師弟激突

 

序、忍者という存在

 

忍者ゼルが、忍者ギルドを訪れたのは、昼を少し過ぎた頃であった。フェアリーの忍者である彼は、掘っ建て小屋同然の(城)を、目を細めて見やると、がたついている戸を潜る。中では数名の事務担当員と、長老格の忍者が詰めていて、色々話をしていた。暫く無言でゼルは見ていたが、それにも飽きてきたので、咳払いして皆に自己の存在を気付かせる。気配を消すのが習性になっているとはいえ、情けないと若干思いながら。

「おほん。 久しぶりだな、皆の衆」

「おお、これはゼル様。 いつカルマンからお戻りになりましたか?」

「つい先ほどだ。 宰相派の弱体化を確認して、一息ついたので戻ってきた。 マクベインの死によって、宰相派は迷宮内部での実働戦力と、迷宮外部での活動戦力を併存させる力を無くした。 今枢機卿が数人のアサシンを連れて迷宮内で活動しているが、彼らの探査戦力は事実上もうそれだけだ。 どういうわけか宰相は地上に出ようともせず、戦力の補強をしようともしないから、しばらくそれに代わりはないだろうな。 騎士団は主力の補填とサンゴート騎士団との話し合いを進めていて、近いうちに地下七層への階段を探すべく本格的に動き出すだろう」

慌てて姿勢を正す部下達の前で、ゼルは幾つかの戦利品、迷宮で拾ってきた武具や高価なマジックアイテムを机上に置く。ゼルは飄々としている反面、金銭欲が無い事で有名で、どんなに高価な宝物を褒美に貰っても殆ど興味を示さない。部下がその宝物を褒めると、欲しければくれてやると言う。そして本当に与えてしまう。そんな事が繰り返された結果、部下の間では、ゼルの宝物は絶対に褒めない事、という不文律が出来あがっていた。今回もゼルは、下手をすれば小さな城が買えるほどの強力なマジックアイテムを無造作に並べ、予算の足しにしろと言い放ち、困惑する部下達に更に言った。

「ファルーレストは、今何をしている?」

「ファルですか? あ奴ならば、今頃は迷宮に潜っている頃かと思われますが」

「定時連絡は今でも欠かさないのか?」

「はい。 おそらくあ奴は、誰よりも真面目で誰よりも不器用でしょう」

確かにファルには、謀反とか裏切りとか、そういった言葉がこれ以上もないほど似合わない。似合わないと言う以前に想像出来ない。盲目的に心酔するのではなく、冷静に絶大な忠誠を持ってギルドに仕えていてくれている。ゼル本人としても重大な信頼感があるし、ギルドとしても大事に扱い、これから頑張って貰いたい逸材だ。戦闘面ではファル、情報面ではライムが、今の忍者ギルドにおける二大エースであった。そしてゼルの存在が、数が少なく組織力に頼らざるを得ない忍者ギルドを、確実に団結させていたのである。故に、ギルドの面々は、仲間が今何をしているか大体把握している。組織の団結が浅いと、こうは上手くいかない所だ。

ファルが枢機卿一派の戦力削り取りに貢献した事は、まだ秘密だ。当然ファルもそれを知っていてその上でレポートには書いていないはずだが、念のために確認にはいる。ゼルはファルが提出したレポートに目を通すと、小さく唸った。まるで居ながらにして迷宮内部での戦闘や探索、蠢く魔物共が目に浮かぶようである。実に精緻に書き込まれていて、思わず頷かされる。きちんと宰相一派との争いは省かれてもいる。ただし、案の定、字はライムのものだ。白々しいと思いつつも、ゼルは部下に聞き返した。

「これは?」

「いや、あ奴のレポートは情報量こそ多いのですが、それが全く整理されていないので、ほとんどレポートの体を成しません。 そこでライムや奴の後輩達が纏めて、そう言う形にしておるのです。 手間はかかりますが、今ではファルのレポートは、膨大な情報と迷宮内部での行動の指針となる、大事なカギですので」

「相変わらずだな、彼奴は」

分かり切っている事に大きく嘆息したゼルは、絶望しきった瞳を思い出していた。初めて雨の中で会った時、ファルは自分を含む全てに絶望していた。ゼルが初めて見るほどに、その悲しみと、自分に対する憎しみは深かった。周囲は皆嘲笑していた。ゼルは迷わず、手をさしのべた。今でもありありと思い出せる。あの日の事は。

「ファルーレストはこれから上忍扱いとする。 状況突破力と言い、戦闘能力と言い、もうその扱いを得られる充分な資格がある。 我らが保有する情報の全てを閲覧する許可を与える。 それに伴って、ファルの集めた情報を整理する忍者を正式に任命しておけ」

「はっ!」

功績、能力、経験。ありとあらゆる面で、ついにファルがゼルの後ろに立った。今回のレポートでそれが確実になった。世界最強の忍者ゼルは、部下に幾つか指示を追加で出しながら、戦いの時を思い、不敵な笑みを浮かべていた。

 

各国が忍者の実力を認め、特殊部隊まで編成して軍事力に組み込んだ後の世からすれば信じがたい事であるのだが、オルトルード王の時代には忍者は極めてマイナーな存在であった。母集団は極めて貧弱で、所属人員も少なく、ゼルやファルーレストのような例外を除いて各個人の実力もそう大したことがなかった。アサシンギルドのような大手諜報暗殺組織が、殆ど問題視しなかった事からも、その零細ぶりが伺われる。

だがそれでも、冒険者ギルドには職業の一つとして登録されているし、掘っ建て小屋同然とはいえギルド内部には敷地も確保されている。これはゼルだけではなく、その先達や先人達が数百年も努力を重ねて、その結果ようやく世間に認めさせたからである。特にその中でも、ゼルの功績は非常に大きい。ヒューマンよりも寿命が長いフェアリー族の彼は、バンクォー戦役の頃から現役の忍者として各地の戦場を飛び回り、多くの戦いと情報収集を繰り返しては、ドゥーハンの力になった。忍者はまだまだ数が少なく質も低く、殆ど彼一人の力しかなかった為、派手な功績はなかなか立てられなかった。だがそれでも相当な成果を上げ、数年前にはもうオルトルード王も一目置く存在となっていた。現在、オルトルード王に重要な任務を任され、判断を一任されている事から言っても、その信任の深さは明かである。

ゼルは天才という言葉を恣にする存在であった。その格闘戦能力は非常に高い次元に達しており、情報収集能力もずば抜けている。本来非力なフェアリーという種族にもかかわらず、種族が得意とする魔法を使わないにもかかわらず、その戦闘力を怖れない裏業界の者は居ない。単純な個人レベルの格闘戦闘能力で言えば、その実力は世界でも確実に五指に入る。

その彼が、もっとも有望な弟子として目を付けていたのが、ファルーレスト=グレイウインドと、ライム=ストラディアである。ゼルは、ファルには己の持つ戦闘技術を全て仕込み、ライムには情報収集のノウハウを叩き込んだ。これは如何なる事かというと、ファルはゼルと同等かそれ以上かとも思われるほどの格闘戦センスの持ち主であり、ライムはおっとりしていたが情報収集整理に卓絶した才能を持っていたからである。その一方で、ファルは情報収集整理を苦手としていて、ライムは実戦におけるセンスが致命的に不足していた。

後に戦闘系忍者の祖となるファルと、情報収集系忍者の基礎を築いたライムは、どちらも完璧な存在ではなく、才能でかなりの偏りがあった。だがその才能に見合う技能を見抜いて叩き込み、鍛え上げた存在。それがゼルなのであった。

後の時代の基礎となった忍者二人の師であるゼルは、一方でかなり飄々とした人物であり、神格化が向かない存在でもあった。どちらかと言えば内向的なファルはその点では神格化がしやすく(何しろ身辺の者にしか素を見せなかったので)、後世における崇拝の対象としてはもってこいであった。事実後の時代の忍者で、ファルを崇拝する者は珍しくもないのだが、ゼルを崇拝する者はほぼ存在していない。何時の時代も何処の世界も、種族としての人間などと言うのは、そんな程度の連中である。

だが後の時代にゼルが自らの評判を聞いたとしても、彼は気を悪くなどしなかったであろう。なぜなら彼は自らの弟子達を愛しており、その幸せを自らの幸せと重ねていたのだから。彼女らが多大な功績と名誉を後世に残す事が出来たのだから、もし後世にてゼルが忍者達を見たら、満足した事は疑いがない。

その最愛の弟子が、ついに今、師を追い抜こうとしている。しかし自らの腕に自信を持っているゼルは、それを嬉しく思う一方で、簡単に抜かせてやるつもりもまたないのであった。それは武人が持つ、救いがたい業であった。

 

幾つかの指示を出してギルドを後にしたゼルは、久しぶりに陽の中を歩く事に気付いて目を細めた。カルマンの迷宮は決して暗いだけの場所ではないのだが、やはり日光が注ぐ外の世界とでは比較にならない。

やはり陽の中はいいものだと、歩きながらゼルは思っていた。

「ゼル様ー!」

部下が自分を呼ぶ声がする。ファルと双璧を為す、忍者の希望の星の声が。振り返ったゼルは、忍者らしくもなく、満面の笑みを浮かべて手を振っている娘を見つけていた。薄赤い毛をポニーテールにした陽気な娘だ。全身から発散する陽気な雰囲気が、何処にでも良そうな平凡な顔立ちを、魅力溢れる存在へと一変させている。

「ライムか。 王はどんな様子だ?」

「ファルと対面してからは、特に動いていませんよぉ。 状況的には、小康状態になっていますね。 宰相一派は迷宮に潜ったまま出てこないし、表は平和なもんです」

「一応、今のうちに伝えておく」

ライムの表情から笑みが消え、陽気な雰囲気もかき消えた。ゼルの言葉で、自体の重要性を認識したからだ。

「私にもしもの事があった場合は、お前とファルが次のギルド長だ。 形式的にはお前がナンバーワン、ファルがナンバーツーとして、情報面と戦闘面をそれぞれ担当して事態の解決と組織の運営に当たれ」

「ゼル様、貴方にもしもなんて、ありえないですよぉ」

「私は人間だ。 である以上、もしもはいつでもありえるさ」

それだけ言い終えると、ゼルはライムを置いて、王城へと歩き出した。王に、幾つか直接報告する事があったからである。少しその背中は寂しかった。ファルの恩人であり、自身にとっても恩人であるオルトルード王に対して、これが最後の対面になるかも知れなかったのだから。

 

1,父子の確執

 

自室のベットで、ロベルドは身を起こした。マクベインとの死闘以来、地下六層の探索が続いていて、昨日の戦闘は特に激しかった。デュラハンの大集団との接近戦となり、彼自身は数体を切り伏せた後負傷し、今日は休むように言われてベットでふて寝していた。まだ少し体が痛い。動くと不味いと言う事は、経験的に分かる。ストレス発散にも多少は動きたいのだが、そうすれば傷の治癒が遅れるのは明白だった。

極めてロベルドは不快だったが、それは彼が見た夢に起因している。しばし無言の中にいたドワーフの青年は、やがて舌打ちして、壁を拳で一打ちしていた。

戸が叩かれる。外にある気配は、戦闘要員の物ではない。誰だか見当は付いているので、乱れた着衣を多少直す。

「誰だ? エイミか?」

「はい。 ロベルド様、昼食をお持ちいたしましたわ」

「おっ、すまねえな。 遠慮無く入ってくれな」

部屋に入ってきたロベルドは、エイミが石焼きと呼ばれるドワーフの伝統的な好物を山盛り持ってきてくれたのを見て、小さく口笛を吹いていた。ベットの横の小机に水と石焼きを並べると、エイミは笑顔で出ていった。石焼きを切り分けて、口に運ぶ。美味しい。エルフ族は(エイミは正確には先祖帰りだが)こういった豪快で大味な料理は苦手なはずなのに、ドワーフのロベルドが充分満足出来た。何処か、もう生きていない母の作ってくれた料理を思い出させる味だった。

思い出と、幸せと、そして悲しみと、最後に憎しみ。複雑な感情を覚えながら、ロベルドは文句も付けようがない美味しい石焼きを食べ続けた。

 

多少袖を膨らませた地味な色の上着と、実用的な革ズボンに身を包んだファルは、眠いのを我慢して宿に出る。居間では茶を啜りながら、もうエーリカが書類に目を通していた。フリーダーは見あたらない。

「準備出来た? ファルさん」

「ああ。 何か変な所はあるか?」

「ううん、充分素敵よ」

「そうか」

自らを飾り立てる事に興味を覚えない女子は少ないが、ファルはその例外の一人だった。男に興味が湧かない彼女は、必然的に自らを飾る事にも興味が少なかったのである。だから、自分の格好が普通か変かもあまり判別出来ない。放っておけば、いつでも忍び装束のまま居るような人なのだ。

「フリーダーは?」

「外で待っているわよ」

「そうか。 では、行って来る」

「明日は迷宮だから、あまり遅くならないようにね」

無言で頷くと、刀を抜いて最後のチェックを行い、三十秒ほどで終えて外に出た。

ここ数日、ファルは普段着を着る事が目立って多くなった。刀は常に持ち出す事を忘れないし、油断もしないのだが、以前なら絶対着なかったような服を着る事が珍しくもなくなったのである。最初は半強制的にエーリカに着せられたのだが、フリーダーと似たような普段着で外を歩く事が別に嫌ではなかったから、ファルは拒みも否定もしなかった。だが一度穿かされたスカートだけは、足に絡まるし動きにくいしで、二度と身につけはしなかったが。エーリカが何を考えているのかは、ファルの思考の外であったが、別に嫌でもなったし、今では自発的に普段着に着替えて外出するようになっていた。無論、仕事の時は話が別である。

そう言った理由で、ファルは空色のワンピースを着たフリーダーを連れて、普段着で外にでた。普段着と言ってもデザインよりも実用性を最重視しており、自分で要所に皮を仕込んだり武器を入れられるポケットを増設している特別製なのだが、一見には分からない。フリーダーを連れている状態だと、鬱陶しい男が目に見えて寄ってこなくなるので、そう言う意味でもファルには好都合だった。ただ、此処最近はドゥーハン王都で(物凄い美人がいるが、ナンパしようとすると半殺しにされる)という噂が広まっており、ファルに近づく男はめっきり減っているのだが、肝心のファル自身は男に対する無関心も手伝って気付いていない。

そんなファルに声を掛けてくる命知らずが現れたのは、用事がだいたい終わった頃の事であった。

 

物資の集積地だけあり、ドゥーハン王都で揃わない品物はない。少なくとも、ベノア大陸で生産される品で、此処を通過しない物は存在しない。最近はカルマンの迷宮の発生とそれに関する一連の事件のせいで、多少経済が冷えているが、それでも街を歩いて揃わない品はない。きちんとした鑑定眼さえ持っていれば、露店でもかなり良い品物が手にはいるし、高級店では金さえあれば大陸でも最高級の品物を入手出来る。今日、ファルは最近売り出している(カシナート)という銘柄を調べるべく、各所の大手武器屋を周り、数所で発見する事が出来た。鍛冶といえばドワーフと相場が決まっているのだが、このカシナートはヒューマンの鍛冶師が鍛え上げたもので、しかもドワーフ製の最上級品に匹敵する品質を持っている。デザインは無骨だが、切れ味は文字通り抜群であり、値段分の価値は充分にある。まだ手が届くほど金は貯まっていないが、もし入手出来るのなら一つ腰に付けておきたい品物であった。

ただ、値段が値段であり、手にとって見せてくれる店はなかなかない。遠目に見る分でも良い品だというのは一目瞭然だったので、ファルはどうしても手に取ってみたくなってきた。四軒目でも拒否されたファルは、小さく嘆息して、じっと自分を見上げているフリーダーに言う。もう他の用事はあらかた済んでいるし、これ以上は時間の浪費になる可能性が極めて高い。

「次を見て、駄目なようなら帰るぞ」

「はい、ファル様」

「カシナートが見たいのか?」

無言で刀に手を掛けたファルが声の主に視線をやる。其処にいたのは、以前地下四層で、共にワーウルフと戦ったドワーフの戦士だった。ロベルドの父親で、名はベルタン。先代のドワーフ共同体の最高責任者で、ヒューマン達にはドワーフの王と揶揄される者だ。一見怖そうだが、面倒見のいいおじさんで、共闘した時の誠意ある態度と言い、ファルとしてもそれほど悪印象を抱いていない。ただ、ロベルドは蛇蝎の如く嫌っており、今でも彼の話はしようともしない。ロベルドは、(父だと思った事は一度だってない)等と発言していたし、父子の間に重大な確執があるのは間違いない。

「久しぶりだな。 確か、ファルーレスト、と言ったか。 其方の嬢ちゃんは、フリーダー、だったな」

「以前は世話に。 今日は何用ですか?」

「ん? いや、その、なんだ。 まあ、俺の用件は後だ。 カシナートが見たいのなら、俺が店に口を利いてやるぞ」

そういって、ベルタンは店長を呼びだし、すぐに話を付けてくれた。多少の不審を覚えながら、ファルは店員が柔らかい布に包んで差しだした剣を手に握る。重い。正直、逸品だというのは一目で分かるのだが、自分には重すぎるというのも一発で分かった。

鞘から刀身を抜き出すと、それは薄暗い店の中で怪しいまでの光を放った。磨き抜かれた金属の身には、強力なエンチャントが施されており、触れただけで高級品だと判別出来る。数度振ってみて、もうファルは満足した。確かに傑作だが、自分には合わない。それが分かれば充分だった。

フリーダーも振っては見たが、彼女も少し重すぎると言って店員に剣を返した。残念そうに剣を店の奥へ持っていく店員を見送ると、ファルは軽く頭を下げた。

「感謝します、ベルタン殿」

「ん? ああ、いや、気にするな。 俺にとっては大したことじゃねえ。 それよりも、だ」

「ロベルドに関する事ですか?」

「……ああ。 場所を変えよう。 多少なら奢るぞ、何が食べたい?」

「いえ、今度は私が払います」

これは遠慮したと言うよりも、不要な借りを作りたくないと言うファルの本音から来た行動であった。忍者ギルドなどの情報から照らし合わせた結果、ベルタンは評判通りの人物だとだいたい判別出来てはいるが、それでもまだ信用しきったわけではないのだ。だいたい、三人分の昼食くらい、経済的に余裕がある現在どうにでもなる。

「ベルタン殿は、何か食べたいものが?」

「ん? 俺か? 俺は……そうだな。 石焼きが食いたいな」

ドワーフが好んで食べる、芋類を熱した石で焼き上げ、乳脂と塩で味付けした素朴な料理の名を旧ドワーフ王は上げた。

当然この街にも、石焼きの専門店はある。鍛冶屋から五分ほど歩いた所に、カルマンの迷宮にて活動している冒険者や、石工や鍛冶師として働いている職人が集う店がある。四百以上の客席を誇るかなり大規模な店だが、値段は安く、ドワーフの女将も気さくで人気がある。店に来る者達はドワーフやノームばかりだが、素朴で安く着くので、貧乏なヒューマンやホビットも客の中には見られる。ただ、繊細な味を好むエルフやフェアリーは、貧乏であってもあまり寄りつかない。

石焼きを四つ注文しながら、ベルタンは言う。周囲は喧噪に包まれていたが、旧ドワーフ長の声は野太く、その中でもはっきり分かるほど聞き取りやすい。

「今日、ロベルドは?」

「彼奴は昨日の探索で、敵との戦闘中に壁に叩き付けられまして。 治療は済んだものの、今日はエーリカに安静を命じられて、部屋でふて寝しています」

「やれやれ、修行がまだ足りぬようだな」

「いえ、相手はデュラハンでしたので。 不意を付かれて叩き付けられましたが、その前に六体斬り倒していましたし、単純な破壊力では私より上です」

ベルタン王が目を見張る。当然の話で、デュラハンと言えば一流の冒険者でも交戦を避けたがる強敵だ。ドゥーハン騎士団だって、デュラハンが彷徨く地下六層ではあまり長居をしたがらないのである。事実、一点突破力に関して、ファルはロベルドに劣る事を素直に認めている。

石焼きが来た。大きな皿に豪快に盛り上げられた五つの芋は、油を滴らせ、身にベーコンを巻き付けて、食べてくれ食べてくれと客にアピールしていた。四つ頼んだのは、ベルタンが二人前食べるからである。こぶし大の芋を五つ、石の上で焼いて味付けしただけの剛胆な食物は、事前に石さえ焼いておけば素早く作れる事も魅力の一つだ。時間がないドワーフの職人達は、安くて美味しい石焼きを素早く胃に掻き込んで、すぐに職場に戻るのである。そして仕事が終わったら、黒麦芽酒で疲れを取るのだ。ちなみに、芋五つというのはあくまで基礎単位で、激しい労働をするドワーフ石工の中には四人分をぺろりと平らげる者もいる。湯気上げる芋を見て、ベルタンは目を輝かせた。

「おお、昔を思い出すな。 これがまた、仕事の活力として貴重でな」

「確かに手早い栄養補給には最適ですね」

「ん? ああ、まあそうだな。 だが理屈抜きに、俺はこの味が好きだな。 多分、ドワーフのほとんどもそうだろう。 料理は人生の重要な楽しみの一つだ」

どういえば、ロベルドも美味しいものを食べる時、子供のように目を輝かせる。やはり親子なのだなと思いながら、ファルは大きな芋の剛胆な料理に取りかかった。塩味は良く効いていて、真ん中までちゃんと火が通っている。非常に大味だが、確かに悪くない。冷めたらきっと不味いが、これだけ温かければ充分美味しい。隣を見ると、フリーダーも無言でかつかつと口に芋を運んでいた。皆無言のまま、食事は進んだ。会話を再開したのは、ベルタンからである。一皿目を平らげてから、彼は申し訳なさそうに言った。

「……ロベルドは……その」

「貴方の話は、絶対にしようとしません」

「そうか……何故なのだろうな……」

困惑と悲しみが、ベルタンの瞳には宿っていた。不思議そうに小首を傾げると、フリーダーはファルに言う。普通の子供よりも気が利かないが、より純粋な瞳で。

「ロベルド様は、どうしてベルタン様を嫌っているのですか?」

「……そうだな。 あの様子だと、かって何か大きな事件があったのではないかな」

「俺には見当がつかん。 俺は他のドワーフと同じように、誇り高き父親として、奴に接してきた」

「子供は、何か大きな事件があると、それを心の傷にする事があります。 そしてそれは、大人になっても糸を引き、心を縛り付けます」

ファルにも大きな心の傷は幾つもある。義父に大事なエイミを暴行され、下劣な罵声を吐きかけられ、娼館に売り飛ばされそうになった事。旧師に存在を否定され、売春を強要されそうになった事。周囲の人間共に蔑みの目で見据えられ、嘲笑に打ち据えられた事。それが客観的に心の傷になっている事は分かるのだが、それ以降の事を冷静に考えても、ファルはそれが偏見に繋がっているとは思わない。というよりも、自分の冷め切った人間に対する考えが、偏見だと思っていない。ファルは素で、世間の人間を一切信用していないし、潜在的な敵だとも考えている。恐らく今後とも、それに変動はない。個人の優しさで癒し拭うには、ファルの傷は大きすぎる。かといって、人類が種族レベルで更正するわけもない。

「大きな事件、ううむ」

「例えば、母君に何かあったとか」

「奴の母か? う、うむ。 俺は他の女と一緒に扱ったし、非礼な事はしていないと思うぞ」

母の話を何故ファルが持ち出したか、それには当然理由がある。以前ベテランの冒険者がロベルドに喧嘩を売った事があるのだが、ロベルドは母を馬鹿にされた瞬間にきれた。それも、ファルの加勢をはねつけるほどに、だ。その後の喧嘩は比較的冷静に戦術を運んでいたが、精神的なアキレス腱が母である事は間違いない。

それにしても、今のベルタンの言葉に、ファルには気になる点があった。

「他の女? ふむ……」

「ファル様? どうしたのですか?」

「いや、なんでもない。 ロベルドは私の大事な戦友で、頼りになる存在です。 ベルタン殿、後で此方からも色々調べてみます」

「そうか、すまないな。 ロベルドは、俺にとっても大事な息子だ。 それに嘘はない」

そう言って肩をすくめるベルタンは、何処にでもいる、反抗期の子供を抱えた寂しい父親だった。

「何にしても」

「うむ?」

「ロベルドが何故怒っているのか分かったら、どうしますか?」

「俺に非があるのなら素直に謝る。 昔はともかく、今はそれが俺の素直な気持ちだ」

ベルタンはもう一つ石焼きを注文した。精神面はまだしも、まだまだ肉体的には充分現役。剛胆な老人だった。

 

帰り際、ファルは図書館に寄った。ドゥーハン王都には、かって貴族が所有していた本を収めた大図書館があり、一般市民に解放されている。無論本にはそれぞれ魔法がかかっていて、持ち出そうとすると入り口でベルが鳴って捕まる事となる。余程腕の良い術師ではないと盗む事は出来ないし、そんな術師が欲しがるような書籍は奥で厳重に封印されている。そう言った本を盗むのは、あの故ウェズベル師でも難しいのだ。故に割が合わない為、本が盗まれる事は滅多にない。オルトルード王の人望と、徹底した管理もあって、図書館は静寂の中佇立している。

好きな本を読んで良いと言うと、フリーダーは目を輝かせて奥へ駆けていき、封印がかかっている本を読もうとして館員を困らせていた。やがて山ほど本を抱えて戻ってきたフリーダーの隣に座ると、ファルはドワーフ社会について書かれた本を見繕い、一つ二つと読み始めた。

ドワーフ族は、種族としては極めて外向的だが、一方でコミュニティの内情を知るものは少ない。今までのロベルドの言葉や保有知識から言っても、かなり高度な英才教育を子供に施している事、彼がそれに反発している事は確かだが、内情については不明な点が多いのだ。そこで、ファルは情報収集を苦手としている事を自覚しつつも、地道な作業に取りかかったのである。

ファルが情報収拾を苦手としている根本的な要因は、マクロ的統括が出来ない、という点にある。箇々のミクロ的な情報は幾らでも収拾整理出来るのだが、それをマクロ的視点から俯瞰し、統括整理する事が致命的に苦手なのだ。レポートなどでも箇々の点はとても精密に書かれているのに、全体的には何が書いてあるか分からないのも、其処から来ている。敵との戦闘時、特性の割り出しのレベルでは問題が無いため、今はファルも何とか我慢しているが、本来忍者としては致命的な欠点だ。

ただ、ファルはその欠点を理解していて、情報の整理は他人にして貰う事にしている。今日は幸い、エーリカが宿にいるし、フリーダーもいる。エイミも情報収集という点では達人に近い。安心感はある。自分は末端を集めていって、それを皆に整理して貰って、最終的には生きたうねりとしての情報を完成させるのだ。

手際よく、必要とされる情報を無数の書籍から引っ張り出していく。そしてレポートにまとめ、片づけていく。ファルの隣では、フリーダーが嬉々として、本当に読んでいるのか疑いたくなるような速度で、本をめくり続けていた。調査は、夕刻まで続いた。

宿に戻ると、もうロベルドが起き出していて、ヴェーラと(フーツ)と呼ばれる机上戦闘に興じていた。王や騎士を模した48の駒を升目の上で戦わせる遊びで、実に奥が深く、短時間で出来る為、ベノア大陸全土で人気がある。皮肉な話で、フーツをしている時だけは、サンゴート人とドゥーハン人が仲良く談笑していたりもする。カルマンの迷宮内部でも、詰め所にはフーツの盤が必ず用意されているのだ。

ロベルドとヴェーラはどっこいどっこいの腕前だが、今日の戦いはヴェーラが優勢のようであった。ちなみにファルはこの遊びが物凄く弱く、誰と戦ってもカモにしかならない。一方でフリーダーは圧倒的に強く、コンデもエーリカも全く歯が立たないほどだ。盤を横から見ていたエーリカに、ファルは後ろから声を掛け、別室に連れ出した。事情を説明すると、エーリカは快く協力を受け入れてくれ、ファルが集めてきた資料に素早く目を通すと、腕組みして考え込んだ。

「ふうん。 なるほど、ね」

「何か思い当たる節はあるのか?」

「思い当たる節も何も、もう分かったわよ。 要はね、ロベルドはドワーフの社会そのものに不信感を感じているの。 そう言う意味では、ファルさん、貴女に近いわ」

「私に近いかどうかは異論があるが、それは後でな。 話を進めてくれ」

にこにこしながらファルの言葉を受け流すと、エーリカは紙上に、素早く今読んだ情報を総合し、統括して並べていく。ファルが唸るのは、どうしても自分にはそれが出来ないからだ。情報の整理というのは、どうしてもセンスが関係してくる。頭脳の出来にはあまり関係がない。無論良ければ良い程理想的なのだが、それだけではどうにもならない。ファルが小枝を集めてくると、エーリカはそれを有機的にくみ上げて、大樹をそびえ立たせる。そんな光景だった。

「愚僧の知識と、エイミさんから聞いたドワーフ達の話。 それに今までのロベルドの言動と、貴方が持ってきた知識。 合わせて組み立てると、ドワーフ達は家父長的な社会を構成しているわ」

「家父長?」

「ええ。 要するにね、父たる男を中心に(家)を構成する、それの集合体で社会そのものを構成する。 そんな所よ」

「何故そんな事をする。 ドワーフの女性は冒険者として有能だし、細工等の腕も悪くない、と聞いているぞ」

ファルの言葉は事実だ。実際問題、ドワーフの女性は、ヒューマンの男よりも強靱な肉体と腕力をほこり、ドワーフの男に力では劣るがフレキシブルさでは勝る。故に、彼女らは、冒険者として需要が高い。歴史に名を残した高名な冒険者の中には、ドワーフの女性が少なからず居る。ドゥーハン騎士団にも、主力にはドワーフ女性が何名か含まれている。

「それはね、ドワーフ族の場合、要するに社会的な分業なの」

「ふむ?」

「ドワーフ族は、これらの資料を見る限り、ずっと厳しい環境で生活してきたわ。 体力があっても、ヒューマンには繁殖力で劣るし、エルフのようには魔法を使えない。 性質的に、誰かのサポートをして暮らすのは性に合わない。 ノームやホビットと違うのはこの点ね。 更に土地を持たず、巨大な国家を作れなかった彼らは、各地でコミュニティを形成して暮らすしかなかった。 軍事力でも魔法でも優位に立てない彼らが選んだのが、技術力よ」

頷ける話である。ドワーフ族は正に技術の一族だ。彼らの建築技術はベノアだけでなく他の大陸でも最高水準だとファルは聞いた事があるし、少なくともベノア大陸では真実だといつも自分の目で確認している。それだけではなく、鍛冶や細工の技術に関しても、ヒューマンはまだまだドワーフに勝てない。カシナートのような例外は、極少数だから目立つのだ。

「厳しい状況の中、ドワーフ達は何百年も試行錯誤を繰り返して、彼らにとって最良の方法を編み出したの。 それが、分業制度。 男は兎に角外で仕事をする。 結婚した女は男の世話と、家庭の維持発展に努める。 その結果、両者とも、自分の(仕事)に徹底的に集中できる。 そうして、ドワーフは社会の維持と、技術力の創設を成し遂げたのね」

「なるほど……。 全体の為に、箇々が歯車となる事を選んだのか。 それを社会的なレベルで行い、社会そのものの効率を跳ね上げる事に成功したわけだな」

「そう言う事。 ……そして、それを責める資格は誰にもないわ」

エーリカの言うとおりである。確かにそのシステムだと、犠牲になる個人が大勢出てくるのは間違いない。しかしその一方で、だからこそ技術力と競争力とを手にし、滅ぼされるのを回避してきたのである。実際問題、ドワーフ族は技術がなければ、ヒューマンに隷属化されるか、各地で極小規模のコミュニティを作って細々と暮らすしかなかったであろう。

ただ、それによって犠牲になる弱者と、反発する若者が出るのもまた必然。同時に、社会そのものが硬化し、体制が古くなっていくという欠点もまたある。

一般に、どんな制度も必ず欠点を持っている。そして人間という生物は、種族に関係なく、法の網の目を潜る時だけには頭脳をフル活動させる。なぜなら、自身の下劣な欲望を充たしたくて仕方がないからだ。そういった人間ばかりではないが、そんな存在が多すぎるのもまた揺るぎない事実。

ファルだって、今のヒューマン達が敷いている王制がベストだとは思わない。オルトルード王は近来にない開明的君主だが、彼の政策を否定しようと思えば幾らでも出来る。多くの矛盾によって構成されているのが、人間と、その住まう世界、社会なのだ。そして人間の根元的性質がどうしても負で悪である以上、不文律と明文法と人間の本質とのいたちごっこは続くのである。

何にしても、だ。これは単純な正義感や善悪論で、どうこう出来る問題ではない。人類が皆で努力して、時間を掛けて解決して行かねばならない問題だ。こういったマクロレベルの社会問題を、個人が断定的に論じたり、急に改革を行っても、良い方向に解決する可能性はほぼゼロである。

「根が深いな、これは」

「きっとロベルドの場合、母君がその社会システムの犠牲になったのね」

「その通りだよ」

あまり穏やかではない顔で、ロベルドが部屋の入り口に立っていた。不機嫌そうだが、その矛先はファル達には向いていない。おろおろするコンデと、どうしていいものか分からない様子のヴェーラは、ロベルドの背中をこわごわ伺っていた。

「エイミ、石焼きこっちに一つな。 今朝みたいな、美味い奴頼む」

「はい。 すぐ作りますわ」

「なあ、色々調べて、どうしたんだ?」

「何、簡単な話だ。 ベルタン殿に、何で貴公が怒っているのか調べてくれ、と頼まれてな」

だん、と机を叩く音がした。着席したロベルドが、騒音の発生源であった。傲然と立ちつくしているファルと、平然としているエーリカの視線の先で、不機嫌そうにロベルドは頬杖を着いていた。ヴェーラとコンデ、それに宿の客にせがまれてフーツをしていたフリーダーに部屋にはいるように促すと、エーリカはドワーフの青年の向かいに座った。

沈黙は長かった。石焼きが運ばれてくると、ロベルドはおもむろに手を付け、胃に掻き込み始める。苛立っていても、食欲は衰えていない。

「で、折角良い機会だから、愚僧達に話してくれる?」

「くだらねえ話だよ」

「さあ、それはどうかしらね。 愚僧の大事なチームメイトがイライラ抱えるのは気分悪いし、今後の戦局に影響しかねないのならなおさらだわ」

「……わーったよ。 ちっ、両方から攻めてきやがって」

確かに正論と感情論の両面から攻めてこられれば、納得せざるを得ない。石焼きの最後の一つを平らげると、ロベルドは過去を語り始めた。

 

「俺はドワーフ族最大の共同体で生まれた。 奴は俺が生まれた頃には、名ドワーフ共同体長として、ヒューマン達からも尊敬されていたそうだ。 母さんは、そんな奴の、第三婦人だった」

「第三婦人? 私が調べた資料によると、ドワーフは一夫一妻制だと書かれているぞ」

「それはな、普通の職人の話なんだよ。 腕が良い奴や、何か画期的な発明を成し遂げた奴は、何人か妻を持つ事を社会的に強制される。 で、妻を全員平等に扱う事を義務づけられるのさ。 そうやってドワーフは、強力な(血統)を保持してきたのさ。 胸くそが悪くなる話だぜ」

今の言葉で、ベルタンの言葉に納得がいった。要するにベルタンは、何人か居る妻を全員平等に扱った、少なくとも本人はそのつもり、なのだ。それに対して、ロベルドは、それに不満を覚えているのである。

「正直、俺はよ、母さんが寂しい想いをしていた、ってことだけなら我慢する。 だがな、奴は母さんが病気に倒れて、もう余命が続かないって時に、(他の者も平等に扱わなければならない)とか抜かして、母さんを放っておきやがったんだ!」

「話が見えぬの。 それはどういう事なのじゃな?」

「くだらねえ話だ! ドワーフの間じゃ、一人の女の側に居すぎると寵愛が移るとか言う理由で、複婚している奴は、どんな理由があろうと決まった日数特定の女の側に交代でいなきゃいけねえんだ。 その禁を破った場合、地位も名誉も失う事になる。 つまり奴は、病気で死にそうな母さんの事よりも、自分の地位と名誉を尊重したんだっ! 俺はその価値観がゆるせねえ! その価値観を育てた、ドワーフの社会が許せねえっ!

爆発したロベルドは、それでも誰かに当たり散らすような事はなかった。ヴェーラは頭を振り、静かに言う。

「私は大地駆けるササンの騎士である事を誇りに思うし、野と共に生き行く草原の民の誇りを命より大事だと考えている。 偉大なる火神アズマエルの下さったこの魂に、自らの崇高なる価値を見出している。 しかし、お前のような犠牲者を、その誇りが生み出しているとしたら、冬の風のように悲しいな」

「奴が自分の行為に誇りを持っていやがるってのは、否定しねえ。 ヴェーラ、お前の誇りについても価値を否定はしねえ。 その誇りが、考え抜かれたシステムの上に立っているって事だって、分かってる。 だけどよ、奴の誇りと、俺の存在は、共存出来ねえんだよ。 ……くだらねえ。 俺の話は、そこまでだ」

 

部屋には、闇と沈黙が残った。ファルを見上げているフリーダーは、小首を傾げながら言う。口調は冷静だが、表情にはくっきり困惑と悲哀が浮かんでいた。

「ファル様。 ロベルド様は、どうしてもベルタン様と仲直り出来ないのですか?」

「今は無理だ。 例え出来たとしても、長い時間が必要になりそうだな」

「当機は戦闘用オートマターであり、戦いでファル様の、エーリカ様の、ロベルド様の、ヴェーラ様の、コンデ様の、皆様の役に立てる事に誇りを持っています。 でも、今の話を総合すると、その誇りで傷つく者もいるのですか?」

「いる。 例えば、私たちが倒してきた魔物や、うごめくもの。 皆を守る為に踏みつぶしてきた敵。 け落としたライバルたる冒険者」

ファルの言葉は非常に冷静で、凍り付くように周囲に張り付いた。それは強烈な吸着作用と、海栗のような棘を持って、周囲に絶大なる存在感を撒いた。

どんなものにも、絶対に+と−の側面がある。 何かを持つからには、必ず何かが犠牲になる。 誰かを守ろうと戦えば、守る為に敵を傷付け殺す事になる。 命を奪う云々ではない。 戦いに勝つと言う事は、敵の願いや目的や主張を踏みにじり、自己の願いや目的や主張をそれに優先させると言う事だ。 どんなものにだって相対的に正義があり、信念や意志が強ければそれは強固になり、より念入りに敵の思想を蹂躙する。 その事実を認めない者は、余計に犠牲と被害を最終的に増やし、そして全てを失う事になる

俯いたフリーダーは、悲しそうだった。その頭に手を置くと、ファルは少しだけ表情を緩めていた。

「私だって、割り切れはしない。 だが、出来るだけ割り切って、お前達を守るつもりだ」

「……」

お前やエイミを守る為だったら、私は人類全部を殺し尽くしたって悔いはない。 だからそう、悲しそうな顔をするな

 

翌朝、ファルはベルタンに昨日のレストランで会って、結果を伝えた。ベルタンは悲しそうにしていたが、この後は個人個人の問題だ。どう妥協するか。妥協出来るのか出来ないのか。それらは、当事者達の肩に掛かっている。

話を切り上げてファルはレストランを後にしようとした。その背中に、声が投げかけられた。

「ファルーレスト殿」

「何でしょうか」

「いろいろ……すまなかったな。 これからも、愚息をよろしく頼む」

ベルタンは頭を下げていた。誇り高き旧ドワーフ共同体長が、である。立ち止まったファルは頷く。ロベルドもベルタンも悪くないのだ。だが、親子が和解するまでは、まだまだ長い時間がかかりそうであった。

 

2,苛立ち

 

構えを取る。踏み込んで拳を繰り出す。振り向きざまに、抜刀し一閃を見舞う。そのまま勢いを殺さず回転しきり、跳ね上がってハイキックを叩き込む。立てて置いた案山子の顔面が砕け吹っ飛び、数メートルを転がって止まる。見事な一撃だ。ファルは小さく呼吸を整えながら、にもかかわらず露骨な苛立ちを顔に湛えて、拳を近くの木に叩き込んでいた。

宿近くの空き地で、ファルは苛立ちを覚えていた。今日も問題なく体が動く。技のキレはますます増してきている。呼吸法も完璧にトレースしているし、瞑想によって強化した魔力視も冴えている。コンディションは間違いなくベストだ。苛立っている理由はただ一つ。どうやら、ついに壁が見えたようなのである。

力の伸びに、明らかな陰りが見えていた。今までに比べて、費やしたトレーニングに対する効果が低すぎる。イメージトレーニングでも、対戦相手への勝率がのばせない。イライラはしつつも、訓練時は冷静であるファルは、それに嫌と言うほど気付いていた。

人間誰しも才能には限りがあり、到達出来る強さには天井がある。今まではそれを考えず、戦闘経験を増やし、肉体を鍛え上げ、技を練り上げていく事で、幾らでも強くなる事が出来ていた。しかし、しかしである。どうもその天井が見えてしまったらしい今、それでは今後やっていけなくなっていた。打開策は幾つかあるが、すぐに実行出来るものは二つ。一つは才能の上限を素直に受け入れて、今後はそれを前提に訓練をしていく事。今ひとつは、天井の粉砕をもくろむ事である。ファルとしては、まず後者を試してみたかった。今後の探索を考えると、どうしても前者は受け入れがたかったからである。

具体的な上限の払拭方法として、幾つか案が思いつく。例えば、新しい修練方法を取り入れて見る、という手がある。人間というのはどうしても主観的な生物で、視点の広さには限りがある。他者の意見を採り入れて、あっさり難事が打開できることがあるというのは、その辺に起因している。もう一つの案としては、今まで試していた方法を、根底から切り替えてみるという手がある。これは一種の冒険になるが、別の方法によって新しい道を発見し、新境地に辿り着ける可能性は否定出来ない。オーソドックスな方法達であるが、だからといって馬鹿には出来ない。効果があるからこそ、オーソドックスなのだから。

仲間達の訓練法を思い出してみる。例えばロベルドは、あくまで戦闘訓練は実戦頼みで、その他はウェイトリフティングや素振りなどでまかなっている。これは力を最重視した自らの能力を良く把握しているからこその訓練法であって、むしろ速さと技を重視するファルには向かない。エーリカはいつ修練しているのか分からないが、時々やっている肉体鍛錬はあくまで最小限度だ。これは典型的な天才の訓練方法で、天才と言ってもエーリカには及ばないファルには真似出来ない。ヴェーラが行っているのは、実戦訓練に加えて、型を学ぶものが殆どだ。ササンの騎士や戦士達が長年、いや何代もかけて編み出してきた戦闘の際の動き。それをトレースしていく事で、もっとも実用的な動きと技を身につけていき、自らの強さへと変えていくものだ。型稽古。一考の価値がある修練法であった。ただ、ヴェーラ自身の学んでいる型はあくまで長柄武器の戦闘法だから、そのまま鵜呑みに学ぶわけには行かない所が考えどころだ。コンデはと言うと、むしろ昔の事を思い出し、実戦にそれを染みこませていくものであり、昔の栄光がないファルには真似出来ない。フリーダーは完全に我流で、それであれだけ強いのだからたいしたものだ。ただ、フリーダーの知識や技能からして、古代ディアラントの武術基礎を学んだのかも知れないが、それについてはまだよく分からない。後でフリーダーにも、意見を聞いてみるつもりはあった。

ヴェーラはファルの次くらいに、訓練を始める。やがて広場に出てきたヴェーラは、体の筋を伸ばして暖めているファルを見て少し驚いていた。

「うん? ファル、まだ訓練をするのか? いつもより多くはないか?」

「今日は少し試したい事があってな」

「組み手なら遠慮する。 正直、貴公ほどの使い手と、無傷で組み手を終えられる自信がない」

「それなら安心しろ、組み手ではない。 今日はヴェーラ、卿の武術を少し見せて貰いたい、と思ってな」

「ほう。 見稽古という奴か。 何だか虎に茂みから覗かれているようで少し落ち着かないが……」

冗談めかしながら、実は心底安心しているのを、ファルは見て取った。近くの石に腰を下ろしたファルの前で、ヴェーラは粛々と稽古を始めた。

実戦同様の装備で、ハルバードを構える。まずは高く高く、それからゆっくりと振り下ろす。リーチの長さを生かして、引きながら斬る。足を少し後ろに引きながら、今度は逆に刃を振り上げ、牽制しつつ喉を狙うのだ。徐々に動作は速くなっていき、戦闘訓練と言うよりも、むしろ戦舞に近いものになってきた。しかも儀式的なものではなく、極めて実戦に即した現実的なものだ。

魔力視が出来るようになってから、ファルはその流れに逆らわないように体を鍛練してきた。ヴェーラはそれを完璧にトレースしているわけではないが、かなり近い動きをしている。なるほど、ササンの戦士達は、経験則で何代も掛けながらそれに近いものを編み出してきたのだ。最初あまり期待していなかったファルは、いつのまにかぐっとヴェーラの動きに見入っていた。

ヴェーラはかなり攻撃を重視した戦い方をする戦士だ。反面、驚くほど防御面は脆弱だ。間合いの取り方がチーム内で一番上手いのも、攻撃を貰った際に殆ど耐えられないと言う点が影響している事は疑いない。弓矢を回避する術もしかり。重装の戦士なら弓矢を回避するよりも、鎧で弾く事や、急所での一撃を避ける事に留意する。かなり軽装のファルでさえ、実はヴェーラよりも防備はきちんと固めているほどだ。服の下に着込んでいる鎖帷子のお陰で命を拾った事は、いちいち考えるのも億劫なほどである。

最初ファルは、ヴェーラの戦い方を(軽装の戦士に相応しい方法)或いは(宗教的な特性にのっとった戦い方)などと考えていた。しかし今のヴェーラを見ていると、今更ながらそれ以上の論理性を感じる。経験則は侮れない。それは自分でも感じている事だし、うねうねと戦舞に興じているヴェーラを見ても頷ける。

集中しているヴェーラを見ながら、ファルは少し考え込んだ。騎馬民族であるササン人は、高速機動戦において、相当な軽装であったという。馬上で前面だけ武装を固め、重さを出来るだけ減らす事によって、常識外の機動力を確保して戦場を暴れ回ったのだ。今ヴェーラは馬に乗っていない。にもかかわらず軽装で、しかも強い。普通軽装の戦士は主力の補助や奇策に頼るものが多く、あまり実戦的ではないとされている。それが真実ではない事をファルは自身で証明し続けているが、それでも軽装の意味がヴェーラとは違う。ファルが考え込んでいる間に、ヴェーラは戦舞を終え、そして火神アズマエルに祈りを捧げて訓練の幕を閉じた。

「ヴェーラ」

「うん?」

「卿の装備なのだが、どうやって選別しているのだ?」

「ああ。 まずは軽さだな。 それから、空気に逆らわないように、あまり体から離れないものを選んでいる。 空気とは何もないようで実は繊細だ。 不自然に大きな鎧や兜には、すぐに文句を言って邪魔をする。 ロベルドのように強大な力を持っていれば問題がないが、私にはその抵抗が厳しく大きい。 火神アズマエルも、風を愛する存在であるから、私はそれに従うという意味もある」

なるほど、確かに説得力がある。ファルは今まで軽さをメインに考えていたが、空気抵抗、という点も考慮に入れる必要がありそうだった。確かに馬に乗って高速で戦場を駆ける者達なら、空気の力を強く感じるのも無理はない。ましてヴェーラは、局所的瞬間的にはファルとほぼ同等のスピードを発揮し、それで敵と交戦する戦闘スタイルなのだ。

魔力の流れに逆らわないように動く、という点でも、ファルは最近壁を感じていた。魔力視そのものは絶好調であった分、そのギャップが大きな痛みになっていた。大きく頷くと、ファルは笑みを零していた。

「ありがとう、ヴェーラ。 卿のお陰で、壁を乗り越えられそうだ」

「い、いやいや、気にするな。 ……それにしても、役に立てたようで嬉しい」

「? いつも私だけではなく、皆の役に立っているではないか」

「そうではない。 フリーダーやエイミ以外に、笑みを浮かべてくれたからさ」

不可解な、とファルは思った。ヴェーラの言葉の意味が、良く彼女には分からなかったのである。

小首を傾げながら宿に戻ると、もう他の皆は揃っていた。いつも通りミーティングを行うべく席に着く。エーリカがファルの顔を覗きながら、初々しい笑顔で言う。

「どうしたの? ヴェーラさんも貴方も、すごく機嫌が良さそうに愚僧には見えるわ」

「それについては、私には良くわからん」

「そう。 うふふふふ」

「何がおかしい?」

エーリカは、不可思議さに眉をひそめるファルに、結局応えてくれなかった。

『私の笑顔が、そんなに不自然だったのか? 別に弱みを見せても問題がない相手だと思ったから、見せただけなのだが』

自身の発言を終えると、ファルはそんな事を考えた。

 

探索を終えて帰ってくると、ファルはヴィガー商店に顔を出す。やはり考えてみると、確かに空気抵抗が壁になっている。今まで感じていた壁は、自らの能力に、知らず知らずのうちに、空気抵抗そのものがそびえ立っていたものなのではないか。そんな事を、ファルは考えていた。

オーク達と一緒に、ルーシーが店の奥から出てきた。彼女は念入りに鞘を見ているファルを見て、小首を傾げる。年相応の可愛い動作だ。

「あら、いらっしゃい。 何が欲しいの?」

「ん、色々試してみたいのだ。 少し売り物を触らせて貰うぞ」

腰に差している刀の鞘は、今までも無意識的に邪魔にならないものを選んできた。今回は、形状を見て、どれが一番空気抵抗がないかを調べたいのだ。幾つかを見繕うと、そのまま纏めて持ち出し、広場に出る。念のために着いてきたオーク達の前で、ファルは訓練を始めた。

一つ目は、ごてごてと装飾が付いた豪華な鞘だった。是はまずかろうとファルは一目で見抜いたが、案の定であった。自身が動く際にも魔力流が乱れるし、何だか体が僅かばかり重く感じる。鞘自体はさほど重くもないのだが、是では駄目だ。数度回し蹴りを案山子に見舞ってから、ファルは鞘を外して、隣で見ているオークに手渡した。

装飾が全くない無骨な鞘も試してみた。これはこれで、どうしてか魔力流も乱れるし、少し重かった。のっぺりしすぎていても駄目なのだと、ファルは知った。なかなかどうして、上手くいかないものである。そして今身につけている鞘も、他の鞘を試してみた状態では、魔力流の乱れが生じる事が身に染みてよく分かる。

幾つかの失敗の後に、ファルは奇妙な溝が掘ってある鞘を手に取った。期待していなかったファルだが、それが正解だったのだと、動いてみてすぐに分かった。

動きやすい。軽い。どういう理由か、自然に魔力が流れる。数度拳を繰り出してみて、ファルは実感した。成る程、少し装備を工夫してみるだけで、こうも動けるのかと。無論一般人から見れば、殆ど僅差に過ぎない。しかしファルほどの達人となると、その細かい差は絶大だった。壁は、内にあったのではない。外にあったのである。

「ルーシーに言って、この鞘と同じものを、私の刀にあわせて作ってもらってくれ」

今まで道具に愛着を感じる事はほとんど無かった。そう思われる事もなかった。だがこの機を境に、ファルは(道具に拘る人)と周囲に見られるようになり、実際自身でもそれを自覚するようになった。

今後彼女は、予算と相談しながら、装備を神経質に注意深く調えていくようになる。そしてそれが強さに繋がっていく事を、仲間だけが薄々気付いていた。

 

3,青竜との戦いへ

 

カルマンの迷宮地下六層は基本的に非常に危険な場所であるが、その中でも特に危険なのが、階層中央部だ。其処にはブルードラゴンが生息しており、騎士団や冒険者の行動を大きく妨げている。中でも、以前ファルのチームと騎士団がマクベインと交戦した辺りには、六層の主とも呼べる強大なブルードラゴンが住んでいて、我が物顔に辺りを飛び回り、暴威を振りまいていた。

地下六層は天井が視認出来ないほど高く、ドラゴンが自在に飛び回れる環境とあって、非常にその脅威は大きい。例えば、地下三層のガスドラゴンであれば、迷宮の狭い環境もあって、戦い方次第では充分に勝負を挑める。事実ファルのチームは、既にダースに近い数を仕留めている。だがそれも、敵が空を飛べないと言う状況下での話だ。ガスドラゴンも自由に空を飛べる環境であれば、そう簡単には勝たせて貰えないし、それより強力なブルードラゴンであればなおさらの話だ。元々人間は頭上からの攻撃に対応出来るように出来てはおらず、空を自在に舞う相手には分が悪すぎる。実質上、現在地下六層で最も脅威なる存在は、時々現れるレッサーデーモンやデュラハンではなく、この青竜であった。

地下六層で、騎士団が本格的に下層への入り口探しに乗り出すのとほぼ同時。ファルのチームに、冒険者ギルド経由で、件のブルードラゴン退治依頼が舞い込んでいた。

 

以前ブルードラゴンの対策法を軽く論じた事があったが、それを本気で討論する日がやってきていた。宿の居間で、エーリカでさえ難しい顔をしながら、チームの面々は戦略を練っていた。

今回問題にされているのは、地下六層の主と言われる、(グルヘイズ)と呼ばれるブルードラゴンである。これは人間が名付けたのではなく、ドラゴン自身が名乗った所を確認されている。即ち、人語を解するほどの相手である。しかもこのドラゴン、異常なまでに人間を敵視しており、視界に入るなり攻撃をしてくる。それに関しては、ファル達も自身で確認を済ませている。騎士団も二度討伐を試みたのだが、そもそも空から引きずり降ろす事かなわず、地団駄踏んで引き上げる羽目になったのだという。まして今、騎士団は総力を挙げてサンゴート騎士団との協力探索体制にはいる準備をしており、ドラゴンの討伐に全力を注いでいる暇はない。話によると上級冒険者のチームも三度ほど討伐に向かったそうなのだが、いずれも効果を上げる事は出来なかったのだという。

このカルマンの迷宮に来ている上級冒険者の中には、メガデスを始めとする最高位魔法を使いこなすものもいる。メガデスは増幅ザクレタを更に上回る火力を誇る凶悪な攻撃魔法だが、今のコンデでは三十秒を超える詠唱を必要とするし、そもそもまだ使えない。仮に使えたとして、呪文速射のアレイドと掛け合わせて、それでも二十秒近くかかるだろう。空を舞うドラゴンを何度かファルは見た事があるが、正直奴に当てるには非現実的すぎる。奇襲であれば話は別だが、その程度の事はもう騎士団も冒険者も試みたはずだ。近くにそびえ立つ大きな建物の中から、高度を合わせて攻撃魔法を叩き込む、そこまでは良い。問題は高い知能を持つドラゴンが、簡単には奇襲などさせてくれないと言う事だ。現に以前マクベインと交戦した際も、奴を出し抜くのにどれほど苦労した事か。人間と同等の知能を持つ敵相手に、餌や何かでおびき出す方法も使えないだろうし、思案は袋小路に入り込んでいた。

「ファルさん、以前ラスケテスレルに使った、大きな焙烙はどうかしら?」

「一応ストックはあるが、空を高速で飛び回るブルードラゴンに当てる自信はないぞ」

この間忍者ギルドで上忍に任命されて、投げ焙烙を四つほど渡された。それを聞くとイーリスはおめでとう、と言ってくれた。そして自身も焙烙の威力を上げるべく努力してみると言っていた。何とかそれらを翼に当てる事が出来れば、確かに叩き落とす事は可能である。自然物をより直接的に利用するため、錬金術は魔術師魔法に比べて生物相手の効果が大きい。しかし、当てるまでが難儀であった。

ワイバーンクラスの相手までなら、焙烙を叩き込めばそれでほぼ勝負が付く。しかし青竜の場合、そこからが本番になる。地面に叩き落としても、何しろ相手はドラゴンだ。強大な攻撃力に加えて、圧倒的な防御力を誇り、その戦闘力は完全な連携を見せる通常兵士二十人にも匹敵する。魔神にしても、レッサーデーモンくらいなら勝負にならない。

「討伐の記録はある?」

「騎士団から借りてきた。 大体の話を総合すると、こんな所だ」

地下六層中央部の地図を広げ、ファルは指を這わせた。騎士団討伐隊は、一応失敗の記録も正確に残してくれていたので、再現は容易だった。一回目は攻撃魔法で強引に叩き落とそうとしており、敵に距離を取られた上、真上に回り込まれ、爆撃を浴びて撤退。討伐隊の半数が重症を負い、慌てて転移の薬で逃げ帰っている。二回目は近くの建物から狙撃して叩き落とそうとしたものの、完全に逆を突かれ、狙撃が不可能な位置から急降下爆撃を受け、また必死に逃げ帰っている。二度目の戦いにはリンシアも参戦したようで、彼女は色々と証言をしてくれた。何でもドラゴンは、気配を消して隠れていたアオイの存在を即座に見抜き、攻撃の角度を変えてきた節があるのだという。

「ふうん、何がまずかったのかしらね」

「匂いか、魔力が漏れでもしていたのか、或いはそれ以上の勘かのう」

「厄介な蜥蜴だな、オイ」

「しかし、今後は魔界の入り口にも等しい地獄になる事が予想されるぞ。 奴くらいどうにか出来ねば、先に進む事は到底叶わぬだろうな。 火神アズマエルよ、我らに力を!」

皆の話を聞いていたエーリカは、フリーダーの方を見る。

「フリーダーちゃんはどう思う?」

「これだけでは情報が不足していると当機は考えます。 敵にとっては巣に等しいのに、我らは数度通過しただけ。 これでは、戦略的に見て、敵に遅れを取るのは必然かと、当機は思います。 確実に相手を仕留める為であれば、更なる情報収集が必須でしょう」

「まあ、そうでしょうね。 結局は現地で、足を使って情報を集めるしかないか」

エーリカは立ち上がると、手を叩いて皆を見回す。何かを決めた時に、彼女が見せる定番の行動だ。

「どうするかは、現地の情報を収集し尽くしてから決めるわよ」

「それが無難だろうな。 何にしても、骨が折れるのは間違いなさそうだが」

ファルの言葉に、驚いたように顔を見合わせたヴェーラとコンデが、うんうんと頷いていた。

 

七度の交戦を経た後に、地下六層にはいる。相変わらず信じがたい高度な技術の産物である無人都市は、何の音もなく、ただ其処に存在していた。ファルが目を細めたのは、何処からともなく降り注いでいる光が、建物の一角に反射して、目に飛び込んできたからである。人が暮らしていた時は、ありふれた光景だったのだろう。しかし今ファルが取った行動は、この場所では一体何年ぶりに取られたのか。

今回は三日ほどの滞在を予定している。今まで通った所にある辺りは、地図に記載しており、簡易拠点も幾つか作り終えてある。簡単な無音結界であり、騎士団の詰め所ほど頑強に出来ては居ないが、見張りを立てて休むには充分だ。それにしても、毎度地下一層から六層まで降りるのは骨だ。今回も比較的スムーズに来れたとはいえ、八時間ほど掛けて、七度の戦いを経た後であった。

最近の探索では、本格的な行動に移る前に、小休止を取る事にしている。万全な体調を確保してから、本命の階層に挑みたいからである。わざわざ六層にて休むのは、階層の空気に体を慣らす為であり、心身共に戦闘態勢を整える為だ。こうやって体を慣らす事により、例え寝ている時にでも、戦える状況を作っていくのだ。コンデでさえ、最近は寝起きの奇襲に十分対応出来る。激しい戦いによって鍛え上げられ続けた結果、皆心身共に錬磨されきっているのだ。無論それは完璧ではないから、互いに互いをサポートしあい、限りなく完璧に近い情況を作り上げていく。

コンデはこの日の為に、ジャクレタをついに修得した。修得自体はもう出来ていたのだが、ギルドから集中力や魔力量から問題ないと太鼓判を改めて頂いたのである。ジャクレタ級の魔法になってくると、バックファイヤは全滅を招く為、慎重すぎるほどの扱いは当然の事だ。三日分の滞在物資に加え、ファルは投げ焙烙も持ってきており、対ドラゴン戦の装備は充分であった。

後は、ドラゴンそのものを叩き潰すだけである。問題は未だ、山積みであったが。

実は、地下六層には昼夜がある。陽は昇らないのだが、(空)が時間帯によって暗くも明るくもなるのである。暗い時間帯には、探索箇所次第ではロミルワを使わないとならず、結構手間であった。尋常な迷宮でない良い証拠だが、もう皆慣れた。いつも通り高架道路を通って迷宮の奥へ奥へと足を踏み入れてゆく。やがてそれも終わり、以前デュラハンの大軍と追い駆けっこをした道路を抜けると、巨大な建物群が立ち並ぶ地下六層中心部に出る。遠くの空には案の定。今日戦う敵が飛んでいた。遠くから見ても、圧倒的な威圧感がよく分かる。あれをどうにかして叩き落とさねばならないのだから、苦労がいかほどのものか、考えるだけで疲労がぶり返してくる。

足を止めたエーリカが小さく頷き、皆が戦闘態勢を取る。素早く隊形を整えると、ファルを先頭に、近くの小さな建物に押し入る。自動式ドアが無音で開いたのは、ファルが近づいたからではない。うすくらい建物の中で、六つの光が瞬き、そしてぶれるほどの速さで躍りかかってきた。夢魔だ。いずれも以前遭遇したとっぽい夢魔インセルスとは違い、目が覚めるほどに美しく、そして危険だと一目で分かる。髪を振り乱し、牙を剥いて襲いかかってきた一匹目。速い。身体能力が、並の人間とでは比較にならない。だがファルもその点については同じだ。それに魔力の乱れを見切る事で、敵の動きをある程度予想する事も出来る。一瞬の交錯。ファルは自らも踏み込みつつ、繰り出された刃より斬れる爪をかいくぐり、顔面に掌底を押し当てていた。首の骨が強烈な負荷に耐えきれず、仰け反って悲鳴を上げる夢魔の横で、ヴェーラといま一体が丁々発止の駆け引きを繰り広げている。ファルの掌底を貰い、数歩下がった一体を飛び越し、もう一体が飛び出してくる。だがそれは、タイミングを見計らい放たれた速射式クレタと、フリーダーの矢を顔面に貰い、ついと身を伏せるファルの後ろに落ちていった。素早く突進して、正面のファルと向き合っている夢魔の左隣に回り込むロベルド。ファルは夢魔と間合いを計り合っていたが、やがて夢魔は態勢を低くし、不意にロベルドに組み付いた。

「キシャアアッ!」

「むおおおっ!?」

押し倒されたロベルドは、すぐに上になった夢魔を蹴飛ばし、自分が上になる。そのままバトルアックスで首を落とそうとするが、夢魔はあり得ない腕力でそれに抗し、隙を見てまた逆にロベルドを跳ね飛ばして攻守を入れ替えた。ファルはそれを横目で見ながら、ゆっくり刀を抜く。建物の奥から、ひと味違う相手が姿を見せたからだ。

レッサーデーモンである。いわゆる魔神と呼ばれる連中の間では下級になる存在だが、人間並みの知能と、それを遙かに上回る身体能力を持つ。全身は血を吸ったように紅く、身長は二メートルを超す。どちらかと言えば細めの体だが、動きは俊敏で、特に爪は並の剣よりも大きな破壊力を持っている。魔法抵抗力も強く、多少の攻撃魔法ではびくともしない。態勢を低くし、慎重に間合いを取るファルに、残忍な笑みを浮かべてレッサーデーモンはノータイムで躍りかかってきた。

鋭い右手の爪が、横殴りに叩き付けられる。伏せも跳びもせず、ただ後ろに下がって避けたのは、囮のその一撃に間髪入れず、本命の左手の爪が虚空を抉る事が分かり切っていたからだ。案の定左手が右手以上の速度で空を抉り、下がるファルの頬を傷付け浅く切り裂く。体が軽い。速い。いつもならもう少し深く切り裂かれている所だが、肌をほんの少しかすっただけで爪は通り過ぎていった。下がりつつ焙烙を懐から取りだしたファルは、印を切り、跳躍して迫撃に移ろうとしたレッサーデーモンに(落として)いた。高速で追撃してくる相手だから、爆発までのタイムラグを考えると、投げる必要はない。ただ柔らかく落とす、それで充分なのだ。紅蓮の炎がレッサーデーモンを包み、それを斬り破って魔神が突撃してくる。殆ど無傷の、その鋭い爪が、一息に斜め上から地面を抉り去っていた。

「ぎゃああああああっ!」

のけぞり、魔神が悲鳴を上げる。彼の尻尾が、根本から綺麗に無くなっていたのだから、無理もない話である。充血させた目で周囲を見回すレッサーデーモンを後目に、今の爆発を隠れ蓑に使い後ろに回り込んだファルは、相手が振り向く動作すらも考慮して背中に張り付き続け、更に数本の手裏剣を敵に投げつけていた。鱗の間に容赦なく潜り込んだ手裏剣に、脊髄を損傷した魔神が動きを止める。フリーダーの放った矢が、連続して魔神の双眸を抉り、鮮血をぶちまけた。更にコンデのクルドが、蹌踉めく魔神の頭上に現出、無慈悲に落下して頭をうち砕いた。

どうと倒れた魔神。周囲では、既にヴェーラもロベルドも、夢魔を屠り終えていた。情け容赦ない攻撃を終えたファルは、愛用の刀を振るって血を落とすと、鞘に鋭い音と共に納める。そして新調した鞘を腰から外すと、目を細めて何度か頷いた。

「ファル様、少し動きが速くなられましたか?」

「うむ。 鞘を変えてみた。 今後は柄や装束も工夫してみようかと思っている」

フリーダーの言葉に応えながら、敵を排除した小さな建物の中に入ってみる。中に敵の生き残りは居ない。今まで見た建物とは違い、人間とは違うながらも若干の生活臭があって、少しファルは複雑な気分を味わっていた。ごみや食べ残しらしい肉片を脇にかたすと、持ってきたマジックアイテムを建物の四隅に置いて、結界の作成に入る。無音結界については、ファルでも作れるほど技術が進んでいる。これは長年冒険者達が愛好し、その技術を発達させてきた結果である。今や無音結界は、中級以上の冒険者にとって必須の(日用品)と貸しており、少し大きな街に行けばギルドで必ず扱っている。需要は発達にとって最大の母であった。

結界を作成するマジックアイテムは、いずれも燭台に近い形をしている。其処に魔力を込めた水を注いで、あらかじめ定められている印を切って言葉を唱える。水と、マジックアイテムに魔力がこもっているので、それを呼び起こすだけの作業である。詠唱者に魔力はいらない。水がこぼれないように粘土で固定して、水平機で角度を調べ、それから水を入れる。四カ所でそれを終えると、真ん中に立ち、印を切って目を閉じ、ファルは詠唱する。

「水の精霊よ、汝の友たる風の精霊と力合わせ、我らを守る障壁となれ。 音の壁を現出させよ」

すぐに水が光り始め、結界が出現した。いわゆる(キャンプ)の完成である。これで建物の中の音は、外に漏れない。昔は外の音も聞こえなかったのだが、今はそれも改良されていて、問題はない。無音結界は気配消去の能力もかねているが、これは絶対ではなく、特にこの階層レベルだと見張りを確実に立てないと危ない。結界に入ってきたコンデが、やれやれと良いながら腰を下ろした。建物の外では、フリーダーがロベルドと夢魔の亡骸をよそに引っ張っていった。自らも腰を降ろして休み始めるファルに、エーリカが治療を始め、そして言う。

「ファルさん」

「ん、いつでも偵察には行けるぞ」

「いや、少し休んでからで良いわ。 彼奴、やっぱり遠くから見ても手強いわ。 ほら、見てみて」

エーリカの指先では、ブルードラゴンが飛んでいる。相変わらず傍若無人な姿だが、同時に、実に堂々たる存在感だ。ファルは数秒の観察の後、気付いた。

「特定の空域を飛んでいるようだな」

「ええ。 今までの情報を総合して地図を見る限り、狙撃が届かない位置を選んで飛んでいるわ」

「厄介だな。 並の人間よりも頭が良さそうだ」

「あのサイズだと、この迷宮に住んでいるって事を考慮しても、軽く三百才は超えているものね。 多分並の火竜よりも手強いでしょうね」

コンデが蒼白になり、わかりやすい動作でファル達から視線を逸らす。改めてファルも敵の実力を実感し、嘆息したい気分であった。

 

しばしの休憩の後、情報収集が開始された。こちらもドラゴンの勢力範囲をはかりながら、奴の縄張りを調べていく作業である。それは崖っぷちでのダンスに等しい、危うくスリリングな探索であった。今のファル達であっても、上空から攻撃してくるブルードラゴンには、対抗する術がない。魔法協力のジャクレタでも、確実に倒せるとは到底思えない。ドラゴンは上空を旋回しながら、もうとっくにファル達には気付いていた。時々此方を伺っていて、隙あれば仕掛けてこようとしているのを、ファルは敏感に悟っていた。

ドラゴンの縄張りにある、狙撃がしうる建物は六つ。二十階建以上の建物が五つ、そのうちの一つは三十階に達している。一つ一つの建物は、一フロアが狭い為、それほど探索は難しくない。ただし中には魔物が住んでいるから、無傷での探索は無理だ。確保した拠点を軸に探索を繰り返し、五つの建物の正確なマッピングが終わった頃には、二日が過ぎ去っていた。三日目の今日は、最後の一つの探索である。最後の一つは地上部分十六階地下部分五階とされているが、その分横に広く、探索には骨が折れそうであった。しかもドラゴンの攻撃が予想される道路をかなり長い距離走らねばならず、たどり着くだけで一苦労であった。

今までの建物でも、相手に隙があればいつでも撃墜をはかろうと考えては居たのだが、結局それには至らなかった。ドラゴンは今までの時点では、全く隙を見せず、攻撃のチャンスがなかった。バックパックの投げ焙烙がいい加減重い。投げ焙烙の火力はジャクレタ並みであり、直撃させれば確実にドラゴンを落とせるが、そのチャンスがないのである。苛立ちを募らせるファルは、それでも慎重に敵の間合いを伺い、皆を探索する最後の建物に招き入れた。大きな自動式ドアを複数取り付けている建物で、一度に十人以上が建物の入り口を通れそうだ。比較的建物には問題なく入れたが、ドラゴンは我関せずと言った感じで遠くを飛んでいる。敵も敵で、此方が手強いと察しての事か。或いは、この建物を探索しても何もないと知っての事か。どちらにしても、ファルにはあまり面白くなかった。前者なら敵との決着を付けるのが難しいし、後者なら言うまでもなく不愉快だ。

中に入ったエーリカが、周囲を見回して目を輝かせる。ロベルドもその隣で、興味津々の様子で辺りを見回していた。床の素材、壁の素材、天井、全てが珍しい。

「中は明るいわね」

「ああ。 自動式ドアだけではなく、動力が生きているようだな」

「この灯りは、魔力によるものかしら? 何か光っているものがたくさんあるようだけど?」

「あれはl;shfrioehによって稼働するidfshifopdfj9eです。 ざっと見た所、八割ほどがいまだ稼働している模様です」

「オイ、あれはなんだ?」

興奮を抑えきれず、わずかにうわずった声でロベルドが言う。周囲に魔物が居ない事を確認したファルが率先して、ロベルドの興奮の原因に近づいた。

それは、動く階段であった。全体的に黒っぽく、延々と動き続けている。下の段は延々と生まれ続け、上へと流れ続け、最上部で床に飲み込まれていく。手すりに当たる部分は、素材がよく分からないゴム状のもので作られ、動く階段に合わせて流れ続けていた。隣には全く動かない普通の階段があり、その異様さは余計に目立った。不思議と恐怖を感じたファルは、先に階段を登り、上に魔物が伏せていない事を確認する。そんな事をしたのも、絶対にロベルドが乗りたがると踏んだからだ。案の定ロベルドは、鼻の穴を広げて、興奮を隠さず言う。

「お、おい、フリーダー。 あれはなんだ!」

「あれはedlkhfaioです」

「エ、エスカレーター!? なんだかよくわからねえが、ど、どうなってやがるんだ!?」

フリーダーは詳しい説明を始めたが、当然それにはディアラント語が多く混じり、殆ど理解出来なかった。だがロベルドは腕組みし、ふんふんと頷きながらメモを取っていた。そして、ファルが怖れていた事を言い出した。

「の、乗ってみても大丈夫か!?」

「問題ありません。 ただし、衣服などが引き込まれないようにお気を付け下さい」

「お、おう」

「じゃあ、まずは私ね」

頬に指先を当てて考えていたエーリカが、率先してエスカレーターとやらに乗る。滑るように、実に滑らかに上の階へその身は進み、ファルの位置までたどり着いた。何の躊躇いもなく、エーリカはエスカレーターを降りると、ファルの肩を叩いた。

「ファルさんも乗ってきたらどう?」

「う、うむ。 そうだな」

見ればロベルドに続いて、コンデやヴェーラも乗ってきていた。フリーダーが乗るのを見届けると、ファルは階段を下りて、エスカレーターの前に立つ。改めてみると、やはり怖い。上でフリーダーが見ている以上、あまり躊躇も出来ないから、踏み出すしかない。生唾を飲み込んでいる事に気付いて愕然としたファルは、そっと足を伸ばす。だが、生まれ続ける階段になかなか上げた足を下ろせず途方に暮れた。

「おーい、ファルさーん?」

「今乗る」

「このままじゃ、日が暮れちゃうわよー?」

『お、おのれエーリカ。 楽しんでいるな』

揶揄している事が明かなエーリカの言葉に、ファルは踏み出そうとしたが、やはりどうしてもタイミングがはかりづらい。こんな事に聴覚強化呼吸法を使うのも何だし、これ以上躊躇するのも癪に触る。仕方がないので、深呼吸すると、動き続ける手すりに手を伸ばし、それを掴む。予想以上に大きな力で、ぐいっと体が前に引かれた。踏み出すと言うよりも、無理矢理踏み出されたファルは、卓絶したバランス感覚で何とか体を立て直す。見る間に上の階が迫ってくる。そして知った。エスカレーターとやらは、乗るまでよりも、乗ってからの方が怖いのだと。こんなに右往左往したのは初めてである。おろおろする間に、上の階は迫ってきており、ドラゴンと正面から一対一の戦いをした時以上のプレッシャーが身を包む。やがて観念したファルは、数歩を残した状態で跳躍、皆の前に強引に着地していた。心臓が跳ね飛び回るが、何とかそれを周囲に悟らせないように、平静を装いながら顔にかかった髪を指先で避ける。

「おおー、流石ファルだぜ」

ロベルドが無邪気に手を叩く。蒼白になったまま、ファルは着いてもいない衣服の埃を払うと、敢えて強い口調で言った。

「遊びは終わりだ。 さっさと探索に戻るぞ」

二度とこんな恐い物に載るものかと、ファルは心中で呟いていた。だが、残忍なる運命は、その誓いを守らせてはくれなかった。

 

十六階まで探索し終えたファルらは、建物の中央部にキャンプを作って一息ついていた。これで、ドラゴンを狙撃しうる地点はあらかた探り終えた事となる。作った地図の数は相当数に登り、それを並べながら、ファルは言う。

「結論から言うと、狙撃自体は、敵が隙を見せてくれれば無理ではない。 しかし、敵が隙を見せてくれない」

ファルは、もう幾つかの絶好狙撃ポイントが絞り込めていた。例えば、この建物の十五階にある階段は絶好のポイントだ。透明な外壁を外す事が出来、なおかつ近くをドラゴンが飛び、此方が姿を隠せれば、だが。透明な外壁に関しては、フリーダーが外せる事を実演してくれたのでクリア出来た。問題は残り二つである。

「どうにかして、ドラゴンに近くを飛ばせられないかしら?」

「その前に、あの露骨に見え見えな場所で、どう隠れる。 上空からだと、階段にいてはもろばれだぞ」

「あら、それに関しては大丈夫よ。 ファルさん、貴方にも分かって居るんじゃないの?」

「む……分かっている……が」

案の定階段の側には(エスカレーター)があり、その入り口と出口は透明な外壁の外側からは死角になっている。即ち、である。狙撃に絶好なタイミングでエスカレーターに身を低くして乗り、其処から手すりを乗り越えて階段側に飛び出し、狙撃を決めなければならない。狙撃には投げ焙烙を使う事が決まっており、回転しながら全身で投げるわけだが、それを狭い階段上で、しかもエスカレーターのベルトを飛び越えて間髪入れずに行わなければならないのだ。必然的に回転数は下げねばならず、短い距離でドラゴンに打ち当てねばならない。タイミングの難度は正に神業級だ。ただ、焙烙を発明した東国の水上戦では、揺れる小舟の上で回転しながら遠心力を使って投擲するという話であるから、修練さえすれば不可能な話ではない。

「大丈夫、ファルさんなら出来るわ」

「幾ら何でも、難度が高すぎる。 そもそもだな」

「エスカレーターが、そんなに怖い?」

「馬鹿を言うな。 エスカレーターなど、怖いわけがないだろう。 エスカレーターなど全く怖くないぞ。 全然怖くない。 ああ、全くおそるるには足らぬ存在だ」

最大限の冷静さを保ちつつファルは言い返すが、ちらりとフリーダーを見てしまった。フリーダーは、にこにこ笑いながらファルを追いつめるエーリカと、困惑し精一杯の虚勢を張るファルを見比べて、おろおろしていた。この子にこれ以上心労をかけるわけには行かない。大きく嘆息すると、ファルは言った。

「仕方がない。 敵から見えない位置で、練習をするしかないな」

「ファル様、大丈夫ですか?」

「大丈夫に決まっているだろう。 私を誰だと思っている」

仏頂面でファルは言う。あまり大丈夫ではないが、それでも威き忍者は意地を張りたかった。困り果てているフリーダーの表情が、痛々しかったから。

 

一旦建物の中央部に張ったキャンプまで戻ると、小休止を皆に命じて、エーリカは考え込み始めた。恐らく、ファルは仕事をきちんとこなしてくれる。叩き落とした後だが、今の戦力で総力戦を挑めば、青竜でも何とか撃破出来る。ファルと合流する際にタイムラグが生じるとしても、他の魔物が現れる事を想定しても、勝率は七割を超えるとエーリカは計算していた。勝率に関するエーリカの計算は、まず外れた事がない。今回も最悪の事態を想定して七割、である。いつも通り戦いを運べれば、必ず勝てる。

「エーリカ様」

「うん? どうしたの、フリーダーちゃん」

エーリカが顔を上げると、随分感情が豊かになってきたフリーダーが側に立っていた。表情が、ではない。感情が、である。以前暴れたファルを止めてからと言うものの、フリーダーの感情は確実に豊かになり、絆は深まっている。今のところ、それは良い方向へ確実に作用していた。今後は−の作用も考慮に入れていかねばならないが。

「エーリカ様、ファル様はエスカレーターがお嫌いのようです。 他の方法は、ないのでしょうか」

「愚僧には思いつかないわ、残念だけど」

「当機がポジションを変わるわけには行かないでしょうか」

「フリーダーちゃん、能力的に考えても、ファルさん以外には無理な仕事よ。 貴方も分かっている通り、ね」

エーリカだって年頃の女性だし、可愛い子供は大好きである。欲望の制限は宗教の原則であり、布教僧にはその傾向も強いが、医療僧にはさほど強制されない。である以上、出来ればフリーダーに悲しい顔などさせたくはないが、事実今回は他に策がないのだから仕方がない。とぼとぼと部屋の隅に歩いていくフリーダーを見送りながら、エーリカは心中で呟く。

『ごめんね、フリーダーちゃん。 愚僧もね、自分のこの性分は好いていないのよ』

今頃一人で黙々とエスカレータに乗っているファルを思うと、エーリカも気が重いのである。

ならばこそ、確実にドラゴンを狙撃可能な位置へと誘導せねばならなかった。

 

4,青竜襲来

 

青竜グルヘイズは、廃材を積み上げた巣の上で鎌首をもたげていた。数日前からこの辺りをうろうろしている敵集団が、不意に姿と気配を消したのである。今まで以上に有能な相手であり、念入りな調査をしていたから、仕掛けてくるつもりなのは間違いない。

敵を侮らない事。自らに奢らない事。それが長き時を生き延びる事が出来た理由であった。この迷宮に来る前も、ドラゴンスレイヤー(竜を専門に狩る者。 当然ながら圧倒的な実力が必要であり、半端な能力では名乗っても嘲笑されるだけである)やら冒険者やらをさんざん退けてきたが、それも敵を侮らなかったからである。常に敵を観察し、注意を怠るなかれ。背中にも目を付けていろ。寝ている時にも油断はするな。それらの経験則は、今もグルヘイズの心に深く根付いている。

爆発音がして、巣が揺れた。見れば、彼が住んでいる(塔)の根本で煙が上がっている。廃材がバラバラと落ち、彼の大事なコレクションの幾つかも落ちていった。冷静に状況を観察するグルヘイズは、更に大きな爆発に揺動される。翼を広げて態勢を整えるも、爆発は一度目の比ではなく、より多くの廃材が落ちていった。

グルヘイズは無為に今の爆発を凌いだわけではない。二発目はきちんと観察し、それが仕掛けられた爆発物によるものではなく、近くから投擲された事に気付いていた。その投射角度や、発射位置も。巣から飛び立ったグルヘイズは、敵の位置を確認すべく、空を旋回しながら位置を詰めていく。近くの建物の構造は把握している。狙撃は受けぬ位置を、上手く縫うようにして飛びながら。迂遠なまでに慎重に彼は飛び、やがて目を見張った。

其処にあったのは、投石機であった。ロープはきれているが、これは恐らく傷付けたロープが時限式に自力切断されたものだ。投石機で何か爆発物を放ってきた。それが意味する事は、即ち。

慌てて空を振り仰ぐ青竜の頭上で、巨大な爆発が現出した。ジャクレタ、或いはそれ以上の攻撃魔法か。凄まじい衝撃波がグルヘイズの全身を打ち据える。慌てて高度を下げながらも、周囲の危険ポイントへの観察は怠らない。青竜に、隙はなかった。

 

「よおし、かかったわ!」

コンデと魔法協力し、増幅ザクレタを青竜の頭上に叩き込んだエーリカは、敵が高度を一旦下げ、それから反撃に転じようとするのを見て指を鳴らした。まず時限式の投石機で投げ焙烙を敵の巣の足下に着弾させる事。しかも最初は通常焙烙で同じ事をする事により、爆発の規模を引き上げ、敵に危機感を抱かせる。敵が反撃すべく投石機のある場所を調べに来たら、今度はわざと頭上へと攻撃する。彼女が今、ファルを除く仲間達と立っているのは、一番高い建物の二十三階。確かに青竜を狙撃出来ないポイントだが、その頭上を撃つ事は出来る場所である。

急いで移動し、次の行動に入る。青竜の移動軌跡は予想済みである。急がないと、窓の外からゼロ距離でブレスを叩き込まれて全滅する事になる。猛り狂った青竜の、怒りの咆吼が、エーリカ達の耳にも届いていた。

「フリーダーちゃん!」

窓を跳ね開け、ロープを垂らす。頷くと、フリーダーはそれに飛びつき、滑り降りながらボウガンを虚空に向けた。

 

速度を上げながら、グルヘイズは苛立ちを隠せない。今の一撃は火力から言って多分ジャクレタであり、敵はそれ以上の術を隠し持っている可能性もある。今以上の爆圧を連続して受ければ、はっきりいって頑強なドラゴンの翼とてどうなるか分からない。飛び慣れた庭を、注意深く選んで飛びつつ、今の狙撃地点へと向かう。ゼロ距離でブレスを叩き込んで、人間共を黙らせる為だ。無論、敵の逃走曲線も考慮に入れた上で、グルヘイズは飛行プランを立て、敵の前に回り込んで一撃を叩き込もうとした。

翼に、ボウガンの矢が突き刺さったのは、その瞬間だった。唖然とし、慌てて狙撃位置から距離を取るグルヘイズ。あり得ない話であった。ボウガンとはいえ、一体何処から狙撃してきたというのか。連中の逃走経路に、或いは狙撃地点に、今グルヘイズが飛んでいる地点を狙撃出来るポイントなど無いはずなのだ。痛む翼を必死に羽ばたかせ、何とか態勢を整えようとするグルヘイズは、揺れるロープを見た。建物の窓の一つからぶら下がり、その下端当たりにも開いた窓がある。まさか、逃走経路の途中で連中の一人ないし二人が、あのロープを使って滑り降り、その過程で狙撃を浴びせてきたというのか。混乱しつつも、グルヘイズは狙撃手が逃げ込んだと思われる窓に、冷気のブレスを叩き込む。強大な冷気を圧縮したブルーのボールがドラゴンの口から放たれ、高速で襲いかかり、窓とその周囲を凍り付けにする。ばきん、というのは、窓硝子が連続してはじけ散る音だ。そして彼が気を凝らし、効果を確認しようとした瞬間。巨大な爆発が、彼の双の翼をへし折っていた。回転しながら落下しつつ、彼は今のブレスによる反動で、狙撃危険地点に自分の身がせり出してしまっていた事、それを完璧なタイミングで狙撃された事に気付いた。しかし、狙撃可能ポイントには、誰もいなかったはずだ。だが其処には、恐らく彼を仕留める為、急いで下階に降りようとする人間の姿があった。

そうか、エスカレーターか。エスカレーターに乗り、私が陽動に気を取られた瞬間に飛び出し、ブレスで少し後ろにずれるタイミングを狙って撃ってきたのか。それにしても、魔力の乱れも殺気も感じなかったが、それほどの相手と言う事か。激しく地面に叩き付けられつつも、何とか致命傷を避けて起きあがり、グルヘイズは咆吼する。人間共の足音が、間近に迫りつつあった。今までで最強の敵と交戦する事になる。敏感にそれを悟り、グルヘイズは戦慄を覚えていた。

 

狙撃地点のすぐ側に小部屋がある事、敵の弱威力ブレスなら何とかそこでしのげる事。其処まで計算に入れていたエーリカは、最弱まで威力を落としたコンデのクレタで凍結した扉を開け、中に間一髪逃れたフリーダーを引っ張り出す。外では、ファルが見事撃墜したブルードラゴンが、地面に激突していた。もうもうと蒸気上がる中、フリーダーは部屋の片隅で震えており、エーリカは用意していた厚手の布を慌てて掛けた。

「大丈夫?」

「はい。 当機は戦闘続行可能です」

「急ぐぞ。 奴がまた飛び立ったら厄介だ」

フリーダーを庇う形で、五人は駆け出す。ブレスでの反撃を警戒しつつ建物から飛び出すと、ブルードラゴンと、いち早く飛び出してきていたファルとが臨戦態勢で向き合っていた。戦闘態勢を整え直すと、五人は巨大な青竜へと突撃する。それぞれの表情に、恐れはない。

「前に回っちゃあ駄目よ!」

素早く叱責しつつ、エーリカは印を組む。振り向いたドラゴンが、ブレスで周囲をなぎ払いつつ、後ろに回り込もうとするファルへ尻尾を叩き付ける。広範囲に叩き付けられたブレスとはいえ、その冷気は超絶的である。慌てて下がるロベルドに、素早くハンドサインを出して、自らも印の完成を急ぐ。相手が人語を解する以上、喋って指示を飛ばすわけにはいかない。ブレスを吐ききった相手へ間合いを詰めて、ハルバードを繰り出すヴェーラと、振り下ろされたドラゴンの前足が激突する。パワー及ばず、跳ね飛ばされるヴェーラの後ろで、跳躍したファルが焙烙を投げつけ、ドラゴンの背中に炎の花が咲いた。

「グアアアアアアアアッ!」

流石に悲鳴を上げたドラゴンが、体を起こし、再び大きく息を吸い込む。慌ててそれを阻止しようと飛び出すファルが、絶妙のタイミングで振られた尻尾を避けきれず、斜め上から叩き付けられたそれに打ち付けられ、激しく地面に叩き付けられた。受け身は取る事が出来たが、流石はドラゴンである。いや、今まで交戦したどのドラゴンよりも遙かに強い。一撃一撃は、いずれも並の兵士を数人纏めて蹴散らし肉片にする程のものだ。まともに受けてしまっては、幾らファルやロベルドでもひとたまりもない。聴覚強化呼吸法を最大に生かし、タイミングを合わせて受け流しているのだが、それでも損害はいちいち甚大であった。起きあがれないファルの前で、ロベルドが突貫し、斧ごと相手の体を支えている左前足に突撃していた。鱗がひしゃげて鮮血が飛び散り、だがドラゴンが振った腕に吹っ飛ばされ、蹈鞴を踏んで後退し、地面に片手を突く。そしてその瞬間、コンデの魔法が完成した。

「炎の魔神イフリートよ。 我求むは汝が息吹き、汝が鉄槌、汝が怒り! そは炎、渦となりて、我が敵を滅ぼし、千々に砕き、灰燼に帰せ!」

濛々たる炎が、コンデの全身を覆っている。慌ててドラゴンが体を引き、対抗呪文の詠唱に入る。正しく一瞬の攻防。杖を横に倒し、目を見開いた魔術師は、詠唱の最後の一節を解き放つ。同時に、ドラゴンの、複数の笛を同時に吹き鳴らすような詠唱が完成する。

「食らええええいっ! ジャクレタ!」

「カアアアアアアアアッ!」

紅蓮の炎が炸裂、しない。高位火炎系攻撃魔法ジャクレタの炎が、ドラゴンの詠唱と共に生じた黒球に吸い込まれていく。だが、全ては押さえきれない。ある一線を越えた瞬間、黒球が内側から炸裂し、爆発がドラゴンを包み込む。威力を半分以下に殺されたが、それだけでも、増幅ザクレタを遙か上回る火力だ。悲鳴が消える前に、ドラゴンが炎を斬り破り、傷だらけの全身を空に晒す。その脳天に、フリーダーがランスモードに改変させた腕を突き立てていた。

今の瞬間、ロベルドの背を踏み台に飛んだフリーダーが、絶妙なタイミングで上空からの爆撃を成功させたのである。ドラゴンの株を奪うような、見事な空中殺法であった。これぞ以前オルキディアス戦でも見せたS・Jアタック。聴覚強化呼吸法により息を合わせて、体を使った踏み台を最大限に活用、頭上から敵を強襲するアレイドであった。

「お、おのれ、おぉおのれええええええ!」

頭に深々とランスを突き刺されながらも、鮮血をばらまきながらも、ドラゴンは吠えた。そのまま尻尾を振り回し、踏み台になったロベルドを近くの建物まで吹っ飛ばして叩き付ける。態勢を立て直していたヴェーラに体当たりをかけて、ハルバードで深く体を抉られつつも跳ね飛ばす。更に弱威力の冷撃ブレス球を連続して吐きかけ、その幾つかがエーリカとコンデの側に着弾、悲鳴を上げ、コンデが頭を抱え逃げ回る。エーリカは凄まじい冷気に顔を歪めつつも、凍える指で印を切り続ける。そして敵のブレスに合わせ、叫んだ。身を切るような冷気が、彼女の身を包むローブと、それと生体魔力が生じさせる耐魔結界を容赦なく切り裂き来るが、精神力で強引にねじ伏せながら。

「フリーダーちゃん、避けて!」

ドラゴンの頭からランスを引っこ抜き、飛びずさるフリーダー。間髪入れず、エーリカが放った特大のバレッツと、ドラゴンの冷気球がぶつかり合う。ドラゴンの冷気球が、竜の眼前で炸裂。自らの必殺技で顔中を凍結された竜は、喉を焼かれ、声にならない悲鳴を上げる。ぼとぼとと血を蒔きながら、ドラゴンは首を振り、顔に突いた冷気を剥がし落とそうとする。その首のすぐ下を、閃光が駆け抜けた。

今のタイミングを狙っていたファルであった。全身傷だらけの彼女は、大きく肩で息を付きながら刀を振り、べっとりと着いた敵の血を落とす。白目を剥いたドラゴンが、頸動脈から血を垂らしながら、地面に叩き付けられる。まるで、空気の巨人に、地面に押しつけられたかのようであった。

完璧な隙に完全に乗じ、自己に出来る最高の一撃を繰り出す。鱗の隙間を抉り抜き、最も太い血管を切り裂く。クリティカルヒットを完璧に決めた孤高の忍者は、大きく肩で息を付き、あくまでストイックに立ちつくしている。

「はあ、はあ、はあ……」

ゆっくり呼吸を整え行き、ファルは倒れたドラゴンを見据えた。それを見ていたエーリカは、全身が凍傷で痛むのを我慢しながら、親指を立ててみせる。

「お疲れさま、ファルさん」

「ああ。 何とか勝てたな」

「また、必用に応じてエスカレーターに乗ってね」

「それだけは勘弁してくれ」

蒼白になったファルが、もう余裕もない様子で言ったので、エーリカは遠慮無く笑った。

 

猛攻についに屈したグルヘイズは、薄れ行く意識の中、妙に晴れた気分だった。負けた。だが、負けて悔いのない相手だった。確かに人間共は嫌いだが、しかし此奴らになら、負けても仕方がないと、素直にグルヘイズは思えていた。

もう何も悔いはない。数百年生きて、やりたい事は何でもやってきた。子孫も残したし、世界中を見て回る事もした。敢えて心残りを上げるとすれば、若気の至りを精算しておきたい、それくらいであろう。グルヘイズがゆっくり首を動かし、リーダーらしい僧侶に、最後の力を込めながら言う。

「私の負けだ。 人間達よ、見事な技であった」

「ありがとう。 何とか勝たせて貰ったわ」

「最後に、一つ頼みがある。 私の巣の中央に、水色に光るこぶし大の石がある。 ……それを、それを……ドゥーハン南部にある、ヤツルハという村へ運んでくれまいか。 何、魔力もないただの石だ。 光る以外に、これといった特徴もない」

「構わないけど、どうしてまた」

グルヘイズは、向かってくる相手には一切容赦しなかった。殺して身につけていたものを奪い、コレクションしていた。殺そうと向かってくるのだから、それは当然だとも考えていた。

だが同時に、グルヘイズは侵略をしなかった。一度とて、無為な殺戮はしなかった。人間が怖れるのは勝手だが、彼自身はとても誇り高い戦士だったのである。ただの一度を除いて。

若い頃、空を無心に飛んでいたグルヘイズは、不思議なものを見た。人間が、魔力も何もないただ光るだけの石を崇めていたのだ。悪戯心を刺激されたグルヘイズは、その石を奪い、持って帰ってしまった。人間共は何の効能もない石を失った事で嘆き悲しみ、それを見てグルヘイズは笑い、ひとしきり楽しんだ。

今になって考えてみれば、それは節を曲げる行為だった。人間が悲しもうが死のうが知った事ではない。でもグルヘイズは、自身の誇りに行き、誇りに死んでいきたかった。そのためには、あの石を、故郷へと帰してやりたかったのである。それは不思議な美学であったが、グルヘイズにとっては絶対であった。

話を聞き終えると、エーリカはしばし考え込み、やがて小さく頷いた。

「分かったわ、ドラゴンの戦士グルヘイズ。 石は、元あった村へと必ず返すわね」

「ありがたい……私は……これで……」

巨大な瞳が、静かに光を失っていった。消えゆく意識の中、ドラゴンの誇り高き戦士は、人間共が彼に黙祷を捧げているのを見た。こいつらが最後の相手で良かったと、グルヘイズの最後の意識が歌った。

 

ドラゴンとの戦いを見ていた者が居る。何体かの下級の魔物もそうだ。彼らはどちらか負けた方の肉を漁るべく、勝者が消えるのを息を殺して待っていた。そしてドラゴンが破れた今、人間共が去るのを、生唾を飲み込みつつ待っていた。

そして彼らの上で薄い羽を振るわせ、宙に浮いて腕組みしていた者こそ。戦いを最初から見据え、結果までを見極めていた者であった。彼の呟きは、決して口中より漏れなかったが、それでも絶大な威圧感を周囲に撒いていた。その要因は、彼自身の高揚。最強の忍者の高揚は、それ即ち殺気の固まりであった。

「いよいよ、時が来たな」

最強の忍者。それは即ち、ファルの師匠たる忍者ゼルである。グルヘイズ亡き今彼こそが、現在地下六層にいる生物の中で最強の存在。そして、ファルがいずれ越えねばならない、最大の壁であった。

 

5,師弟激突

 

ドラゴンの巣の中央には、かの言葉通り、光るこぶし大の石が転がっていた。他にも幾らか宝石や光るものがあったが、それらには手を付ける気がしなかった。光る石以外にファルが回収したのは、幾らか転がっていた識別ブレスレットだけであった。この階層までこれた冒険者の幾らかが、あのドラゴンの手にかかったり、他の魔物に殺された。そして識別ブレスレットが、ドラゴンの巣に貯蔵される事となった。因果は巡るものである。更にそれが、今ファルの手に入る事となったのだから。

ドラゴンの巣があった塔は、かなり険しかったが、それでもファルが登るのには問題がなかった。空を飛ぶ魔物がドラゴン以外にいないわけでもないから、それの襲撃を警戒しながら、ロープとフックを使って登りきるのは、さほど難しくなかった。階段は所々残っていたし、傾斜もさほどきつくなかったからだ。ドラゴン戦の後、回復魔法を受けて更に七時間ほど休んだ今だから、別に大した労力を感じなかった。降りるのもそれほど骨ではなく、問題なく降りきったファルは、駆け寄ってきたエーリカを見て眉をひそめた。

「ファルさん、お帰りなさい」

「どうした。 光る石と、それに識別ブレスレットを七つ持って帰ってきたが、それだけしかないぞ」

「それは愚僧で預かって置くわ。 そ、れ、よ、り、も。 貴方にお客さんよ」

「客? こんな階層でか?」

ファル自身に客、という事自体が極めて珍しい。迷宮の外で休息中の状況を考えれば、チーム相手の客は珍しくないのだが。小首を傾げながらエーリカに手を引かれ歩いていった先にいたのは。懐かしい人であった。

背丈はロベルドと同じ、或いは少し低いか。忍び装束を着こなし、背中から薄い羽を生やした少年のような姿。整った顔立ちは、鋭すぎる目つきのせいで、安心感よりもまず不安を相手に与える。ドゥーハンに来る前に会ったきり、ずっと会っていなかった恩人である。ファルはその人を見つけるなり、駆け寄って頭を下げていた。

「お久しぶりです、師匠」

「ああ。 なかなか仕事が忙しくて会いに行く機会がなくてね」

「カルマンの迷宮にずっと潜りっぱなしであったと聞いています」

「まあ、そんな所だ」

相変わらずの隙がない体運びと言い、動作と言い、実力は微塵も衰えていない。単体としての戦闘能力は、下手をするとあのマクベインにも匹敵、或いはそれ以上かもしれない。ファルからバックパックを受け取り、二人を交互に見つつエーリカが言う。

「ファルさん、この方が?」

「ああ、私の師匠だ。 現在ドゥーハンと言わず、忍者ギルド全体で最強の使い手、ゼル様だ」

「母集団が大したこと無いからね。 私はそれほど凄くも偉くもないさ」

「何をおっしゃられますか。 無体な実力が、見るだけでまるわかりですわ」

エーリカの言葉にたいこもちの要素はない。まあ、エーリカほどの使い手なら、ゼルの実力は一目瞭然。当然の話で、他の面々も、ゼルの異常なまでの実力は一目で見抜いていた。困惑気味の視線や、呼吸の乱れがそれを証明している。

天才天才と言われたファルだが、ずっと修行してきて、ゼルに勝てると思った事が一度だってない。天才という言葉に胡座をかかず、常に努力を続け、フェアリーとして壮年に位置する八十四才の今まで力を伸ばし続けてきた古豪。飄々とした少年のように見えるが、その内実は武人として円熟しており、浮ついた所はほとんど無い。間違いなく大陸を代表する最強の武人の一人である。外見と動作からは、どうしても判断が付きにくいのだが。まあ、ある程度の実力が付けば分かるようになるのだから、ファル達には問題がない。

「案内したい場所がある。 皆と一緒について来なさい」

「はい」

ゼルは率先して歩き出す。途中何度か魔物が現れるが、視線だけで追い散らしながら、最強の忍者は歩いていく。以前マクベインと交戦した建物の側を過ぎ、その戦いで拠点として使用した大きな建物の中へ。城のような大きな建物の地下へともぐり、非常に巧妙な細工をされた隠し扉を幾つか潜る。そして、一旦梯子を使って地上部分に出る。すると、全く見た事がない地域に出ていた。

「この辺りは?」

「六層の北東部だ。 後で歩いてみれば分かるが、地形的に迷いやすく、ドラゴンがうじゃうじゃいるから、普通に歩いてもまず辿り着けない」

「何処へ行くのですか?」

「一つには、地下七層への階段。 後で騎士団に教えてやると良い」

ゼルが指さしたのは、スプーンのような不思議な形状の建物だった。上は平らになって横に膨らんでおり、中央部が少しへこんでいる。下の部分は工夫がない長方形の立方体で、のっぺりとして窓も何もない。入り口部分はぐちゃぐちゃに潰されていたが、瓦礫の奥へと入ってみると、其処には冷気が吹き付ける長い長い下り階段が存在していた。瓦礫を避けて、皆を奥へと招き入れながら、ゼルは言う。

「宰相一派は最近、この奥で活動している。 マクベインを失ってからは、六層以上の階層へ戻る気もないようだな。 ただ、枢機卿が連れている天使とアサシン数名が、六層を彷徨いてはいるようだが」

「宰相は、何を探しているのでしょうか。 国政を放擲してまで」

「それはこれから分かる」

再びゼルは歩き出す。妙に周囲を警戒している事に、ファルは気付いていた。

 

異様な建物が並ぶ六層でも、そこの奇怪さは群を抜いていた。一言で形容するなら、透明な筒、である。二つの塔が天に向かって並列に伸び、その間に何本かの透明な筒が渡されている。最上階に至るまで、透明な筒が八本。そして最上部からは横に筒が伸びていて、真四角な何の工夫もない大きな建物へと繋がっていた。

大きな建物の中は庭園のようになっていて、噴水や、枯れ果てた花壇があり、うすくらい中異彩を放っていた。その中を歩きながら、ゼルは言う。

「この建物には、ディアラント文明の強力な魔法がかかっていてね。 決まった順番で部屋を通らないと、目的の場所へは絶対にたどり着けないようになっているのだ」

「建物本体への入り口は、下にもあったようですが」

「下の入り口は全てフェイクだ。 私自身が使う事は良くあるがね」

「なるほど、追跡者を始末する時に、ですか?」

「その通りだ」

やがて七人は、大きな建物の中央部、広い広い部屋に出た。何を此処でするか、どうしてかファルには分かった。

振り返ったゼル。その姿が、瞬間的にぶれる。否、そういう錯覚が、ファルの視界を襲った。あまりにも強烈な殺気が、その全身から放たれている。今や師匠は、完全に戦闘態勢を取っていた。特に構えを取るわけではない。師匠は弟子達に様々な構えを教えたが、本人はあくまで自然体を貫いた。構えとは、様々な状況に特化対応したもの。対し、自然体とは、如何なる状況にも柔軟な対応が取れる態勢だ。

「ファル、真剣勝負だ。 私に勝てたら、この奥へと案内しよう」

「……どうしても、ですか?」

「どうしても、だ。 君達も、手出しして構わないぞ」

エーリカが、ちらりとファルに視線を送ってきた。ファルは首を横に振ると、一歩前に出る。

「私は……」

「うん?」

「師匠と、まともに戦えるほどにまで、腕を上げていたのですね」

「ふふふ、ようやく気が付いたか。 以前、言った事は覚えているな」

「師匠に対しての最大の報恩について、ですね」

体を低くして、全身に緊張をみなぎらせる。慎重すぎるほどに間合いを取る。師は真剣勝負を望んでいて、手加減する気がないのも一目で分かる。気を抜いたらその瞬間に殺される。本来なら喋る余裕など無いはずなのに、どうしてか口が動いていた。

「師匠には、これから報恩させて頂きます」

「まだ、少し速いと懸念しているが」

「何とか行けると、私は思っています」

「面白い……来い!」

二つの影が、元いた位置からかき消えた。

ゼルは良く言っていた。ファルを始め、恩返しをしたいと願う弟子達に。

「私を、超えてみせよっ!」

地を滑り、ファルの頭上に出現したゼルが、回転しながらの踵落としを叩き付けてきた。

 

ガン、ガン、と激しく打突音が響き渡る。ほとんど体がぶれて見えるほどの高速で、ファルとゼルはぶつかり合い、離れ、拳を、蹴りを交わし会う。一撃一撃ごとに火が散るようである。ファルの蹴りをかいくぐったゼルが、掌底を鳩尾へと伸ばしてくる。小さな手による掌底だが、力のかけ方と呼吸が絶妙で、並の人間なら一発で内臓が破裂するほどの重さだ。空いている手で冷静にその腕の半ばを掴むと、投げ技に入るファルだが、ゼルは自ら回転する事によってその威力を殺しきり、地面に自分から転がって跳ね起きる。追撃を掛けたファルが、跳躍してからのドロップキックを叩き込むが、柔らかく立ち位置をそらして受け流し、着地したファルの後ろ回し蹴りを、回転しつつの肘打ちで迎撃する。脹ら脛の筋肉を潰すつもりの一撃である事を悟ったファルは、打撃点を微妙に下にずらし、腹部を狙う。だが、相手は何しろゼルである。既にそれに対応すべく、空いた手を脇の下へ入れており、ファルの蹴りを余裕を持って受け止めていた。零コンマ二秒の静止。同時に二人は弾きあい、距離を取った。

今まで二十余合の駆け引きをしたが、どちらも致命傷どころか有効打すら浴びせられなかった。既に常人の域を超えている駆け引きだが、ゼルは本気ではないと、ファルは知っていた。

「ふむ」

構えを取り直したファルの前で、埃を払う余裕さえ見えながら、ゼルはゆっくり右から左へと移動していく。単に移動しているようだが、時々その足運びからは想像も付かないほど距離を詰めたり離したりしてきており、摺り足で間合いを計りながらファルは一秒も気が抜けない。ただ歩いているだけでも、ゼルは常識外のプレッシャーをかけ続けてくる。肉体能力だけではなく、その圧倒的な経験、それから産み出される駆け引きの巧みさこそ、この小さなフェアリーを最強の忍者へと昇華させている構成要素なのだ。

「妙に攻撃時の気配が薄いな。 それに、微小音への反応が良すぎる」

「気付かれましたか。 流石ですね」

「なるほど、識別ブレスレットで、特殊な技能を身につけたか。 本来の実力も跳ね上がっているが、それらを最大限に生かす事で、私との経験差を縮めてきたか」

ゼルはやはり、識別ブレスレットの効能と、その意味を知っている。何故わざわざドゥーハンが、オルトルード王が、あんなものをばらまいたのかも、おそらくは。

ゼルの動きが、不意に加速した。近づいてきているはずなのに、どうしてか対応出来なかった。腰を落としてからの、平々凡々な掌底突き。それが、何の工夫もないそれが。今日の戦いで、初めて入ったクリーンヒットとなった。

 

「ぐ、あっ!」

とんでもなく重い一撃に、よろけて下がるファルの前で、ゼルがふわりと浮き上がる。無言で抜刀したファルが、空に浮いたそれを斬らんとし、空振りした。唖然とするファルは、何とかガードだけ間に合い、それでも吹っ飛ばされる。また、平々凡々な飛び回し蹴りである。しかしどういう事か反撃は空を斬り、そして一撃は信じがたいほどに重い。何とか立ち上がりながら、ファルは自身の服に、呪札式の焙烙が貼り付けられている事に気付いた。慌てて忍び装束の上半分を脱ぎ、放り捨てる。しかし非情に、至近で爆炎が炸裂した。激しく床にたたきつけられ、瞬間的に呼吸が出来なくなる。

「どうした? 私が少し本気を出しただけで、その程度か?」

「ぐ、ぐくっ……!」

よろけつつ、何とか立ち上がるファルは、右肩に大きな火傷を負っていた。忍び装束の下に着ていた鎖帷子が、光を反射して鈍く光る。ゆっくり呼吸を整えるファルだが、師匠はその余裕を与えてくれない。再び不可解な加速を見て、ファルとの間合いを瞬間的に詰めてきた。

びゅん、と風を斬る、物凄い掌底を何とか飛びずさって避ける。続は、ふわりと浮き、回転しながら叩き付けてくる踵落とし。避けきれず、腕をクロスさせて防ぐが、尋常で無い負荷が両腕にかかってくる。着地した師匠は、柔らかい動作で、後ろ回し蹴りを放ってきた。膝で受けようとするが、ゼルは回転しながら宙へと浮き、その靴裏がファルの側頭部をまともに捕らえていた。再び吹き飛ばされたファルは、慌てて受け身を取るが、三半規管が悲鳴を上げており、猛烈な衝撃を殺しきれなかった。

『な、なるほど……羽を使っての加速か』

膝を立てて、何とか体を起こしながら、ファルはようやく不可解な動きを見せる師匠の、手品の種を見抜いていた。

 

達人的な技量を持っている事が、今は逆に徒になっている。羽を持ち、それを最大活用する事で、師匠は落下速度や攻撃速度をコントロールし、常識外の域へと変動させているのだ。

高度な戦いになると、落下速度を見たり、相手の能力を見ての、動きの先読みが必須になってくる。そこはあくまで物理的な読み合いであって、途中不意に落下速度が変わるような状況には、却って対応出来ない。つまり、経験と頭脳が、却って敵になってしまっているのである。

行動に緩急を不意に混ぜ、相手の心理を攪乱し、対応を遅らせる。それ自体はファルも当然やっている行動だ。むしろ、ファルのそれは達人の域に達し、並の使い手とは比較にならないレベルであるほどだ。だがしかし、ゼルのそれは根本的に次元が違っている。ファルがあくまで自らの筋力で出来る範囲内でやっているのに対し、ゼルのそれは羽を使用して、揚力や応力すら利用して行っているのだ。それに落下速度の調整や、攻撃速度の急ブレーキなども混ぜてしまわれたら、はっきり言って常識的な使い手では対応出来ない。

本来フェアリーの羽は此処まで強靱ではない。魔力を具現化した存在である羽を、師匠は徹底的に強化したのだろうと、ファルには想像が付く。種族の特性を極め上げる事によって、至高へと到達した存在。それがファルの師匠、超忍者ゼルなのだ。

何とか立ち上がったファルは、刀を放り捨てた。僅かに上半身に残っている忍び装束の残り布も、躊躇無くはぎ取る。ゆらゆらと走り寄ってきた師匠。対抗する術は、一つしかない。無用な装備を全て外し、空気の抵抗を最大まで減らす事だ。

「はああああっ!」

最大加速したファルは、ゼルの前蹴りをかわし、斜め後ろに回り込む。僅かに驚きの表情を浮かべたゼルは、ファルが見舞ったローキックをかわし、羽をはばたかせて空へと逃げ、そのまま反撃に入る。再び激しい緩急を付けた、どうしても人間の筋反応能力ではかわし得ない一撃。だが、今度空を切ったのは、ゼルの回し蹴りであった。

「む!」

ファルの神経反応速度に、体が対応出来たのである。無謀なまでの軽装に身を置く事で、リミッターの上限を無理矢理ずらしたファルは、そのまま地面に手を突き、逆立ちしたまま体を旋回させながらの蹴りを空に浮くゼルへと叩き込む。一撃が入る。ゼルは避けきれず、ガードも若干遅れた。息を吐き、地面に叩き付けられるフェアリーの超忍者。そのまま、ファルは全身がぶれるほどの勢いで立ち上がると、ゼルを追撃する。

「おおぉおのれえええ、舐めるなああっ!」

プライドを傷付けられ、額に血管を浮かび上がらせたゼルが、ファルもかくやという勢いで跳ね起きる。そのままぶれるほどの高速で繰り出されるファルの回し蹴りを、両腕をクロスしてガードしきる。数メートル飛ばされるが、靴底に凄まじい擦過音を立てさせつつも、何とか耐えてみせる。

『流石師匠!』

心底感嘆しながら、ファルはしかし、攻勢に転ずる。そのまま至近まで間を詰めると、上から被せるように、連続して蹴り技を放ち叩き込む。飛ばせるわけには行かない。浮かせては、またトリッキーな攻撃の餌食になるばかりだ。ゼルは強い。追いつめられた状態になっても屈せず、そのまま反撃に出てくる。鉈のように降ったファルの足を、くの字形に折り曲げた右肘で受け、更に肘の内側に手を当ててはねのける。度を超した痛みに顔を歪めつつも、更に連続して繰り出される蹴りを捌き続け、足に確実に反撃の打撃を蓄積させていく。眉をひそめたファルが、一旦態勢を引くのと同時に飛び出し、腹部を狙って拳を繰り出す。神速の動きから繰り出される、練達の一撃。フェアリーの体躯とはいえ、並の兵士の肉体であれば鎧ごと貫く。

「ぐ、ああっ!」

ゼルが、今日初めて悲鳴を上げ、二歩下がっていた。ファルはゼルが突撃に出る事を予想して、体を半回転しつつ態勢を引くと見せかけ、カウンターの肘打ちを入れていたのだ。ゼルの拳によって鎖帷子は大きく裂かれ、血も噴いていたが、しかし駆け引きで初めてゼルを凌いだ。そのまま動きを止めたゼルに、体を回転しきって正面に戻すと、体が浮き上がるほどの遠慮無い前蹴りを叩き込む。

今度は逆に、ゼルの体にクリーンヒットが入っていた。

こうなると、体が小さなゼルは不利だ。思い切りはじき飛ばされ、壁に激しく叩き付けられる。受け身を取ったはずだが、それでも、遠目にも相当効いている事が一目瞭然である。よろけつつも、再び立ち上がるゼルは、口の端に伝う血を拭いながら、呼吸を整える。対し、重い攻撃を受け続けたファルも、そろそろ体力的な限界だ。

次が決定点になる。態勢を低くするファルと、あくまで自然体に構えるゼル。両者の視線が火花を散らす。距離がないようにすら見える。今の一撃が完全に入った事を考慮しても、まだ経験から言って若干ファルが不利。である以上、次の一撃で、どちらかが死ぬ可能性が極めて高い。

「師匠!」

「私にとっての、最大の喜びは!」

ゼルの全身から、何処に残っていたのかと思えるほどの殺気が吹き上がる。常人なら近づいただけで気死するほどの凄まじさだ。

「私を超える存在を育て上げ! その成長を見届ける事!」

ファルはそれを聞いた。である以上、もう彼女には師との戦いを止められなかった。ゼルは恩人だ。彼女を助け上げてくれた恩人だ。その恩人が望むのが、死を賭しての試し合い。である以上、報恩したい。それがファルの本音であった。膨大な殺気をまき散らす師に対し、あくまでファルは静かに、体内に気を練り込んでいく。

「お、おい!」

「止めなくて良いのかの? どちらか、死んでしまうのではないかのう?」

「愚僧たちには、止める権利がないわ」

ロベルドや、コンデや、エーリカの声がする。フリーダーは戦いに参加したそうに、じっと拳を固めて此方を見ている。ヴェーラは冷や汗を掻きながらも、腕組みをして戦いの帰趨を見守っていた。ファルは不思議と、それらに気を逸らされはしなかった。

致命的な一点へ、戦いは収束していく。そして、ついに最終点が来た。ゼルの叫びが、その引き金となった。

「おおおおおおおおおおおおおおっ! 行くぞ、ファル! 我が弟子よぉおおおおおっ!」

「せあああああああっ!」

二人の忍者が、朱を撒きながら、両者の中間点にて交錯した。

 

最後の瞬間、ファルの手刀が、ゼルの脇腹から腹にかけて深く抉った。ゼルの手刀もまた、ファルの腹部を刺し貫いていた。数歩歩いて、前のめりに倒れた点では両者同じ。相討ちであった。

「動かないで。 どうにか致命傷は避けているわ」

遠くから、いや近くからエーリカの声がする。小さな手の感触がある。フリーダーが隣で、ファルの手を握っているのだと、どうしてか分かる。小さな手の震えも。フリーダーは何も声を漏らさないが、さぞ悲しんでいるだろう。戦いに身を置いた以上仕方がない事だ。身内が傷つくのを悲しむのは、自然な感情だ。だが敵手も同じく傷ついているのだ。

そう、敵手。ゼル師匠。

「……師匠、は?」

「大丈夫、死にやしないわ」

「? どういう……ことだ?」

「私以上の癒し手が、診ているからよ」

ファルの意識は、そこで途切れた。後に広がっているのは、ただ広く、暗い暗い闇の海であった。

 

彼女が次に目覚めた時、清潔な布で巻かれ手当てされた自らの体と、信じがたい存在を目にする事となる。そして、この迷宮で起こりつつある、凶事の一端も、である。だがそれは、無数の苦痛と、耐えがたい痛みを乗り越えた先にある、未来の話であった。

 

6,黒い翼

 

ランゴバルド枢機卿にとって、それは理想的な状況だと言えた。

地下七層の一角。例外的に濡れていない、だが異臭立ちこめる部屋に、別人のようにやつれた宰相ウェブスターが居た。彼はアサシン達が敷いた布の上に腰掛け、高級酒を瓶から直接口に注いでいた。膨大な障気が部屋には満ちているが、その一助になっているのは、明らかに宰相だった。彼の頬はこけ、顎には無精髭が生い茂り、唇は荒れてひび割れている。しかし目だけは、異様な光を周囲に放ち続けていた。

机の上には、黒い装丁の本が無造作に置かれている。マクベインが見つけてきた、彼の遺品になってしまった書物だ。今後の宰相の計画にとって、中核になる存在でもある。そんな大事な本の上で、宰相は酒がこぼれるのも意に介さず、飲んだくれていた。枢機卿が皺だらけの手で窘めるのも、無理もない事であった。

「おやおや、いけませんぞ宰相殿。 そのように飲まれては」

「黙れ……私が何をしようと勝手だ……」

激しい音と共に、宰相が酒瓶を机に叩き付けた。幸い瓶の底からだったから良かったが、そうでなければ高級酒が無駄になり果てていた可能性が高い。酩酊を目に浮かべながら、宰相は呪いを言葉に代えてはき続ける。

「そもそも、私は何もかもを手に入れるはずだった。 それを、あの男が、あの男が……!」

「やれやれ、またあの男に対する呪詛ですかな? ならば半分は成っているではありませんか? ん?」

揶揄の言葉にも、宰相は興味を示さない。いや、もはや理解出来ないのやもしれぬ。肩をすくめると、枢機卿は部屋を出る。外には、彼の部下達と、冷徹な大天使が待っていた。かっては宰相の部下だった者達も、今や枢機卿に絶対の信頼を置くようになっているか、或いは逃げ去った。肝心の宰相があの有様なのだから、無理もない話である。皆を見回しながら、枢機卿は言う。

「報告せよ。 例のものは?」

「地下六層にて、大体の位置を特定しました」

「おっ? 何があったのかな? 大天使たる汝でも、今までは尻尾を掴めなかったではないか」

「どうやら力を使った模様です。 それを部下が探知して、私が確認しました」

残虐な大天使は、ちょうちょうと敬語で枢機卿に対する。普段の姿を知っている者が見ると、例外なく戦慄を覚えるのは当然の事か。魔物を八つ裂きにするその姿を知るものは、皆彼女の敬語を聞いて逃げ腰になる。だが流石枢機卿、歯が抜け落ちた口を開けてかかと笑った。

「良し、隙を見て奪取せよ」

「承知いたしました」

「わしにとってはただの人形でも、宰相殿には最高の土産。 かの御仁も、さぞ喜ぶ事であろうよ」

腹に何物も抱えた老妖怪の前で、更に多くの物を抱えた大天使が、目を細めて傅く。狐と狸の化かし合い、等という生やさしい物ではない。深淵の闇の中で蠢く奇怪な怪物同士の、獲物の奪い合いであった。

……いままで地下七層に入る事かなわなかった騎士団が、ついに七層の探索に乗り出す。サンゴート騎士団が、更に増援を投入、騎士団の先鋒として探索をする事を提案、ドゥーハン上層部に容れられる。そして、死んでいたはずのある人物が、生きていた事が一部の者達に知られる。

カルマンの迷宮の奥底で、今まで停滞していた闇が、一気にかき回され、動き始めていた。多くの人間の欲望を絡め取り、飲み込み、膨れあがりながら。

 

(続)