破壊神オグ
序、三者交錯
カルマンの迷宮に、また新たなる勢力が入り込んだことを、知らないドゥーハン人は少ない。質素で急はあるが、簡単な式典が行われたし、それには内外の要人がおおぜい出席したのである。一見それは、ある勢力の援軍にも見えたが、ある程度以上の政治的識見を持つ者なら、それが別勢力だと言う事は良く知っていた。
宰相ウェブスター公爵が、近衛兵団の一部と、ハリスから派遣された枢機卿及び神聖騎士団を率いて、迷宮に直に乗り込んだのである。今までも宰相は時々迷宮に足を運ぶ事があったが、今回はそれらとは比較にならない大規模で明白な行動であった。宰相と騎士団長の確執は、裏では結構有名で、成果を上げられない騎士団長に宰相が業を煮やして直接指揮に乗り出したとか、いや魔女を撃退しうる確固たる技術なり情報なりを手に入れたのだと、様々な噂が飛び交った。事実大魔術師ウェズベルの敗退で意気消沈していたドゥーハンの国民は、それによって噂の種を得て、僅かばかりとはいえど心の糧を手に入れたのである。
だが現実は、常に噂より離れた所にある。宰相の目的は魔女などではないし、それを倒せる手段とて持っていなかった。石橋を叩いて渡る性癖の持ち主である宰相が動いた理由はただ一つ。彼が得んとする最終目的に通じる二つのもの。その一つを探し出す目星がついたからである。今ひとつは現在総力を挙げて探索中であり、二つが揃った時に宰相の野望は現実となるのであった。
本来冷静で現実主義者であった宰相は、冒険的な行動に出ようとしていた。彼の背を押していたのは、個人的で極めて偏狭な妄執であった。彼をそんな行動に駆り立てた理由を、知るものは少ない。
兎に角、である。宰相が乗り込んできた事で、一時的に迷宮内部での指揮系統が混乱する者がいるのではないかと心配する者がいたが、その予想ははずれた。宰相は困惑する騎士団長にまず面会すると、軍事行動には今後干渉しない事を約束し、指揮権の移譲などは要求しなかった。これで嘆息した騎士団長に、代わりに判明している迷宮構造の提示と、補給拠点の使用許可、情況によっては余剰人員の貸し出しも要求した。騎士団長はしばし考え抜いた後、人員の貸し出し以外の条件を全てのんだ。宰相もそこで妥協し、それ以上騎士団長に要求する事はなかった。こうして表向きは平穏のうちに新勢力の迷宮攻略参加が決定したのである。あくまで、表向きは、であったが。
激しい剣戟の音が周囲に飛び散る。騎士団長が汗を飛ばし、自ら剣を交えているのは、首を左手に抱え、右手に長剣を構えた騎士であった。デュラハンと呼ばれる強力な不死者である。魔法がかかった武器以外では傷付ける事すら出来ず、剣技もまた相当なレベルで、地下六層前後から出現し、冒険者や騎士団にとって大きな脅威になっている。騎士団長が率いているのは、騎士団から選りすぐった精鋭六名だが、それでも同数のデュラハンに対してなかなか攻勢に出る事は出来なかった。特に騎士団長は、最前線で二体のデュラハンを同時に相手にしており、あまり余裕はなかった。
「おおおおおおっ!」
奥歯を噛んだ騎士団長が、強引に一体の剣をはじき飛ばすと、前面に踏み込み、体勢を崩した今一体の胸に剣を突き通した。デュラハンが抱えている首が鮮血を吹きだし、蹈鞴を踏んで死霊騎士が横転する。だがその隙に、もう一体が真横から剣を騎士団長に叩き付けてきた。どうしてか、はじき飛ばしたはずの剣が、彼の手に戻っている。何とか籠手で弾いた騎士団長だったが、体勢を崩す事を余儀なくされ、更なる猛攻を不死者は仕掛けてきた。
その時ようやく、皆にガードされて呪文を唱えていた騎士団僧侶が、浄化を発動した。ディスペルの閃光は、流石に騎士団所属の僧侶だけあって凄まじく、皆が一歩後退して目を覆う。光が晴れた時、敵は数を半減させ、残りも大きく体を削り取られていた。
「総員、突撃! この機を逃すな!」
立ち上がった騎士団長が叫ぶと、全員それに応え、逃げ腰になった死霊騎士達に躍りかかっていった。それでもそう簡単には勝てず、負傷者も少なくなく、戦いが終了した時、騎士団長は今日の探索続行を諦めざるを得なかった。五層の詰め所に戻る事を皆に告げた団長の顔は、疲労に蝕まれていた。彼一人の命ではないし、これ以上の探索は部下達の命も危険にさらす事になる。何とももどかしい事であった。
地下五層の安定を確保したと言っても、それはあくまで騎士団詰め所と、その周辺にある戦略的要所の話である。魔物共の襲撃は日常茶飯事であるし、負傷者は日々少なからず出る。地下五層の総指揮所を兼ねている中央詰め所に戻ると、リンシアに先ほどデュラハンの一撃で打撲した腕の傷を治療させながら、騎士団長ベルグラーノは言った。
「宰相殿は何をしている?」
「はっ! どうやら地下五層で、枢機卿様と共に探索行動をしている模様です」
「かの御仁は、いったい何をしに来たのだ? 今までも地下一層や二層を彷徨いていた事はあったようだが」
騎士団長は実にわかりやすい人物で、口調や表情に好き嫌いがはっきり出る。三十路に達してはいるのだが、騎士としては有能であっても、個人としてはまだまだ子供なのだ。今も物凄く嫌そうな顔でそう言ったので、リンシアは慌てて周囲を見回したし、古参の騎士達は苦笑いしていた。内輪の情況だけでそう言った行動が表に出るのなら良いのだが、そうではないから問題も大きい。好漢には間違いないのだが、敵を作りやすい性格であるのも確かであった。
包帯を巻き終えたリンシアは、自身で回復魔法を唱え、団長の腕をいやしながら言う。それなりの回復魔法が使えるのは、騎士団員の常識だ。自己回復力を持ち、強固な武装を持っているから、騎士団は強力なのである。
「きな臭いものを感じます。 あのハリスが、何の利益も無しに、枢機卿クラスの人材を貸し出すとも思えませんし」
「正直、俺にはよく分からない世界だ」
「それでは困ります。 ただでさえ、今まで私たちは陛下に頼りすぎていたのですし」
「ううむ……確かにそれはそうなのだが」
英雄王の政治的手腕と、それによって作り出されたシステム。その強固な仕組みの中で、いつしか皆が王に頼り切っていたのは事実である。現に王が倒れた直後の混乱は見苦しいものであり、病床から彼が的確な指示を飛ばさなければ、最悪また戦乱の世に戻っていた可能性すらある。宰相は文句ない仕事をしながらもずっときな臭い動きをしているし、役人達は決められたシステム内ではきちんと仕事を処理しているが、それ以上の事には期待出来ない。つまり、騎士団長のような上層部が結束して、王の負担を減らして行かねばならないのである。リンシアの苦言にはそう言った意味が含まれていて、騎士団長もそれを悟りはしたのだが、やはり政治は軍事に比べて苦手なのが本音であった。
リンシアは騎士団員の中でも若手だが、もう隊長格を務めている事もあり、非常に有能な娘だ。平民出身の彼女が此処まで出世出来たのも、旧体制をバンクォー戦役前後にオルトルード王が大掃除して、膿だしを行ったからである。膿の中には、オルトルードと全く血が繋がっていない旧ドゥーハン王家の連中も含まれていたが、民衆は喝采こそすれ反対などしなかった。今でこそ千年王国の体を為しているドゥーハンだが、かっては腐敗と堕落の代名詞にまでされていたのである。旧王家の連中を容赦なく処分したからこそ、オルトルードは民衆の圧倒的な支持を得たのだとも言える。また、かってと違って、現在は出身に関係なく能力次第で幾らでも高位のポストが望める時代である。何よりドゥーハン王都防衛軍司令官のスタンセルからして平民出身である。そう言う時代であるから、民衆の王に対する忠誠と信頼は揺るぎない。
「せめて世継ぎがおられれば、皆でその方をもり立てていけるのだが」
大きく騎士団長は嘆息した。愛娘を失って、すなわち跡継ぎが居なくなって暫く立つが、王は新しい后を取ろうとはしない。オリアーナ王女の母である王妃はもう病死しているし、私生活がしっかりしている王の近辺には隠し子の噂すらない。幾ら命に別状無いとは言えども、跡継ぎ問題はドゥーハンの大きな課題であった。今のところ、王は養子を取る気配も見せてはおらず、気を揉む者は多い。
しばしの休憩の後、騎士団長は負傷者を後方に下げ、人員を代えて再び地下六層に向かう事を決定した。自らにやれる事を可能な限り行う。今の彼には、それしか思いつかなかった。
人数こそ騎士団に比べて少ないが、カルマンの迷宮に入り込んだ宰相一派は、精鋭と呼んで差し支えない戦力を保有していた。天使数体に護衛された枢機卿、五層から呼び戻したマクベインとその部下達、それにアサシンギルドから借り受けた精鋭暗殺者数名。更に近衛兵団も、それなりに訓練を受けた者達である。逆に言えば、並の魔物では全く歯が立たない戦力を整えたからこそ、用心深い宰相は迷宮攻略に乗り出したのだとも言える。だが同時に、他の勢力を出し抜いたり喧嘩を売るには少し心許ない戦力でもあり、今後はそれの運用が決め手になってくるのも間違いない。
宰相はまず地下五層まで降りると、騎士団の詰め所で補給を行いながら、各所を視察して回った。当面は他勢力と衝突する必要はないし、するにしてもまだ時期が悪い。何度か出入りしながらサンプルを採取し、錬金術ギルドや何故か考古学者を集めて吟味し、そして結論を得た。既に確報に近い情報は得ていたのだが、それを自身の目で確認し、宰相は充分に満足したのである。
宰相は口の端をつり上げ、マクベインと、それに枢機卿に向け言った。美男子として知られた、甘いマスクの面影は何処にもない。彼の顔には、目的に達しようとする、どす黒い野心ばかりが残されていた。
「間違いない!」
「何が間違いないのですかな?」
「くくくくく、間違いない! 此処は間違いなくディアラントだ! その中でも、うごめくものによって滅ぼされたとされる中央都市に違いない!」
青黒い周囲の壁を見回しながら、両手を広げて宰相は叫んだ。神よ感謝します、と。歓喜を爆発させた宰相はしばし高笑いしていたが、やがて咳払いし、改めて部下と協力者達を見回した。
「五層を、特に騎士団が手を出していない地域を徹底的に探れ!」
「ふむ。 そして件のものが見付かった暁には?」
「発見者には栄達も富も思いのままだ。 我らはこの世の神となる!」
おお、とマクベイン配下の荒くれ達が声を漏らした。枢機卿配下の神聖騎士団も、欲望を瞳に輝かせ、頷きあう。彼らを満足げに見回すと、宰相は大いに頷き、自身の野望が達成されようとしている瞬間を祝い、感謝していた。
一人離れた所の壁に背を預けていた天使マリエルは、小さく欠伸をし、部下のインヴォルベエルに耳打ちした。
「所詮グズはグズね。 浅はかさにも程があるわ。 人間に扱える代物などでは無いというのに。 ふふふ……連中の監視を続行しなさい」
「はっ。 探知装置の反応からして、(オグ)がこの階層にあるのはほぼ間違いないと思われるのですが、連中に発見されたらどうしますか?」
「今の情況じゃ、じきに放っておいても誰かに発見されるわよ。 それにカギがない以上、発見されても大した問題はないし、そっちは放っておいて良いわ。 それに、イザーヴォルベットがまた一体具現化したわね。 それの探索も急ぎなさい」
「了解いたしました。 すぐ作業にかかります」
マリエルが手を振ると、天使は敬礼し、闇へと消えていった。二体の同僚がそれに続いた。実際問題、宰相達の護衛など、マリエル一人で充分である。それなりに実力がある者は近寄ってこないし、それ以下の連中は文字通り一ひねりだ。枢機卿が呼ぶ声がして、表面上大人しく従い、マリエルは彼らの方へ歩き出したのであった。
野心抱く者、それをあざ笑う者。カルマンの迷宮は、地上と大差ない、業が渦巻く地と化していた。誰がそれを望んでいたのか、あるいは人間が入った結果そうなったのか。それらを知り尽くしている者は、今だ存在しなかった。
1,朝のひととき
街が燃えていた。結晶のような塔が崩れ、空を無数の影が覆い尽くし、天をも焦がすような炎が踊り狂っていた。
何故かそれを見て、少し気分が良かった。無数の悲鳴が響き渡り、鮮血が飛び散る中、自分と同じ存在が無数に行進する。いずれもが彼女と同じ戦闘用オートマターである。何体かが足を止め、形態変化を行い、現れた者に飛びかかる。数体を失いながらも、程なくそれを撃破し、再び行進を開始する。目指す先は街の中央にそびえ立つ、巨大なる影。恐怖はほとんど無い。自分が如何にして作られたか、彼女は良く知っていた。何故恐怖がないのかも、死を怖れないのかも。逆に何で戦わねばならないのか、良くは知らない。正確には知る権利を与えられていなかった。
何度かの交戦を経て、ついに大物が現れた。巨大な昆虫のような姿をしたそれの戦闘能力は桁違いだった。既に彼女の所属する部隊は四半減しており、戦力的にも、どう考えても勝ち目はなかった。しかし引く事は許されていなかった。そんな命令は暗示によって与えられていなかった。
潰れる音、ひしゃげる音、引き裂かれる音。首を引きちぎられたオートマターが、鮮血を吹き出しながら、喰われていった。助ける暇もなく、マスターも踏みつぶされて死んだ。人間のような歯茎をむき出しにしたそれは、ランスモードに腕を変化させた彼女に、最後の生き残りに、巨体を揺らして突貫してきた。
小さな体をバネにして、彼女は跳躍する。繰り出された腕に対してランスを会わせるが、ただでさえ常識外れな結界は突破出来ない。仲間が全滅した今となっては、なおさらである。結界に跳ね返され、体勢を崩した彼女を、昆虫のような何かが空中で掴んだ。そして口へと無造作に放り込んだ。防御態勢を取れたのは上出来だった。かみ砕くのも面倒くさいのか、それは彼女を丸飲みにした。
フリーダーが目を覚まして、ベットの上で身を起こした。ぐっしょり汗を掻いていたので、布で体を拭いて、着替えて部屋を出る。別に感慨も悲しみも恐怖もない。そんなものは、暗示によって消し去られたからだ。極端な話、フリーダーはファルが死んでも何とも思わない。そう言う精神構造に、暗示によって調整されているからである。
フリーダーは心を持っている。ただし、その心は完璧に制御されている。機械的な暗示という、一種の洗脳操作によって。
自分が如何なる存在か、如何にして作られたか、フリーダーは全て把握している。だがそれに対して、何も想う所はない。そう言う風に暗示によって調整されているからである。
全てが他意によって為されている事であったが、別にフリーダーは不満に思っていない。だが一方で、最近は暗示の効果が少しずつ弱まりつつあるのも事実として感じていた。実際問題、ファルの側にいると落ち着くし嬉しいし、背中を守って戦えるのは光栄なのだ。この間、見せてくれた笑顔は、フリーダーの中で宝物になっていた。ファルの言う冷徹な言葉が事実であることも知覚はしているのだが、だがそれでもあの自然な微笑みを向けてくれた事は嬉しかった。信頼してくれている。大事に思ってくれている。そう思うと、不思議と心が安らかになるのだった。最近は単語の翻訳も進んでいて、此方の言葉で殆ど喋れるようになっていた。それはコミュニケーションを取れる相手が増える事も意味していて、フリーダーには喜ばしい事であった。
「おはようございます、エイミ様」
「おはようございます、フリーダーちゃん」
フリーダーの笑顔は、持ち主に不快感を与えないように、非常に多くのデータから分析抽出して作られた物だ。どう筋肉を動かせばよいのか、細部に渡るまで分析しつくしたもので、そのノウハウは脳に直接インプットされている。その笑顔を向ける相手は、ファルの関係者の中で一番の早起きであるエイミだ。血が繋がっていると言う事なのだが、ファルがヒューマンなのに対して、エイミはエルフにしか見えない。ただ、そう言う事例は記憶内のデータバンクにも報告例があり、別に不自然な事ではない。
無言のまま、エイミを手伝う。水汲みをして、食器を洗って、洗濯をする。ファルを始めとする冒険者達の衣服を選択するサービスも、この宿では行っている。表には(クライツラ協会所属冒険者宿NO89)と書かれているが、冒険者達には単に89番宿と呼ばれているのを、フリーダーは良く耳にしている。同様の宿はこのドゥーハン王都に珍しくもないと言う事も知っている。
当然の事ながら、日々戦いを過ごしている冒険者達の服は血も汗もたっぷり吸い込んでいるので、裏庭で行う洗濯は重労働になる。冷たい水で、服を洗濯板にこすりつけるのは、結構労力を必要とするのだ。ファルの洗濯物は、絶対にエイミが手放さずに自分でやる。それを見ると、いつもフリーダーは少しだけ心が騒いだ。
「おはよー」
「おはようございます、ジル様」
「おはようございます、ジルさん」
欠伸をしながら、次に起きてくるのはジルだ。彼女は寝ぼけまなこで、コンデの服を抱えて裏庭に出てくる。コンデの服は高級なシルクを多く含んでいて、少し洗濯の方法が違うのである。それと、ジルはコンデ関連のものは、食器や小物に至るまで絶対に他人に触らせない。三人が列んで洗濯をしているうちに、やがて陽は地平から上がりきり、辺りに光の板を敷き詰め始める。
「おはよう、いい天気だな」
「おはようございます、ファル様」
「ふあ……あ。 だいぶまだ眠いな。 どれ、少し体を動かすか」
目をこすりながら呟くのは、普段の凛とした様子とはかけ離れ、少しぼんやりしているフリーダーのマスターだった。そう、洗濯物を干し終わる頃に、起きてくるのがファルだ。ファルはエイミやフリーダーの前では笑顔も少し浮かべるし(特にエイミの前では結構油断して自然な笑顔を作る事が多い)、時々欠伸もしたりする。外で気が張りつめきっている分、中では案外緩い人なのだ。二人で列んで、裏庭で簡単に体を動かす。ファルが行っている体操は、良く筋肉のほぐし方や暖め方を考えていて、フリーダーも感心させられる。エイミはそれに参加しないから、この時だけはファルを独占出来る。フリーダーは、それが少しだけ幸せだった。
体操が終わるとすぐにお出かけしてしまうファルを見送ると、フリーダーは皆の装備を点検し、エイミと一緒に新しい情報の整理をする。エイミは何処から仕入れてくるのか色々な情報を本当に沢山集めてくるので、フリーダーも重要度別に分類するのが大変だった。雑多に机の上に散らばっている情報をフリーダーが集めているうちに、エイミは従業員達と一緒に、冒険者達の朝食を造る。この時間帯になると、いよいよ大御所の登場となる。怒らせると魔神よりも怖いチームリーダー、エーリカの起床である。ただ、起きてきた時にはもうしっかりした格好をしているので、ひょっとするとファルと同じくらいの時間にはもう起きているのかも知れないと、フリーダーは推測していた。
実のところ、エーリカはかなりの大食漢だ。普通の冒険者が食べる二人前は軽く平らげて、それからフリーダーが選別した情報の確認に入る。エーリカの能力は非常に高く、一度覚えた事は殆ど忘れないし、しかも情報を多方向から総合的に把握していく。また非常に豊富なバイタリティを持ってもいる。ただし、天才的な飲み込みの良ささえあるが、純粋な戦闘能力に関してはファルやコンデに一枚劣る。にもかかわらず、他のチームメンバーが束になってもかなわない気がするのは如何なる事なのか。服に汁が飛びやすい麺類を器用に食べながら、エーリカはフリーダーの向かいに座って、書類に素早く目を通していく。本当に目を通しているのか疑わしいほどの速さだが、会議などの時にそれが嘘でない事は証明されているので、黙ってフリーダーは次の命令を待つ。今日はそれほど革新的な情報があったわけではなく、エーリカは手帳に少し書き留めたぐらいで、特に急の用事をフリーダーに命ずる事もなかった。
「いつもお疲れさま」
「エーリカ様こそ、朝早くからお疲れさまです」
「会議まで少し時間があるわね。 フリーダーちゃん、少し休んでいていいわよ」
「はい、そうさせて頂きます」
快く答えはしたが、休むという行為がなんなのか、フリーダーには未だよく分からないのが現状だ。
まだ朝食を取っていないのが普通なので、厨房に行って、朝食を貰ってくる。エイミはいつももう少し後に、まかない食と言われる余り物を使って作った食物を、従業員達と一緒に取るのをフリーダーは知っている。自分もそれでいいと言ったのだが、エイミは笑顔で、皆と同じ物を食べなさいと言って普通の食事を出してくれた。この辺、随分エイミは複雑な感情を抱かせてくれる存在だ。ファルとの間ではもやもやしたものを覚えるし、逆に日常生活では随分嬉しい気持ちを感じさせてくれる。
体の彼方此方を弄られているフリーダーであり、味覚もそれの例外ではない。セクサオートマターやメイドオートマターには、主君がインプットした味に麻薬的な常習性を感じるように作られたものもいるが、戦闘用オートマターであるフリーダーにそれはない。逆に何を食べても活力になるように、殆どが美味に設定されているのだ。それを差し引いても、良く作られているし普通に美味しい食べ物だと判断可能だが、食事を楽しむという感覚はまだよく分からない。黙々と食べるフリーダーの横顔を、だいぶ高くなってきた陽から放たれる光が照らしていた。
ファルが帰ってきた頃には、一番遅く起きてくるコンデももうテーブルについている。会議はいつものようにスムーズに行われるが、それはやはりリーダーシップを取るエーリカの手腕に寄る所が大きい。先に黒板と白墨を借りておき、資料はとっくに整理してある。黒板に手際よく今日の攻略計画と情報を書いていくエーリカを見ながら、フリーダーは自らもその情報を記憶にインプットしていった。一通り説明が終わると、エーリカはギルドに顔を出してきたファルに視線を向けるが、手を横に振られて小さく頷いた。
「説明したように、今日からいよいよ地下五層に足を運ぶわよ」
「いよいよだな。 腕が鳴りやがるぜ」
「ただ、以前少し覗いた時も確認したが、まるで神が戯れに作り上げた迷路だな。 攻略には骨が折れそうだ」
「構造もそうだが、問題はこの階層の全体像が、まるで分からないと言う事なのだ」
フリーダーの隣に座るファルが、けだるそうに言って机を軽く叩いた。フリーダーの目から見ても、ファルはそれほど情報収集が上手な方ではない。しかし数をこなして、きちんと必要な情報は集めてくる。ただ情報整理能力がないので、いつもエーリカやフリーダーの手を借りて、それを纏めるのだ。
「一部の上級冒険者を除いて、これ以降の階層に行けているものが殆どいないから、忍者ギルドにしても冒険者ギルドにしても殆ど情報を入手出来ていないのだ。 それに未確認情報だが、真面目に探索しようとした冒険者が皆途中で音を上げるほど、広くて深い階層らしい。 かろうじて地下六層への通路は見付かっているらしいのだが」
「まあ、考えても仕方ないだろ」
「そうじゃのう。 小生としても、此処は地道に探索していくしか無いと思うのう」
「私たちには、アレイドの実戦投入、新規開発が出来ているという強みがあるわ。 だから本来格上の冒険者よりも実働戦闘能力は高いし、それに応じた探索能力も上よ。 それに、迷宮の情報は知ってのとおり錯綜する一方よ。 此処は焦らず、じっくり一つずつ状況を処理していくのが吉だわ」
ふむ、と小さく唸ってから、ファルは皆の考えの正しさを認めた。結構頑固なファルだが、現在の仲間達の事は信頼していて、その言う事はかなり素直に聞く。ただし、不必要な干渉をしない信頼出来る仲間だからこそ、そう言う態度が自然に出来るのだろうと、フリーダーは自然に理解していた。
「何か他に質問はある?」
エーリカの言葉に、沈黙が返答となった。
会議が終わると、少しの予備時間をおいて、探索開始となる。この予備時間をどう過ごすか、それぞれ個人差があって、結構面白いといつもフリーダーは思っていた。
例えばコンデは、ジルに色々説教されながら、カップで茶を楽しんでいる。この老人はイリキア王家の末裔と言う事で、結構金目のものと、高級な茶葉を色々持っていて、時々フリーダーにごちそうしてくれた。茶の味も薫りも色々に違って、新しい種類の茶をくれる事がフリーダーの楽しみだった。
ヴェーラは席について、黙々と愛用のハルバードを手入れしている。刃を綺麗に磨き抜き、切れ味を確認し、必要において研ぎ直す。握りも丁寧に処理していて、柄の手入れもきちんとする。かなりのパワーファイターであるヴェーラだが、最近は石突きや柄を使ったテクニカルな戦いもするようになっていて、其方の手入れもするようになっていた。
ロベルドは斧の手入れを最小限に、逆に自らの肉体を鍛え抜く事をメインとしている。小柄だが、ロベルドの全身は鍛え抜かれた破壊武具だ。暇さえあればファルと手合わせしていて、最近はますます近距離格闘戦に習熟してきている。今日のメニューはウェイトリフティングらしく、一抱えもある石を何度も持ち上げ、地面に降ろしていた。軽薄な若造と彼を侮るものがいなくなったのは、その石の量を皆に見せているからだ。元々の体格に加え、実戦、しかも首の皮一枚で勝つようなギリギリの戦いを繰り返してくれば、嫌でも力量が増すのは当然である。
ファルはロベルドの隣で、柔軟体操をする事が多い。迷宮から帰還した後や、空いた時間を利用して自らを高めぬいているファルだからこそ、こういう時にはちょっとしたウォーミングアップで問題ないのである。足の筋を延ばして、背中の筋を延ばし始めたファルに、ノルマを終えたロベルドが言った。
「おう、今日も軽く手合わせしようぜ」
「そうだな……フリーダー」
呼ばれた事に気付いて、フリーダーははたと顔を上げた。柔軟体操を続けながら、ファルは言う。
「今日はお前がロベルドと手合わせしてみたらどうだ?」
「当機がですか?」
「おう。 面白そうだな」
「タイプの違う相手と戦ってみるのは良い事だ。 お前にも、前線に出たときのための、良い訓練になるだろう」
形態変化を殆どさせて貰えない以上、確かにそれは重要な課題の一つだった。分かりました、と応えると、少し前に勝って貰った革手袋を填め、ロベルドと相対する。幸い服は動きやすいショートパンツに少しゆったりしたシャツだ。腰を深く落とすロベルドに対して、フリーダーは少し足を広めに開き、右手を前に出し、左手を腰に近づけた構えを取る。睨み合いはほんの一瞬。深く深く体を沈め、パワーを充填したロベルドが、先に地を蹴った。
「おおおおらああああああっ!」
大きな見えない荷物を抱えたような格好で、ロベルドがつっこんでくる。クワガタムシのようにも見える突撃姿だ。手加減を一切していない事がよく分かるので、フリーダーには嬉しい。パワー差から考えて、掴まれたら終わりだから、問題はこの鋭い突撃をどう避けるかだ。しかもロベルドは反応速度も相当なもので、顔面に突きを入れて動きを鈍らせるのも難しい。
そこまで思考を進めて、これは訓練だと言う事を思い出す。ふっと力を抜いて前に出、顔面に肘での一撃を入れながら跳躍、頭頂部に手をついて空中で回転し、ロベルドの後ろに回り込む。だがロベルドは予想外の反応速度を見せ、着地した時にはもう振り向く事に成功していた。そのまま左手が飛んできて、フリーダーは服の裾を掴まれ、引っ張られた。だがそれを予期していたフリーダーは自然に体を流し、逆に相互加速の形で体を浮かせて、ロベルドの顔面に膝蹴りを叩き込んでいた。流石に手を離したロベルドと離れようとするが、不意に身を沈めたロベルドの頭突きを喰らって弾かれ、蹈鞴を踏んだ所を再び掴まれ、今度は地面に向けての強烈なベクトルをかけられた。それにしても、結構強烈な一撃を二つも入れているのに、痣一つ無いロベルドの顔面は恐ろしく頑丈である。体勢を崩したフリーダーに、上から被せるようにロベルドが手を伸ばしてくる。工夫のないパワーゲームだが、この情況ではそれで充分だと分かっていてやっているのだ。伊達に死線をずっと潜り続けてきてはいないといえる。
片膝をつく事で、押し倒される事は避けたフリーダーだが、これで掴まれた事に違いはない。肩にぎしぎしと強烈な負荷がかかってくる。数秒の膠着の後、フリーダーは不意に力を抜き、少し前に倒れ込む。そしてそのままロベルドの下に潜り込み、両手をバネにして顎を頭突きで跳ね上げていた。
「むぐっ!?」
始めて痛そうな声をロベルドが上げた。束縛を抜けたフリーダーは跳ね起きて態勢を立て直し、手の甲で口を拭いながらロベルドも不敵に構え直す。武器を持った状態なら話はまた別だし、本気を出して戦えば情況も変わってくるが、それにしてもやはり手強い。摺り足で、互いの中間点を中心点として、ゆっくり回る。再び体を低くしたロベルドと、心持ちフリーダーが体を後ろにそらした瞬間、手を叩く音がした。二人が同時に振り返ると、もう武装を整えたエーリカが立っていた。
「はいはい、今日はそこまで」
「時間ですか? エーリカ様」
「何だ、折角良い所なのによ」
「続きは迷宮で魔物相手にやりなさい。 さ、さっさと仕事に行くわよ」
「仕方がねえなあ」
いやいやそうに言いながら、しかしロベルドの表情は笑っている。最近プレートメイルに切り替えた彼は、宿にそれを身につけるべく戻っていった。フリーダーも要所に金属を盛り込み、付与魔法によって若干強化されている皮鎧を買って貰ったので、新品のそれを着込むべく、宿に早足で戻る。宿ではもう戦闘服である忍び装束に着替え、新しい手袋の感触を確かめているファルがいて、フリーダーを見て軽く表情を和らげた。
「良い戦いだった。 腕を上げたな」
「経験を積みましたから」
「うむ」
ファルが頭を撫でてくれたので、やはりフリーダーは嬉しかった。今日もこれから、一日が始まるのであった。
2,橋の上で
地下五層は青黒い壁に挟まれた通路が延々と続く、迷路と呼ぶに相応しい場所である。天井も決して高くなく、たまに広くなっている場所には、大型の魔物がここぞとばかりに住み着いている。最も有名なのはゲイズハウンドと呼ばれる魔物であるが、この他にもどこから入り込んだのかケルベロスや、ワイバーンと呼ばれる小型の飛竜も現れる事がある。また、ワーウルフも現れる事が珍しくないし、他の獣人も群れを組んで人間を襲う事が多い。特に多いのがケンタウルスと呼ばれる連中で、これは下半身が馬、上半身が人間で、人の知能と馬の機動力を併せ持つ厄介な存在だ。しかも徒党を組んで組織的に人間を襲うので、冒険者も騎士団もこの連中への対策にはもっとも胸を痛めていた。
溶岩にまみれた迷宮である地下四層に比べると、此処地下五層は実に暗くひんやりしていて、ロミルワ等の光源になる魔法が必要になってくる。だが、そんなものを必要としない例外も中には存在しているのである。
その一人こそが、スタンセル将軍の養女であり、現在騎士団に助っ人として貸し出されている、侍アオイであった。
地下五層の中程に、程良い広さがある空間がある。中間と言っても騎士団詰め所の道程の事であって、実際には五層の端である可能性は否定出来ない。此処は下手に広い分魔物が多く徘徊していて、補給部隊にとっては鬼門と言っても良い場所であった。多くの隊員や冒険者が命を落としており、冒険者の間では死の広間などとも呼ばれているのである。
その広間の中央で、大鎧を着た娘が座禅を組んでいる。脇には鞘に収められたままの愛刀村正。長い髪を束ねているのは大きなリボン。光源系の魔法は唱えていないから、殆ど先が見えない闇の中で、座禅を組んでいるのだ。
やがて娘は刀を手にして、目を閉じたまま立ち上がった。周囲から、無数の足音と、息づかいが聞こえ来る。アオイには殺気が手に取るように分かった。目を見開いた彼女は、村正を抜き、鞘を放り捨てた。同時に無数の魔物が一斉に躍りかかってきた。刃が踊り、牙を剥いて敵に食らいつく。悲鳴が轟き、鮮血がぶちまけられた。
「一つ、二つ、三つ……」
最小限の動きで、アオイは敵を斬り捨てていく。妖刀とも言われる傑作村正は、さながら紙のように敵を斬り、更なる血を求めて鳴き、空を舞う。魔物達の目から放たれる光が一秒ごとに減り、命無き肉体が一つずつ増えていく。一度に二つ増える事もあった。文字通り両断されて、分断され転がった結果である。アオイの戦いぶりは華麗であった。動きに無駄が無く、早く、そして鋭い。美しく、そして凄惨な戦舞。
戦意を無くし、魔物が逃げ去るまで五分弱。村正を振って血を落とし、刃こぼれ一つしていない刀身を鞘に収めると、アオイは詰め所に戻るべく歩き出す。これは彼女のノルマであった。五層の魔物を少しでも多く片づける事によって、騎士団の安全を確保する事。更には来るべき敵との戦いに備え、自らを鍛え上げる事。それがこの危険なノルマの目的だった。
「今日は三十六。 まだまだ修行が足りない」
「アオイさーん」
自らを呼ぶ声に、アオイは振り向き、小さく頷いた。騎士団員六人ほどの先頭に立っているのはリンシアだ。手元には魔法による灯りが光を放っている。リンシアはアオイの元まで駆け寄ると、頬を膨らませた。
「また詰め所とは全然関係ない方向へ行こうとして。 迷子になったら探すのが大変なんですからっ」
「えっ、そうだったの?」
「そうだったの、ではありません。 心配してきてみれば、またこれなんですから」
そう、アオイは物凄い方向音痴だった。現在地下五層の騎士団達にとって守護天使とも呼べる彼女の、最大の欠点がそれである。頭を掻いて謝る彼女に小言を言いながら、リンシアは詰め所に手を引いていく。事実アオイの戦闘能力が必要とされる場面は幾らでもあり、迷子になられては困るのだ。
やがて、広場には静寂が戻った。だが、命が無くなったわけではない。無数の屍の中、アオイにすら気配を感じさせなかったものが存在したのである。それは口の端をつり上げると、散らばったままの死骸に手を伸ばし、むさぼり食い始めたのであった。
地下四層から地下五層に通じる階段は螺旋状に曲がりくねっていて、先が見通しづらく、かなり危険である。また、温度差と高低差も激しいので、防寒対策等もしっかりしておく必要がある。それを伝えた結果、コンデはジルにセーターを渡され、着込む羽目になっていた。これは結構難儀な事で、地獄の熱さを誇る地下四層では熱すぎるし、ひんやりと冷たい地下五層では着ていないと不味い。そこでコンデは、迷宮に入った地点で一度セーターを脱ぎ、地下五層に入ってからセーターを再度着込むという作業をする事になっていた。
「やれやれ、面倒くさいのう」
そういいながら、大事そうに抱えてきたセーターを着込むコンデは、案外まんざらでも無さそうである。おっかない孫という風情のジルだが、コンデにとっては大事な存在である事は、この表情を見れば明らかだ。
階段を下りきった地点では、まだ敵影は無し。コンデがロミルワを唱えて灯りの球を作り出し、通路の少し先に飛ばして光源を作ると、おもむろに皆で歩き出す。文字通りの迷路としか言いようがないこの場所では、敵も奇襲がしづらいし、味方もそれは同じだ。ただ、背後から奇襲をかけられる可能性は否定出来ないので、時々ファルはフリーダーに後方に注意するように指示し、それはきちんと守られていた。紫色の髪をしたフリーダーは、きちんと後ろに注意を払って、隙を見せない。
うねうねと曲がりくねった道を暫く行くと、早速迷路の本領が発揮される。いきなり道が四つに分かれ、左右二つは上り坂に、正面はそのまま、一番右の狭い通路は下り坂にさしかかるのだ。この先更に道が嫌と言うほど分化する事が、前回の探索で明らかになっている。そして、今回探索するのが、一番左側の上り坂だと言う事も。実は此処が一番行き帰り共に足跡等が多く、ほぼ確実に騎士団詰め所に通じている。
ファルが無言で歩き出し、コンデが天井や壁、それに床を順番かつ丁寧に照らしていく。天井に魔物が張り付いている可能性は否定出来ないし、壁もそれは同じだ。保護色等を利して壁に擬態し、気配を消して奇襲するという行動に魔物が出る可能性は否定出来ないのだ。事実、そうやって獲物を得ている蜥蜴も実在するのだから。階段でなく、緩やかな坂というのも厄介だ。足場が若干悪いし、油などを流されれば非常に不利だからである。
というわけで、坂は出来るだけ早く、しかし注意しながら登る必要がある。ゆっくり右にカーブしている坂を上り終えると、ようやく道が平らになり、通路が少し広くなる。一息ついて、辺りを見回しながら、エーリカが言った。
「見て、この壁。 何かの要塞かしら」
「確かに偉く頑丈な作りだな。 でもよ、ちと腑に落ちねえぜ」
「うん? どういう事だ?」
「頑丈なのは認めるけどよ、こんな作り、はっきり言って見た事がねえんだ。 素材も石に見えて少し違うみたいだし、俺には正体がわからねえよ」
「そういえば、石に見えるが苔の一つも生えていないな。 それに人肌のように滑らかできめ細かい」
ヴェーラが言って、手袋の上から壁を撫でた。確かに彼らの言う言葉はよく分かる。ファルも、最初来た時から、この壁の材質は不自然だと思っていた。
「コンデさん、イリキアの伝承に何か無い?」
「そうじゃのう。 ……うーむ。 小生が知っている伝承に、壁の材質云々というのはないのう」
「おそらくlsahoudhfsaiodawiかと思います」
「! フリーダーちゃん、知ってるの?」
エーリカの言葉に、フリーダーは頷いた。
「はい。 lsahoudhfsaiodawiは一種の陶器で、okhsisdhqoisdに熱加工する事で作り出します。 強度は様々ですが、中には天然ダイヤモンドを超える物もあります」
「ぐ、具体的にはどうするんだ? どうやって何から作るんだ! 凄く知りてえよ!」
「具体的な製法は当機も知りません。 ただ、当機も暮らしていた場所では、普通に技術として確立されていました」
「そ、そうか。 なんつーか、持って帰って調べてえな」
今までうさんくさげに見ていた壁を何度も見ながら、ロベルドはうずうずして言った。ヴェーラは腕組みして考え込んだ後、頭を振って吐こうとした言葉を飲み込む。うごめくものからはき出された、という事もあり、よく分からない言葉を最初使っていたという事もある。本人だって分かっていない事を、色々問いただそうとするのは酷だ。第一、彼女はディアラントで使われていたオートマターだというギョームの言葉もあるし、それが本当だとすると。
「……此処は、ディアラントかもね」
「そうだな」
エーリカの言葉に、ファルは短くそれだけ応えた。此処がディアラントであろうとそうでなかろうと。彼女同様、フリーダーにももう帰る場所も、当然両親もいないのだろうと、分かったのだから。よく分かっていない様子で、にこにこと笑みを浮かべているフリーダーの目を、ファルは見る事が出来なかった。まだ感情を整理する事が出来なかったからである。
通路をしばし行くと、幾つかの分かれ道を経て、石橋のような場所に出た。右手を見れば、驚くべき事に水道が生きていて、滝のように水を流している。天然の水路を利したものかも知れないが、それにしても生きて稼働しているというのは驚きだ。石橋も先ほどからずっと使われ続けている不思議な材質で、十メートルほど下を流れている水路も、それで構築されていた。
天井はアーチ状になっているが、此方は破れてしまい、石や木ノ根が入り込んできている。高さは二十メートルほどで、灯りの球をかなり高く飛ばさないと様子がよく分からない。皆が戦闘態勢を取った理由は決まっている。前方から、相当数の魔物が現れたからである。十体ほどはコボルドとオーガの混成軍だが、更に後方には同数以上のケンタウルスがおり、更に右手の空中で様子をうかがっているのはワイバーンだ。それも三匹である。ワイバーンは飛竜などと言われているが、ブレス能力を持たない。その代わりに尻尾の先に鋭い毒針を持っていて、これにやられると人間ではまず助からない。加えて、飛翔速度に関しては、ハーピーなどとは比較にもならない。
「気をつけろ。 ケンタウルス共、トマホークを持っているぞ」
ファルが叫ぶ。前衛は素早く左右に展開し壁を作り、エーリカがサインを出してコンデは呪文を唱え始めた。同時にワイバーンが頭上で旋回を始め、攻撃の機会を狙い始める。地響き立てて殺到してくるコボルド共は、プレートメイルを始めとするかなり優秀な装備を身につけていて、一筋縄ではいかないと一目で分かる。少し遅れて突撃してくるオーガ共も、それに劣らず相当によい装備を身につけている。なかなか油断出来ない連中だ。
最初の一匹目、バトルアックスを構えたかなり大柄なコボルドが、叫びながら一撃を叩き付けてくる。ロベルドがそれを受け止めて気合いと共に跳ね返し、横殴りに一撃を叩き込もうとするが、コボルドは比較的余裕を持ってそれを受け止め、再び一撃を返してくる。流石にこの階層になると、コボルドといえども雑魚はいない。激しく渡り合うロベルドの隣で、ヴェーラも鎖がまを振り回すコボルドと刃を交えており、ファルは低めに構え、正面に仁王立ちするオーガを見据えた。強固に鎧うオーガは、右手にバトルアックスを、左手に全身が隠れそうなタワーシールドを持っていて、正に歩く要塞であった。びゅんと凄い音を立てて振り下ろされる斧を左右にかわしながら、ファルは周囲の戦況に視線を配り、そして叫ぶ。
「ロベルド! 下がれ!」
「! おう!」
反射的にロベルドが下がり、コボルドが前に出、そして頭頂部に真上から降ってきた投げ斧を喰らって即死した。後方でぐるぐる回っているケンタウルス共が投擲したトマホークであった。
投げ斧は威力もさながら、弧を描いて飛ぶ厄介な武器で、使いようによっては今のように前線を上方から迂回して敵を攻撃出来る。弓矢も同じように使えるが、トマホークは回転の遠心力も利して、最後まで威力が落ちないのが強みである。トマホークを喰らって倒れ伏したコボルドの背後からつっこんできた二体のコボルドが、槍を揃えてロベルドに躍りかかる。それを捌きながら、ドワーフの戦士は吠えた。
「オラ、どんどん来い!」
槍をへし折り、更に脇に抱え、間近に引き寄せた一体を叩ききる。ロベルドの暴れぶりを横目で見ながら、ファルはバックステップして真上から叩き付けられた一撃をかわし、魔力の流れに身を乗せる。そのまま音もなく斧を踏み、呆然とする相手の顔面に向け跳躍、左目に刀を突き立てた。深々と潜り込んだ刃に、オーガは絶叫し、刀を抜いて飛びずさったファルを追撃も出来ずに横転、ヴェーラと交戦中の一体を巻き込んで死んだ。
今、オーガは不意に気配が消えたファルを見失ったのだ。見えていたのに、殺気や気配が極限まで低くなった事で、(見失った)のである。特殊奇襲攻撃の精度は恐ろしく上がっている。まだ攻撃直後に殺気が駄々漏れになる欠点は解消出来ていないが、それでもこのレベルの相手なら充分実戦的だった。
オーガの死体に下敷きにされたコボルドが、必死にはい出ようとするが、その首から上が不意に消えた。慌てて下がったヴェーラが視線をずらし、その先には口を動かすワイバーンの姿があった。なるほど、此奴らにとっては、コボルドも人間も等しくエサと言う事だ。隙さえあればどちらにでも襲いかかってくると言う事である。オーガの死体を踏み越えて襲いかかってくるコボルドは三体。それぞれシミターを手にしていて、連携して機敏な動きでファルに攻めかかってくる。刀のリーチを使って二体を牽制しつつ、わざと一体に踏み込ませ、シミターを突き出させる。かなりギリギリの攻防で、脇をかすったシミターがファルの肌を傷付けた。そのまま通りざまに、肘での一撃を喉に叩き込む。ぎゃっと悲鳴を上げたコボルドは横転、そのまま繰り出されたシミターを避けつつ後方に飛んだファルは、今のコボルドの首を着地ざまに踏み折っていた。だが次の瞬間、飛んできたトマホークを避け損ねて、肩を浅く裂かれる。体勢を崩したファルに容赦なくコボルド達が剣を突き込んできて、舌打ちした彼女は無理に体を起こしざまに一体の喉に刀を叩き込み、もう一体の一撃は鎖帷子で何とか受け流しつつ、ハイキックを叩き込み、首を蹴り折っていた。
だらしなく舌を垂らしたコボルドの死体から刀を抜いたファルは、額の汗を拭って立ち上がる。ロベルドもヴェーラも、複数の敵を相手にしていて余裕がない。彼らの体にも、傷が目立ち始めていた。フリーダーは援護と、ワイバーンの牽制で精一杯だ。何しろワイバーンは時々詠唱中で無防備なコンデを狙ってくるので、目を離すわけには行かなかったからである。前線はじりじりと押され下がっており、戦況は決して良くない。今まで様子を見ていたケンタウルス共の内、槍やハルバードを構えた接近戦専門組が、出るタイミングを伺っているのがファルには見えた。高さと機動力を併せ持つ連中はかなり厄介だ。
「そろそろ持たないぞ」
「分かっておる! 見せてやろう!」
印を切り終えたコンデが、ぐっと、杖を構えた手を前に出す。そして閃光が、戦場の真ん中にて爆発した。時々急降下波状攻撃で獲物を漁っていたワイバーンが、一撃に巻き込まれ、火だるまになって落ちていった。
思わずガードポーズを取ったファルが防御を上げると、戦場一杯に炸裂した炎が、コボルドの殆ど全部と、オーガの半数ほど、それにのうのうと後ろで出を伺っていたケンタウルスを巻き込み、横転させているのが見えた。今のは詠唱の性質から言って、まずザクレタだ。にしては火力が焼き尽くす、程ではない。だが、殆どの魔物が火傷をし、のたうち回っていた。威力自体は下がったが、代わりに効果範囲が途轍もなく広がった感じである。立ち上がろうとするコボルドに躍りかかり、喉から頸動脈を一気に切り裂く。今こそ反撃の好機だった。
ワイバーンの弱点も、今ので見えた。速い代わりに羽が薄く、それへの攻撃にかなり脆いのだ。
クレタが飛ぶ。殆ど間がない一撃で、動揺するオーガの一体を直撃し、火だるまにした。これも威力は普通のクレタより落ちているが、しかしかなりの速射性だ。ロベルドも汗を飛ばして突撃し、逃げ腰になったケンタウルスに躍りかかり、足を全て斬り払った。背が高い事が災いし、体勢を崩した馬人間は、橋から悲鳴を上げて落ちていった。更に今度はバレッツが飛び、直撃を受けて首をへし折られたケンタウルスが、声もなく倒れる。機を見るに敏らしいケンタウルス共が撤退に転じ、罵声を上げながら半数ほどは逃げ散っていった。一匹は先ほどの拡散ザクレタのせいで横転し、立ち上がろうとする所を、逃げる途中のコボルドによって切り伏せられた。コボルド達も、先ほどの誤爆によって仲間が死んだ事はよく見ていたのだ。コボルドやオーガも随時撤退していく。追撃を掛けていたロベルドが戻ろうと振り返り、警戒の声を上げた。
「フリーダー! 上だ!」
コンデを狙った一匹にクロスボウを容赦なく叩き込み、首筋に矢を的中させてついに撃墜したフリーダーが振り仰ぐと、尻尾を構えたまま突撃してくるワイバーンの姿があった。さながらその姿は、ランスを構えた空駆ける重装騎兵。無論、そのチャージ(全体重をスピードによって増幅した突撃。 騎兵最大の武器)を受けたら、ひとたまりもない。舌打ちし、ファルが走る。口を半開きにしたワイバーンが、轟音と共に、最大速度でフリーダーに襲いかかった。
迫る巨大な毒針。フリーダーは体を沈め、それを避ける事にのみ全神経を集中する。針が達するのと、フリーダーが跳ぶのは同時。一瞬の交錯、尖った死の洗礼は、何とかフリーダーの頭を避けた。しかし、フリーダーは何とか致命的な毒針での一撃こそ避けたが、鋭い爪を備えた後ろ足での蹴りまではかわせず、橋の手すりに叩き付けられていた。焙烙の印を切ったファルが、空中で旋回するワイバーンに投げつける。炸裂した爆炎がワイバーンの羽を焼き尽くす。悲鳴を上げながら、ワイバーンは水路に落下していった。
「フリーダー! 無事か!」
「ん……ファル……様?」
手すりに叩き付けられたフリーダーが、ゆっくり立ち上がろうとする。その頭上から迫るものがあった。一際大きなトマホークである。今の攻防で追撃が緩み、隙を見計らってケンタウルスのとびきり大きな一体が投げつけてきたのだ。それは弧を描いて跳び、何とか逃れようとしたフリーダーの肩から背中に掛けて深々と切り裂き、更には今の衝撃で脆くなっていた橋の手すりも砕いていた。
雄叫びを上げて突貫したヴェーラとロベルドがWスラッシュを叩き込み、ケンタウルスを屠り去った時には、フリーダーは水路に落ち、ファルもそれを追って飛び込んだ後であった。ごうごうと流れる水の音だけが、その場に残っていた。
3,ライバル参上
血を流し、フリーダーが流れていく。ファルは暗い水の中、必死にそれを追い、体を動かした。見失ったら確実にあの子は死ぬ。死なせてたまるものか。絶対に死なせるものか。必死に水を掻き、少しずつ距離を詰めていく。水底の石にぶつかったフリーダーが不意に跳ね上げられ、それを奇貨としてがっしり掴む。安心したファルは、思わず水を飲んでしまい、大量の泡をはき出していた。水の力は強く、ぐんぐん体が引っ張られる。だが、ファルは負けるわけには行かなかった。空いている右手と足をフルに使って水を蹴り、殴り、そしてそれらに勝ったのである。
水面からファルが顔を出したのは、水路に投げ出されてから、しばし後の事であった。
「はあ、はあ、はあっ……くっ……」
「ごほっ……。 ……」
「フリーダー! 大丈夫か?」
「……」
返事は戻ってこない。舌打ちすると、そのまま気絶しているフリーダーを抱え、ファルは流れ激しい水路を泳ぎ岸に達する。全身が痛むが、意識を失っているフリーダーの手当が先だ。自分が痛い事などどうでも良い。エイミもそうだし、フリーダーもそう。大事な存在が苦しみ、泣いている方が、ファルにはずっとつらかった。
岸の近くはだいぶ流れが緩く、流されることなく泳げる。何とかあがれそうな場所を見つけたファルは、フリーダーを背負い、壁を登る。殆ど手がかりがない壁だが、何カ所か痛んでいる場所や、草が生えている所があり、そう言った所にナイフを差し込み、足場を作って登っていく。上の方には、何やら中に入れそうな穴があり、そこまでどうにか這い登った速さは、流石に恐るべきものであった。
「詰め所にまで行ければ、何とかなるのだが……」
何とか這い登ったファルは、何はともあれまずフリーダーの口元に耳を近づける。呼吸はある。結構大した生命力である。安心しかけ、辺りを見回して舌打ちした。見覚えのない通路で、しかも周囲に扉が沢山並んでいる。フリーダーは意識を失ったままで処置が必要であるし、此処ではキャンプを張るのに激しく不適当だ。此処は、覚悟して扉を開け、適当な部屋に当たる事を期待するしかない。服は濡れたままで、傷の処置も必要な現在、出来れば戦いは避けたい。
戸に耳を付け、中の気配を探る。マッピングなどしている暇はない。数秒の探索の結果、中に何か居るが、その数は少ないという結論が出る。扉を開け、中をうかがうと、最悪の結果が待っていた。
中は通路でもホールでもなく部屋で、しかも入り口が一つしかない、広さも適当で、籠城には最適だった。しかし中にいたのは、重装備のオーガだったのである。プレートメイルを身につけて、右手には巨大なフレイルを手にしている。庇のついた頑丈な兜に、のど元を覆った首あて。更に手元もガントレットで固め、隙がほとんど無い。ジャイアントに比べればマシだし、一体しかいないが、それでも外にはフリーダーが置き去りなのだ。更にもう焙烙が手元に残っていない。如何なる犠牲を払ったとしても、接近戦で瞬殺するしかない。素早く部屋に入り込むとゆっくり刀を抜く。濡れた全身では動きが鈍るし、水は飲んでいて感覚も鈍い。ドアを開けたまま、ファルは摺り足で一気に間合いを詰めるが、敵は最悪の方法で応戦してきた。吠えたけり、斜め上から、巨大な鉄球が山ほどついたフレイルを叩き付けてきたのである。
普段なら屁でもない一撃だが、今はもう避けきる体力が残っていない。チャンスは一瞬。そのまま避けず逃げず前に出て、ファルはいつにない気迫で咆吼した。
「おおおおおおおおおおおっ!」
「グルアアアアアアアッ!」
ぶつかり合った二つの影が交錯する。先に倒れ伏したのはファルだった。鉄球こそ避けたが、鎖で強か打ち付けられたのである。だが、オーガも崩れ落ちていた。針を通すようなコントロールでファルが放った刀が、口の中に飛び込み、脳と脊髄を破壊したのである。
「ぐっ、くっ……」
何とか立ち上がったファルは、何度か遠くに行きそうになる意識を引き戻し、部屋の外に出た。まだ何とか体は動く。倒れているフリーダーを抱き上げ、今確保した戦略拠点に引き入れる。全身が痛いが、そんな事はどうでも良い。ワイバーンの蹴りをまともに食らった上に、背中にトマホークでの裂傷を受け、回復魔法を受け付けないフリーダーの手当が先だ。
何とかドアを閉めると、開かないようにつっかえと促成のカギを掛け、燃えそうなものをかき集めて火打ち石で火を熾す。水を飲んでいない事を確認し、フリーダーの服を脱がせて体を拭き、応急処置をするとオーガが身につけていたマントをはぎ取って被せてやる。ワイバーンの蹴りは最大限受け流していたし、トマホークの方はどうにか骨に当たっていて、どちらも致命傷をきちんと避けていた。
フリーダーの頭の下にも布が入るようにしてあげてから、ファルは自身の処置を始めた。自らを究極まで鍛え上げる過程で、肉体を道具として見るように訓練をしている以上、手当は客観的に、確実かつ合理的になる。裂傷、打撲傷、いずれもかなり深手だが、致命傷は一つもない。服を脱ぐと体を拭いて、応急処置をする。意識がそろそろ持たない。どれほど後意識が持つか軽く計算した後、すぐにプランを立て、それに基づいて行動する。殆ど修羅と言って良い精神力だ。
下着だけを身につけた体は、殆ど全ての男が情欲をそそられるほどに美しい。豊満と言うよりも無駄なく均整が取れていて、努力と修練が作り上げた芸術と言うに相応しい。しかもそれは実用的な芸術で、死と破壊を呼び込む兵器でもあるのだ。やがてファルはするべき事の殆どを終えると、自身もマントの端にくるまって、そのままブラックアウトした。精神力が限界を超えてしまい、それ以上は箸一本持ち上げるのも不可能だったからである。
着衣を乱したエイミが、押し倒されている。押し倒しているのは、この間母が連れてきた新しい紐だ。恐怖ですくみ上がっているエイミの上で、人面獣心のケダモノは舌なめずりし、何度も殴りつけた。男が吠える。
「てめえみたいな屑を買ってくださるって人がいるんだ。 親の俺に恥を掻かすつもりかボケがぁ! てめえみてえなのは欲求の解消ぐらいにしか役に立たないんだよ! 雌豚の分際で、偉そうに逆らいやがって!」
その時ファルは、始めて本物の怒りが、心を浸食する味を知った。
飛び込みざまに、男を蹴り倒す。悲鳴を上げた男に馬乗りになり、手近にあった何か、多分小さな石を顔面に叩き付け、何度も何度も殴りつける。無様な悲鳴などに構わない。エイミに何をしようとした!ケダモノが、ケダモノが、ケダモノが!死ねケダモノがああっ!吠え猛る、鬼と化して、ケダモノを叩き潰す。
顔の形が完全に変わった男が許しを請うのと、外で母が帰ってくる音がするのは同時。しくしくと泣いているエイミの手を引いて、ファルは家を飛び出した。あの母親が、紐にベタ惚れなのを彼女は良く知っていた。男の為に、母親が平気で子供を捨てる。今居る所は、そう言う場所だ。
不意に場が暗転し、道場へと移る。草を噛むような生活をしていたファルの戦闘能力を見出し、拾ってくれた師匠の道場だ。今の師匠とは違う、金を全てに考える、卑劣な男だった。街の顔役でもある其奴は、エイミの薬代は出してくれた。だがファルを拾ったのは、あくまで鍛え上げてドゥーハン王国騎士団に入れ、自らの名声を上げる為。世界最強の精鋭を歌われる騎士団に弟子を入れたものは、確かに圧倒的な名声を授かる世だった。
だがファルは、どうも騎士としての才能がなかった。知識自体は身に付いたが、潜在的な魔力が低く、魔法が殆ど使えなかったのである。僧侶魔法を使いこなせなければ、騎士にはなれない。昔は歴戦の冒険者だったらしい師匠は、今度は侍にしようとファルを鍛えた。高名な侍も、騎士団は募集している。だが其方に関しても、ファルは上手くいかなかった。後で判明するのだが、師匠は我流で自らを鍛えるタイプで、それが天才型のファルの才能と食い合って、つぶし合いを生じさせてしまったのである。
失望した師匠は、ファルを道場に呼び寄せ、唖然とする一言を放った。
「体を売れ?」
「そうだ。 お前にはどうやら才能がないらしい。 才能がない奴に、これ以上訓練させても無駄だ。 だったら、少しは役に立って貰おうじゃないか。 幸いお前は見かけだけは良いからな。 買い手にはこまらんだろうよ」
「こ、断る!」
「ほう? 妹と一緒に極貧生活をしていたお前を拾ってやったのは誰だ? 薬代を出してやったのは誰だ? 嫌だって言うなら、その分の借金を返して貰おうか」
ファルは拳を固め、体を売るくらいなら此処を出ると言った。師匠は、借金は公式なもので、それから逃れる術はないように処置していた。借金を大量に抱えて、ファルは途方に暮れた。
もっと自分に才能があれば。もっと自分が有能ならば。家では持病を抱えたエイミが、薬を待っているのだ。
疲労しきった彼女は生まれて初めて人間に助けを求めた。そして、嘲笑で応じられたのだった。
そして、降りしきる雨の中、彼女を助けてくれたのが……。
目を覚ましたファルは、ゆっくり身を起こし、大事なことに気が付いた。フリーダーを引きずってきた時の水跡をそのままにしたままだ。まだ体中痛いが、それどころではない。処置しないと、敵を呼び寄せる可能性がある。結構久しぶりに昔の夢を見たのだが、現実主義者としての自分がそれどころではないと告げている。感慨にふけらず、自分に流されずに行動できるのが、ファルの強みだ。
まだ半がわきの服を急いで身につけて、放ったままだった刀を鞘に収め、立ち上がる。立ちくらみが襲ってきた。何時間寝たかは分からないが、まだ体は回復しきっていない。更に良くない事に、扉の向こうに気配がある。しかも、相当な使い手だ。今の状態では、果たして差し違える事すら出来るかどうか。体力は殆ど回復していないし、かなり条件は悪い。思わず刀に手を掛けるファルに、扉の向こうにいる存在は口を開いた。
「……人? そこにいるのは」
「……何者だ」
「私はアオイ。 ドゥーハン軍騎士団の手助けをしている侍よ」
かなりゆっくり喋る娘の声である。相当に低音なアルトで、その辺りはファルともよく似ている。だがこの辺りになれば人語くらい操る魔物が居てもおかしくはないし、油断するわけには行かない。油断せず隙を作らず戸を開け、相手の存在を確認すると、大鎧を着た侍であった。ただし兜は被らず、ばかでかいリボンで髪の毛を束ねている。ファル同様かなりの美人だが、ファルほど目つきが険しくない。ただ、何処かに影を背負っている点では同じだった。
娘は一目で大体の事情を悟ったらしく、水跡を拭くのを手伝ってくれた。そして戸を閉めると、ちらちらと眠っているフリーダーに視線をやりながら言った。
「いったい何があったの?」
「橋の上で二十体を超す敵との交戦中、最後のつめを謝り、その子が水路に落ちた。 私はその子を追って川に飛び込み、助けてこの部屋に籠城した。 以上だ」
「その子は、何で迷宮に?」
「武人だから」
アオイは一瞬不思議そうな顔をしたが、彼女ほどの使い手であれば、ファルの戦闘能力を一目で見破れる。である以上、そのファルが認めている子なのだから、相当に戦えるのは間違いないと、自然に悟ってくれた。相手の理解力が優れていて、ファルは少し安心した。
「貴公は何故こんな所を一人で?」
「うん、実は騎士団は今何人か一組にしての探索活動を行っているの。 私は二人一組でこの辺りを調べていたのだけど、はぐれてしまって」
「探しに行かなくて良いのか?」
「彼女の実力は私と殆ど同じだから、この辺りの魔物に倒される事はまず無いわ。 それに彼女は転移の薬も所持しているから、危険はないと思って間違いない」
確かにアオイは見た限り物凄く強い。敵を殲滅する、という事に拘らなければ、この階層レベルであれば問題なくうろつけそうな印象はある。ただし、それには腰に付けている禍々しい得物の力も大きく関係している。
一目で分かった。妖刀村正である。侍の至上武器にして、最強最大の破壊力を持つ刀と歌われる存在だ。過剰な伝説の数々を持ち、そして血に飢え持ち主の精神を蝕む妖刀だ。アオイの実際戦闘能力は大体ファルと同じくらいと見て取れるが、しかし得物の差が大きい。ファルの忍者刀も結構な名品なのだが、村正の前では霞んでしまう。そういえば、アオイと言えば魔神を倒したとかいう噂を持つ侍で、地下五層に行けばあえるという噂であった。まさかこんな形で合う事になるとは、縁とは不思議なものである。
「所でその子、大丈夫?」
「気は失っているが、命に別状はない」
「そうじゃない。 だいぶ痛いんじゃないかってこと」
「それは本人にしか分からない」
露骨に不満そうな顔をアオイがしたので、ファルは眉をひそめた。まだ体力が回復しきっていないので、アオイに断って食事にする。干し飯と干し肉は無事だったので、バックパックから取りだした椀に湯を入れて戻し、胃に掻き込む。当然いろんな栄養を混ぜてある干し飯はとんでもなく不味いが、元気も出る。アオイはそわそわしつつその様子を見ていたが、ファルが小首を傾げると少し頬を紅くしていった。
「それ、何?」
「干し飯だ。 不味いが元気が出る」
「ふ、ふうん。 面白そうね」
「最初は面白いが、すぐ飽きる。 高いものでもないし、分けよう。 礼の一つにもなるとは思わないが」
実際問題、ギルドで生産している干し飯は高いものでも無い。分けて貰うとアオイは凄く嬉しそうな顔をして、何故か礼を言った。ファルは不思議な娘だと思いながら、頭を掻いていった。
「そろそろ休む。 仲間達はまだ探しているはずだし、合流に備えて体力を回復したい」
「それなら、私が見張りをしてあげる」
「? 仲間を捜さなくて良いのか?」
「彼女には、はぐれたら詰め所に戻るように打ち合わせてる。 彼女は問題ないのだけど、その……」
「……その、何だ」
頬を指先でかき、少しファルの方を伺うようにして、アオイは言った。
「私の方が、道が分からないの」
五層の騎士団詰め所に早速向かったエーリカは、ファルがついていない事を聞いて嘆息した。あの水路は騎士達の話によると、五層を大きく横切って、最終的には滝に注いでいるのだという。おろおろし始めたコンデをひと睨みで落ち着かせると、エーリカは事態を告げて、騎士団に判明しているマップを見せて貰った。
「うっわ、なんだこりゃ」
「本当に迷路だな」
「これが水路だとすると、ファルさんが上がれたのはどの辺かしら」
「難しいと思うぞ。 あの流れの速さ、それに水路の周囲は多少劣化していると言っても、壁と同じ材質で出来ている。 今頃魚の餌か、滝の藻くずだろう」
四人が一斉に殺気を込めて睨んだのは、余計な事を言った者であった。黒い肌をした女騎士で、周囲に何人かの黒騎士を連れている。胸にはサンゴートの紋章が光り、一目でファル並みの実力者だと明らかだ。しかし、冷酷さの質が違う。舌打ちすると、エーリカは地図の上に指を走らせ、言った。
「彼女の能力からして、この辺からこの辺くらいまでの岸から這い上がっているはずよ」
「おう。 じゃあこの辺から回り込んでいけば何とかなりそうだな」
「ファルさんの事だから、ある程度休んでからは、周囲を調べて私たちの到着を待つはずよ。 フリーダーちゃんはきっと怪我しているし、早く行ってあげないと危険だわ」
「無駄な事を。 この国の連中は、首脳部も騎士団も民草もアホ揃いか。 冒険者など幾らでも転がっているだろうに。 欠員は忘れて次を探せばよいだろうが」
次の瞬間、沸騰したロベルドよりもヴェーラよりも速く動いた者が居る。地図を出してきてくれたリンシアだった。彼女が瞬く間に抜剣した刃の先が、サンゴート騎士ののど元に突きつけられていた。目には静かな怒りがあり、エーリカも苦笑して肩をすくめた。
「そんな事だから戦争に負けるんですよ、貴方達は」
「なっ……んだと……!」
「失礼しました。 暴言を吐いたのはお互い様ですし、忘れてくださると幸いです」
ぴくぴくと頬を振るわせていた女騎士は、部下と共に大股で詰め所を出ていった。軽く礼をして、リンシアはエーリカに言った。
「気にしないで下さい。 あれでも悪気はないんですから」
「いいの? あんな風にタンカ切っちゃって」
「問題ありません。 サンゴートはあくまで、腰を低くして我が軍に(協力している)だけの事です。 同盟下の自分の立場を良くするようにね。 私はこれでも騎士団下位隊長ですし、私に刃を向ければ汚名返上どころではなくなります。 いくらなんでも、彼女もそれくらいは分かっていますよ。 それを承知で喧嘩を売ってくるのなら、別にいつでも受けて立ちますしね」
リンシアの言葉に、後ろにいた騎士団員達が皆頷く。彼女の人望と、先ほどの失言に皆が怒っていた事は明かであった。
実際エーリカのチームは、何度も騎士団の窮地を救っている。彼らが親近感を抱くのも、当然の事であったかも知れない。
「……代わりに怒ってくれてありがとう。 本当なら愚僧がミンチにしてやらなければならなかったのだけど」
「ふふ、ファルーレストさんが好きなのは私も同じなんですよ。 きっと彼女たちは生きています。 はやく助けに行ってあげてください」
頷きあうと、エーリカは詰め所を出た。実際問題、ファルが自ら上がったと思われる辺りの地形は、地図があまり整備されていない。つまりまだ騎士団もろくに探索しておらず、未知の危険が多かった。早く行けばそれだけファルの生還率が上がる。躊躇している暇はなかった。
そのまま詰め所を出ようとするエーリカを見て、はたとリンシアが手を打ち、引き留める。エーリカが何かを知らない事に気付いたのだ。
「エーリカさん」
「うん?」
「実は、貴方達に会いたいという方がいます。 途中の詰め所に行けば多分いると思うので、合流してください。 恐らく探索に、快く協力してくださるはずです。 本当はもう宿に合いたいという旨の伝言を伝えたはずなのですが、行き違いになってしまったようですね」
笑顔のまま小首を傾げるエーリカに、リンシアは笑顔で紹介状を素早く書いて渡した。
「少し子供っぽい人ですが、とても頼りになる方です」
「……これって」
「貴方達は、結構有名人なんですよ。 さ、早く行ってください」
エーリカは頷くと、騎士団長あてと書かれた手紙を懐に入れ、詰め所を後にした。時間は今の情況では、何よりも貴重だった。
4,破壊神オグ
彼がそれを見つけてしまった時、何かが壊れた。今まで内面的には煮えくりかえりながらも、表面的には冷静な行動を出来ていた要因が消し飛んでいた。
それは不幸な喜劇だった。小利口で、故に名誉職を可不可なく務める事が出来てきた若者にとって、あまりにも大きすぎる存在だった。分不相応なものに触れた者の末路は、大概に自滅だと決まっている。
ドゥーハン王国宰相ウェブスターにとっても、その前例は、過去の存在ではなかった。自身の的確な未来だった。本人だけが、それに気付いてはいなかった。
フリーダーが目を開けて、ゆっくり体を起こした。ファルは思わず顔をのぞき込み、優しく肩を抱いて問いかける。
「大丈夫か? フリーダー」
「……はい。 戦闘続行可能です、ファル様」
「そうか。 だが暫くはいい。 体力回復に務めるのだ」
乾いた服を着るように促して、ファルは額の汗を手の甲で拭っていた。ファル自身も体力がほぼ戻っているし、これでようやく条件が整った事になる。寝ぼけている様子のフリーダーは、ぼんやりと周囲を見回していて、微笑んでいるアオイの所で視線を止めた。
「ファル様、彼方はどなた様ですか?」
「侍のアオイ殿だ。 途中で利益が合致した為に合流した」
「アオイよ。 よろしくね」
「よろしくお願いします」
フリーダーが笑顔を浮かべると、アオイは露骨に喜んだ。咳払いすると、ファルは寝ているようにフリーダーに言い、アオイへと視線を移した。
「周囲を交代で調べよう。 此処に拠点を設定して、周囲の地形を把握しておく必要がある」
「それは同感。 でも、一人で大丈夫?」
「私に村正はないが、代わりに忍者だ。 隠密行動は得意な方だ。 ……情報収集や交渉はどちらかといえば苦手だがな」
先ほどまでは服も少し生乾きだったが、もうそれも無い。アオイを残して大丈夫かという問いに関しては、ファルは大丈夫だと結論している。アオイは実際問題、攻撃する隙があるのにそうしなかった。まあ、そうしてくるつもりなら、差し違えるつもりでもファルは倒す気で居たが。それにフリーダーも目を覚ました以上、そう楽々とは好きなようにはされまい。騎士団所属という話はほぼ真実で間違いない。というよりも、嘘を付いても仕方がないし、何よりメリットがない。本物の村正を持っているほどの侍なのだし、そんな事をして自らを偽る意味がないのだ。
部屋の外に出ると、マッピングを開始する。長く延びている通路だが、水路に沿ってずっと続いているわけでもない。上流の方には登り階段があるし、下流は逆に降り階段がある。通路には部屋が並んでいて、水路側には覗き窓のようなものが多く設置されていた。気配消去攻撃の要領で、完全に気配を消し、一つずつ部屋を調べていく。どうやらずっと昔に何かが暮らしていたようだが、時間が経ちすぎていて殆ど痕跡は残っていない。先ほどの部屋も、もう何だか分からない屑のようなものばかりが残っていて、燃えるものを集めるのに随分苦労した。
十三ある部屋を全て調べ、何とかその全てで魔物との交戦を回避出来た。幾つかの部屋では魔物が中にいたのだが、今回は戦う必要も理由もないので、ファルの方からそっとその場を後にしたのである。ファルは現実主義者で、それは好戦的である事を意味しない。
今度は上り階段にさしかかったファルは、上の階層が迷路になっているのを見て嘆息した。これでは帰るのにも来るのにも骨が折れる。エーリカは今回も転移の薬を所持しているはずだが、これでは来るだけで殆どの体力を消耗してしまうだろう。無論信頼はしているが、無事に辿り着ける確率が下がったのは事実だった。通路の分岐点に目印を残し、一旦ファルは安全地帯まで戻った。
一度上流の複雑な分岐点までをマッピングし、今度は下流の探索に移る。降り階段の下はトンネルになっていて、水路の下を潜り、対岸へと続いていた。なかなかに面白い構造だが、どういう目的で造られた建物なのか理解に苦しむ。今まで通ってきた階層は、いずれも不可解ではあっても意味のある構造に見えた。意味がない所は自然の洞窟などで、意味が無くて当然だった。だが今回は、極めて論理的な構造にもかかわらず、中身の構築原理がさっぱり分からない。どんな目的で作られたのか、どんな用途で使われたのか。この水路は何の為にあるのか、どうしてこんな高度な技術が使われているのか。理解する為には、膨大な時間をかけての調査が必要であろう。
少し水漏れしているトンネルだったが、排水用の溝がちゃんと生きていて、水没する事は当分無さそうであった。そこを抜けるとまた上り階段があり、対岸には同じような構造が広がっていた。右手の上流側には上り階段があり、左手の下流には下り階段がある。通路には部屋が並んでおり、部屋の中身も大体対岸の通路と同じ構造だった。上り階段先の通路に目印を残して、ファルは拠点まで戻り、一息ついた。
「ファル様、どんな様子ですか?」
「難しいな。 此処を中心に、探索地域を広げていくしかない。 ただ、ひょっとすると」
「うん?」
「下り階段を利すれば、梯子状に、ずっと下流へ行く事が出来るかも知れない。 恐らく上層は迷路になっていて、探索するには本腰を入れないと無理だろう。 これから少し気合いを入れて調べてみるつもりだが」
ファルの言葉は心なしか重い。無理もない話である。ただでさえマッピングが苦手なのに、これから絵に描いたような迷路に挑まなくてはならないのだ。
「後々の事を考えて、下流を調べておいてはどうでしょうか」
「ふむ、それも一理あるな。 しかし今は少しでもリスクを避けたいのだ」
「下流からぐっと迂回して、上流方面に出られる可能性もあります」
「確かにその可能性は否定出来ないが……アオイ殿、どうやって貴殿は此処に来たのだ?」
「それが恥ずかしい事なのだけど、殆ど分からないの。 迷路を右往左往していたら、いつの間にかこの辺に来ていて」
三人揃って嘆息した。やはり情況は悪い。少しずつでも改善して行かねばならないが、それにしても必要とされる努力の膨大さには、今から辟易するばかりである。
「兎に角、これから少し上り階段の先を調べてくる」
「私は此処に残る。 恥ずかしい話だけど、外に出たら、戻ってこれる自信がないから」
「私は、どうしましょうか」
「気にせず此処で休め。 体力が回復したら、探索活動を手伝って貰うからな」
再び気配を消し、ファルは部屋を出た。気は重いが、誰かが一歩一歩努力して、状況を改善して行かねばならなかった。
半刻ほど後。ファルは思い切り不機嫌になっていた。何度マッピングを繰り返してみても、階段の上は出口無き迷宮だったからである。不審な装置はあったのだが、それは壊れてしまっていて、通路を塞ぐ単なる壁になり果てている。それ以外に別の場所へ抜ける通路は存在せず、結局戻らざるを得なかった。
気分転換をしようと、一度拠点に戻って休憩してから、無言で下流の探索に移る。トンネルの先でコボルドにかち合ったが、ファルが殺気を込めて睨むだけで逃げていった。どうしてかはよく分からないが、まあ戦いが回避出来たのは良い事であった。この階層にいる以上、コボルドでも決して弱くはないはずなのだが。
地響きを立てて、ファイアージャイアントが三体、通路を歩いている。空き部屋を使ってそれをやり過ごすと、再び下流に向かって下り階段を使い、トンネルを潜って逆側の通路に出る。また似た様な構造になっている。下流に進み、トンネルを潜る。また同じ構造である。それを更に二回繰り返した後。
水路の状況が変わった。ごうごうと音を立て、大きなトンネルに吸い込まれている。風もトンネルに向かって吹いていて、更に遙か下へ水が落ちる音もした。あの大きなトンネルの向こう、あるいは中に滝がある。下り階段を下りたファルは目を細めた。今度のは中で分岐していて、それは水路から見て下流の方向へと延びていたのである。本道の方はまた対岸に出ていたが、分岐道は途中で止まっていた。マッピングを済ませると、ファルは探索をかねて、好奇心も満たす為に、其方へ向かった。途中強固なトラップが幾つかあり、慎重にそれを解除していく。時間はシーフよりずっと掛かってしまうが仕方がない。時々周囲に注意を払いながら、やがて最後のトラップを解除し、以前ピラミッドで見たような、一見壁になっている扉を探り当て開ける。そこをくぐり抜けたトンネルの先からは、光が漏れている。眩いそれを手で遮りながら、ファルは足を進め、そして驚きに思わず固まっていた。
トンネルの先には、今まで彼女が迷宮内で通過したどのホールよりも巨大な空間があった。トンネルの先は、そのホールの空中に張り出す形で終わっており、ホール全体を見回す事が出来た。
驚きは、ホール自体に感じたのではない。足下のホールは半ば水没していて、複数の穴から今も水が注ぎ込まれ続けていた。巨大な貯水池と言っても良い状態である。確かに壮大極まりない光景ではあるが、別にそれは驚くべきものではないし、脅威でもない。問題は、それに浮かんでいるものであった。
「これは……人か? 何という大きさだ……」
ファルは驚きのあまり、つい声に出して独り言を呟いてしまっていた。そこにあったのは、半ば水没している、巨大な人型であった。
人型は動かないが、それは当然の話である。首から上はもげてしまっており、死んでいるのは一目で分かる。千切れた首は、血管らしいもので僅かに胴体とつながり、その脇に浮かんでいる。或いは浮かんでいるように見える。胴体の方は膝を折って座っているような形で壁にもたれかかり、左手は既に無く、右手は半ば砕かれてあり得ない方向に曲がっていた。胴は鎧でも着ているのか、金属的な光沢を放っており、しかし半ば砕かれている。脇の辺りから腹の中央部まで大きく裂かれていて、しかも大きな岩塊のようなものが突き刺さっていた。左足は完全に水没しており、折っている右足の膝は割れて、中から無数の何かが飛び出していた。
しばし唖然としていたファルは、だが精神を引き戻し、冷静に事態の観察を始める。人型からは血が流れておらず、また腐食した様子もない。ホールには水が注がれる一方で何処かへ流れ出続け、つまり流れに晒されているというのに、である。途方もない頑強な存在だ。いつから水が流れ込んでいるのか分からないが、例え巨人であっても同じ情況ならもう欠片もないか、ぐずぐずに腐敗しているはずだ。仮に表皮が金属であっても、ボロボロに錆び、千々に砕けて流されてしまっているだろう。何で形作れば、あれほどの強度と耐久性を得られるのか、ファルには見当もつかなかった。
兎に角戻るべきだとファルは思い、一旦その場を後にした。急いで駆け戻り、途中まだうろうろしていたコボルドを蹴倒し追い払うと、拠点に飛び込む。そして、フリーダーの傷の状態を自分で確認して、少しの躊躇いの後言った。
「フリーダー、来てくれ」
「はい、当機ならいつでも出撃出来ます」
「ちょっと待ちなさい。 戦力が必要なら、私が出る」
「そうではない。 戦う為に連れて行くのではない。 手間も取らせない」
アオイはしばし不審げに口を尖らせた。侍がフリーダーを心配してくれている事が分かっていたから、ファルとしてもあまり強くは出られなかった。ある程度借りがある以上、あまり隠し立てもしづらい。ファルは現実主義者だが、いつか新聞記者リディに指摘されたようにとても義理堅いのだ。
「フリーダーにしか分からない可能性があるのだ」
「……分かった。 だけど約束して欲しい。 まだその子を戦わせないと」
「分かっている。 私も、この子には無理をさせたくはない」
安心した様子で、アオイは部屋で待つと言ってくれた。いぶかしむフリーダーの手を引いて、ファルはさっさと先の場所に連れて行く。途中まだ彷徨いていた不幸なコボルドは、流石に今度は悲鳴を上げて逃げていき、交戦には至らなかった。
単純な構造もあり、たどり着くまではすぐだった。先ほど受けた衝撃ほどではないが、やはり何度見ても凄まじい威容だ。ごうごうと水が流れ込む音を聞きながら、ファルはフリーダーの肩に手を置きながら言った。
「どうだフリーダー。 これに見覚えはあるか?」
「はい。 これは当機と同じ戦闘型オートマターの最強タイプ、l;kskahfdu;ajsdです」
「オ……グ?」
「此方の言葉で発音するとそうなります」
此処はディアラントかも知れない。となると、ディアラントに関連するものかも知れない。ファルは必死に記憶を辿り、その中から思い当たるものにたどり着いた。争い無き世界ディアラントに存在した、唯一絶対の力。うごめくものと互角に渡り合い散ったという、創られた勇者。諸説あるその正体は、まだ議論の的になっているが、説の中には少数派ながらそれが巨人だったというものもあるのだ。もし巨人だという説が、本当であったとすると。
「これが、武神オグか?」
「この世界の伝承はよく分かりません。 しかし、これはオグです。 概念的な存在(神)ではありません」
「となると、何なのだ?」
「技術によって創られた戦闘兵器です」
フリーダーはその後、殆ど分からない単語を並べて、(オグ)の武装を説明していった。ファルは唇を噛む。フリーダーはこれが自らと同じだと言った。しかし、フリーダーの体は暖かいし柔らかい。血だって流れる。倒れているあの巨人の体からは、血が流れた様子もない。しかし生ものにも見える。混乱してきたファルは、頭を押さえて、小さく呻いていた。
フリーダーは武人だが、不器用ながらきちんと心も持っているし、微笑む事だって出来る。戦闘のみに特化して創造された兵器などでは断じてない。断じてないはずだ。ファルの服の袖を掴む、小さな手。それはランスやレイピアと呼ばれる形状にも変化するが、ファルに頼る小さな心でもあるのだ。フリーダーは創られたというのか?創られたとしたら一体誰に?そいつは、心や、暖かい肌や、血も創る事が出来るというのか?ファルの自問は空に溶け消えていく。冷や汗が流れ、背中に滝を創っていた。
「ファル様?」
「……何でもない、一度戻ろう」
「はい」
心配そうに見上げるフリーダーの頭に手を置くと、ファルは疲れた足を引きずって、拠点へ戻り始めた。途中、要領の悪いコボルドがまだ右往左往していたが、もう見向きもせずに。
フリーダーはヒューマンではない。それはファルも知っている。だが生きている。心音もあるし、呼吸もする。造血機能だってある。
それが、それなのに、創られた存在で、兵器だというのか。だとしたら、フリーダーを創った存在は何だ。神なのか?神だとすれば、どうしてうごめくものなどに破れた?
分からない事ばかりだった。少なくともファルには、どうしても結論が出せなかった。蒼白なまま拠点に戻ったファルは、アオイの問いに、疲れ切った顔を上げた。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
「顔、真っ青。 平気なはずがない」
「大丈夫だと言っている!」
思わず大きな声を出してしまったファルは、すぐに我に返り、むすっとしているアオイに詫びると、壁に背を預けた。疲れた。疲れてしまった。少し休みたかった。フリーダーが疲労し果てた自分を見て、困惑しているのが痛々しい。
兵器である事、それ自体が悪いとはファルは思わない。他の人間がどういうかは知らないし興味もない。だが兵器である事自体に、ファルは拒否反応を持っていないのだ。しかし作られた物だというのは、正直理解出来ないし、腑にも落ちない。自分を創る権利があるのは自分だけだ。例え親であろうと、子供を好きにする事は許されないはずだ。かなり早い段階で親から独立したファルは、それを絶対の信念として胸郭にしまっていた。
それが故に、だからこそに。創られた。その言葉は衝撃的だった。
創られたとすると、戦いたいというフリーダーの意志や、戦闘能力も、であろうか。聞けば済む事なのに、ファルはどうしてか怖くて聞けなかった。
あの巨人と同じ存在だという、フリーダーの言葉が右から左に抜けるほど、その言葉は衝撃的だった。フリーダーの優しい笑顔も、下手をすると自身を慕ってくれるあの態度も。ひょっとすると作り物なのではないか。
自らを完璧に律する自信が、今まではファルにはあった。ファルは戦闘兵器だ。だがそれは自らよかれとしてやった事であり、破壊と殺戮を産み出す肉体にプライドと信念も持っている。ただ、兵器だけであるつもりもない。兵器としての自分を確固として持ち、それをきちんと受け入れているだけなのだ。だがその情況を他者に強制する気はないし、してはいけないとも思っている。だがもし誰かが、それを悪意と共に、エイミや、それにフリーダーに施していたとしたら。エイミにそれはない。だが、フリーダは。
「ファル様? どうしたのですか?」
「……すまない。 気持ちを整理したい。 少し放っておいてくれ」
自分らしくもないと自嘲しながら、ファルは右手で自らの顔を覆い、フリーダーにそう言った。今はそれしか言えなかったのである。
外からは、ずっと水音が響き来ていた。あざ笑うようにも、泣いているようにも、それは聞こえた。
5,合流、そして……
ファルの代わりに、前衛に入った者は、途轍もなく高名な人物だった。指揮権を渡そうかとエーリカは申し出たのだが、その人物は謝絶し、ヴェーラとロベルドに挟まれ、今剣を振っている。そう、先ほどリンシアに手紙を渡すよう言われた、騎士団長ベルグラーノである。
世界最強の騎士の一人と歌われるその剣腕は、全く噂を下回らない。敵を切り、敵を切り、敵を切り伏せ、全く後衛に寄せ付けない。彼はエーリカを前から見てみたかったと宣うと、事情を聞いて快く協力を引き受けてくれたのである。後は見ての通りである。相当な苦労を予測されていたファルとフリーダーの探索行が、信じられないほど楽になっていた。事実、ファルとフリーダーがいるのと全く戦力が変わらない。今もオーガをまるで赤子扱いして、案山子のように斬り伏せていた。戦意を無くした敵が逃げ散り、剣を納めながらベルグラーノは言う。
「見事な指揮だった。 我が軍に欲しいほどだ」
「いえいえ、騎士団長こそ、結構な腕前で」
「いや、そう褒めてくれるな。 褒められると昔から失敗しやすい性質でな」
苦笑する顔は、実に幼く見える。三十台半ばだという話なのだが、性格と言い容姿と言い、良い意味でも悪い意味でも二十代にしか見えない。エーリカは適当に笑顔で受け答えしながら地図を広げ、素早く今後の指示を出す。
七度の戦いを経て、迷路をあちこち行ったり来たりした挙げ句、ようやく水路が見えてきた。途中昇降機と呼ばれる不思議な機械を使って一フロア分を縦に移動したが、これに関しては全く動力が分からない。困惑したロベルドが色々調べようとしたが、エーリカが尻を引っぱたいて先に無理矢理進ませた。まず他にやる事があるし、未知に構っている場合ではないのだ。
ファルが付けたらしき記号をヴェーラが見つけた時は、皆がほっと一息ついた。階段を下りると、そこは水路を挟むように通路が存在している場所であり、左右にはずらりと扉が並んでいた。ファルの記号を解読した所、この少し先に彼女はいる。フリーダーも無事だそうで、ようやく一安心と言う所だ。
「さあ、おそらく最後の障害だ。 一気に片づけるぞ!」
「愚僧の台詞だけど、まあいいわ。 みんな、騎士団長に続くわよ!」
眼前に展開しているファイヤージャイアント三体に、騎士団長が突撃していく。実に若い戦い方をする人だ。ロベルドとヴェーラがそれに続き、エーリカは素早く印を切り、コンデと魔法協力の準備を始めた。
ファルが顔を上げる。少し前から、居るのは分かっていたのだ。外で戦いの音がして、すぐに終わった。アオイも刀に手を掛けて警戒態勢を取っていたが、ファルには分かった。手腕と言い、聞こえ来る火力と言い。間違いなくエーリカであると。
戸が開けられる。心配そうな顔で、真っ先に入ってきたのはエーリカだった。
「ファルさん! フリーダーちゃん!」
エーリカは真っ先にフリーダーをぎゅうぎゅう抱きしめると、思う様頬ずりした。ファルは今、それに嫉妬する気力も乗っていなかった。ただ、側に駆け寄ってきた彼女に医療を任せながら、力無く言うばかりだった。
「……エーリカか。 済まなかったな、迷惑を掛けた」
「迷惑なんてそんな。 それより……どうしたの? 何があったの?」
「……後で説明する。 それより、そちらの方は?」
「申し遅れた。 私はベルグラーノ。 騎士団長をしている者だ。 いや、楽にしていてくれ。 疲労も激しいだろうに、無理はさせられない」
「非礼をお詫びいたします、騎士団長」
言葉に甘えて、ファルは頭を下げるのみに止めた。全身を絶望的な疲労が蝕んでいる。精神的な負荷が、肉体にも強烈な影響を与えているのだ。立ち直る自信はあった。だが、今はまだ無理だ。視界の端で、アオイが騎士団長に平謝りしている。だがそれに構う余裕はなかった。そういえばアオイという名を聞いた時、ヴェーラが眉を急角度で跳ね上げたようだが、それに関しても構う暇はなかった。
これはフリーダーの問題のはずなのに、自分が半死半生の体たらくになっているのは、情けない限りであった。だが、ファルにはまだどうしても納得がいかなかったのである。決着を付けなければ、先には進めない気がした。
エーリカの治癒魔法はとても良く効き、痛みはすぐに消えた。しかし疲労はどうにもならなかった。フリーダーが心配そうに、そわそわと此方を見ている。立ち直らなければならない、立ち直らねば……。
ごんと物凄い音がして、意識が一瞬跳んだ。手刀が頭頂部に叩き込まれた事、笑顔のままエーリカが魔神モードになっている事に気付いたファルは、唖然とし、かつ慄然とした。そのまま腰を落として、チームリーダーは言った。
「休んでなさい、これ以上無理はしなくて良いわ」
「無理などしていない」
「明らかに顔色が悪いわよ。 貴方が役に立てない分は、愚僧達で穴埋めするから。 だから、今日は帰るまで、休んでなさい」
ファルが口をつぐんだのは、これ以上逆らったら何をされるか分からないと言う以上に、好意が純粋に有り難かったからだ。エーリカの言葉に、ロベルドが、ヴェーラが、コンデが口々に言う。
「そういうこった。 後は俺らが何とでもするぜ」
「いつも貴殿には世話になりっぱなしだ、ファル。 今日くらいは、我らを頼ってくれ」
「そうじゃのう、小生も少しは役に立つじゃろう。 疲れてるなら、荷物を分けてくれて構わぬぞ」
「……すまない」
師匠に言われた言葉がある。怪我や精神打撃で足手まといになってしまった時、仲間の真価が分かると。ポイ捨てされるか、復帰を助けて貰えるか。助けて貰える真の仲間になら、甘えられる時には甘えて良い。師匠の言葉が、今は有り難かった。
「さ、帰るわよ」
「その前に、寄っておきたい場所がある」
「うん? どういう事?」
「恐らく軍にとっても有益なはず。 騎士団長、貴方にも見ていて欲しいものです」
ファルはエーリカに肩を借りて歩きながら、皆を案内した。手前で足を止めたのは、出来れば今は見たくなかったからである。トンネルの奥で、ファルは壁にもたれて、エーリカにも現物を、武神オグを見てくるように促した。
「これは……この世のものなのか!?」
「すげえ……まるでバケモノだ」
ヴェーラとロベルドが口々に言う。フリーダーが別に戸惑うでもなく、皆にオグの事を説明し、やがて騎士団長が一言唸った。
「……危地に立たされながらも、こんなものを見つけだすとは。 どうやら君達には、今後も期待して良いようだな」
「あら、愚僧達の方を凄いと思うのですか?」
「いや、どちらも凄いと俺は、いや私は思う」
「私も同感」
アオイが騎士団長の言葉に賛同し、軽い笑いが起こった。呑気なものだなと思いつつ、ファルは少しだけ心が楽になった。がむしゃらに戦い続けてきたが、それが評価されつつあるのを感じたからだ。問題はすり替えられない。だが、苦心してきた目的の一つが、少しは形になってきたのは、やはり嬉しかった。
「実は、忍者とは随分胡散臭い連中だと思っていた。 だがその力を、認めざるを得ないようだな。 戦闘力の低いシーフでは、単独行動でこの成果を上げられなかっただろう」
「騎士団長、本人を前に何と言う事を」
「いや、裏表が無くて結構です。 私としても……」
ファルの言葉が止まったのには、理由があった。第三者の気配を感じたからである。
ファルを庇うように前に出たロベルドとヴェーラ。騎士団長も剣を抜き、アオイもその隣で抜刀する。現れたのは数名のアサシンであり、その後ろから、豪奢なローブに身を纏った老人が現れた。豪奢なローブと言っても、老人が着ているのは一種の宗教衣で、主に天主教の布教僧が着るものであった。ファルは風体から老人の正体を悟った。ハリスの枢機卿、希代の妖怪と影で言われるランゴバルドである。
「おや、騎士団長。 この様な所で何用かな?」
「枢機卿こそ、そのような輩を連れて何をしている」
「此奴らはシーフより有能な探索班ですとも。 此処に我らが探していたものがあると嗅ぎつけて、わしを案内してきた、というわけですぞ」
「わし、ではない。 我ら、だろう。 枢機卿」
若い男の声がした。アサシンが傅くその男は、ドゥーハン軍宰相ウェブスター。慌てて武器を降ろしたアオイと、渋々武具を納める騎士団長。エーリカが手を横に振って、皆もそれに習った。近衛兵を連れた宰相は、退くように視線だけで促し、奥へと入っていった。
「こ……これは……!」
奥から聞こえ来たその声は、絶望に満ちていた。ぶつぶつと何かを呟く声がしたと思うと、宰相の絶叫がとどろき渡った。
「お、おのれ、おのれええええええええっ! なんと、なんということだああああっ!」
「さ、宰相閣下! お気を確かに!」
年老いた近衛兵が宰相をなだめようとするが、狂乱したウェブスターは泡を吹き、その手を振り払って頭を抱えた。冷たい目でそれを見下ろす枢機卿。困惑する冒険者達。困り果てて視線を騎士団長へ送るアオイ。狂乱が、場に満ちていった。
「五月蠅い! こんな、こんな事が、こんな事があって良いのか! 武神が、武神オグがああああっ! これでは、これでは……!」
「宰相閣下をお連れしろ。 詰め所で落ち着いて頂け」
枢機卿の命でアサシン達が宰相の腕を左右から取り、疾風のように消えていく。近衛兵達が慌ててその後を追う。老人は翼の生えた護衛を新たに呼び寄せると、今度は自身が奥へ入っていき、ため息をついた。
「なるほど、これがディアラントの神の末路か」
「どういう事だ、枢機卿殿。 武神オグとは、ディアラントに伝わる勇者だと私は聞いたぞ」
「そんなもの、民草が勝手に語り継いだおとぎ話に過ぎぬわ。 哀れよのう。 宰相閣下は、この神を慕っておられたのだが、その末路を見せつけられてしまっては」
騎士団長の言葉に、何度も何度も枢機卿は十字を切る。そして老人は、乾いた背中を揺らし、もう興味あらずと言った様子で、この場を立ち去っていったのであった。
6,夕日の下で
迷宮の外に一旦出た宰相一味は、宿に戻っていた。皆宰相の狂乱ぶりに困惑していたが、宰相の知恵袋でありナンバーツーである枢機卿が平穏を保っていたので、かろうじて秩序そのものは保たれていた。宿自体も厳重に警備され、宰相の変貌が外に漏れないように、徹底的に管理されていた。
色々と事後処理をした枢機卿が、天使マリエルを連れて宿に戻ると、近衛兵達はむしろ彼を頼るように事態を説明した。気前よく責任を貰い受けると、枢機卿は感謝の声を背に、宰相が籠城している部屋へと足を向ける。宿の奥の部屋で、宰相は大量の酒瓶を並べて、それを無秩序に胃へ流し込んでいた。部屋に枢機卿が入り込んでくると、宰相は殺意すら込めてその顔を睨んだ。
「枢機卿……何をしに来た」
「何を、と。 決まっておるでしょうに。 今後の方針を尋ねに参りましたが?」
「……今はまだ考えがまとまらない。 放っておいてくれ」
「そうもいきませんぞ。 わしが一体いかほどの給金を頂いているかお忘れかな? どれほどの税金がわしの懐に消えているか、分からない貴方でもあるますまいに」
ひひひひ、と気味が悪い笑い声を枢機卿が上げた。無造作に庶民が一年働いても買えないような高級酒を掴むと、グラスにもつがずに、宰相はそのまま飲み干した。
枢機卿が言っているのは、民草の責任を背負っているものの自覚を持て、等と言う立派な事ではない。膨大な金をつぎ込んで対外効果を上げられなければ、流石に宰相の権限が危ういと言う事なのだ。極めて利己的な理由であるが、二流の政治家である宰相や、民衆をゴミ以下としか考えていない枢機卿にとって、それは重要事だった。
「……奴が、マクベインが面白いものを持ち帰ってきた」
「ほう? あの快楽殺人者めが?」
「そうだ。 あ奴が持って帰ってきた、黒の書。 それを使えば、何とかなるやも知れぬ」
「ほほう、それはそれは」
枢機卿の目に、揶揄するような、興味をそそられたような、そんな光が宿った。宰相は舌なめずりすると、枢機卿と、近衛兵達に振り向いた。彼の目には、地獄から這い上がり来た黒い炎が宿っていた。かって破壊者として怖れられたサンゴート王の目に、同じものが宿っていた事を、彼は知らない。
「例のものの探索を急げ。 如何なる犠牲を払っても見つけだすのだ」
ファルが迷宮の外に出ると、既に夕日が出ていた。騎士団長やアオイも一緒に転移したのでかなり狭かったが、彼らも外に用事があると言う事だったので、それ以外に選択肢はなかった。エーリカと握手すると、騎士団長は言った。
「今日は色々勉強になった。 事実君の指揮手腕は、私としても大いに学ばせて貰う所があった」
「いえいえ、愚僧などでよろしければ、いつでも加勢に馳せ参じますわ」
「それは心強い。 これから仕事を頼む事があると思うが、快く受けてくれると有り難い」
それだけ言うと、騎士団長は手を離し、真面目な表情を創る。
「それと、今日見たものに関しては内密にな」
「何かごたごたしているようですね」
「うむ……武神に関して、宰相が何を期待していたのか、枢機卿が何を企んでいたのか、気になる所だ。 それに、地下五層と言い、地下六層と言い、正体自体がはっきりしない場所で、我らとしても気になっている。 大きな陰謀が動いているような気がする」
「お互い協力して、事態を解決していきましょう」
頷くと、騎士団長はアオイを連れ、一度迷宮入り口にある詰め所へ消えていった。それを見送り、背伸びをして振り返ると、エーリカは今後の指示を出すと言うよりも、むしろ詰め将棋でもしているかのような口調で言った。
「此方でも、情況を整理しましょう。 今後は難しい局面になりそうだわ。 ファルさんは、疲れている所悪いけど、フリーダーちゃん連れて錬金術ギルドに行ってきて」
「承知した」
「ロベルドとヴェーラさんは、冒険者ギルドね。 彼方でも、地下五層の情報が何かあるかも知れないし。 有料の話は、予算を見て買ってきて。 コンデさんはイリキアの伝承の中から、何かディアラント関連のものがないか思い出して整理しておいて」
「おう。 任せとけ」
一同そのまま散ろうとしたが、ファルを呼び止め、エーリカは耳元に囁いた。
「ファルさん、恐らく錬金術ギルドは何か知っているわ。 フリーダーちゃんを即座にオートマターだって見破った位だから、それに関する情報も持っているはず」
「そうだろうな。 あのギョームの事だ、いらん知識を山ほどため込んでいるだろう」
「交渉は任せるわ。 引き出せるだけ、適当に引き出してきてくれる?」
「分かった。 任せておけ」
手を振って自分を見送るエーリカに軽く手を振り替えして、ファルはフリーダーを連れて歩き始めた。フリーダーは見れば笑みを返してくる。自然と頬の筋肉がゆるむ。手を握る力が、心なしか強くなる。
時間がかかっても良い。現実と向き合わなければならない。自分を見上げて、頼ってきてくれているこの子を包む、酸鼻な現実を。
「フリーダー」
「何でしょうか、ファル様」
「……いや、何でもない」
かって全力で守ったエイミは、何とか大人になるまで、自分で立てるまで守りきる事が出来た。今度はこの子にそうしてあげる番だ。どんな現実があろうと、知った事か。一般人共からどんな迫害を加えられようが、絶対にこの子を守る。
フリーダーの、作り物かも知れない笑顔を見ながら、ファルはそう決意していた。
(続)
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