今、其処にある悪夢
序、アウローラの騎士
リズマン族。ベノア大陸では希少種に当たる、極めて高い戦闘能力を持つ種族である。蜥蜴から進化したとも言われる彼らは、リザードマンとも呼称される。その名の通り、蜥蜴が直立歩行したような姿をしており、体格はヒューマンよりも一回り優れている。彼らの頭の上には、年を重ねるほど立派でカラフルな鶏冠が出来、風を受け揺れるその様は詩の題材になる程美しい。肌の色はグリーンからブラウン、二足歩行と四足歩行を使い分け、藪の中も沼の中も疾風の如く渡り抜ける。尻尾は筋肉の固まりで、いざというときは下手な鞭などよりも遙かに強力な破壊力を見せる。腕力も強く、また鱗に守られた肌も強靱で、何より戦闘センスにおいて彼らほど卓絶した存在はいない。文字通り、戦うために産まれてきた存在なのだ。個人としての戦闘力は、竜族の血を引くと言われる伝説の種族、ドラコンにすら勝る。ただ、繁殖力が他の人間種に比べて低く、それが発展と繁栄につながらない原因となっているのだ。
知能はそれほど高くないが、問題なく人語を理解し、発する事が出来る。代わりに魔法とは非常に相性が悪く、殆ど扱う事は出来ない。寿命は長く、大体標準で二百五十年ほど生きる。その間、ずっと成長し続けるのが特徴だ。その絶大な戦闘力が買われて、個体数がそれなりにある他の大陸では、標準的に冒険者として人気のある種族なのだ。
そのリズマン族の一人、パーツヴァルは、黙々と愛用の長物を磨いていた。それは湾曲した刃を二つ持つ業物で、彼の故郷では方天画戟と呼ばれていた。扱いは決して楽ではないのだが、極めれば途轍もない破壊力を産むのも事実。彼はこの得物と共に、数限りない敵との修羅場を切り抜けてきたのである。綺麗で柔らかい最高級の布を使って、刃に錆がつかないように、愛しい自らの分身を磨き上げる。程なくそれを止め、パーツヴァルは顔を上げた。
二つの目は、闇の中では宝石のように光る。その美しさは、リズマンの名を高める要因となっている。パーツヴァルの場合は、磨き抜かれたルビーというのが相応しい。二つのルビーの先にあったのは、彼が五十年来使えている主人の姿だった。闇の中を、こつこつと音を立てて歩いてきたその姿は、冒険者の誰もが命を狙うものであった。多くの人間種から見て、度が外れているとしか形容しようがない美貌を持つ魔女アウローラである。アウローラは無言のまま自分を見ているパーツヴァルの隣に座ると、黒く美しい髪を掻き上げぼやいた。
「駄目だわ。 今日もろくなのがいなかった」
「アウローラ様、何を焦っている」
「焦ってなんて……そうね。 確かに焦っているかも知れないわ」
苦笑して、アウローラはパーツヴァルの顔をのぞき込んだ。リズマンから見て、アウローラは別に綺麗でも魅力的でもないのだが、パーツヴァルはその全てに自らのあらゆる要素を捧げる事を決めている。しばし黙り込んだ後、節くれ立った長い指で自らの頭を撫でながら、リズマンの戦士は言う。
「どうしたのだ? 気持ち悪い」
「うふふふ、そう邪険にしないで。 ……それに、いざというときは頼りにしているわよ」
「貴方ほどの存在が、俺如きに何を期待している。 勿論、微力は尽くすが、な。 貴方がその気になれば、自力で何でも出来るだろう。 気を強く持つ事だ」
「……ありがとう。 少し、疲れたわ。 膝貸して」
特に断る必要もない。部下の、ヒューマンのものより少し短く堅牢な膝の上に頭を載せると、それっきりアウローラは眠りについた。寝息さえ立てない。
パーツヴァルは、アウローラが本当はどういう存在か良く知っている。現在、この魔女が心を唯一許しているのが、世界最強の戦士が一人たる彼だからだ。戦士としての実力とあわせて、硬骨漢である所や、絶対に裏切らない所を信頼してくれているのは分かっている。それに、パーツヴァルとしても、自らの力を、この超絶的な魔女が認めてくれているのは嬉しかった。リズマンにとって、自らの戦闘能力を強者に認められる事は、何にも勝る誉なのだ。
だが、だからこそ。今のアウローラの行動は腑に落ちないとも思っていた。何を待っているのか、何を焦っているのか。何に、それほどまでに執着しているのか。アウローラは、彼にも自らの目的を教えてくれないのだ。それ自体は悲しくなかったが、アウローラの焦りと悲しみは、彼にも苦痛だったのである。
ここはカルマンの迷宮地下十層。特殊な防御結界が張られ、魔物が入れないように作られた部屋である。此処までたどり着いた冒険者は今だ存在しない。この部屋の外に出れば、巨大な悪魔やドラゴンが跳梁跋扈する人外の魔地だ。此処までたどり着く冒険者が現れるまで待てと、アウローラは言う。さながら、自らを殺してくれる相手が出るのを、待っているかのようだった。
「……微力は尽くす。 微力は、な」
無駄に死なせてなどなるものか。硬骨漢であるが故に、彼はそう思う。それだけ考えると、パーツヴァルは再び愛用の戟を磨き始めた。上級のデーモンすら倒した事がある、自らの分身を。いざというときは、アウローラのために、共に戦う同志を。
そこに、音はなかった。無駄な言葉もなかった。ただ、切実な決意のみがあった。
1,魔法石をちょうだい
戸を叩く音がする。うめき声がする。小さな部屋の外では、無数の人ならぬ者が蠢き、肉を欲して呻いていた。ロベルドが、冷や汗を流しながら、戸を睨み付けた。
「畜生、しつこい奴らだぜ」
「戸は保つ。 気にするな」
「だといいのだがな……」
腕組みし、壁に背を預けたままファルが言う。そわそわしつつ、何度も戸に視線をやるヴェーラの顔には、明らかに逡巡が張り付いていた。コンデはかろうじて平常心を取り戻してはいたが、余裕は欠片もない。冷や汗が乾いた額を流れ通しであった。
「今のうちに、体力を出来るだけ回復するわよ」
「……」
「どうしたらそんなに落ち着けるんだよ! 何でそんなに平気なんだ!」
「慌てても、何も解決しないからよ。 なら落ち着いて、策を練った方が得でしょう?」
エーリカは笑顔でそう言うが、冷や汗をかいているのをファルは見逃さなかった。
部屋の外には三十体前後の不死者がいる。現在の実力で、突破するのは難しい。どうしてこんな事になってしまったのか。
そう、発端は、昨日にまでさかのぼる。
冒険者ギルドで、受付をしているノームの老人が、うさんくさげにエーリカを見た。初々しい笑みを浮かべたエーリカは、その笑みにも全く動じる事がない。しばしのにらめっこの末、敗北したのはノームの老人だった。肩を落とし、革袋を取りだして、机上に置いた。周囲の冒険者達が、興味津々の様子で、その様を見守っていた。
「どうやら間違いないようですね。 報酬は此方になります」
「有り難うございます」
「……またのご利用をお待ちしております」
エーリカが革袋を開け、中身を確認する。三千ゴールド。魔法がかかった装備を購入出来るほどの金額であり、正に破格と言える。今のチームが、百日間宿で何もせずに過ごす事も出来る。しかし、二十人近い人名と貴重な物資を救ったのだから、当然とも言える金額でもあった。エーリカは、一緒に来たファルの顔を見ながら、相変わらず初々しい笑顔で言う。
「これで、少しは名前が知れたわね」
「ああ。 幸先は良いな」
「でも、愚僧達がまだ大した実力を持っていないと言うのを忘れては行けないわよ。 アレイドを加味しても、まだまだですものね。 今後も慎重に行くわよ。 ……て、貴方には言う必要もないか」
肩をすくめるリーダーに、女忍者は小さく頷いた。普通の人間だったら苦笑する所だが、基本的にまじめなファルには、頷く所なのである。
イーリスの方は、朝既に依頼品を渡してきてある。臆病で気むずかしいモンクは、解析してみると言い残し、部屋に閉じこもってしまった。結果が出るのは三日後だそうで、だがしかし報酬は既に受け取っている。今回も焙烙で、前回と同じ型の物が二つであった。威力と性能はもう実戦で確認済みであるから、この報酬は大きい。
ギルドを出て、暫く歩くと、そこはもう宿の近くだ。すぐ側には、アレイドの練習をした広場もある。砕けた案山子は、もう当然片づけた後だ。
「ところで、ファルーレストさん」
「うん?」
「イーリスさんを真似して、愚僧も貴方をファルさんと呼んでもいいかしら?」
「好きにしてくれ」
「ええ。 好きにするわ」
「おぉ。 エーリカ殿! ファルーレスト殿! 丁度良い所に!」
遠くから手を振っているのはヴェーラだった。手を振り替えしながら、小走りでエーリカが走り出す。別にどう思うでもなく、ファルはマイペースで歩いていき、二人の所にたどり着いた頃には、既に簡単な状況確認が終了していた。腕組みをして目を細めるファルに、ヴェーラは手早く言った。
「遅いぞ。 エイミ嬢が、つてを当たって仕事を見つけてきてくれた。 一見日暮草のように繊細ながら、なかなかのやり手だな」
「エイミは有能だからな。 で、その仕事とは?」
「うん。 今回は錬金術用の素材調達よ。 もう依頼人は、店に来ているらしいわ」
無言のまま、ファルは二人に続いて宿の入り口を潜った。
「むう、これは……!」
「え? ファ、ファルさん!?」
そして、不機嫌モードに突入した。
依頼主は二人。エルフの、何とも内気そうな少女と、フェアリーの勝ち気そうな娘である。二人は向かい合って席に座り、どうやら子供好きらしいロベルドとなにやら話をしていた。フェアリーの娘はうち解けて笑顔を見せているが、エルフの少女はおどおどしていて、時々話を振られると、小動物的に肩を振るわせて、こわごわ返答していた。フェアリーの少女に、さほど問題はない。問題なのはエルフの少女の方であった。実にファル好みの、繊細で愛らしい子供であったのだ。
基本的に、ファルは子供の事が大好きである。しかし、その前で笑顔を浮かべたり、優しくしたりする事は皆無である。この無口な女忍者はとても子供が好きだが、それを表に出すのが大嫌いだからだ。様々に理由はあるのだが、子供の前で、それが好きな事をアピールする事はまず無い。内側から溢れださんとする母性本能を力尽くで押さえ込もうとした結果、強烈な威圧感と、押しつぶすような圧迫感が現出する事となる。それが、〈不機嫌モード〉の正体なのだ。吹き上がるオーラ。爛々と邪悪な光を発する目。美人が故に、途轍もなく恐い不機嫌そうな顔。その恐怖、とても子供が耐えられる物ではない。大人でさえ、腰を抜かす程なのだ。
「ひっ……!」
案の定。もともとおどおどしていたエルフの子供は、ファルの爛々と光る目を見た瞬間、小さく悲鳴を上げてすくみ上がってしまった。一緒にいるフェアリーの娘と抱き合って、がたがたとふるえるばかりである。ヴェーラは困惑した様子で変貌したファルと、目に涙を浮かべていやいやと首を振るエルフの娘を見やるばかりだ。コンデはあんぐりと口を開けたまま硬直し、ロベルドは目を丸くして固まっている。エーリカはしばし唇に指先を当てて考えこんでいたが、やがて小さくエイミを手招きし、何か耳打ちした。そして次にヴェーラに耳打ちし、何事か呟く。ファルはその間も、一言も発せず、静かに腕組みして子供の側の席に座った。
「ねえ、ファルさん」
「何か?」
「ん、ちょっと話があるわ。 ヴェーラさん、交渉をお願いね」
「了解した」
一度ファルは子供の方を見やったが、嫌がるでもなくエーリカに着いていった。子供が見えなくなると同時に、不機嫌モードも直る。しばし笑顔のままその様を見やり、自室にはいると、エーリカは咳払いした。
「あの、ファルさん。 ひょっとして……子供嫌い?」
「別に嫌いではない」
「そう。 ……となると」
しばし考え込んだ後、エーリカはにんまりと、詮索するような笑みを浮かべた。
「えっへっへっへっへー。 ひょっとして、子供大好きでしょ?」
「大好きというほどではないが、嫌いではないな」
「ふっふーん、なーるほどぉー。 へぇー」
「邪魔だというのなら、席は外すが?」
「うん、悪いけど、今回はそうして。 でも出来れば、今後は可愛い子の前でも、自然に振る舞えるようにして欲しいなあ。 いずれ機会を見て、特訓しましょ」
ひらひらと手を振って、エーリカは部屋のドアノブに手を掛け、思い出したように振り向いた。
「少し安心したわ。 何というか、ファルさん、兵器じゃなくて、ちゃんと血肉が通った人間だったのね」
「妙な事を言うな。 私はどう見ても人間だろう」
「……そうね」
その時エーリカが見せた笑顔は、随分優しい物だったような気がした。ファルはベットに腰を下ろすと、小さく嘆息して、頬杖をついた。
「言われなくとも、私は人間だ」
憮然として呟き、女忍者は天井を見上げた。
エーリカが戻ってきた時、エルフの少女はまだ少しぐずっていた。それをヴェーラがなだめていたが、正直なだめているのか怖がらせているのかよく分からなかった。
「先ほどはすまなかったな。 普段から恐い奴なのだが、今日は特別恐かった。 多分、お前のことが何処か気に入らなかったのだろう。 まあ、今後は怒らないように此方から言っておくから、安心してくれ。 万が一殺されても骨は拾ってやるしな」
「ふっ……ふえ……ふええええ」
「ヴェーラさん、それじゃあ怖がらせてしまうばかりだわ。 大丈夫、時々恐い人だけど、貴方に危険はないから。 危害を加えようとした時には、愚僧が神の鉄槌で粉砕するから安心して」
「それじゃあおまいも同じだよ」
呆れたように小声で突っこみを入れるロベルドを背景に、エーリカはハンカチでエルフの少女の目尻を拭ってやり、肩を優しく叩いて落ち着かせると、本題に入った。
「まず、貴方達のお名前は?」
「そ、その……」
「あたしはミリー。 こっちの子はメラーニエ。 ほら、メラーニエ!」
「う、うん。 こ、こんにちわ」
いち早く立ち直ったフェアリーが促して、エルフの少女に自己紹介させた。おどおどと顔を上げたエルフの少女は、クリームイエローの綺麗な髪の持ち主で、顔の造作はエルフ族らしく良く整っていて、確かに愛らしい。ヴェーラも目を細めているし、エーリカも可愛いと心の中で単純に思った。地味なローブを着て、実用一辺倒の無骨な杖を持っているが、元々の容姿が優れているとそんな事は気にならない。
フェアリーの娘はエルフの娘に比べて、丸っこく子供っぽい顔つきである。確かに可愛い事は可愛いが、少しつり上がった目は神経質そうに周囲を伺っている。これはフェアリー種に共通した特徴で、殆どヒューマンには個体識別や年齢判別が出来ない。良くしたもので、フェアリーもヒューマンを服装と体格で見分けているという話がある。背中に揚羽蝶の物とよく似た羽を生やしたミリーは、おどおどするばかりのメラーニエをサポートするように、話を進めた。
「依頼の内容なのだけど、要は魔法石の材料を集めて欲しいの。 集めてさえ貰えれば、それで良いわ。 後の作業は、此方でするから」
「魔法石?」
「うーむ、そうじゃの。 どう説明した物か。 魔法を覚えるには、書物などで学習する方法が言うまでもなく一般的なのだが、もう一つ方法があるのだ。 細かい技術論は説明せぬが、要はあれじゃ。 魔法の力を、記憶に直接作用させる方法じゃな。 それを可能にしているのが、いわゆる魔法石という物じゃ」
「へえ、便利な物があるんだな」
「便利は便利なのじゃが、基本的に非常に濃い障気に晒された、しかも何かしらの怨念が籠もった物品を材料にせねばならなくての。 そんな物を入手するのは非常に困難じゃからのう。 普段ならば結構な高値がつくものなのじゃ。 ただ、カルマンの迷宮ならば、比較的容易に入手可能やもしれぬのう」
ロベルドに簡単な抗議をするコンデを見ながら、フェアリーの少女は言う。困惑するメラーニエの肩を抱いて、自分の事のように誇り高げに。
「このメラーニエは、エルフ族の長老からも認められたほどの天才よ。 そのサクセスストーリを紡ぐ第一歩となるこの迷宮で、魔法石を使って主軸になる業を覚えたい。 でも、幾ら天才でも、今の実力で迷宮を歩くのは危険すぎる。 だから、冒険者を捜していたの」
「よ、よろしくお願いします……」
ぺこりとメラーニエは頭を下げた。この様子からして、臆病ではなく、単に人見知りをするようだった。才能はあるのかも知れないが、胆力の方が足りないようでは、戦闘面で大成するのは難しいかも知れない。ただ、魔術師としては大成するための道が幾らでもある。攻撃魔法を覚えたからと言って、戦いに赴く事しか出来ないわけではないのだ。
エーリカは周りの仲間を見回したが、反対する者はいなかった。指定された素材はごくありふれたもので、すぐに手に入れられると誰もが思った。死闘をくぐり抜けた事もある。迷宮にはいるのも数回目になる。悪い意味での慣れが生じ始めていた。アレイドという新しい力を得た事によって、油断も生じていた。
その慣れが、手痛い結果を生む事になるのである。
2,さまよう者達
外は静かになった。だが、ファルには分かっていた。不死者共が一端距離をとり、此方の挙動を伺う作戦に出た事を。それに、この部屋は袋小路にある。部屋のすぐ外に不死者共がいなくても、外の通路はそうではないのだ。
普段落ち着きがないコンデは、だいぶ静かにしている。というよりも、冷や汗を流しきった印象だ。ヴェーラは壁にもたれて仮眠を取る余裕を取り戻しており、ロベルドは憮然と床に座り込んでいる。だいぶ皆平常心を取り戻していた。流石にリーダーであるエーリカの落ち着きが利いたのである。
「魔力は回復した?」
「何とか、の。 そうじゃな、三人の武器に魔力付与してから、ティールが一発、クレタを二発くらいならいけるかの」
「愚僧もフィールなら二回、バレッツなら一回はいけるわ。 ただ、魔力を使い切っちゃうとディスペルも出来なくなるし、それに……」
エーリカがヴェーラとロベルドを見る。二人の傷はかなり深い。何とか部屋に逃げ込んでからフィールで応急処置はしたが、普段の六割ほどしか現状では力を発揮出来まい。ファルも軽い傷を受けているが、これはどうという事はない。
此処でフィールを使えば持久戦になる。強行突破を計るつもりなら、二人の怪我を癒すわけには行かない。敵もずっと黙ってはいないだろうし、いつ戸を破りにかかるかも分からない。思案のしどころであった。
傷はまだ少し痛むが、体力自体は回復している。だが、ファルにも敵を強行突破する自信は残念ながら無かった。先の時点で、敵は霊体系も含めて三十体近くがいる。更に増えている可能性さえもある。絶望的な情況に、ファルは胃がきりきりと痛むのを感じていた。
「ファルさん」
「うん?」
「ベテランとしての率直な意見を聞きたいわ。 今の時点で、強行突破は可能?」
「普通にやったら不可能だ。 力押しは論外。 それにゾンビは兎も角、バンシーは知能を持っているし貪欲だ。 下手な小細工は却って通用しないぞ」
エーリカは考え込む。兎さんのハンカチで額を拭って、ファルは嘆息した。誰か冒険者が救援に来るかも知れないが、それを待つのはいささか無謀だ。情況は、今だ改善を見せなかった。
迷宮に入った時を、ファルは思い出していた。何か、助けになる事があるかも知れないからだ。
カルマンの迷宮は、相変わらず冷え切っていた。入り口付近では大した戦いもなく、軽くオークやコボルドの小集団を追い散らしただけだった。今まで未探索の地域を丁寧に調べながら、ファルは仲間達と共に一層の奥へ奥へと足を進めていた。まだ、メラーニエが指定した素材は揃っていない。途中、先日死闘を繰り広げた吊り橋を通りかかったが、随分静かなものだった。もう死体も片づけられた後であった。だが、地面には血の跡が残っており、此処が戦場だった事を主張していた。
「何だか、嫌に静かだな。 却って気味がわりーぜ」
「静かに。 この先は未知の領域よ」
愚痴を言うロベルドを、エーリカが静かにさせる。空からの奇襲が何より恐い吊り橋を渡り終えると、その奥は複雑に通路が絡み合い、幾重にも道が延びていた。右手の道は階段が上に延び、真ん中の通路はその下を潜って手広なホールへ。その左隣の通路は深い闇へと通事、一番右の通路からは水音がする、といった具合である。辺りは古びた石造りの城、いやハイソながら朽ちてしまった庭園といった雰囲気を醸し出しており、壁には所々薄明かりを放つ光苔が張り付いていた。危なっかしい手つきで、普通のシーフの二倍ほど時間をかけながらそれをマッピングし終えると、ファルはエーリカへ振り返った。
「どちらへ向かう?」
「そうねえ。 階段は危険が多そうだから、まず一番左から、かな」
「なあ、そろそろ少しは冒険してみねえか? 此処は地下一層だろ? 多少は大丈夫だろ」
「同感だ。 慎重なだけでは、正直つまらぬからな。 そろそろ偉大なる火神も強敵との戦と生贄を照覧したいと欲しているころだろう」
ロベルドとヴェーラが口々に言った。普段仲が悪いのは、同類嫌悪に違いないとファルは思った。
「実際問題、たりーんだよ。 そろそろぱーっと戦ってみてえぜ」
「神聖な戦いに何を不謹慎な。 だが、穴埋め作業に飽きてきたのは本音ではあるな」
「小生はその、そうじゃな、やっぱり危なくないほうがいいのう」
ファルは横目でやりとりを見るだけ見たが、何も口を挟まなかった。意見や決定にそもそも興味がないのだ。エーリカは二人の意見を聞いて、意外な事を言った。少し諦めた表情が、その顔にはあった。
「……そうね、それも一理あるわ」
「やりい!」
「そう来なくてはな。 あの正面の通路に行ってみよう。 随分と面白そうだ」
「貴方達、異存はない?」
ファルは持ってきた焙烙の状態を確認すると、少し鬱陶しそうに頷いた。コンデは豊富な髭を振るわせて何か言おうとしたが、渋々という感じで黙り込んだ。ファルにしてみれば、実は反対だった。だがエーリカに興味を持ち始めていた事もあるし、たまには冒険してみようかとも思ったのである。予言者でも未来予知者でもないファルは、流石にそれで手ひどい目に遭う事までは気づかなかった。
ロベルドが先頭に、五人はもっとも危険が大きそうな、正面の通路を歩き始めた。流石に冒険者としての、死地にいるという自覚はあるから、皆隊形は崩さない。緩やかなカーブを描いて上に延びる階段の下を潜って、薄暗いホールにはいると、其処には先客がいた。油断無く構える皆の前で、ホールの真ん中にあった朽ちた噴水を調べていた者は、おどおどと顔を上げた。小柄なホビットの女性だ。眼鏡をかけていて、紅い髪は乱れ放題、爆発したように前後左右に広がっている。一方で、着衣はかなり高級なローブである。高級なローブになると、脆弱な布の防御力を補うために、何重にも防御魔法をエンチャント〈付与〉している事が当たり前である。ファルにも、全身を覆う強力な魔法のプロテクトが見て取れた。
小柄なホビットの女性は、杖に手を伸ばしながらも、訝しげにファル達を伺っている。数秒間のにらめっこの末、ファルは小さく息を吐いて戦闘態勢をといた。
「案ずるな、敵意のない人間だ」
「誰だわさ、あんたたち」
「冒険者よ。 愚僧はエーリカ=フローレス。 貴方は?」
「ポポー=ミルゴット。 私も、冒険者だわさ」
ミルゴットといえば、ベノア大陸東部に大きな勢力を誇る巨大商家だ。魔術師ギルドと関係が深い一族で、多くのマジックアイテムを注文に応じて納入していると、ファルは聞いていた。忍者ギルドもコネを築こうとしているのだが、まだ相手にして貰っていないと言うのが悲しい事実である。
「ミルゴット家の関係者か?」
「そうだわさ。 私はミルゴット家の三女になるんだわさ」
「ミルゴット家?」
「後で説明する。 それで、ミルゴット家の者が、こんな所で何を調べている。 見ての通り、安全とは言い難いぞ」
「これでも地下一層くらいなら一人で歩き回れるだわさ。 余計なお世話だわさ」
胸を張って言う様は少々滑稽であった。だが、実際問題此処まで来ているのだから、あながちほら話だとも片づけられない。
ポポーは腕組みしてファルらを見回すと、不意にリュックに手を突っ込み、紙と像を取り出した。
「それよりも、アンタ達、この像を何処かで見た事がないだわさ? この模様も」
差し出されたものは、シンプルな形状の神像だった。全体的に丸みを帯びており、艶を帯びて黒く光っている。天主教の寺院で飾られているものと似ているが、若干雰囲気が邪悪だった。また、模様は円を複数重ねたもので、中央から数本の線が放射状に延びている。線はいずれも円を貫いており、外側にある円のいずれかで終わっていた。見覚えがないファルは順次仲間に渡していき、それがエーリカに渡った時、異変が起こった。
「これは!」
「アンタ、僧侶なら、知っているんじゃないだわさ?」
「知っているも何も、これは邪教、それも黒食教の神像よ!」
「黒食教? なんだそれは」
小首を傾げるヴェーラに、ポポーは真剣な面もちで頷く。
「話が早くて助かるだわさ。 この迷宮では、黒食教の神像や、それに関するものが山ほど見付かってるんだわさ」
「大変な事だわ……」
「妙だな。 黒食教の事は私も知っているが、連中はもう組織的な行動が取れるほどの勢力を残していないはずだ。 ましてこんな迷宮を作り上げるなど無理だろう。 それに……この神像、少し古すぎる」
「良い所に気がついただわさ。 それに、黒食教の信徒を迷宮内で見たものが一人もいないんだわさ。 ……その辺も含めて、私は調査してるんだわさ。 もし何か分かったら、此処まで連絡をお願いしたいのだわさ」
言うだけ言うと、それはあげると言い残し、アドレスを書いた紙と一緒に神像を残して、ポポーは迷宮の奥に危なっかしい足取りで消えていった。転ぶかな、とファルは思ったが、案の定五歩も行かないうちに転んだ。
ホールの周囲に敵影はなかった。中央に噴水を持つそのホールは、昔は多くの花々でにぎわったであろう、今は少し寂しい場所だった。破れた天井から光が差し込んでおり、それが余計にわびしさをかき立てる。花壇には乾涸らびた茎が土に少しささっていて、昔日の残光となっていた。
かなり広いホールを探索し終えると、その片隅にキャンプを張り、火を起こす。位置的に、ホールや出入り口を見渡せるため、奇襲を受けにくい。焚き火の前で、干し肉を炙って口に入れながら、ロベルドが言う。
「順番に聞くぜ。 ミルゴット家ってなんだよ」
「ベノア東部随一の商家だ。 魔法ギルドと関係が深い」
「へえ、妙な話だな。 そんな所のボンボンが、こんな所を彷徨いてる何てよ。 で、コクショクキョウってのは何なんだ?」
「現在も信者がいると言われる、極めて危険な邪教よ。 基本的な主張は力をありのまま認めるというものなのだけど、その過程と信仰が問題なの。 黒食教は〈蠢くもの〉という神とも悪魔ともつかないものを崇拝していて、生贄に人間を捧げる事を厭わないの」
エーリカはそれだけ言うと、根本的な点から説明を始めた。
ハリス教国、いや天主教はここ数百年、他の宗教との融和政策を採っている。〈諸神混一論〉と呼ばれる思想がそれである。大まかに説明すると、如何なる宗教も神の解釈が異なるだけで、基とする所は同じであり、協調するのが正しい姿である、という考え方だ。長い年月をかけて、大体の宗教とはそれで和解したのだが、唯一ハリス教国が認めなかった事がある。それは、人間を生贄にする事である。そして天主教の裏の存在とも言える、人間を生贄にして神から力を授かろうとする宗教が、黒食教なのである。
黒食教の教義は、天主教をベースに様々な原始的精霊神信仰を継ぎ接ぎに集めたようなもので、具体的には力そのものを認め、生贄を捧げる事で力を授かろうとするものだ。祭儀には幻覚作用のある薬物が用いられ、それを目当てに入信するものさえ存在した。奴隷やホームレスを使って行う儀式は酸鼻を極め、元々ハリスは弾圧していたのだが、他の宗教との戦いもあり本格的な行動には至らなかった。
しかし〈諸神混一論〉によって他の宗教との和解がなったため、本格的な取り締まりを開始、百年ほどを費やしてほぼ絶滅させる事に成功している。
ところで、何故この様な宗教が流行したのか。多くの人間は確かに本能に忠実な生き物であり、過剰にエロティックでバイオレンスな儀式がその琴線を刺激した事もある。しかし真の理由は、〈蠢くもの〉が実在する、という事だ。この謎の存在は魔神の王だとも、或いは魔神とも神とも異なるとも言われ、歴史上様々な所で姿を現し、複数の国を滅ぼし、または大災厄をもたらしている。あのアウローラの行った破壊の幾つかは、実は蠢くものの手による行動なのではないか、という異説もあるのだ。二十年前のバンクォー戦役の最激戦地にも、姿を見せたという噂がある。その行動理由や原理は不明であるが、一つはっきりしているのは、彼らは人間を食料以上としては見ていない、という事だ。そのいい証拠が、三百二十年前のスラッドホルス王国崩壊事件である。その国では黒食教が非常に強い勢力を持っていたのだが、天主教徒も黒食教徒も関係なく、蠢くものに滅ぼされ、食い尽くされてしまった。だが、黒食教の考えでは、蠢くものに滅ぼされる事こそ幸せという考えもあるようだ。
そう黒食教の脅威を語り終えたエーリカであったが、ファルは必要だと思ったので異論を呈した。エーリカの器を試そうという意図も、其処にはあった。ファルはこの型破りな僧侶に期待していた。だから試したかった。
「しかし、信者は現にいない。 ギルドの話だと、連中に組織的行動をする力も、こんな迷宮を発生させる魔術儀式を行う技術力もないという事だ。 迷宮を作ったのは、連中ではなくアウローラと見て間違いない。 それにこの神像は、下手すると百年以上前のものだぞ」
「そう、それが不思議なのよねえ。 アウローラが黒食教徒だなんて話は聞いた事がないし。 単純にこれに黒食教が絡んでると考えるのは早計に過ぎるわ」
冷静な答えが返ってきたので、ファルは少し安心した。エーリカは天主教徒だが、それ以上に冷静な判断力を持つ一人の女性だった。
「何かよ、またエライ事に首をつっこんでる気がしねえか?」
「同感だ。 ……ところで、先ほどから極点の如き寒気がする」
ヴェーラの言葉と同時に、闇に浮かび上がるかのように、人影が姿を見せた。足音が全くしない。気配も全くない。少なくとも、ファルには感じ取れなかった。濃鉛色のフードの下からは、マスクで覆った口元だけが見えた。肌は土気色で、声にも精気がない。思わず身構える五人に、フードの人影は慇懃に挨拶した。
「初めまして、冒険者の皆様方」
「何者だ」
「しがない旅のものにございますよ。 猛々しいお嬢さん」
くつくつと喉を鳴らして男は笑った。口臭は、さながら墓土の如きものだった。ファルは忍者刀に手を伸ばしかけ、やめた。まだこの男と戦うのは、彼女では二年早かった。戦っても全滅するだけだと、修羅場を潜り続けた勘が告げていた。それに今のところ、男は敵意を見せていない。
しかし、その認識は甘すぎた。いつのまにか、男はファルの顔を至近からのぞき込んでいた。いつ動いたかも分からなかった。息が止まった。冷や汗が背を伝う。
「おお。 お嬢さんは、ひょっとするとあのシムゾンを退けたとかいう方ではありませんかな。 確か、名はファルーレスト=グレイウインド」
「……それが、何、か?」
「くっくっく、素晴らしい。 その若さで、あの名高きサン=ラザールの悪魔を退けるとは。 確か貴方は忍者ギルドでも期待されている逸材だそうではないですか」
何の予備動作もなく、男の右手がファルの首に伸びた。男の手は冷たかった。男はファルの顎を摘み、顔をのぞき込んだ。しかし、どうしたわけか、目は見えなかった。男の目は、フードの中、何処までも深い闇の中に埋没していた。ファルは息も出来ず、首から少し男の手が下がり、胸元に指先が触れているにもかかわらず抗議の声も上げる事が出来なかった。
「しかし、今はまだまだですなあ。 可憐な花だが、少し力を入れたら、儚く折れてしまいそうだ」
「ファルさんっ!」
「! 黙れ!」
エーリカの鋭い叱責で、やっと体が動いた。まるで空を渡るかのような速さで、抜刀し斜め上に斬り上げる。手応えがないが、それは承知の上である。敵がぶれて見えるほど早く後退したのを目より感覚で確認し、ステップするように体をひねりつつ前進。下がった相手に追いすがり、二回転した後遠心力をそのまま生かして、頭部にハイキックを叩き込む。何かがはじけるような音が響き、男はさらに十メートル以上を音もなく離れていた。
ようやくその時息が出来た。荒く肩で息をつく。本気になった師匠と同じ、いやそれ以上のプレッシャーを感じた。男のフードが、少し欠けていた。ファルの靴先に、欠けた残りが引っかかっていた。
あれほど早く動いたというのに、相も変わらず男は無音だった。しばしの沈黙は、鉛の重さを伴っていた。芝居がかった調子で男が両手を広げ、語り出した時、僅かにファルは安心したほどである。
「前言撤回。 私に多少なりとも傷を付けるとは、今でも実に素晴らしい。 先を楽しみにしておりますよ」
「人の肌に許可もなく触れるな、変態幽鬼。 代金に、名を聞かせろ」
「くっくっく、確かに代金を払うのが筋ですね。 いいでしょう。 私の名は、マクベイン=ルーダン。 ……そうだ、置きみやげです。 シムゾンが壊れた理由を、教えて差し上げましょう」
ヴェーラが眉を跳ね上げた。だが、彼女は動けなかった。蒼白になりつつも、構えを取れているのはファルとエーリカだけである。ロベルドも、ヴェーラも、コンデも、指一つ動かせはしなかった。
マクベインは、静かにエーリカの手元にある神像を指した。そして、奇怪な詩を詠いつつ、文字通り闇へ消えていったのだった。
「カルマンの迷宮は胎盤♪ 闇の胎盤♪ 大きな胎盤♪ 最初は三つ、次は三つ、最後に一つ、闇が産まれる♪ あらがえ、あらがえ、小さな者達。 全ては、無駄だから♪」
乱された忍び装束を直しながら、ファルは大きく息を吐いた。あの手は、人間のものと言うよりも、蝋細工か氷のような感じだった。それに、マクベインといえば聞き覚えがある名だ。ひょっとすると、イーリスの言っていたのは、奴かも知れない。
ファルはきれい好きではないが、それでもすぐに湯に浸かりたい気分だった。肉体だけではなく、精神まで、汚れた氷河に凍らされるかと思った。
片膝をつくファルの肩を、腰を落としたエーリカが優しく叩いた。随分それは心強かった。
「大丈夫だった?」
「ああ、何とかな。 気持ち悪かったが、吐くほどではない」
「何モンだ、あの変態野郎」
「知らぬ方がよいじゃろうよ……」
コンデは青ざめたままそう言った。この老人は、マクベインの正体に気づいているようだった。
……考えてみれば。この男か、或いは受け取った神像が全ての要因だった可能性もあった。ファルは今更ながらに、あの時引き返す旨を主張しなかった事を後悔した。だが、後悔してももう遅い。
取り合えず、持ち帰った後、神像はイーリスにでもギルドにでも渡して研究を頼むしかない。そして、もう一つ責任を取れる事があった。
エーリカが視線を外した隙に、ファルは神像をかすめ取った。そして無言で荷物に入れた。これで、ひょっとすると味方の生還率が上がるかも知れない。いざというときは、自ら囮になって皆を逃がすつもりなのである。それに、ファルの方が他の者より身のこなしが軽い。攻撃が集中しても、避けきれる可能性が高いのだ。
この時ファルは、生きて帰りたいと思った。同時に、生きて帰れなかった時に妹の枕元で述べる言い訳も考え始めていた。
3,命無き命
外は嫌みなまでに静かだった。しかし、敵がいないと考えるのはあまりにも愚かに過ぎる。静は静でも、それは嵐の前の存在だ。外に出れば、殆ど間髪入れずに戦いになるのは疑いがない。
エーリカは残った魔力をフィールに費やし、ロベルドとヴェーラの回復に当てた。これで二人はほぼ戦闘能力を回復するのに成功したが、代わりにエーリカにはもう余力がない
「もう一度、突破ルートを確認しましょう」
「了解した」
ファルは手書きの地図を床に広げ、五人の視線が其処へ集中した。逃げ回りはしたが、その過程で何度曲がったか、一応確認はできている。マッピングしている地図の他に、それを大体の感覚で書いた大雑把な地図は、三度の復路交差点を通過している事が明記されていて、件のホールからの距離も大体分かった。実際問題、ホールを抜けて、階段もしくは吊り橋まで逃げ切れば何とかなる。隘路なら多数の敵を少数で撃退しやすいし、敵も一片に多人数が通れないため、追撃が難しい。
問題は、この部屋までの長い通路である。此処を突破さえすれば、逃げ切れる可能性は高くなるのだが、今度は逆に隘路が徒になる。敵は壁を作りやすく、突破は難しい。
そこで、アレイドを使う事が決まっていた。一か八か、それしかないと、皆も納得した。
「いい、生きて帰るわよ」
「ああ、言うまでもねえ」
「……生きている者が、未来を作る事が出来る。 生きている者が、歴史を作る事が出来る。 生きているからこそ、好きな事を言って、好きな事が出来て、好きなものを食べて、好きな人と恋愛出来て、好きな世界を歩けるの。 いい、みんな! 絶対に全員揃って、生きて帰るんだからね!」
「あ、ああ」
「一つ、聞いて良いかの」
コンデがいつになく真剣なエーリカを見て、静かに言う。老人の目には、長く生きてきた者が持つ、深く広い世界が広がっていた。
「どうして其処まで強くなれるのじゃ?」
「それはね」
エーリカは初々しい、だが力強い笑みを浮かべて、自らの胸に手を当てた。
「愚僧はずっと命を扱う場所にいたの。 だから情況によって命を斬り捨てなきゃ行けない事も、見捨てなきゃ行けない事も、嫌って程経験したわ。 逆に、だからこそ、思い知らされても来たのよ。 命の、価値をね」
「そうじゃな。 ……小生も……いや、なんでもない」
コンデは静かに詠唱を開始した。武器に魔力を付与し、威力を強化すると同時に不死者に致命傷を与えられる術だ。生還するための戦いが、此処に始まった。皆で頷きあう。確かにこの時、始めて皆の心はつながったのである。
ファルは扉に向かい、外の気配を伺いながら、もう一度頭の中で此処に来るまでの経緯を確認していた。道を間違う事は命取りになる。何度確認しても、過ぎると言う事は無いはずであった。
マクベインの退場によってホールは静かになった。その後は、誰が言う出もなく、探索が再開される事となった。結局ファルは帰還する事を言い出せず、黙々とそれに従った。
ホールの奥は、通路が複雑に曲がり、立体的に走っていた。マッピングが最もやりづらい地形である。壁の所々からは水がしみ出しており、通路の端にある溝へ垂れ落ち、何処とも知れぬ彼方へ流れ続けていた。このややこしい通路の構造からして、此処は城、或いは要塞だったのかも知れない。
そうこうしているうちに、分岐点があった。片方は太く、片方は細い。エーリカは細い方の道へ入る事を提案し、別に誰もそれには反対しなかった。道を曲がって暫く行くと、また分岐点があった。メラーニエが指定した素材は、丁度その側で見つける事が出来た。すぐ側の部屋の中にあった、朽ち果てた死体が持っていた剣が、丁度良かったのである。そして部屋を出、分岐点へ到達するか否か、といった地点で、ファルが眉をひそめて足を止めた。殆ど同時に、コンデが足を止める。
「何じゃ、負の魔力が漂って来るのう」
「異臭もする」
「? 何だってんだよ」
「……後ろだ! 何かいるぞ!」
ヴェーラの叫びで慌てて隊形を組み直す皆を横目に、ファルは相手の正体を悟り、目を細めた。今日は厄日だ。そうファルは思った。
遠くから、さっき通り過ぎた曲がり角の方から、鎧を着た者が覚束ない足取りで歩み来る。数は一人、二人、三人、徐々に増えてくる。皆覚束ない足取りで、うめき声を上げている。異臭は徐々に強くなり始めてきた。
「何だ、怪我人か? まるで重いものでも背負っているような歩き方だな」
「おいおい……ありゃあ……違うぜ」
ドワーフは地下生活種族であり、夜目も利くし暗闇でもよく見える。ロベルドが生唾を飲み込んだのを見て、皆が本格的に構えなおした。やがて、ロベルド以外の皆の視界にも、何が現れたかが明らかになった。
死体だった。或いは頭が半分潰れ、或いは胸に大穴を開けている。目は溶け、或いは眼下からぶら下がり、口からは涎が垂れ落ちていた。肌は腐り、腐臭を放ち、しかしなお、何故かにして動き、歩み来る。うめき声を上げ、手を伸ばして。数は更に増え続けている。まるで穴から這い出る蟻のように、彼らは次々と数を増やしていた。しかも背後はまだ未探索の、安全とは言えない空間である。情況は最悪であった。
不死者。アンデッド=モンスターとも呼ばれる存在である。様々に発生の過程はあるのだが、共通しているのは、もう命がない肉体が何かしらの原因で動いている、という事だ。彼らの知能は縮小してしまっており、高位の者を除いてあまり複雑な行動は取れない。一方で旺盛な食欲で常に肉を求めるか、或いは生者に膨大な憎しみを持っており、非常に危険な存在である。加えて、彼らが危険な理由がもう一つある。皆の反応を見て、ファルが一歩前に出た。即席とは言え、一つ教えておかねばならない事があるからだ。
「不死者と戦った事があるか?」
「い、いや、ねえよ」
「これはこの世の事なのか? ファルーレスト殿、様々な世ならぬ怪物を見たが、これは生命への冒涜なのではないか!? これが不死者なのか!?」
「そうだ。 これは現実だ。 そして生き残るために、知らねばならぬ事がある」
息をのむ他の者達をおいて、ファルは前に出た。そして先頭に立って歩いてくる、鎧を着た戦士の不死者に向けて、無造作に踏み込んで拳を抉り込むように入れた。斜め下から肝臓に打ち込まれた拳に、不死者が呻きながら腰を折る。更に素早くバックステップしたファルが、体を折ったまま立ち直れない不死者の側頭部に、情け容赦ない蹴りを叩き込んだ。べぎり、と嫌な音がして、首をあり得ない方向に曲げた不死者は床に転がった。鎧が床に激しくぶつかり、金属音が極短時間のうちに連鎖した。数度バックステップし、ファルは皆の所にまで戻ってきた。
「な、なんだ、よええじゃねえか」
「よく見ろ」
「! お、おいおいっ!」
ロベルドが驚愕し、斧を構え直す。その額には冷や汗が浮かび、生唾を飲み込む音もした。無理もない話である。首を折られた不死者は、首をあり得ない角度に曲げたまま立ち上がり、平然と呻きながら歩き始めたからである。肝臓に痛烈な一撃を浴びたばかりか、首に致命的な一撃を受けたのに、である。
「不死者は駆動の元になっている魔法中枢を攻撃魔法か、僧侶の浄化〈ディスペル〉、或いは魔法のかかった武器で破壊しないと死なない。 首を切り落としても、首だけで動いて襲ってくるから気をつけろ」
「コンデさん! ザイバを!」
「お、おお、分かったぞ! 炎の精霊サラマンダーよ、我が主君の声になり、代行者となり裁きを下せ! 我汝に命ず、執行せよ! 悪しき命を猛き爪にて絶て! ザイバ!」
ファルの刀が、ロベルドの斧が、ヴェーラのハルバードが淡く輝き始める。魔力によって覆われたのだ。その間も不死者は数を増やし、二十体以上になっていた。
まず先陣を切ったのがファルであった。そのままさっき首を折った不死者の懐に飛び込むと、真横に振られた腐った腕を屈んで回避し、忍者刀を逆袈裟に切り上げる。魔力で切れ味が強化された刀は、鎧の継ぎ目から肉を綺麗に切断し、腐汁が飛び散った。首を折られても死ななかった不死者は、それで嘘のように崩れ落ちたが、だがすぐに次の不死者が腐った歯茎をむき出しに、手を延ばしてくる。
「お、おおおぉおお、おああああああああぁあああ!」
「ちいっ!」
「ち、ち、ちきしょおおおっ!」
「汚らしい怪物に堕ちた者達め! 来るな、来るなああああっ!」
あらゆる角度から突き出される手。自分の痛みなど意に介さず、ただただ喰おうとして襲ってくる。始めて目にするタイプの相手に、必死に得物を振り回している他の二人。当然彼らの援護は期待出来ない。アレイドの実戦投入など夢のまた夢だ。腐った腕が千切り飛び、足がへし折れる。呻きながら倒れる不死者がただの死者に戻ると、他の不死者がそれに群がり、腐った肉をむさぼり食い始める。腐臭が飛び散り、切断された頭が転がる。蒼白になったまま武器を振り回すロベルドとヴェーラは、下手をすると敵より危険だ。刀で繰り出される手を斬り払い、噛みつこうとする頭を蹴飛ばし、四体目の不死者の胸元に刀を突き込んだファルは舌打ちした。もう刀にまとわりついていた魔力が切れてしまったのだ。見れば、ヴェーラもロベルドもである。気づかず得物を振り回していた二人は、見る間に敵に取り付かれた。不死者が腐った唾液をばらまきながら、ロベルドの肩にかぶりついた。ヴェーラも二の腕を汚い爪で切り裂かれ、更に脇腹に食いつかれた。
「ぐあああああっ! ち、畜生っ!」
「援護、援護してくれっ!」
敵はいわゆるゾンビと呼ばれる、動きも鈍い不死者が殆どだ。コボルドのゾンビであるアンデッドコボルドも多少含まれている。エーリカが汗を飛ばしながら、印を切った。
「神よ、この者達に救いの手を! 光の園へと、哀れな魂を導き賜え! 浄化っ!」
床に魔法陣が出現する。光の帯が立ち上り、不死者共を包み込む。
「ぎぎゃああああああああおおおおおぉああああああああ!」
体を焼けとかされ、不死者が悲鳴を上げる。ロベルドとヴェーラにまとわりついていた不死者が力を弱め、二人は這うようにして束縛をのばれたが、傷は深い。倒れる不死者もいるが、少数だ。エーリカは鋭い指示を飛ばし、コンデは何度もザイバを唱えるが、見る間にその威力は弱くなっていく。対し、不死者はますます数を増やし、更に新手が現れた。
今度は実体のない不死者である。悪霊や死霊の類も不死者に分けられるのだが、その一つ。泣き女〈バンシー〉と呼ばれる幽霊で、耳をつんざく金切り声を上げ、冒険者の戦闘意欲を、非常に効果的に削ぐのを得意としている。触られると生命力を吸い取られてしまうという厄介な性質も持っており、冒険者には嫌われている。それが四体、空を漂いながら、一斉に大きく口を開けた。
「キィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「ぐ、ぐあああああっ!」
「きゃああああっ!」
ロベルドが片膝をつき、ヴェーラが後ずさった。耳を塞ぐのに間に合わなかったエーリカも、床に膝をついてしまう。金切り声などものともしない不死者達が、ここぞとばかりに迫ってくる。今度捕まったらお終いだ。耳を押さえながらかろうじて立ち上がったエーリカが、壁に右手を付きながら、言った。
「後退よ! 逃げるわ!」
「な、何だって……!?」
「逃げるのよ! 早くしなさい!」
蹌踉めきながら、ヴェーラが、ついでロベルドが走り始めた。走ると言っても今の強烈な金切り声で、足元がおぼついていない。幸い今の金切り声は連発できないことが知られており、チャージするまでにまだ暫く間がある。ファルは何とか耳を塞ぐのに間に合い、最後衛に残り、味方の撤退を支援すべく立ち塞がる。それを見届けると、エーリカは言った。
「コンデさん! 敵の中にクレタを出来るだけ叩き込んで! ヴェーラさんとロベルドは、前面を警戒して! そのまま後退!」
「お、おうっ!」
敗戦といえば敗戦。しかし圧倒的な戦力差がある以上、どうしようもない情況だとも言える。
コンデのクレタは良く役に立った。突出してくるゾンビを次々に火だるまにし、追撃の足を鈍らせた。爆裂して、数体を一度に屠り去った事もあった。だが不死者は旺盛な食欲で、文字通り何処まででも追ってきた。五人は逃げる。ファルは最後尾に残って、すがりついてくる不死者を蹴飛ばし、切り伏せる。だが数が多すぎる。腐肉を踏んで体勢を崩した瞬間、一匹が長く延びた爪を振り下ろしてきた。爪もばい菌を含んでいて厄介だが、リミッターが死によって外れている彼らは、動きこそ鈍いがとんでもなく力が強い。棍棒で殴られるのと同じである。左肩を強打されたファルは呻いて片膝をつき、だがお返しとばかりにゾンビを袈裟懸けに斬り倒した。ゾンビは崩れ、ただの死体に戻っていったが、同時に最後のザイバが今ので切れてしまった。刀は光を失い、不死者に対する殺傷力も同時に失った。鎖帷子は破られなかったが、今の打撲傷はかなり痛い。肩を押さえながら立ち上がるファルに、涎を垂らしながら無数のゾンビとアンデッドコボルドが追いすがってくる。
「もう、後がないぞ!」
振り返ったファルは、奥の通路が行き止まりである事、しかし扉がある事、に気づいた。見れば大きく息をつきながら、必死にコンデが其処へ逃げ込むのが見えた。ヴェーラとロベルドの姿はないが、それは戸の中に逃げ込んだのだと自然に判断出来る。ファルは焙烙を懐から取り出すと、後退しながら封を切った。
「ファルさん!」
「今行く!」
狙いをつけるまでもない。そのまま敵の、最も密集している箇所へ投げ込む。爆発がするのと、背を向けてファルが逃げ出すのは殆ど同時。肉が焦げる臭いが、強烈に鼻をついた。全くひるむことなく、追ってくる敵の気配も。
部屋に逃げ込み、待っていたヴェーラと一緒に閉じる。戸の向こうからは、すぐにそれを叩く音と、うめき声が聞こえ始めた。喰わせろ、喰わせろ、肉を喰わせろ。言葉にすればそうであろう。ロベルドがつっかえ棒を持ってきて、戸にはめる。迷宮の壁や扉は、どうした事か幽霊も通り抜ける事が出来ない。だが、皆に与える恐怖は、相変わらず絶大であった。
「冗談じゃねえ、冗談じゃねえっ!」
「まずいな、この部屋の入り口は此処だけだ」
「閉じこめられたわね」
エーリカが残念そうに言う。戸が安定した事を確認すると、エーリカはロベルドとヴェーラに振り返った。
「傷を見せて」
「そんな場合かよ! 俺達、もう逃げられねえよ!」
「ああ、お終いだ、もうお終いだ、偉大なる火神よ、こんな所で朽ちる事をお許し下さい」
「も、もう駄目じゃ! 終わりじゃあ! 袋の鼠じゃあっ!」
「少しはおちつかんか、この唐変木共がああっ!」
エーリカの一喝と頭頂部への拳骨が、その場から音を奪った。ファルでさえ、驚いて言葉を無くしたほどである。更に言えば、外の不死者達さえ一瞬静かになったほどだ。エーリカの体からは発火しそうなほどに強烈で熱いオーラが立ち上っていた。目を爛々と光らせながら、パワフルな僧侶は腰に手を当てて言う。実に恐い。
「返事は?」
「「「はい、申し訳ございません」」」
人形のようなぎこちない動作で一斉に同じ言葉を言い、頷くロベルド、ヴェーラ、コンデ。彼らの頭頂部には一様に瘤が出来ていた。ファルも小さく嘆息すると、刀を鞘に収め、壁を背に腰を下ろした。満足げに頷いたエーリカは、既にいつもの彼女に戻っていた。
「じゃあ、まずロベルドから。 傷を見せて」
「……」
「消毒が必要ね。 痛いわよ。 歯を食いしばって」
おずおずと傷を見せたロベルドに、エーリカは言い捨て、バックパックからアルコールと清潔な布を取りだした。強い力でしっかりロベルドを押さえると、彼女は的確に治療を行う。患者が悲鳴を上げても眉一つ動かさない。額からは汗が流れ続けているが、その精神力は不滅とも思えた。続いてヴェーラも治療が行われた。同じく全く手加減はなかった。
二人が治療されている間に、ファルは部屋の様子を見なおした。それほど広くない部屋で、構造から言っても、どう見ても隠し部屋や扉の類があるとも思えない。使われていたようとは分からないが、恐らく倉庫か何かであろう。壁際に、朽ちた槍立て棚の名残があった。他にも、何やらごみごみとしたものが、辺りに散らばっている。部屋そのものも、かなり埃っぽい。
「ファルさん」
「うん?」
「次は貴方よ。 傷を見せて」
エーリカの笑顔が、悪魔のそれに見えた。ファルは多少恐怖を感じつつも、肩の傷をリーダーに見せたのだった。
……この部屋に逃げ込むまでの顛末が、これであった。
つっかえ棒を外し、ゆっくりファルは扉を開けた。外には不死者がみっしり詰めているという事態も当然想定していたのだが、意外にも外には何もいなかった。ただし、肉片も一つも落ちておらず、連中の恐ろしい食欲がよく分かる。扉の裏側にも敵はいない。ファルは皆を手招きし、ゆっくり通路を歩き出した。通路の半ばまでは、全く敵影がなかった。半ばまでは、である。
「さーて、リベンジと行こうぜ」
丁度分岐点になっている辺りであった。不死者達は既に肉の壁を作って待ちかまえていた。乾ききった唇をなめ回して、ロベルドが減らず口をたたいたが、虚勢は見え見えであった。
「作戦通り行くわよ!」
エーリカの言葉が、開戦の合図であった。
4,生還への道
宿で、エイミは姉の帰りを待っていた。宿の仕事は幾らでもある。なおかつそれは結構な重労働だ。従業員達に指示を出したり、厨房で指揮を執ったり。布団を干し、掃除を行い、お客様が気持ちよく過ごせる空間を丁寧に作っていく。大きな宿は分業を取り入れている所もある。しかし小さな宿の管理を行う以上、完全な分業は不可能で、多忙は仕方のない事だ。
エイミとファルーレストは、実の姉妹である。ただし、普通の姉妹よりもずっと仲がいい。その理由は、幼い頃の生活環境にある。二人は仲がよいというよりも、支え合わなければとても生きていけない環境にいたのである。
何度姉に助けられたか分からない。比類無い戦闘センスを持ち、体も頑丈だった姉は、男の子と喧嘩しても負け無しだったし、体が大きくなってきてからは下手な大人にだって負けなかった。自分にとって姉は全てであり、姉にとっても自分は全てだった。だがそれが姉に無理をさせ、深く深く傷付けてしまった。昔は姉に依存するばかりで、何も分からない小娘だったエイミは、そんな事にも気づかなかった。孤児院に行って、周りが見えるようになってから、ようやくそう言った事が分かり始めたのである。バカだったと、エイミは自責した。
姉は今でもエイミの誇りだ。彼女にとって、姉の栄達や栄光は自らの幸せでもあった。だからこそに、彼女を支える存在であっても、足を引っ張っては行けないと言う思いが、エイミにはあった。優しい義父に言って、宿の経営を覚えて、必死にそれを行っているのも、全ては姉のためだ。人脈を築いたのも、後で姉が行動しやすくするためだ。恩返しというよりも、自分のために戦ってくれる姉の、後方支援をするのがエイミの仕事だった。姉が冒険者を始めた事を知り、自分に戦いが決定的に向いていない事を知った時、彼女の人生設計は決まっていたのである。
帰りが遅い事を責めたり、自分を置いていく事を糾弾したり。そんな惰弱な存在にはなりたくなかった。なぜなら、ファルーレストは自分の事をこんなに大事に思ってくれるからだ。帰りが遅いのなら、笑顔で向かえてあげよう。疲れているのなら、私が支えてあげよう。エイミはそう思い続けていた。
自分の事を誰よりも大事にしてくれる姉に、そうやって報いる事しか、エイミには思いつかなかった。古風な考えであったが、非常に深い心のつながりがあったからこそ、それは実現するのだ。一種の分業と言っても良い。愛してもいない相手に、義務だからといって尽くすのではない。何もしようとしない相手に、社会的な道徳だからといって自分を犠牲にするわけではない。自分のために犠牲を作っている相手のために、自分も犠牲を作る。ただそれだけの事なのだ。他者に強制もしないし、他人の考えを否定も肯定もしない。ただ自分がそうしたいから、そうしているのである。
しかし、それでも、つらいものはつらかった。姉が迷宮で苦労しているのは、今のエイミにもよく分かった。一緒に姉と行ける、彼女の仲間達が羨ましかった。しかし、エイミは決めていたのである。生還を信じ、そして帰ってきたら笑顔で向かえてあげようと。それに、先ほどから客間で新しい仕事を持ってきた人が待っている。彼女も紹介してあげねばならない。一応知人になるが、仕事を斡旋するのは初めてになるのだから。
戦えないなら、後方支援に徹する。エイミの出した答えはそれであり、それを貫く事を彼女は決めていた。
迷宮の外で流れている情報も、彼女は良く知っている。必要とあれば、姉に幾らでも提示する用意がある。コネクションも日々広げている。いざというときに、どんな人が頼りになるかは全く分からないからだ。エイミは自分が誰からも好かれる事を知っていた。それを姉のためになら、幾らでも利用する事も決めていた。本来エイミは誰にでも優しいし、誰にでも暖かい。しかし姉のためになるなら、幾らでも狡猾で利己的になるつもりだったし、その用意も心身共に出来ていた。
いつか、二人は別の道を歩ける日が来るのかも知れない。しかし、今は姉妹の頭にも行動にも、それはなかった。何処か狭窄はしていたが、しかし切実な絆は、二人を硬く結びつけていた。
無数の不死者が、うめき声を上げながら、迫ってくる。数はいささかも減っていない。通路の向こうまで、奴らで埋まっているかのようだ。異臭も凄まじい。たかが異臭と侮る無かれ。痒みもそうだが、こういったものは確実に人間の戦闘能力を削ぐのだ。
皆、以前ファルが教えた呼吸法で、態勢を整えていく。正直な話、食料もそう多くはないし、持久戦になればなる程此方が不利だ。事実上、最後のチャンスだとも言える。敵が近づいてくるのを待つ。距離が縮む。そして、戦闘に来ているゾンビが腕を振り下ろした瞬間、ミッションは開始された。
「シャっ!」
ファルが突き出された腕を蹴り払い、体勢を崩した相手の胸を突き飛ばす。ロベルドも、ヴェーラも、冷静に相手の出方をうかがいながら、じりじりと下がる。通路は狭く、三人が横に並べば個人個人が自分の守備範囲を守りきるのは比較的楽であった。その上、敵は予想通りファルを集中攻撃してくる。丁度いい感じに、力量に相応しく敵が分散し、更に戦いやすくなった。
重武装のゾンビが、うなり声と共に槍を突きだしてきた。無言のまま抜刀したファルが、槍を弾いた返す刀で兜の庇の下に剣を突き込み、そのまま下に切り下ろす。ゾンビは激しく痙攣し、腐汁を蒔きながら、へなへなと崩れ伏す。前衛はじりじりと下がる。そしてそれをあざ笑うように、バンシーが空を走って、中空に躍り出てきた。それに応じて、ファルは怯えたように下がってみせる。ロベルドも、ヴェーラもそれに従う。敵はそれに応じて、間合いを詰めてきた。通路の奥へ奥へと、更にファルは下がる。そして、ついに打ち合わせ通りの地点まで到達した。
ファルは目を細めた。狙い通り、敵はこの狭い通路に全部が入った。もし此処で強烈な火力を持つ魔法を保有していれば一息に敵を屠り去る事も可能だが、味方にそれはない。だから、補う。
ファルはサイドステップして振り返り、叫ぶ。そして驚いた。
「今だ!」
「いつでも良いわよ! コンデさん!」
「おお! 任せておけ!」
コンデの全身から、普段の彼からは想像出来ないほどの魔力が吹き上がっていた。特殊な詠唱なのか、エーリカのやっていたアレイドの魔法威力増幅詠唱は聞き取れなかったが、成功したのは明かである。コンデは杖を横に構え、たまりにたまった魔力を開放した。
「クレタ!」
火球が飛ぶ。唸りを上げて、これがクレタだとは信じられぬほど巨大な火球が飛ぶ。紅蓮の炎が、敵集団の中央部にて咲いた。轟音と爆音が重なり、飛び散った火がゾンビ達を明々と照らす。吹っ飛んだ手足が、周囲にまき散らされる。不死者が悲鳴を上げて逃げまどう。ロベルドが感嘆の声を漏らす。凄まじい爆圧に巻き込まれたバンシーが二匹、溶けるように消えていった。
「す、すげえ……!」
「第二射!」
「任せておけいっ! クレタ!」
エーリカの叫びと同時に、更に一撃が敵陣列に叩き込まれた。もう一撃。残る魔力を、コンデは全て敵陣に増幅して叩き込んだ。位置は、順に敵陣前列、中軍、後陣に。まんべんなく敵陣に炎がまき散らされ、最も効率よく殺戮の刃を振るった。コンデの実力では、まだまだ着地位置を正確に決める事は出来なかったが、今のはまっすぐ前に撃つだけで充分だった。
「今よ! 全速で駆け抜けて!」
「よしっ! 兎のように駆け抜けるぞ!」
右往左往する不死者達は、まだ過半数を残していたが、すでにその陣は間隙だらけになっていた。しかも今の三発で混乱し、殆どが右往左往するばかりである。その混乱をついて、五人は走った。たまに突っかかってくる相手を、此処まで温存して置いたザイバのかかった武具で切り伏せながら、通路を一気に駆け抜ける。敵が態勢を立て直したら終わりだ。また、この後はほぼ確実に追撃戦になる。そのためにも、出来るだけ敵との距離を稼がねばならない。時間との勝負であった。
「どけ、ボケがああっ!」
「火神の矛で、砕け散れえっ!」
「邪魔だ! 去ね!」
口々にいながら、最後の力を振るって敵を切り伏せ、前衛の三人が疾駆し、後衛の二人が続く。混乱する敵陣はいまだ立ち直らず、最後まで抜けきれるかと思えた。しかし、最後に大物がいた。
巨大なゾンビであった。おそらくはオーガのものであろう。袈裟に巨大な傷を付けた巨大ゾンビは、唸りながら大斧を振り上げる。相手にしている時間など無い。しかし倒さねば逃げられない。だから速攻でねじ伏せる!
ファルがまず仕掛けた。跳躍して、顔面にドロップキックを見舞う。だが、鈍い感触はしたものの、敵は少し蹌踉めくだけだ。一瞬敵の顔面に張り付いたファルは剣を振るい、喉に突き立て、自由落下しながら一気に股下まで切り裂いた。しかし、浅い。敵は倒れない。緩慢な動作で、大斧を振り降ろさんとする。後ろでは敵が体制を整えつつある。下がる余裕はない。焙烙を使う暇もない。万事休すかと、ファルが思った瞬間。
「Wスラッシュ!」
「「おうっ!」」
左右に跳ね飛んだヴェーラとロベルドが、息を合わせて、事前の打ち合わせ通りオーガゾンビを左右から同時に切り裂いた。巨体が、文字通り砕けたのは、錯覚ではなかった。ヴェーラのハルバードが胸を、ロベルドの戦斧が腰を、大きく抉り去っていた。
「ぎょあああああああおおおおおおおおおおあああああ!」
悲鳴と地響きと共にゾンビが崩れ、ただの腐肉の山とかしていった。死体の山を踏み越え、まだ少し前方に残っている不死者を切り伏せながら、一気に突破を果たす事に成功した。しかし、後方からはまだまだ二十体以上いる不死者が、態勢を立て直しうなり声を上げて迫ってくる。まだ作戦は半ばだ。道を間違えたら死ぬ。
「私が最後尾に残る。 皆、行け!」
「分かったわ!」
やはり敵はファルを主に狙ってきた。最後尾で、敵を引きつけ、撃退しつつ下がり、ファルはそれを確認していた。五体斬り伏せた所で、ザイバの光が消えた。もう味方に魔法の援護は出来ない。ここぞとばかりに攻め寄せる不死者を手を蹴り折り、頭をへし折り、後退する。途中、曲がり角を曲がる時、下の階層への階段が見えたが、構っている暇はない。下がる、下がる、更に下がる。敵は偏執的に追ってくる。疲労が徐々に、確実に体を蝕んでゆく。汗が目に入り、拭う暇もなく、頭を振って振り払う。繰り出されるさびた剣や槍を、避けるのが難しくなりつつあった。振り返ると、ホールが目の前に見えた。味方が手を振り、呼んでいる。幸い、道はあっていたのだ。懐から最後の隠し弾を取り出す。イーリスから貰った焙烙の二つ目、即ち最後の一個だ。印を開放し、放り投げる。そして、爆発の音を背に受けながら走った。
背中に鈍い衝撃が走ったのは、次の瞬間だった。蹌踉めき、数歩進んで、地面に倒れ伏す。感触で分かる、矢だ。恐らく不死者の一体が放ったものだ。かなり悪い所に当たった。致命傷ではないが、もう速くは走れない。迂闊であった、敵を見ていれば避けられている一撃だった。
「ファルさん!」
「私は、良い! 置いて、いけ!」
「駄目よ! ヴェーラさん!」
ロベルドは死闘の際、右肩に一撃を貰っていた。ヴェーラも綿のように疲れていたが、それでもハルバードを脇に抱え、ファルを器用に背負った。再び逃げ出すが、敵は着実に迫ってくる。逆に、味方は確実に逃走速度が遅れた。更に、コンデもそろそろ体力の限界らしく、滝のように汗を流していた。
「置いて、いけ! 置いて、いけば、他の者、は、助かる!」
「駄目よ! エイミさんが悲しむわ!」
変わって最後尾に入ったエーリカが、飛んできた矢をフレイルの柄で弾き落としながら言った。別に彼女がフレイルの達人というわけではない。ちゃんと見ていればその程度の矢なのだ。コンデを励まし、ヴェーラを叱咤し、エーリカは頑張り続けた。そして、その努力は報われたのである。
吊り橋にさしかかった。そこで、ようやく光が見えた。橋の向こうで、呼んでいる者達がいる。地下一層に常駐している騎士団だった。先頭にいるのは、以前救出した女騎士であった。以前助けた兵士達の姿もあった。ほぼ間違いなく、騒ぎを聞きつけて駆けつけてくれたのだ。
「早くわたれ! 後は任せろ!」
抜刀した女騎士は、ファル達が渡るのを見届けると、橋の上を渡ってくる不死者に踏み込んだ。剛剣一閃、疾風迅雷。その戦闘能力は圧倒的だった。同じ騎士でも、少なくとも今のヴェーラでは逆立ちしても勝てない。見る間に不死者が切り伏せられ、橋から叩き落とされてゆく。ザイバのかかった矢を兵士達が撃ち、次々と不死者が橋から落ちていった。不死者共が全滅するまで、殆ど時間は掛からなかった。
「ありがとう。 今度は愚僧達が報酬を払わなければならないかしら?」
「いや、本来はこれが正しい姿だ。 我々は君達の税金でまかなわれているのだし、気にするな」
エーリカと女騎士がそんな会話をしている横で、ファルは騎士の一人の治療を受けていた。だいぶエーリカのものより優しい気がする。騎士は上位になると、僧侶と同じく〈僧侶魔法〉を扱う事が出来るようになる。無論、ヴェーラも修行すればそうなるのだ。また、かなり場慣れしていて、矢の抜き方や消毒の仕方も上手かった。この分だと、傷が残らないで済む可能性もある。もっとも、少し手荒でもエーリカの治療は的確だったし、これは恐らく個人的な内面性の問題であろう。だいいち、傷跡など今更な話だ。
傷が治ると、ファル達は順次礼を言い、その場を後にした。迷宮を抜けると、外は昼だった。つまり、ほぼ丸一日迷宮にいた事になる。
「腹が減ったなあ……」
ロベルドがいい、腹が鳴ったのは何故かコンデだった。皆、遠慮無く笑うと、宿へ直行した。ファルは一瞬だけ、エイミが大泣きするのではないかと思ったが、予想は外れた。最愛の妹は、玄関で待っていた。そして、ファルの顔を見ると、ただ優しく微笑んだ。
「おねえさま、お帰りなさい」
「ただいま」
それがどれだけ心を癒したか。恐らく、他者に理解は出来ないであろう。でも、ファルにはそれで充分だった。他者の理解など、必要ではなかった。
しばし和やかな時間が流れたが、咳払いがそれを終わらせた。視線が集まった先には、ヴィガー商店のルーシーがいた。相変わらず、少し構えた様子で警戒しつつ、疲れ果てたファル達を眺め回している。
「姉妹水入らずの所を悪いんだけど、仕事をして貰えるってエイミさんに言われたから昨日からちょくちょく来てるの。 用件だけでも、話して良いかしら?」
「愚僧が承るわ。 皆、先に休んでいて」
「いや、私も残ろう。 傷は治ったし、多少は皆より余裕がある」
今回は随分リーダーであるエーリカに負担をかけてしまった。エーリカだけに負担をかけるわけには行かないから、ファルは残る事にした。他の者達は顔を見合わせ、言葉に甘えて寝室に向かった。ジルがそれを見て何か言おうとしたが、全力疾走した様子のコンデを見て、小さく嘆息して言葉は吐かなかった。
「じゃあ、早速だけど、地下二層に関する依頼よ。 具体的には……」
ルーシーが早口でまくし立てるのを聞きながら、ファルは今後あの神像の解析を誰に頼むか、またブレスレットの解析を頼むのを誰にするか、人知れず考え続けていた。それに、メラーニエに回収してきた魔法石の材料も届けなくてはならない。期日はまだ余裕があるが、依頼自体を忘れては本末転倒だ。
気づくと、エーリカが笑顔のまま、料金と依頼期限の交渉に入っていた。死闘は、もう少し続くようだった。昨日と今日は大変な日だった。早く風呂にでも入りたい。後、エイミの手料理でも食べて、ゆっくり寝たい。そんな風に、ファルは考えていた。時々エーリカの声に、戦闘面における主観的な味方のデータを提示したりもしたが、結局残りはしたものの、あまり役には立っていなかった。人間には限界があるという、良い証拠であった。
交渉が終わったのは、夕方過ぎであった。流石にその頃にはエーリカも疲れ切っていて、自室に直行するとそのまま朝まで起きなかった。ファルもエイミの夕食だけ貰うと、風呂にも入らずそのまま自室に直行、ベットの上に倒れ伏した。部屋までついてきたエイミに、小さく欠伸をしながら、ファルは言った。
「すまないな、心配をかけた」
「ううん、おねえさまが帰ってきてくれれば、それで私は幸せですわ」
「私も、お前が幸せなら充分だ」
別に恥ずかしがるでもなくそう言うと、ファルは妹にお休みといって戸を閉め、ベットに倒れ込んだ。眠る訓練は受けているが、もう何も心配する事はない情況が、更に眠りに落ちる時間を加速した。月明かりが差し込む部屋で、もうファルは、戦いから生還した忍びは、寝息を立て始めていた。
5,暗躍
地下一層の深奥に、ポポーが持っていたものとよく似た黒食教神像と、祭壇があった。其処に腰掛け、頬杖をついて考え込んでいたのは、幽鬼マクベインであった。
無数の不死者を操作し、ファル達を襲わせたのは、他ならぬ彼であった。理由はただ一つ。面白そうだったから、である。今後有望そうな冒険者が如何なる戦いを見せるのか、彼は単純に興味があり、そして充分に堪能した。マクベインは満足だった。彼は快楽主義者だった。そして快楽のために、幾らでも他者を犠牲にし、それに全く良心の呵責を覚えない存在でもあったのだ。
彼は傭兵団のボスであり、悪名に関してはシムゾンに列んでいた。理由は簡単で、民間人の虐殺に多く手を染め、それに悔いる所を見せなかったからである。シムゾンはその苛烈な戦いぶりから悪魔と呼ばれた。だがマクベインは、その人間的性質から悪魔と呼ばれたのである。
複数の足音がした。マクベインが顔を上げると、其処には見るからに一流の使い手である複数の護衛に守られた、彼の主がいた。ドゥーハンの国民なら誰もが知り、その多くが尊敬する、若き政治家が。
「こんな所にいたのか、マクベインよ」
「これはこれは宰相閣下。 わざわざ足をお運び頂けるとは光栄です」
「くだらん世辞はいい」
そう、ドゥーハン王国宰相ウェブスターは吐き捨てた。宰相がこの男を嫌っている事は、その一挙一動が雄弁に物語っていた。
「貴様、仕事はちゃんとしているのだろうな。 地下五層の探索も、半分ほどしか済んでいないと連絡があったぞ。 それに、あの書物も、あの娘も、見付かっていないそうではないか」
「地下五層は正に魔の都。 手練れ揃いな我が僕達でも、探索に苦労しております。 それに例のものたちは、恐らく地下六層までありますまい」
「早くしろ。 このままでは、何のために貴様を雇い、行動の自由を許可しているのか分からぬではないか」
「御意。 微力を尽くします」
慇懃に頷くマクベインに、苛立った様子でウェブスターは舌打ちした。その表情に、辣腕で知られる若き天才の面影はない。逆に、この影が如き存在マクベインは、余裕綽々であった。
「それよりも、ハリスより枢機卿様が来られるとか。 彼のお守りも、私がすればよろしいのでしょうか?」
「いや、奴は天界の使徒を呼び出せる数少ない存在だ。 何でも天使が一人護衛についているそうだから、それは必要ないだろう。 私が、安全を確保し次第ご案内する」
「くっくっく、それは恐ろしい。 天使とは、また凄まじいですなあ」
「現物はお前と大差ない。 無垢なる心を持つ光の使徒だなどというのは大嘘だ」
吐き捨てたウェブスターは、早く仕事を済ませるようにと言い、その場を後にしていった。マクベインは闇の中ひとしきり笑うと、懐から神像を取り出し、愛おしげに撫でた。
「蠢くものよりも、迷宮の中でうごめいている人間共の方が、余程恐ろしいかもしれませんなあ。 くっくっくっくっく」
誰も、彼の嘲笑には応えなかった。闇の中、彼の哄笑は、遮るもの無く響き続けていた。
迷宮内部で活動している騎士団の動きは、此処最近目立って良くなっている。ベルグラーノが迷宮内部に入ってからと言うもの、指揮系統が一新され、行動スケジュールが緻密になり、結果無駄が省かれて、死者が減ったのである。ベルグラーノは地下一層の指揮所でたえず情報を分析収拾しながら、自身の足で各地を視察、的確な命令を下し続けていた。疲れを知らぬかのようなその働きぶりは、正に八面六臂の活躍と言うに相応しかった。
騎士団長が迷宮へ入った事で、変わった事は幾つでもある。まず、各層の指揮所に張られている結界はずっと強化された。これは騎士団長本人の提案で、確かに金はかかったのだが、お陰で随分と指揮所の安全性は増した。これには、騎士団長が豊富な予算を持ち込んだと言う事も発生に貢献している。また、中継地点は以前よりもずっと増やされ、要所要所の部屋を確保してはそう改装した。これによって冒険者や補給隊はいざというときに逃げ込める場所が増えた。また、時間よりも安全性を重視し、どうしても危険な箇所には重装備をした部隊が巡回をするようになった。
更に、迷宮任務経験のある兵士を訓練所に配備し、迷宮戦用に兵士を訓練する事も始めていた。彼はまだ軍の力でカルマンの迷宮を攻略する事を諦めておらず、これはその下準備であった。もうスタンセルの許可はとってあり、彼もこれには賛成している。これら着実な策を確実に積み重ねていく事によって、ベルグラーノは部下達の安全を少しでも確保するべく腐心していた。
これらの行動は部下達の支持を確実に得ていた。だが、何より彼らを安心させたのは、ある人物の投入決定である。ミルゴット家のポポーが迷宮内部で活動しているのは、その露払いといっても良かった。
今日、ベルグラーノは地下四層を部下達と周り、視察に当たっていた。其処へ、ポポーが危なっかしい走り方で駆け寄ってきた。
「騎士団長!」
「ポポーか、何かあったのか?」
「はいだわさ。 ウェズベル大先生が、ついに此方に来る準備が整ったのだわさ!」
おお、と部下達の間から歓声が漏れた。世界最強の魔導師が、ついにカルマンの迷宮を、そして魔女を屠るために動き出したのである。満足げに頷くと、ベルグラーノは部下達を促して歩き出した。まだまだ、するべき仕事は幾らでもあったからである。
無数の糸が、カルマンという機織り機に吸い込まれていた。それが織りなす布が、如何なる模様になるかは、まだ誰も知らない。
ただ分かっているのは、その糸の一本一本である人間が、それぞれあがき続けている、という事であった。
己の目的を目指して。
(続)
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