上の上、更に上

 

序、闇が這いずる

 

かって、其処はそれほど危険な場所ではなかった。

カルマンの迷宮地下二層といえば、一層よりも強力な魔物が出現はするものの、図抜けて手強いものが出るわけでもなく、迷宮の構造自体が意地悪なわけでもなく、危険な罠があるわけでもなく、冒険者にはさほど危険視されていなかった。事実、初心者を卒業したレベルの冒険者なら、大した危険もなく通り過ぎられる程度の場所にすぎなかったのである。不死者が少々多いものの、それなりの腕を持つ魔術師や僧侶をチームに編成しておけば、問題なく迎撃殲滅が可能であったのだ。

しかしこの一月、二層での冒険者失踪が相次いでいる。生還はしたものの、精神を破壊され、何を聞いても要領を得ないものもいた。最初は騎士団と冒険者が共同して原因の調査に当たっていたのだが、強力な戦力が揃っていると何者かは一切姿を見せず、逆に単純に通過しようとしただけの冒険者が消息を絶ったりもした。特に、実力が付き始めて冒険をしたくなるような者が、良く消息を絶った。

今では実力のある冒険者も、そして騎士団も、地下二層を通るのを嫌がるようになっていた。そればかりか、魔物ですら何かに怯えたように、地下二層では狂態を取るようになり始めていた。

何がそこで起ころうとしているのか、まだ知るものはいない。ごく一部を除いて。

 

ドゥーハン王都東区は、かってはただの軍事街であったが、現在の様相は大きく異なる。冒険者相手の店が夜も営業を続け、繁盛し、周囲に莫大な経済効果をもたらしていたのである。武器防具を扱う店、ギルドでも知らぬような情報を扱う店、医療や治療を扱う寺院。その他様々な店が進出し、いずれもかってない好景気にわいている。そんな中、余所とは差別化を図る大手や、独自の路線を計ろうとする中小の店舗は少なくない。それらとは少し違うが、ルーシー=マクスウェルの店も、変わった経営を行っている一つであった。

父親から引き継いだ彼女の店は、小さく、位置的にも悪く、客足も少ない。しかしながら、大きな強みも持っていた。仕入に、殆ど金がかからなかったのである。

今は亡きルーシーの父は、開明的な人物であり、オークに偏見を持たず、そればかりか友として接していた。冒険者だった頃から彼は複数のオークと家族同然に暮らしており、家族以上に慕われる事に成功していた。今でも彼が残した店に、その頃からのなじみのオークが多数住み着いている。オークは亜人と言っても本来無邪気な種族で、その分残酷でもあるのだが、粘着質なコボルドと比べると幾分か人間と親交を結びやすい。魔物にも人間にも嫌われずに要領よく立ち回る術を知っている希有な種族なのだ。中には魔物と人間の仲立ちをする者さえいる。たまに、オークが人間種の手伝いをして街を彷徨いているのは、その辺が理由だ。無論、迷宮で冒険者に害を為す場合もある。完全に親人間種族というわけではないのだ。

ルーシーの強みは、そのオークが多数、店舗の労働要因として居る、という事であった。彼女の弟同然に育った三体のオークを中心に、複数のオークが随時迷宮にもぐり、店で売れそうなものを探してくるのである。様々な意味で、隙間を抜ける事を最も得意としているオーク達は勇敢に要領よくカルマンの迷宮にもぐり、危なげなく物品を持ち帰ってきた。上層部は兎も角四層以下の深部はまだまだ冒険者の手が入っておらず、遺跡という性質上様々な宝物が眠っているのだ。そうして回収した宝物を、手先が器用で父に武具の扱いを習ったルーシーが修繕し、或いは問屋などに売り飛ばして換金し、生計を立ててきた。

だが、それが最近、困った事になり始めていた。オーク達が、地下二層から逃げ帰るようになってしまったのである。

以前も強大な魔物を見かけたオークが、逃げ帰ってくる事は良くあった。しかし此処最近は、少しその数が多すぎる。神経質そうでも、結構身内には寛大で暖かいルーシーであったが、流石に餓死の危険を冒すわけにはいかない。今日も三人一組で迷宮に潜った弟達が、這々の体で帰ってきて、奥の部屋でふるえている。小さく嘆息すると、ルーシーは弟たちが籠もっている部屋の戸を叩いた。

「マッチ! モッチ! ノッチ! 出てきなさい!」

「……」

「出てこないと、夕飯は抜きよ!」

ファイナルウェポンとなる言葉を使うと、黙りを決め込んでいた弟たちは、簡単に部屋から出てきた。腕組みしてむすっとしているルーシーに、三人はしばしうなだれていたが、やがてぼそぼそと話し始めた。

「ルーシー、あの、オダ達、その」

「怒らないわよ。 だから話してみなさい」

「……とっても、おぞろしいバケモノが、地下二層にいるだ。 だから、ごわくて、逃げてきただ」

「今噂になっている奴? で、どんな奴なの?」

三人は互いに顔を見合わせ、一番年上のマッチが、手を揉みながら話し始める。真の恐怖を知った光が、まなこの奥に揺らめいていた。

「何でも、喰ってしまうやつだ」

「貪欲なの?」

「そ、そうじゃないだ! そんななまやさじいものじゃないだ! まものも、にんげんも、オダ達も! み、みんな、みんな喰ってしまう恐ろしい奴なんだ!」

自分で言った言葉に恐怖して、マッチは体を縮込ませた。モッチもノッチもそれに習い、うんうんと頷く。ルーシーはしばし考え、やがて諦めたように言った。

「わかった。 そいつはあたしがなんとかするわ。 それまで、カルマンの迷宮には行かなくて良いわよ」

「ルーシー! あ、あぶないだ!」

「大丈夫よ。 だって、実際動くのはあたしじゃないし

結構要領よく強靱な笑顔を浮かべると、ルーシーは続けていった。

「で、その代わり、今まで滞ってた店の改修や倉庫の整理をして貰うわよ。 宣伝もして貰おうかしら? 在庫も整理しなければならないしね」

「ル、ルーシー、そ、そでは」

「文句はないわね? いやなら迷宮にまた行って貰うわよ

黙り込んだ三兄弟は、渋々と言われたとおりの仕事をしに、店に出た。その背を見送りながら、ルーシーは心中にて呟いていた。

『さて、問題はどうするかね。 冒険者を使うのはいいんだけど、相手は結構頭がいいみたいだし、強力な冒険者を自腹で雇っても無駄足になりそうね。 なら、まだ駆け出しの、でもそれなりに実力がある……そうだ、いい連中が居るじゃないの』

ルーシーはにんまりと計算高く小ずるい笑みを浮かべ、友人の店へと足を運んだ。そして、依頼を持ち込んだのである。即ち、地下二層の異変を、原因調査して欲しい、と。それを、友人が紹介してくれた初々しい笑顔の僧侶は、しばしの逡巡の後、快く受けてくれた。ただし、当初の想定よりも、ずっと高い代価を支払わされる事にもなったのだが。

ルーシーの行動は悪賢さからもたらされるものであったが、結果的に良い結果をもたらす事になる。彼女にとっても、ドゥーハンにとっても、である。

 

1,水面に投じられる石

 

不死者達との死闘から何とか生還したファルは、翌朝目を覚ました。が、かなり遅い時間にもかかわらず、チームメイトのうちエーリカ以外の全員が自室で寝転けていた。そのエーリカも、食堂で、何処にそんなに入るのか疑いたくなるような勢いで、多量の食物を平らげ続けていた。別に口を大きく開けるでもなく、普段と比較して倍くらいの速度で食事行動をしている感じである。ひょいひょいと皿の上の料理が消えていく様は、ある意味世紀末的でさえあった。

小さく欠伸しながらファルが挨拶すると、エーリカは食事を一時中断し、きちんと水で胃に流し込んでから言った。この辺りは、流石にレディの佇まいである。育ちがよいというよりも、有無を言わさぬ集団生活で必然的に身につけたものに間違いない。

「おはよう、ファルさん。 分かってると思うけど、今日は休みよ」

「そうか、了解した」

「愚僧は食事を終えた後、メラーニエちゃんの所に材料届けにいって、ついでにお祝いしてくるけど、貴方はどうするの?」

「私はイーリスの所に行って来る。 報告を聞かねばならないからな」

そのまま店内を見回したが、エイミは厨房で仕事の真っ最中だった。その小さな背中を一度だけ見やると、ファルはもう一度欠伸をかみ殺し、店を出た。

 

イーリスの家は、相変わらず小さく、今日は外まで異臭が漏れていた。どうやら既に彼女は変人として周囲の人間に扱われているらしく、家の前に来たファルを、複数の視線がうさんくさげに見やった。見返すと、咳払いして露骨に視線を外す者さえいる。そんな小人共は放っておいて、ファルはイーリスの家の敷地に入ったが、同時に異臭が数段強烈になった。ドアを叩いても出ない上に、不用心な事に鍵まで開いていた。ドアを開けると、視界が曇るほどの煙が溢れる。臭いから火事とは違う事をすぐにファルは見抜いたが、それでも聞かざるを得なかった。

「イーリス! イーリス!」

「ファル? 玄関?」

「ああ。 ドアが開いていたから、勝手に入らせて貰った」

「うん。 奥の部屋にいるから、上がってー」

第三者が居ないと、結構明るい口調で喋るイーリスに頷き、ファルはすすめるままに奥の部屋に入った。相変わらず内装はよい趣味をしているし、異臭と煙のわりには変色もしていない。この様子だと、結構まめに手入れをしているのは疑いない。

イーリスは奥の部屋で、白衣に身を包み、怪しげな片目がねをつけて、石を弄っていた。石の隣には、三角形をした器具があり、異臭と煙は其処から漏れ出ていた。

「窓、開けてもいいか?」

「いいよー」

「しかし酷い煙だな」

「そう? 私は慣れっこだよ」

自分本位な物の言い方をしながら、イーリスは悪びれるでもなく石を一心不乱に眺め続けている。やがて部屋の煙が減り、異臭が一段落すると、ファルは向かいの席に座った。しばし実験を続けていたイーリスは、それを待っていたかのように顔を上げた。

「それで、今日はどうしたの? 遊びに来てくれたの?」

「仕事だ」

「えー……そうなの。 仕事って、何だっけ」

「識別ブレスレットの調査と、今後の依頼状況の確認と、それにこの間の配達物の調査結果を聞きに来た。 後、調べて貰いたい物もある」

普通の人なら怒るような事を言われても、ファルは冷静である。イーリスは典型的な研究者肌の人間で、自分の関心がない事には殆ど興味を示さず、更に言うと記憶力も殆ど働かないのである。それに加え、元々の過剰に人見知りして恐がりな性格も災いして、殆ど友人が居ないのだ。ファルはもう慣れているから良いのだが、忍者ギルドの中には、こんな事をいってぷりぷりと怒る者もいた。

「彼奴は優秀だが、礼儀を知らない!」

礼儀を知らないのではなく、気が回らないのだと、ファルは知っている。だから寛大にもなれる。知はなかなかにして、馬鹿にしたものではないのである。

イーリスはしばし考えていたが、やがて手を一打ちし、満面の笑みで何やら図面を取りだした。識別ブレスレットについて、様々な書き込みがしてある事が一目瞭然であるが、物凄い乙女チックな丸字のために実に読みにくい。イーリスは実に嬉しそうにそして楽しそうに、解説を始めた。情況は一目で分かる。嬉々として研究を続けるうちに、誰に頼まれた仕事なのか忘れてしまったのである。もう慣れっこなので、ファルは怒らない。

「ブレスレットだけど、色々分かったよ。 推測が殆どなんだけど、いい?」

「構わない、説明してくれ」

「うん。 この真ん中の赤い石なんだけど、これは安物のルビーだね。 ルビーを中心に、石英とか色々なのをとかして、固めてあるの。 で、周囲に掘ってあるこの文字なんだけど、これは驚いた。 結構高度な技術を使って、魔法陣を作ってるんだ。 魔法陣の性質は幾つか判明してるけど、多分間違いないのが……記憶の定着、再配布」

「記憶の定着?」

なるほど、確かにその可能性は高い。そう思いながら、ファルは話の続きに耳を傾けた。イーリスの説明によると、このブレスレットに装着されている魔法陣は、つけた者の記憶のうち特定の何かを複製抽出し、石の中に定着させる役目を担っている。宝石は例え安物でも魔法媒体としての性能がとても優秀で、そういう作業にはうってつけなのだ。そして記憶の持ち主と別人がブレスレットに触れると、その者の記憶へ流し込み、定着させるのだという。その際に副作用で激しい吐き気や頭痛を伴うとも、イーリスは説明した。

「抽出される記憶の割り出しは出来ないか?」

「もうやってるよ。 でも、完全じゃなくて、まだ分からない事が多いんだけど、幾つか条件を立ててそれに合致するものを選択しているみたいだね」

「ふむ……」

「私の推測だと、本人の執着が記憶定着の鍵になっているはずだよ。 くわえて選別されるものは、身につけた戦闘技能、それも論理立てて説明、他者でも修得出来るものに限るんだと思う。 才能とか種族の特性とかで身につけているものじゃなくて」

確かにそうしないと、夜目をどう利かせるとか、我流の奥義とか、どうにもならない記憶が定着してしまう。この特性だけを聞くと、特定の者が編み出した業を他者に配布するには、これ以上もないほど向いている道具だと言えるだろう。

しかし問題は、どうしてそんなものを配布しているか、という事だ。確かにファルはそれを利して、アレイドWスラッシュを考案した。エーリカも魔法を増幅するアレイドを編み出した。それだけでなく、修得した呼吸法を上手く使えば、もっと多くのアレイドを編み出せる。前回の戦いで撤退する際に、三人がはった防御陣地、もう少し考えればあれを論理的に構築出来そうである。確かに役立ってはいるが、しかしその用途が、ファルにはどうしても気になった。

「一体、王は何を考えているのだ? 冒険者にはこれの特性を秘密にしているのだろう?」

「うん。 でも、ギルドの話によると、上位の冒険者の中には気づき始めている人達がいるみたいだよ」

「……気になるな。 引き続き、此方でも調査してみよう」

「お願いね。 それと、迷宮で入手して貰った石とかだけど、調査結果が出たよ」

イーリスは透明な三角形の器具を取りだし、振ってみせる。その底には、どす黒い霧のようなものが溜まって、揺らめいていた。意志を持っているかのように、左右に鈍く、粘り着くようにして。

「尋常じゃない障気に侵されてる。 小さな石だけでも、これだけの障気を含んでたんだよ。 信じられない。 ……下の方の階層には魔神が、それも上位の奴が出るって話だけど、無理もないよ、これじゃあ」

「やはりな……」

「迷宮の物品回収は引き続きお願いね。 もし、これ以上の大事なことが分かったら、ギルドになり宿になり連絡しておくから」

「うむ。 それと、最後にこれも調べて欲しい。 これのせいで、危うく死ぬ所だった」

ファルが取りだしたのは、黒食教の神像である。もう既に、エーリカから持ち出しの許可は取ってある。

「これは……随分古いけど。 黒食教の神像?」

「うむ。 それを手にして直後、四十体近い不死者に襲われた」

「だ、大丈夫? 怪我はない!?」

「怪我はしたが、死なずにはすんだ。 優秀なリーダーのお陰だ」

安心して嘆息したイーリスに頷くと、ファルは思い出して、小さな包みを懐から取りだした。イーリスが、砂糖をまぶした焼き菓子を好む事を覚えていたので、途中で買ってきたのだ。これは単なる気紛れの産物だったのだが、イーリスは目を輝かせて喜んだ。

「たまには、茶という奴をしてみるか。 適当に頼む」

「うん。 あんまり美味しいのはないけど、いい?」

「構わない。 これは雰囲気を楽しむものだとか聞いた事があるし、何より私に茶の味なんて分からないからな

 

焙烙の補給を済ませてイーリスの家を後にすると、ファルはその足で忍者ギルドに向かった。別に急ぎでもないし、今日はエーリカ本人が迷宮探索をしないと公言している。それに、今頃エーリカは、この間の依頼主であるメラーニエの所で、パーティか何か楽しんでいる事であろう。確かに、最初の一歩というのは後に大きな思い出となる。それを飾っておくのは、本人のためにも望ましい事だ。ただ、途中で挫折したら、一転して大きな苦い思い出になることも疑いがない。

イーリスはブレスレットの件について中間報告を出しているという話だったが、ファルとしてもギルドの仲間達に伝えなければならない事があった。例の特殊呼吸法は、聴覚が鋭くなるし、それを利して様々に展開が可能である。アレイドの事まではまだ流石に教えるわけには行かないが、同輩や後輩達の生還率を上げるためにも、この呼吸法を広めるのは重要だ。それに、地下二層の事で打ち合わせをするためにも、情報を収集しておく必要がある。一応もう地下二層には行けるので、事前の準備は欠かせなかった。

相変わらず掘っ建て小屋と大差ないギルド本部へ赴くと、珍しく数人が狭い小屋の中で、額をつき合わせて話し込んでいた。ファルが咳払いすると、彼らは顔を上げ、会話に加わるように促した。呼吸法だの二層の話だのは、これではまことに残念ながら後回しにせざるを得ない。

「何かあったのか?」

「うむ。 冒険者ギルドの方から、例の地下二層の異変について調べて欲しいと連絡があってな。 手が空いている人員を吟味しているのだ」

「もうゼル様を始めとする手練れの方々は調査に当たっているのだが、これと言った手がかりが見付からなくてな。 噂通り、敵は強者を避けて動き回っているらしい。 厄介な相手だよ。 用心深く頭がいいのか、それとも特殊な習性が原因なのか、それすらもまだ分かっていない状態だ」

地下二層の異変といえば、冒険者の失踪が相次いでいるというあれであろう。ファルも勿論聞き覚えがある。実際問題、それの犯人には、重々気をつけねばならないとも考えていた。ましてエーリカが、ルーシーから既に地下二層の異変を調査してくれと言う依頼を受けているのである。無論今後地下二層を通らねばならないのだから、依頼を受けるのは吝かではなかったが、かなり厳しい戦いが発生する事も当然覚悟していた。

「それなら、私のチームが依頼を既に受けている。 翌日か、遅くても翌々日の探索からは調査に当たる」

「ふむ、君達のチームなら実力的にも適当か」

話し込んでいるうちの長老格が頷いた。もう老いてしまっているが、状況分析能力、判断力等は今だ明晰を極め、若手には頼りにされている者だ。彼はしばし待てと言い残し、地下室に潜ると、倉庫から何か取りだしてきた。

「これを持っていけ。 得体が知れない相手だが、少しは役に立つだろう」

それは、ごとんと重い音を立てて、机の上に置かれた。人の頭ほども重量がある球体で、長い紐と、側面の一カ所に札が貼り付けられている。海上戦などで使われる大型の焙烙だ。重いし、投擲には全身を使って振り回さなければならないが、破壊力は小型の焙烙よりもずっと高い。確かにこれなら切り札になる。上位の魔神や竜族には恐らく通用しないが、それでも無いより遙かにましだ。ただし、持ち運びがかなりかさばる。その辺りは、何とか工夫する必要があった。

「感謝する」

「うむ。 絶対に生き残れよ。 君を始め、有望な若者を失うのは、今のギルドとしては非常に痛いのだ」

もう一度感謝の礼をすると、ファルは一段落した話を脇に置き、呼吸法と地下二層についての話に移った。

 

2,いにしえの坑道

 

カルマンの迷宮地下二層は、どこかの鉱山であったといわれている。古くて寂れてはいるが、坑道が縦横に巡り、彼方此方に朽ちたトロッコや、線路さえもが残っているのだ。トロッコの中にあった鉱石を分析した所、炭坑であった事が判明しているが、現在でも迷宮になる前に何処にこの鉱山があったのかの特定は出来ていない。

魔女の凄まじい魔術によるものか、或いは別の要因なのかは分からないが、地下一層以降の迷宮は、明らかに前から土に埋まっていた物ではない。無理矢理つなぎ合わされた空間が、地底まで延々と続いているのだ。これがどういう魔術なのかはよく分かっていないが、少なくとも現在普及している魔術に、此処まで桁外れの物はない。強力な魔神の類が現れた際に、空間が歪められて出現した迷宮は前例がある。しかし、今回そういったものは確認されていないのだ。

昔かなりの規模の鉱山であった事は、坑道の規模からも明らかだ。天井は高く、幅は広く、隊形を維持したまま充分に移動する事が出来る。彼方此方には部屋も設置され、生活感が残されている事すらもあった。ただし、坑道の殆どは崩れてしまい、埋まっている。〈地下二層〉と呼ばれている部分は、元の鉱山の実質上僅かだと、素人にも一目で分かる。ただ、他の場所に、現在崩落の危険はない。その代わり、元鉱夫だったらしき不死者が、かなりの頻度で出現するし、地下三層からより強力な魔物も這い上がってくる事がある。

以上の説明をファルが終えると、宿の食堂で軽く食事にしながら話を聞いていたチームメンバーとジルは、一様に小さく唸った。一人ロベルドだけは、きらきらと目を輝かせている。血が騒ぐのを押さえようともしていない。

「元鉱山ってのは、結構楽しみだな」

「そういえばドワーフは夜目が利き、地下の事を熟知して居るとも聞くが、誠か?」

「ああ、ヒューマンよりかはずっとな」

「それは頼もしいわ、頼りにしているわね、ロベルド」

にっこり笑ってエーリカが言う。しかし、同時にその目には、奥深く鋭い光も宿っていた。要は、彼女はこういっているのだ。頼りにはしている。しかし、調子に乗るなと。小さく頷くロベルドを横目に、ファルは甘辛く煮た芋料理をつつきながら言った。

「具体的に取る策はあるか?」

「まず、資金をつぎ込んで戦力強化を図るわよ。 まずコンデさん、ギルドに行って、魔法のプロテクトが外れないか調べてきて。 愚僧も行って、幾つか覚えられないか調べてくるわ」

ギルドでは、魔法石などを使った魔法教育も行っている。無論本人の実力以上の術は覚えても使わせて貰えないが、魔法石が比較的簡単に手に入るこの地では、とても安くサービスが受けられて冒険者には美味しい。エーリカが言った、魔法を覚える、というのはその事だ。

他に前衛の武具を整える事を決めると、エーリカは不意に真面目な顔になった。

「それと、地下二層は危険な怪物が出るという噂が流れているわ」

「ああ。 今回の調査で、正体を突き止められると良いのだがな」

「例え地を這う巨大な百足だろうが、空を切り裂く火竜だろうが、皆が協力すれば怖るるに足らぬさ」

「まあ、それもあるのだけど。 むしろこういう時こそ、足下をすくわれないようにマーク外の事を知っておく必要があるわ。 ファルさん、何か他に地下二層の危険因子に心当たりはない?」

確かにエーリカの言葉はもっともである。ファルも少し考え込んだが、それほど危険な事については、忍者ギルドでも言及はされなかった。考え込むファルの背中から、もう一つの声がかかった。初々しいエーリカのそれに比べ、愛らしくて心和ませる笑みの持ち主は、当然エイミである。

「あの、私でよろしければ、情報がありますわ」

「お、本当か?」

「はい。 怪物は二種類居る、という話ですわ」

それはファルも初耳だった。聞き入る皆に、エルフ族の特徴である、尖った長い耳を持つ娘は続けた。

「行方不明者の幾人かは、実は変わり果てた姿で発見されているそうですの。 その遺体に明かな二種類のパターンがあって、片方は内側から破裂したように、もう片方は切り刻まれたようになっているのだとか。 恐いですわ。 気をつけて下さい」

「それは本当か?」

「はい。 信頼出来る筋からの情報ですわ。 でも、今はまだ内密にしてくださいね」

考え込むエーリカ。ファルも腕組みして考え込んだ。切り刻まれた、というのはまだ分かる。しかし、破裂した、というのは正直殺し方にも見当がつかない。爆発させるような魔法は例外なく火力を伴う。故にそれを受けたなら、破裂したようになるのではなく、バラバラの消し炭になってしまうのだ。

ファルはエイミの言葉を信じたいと思う。正直者の妹は、昔から本当に信頼できることしか、〈信頼出来る〉とは言わなかった。加えて、今の彼女は、ヒューマンしか居ない街ではなく、様々な種族が雑居する場所に住んでいる。元々の人なつっこい性格が幸いし、今では広い情報網を作り上げているという可能性は充分にある。ファルはしばしの沈黙の後、エイミの言葉を信じ、重々注意して地下二層に挑む事を決めた。

「何にしても……」

鋭い目つきで、エーリカがチームメンバーの皆を見回した。コンデの後ろにずっと立っている、ジルまでも小さく息をのんだ。

「気合いを入れていくわよ。 まずは地下一層の地図を整備してから、だけどね」

 

一日間の地下一層探索の結果、ファルのチームは問題なく地下二層への通路を覚え、地図上に確立した。地下一層の把握もほぼ終え、そろそろ能力的にも地下二層へ挑むに相応しい所まで来た観がある。実際、二度の死闘をくぐり抜けた経験は大きい。少し冒険をしてみようと思えば、地下三層もさほど危なげなく歩けるかも知れない。

実力を伸ばすには修羅場を潜り続けるのが一番だが、その法則は今回も当てはまった。魔術師は、基本的にギルドに使用出来る魔法のレベルを設定されている。これはバックファイヤと呼ばれる逆流現象を防ぐための措置であるが、それが的確なため、精神的なブロックをかけて実力以上の術を殆どの魔術師が封印している。コンデもその例に漏れず、上級の魔法はあらかた封印をかけていた。だが、今回少なからず前回の測定時よりも魔力が上昇して許可が下りたので、その一部の封印を解除した。同じようにエーリカはギルドで幾つか新しい魔法を覚え、使用許可を得て、ほくほく顔で戻ってきた。また、ヴェーラは籠手を、ロベルドは腕につけるタイプの小盾をルーシーの店で新調し、基本的に皆の戦力が一段落増強された事となる。ファル自身はというと、細かい部品や布を買い込んで、自前で忍び装束を多少強化した。

普通の冒険者ならこれで調子に乗ってしまう所だが、何しろロベルドもヴェーラも、数日前の地下一層探索で手ひどい目に遭っているので、慎重案を提示するエーリカに逆らわなかった。文句一つ無くエーリカに従う二人を見て、ファルはあの苦戦は、エーリカが意図的に仕組んだ物ではないかと疑い始めていた。だがあの戦いでは、エーリカも相当に苦労していたわけだし、半分以上は考えすぎである事が疑いない。あくまでも、半分以上は、であるが。ファル自身も、今は強敵との戦いを望んでいた。思いがけない魔物の強力さ、それに自身の至らなさを前回の戦いで思い知った以上、技を磨くのと同時に、自身を鍛え上げる必要性がどうしても生じていたからである。アレイドはあくまで最後の手段であるし、まだ不完全であるから、それに頼り切るわけには行かない。何にしても、向上の余地はまだまだ充分にある。修行を欠かすわけにはいかなかった。

一層を探索し終え、じっくり休んだ後、翌日には地下二層への挑戦が決定され、実行された。地下一層から下へ延々と延びていく階段を下りていくと、途中で不意に雰囲気が変わった。壁もある一線から、人工物ではなく岩壁へと変化した。同時に少し明度が落ち、空気が冷える。周囲を見回し、コンデが髭を撫でながら言った。壁の所々には、複雑な模様やら文字やらが刻み込まれており、時々闇の中光を発していた。

「これは、空間連結の魔法じゃろうの。 恐ろしく高度な魔法じゃ」

「やはり、使ったのはアウローラなの?」

「間違いないじゃろうな。 これが地下ずっと続いているとすると、正直あのウェズベル様でも、使えるレベルの術では無かろうて。 恐ろしいのう」

「相変わらず兎のように臆病だな、コンデ殿は」

別に悪気無くヴェーラが言ったので、皆遠慮無く笑った。ファルでさえ、少し苦笑したほどであった。

階段を下り終えると、通路が広く延び、天井が高くなり、冷えた空気が前方から吹き込んでいた。事前に調べた所、地下二層は大きな縦穴で全体がつながっており、平らな部分は主に上下二段に別れている。上段は元々鉱夫が住んでいた所らしく、部屋や通路が整備され、だが故にあらしつくされてしまっている。一方下段は洞窟の雰囲気が強く、その分強力な魔物が居るが、ひょっとすると未探索な場所が存在しうる。既に、最初は上の階層から探索する事が、エーリカの提案によって決定されていた。あらしつくされているとは言っても、実際問題調べてみれば何か見付かる可能性はある。

「しっかしよ、やっぱりじいさんの言う事は本当みてーだな」

「うん? どうした急に」

「さっきから天井とか壁とか見てんだけどよ、降りた深さと、構造がぜんっぜんあわねーんだ。 なんてーか、すげえちぐはぐな感じがするぜ」

「となると、アウローラは何でこんな鉱山を迷宮につなげたのだ?」

口々に話しながら歩く皆とは別に、ファルはわざと会話には加わらず、機会を見てエーリカの袖を引いた。ただ事ではないと気づいた僧侶は、ファルに小声で問い直す。

「どうしたの?」

「うむ。 実は先ほどから、つけてきている者が居る」

背筋を伸ばしたエーリカは、咳払いして、出来るだけ自然に小声で問い返してきた。

「危険な相手?」

「危険だ。 此方の力量を計っているようだな」

「となると、例の行方不明事件の犯人かしら?」

「可能性はある。 どうする? 追い払うか? それとも釣るか?」

エーリカがファルに耳打ちし、それの内容に納得したファルは、以降黙っている事にした。

坑道を進んでいくと、通路の脇に、扉が一つあった。素早く隊形を組み直し、扉の前に皆が展開する。ロベルドが戸を蹴り開けると、中には大きな蛙がいた。数は四体、殆どが此方に背中を向けていたが、戸を開ける音に反応して一斉に向き直る。

蛙というと鈍くて臆病で、食物連鎖の下位にいる生き物だという認識を持つ者が居るかも知れないが、それは間違っている。大型種の中には非常に貪欲で凶暴な者が少なくなく、そう言った種は肌も分厚く頑丈である。迷宮の中で大型化し、凶暴化すれば、彼らの特色は更に増す。そんな魔物が、今部屋の中に群れているジャイアントトードだ。ヒューマンを丸飲みするほどのサイズではないが、口の中に鋭い牙を持っていて、油断すると腕ぐらいは簡単に食いちぎられる。ホビットの冒険者が油断して、丸飲みにされたという報告例もあるようだ。

ジャイアントトードはじりじりと間合いを計り、此方の出方をうかがっている。背中を見せれば追撃してくるのは間違いない。しばしの沈黙を、炎が斬り破った。杖を横に構えたコンデが、クレタを放ったのだが、以前より火力が一回り増していた。コンデ老は新しい魔法を覚えるのと同時に、現在の魔力に合わせ、クレタのリミッターも外したのだ。その分撃てる数は減ったが、威力は見ての通りである。最前衛にいたジャイアントトードが回避行動を取るが、避けきれずに炎に包まれ、悲鳴を上げてのたうち回る。同時に、前衛の三人が一斉に敵に躍りかかった。

「Wスラッシュ!」

指示が後ろから飛ぶ。ファルは素早くサイドステップして呼吸を整え、間合いを詰めたヴェーラとクロスするような形で、一体を撫できった。手に分厚い肉を切る感触が残り、二カ所の傷より盛大に血を噴き出した蛙が舌を振り回して暴れる。二本、太い舌が飛んできた。分厚い肉の鞭は、ファルの脇の下を掠め、そのまま最伸張点で曲がり、巻き取ろうとしてきた。そのまま腰を落とすと、ファルは一瞬早く跳躍、彼女が半瞬前まで居た空間を、舌が握りつぶしていた。悔しそうな声を上げる蛙の頭を、ロベルドが大斧でたたき割る。もう一体の舌はヴェーラのハルバードに巻き付いており、力比べをしていたが、空中で一回転したファルは、そのまま抜刀し、着地と同時に舌を切り裂いた。悲鳴を上げてのけぞる蛙に、髪を空で激しくゆらしながら、猛獣のように跳躍したファルが襲いかかり、態勢を立て直す前に蹴り倒した。地面に転がった蛙に、ロベルドが飛びついてとどめを刺した。先ほどクレタを貰った蛙は、もう息絶え、香ばしい臭いを周囲に撒いていた。

「楽勝だな、オイ」

「先手を取れたからな。 先手を取られていたら、結果は分からん」

蛙の血を振って落とし、愛刀を鞘に収めると、ファルは気配を探った。近くでまだ伏せている。暫く気づかないふりをして、隙を見せてやらねばならない。今の言葉だって、その時に備えて、ロベルドに釘を差したものだったのだ。

そう、方針はもう〈釣り〉に決まっていたのである。油断したふりをして、冒険者行方不明事件の首謀者を引っ張り出す。全てはそのための布石であり、罠の準備は、徐々に整いつつあった。

 

3,忍び寄るもの

 

ブッシュワーカーと呼ばれる盗賊の一派が居る。彼らは気配を殺す事に長けており、一見何でもない茂みや物陰に伏せ、敵を奇襲する術に卓絶したものを持っていた。別名〈初心者殺し〉。地下二層で、もっとも冒険者に忌み嫌われるのは、魔物でもなく魔神でもなく不死者でもなく、皮肉な事に人間なのだ。

このブッシュワーカーに限らず、カルマンの迷宮で活動している裏業界の者は少なくない。駆け出しの冒険者なら充分に彼らの手に負えるからである。そこそこ腕を上げてきた者だって、足下をすくってやれば面白いように勝てる。数を揃えればなおいい。そう言った理由で、カルマンの迷宮に、騎士団の警備が厳しくなる前に潜り込んだ者達の生き残りが、ブッシュワーカーを始めとする者達だった。無論、今でも秘密の裏道や抜け道を通って、迷宮に入り込んでくる者もいる。下手な冒険者より手だれている使い手も居て、中には七層まで潜ったと豪語する者さえも居るのだ。

そのブッシュワーカーの一団、ワイズと呼ばれる男が率いる六名が、今回の冒険者失踪騒ぎの犯人であった。正確には、その四分の一、という所である。確かにチームからはぐれた冒険者や、力を手に入れて調子に乗っている者を見分け、捕獲してきたのは彼らである。しかし、彼らの上にいるのは、得体の知れない錬金術師だった。捕まえた冒険者を見るも無惨な亡骸に変えているのも彼である。ワイズもその正体は知らなかった。何しろフードで顔を深く覆っていて、年齢も性別も分からない有様なのである。加えて、冒険者に死体を破裂させている者の正体は、ワイズも全く見当がつかなかった。

「ボス、あの、相談が」

「ああん?」

苛立ったワイズが振り向くと、彼の部下達は皆一様に怯えきってしまっていた。彼にではなく、情況に、である。内心で、ワイズは大きくため息をつかざるを得なかった。部下達の気持ちは、嫌と言うほど分かるからだ。

最近は騎士団の動きが鋭く早く、事件があるとあっという間に飛んでくる。仕事がやりにくくなったどころか、捕まる可能性が非常に高くなり、部下達は何度も辞める事を提案してきたのである。もっと深い階層へ降りるという手もあるのだが、それでは現れる魔物に太刀打ち出来なくなる。特に地下三層以降に住んでいる竜族の実力は圧倒的で、それに襲われたら一巻の終わりである。ワイズも出来ればこの仕事は切り上げて、もっと楽な稼ぎを狙いたいと考えていた。だがあの錬金術師は、辞める事を承諾はしてくれなかった。

あの錬金術師が来たのは一月前。その時、ワイズの一味は三人を殆ど一瞬で丸焼きにされた。戦闘向きではないといわれている錬金術だが、高位の術になるとなかなかどうして侮れない破壊力を持っている。それを体で直接味あわされたワイズ達は言われるまま従い、今でもその下で動いている。殺した者の装備や所持していた金品は好きにしていいと言われていたが、今捕まれば確実に縛り首だ。そうすれば金など何の意味もない。騎士団と錬金術師を戦わせる事も考えたが、騎士団長が出向いてきたという話は彼も聞いており、となるとほぼ間違いなく勝ち目はない。だから、ワイズは部下達に、黙れというしかなかった。だが悩み、仕事を辞めたいと思っているのは、彼も同じなのである。

ワイズは悩み、そしてなし崩しに仕事をし続けていた。そして、今日は五人組の冒険者を見つけた。実力はそこそこで、まず堅実な編成と装備をしていて、しかも此方に気づいていない。此処最近警戒している獲物が多い中、絶好のカモといえる。

「久しぶりに、楽そうな獲物だな」

「ボス、大丈夫ッスか? 何かさっきから、誘い込まれているような気がするんすけど」

「ごちゃごちゃほざくんじゃねえ! 殺されたくなかったら、黙って従ってろ!」

ワイズは矢立から、矢を何本か引っ張り出し、毒を塗りつけた。麻痺毒の一種で、即効性の強力な毒だ。人間種のうち、体力がないエルフやホビットならほぼ数日は動けなくなる。ドワーフとて、ほぼ丸一日は無力化してしまう。これと磨きに磨いた奇襲の業で、今まで多くの冒険者を捕らえてきた。その自負と、焦りとが、彼の判断力を摩滅させていた。

 

二度目の戦いも、申し分ない出来に終わった。少し湾曲気味になっている通路の先、胃袋のように少しふくれた場所である。その一角に背を預け、ファルは敵の出方と、自分が出るべき手を考案していた。エーリカは周囲を見回して、時々小さく頷いている。少し奥の方には、朽ちかけた木箱が積んであり、ヴェーラとロベルドは嬉々としてそれを漁っていた。コンデはまだ形を残している木箱に腰掛け、ジルが茶を入れてくれた水筒を上下させていた。そんな事が出来る情況からも分かるし、それに時々ロベルドが指摘するのだが、この階層は地下一層よりもずっと新しい。

無防備にも見えるファル以外のメンバー。ただ、彼らは順次エーリカに事情を告げられ、半分は演技でそれをやっている。特にコンデは、杖を傍らから離していないし、ヴェーラもロベルドも、通路から死角になる場所で、戦利品漁りをしていた。

エーリカがフレイルを取りだして、手で数度柄を叩きながら、笑顔で近づいてきた。笑顔だが、目に宿る光は、獲物を狙う獣のものだ。

「地形的には申し分ないな」

「どう? ついてきてる?」

「うむ。 恐らくそろそろ攻撃に移ってくる」

「なら充分ね。 打ち合わせ通りに行くわよ」

ファルはうなずくと、焙烙の一本を懐から取りだした。気配が近づいてきたからである。音もなく、それこそ這い寄るように。だが、ファルの方が、一枚上手だった。シーフも出来るような技術は並以下だが、一方で戦闘面のスキルは抜きんでているファルに戦いを挑んでしまったのが、敵の不幸であったといえる。呪札をはがすと、焙烙が熱くなり始める。そして、敵がアクションを起こした瞬間、柔らかく隠れている敵の頭上へ放る。タイミングは完璧であった。

矢風が起こり、それがロベルドの漁っていた木箱の側に突き刺さるのと、焙烙が曲線を描き、柔らかく矢の発射地点に落ちるのは同時であった。爆発が、そして悲鳴が起こった。

「コンデさん!」

「うむ、任せておけい!」

コンデは杖を横に構えて、通路の真ん中へ出、容赦なく煙の中にクレタを叩き込んだ。二次爆発が巻き起こり、悲鳴が止んだ。敵が飛び道具を持っている事は明かであり、皆素早く壁際へ避難する。それからは音が止み、ヴェーラが生唾を飲み込む音が、皆の耳に届いた。

 

「ち、畜生……!」

ワイズは這うようにして逃げながら、悪態をついていた。後ろには数を四名に減らした部下達が、ひいひいとわめきながら続いていた。今までも奇襲を察知された事はあったが、此処まで徹底的に叩かれたのは初めてだったからである。その上、敵は攻撃と同時に、隙が微塵もなくなった。奇襲前であれば、正面から戦いを挑んで五分に戦えたかも知れないが、今はもう無理だ。

しかし、下手に逃げれば、錬金術師に何をされるか分からない。傷ついた者を置いていった以上、此方の正体はもう敵に知られていると思って間違いない。である以上、敵を生かして帰すわけには行かない。もしそうなれば、身の破滅だ。

「おい! レゲツラ!」

「へ、へい!」

「錬金術師からアレを借りてこい!」

鬼気迫るワイズの表情に、部下の一人が後ずさり、逃げるようにアジトへ戻っていった。アレとは、錬金術師が飼っている用心棒兼ペットで、その戦闘能力は非常に高い。後は敵を、今いる場所に釘付けにしておく必要があった。これは部下には頼めない。もう一度矢を矢立から引っ張り出すと、彼は凄みのある声で部下に言った。

「俺が最前線に出る。 援護しろ」

先は不意をつかれたが、ワイズとて射撃の腕には自信がある。今までも二十を越す敵を、その弓の腕で仕留めてきたのだ。敵が姿を見せれば、すぐにでも射すくめる自信が彼にはあった。

通路を進むと、既に息絶えた部下達の姿があった。一人は首が半ばもげかけていた。敵が使った爆発物の正体は分からないが、投擲された事は覚えている。ならば、投擲する暇も与えなければよいだけだ。部下に黙祷すると、ワイズは壁を背にし、ゆっくりと弓を引き絞った。

 

煙が晴れた通路の奥を見つめていたファルは、敵の再接近に気がついた。一番出来ると思われる者を最前線に、他の者達が恐る恐るついてくる。数は四人。先よりも、三人減っている。

「……。 戻ってきたようだな」

「まずいわね、それは」

「あん? どういう事だ? 敵の戦力は半減してるんだろ?」

「それなのに戻ってきた。 要するに、十中八九敵は何かしらの切り札を投入してくるつもりでしょうね。 さっきと違って、今度は時間稼ぎのために攻撃してくるわよ」

言い終えないうちに、風を斬って矢が飛んできた。二本、三本、連続して飛んでくる。いずれも勢いは鋭く、しかもほぼ確実に毒が塗ってある。当たれば面白い事にはなりようがない。

ファルは何度か隙を見て出ようとしたが、しかし矢が早すぎる。しかも反応も悪くない。二度、鼻先を矢が掠め、ファルは舌打ちして一歩下がった。無論、焙烙を投擲する暇はない。さっきと違い、敵は油断していないのだ。

「どうする?」

「さっきのホウロクは、後幾つある?」

「二本ある」

「温存しましょう。 此処で消耗するわけには行かないわ」

本当は切り札の投げ焙烙も持ってきているのだが、それはまだ秘密である。大体この情況の使用には適していない。切り札を生かし切れない場所で安易に使うようでは、一流にはなれようがない。

この状況下では、敵を合流させてはまずい。しかし、今足止めをしている連中を倒すのに消耗しすぎたらもっとまずい。そんな時、口を開いたのが、ヴェーラだった。

「矢を回避するのなら、私に任せておけ。 火神アズマエルの子は、風に守護された者達でもあるのだ」

「大丈夫?」

「大丈夫だ。 これを預かってくれ。 重いぞ、気をつけろ」

エーリカにハルバードを渡すと、ヴェーラはゆっくりと、一歩二歩と危険地帯へ踏み出したのであった。その背中には、死地に赴くような悲壮はなく、むしろ技能を生かせる高揚のみがあった。

 

ササン人は草原の民であり、火の神アズマエルを信仰する民でもある。騎馬民族たる彼らは、独特な風習と、何処に行っても通じる猛々しい心を併せ持つ存在でもあるのだ。ササン人は遊牧の民であり、馬を誰よりも愛し、体の一部のように乗りこなす。当然のように、彼らは馬術、弓術の他、長柄武器等の扱いに長けている。

騎馬兵というものは、歩兵に対して圧倒的なアドバンテージを持つ。そのスピードもそうであるし、非常に高い点から攻撃を下せるという点も大きい。重装騎兵はそのスピードを突進力に変えてのチャージを最大の武器に、軽装騎兵はそのスピードを生かしての高速機動戦を得意にしている。また、ササン人は余所の民でも、優秀な者は幾らでも受け入れるという度量を持ち合わせており、故に長きに渡って独立を保ち続けてきたのである。バンクォー戦役でも、彼らの部隊は縦横無尽に戦場を駆け、敵兵に恐怖を、味方に希望をもたらしたのである。

案外知られていない事であるが、ササンの民が力を入れている術がもう一つある。それは、弓矢を回避する事を中心とした、対矢戦舞と呼ばれる武術である。これはどういう事かというと、騎兵の天敵とよべる存在があるからだ。それは即ち弓矢である。強大な騎馬民族を撃退する際、農耕民族が用いたのは最新式の弓矢であった。つるべ打ちされる膨大な矢は、騎兵にとっては悪夢といっても良い。場合によっては、歩兵が有する唯一の騎兵対抗手段でもあった。無論、騎馬民族であるササン人も黙ってはいなかった。馬に乗っている際に、飛んでくる矢を如何に効率よく回避するか。馬がない場合、如何にして弓矢を避けるか。これらはササンの民にとっての必修科目であり、男女問わず戦士なら絶対に身につけている事でもあった。もっとも、それが武術として確立した頃には、攻撃魔法の全盛によって騎馬兵団の無敵時代は終わりを告げていたのであるが。

ヴェーラはこの矢回避術に自信を持っていた。弓術も下手で、馬術も長柄武器も並という、ササン人として特に傑出したわけでもない彼女だが、これだけは突出していた。一芸型の人材という点では、ファルと近い存在だとも言える。世界最強の傭兵団であるシムゾン隊に入れたのも、これの技能に冠絶していたからだとも言えた。ただ、実戦で披露する前に、紆余曲折の末に隊は全滅してしまったのであるが。つまり、である。これが彼女の対矢戦舞、実戦初投入であった。

「見せてやろう、ササンの舞を!」

不敵に口の端をつり上げると、ヴェーラは素手のまま射線上に出ていった。ゆらりと、とらえどころのない動きで、左右にヴェーラは動き始めた。ゆっくりと、その喉からは、心を高ぶらせるための音が漏れる。

それは、文字通りの舞であった。

AAAAAARAAAAAA、UAAAAARAAAAAAAA……

ヴェーラの声が、虚空に響く。いや、それは声ではなく、音というのが相応しい。一瞬呆気に取られたらしい敵であったが、すぐに射撃を再開した。

 

「ほう、これは凄い」

ファルが思わず感嘆の声を漏らしていた。ヴェーラはゆらりゆらりと左右に動きながら、次々に飛んでくる矢を回避し、或いは手甲や肩甲を利し、避けずにはじいている。正面から受け跳ね返すのではなく、射線を斜めにして弾いているのだ。響き来る音は、ヴェーラが発しているものであろう。ひょっとすると今彼女は、擬似的にササンの野に居るのかも知れない。目には高揚が浮かび、うっすらと浅黒い肌に浮いた汗は、時々周囲に粒となって飛んでいた。

敵はむきになってヴェーラに矢を射かけるが、いずれも有効打にはならない。しかし、である。それにも当然限界がある。ただ、敵がもっと近づいてきたら、ヴェーラだって避けきれない事が目に見えている。だが一方で、その瞬間こそが、攻勢に出るべき時であった。ヴェーラの舞は、壮大な釣り餌である。そして魚は、もう食いつく寸前だった。

「そろそろ、だな」

「ええ、仕掛けるわよ。 ロベルド、コンデさん、準備して!」

3,2,1,0.エーリカがカウントし、それが終わった瞬間、四人は一斉に飛び出した。同時にエーリカがヴェーラにハルバードを渡し、自身は背中からフレイルを抜き出す。敵は矢を慌てて放とうとするが、それより早く間合いを詰めたロベルドがタックルをかけ、更にファルが顔面に蹴りを叩き込んだ。更にコンデが放ったクレタが二人を吹き飛ばし、残った最後の一人は逃げようとしたが、ファルが放った手裏剣を足に貰って転倒した。

敵の首領らしき男の背中を踏みつけながら、ファルは言う。目には妥協のない苛烈な光が走っていた。

「死ぬか? 喋るか?」

「しゃ、しゃべ……」

「その者は、喋らない」

ファルがロベルドの襟首を掴んで飛び退くのと、閃光が炸裂するのは同時だった。

 

壁に凄まじい勢いで叩き付けられたワイズは、全身の骨がへし折れる音を聞いた。何が起こったのかは理解出来なかったが、自分が死ぬ事だけは分かった。全身焦げていたが、もうどうでも良かった。

視界の向こうには、口を動かしている用心棒と、その隣に立つ錬金術師があった。どちらも曇っていて、良くは見えないが、間違いない。あのおぞましい目と、腐臭に似た奴の口臭は、間違いない。

「ボ、ボス、助け、助けて、ぎゃああああああっ!」

部下の悲鳴が響くのに、彼は手を伸ばす事も出来なかった。自分たちが捨てゴマに使われ、利用価値が無くなったから消されたのは間違いなかった。分かっていたのに、逃げれば良かったのに。最後にワイズが思ったのは、ずっと昔、本当に好きだった女の事だった。美人でもなく、口うるさかったが、本当に彼の事を心配してくれた娘。あの時、言う事を聞いて無茶をしなければ、こんな無惨な死に方はせずともすんだのだ。

いつから頑なになってしまったのだろう。裏切られ続け、人間の本質を見せつけられ続け、いつの間にか歪んでしまった。だが、いつからそうなったのか、どうしても思い出せなかった。

「へへ……馬鹿だ……俺は」

用心棒の口がワイズの頭をくわえ、そして一息にかみ砕いた。砕け行く脳味噌が、最後の瞬間、思い出していた。冒険者として意気揚々と洞窟に挑み、仲間と信じていた連中から裏切られて、それから転落が始まったと言う事を。だが、もう全ては遅かった。

ワイズの魂は、異界へ旅立った。不思議と未練を残さずに。

 

4,相容れぬ者

 

「ぐっ、くう……」

飛び退きはしたが、全身を強打したファルは、苦痛の声を漏らしつつ目を開けた。隣では同じようにして、ロベルドが立ち上がっていた。流石にドワーフ、殆ど同じ傷を受けたろうに、ファルよりも消耗が少ない。ファルは痛む全身を何とか説得し、立ち上がる。だがすぐに視界が下に移動し、片膝をついた。左腕の感覚がない。見れば、鮮血が流れ落ちていた。激しい痛みで、指も動かせなかった。

「大丈夫?」

「かなりまずい。 回復を頼む」

「分かったわ。 痛いけど、我慢して!」

エーリカが何かを見据えている。ファルも釣られて、自分を吹き飛ばした相手に視線を移した。其処にいたのは、フードで人相を消した人間と、巨大な影だった。

「ドラゴン……か?」

「いいえ、違うわ。 おそらくはケルベロスよ」

フィールを唱えながら、エーリカが言う。ケルベロスといえば、古代神話の地獄の番犬だが、今此処で問題にされているものは違う。錬金術で作り出された擬似生命体で、寿命は短いが、容易に作り出せ、そこそこに高い戦闘能力を持っている。故に、道を踏み外した錬金術師からは人気があるという話である。犬を元にしているだけあって、飼い主には従順でガーディアンに最適だからである。

煙を破り、ゆっくり姿を現したのは、やはりケルベロスだった。頭を三つ持つ、獅子より一周りも大きい犬である。そして傍らに立つフードの姿は、面白くも無さそうに言った。

「面倒だ、全く面倒だ」

「面倒だ、だと?」

「私はただ研究をしたいだけなのに、戦わなければならないなど、全く面倒ではないか」

揶揄している様子も、愉悦も全くない。フードの姿の口調からは、本音だけが伝わってきた。ある意味、この者はイーリスに似ている。たまたま世間では研究出来ないような分野を選んでしまわなければ、イーリスのように偏屈者扱いされるだけで済んでいたかも知れない。

以前何度かファルの耳にも入ったが、この迷宮には錬金術に使える素材がごろごろしている。その上、人体実験も今回のような手法を取ればかなり容易に行える。ケルベロスを従えている所から言っても、ほぼ間違いなくこの者は錬金術師。運悪く、禁忌の道を選んでしまった存在であろう。

「動機は大体見当がつくけど、自首する気は無いわね?」

「自主? 世間一般の常識などで私を裁こうというのか? 下らぬ。 だいいち世間一般に何の世話もなった事もない私が、何で世間一般などに裁かれねばならん」

「一理あるわね。 でもねえ、愚僧達も、研究のために殺されるくらいなら、貴方を殺して生き延びる道を選ぶわよ」

「それはそうだ。 マウスでもラットでも、研究者の手に噛みつく権利くらいはある」

フードの姿は淡々と言う。特に邪悪さは感じられないが、同時に相容れる事が出来ない存在だというのも確かであった。ある意味、とても哀れな存在であるのかも知れない。

「もうこれ以上は話す事もない。 逃げられると面倒だ。 パッセ、殺れ」

ケルベロスが吠え、殺気が爆発した。

「正面に回っちゃダメよ!」

エーリカの指示は簡潔で、そして適切を極めた。巨体を揺らしてつっこんできたケルベロスは、重すぎる頭のせいか旋回性能に欠け、突進をかわしたロベルドを追い越して十メートル以上も進み、緩慢に振り返っていた。ファルにフィールをかけながら、エーリカは素早く壁際に移動する。ケルベロスはしばし地面をひっかいていたが、再び頭を低くして突進してきた。それに会わせて、錬金術師が呪文を唱え始める。

ファルはようやく手が動かせるようになり、意識もだいぶはっきりしてきた。少し足下がふらつきはしたが、何とか戦う事は出来る。錬金術師が呪文を唱えつつ、懐から壺を取りだし、中身を地面に垂らした。煙が上がり、錬金術師は飴を練るように、その形を整えていく。錬金術は、純粋な魔力だけではなく、様々な物質も使って魔法を行使する。それに関しては、ファルも多少知識がある。今奴が使おうとしているのは、おそらくはマリクア。超高熱に熱した煙を一定区画にまとわりつかせ、恒常的に敵の力を削り取るという術だ。非常に質が悪い術で、熟練者が使うと人間くらいなら簡単に蒸し焼きにする。一般に言われているほど、錬金術は非力ではないのだ。ただ、金がかかるし、経験もしかりなので、初心者には向かないのである。

焙烙を惜しんでいる暇はない。力を惜しめば、蒸し焼きにされ果てる。そのまま呪札を食いちぎり、紐も使わず錬金術師へ投げつける。殆ど同時に、突貫してきたケルベロスが、火球を放ってきた。怖れる事もなくエーリカが手を前につきだし、バレッツを叩き込む。両者は相殺しあい、派手に爆発を起こした。煙を突き破ってケルベロスが突撃してきた時には、もうエーリカ達は大きく立ち位置をずらしていた。しかし、逃げ遅れたヴェーラが大きく体当たりに弾かれる。だが致命傷は避け、何とかふらつきつつも立ち上がった。煙幕の向こうで、派手に焙烙が炸裂した。時間から言って、錬金術師が相殺した事は疑いない。坑道に、濛々たる煙が満ちた。これでよい。相殺させる事が狙いだったからだ。

呼吸を整え、気配を探る。例の呼吸法が、聴覚を鋭敏にしていく。煙は異臭を含んでおり、これは好機である。ケルベロスは犬の魔物であるし、鼻が利く分、この情況はつらいはずだ。ならば足音を察知すれば、此方が先手を取れる。誰が言うでもなく、目配せしあい、みな集中した。次の瞬間であった。

床の一部が爆裂した。吹っ飛んだロベルドが、うめき声と共に体を起こす。同時にエーリカがコンデに目配せし、呪文を唱え始めた。連続して、次々と爆発が巻き起こる。敵はこの煙を逆に利して、無差別攻撃を仕掛けてきたに違いない。マリクアの火力を圧縮して、一点にぶつけてきているのだ。エーリカの至近で、それにコンデの至近でも爆発が起こる。同時に、ロベルドの悲鳴を聞き、煙を押しのけるようにしてケルベロスが突撃してきた。しかし、それこそが狙っていた瞬間であった。巨大な両手を振り上げ、ケルベロスがロベルドに飛びかかる。三つある頭は、それぞれに大きく口を開け、涎をまき散らしながら突撃する。

「蒼迅の雷よ、汝が速さは神の車! 蹂躙し、なぎ払い、そして灼け! ティール!」

コンデが発動した雷の魔法ティールが、横殴りにケルベロスを貫通した。急所を貫く事は出来なかったが、前足を二本とも貫いた雷撃は、最下級雷魔法のティールとは思えぬ太さであった。さもありなん、エーリカが前回の戦いで切り札になった例の呪文増幅アレイドで、威力を割増にしていたのである。

「ギャンギャンッ!」

のけぞり、横倒しに倒れるケルベロスは哀れっぽく悲鳴を上げたが、その時既に、ファルとヴェーラが動いていた。そして態勢を立て直そうとするケルベロスの前で同時に踏み込み、そして刃を一閃させる。言うまでもなく、Wスラッシュだ。ヴェーラのハルバードは首の一つに根本から食い込み、そしてファルの忍者刀は、首の一つの頸動脈を見事に断ち切った。鮮血が噴きだし、首の一つが白目を剥く。更に体を起こしたロベルドが、三首の真ん中に、斧で痛烈なチャージをかけた。肉を文字通り砕く音と、断末魔の悲鳴が重なった。

深々と食い込んだ刀を引き抜き、ファルが再び呼吸を整える。煙の向こう、確かに奴はいる。刀を振って血を落とし、目を閉じる。目を閉じる事によって、更に聴覚がとぎすまされていく。敵の詠唱が聞こえる。詠唱が聞こえる。すぐ側で唱えているように。敵はマリクアの拡散型を唱えようとしている。ケルベロスが倒されたのを悟り、この空洞そのものを灼熱地獄へと変える気だ。

ゆっくり、ファルが敵の方向を指さす。エーリカとコンデがそれぞれ構える。そして、わざと威力を落としたクレタとバレッツを撃ちはなった。爆音が二つ、そして。悲鳴が一つ。

「うわっ!」

「去ね!」

目を見開いたファルが、全身の筋肉を撓らせ、さながら投石機のように躍動させ、忍者刀を投げた。この瞬間を待っていたのだ。肉を裂く音と、さらなる悲鳴が重なった。手応えはあった。だが、慌ただしく逃げようとする足音からして、致命傷は与えていない。舌打ちしたファルは、髪を掻き上げて、一人煙の彼方へと歩き始めた。煙の先には、黒く焦げた壁と、それに突き刺さった愛刀の姿があった。愛刀には、布の切れ端が引っかかっていた。それに刃には犬血とあわせて人血がついており、ファルは少し残念だと思いながら、壁から刀を引き抜いた。刀はかなり低い位置にある。心臓や胴体を狙うべき所を、本能のまま投擲した結果、音がした地点に近い足へ撃ってしまったのだ。結果的に、錬金術師を一撃で仕留められなかった。百点満点で七十点と言う所である。

しかしながら、満点ではないとしても、今の一撃は収穫だった。呼吸法で聴覚をとぎすませる事よりも、それによって敵の呪文を聞き取り、更に先手を取れたのが大きい。上手くすれば、敵の呪文を発動前に、容易に潰す事が出来るようになるやも知れない。

戦闘状態が精神的に解除されると、徐々に全身が痛くなってきた。煙が晴れ、空間の惨状が露わになってくる。彼方此方爆発でえぐれ、現在のチームの状態のようであった。左手からは、実はまだまだ鮮血が垂れ落ちていた。宿に戻ったら、忍び装束を縫い直さなければならない。指先に伝った血を一嘗めすると、抜き身の刃をぶら下げて、ファルは皆に先駆け錬金術師を追っていった。今の状態なら、不意打ちを食らっても勝てる自信があったからだ。致命傷は与え損ねたが、痛みで詠唱出来なくなるほどの傷は与えてやった。高位の術が使えると言っても、こうなってはただの無力な研究者だ。

だが、細い通路、盗賊共が待ち伏せていた辺りで、錬金術師の逃走痕跡が消えていた。呼吸法によって心的な態勢を整え、周囲を探ってみるが、やはり息づかいも足音もない。高位の遺失魔法には、空間転移のものがあるという話だが、あれは魔術師魔法のはずだ。となると、マジックアイテムを使った可能性もある。何にしても、声や背丈から、ファルはもう大体の人物像を割り出していた。後は騎士団にでも通報すればいい。

「逃げられたな」

「大丈夫? ファルさん」

「ああ。 まあ、取り合えず冒険者失踪事件の犯人の片割れは奴だろう。 手駒は潰してやったし、次にリベンジを挑んできたとしても、だいぶ戦いはしやすいな」

それだけ言って、ファルは追いついてきたエーリカに視線を戻し、言葉を失った。本人は全然気づいていないようなのだが、法衣の一部が朱に染まっている。頬の辺りも、煤で真っ黒だ。まあ、至近で圧縮マリクアの爆風を浴びたのだから無理もない。おいおい追いついてきた他のメンバーも、皆似たような情況だった。

エーリカは流石に鋭い。手鏡を取りだし、すぐに自分がどんな状態か悟った。小さく息を吐き、周りを見回して、やれやれと言った風情で言った。

「一端戻りましょう。 これ以上の戦闘は危険だわ」

「異議なし。 最短距離で燕のように帰ろう」

「なあ、帰ったら、ビール飲ってもいいか?」

「飲み過ぎたらぶっ殺すわよ。 ただでさえ装備を取り替えたばかりで、金欠なんだから」

笑顔でさらりと言うエーリカに、ロベルドは蒼白になって頷いた。もはや現時点で、このパワフルな僧侶に逆らえる人間は、チーム内にいなかった。

 

錬金術師パフケルサセウは、片足を必死に引きずって、地下二層を逃げていた。凄まじい痛みが、右足から全身を侵していた。あの女冒険者が投げた小振りな刀が、彼の足を見事に貫通していたのだ。

「お、おのれ、おのれ……!」

アジト近くまで逃げ込めた彼は、壁に寄りすがって怨嗟の声を漏らした。戦いに負けた事に、ではない。ましてや傷付けられた事に、でもない。研究を邪魔された、その事に彼は憤っていた。傷つく事など、彼には何でもなかった。しかし、研究を邪魔される事だけは、例え相手が神であっても許せなかった。

パフケルサセウは、元々貧家の三男に産まれた。彼が錬金術師になれたのは、親が高位の錬金術師の元へ、彼を奴隷として売り飛ばしたからである。元々優れた学習能力を持っていた彼は、最初は興味本位で雇い主の本を盗み見、少しずつその実効を試していた。

ある日、それが見付かった。だが、彼は鞭打たれなかった。老錬金術師は、殆ど独学で優れた力を身につけたパフケルサセウの力に目を見張り、なかば真剣に、なかば面白半分に、自らの知識を授けてくれた。そして一人前になると、ある程度の金品をくれ、好きなように世界を渡れと言い、自由にしてくれた。そればかりか、ユグルタの魔法学院に席まで用意してくれたのだ。パフケルサセウは喜び勇んで、自分の力を試そうと、世間に出ていった。そして、その無情さを思い知らされたのである。

優れた研究を発表してみれば、善人面した先駆者とやらに横取りされた。研究に打ち込めば打ち込むほど、周囲の人間は彼を変人扱いした。やがて資金が尽き、彼は有無を言わさず学園を放り出された。禁忌の学問に手を出したからと言う名目だったが、事実その頃の彼は、野菜栽培の錬金術応用について研究していたのだ。

世間とやらに対する期待が一切失せた彼は、それを空気として扱うようになった。同時に、人命に対する感覚も気迫になった。今度は本当に禁忌の学問に手を出すようになった彼は、道徳観念からではなく、単純な生命の維持のために彼方此方逃げ回る日々を続けた。彼に罪悪感など無かった。彼にとって、愛するものは研究だけになっていた。研究さえ出来れば、彼は幸せだった。彼は世間一般の感覚から見れば邪悪であった。しかし、彼をそうさせたのは、間違いなく種族としての人間だったのである。

アジトに戻ってみると、まだまだ研究資料は無事だった。彼の研究、それは先ほど逃げるためにも使った、空間転移の秘薬である。人血に含まれるある種の成分が研究には不可欠で、どうしても新鮮な人体が必要だったのだ。だが、それもこれで中断だ。まずは逃げねばならなかった。何という腹立たしい事であろうか。パフケルサセウは苛立ち、憤っていた。

彼は痛む足を引きずって、迷宮を脱出する算段を練り始めた。戸棚を漁り、隠しておいた貴重な資料をまとめ、束ねていく。途中、どうしても足の痛みが我慢出来なくなった。幾つかの毒薬を調合した薬を乱暴に取りだし、緑色のそれを傷に塗りつける。高価な薬だが仕方がない。舌打ちし、独り言を呟く錬金術師は、ようやく痛みが引いたので表情を和らげた。咳払いがしたのは、その瞬間だった。

「な、なんだ……お前は!」

許し難い事だった。そのフェアリーは、あろうことか座っていた。たかがフェアリーの分際で、彼の研究机の上に腰掛けていたのである。栗色のショートヘアーで飾った、男だか女だか分からない子供のような顔で、にこにこと笑みを浮かべて、彼を見ている。何という冒涜的な事であろうか。パフケルサセウにとって、自分の傷などよりも、研究資料はずっと大事な存在である。それを尻の下に敷くなどとは、絶対に許せない事だった。今まで存在に気づかなかった事が如何に危険かなど、考えれば分かるのに、それすら思いつかないほどに彼の脳細胞は沸騰していた。

「き、きさまああああああっ! その汚い尻をどかせぇええええっ!」

「汚い尻?」

「その研究資料が、如何に貴重なものか知っているのか! 貴様如きが、踏んでいいものなどでは絶対にない!」

「そりゃあそうだ。 何しろ、上手く活用して素材を工夫すれば、多くの冒険者が生きて帰れるようになる品物だからな」

フェアリーの顔から、笑顔が消えた。錬金術師は瞬間的に恐怖が沸騰するのを感じた。このフェアリーが発する威圧感は、ケルベロスなどの比ではない。じりじりと後ずさる彼の前で、ちょこんと机からおり、フェアリーは凄絶な笑みを浮かべた。

「少しおいたが過ぎたようだな、錬金術師パフケルサセウ。 職務上貴様は生かしておけないが、しかし研究は我らドゥーハン王国が有効活用させて貰う。 お前は命より研究が大事なのだと聞く。 ならば本望だろう? お前が死すとも研究は残り、そして大いに活用され、沢山の人を救うのだから」

「あ、あ、ああああ、あ……!」

錬金術師は下がったが、すぐに壁に背中が当たった。そしてフェアリーの姿がぶれ、彼の眼前に出現し、首を蹴った。フェアリーの蹴りは、簡単に、いとも簡単に、パフケルサセウの首をへし折っていた。

このフェアリーは、ドゥーハンに使える数少ない忍者の一人、ゼル。忍者の中でも最強の使い手の一人で、現在はオルトルード王の命令でカルマンの迷宮にもぐり、様々に活動している者だった。別に彼が怪力なわけではない。ゼルは構造を読みとる力に非常に長けていて、どう力を掛けると壊れるかも手に取るように分かるのだ。今、錬金術師の首を簡単にへし折ったのも、そう言う能力に基づく業だった。ただこれは我流の業で、まだ書物にまとめる事が出来ていない。

「お前達、入ってこい」

「は、はっ!」

手を叩くと、彼の部下である、王から貸し出されている騎士達と、ギルドから連れてきている忍者が何名か部屋に入ってきた。いずれも腕利きだが、ゼルに比べると大人と赤子ほども実力差がある。ゼルはてきぱきと指示を飛ばす。資料を丁寧にまとめて城に搬送し、錬金術師達に調べさせ、応用のめどを立てさせる事。奥に山ほど積まれていた冒険者の亡骸を、丁寧に葬る事。パフケルサセウが冒険者の手によって傷つき、騎士団が仕留めたという宣伝工作をする事、などを手際よく命じた。このフェアリーは、忍者としても、指揮官としても優れているのだ。

部下達が仕事をするのを監督しながら、ゼルは口中のみで、静かに呟いていた。

「ファルよ、ご苦労だったな。 多少は褒美が行くようにしてやろう」

振り返ったゼルは、目を細めた。彼が良く知る双子の魔術師が、手を振りながら、此方に駆け来ていたからだ。笑顔からして、何か吉事であることは疑いなかった。

 

5,胎動するもの

 

ワイズ配下の盗賊達は、全滅したわけではなかった。ただ一人だけ、何とか逃げ延びた者が居たのだ。器量も度胸もたいしたことのない男であったが、それが却って幸いし、強運にも守られ、どさくさに紛れてケルベロスに喰われる仲間達の間を縫って逃げられたのである。それは確かに幸運であった。ただし、逃げ延びた瞬間だけの話である。

「ギャーッ! ギャーッ!」

「ひ、ひいいいっ!」

不意にけたたましい悲鳴が響き、腰を抜かした彼は這って逃げ、その上を蝙蝠が数匹飛び去っていった。そして脇を、目に恐怖を湛え怯えきったオークとコボルドが駆け抜けていった。しばらく頭を抱えてふるえていた盗賊は、やがて脅威が去ったと思い、悪態をつきながら立ち上がった。脅威が近づいているとも知らずに。

兎に角逃げねばと思い、彼は辺りを彷徨き回った。いつの間にか、彼は地下二層の下層へと来ていた。辺りは洞窟のような有様で、所々水滴が垂れ落ち、時々獣の悲鳴が響いてくる。そんな場所を、彼は誘われるように歩いていった。さながら、炎に魅せられ、灼かれてしまう蛾のように。

「……? 何の……臭いだ?」

甘い匂いだった。盗賊は、ますます足を速めた。その足の先には、何か得体の知れないものが山と積もった、手広い空間があった。泉が片隅でこんこんと湧いており、全体から甘い匂いがする。程なく。彼の足に、小さな痛みが走った。

同時に、今まで感じていた甘い感触が吹っ飛んだ。代わりに、想像を絶する恐怖が、心の奥底から沸き上がってきた。声を出す事も出来なかった。声は肺の奥で、何者かの黒い手によって押しつぶされてしまった。その者は、ただ欲していた。盗賊を食する事を。

あまりの恐怖に腰を抜かした盗賊は、周囲に散らばるものの正体に、やっと気づいた。肉塊だった。バラバラに飛び散った肉塊だった。しかもいずれも新鮮で、紅く、甘い匂いを立てていた。助けてくれ、死にたくない、死にたくない、死にたくない。声に出せぬ叫びを上げて、盗賊は其処から出ようとした。此処は胃袋だ。いや、悪魔の胎盤だ。いたら喰われる。喰われる、喰われる、喰われてしまう!自分の腹がふくれていく事にも気づかず、彼は必死に逃げようと、空間の出口へ手を伸ばす。冷や汗が全身を伝う。一際大きく、彼が息を吸い込み、もう一度助けを求めようと口を開け、そして。

破裂した。

膨れていったのは腹だけではなかった。頭も、手も、足も、順次膨れ、破裂していった。それが一段落した頃には、もう盗賊はこの世に存在しなかった。その形をしたものの痕跡が、既に失われていたからである。

皮肉な話であった。冒険者失踪事件の犯人の片割れが、別の犯人の餌食になったのだから。やがて、その少し広い胃袋のような空間から、また甘い香りが漂い始めた。まだまだ、盗賊を破裂させた者は、満足していなかったのである。何もない空間で、それは胎動しながら、獲物を求めていた。更なる肉を欲していた。

現世に、生まれ出るために。

 

騎士団長ベルグラーノは、部下達が困惑するほどに、目立って機嫌が悪かった。ゼルのやり口がどうしても許せなかった事が、その要因である。しかも、更に機嫌を悪くしている事もあった。内心、ゼルのやった事が正しいと、彼も認めていた事だ。

錬金術師の凶行は、確かにゼルも認めなかった。ゼルは錬金術師の首を蹴り折り、断罪したのだからそれは確かだ。一方でおぞましい流血と共に確立されたその研究は、そっくり盗んで使うという。それを使えば確かに迷宮から一瞬で帰還する秘薬が完成し、冒険者や騎士団員の生還率が飛躍的に跳ね上がる。

実際問題、地下五層まで降りてみて、この迷宮を攻略するのが如何に難しいか、嫌と言うほど理解させられたベルグラーノである。ここから一瞬で帰還出来る薬が出来るのなら、彼自身が飛びついて使いたいほどだ。である以上、ゼルの行動を批判出来ない。だからこそ、余計に腹が立つのであった。

何とか、地下四層の騎士団詰め所は、彼の的確な指示と計画によって安定を確保した。しかし地下五層の魔物共と来たら、あのサンゴートの黒騎士共すら恐れ入るほどのものだ。ゼルを否定したいのなら、この階層をさっさと攻略し、地下六層へ向かう足がかりを作るしかない。しかしそれが出来ないからこそ、ベルグラーノは苛立ちを押さえられなかった。無理な攻略は死者を量産するだけだと、彼の経験は告げていた。そしてそれを裏切り無為な冒険をする事は、騎士団長にはとても出来なかった。

騎士団詰め所の結界に、数人の者達が入ってきた。避難に来た冒険者かと思い、ベルグラーノは部下に応対を任せようとしたが、声を聞いて跳ね起きた。

「おう、ベルグラーノ。 苦戦しておるようだな」

「スタンセル大将! どうして此処まで」

「何、わしも前線を直に知る必要があると思うてな」

そういって白い髭を扱くのは、ドゥーハン王都を守る歴戦の将軍スタンセル=ワイマインであった。六十三才になる彼は、二万五千の兵を率いる上級指揮官であり、今まで十四の大会戦に参加し、そのいずれにおいても大きな戦果を上げている。王都を守っている事からも分かるように、オルトルード王が最も頼りにしている将軍の一人である。あまり騎士団長は好いていなかったが、しかし尊敬している武人の一人であった。戦歴では五分だが、何しろ宿将で年長者だ。立ち上がって敬礼するベルグラーノに、頷きながらスタンセルは言う。

「しかし、本当に恐ろしいところだな。 これでは、勇猛な貴官が進めぬのも無理はない」

「汗顔の至りです」

「で、わしが助っ人を連れてきた。 使ってやってくれ」

「よろしくお願いします」

スタンセルが肩を叩いたのは、鎧を着た娘だった。いわゆる大鎧と呼ばれる、上級の侍が着る高価な鎧だ。そして大鎧を雄々しく着ているのにもかかわらず、艶やかで長い髪を、大きくて鮮やかなリボンでまとめていた。それが少しアンバランスであるが、全身から発する圧倒的な剣気は本物である。そして腰に差している大振りの刀。それの放つ気配の禍々しさといったら、迷宮の魔物共も逃げ散るほどのものであった。しかも、それが腰に全く問題なく馴染んでいる。出来る、と一目でベルグラーノは悟った。

「アオイ=デーベライナーだ。 故あって、しばらくの間、わしが養女として手元に置いていた。 養父のわしが言うのも何だが、この子は本当に強いぞ。 武名を上げさせてやってくれ」

「これほどの武人を借りられるとは、光栄です」

本当にそう思ったので、ベルグラーノは素直にそう言った。アオイは一礼して騎士達の方へ歩いていき、情報を様々に聞き始めたが、同時にスタンセルが声を潜める。

「……それで、ベルグラーノ殿。 話がある」

「話とは?」

「あの子が持っている刀が何か知っているか?」

「はて、相当な業物に見えますが……」

「業物? そんな生やさしいものではないわ。 村正だよ

思わずベルグラーノはのけぞっていた。村正といえば、城を斬ったとか山を斬ったとかいう伝説が残る、究極の武具の一つである。侍のみが使いこなせるその破壊力は、文字通り現存する伝説だ。魔神と確実に戦える武器は何かと冒険者が聞かれれば、十人中十人がその名を上げるであろう、傑作中の傑作。だが同時に人の血を啜る妖刀でもあり、余程の使い手でなければ絶対に使いこなせない。圧倒的な力を使いこなすには、それなりのリスクが必要になるのである。つまり、である。あのアオイという娘は、若くして達人の域をすら超えていると言う事だ。

「いいか、目を離すな。 あの子はわしの自慢だが、一方で何をしでかすか分からぬ奴でもあるのだ。 貴官なら使いこなせると思ったから、ここに連れてきた。 有効活用してくれ」

憮然としたベルグラーノの肩を叩くと、護衛達と共に、スタンセルは帰っていった。騎士団長は大きく息を吐くと、真面目に騎士から話を聞くアオイの横顔を見やった。ただ戦いたいのに、余計な事ばかりが背中にのしかかってくる。しかし職務を放り出せば、部下達の命が危険にさらされるのだ。

頭を振って、雑念を振り払うと、騎士団長は仕事に戻った。有能で誇り高い戦人の姿が、其処には戻ってきていた。

騎士団長の前線出陣、そして様々に集まりつつある人材。八方塞がりだったドゥーハン軍の中で、何かが生まれ出ようとしていたのは、疑いない事実であった。

 

騎士団に通報を終えた後宿に戻ってきたファルは、エーリカに傷を治して貰った後、コンデを誘って宿の側の空き地へ着ていた。小首を傾げるコンデに、ファルは連れ出した意図を説明する。

「うむ。 実はコンデ老にも、例の呼吸法をマスターして欲しい」

「おうおう、何故じゃな」

「実は、感覚をとぎすませれば、敵の魔法を発動前につぶせる可能性がある。 それがマスター出来れば、魔法使いを含む敵集団との戦いが有利になる」

「となると、小生は呼吸法をマスターして、その後何をすればよいのじゃな?」

「スリングか小型のクロスボウで、後衛から敵を狙撃して貰う。 それくらいの予算なら、エーリカ殿の元にもあるだろう。 後で勿論エーリカ殿にも覚えて貰うが、後衛のどちらか片方しか業が使えないと、敵に先手を打たれる可能性がある」

それだけを手短に告げると、コンデが文句を言う前に、先ほど声をかけたジルに登場願った。ジルは空き地の影からひょいと顔を出すと、とても嬉しそうにファルに歩み寄った。

「ファルーレスト様、コンデ様を鍛えて、強くしてくださるのですね?」

「うむ。 そこで監督願う」

「はい、分かりました。 コンデ様がさぼらないように、奥様に代わって此処で見張らせて頂きます」

「よよよ、若い者がよってたかって、この老い先短い年寄りに、何という哀れな仕打ちをするのじゃあ! 酷いのう、悲しいのう!」

コンデはさめざめと泣いたふりをしてみせる。しかし哀れな事に、ファルに完全に無視された。女忍者にしてみても、まだこの業は未完成であり、コンデに教えながら自ら完成を急がねばならない。呼吸をとぎすまして行く事により、周囲に擬似無音空間を作りだし、狙っている音だけを拾い出す。神経を研ぐと同時に、呼吸法そのものを改善し、更に精度を高めていく。極みに達すれば、Wスラッシュなども更に精密に実行出来る。それに、以前から考えていた防御陣も完成させる事が出来るやも知れなかった。

ぴんと張りつめた空気の中、ファルの耳から雑音が消えていく。風の音が消え、話し声が消え、虫の鳴き声が消えた。近くで、コンデが言ったとおりに呼吸を整え、少しずつ上手くなっている。かすかに聞こえるのは、ジルの心音か。まだまだ、この呼吸法は先へ進める。最初に考案した、あの名も分からない戦士に感謝しながら、ファルは更に擬似無音空間の精度を高めていった。

先へ行くには、まだまだ強くならねばならない。この迷宮を攻略し、彼女は恩を返さねばならなかったのだ。それには、まだまだ、もっとずっと先まで手を伸ばして、強くならねばならなかった。

「……」

目を開けたファルは、少しずつ確実に上手くなっていくコンデを見た。辺りには、今見たと錯覚したものなど無い。其処にあったのは、今まで通りの、ドゥーハンの街だった。

今、呼吸をとぎすましきった瞬間。此処に存在しているものとは別のものが彼女の脳裏に浮かんでいた。

それは、闇の中に浮かぶ、一筋の光だった。光でありながら、それは胎動しているように見えた。ゆっくりと、ゆっくりと、だが確実に。そして力強く。

 

(続)