超常の衝突
序、出陣
人類に限定すれば、確実に世界最強の一角を為す存在である大魔導師ウェズベルは、幾つかの高級なマジックアイテムに身を包み、護衛二人を連れて、ドゥーハン軍総司令部を訪れていた。現在辺境に駐屯している将軍達と王との間を取り持つパイプである此処は、平和になった現在でも国家の最重要施設である。此処の防御結界構築の一部を担当したウェズベルは、周囲を見回しながら、ドワーフの建築技術の粋を集めた建物へと足を踏み入れた。彼ほどのVIPであれば、迎えも当然豪勢になる。スタンセル大将を始めとするそうそうたる面々がすぐに現れ、大魔導師を応接室へと案内した。そして、実戦経験がある故に、彼らの誰もが悟っていた。老魔導師が、死を賭して戦いに赴こうという決意を固めた事に。だから、誰もがそれには一切触れなかった。彼らも、武人であるが故に。
「これを渡しておこう」
ウェズベルが応接間のテーブルに置いたのは、幾つかのマジックアイテムであった。一つは少し大振りの剣。今ひとつは少し小振りな刀。そしていま一つは、先端に水晶が埋め込まれた杖であった。最後の一つは油紙に包まれ、外からは正体がいまいちよく分からない。いずれにしても、どれも名品であり、小国であれば国宝クラスの品として扱われるのが確実なものばかりだ。
「これは……よろしいのですか?」
「構わぬ。 もしも、わしが倒れた時は……これと思う者へと渡すが良い」
静かな、だが有無を言わせぬ調子で老魔導師は言い、そして立ち上がった。司令部を出ていく彼に、無言のままスタンセルは敬礼していた。
そしてウェズベルがこの建物に足を踏み入れる事は、未来永劫なかったのである。
カルマンの迷宮地下十層。様々な錬金術機器が設置され、薬品臭がする部屋で、魔女アウローラは顔を上げた。リズマンの戦士パーツヴァルと、エルフのネクロマンサーであるアインバーグが続けて顔を上げる。パーツヴァルなどは、用意良く方天画戟に手を伸ばしながら言った。
「アウローラ様、出陣か?」
「そうよ。 どうやら古い古い知己のお出ましだわ」
「ひゃっひゃっひゃ。 知己、知己ときましたか。 チキチキチキチキぃ〜♪」
「私が以前戯れで生かして帰してあげた男よ。 うふふふ、以前とは比べものにならない魔力を感じるわ」
久しぶりに嬉しそうにアウローラが笑ったので、少しだけパーツヴァルは安心した。隣ではアインバーグが、何が楽しいのかチキチキと楽しそうに言っているが、彼の奇行はいつもの事なので知った事ではない。
無駄な殺戮は避けるべき事だが、戦いそのもので心身を充足させる者は確かに存在する。命のやりとりは、他のいかなる勝負よりも激しく過酷な争いになる分、それがもたらす高揚感や充足感もまた超絶的なのだ。そが産み出す心の渦に飲み込まれる者もいるし、逆に飛翔する者もいる。どちらかと言えば、アウローラは後者だった。
「我らも行くか?」
「パーツヴァル、貴方は付いてきなさい。 アインバーグ、貴方は例のものの最終調整を急いで。 他の者達は、アインバーグを手伝いなさい。 こっちは私とパーツヴァルだけで十分よ」
「ひゃっひゃっひゃっひゃ、了解しましたぞ」
「……了承した。 命に代えても、御身を守る」
太く逞しい尻尾を揺らして、パーツヴァルが立ち上がった。アウローラが転移の呪文を唱え、まもなく二人の姿は部屋からかき消えたのであった。
ファルのチームの中で、一番朝が遅いのは、実はコンデである。この老人はどういうわけか年老いた今も随分長い眠りを必要とし、ジルが起こしに来なければ何時になっても平然と寝ている。そのコンデが、今朝は自分から起きてきた。それを見たジルは転び掛けて、エイミに慌てて助け起こされていた。
「コンデ様? どうかなされたのですか?」
「う、うむ。 それがのう……」
コンデは被ったままだったナイトキャップをジルに預けながら、窓の外を見やった。老人の皺が刻まれた口元は、ぐっと引き締まっていた。
「嫌な予感がするんじゃ」
「……」
「何か、凄まじい力が衝突しようとしているような気がする。 恐ろしいのう……」
ジルが驚いたのは、コンデがこういった行動を見せる際、本当に凶事が起こる事を知っていたからである。そしてその予備知識は、今回も現実になろうとしていた。
1,見かけと実力
超一流の使い手は、容姿も優れていると考えている者達が居る。残念ながら、それに対しての答えはノーである。天才が個性的な容姿をしている事が多いのは間違いない事実なのだが、それが一般的な美的感覚から言って華麗かどうかは話が別なのだ。
地下四層まで来ると、魔法を使う敵も少なからず居る。オークやコボルドの中にもいるし、この辺りを徘徊しているオーガは平然と攻防共に魔法を使いこなしてくる。彼らの知能が低いなどと侮る者は、実戦でその愚を身に刻む事になるのである。現に今、ファルのチームが交戦している敵も、魔法を使いこなす相手だった。
マグマが煮立つ地下四層の、比較的温度が低い通路。其処に踏み込んだファルらを出迎えたのは、人狼二体と、オーガが三体。この階層から現れるようになった人狼は、最初にファルが交戦した者だけではなく、全てが根本的に強い。基本的に魔法のかかった武器でしか傷付ける事が出来ず、潜在能力も並はずれて高い。丁度狭い通路で交戦する事になり、オーガ一体と人狼二体が、疾風の如き猛攻を前衛に仕掛け来ていた。ファルの正面に回ったオーガは、ヒューマンの全身以上もある巨大な斧を振り回し、なかなか間合いをつめさせてはくれない。左右にいる人狼はそれぞれロベルドとヴェーラに猛攻を仕掛け、付け入る隙を与えてはくれなかった。エーリカが素早くサインを出し、それと同時に、ファルは敵に時々攻め入るふりをしながら、じりじりと後退して見せた。オーガはそれに乗り、一歩、二歩と前に進んでくる。次の瞬間だった。
エーリカとフリーダーが息を合わせ、ロベルドとヴェーラの前にいた人狼二体に、ボウガンでの矢を叩き込む。ぎゃっと悲鳴を上げて下がる人狼の手には、魔力の光を帯びた矢が突き立っていた。同時に、ロベルドとヴェーラが踏み込む。タイミングは完璧である。
「おおおおおおっ!」
「うらあああああっ!」
双方向から叩き付けられた撃が、前に出過ぎていたオーガを、文字通り両断していた。タイミングが完璧にあった為、対応も防御も出来ず、オーガは呻いて、左右に血を飛び散らせながら仰向けに倒れる。更にファルが懐から焙烙を取りだし、一時後退しようとした敵の真ん中に放り込んだ。直撃を受けた人狼が火だるまになり、更にコンデが巨大な火球を敵中へと叩き込む。同時に、後衛に着いていたオーガが呪文を開放、紫電の糸が戦場を荒れ狂った。二つの魔法は相殺しあわず、それぞれの敵を蹂躙し尽くす。派手な炸裂音と放電音が響き渡り、それが収まった時、ファルは片膝を付いていた。一撃を避け損ねたのである。暴れ回っていた彼女に、過剰に攻撃が集中したのだから、致し方ないという情況でもあった。心配すると言うよりも、叱咤するようにエーリカの声が飛ぶ。
「ファルさん!」
「大丈夫だ。 ……まだいける」
舌打ちしたファルは、まだ少し笑っている膝を強引に制しながら立ち上がる。精神力は万能ではないが、それでもある程度は肉体の力を上げられる。無論の話、後で確実に来るリバウンドは痛いが、一瞬の駆け引きが生死を決定する情況で、文句など言っていられない。見れば、ヴェーラは既に武具を構え直し、ロベルドは埃を払って敵陣を見据える余裕さえ見せている。
「結構痛かったわね、今の雷」
「獣人といっても侮れぬな。 なかなかどうして、エルフの冒険者が放つ雷に劣らぬではないか」
「無駄話は後にしろ。 来るぞ」
「グルアアアアアアアッ!」
煙を突き破り、一瞬視線を逸らしたヴェーラに人狼が躍りかかった。側面から即応したファルが蹴りを叩き込み、土がむき出しの壁にぶち込む。全身焦げた人狼はそれでも立ち上がろうとしたが、ヴェーラが気合いと共に繰り出したハルバードに頭を貫かれ、血を吐いて痙攣した。力任せに得物を引き抜く、褐色の肌の女戦士が目を見開いた先には、魔法を唱え終わったオーガ達の姿があった。しかも今度は二体同時だ。再び雷がその手に集まり、一秒ごとに高まっていく。ファルの焙烙も、対応呪文も間に合わない。
「通さないわよっ!」
エーリカが叫び、ボウガンの矢をかなり無理に速射した。アレイドマジックキャンセルの肝はタイミングだが、残念ながらそれを合わせる時間が決定的に不足していた。フリーダーもそれに習うが、炸裂したのは一本だけであった。喉に矢を突き立てたオーガが倒れる横で、もう一匹が呪文を発動させる。巨大な雷が、放たれようとした瞬間、その右腕にナイフが突き刺さった。後ろから飛来したもので、ファルのチームが投擲したものではない。目を細めたファルが疾走し、手裏剣を喉へと叩き込む。頸動脈はそれたが、苦しそうに喘ぎながらオーガは更に下がり、其処へ突撃したロベルドが、体ごと斧の刃を敵へと叩き込んでいた。
倒れたオーガの血を浴びながら立ち上がったロベルドの視線が、ファルと同じ方向に向いている。最後に、余計な事をしてくれた相手の方へだ。確かにもう一撃喰らったら、かなり損害は大きくなった。だが負けるほどでもなかった。被害の想定範囲内の事である。それよりも、ファルの視線を止めさせたのは、ナイフを放った際のタイミング。聴覚強化呼吸法でも使ったかのようなその業は、まるで通常の冒険者が出来る事ではない。戦闘態勢をとかないファルの耳には、しかし場違いな音が聞こえ来ていた。拍手である。
「う、うわー、良かった。 勝てた、勝てたんだねー」
「……何者だ」
「え? 僕? 僕の名前、聞いて、きーてくれるの? えへ、えへへ、へへ」
ファルの横で、ヴェーラが呻いて、視線を逸らす。ロベルドも唖然とし、腑に落ちない様子で、歩き来る男を見守った。
「僕、僕ね、ヨッペン=ライナーって言うんだ。 へへ、魔物が沢山居るから、迷宮来たんだ。 僕、僕ね、魔物が、大好きなんだ、へへ、えへへへへへへ」
どもりながら凄く嬉しそうにいうその男は、背が低く小太りで、病的に白い肌をしていて、しかも手入れを全くしていない事が明白な無精髭を生やしていた。思春期の女の子なら、嫌悪で呻きそうなほどに、容姿はよろしくない。しかも言葉遣いも変だし、格好は更に変だった。彼はファルのチームの面々を見回すと、進み出たエーリカの自己紹介を受けて頷き、色々と仕事の話と情報交換を始めた。それを見て、ヴェーラが同意を求め、ファルに耳打ちしてくる。
「な、なんというか、個性的な奴だな」
「違いないな」
「? 男嫌いの貴公が、珍しく嫌悪感を示していないな」
「……私が男を嫌いな理由の一つは、なにより私やエイミの体を性欲解消の道具と見ているからだ。 私に性的対象としての興味を抱かぬ男は、別に嫌ではない。 好きでもないがな」
「へ、へえ。 そ、そうか……」
貧しい地区で暮らしたファルには、そう言った理由が男性嫌悪の一因として、確固たる足場を持つ事となっていた。元々人間種のうち、ヒューマンが他の種族と対等に渡り合っている要因の一つは、その異様な繁殖力にある。更に貧しい国や厳しい生活を送っている場所では、その欲望がより鮮明にむき出しになる。下手に優れた容姿を持って生まれたファルは、そういった悪条件が重なった結果、男嫌いになっていったのである。
やがてヨッペンは、大きく無邪気に手を振りながら、迷宮の奥へと消えていった。エーリカはしばし手を振っていたが、呆然としている者も含め、皆を見回していった。
「多少趣味は変わっているけど、腕はまずくないし、悪い奴じゃないわ」
「で、その変な紙は?」
「ああ、あの人、女の子の魔物が大好きなんだって。 これに女の子の魔物の、誰も知らないような情報を書き込んでくれたら、現金報酬を出すって言っていたわ。 良い小遣い稼ぎになるはずよ」
「うえ……」
案外乙女な所があるヴェーラが蒼白になって一歩退く。剛胆なササンの女騎士も、やはり苦手とするものが一つや二つはあるものである。エーリカは手際よく皆の治療を進めながら、お得意さんの一人になりそうな相手をフォローした。隣では、フリーダーが包帯を手慣れた様子で扱っている。
「ま、他人の趣味をどうこう言っても仕方がないわ。 嗜好の違いは個人によってあるのだし、それを否定してもつまらないだけよ。 自身に被害が及ばなければ、温かく見守るべきだわ」
「違いないな。 それよりも、一つ言い忘れていた事がある。 でがけに情報が入ったので、会議で提示出来なかった」
フリーダーに、電撃で出来た火傷を治療させながら、ファルはヨッペンが消えていった方を見た。
「ギルドの情報だと、最近四層にある魔物が現れるそうだ」
「あん? またうごめくものか?」
「いや、あれほど性悪ではない。 だが、それなりに強いのは間違いないだろうな。 本来なら六層以降に現れることがある、という程度の報告例しかない魔物だそうだ」
「正体は割れてんのか?」
「……サッキュバスだ。 性癖からして、ひょっとするとあの男、この階層でサッキュバスを探しているのかも知れないな」
サッキュバスはいわゆる夢魔の一種であり、男性に淫夢を見せ、精気を吸い取るもの、とされている。美しい女性の姿をしていると言われるが、実際にいかなる姿をした存在なのか、見た人間は殆ど居ない。サッキュバスに対して、女性に同じ事する夢魔をインキュバスと言い、実の所両者は同一の存在という説もある。総称して、こういった種類の夢魔を淫魔とも呼ぶ。
しかし、それらはあくまで人間の間で流布されている説に過ぎない。夢魔というのは本来非常に幅が広い種族で、人間が夢想する悪魔のような存在から、単なるいたずら者まで、実に多くの種類が居る。一口にインキュバスと言っても、女性が壊れるまで精気を啜る卑劣で強力な悪魔もいるし、罪のない悪戯をする妖精に近い存在もいる。サッキュバスもまたしかり。一口に夢魔と言っても、人間にとってプラスの存在もマイナスの存在もいるのである。当然、生態が同じ存在を人間が夢魔と括っているだけであって、存在としての多様さは大樹の枝が如し。彼らを一緒に括るのは、さながらほ乳類を全部同一視するようなものだと思えば差し支えない。
現在地下四層で問題になっているサッキュバスであるが、当然の話ながら、彼女らの美的感覚は人間と全く異なる。人間は外面で判断する比重が大きいのに対し、どちらかと言えば精神生命体に近い夢魔は、精神の強さで相手を判断する。むろん、(おいしそう)か、(まずそう)か判断するのである。(おいしそう)な獲物を見つけた場合、彼女らは目当ての存在をつけまわし、まず獲物が眠るのを待ってから特殊な脳波を送り込んで淫夢を見せる。そして精気を食物とするのである。場合によっては、魔法や催眠術等で無理矢理眠らせてから、仕事にかかる場合もある。実際には、わざわざ夢の中に潜り込む、などという面倒くさい事はしないのだ。ただ、長年生きて力を増した淫魔の中には、相手が乾涸らびるまで精気を貪欲に啜るものもいて、そう言った連中は上位の悪魔にも匹敵する実力を持っている。なかには、魔神の一柱として迎えられる者もいるのである。自衛の為に強力な魔法を身につけているものも少なくない。あくまで人間の視点から、潜在的な意味で言えば、夢魔の中でサッキュバスを含む淫魔はかなり危険な魔物に分類される。人間を殺しうる可能性がある食事をする、強力な力を持つ可能性がある存在なのだから、そう分類されるのも仕方がない。蜂を危険視するのと同じ事だ。
しかし、である。地下四層で今、所在なさげに左右を見回しているとっぽい夢魔は、魔神どころかその辺の雑魚魔物にも侮られるような落ちこぼれだった。
彼女は、インセルスという名前を持っている。時々夜に紛れ人間世界をふらついて、運良く街の片隅などで眠った人を見つけては、細々と食事にありついて生きてきた。夢魔の中には仕事をやりやすくする為に、人間の好みを研究して、人間から見て派手な外見を形作っている者も多い。だがインセルスは物凄く要領が悪く、今でも、男が灯りに引きつけられた蛾のように寄ってくるような、というような容姿をしていない。人間で言えば、年は十七八の娘。一見した所では、黄色人種のヒューマンと見分けが付かない。若干丸めの顔立ちは、どちらかと言えば整っているのだが、眠そうな目と、彼方此方寝癖のある栗毛の髪が、魅力を尽くうち消してしまっている。体つきは、人間の基準で言えば豊満な方だが、夢魔なら薄着でもすればいいものを、がっちり足下まで肌を隠してしまっていて、折角の色気が台無しになっている。これでも夢魔だから背中には蝙蝠の翼があるが、それで空を切り裂くと言うよりも、ふらふらなんとか地面に落ちずに浮遊する、という程度のことしかできない。
そんなインセルスだから、仲間うちでもバカにされていた。みそっかす扱いされて、いつも隅っこにおいやられていた。そんなある日、この迷宮に潜り込めばカモがいっぱいやって来るという話を聞いて、インセルスはごはんが沢山食べられればいいなあと、なんとも情けない理由で仲間と一緒に迷宮に入り、三日後には後悔していた。確かに要領がいい仲間達は、他の魔物や人間の冒険者から精気をたっぷり吸い取って満腹していたが、インセルスは怖い顔の冒険者に追いかけ回されるばかりで、酷い目にあうばかりだった。怪我して(童女泣き)をしている所を、情けない事に、オークに助けて貰った事さえあった。どういう訳か攻撃魔法の腕前は相当なものだったが、怖くて敵になどぶっ放せなかった。力はそれなりにあるのだが、性格が臆病で大人しすぎて、根本的に荒事に向いていないのだ。
仲間が主にたむろしているのは地下六層以降だが、冒険者ばかりか他の魔物にいじめられる事も多く、インセルスはそこではやっていけなかった。もういやだから帰ろうと思い、彼女は道に迷いながらも、何とか地下四層まで戻ってきた。だがもう何処をどう通ったかなど覚えているわけがないし、怖いワーウルフのお兄さんは沢山居るしで、インセルスは安全そうな部屋に閉じこもっては毎日びくびくしていた。彼女は特殊な抜け道を通り、地下四層からカルマンの迷宮に入ったのだが、それが何処にあるのかもよく分からなかった。というわけで、半べそをかきながら右往左往しているインセルスが、ギルドの忍者や冒険者に目撃されて、通報された。それがファルの所まで伝わったのだ。
「やだあ、もう……」
インセルスは今日も帰ろうと彼方此方を彷徨いていたのだが、どこもかしこも怖いものばかりで、とても探索など続行出来そうになかった。巨大なジャイアントは彼女に見向きもしなかったし、ワーウルフは鋭い刃をむき出して唸ってきた。足を踏み外しそうになれば、下には溶岩の海が待っていて、きゃーきゃー泣きながら部屋まで逃げ戻る。そう言うわけで、今日も全く帰る為の探索は進まず、とろい夢魔は右往左往するばかりだった。
「帰りたいよぉ……」
べそをかきながら、夢魔は呟く。今までだって、決まった住所なんて持っていなかったのに。この迷宮から出られれば、何でも良いとまで、彼女は思い詰めていた。
無言でファルが手招きし、皆が通路の向こうをこっそり覗く。そこにいたのは、都会の大通りで右往左往して数分後には人さらいに連れて行かれそうなお上りさん、のように見える魔物だった。人間と変わらない姿をしている事から、結構強力な魔物のはずなのに、まるで危険感がない。目にはうっすら涙をためて、時々何にもない所で転びそうになりながら、あっちへふらふらこっちへふらふらしている。背中には蝙蝠の翼があるが、服装は随分がっちりしていて、スタイルは結構良いにもかかわらず、性的特徴を恥ずかしがって隠そうとしているようにすら見える。唖然としたロベルドが、ゆっくり首を動かして、ファルの顔を下からのぞき込んだ。
「まさか、あれか?」
「どうやらそのようだな。 噂に尾ひれが付いて、危険度が勝手に水増しされていたか」
「潜在能力は高そうですが、本人に気力が感じられません。 仕留めるのなら、当機一人で充分です」
「やめておきなさい、フリーダーちゃん。 斬る気にもならないし、その必要もないわ」
エーリカが首を横に振って、おそらく人類が目撃した中でも最も情けないサッキュバスの一体をもう一度見やった。その視線の先で、夢魔はむしろ小気味の良い音を立てて(無論何もない所で)転び、地面でまるで童女のようにしくしく泣き出した。皆と一緒に目を丸くしていたコンデが、ファルに念を押すように聞いた。
「罠、と言う可能性はないかのう。 数百年生きた魔物は、とても狡猾になると聞くぞ?」
「それは無い。 ……あそこまで完璧に殺気も戦意もない魔物は初めて見る。 もしそれを完璧に消せるほどの魔物なら、我々に対してそんな事をしてみせる必要もない。 正面から攻めてきても楽勝だろう。 あれは正真正銘の素人だ」
「あーもう、見ていられないぞ!」
ファルの眼前で、ついにヴェーラが爆発した。大股で隠れていた陰から出て、夢魔の方へと歩いていく。しくしく泣いていた魔物は顔を上げると、「きゃっ」と、何とも可愛らしい悲鳴を上げて、怖い顔で歩み寄ってくるヴェーラから逃れようとした。その襟首をいとも簡単にヴェーラは掴み、振り向かせて夜叉のようになっている顔を相手に近づける。
「貴様っ!」
「きゃあっ! ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「まだ何もいっていないっ! 一体貴様、迷宮に何をしに来た! 戦うなら戦え! 出来ないならさっさと帰れ! 邪魔だ!」
ヴェーラのもっともな言葉にしばしめをうるうるさせていた魔物は、それこそ童女のようにぴーぴー泣き出してしまった。まるで噴火中の火山が如く褐色の肌を朱に染めたヴェーラは、更に怖い顔で説教しようとしたが、エーリカが肩を叩いて制止した。
「其処までにしておきなさい、ヴェーラさん」
「し、しかし、しかしだな!」
「其処までにしておきなさいといっているの」
「ごめんなさい」
流石エーリカである。何度も見た光景ながら、歴戦の騎士を一瞬で黙らせる手腕、実に素晴らしい。ふとファルがフリーダーを見ると、彼女も少し怖がっていた。
近くの安全な部屋まで移動し、キャンプを張る。何度めかの探索で見つけた、手頃な大きさの部屋で、入り口は一つだけで外も狭い。少し休憩するにはもってこいの場所で、時々ファル達以外の冒険者が来ている事もあった。泣いている魔物にハンカチを貸してやり、落ち着かせてから、エーリカは事情を問いただしにかかった。医療寺院という戦場で働いていた為、彼女は尋問になれているし、発言の誘導も上手い。怪我人に状態を聞き出し、適当な治療法を導き出すにはその技術が必要不可欠だからである。時々びくびくしてヴェーラの方を見ながら、魔物は自分の事情を喋っていった。
彼女は夢魔インセルス。仲間に半ば引きずられるようにして、(ごはんを沢山食べられる)というこの迷宮に来たのだが、とても怖い所で、何とか逃げだそうとしていた。そして迷宮にはいるのに使ったこの階層で、出口を探して右往左往していたのだという。話を聞き終えると、ロベルドは呆れたように、バトルアックスの先端で壁を叩いた。
「なんてーか、良く今まで生きてられたな」
「確かに、相当な強運に守られていたのだろう。 常人以下の能力しかないこの者が、この迷宮で今まで生きていられたのは奇跡以外の何者でもないな」
「で、この魔物をどうするのじゃの?」
「放っておいても寝覚めが悪いし、外に出してあげる?」
「小生は反対じゃ」
コンデは控えめに、だがエーリカを制止するように見やる。
「イリキア家に伝わる伝承だと、夢魔は人間が廃棄物になるまで精気を吸い尽くすというからの。 この者に例え悪気が無くとも、食事をすれば人間は壊れるやもしれぬしの」
「この子を普通の夢魔と同列に置くのはどうかしら?」
「私もコンデ老に賛成だ」
壁に背を預けていたファルも、皆の視線を怯えて自身の肩を抱きしめている夢魔を見据えた。
「この魔物が弱いのは確かだが、それと食事の結果は別問題だろう。 確かにこのものは哀れだが、助ける事によって人間がこの後無数に死ぬとなると、斬らざるをえないな」
「当機も賛成です」
「俺は保留だ。 正直こいつが良くわからねえしな。 よく分からないのに、命を絶つのは、流石に寝覚めがわりいよ」
エーリカがヴェーラを見ると、褐色の肌の騎士はついと視線を背けてしまった。やはり根本的に、インセルスのような存在とは肌が合わないらしい。そういえば、以前ファルがイーリスの話をした時にも嫌悪感を示していた。その一方で、この間のメラーニエに対しては、別にいやがる様子はなかった。これは恐らく、大人であるにも関わらず、戦うべき時に剣を取れない者が嫌いなのだろう。
意見が出そろった所で、びくびくしている魔物に、エーリカは笑みを向ける。
「まあ、このまま多数決だと、貴方を殺さなきゃいけないのだけれど、何か反論はある?」
「……」
夢魔は覚悟したように俯いていた。もう精根尽き果てている感じだ。逃げられはしない事も、ファルやコンデの意見がもっともだと言う事も、分かってはいるのだろう。インセルスが人間にとって捕食者である事に違いはない。だから、コミュニケーションを取れたとしても、相互理解が出来たとしても、両者が必ずしも共存出来るわけではないのだ。言葉は万能のツールなどでは断じてない。共存には相互の利益が密接に関わっており、個人個人での交友を天敵同士で持てたとしても、種族同士で交流を持てる訳ではないのである。ましてや、ドゥーハンに最も多い人間種のヒューマンは、ある意味ドワーフ以上に頑固で排他的なのだ。
「貴方、食事をすると、人間を殺してしまうの?」
「そんな、そんな……殺した事なんてないよぉ。 怖くて、そんなこと出来ないもん」
「今後はどう? 力を付けてきたら、人を殺すほど精気をすいたくならない?」
「分からないよ、そんなの……」
蒼白になって、インセルスは首を横に振った。かちり、と音がしたのは、ファルが鯉口を切り、抜刀したからだ。ゆっくりと進み出ながら、ファルは刀を上段に構えた。
「一瞬で楽にしてやる。 何か言い残す事は?」
「……」
目を潤ませてファルを見ていた夢魔は、すぐに俯いてしまった。ファルは更に歩を進め、剣を振り下ろせば首が落ちる所まで近づいた。魔力視強化瞑想を続けた結果、この状態ならサッキュバスの致命点がよく見える。止まっている今の状態なら、外す可能性もない。
「すまぬな。 お前の食物次第では、殺さなくてもすんだのだが。 無論お前にとっては理不尽な死だろうし、抵抗したければしても構わないぞ」
夢魔は何も言わない。抵抗もしない。小さく嘆息すると、ファルは刀を振り下ろした。
「……で、あたしの所に連れてきた訳ね」
「そう言う事よ。 まあ、雑用くらいは出来るでしょうし、魔力の方は保証するわ」
「新人を育てるのがどれだけ大変か、知らないでしょ。 勝手なもんだわ。 魔力があると、出来る仕事は確かに多いけど」
「そういわないで。 ほら、今日も戦利品、此処にしか持ち込んでないんだから」
エーリカはそう言って、地下四層で見つけてきた槍や剣をカウンターに並べてみせる。いずれもチームメンバーが装備しているものよりも落ちるが、しかしどれも結構なお値段がつくものばかりだ。迷宮内部、つまり遺跡にあるような武具は、鍛冶が新しく鍛えた生半可なものよりも性能で勝る事が多いのだ。事実、最近ヴィガー商店は露骨に金ぶりが良くなって、オーク達は店の拡張工事に大忙しだった。店の外には派手な広告が多く、ファルらも店にはいると冒険者とすれ違う事が多くなった。つまり、ファル達は充分な対外効果をヴィガー商店にもたらしており、その発言力はルーシーにとって無視出来ないもののはずなのだ。それでも不愉快そうにヘの字口になっているルーシーは、ひそひそ声で会話をしている弟たちを視線だけで黙らせると、もう一度所在なげに俯いているインセルスを見た。そして暫く黙り込んだ後、しっかりものの少女は大きく息を吐いた。
「分かったわよ。 オークが普通に働いているこの店で、今更魔物は駄目なんて言えないものね。 ただし、結構こき使う事になるから、覚悟してね」
「はい、その……」
「ご飯だったら、そのへんでテキトウに食べなさい。 ただし、エサに気付かれたり、後遺症を残したり、も・ち・ろ・ん・怪我させたり死なせたりしたらぶっ殺すわよ。 私この辺の人とはみんな知り合いだから、すぐにばれると思いなさい」
容赦ない物言いであったが、一抹の優しさが其処に含まれていた。エーリカは一礼して店を出、ファルがそれに続く。インセルスはびくびくしながらも、礼をしてそれを見送った。怯えの中に、感謝は確実に混ざっていた。
ファルが刀を振り下ろした瞬間、止めたのはエーリカであった。冷徹な現実主義者の僧侶らしくもないと、ファルは思ったが、あえて口には出さなかった。
宿の前で、エーリカが足を止め、振り向いた。妙な笑いを張り付かせて。
「らしくない、とか思ってない?」
「思っている」
「なあに、あの子だったから選んだ道よ。 もしも何かあったら、愚僧が責任をとって殺すだけだしね」
「やはり、貴公だけは敵に回したくないな」
本音から言うと、ファルはさっさと宿に入った。技を練るにしても、情報を仕入れるにしても、やる事はいくらでも眼前に存在していた。実際問題、ファルでもエーリカは怖かった。
翌日から、ヴィガー商店にヨッペンが良く現れるようになった。それを聞いて、ヴェーラが朝の茶を吹きだしたのは、皆の記憶に残る出来事であった。
結果的に、インセルスをヴィガー商店が雇ったのは正解であった。気が弱くても手先が器用で魔力も強い彼女のお陰で、簡単なマジックアイテムを大量自作出来るようになり、店の商品の幅が増え、客も増えたからである。
2,流動
ファルのチームが地下四層の探索を始めてから十日ほどが経過した。この期間に、幾つかの識別ブレスレットを回収したが、いずれもこれといって使える業はなかった。ただ、コンデ老はその中の一つ、詠唱の微短縮法に興味が動かされたようで、時々暇を見つけては瞑想にふけっていた。不真面目なこの老人がやる気になったのは、大いに歓迎すべき事であり、特にジルはここ毎日ご機嫌だった。
今日は数日ぶりの非探索日である。エーリカはきちんとこういった休みを入れてくれるので、チームメイトとしては自己作業が行いやすく、休息も取りやすい。ロベルドは聴覚強化呼吸法を、ファル以上に極める事にしたらしく、それの訓練を熱心に行っていた。タフなロベルドだが、やはり最近ジャイアントやドラゴンと交戦する事が珍しくもなくなってきた現状を鑑みるに、頑丈な肉体だけではやっていけないと、自然に悟った事は疑いない。ヴェーラも魔力視強化瞑想よりも、聴覚強化呼吸法に重きを置いて、間合いを上手く計る為の一助にしようとしていた。これらを実戦で試す為、習熟度は嫌でも上昇した。
ファルは彼らを横目で見ながら、自身は魔力視強化呼吸法に重点を置いていた。これはどういう事かというと、どうも何か掴めそうな直感を覚えていたからである。
忍者の間で伝説と呼ばれる一撃必殺の業、クリティカルヒット。それを半ば修得したファルであったが、極めたとは到底言い難いし、それにまだ業自体が根本的に荒い。敵の弱点を見極める為にそれなりの時間が必要であるし、今の技量だとまだまだ外す事が少なくない。それに、まだスピードとパワーに頼りがちである現状からは脱していない。負傷した時や、不慮の事態が起こった時の事を考えると、それでは不味い。最強の状態を常に維持するのは難しいし、それを前提にした業では意味がないのだ。少なくとも、実戦投入出来る業ではなくなってしまう。例え発動条件が厳しくとも、使いたい時に理詰めで使える業の方が、ファルには好ましいのである。ファル自身の為にも、忍者という職業の不安定さを解消する為にも。
確かにファルの師匠を始めとする、一部の天才的な忍者は強い。しかし、現実的な観点からすると、まだまだ忍者は戦闘能力のある盗賊、くらいの存在でしかない。だから積極的に忍者になろうという者だって少ないし、なったところで、個人の資質が職業の特性を遙かに凌いでしまっているようでは、あまり意味がないのだ。
ギルドで情報を集めた後、イーリスの家に寄って、ヴィガー商店でサッキュバスの様子を確認し、その後広場で修行にかかる。軽く体を動かした後、イメージトレーニングでガスドラゴンと戦い、比較的危なげなく倒してみせる。その後本格的なトレーニングに移り、実戦を想定した動きで体をしばしいじめ抜いた後、ファルは薄赤く染まった肌に付着した汗を拭いた。いつも腰掛けている平たい石に、今日も体重を預けて。
まだまだ幾らでも鍛えられる。体の錬磨も、感覚の製錬も。しかし、限界がそれにあるのもまた事実。このまま鍛えていけば、いずれ師匠に列ぶ事が出来るかも知れない。だが、所詮は其処までだ。忍者の業を体系的に確立する事も出来ないし、これという最強のうりを作る事もまた不可能だ。ファルは強さに貪欲だが、同時に誰でも到達出来る強さには更に貪欲だった。ギルドの未来の為にも、それの構築は絶対不可欠だった。
無言のまま、ファルは汗を拭いながら、落ち行く葉を見ていた。風が吹くと、枝からもがれた葉が、舞ながら地面に落ちていく。感覚をとぎすまし、後ろにある葉や、死角に舞う一枚も、全てカウントしていく。ただの暇つぶしのつもりだった。やがて、無心に地面に落ちた葉を数え始めたファルは、思わずハンカチを取り落としていた。エイミが刺繍した、うさぎさんの模様が刻まれたハンカチを。
カウントと実際にある葉が合わないのだ。二枚、多く葉が落ちていた。カウントし損ねた葉はどちらも扁平で、風に乗ってしなやかに飛んだようだ。目をつぶり、ファルはもう一度、一から葉をカウントし始める。そしてしばし時が経過して後、目を見開き、また葉をカウントした。やはり、落ちている葉は数枚多い。飛んでいる葉を気配で察知するくらい、今のファルなら造作もないはずなのだが、どうして誤差が生じたのか。石から腰を浮かすと、ファルは念入りに、カウントし損ねた葉を調べていった。やはり先と同様、扁平で風に逆らわない形をした葉であった。
「……これは、もしかして」
珍しく動揺と興奮を瞳に宿したファルは、木の方へ視線を向け直し、舞い落ちる葉をカウントし始めた。同時に感覚をとぎすまして、落ちている葉を入念にチェックする。陽が傾き始め、やがて地平の彼方に没した頃、ファルはようやくからくりに気付いていた。
遠くから、ぱたぱたとフリーダーが駆けてくる。夕食が出来たら呼びに来るように、事前に言っておいたのだ。彼女はファルを見つけると、嬉しそうに大きく手を振った。休日の彼女はエーリカの着せ替え人形と化していて、今日はあろうことか花の付いた麦わら帽子と、白いワンピースを着せられていた。これで歩く時の異常な隙のなさが無ければ、普通の可愛い女の子である。事実、宿の周辺の住人には、とても可愛がられていると、エーリカからファルは聞いていた。
「マイマスター・ファルーレスト」
「ん、迎えに来てくれたか。 今帰る準備をする」
「はい。 ……その木がどうかしたのですか?」
「そうだな、どうかしたのだ。 どうやらこの木のお陰で、私は新たな段階へと進めるかも知れない。 無論、修行は必要だがな」
自分を見上げているフリーダーの頭に手を置くと、帰り支度を始め、そして不意にファルは気付いた。太陽の沈んだ時間から言って、指定の刻よりまだ少し早い。フリーダーが時間を間違えると言う事は考えにくいから、何か呼びに来る用件があったと言う事だ。
「何があった?」
「お客様です。 エーリカ様が応対しておられますが、マイマスターにも是非来て欲しい、との事です」
「……分かった。 少し急ぐぞ」
荷物を背負うと、ファルは早速掴んだものを試しながら、少し急ぎで宿へと向かった。普通の子供なら付いていけないくらいの速さであったが、フリーダーは余裕の体で付いてくる。子供とは言え、とても頼りになる存在だった。
宿には既にあかりが灯り、冒険者達の話し声が聞こえ来ていた。ファルが戸を開けて中に入り込むと、入り口で待っていたエイミが、奥の空き部屋にファルを案内しながら言った。
「随分大変なお客様ですわ」
「国関係か?」
「いえ、そうではなくて。 先ほどまで泣いていて、エーリカさんがなだめてようやく落ち着いてくれましたわ」
「余程大変な事情らしいな」
部屋にはいると、既にエーリカが待っていた。客はポポーだった。以前何度か顔を合わせたこの豪商の娘に、ファルは実に逞しい者だという印象を抱いていた。今はその印象が百八十度変わった。憔悴しきった様子で、ポポーは席に着いており、目の前に置かれたコップの内容物も全く減った形跡がなかった。無言で空いている席にファルが腰を下ろすと、エーリカはポポーが俯いているのを見ながら、最小限の声で耳打ちしてきた。
「どうやら彼女の師匠が、アウローラと戦いに向かって、三日も音沙汰がないらしいの」
「ふむ……。 アウローラを探して彷徨いていればよいのだがな。 もしぶつかっていたら、誰であっても無事ではすまないだろう」
ファルの言葉に、エーリカは無言で頷いていた。アウローラの圧倒的な実力は、以前リンシアやテュルゴーから聞かされて知っている。通常なら二十秒ほどの詠唱を必要とする魔法を、瞬きの間に発動させる怪物である。コンデはかなり詠唱が早いほうだが、それでも一瞬で魔法を発動させるなどと言う芸当とは無縁だし、それはエーリカも同じ事だ。魔法のランクを最下級まで下げても、最低でも六秒はかかる。例え誰が戦いを挑んでも、仮に勝てたとしても、絶対に無事で済むわけがない。
聞いた話から推測されるアウローラの実力は、人類が勝てる限界と評されるグレーターデーモンよりもおそらくは更に上だ。ならば、魔神であっても、簡単には勝てないと言う事である。人類最強の勇者が、最高の武具に身を固めても、果たしてどうか。
「それでね、彼女の師匠、やっぱりウェズベル師みたいなの」
「……それでも難しかろう。 私も以前は勝てるのではないかと思っていたが、リンシアの話を聞く限り難しいと今では考えている」
「愚僧もよ。 ただね……」
その後に続いたエーリカの言葉に、ファルは少し体を浮かせていた。何でも、ポポーはギルドに仕事を頼んだし、大手の宿に幾つも話を持ち込んだそうなのだ。しかしアウローラの話を出した途端に、どの冒険者も首を横に振ってしまったそうである。
実際問題、アウローラに対抗しうる冒険者は、まだドゥーハンにはいないというのが、皆の共通した認識となっている。騎士団ですら、ようやく五層の安全を確保し、これから同階層の探索に乗り出す、というレベルの情況だ。冒険者の中にも、地下七層から生還した、と吹いているものが居る程度で、地下七層を日常的に探索しているという者は一人も居ない。最高の知名度を持つチームが、八層にそろそろいけるかも知れない、という噂があるが、まだ確認はされていない。以前シムゾンの傭兵団が八層で全滅して以来、其処を超えられた冒険者はまだ一人も居ないのである。にもかかわらず、にもかかわらずである。アウローラは地下十層を住処にしているという噂があり、それはあながち間違いでもない事を、様々な状況証拠が裏付けしている。特にその圧倒的な実力は、最も説得力のある証拠となっていた。
「……アウローラと戦うのは、まだ早いと私は思う」
声を殺さず、ファルは顔を上げた。隣では、エーリカが無言でファルの口元を見守っていた。
「しかし、ウェズベル師がアウローラと交戦する前に、依頼人を引き合わせる事なら、ひょっとすると出来るやも知れないな」
「ふむ、どうやら愚僧と同じ意見になるようね」
「他の皆は?」
「もう説得は済んでいるわ。 良し、決まった。 明日から、彼女のミッションを最優先にして動くわよ」
何か言い足そうにポポーが顔を上げたが、だが何も言わなかった。恐らく彼女としては、今すぐにでも迷宮に向かって欲しいのだろうと、自然にファルは悟った。だがそれは無理だ。まずポポーの話から、ウェズベル師に付いての情報を集め、ギルドでもそれに類する情報を出来るだけ拾ってくる必要がある。何しろ相手はアウローラである。準備はしてもしすぎると言う事はないのである。それに考えにくい事だが、ウェズベル師が地下十層にでも向かったのなら、流石に後は追えなくなってくる。後を追うのは、死にに行くのと同義だ。更に、きちんと情報を集めなければ、見当違いの所を右往左往する可能性が極めて高い。
「ゆっくり寝て。 貴方には、愚僧たちに同行して貰うから」
「……はい……だわさ」
「此処で待ち続けるのもつらいでしょう? 大丈夫よ。 出来る範囲で、出来る事はきちんとするから」
エーリカの言葉に虚偽はなく、華燭もまた無い。出来る事だけを告げた言葉であり、同時に無理な時は諦める事もそれは含んでいた。翌朝、ポポーは宿の広間で、誰よりも早く準備し、誰よりも気負って待っていた。
先日より、ギルドを通じて実験的に配布され始めたものがある。転移の薬と呼ばれるマジックポーションで、薄赤い液体である。小さな瓶に入っているこれを床に垂らして揮発させると、半径六メートル以内の生物を、着衣ごとカルマン迷宮の入り口特定地点へと飛ばすという代物だ。かなり便利であるが、六メートルから一歩でもでると輪切りにされてしまうし、魔物だろうが妖精だろうが魔神だろうが転移させてしまう為に、使用には細心の注意が必要である。昨日の探索でその効果を実感したファルのパーティは、今日もまだ使う者が少ない転移の薬を受け取って、ポポーを連れてカルマンの迷宮を訪れていた。
騎士団の入所審査を済ませると、迷宮へはいる。薄暗い迷宮の中を進んでいく。もう何度と無く往復した場所だ。最短のルートで一気に進み、魔物は出来るだけ避ける。交戦する事になったら、最短で済ませる為、むしろ力は惜しまない。地下三層を突破すると、そこは炎の迷宮地下四層。そしてポポーは、ごてごてと宝石が付いた杖を構えて言った。
「騎士団のコネから得た情報では、此処に師匠は来たはずだわさ」
「本当に間違いねえんだろうな」
「間違いないだわさっ!」
「確かに、アウローラは三層に現れた事もある。 此処に来てもおかしくはないはずだ」
興奮しているポポーをなだめながらファルは言う。実際問題、今まで見た所、ポポーは地下三層をうろついている冒険者くらいの実力はある。魔術師としては、そこそこの能力を持った存在としてカウントして問題ない。だが、こう気負っていては、却って足手まといになってしまう。事実エーリカは、後ろで何もしなくて良いと、何度もわざわざ念を押していた。援護攻撃も場合によっては善し悪しである。誤爆でもされたら味方が全滅するからだ。エーリカはフリーダーに、もし攻撃をしようとしたら、鳩尾に一発入れて黙らせろとまでこっそり指示していた。フリーダーは頷いていた。まあ、ファルでも同じ指示を受ければ、同じ事をするだけの事だ。当然の判断、当然の選択肢であった。
気負って周囲を見回しているポポーにも時々注意を払いながら、ファルは昨日気付いた事を頭の中で反芻する。あの葉が何故気配を感じさせなかったか。それは、要は(逆らっていない)からなのだ。
大気中にも魔力は多くあり、そしてそれは流れている。これの事を自然気ともマナとも言う。魔力視強化瞑想法を熱心に行ったファルは、それをうっすら視る事が出来るようになっていた。優れた潜在魔力を持つ魔術師ほどはっきり視る事が出来るわけではないのだが、それでも目的には充分である。
この流れは、兎に角敏感で、呼吸や移動でたやすく乱れる。そしてそれが第六感に働きかけて、気配を悟らせるのである。あの葉は形状等から、たまたま流れを乱さず地面に落ち、その結果気配をファルに悟らせなかったのである。実験で証明済みであるが、気配を殺している時、事実魔力の流れは殆ど乱れていない。ならば、その流れに逆らわないように動き、逆らわないように潜めば、更に効率よく気配を消せるのではないか。そうファルは考え、今色々右往左往しながら実行している所である。呼吸を工夫したり、歩調を工夫したり、色々やっているが、まだ手がかりは掴めていない。まあ、目標が出来たのが昨日の事であるし、これは流石に仕方がない。幾ら天才といえども、限界は当然あるのだ。
「打ち合わせ通り、西地区からさがしていくわよ」
「了解」
今までの探索の結果、殆ど自然洞の東地区に比べ、西地区は何かの建物の残骸らしきものが多く残っている事が分かっている。当然其処には、比較的大きな空洞や、中身が残っている大きな部屋が数多くある。もしも魔術師同士が決戦を行うのなら、東地区よりも此方の方が都合がよい。
溶岩が煮立っているT字路を抜け、更に進んでいくと、かっては石階段だったらしきものへと突き当たる。二十段ほど幅広いそれを登ると、もう正体が分からない建物の入り口へと出る。石造りのそれは、一度強烈な熱に当てられたため、為す術もなく崩れ、どんな色をしていたのか、どんな装飾があったのか、今では全く分からない。東地区は建物の残骸らしきものがある程度だが、こっちはこういう形で、明確に名残があるのだ。
ただ、当然の事ながら、マイナスの要素も大きい。建物の入り口から三部屋目で、招かれざる客人を古き家主が出迎えたのである。アースジャイアントより一回り大きい炎の巨人、ファイヤージャイアントであった。
巨人族はタフで知能が高く、魔物の中では間違いなく上級に属する存在である。アースジャイアントと地下三層で散々戦ってそれを思い知らされているファルのチームは、素早く隊形を組み替え、エーリカの指示と共に突撃した。
豊富な髭を蓄え、隆々たる筋肉を蓄えたファイヤージャイアントは、刃渡りだけで二メートルは超す巨大な斧を手にしている。身長は五メートルを超すが、これは部屋の天井が根本的に高いので問題ない。口からちろちろと漏れているのは、灼熱の炎だ。ドラゴン同様、この巨体はブレスを放出する事が出来るのである。魔法を使ってくる事はないが、なかなかどうして、隙のない存在である。
こんな階層に住んでいる事と言い、名前と言い、炎での攻撃はするだけ無駄だ。無駄どころか、生半可な火力では却って元気にさせてしまうだけである。故に、素早くコンデが組んでいる印は、冷撃系のものだ。同時に、率先して踏み込んだファルが、フリーダーの援護射撃と同時に躍りかかった。
フリーダーのクロスボウから放たれた矢が、二本連続して、巨人の腕と肘に突き立った。だが巨人は殆ど眉すら動かさず、斜め上からファルに斧を振りかぶる。薄い鎧なら余裕で貫通する矢も、巨人にとっては浅く肌に突き刺さる程度の代物に過ぎないのである。態勢を低くしたファルは、地面に着地すると、横に滑るようにして連続してサイドステップする。床が吹っ飛び、瓦礫がまき散らされ、濛々たる煙が上がった。
「ムウ……!」
薄い煙はすぐに晴れ、斧の下には何もない。ファルの方が巨人の腕より早かったのだ。巨人はそのまま斧を少し引き回転させ、真横から飛んできたロベルドのバトルアックスを防ぐ。同じ斧の柄でも、巨人のそれはまるで鉄の木幹だ。しかも巨人は防ぐ瞬間石突きを地面に突き立て、威力を殺す工夫さえしている。舌打ちしてバックステップするロベルドに対し、ヴェーラが素早いモーションから連続してハルバードを突き込む。それに対して巨人は一歩後退しつつ、斧をもう半回転させ、斧の刃を盾にしてハルバードを防ぎ、そして始めて顔中に苦悶を浮かべた。
ファルがいつの間にか背後に回り込み、アキレス腱を深々と切り裂いていたからである。苦悶の声を吐きつつ、無理に体をひねって斧を叩き付けてくる気力は凄まじいものがあるし、ファル自身の対応も遅れる。猛烈な一撃をファルはよけ損ねて、忍者刀を盾にして受けるが、六メートル近く跳ね飛ばされて受け身を取った。
「ファルさん!」
「問題ない。 予想の範囲内だ」
エーリカの叱責に、蹌踉めきながら立ち上がるファルは、まずは上々と内心で呟いていた。かなり打ち付けた右腕が痛いのだが、我慢出来る範囲内だ。それに致命傷も避けたし、大した事ではない。
実験的に試してみた気配消去攻撃は、攻撃を決めてから気配が露出してしまい、猛烈な反撃を受ける事にはなった。だが巨人はアキレス腱に致命傷を受けて片膝を付いており、ロベルドとヴェーラの、左右からの波状攻撃に手を焼いている。動きが鈍くなった以上、やはり左右からの連続攻撃に対処するのは難しい。気合いの声と共に、二人が繰り出したWスラッシュが巨人の腹筋逞しい腹をえぐった。呼吸を整えつつゆっくり立ち上がるファルは、まだコンデの詠唱が終わっていない事を確認、フリーダーに合図を送って再び走り出した。魔力の流れを乱さぬように、細心の注意を払いながら。この作業は、実戦で試してみた今よく分かったが、大変に難しい。何しろ殺気が漏れると、魔力の流れがただちに激しく乱れるのである。仕組みが見える今ではよく分かる。これでは第六感で関知されるのも、無理はない話であった。
影のように接近するファルの前で、巨人が大きく息を吸い込み、肺が膨らむ。ブレスを吐くつもりだ。慌ててヴェーラとロベルド、それに後衛の三人が散開し、それと同時にファルが巨人の体に取り付き、首筋に刀を突き立て、そのまま深く抉り切り裂きながら飛び退いた。悲鳴を上げる事も叶わず、巨人は虚空を掴むように手を振り回し、ブレスを天井に向かって吐きながら仰向けに倒れた。四層の原形を残していない建物を、巨人の転倒が揺動させていた。
「オ、オオオオ、オオオオオオオ!」
「残念だったの。 これで終わりじゃ!」
首筋から大量の血を流している巨人が、ようやく立ち上がろうとした時に。コンデが魔法協力で増幅された冷撃魔法を、容赦なく頭上へと降らせていた。
戦いが終われば、やはりリバウンドが激しい。さっき巨人に飛ばされ地面に叩き付けられた痛みは、相当なものであった。その上、巨人が倒れる際に振り回した腕に、ヴェーラと一緒に跳ね飛ばされ、此方は受け身が遅れて相当痛い目にあった。エーリカはきちんと見抜いていて、フリーダーと手分けしながら治療しつつ、ファルに耳打ちした。
「あまり無理したら駄目よ」
「分かっている」
「貴方はうちの主力なんだから。 貴方に倒れられたら、魔女アウローラを倒す事もかなわなくなるわ」
なるほど、これはリーダーとして相応しいわけだ。目を閉じて、ファルは素直にエーリカの事を凄いと思った。今は勝てないが、後で絶対に勝つつもりなのだ。ファルはまだまだ自分のみを高める事を考えていて、しかも最終的なビジョンはまだ曖昧なままだ。高みを目指すという事は考えているのだが、それの具体的な定義がまだ出来ていないのである。エーリカは遙か遠くを見据えた上で、地盤を固めつつ戦っている。何というか、指導者としての器は、相当に大きなものがある。乱世に生まれていたら、いやこれからでも、後に英傑として名を残す事が疑いない大物であった。
治療が済み、戦いが完全に終わった。巨人の死体をしばしおどおどと見やっていたポポーは、歩き始めたファル達に釣られて慌てて走り出し、つんのめりながらついてきた。軽石が彼方此方に転がっていて、壁には冷えた溶岩がこびりついている。また、冷えずに流れている溶岩もあり、部屋の温度は慢性的に高い。そんな中、小さな蜥蜴の一種が、壁をちょろちょろと這っていた。高名なサラマンダーの幼生だ。ちなみに、成体はこの程度の熱では満足出来ないので、ある程度大きくなると別の所へ行ってしまうらしいと、ファルはギルドで聞いていた。なかなか驚異的な生物である。
入って暫くした所に、騎士団の詰め所がある。四層の詰め所は全部で四カ所。三層に比べて少ないのは、危険すぎて維持出来ないからである。実際問題、ジャイアントが平然と彷徨くこの階層の危険度は、騎士団と言っても無視出来ない。数度の戦いを経て分厚い結界に守られた詰め所にはいると、まずポポーが詰め所の守備隊長につめより、問いただすようにして聞き始めた。最初は渋っていた中年の隊長は、やがて業を煮やしたポポーがVIPの証である金勲章を取り出すと、嫌々ながら言った。
「ウェズベル師は、確かにいるよ」
「何処だわさ! 隠さずにいうだわさ!」
「……はっきり言って気が進まない。 あんたらも武人なら分かるだろ? 決死の覚悟をして、何かをなす為に戦いを選んだ者を止められるか? 止められたとしても、俺は止めたくない」
「ごちゃごちゃ五月蠅いだわさ! あいにくアタシは武人じゃなくて商人だわさ! 商人に命より大事なものなんてないんだわさ! もしこれ以上渋るつもりなら、アンタを左遷させてやるだわさ!」
「なっ……!」
流石にむっとした様子の隊長が立ち上がるのを、副官が後ろから押さえる。また、食ってかかろうとするポポーを、子猫でも摘むように片手で押さえながら、エーリカは発言を代わった。側でははらはらしながらドゥーハン騎士が、無表情のままサンゴート騎士が、やりとりを見つめている。
「何にしても、よ。 愚僧たちは、ウェズベル師に会いたいっていうこの子の希望を叶えたいだけよ。 それ以上は、この事ウェズベル師に任せるつもりよ。 だったら、それは武人だ商人だ関係無しの、個人同士の問題でしょう?」
「ふうむ……そうだな……それなら」
やがて、隊長はぼそぼそと、少し納得出来ない様子であったが言った。
「ウェズベル師は御供と一緒に四層と五層を行ったり来たりしながら、魔女が来るのを待っているらしい。 トラップやブラフは関係無しに、正真正銘の真っ向勝負を挑む気らしいな。 多分、あの気合いの入りようからして、何か理由があるのだろうな。 無論我らは協力を申し出たが、拒否された」
今、そんな勇気を持つ者が世界の何処にいる。隊長はそう付け加えた。確かにその通りである。だからこの騎士は、ウェズベルを止めたくないのであろう。そして、心からその勝利を信じている事は疑いない。
ファルにはポポーの気持ちも、この騎士の気持ちもよく分かる。エーリカの方をちらりと見ると、彼女も笑顔のまま頷いてくれた。手助けするのは、会うまでだ。それ以上の事は、個人の問題であって、他人が顔をつっこんで良い問題ではない。
「五層までなら、無理すれば何とかなるかも知れないわ」
「そ、そうだわさ! 早く、師匠に会いにいくだわさ!」
「会いに行くまでは助けるわ。 でもね、それ以上は愚僧たちの知った事じゃない。 ここに来る前に言ったとおりにね。 それは訂正しないわよ」
ポポーはそれでも構わないと言った。騎士の願い同様、少女の決意も本物だった。ならば、どちらが正しいと言う事はない。どちらも正しいのである。少なくとも、主観的には。完全な客観というものが存在しない以上、後は何でそれを判断するかは、個人の嗜好に関わってくる。無論法で判断するも良いが、法などと言うものは社会によっても時代によっても異なる事を忘れてはならない。
「行くわよ」
エーリカが顎をしゃくると、無言で頷いて、皆後に続いた。この先に進めば、何か引き返せなくなる気がした。だが、誰もそれについての言葉を発しようとはしなかった。
3,頂上決戦
ウェズベルがアウローラと最初に会ったのは、もう五十年も前の話だ。魔力だけ強い若造だった彼は、その絶望的なまでの美しさに魅せられた。同時に、超絶的な破壊力に恐怖した。二つの感情は絶大で、圧倒的なものだった。今までの彼の価値観を全て打ち壊し、心の指向をそれへと向かわせる程に。負の意味であれ、その時ウェズベルは、魔女アウローラに惚れたのである。
彼のような存在が他に出なかった理由ははっきりしている。戦って生き残れないからである。たまたま潜在能力だけでも生半可ではなかったウェズベルだからこそ、戯れに魔女は見逃してくれた。冒険者として彼は仲間達と共に魔女へ挑み、そして一人だけ助けて貰ったのである。完全な興味からの行動で。普通なら恨む所なのに、そうしなかった。ウェズベルは本能的に悟っていた。魔女が、笑顔の裏に、深い悲しみと憂いを秘めている事に。惚れたが故に、生き残り、瓦礫の中から救助された時、ウェズベルは決めた。何時か必ず、あの魔女を救うのだと。
彼が戦う前、アウローラは決まった名前を持っていなかった。それまでは自身を(古きもの)と呼んでいた事だけが知られている。人間は魔女を好き勝手に呼んでいたが、それに定名を作ったのがウェズベルだった。ウェズベルは魔女をアウローラと呼ぶようになり、世界最強の魔術師の言葉が故、それは世界に浸透していった。いつ頃からか、魔女は自分をアウローラと呼ぶようになり始めていた。戯れだったのか、気紛れだったのか、それは誰にも分からない。だがある意味、ウェズベルの思いは魔女に通じていたのである。ウェズベルは、とある王国に現れたアウローラが、ドラゴンを捻り殺した後に村人にそう名乗ったと聞き、思わず涙腺がゆるんだ事を、今でも良く覚えている。
結婚もし、子供が出来ても、アウローラへの情熱は衰えなかった。妻は出来た人で、ウェズベルを良く理解してくれた。だが彼女も心の底では悲しんでいたのだと、老魔術師は知っている。妻にはつらい思いをさせたと、ウェズベルは後悔もした。だが、魔女への思いはそれをも超える強いものだった。
魔女を研究していく過程で、うごめくものへの知識も増えていった。古代ディアラントを滅ぼした謎の存在。魔神とも、その王とも、異界の神とも言われているその存在。歴史の彼方此方に登場し、破壊と破滅の代名詞となっている者達。魔女が、それを憎んでいる事を、いつ頃からウェズベルは気付いたのだろうか。様々な魔女の足跡を追っていくと、誰よりも魔女の事を知っていくと、足跡や、言葉や、行動や、それに軌跡から。いつしかそれがおぼろげに見え始めていた。同時に、彼女が抱えている業も、である。それはウェズベルが抱えている業と、近くて遠いものだった。妄執は、心強きものや、心険しきものが持つ、宿業であると言っても良かった。
見かけの年齢が随分はなれてしまった今も、ウェズベルは魔女に思いを寄せていた。そして、思うが故に、今は戦って勝ちたかった。それが宿業から魔女を解き放てると思えば、なおさらだった。例え腕をもがれようと、背骨を折られようと、悔いはなかった。苦しめ続けてしまった妻はもう死んだ。子供達も皆独立した。死によって宿業から開放されたら。地獄ででもあの世ででも、妻に尽くしてあげたい。それが老人の今の願いであった。
連れてきている二人は、相当な手練れである。魔女が何を連れてくるかは分からないが、前衛としての仕事をきちんと果たせるだろうと、老人は期待していた。魔女の実力は、今でも一対一でどうにかなると思えなかったが、しかし勝算はあった。伊達に今まで技を練り上げてきた訳ではないのである。魔力のぶつけ合いであればどうやっても勝てる見込みはなかったが、スキルに関してなら、ウェズベルには奥の手が幾つもあった。
うごめくものについては、全ての知識をポポーに授けてある。魔法技術に関しては、弟子達に分配して知識を渡して置いた。彼が死んでも、跡を継ぐものは大勢居るし、その準備は既に整っている。やるべき事を全てやったからこそ、ウェズベルは此処に来たのである。自分の人生との、決着を付けに。
魔術師が何度も適当な場所を移動して回っていたのには理由がある。通った部屋には必ず魔力を放つ石を置いて、痕跡を残していったのである。もっと知的ではあるが、例えるなら動物で言うマーキングに近い行動であった。やがて、その努力は実を結んだ。
地下四層の最深部に、幅奥行きが二十メートルほど、高さにして十メートル強の大きな空間がある。始めから、ウェズベルは此処を決戦場に選べたら良いなと思っていた。その願いは叶った。五層から帰還した彼が、手を横に差しだした前衛二人と同時に足を止める。三人の視線は、部屋の奥に佇む、二つの影に注がれていた。
「だいぶ腕を上げたようね、坊や」
「伊達に五十年、時間を過ごしたわけではないでな」
「私に名前をくれてありがとう。 それに関しては、素直に感謝しているわ」
「そうか、それは嬉しい言葉だ。 ……さて」
ウェズベルが杖を構え直し、前衛の二人が抜剣する。侍はコロウタ、騎士はオウズと言う。どちらもユグルタ最強をうたわれる冒険者で、兄弟であるため、とても息が合っている。ちなみにオウズが兄で、弟とは三歳違いだ。
魔術師にとって天敵といえるのが、前衛の存在だ。良く冒険者の間で言われ、半ば常識と化している言葉に、こんなものがある。
「ベテランの魔術師一人は、オーク一匹にも勝てない。 有能な前衛が居る素人の魔術師は、ドラゴンにも勝ちうる」
むろんこれは極端な例えなのだが、実際問題、壁となる前衛がいない魔術師はとても非力なのである。魔法は呪文詠唱を行わないと発動せず、唱えている間は全くの無力。一般人が夢想する万能の存在魔法戦士というものが、ベテランの冒険者には鼻で笑われるのもその辺に理由がある。侍にしても騎士にしても魔法の修行はするが、それは前衛で使うのではなく、休憩時に味方をサポートしたり、怪我などをして後衛に下がった時に用いるのである。体術や接近戦闘術を鍛え上げる事でその弱点を克服しようとするものもいるが、そうするととても中途半端な存在に仕上がってしまう。結局、どちらかを主体に鍛えるしかないのである。ただ、あくまで例外として、超絶的な頭脳と才能で、前線で魔法戦士として戦い続けた者も実在はした。詠唱によって隙はできるが、それを克服して、前線で魔法を生かして戦い抜いた女騎士も歴史上存在した。だが、それらは並の人間に出来る事ではない。あるいは、魔法のシステムが完成している世界や、詠唱の短縮が完成している世界ならそれも可能かも知れないが、このベノアで魔法戦士は立場が弱い。
視れば、アウローラも、前衛に大柄な者を連れている。ウェズベルが眉をひそめ、博識な頭脳から正体をすぐに割り出した。
「リズマンか。 ベノアでは非常に珍しい存在じゃな」
「ほう。 俺を魔物として認識しなかったヒューマンは久しぶりだな」
リズマンはかなり低い態勢で、ウェズベルも見た事のない長柄武器を構え、じりじりと間合いを取ってくる。強い。一目でウェズベルはそれを見抜いた。前衛の二人で何とか押さえられるか、微妙な所だ。しかしこれ以上壁を増やしても、魔女の前には意味がない。おそらくアウローラも、あのリズマン一人で充分前衛の近接攻撃を防げると判断したから連れてきたはずだと、ウェズベルは推測した。それに老魔導師は、二人を信頼すると、もう決めていた。
「さあて、始めましょうか?」
「うむ……」
二人の間に、余計な言葉は必要なかった。わざわざ今更、戦う理由など、確認するまでもないのである。アウローラは試したがっている。強い人間を捜している。ウェズベルは、そんなアウローラを救いたがっている。自分の強さを示す事で。
開幕は意外に静かだった。魔女の手の上に、いつの間にか激しく光を放つ、魔力球が出現していたのである。早すぎる。詠唱はしたはずなのに、まるでそれに気付かなかった。ウェズベルが慌てず、落ち着いた様子で印を切る。鞠でも放るように、魔女が光を戦場へと投げ入れた。
爆発が巻き起こり、壁がそれを防いだ。パーツヴァルには其処まで分かった。壁は氷で出来たもので、爆発によって半壊しているが、威力そのものを殺せたのだから役割は果たしたのである。今までの木っ端共とはだいぶ違いそうだと、リズマンの戦士は舌なめずりした。当面、彼の仕事は、敵の接近戦戦力を迎撃殲滅する事だ。
「チェエエエストオオオオオオッ!」
威勢よいかけ声と共に、大上段に振りかぶった侍が突撃してきた。体を軽く後退させ、方天画戟を旋回させ、弾きつつ相手の胴を狙う。ほぼ同時に、逆方向から打ちかかってきた騎士が、刃を寝かせて突き込んできた。パーツヴァルは回避が遅れた侍を戟の柄で弾くと、ぐるんと体を回転させ、筋肉の固まりを騎士のプレートメイルに叩き込んでいた。強烈な破砕音が響き、息を吐いた騎士が蹈鞴を踏んで下がる。回し蹴りではない。太く強靱な尻尾での一撃だ。
「無論これは余裕からだが、はっきり言っておいてやろう」
破砕音が、変質した四層の床を、ついで壁を叩いた。パーツヴァルが自慢の尻尾で、石畳を真上から叩き砕いたのだ。驚きを湛えるヒューマンの武人共に、たてがみを揺らし、口を半開きにしたままリズマンの誇り高き勇者は言う。
「俺にとって、後ろは死角でもなんでもない」
「むっ、おのれ化けものめ……!」
ヒューマンの口からその罵倒を聞いたのは珍しくもない。失笑すると、態勢を低くして、今度はパーツヴァルから敵へと突貫していった。
アウローラが舞うように回転しながら、次々と大威力の魔法を打ち込んでくる。爆発は連続して起こ……らない。多少遅れてはいるが、ウェズベルがいちいち的確な対抗呪文を唱えて、ほとんど威力を相殺しているからだ。いや、相殺しているように見えた。
「へえぇ、たいしたものね」
「本気を出せ、アウローラ」
魔女が投げたナイフをあっさり杖で弾き落としながら、最強の魔術師は言う。だが、その表情に余裕はない。あろうはずもない。ウェズベルは、余裕綽々で魔法を放ってくるアウローラに、何とか追いつけている、という状態に過ぎない。だが、これも計算の内なのだ。最初から、レベルが違うのは分かり切っているのである。
「そう。 じゃあ、お言葉に甘えて。 p;sajdf0p:asohsdhsd……」
ごく短い詠唱を、アウローラが行い、右手を高く天へと掲げる。聞き慣れない言葉だが、そんな事に気を裂いている暇はない。次の瞬間。今までのものとは比較にならない光量が、彼女の手の上に具現化していた。おそらくこれは爆発系攻撃魔法メガデス。通常の魔術師なら、詠唱に一分近くを費やす最強魔法の一角だ。同時に、杖を少し斜めに構えていたウェズベルが、縦に構え直す。そして強く握りしめると、光のアーチが、杖の先端と末尾を結んだ。極短い詠唱を連続して続け、手の中に光の矢を作っていく。
これが、ウェズベルの切り札の一つだった。
アウローラと戦う為に、ウェズベルは魔法というものを徹底的に研究し尽くした。何故、魔力を火や水や氷に変換出来るのか。言霊とは一体何なのか。
魔法は技術レベルでは解析されてはいるが、その根元についてはまだ殆ど分かっていないのが現状だ。ウェズベルはそこに焦点を当て、学会に名が残る発見を幾つもした。魔法をただ知り尽くしているのではなく、根元的次元から知っている存在が彼なのである。だが、研究の目的は、別の所にあった。本当のところウェズベルは、如何にして魔法をうち破るかという研究を、熱心に続けていたのである。それはある意味、魔術師という存在自体に対する反逆行為とも言えた。そしてその背徳行為の結果、彼が出した結論こそが、これであった。すなわち、魔力の極限圧縮である。
「いけええいっ! フォース・オブ・グングニル!」
太さ五センチほどの光の矢は、老魔術師の気迫と共に飛ぶ。そしてそれはアウローラが投擲したメガデスの光球を、いともあっさりと貫通していた。
激しい金属音がひびく。競り合い、弾き、踏み込み、跳ね飛ばす。連携して左右からパーツヴァルを攻め立ててくる侍と騎士は、良く戦っている。あくまで、いままで戦ったヒューマンやドワーフに比べれば、の話であるが。ほぼ左右から同時に突き出された二本の刃を、一方は戟で受け止め、もう一方は手甲でくい止める。均衡状態は一瞬。尻尾を振るって、戟で押さえていた侍を叩き飛ばし、浮き足だった騎士に跳躍しつつの前蹴りを叩き込む。顎にクリーンヒットした蹴りは、騎士を数メートル軽々吹き飛ばし、地面に叩き付けていた。
「……ほう」
パーツヴァルの口から、素直に簡単の言葉が漏れていた。まさか、アウローラのメガデスを貫通する魔法を操る者がいるとは。鼓膜を爆砕音が乱打し、舌打ちしてリズマンは一層低く臥せる。やがてそれを凌ぐと、ふらつきながら立ち上がる二人を交互に見やった。
「どうした、それでもヒューマンの誇る勇者か?」
「だ、黙れ……!」
「見ろ、今のでアウローラは滅びた! 貴様らの負けだ!」
「それは無い」
圧倒的な信頼が、言葉の形を取って、パーツヴァルの口からはき出された。もう一度戟を一回転させて構え直すと、リズマンの戦士は、そろそろ戦い飽きてきた相手を挑発した。
「とろとろ攻めていないで、いい加減本気を出してこい。 飽きて来たぞ」
「ケダモノが……いい気になっているのも今の内だ!」
自分たちも他の種族から見ればケダモノ同然の所行を山ほどしている事を棚に上げ、騎士が立ち上がる。侍と頷きあい、二人は距離をおいて、慎重にパーツヴァルの周囲を摺り足で回転し始めた。その速度は徐々に上がり始め、小さく感嘆の声をリズマンは漏らしていた。強い敵と戦う事は、彼の喜びであった。この状態から如何なる技を繰り出してくるのか、興味が尽きないのだ。
「ほう?」
二人は完全に当速度で回っている。輪は徐々に狭まってきたかと思うと、不意に広がり、変化を常に見せている。パーツヴァルは目を細めると、深く深く大地を踏みしめ、地面すれすれに戟の刃を構え直す。そして、変化は急激に訪れた。
ぎゅんと、凄い音がして輪が縮まる。気合いと共に、侍が横殴りの一撃を叩き付けてくる。伸び上がるように刃を延ばしたパーツヴァルが、それをくい止め、そして、今日の戦いで始めて苦痛の声を漏らした。
「がっ!」
音もなく跳躍した騎士が、いつの間にか背中に刃をうち下ろしていたのだ。なるほど、回転は不意に攻撃パターンを切り替える為の布石だったのである。分厚い刃はパーツヴァルの鱗をも叩き砕き、肉へと食い込んでいた。そのまま、侍が戟の柄に刃を滑らせ加速し、動きが止まったパーツヴァルの顔面をつこうと狙ってくる。だが、その刃がリズマンの顔へ到達する事はなかった。
「おおおおおおおおおおっ!」
戟を持つ左手を離し、右手を持ち上げ、突き込まれてくる刃を顔からそらす。そのまま片手を地面につき、手足三本のバネを生かして、下から見上げている形になった侍の顎へと、パーツヴァルは食らいついていた。べぎいと言うのは、骨が砕けた音だ。顎の骨が粉砕され、顔面が変形した侍の首を、そのままパーツヴァルは力任せにもぎ千切っていた。
濛々たる煙の中、アウローラが傷つき片膝をついていた。彼女を傷付ける事が出来た人間は、有史以来ウェズベルが始めてである。大きく肩で息をつく大魔術師は、呼吸を整えながら、更に弓と化している自らの杖に魔力を集中させた。もう限界が近い。しかし、此処で引くわけには行かなかったのである。
魔力の極限圧縮。本来魔法というものは、魔力を自然あらざる存在に変換させる為か、とても密度が薄いのだ。火炎系の魔法は、熱量こそ高いが、溶岩等には到底威力で及ばない。冷撃系の魔法で作り出した氷柱も、数千年をかけて堆積した氷河の前では、紙のような強度だ。ウェズベルは魔力を究極まで圧縮する事で、それを貫通し、うち破る術を考え出したのである。後に彼の思想を取り入れ、魔法は長い時間を掛けて全般的にゆっくり強化されていくのだが、それはまた別の話である。
「なかなかやるわね。 見事だわ」
「今、勝たせて貰うぞアウローラ!」
ウェズベルの手に、実に五本の光の矢が具現化する。アウローラは首を横に振り、小さく肩をすくめて見せた。老魔術師の最終奥義、フォースオブグングニル完成型。個体攻撃を狙いとした魔法の中では、文字通り世界最強のものである。このまま叩き込めば、頑強な事で知られるポイズンジャイアントすら間違いなく一撃で屠り去る。だが魔女は笑っている。静かに微笑み続けている。やがて、老魔術師は、渾身の一撃を撃ち放った。
4,深き深き絶望
この魔女は、一体どれだけの時、業に蝕まれてきたのだろう。呆然と立ちつくし、ウェズベルは考えていた。
破れた。彼の最終奥義は、無惨に敗北した。アウローラは完成型フォースオブグングニルに対し、同じく圧縮した魔力球を五つ、瞬間的に発生させてぶつけ、指向性をそらしたのである。結果、アウローラのすぐ側の壁、床に、巨大な穴が五つ空いた。結果はただそれで全てだった。
まだまだアウローラは余裕綽々である。それに対し、ウェズベルにはもう、殆ど魔力も残っていなかった。
破れた要因は分かっていた。アウローラが、老魔術師が想像しているよりも遙かに年を重ねていた、という事だ。でなければ、五十年かけて練りに練った術が、こうも簡単に破れるはずがない。同様の術を見た事があり、知っていたからこそ出来たのだ。そうでなければ、今の詠唱及び魔術構築は、説明が付かない。一撃一撃の威力は確かに勝っていたが、そんな事は何の慰めにもならなかった。
「……失礼を承知で、聞いても良いか?」
「なあに?」
「御身は一体、何年の齢を重ねているのじゃ?」
「今年で七千百三十六年になるわ」
その年齢に、ウェズベルは思い当たる節があった。そして彼の頭の中で、この時全てのパズルが組合わさったのである。
「……そこまでに、強力だというのか」
「私でも、ましてや貴方では、絶対に勝てないほどにね」
「そうか……」
老人の心を、深い深い闇が、浸食していった。それは究極的なまでの絶望であった。どうにもならない。少なくとも彼には、どうしようも出来ない。その現実は、嫌と言うほどにクリアだった。
その部屋にファルが足を踏み入れた瞬間、大きなものが吹っ飛び、天井近くの壁に突き刺さった。それは全身の穴から血を流して死んでいる騎士だった。まるで巨大な蠅叩きで壁に叩き付けられたように潰れた騎士は、ずるずると落ちていった。それを為した存在は、蜥蜴が二本足で立ち上がったような者は、一瞬だけファルと視線を合わせると、ふんと鼻を鳴らし、びっこを引きながら部屋の奥に立ちつくす二人の方へ歩いていった。ファルは部屋に入ってきた皆の前で、手を横に出した。戦うな、と言うサインだ。
今の蜥蜴男は、手負いではあったが、その戦闘力はファルを軽く凌ぐ。六人がかりで総力戦を挑んで、ようやく倒せるか倒せないかというレベルだ。更に、その奥に控えている者の実力と来たら。エーリカも即座にファルと同じ決断を出し、総員停止を命令した。
「御苦労様、パーツヴァル」
「何、易い用だ。 それに、今回は充分楽しめた」
奥にいる一人は若い娘、一人は老人。声を上げようとするポポーを、後ろからフリーダーが羽交い締めにした。正体は分かりきっているし、割り込める雰囲気ではない。特に娘の方は、話を邪魔されたら、即座に攻撃魔法を飛ばして来かねない。
やがて、話は終わったらしく、娘、魔女アウローラは迷宮の奥へと歩き消えていった。その途中、ファルらに視線を向ける。両者の視線が、一瞬だけ交錯した。ファルは戦慄を覚えていた。何か得体の知れないものが、少なくとも人間ではないものが、其処にはいたからである。相手は傷ついていたようだが、それでも勝てる気がしなかった。見かけは軽傷だったが、実際にはかなり痛いはずだ。手負いと言っても良い。なのに、まるで勝機は見いだせなかった。
部下を失った老人は小さく嘆息すると、死人のような目で、魔女の去った後を眺めていた。エーリカが目配せし、フリーダーがポポーを離す。ポポーはつんのめりながら、最大限の速度で老魔術師へ駆け寄っていった。ウェズベルは、緩慢に弟子へと振り向いた。
「せんせー、せんせーっ!」
「愚か者が。 何故来た」
「だって、あたし、先生が、先生が死んじゃうって思っただわさ! あたし、先生に、絶対死んで欲しくないだわさっ!」
「誰が来ようと、何が説得しようと、わしは魔女と戦った。 そして……結果は見ての通りだ」
魔術師ウェズベルは部屋を見回した。そしてポポーを振り払うと、ふらふらと、どこへもあてない様子で歩き始めた。ポポーはそれを追おうとした。だが転び、起きあがれなかった。慟哭が、戦い終わった広場に響き続けていた。
「見た? あれが倒すべき敵よ」
ポポーにはフリーダーを付けて置いて、エーリカが仲間達を見回す。何処か叱咤するような声に、首をすくめたのはヴェーラだった。
「何と言う事だ。 あのウェズベル師が、かすり傷しか付けられぬとは。 正に悪鬼魔道を極めた存在だな」
「放っていた魔力も、とんでもないものじゃったのう。 恐ろしいのう。 とても勝てる気がせんの」
「そうね。 今は、まだ勝てないわ」
フリーダーが差し出すハンカチで、ポポーが鼻をかんでいる。これでは、ウェズベルの言葉通り、仮に戦いに間に合っても、結果は同じであっただろう。契約は失敗したわけだから、今回は料金を貰えない。だが今は、正直それどころではなかった。
ファルは途轍もない強さを、あの魔女に感じた。皆の表情からも、それが錯覚でなかった事は見て取れた。魔女は強い。少なくとも、現在人類の中に、魔女に勝てる者は存在しない。
「強くなるわよ、みんな」
「おう。 まあ、なんだ。 目的が見えた事で、少しはやりやすくなってきやがったしな」
「そうだな。 まだ果てしなく遠いが……」
ファルはそこで言葉を切り、魔女が消え、老魔導師が歩き去った方を眺めやった。心の中で、たけき女忍者は、小さく呟いていた。
「いずれ、超えてやる」
まずは、特殊奇襲攻撃の完成が急務だった。攻撃後に反撃を必ず貰っていたのでは、命が幾つあっても足らない。まだまだ、やらなければならない事は、幾らでもあった。
「……そうね、まずはその人達を葬ってあげましょう」
エーリカの言葉に、皆がいそいそと亡骸を片づけ始める。やがて落ち着いた様子のポポーは、フリーダーに肩を借りながら、それを手伝い始めたのだった。
全き絶望に囚われたウェズベルは、地下五層を、振り子のように揺れながら歩いていた。迷宮に入った時の覇気は既に無く、視線も一定していない。若き時だったら、あるいは耐えられたかも知れない。しかし今はもう、心身共に現実に耐えられなかった。
もうどれほど歩いたのか、何処を歩いているのかも分からなかった。いつの間にか景色は移り変わり、青黒い不思議な建物が周囲には建ち並んでいた。
「アウローラ」
愛しき者の名が口をついて出た。老魔術師の精神は錯乱し、捻転し、暗がりの中をのたうち回っていた。しっかりしていた頭脳は、一瞬の間に霧を被せられ、年以上に老け込んでしまっていた。何度も魔女の名が口から漏れる。やがて老魔術師は、幻覚を見た。
アウローラだった。笑顔を浮かべて、彼に手招きしている。まともな判断力を無くしている老人は、それへ引き寄せられていった。そして、本能の赴くまま、その華奢な体に手をさしのべていた。魔女の笑顔は、何とも安らいでいる。幸せそうである。それは、ウェズベルが五十年間、ずっと望み続けてきたものだった。
「ぐ……うぐっ……!」
やっとその時、精神を痛みが蹂躙した。だが同時に、押さえきれない幸福感が、体の全てを包んで行く。呼吸が駄々漏れになり、口の端から涎が伝った。涙がこぼれ落ち、膨らんでいく老魔術師の体を伝っていった。血管が膨張してはぜ割れ、肉が裂けて飛び散り、骨が砕けていった。
「あ、あ、あうろ、ら……ひ……ひひ……ひっ……わ……し…………は……」
最後の言葉は、もう言葉になっていなかった。
老魔術師は、世界最強の魔術師ウェズベルは、内側からはぜ割れ、死んだ。
ピンク色の肉片がうごめき、寄り集まり、形を為していく。ラスケテスレルよりもずっと小さい、だが形を為すスピードは速い。周囲に積もっている肉も、比較的少なく、だが高品質だった。うごめくものが誕生しようとしている。見る者次第では、それをすぐに悟ったであろう。
「お、おお、おおおお、お……」
為されていく形は、人のものだった。額に第三の目を持つ、ヒューマンの青年、それも嫌みなまでに美しい青年だった。まるで芸術家が彫り上げたような完璧な筋肉が、うごめきながら構築されてゆく。焦点が合っていなかった目は、やがて遠くから、近くへと視線を移していった。肉体は、程なく完成した。
近くにあった幾つかの服の中から、自分にあったものを身につけると、青年は不敵に笑った。このものの名はオルキディアス。まだ完全に力は取り戻してはいないが、恐るべき存在うごめくものの、まごうことなき一柱であった。
5,一筋の光
魔女がパーツヴァルに肩を借りながら、地下十層の自室にたどり着いた時、ドアの向こうからひそひそ声が聞こえていた。小さく嘆息するアウローラに、彼女の騎士が、小声で囁きかける。
「だいぶ痛い目にあったな、アウローラ様」
「ふふ、あの坊やがあそこまでやるとは思わなかったわ」
アウローラの脇からは、鮮血が伝っていた。老魔術師の渾身が一撃は、最強の魔女を傷付けていたのである。魔女は油断していなかった。老魔術師が、如何に凄い事を成し遂げたのか、魔女のみが知っている。
「ところで、あの若い娘だが」
「ええ、大した物だわ。 私の負傷に、一人気付いていた」
「調べてみたが、あの者達が、ラスケテスレルを屠った。 正直、あの場で顔を見たのは驚きであったが、実力を考えれば無理もない事だったのだな」
ドアを開けながら、アウローラは小さく息を吐いた。今までも、ラスケテスレルを倒す事が出来た者はいたのだ。だが、それ以上の高みにまでは、誰も登れなかった。
「あ、アウローラ様。 おおおお、ひゃっひゃっひゃ、随分手ひどくやられましたなあ」
「回復までそう時間は掛からないわ。 で、何が起こったの?」
「どうやらオルキディアスめが、現世に具現化したようですぞ。 ひゃっひゃっひゃ」
アインバーグの言葉に顔を上げたアウローラの瞳が、強烈な殺気を宿した。パーツヴァルが席に座らせ、部下達を集める。それを制止した魔女は、僅かに俯いていた。
「今回は出ないわ」
「うん? どういう事だ? 今なら絶好の好機だろうに」
「決まっているでしょう? ……試させて貰うわ」
ざわつく部下達から視線を外し、アウローラは先ほどの娘の事を考え始めていた。孤独な目をした、だがとても真面目で義理堅そうで、何処かねじが外れていそうな、面白そうな玩具を。
「そういえば、地下五層を人間共がそろそろパイプとして確保しそうですぞ。 既に精鋭は地下六層の探索を始めている様子ですが、いかがしますかな?」
「其方は放っておきなさい。 契約通り、向こうから勝手に上手くやるはずよ」
「……承知しました」
其方には殆ど興味も無さそうに即答した魔女は、やがて手当を部下達にさせると、頬杖をついてうたた寝を始めた。部下の誰かが、そっと毛布を掛けていた。
「此処は……!」
地下六層へ到達した騎士団長ベルグラーノは、思わず目を見張っていた。彼を驚かせ困惑させたは、人間が作ったにしてはあまりにも整いすぎた建物の数々だった。まるで数百年もヤスリで磨き上げたように青く輝く壁。曇りなど全くない透き通った窓。何処から集めてきたのか、完全に同じ間隔で列ぶ石畳は、全く同じ大きさで、薄く青く発光している。異世界に紛れ込んだ錯覚すら覚えた彼は、博識で知られる部下に問いただしていた。
「これは、人のなせる技なのか?」
「わ、わかりません。 小官には、これらの材質すら見当もつきません」
「やはり、噂通り、ディアラント遺跡でしょうか。 かの場所は例え朽ちて居ても、あまりにも整然としていると、私は冒険者達から聞いています」
困惑する騎士団長に、選抜メンバーに選ばれたリンシアが言う。小柄な彼女の意見に、髭を綺麗に剃っている(故に若造扱いされる原因となっている)尖った顎を撫でると、ベルグラーノは周囲へと視線を這わせる。
確かにこれは全く存在の見当がつかない場所だ。だが、だからといって伝説に結びつけてしまうのはあまりにも早計に過ぎる。軍人として、常に現実的な思考をする訓練を受けてきたベルグラーノは、早速調査をするように部下達に命令し、自身は今後のプランを練り始めた。
ウェズベルが倒されたという事は、もう彼の耳にも届いている。ショックな事だったが、同時に予想がついていた事でもあった。老魔術師の出陣の風景を聞き、あり得る事だと思ったからである。だから、心の準備は既に出来ていた。彼は黙祷し、偉大な魔術師の死を悼むと、すぐに魔女打倒に頭を切り換えた。そして、今探索を行っているのである。
「……そういえば、魔女を目撃して生還した冒険者共は、かって貴官を助けた者達と同一人物だそうだな」
「あ、はい。 エーリカという僧侶に率いられた六人組です。 特に優れているのは、忍者という職業の、ファルーレストという女性で、騎士団の中に入っても全く周囲と遜色がない腕前です」
「また忍者かっ!」
「は、はいっ!?」
「い、いや、なんでもない。 忘れてくれ」
吃驚してすくみ上がったリンシアを残して、騎士団長は一際高くそびえ立っている建物へと歩き出した。王都にあるどんな建物よりも、この地下の巨塔は大きい。作ったのはただ者ではないと、存在だけで、彼にも充分悟らせた。
「リンシア」
「はい、何でしょうか」
「その冒険者達と会えるようにしておいて欲しい。 魔女の情報は少しでも仕入れておきたい」
彼が図らずもオルトルード王と同じ事を考えたのは、何の偶然だったのか。リンシアはぱっと顔を喜びにかがやかせると、すぐに軍人の顔に戻り、手配しますと短く言った。
アウローラとウェズベルが戦った部屋の奥には、地下五層への階段が口を開けていた。だが、魔女を追う力は無かったし、老人を連れ戻す事も無理だった。ちらりと覗いてみた五層は迷路同然で、老人が歩き去った痕跡も残っていなかったからである。エーリカが引き上げる事を決定すると、それに反対する者は誰もいなかった。
転移の薬は、随分帰還の道程を楽にしてくれた。道を知っているとはいえ、それを省略出来るというのはやはり便利な話である。帰りの道で魔物と鉢合わせる事もないし、何より体力を無駄にしないで済む。
傷心のポポーを家まで送り届けると、ファルは一旦ギルドに事の子細を報告し、宿に戻り始めた。いつの間にか、自分を如何にして強化していくかのプランを、自然に練るようになっている。さらなる高みへ行く為には当然の処置だが、しかし不思議な気分を味わう事もあった。このまま極みへ行ってしまったら、どうなるのだろうと。超えるべき壁を全て超えてしまったら、その先には何があるのだろうと。
今日魔女と会った。以前にはうごめくものにも会った。後者は仲間達と一緒に倒す事が出来た。だが今後はどうか。同じうごめくものが現れて、あるいは別の個体が襲い来て、次は勝てるのだろうか。
少なくとも今は魔女に勝てない。今後は勝てるように、様々に戦略を練って行かねばならない。今は悩む必要もない。ただ勝つためのことだけを考えればよい。全てはそれからだった。悩みを追い払うと、ファルは再び、魔女を殺す為の、自己強化プラン作成に戻った。
自分と同じく所用で出ていたフリーダーが、夕闇の街でファルとかち合った。少女はファルの隣を歩きながら、笑顔を向けてくる。何故かこの少女と一緒にいると、エイミと一緒にいる時のように、とても落ち着く事が出来た。
「マイマスター・ファルーレスト」
「うん? どうした?」
「今、笑ってくれました」
「む、そうか。 それはまずいな」
いつの間にか気がゆるんでいたらしかった。咳払いして表情を整える。まあ、フリーダーには笑顔を向けても良い。しかし他の連中に舐められたり、弱みを見せるわけには行かない。特に街の住人共に笑顔を見せるなどというのは問題外である。奴らは潜在的な敵だ。少しでも弱みを見せれば、かってのエイミにしたように、虐待と差別を繰り返すケダモノ共だ。彼らにとって(違う)と言う事は罪悪であり、だから徹底的にエイミを痛めつけてくれた。絶対に許さない。弱みを晒すわけには行かない。笑顔を見せるというのは、好きなものを晒すようなもので、それは即座に弱点につながるのだ。だから笑わない。信頼出来る相手以外には。すぐに仏頂面に戻ったファルは、今後の強化プランをフリーダーに話し始めた。少女はずっと、作り慣れた笑顔のままだった。優しく、警戒心を削ぐような、暖かい笑顔のままだった。
「おーい! ファルーレスト!」
ロベルドが向こうの広場から手を振っている。ヴェーラと一緒に、実戦訓練をしていたらしい。迷宮帰りで、しかももう夕方だというのに元気な話だ。別に用事もなかったファルは足を止め、二人の訓練に参加した。二人とも、格段に技が上昇している。強さというものは自分に向けてみて始めて実感出来るのだが、その実例が此処にあった。力の差は全く離れていないし縮まってもいない。信頼出来る仲間達だった。
技量を通じて信頼出来るというのは、ファルにはとても大事なことだった。それに、今までの連中と違って、彼らはファルに自分の価値観を押しつけもしないし、とてもやりやすい。カルマンの迷宮に来てから、ファルは随分彼らに楽をさせて貰ってきた。ならば、ファルからも歩み寄るべきだった。言われなくとも、である。
「……そうだ、一つ伝えておきたい事がある」
「あん? 何だよ」
「名前、短縮して呼んでくれて構わないぞ」
あくまで仏頂面で言うファルに、しばしヴェーラとロベルドは顔を見合わせ、大きく頷いた。
「おう。 ならこれからは、ファルって呼ばせて貰うかんな。 嬉しいぜ」
「私も、卿などと付けてくれなくて構わない。 友人のように呼び捨てしてくれ」
「了解した」
三人のやりとりを見上げていたフリーダーの頭に、ファルが手を置く。
「お前も、短縮して私を呼んでくれ。 マイマスター、というのももういらない」
「はい、了解しました。 ええと、あの……ファル様」
「良く出来たな」
今日は気がゆるみっぱなしだった。ファルは自室で、後で随分後悔したのだった。
「舐められるのは禁物だ。 それは即座に破滅を招く。 笑顔など、信頼出来る者にだけ向けていればそれでよい。 他の連中は適当に怖がらせておけ」
たびたびフリーダーに語ったそれは皮肉でも妬みでもなく、実際に生きていく為の智恵として、ファルの心の中に生きる言葉だ。しかしながらそんなファルだったからこそ、笑顔にも途轍もなく大きな意味があったのだった。
今日は、ファルにとっては不本意であったが、エイミ以外に笑顔を向けられる相手が出来たという意味で、大きな前進をした日であった。やがてそれは一筋の光へと変わっていくのだが、それはまだ後の話である。
(続)
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