邪神降臨
序、うごめくもの
様々に姿を変えながら生きていくものがいる。例えば昆虫は、その生涯の中で幾度も変態を行い、生きるのに都合がいい姿形を渡り歩いていく。甲殻類も幼生の時は成体と全く異なる姿をしているし、中には生物と非生物を行ったり来たりする存在すらある。
だが、その存在の生態は、それらとは全く次元が異なるほどに巧妙で、複雑であった。彼らは最初、人間の肉眼ではとても捕らえきれないほど小さな存在として、この世界に生を受ける。微小で、だがとても強靱なそれは、世界に特定の条件が揃った時に、異界からの干渉で生まれ出るのだ。それの仕事は、仲間を増やす事だ。自分の周囲にある物質を使って分身を増やし、更に増やし、やがて一定数に達すると、攻撃能力を持つようになる。ある程度の数が固まりとなり、ヒルのような見かけを持つ存在となり、他者の体に隙を見て潜り込む。そして、内部で爆発的に自身を増やし、最終的に宿主を破裂させるのだ。宿主を破裂させた後は、その肉体を解析し、それが好む要素を周囲に放出させ続ける。そして、更なる獲物を呼び寄せるのである。其処からは、獲物をおびき寄せる存在と、獲物を保存する存在に、役割が別れていく。
やがて、一定量の獲物が溜まると、次の行動に移る。元々体に組み込まれたプログラムを利し、それぞれが超小型の魔法陣、或いはその部品となり、あらかじめ定められていた地点へ情報を送り込む。それが終了すると、逆に情報が送り返されてくる。それは、肉体構造の情報なのだ。そして、受諾した情報通りに、周囲の獲物を使って肉体を構築してゆくのである。
そして、特定の強力なエネルギーをコアとして完成し、この世に生を受ける。ベノア大陸に、過去数千年に渡って災厄をもたらし続けた存在、〈うごめくもの〉が。
カルマンの迷宮地下十層にあるアウローラの部屋は、錬金術師なら誰でも涙を流して喜ぶほどに、高度で精密な実験室を兼ねている。アウローラがどうしてこれほどの技術を持っているのか、五十年来使えているパーツヴァルも知らない。大方の予想はついてはいるのだが、興味が無くて追求していないのだ。パーツヴァルはアウローラを敬愛していたが、別にその全てを知りたいとか、心の闇に踏み込みたいとは思っていなかった。個々はそれぞれ、心に秘密の花園を抱えているものである。そしてそこへは、時に本人でさえ踏み込んでは行けないのだ。魂と心を尊重し、不用意に土足で踏み込まない。戦闘民族である一方、少数民族故の団結心を持つリズマン族は、そういった掟で部族内の協調を確固たるものとしてきた。
椅子に座って、何人かの同僚と講義を受けさせられていたパーツヴァルは、ようやくそれが終了して嘆息していた。話は理解出来るのだが、だからどうしたというのが本音であった。
「以上が、うごめくものの判明している生態よ」
「ひゃっひゃっひゃ、この世のものとは思えぬ生態じゃのう」
たがが外れたように、パーツヴァルの隣で笑うのは、ネクロマンサーのアインバーグである。パーツヴァル同様、アウローラに仕えている者の一人だ。どちらかというと穏やかで寡黙という、エルフの印象が、この男の前では根元から崩れる。酒好きで癇癪持ち、いつも騒ぎ立てて顰蹙を買うという、少し困った男だ。彼は、恐るべき存在の講釈を受けても、平然と楽しんでいる。その辺りは、尋常な精神では、とても出来うる事でなかった。彫りの深い老エルフを見ながら、アウローラは黒板を手の甲で数度叩いた。
「アインバーグ、いい線をついているわね。 恐らく彼らは、最初からこの世の存在ではないわ」
「となると、やはり魔神の王なのか?」
「それも違う。 ……違うと言う事を、自身の目に焼き付けていなかったかしら?」
「ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ」
揶揄するように言われて、パーツヴァルは顎の下を撫でた。長く張り出した顎の下を刺激する事は、リズマンにとっては頭脳活動だ。理由は神経配置の関係上、そこに触れると落ち着きが増すからである。
今まで既に、この迷宮では二度、うごめくものが現れかけた。そして現在も、地下二層でその出現へのカウントダウンが始まっている。ニアミスの度に期間が短くなり、徐々に強力な個体が出現しようとしているのだ。今回はまだ不完全体だと推測されているが、何故かアウローラは動こうとしなかった。今までは、自分で積極的に潰しに行っていたというのに。
その際に、パーツヴァルは見た。不完全なうごめくものが、魔神と激しく戦う様を。魔神が怯え、逃げる所を。逃げ遅れた魔神を次々取り込み、食物としていた事を。あれは魔神の王などではありえない。もっととんでもない怪物なのだ。おそらくは、天界の関係者でもあり得ない。しかし、不思議な事に、悪意は感じないのであった。
侵略してやろうとか、屈服させてやろうとか、そういった悪意が、うごめくものからは感じられないのである。長年戦い続けてきたパーツヴァルだからこそ分かる。あれは、もっと純粋な意図で動いていて、故に危険な存在でもあるのだと。だが、同時に、戦っていて悪意は感じない。しかし底知れぬ恐怖は感じる。不思議な敵であった。
「……何にしても、だ。 出るなら俺はいつでも大丈夫だ」
「ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ。 相変わらず血の気が多いのう」
「……」
アウローラは静かに微笑んだが、それ以上のリアクションは見せなかった。方天画戟を掴むと、パーツヴァルは部屋を出ていった。
ドゥーハン王都の錬金術ギルドでは、現在様々な作業が並行して進められていた。一つには、この間ゼル率いる諜報部隊が回収してきた転移の薬製造マニュアルの完成と、量産化体制の確保である。本来の品は多くの血液を使用する一方、かなり自由自在に迷宮内を動き回れる代物だったのだが、グレードを落とし迷宮の入り口へ転送するシステムへ変更する事で、量産化が何とか図れそうであった。他にも様々な作業が同時に進められていたが、一つだけどうにもならないものがあった。
国家最高機密になるそれは、今も数少ない資料から得られた情報を元にした試作品が何体か作られていたが、いかにしても史実通りの破壊力をもたらす事が出来なかった。材料やかける魔法を工夫をしてみたのだが、どうしても性能を向上させる事が出来ない。ギルド長のギョームは国内外に名声を轟かせる熟練した錬金術師だが、彼も頭を痛めるばかりであった。
今日も、ゼルが仕事の片手間に様子を見に来た。ギルドの奥で試作品の一体を弄くっていたギョームは、エルフ特有の長い耳を撫でながら振り返ると、不機嫌そうに言う。
「何度来られても同じだ。 進展があるまで待っていてくれ」
「そういわれても、此方も仕事でしてね。 ……確かに、前のものと大差ないようですね」
「色々進歩はしている。 しかし、まだまだ完成にはほど遠い事を、私も認めざるを得ない」
「何か手伝える事があれば、幾らでも協力しますよ」
肩をすくめるゼルを睨み付けると、ギョームは大きく息を吐いた。
「では、地下五層や六層から、もう少し資料を集めてきて貰えないか? 悔しいが、いにしえの技術は、私が背伸びしてもまだまだ到底届かない。 資料があれば、幾らでも完成は早まるはずだ」
「了解しました。 此方も、最大限の努力をしますよ」
ゼルは慇懃に礼をして、部屋を出ていった。ギョームは忌々しげに舌打ちすると、試作品が乗せられた机の端を拳で叩いた。世界最高とも言われる錬金術師の彼である。どう背伸びしても自分が勝てない相手がいると言う事は、耐え難い屈辱であったのだ。それが例え、技術であっても。
手を叩いてギョームは部下を呼び、かなり濃いアルコールを持ってこさせた。ここの所、彼の酒量は増えるばかりであった。
1,ササンの野から
地下二層から一端帰還したファルのチームは、ファルの提案に基づいて、魔法封じアレイドの実戦投入予備訓練を行っていた。まだ未完成のそれは、聴覚強化呼吸法をマスターし、敵の詠唱中にタイミングを合わせて攻撃する事で、敵の魔術師に致命傷を与えると同時に、魔法の発動を阻害する、という業だ。勿論前衛も息を合わせなければならないが、それ以前に現在は、後衛が長距離攻撃能力を会得しなければならなかった。
コンデが手にしているのは、スリングと呼ばれる投石機である。遠心力を利用して小石を敵にぶつける、原始的ながら効果的な武具で、扱いも比較的容易である。殺傷力はボウガンなどに比べてずっと低いが、多少の訓練で扱えるのと、何よりもコストが安いのが大きな魅力だ。しばしそれを回転させていたコンデは、やがて小さく気合いを入れて小石を投擲、見事小さな的へと命中させた。
「ふう、ようやく当たるようになってきたのう」
「たいしたものだ。 結構筋が良い」
「そうか、ファルーレスト殿にそう言われると、小生もうれしいの。 しかし……」
そういってコンデは、少し疲れた様子で隣を見た。隣では、エーリカがまるで幼い頃から使いこなしていたかのようにスリングを振り回し、コンデのものよりずっと小さな的に、文字通り百発百中させている。しかも小石の威力は物凄く、的はもう殆ど原形を残していなかった。これは当たった場合、間違いなく痛い程度ではすまない。
「エーリカ殿は特別だ。 万人に一人居るか居ないかの、いわゆる天才という奴だ」
心底からファルはそう思う。事実エーリカは適当な訓練を積めば、すぐにでも忍者にでも騎士にでもなれるはずだ。これと比べても、精神衛生上良くないだけで、何の利にもならない。
何にしても、である。これで魔法封じのアレイドを実戦投入する素地は整った事になる。元々簡単な呼吸法に関しては、もうコンデもエーリカもマスターを終えている。詠唱に関しては二人の方が詳しいから、実行のタイミングに関しては問題ない。後は実戦で、前衛と後衛とで息を合わせて、確実な技術にしていくしかない。的をついに粉々にしてしまったエーリカが、額にうっすら浮かんだ汗を手の甲で拭い、満面の笑顔で言った。
「大体覚えたわ。 実戦で使うには問題無さそうね」
「業の名称は何にする?」
「奇をてらっても仕方がないし、マジックキャンセル、で良いのじゃないかしら?」
「承知した。 後で私にも、こつの伝授を頼む」
「あ、此処にいやがったか。 ファルーレスト! エーリカ! コンデ! ヴェーラの奴しらねえか?」
不意に話に割り込んできたのは、別に訓練に参加する必要もないから、酒場で留守番をしていたロベルドであった。
「小生は見ておらぬのう」
「一緒に酒場にいたのではないの?」
「それがよ、彼奴昨日くらいからサレム寺院に出かけるようになってよ。 今日もさっきから出ていって、まだ戻ってねえんだ。 ちょっとおせえから、心配になってな」
「分かったわ。 何か嫌な予感がするわね。 ファルさん、お願い出来る?」
無言で頷くと、ファルはコートを片手で背に掛け、街へと歩き出した。ヴェーラはチームの前衛戦力としても、重要な仲間である。何か間違いがあっては行けないし、探すのなら早いほうが良かった。
それに、ロベルドが仲間の事を心配だと今言った。それはチームにとって大きな進歩のはずで、ファルとしても大いに歓迎するべき事であった。ファルも素直に、いつか心配出来る仲間が欲しいなと、その時思った。今の仲間達がそれに昇華すればよいのにとも、心の何処かで思った。
街を歩いていると、結構男共が視線を投げてくる。ファルの容姿はどうも情報を総合する限り上の上の中らしいので、見かけだけで情欲をそそるらしい。子供好きの反面男嫌いのファルには迷惑な話であった。いっそ容姿になど恵まれなければ良かったと、時々思うほどである。
愛想がまったくないので、男が無意味に寄ってくる確率は低いのだが、それでも近づいてくる者はいる。そう言う場合は殆ど無視するのだが、しつこい場合は無言のまま容赦なく投げ飛ばす。今日もファルが大通りを歩くだけで、三人の男が見事に宙を舞わされ、地面で泡を吹く羽目に陥っていた。
荘厳なサレム寺院は、いつものように冒険者や怪我人などでごった返していた。奥へ担架で運ばれていく重傷者の姿は珍しくもなく、血の臭いは日常の風景にとけ込んでいる。寺院の中からはひっきりなしに苦痛の声と、回復魔法の詠唱が聞こえ来、慟哭と喜びの声も絶える事がない。寺院に足を踏み入れたファルは、周囲を見回して、手の空いているものを探した。天井高く、ステンドグラスから様々な色の光が降り注ぐ其処は、荘厳な景色の中にある戦場だ。殺気だった医療僧が走り回り、蒼白な怪我人の関係者達が必死に祈っている。建造物内の装飾は結構高度な技術によって作られており、芸術家ならああだこうだと講釈を始めそうな勢いだが、惜しいかな、誰もそれに目をやる余裕などない。しばし視線を彼方此方に這わせた後、暇そうなシスターを見かけた。右往左往している所といい、服装といい、間違いなく布教僧であろう。彼女に仕事を与えるべく歩み寄らんとしたファルだったが、不機嫌さに思わずヘノ字口になっていた。何と素早くシスターに駆け寄った見覚えのある男が、場所もわきまえず口説き始めたのである。困り切ったシスターに、男は情欲丸出しの顔で迫る。ファルは無言で歩み寄ると、男の顔面を掴み、足を痛烈に払った。見事に回転した男は、地面に激突、きゅうと情けない悲鳴を上げて動かなくなった。
しばしおろおろしていたシスターは、無言で立ちつくしているファルに気づいて、深々と頭を下げた。
「あ、あの、有り難うございました」
「礼はいい。 此奴は私達の恥さらしでな。 忍者として当然の責務を果たしただけだ」
「は、はあ」
ファルはそれだけ言うと、足下で延びている後輩を一瞥した。この男の名は、テュルゴ−=マルッテロ。忍者ギルドの一員ではあるのだが、どうしようもない女好きの上に戦闘能力が根本的に低く、ギルドの中でも困りものとして扱われていた。今だって、ファルはかなり手加減したというのに、瞬殺に近い形で勝負がついた。汚名挽回どころか、全く腕が上がっていない様は、いっそ清々しくすらある。一応、気配を探る術には長けているのだが、それも他に気が行ってしまうと全く働かないのは、今証明された。一応此奴は、数少ない国家就職忍者の一人だ。しかし驚くべき事にというか嘆かわしい事にというか、務めている先は何と市役所で、しかも忍者の名声を上げるのに何ら貢献していないのが現状だ。
ファルはテュルゴーの頭を蹴って、強引に起こしにかかった。結構乱暴で、隣のシスターが色を失ったほどであるが、しかし一応この者も忍者の端くれ、これくらいで死ぬほど柔ではない。
「起きろ」
「う、うーん。 あ、え、えあへへへへ、天国に来たのかな、天使様が見えるー」
涎を垂れ流しつつ、今度はファルにまで歯の浮く寝言を投げかけるテュルゴー。意識が朦朧としているからとはいえ、あまりにも無謀な行動である。額に青筋を浮かべながら、ファルは腰をかがめ、笑顔を浮かべた。どうしてか、ファルが笑うと、怒るよりも二百三十倍ほど恐い。何しろ、目が全く笑っていないのだから。
「今度はチョークスリーパーホールドがお望みか? テュルゴー?」
「て、天使じゃなくて魔王だったあああああ! 先輩、ごめんなさいいいいいいいい!」
折り畳まれ力を充填していたバネのように素早く跳ね起きると、さながらゲジゲジのように床を這って、テュルゴーは逃げ去っていった。気配を探る力同様、この逃げ足も持ち味の一つで、使いこなせばそれなりのものがあるのだが。事実、情報収集者としての能力は非常に高いのだ。嘆息するファルは、用件を思い出したので、シスターを仰ぎ見た。
「そうだ、シスター。 私の仲間を探しているのだが、受付は何処だ?」
「どのような方ですか?」
「うむ。 長身の女騎士で、浅黒い肌に、髪を頭の上で個性的に結い上げている。 年齢は私より少し下、見かけかなり逞しい」
「ああ、ヴェーラ様ですね。 知っておりますよ」
良い事をした後は、結構報われるものである。まあ、あまりにもヴェーラがインパクトの強い外見をしており、目立つと言う事も理由の一つではあろう。
「何処にいる?」
「それが、先ほどシムゾンさんが寺院から居なくなってしまわれて、追いかけていってしまわれました」
「むう、となると二度手間であったな」
「そうでもないと思います。 ……シムゾンさんは、結構有名な話なのですけど……迷宮に忍び込もうと何度も寺院を脱走しているんです。 いつもは医療僧達に取り押さえられるのですけど、今日はいつになく暴れて。 あの人、元が超一流の使い手だそうで、何人か手もなくひねられてしまって、今治療を受けています」
シムゾンの実力は、狂気に落ち、統一された思念を無くしてしまってもあのレベルである。確かに戦闘能力を持たない医療僧では荷が重い。カルマンの迷宮の入り口は騎士団員が固めているが、ひょっとすると彼らも不覚を取る可能性がある。もしシムゾンの思考拡散が、一時的にでも、何かしらの理由で収まったら危険だ。
「邪魔をしたな。 失礼する」
「あ、はい。 お気をつけて」
シスターは慇懃に礼をしたが、返礼もそこそこに、ファルはさっさと迷宮へ向け走り出した。何か、とても嫌な予感がしていた。エーリカが感じたというそれが、ファルの脳裏でも渦を巻き、無数の触手を伸ばして周囲をまさぐっていた。
そして、嫌な予感は当たった。カルマンの迷宮の入り口で、呼吸を整えながら、ファルはそれを見た。後光を背負って立ち、血の海に立ちつくすその男は、さながら現世に受肉した鬼神であった。
辺りには、騎士団員が何人も倒れている。皆かろうじて息はあるが、いずれも叩きのめされ、ねじ伏せられ、立ち上がる事すら出来ない。腕を折られた騎士団員が、ファルの足下で悶絶している。その先で、完全武装の騎士団員を、あろう事か片手でつり上げて、シムゾンは笑っていた。目には狂気があった。しかし、その光は以前のように拡散はしておらず、一つの方向へ向かっていた。
「強い……な」
見ただけで分かる。あの圧倒的な戦意は、サン=ラザールの悪魔と湛えられた、世界最強の男が放つものだ。次元が違う。本気になった師匠でも果たしてどうか。しかも間が悪い事に、今ファルは武装らしいものを殆ど持ってきていないのだ。焙烙があっても勝てるかどうか。一応愛用の刀だけはあるが、接近戦であの怪物に勝てる自信など、現在のファルにはない。まして相手は、位置的に上にいるのだ。ヴェーラが危機にさらされたら、無論戦わざるを得ない。しかし今は、ギリギリまで様子を見たかった。ゆっくり、ファルはシムゾンに近づいていく。いざというとき、ヴェーラを守るために。
「おまえら、おまえら、お、おま、おまえら……ひ。 ひひひ、ひひ、ひひひひひ」
面白くも無さそうに、シムゾンは片手でつり上げていた鎧騎士を放り捨てた。派手な金属音が響く。その着地先に、へたり込んだままのヴェーラが居た。彼女はファルにも気づかず、ただ呆然とシムゾンを見やるばかりであった。天を仰ぐようなポーズのまま、シムゾンはわめいた。
「天国が、天国が、天国の扉が、逃げちまうじゃねえええええかあああああああああ!」
「シ……シムゾン……!」
「どうしても、どうしてもいかさねえつもりかあああっ! ひ、ひひひ、ひひ! だったら、み、みんな、みんなま、とめ、まとめて、叩き潰して、やる! ひひ、ひひひひっ!」
ヴェーラの言葉にも、全くシムゾンは反応しない。狂っている。明らかに正気を失っている。しかしながら、言葉には力がある。今のシムゾンは、〈天国へ行く〉という目的の元、意識を統一している。故に、全盛期の実力を、一時的に取り戻しているのだ。
それにしても、本当にこれは強い。素手でドラゴンを倒しうるかも知れない。シムゾンは、ゆっくり迷宮に入っていく。狂った言葉を垂れ流しながら。
「や、やっと、天国の、ひひひひっ! 声が、届いたんだ! ひ、ひひっ! 邪魔を、邪魔をさせて、ひひっ! く、喰われる、前に、行くんだ! ひひひひひひっ!」
「ま、まて、待てシム……ゾン」
ヴェーラが手を伸ばすが、届かない。やがて、狂気に落ちた傭兵は、闇に消えていった。ファルはそれを見送ることしかできなかった。もっと強くなりたい。そう、ファルは無力感の中で思っていた。
幸いヴェーラの怪我はたいしたことが無く、騒ぎを聞いて駆けつけてきた医療僧達に応急処置をして貰い、すぐに立ち上がれるようになった。後頭部や腹部といった致命傷になりうる部分には打撃を受けていなかったため、すぐに大丈夫だと太鼓判を押して貰い、帰宅許可を得た。しかし、その表情は、当然のように沈んでいた。
「シムゾン……私の顔を分からないようだった……」
「もう休め。 仕方がない事だ」
「……まるで獅子王のような男であったのに……強く……そして誇り高く……」
ヴェーラの頬には涙が伝っていた。隣を歩くファルにも、その辛さは痛いほどに伝わってきた。
帰る途中に、適当な空き地があった。丁度いい感じに静かで、座るのに良い大きさの石があった。其処に落ち込んでいるヴェーラを座らせると、ファルは近くの食料品店に行って、食べ物を買い込んだ。どれが美味しいとかはよく分からないので、一番高い軽食を幾つか頼んだ。出てきたものは、パンに肉類を挟んだ物と、小麦粉で具を包んで蒸したもの、それに棒状に加工して焼いた練り物である。いずれも今まで旅の途中で寄った街では、見た事のない食べ物であった。
俯いているヴェーラの所に戻ると、ファルは蒸しものを口にくわえて、棒を差しだした。しばしそれを見つめていたヴェーラは、本当に申し訳なさそうに言って受け取った。
「すまない」
「ひにふふは。 ほまっはほひはほははいはまは」
今の言葉を翻訳すると、気にするな、困った時はお互い様だ、である。その言葉が自然に出た事に、ファルは気づいていない。ヴェーラの横に並んで座ると、ファルは袋からもう一個蒸しものを取りだし、口に入れた。適当に買ったのに、意外や意外、結構美味しかったのだ。なかなか良い当たりを引いたと思いつつ、ファルは三つ目の蒸しものを口に運ぶ。その横で、ヴェーラはパンに肉類を挟んだ物を口に運んでいた。
結構美味しい食べ物であったため無口になっていたのか、或いは時間が経って気分が落ち着いたからか。随分時間が経ってから、ヴェーラはぼそぼそと、自身の事を話し始めていた。
「……シムゾン隊は、私にとって、始めて本当の意味での価値を認めてくれる居場所だったのだ」
ヴェーラが産まれ育ったササンの野は、全盛期の圧倒的な力を失い、凋落しつつある国の中心部だった。かって騎馬軍団が大陸を席巻していた頃と違い、現在のササンは確かに強兵を抱えてはいたが、しかしドゥーハンの庇護無くしては成立し得ない小国に過ぎなかった。抱えている膨大な文化と誇りが、一から立ち直ろうとする動きを阻害もしていたのである。
そんな国情であったから、決して貧しくはなかったが、一方で豊かでもなかった。特に、社会的な大人達の心は貧しかった。何処かひねくれていて、異端者を燻り出す事ばかりに血道を上げる者も多かった。武術が優れた者は尊ばれたし、相変わらず有能な者は受け入れられた。そうでなければ、とっくにササンは衰退し果て、独立すら失っていただろう。しかしその一方で、欠点を嘲笑しあう冷たい風潮も厳として存在していたのである。人並み以上の武術を持ってはいたが、草原の民が最も尊ぶ弓と馬の業に欠けるヴェーラは、そんな中ではやはり後ろ指を指される存在であった。
草原の民は、部族単位の村で生活している。である以上、嫌がらせは必然的に陰湿さを増す。中途半端に優秀なヴェーラは、そのやり玉に挙げられたのだ。何も出来ない者であれば、嫌がらせが酷くなる事もなかったであろう。特筆するほど無能な者や、凶暴で倫理に反した者がいれば、憎しみや侮蔑はそちらに向いていたかも知れない。しかし、残念ながら、そういった適当なスケープゴートが、ヴェーラの村には存在しなかった。優秀な反面明確な欠点を抱えているヴェーラは、嫉妬心からも、多くの嫌がらせを受ける事となったのである。誇り高いヴェーラは、下らない嫌がらせに対し、当然黙っては居なかった。何度も嫌がらせを仕掛けてきた男の騎士に決闘を申し込み、ササン式の流儀で誰も文句を言えないほど完璧に勝って見せた。しかし、勝てば勝つほど彼女の足下はぐらつき、際限なく危うくなっていった。確かに、強い騎士であるという尊敬も受けた。しかしながら一方で恨みも買い、嫌がらせはより地下に潜り、更に陰湿になっていったのである。元々備えている誇りが、それを許すはずもなかった。いつしか、ヴェーラの居場所は、部族の何処にも無くなっていた。
もしこれが戦乱の時代であったら、ヴェーラは問題なく尊敬されていたであろう。武運に恵まれれば、英雄として崇拝されていた可能性すらあった。しかし、今は大陸が安定期に入り、戦など辺境の紛争くらいしかない。つまりである。ヴェーラは、産まれてくるのがあまりにも遅すぎたのだ。彼女は平和な時代に生きるには、適していない存在であった。平和な時代、何もない時代、人間の愚劣な本能と共存して行くには、あまりにも誇り高かったからである。
アズマエル神に対する信仰だけが、彼女が持つ唯一の心の支えだった。元々ササンの騎士にとって、アズマエル神に対する様々な儀式の修得は必須科目だが、それに誰よりも習熟したのは、その辺が理由である。しかし如何に心を神へ捧げようと、彼女の居場所が危うかった事に代わりはなかった。確かに信心深い事に敬意は払われた。しかし、元から根元的に存在する白眼視は、決して消えなかったのである。
ヴェーラはスケープゴートだった。平和な時代を生きていくための、退屈しのぎであり、弱者を虐待して愉悦に浸りたいという人間の根元的かつ下劣な欲望をぶつけるための。彼女が被差別階級と違うのは、強いと言う事だった。しかし一方で、単純に強いだけだった。それを解消するための術を、ヴェーラは知らなかったのである。彼女は不器用な武人だった。そして不器用な武人が生きて行くには、平和で腐った村はあまりにもつらい場所だったのである。
やがて、進退窮まっていたヴェーラの元に、シムゾンが現れた。
シムゾン隊は、世界最強の傭兵部隊として、当然ヴェーラの村でも知れ渡っていた。サン=ラザールの悪魔といえば、先の戦役で何度もササンの最精鋭部隊と共同戦線を張り、巨大な戦果を上げてきた者達である。シムゾンは既に齢五十に達していたが、その実力に今だ陰りは見えず、圧倒的な戦闘能力を、見るだけで感じ取る事が出来た。傭兵団に関しても、バンクォー戦役の当時とは随分面子が代わっているといえども、各地の紛争でならした猛者達の集まりであるという事に違いはない。現在でも彼らは、戦歴に関しても訓練に関しても実戦能力に関しても、文句なしに世界最強の精鋭だった。
無論、シムゾン隊が現れた時にも、ヴェーラは嫌がらせを受けた。彼らにアピールするのは、武を貴ぶササンの民にとってはもっとも名誉な事である。しかし、ヴェーラの元へは皆が口裏を合わせ、意図的に情報が行かないようにしていたのだ。何とか情報を知りえたのも、陰口を叩いている所を、偶然立ち聞きしたからに過ぎない。ヴェーラは自らの力をアピールしようとしている村の者達の中へ殴り込み、シムゾン隊の前で彼ら全員を負かしてみせる事により、自身の実力をアピールして見せた。隊の者は、その凶暴な素行に最初鼻白む様子を見せたが、シムゾン自身は違った。この機は火の神アズマエルが与えてくれた唯一の好機。逃がしてなるものかと、目に刃物のような輝きを湛えるヴェーラに、世界一高名な傭兵は言った。
「娘、強いな。 名は?」
「私は、ササンの誇り高き騎士、ヴェーラ=ムワッヒドだ! 是非、貴方の隊に加えて頂きたい!」
「ふむ……良かろう。 炎の心を持つ騎士よ、私の隊で汝を受け入れよう」
不覚にも、好きな男に心を伝えられた小娘が如く、この時のヴェーラは心躍っていた。
元々孤立していた事もあり、ヴェーラは村を出る事に何の躊躇いもなかった。かっては陰湿な虐めだった白眼視も、今ではただの負け犬の遠吠えになり果てており、いい気味だとヴェーラは思った。
そして、彼女が必死に身につけていた対矢戦舞も、また高い評価を受けた。今までこれが心底からの尊敬と評価を受ける事など無かったから、ヴェーラは嬉しかった。
実力あれば、完全に尊敬され、受け入れられる。様々な人種が集まり、流動的なため、凝りも溜まらず、差別もない。そこは実力のみがものを言う世界だった。
傭兵は、正にヴェーラの天職だった。カルマンの迷宮に挑み、隊が全滅するまでの一年ほどは、ヴェーラが生まれて初めて経験した、幸せな時間だった。
「私はその時、隊が受けた仕事の関係で、ササン人式の葬式を執り行える者が必要とされて、このドゥーハン王都を離れていた。 特に難しい仕事でもなかったから、葬式はすぐに終わった。 そして帰ってきてみれば……シムゾンは……シムゾンは……」
思わずパンを握りつぶしていたヴェーラに、ファルはかける言葉が見あたらなかった。彼女も凄惨な環境で産まれ育ち、オルトルード王の政策によって愛しい家族を救われ、師匠に会う事でやっと一人の個性として認められた者である。武力に秀でていたが、それだけでは何も出来なかった。その点で、よく似た者同士だったとも言える。だがそれが故に、慰めの言葉はようとして見付からなかった。
「唯一残されるというのは、さながら井戸の底へ投げ落とされ、蓋をされるようにつらいのだな。 もうシムゾンは、私の手が届かぬ所へ行ってしまったようだ」
自嘲的に呟き、手に残った食物の残骸を口に運ぶと、ヴェーラは少しだけ心許した笑みを、ファルに向けていた。
「すまないな、愚痴を聞かせてしまって」
「いや、構わないさ。 愚痴だけなら、幾らでも聞く。 少しは心安らかになったのなら、それは良いことだ」
「……」
食べるものが無くなったので、ヴェーラの肩を叩いて、ファルは率先して歩き出した。皆がそれぞれに様々なものを背負っているのは当たり前の事だ。その一端を見せてくれるというのは、少しでも信頼してくれたからに他ならない。信頼を受け、それに応えたい。ファルはその時、掛け値なしにそう思ったのである。
2,無数の巣
地下二層下階は、一種鍾乳洞的な雰囲気が漂う場所であり、上層に比べて幾らか通路も手狭である。構造も複雑で、魔物も上層よりも手強い者が現れるので、誰もあまり探索したがらないのが現状だ。ちなみに、地下三層への入り口となる階段は、下層部に入ってすぐの通路の先に存在している。地下三層へ急ぐのであれば、通る必要性すら無い場所なのだ。
しかし、あえてエーリカは其処を探索する事を明言した。当然の事ながら、理不尽な命令ではない。
「おそらく、例の行方不明事件犯人はそっちにいるわ」
「どうしてそう言える?」
「簡単よ。 そうでなければ、もうとっくに発見されて撃破されているはずよ」
考えてみれば、例の錬金術師だって、騎士団には居場所を把握されていたのである。この間奴の撃破報告と、協力報酬の支払いを受けたエーリカは、それを敏感に悟っていた。まあ、少し考えてみれば、誰にでも分かる事である。問題は、何故にそれが今まで誰にも発見出来なかったか、という事だ。
「それにしても、一体敵は何者なのじゃろうの」
「人間では無いでしょうね」
「まあ、そうだろーな。 にしても、内側からバラバラにするなんて、一体何者なんだよ」
「そんな事をする魔物なんて、想像がつかないな。 内側に寄生するタイプか?」
人間に寄生するタイプの魔物は、確かに存在した。いにしえの記録には、その存在がかなりの頻度で、〈人類の敵〉として明記されている。しかし、有史以来この事に関してだけは団結した人類が、数千年がかりで根絶を行い、結果その殆どが絶滅するに至っている。たまに発生したとしても、すぐに駆除されてしまうのが現状だ。現在寄生型として、生息が確認されているのは数種類。そのいずれもが、人間を内側から吹き飛ばすような破壊力もなく、生態の一時人類に寄生するだけで、宿主を抹殺するような事もない。それらの変種にした所で、大差はないはずである。
豊富な医療知識を持つエーリカ自身がそういう説明をし、そしてわざわざ付け加えた。
「もし、寄生型の魔物だとしたら、とんでもなく危険な変種か、それともいにしえの存在になるでしょうね」
「確かに、発見された黒食教の神像の年代から考えても、その可能性はあるな。 この迷宮の中では、いにしえの存在が息づいている可能性も高い」
「で、対策はどうするのじゃな?」
「まず、迷宮内部で食物は取らない事。 地下二層下階では、少しの異変にもすぐに反応し、危険なら退避を考える事。 おそらく敵は、何かしらの罠を張っている事が確実よ」
「……シムゾンは、無事だろうか」
ヴェーラの言葉に、効果的な慰めが出来る者は居なかった。沈みかける場を、エーリカが手を叩いて緩和した。
「はいはい、此処で落ち込んでいても何にもならないわよ。 さっさと二層へ乗り込んで、犯人を掃除しましょう」
地下二層下階は、今までの迷宮よりもずっと明度が低く、空気もより冷たかった。コンデが明かりの魔法である〈ロミルワ〉を唱えなければ、おそらく五メートル先も見えなかったであろう。永続型の魔法であるロミルワが杖の先に明かりをともし、コンデ老人の周囲を明るく照らす。隊形を保ったまま、五人は慎重に洞窟のようになった迷宮の奥を進んでゆく。
当然の話であるが、現在の情況は極めて奇襲を受けやすい。皆が夜目が利くような情況ならロミルワは必要ではないのだが、そうではないから使用せざるを得ない。何回めかの曲がり角を通り過ぎ、武装した骸骨を見つけたエーリカが、頭を振って嘆息した。
「聴覚強化呼吸法を使っておいた方がよいわね」
「異論なし」
「死者には悪いが、回収しておこう」
骸骨は案の定識別ブレスレットをはめていた。触れないように気をつけながらバックパックに放り込むと、ファルは目を細めた。すぐ側から、湿った足音が響いてくる。うめき声も。数は十体を超す。ファルに続いて、皆が戦闘態勢をとり、それを待っていたように不死者の群れが姿を見せた。いずれもたいした武装はしておらず、粗末な衣服の名残を身につけ、鶴嘴やハンマーを手にしていた。体格はどれもかなり良い。ほぼ間違いなく鉱夫達のなれの果てである。
コンデがザイバを唱え、皆の武器が淡い光を帯びる。丁寧に隊形を整えるファルら前衛に、エーリカが背中から声をかけた。
「以前の防御陣を試してみて! アタックはこっちでやるわ!」
「承知した!」
「おおぉおおおおおおおおおおお! きあああああああああああああ!」
絶叫しつつ、不死者が鶴嘴を振り下ろし、じりじりと下がりながらロベルドがそれを斧で、或いは腕につけた盾で受け止める。ファルはロベルドとヴェーラと視線を合わせ、頷きあった。呼吸法で聴覚をとぎすまし、味方と敵の動きを的確に把握しながら、互いをサポートする態勢に入る。ヴェーラに振り下ろされたハンマーを、横からファルが不死者の腕を撫で斬って止める。ファルの横から振られた鶴嘴を、気合いと共にロベルドが両断する。ヴェーラはハルバードを中段に構えて、敵との距離を的確に取りつつ、中央に立つファルの援護も行った。敵の攻撃は、文字通り鉄壁の防御に跳ね返され続けていた。これは、完成までもう一歩である。
「神よ、この者達に救いの手を! 光の園へと、哀れな魂を導き賜え! 浄化っ!」
エーリカが印を切ると同時に、強烈な光が不死者共を押し包んだ。悲鳴を上げて、無惨に、動く死体が崩れ落ちていく。全ては倒れなかったが、火力は以前より確実に増している。更に、コンデがクレタの火球を叩き込み、敵の隊列が崩れる。だが、不死者はまだまだ戦意を失わず、うめき声と共に手を伸ばしてくる。三度目のディスペルが炸裂するまで、腐臭漂う戦いは続いた。
戦いが終わると、辺りには腐肉の山が出来た。蛆は見あたらないが、それでも凄絶な光景ではある。冷徹な戦闘指揮をするエーリカではあるが、こういう時は死者に一礼する事を欠かさない。ただし一方で、弔いは儀礼以上のものに、ファルには見えなかった。それが長所であるか短所であるかは、意見が分かれる所であろう。コンデが死体を焼き尽くし、すぐに皆その場を離れる。煙は天井に抜けていき、酸欠になるような事もなかった。早足で歩きながら、ヴェーラが言った。
「今の防御陣、いい感じだな。 さながら大地の神の守護を得ているようだ」
「後二三回も実行すれば、恐らく問題なく実戦投入出来るだろう」
「前衛は壁になって、後衛で敵を殲滅する。 その方式をより極端にした形ね。 実戦投入のめどがついたら、フロントガードと呼称するわよ」
辺りをマッピングし終えて、ファルは小さく頷いた。これでまた選択の幅が広がる。実際問題、後衛が強力な攻撃手段を要している場合、前衛は守りに徹した方が有利な場合が多い。
マッピング用の手帳を閉じたファルの横で、ずっと不機嫌そうにしていたロベルドが、しばしの沈黙の後口を開く。彼の目は、不審を湛えて、岩壁を見つめていた。
「どーでも良いけどよ、この鉱山、俺らドワーフの掘ったモンじゃねーな。 ノームが掘ったもんでもねえ。 ほとんど監督した様子もねえ」
「どういうことじゃな?」
「どういうことも何もねえよ。 鉱石ほしさに、見境無しに穴掘り進めてやがる。 これじゃあ落盤だって起こるって話だ。 山が可哀想だぜ」
鉱山技術者としてドワーフやノームを雇うのは、生産効率の向上から考えても、現在は世界の各国で常識となっている。ヒューマン以外の種族を排斥がちな国、例えばサンゴートですらも、それに関しては〈妥協〉しているのだ。地方の小国ではまだ意固地になっている場所もあるが、それは例外的な場所のみだ。現在、ある程度以上の規模の鉱山で、ドワーフ及びノームの手が入っていないものは存在しない。
「ねえねえ、となると、この地下二層が元何処の鉱山だったか、特定出来ないかしら?」
「あん? そんな事してどうなるんだよ」
「資料が残っているかも知れないでしょ? そうすれば、何が此処で起こったか、何が住んでいる可能性があるのか、理解出来るわ。 それが分かれば、ここの探索にも、攻略にも、具体的な対策を練れそうよ」
「……そうだな。 だがそれは、彼奴らを排除してからの話だ」
鯉口を切ったファルに続いて、皆が振り向く先に、闇に光る複数の目があった。ロミルワが照らす範囲に堂々と入ってきたその正体は、ボギー・キャットと呼ばれる、人間の上半身を持つ猫に似た怪物である。俊敏かつ獰猛、知能もそこそこにまわり、ブッシュワーカーと列ぶ初心者殺しとして忌み嫌われる連中だ。
一匹目が地を蹴り、見る間に加速して、飛びかかってきた。刀を引き抜くと、ファルは振り下ろされた太い腕をかいくぐり、首筋に斬撃を叩き付けた。ねらい澄ました一撃は、ボギー・キャットのそれをも上回る獰猛さと俊敏さを誇り、一息に頸動脈を断ち切った。飛びついてきた勢いのまま、ボギー・キャットが地面に叩き付けられ、数度の痙攣の後に動かなくなる。敵の数は四体だが、不敵に微笑んだエーリカは、単純極まりない命令をくだした。
「行くわよ!」
少し及び腰になったボギー・キャットに、今度はファルが躍りかかり、刀を振り下ろした。鮮血飛び散る中、四人の仲間がそれに続く。死闘が再び始まった。
六度の戦いを経て、一度ファル達は迷宮の外へと帰還した。消耗も大きくなっていたし、地下二層下階部分はかなり広く、深く、非常に探索がしにくい構造となっていた。一度で探索しきるのは不可能とエーリカが判断したためである。事実、動物の腸が如くうねりのたうちまわる構造は、マッピングが苦手なファルを充分以上に辟易させていた。大変な所であるという点に、異を唱える者はまずいないだろう。事実、所々には元冒険者と思われる死体や、それが化したとしか思えぬ不死者の姿があったのだ。
それでも、かなりの距離を探索する事に成功はした。得た物も決して少なくはない。最初に迷宮に入った時と今とでは、皆の実力、特に後衛の魔力が比べものにならない。今日探索し終えた範囲にメモを書き加えていたファルは、難しい顔でそれをのぞき込んでいたロベルドに、興味本位から聞いてみた。
「これで大体どのくらいだ?」
「そうだな。 俺の見たところだと、あと四分の三って感じだな」
「これでまだ四分の一か?」
「ん? ああ、そのくらいだな。 ただ、三層へ行く階段に関しては、大体見当がついたぜ。 下にずっと降りていく階段があるとしたら、多分此処だけだろう。 他は幾ら何でも物理的に存在し得ないからな」
内心げんなりしきったファルに、ロベルドが地図を叩いて示して見せた。鉱山の構造に詳しい者が居るというのは、かなり心強い事ではある。だが一方で、ロベルドは腕組みして、難しい顔で唸った。
「今日の探索で、メインの坑道はだいたい探り終えたと思う。 でもよ、これ以降は厳しいぜ。 何処に魔物の巣があるかわからねえし、どんな風に枝葉が絡んでるかもわかりゃしねえ」
「なるほど。 他にもドワーフのいるチームは当然あると思うが、そう言う理由で探索を避けたのか」
「多分間違いねえ。 俺だって、探索はすすめねえ。 普段はそんなでも無い魔物だって、巣をつつかれたら猛烈に反撃してくるからな。 そんなのがどれだけあるかもわからねえ場所なんだぜ? 勝てない、とは言わねえけど、出来るだけ避けた方がいいのも事実だしな。 それにこんな所で時間取られてたら、他のチームに探索の先を越されちまうかもしれねえしな」
「……」
少しつらそうな様子でヴェーラが黙り込む。シムゾンが今どこで何をしているか分からない以上、それは当然の話であっただろう。彼女は、明らかにシムゾンを愛していた。敬愛する以上に、心の片隅で恋心を抱いていた事は間違いない。ただ、シムゾンの反応からいっても、相思相愛ではなかったのも疑いないだろう。それを指摘するのは文字通り野暮だが、一方で独走を防ぐためにも、考慮に入れぬ訳にはいかない。
しばしエーリカは考え込んでいたが、やがて手を一打ちした。
「念入りに、徹底的に、地下二層を探索するわよ」
「一応、理由をきかせてくれぬかのう。 老体にはしんどい事じゃて」
「理由は三つ。 一つは、そんな所だからこそ、例の犯人は潜んでいると言う事。 もう一つは、此処でたっぷり実戦経験を積んでおけば、三層以下の強力な怪物と戦った時、ずっと有利だってこと。 そして、最後に」
わざわざ言葉を切ったエーリカの顔には、静かな、だが凶暴な力強さが浮かんでいた。
「他のチームが先に進めているかって言うと、それはないわ。 だってアウローラと戦えたチームすら、未だないのですもの。 一番進んだチームだって、まだ七層で四苦八苦しているって話よ。 騎士団だって、あの高名な騎士団長が出てきたのにもかかわらず、地下五層で苦労しているのが現状なのよ。 つまり、焦ったところて、何の利も得もないって事。 じっくり進んで、着実に攻略していきましょう」
「相変わらず冷静だな、オイ」
「ありがと。 嬉しいわ」
「……その……私としては……」
「大丈夫。 シムゾンも探すわよ。 私達に出来る範囲内でね」
先手を打たれたヴェーラは俯いて黙り込み、小さな声で、すまないと言った。
皆予想はしていたが、翌日からの探索は本当に大変なものとなった。ロベルドが指摘したとおり、其処には有象無象の得体の知れない魔物が、山ほど巣を作っていたのである。坑道の行き止まりは無論の事、少し膨らんだ場所や、影になった場所に、それこそ図鑑が出来そうな程に様々な魔物が巣くっていた。しかも、その殆どとの交戦が避けられず、その上いずれもが決死の覚悟で襲いかかってきた。当然、探索の速度は遅れに遅れたが、同時に戦闘経験は鰻登りに上昇した。地下三層への階段はあっさり見付かったが、それはそれ、これはこれである。少し覗いてみたいとだだをこねるロベルドには、エーリカの拳骨が炸裂した。
一日の探索が終了すると、ファルは疲れた体を引きずって、ギルド管轄の図書館へ赴き、鉱山の資料を調べた。同時にイーリスの所や忍者ギルドも周り、様々に情報も集めた。疲れた顔をしているファルを見て、イーリスは笑顔でこんな事をいった。
「わざわざあんな所探索してるの? たいへんだねー」
悪気がないので怒れない。ギルドの者達は、とくに嫌みもいわなかったが、同時に御苦労様と視線で語っていた。
二日目の地下二層下階探索が終わった頃には、フロントガードの実戦投入はほぼ完了していた。同時に少し疲れたので、ファルは宿に戻って皆が休んだ後、エイミに黒麦芽酒を注文し、一息に呷った。唇についた酒をなめ回すファルに、エイミが心配そうに言った。
「おねえさま、明日の探索は大丈夫ですの?」
「まあ、問題はないだろう。 この位なら二日酔いにもならない」
「調べものは進んでいますか?」
「まあまあだな。 後はこの資料の中から、該当のものをピックアップして、それを重点的に掘り下げていくだけなのだが」
紙束が丸テーブルの上に置いてある。どうもこういう資料の中から捜し物をするのは苦手だった。一応、該当のものを選んで調べ上げただけでも、大変な苦労を伴ったのである。なおかつ、この中から消去法で資料を拾い上げ、その資料を掘り下げるなどと言うのは、考えるだけで頭痛がしそうだった。
それでも、やらねばならない。ピックアップした鉱山は合計十五ほどである。それを一つずつ丹念に調べて行かねばならない。この辺りの能力が根本的に欠けているファルとしては、正直拷問以外の何者でもない。一応十五の鉱山の特色は把握しているが、どうもそれを体系立てて整理し、分別するという作業が出来ないのだ。小さく嘆息して、ふとエイミに振り返り欠けたファルは、もう一人其処にいるのに気づいた。酒が少し回っていたのと、安心出来る場所にいたので、油断していたのだ。
「ロベルド。 もう休んだのではなかったのか?」
「そう言うわけにもいかねーだろ。 見せてみな。 俺が少し調べてみる」
「別に頼んではいないぞ」
「……なんてーか、てめーに始めて親近感が湧いたぜ。 氷の完璧人間かと思ってたんだけどよ、結構意地っ張りで、面白い奴じゃねえか」
反論しても断っても効率が落ちるだけなので、ファルは手をあげてエイミとロベルドに降参した。頬杖を突いてしばしロベルドの行動を見ていたファルは、すぐに彼が特定したので腰を落としかけた。流石は専門家というか、或いはファルの情報処理能力が劣っているのか。その両方が事実であることは明白であった。
「おそらくはこれだな。 シヴァルバード鉱山」
「ふむ。 それを選んだ根拠は?」
「坑道の構造、内部の情況、あらゆる情報が、これだって示してるよ。 二百三十年くらい前に、エストリアと旧ドゥーハンの国境線にあった鉱山だ。 最初のうちはただの炭坑だったらしいんだけどよ、奥の方で上質のミスリルが出ちまって、それが全ての災難の元だったらしい」
資料をめくり、自身の記憶を確かめながら、ロベルドは続けた。
シヴァルバードは鮮血にまみれた歴史を持つ鉱山だ。最初、ありふれた炭坑として何の感慨もなく穴を掘られ始めたこの山は、後に惨劇の舞台となった。多くのヒューマンの鉱夫が出入りし、無秩序に穴を掘り進め、多くも少なくもない石炭を掘りだしていた鉱山は、最初大した特徴もなく、普通の炭坑として皆に認識されていた。やがて、ロベルドが言ったように、奥の方から上質のミスリルがひとかけら出た。それによって、この鉱山と、周囲に住む者達の運命は一変した。
ミスリルとは金の数倍の価値を持つとも言われる金属で、宝石以上の魔法媒体として絶大な力を持つ。硬度も鋼鉄なみかそれ以上である。その素晴らしい性質から最高級のマジックアイテムの材料として使われるが、採掘量が極端に少ないので、一般人が目にする事はまず無い。それが出た事によって、シヴァルバードには今まで以上の鉱夫が流れ込み、同時にそれに目をつけたエストリア王国が攻略するべく軍を派遣してきた。旧ドゥーハン軍もさせじと軍を派遣、以降二十年に渡って激突を繰り返した。一万以上の兵がぶつかり合う大会戦こそ無かったが、血で血を洗う争いが延々と続き、多くの命が失われた。
戦いは一進一退で、ドゥーハンが激戦の末に全ての山を占拠したと思えば、翌月にはエストリアが奪回するという情況だった。そんな有様だったから、両軍共にミスリルを求めて、無理なスケジュールで坑道を掘り進め、結果落盤事故が多発した。職人芸で知られるドワーフの技術者達も、文字通り何も出来なかった。山の南北それぞれを占拠したドゥーハン軍とエストリア軍が突貫工事で穴を掘り、鉱山の中で両軍が鉢合わせして激突した事すらもあった。狂乱の宴は、やがて石炭が掘り尽くされ、ミスリルも全て掘り尽くされ、山の中が空っぽになった事で終わった。放置された鉱山は何度も落盤を起こし、人が入れる環境ではなくなったのであった。呆れた話だが、両軍は山が使い物になった事を知った上で、なお二年もにらみ合っていた。また、鉱山運営末期には、山の中で巨大な異形の生物が現れ、鉱夫を襲って喰らったという噂も流れたのだという。
「それにしても詳しいな」
「今ほどおおっぴらじゃねえけどよ、昔っから何処の国もドワーフを技術者として雇ってたんだぜ。 ヒューマンの考える事は良くわからねえよ。 俺達の力を昔っから認めてたのに、最近までおおっぴらにそれを言おうとしなかったんだからよ。 で、俺達の元には、世界中の、ありとあらゆる鉱山の情報が集まるって寸法さ。 そしてドワーフのガキは、ハイハイを卒業した頃からそれを頭に叩き込まれる……くだらねえ話だよ」
ベノア大陸は、最多数を占めるヒューマン種が、長い事独裁に近い形で大陸を支配してきた。ヒューマンは長い間に歪んだ自尊心を熟成させ、時に悲劇を、時に喜劇を産んだ。今ロベルドが語ったのも、それの一例であった。
「取り合えず、歴史や、何故不死者が山ほど出るのかは分かった。 後は時代と風土を照らし合わせて、もし危険な寄生型魔物がいたら対策を練らねばならないな」
「そうだな。 そっちは頼むぜ」
「ああ。 それくらいならおやすい御用だ」
腰を浮かせかけたロベルドだったが、しばしの逡巡の後、ファルは無表情のまま言った。
「助かった。 感謝する」
「いいって事よ。 気にするな。 ……実はな、アンタの役に立てる事が分かって、少し嬉しいぜ。 これでも壁とプレッシャー感じてたんだぜ?」
結構嬉しそうに、手をひらひら振って、ロベルドは自室に引き上げていった。
調査の目星がついたので、翌日はエーリカに提案して一日休みを貰い、ファルは図書館に籠もってシヴァルバードを様々な角度から調査した。結果、特に危険なタイプの寄生型魔物の情報はなかった。となると、ますます不可思議なのが、例の失踪事件犯人である。おそらく犠牲者を内側から爆破しているのは間違いない。しかし、そんな生態を持つ魔物は、シヴァルバード周辺には何ら記録がないのである。
犯人は何にしても、既存の寄生型魔物ではない。これによってそう結論が出た。宿に戻った後、データを何とか整理したファルがそう説明すると、エーリカは少し考え込んだ後に言った。
「仕方がないわね。 なら、今まで通りの自衛策を実行しながら、慎重に探索を続けるしかないわ」
「やれやれ、しんどいのう」
「……実はね、愚僧の方も、一つ情報を手に入れたの」
皆の視線を受けながら、エーリカはとっておきの宝物を皆に見せびらかす子供のような表情で言った。
「シムゾンよ。 彼を地下二層で見かけた者が居るらしいわ。 今からなら、追いつけるかも知れない」
「すぐに向かおう。 時は無形だが、無限ではない」
シムゾンが迷宮に入ってから、もう一週間近くが経過している。素手で迷宮に入り、そんな長い期間生き延びられるのだから、相変わらずその戦闘能力は健在という事だ。しかし、それにも限界がある。ヴェーラの焦燥も、無理のないものだった。
別にシムゾンの救出など、本来のチームの目的にはない。それを知りながら、あえてヴェーラの意を汲んで助けようとはかる。誰もそれに異を唱えず、むしろ積極的に向かう。チームの心は、確実に一つになりつつあった。
3,一つの死、一つの生
長い時間をかけ、呼んでいた者が、ついに近くまで来た。充分な肉がある今、コアとなる存在が来れば、もう準備は整った事になるのだ。これで、現世に再び体を作り出し、行動する事が出来る。
目に見えぬほど微少な幼生体が、早速準備に取りかかる。コアは頑強に抵抗し、随分たぐり寄せるまで時間がかかったが、それも過去の話だ。奴の抵抗力は一秒ごとに衰えており、もう充分に手の内にある。
これで、やっと死ねる。うごめくもの、ラスケテスレルは、そう思った。
ラスケテスレルは、全七体いるうごめくものの中では中堅クラスの実力を有し、ある種斥候的な意味合いを果たすヴェフォックスやアンテロセサセウよりも遙かに強い。スケディムやマジキムといった大物が登場する為の、舞台を確認する為に現れる存在でもある。今回、引き寄せられた〈場〉は充分な餌と障気に満ちており、実に容易に肉とエネルギーを確保する事が出来た。そして彼が現世に降臨すると、その場の適正が非常に高いと判断され、第二段階のスイッチが入る。上位三体のうごめくもの、そして根元殲滅者降臨の。
死にたい。死にたい。死にたい。無数の幼生体が、合唱する様に、その思念を垂れ流す。死にたい。死にたい。死にたい。それはうねりとなって、周囲の空間に波及していく。死にたい。死にたい。死にたい。それに影響された精神的に脆い生き物が、次々に自滅し、滅びていく。
ラスケテスレルにとって、死は喜びだった。それは究極的目的の達成であり、自らに組み込まれた生体プログラムの至上命令だった。死ぬ為に生きる。それこそが、幾度と無く繰り返してきた、ラスケテスレルの歴史であり、運命であり、誇りであり、喜びの一時だった。
さあ、早く来い。早く来い。喜びをこらえきれずに、彼はコアを呼び続けた。
希薄に拡散した精神を引きずって、シムゾンが歩いている。時々彼を魔物が襲ったが、素手で引きちぎられ、或いは折り曲げられて、悲鳴すら上げられずに絶命してしまう。そして一ひねりに魔物をたたんでしまうと、再び彼は歩き出す。何が見えているかは、彼以外の誰にも分からない。
「案外簡単に見付かったな」
「シムゾン……」
「今出たら危険よ、ヴェーラ。 こらえて」
エーリカが、足下に転がる、首をねじ千切られたコボルドの死体を視線で指す。地下二層下階を、素手で蹂躙する傭兵は、やはりどこかを目指して、ひたすら歩き続けていた。
皆がシムゾンに注目している今だからこそ、伏兵や奇襲に警戒せねばならない。ファルは周囲を探り続け、妙な事に気づいた。此処はあの忌々しい地下二層下階であり、散々魔物の巣に踏み込んで苦労させられた場所だ。にもかかわらず、先ほどから、魔物の姿が少ない。巣を何度も通過しているのに、住んでいる魔物がいない。
「エーリカ、気づいているか?」
「どうしたの?」
「様子がおかしい。 油断するな」
今、ファルは物凄く嫌な予感を覚えていた。エーリカも表情から言って、似た様な感覚を覚えているのは間違いない。不意に身震いして、コンデが呟いた。
「な、なんじゃ。 ちょっと、この辺りは障気が異常じゃのう」
「……何だか、甘い匂いがするぜ」
青ざめている他の三人と、全く違う事をロベルドがはき出した。ヴェーラも少しうっとりした様子で、シムゾンの背中をみている。いや、その向こうにある何かを。まるで、明かりに魅せられる蛾だ。ふらふらと歩き出そうとするロベルドの襟首を、慌ててファルが後ろから掴んだ。ヴェーラの方は、エーリカが羽交い締めにする。
「まずいな。 恐らく、犯人様の登場だ」
「二人とも、しっかりしなさい!」
「あ、おあ、ああああ、ああ……」
「しっかりせんかあ、このウスラバカがああああああ!」
炎のオーラを全身から吹き上げたエーリカが、目を爛々と光らせ、拳を二閃させた。二回鈍い音が響き、一瞬にして正気を取り戻した二人が、呆然と魔神化したエーリカを見やる。エーリカは背中に蝙蝠の翼でも生やしそうな勢いで目を光らせ、口から霧など吐きながら、二人をねめつけた。その身から吹き上がるオーラは、周囲の温度を見る間に上げてゆく。壁際に下がったのはコンデだけではない。今回ばかりは、ファルも少し恐かったので、後退して被害を避けていた。
「貴様ら……一度死ぬか?」
「ご、ごごごごご、ごご、ごめんなさい!」
「わ、わる、わるわ、わるかった! ゆ、ゆるしてくれ!」
「分かればいいのよ。 ほら、自力で立ちなさい」
嘘の様にオーラも目の光りも消えた。これはひょっとすると、何かの怪奇現象かもしれないと、ファルは思った。全身から冷や汗を流しながら、ロベルドとヴェーラは立ち上がる。みれば、シムゾンは先を歩き続けていた。やがて、彼は少し大きめのホールに入り込んだ。
「足下、それに飛んでくる物に気をつけて。 寄生されたら死ぬわよ!」
備えとして、靴は二重底にしてある。しかし、油断は禁物だと言える。何しろ、そのホールには、うずたかくピンク色の固まりが積まれていたからである。間違いなく肉だ。甘い匂いは、それから漏れていた。
通路の真ん中には、誰が書いたのか、淡く光る魔法陣があった。そして、その中央に、シムゾンは立っていた。陶酔しきった目で、天を仰いで。
「えへ、あはへへへ、えへははは、ははははははは。 て、天国、天国の扉が、ひひひひひひ、ついに、ついに見付かったあああああああああ!」
皆が息をのんだ。せめてもの救いは、彼が苦しむ様子無く、死ねたと言う事だろう。
シムゾンの体がふくれあがる。まるで水を吸ったかのように、空気を入れられたかの様に。ほんの二秒の出来事だった。シムゾンは笑っていた。幸せそうに笑っていた。ふくれあがり、原型を無くしていく中、ただ笑っていた。充たされた表情で、天を仰いでいた。
そして、はぜ割れた。
ヴェーラさえ、何も言えなかった。あまりにも非現実的な光景に、誰もが息をのんでいた。さわさわ、さわさわと、何かがはいずる音が聞こえ始めた。驚くべき光景だった。ホールにあった無数の肉塊が、集まり、形を為していくのである。
「ひっ……!」
悲鳴はコンデの口から漏れた。ファルも正直、足に震えが来るのを実感していた。本能が告げていた。此処から逃げなければならないと。此処にいては喰われてしまうと。魔物達は、これから逃げ出した結果、いなかったのだと。そして、行方不明事件の被害者達は、此奴に喰われたのだと。
肉は集まり、蠕動し、うごめきながら、巨大な形を為していった。魔神よりも、竜族よりも、それは危険な存在に見えた。何故か口だけが、最初に形作られていく。巨大な臼歯をむき出した、巨大な、醜悪な口だけが、巨大な固まりの中、口だけがむき出しになり、周囲に絶大なる恐怖と威圧感を振りまいていた。
「戦闘準備!」
エーリカの言葉に、皆が戦闘態勢を整え直した。ファルも慌てて鯉口を切り、刀を抜いた。エーリカが掌をうごめく怪物に向け、コンデが杖を構える。次の瞬間、クレタとバレッツが、不完全な怪物に炸裂していた。肉塊が絶叫する。
「グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
「よし、効くわ!」
怪物が、ゆっくり此方に、濁った視線を向けてくる。その姿は、さながら、不格好な泥の人形。未だ完全たる形を取れていない、不完全なる生物。
それでも、徐々に形が為されていく。連続でクレタが叩き込まれるが、形成は止まらない。六本の太く長い足に支えられた巨体は、徐々に強固な外骨格に覆われていく。色が徐々につき始め、クレタやバレッツで出来た穴がふさがっていく。足は象の様に太く、長い体は紙魚か船虫のようにも見えた。長い長い触覚が揺れ、無数の複眼が像を結び、それはエーリカを捉えた。
来る。ファルはそう判断した瞬間、叫んでいた。
「避けろっ!」
怪物の巨体がかき消えた。巨体をゆすり、宙へと飛んだのだ。跳躍し、そのままそれは天井に張り付き、エーリカに向けボディプレスをかける。推定体重は軽く数トン。潰されたら文字通りひとたまりもない。岩の固まりが舞い上がり、破砕音が響き渡る。ファルはかろうじて飛び退き避け、慌てて逃げ延びてきたコンデを後ろに庇った。小さな破片が幾つか体を掠めるが、避けている余裕など無い。濛々たる煙の中から、遅れてヴェーラとロベルドが逃げ出してくる。煙を突き破って天井近くまで延びた触角が、健在をアピールする様に揺れていた。
「エーリカ殿!」
「はあっ!」
閃光が奔る。煙から後ろ向きで飛び出してきたエーリカは、手から魔力放出後の余韻たる煙を流していた。額から流れる血を拭いながら、彼女は振り返りもせず言う。
「ダメよ、全然効かないわ! ゼロ距離で叩き付けてやったのに!」
今の瞬間、ゼロ距離でバレッツを叩き付けたというのか。恐るべき度胸、恐るべき判断力であった。そのまま数度バックステップして皆と合流するエーリカを追うように、全く無傷の怪物が、煙の中から這い出してくる。全身は昆虫のようなのに、口だけは人間に近く、非常に気色が悪かった。巨大な臼歯は唇に隠されることなくむき出しで、太く長い舌がそれをなめ回す。怪物は、身をそらすと、二層全てに響き渡るような絶叫を轟かせた。
「ル、ルルル、ルゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
ファルは膝が笑う感覚を覚えていた。何という怪物、何という魔物。以前ガスドラゴンと戦った事がある彼女だが、そんなものとは比較にもならない。目の前にいるのは、文字通り具象化した絶望だった。みれば、ロベルドもコンデも青ざめ、ヴェーラに至っては歯の根があっていない。頭を振って恐怖を追い払い、構えを取り直すファル。その後ろで、エーリカが素早く指示を飛ばした。
「愚僧が指示したら、コンデさん、クルドを! ファルさん、焙烙を用意して!」
「き、きくのかの!」
「大丈夫、絶対に勝てるわ! 負けると思ったらその瞬間死ぬわよ!」
奇声を上げながら、怪物が突進してくる。その腕には鋭い突起が列んでおり、一撃で首が持っていかれそうだ。エーリカは魔法増幅アレイドもせず、バレッツの詠唱を念入りに続け、そして至近まで迫られてから回避指示を出した。
全員、悪夢のような突進から何とか身をかわす。喰らったら即死だ。そして、かろうじて身をかわした瞬間、エーリカがバレッツを敵の巨体へと叩き付けていた。しかし。それは敵の体に当たる寸前、雲散霧消してしまったのである。
「さっきと同じね。 魔神が持ってるって言う、耐魔無効化オーラかしら」
「呑気に言っている場合か!」
怪物が足の一本を振り上げ、容赦なく地面に叩き付けてきた。坑道が揺動し、岩の欠片が吹き飛ばされ、ファルらも容赦なくはじき飛ばされた。何とかファルも受け身を取る事には成功したが、これだけで皆のダメージは深刻である。もう一撃、怪物が足を振り上げる。何とか立ち上がったファルは、あろう事かその矛先が自分に向いている事に気づいて戦慄した。巨大な足が、死の槌が振り下ろされる。身動き出来ぬファル。巨大な足に、横殴りにバレッツが叩き付けられたのは、その瞬間だった。怪物は苦痛の悲鳴をあげ、忌々しげに今の一撃を放ったエーリカを見た。エーリカはというと、大きく裂かれた頬の傷を手の甲で拭いながら、不敵に立ち上がってみせる。
「やはりね。 タイミングが重要なんだわ。 それに、見て!」
狙ったとしたら神業である。今の一撃は、怪物の足の関節部にヒットしていた。煙上げる其処からは体液が流れ落ち、装甲には罅が入っている。風を斬る心地よい音と共に、フレイルを横に振ると、エーリカは叫んだ。
「勝てるわ! みんな、行くわよ!」
4,救いを求める手
七体いるうごめくもの。ラスケテスレルはその中でも、あまり現世に降臨する頻度が高い存在ではない。最下位の二体は量産型という事もあって、多くが地上に具現化するのだが、彼は上位のモノを呼び出す鍵と言う事もあり、滅多に現世に受肉しないのだ。
故に、前回具現化した時は、この世界で二千年も前だった。その時は思わぬ反撃にあって、条件が整う前どころか、受肉した途端に倒されてしまった。今回はその時の情報を忠実にダウンロードして受肉したのである。摂取した食物や、身体の状態に至るまでである。故に、今回は、正確には〈続き〉ともいうべき情況だった。
今回もまだまだ条件は整っていない。死ぬには、まだ早すぎるのだ。死にたいが、まだまだ死ぬわけには行かない。
にもかかわらず、今回は極めて強力な敵と、最初からぶつかってしまった。不快だった。極めてラスケテスレルは不快だった。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな!声にならない叫びが、彼の中で荒れ狂っていた。
巨大な足が振り下ろされ、地面を激しく抉る。水平に襲いかかってくる。何とか間合いを計りながら、ファルは焙烙を取り出す。口から涎をまき散らしながら、怪物が迫ってくる。ファルは四本目の小型焙烙の封印を解除すると、敵に叩き付けた。巻き起こる爆発、煙を斬り破って迫ってくる怪物。だが、次の瞬間。コンデが前に出、必勝の気合いと共に、杖を振り下ろす。しかも、エーリカの魔法強化アレイドつきだ。
「ゆくぞ! 汝が名……それは霜! 加護するは氷の守護者、名は白虎! 砕き散らせ、我が敵を! クルド!」
複数の人間大の氷塊が、怪物を横殴りに襲う。魔法攻撃であると同時に、充分に物理的な破壊力を持つ使い勝手の良い魔法だ。そしてそれは、先ほどエーリカがカウンターで入れた一撃の傷を拡大、ついに足を一本へし折ったのである。
「ルグオオオオオオオオオオオオッ!」
絶叫する怪物は、すり足で素早く後退した。壁際まで下がると、触覚を振るわせ、周囲に鼓膜を切るような高音が響き始める。間違いなく呪文詠唱だ。
「マジックキャンセルを!」
「し、しかし石やボウガンじゃ効きそうもないぞい!」
「私がやる」
ファルがバックパックから、伝家の宝刀、投げ焙烙を取りだした。ハンマー投げの要領で、全身で投擲する、現在保有する最強の火器だ。封印を解除すると、十秒で爆発する。丸い本体を羽交い締めにしている紐を素早くほどくと、呼吸を整え、聴覚を鋭敏にしていく。敵の詠唱のリズムを感じ、丁度十秒後にピークに達する点で、封印を食いちぎるようにして剥がした。紐を持って立ち上がり、振り回す。一回転、二回転、三回転、徐々に速度を上げる。そして敵がのけぞり、何か巨大な魔法を発動させようとした瞬間。ファルは紐を離した。投げ焙烙が、鋭い音と共に、風を押しのけ敵へ飛んでいく。大地を踏みしめ、転ぶのを避けたファルの目の前で、閃光が、轟音と手を取ってロンドを舞った。
「ギョオオオオオオオオオオオオオオアアアアアッ!」
怪物が蹌踉めく。腹の装甲が砕け、ヒューマンが丸ごと入れるほどの大きな穴が空き、煙が上がっていた。見るからに動きも鈍っている。今こそ、攻勢に転じる時だった。
「接近戦に切り替えるわよ!」
「おうっ! 待ちくたびれたぜっ!」
「シムゾンの仇、取らせて貰うぞっ!」
五人は、のたうち回る怪物に、一挙に間を詰めた。敵も無論反撃してくるが、しかし動きが鈍い。振り下ろされる足に、左右に飛び別れたヴェーラとロベルドが、見事なタイミングでWスラッシュを決める。ファルが手裏剣を投擲し、今作った傷に次々突き刺さる。そして、敵が苦し紛れにしようとした詠唱は、エーリカとコンデが放ったスリングの石が黙らせた。さっきまでは効くはずもなかったが、石はどちらも腹の大穴を直撃したのである。たまらず腹を庇って頭を下げる怪物に、エーリカが叫んだ。
「今よっ! ロベルド! 頭に一撃ぶちかましなさい!」
「私の背を使え!」
「おう! 借りるぜっ!」
腰を落としたヴェーラの背を蹴って、ロベルドが跳躍した。そして頭を下げた怪物に、頭上から渾身の一撃を叩き落とす。頭を叩き潰すかと思われたその一撃であったが、しかし鈍い音と共に跳ね返されてしまった。更に触覚が一振りされ、ロベルドとヴェーラを打ちのめす。文字通り敵にはじき返されたロベルドが絶叫した。
「ぐおおああああっ!」
反撃とばかりに、怪物が頭を上げ、巨大な口を開けてかぶりつこうとする。しかし、エーリカの方が一枚上手だった。
「もう貴方の防御結界、種は割れてるのよ!」
怪物の口に、ファルが投擲した最後の小型焙烙と、エーリカのバレッツが同時に着弾した。巨大な臼歯がへし折れ、ついに怪物が地面に倒れ伏す。同時に地面に投げ出されたロベルドと、怒って目を剥くヴェーラに、エーリカが舌を出した。
「ごめんねえ。 おとりに使わせてもらったわ」
「て、てめー!」
「今のは、私としてもかなり無念だったぞ!」
「此奴の結界は無敵に近いけど、自身が攻撃しようとする瞬間は作動しないのよ。 しかももうタイミングは覚えたわ。 ……最後は譲ってあげる。 確実に決めなさい!」
怪物が、傷だらけの体を起こす。体を震わせ、絶叫する。しかし、もうあの時の、最初の威圧感は存在しない。むしろ、虚勢が見え見えで哀れですらあった。エーリカが口の端をつり上げ、素早く印を組み始めた。
「コンデさん、最大出力でクレタお願い!」
「うむ!」
「蒼の深淵に住まう玄武よ。 汝が堅牢、そは恒久なり。 苔むすまで、世の終わりまで、世界果てるまで、守り救い賜え! プロテクト!」
エーリカが唱えたのは、薄い防御結界を張るプロテクトの魔法であった。それを受けて前に出たのはファルであった。ゆっくり腰を落とす彼女を、巨大な怪物が睨み付けてくる。ゆっくり呼吸を整え、聴覚強化の深みへと潜っていく。必要な音だけを拾い出していく。風切り音だけを待つ。そう、それは敵の足が迫る音だ。目をつぶったファルは、二秒半後に目的の音を聞いた。
「はあっ!」
正に紙一重、髪の毛一本の差で、一撃をかわす。風圧と飛び来る小石の破片は、プロテクトで何とかする。避け際に、刀を振るって、関節をこれ見よがしに傷付けてやる。目的は、絶対的な隙ができるほど、強力な攻撃を繰り出させる事。そしてこの仕事は、能力的に、ファルにしか出来ない。飛び道具回避が上手いのならヴェーラだが、彼女はファルほどの体術を持っていないのだ。
警戒している敵は、頭を守りながら、次々に足を振って、攻撃を繰り出してくる。予備知識がなければ、軍隊でも相手にするのが難しい相手だ。しかしこの狭い空間で、対処法さえ知っていれば、何とか撃破出来る。幸い、まだ此奴は明らかに不完全体。完全体になったらどれほどの強さになるか見当もつかない以上、今屠るしかない。二閃、三閃、棘だらけの太い足がファルをかすり、そして頃合いを見てわざと軽めに一撃を受けてやる。軽めだが、それでも途轍もなく重かった。しかし、そうでもしないと敵は乗ってこない。
激しくはじき飛ばされ、吹っ飛んだファルは、壁に叩き付けられた。息が出来なくなり、背骨が嫌というほど鳴った。何とか受け身を取る事は出来たが、しかし囮の代償は高く付いた。ファルの戦闘能力は、この瞬間、事実上消滅した。
ファルがふらつく足で立つ地面は黒く変色しており、その辺りにも無数の死体が積もっていた事が明らかだ。怪物の口が光り、魔力が集まっていく。
「死なせろ」
不意に、ファルの脳裏に、その声が響き来た。幻聴かと思ってファルは頭を振ったが、もう一度同じ音が来た。怪物の口には、光が更に集まっていく。構えを取り直すが、プロテクトでダメージが緩和されていたにもかかわらず、全身の痛みは凄まじかった。小さく息を漏らすファルの眼前で、コンデが魔力を開放した。
「撃たせるかっ! クレタ!」
火球は怪物に飛び、忌々しげに怪物はそれを腕を振るってはじき飛ばした。腕が吹き飛ぶが、怪物はもうそれすら気にしていないようだった。だが、殆ど同時に、捨て身で突進したヴェーラのハルバードが怪物の喉を下から突き刺していた。恨みが籠もった一撃は、さながら野猪の突撃が如く、怪物の装甲を貫通した。
「シムゾンの痛み、我らが苦しみ、少しは味わうがいいっ!」
「ギ、ギオオオオオオオオオオオオオオ!」
苦し紛れに怪物が体を揺すり、ヴェーラが弾かれる。だが、その陰に隠れて接近していたロベルドが、そのままの勢いで、怪物の腹へチャージをかけた。正に食い込むような勢いで、その一撃は完璧なタイミングで急所に入った。もはや悲鳴もなく、怪物は、大量の吐瀉物を地面にまき散らした。そして、口に集まっていた光は急速に安定を無くし、怪物の体は横倒しになり、裏返しになった。
「は、はあ、はあっ! や、やった……!」
「離れて! 早く!」
エーリカの言葉に、傷だらけのヴェーラが無言のまま飛び出し、ロベルドを抱えて跳躍した。怪物の頭が、行き場を無くした魔力の暴発によって吹き飛び、光の欠片が周囲を蹂躙し尽くしたのは、その一瞬後の事であった。
怪物の体が崩れていく。溶け、地面に染みこんでいく。魔力の波動が感じられるが、もうそれに構っている余裕はなかった。へたり込んだのはファルだけではなかった。全員が全身に傷を負っており、特にヴェーラは身動き出来ないほどに疲弊しきっていた。
「か、かった……」
「とんでもねえ怪物だったな……じょ、じょうだんじゃねえ……」
「し、しんどいのう、おそろしいのう……」
「帰ったら祝杯だ。 エイミの酌で黒麦芽酒を一杯やりたい」
ファルが痛む手で、髪を掻き上げた。手は血だらけであり、後で髪も念入りに洗う必要がある。その視線の先、動くものがあった。
怪物の吐瀉物は殆どが意味不明の固まりだったが、その中、等身大の貝殻のようなモノがあった。それが、また動いた。痛む体を引きずって、妙に興味を喚起されたファルは歩み寄る。
怪物の胃液にまみれたそれは、若干汚れたクリーム色の、何かの固まりだった。貝殻のようにぴったり合わさった継ぎ目があり、全体に淡い縦縞模様がある。周囲の地面では、しゅうしゅうと音を立てて煙が上がり、酸っぱい臭いが充満していた。
「危ないわよ、気をつけて」
「分かっている」
危ないのは分かっていた。しかし、何故か引き寄せられた。そして、貝殻のような固まりに、ファルが手を伸ばした瞬間。聞いた事のない言葉が、空に響いた。思わず手を引っ込めるファルの前で、固まりは徐々に形を変えていった。シェル状の部分が見る間に縮み、本来あった場所へ戻っていった。そう、殻に包まれていた、幼い娘の両腕の中へ。体をぎゅっと縮めていた、小柄な娘の腕の中へ、カーテンを引きずり込むように。
「……何……!?」
ファルは思わず声を漏らしていた。そんな魔法は見た事も聞いた事もない。娘はヒューマンに似ているが、あまり長くない髪は薄紫で、肌は少し生白い。生白さが、少し不健康というのとは違い、人工的な印象を受ける。小さく呻きながら、娘が目を開ける。瞳は紫色だ。震えながら、裸の娘は周囲を見回し、体を起こそうとする。そして、固まったままのファルに、ゆっくり手を伸ばした。
娘が何か喋った。その言葉は、理解出来るものではなかった。しかし、その苦痛に満ちた表情と、震えから、意味は痛いほどに伝わってきた。
「助けて」
かって、ファルはそうして、誰にも助けられなかった。とてもつらい思いを味わった。自力で立ち直るまで、それこそ死ぬ思いで生き抜かねばならなかった。だからこそに、自身と同じ目に、この娘を会わせたくなかった。
娘の意識が消え、ふっと延ばされた手が落ちかける。その手を、慌ててファルが掴み、小さな体を抱き上げた。慌てて駆け寄ってきたエーリカが、自身のマントを脱ぎ、娘に被せながらいう。彼方此方焦げたマントだが、この際贅沢は言えない。
「どうするの!? 人に害を為す魔物かもしれないわよ」
「百も承知だ。 もしその時は、私が責任を取って殺す。 だから、今はこの娘を助けて欲しい。 頼む」
「……この子は、人間じゃないわね。 回復魔法が聞くかどうかは微妙よ」
ファルもそれを感じていた。肌の感触が、人のものとは確実に違うのだ。もっとずっと硬質で、そして少し冷たい。しかし脈はあり、体温はあるのだった。
娘の体には無数の傷があり、エーリカが残った魔力で回復魔法をかけても、まるで良くなる様子がなかった。危険なレベルまで消耗し、額を押さえて蹲ったエーリカは、舌打ちしながらいう。
「この様子では、うちの寺院でも助けられないわ」
「何か方法はないのか!?」
「大きな声を出さないで。 ただでさえ、激しい戦いの後よ。 魔物が引き寄せられるかもしれないわよ」
「すまない、確かにその通りだ」
動揺しきっていたファルは、思わず唇を噛んだ。彼女だって腕が痛くて、娘を抱き上げているのもつらいのだ。この時、知恵を出してくれたのは、何の役にも立ちそうになかったコンデであった。
「こうなったら仕方がない。 錬金術ギルドじゃ。 ひょっとすると、何とかしてくれるやもしれぬぞ。 イーリス殿の家では設備が足りぬだろうが、向こうならもしかして」
「おう、それなら善は急げだ。 地上まで突っ走るぞ!」
「そうだな。 火神よ、汝が哀れな子らに、幸運の加護を与えたまえ!」
もう余力がないが、ファルは娘を抱きかかえて、必死に皆について走った。娘が手を伸ばし、助けを請う姿は、かって彼女が唯一人に助けを求めた姿に重なった。だからこそ、死なせてなるものかと思った。絶対に助けてやると思った。最後の力を振り絞り、複雑な坑道の中を走った。
五人は心を一つに、全力で走りきり、迷宮を抜けた。
5,冷たさの中の温かさ
錬金術ギルドでは、未だ進まぬ研究に苛立つギョームが、手酌で赤葡萄酒を傾けていた。本来かなり強い酒であり、彼自身酒にはとても弱いのだが、それでも飲まねばやってられない気分だったのだ。
資料が足りない。情報が足りない。せめて、不完全体でも現物があれば全く違うのだが、それすらない。稼働していなくても良い。せめて標本があれば、絶対に動かしてみせるのに。その自負が、研究進まぬ今の現状を、苦しみへと変えていたのだった。
二本目の瓶を空にした彼が、三本目に手を伸ばしかけた瞬間。助手が慌てて部屋に入ってきて、紅い顔の錬金術師長に耳打ちした。その瞬間、酔いは吹っ飛んでいた。
「ほ、本当か!?」
「間違いありません。 オートマターです。 文献の記述と特色が一致します。 紫色の髪に、紫色の瞳。 大理石のような、少し人間味に欠ける白い肌。 ヒューマンによく似た姿形。 体温は若干ヒューマンより低い」
「おお、おおおおおおっ!」
机を蹴飛ばし立ち上がったギョームは、凶熱を目に宿し、絨毯に酒が染みこむのも厭わず部屋を出た。小走りに走る彼は、やがて五人の、ボロボロの冒険者を見つけた。その一人、長身の美しい娘が手に抱いているモノこそ。間違いない、彼が探し求めた、オートマターに間違いなかった。
涎を拭い、オートマターに手を伸ばしかけるギョーム。だが、その手は厳しい表情の娘に払われた。
「この娘を助けて欲しい」
「おお、おお! 助けるとも、助けるとも! す、すこし触らせて貰ってもよいか!?」
まるで、いや変質者そのものの表情でギョームは手を伸ばし、オートマターの肌をなで回した。肥だめに落ちたゾンビを見るような目で彼を見ていた僧侶には目もくれず、肌触りと低音を確認したギョームは、集まってきた弟子達に叫んだ。
「培養槽を一つ開けろ! 栄養液は最高級のものを惜しげなく注げ!」
「九番、空いています!」
「良し、今夜は徹夜になるぞ! 全員徹夜の用意をしろ! どんなデータも絶対に拾い落とすなよ! そう、これは総力戦だ!」
凄まじい勢いで盛り上がると、ギョームは爛々と目を光らせながら、長身の娘に振り返った。
「その、あの、だな。 その娘は私が助ける。 代わりといっては何だが……」
「何だ、早く言え」
「う、うむ。 その、それを少し解剖してもいいか?」
次の瞬間、娘の全身から極寒の冷気が迸った。蒼白になるギョームの肩を叩くと、娘は目から妖しい光を放ちつつ、その耳に囁きかけた。
「そんな事をして見ろ。 貴様を地の果てまでも追いつめ、この世のありとあらゆる苦痛を味あわせ、なお死なせず永劫の苦しみに落としてやろう」
「ご、ごめんなさい……」
魔王に等しい娘の脅迫を受けたギョームは、硬直し平謝りした後、非常に残念そうに治療に取りかかった。
錬金術師達が忙しく走り回る研究室の片隅で、ファルは座り込み、助けを求めてきた娘を眺めていた。今は栄養液を浮かべた硝子水槽に浮かび、様々な器具を接続され、何かよく分からない事をされている娘を。元々医者ではない錬金術師に助けを請うたのだから、これは当然の代償だとも言えたが、しかしあまり気分の良い光景ではなかった。
娘はまだ目を覚まさない。それにしても、これは、想像以上の稀少存在を拾った事に間違いない。錬金術師達の狂乱ぶりも、その貴重さを裏付けている。必死にデータを取り、彼方此方走り回って機器の状態を確認する錬金術師をぼんやり眺めるファルに、ぬれタオルが差し出された。視線を移すと、ヴェーラが笑顔で立っていた。
「私はもう一息ついた。 貴公ももう休んだらどうだ?」
「感謝する、ヴェーラ卿。 だが、もう少しこうしているつもりだ」
「体が持たぬぞ」
「かまわん。 それに……これくらい、どうという事もない」
エイミが病床にいた頃に比べれば。周囲全てが敵で、まだ力がなかった頃に比べれば。この程度の傷、痛み、疲れ、どれほどの事があろう。ぬれタオルで顔を拭いていたファルは、血と汗で茶色に染まったそれを返すと、少し真面目な表情になった。
「……今回の件は、助けになれずにすまなかった」
「うん? ……シムゾンは確かに残念だった。 それに、隊の手がかりも、あの陰気な神像だけになってしまった。 しかし、私はまだ生きている。 それに、皆もいる。 きっと、いつかは真相に辿り着ける。 不安はないさ」
「それを聞いて安心した。 今後も、何かあったら、いつでも話の相手になろう。 言ってくれれば、酒の相手にもなるぞ」
「ああ。 溜まった時は頼む」
手を振って去っていくヴェーラの背中は力強かった。心強い仲間を得て、ファルは少し嬉しかった。
「目を開けたぞ!」
声に思わず娘を見ると、無数の管やらなにやらに巻き付かれた娘は、うっすら栄養液の中で目を開けていた。紫色の瞳は疲弊しきっていて、まともに前も見ていないようだった。疲れ切っている様子が、槽の外からも分かる。硝子に手を付き、娘を見上げて、ファルは呟いた。
「死ぬな。 私が側にいる。 だから死ぬな」
娘は応えない。応えるわけがない。ぐったりした様子で、娘は再び目を閉じた。しかし、どこか安らいだようにも見えたのだった。
(続)
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