深淵の魔女
序、黒の魔術師と白の法師と
ドゥーハン王都に、二人の男がほぼ同時に訪れたのは、アウローラが現れてから一年一ヶ月が過ぎた秋の日の事であった。二人はいずれも多くの共を引き連れ、多くのものに出迎えられ、歓迎を受けた。一人は黒の魔術師と呼ばれ、一人は白の法師と呼ばれていた。
黒の魔術師、その名はウェズベル。誰もが認める世界最強の魔術師であり、多くの冒険物語の主役であり、魔術国家として知られるユグルタを代表する魔法使いでもある。同国の魔法学校の校長を務めるこの老人は、世界で唯一の存在でもある。魔女アウローラと戦い、生き残る事が出来たという奇跡を持つという点で。この事から、彼はアウローラに対抗しうる魔力を持つ唯一の存在だと歌われる事があったが、その言葉に対してコメントを残した事はない。
一方で白の法師は、ランゴバルド枢機卿、という。枢機卿というのは、宗教国家ハリスにおける階級で、他の国における大臣クラスだと考えれば相違ない。彼は名門出身の僧侶であり、実質上は強力な権力を持つ貴族でもあり、世界で十人といない、天使を召喚出来る存在でもある。彼の業は(神の奇跡)と呼称され、ハリスが余所の国に貸し出す事など滅多にない。
二人は街の東西の端に、それぞれ到着した。ウェズベルは西の果てに、ランゴバルドは東の果てに。迎えた人物も違った。ウェズベルを迎えたのは、ドゥーハン軍大将スタンセルを中心とした、軍幹部。そしてランゴバルドを迎えたのは、ドゥーハンの宰相であるウェブスター卿と、彼の部下達だった。ウェズベルの方は、周囲に多くの人だかりが出来、好意的な歓声が途切れず飛んでいたが、ランゴバルドの方は寺院から布教僧があらかた出てきているくらいで、民間人は殆どいない。内包する実力は兎も角、民衆の人気という点では、確実にウェズベルに軍配が上がる。事実が現実となって皆の眼前に示されていた。
魔力のあるものなら、老魔術師を覆う焼け付くような魔力が視認出来た。圧倒的な魔力を纏った世界最強の魔術師ウェズベルは、敬礼する騎士や高級軍人達に礼をすると、先にカルマンの迷宮を探らせていたポポーを呼び寄せ、何度か頷きながら書類を渡した。ポポーは少し不安そうに頷き返すと、書類を持って何処かへ駆けていった。スタンセルはそれを横目で見やりながら、豪奢なローブを纏ったウェズベルに問う。
「我が軍の要請を受けて頂き、感謝しております。 しかして、自信の程は?」
「やってみなければ分からぬの。 わしもあの時よりは随分力をましたが、奴にどこまで迫れたかは、正直戦って見ねばなんとも言えぬわ」
「これはまた。 魔女と引き分けた貴方らしくもない」
「引き分けた? それは違うぞスタンセル卿。 わしは、ただ生き残ったに過ぎぬ。 奴が単にその場を去ってくれた。 だから助かった。 ただそれだけの事じゃよ」
ウェズベルの足下はしっかりしていて、声も太く朗々と響く。顔中に刻まれた皺は、弱さの現れではなく、刻み込まれた自信と経験なのだ。しかし、それを持ってしても、老人の声には余裕が感じられなかった。彼は周りを見回すと、静かに、決意を込めていった。
「わしの実力がアウローラに拮抗するなどと言う噂も流れているようだが、それは浅はかな間違いだ。 わしは以前奴と戦い、生き延びた事があると言うだけの、非力で愚かな魔術師に過ぎぬ。 今回は無論奴の打倒に全力を尽くすが、勝てる見込みは少ないし、ましてや絶対などあり得ぬ。 過剰な期待はせぬようにの」
巨大な宝石が複数埋め込まれた杖で、二度地面を叩くと、老魔術師は街へと歩き出した。護衛をかねて付いてきた、かなり名を知られている騎士と侍が、その後を慌てて追っていった。
スタンセルはしばし髭を撫でていたが、やがて傍らにいる副官に振り向いた。
「カイセルク」
「はっ!」
「騎士団長に、ウェズベル師が到着した事を伝えよ。 それと……」
声を潜めたスタンセルの目には、歴戦の猛者らしい食えない光が宿っていた。
「様子見に、師に魔物をひとあてさせてみよう。 地下四層の、あの地点に師を案内しろ」
「し、しかしあの魔物は……!」
「奴くらい倒せぬようでは、アウローラには到底及ばぬ。 任せたぞ」
肩を叩かれ、カイセルクは頷くしかなかった。すぐに部下を集め、地下四層に巣くい、多くの冒険者と騎士団を退けた魔物が巣くう場所へ、ウェズベルを向かわせるべく手配する。まずはお手並み拝見。スタンセルは、世界最高の魔術師にも、そんな厳しい態度だった。副官であるカイセルクは、まだまだ自分はダメだなと、自嘲せざるを得なかった。
ウェズベルに比べて、どちらかと言えば冷めた眼差しで迎えられたランゴバルドは、陰気で神経質な老人だった。体はガリガリに痩せていて、視線だけが鋭く、飛び出した眼球から放たれている。彼の側には、孫かひ孫にも見える幼い少女が、林檎を囓っていた。金の短い髪を持つ娘で、全身が洗練された彫刻のように整い、貴種だと一目瞭然である。圧倒的に美しいわけではないのだが、同時に全身から放つカリスマは周囲を確実に圧していた。ただ、彼女が人間である事はあり得ない。背中に純白の翼が生えていたし、どこからどう見ても人界の技術を逸脱した衣服を身につけていたからである。これこそが天使かと、枢機卿を出迎えた者達は期待に胸を膨らませ、一方で落胆もした。娘は笑顔を浮かべてはいたが、その視線には刃のような冷徹さがあり、時々殺気も含んでいたからである。彼女の後ろには、翼を持つ男が数人、機械のように微動だにせず控えている。そして、娘が顎をしゃくると、頷いて何処かへ飛び去っていった。娘はそれを見送りさえせず、再び林檎を囓り始め、やがて芯ごと綺麗に平らげた。指先に付いた汁を真っ赤な舌で舐めるその姿は、妙に背徳的だった。
その白い姿を一目だけ見ると、ドゥーハン政治体制の中枢にいるウェブスターは、ほぼ同格にある枢機卿に軽く頭を下げた。その行為が、敏腕で知られる宰相が如何にこの老人を待ち望んでいたか、如実に示していた。
「遠い所を、わざわざご苦労。 枢機卿」
「うむ。 細かい話は城内で行うのかね? それとも拠点とする宿かね?」
「宿で行おう。 神湯も用意してある」
「ホホホ、それは嬉しい事だ」
神湯というのは、酒の隠語だ。二人は小声で周囲に聞かれぬよう会話を続けながら、宿に向け歩いていった。ウェズベルとは、正反対の、隠蔽的な行動であった。
彼らに遅れて、天使の少女が歩き出す。ランゴバルドが連れてきた何名かの僧侶が周囲に護衛として付いていたが、最低限の実力がある使い手なら、それが全く不要だと一目瞭然だった。無茶苦茶に強い、それが一目で分かる。超一流の冒険者が、最高級の武具を身につけて、総力戦覚悟で挑んだとしても果たして勝てるかどうか。
彼女は冷めた眼差しでドゥーハン王都を見回していたが、その瞳が温かみを帯びる事は決してなかった。やがて先に飛び立っていた天使の一人が戻ってきた。あくまで無表情に、機械的に頭を下げる彼に、少女天使は視線すら向けない。
「マリエル様、やはり間違いないようです。 イザーヴォルベッドが、数度出現している可能性があります」
「インヴォルベエル」
「は、はい」
「私、きちんと仕事が出来ないグズは嫌いよ」
少女の声は年齢にしては低く、落ち着いていて、そして絶大な圧迫感を伴っていた。無表情だった天使が見る間に蒼白になり、一歩退いた。汁が滴る林檎をもうひと囓りしながら、マリエルと呼ばれた少女天使は、笑顔のまま、絶対零度の視線で部下を突き刺す。
「次はないと思いなさい」
「は、はい! す、すぐに戻って、再調査してきます!」
「再調査の理由は分かっているわね?」
「何故、イザーヴォルベッドが現れたのに、この街が滅びていないか、ですね。 わ、わわ、分かっております!」
逃げるように飛び去っていった部下には、相変わらず視線一つ向けない。マリエルは林檎の果肉を食いちぎると、誰に言うでもなく一人ごちていた。
「一見クズみたいな街だけど、林檎だけは美味しいわね。 産地はどこ?」
「は、はあ。 その……分かりません」
次の瞬間。マリエルに受け答えをした僧侶が吹っ飛び、十メートルも地面を転がって止まった。泡を吹いて痙攣しているそれには目もくれず、困惑する僧侶達にも目をくれず、マリエルはランゴバルドを追って宿へと歩いていった。誰が気付いただろうか、彼女が人間の視認能力を遙かに超えた速度で、裏拳を放った事を。その産み出した衝撃波だけが、僧侶を吹き飛ばしたと言う事を。林檎を囓って歩きながら、彼女は冷酷に呟いていた。
「やっぱりクズだわ、この街。 特にニンゲンがゴミ以下ね」
1,ファルーレストの横顔
錬金術ギルドの一室では、徹夜で続いていた作業がようやく一段落しようとしていた。親友に超一流の錬金術師を抱え、自らもそれなりに錬金術の知識があるファルは、一目でそれを見抜いた。彼女が助けた(子供)はぐったりしていたが、見た目外傷は全て塞がり、様子は落ち着いている。培養槽に入れられた頃は傷口から痛々しく薄赤い血が流れ続けていたのだが、現在はそれもふさがっていた。
何交代かで作業に当たっていた錬金術師達は皆疲れ果てた様子であり、しかしファルの疲労はそれ以上だった。考えてみれば、多少エーリカの回復魔法を受けたくらいである。あの常軌を逸した謎の怪物と死闘を演じた上に、迷宮からここに直行し、不眠不休で、変な事を(子供)にされないか見張っていたのである。常人ならとっくに昏倒している所である。女性は男性より痛みに強いが、それにも当然限界がある。ファルの耐久力と精神力は、常人を遙かに超える所にあった。
培養槽から、栄養液が抜き取られていく。ファルが助けた少女が中から担ぎ出され、錬金術師達に体を拭かれ、白衣を着せられた。作業が終わった事をファルは確認し、額をハンカチで拭っているチーフ格の錬金術師の肩を叩いた。
「お疲れさま。 助かった」
「いえいえ、どういたしまして」
「エーリカ殿の事だから、もう作業関係の契約は済んでいるだろう? それを見せて貰いたい。 それと、幾つか聞きたい事がある」
錬金術師は頷くと、ファルを別室に案内しようとしたが、女忍者は言下にそれを拒絶した。仕方がないので事務員が契約書を持ってきて、ファルに見せる。内容はエーリカらしく隙がないもので、立場が低いのに全く一歩も引かず、むしろ五分以上の条件を取り付けさせていた。
曰く、契約内容は大まかに以下のようなものである。
1,今後この少女(A)の治療行動は全て錬金術ギルドに一任する。治療によって得られたデータ、及び(A)が見せた行動はレポート化し、全て錬金術ギルドに提供する。
1,錬金術ギルドは情報を諸費用の代わりとし、(A)の治療行動によって生じた損失金は請求しない事とする。
1,エーリカ率いる冒険者チームは、今後(A)を余所に譲渡しない。
1,もし(A)と同型のものが見付かった時は、錬金術ギルドに報告する。その後の処遇に関しては、相談の上決定する。
1,以上の契約を、部外者には明かさない。
大体以上であった。流石はエーリカ、見事な契約内容である、と言える。あまり敏腕でないリーダーであれば、治療費に法外な料金を請求されたり、あるいは少女自体を奪われてしまった可能性がある。ファルは黙礼して、この場にいないエーリカに感謝すると、少女の方に視線をやった。白衣を着せられ、台の上に寝かされた少女の胸は、規則正しく上下している。容態が安定した事は晃かであり、少しだけファルは安心した。安心すると、強烈な疲労が睡魔を伴ってファルに覆い被さってきたが、歴戦の女忍者はそれを気力だけで追い払い、しかし追い払いきれず額に手をやりながら、チーフ格錬金術師に問う。
「で、あの子は何なのだ?」
「それは、その……」
「いや、別に構わぬだろう。 ただし、内密に願うぞ」
そういって、歩み寄ってきたのは、徹夜の作業で蒼白になっているギョームだった。彼は刺し殺すようなファルの視線に少し心を乱されながらも、咳払いしていった。
「一つ忠告しておく。 あれの治療は、世界最高の設備を誇るこのドゥーハン王都錬金術ギルドでなければ無理だ。 仮に材料を揃えようと考えても、城を二つ丸ごと買うほどの資金がかかる。 覚えておけ」
「大丈夫だ。 持ち逃げはしない」
「そうか、それは安心した。 ……あれは間違いなく、(オートマター)と呼ばれるものだ」
「オートマター? 自動人形……だと?」
不快に眉をひそめたファルに、露骨に動揺しながら、ギョームは続けた。蒼白になった額からは、汗がともどめもなく流れていた。
「古代ディアラントは知っておるな?」
「誰にものを言っている。 冒険者なら誰でも知っている」
ファルの返事は当然のものであった。ディアラントと言えば、七千年前に栄えたという伝説の都であり、現在も各所にその痕跡が残っている。圧倒的な文明を築いていた理想郷だと言われており、其処には何の苦しみも痛みもなく、全てが平和のうちに包まれ、繁栄を謳歌していたのだという。
このディアラントが滅びた原因こそが、(うごめくもの)だと言われているのだ。そして発見されている五指に満たないディアラント遺跡は、いずれもが並の冒険者では近づく事さえ出来ない危険な場所で、故に其処を攻略する事は冒険者の夢とされているのである。
「そのディアラントでは、人間の奴隷に代わって、機械の奴隷。 即ち、オートマターを労働力に使っていたという記述がある。 そして、戦闘用にも使っていたようなのだ」
「解せぬな。 確かに多少特徴は人間、いやヒューマンと異なっているが、あの子は歴とした生き物だろう」
「うむ。 其処がまだ分からぬ所なのだ。 しかし、あれの身体的特徴は、文献にあるものと全て一致している。 それに、君達のリーダーから聞いたのだが、突然現れた途轍もなく強大な魔物の体内から、あれははき出されたのだろう?」
しばし躊躇いはしたが、エーリカが言った以上仕方がない。ファルは小さく息をはき出すと、ギョームの言葉を肯定した。ギョームは興奮し、目を輝かせながら言った。
「調査してみなければ、何故そんな事になったかは分からぬが、あれはオートマターに間違いない! そして、ほぼ確実に、人知を超えた圧倒的な戦闘能力を持っている! 活用してみてくれ! 戦わせてみてくれ! そして、その結果を私に見せてくれ!」
「……一つ、要求がある」
「何だ? 出来る限りは聞こう!」
「あの子を、二度と(あれ)等と呼ぶな。 次にそんな風に呼んだら、首をへし折ってやるからな」
ファルがその言葉を実行する事は、誰の目にも明らかだったので、その場にいた皆が息をのんだ。ファルの眼光、身に纏う殺気、いずれも尋常なものではなかった。
「き、気をつけよう」
「もうあの子を動かしても大丈夫か?」
「う、うむ。 まだ戦わせるほどは体が回復していないが、後は食べ物を与えて、休ませておけば問題ないはずだ」
「そうか。 では、世話になった。 失礼する」
手慣れた動作で、ファルは少女を背負う。忍者としての修練にも、怪我をした同僚を如何に効率よく運ぶかは当然あった。今までの冒険者生活の中でも、何度もそう言った情況には遭遇している。訓練の時には、自分より重い男を背負って、一昼夜を歩いた事もある。小さな子供を背負うくらい等、どれほど疲労している今でも。
「……」
平気ではなかった。しかし、倒れるほどでもなかった。強烈な立ちくらみを覚えたが、少し目を細めるだけで、その素振りを一切周囲には見せなかった。ファルは一瞬でも早く、この子をこの場所から連れ出してあげたかった。それ以降の事は、後で考えればよかった。そう思えば、まだまだ体内の力を引き出せた。リバウンドが来るのは確実だが、別にそんなものなら幾らでも来て良かった。
錬金術ギルドを、白衣を着た少女を背負ったまま出る。少女の体は少し冷たいが、紛れもなくヒューマンの子供のものだ。小さな規則正しい呼吸音も、鼓動も、血流も、ちゃんとある。機械などであるものか。人形などであるものか。ファルは自身に言い聞かせながら、宿へと向かった。
幼い頃のエイミの顔が、ファルにはこの少女と重なって見えた。差別され、彼女が守らねば生きていけなかった小さな命。今では独立して、自分で生きていける。だが一緒にいたい存在。この子もそうなって欲しい。ファルは少し寒くなってきた街路を急ぎ足で歩きながら、そう思った。
やがて宿に着くと、居間に座っていたロベルドとエーリカが駆け寄ってきた。エーリカが回復魔法を唱え、ぬれタオルを渡す。ファルは回復魔法だけ有り難く受け取って、少女を背負ったまま部屋に戻った。会話をする気力も残っていなかった。ロベルドは色々言おうとしたが、それを片手で制して、エーリカが肩を叩いてくれた。エイミが遅れて歩いてきて、部屋の掃除はしておいたと告げてくれた。何より嬉しい言葉だった。今は百万の慰めよりも、暖かいベットが必要だったからである。無論ベットは、自分の為のものではない。
自分のベットに少女を寝かせると、ファルはベットにもたれかかって、目を閉じた。一気に疲労が襲いかかってきた。丸一日迷宮の中で戦い、更に半日間今ベットに寝かせた子が変な事をされないように見張っていた疲労は、想像以上のものだった。何も考えられなくなっていく。頭が真っ白になり、そして意識が落ちた。
ファルは夢を見ていた。自己の力の限界を知ったときのことである。エイミを助けようと、右往左往していた時の事である。誰も、助けて等くれないと、知ったときのことである。
誰よりも誇り高かった彼女が、唯一求めた助けを、冷たく謝絶した者どもの視線は、今でも忘れられない。夢の中でも、そのあざけりの視線が、無数に突き刺さってくる。お前の事など知るか。死ね。失せろ。消えろ。邪魔だ。ファルの側には、幼いエイミが倒れている。今よりずっと痩せていて、少し顔が紅い。熱があるのだ。視線は彼女にも向く。邪魔だ、失せろ、消えろ。取りかえっこが。汚らしいケダモノが。
死ね。
その感情は普遍的なものだ。程度の差こそあれ、人間は自分に関わりのない他者には、そういった感情を抱く。多くの人がいて、歩きづらい街路で。沢山の競争者がいて、自分の欲しいものが得られそうにない時。自分にとってどうでもいい、何の関わりもない人間が、助けを求めてきた時。そんな時は特に。全部がそうではないが、多くがそう思う。
多くがそう思う以上、それは(常識)だ。道徳律と反していようが、人間が内心で設定している、自己肯定の為の(常識)だ。どこにも存在しない、自己肯定の為の、究極の武器にして防具。(常識)。何と醜い言葉であろうか。その根元となっているのは、(皆がそう思っている)というものだが、実際には皆の常識は同じではない。一人として同じ常識を持っているものはいないのである。だから、それは怪物のように一人歩きして、周囲にとけ込めないものや、弱者や、異質者を排除していく。自分によく似た分身を、人々の心に植え付けながら。(常識)だと誰もが思う、(擬似常識)を。
エイミを殺そうとしたのは、その擬似常識だった。エイミの可能性を守ったのは、擬似常識ではなかった。多くの貴族や高官の嘲笑を受けながら、オルトルード王が各地で行った、貧民救済策の結果だった。彼の政策は、国が安定しかけてきていたからとはいえ、(常識)にも擬似常識にも反していた。だが、エイミを救ってくれた。ファルには、それで充分だった。
無数の目を、夢の中でファルは一つずつ叩き潰していった。あるいは蹴り砕き、あるいは切り裂き。その度に、今まで侮蔑を湛えていた目が、恐怖に転じていった。そして、エイミには向かなくなった。ファルは、無数の目に宣言する。あくまで静かに、そして怒りと威圧感を持って。
「怖れるなら怖れろ! 憎むなら憎め! 私は貴様らなどには屈しぬ!」
ファルは決して、民衆を良きものだと等思ってはいない。同時に、支配者階級とて同じ事だ。彼女が恩義を感じているのは、そんな常識になどとらわれず、自らと、その分身を助けて出してくれた、二人の存在。だからドゥーハンの為に戦う。だからギルドの為に戦う。二人の為に。忘恩の徒にならぬ為に。
現在、信頼出来る仲間も得られそうだ。ファルは、自身の道を貫くと決めている。仲間達と、目的が違えるとならば、その時はその時。だが今は、共に戦いたい。
しかし、無数の視線が、倒しても倒してもやってくる。戦いに終わりがあるのか、ファルは知らない。更に強くならねばならない。究極にまで強くならねばならない。エイミを、そしてこの子を守らないとならないから。
この子。その思考がファルの視線を、足下へとやった。傷だらけになって倒れている、薄紫の髪を持つ、オートマターだと言われた子が倒れている。彼女にどんな視線が向くか、言われるまでもない事だ。ファルは右手で忍者刀を抜き、左手で焙烙を構え、口へ持っていった。呪札を食いちぎり、紐を回す。そして叩き付ける。虹色の炎が周囲に溢れる。しかし、目は後から後から幾らでも出てくる。侮蔑、嘲弄、そして敵意を持った、擬似常識が。
それには、際限がなかった。
悪夢といえたのだろうか。限りない夢からファルが目を覚ますと、毛布が自分にも掛けられていた。毛布を掛けられても分からないほど、疲弊していたのである。不覚であった。如何に疲れていたとは言え、少し油断しすぎであっただろう。毛布を掛けてくれたのは恐らくエイミで、それには感謝したが、自身の情けなさはそれとは別の問題だった。
「……情けない話だ」
案の定、体中が痛い。無理をしすぎたのだ。ゆっくりファルが振り向くと、目があった。少し警戒するような、だが心配するような。
あの子が起きていた。ベットの上で四つんばいになって、ファルの顔をのぞき込んでいたのだ。
しばしの沈黙が流れ去った。ファルは無言のまま立ち上がると、冷徹な目で少女を見据えた。だが、少女は顔色一つ変えずに、ファルをじっと見ていた。エイミ以来だった。彼女を怖がらない子供は。ファルは少し嬉しかった。怖がって、泣いても仕方がない情況だったのに、少女はそうしなかった。彼女は、ただ静かに、ファルを見つめていた。
「言葉は、喋れるか?」
「mpsajdfopqeh;asdspoo9fhdpsjdasihfqeksx0sadu-aqs0」
案の定、言葉は全く通じなかった。ファルは自分を指さし、言った。出来るだけ、柔らかい表情で。
「ファルーレスト=グレイウインド。 ファルーレスト」
「ふぁるー、れす、と」
「そうだ。 良く出来たな。 私はファルーレストだ」
思わず笑みがこぼれていた。もしこの時を誰かがのぞき見していたら、確実に殺されていただろう。ファルの笑顔など、エイミ以外に向くものではないのだ。もし向く時があれば、それは威圧の為と決まっているのである。ファルは自分を親指で、もう一度指してから、名前を言った。そして、少女に指を向けた。
「名前は?」
「フリーダーl;askfopml;asjdhdiouhdia:,as;sdpsdjoqwie」
「そうか。 フリーダー、だな」
少女はファルの言葉に、にこっと、可愛らしい笑顔で返した。そして少し安心したように、四つんばいからいわゆる乙女座りになると、笑顔のまま本をめくる動作をして見せた。かなり賢い子供である。小さく頷くと、ファルは部屋を出た。居間の方からは、喧噪が聞こえた。
2,六人目の戦友
情況が一段落すると、居間には主要メンバーが全員集まっていた。今回からは、武器屋のルーシーが机の隅に座っている。地下二層の冒険者失踪事件解決によって、彼女は正式にスポンサーとして名乗り出、以降は会議に出席する事を提案したのである。彼女が用意した報酬は、ヴェーラ用のハルバードと、店との専属契約であった。新しいハルバードは少し魔法がかかっていて、刃が鋭く湾曲し、切れ味が増強されている。ヴェーラは満足そうにそれを振り回し、今のところ文句は言っていない。また、専属契約というのは、今後迷宮で見つけた武具はヴィガー商店が責任を持って買い取り、また優先して、入手した実戦的な武具を回すという事である。ファル達には随分有利な話であった。
ファルが宿に戻ってから、時間は飛ぶように流れ、一日が過ぎていた。フリーダーは自室でファルが持ち込んだ無数の本を読みあさり、時々生理反応の為部屋から出てきては、店の客に愛想を振りまいていた。ただ、まだ言葉は理解出来ず、話しかけられても微笑むだけである。しかし学習速度は非常に速い。例えば昨晩の夕食の時、彼女は椅子について、ファルのフォーク使いをずっと見ていた。そして、ファルが食べ終わった頃にフォークとナイフを手に取り、ほぼ完璧に使いこなして見せた。最後に肉を口に入れ損ねて、口の周りを汚してしまったくらいである。
そのような事があった後、現在は会議が行われていた。最初に口を開いたのは、時々新しいハルバードに視線をやっているヴェーラだった。
「事情は大体エーリカ殿に聞いている。 しかし信じがたい話であるな」
「まあ、ここで詳細は話せないけど、ね。 で、今後の話だけど、あの子を参戦させる?」
「えっ……?」
同時に驚いた声を上げたのは、ジルとルーシーだった。エイミはお盆を持った手を不安そうに、少しだけ上下させた。
「あの子は少々事情が特殊でな。 ひょっとすると私よりも強いかも知れないのだ」
「冗談でしょ?」
「本当だ」
「うっそだー!」
体を机の上に乗り出し、ルーシーがファルに食ってかかった。どぎまぎしているのはむしろロベルドやコンデである。コンデなどは、小声で何か呟き、ジルにお盆で叩かれて萎縮していた。
「私としてはね、大事な店員である貴方達に、無茶はやって欲しくないの。 分かる?」
「何が無茶だ」
「よりにもよってコドモをあのカルマンの迷宮に投入するなんて、正気の沙汰じゃないって言ってるのよ! そんな事で全滅されたら、こちとら商売あがったりだわっ!」
「そんな事はやってみないと分からぬ。 私だって、最初に魔物を斬ったのは十六だったが、その時は早すぎると皆に言われたぞ」
「十六って言ったら体は少なくても大人でしょ!」
「私の師匠は忍者だが、店主殿と同じくらいの体格で、今此処にいる全員が束になってもかなわないぞ。 戦いは体格でも頭脳でも経験でも精神力でもない。 総合力だ」
むう、とうなって、ルーシーが黙り込んだ。実戦を嫌と言うほど体験しているファルの言葉には、冒険者を相手にし続けてきたルーシーをそうさせるだけの力があったのだ。代わりに口を開いたのは、エーリカだった。
「まあ、いきなり最前線に投入するのは問題ね。 能力を見ながら、少しずつ調整していきましょう」
「そうじゃの。 足を引っ張られても困るしのう」
「まあ、そうだな。 迷宮が託児所みたいになるのだけは勘弁だぜ」
「違いない」
普通にファルは頷いて、コンデとロベルドの言葉を受け入れた。小さく嘆息すると、続いてファルは地下三層の説明に移った。まだ本調子でなかったとはいえ、焙烙の補給やイーリスへの研究成果確認、ギルドへの顔出しなどは全てやっているのである。特にギルドでは、彼女が地下二層の失踪事件を解決した事が広まり、先輩達が皆喜んでいた。忍者ギルドの名を上げるのに、充分役だったからである。ギルドでは、喜んでファルに様々な情報を提供してくれた。大体、それは以下のようなものである。
……カルマンの迷宮地下三層は、かつて異郷の神殿であったのではないかと、冒険者達に噂されている。内部は文字通りの迷宮で、複雑に通路が入り組んでおり、そればかりか無数のトラップが健在であり、徘徊する魔物も強い。特にこの階層から出現するガスドラゴンは、あまりにも高名なブレス能力と、鉄壁の防御力を誇り、冒険者からは恐怖の的となっている。竜族では最下位になるかの存在だが、それでも並の人間には相手がかちすぎるのだ。ドラゴンの存在もあり、複雑な構造もあり、ドゥーハン王都に来た冒険者の六割が、この階層で脱落すると言われている。そのうちの二割ほどが死に、六割ほどが足踏みし、残りは諦めてさっさとこの地を後にするのである。
騎士団も、この階層を攻略するルートを開発するまで少なからざる犠牲を払ったし、現在も補給拠点の維持に手を焼いている。地下四層や五層に比べればまだましだが、比較しての話に過ぎない。世界最強を誇る騎士団ですらその有様である。恐れを知らず、様々な冒険をこなしてきた者達も、此処にある闇に次々に飲まれ、食われていった。そして今日も、それに変わりはなかった。
以上の説明を終えると、ファルは卓上のコップを呷った。ロベルドが太い腕に力こぶを創りながら、楽しげに言う。
「ドラゴンか、腕が鳴りやがるぜ!」
「灼熱の業火で黒こげにされる前に鳴るとよいのだがな」
「抜かせ。 なーに、この面子なら勝てるぜ」
「違いない。 偉大なる火神よ、我らに勝利と栄光を!」
軽いジョークも合間に飛び交う。以前なら殴り合いになっている言葉が、今は普通に飛びかっている。やはり共に死線を潜る事こそが、最大の信頼関係構築に結びつくのである。そして、既に皆の心は、ある程度通じ合っていた。まだ刎頸の友というまでには至っていなかったが。
ドラゴンへの対抗戦術を幾つか決め、他にも強敵として知られる不死者シェイドや、迷宮で迷った時の対応策などを考え、皆で議論し、一段落すると、エーリカが机の上に識別ブレスレットを置いた。綺麗に磨かれているが、溝には黒いものが食い込んでいた。ファルには、それに見覚えがあった。地下二層で、見るも無惨なほど食いちぎられた死体が持っていたものだ。最初は血の残骸で真っ黒であり、剛胆なヴェーラも持つのに鼻白んだほどであった。
「それと、このブレスレット。 どうやら使えそうよ」
「ほう?」
「多分後衛には充分戦闘力強化になると思う。 ファルさんにも、何か業の強化のヒントになるかも。 愚僧自身は、以前から実戦投入していた魔法強化アレイドの完成を成功させたわ。 今後は魔法協力と呼称する事にするわね。 他にも、様々に応用が可能そうよ」
「楽しみだな」
おっかな吃驚手を伸ばそうとしているコンデに先立って、ファルが素早くそれを掴み、次の瞬間脳に電撃が走った。覚悟はしていた事とはいえ、強烈な痛みを感じながら、ファルは机に突っ伏していた。膨大な記憶が、脳に直接流れ込んでくる。嘔吐感を伴うそれは、数秒間続いた。記憶の流入が終わったのに気付いたのは、自身を揺するエイミの小さな手があったからである。エイミは心配しきった顔で、ファルの肩を揺らしていた。
「おねえさま!」
「……問題ない。 ……そうだな、これは使えるかも知れない」
「どれどれ。 小生もやってみるかのう」
ファルに続いて、コンデが皺だらけの手を伸ばす。心配げなジルがそれをじっと見ていたが、ファルは知らないふりをした。彼女が踏み込んで良い事ではないからだ。
「のおおうっ!」
「コ、コンデ様っ! 大丈夫ですかっ!?」
「だ、だいじょうぶ、じゃないのう……ひいいいいい」
机の上で、コンデが泡を吹いて痙攣している。蒼白になってそれをヴェーラとロベルドが見ていた。案外線が細い事だと思ったファルは、エーリカに断って、自室に戻った。明日の探索について、既に必要な事は決まっているからである。
自室に戻ったファルは、ベットに腰掛けると、先ほど見た記憶を思い起こしていた。
先のブレスレットの持ち主は、魔術師だった。魔力もそうたいした事が無く、度胸もあるとは言えず、戦闘経験も少なかった。冒険者として二年間をほぼ無為に過ごした彼は、自らのみの強みを身につけるべく、魔術師ギルドに籠もって修行を行った。嘲笑と、侮蔑に晒されながら。
元々彼は、視力には優れていた。そして、それを生かす事を思いついた。特に優れた魔術師になると、魔力の流れを見えるようになるというのだが、彼はそれを確実なものにしようと思ったのである。そして試行錯誤しながら、その力を強くする瞑想法を自力で編み出したのである。
瞑想法自体は、さほど難しくはない。それを継続して続ける事が重要なのである。特殊なポーズを取る事により、体内の魔力を効率よく流し、特に目に集める。侍や忍者が精神集中の為に行う(座禅)に近い。違うのは、精神集中と言うよりも、魔力操作である事だ。別にそれを行うのは、どこでも構わない。殆ど偶然によって編み出されたポーズであったが、完璧に近い効率強化をそれによって産み出す事が出来た。自己にしかない技を身につけ、自信を付けた魔術師は、カルマンの迷宮に挑み……命を落としたのだった。さほど強くもない魔物との戦いで、味方の支援を受けられずに。
上着のボタンを幾つか外すと、ファルは床に座り、特殊瞑想法の実行に入った。魔力の流れを見る事が、何の役に立つかは、まだよく分からない。だが袋小路に入り込んでいる能力強化の、情況打破の何かのヒントが得られるかも知れない。ファルは瞑想に入りながら、結局異端視され、理解されずに散った魔術師の事を思っていた。
「貴方の業は、私が、それにエーリカ殿が受け継ぐ。 安らかに」
異端視され、迫害も受けた魔術師の事は、ファルには他人事ではなかった。だから、彼が残した業を、受け継いであげたかった。
夜遅くまで、ファルは特殊瞑想法を試していた。凄まじい集中力であった。それを産み出したのは、自己に重なる存在への、鎮魂の意であった。
翌朝、ファルが皆よりずっと早く起き、着替えを済ませて部屋を出ると、ぱたぱたとフリーダーが駆けてきた。そして、にっこりと微笑み、喋った。今日の彼女は、丈夫な革ズボンを穿いていて、両肩が出た動きやすい上着を身につけていた。
「おはようございます。 マイマスター・ファルーレスト」
「おはよう」
あまりにも言葉が自然だったので、ファルは全く情況の異常さに気付かず、居間に出てエイミに料理を頼んだ。フリーダーも笑顔のまま、向かいに座る。そして焼いたパンを二つ食べ、三つ目に手を伸ばした時に、情況に気付いた。思わず吹きだしたファルは、フリーダーの後ろに立って微笑むエイミと、オートマターを交互に見比べながら言った。正に鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で。
「ふ、フリーダー!?」
「はい、マイマスター・ファルーレスト」
「喋れるのか!? どうして!」
「今頃気付いたの!? ファルーレスト様、反応遅っ!」
隣の机で朝食を取っていたジルから、突っこみが飛んで来た。それに何を得るでもなく、、フリーダーは笑顔のまま、自分の胸に手を当てた。
「言葉の学習は完了しました。 以降はこの地の言葉で、マイマスター・ファルーレストと会話したいと考えております。 許可を願えませんでしょうか」
「う、うむ。 それは有り難いのだが……そうか」
言葉を濁すファルの心に敏感に気付いたエイミからフォローが入る。
「正確には、昨日の会議が終わった頃には、もう喋れるようになっていましたわ」
流石に此処にいるメンバーの中で最高の常識人である。良く子供を観察している。それに、一時は心配していたのだが、二人は自然に仲がよいようである。そっと心中で胸をなで下ろすと、ファルはフリーダーに問う。
「ところで、フリーダ。 君が戦えるというのは、本当なのか?」
「当機は戦闘型sdofoaphdapsndです。 セクサsdofoaphdapsndやメイドsdofoaphdapsndではありません。 マスター・ファルーレストのお役に立つとなると、必然的に戦闘が主任務になります」
「そうか……」
肩が露出した服を着ているフリーダーの体は細い。自分で戦いは総合力だと言ったくせに、ファルは少し躊躇していた。
「フリーダは、戦いが好きか?」
「好きという感情は理解出来ません。 ただ、当機は戦闘型sdofoaphdapsndであり、戦う事に誇りと存在意義を見出しております」
「そうか。 ならば……仕方がないな」
忍者であるファルは、一人前の武人である事に見出す誇りを良く知っていた。ならば、今即答したフリーダの言葉に、異議を唱える事は出来なかった。これから傷つくのも、戦うのも、全ては自己責任での事だ。誇りを持って戦う以上、代償は当然体に帰ってくる。子供だろうと武人は武人。自分で決めた道なら、それを遮る権利は誰にもない。素早くエイミが出した食事を胃に掻き込むと、ファルは立ち上がった。
「エイミ、エーリカ殿を起こしてきてくれ。 私は少し外でフリーダと手合わせしてくる」
いつも修練に使う野原に出ると、ファルはフリーダーとショートレンジ(剣での戦闘時に適当な距離)の間合いを取った。格闘戦であればクロスレンジ(密着戦闘に適当な距離)を取るのが有利なのだが、まずは様子見である。
「フリーダー」
「はい」
「君は如何なる武器を用いて戦うのだ?」
「当機には三万六千を超す戦闘プログラムがlashdfioaqされています。 格闘戦を始めとし、狙撃、剣での戦闘、斧、槍、基本的な武具は全てを扱う事が出来ます。 これは戦闘をこなせばこなすほど、経験を蓄積し、強化する事が出来ます。 その他に、肉体を変化させ、武具へ変える事が出来ます」
フリーダーの言葉には、時々異国の言葉が混じる事があった。これはおそらく、彼女がいた場所にはあり、此処には存在しない単語であろう。自らの取扱説明書を読み上げるように、フリーダは続ける。
「肉体変化は初期型で五つ。 この他に、外部loashfiehで変化パターンを増加させる事が出来ます。 変化には、変化実行を決定してから五秒がかかります。 一度変化を決定すると、取り消しは出来ません。 また、これを使用すると、大量にエネルギーを消費いたします」
「ふむ。 では、それを適当に見せて欲しい」
「了解しました。 5,4,3……」
フリーダーが左腕で右手を押さえ、目をつぶった。カウントダウンが続き、それが零になった時、ファルは何故両肩を露出した服を彼女が着ていたのか悟った。
「2,1,零!」
フリーダーの右腕がふくれあがり、瞬間的に盛り上がり、そして形を為した。巨大な三角錐に見える、白い物体に。それは無数の棘を生やし、先端は鋭く尖り、相手を貫く事だけを考えたものと一目瞭然であった。大きさは、フリーダーの体ほど、いやそれ以上もある。これならば、確かに、腕を服が包んでいたらはじき飛ばしてしまう。フリーダーは少し荒い呼吸で、額を元のままの左腕で拭った。異形とも言える姿になったのに、彼女はファルに笑顔で、何事もないように続けた。
「これが形態変化三式・ランスモードです。 突破力を第一に考え、厚さ十五センチのlkjxashfighを貫く事が可能です」
「なるほど。 では、形態を元に戻してくれ」
「了解しました。 5,4,3……」
カウントダウンが終了すると、腕は嘘のように元に戻った。周囲の人間が、怪物でも見るような目でフリーダーを見ていた。小さく嘆息すると、ファルはかなり疲弊した様子のフリーダーの頭を撫で、一人ごちていた。
「これは、修練する場所を考えなくてはならないな」
「何故でしょうか。 広さと言い人口密度と言い、此処は最適の訓練空間だと当機は考えます」
「いや、それはそうなのだが、な。 形態変化については、人間が多くいる場所では使わぬ方がよいだろう」
「マイマスターのご命令とあれば」
頷いたフリーダーとまたショートレンジの距離を取ると、ファルは腰を低く落とし、構えを取った。最近はもう、聴覚強化呼吸法が、戦闘態勢を取ったと同時に出来るようになっていた。
「よし、次は少し実戦能力を見せて貰う。 本気で打ち込んで来い」
「よろしいのですか?」
「構わぬ。 むしろ、手加減したら絶対に許さぬからな」
フリーダーは少し躊躇したが、やがて足を大きく広げて、大地を深く踏みしめ、構えを取った。右手を少し高く挙げ、左手を脇に近づけた構えである。右手人差し指と中指は揃えて立て、後の指は卵を握るように柔らかく閉じている。似たような構えを、ファルは知っているが、しかし微妙に違っていた。
摺り足でフリーダーは徐々に距離を詰め来た。レンジに関してはファルの方が遙かに有利だから、それをどう克服するのが課題だ。両者の闘気が、徐々に高まっていく。フリーダーは自然体のままだが、それが発する闘気は本物だ。かなり出来る、ファルはそれを既に悟っていた。視界の果てに、腕組みして此方を見ているエーリカの姿が入った。其方に僅かに気が行った瞬間、フリーダーが仕掛けてきた。
鞭を振るような音と共に、小さな体が低い態勢から蹴りを放ってきた。左足を引いてそれをかわすと、相手の頭上に落とすように、ファルは腰をひねって蹴りを叩き込む。ガードするかと思ったが、相手の動きはファルの予想を超えていた。そのまま最小限の動きで振り落とされた蹴りをかわすと、その足自体を掴み、脇腹に掌底を叩き込もうとしてきたのである。冷静にファルはそのまま肘打ちを相手の頭に向けて放ち、迎撃をかける。とっさにフリーダーは腕を曲げ、両者の肘が鈍い音を立ててぶつかり合った。組むのは危険だと、ファルは考え、素早く飛び離れる。対し、フリーダーは再び構えを取り、徐々に摺り足で距離を詰めてきた。
両者が動くのは、今度はほぼ同時。飛びついてきたフリーダーは、ねらい澄ましたファルの前蹴りをすんでの所で屈んでかわすと、伸び上がるように体というバネにため込んだ力を開放、跳躍して踵落としをかけてきた。対しファルは蹴りの勢いを殺さず一回転すると、片膝を付き、両腕をクロスしてフリーダーの蹴りをガードする。予想よりも遙かに重い。小さな体なのに、何を生かしているのか、踵落としは想像以上に強烈だった。何とかそれを受けきると、相手が態勢を立て直す前に足を掴み、そのまま地面に押し倒す。マウントポジションを取ったかと思った瞬間、脇腹に激痛が走った。冷静にフリーダーが、カウンターの拳撃を入れてきていたのだ。細い体のどこにこんな力があるのかと疑いたくなるほど、強烈な一撃だった。また、握り方に工夫があるのか、通常の拳撃よりもずっと痛い。にいと口の端をつり上げ、ファルは相手の両腕を押さえ込み、絞め技に入ろうとしたが、その瞬間エーリカが手を叩いた。
「はいはい、其処まで。 もう充分でしょ」
「むう、確かにそうだな」
「これなら充分役に立つわ。 後は実戦投入して、少し様子を見ましょう。 ファルーレストさん、脇腹見せて」
「気付いていたか。 流石だな」
地面にいわゆる乙女座りをしてファルを見上げるフリーダー。心配しているのかどうだかよく分からないが、視線はじっとファルに向き続けていた。一旦彼女を宿に戻らせると、ファルはエーリカに言う。
「あの子、かなり強いぞ。 どうする?」
「何を悩んでいるの? あの子は武人としての自分に誇りを持っていて、貴方の為に役立ちたいと思っている。 なら、結論は一つでしょ?」
「そう……だな」
「愚僧は六人目の戦友として、彼女を歓迎するつもりよ。 貴方は反対なの?」
ずっと力を増してきているエーリカのフィールを受けながら、ファルは少し肩を落とした。
「反対はしない。 する理由がない」
「なら、コレで決定ね。 気持ちの切り替え、迷宮に行くまでにしておいて」
痛みが引いた脇腹をひと叩きすると、エーリカは自身も宿に戻っていった。かなわないなと、ファルはその後ろ姿を見送った。
3,蹂躙
現在地下三層には六ヶ所の騎士団拠点があり、補給部隊が護衛と共に、数日に一度物資を搬送している。無論魔物の襲撃に晒される事も多く、護衛はかなり強力な部隊が付けられている。護衛は冒険者に依頼される事もあり、手が足りない時には公共機関へ応援が要請される事もある。
そんな理由で、テュルゴー=マルッテロは、地下三層の拠点へ物資を運ぶ部隊の護衛に付いていた。市役所に勤め、普段はデスクワークをしている彼なのだが、日々の不行状がギルドの上層部に目を付けられ、半ば強制的にこの仕事を押しつけられたのである。泣いていやがる彼に、先輩の忍者は冷たく言い放った。
「汚名を払拭したければ、此処で少しは手柄を立てるのだな」
確かにテュルゴーは場所を選ばないナンパ行為や、各所の酒場でのツケ、更に市役所における仕事の雑さから、各所から苦情が来ていた。今回の任務は地下三層への護衛と言う事もあり、悩みながらも彼に忍者の資格を与えたギルドとしては、是非受けておきたい所であった。何しろ一応一人前のテュルゴーには(問題ない)レベルの任務であると同時に、ある程度美味しい報酬が入る仕事でもある。こういう所で経験を積ませておけば、将来的には少しは使えるようになるはずだと、ギルドの上層部は考えたのである。
「冗談じゃないよ、全くよぉ……」
暗くて恐い迷宮の仲で、テュルゴーは護衛任務に就きながら、そう呟いていた。冒険者の仲には妙齢の娘もいたのだが、とてもいつものように口説く気になどなれなかった。逃げ足だけは超一流のテュルゴーは、此処が如何に危険な場所か、肌で感じ取っていたからである。場所を選ばないと言っても、流石に此処でそれをやったら死ぬ事ぐらい、一応の訓練を受けたテュルゴーは知っていた。
護衛は十三人。三人が騎士で、テュルゴーを除く残りは冒険者である。補給物資は四台の荷車に乗せられ、最初に地下二層の拠点を回った後、三層の拠点を一つずつ回っていく。そして、三つ目の拠点に物資を補給し終え、四つ目の拠点にさしかかった時、それは現れた。
地下一層、地下二層を通り抜け、地下三層に入ると、またしても雰囲気ががらりと変わった。確かに噂通り、何処かの神殿のようである。
まず天井が高い。彼方此方には、魔法の光が灯っており、とても明るい。地下二層から入ってきた時に、目が慣れていないと奇襲を受ける恐れがあるほどだ。入って最初に目に付くのは、途轍もなく広いホールと、その中央にある、四角錐の建物だ。煉瓦をただ積んでいるようにも見えるのだが、なかなかどうして、その周囲に凝らされている彫刻は、侮れるレベルではない。異郷の神らしき模様が無数に刻まれたそれは、どことなく魅力的であった。
そのホールからは、通路が前後左右に延びている。地面は多く踏みしめられた跡があり、壁には埃こそ付いてはいたが、コケも生えていない。壁を手の甲で数度叩いたロベルドは、鼻を鳴らしていった。
「コレは、俺らの技術だな。 壁に強力な魔法をかけて、腐食しないようにしてやがる」
「何か気に入らない所でもあるのか? 鏡面のように磨き抜かれた、芸術的に美しい壁ではないか」
「年代から言って、多分コレは二千年くらい前のものだろ。 その頃のベノアで、ドワーフに人権なんて無かったんだよ。 これは俺らの血と涙の結晶だな。 何の為の建物だかはしらねえけどよ」
太い腕で壁を一殴りすると、ロベルドは率先して歩き出した。現在は前衛にロベルドとヴェーラとファルが、後衛にエーリカとコンデとフリーダーが控えている形である。フリーダーは周囲を所在なげに見渡していて、時々異国の言葉で何やら呟いていた。フリーダーには、ホビット用にあしらわれた皮鎧と、ルーシーが倉庫の奥から引っ張り出してきたクロスボウが支給されている。最初ルーシーは不安そうにクロスボウを渡したのだが、フリーダーが問題なく使いこなして見せたので、文句も言わずに引き下がった。
一通りホールを周り終わると、周囲に七つの通路が確認された。いずれも四角錐の建物から放射状に、ほぼ等角度に出ている。出口も入れて八本の通路が、蜘蛛の巣のように延びているのである。マッピングをするファルに、エーリカは出口とは逆方向の通路を指さした。
「まずは此方に行ってみましょう」
「何か根拠は?」
「何もないわよ。 全部の通路にどうせ入るんだし、そんな事で議論しても仕方がないでしょ?」
正しすぎてぐうの音もでない。ロベルドを先頭に、六人は通路の奥へと進む。その時だった。通路の遙か奥で、凄まじい爆発音が響き渡ったのは。通路が揺動し、埃がぱらぱらと落ちてくる。目を細めたファルが、足を止めて、鯉口を切った。無数の羽音が近づいてくる。それに統一性はなく、乱れ、慌てていた。
「早速おいでなすったか!」
「あれはドラゴンフライだな」
ドラゴンフライとは一般的にトンボの事だが、カルマンの迷宮におけるそれは全くの別物である。恐らく一種の合成生物で、大型の蜥蜴にトンボのような羽を生やした姿をしていて、微弱ながらブレス能力を持っている。体長は八十pほど。一匹では駆け出しの冒険者の敵にもならないが、集団になると途端に危険になってくる存在である。そのドラゴンフライがおよそ四十。通路一杯に、パニックを起こして飛んでくる。後ろを見れば、通路を抜けられない事もない。此処で勝負するかやり過ごすか、判断によって危険度も変わるのだが。
「敵意はありません。 後退を進言いたします」
「ほんと?」
「はい。 パニックに陥っているだけで、我らに害を為そうとはしていません。 むしろ、攻撃した方が危険だと思われます」
「確かに目にも入ってないって感じね。 みんな、ホールまで戻って!」
エーリカ自身が率先して走り出し、追いかけてくる無数の羽音を背に、皆はホールへと飛び込んだ。皆、地面に飛びつき、そして臥せる。少し遅れたフリーダーの頭を、伏せたファルが慌てて押さえ込む。無数のドラゴンフライは狂乱しながら通路を飛び抜け、ホールに出ると上昇し、ファル達の頭の上を通り抜け、上の方に見える穴へと飛び込んでいった。ビュンビュンと、風を斬る羽音が周囲で乱舞する。狂乱していた彼らはブレスを吐き散らかしていて、彼方此方に閃光が奔ったが、確かに敵意どころの話ではなかった。やがて、最後のドラゴンフライが逃げ去ると、ホールには死に等しい沈黙が再び訪れていた。
「あちちちち、酷いのう。 小生が一体何をしたというのじゃ」
流れ弾を浴びて額を少し焦がされてしまったコンデが、ぶつぶつ文句を言いながら起きあがる。それを見ながら、しなやかな体を伸ばして、ヴェーラが体を起こした。
「狼に追われた兎が如く怯えきっていたな。 いったい奴らに何があったのだ?」
「ドラゴンかも知れぬな」
「なら、願ったりだな。 どうせガスドラゴンくらい倒せなきゃ、この下層には行けっこねえんだ」
「そう言う事。 それにしてもフリーダーちゃん、的確な判断、見事だったわよ」
「お役に立てて光栄です」
言葉は硬いが、エーリカに頭を撫でられたフリーダーは、嬉しそうに目を細めた。周囲を見回し、奇襲の危険がない事を確認したエーリカは、手を叩いて皆に言った。
「何にしても、何があったのかは、通路の奥まで言ってみれば分かる事よ。 みんな、気を引き締めて」
過剰な美しさは、却って情欲をそそらないものなのだ。騎士団の第四拠点まであと少しと言う所で、テュルゴーはそれを思い知らされていた。
補給隊は足を止め、あるものは呆然と、あるものは剣に手を掛け、眼前に現れた存在を睨み付けていた。艶やかな黒髪、度が外れた美貌。そして、仮に見えなくても、圧倒的な質感を本能的に思い知らされてしまうほどの、超絶的な魔力。地上から子供の背丈分ほど浮き上がり、浮遊しているその存在は。手配書にある、魔女アウローラそのものであった。
「ア、アア、アウローラっ!」
血の気が多そうな騎士が、震えながら剣を抜き放つ。ダメだ、勝てない。テュルゴーは心の中で思う。相手が悪すぎる。鼠が虎に挑むようなものだ。一歩、二歩、足が下がる。もう護衛どころではない。殺される。殺される。殺される……!
「騎士団がごそごそ動いているという話だから、わざわざ遊びに来てあげたのに……どうしたの? そんなに怯えて。 まさか私と戦う事を、覚悟していなかったとかいうつもりじゃないわよね」
目を細めて、アウローラはくすくすと笑った。ゆっくり彼女は地面に降りる。そして、固まってしまっている冒険者の一人に歩み寄り、顎を摘んで顔をのぞき込んだ。行動には全く邪気がない。何というか、子供のような純真さだ。
「どうしたの? こんなに近いのに、私に斬りかかってこないの?」
「あ、ああ、あ、あ……!」
「つまらないわ。 とてもつまらない。 世界最強の軍隊だと言うから、期待していたのよ? なのにこの体たらく。 オルトルード王も可哀想。 こんな惰弱な軍隊を率いて、戦わなければならないんだから」
「だ、だ、だまれええっ!」
肩をすくめ、冒険者から手を離し、アウローラはにっこりと笑った。剣を抜いた騎士はそれを構え、そしてついに自らを掴んでいた恐怖をねじ伏せ、咆吼を上げつつ魔女に躍りかかった。ああダメだ、コレで終わりだ。テュルゴーの脳裏に、今まで経験した事が、走馬燈のように流れすぎる。
あまりにも早かった。アウローラの詠唱は、あまりにも超絶的だった。どういう圧縮呪文なのかは分からないが、殆どワンインパクトで、巨大な攻撃魔法を完成させて見せたのだ。そして彼女は、無造作にそれを叩き付けた。大爆発が起こった。
通路は長く、そして奥から煙が漏れ来ていた。最初に通路を抜け、惨劇の場に飛び込んだのは、ロベルドだった。彼に遅れて広めの部屋に入ったファルは、濛々と沸き立つ煙に咳き込み、人肉の焼ける匂いに眉をひそめた。冷静に見回してみれば、其処は現世に顕現した地獄だった。
「全滅……だな」
「いったい何が出やがったんだ! 魔王か!? 神か!? ドラゴンにだって、こんなの無理だろっ!?」
ロベルドの困惑も、無理がない話であった。辺りには、十人以上が、ばらばらの部品になって散らばっていた。彼らが着ていた鎧には、騎士団のものも含まれていた。騎士団の強さは、地下一層で充分に見た。騎士団員も含んだ十人以上を、ほぼ瞬殺するとは。尋常な存在が出来る事ではない。
爆心地はクレーターになっており、何人かは消し飛んでしまったようである。此処で戦い、いや虐殺が行われたのは明らかだった。辺りには吹っ飛んだ柱や、崩れた瓦礫が散乱していた。
「ドラゴンフライが逃げるわけだぜ……」
「気をつけろ、まだこの辺りにいるかも知れないぞ! こんなバケモノが、現世にいるとは……」
「いや、それはない。 もう気配は去った。 それより、生存者だ」
冷静にハンカチで口を押さえながら、ファルは崩れた柱に手を掛け、手伝うようにロベルドを呼んだ。柱の下には、まだぴくぴくと動いている手が見えた。柱の位置的に、潰されている可能性も少ない。
「せーのっ!」
「ぐおっ!? びくともしやがらねえ」
「私も手伝おう。 火神よ、我らに加護を!」
「当機も協力いたします」
フリーダーがランスモードに右腕を形態変化させる。三人が息を合わせて柱を押し、更にフリーダーがタイミングを見計らって、てこの要領で柱を押す。柱が動き、そして瓦礫の向こうに転がった。後は瓦礫を順番にどけていき、丁寧に取り除いていく。程なく、傷だらけの生存者が姿を見せた。位置的に運が良かったのか、二人瓦礫の下敷きになって、助かっていた。一人は男、一人は女である。形態を戻したフリーダーが、疲れたのか、へたり込んで右腕を押さえる。生存者はエーリカに任せて置いて、ファルは腰を落として、彼女を気遣った。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。 もう少し魔力を吸収すれば、基礎エネルギーを増大出来るのですが」
「よく分からないが、休めば大丈夫なのか?」
「はい」
「ファルさん! ちょっとこのヒト、ニンジャじゃないの?」
呼ばれたファルが振り向いて、被害者を確認する。其処には、彼女があまり好いてはいない、同僚の顔があった。
「テュルゴーか。 確かに私の同僚だ」
「良かった。 少しは話が聞けそうね」
「どうだかな。 此奴は魔女だって隙を見て口説こうとするような奴だ」
「せ、せんぱいいい、酷いッスよお。 俺、その魔女にやられたんすからああ」
皆が硬直した。煤まみれの、疲れ切った顔で、テュルゴーはぼつぼつと語り始めた。
4,任務達成
テュルゴーと一緒に瓦礫の下敷きになっていた女性は、忍者があっさり目を覚ました後も、意識を取り戻さなかった。以前地下一層で助けて貰った兵士に似ている気もするが、もう流石に記憶が曖昧で、断言は出来ない。随分幼い顔立ちで、ようやく成人したくらいである。どちらかというと、体つきもかなり貧弱だった。どうやら戦士か騎士らしく、それなりに良さそうな鎧を身につけてはいるが、そんなものは魔女の圧倒的な破壊には無力だった。
テュルゴーは話を終えると、すぐに地上に戻りたいと言った。まあ、あれほど酷い目にあったのだから、無理もない話ではある。ただし、怪我の方は幸いにも、そう大したことがなかった。魔女の話を聞き終えると、まずテュルゴーの事は脇に置いておいて、エーリカが言った。
「魔女のキャラクター、予想していたものと随分違うわね。 まるで子供だわ」
「そうだな。 恐ろしい存在だという点では同意だが、悪意や邪気は感じられない。 ひょっとすると、本当に子供なのかも知れぬな」
「恐ろしいガキだな、おい」
周囲はようやく煙が収まってきていた。さりげなく周囲をフリーダーが回って、使えそうな物資を比較的無事だった荷車に詰め込んでいる。部屋の入り口は二カ所だけで、今なら奇襲される怖れもない。
「先輩、早く帰りましょうよおお。 俺、ちびりそうッスよ」
「奴にしてみれば、本当に(遊びに来た)感覚だったのだろうな」
「しかも手を出されるまでは黙っていたとは。 妙な奴だ。 天才というのは変わり者だと聞くが、その典型なのだろう」
「ならば、却って付け入る隙があるかも知れないわ。 今後は冷静に、相手の挙動を見極めましょう」
「先輩いい、傷が、傷が痛いッスよおおおおお」
「少し黙ってろ」
「はい」
一瞬で五月蠅い外野を黙らせると、ファルは、作業が終わって此方に手を振ってきたフリーダーに頷き返した。地なのか天然なのか、結構愛想がある子である。陽性の表情も魅力の一つだ。見れば、三つあった荷車のうち、何とか一つと半分ほどが無事である。レーション(軍隊用の携帯食。 基本的に不味い)や矢などの消耗品、それにマジックアイテムなどが積み荷であり、一部はポーションなどの回復薬だった。ただし、瓶詰の薬の類は、殆ど地面に叩き付けられて割れてしまっていた。それに対し、スクロール(巻物)の類は、比較的無事なものが多かった。瓶詰は保存にはよいのだが、耐久力がないのが課題である。
「ん……」
意識の無かった女性が苦しそうに喘ぎ、視線が集まる。ロベルドが広い掌で、彼女の頬を優しく叩いた。
「お。 起きた。 おい、生きてるか?」
「あ……魔女……は……?」
「もういないわ。 貴方は此処で寝ていて」
体を起こそうとした娘は、エーリカに押しとどめられて床に横になった。頭や腹は大丈夫なのだが、右手にかなり深い傷がある。おそらく寺院で暫く治療しないと、前線には復帰出来ないだろう。
「兎に角、一旦三層の入り口辺りまで戻りましょう。 じきに魔物が集まってくるかも知れないわ」
「そうッスよ! はやく戻りましょうよぉ」
「黙れと言っただろう」
「はい。 すみません」
再びテュルゴーを一瞬で黙らせると、ファルは真剣な顔で皆に向き直る。彼女にしてみても、実際には、テュルゴーと同意見だったのだ。今回はまだほぼ全快と言っていいほどに余力があるが、それとこれとは話が別だ。
「此処が危険だというのは確かだな。 戻るのがやはり吉か」
「待って……下さい」
「まだ喋っちゃダメよ」
「少し……だけです。 あの……物資……残った分だけでも……。 詰め所に……」
喋るのが相当つらいらしく、時々言葉を切らせながら、娘は続けた。
「報酬は……あなた方に差し上げます……ですから……届けるのを手伝って……」
「騎士団の補給物資、奪われたりするの珍しくないんでしょ? 今回は引いても、次があるじゃない」
「……三層よりしたの……騎士団は……みんなぎりぎりの……ゴホゴホっ! 戦いをしています。 補給物資が遅れれば、それだけ戦いは……厳しくなるんです。 もっと下で苦しい戦いをしている人達に……迷惑をかけない為にも……お願いします」
「……分かったわ。 その代わり、自分の身は自分で守って貰うわよ。 コンデさん、魔法協力!」
「お、おう。 分かったぞ!」
今まではエーリカが魔法協力を行い、コンデの魔力を増幅するのがパターンだった。その常識を覆すように、今回はコンデがエーリカの魔力を増幅する。できたてのバターのような柔らかい光が、圧倒的な質感と共に女冒険者の体を包む。驚いたように彼女は体を起こし、しかし苦痛に目を細めていた。エーリカは額の汗を拭い、そして大きく息をはき出した。
「何とかこれで歩けるくらいには回復したはずよ。 荷物は貴方とテュルゴーさんで搬送して。 それと、道案内を頼むわ」
戦闘力を喪失している二人を庇いながらの、補給物資搬送。一見すると確かに危険な任務であるが、同時に迷宮の構造も把握出来るし、ハンディキャップマッチという不利な戦闘も経験出来る。今後の事を考えると、確かに有利ではあった。……全滅さえしなければ。
「で、貴方の名前は?」
「リンシア。 これでも、騎士団員をしています」
エーリカの言葉に、少し照れくさそうに、僅かに無念そうに、娘は応えた。
血の臭いは、魔物を引きつける。通路を歩きながら、ファルはそう思った。
リンシアと名乗った女騎士の話によると、地下三層の騎士団詰め所は六ヶ所。何でも地下四層へのルートは二つあるそうで、そのルートに沿って、重要な場所に三つずつ拠点があるのだという。一方のルートにある拠点への搬送は既に終わり、もう一方のルートに物資を運ぼうとしていた矢先に、補給部隊は魔女に遭遇してしまったのであった。何とも不運な話である。
二台の荷車に分乗させた荷物を、テュルゴーと女騎士が、それぞれ一台ずつ押す。情況が情況なので、少し陣形を変えないと行けない。最後尾にファルが残り、前衛にロベルドとヴェーラが出て、真ん中、荷車の側にエーリカとコンデが入る。フリーダーは少し後ろの、ファルよりの地点で、支援を担当する事となった。いつもより戦闘能力は落ちるが、これは致し方がない。戦いになったら、一旦敵の攻勢を受け止めて、それから情況に応じて陣形を変える事が要求されるのだ。
通路に出て、暫く歩くと、早速魔物が現れた。しかも大物である。身長約四メートル。オーガより二周りは大きいヒューマノイド、アースジャイアントであった。最下級まで堕落した神族のなれの果てとも言われており、確かにその佇まいには何処か威厳がある。此方を認めたアースジャイアントは二体。大きく胸を反らし、巨大な斧を振り上げて吠え猛る。後ろを素早く確認したファルは、敵がいない事を認め、前衛に飛び出した。その途中でエーリカが出す指示を確認し、小さく頷く。相変わらず容赦が無く、そして二重三重に練られたものだった。
ジャイアントは巨体を揺らして、突撃してきた。此方は荷車を抱えているわけであるし、安易に逃げられない。それを一瞬で見越しての事である。その足を止めたのは、鋭いクロスボウでの一撃だった。フリーダーが放ったクロスボウボルト(クロスボウの矢。 貫通力が高い)が的確に巨人へ飛び、五月蠅そうに巨人が足を止め、斧を盾にして矢の一撃を防ぐ。狙撃の精度から言って、これ以上近づけば目を射抜かれると、すぐに悟ったのだ。代わりに少し後ろにいたもう一体が、巨大な斧を此方へ投擲してくる。同時に、魔法協力したコンデの魔法が炸裂した。
「炎の鳥朱雀よ、汝の翼、紅き翼、天焦がし地を焼き、薙ぎ飲み込む炎の顕現! その力の一端、我に貸し与え、共に大いなる殲滅あれ! ザクレタ!」
クレタの上級魔法ザクレタであった。元々クレタより火力が数段上であるし、更に今は魔法協力して威力を倍幅しているのだ。巨大な火球が斧とぶつかり合い、相殺し会う。そしてその衝突の余波たる炎と煙を斬り破って、三人が一気に巨人の眼前へと躍り出ていた。ねらうは急所、アキレス腱である。
前に出ていたアースジャイアントは、体の前面に付いた炎を払うのに必死になっていた。其処へ一気に突撃したロベルドが、斧を振るって一気に右足のアキレス腱を切断した。大量の血をぶちまけ、尻餅をつく巨人の顔面に、跳躍したヴェーラがハルバードの刃を突き込む。だが巨人はあろう事か刃を素手でつかみ取ると、血が流れるのも厭わず、ヴェーラを跳ね飛ばしていた。そして太い腕を振るって、ロベルドも跳ね飛ばす。そして立ち上がろうとした矢先に、今の隙に死角へ潜り込んでいたファルが、脳天へ致死の一撃を叩き込んでいた。
「ギャアアアアアアアアアアッ!」
巨人が頭を押さえ、絶叫して体を前後に振る。許さじとばかりに、もう一体の巨人が、太い拳をファルに叩き付けてきた。素早く飛び離れたファルは、大量の鮮血と脳漿を浴びて舌打ちした。剣を引き抜いた巨人の頭を、もう一体の拳が砕いていたからである。怒りで顔を真っ赤にした巨人は、頭を半ば砕かれ痙攣しているもう一体の手から大斧をもぎ取り、手当たり次第にその辺にいるロベルドやヴェーラ、それにファルに叩き付けてきた。その顔面に、エーリカが放ったバレッツが炸裂し、のけぞった所に、三発連続してクロスボウボルトが胸、腹、足に突き立った。だが、いずれも致命傷にはならない。コンデが放ったクレタに至っては、巨人が拳で撃ち払ってしまった。火傷した拳を振るい、巨人が絶叫する。
「タフな奴だな。 まるで巨大な台所の敵だ」
「私が気を引く。 隙を狙え」
呼吸法を駆使して、ファルは前に出た。巨人はびゅうびゅうと音を立てて斧を振り回し、憎き敵を砕かんと迫ってくる。ファルはその正面に出るのではなく、足下をちょろちょろ走り回って、時々抜き打ちを敵の足に入れる。だが、いずれも致命傷にはならない。やはり、火力不足である。
ファルは強いが、魔物と戦うには、特にこういう重量型の魔物と戦うには、少し火力が不足しているのだ。人間相手なら、彼女の業は幾らでも致命傷になる。しかしこういった手合いには、巨大な武具や、あるいは強烈な魔法が無ければ致命傷を与えられない。ファルは速い。だがパワーはさほど無い。だから、こういった時には、囮にならざるを得ないのだ。
「む?」
それを嘆かず、近くの血だまりに巨人をさりげなく誘導しようとしていたファルは、かすかに見える魔力の流れに気付いた。微弱ながら、瞑想法の効果が出始めていたのだ。巨人の体を流れる魔力は、何カ所かで集まっていた。一カ所は頸動脈である。他にも何カ所かあったが、一カ所は思いもかけぬ場所にあった。喉の僅かに下、胸の中央。しかも、そう深くない位置である。ファルを支援すべく、フリーダーが連続してクロスボウに矢を装填して放つ。いずれも的確に巨人に突き刺さる。イライラが頂点に達した巨人は、ファルを踏みつぶそうとし、そして思いっきり尻から転けた。さっき殺した仲間の血だまりを、ファルの誘導通り踏みつけたからである。
ここぞとばかりに、間合いを計っていたヴェーラとロベルドが、巨人の首に左右からWスラッシュを決めた。巨人は悲鳴を上げるが、致命傷には至らない。ファルは跳躍、殺気見えた胸の中央に、刀での一撃を思いっきり叩き込み、更に踏みつけていた。残念ながら一撃は僅かにそれたが、その瞬間、巨人の動きが確かに鈍った。だが、流石に巨人。うなり声と共に、彼が身にたかった人間共を、まとめて払い飛ばす。壁に叩き付けられたファルは、何とか受け身を取れたが、しかし吐血していた。
体を起こそうとした巨人に、魔法協力でブーストされたザクレタが叩き付けられる。火の粉を撒きながら飛び来る死の使者に、巨人は両手の拳を固め、一撃にうち下ろしていた。爆炎がまき散らされ、吹っ飛んだ巨人が悲鳴を上げる。呆れたタフさである。今の一撃は周囲に倒れていた人間共にも少なからずダメージを与えた。ロベルドとコンデは、かなりの打撃を受けてすぐに立ち上がれない。ファルは口に付いた血を手の甲でぬぐい去ると、刀を構え直し、手首から先が消し飛ばされた右手を掴んでもがいている巨人へと走った。
ファルを認めた巨人は、足を振って、蹴り潰そうとしてきた。しかし、動きが鈍い。今のWスラッシュは、致命傷にはならなかったが、もう充分に動けないほどのダメージは与えていたのである。聴覚強化呼吸法で感覚を鋭くしているファルは、降り来る踵を紙三重ほどでかわし、巨人の体の上に躍り出る。巨人は左腕を振るってそれを迎撃しようとするが、半ばもげかけたその指に、二本連続でクロスボウボルトが突き立った。巨人の動きが止まる。
「せあっ!」
全身の体重、更に落下の運動エネルギーも全て込め、ファルは先ほど付けた傷へ、一撃を叩き込んでいた。今度は外れなかった。刀は柄まで巨人の体に埋まり、大量の血を吐いた巨人は白目を剥き、そして血だまりに沈んだのであった。
一カ所めの拠点で、ファルは詰めていた騎士達に事情を説明した。騎士達はかなりの打撃を受けたファル達に回復魔法をかけてくれたほか、状況を知るリンシアからの説明を受け、蒼白になっていた。確かに、地下三層で魔女が現れたなどと言うのは、前代未聞であろう。リンシアは多少の休憩を取ると、新しい荷車を受け取って残った物資を詰め込み、次の拠点に行く事を申し出た。不安そうな顔をする同僚に、彼女は言った。
「私なんかより、ずっと詰め所にいる貴方達の方がつらいはずです」
「流石だ」
「アハハハハ、もうどうにでもしてくれ」
リンシアの格好いい言動に満足げに頷くファルと、青ざめて壁に突っ伏すテュルゴー。同じ忍者といえども、個人の特性によって、随分言動は変わるものである。
リザードフライと二度ほど交戦した後、ファルら八名は次の詰め所へたどり着く事が出来た。最初の詰め所に比べると、随分余裕がある道筋であった。其処にはジャイアントに追いかけ回されたらしい冒険者が逃げ込んでいて、傷の手当を受けていた。地上に帰るという彼らに同行したいとテュルゴーは言ったが、ファルが目を爛々と光らせて後ろから肩を掴んだので、その後は何も言えなかった。実際問題、怪我した女の子が任務を遂行すると言っているのに、自分だけ帰ろうという行動は、何処の世界でも良しとはされないであろう。
二度目の詰め所は、複雑に入り組んだ迷宮の通路から、少し外れた所にあった。それが故に拠点として適当だったのだが、同時にそれは別の詰め所との連絡が悪い事も意味する。今回は案内が出来るリンシアがいるからまだいいが、魔物との交戦が起こりうる事を考えると、補給隊の手間は膨大である。リンシアは軍事機密だと言って地図を見せてはくれなかったので、ファルは急いでうねりのたくる通路を、マッピングし続けなければならなかった。
そして、何度目かの曲がり角にたどり着いた時、荷車を引いていたリンシアが立ち止まった。いわゆる三叉路になっていて、左端の通路の奥には何やら光が見える。リンシアは其方を指さし、言った。
「彼方には近づかないでください」
「うん? どういう事だ?」
「ホワイトマッシュルームが大量に生えています。 踏み込んだらドラゴンでも死にます」
もっとも怖れられる寄生茸の名を、女騎士は上げた。それは迷宮にたまに見られる寄生茸で、非常に強力な幻覚作用があり、光を恒常的に放っている。光に引き寄せられた者は、幻覚を見せられてその周囲をぐるぐると回り続け、やがて死に至るのだ。そしてその屍を苗床に、茸は数を増やすのである。
続いてリンシアは、真ん中、右と指を移していった。
「此方へ行くと、地下四層に出ます。 ただし、地下四層の魔物は、三層よりさらに一段手強いです。 そして此方が、騎士団の詰め所になっています」
右側の通路は階段になっていて、上へ上へと延びている。これは、荷車を搬送するのは文字通りの骨だ。中身が三分の一になっているとはいえ、である。
方法としては、荷車を横にして、一段ずつ上げていくしかない。だがそれは大変時間がかかる上に、奇襲された時が非常に危険である。階段を見上げたファルは、荷車を横にしたリンシアに問う。
「上に出ると、すぐに詰め所なのか?」
「いえ。 上は結構広い作りになっていて、かなり奥行きがあります。 此方を通ると入り口から出口までかなりショートカット出来るという噂もありますが、まだ騎士団では確認出来ていません。 それに、魔物もこっちより少し強いですし、ガスドラゴンが出る事も多いです」
「じゃあ、此処は地下二層同様の、上下二層構造なのか?」
「いえ、もう一段上にあるとも言われています。 ただ、私は見た事がありません」
となると、奇襲の恐れは充分にある。髪の毛をかき回すと、エーリカは言った。
「仕方がないわね。 ロベルド、ヴェーラさん、コンデさん、それに愚僧が先陣になって、一台目を運ぶわ。 二台目はファルさん、それにフリーダーちゃんと一緒に来て。 危なくなったらすぐに此方に逃げ込んで」
この場合、一片に運ぼうとして前後を挟まれでもしたらお終いである。必然的に部隊は分けるしかない。一台目はテュルゴーが運び上げる事になり、すぐに作業が始まった。
下に残された三人は、しばしの沈黙の中にいた。フリーダーはクロスボウの状態をチェックして、鏃の様子を一本一本調べている。まだ、合図である小石は階段の上から落ちてこないから、しばらくは動くわけには行かない。ファルは壁に背を預けて腕組みしていたが、やがてリンシアが口を開いた。
「ファルーレストさん、とても強いですね。 忍者という職業だと聞きましたが」
「そうだ」
「私、騎士団に入れて、少しは強くなれたかと思ったんですけど、まだまだですね。 冒険者の方々に助けて貰って、情けないです」
「自力で全て出来る者は確かにいるが、そんな者は一握りだ。 私だってそうだとは言えない。 何も恥じる事はない」
フリーダーが此方を見たが、すぐにクロスボウのチェックに戻った。さっきの戦いでの支援は実に見事だった。フリーダーがいなければ負けていた、と迄は行かなくても、もう少し苦戦する事になっていただろう。接近戦をさせても、相当に出来るかも知れない。あの体術のキレを考えれば、それはほぼ間違いない事実だ。
「そう言って貰えると、少し自信出ます」
「完璧な人間などいない。 いたとしたら、それは神の域に達した存在だ。 まあ、そんな領域に、何時かは到達してみたいものだが、な」
小石が落ちてきた。先に上がるように促すと、ファルはフリーダーに荷物搬送を手伝うようにいい、自身は最後尾に立った。階段を後ろ向きに、ゆっくり上がっていく。荷車を一段ずつ上に搬送していく音が、規則正しく響いていく。
『完璧な存在、か』
心中でファルは一人ごちた。時々後ろも油断無く伺い、何か追撃を掛けてこないか注意を払い続ける。
『もし武人として完璧な、最高の域にまで到達出来たら……』
まだ遙か遠い先の事を思い浮かべ、ファルは目を細めていた。
『それは、武神とでも呼ばれるのだろうな。 武神……か。 武神になれば、私の護るべき者を、全て護れるのだろうか』
不審な音はしない。気配もない。ゆっくり下がっていき、階段を後ろ向きに上がり続ける。振り返ると、階段の先に光が見えた。後少しだと思った矢先、ファルの耳に、剣戟の音が響いた。
「マイマスター・ファルーレスト! 敵襲です」
「フリーダー! 先に行って、支援をして来い。 私は残って、搬送の支援を続ける」
「了解しました」
ファルは素早く駆け上がると、荷車の反対側を掴んだ。そして、小さく頷いた。
「速攻で駆け抜けるぞ! 痛むと思うが、我慢してくれ」
「は、はい!」
円陣を組んで、階段の出口をガードしていたヴェーラ、ロベルド、エーリカ、コンデ、それにテュルゴーに襲いかかったのは、シェイドと呼ばれる不死者であった。名前通り影のような存在だが、半霊体で物理干渉能力を持っており、しかも生命力を吸収するエナジードレインと呼ばれる厄介な力を持っている。それが五体。隊形は極めて不利で、しかも相手は手強い。その上此方は怪我人を一人抱えているのだ。
シェイドは注視すると、黒いもやの中に固定された形を持っている。それはマントを身につけた戦士のような姿であり、長大な剣をたいてい手にしている。その上浮遊能力を持っていて、円陣を組まざるを得ない五人に、立体的な攻撃を仕掛け続けてきた。特にコンデが何度も狙われて、おろおろする老人の頭上に何度もバレッツを放ちながら、エーリカは舌打ちした。
「まずいわね。 でも、もう少し持ちこたえるわよ!」
「逃げた方がよくないっすかあああ! ひいいいい!」
「もう少し踏みとどまれば、彼奴らが駆けつけてくるんだよ! うだうだ抜かすなっ!」
テュルゴーに襲いかかろうとしたシェイドの剣を斬り払いながら、ロベルドが叫ぶ。だが巨大な斧の一撃は、剣は払えても、シェイドの体はすり抜けてしまう。実体がない為、物理的な攻撃では有効打を与えられないのだ。エンチャントされたヴェーラのハルバードは多少効いてはいたが、かかっている魔力がそもそも微弱なので、致命傷を与えるにはほど遠い。
「はああっ!」
一瞬の隙をついて、エーリカがディスペルを発動する。巨大な魔法陣が周囲を包むが、光に焼け溶かされたのは僅か一体。残りは健在で、そして更に状況が悪化した。一体が距離を取り、そして頭を上に向けたのである。そして、灰色に汚れた口を大きく開き、金切り声を上げた。
「キヒィイイイイイイイイイイイイイッ!」
とっさに耳を押さえた皆だが、以前バンシーが使ったような金切り声ではなかった。そうではなく、仲間を呼ぶ為の特殊な泣き声だったのである。左右から、更に三体のシェイドが現れ、剣を振るって上から落ちかかってくる。
「畜生、武器に魔力がかかってればよ!」
「すまん、唱える時間がない!」
「今は耐えて! もう援護が来るわっ! コンデさんもザイバは良いわ! クレタで敵を牽制して!」
額に汗を浮かべながら、エーリカがバレッツを連射する。しかし、その威力は確実に落ちつつあった。そして、ついに一体が防御火線をくぐり抜け、コンデの頭上へと躍り出た。振り上げられる剣。目を見開くコンデ。シェイドの刃、その切っ先が、鈍い音と共に肉へめり込んでいた。
階段を駆け上がるフリーダーは、無数の情報を収集しながら、有効かと思われる戦術を練り上げていた。得られた情報からして、敵は不死者が現時点で七体。そして味方は円陣を組んでおり、武器にエンチャントを施す余裕がない。ならば、自分が行える支援は、エンチャントが出来る様になるまで、時間を稼ぐ事である。それには奇襲が最適だ。
五つの形態変化のうち、ランスモードも含め、四つが近接戦闘用である。そのうち対不死者用の形態は二つ。今回の戦闘で有用なのは、どちらかと言えばそのうちの一つだけである。攻撃力は若干低めだが、この場合は仕方がない。体力もギリギリになるが、それも致し方がない。
フリーダーの任務は、戦う事。マスターの為に戦う事。カウントしながら、オートマターは階段を駆ける。
「5,4,3……」
階段のすぐ前に、荷車がある。それを飛び越し、形態変化を完了させながら、フリーダーは戦場に躍り出ていた。
「2,1,零!」
肉体変化、レイピアモード。肘から先を変化させた形態で、レイピアと言っても、それは通常の槍ほども太さがある。魔力を纏った死の突だ。ランスモードほど太くはない分軽く、代わりに貫通力を犠牲にしている。最初の餌食は、テュルゴーの肩に剣を突き立てているシェイド。表情を変えず、フリーダーは一撃で不死者を貫き、屠り去っていた。当たりさえすれば強力なのだが、真っ正面から敵と渡り合うには向かない。そのまま彼女は倒したシェイドを放り捨て、味方の後ろに飛び込んで敵の死角へと回り込み始めた。
「ぐああああっ!」
とっさにコンデを押しのけたテュルゴーは、肩に走った鈍痛に絶叫していた。思わず膝をつく彼の全身から力が抜けていく。
何でこんな事をしたのか。理不尽な痛みを覚えているのか。テュルゴーは歯を噛んでいた。楽に生きたいのに、こんな仕事を押しつけられて、こんな痛みを味わって。だが、ずっと格好悪いままでいるのもうんざりだと思い始めていた。彼のおっかない先輩の連れ達は、仲間を信頼して背中を預け、今も支援を信じて耐え続けている。あの女騎士は、彼よりずっと酷い怪我にも関わらず、体を張って任務を果たそうとしている。それに比べて、彼の何と格好悪い事か。少しは格好良い事もしたい。体を張ったとしても。
「待ってろ、今助けて……」
ロベルドの言葉が終わる前に、階段から飛び出してきたフリーダーが、シェイドを一撃で貫き、屠り去っていた。その右腕は槍のように異形へと変化していたが、もうどうでも良かった。
「はは、俺……少しは役に立てたかな……」
剣が消滅し、ふっと痛みも楽になった。そのまま集中力がきれたテュルゴーは、ブラックアウトした。
「格好良かったぞ、若いの!」
フリーダーがシェイドを貫いた事で、ついに余裕が生まれたコンデが、素早く印を組み替え、ザイバを発動していた。ロベルドとヴェーラの武具を淡い光が覆う。ロベルドが唇をなめ回し、ヴェーラはハルバードを構えなおした。フリーダーの奇襲に算を乱した不死者共は一端距離を取る。それが命取りだった。
「これでも喰らいなさい! ディスペル!」
満を持してエーリカが発動したディスペルが、二体を塵と帰す。そして攻勢に出たロベルドが、ヴェーラが、今までの鬱憤を晴らすように、一体、また一体とシェイドを斬り伏せた。とどめとばかりにコンデがクレタを放ち、一体を火だるまにした。最後の一体は逃れようとしたが、死角から飛びついたフリーダーが背中から串刺しにしたため、無念の悲鳴をあげながら消滅していった。
だが、最後の一体が上げた悲鳴が、更に不死者を呼び寄せていた。五体のシェイドが、新たに現れる。だがその時、シェイド達の真ん中で、焙烙が炸裂した。悲鳴を上げてのたうち回るシェイドを見据え、ゆっくり階段から出てきたのは。
「待たせたな」
「これで全員揃ったわね。 一気に片づけるわよ!」
そう、それはファルである。傍らには、肩で息を付くリンシアの姿もあった。威き女忍者はリーダーの言葉に頷くと、敵へと一気に間を詰めていく。コンデがザイバを再び発動する。刀が淡い光に包まれる。そして、躍り上がった疾風の刃が、シェイドを一刀両断にしていた。
5,前哨戦
地下四層。灼熱の炎が渦巻く、地獄のような階層である。溶岩が吹きだしている場所あり、炎がプールのように溜まっている場所あり、壁を灼熱の溶鉄が流れ落ちている所あり、正に熱の巣であった。
その一角を歩いている者達がいる。一人は魔術師の中の魔術師、ウェズベル。彼が従える二人の用心棒。そして騎士団。最後尾には、頭の後ろで手を組んで、退屈そうに歩いているゼルもいた。
やがて、ウェズベルが足を止める。周囲には攻撃魔法が炸裂した後や、何かが叩き付けられたような破壊跡、それに何かの破片が無数に散らばっていた。
「なるほど。 此処におるのか」
「そうです。 既に騎士団の攻撃は三度に渡って失敗し、十三名の死者が出ております」
「パイロヒドラか。 もう伝説となっている存在だが、こんな所でお目にかかれるとはな」
いいながら、ウェズベルは一歩を踏み出す。そして、迷宮内にある、巨大な死の空間へと入り込んだ。
老魔導師の前には、体長三十メートルを超える巨大な生き物がいた。頭が七つ、ゆっくりと揺らめき、その全ての口から炎が漏れ出ている。四本の足で大地を踏みしめたそれは、一見ドラゴンにも見えたが、頭には角がない。そして、並のドラゴンよりも、遙かに強大な存在であった。パイロヒドラ。再生能力を持つヒドラ族の中でも特に強大で、口からブレスを吐く能力まで持っている。ドラゴンでさえ正面から戦うのは避けたがる強者である。
護衛二人が前に出て、武具を構える。ウェズベルが、ゆっくり巨大な杖を持ち上げ、胸の前で固定した。パイロヒドラが七つの鎌首をもたげ、敵を十四の瞳で睨み付ける。老魔術師はゆっくり口の端をつり上げると、後ろに控えた者達に言った。
「邪魔じゃ。 下がっておれ」
「へいへい。 そうさせて貰いますよ。 ……皆の者、下がれ」
ゼルが皆を下がらせる。そして自身もゆっくり下がりながら、少し冷めた声で言った。
「お手並み拝見、と行かせて貰いますよ。 マスター・オブ・マジシャン」
パイロヒドラが咆吼し、空間がびりびりと揺れた。とんでもないプレッシャーの中、ゼルとウェズベルだけが平然としている。やがて、老魔術師の手に、溢れんばかりの光が灯った。
無事に物資を届け終え、地下二層にまで戻ってきたファル達は、ポポーと正面から会う事になった。ポポーはエーリカを認めると、相変わらず危なっかしい走り方で駆け寄ってきた。今日の彼女は、背後に数名の騎士を連れていた。
「あ、あんた! 探していただわさ!」
「あら、どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、此処で戦ったって魔物の事、少し教えて欲しいんだわさ」
「どうして?」
ポポーは少し考え込むと、懐から書類を取りだした。それには、様々な姿をした怪物が描かれていた。一つは猿のようだった。一つは棺桶に手と頭が生えたようだった。一つは沢山が書かれていて、無数のとげが生えた芋虫のようだった。もう一つも沢山書かれていて、薄い羽を持つ小型のドラゴンに見えた。どことなくリザードフライに似ているかも知れない。
真ん中に書かれているのは、タコのような触手を無数に持つ、何処か深く巨大な威厳に包まれた人型。その傍らには、額に第三の目を持つ人間。そして、最後の一つは。
以前、此処で戦った昆虫のような魔物にそっくりだった。
「これは?」
「古代ディアラントの遺跡から発見された壁画の写しだわさ。 此奴らが何だか知ってるわさ?」
「……知らないわけでもないわ」
「そうか、やっぱり」
ふうとため息をつき、そしてポポーは言った。
「これが、うごめくものだわさ」
「……!」
「真ん中のがアシラ。 猿みたいのがスケディム。 棺桶がマジキム。 虫がラスケテスレル。 人間はオルキディアス。 芋虫はアンテロセサセウ。 そしてドラゴンっぽいのがヴェフォックス。 計七種類が、うごめくものなのだわさ」
「じゃあ、あの虫が……!」
蒼白になったポポーが、虫を指さす。エーリカが頷くと、しばし息をのみ、そしてふらふらとさがった後に言った。
「よ、よりにもよって、ラスケテスレルが出てきたなんて……!」
「ちょっと待って、どういう事なの?」
「ウェズベル先生に、お知らせしないと……大変なのだわさ……」
ポポーは夢遊病者のように歩き出し、地下三層へと消えていった。慌てて騎士達がその後を追う。うさんくさげにロベルドが言う。
「何だ彼奴。 何がしたかったんだ?」
誰も彼の言葉には応えられなかった。ただ、その場にいた全員が、何かしらの不安を覚えていたのは事実だった。
地下八層。未だ騎士団が到達出来ず、冒険者も殆ど入った事のない魔境である。その一角で、今、何かがうごめいた。
「来た……」
声が、空間そのものを揺らした。其処にいる何かが求める者が、近くに来たのである。体の芯から、歓喜が沸き上がってくる。まだ無数の微小体に過ぎない体が憎い。早く来い。早く来い。何かは、絶頂に達せんばかりの歓喜と共に、そう願った。
もう彼には、この世に現れる資格が身に付いている。鍵は発動し、不完全とはいえど条件は整ったのだ。かって此処を適合者が訪れた時には、まだ条件が満たされていなかったから、あんな下等生物に仕事を任せるしかなかった。だが、今回は違う。
早く来るがいい。早く来るがいい!闇の中を、思念が流れた。そして、魔物達を喰らい始めた。地下二層での惨劇が、地下八層でもまた、繰り返されようとしていた。
(続)
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