受けたにもかかわらず、現在も騎士団は同じ風潮を貫いている事は、今現実に彼らを見ると確信出来る。数百年単位で培われた風潮は、一度二度の敗戦では覆らないと言う事であろう。また、今黒騎士団を率いているのは、有能ながら非常に傲慢で冷酷な女司令官と言う事だが、ひょっとするとベルグラーノ騎士団長の後ろでにやついている長身の女であろうか。以前暴言を吐いてリンシアに窘められたとか聞くが、どうもエーリカの視線を見る限り、その存在に間違いなさそうであった。エーリカは笑顔を浮かべつつも、その傲慢そうな女を見る目に殺気を宿していたからだ。珍しく本気で嫌っている様子である。

ファルの前で、軽く情報交換をしたエーリカが戻ってきた。そして皆を見回して言う。

「しばらく一緒に探索する事になったわ」

「なるほど、それは良い事じゃのう」

「そうじゃないわよ。 愚僧達が弾よけをかってでたの」

「ちょっとまて。 なんでそんな事を!? 火神アズマエルも、我らが犠牲の羊になる事など望んではいないだろう」

驚き食ってかかるヴェーラに、エーリカは肩をすくめた。

「もうさっきの話忘れたの? 営業活動よ」

「我々はもう充分に実績を積んでいるはずだが?」

「この際だから、あの小生意気なサンゴート女騎士にも、愚僧達の実力を見せておきましょう。 ひょっとすると彼方さんも今後はお得意様に出来るかも知れないわ」

実に逞しいエーリカの言葉は、僧と言うよりも商人に近いものがあった。ただ、言葉の前半部からも分かるように、彼女の個人的感情も多分に含まれているようであったが。何にしても、この階層で得られる物資がないとなると、今後客は選んでいられなくなる。今の内から、その時に備えている必要はありそうであった。

そんなやりとりを知ってか知らずか。ベルグラーノ団長は、実に純粋な笑みを若作りな顔に浮かべていた。それに対して、エーリカの笑みは強靱だが腹黒さも秘めていた。

「通路で後方から敵が来た場合は、我々が排除する。 前方の敵だけを考えてくれて構わないぞ」

「感謝しますわ、騎士団長閣下」

 

嫌な予感は、徐々に現実の物となっていった。

取り合えず周囲の大まかな構造を把握しようと、比較的太い通路から順番に探索を開始したのだが、恐ろしいまでに一つ一つの通路が長く、何処までも果てまでも続いていたのである。飛ばしている光球が照らしきれないほど天井が高い事も少なくない。これでこの階層が、地下四層のように複合階層にでもなっていたら、頭を抱える所だ。事実、立体交差している通路も幾つもあった。吊り橋のように細い肉が、暗い溝の上を渡っている事もあり、そう言った場所を通過するには細心の注意を必要とした。

魔物の数も多い。先ほどのイソギンチャクに似た怪物と、既に計三回交戦している。だいぶ連中との戦い方のノウハウは分かってきたが、分かっても手強い。触手は非常に硬いし、動きは鋭く早い。本体の動きは鈍いが、其処まで到達するのが一苦労だ。前衛と後衛で今まで以上に高度な連携が必要になってくる対戦相手であった。他にもレッサーデーモンや夢魔がうようよしていて、それらとの交戦も避けられなかった。そして今、それ以上の大物が眼前に立ちはだかっていたのである。

長い通路を抜けた先にあったのは、四十メートル四方ほどもある、広いホールだった。天井は高く、かなりの数の通路が奥に見える。壁や天井には一際大きな腫瘍があり、血管も太く、大きな音を立てて脈動している。相当量の血液を一回の拍動で循環していそうである。ホールの中央には多少盛り上がった床があり、その上にこのホールの主が居た。

複数の首を持つ巨体。それぞれの首は蛇に似て、胴体は蜥蜴に似ている。体長は軽く十メートルを超し、体は青黒く分厚い鱗で覆われている。首は再生能力を持ち、切り落としてもしばしの時を置いて生えてくる。そして牙には強烈な毒がある。高名なる怪物ヒドラであった。ベノア大陸北部の密林に生息すると言われる怪物で、下等のドラゴンよりも強い。これ以上のクラスになると、パイロヒドラと呼ばれる、炎を吐く事も出来る連中が居るが、これはもう伝説上の存在となってくる。騎士団の話によると、以前ウェズベル師が撃破したそうだが、それは即ち彼ほどのレベルでようやく相手に出来る存在だということだ。並の冒険者では束になっても勝てる相手ではない。

「ほう? これはこれは」

後方から、揶揄するような女騎士の声が飛んできた。サンゴート騎士団は、先ほどからの探索でドゥーハン騎士団に劣らぬ実力を持っている事を証明し続けている。後方から現れたレッサーデーモンを苦もなく撃破して見せたし、気配の消し方も上手い。彼らが連れてきている軽装の魔術師も良い腕をしていて、先ほどはジャクレタを発動して見せた。この分だと、ひょっとするとメガデスを使いこなせるかも知れない。先ほどから、ベルグラーノ騎士団長がわざわざ出る幕もなかった程だ。

「足がすくんでいるのか? 手助けしてやろうか?」

「お構いなく。 愚僧達で充分ですわ」

「無理をして死んでも、骨は拾ってやらぬからな。 ははははは」

「ちっ、むかつく女だな」

小声でロベルドが言う。隣で抜刀すると、ファルは刀を腰の後ろに隠すように構えながら、間合いを詰めつつ言う。

「揶揄していると言うよりも、単純にドゥーハン人に憎しみを持っている感じだな。 無理に我らの欠点を探して、嫌みを言っている印象だ」

「何だか、肝っ玉がちいせえな」

「そういうな。 誰にだって、憎しみの対象くらいはある。 これ以上は野暮だから言わないが……」

黙り込んだロベルドは、舌打ちしながら構えなおした。改めてみると、ヒドラは流石に圧倒的な威圧感である。この個体は首を八本持ち、それぞれが揺れながら此方の出方をうかがっている。じりじりと間合いを詰めるファルは、敵の勢力範囲が想像以上に広い事を悟り、手強い事を敏感に感じていた。ヒドラもヒドラで、なかなか此方の間合いへは入り込んでこない。両者の間に殺気が帯電する。

「ぎゃああああっ!」

後ろから悲鳴が響く。多分黒騎士の一人だ。眉をひそめたファルは、後方からも敵が現れたのを悟ったが、援護などしている余裕はない。注意がそれた一瞬を狙い、ヒドラが仕掛けてきたからだ。

ファルが一瞬前まで立っていた地面に、首の一つがかぶりついていた。飛び離れつつ刀を振るうが、抜き打ちではヒドラの鱗を裂く事かなわず、火花を散らしてその上を滑るのみ。牙から大量の毒を垂らしながら、他の首も蠢きつつ攻撃を開始する。更に、巨体を揺らし、本体が前進を開始した。後方は戦闘音が響いていて、あまり下がるのは得策ではない。エーリカの声が後ろから飛ぶ。

「総員、総力戦用意!」

大きく口を開けた首の一つが、ファルに正面からかぶりついてきた。ぎりぎりまで引きつけて置いて、寸前で気配を消し、軽く跳ぶ。敵の上あごを蹴り、一回転して、敵を視る。空間が瞬間的に静止し、すぐに動き出した。弱点と思われる箇所はない。舌打ちしたファルは、敵の頭頂部を蹴り、跳ね飛ぶ。彼女がいた空間に、横殴りに別の首がかぶりつく。着地したファルは、今彼女が蹴った首を、ロベルドがバトルアックスで横殴りに叩き、吹っ飛ばすのを見た。流石にロベルド、はじき飛ばされたヒドラの首は、下あごから首にかけて大きな傷を作っていた。だが、大量の泡を発しながら、見る間に再生していく。

「ち、畜生、こいつもかよっ!」

「首をはねても、二本の首を生やすという技を持つヒドラもいるそうだ。 流石にドラゴンに並び立つ実力を持つ古代の魔物、一筋縄ではいくまい! 火神よ、我に加護を!」

真上から躍りかかった首、ハルバードを旗を振るようにして、横殴りに軌道をずらすヴェーラ。地面に強烈にキスした首の横でサイドステップし、更に正面から襲ってくる首に対応しようとするヴェーラだが、今度はヒドラが一瞬早い。牙が毒液をまき散らしながら迫ってくる。その大きな口の中に、二本、連続してクロスボウボルトが突き立った。流石に口の中を傷付けられ、動きを止めるヒドラの首。隙を見逃さず、ファルが右から、ヴェーラが左から、それぞれ目に刃を突っ込んだ。

「ギイイアアアアアアアッ!」

もがく首には目もくれず、他の首が次々と猛攻を仕掛けてくる。後方からフリーダーがクロスボウで援護してくれているが、それでも全てを避けきるのは無理だ。前衛は一人当たり三本弱の首を相手にせねばならない上、敵は先ほどのイソギンチャク並の再生速度だ。流石に今両目を抉った首はもがいている最中だが、ロベルドが半分もいだ首は、もう再生を完了しつつある。

一つの首が、ファルの頭上を越えて、後衛へと伸びようとする。舐めてくれた物である。致命傷になりそうな場所はないが、そのまま魔力流の流れを視て、踏み込んで刃を振るう。地面についた状態で、踏み込んでの一撃であるし、抜き打ちとは訳が違う。喉からばっさり切り裂かれ、ファルを無視してコンデを襲おうとした首は仰け反り、のたうち回った。次の攻撃に移ろうとするファルは、不意に地面に体が引っ張られる感覚を覚えていた。間髪入れず、躍りかかってきた首は何とか避けたが、続いての頭上からの体当たりは避けきれず、弾かれて激しく地面に叩き付けられる。

「……毒か」

何とか立ち上がり、今ファルに体当たりを喰らわせた首の真上からのかぶり付きを、至近まで引きつけてのサイドステップで避け、そのまま冷静に目へ刃を突き込む。毒の正体は、間違いなくヒドラの血だ。後衛が大技を用意しているのは分かるが、これはかなり厳しい相手である。早くして貰わないと、いつまで耐えられるか分からない。毒の痛みもあるし、地面に叩き付けられた痛みも激しい。もしあの牙に掛けられたら、人間ではひとたまりもないだろう事を想像すると、正直事態は面白くない。敵も相当に傷が増えてきているが、まだまだ動きは充分早い。

「おおおおおっ!」

「はああああああああっ!」

ロベルドとヴェーラが息を合わせ、首の一つにWスラッシュを決める。バトルアックスの刃が、ハルバードと力を合わせて、てこの原理で首に食い込み、そして跳ね千切る。頭部を失った首は、大量に血をまき散らしながらはね回り、ヴェーラもロベルドも少なからず血を浴びる。まずい、ファルはそう思った。敵はまだ半分以上の首が健在なのだ。そして、残りも戦線復帰しつつあるのである。がくんとロベルドが膝を折る。ヴェーラも血塗れた手でハルバードを掴み、やっと体を起こす。

焙烙の印を切り、投げつける。炸裂した焙烙は、周囲に煙を巻き、敵の攻撃を一瞬だけ鈍らせる。更にフリーダーがクロスボウを繰って、連続して矢を叩き込む。そして、ついに待ちに待った攻撃魔法が炸裂した。

「悠久の海原に潜む世界蛇ヨツムンガルドよ、汝の長き腹々にたゆたいし水を力に変え、我が剣とし貸し与えたまえ! そが鋭き一撃にて、我は永遠の勝利を約束されたし! 砕き、散らし、そして吹き飛ばせい! 氷剣降臨! ザクルド!」

中級冷気魔法ザクルド。本来は三メートルほどの氷柱を複数作り出し降らせる術であるが、今コンデが使ったそれは、従来品の二倍ほども質量がありそうだ。長さにして四メートル強、数は七本、冷気の固まりが容赦なくヒドラへと降り注ぐ。三本は胴体に突き刺さり、二本は首を抉り込み、残念ながら二本は外れたが、胴体の至近に着弾して動きを封じる。突き刺さった氷柱は溶けかかっているが、それでも質量攻撃の破壊力は絶大で、首を二本引きちぎられ、胴体に深々と刃を突き立てられたヒドラは、今までになく苦しそうに絶叫した。

氷柱に動きを封じられ、もがいている首を蹴って、ロベルドが突撃した。そして首の根本へ、バトルアックスの一撃を何度も叩き込む。体を揺らしてロベルドを振り落とそうとするヒドラだが、それは急所をより明らかに晒す事に繋がった。何本か、まだかろうじて動ける首はあるが、それはフリーダーが連射する矢に阻まれ、ファルにもヴェーラにも到達出来ない。ヴェーラと息を合わせ、ファルは突撃する。そのままヴェーラは真っ正面に、生きた杭となってハルバードを突っこみ、敵の首の間に痛烈に差し込んだ。

風が軽い。そのまま氷柱の一つを蹴り、高々と跳ぶ。ヒドラの真上に出たファルは、敵に目を凝らす。そして見つけた。敵の背中の一点にある、魔力流の集約点を。刀を逆手に持ち代える。そして、重力におのが身を任せ、着地と同時に、一息に刃を突き立てていた。

ぎゃ、ぎゃああああああ、ぎぎゃあああああああああああああっ!

断末魔の悲鳴を上げるヒドラだったが、勝利はただではもぎ取れなかった。ぐったりしたヒドラの上で、その血を大量に浴びたファルは、全身が鉛のように重い事に気付いた。傷口から血も入っているし、これは厄介そうである。まだ何とか動けるが、これ以上の戦闘は厳しい。更に、今ひとつ悪い事がある。

「のおおう!」

後方で戦っていたサンゴート騎士団の真ん中で火球が炸裂し、煽りを食ったコンデが頭を抱えて地面にへたり込んだ。どうやら騎士団は押され押されて、ファル達の後衛に接触するほど後退していたらしい。フリーダーが老魔術師を助け起こし、エーリカと共にすばやくヒドラの亡骸の方へ下がる。ロベルドもヴェーラも慌てて態勢を立て直そうとするが、ファル同様、立っているのもやっとの様子だ。一番最後に、ヒドラの死を確認してから、ファルは皆の間に降り立った。それだけで、膨大な努力が必要だった。全身がだるく、膝が笑っている。力が抜けていく感触だ。何とか刀を構えるが、視界は霞み、三半規管はぐらつき放しである。

「敵は一体、何だ?」

「夢魔が三体、レッサーデーモンが二体。 後、やたら強い正体不明なのが一匹混じっているわ。 あれが終わったら回復にはいるから、もう少し我慢して」

エーリカの言葉が終わる前に、レッサーデーモンが残り一体になり、更に夢魔が残り二体になる。大剣を振り回しているのは、先ほど散々嫌みを言ってきた女騎士だ。レッサーデーモンの爪をかいくぐると、伸び上がるように剣を振るい上げる。そして、敵の顔面を顎の下からたたき割った。声もなく倒れるレッサーデーモンを踏みつけ、中空から躍りかかってきた夢魔と斬り結ぶ。確かに腕は悪くない。ベルグラーノと良い勝負が出来るほどだ。その隣では、騎士団長が相変わらず見事な腕前で、得体が知れない相手と斬り結んでいた。

その得体が知れない相手は、白い翼を持ち、双剣を振るっていた。顔は道化師をかたどったマスクで隠していて、薄青い美しい皮鎧を身に纏っている。大きさは人間と大差ないが、兎に角敏捷で、ふわふわ浮きながら騎士団長と五分以上に戦っているのは凄まじい。騎士団長の振るう剣は決して遅くも鈍くもないのに、それを片手で受けつつ、隙を見ては交戦中のサンゴート騎士を切り伏せているのだ。しかも殺さないように、わざと重傷を負わせながら、である。地面に伏しているサンゴート騎士は四人。いずれもその白い翼にやられた様子だ。魔術師も斬られて倒れており、戦力の低下は明かである。

「羽虫が! 引っ込め!」

女騎士の振るった大剣が、最後に残った夢魔の首を跳ね飛ばした。肩で息をつきながら、残ったサンゴート騎士が二人、彼女を守るように隊形を組み直す。女騎士は騎士団長と五分以上に戦う怪物に恐れを抱く様子もなく、不敵に笑うと、吠えつつ突進した。コンデが驚きの声を上げるが、無理もない。

「どけ! 邪魔だああああああっ!」

「なんと。 正に蛮勇じゃのう」

「たすけ、なくて、いい、のか?」

「勿論助けるわよ。 フリーダーちゃん、狙撃行って」

ロベルドの声はかすれ、途切れ途切れだった。疲労と打撃が激しい前衛が戦闘に加わっても、役に立てるとは言い難い。また、乱戦が続いている為、攻撃魔法を叩き込んでは味方も巻き込んでしまう。エーリカの指示は的確だといえる。フリーダーは無言でクロスボウに新しい矢を装填して、腰を落として精密射撃の態勢に入った。

踏み込むと同時に、女騎士が大剣を大上段から叩き付ける。同時に騎士団長が息を合わせて、被せるような斜めからの剣撃を見舞う。回転しながら白い翼は、横からの力を加えて大上段からの一撃を流しきり、斜め下から抉り込むような神速の剣を見舞って騎士団長を引かせ、その攻撃を凌ぎきる。更にサンゴート騎士の一人が槍で突き掛かるが、跳躍してその穂先を踏みつけ、宙で回転して顔面に跳び膝蹴りを見舞い、残った一人の、唖然としているサンゴート騎士に頭上からの一撃を叩き込もうとした。その脇腹に、フリーダーの放った矢が突き刺さる。動きが止まる。振り上げられた女騎士の剣が、白い翼の鎧に背中から食い込み、はじき飛ばしていた。

「ギャッ!」

無惨な悲鳴を上げて、白い翼が吹っ飛び、壁に叩き付けられる。大剣での一撃をもろに貰ったのだから当然の話だ。それでも立ち上がろうとする白い翼は、背中から女騎士の容赦ない一撃を浴びて、唐竹割りにされた。どうと倒れた白い翼は、不思議な事に塵となって、風に吹かれ消えていった。大きく肩で息をついていたサンゴート女騎士は、エーリカを血走った目で睨み付けてきた。

「貴様あ! 誰が助けろと言った!」

「貴方を助けたつもりはないわ。 勝利の為に、必要な手を打っただけよ」

「他人に手を貸されての勝利など、誰が望むか! そんな勝利よりも、名誉ある死の方がましだ!」

「そう言う事は、敵を実力で倒してからいえば良いわ。 それに、自己の嗜好で部下を死なせる権利なんて、何処の上官だって持ってはいないはずよ」

エーリカの言葉は冷酷であり、事実を容赦なく抉っていた。怒り収まらない様子で、女騎士は床を蹴りつけながら向こうへ行ってしまった。さきほど白い翼に頭を割られそうになった騎士が、エーリカに頭を下げると、女騎士を追っていった。ため息をつきながら、ベルグラーノがその後ろ姿を見送る。

「やれやれ、猪のような娘だ。 ところでエーリカ殿、相変わらず見事なタイミングでの狙撃だったな。 其方の子供の腕も素晴らしいが、狙撃を指示した貴女の指揮も見事だった」

「いえいえ。 勝つ為の、必要な一手ですわ」

「サンゴート騎士達の治療は私に任せろ。 もっとも、これでは一度戻らないとならないだろうが」

騎士達は致命傷に近い打撃を受けており、二人は腕を根本から切り落とされていた。もう剣は持てない。勝ちはした。しかしある意味、死よりも残酷な運命をサンゴート騎士達は貰ったのであった。あの白い翼を持つ、得体が知れない存在に。

 

エーリカが大量に血を浴びているファルを座らせ、傷口の周囲を丹念に布で拭き取り、それから解毒の魔法を唱え始める。一般に解毒の魔法は複数種類あり、毒に合わせて使い分けないと全く効果を示さない厄介な物だ。その上、毒によって失われた体力は回復しない。そのため、毒は非常に厄介な探索の敵となる。フリーダーと協力して素早く治療を進めながら、エーリカは言う。

「大丈夫、致命傷にはならないわ。 ただ、体が凄く弱っているのは事実よ。 もう戻って、本格的に休んでおかないと、後に響くわ」

「……やむを得ないだろうな。 先ほどの白い翼だが、何者だ? 心当たりはあるか?」

「そうねえ。 あの姿からして、ハリスの切り札と言われる天使でしょうね」

「魔神と対を為すというあれか?」

真っ赤に染まった布を床に置きながら、エーリカは頷いた。ロベルドとヴェーラの治療も済んだ今、床には紅い布が散在していた。

魔界と呼ばれる、此処とは違う世界があり、其処から魔神と呼ばれる存在達が地上へと現れる。これは高位の魔神が歴史上何度か語っている事で、ほぼ間違いない事実である。彼らには人間如きに嘘を付く理由がないし、地上の生態系に魔神が噛んでいる事も確認されては居ないからだ。魔界はとても環境が厳しい世界であり、住人も必然的に手強いのだという。魔神達が、人間を遙か凌駕する実力を持つが所以である。

一方で、天界と呼ばれる世界もあり、其処には光満ち、天使と呼ばれる白き翼を持つ住人達が住んでいるという。驚くべき事に、魔神と天使は根本的に同じ存在なのだともいうが、それに関してはハリスの法王庁が否定しており、真相は謎に包まれている。

此処で問題になってくるのは、ハリスのランゴバルド枢機卿を始めとする何人かが、その天使を召喚使役出来ると言う事だ。

ハリスが契約して使役する天使は強い。下等のものでもレッサーデーモンよりも優れた実力を持ち、かなり強力な魔法も使いこなすという。しかも性質は様々で、中には酷く凶暴な存在もいるというのだ。そして、先ほどの存在が天使だとすると。使役しているのは、ほぼ間違いなく、宰相派と行動を共にしているランゴバルド枢機卿であろう。

「宰相派は七層以降に潜っていると言うけど、これは本格的に騎士団と戦うつもりかしらね」

「神の御使い様が、くだらねえ人間の争いなんぞに手を貸すとはな。 世も末だぜ」

「ロベルド様、ディアラント文明の時代でも、天界の者は報酬によって人間の争いに手を貸していました。 その点は、昔と今で変わっていません」

「やれやれ、全くこの世の中はどうなっていやがるんだ?」

フリーダーの言葉を聞いたロベルドが、大きく嘆息していた。技術と精神は別であるという現実をいやというほど見せつけられ、また天使の事実をこうして見せられる。信心深い者や純粋な者であれば、全てに絶望していてもおかしくない。

「此方は応急処置が終わった。 其方は?」

「此方ももう帰ります。 今日はお役に立てずに、申し訳ありませんでした」

「いやいや、とんでもない話だ。 ヒドラとあのバケモノを一緒に相手にしていたら、確実に我々は全滅していただろう。 君達には助けられた。 改めて礼を言う」

エーリカとベルグラーノは握手を交わすと、ふくれっ面で戻ってきた女騎士も一緒に、負傷者を集めて転移の薬を使って一度地上へと戻った。次こそ、この厄介極まりない階層を攻略してみせる。その決意を胸に秘めて。

 

騎士団長達と別れたファル達は、宿へ直行していた。このチームに、寺院に行くという選択肢は最初から無い。医療に関しては、皆エーリカを信頼しているからだ。無論エーリカが倒れた場合は寺院へいかないといけないが、その時はチームが壊滅状態になっている可能性が極めて高い。

「世の中ってよ」

バトルアックスを杖代わりに歩きながら、ロベルドが言う。

「ガキの時分、きたねえもんだって思ってた。 でも、現実は違うんだな」

「そうだな。 子供の時に夢想し或いは見ていた汚い世界など、現実に比べればどれほど綺麗で美しいか。 世の底は何処までも深い。 真の地獄とは、魔神共が蠢く魔界などではなく、魑魅魍魎より恐ろしい人間が闊歩する現世の事かもしれないな」

「それでも、努力すれば世界は目立って良くなるわ」

エーリカの言葉に、皆が驚くように視線を向けた。くすくすと笑いながら、エーリカは続けた。

「前に言ったでしょう? 愚僧はこの国を良くする最善の方法として、カルマンの迷宮攻略を選んだって。 愚僧はね、自分で言うのも何だけど、嫌になるほど前向きな人間なのよ」

「……確かに、お前が後ろ向きだったら、今まで勝ててこなかったよな」

ロベルドがエーリカの言葉の正しさを認め、納得して頷いた。今日の探索は、ほぼ丸一日、今までよりもずっと早く終わった。今後の探索は、時間こそ短いが激しく厳しいものへと変動していきそうだった。

ふと気になった事を思い出したファルは、隣を歩くエーリカに言う。

「そういえば、あの天使。 殺ろうと思えば殺れたのに、わざわざ重傷を選んで負わせていたな」

「……多分それはね。 目的が足止めだからよ」

「成る程、理にかなう」

兵器の中には、わざわざ相手に重症を負わせるように設計されたものがある。これは負傷兵というお荷物を相手に背負わせる為だ。死者は埋葬するだけで済むが、負傷者は治療し、復帰させる事を考えなくては成らない。簡単に復帰させない程度に負傷させ、敵の力を削ぐ。そういう思考法は確かにあるのだ。となると、ますます相手は宰相側に限定されそうである。しかしそれは同時に、騎士団に完璧に喧嘩を売ると言う事だ。

「長期的には、理があるとは思えないのだが」

「長期的、ならね」

エーリカの目が光る。何か彼女には、思い当たる節があるようだった。

 

騎士団員に負傷者を寺院へ運ばせながら、ベルグラーノは考え込んでいた。サンゴート騎士達は問題ない働きをした。ドゥーハン騎士団と実戦能力は殆ど同じだ。しかし、彼らは負傷し、戦列を離れざるを得ない者も何人か出た。結果、七層の魔物の実力は、嫌と言うほど分かった。手応え次第では、六層と同じく四個ほどの精鋭小隊を編成して探索しようと思っていたのだ。しかし今回の探索によって、今後は最小数最精鋭での探索に切り替えるべきだと、彼は結論していた。そうしないと、死人が増えるばかりである。

判断力に優れるリンシアと、現在騎士団随一の武勇を誇るアオイ。この二人は外せない。サンゴート騎士団を束ねるヴァイルには別行動をして貰うとして、後何人か、最精鋭と呼べる人材を招集する必要がありそうだった。

ふと騎士団長が視線をずらすと、あの野猪ヴァイルが、珍しくしょげ込んでいた。サンゴート騎士にしては珍しく感情を表に出すタイプだが、性格が激しすぎる為、皆怖れて近づこうとしない。社交的なリンシアとは犬猿の仲であるし、案外孤立しがちな娘だ。珍しくアオイとはコンビが続いたりもしているが、アオイの場合は相手などどうでも良い様子であるし、微妙な所である。しばし悩んだ後、騎士団長はヴァイルに話しかけた。

「ヴァイル卿、何か落ち込むような事でもあったのか?」

「……貴公には関係ない事だ」

「そうだな、確かに関係ない事だった。 失礼した」

声を掛けるだけアホらしかったと思いながら、騎士団長はさっさと背を向け、騎士の一人を呼び止めた。今は我が儘お嬢様に関わるよりも、七層探索の最精鋭部隊を選抜せねばならないのだ。此処は戦場で、お嬢ちゃんのデリケートな心に構っている暇はないのである。そんな事をしている暇があったら、現実的に情報を処理して、味方の損害を少しでも減らし、任務達成へ進まなくては成らないのだ。騎士団長は、自身もガキ丸出しの思考法を時々する事を棚に上げられるほど、仕事自体は良く出来る。今回もそうやって現実的に思考を進める事が出来た。

とりあえず、リンシアとアオイは呼び出す必要がある。それに僧侶を一人と魔術師を一人。此方は冒険者ギルドに手配して貰うか、或いはユグルタかハリスに声を掛けたい。後は支援要員として、腕が良い盗賊か、或いは。

「忍者……か」

忍者と言えば、真っ先に思いつくのが、あのファルーレストだ。先ほど直に戦いぶりを確認したが、確かに強い。ヒドラを仕留めた時の一撃等は異常なまでに的確だったし、気配を自在に操って敵の攻撃を軽減し、風のような速さで動いていた。あのゼルのうさんくささから、すっかり忍者を倦厭していたベルグラーノだった。が、ファルの噂を聞き続け、そして先ほど直にその実力を見た結果、偏見は綺麗に取り去られていた。無論ファルは既にエーリカのチームに入っているから無理だとして、後、残る人員は誰であろうか。忍者ギルドは弱小組織だから、ファルほどの人材がそういるとも思えない。となると、選択肢は限られてくる。

飄々とした、あのフェアリーの顔が思い浮かぶ。嫌いでしょうがなかった、あの得体が知れない男の顔が。迷宮内で動き続けているというゼルを、何とかして今後の探索任務に直接協力させられないだろうか。そうすれば、戦闘力を持たない盗賊を入れるよりも、遙かに有意義なのではないだろうか。そんな風に、騎士団長は考えていた。

そしてその考えは、様々な事態の錯綜を経て、実現する事となる。

 

5,誘拐

 

傷がすっかり癒えたゼルは、迷宮内を以前のように飛び回っていた。

彼は時間さえあれば、最優先項目である王女の護衛をずっとしていたかった。しかしながら、彼が受けた任務は多岐に渡り、いずれも放棄するわけには行かないのである。特に騎士団はゼルがもたらす新鮮な情報を頼りにしている。また王へも情報の伝達を怠るわけには行かない。更に言えば、影から騎士団長を守る為、様々な工作もせねばならなかった。これらの任務を体一つでこなしているのだから、なかなかにゼルの能力は桁が外れている。無論簡単な任務は、部下の教育もかねて、ライムや一線級の上忍達に任せているのだが。最近は、情報の整理と伝達は責任監督のみにまわり、ライムに実務面を任せている。また、七層以降の階層探索は、ファルに任せられそうで、安心していた。

王女が潜んでいるあの不思議な建物に、リュートとエミーリアを連れ込んだのも、ゼルである。無論是は王の依頼を受けての事だが、ゼル自身がずっとあの階層にとどまれないと言う事も原因の一つとしてあった。あの二人に、より強固な結界を張らせて、特殊構造の建物の防御を更に強化する。そして、合わせればゼルと良い勝負が出来るほどの腕前である二人を置く事で、最後の防壁とする。実際問題、それで今までは、万が一の事態を避ける事が出来てきたのである。しかしそれは、過去形へとなり果てていた。

六層で詰め所の作成に当たるべく、騎士団が結界作成要員と、二個小隊を動員した。ゼルは彼らを安全な道から案内し、詰め所に最も適した場所へ導いた。そして何人か連れてきた上忍と一緒に護衛に辺り、何とか半日間守りきる事に成功した。途中何度か魔物の襲撃があったが、ゼルの哨戒によって事前に接近を察知し、撃退出来たのである。後は補給物資の輸送などであるが、それは騎士団と部下に任せて、自身は王女の元へ一度戻った。

その帰り道、得体が知れない魔物に道をふさがれたのである。白い翼を持ち、両の手に棍を持った存在であった。そいつは青い皮鎧を身につけ、道化の仮面をかぶっており、全身から圧倒的な威圧感を放っていた。外見からでも、六層の魔物を遙か凌駕する実力が感じられる。

それよりも問題なのは、明らかに待ち伏せされたと言う事だ。此処三十年間、ゼルは敵に待ち伏せされ、先手を打たれた事など無い。今目の前にいる相手程度なら、確実に追跡や監視を察知出来る。にもかかわらず、待ち伏せされたと言う事は。

強烈な危機感が、ゼルの腹の底から沸き上がってきた。

「どけ……!」

殺気を叩き付けられても、白い翼は微動だにしない。舌打ちしたゼルは、彼らしくもなく焦りきり、最初から全力で敵に躍りかかった。

 

ゼルが足止めを喰ったのと、ほぼ同時刻。

オリアーナ王女をかくまっている建物の中は、魔法飛び交う戦場と化していた。その勝敗は既に決していたが、敗者が必死の抵抗を続けていたのである。

勝者である大天使マリエルは、小脇に意識がないオリアーナ王女を抱えていた。王女がいる場所を特定したマリエルは、ゼルが結界を離れる事、騎士団長を足止めする事、を同時に行い、それが成功するのを見計らって誘拐を実行に移した。そして成功したのである。結界の中から悠々と出てくる彼女の眼前を、火球が掠める。瞬き一つせずに歩き続ける彼女の側頭部に、今度は火球が直撃した。しかし、炎はかき消えるように消えてしまう。

グレーターデーモンなどの上位の魔神が持っているのと同じ能力、耐魔無効化オーラである。瞬間的に魔法の構成を分析し中和する事で、無力化してしまうのだ。勿論、マリエルの全身を覆うオーラを貫通するほどの強力な魔法をぶつければ突破は可能だが、そんな事が出来る人間は居ない。無傷のマリエルは、ゆっくり攻撃魔法を放ったものへと視線を向ける。エルフの双子の魔術師は、傷つきながらも、マリエルを気丈に睨み付けてきていた。

「王女様を返しなさい!」

「王女様を、返しなさい!」

双子の声が重なる。此奴らがかなり優れた術師だというのは知っていた。だから部下の一人であるインヴォルベエルに不意をつかせ、同時に自身は王女を確保したのである。同時の攻撃に此奴らは対応出来ず、王女を逃がす事も出来なかった。そして今、マリエルを止める事も出来ない。

「貴様らの相手は、この私だ!」

大振りの槍を振るって、中空からインヴォルベエルが双子に襲いかかる。双子がマリエルに気を取られた瞬間、間合いを詰めるのに成功したのだ。双子は魔術師にしてはかなり動きが良いが、それでも天使に接近戦を挑まれてどうにか出来るわけもない。紅い服の方が槍に薙がれて壁に叩き付けられ、もう一方が後ろからインヴォルベエルに火球を叩き付けるが、振り向きざまの回し蹴りを貰って床に転がる。

「手間をおかけしました。 今、此奴らにとどめを刺します」

「インヴォルベエル」

「は、はっ!」

「放っておきなさい。 半殺しにした方が、却って時間は稼げるわ」

恐縮して礼をするインヴォルベエルを従えて、マリエルは建物を出る。白々しく、「空」には雲一つ無かった。

「ザフキエルとリシュルエルは?」

「残念ながら、ザフキエルは既に霊波が途絶えております。 リシュルエルは、未だゼルと交戦中の模様です。 救援に向かいますか?」

「私、無能な奴は嫌いよ。 放っておきなさい」

マリエルは翼を広げる。純白の、高貴な、巨大な翼である。二対の白い翼は、フェアリーのそれと同じく、魔力で形作ったものだ。

天使が空に舞い、そして駆ける。その手には、今後の情勢の鍵を握る、ドゥーハン王女の姿があった。

 

(続)