最初の戦い

 

序、確執

 

現在カルマンの迷宮では、冒険者だけではなく、ドゥーハン騎士団と軍の、それぞれほんの一部が攻略に参加している。一部というのは、オルトルード王が兵の全面的な投入を許可していない事、騎士団長であるベルグラーノと宰相ウェブスター公が水面下で対立していて、首脳部の意見が統一されていない事、等が関係しているためである。現在迷宮の周辺警備と探索哨戒任務を行っている騎士団および兵士は、ベルグラーノの私兵であり、それ以外の騎士は国境や各地の要塞でそれぞれの任務に当たっているのが現状だ。また、各将軍もそれぞれの軍を率いて国境や重要な戦略拠点におり、ハリスやサンゴートを始めとする強国の動向に目を光らせている。ドゥーハン軍は常備兵だけで三十五万に達し、練度といい実戦経験といいベノア大陸でも最強を誇るが、それでも他の五国が同時に侵攻してきたら面白くない。

今のところハリスは静観の姿勢を見せてはいる。一方で、サンゴートは不穏な動きを水面下でしていると噂されており、先に逆侵攻をかけてはどうだなどと物騒な意見を呈する者さえあった。ユグルタ、エストリア、グルテンの三国は未だにバンクォー戦役の痛手から回復はしていないが、あまり楽観は出来ない情況である。

ドゥーハンに起こった異変は、その周囲でも血と絶望の旋風を巻き起こしかねないものであった。現在それが起こっていないのは、病床にありながら国境へ的確な指示を飛ばしている英雄王オルトルードの存在と、彼が育て上げた名将達の冷静な判断力であった。

 

現在、ドゥーハン王都には、形式上二人の司令官がいる。一人は騎士団長であり、大陸最強の騎士が一人と噂される聖騎士ベルグラーノ。もう一人は、首都防衛軍二万五千を率いるスタンセル大将である。この二人は、公人としてはスタンセルの方が地位が上であり、しかし従えている戦力はベルグラーノの方が精鋭である。騎士団を始めとする中核精鋭はベルグラーノが押さえているが、軍自体を掌握しているのはスタンセルだ。二人は、私人としてはさほど仲が良くなかったが、現在は共通した不満を抱いていた。何故に、カルマンの迷宮に騎士団を投入しないか、という不満である。

サンゴートの騎士団も精強な事で高名だが、ドゥーハン騎士団はそれを更に凌ぐ。バンクォー戦役でも、サンゴートの黒騎士団の最精鋭を力でねじ伏せたほどである。全軍を投入すれば、ベルグラーノにもスタンセルにも魔女を討ち取れるという確固たる自信があった。しかし、現在はごく小規模の戦力を逐次投入するしかなく、無駄な被害を増やすばかりであった。オルトルードに何度も大規模な軍の投入を要請しているのに、明敏さで地位を築き上げた王は頑として首を縦には振らなかった。

殺気だった様子で、今日もベルグラーノは王宮を訪れた。王の寝室の前には、王が飼っている密偵のゼルが控えている。王が飼っているほどだから能力は確かなのだが、ベルグラーノはあまり好いてはいなかった。ニンジャとか言う怪しげな職業である事を標榜する、油断出来ない輩だといつも思っていた。

「陛下は?」

「今は執務を終えて、茶にしておりますが」

「……面会は出来るか?」

「ベルグラーノ様? 今日も同じ用件ですか?」

全く年齢が分からないゼルが肩をすくめたので、ベルグラーノは口の端を引き締めるのに苦労せねばならなかった。真下からベルグラーノを見上げながら、ゼルは少し揶揄するように、だが敬意を込めて言う。

「ベルグラーノ様を止める権限は私にはありません。 しかし、王は知ってのとおり疲弊しておられます。 無駄にその体力を削ぐような真似はお控え下さい」

「分かっておる」

正論をぶつけられて、ベルグラーノは口調を押さえるのに苦労した。相手が言っている事が正しいのは分かっているのだが、それでも頭に来るのである。

部屋に通されたベルグラーノは、天蓋付きのベットに伏せっている王に礼をした。王はベルグラーノのとても若々しい(本人はそれを凄く気にしている)顔を見やると、静かに言う。

「用件はなんだ、と言いたい所だが、もう分かり切っておる。 そして、返事も決まっておる。 前から言っているとおりだ。 地下九層に到達する冒険者が出るまで待つように」

「陛下。 災厄の根元があの迷宮にある事は事実なのです。 国境では将軍達が睨みを利かせており、かりにサンゴートなりハリスなり、或いはその複数が侵攻をかけてきても撃退は可能かと思われます。 しかし、しかしです! このままずっと迷宮が存在し続けてゆけば、今後は国民の不安が高まり、ドゥーハンの国威は落ち、治安は悪化し、敵国に付け入る隙を与えましょう」

災厄をもたらしている迷宮がずっと、しかも王都に存在し続ければ、それはドゥーハンの力が落ちた事を周囲に示すのと同じである。まして今はオルトルードが病床にあると言う事もあるのだ。現在は比較的情況が安定しているとはいえ、隙を見せたらつけ込まれるのがこういった時代の事実である。無力は蹂躙されるのだ。それを防ぐためには、それなりの力が必要になってくるのである。どんな理屈で飾り立てても、その現実を無視すれば、待っているのは無惨な結果ばかりである。

オルトルードほどの男に、そんな事が分からないはずがないのだ。敬愛する王は、いつもベルグラーノの意見をすぐに察してくれた。なのに今は、彼だけではなくスタンセルの意見も全く採り入れてくれない。そのもどかしさが、ベルグラーノを激させていた。

「何と言おうと駄目だ。 そして今の時点では、理由を明かす事は出来ない」

「……分かりました。 では、一つ許可を頂きとうございます」

「言ってみよ」

「小官にも、迷宮に入る許可を頂きとうございます。 部下を危険にさらしてばかりはおれません。 小官も彼らと危険を共有し、機会あれば魔女の首を叩き落として来ようと思います」

決意を込めて言う若き獅子に、獅子王はしばし目を細め、そして小さく嘆息した。許可を与えられたベルグラーノは大股で部屋を出ていった。

 

一人部屋に残されたオルトルード王は、しばしの沈黙の後、軽く手を叩いた。部屋に入ってきたのは、密偵のゼルである。跪くゼルに、王は言う。

「リュートとエミーリアよりの報告は?」

「芳しくないようです。 冒険者達はそれぞれ着実に力を付けているようなのですが」

「錬金術ギルドの方はどうだ?」

「先日の報告以上のものは来ておりません」

王の言葉に淀みなく応えるゼル。ゼルのように、単体で国家なり権力者なりに仕えている忍者は存在するのだが、まだ組織ぐるみで忍者を仕官させた国家はベノア大陸に存在しない。従って、少数の国家所属忍者は、精鋭中の精鋭ばかりである。他にも幾つかの報告を聞き終えると、オルトルードは言った。

「では、ゼル。 二つの任務を言い渡す」

「なんなりと」

「一つは、お前の任務を変更する。 今後は迷宮に直接入り、リュートとエミーリアを直接サポートし、更に、ベルグラーノを影から護れ。 そして、例のあ奴の動向からも目を離すな」

「……今ひとつは?」

王の気持ちを明敏に悟ったゼルが顔を上げると、オルトルードは茶を啜り、息を吐き出して後に続けた。

「決まっておろう。 お前の代役を回せ。 適当な者はいるか?」

「すぐにでも手配いたします」

「うむ……」

ゼルが部屋から出ていくと、病に伏せる獅子王は大きく嘆息した。解決するべき課題は、正しく山積みになっていたからである。

 

1,魔窟

 

地下一層は、カルマンの迷宮の最上層部であり、迷宮内では最も安全な場所とも言える。しかし、それでも危険度は他の迷宮の非ではない。まず何よりも、迷宮内部に満ちている障気が桁違いである。今まで二桁に達する迷宮に潜ってきたファルは、それを誰よりも良く悟っていた。

周囲を見回して、取り合えず近場に魔物の類がいない事を確認したエーリカは、手を叩いて皆に言う。ファルはそれを聞きつつも、油断無く周囲に注意をし続けた。現在ファルは、忍び装束と呼ばれる服装に身を包んでいる。体を露出させているのは首から上だけで、後は全部地味な色地の布の下だ。服の下には鎖帷子も着込んでいて、服の各所には様々な工夫が為されている。何世代も掛けて、動きやすく、実戦的に作り上げられた忍者のユニフォームといっても良い格好である。ただ、スタンダード以上のものではない。

手元に光っているのは、小さな宝石が埋め込まれたブレスレットである。なんでも識別票の役割を果たすとかで、これがないと迷宮に入る許可を得られない。当然、他のメンバーも全員装着している。

「まず、打ち合わせ通り、入り口の周囲を探索して、様子を掴んでいきましょう。 その後は自分たちの実力と相談しながら、遠出をしていきたい所ね」

「そう……だな」

「どうした。 迷宮に入る前は、これから巣立つひな鳥のように落ち着きがなかったではないか」

「うるせえよ。 なんていうか、この迷宮はやべえ。 ……肌で分かるんだ」

不意に静かになったロベルドを揶揄するヴェーラの言葉にも精彩がない。コンデに至っては、借りてきたネコのように大人しくなり果てて、所在なさげに最後尾で辺りを見回していた。

床には埃一つ積もっていない。毎日人魔関係なく相当数が通り過ぎているのだから当然といえば当然である。天井は十メートル以上も高さがあり、時々床に水滴が落ちてきた。空気は奥に行けば行くほど冷え込んでいた。にもかかわらず、汗が後から後から出てきた。誰もが、本能レベルで悟っていたのだ。此処は人が住む世界とは、別の場所であると。比較的落ち着いているのは、ファルとエーリカだけである。エーリカが率先してまた歩き出し、ファルが小さく嘆息して歩く。慌てたように、ロベルドとヴェーラが続いた。

「ねえ、ファルーレストさん」

「うん?」

「下の階層は、もっと障気が濃いのかしら?」

「地下五層になると、歴戦の勇士でもすくみ上がるそうだ」

壁は格子状に積まれていて、結構頑丈である。時々壁や床に視線をやりながらファルがそう答え、そして舌打ちした。エーリカが足を止める。慌ててロベルドとヴェーラが各々の武具を構えた。

「早速お出ましかよ。 へっ、へへっ、腕がなりやがるぜ」

闇に浮かび上がる、幾つかの光。それが目だとは、誰が言うまでもない事である。数は十四。それが二つずつ、七つ列んでいる。即ち、魔なるものの数は七。少し小さめの斧を構えたロベルドが、虚勢が見え見えの言葉を吐きながら、唇をなめ回していた。

 

魔物はいわゆるコボルドと呼ばれる小型の亜人が六体、もう一体は彼らの後ろに控えている、少し大きな影であった。まだ姿ははっきりと確認出来ない。コボルドは犬のような顔をした亜人で、人間より少し小柄であるが、知能はそれなりにあり、今も槍と簡単な鎧で武装している。じりじりと間合いを詰める二つの集団。戦いの口火を切ったのは、コボルドの咆吼であった。

「キィエアアアアアアアアア!」

「ひっ……」

情けない悲鳴を上げたのはコンデである。エーリカがフレイルを握りしめている右手を下げ、左手を胸の辺りで横に振った。

「行くわよ!」

「お、おうっ!」

ハルバードを振るったヴェーラが先陣を切った。一瞬遅れてかけだしたコボルド。戦線が接触するまで一秒半。突き出された無数の槍を力任せに叩き払うと、先頭のコボルドに、ヴェーラがハルバードの槍先を叩き込む。犬のような悲鳴を上げて、顔面を砕かれたコボルドがのけぞり、更に繰り出された横殴りの一撃を浴びて吹っ飛んだ。血を浴びたヴェーラは目を興奮に輝かせ、更にもう一体に、頭上からハルバードの穂先を叩き落とす。女性騎士とは思えないほどの、力任せな戦い方だ。

「おおらああっ!」

負けじとロベルドが斧で槍を斬り払う。敵は結構戦い慣れしていて、慎重にロベルドと間合いを取ろうとしたが、血気盛んなドワーフの青年は力任せに間を詰めた。気合いと共に振り下ろした斧が、逃げ遅れたコボルドの頭を叩き潰す。だが同時に、真右ががら空きになり、コボルドが槍を振り回し、脇腹にクリーンヒットさせた。突いても薙いでも使えるのは、槍を基本とした長柄武器の大きな利点である。くぐもった声を上げたロベルドに、二体のコボルドが同時に槍先を揃えて突き掛かる。ファルが動いたのはその瞬間だった。そのまま、自分に突き掛かってきたコボルドの槍を紙一重でかわすと、相手の顔面に肘打ちを入れ、ロベルドに突き掛かった一体へ向け軽く跳躍、斜め下から抉り上げるように顔面へ蹴りを叩き込んだのである。悲鳴を上げてのけぞったコボルドは、隣の同僚に倒れかかり、態勢を立て直したロベルドに切り伏せられた。そのまま着地したファルは、お返しとばかりに今まで戦っていたコボルドから突き出された槍を、バクテンするような形で後ろへ跳ね避け、逆立ちした状態で静止、間髪入れず体を旋回させて真横からの蹴りを叩き込んでいた。まさかこんなアクロバティックな攻撃が来るとは思いもしなかっただろうコボルドは、呆然としている瞬間に首を蹴り折られていた。ほどなく、ヴェーラが交戦していた、コボルドの最後の一体も叩き潰されていた。

「まるで風の精霊に愛された熟練の軽業師だな」

「まだ大きいのが一体残っている、気を抜くな」

苦もなく跳ね起きて態勢を立て直したファルは、ヴェーラの方を見ずに応えながら、腰を落として鯉口を切った。奥に控えていた大きな影が、姿を見せたからである。二メートル近くある身長を持つ、オーガと呼ばれる亜人だった。コボルドに比べて遜色ない知能を持ち、凶暴で危険な亜人である。図体に相応しい巨大な刀を振り上げたオーガーに、エーリカの言葉が飛んだ。

「コンデさん、今よ!」

意図を悟ったファルが横に避け、ヴェーラがそれに習う。エーリカが明いている左手をオーガにつきだし、コンデも慌ててそれに習った。

「神の拳よ、敵対者へ裁きの一撃を! そして我は願う、滅せし者への救済を!」

「深紅の火球よ、燃やし、溶かし、浄化し、そして無へ帰せ! その円は、し、死の赤!」

「ぐるああああああああああっ!」

詠唱と咆吼が重なった。冷や汗を流して一歩後ずさるコンデ。一方でエーリカは一歩も引かず、老魔術師よりも一瞬早く印を切った。

「うち砕け! バレッツ!」

「炎の洗礼を! クレタ!」

エーリカの掌から白い魔力の固まりが、コンデが横に構えた杖の先端からは火球が飛んだ。火球の方が早かったが、其方は飛行の途中で軌道を乱してオーガの足下へ飛び、そこで爆裂した。悲鳴を上げるオーガの胸元に、エーリカの光球が炸裂し、巨体が蹌踉めく。左右から息を合わせてヴェーラとロベルドが斬りかかるが、しかし敵もさるもの、態勢を立て直し、巨大な剣を振り回して二人を弾いた。何とか武器で受けたものの、悲鳴を上げて蹈鞴を踏む二人に、血走った目をオーガが向けるが、ファルの姿は既に彼の視界にない。

次の瞬間、オーガの肩、首のすぐ横に、ファルの刀が突き刺さり、柄まで埋まった。今の瞬間に後ろに回り込んだファルが、タイミングを計って飛びつき、為した事であった。絶対的な急所を貫かれたオーガは、血泡を吹いて手を伸ばすが、非情にファルは刀を抜きさっていた。鮮血が噴きだした。誰がどう見ても致命傷であった。

死ねとか、終わりだとか、そう言った言葉とファルは無縁であった。ファルが飛び退くのと、絶息したオーガが前のめりに倒れるのは、殆ど同時だった。

 

今の戦いで、ロベルドは脇腹に打撲傷を、ヴェーラは槍を受け損ねて二つ軽い傷を受けていた。一旦入り口近くまで戻ると、エーリカは傷を見て、小さく頷く。これならば、さほど問題なく回復する事が出来るといい、呪文を唱える。当然のように無傷だったファルは、その様子を横目で見ながら、兎さんが刺繍されたハンカチ(エイミのお手製である)で返り血を拭い、時々周囲を警戒していた。

「白き力を持つ神よ。 汝の癒しの手、この者の傷にさしのべ、災いを退きさらせたまえ」

「いっつ! も、もっと優しくしてくれよっ!」

「我慢しなさい。 フィール!」

痛がるロベルドを力尽くで押さえると、エーリカは呪文を発動させた。白い光が、傷口を包むように当たり、傷を完全ではないが徐々に癒していった。

元々彼女のような僧侶が使う魔法は、天主教からは〈神聖魔法〉、冒険者の間からは〈僧侶魔法〉と呼称されている。一般的に今エーリカが使っているような、傷を治したり毒を中和したりと言った、回復をメインとした魔法系統だが、先ほどの戦闘で使ったように攻撃系の魔法も一部存在している。一方、今所在なさげに座っているコンデが使う系統の魔法は、職業の名を取って〈魔術師魔法〉と呼ばれており、攻撃と攻撃補助をメインとした、敵殲滅に主眼を置かれた魔法が多いのが特色だ。

一通り回復を澄ませたエーリカが、立ち上がり、手を叩いていった。ヴェーラは少し複雑な表情で、傷とハルバードを見比べていた。

「よおし、こんなものね。 みんな、よく頑張ったわ。 初勝利に後で乾杯しましょう」

「ああ。 ……ちっ、最初からこんな手強いのが出てくるとはな……。 死を呼ぶ迷宮、緋色の花が咲く土地という呼称は伊達ではないな。 偉大なる火神アズマエルよ、汝の子に勝利と栄光を」

「すまんの、小生の魔法、外れてしもうて」

「気にしないで。 最初にしては上出来だわ。 それに、敵に致命傷は与えられなくても、有効打は与えられたんだから、自信を持って良いわ」

少し落ち込んでいるコンデの肩を、エーリカが力強い言葉と共に叩いた。リーダーの役割を心得ているエーリカに、多少安心しながら、ファルは言った。

「それで、この後はどうする?」

「そうね、もう少し周囲を調べてみましょう。 あまり奥へは行かないように、近所を確実に自分たちの庭にしていくの」

「了解した」

ファルは頬杖をついて黙り込んでいるロベルドに気づいた。その体は少し震えていた。すぐにその理由にファルは気づいたが、あまり口に出す事でもないので黙っていた。

ほぼ間違いなく、この青年は今始めて命のやりとりをした。その恐怖が今更ながらに全身を充たしているのである。これはどうしても避けられない洗礼で、反応には個人差がある。ファルも最初に敵を斬った時は、一週間ほど手に震えが残ったのだ。今はもう、殺した所で眉一つ動かさないが。

「行くわよ、ロベルド」

「お、おうっ。 分かってるよ。 さあ、探索だ探索」

こえられるかこえられないかは、本人次第である。視線をロベルドから外すと、ファルはエーリカの指示のまま、迷宮の探索に再び戻った。

 

結局最初の探索は、他に二度ほどの戦いを経て終了した。残り二度の戦いは、いずれも少数のコボルドとの戦いで、一回目よりずっとスムーズにこなす事が出来た。ロベルドは多少ふるえてはいたが、何とか戦いをこなしていく事が出来ていた。しかし、実は大変なのはこれからなのである。

最初の階段からしばし行くと、三叉路に当たり、正面は吊り橋を経て行き止まりになっていた。行き止まりの側の大きな部屋には、騎士団の簡易陣地が設けられていて、何人かの騎士と十五人ほどの兵士が防御用の結界を維持しながら警戒に当たっていた。此処は負傷した冒険者の避難所ともなっていて、同様の施設は地下五階までの各階にあるという説明を受けた。が、下の方へ行けば行くほど避難所としての安全性は怪しくなるのだとも、騎士は本当に悔しそうに言った。

左右の通路は奥へ深く深く延びていて、右側の通路を少し踏み込んで、正面から出くわしたコボルドの小さな群れを撃破してより帰還に移った。死者、重傷者は無し。実のところ、最初の探索で死者を出すチームも珍しくない以上、これは大戦果だと言っても良い。

ようやく迷宮から出た時には、既に陽がだいぶ傾いていた。それほど深く潜ったわけでもないのに、見つけた部屋や通路を丁寧に調べていった結果、それに戦って休んだ分も考慮すると、相当な時間を消耗したのである。入り口で門番をしている騎士に礼をして、五人は一端迷宮を後にした。そして、宿にたどり着いた瞬間だった。

どすん、と鈍い音がした。ファルが振り向くと、案の定の光景が其処にあった。前のめりに倒れかけたロベルドが、木の床に両手をつき、蒼白になっていた。強靱な戦士が、まるで極寒の地に裸で放り出されたかのようにふるえていた。ファルは冷静に、するべき事をいった。

「エイミ、モップと雑巾を」

「は、はい。 おねえさま」

慣れた様子で、エイミが従業員と奥に駆け込んでいく。胃の中のものをロベルドが吐き戻したのは、次の瞬間だった。

自分の手で、肉を切る感触を得なくて良いコンデははっきり言って恵まれたポジションだとも言える。前衛職にとって、最初の戦いは、同時に最初の殺しの瞬間でもあるのだ。

「……はあ、はあっ! へ、へへっ、変なモンでも喰った、かな」

「いや、強がりはいい。 偉大なる火神に愛された我が同胞達も、最初の戦いの後はみなそんな様子だ。 無論、私もそうだった。 まるで子供のように、極寒の恐怖から来る震えに抗する事が出来なかった」

「後は愚僧達がやっておくわね。 ロベルド、部屋に戻って休んでいて」

「……」

何人か冒険者の先客が宿にはいたが、誰も揶揄したり責めようと言うものはいない。多くの者が通る道だからである。当然、彼らの多くも通ったのだ。減らず口を言う余裕もないらしく、ロベルドは自室へ直行した。他人の手を借りずに部屋に向かえただけでも、相当な精神力だと言えたかも知れない。

同じ新米といっても、怪我人や死人に接し慣れているエーリカや、直接手を触れずとも敵を殺せるコンデとは違い、始めて敵を斬ったロベルドが受ける衝撃は大きい。後は回復を待つしかない。そしてこれは、他人が支える事が出来ないのである。

吐瀉物を手際よく片づけた従業員を横目で見ながら、残りの四人が席に着いた。皆の顔を見回して、エーリカが口を開く。

「今後の事なのだけど、ギルドなり大手の酒場なりを回って、少しずつ依頼をこなしながら実力と経済力を付けていきましょう。 最初からあんな手強い奴がいるとなると、一気に攻略するなんて絶対に不可能よ」

「それが賢明だな。 一刻も早く邪悪なる魔女の脳天を火神の裁きでうち砕いてやりたいのだが」

「そうじゃのう。 今後はもっと恐ろしい魔物が確実に現れるのじゃろうて、そうせねばとても生きてはいけぬだろうしのう」

「賛成だ。 慎重策が、ここは吉だろう」

皆の意見が揃い、明日まずギルドと大手の酒場を二つ回ってから迷宮に赴く事が決定されると、後は各自解散となった。死傷者は出なかったが、決して無傷とは言えぬ最初の戦いが、此処に終了した。

 

2,水面下を流れるもの

 

迷宮に向かう前に、或いは必用に応じてミーティングを行う事が、ファル達のチームでは義務づけられている。そのミーティング開始前に、ある程度各自には自由行動の時間が割り振られており、めいめい自分の時間を楽しんでいた。ヴェーラは色々なドゥーハン名物の食物を試し、コンデは魔導書に目を通している。ファルはというと、その時間を利用して冒険者ギルドの片隅にある小さな建物へ向かっていた。別に目立たない工夫をしなくても、というよりも目立とうとしても目立てないほど質素で小さなその建物こそ、忍者ギルドが割り振られている場所であった。傍目から見ると殆ど掘っ建て小屋であり、しかも有志で改装して地下室を増築しているほどなのだ。悲しい事に、まだまだ忍者の認知度は低く、この程度の扱いしかして貰えないのである。ただ、話によると侍やモンクも最初はそうだったという話なので、あまり悲観したものではない。

受付には先輩の忍者がいた。一応、ギルドからはファルよりも高い評価を受けている忍者である。事務的に会話をしながら、ファルは帳簿に手を伸ばす。知名度が低く、忍者ギルドが仕事を取ってくるのは大変なのだ。それに加えて、自分のチームにあったレベルの仕事となると、更に限られてくる。よって、記載されている仕事は、ギルド自体が所属している忍者に出した依頼ばかりである。

「ファルーレスト=グレイウインド、帰還した」

「戦果は?」

「迷宮より無事に生還。 コボルドを計十四、オーガを一体撃破。 迷宮に関する特に新しい情報は無し」

「ふむ。 まあ、最初はそんなものだな。 今後に期待する」

頷くと、ファルは無表情のまま帳簿の一ページを開け、目をつけたものを素早く書き写した。イーリスと依頼主の名が振られていた。

ギルドには、実は忍者以外の者もいる。特に多いのが、鉱物製錬技術者と、錬金術師だ。

忍者の使う道具は科学技術を豊富に用いるため、錬金術師達とはとても相性がよいのである。異国の忍者ギルドには、錬金術の修得を義務づけている所さえある。錬金術は科学と自然の利用を第一に考える術の系統で、補助を最も得意とする系統の魔法であるから、科学ともとても相性がよいのだ。

そんなお抱え錬金術師の一人が、ギルドに出入りしているイーリス=イェーガーだった。彼女の本職はモンクなのだが、モンクとしての能力よりも錬金術師の腕の方が遙かに上であり、その上非常に臆病でカルマンの迷宮にはとても入れないので、今は忍者ギルドで働いているのである。

どういうわけか、このイーリスとファルはとても相性がよい。ギルド支給の研究所ではなく、街の方で小さな家に閉じこもって研究しているというイーリスは、数年来の友人である。ギルドを出ようとしたファルに、先輩忍者が背中から声をかけた。

「ファルーレスト、君に限らず、若い世代には頑張って貰いたい。 ゼル様のような方を、例外で終わらせてはならないのだ」

「分かっている。 微力を尽くすつもりだ」

忍者の未来について苦悩しているのは皆同じである。一見素っ気なく、だが実は心底から応えて、ファルはギルドを後にした。

 

朝のミーティングで昨日決めた事を反芻すると、ファルは最後に挙手した。昨日ロベルドの様子は皆に心配されていたが、ドワーフの青年は意外とけろりとした様子で、今朝は話を聞きながら斧を磨いていた。だがそれが虚勢なのは見え見えであったし、下手な事を言ってマイナスの刺激を与えても意味がないので、誰もそれには触れなかった。

「実は、依頼を一つ取ってきた。 忍者ギルドの仕事で、私の友人からの依頼だ」

「それは良かったわ。 手堅い仕事なの?」

「手堅い仕事だ。 今の私達の実力でも、充分大丈夫なはずだ。 最悪の場合は、私一人でも達成出来るだろう。 それに、期限も長い」

当然の事であるが、こういった仕事にはタイムリミットが設けてある事が非常に多い。ざっとファルが仕事内容に目を通した限りでは、この仕事はまだ一週間以上達成までの猶予がある。地下一層で充分実行出来る仕事であるし、充分に美味しい仕事だと言える。ただ、今回は少し依頼主が問題なので、事前にファルが釘を差した。

「ただ、依頼主が臆病で人見知りする奴でな。 依頼主の所には、私とエーリカ殿だけで向かいたい」

「はあ? なんだそりゃあ」

「幼い頃に酷い目にあったとかで、ずっと心の傷を抱えてきた奴なのだ。 そう言ってやるな」

他人のフォローを感情的に入れるファルを見て、エーリカが手を叩いてロベルドの追求を断ち切った。ファルにしてみれば、実に有り難い事であった。

「そう、ならば仕方がないわ。 ヴェーラさん、朝決めた場所を回って、適当な依頼がないか見てきて貰える? 危険と報酬が高いものよりも、安全で確実に達成出来るものからお願いね。 ただし、受けるかは三人で相談して決めてね」

「うむ。 偉大なる火神の名において、成し遂げよう」

「相も変わらず大げさな奴だな……」

「やはり簡単に成し遂げられるものがよいのう。 楽だしの」

後ろで角を生やして怒りのオーラを放出しているジルに気づかず、ぼそりとコンデが言う。冒険者として大成するのに一番遠い位置にいるのは、間違いなく最年長者のコンデであるようだった。

エーリカが簡単なものから、といったのは、信用問題を考慮しての事だ。駆け出しの冒険者であるエーリカのチームは、一から信用を築いて行かねばならないのである。だから、確実にこなせる依頼を少しずつ消化していこう、という方針を採っているのだ。本当の意味での冒険をするのは実力が付いてから、である。

ファルはそれをごく自然にくみ取り、エーリカの評価を自分の中でまた上げた。願わくば、この逞しい僧と共に大望を成し遂げたい、とも思ったのであった。

 

話が決まると、ファルはエーリカと共に北区に向かった。打ち合わせ通り、ヴェーラはロベルドとコンデと一緒に、東区とギルドを何カ所か見て回る事になった。

技術区で壮麗な建物が多い北区といっても、端の方はみすぼらしい建物や、貧しい民家が建ち並んでいる。その中で、ファルは手紙を見ながら、街の端の方へと向かっていた。エーリカはエーリカで、楽しそうに辺りを見回しながら、不意に話をファルに振った。

「ねえ、ファルーレストさん。 依頼主さんって、どんな方?」

「イーリスという、ギルド所属のモンクだ。 本職はモンクだが、錬金術師としてそれ以上に優れていて、其方でギルドの手助けをしている。 私とは数年来のつきあいになる」

「へえ、変わった事情の方なのね」

「もともと生来の性質は錬金術師だ。 錬金術の材料を探して一人でも迷宮の探索が出来るように、戦闘力と回復力を併せ持つモンクになったそうなのだが……ギルドのメンバーの話によると、腕は悪くないのだが、迷宮では魔物より人間を避けて歩き回っているそうだ。 それに臆病で、あまり難度の高い迷宮には絶対に入らないらしい。 カルマンの迷宮などもってのほかなのだそうだ」

モンクとは僧兵とも呼ばれる職業で、棍と呼ばれる棒をメインの武器に戦う前衛職である。僧兵と呼ばれるように、僧侶魔法にも習熟していて、冒険者の中ではエリートか経験を積んだベテランにしかなる事が出来ない職業でもある。更に加えて、不死者と呼ばれる異形の者達に対しては必殺とも言える破壊力を持つ存在でもあり、重宝されている。つまり、錬金術師であるにもかかわらず、モンクにもなれるイーリスは、実力的には冒険者の中でも充分に高い所にいるといえるのだ。にもかかわらず、心があまりにも弱いが故に、前線にはなかなか立てない。かなりもったいない存在であった。

ファルが足を止めた。周囲の家に比べると、少し大きくて、同じくらい素朴な家であった。一方後ろに控えたまま、エーリカは様子を見守る。

「ここだ。 イーリス、私だ。 ファルーレストだ。 一年ぶりだな」

「……」

ばたばたと足音がして、不意にそれが止んだ。ドアノブが周り、微速度でドアが開く。こわごわと中から顔を出したのは、妙齢の女性であった。髪は短く綺麗に切りそろえた、いわゆるおかっぱである。顔立ちはそれなりに整っているのだが、何に怯えているのか首を傾げたくなるほど、顔には不安と恐怖が浮かんでいた。彼女は視線をゆっくり動かし、ファルを見て満面の笑みを浮かべた。

「ファ……」

声は中断した。イーリスの視線がエーリカにぶつかった瞬間だった。ばたんと音をたて、イーリスがドアを閉じた。訪れる沈黙。しばしの時の後、ドアの向こうから、震えの混じった声がした。

「ファ、ファル! だ、だだだ、だ、だれ、そ、そ、その人」

「今回のチームリーダーだ。 僧侶のエーリカ殿と言う」

「か、か、かか、噛みつかない!?」

噛みつかない

大まじめに珍妙な問が投ぜられ、大まじめにファルは受け応えた。エーリカは初々しい笑顔を浮かべたまま、ファルの一歩後ろでずっと立ちつくしていた。さっきよりずっと長い沈黙の後、ドアがようやく開いた。まるでドラゴンか魔神でも見るかのような目で、イーリスはエーリカを見て、そしてファルに視線を戻した。

「あ、あの……入って」

「うむ、邪魔させてもらう。 エーリカ殿、入ってくれ」

「ええ。 お邪魔いたします」

この珍妙な受け答えを見て、全く動じない者も珍しい。色々な意味で、エーリカは肝が据わっていると言える。

エーリカは周囲を少し見回しながら、ファルに一歩遅れてイーリスの家に入った。テーブルクロスも、壁紙も、皆とてもセンスがいいデザインである。彼方此方においてある小物の類も、皆高級品ではないが、いずれもこじゃれて良く整理されている。イーリスの家の中は、結構素敵な調度品が列んでいる美しい空間なのだ。だが、奥の部屋から漂い来る異臭が、全てを台無しにしている。様々な薬を扱う錬金術師と異臭は切っても切り離せない関係で、イーリスもそれは例外ではなかった。

居間のテーブルに三人が腰掛ける。最初に口を開いたのはエーリカである。

「先に依頼には目を通させて頂いたのだけど、本当にこれでいいの?」

「あ……ええと……その……はい」

依頼内容は、さほど難しいものではない。カルマン迷宮の各階層で空気を指定された瓶に回収する事。小石でも壁の欠片でも、迷宮内部で手に入れたものを持ってくる事。更に出来れば、仕留めた魔物の一部を回収してくる事、である。手始めに第一層から仕事をし、期限は一週間。それ以降の階層については、指定品を入手でき次第持ってきて欲しいとの事であった。報酬は若干の金銭と、イーリスによる錬金術からのバックアップだった。イーリスはしばし黙っていたが、やがておずおずと小さな筒を取りだし、机の上に置いた。筒には呪文が書き込まれた札と、投擲用かと思われる紐がついている。

「報酬の前金……です」

「これは?」

「焙烙だな。 これは随分小型だが」

「試作品ですけど……殺傷力は……その……確認してあります……ので」

焙烙とは何?と視線で聞くエーリカに、ファルはしばし前金という焙烙をなで回した後、視線を向けるでもなく応える。

「東国での水上戦で使われる火器だ。 忍者の間でも、武器として愛用されている。 火矢につけて使用するものと、投げて使うものが一般的だ。 他にも色々種類があるが、これは投げて使用するものだな。 大型のものは全身で振り回して投擲するのだが、これは腕の力だけで大丈夫そうだ。 札を剥がしてから何秒か後に炸裂する。 火力はそうだな、この大きさなら熟練者のクレタくらいだ」

「へえ、面白いものがあるのね。 結構高いの?」

「そう高価な物ではないが、現在の技術では量産が利かないから、この辺りでは忍者以外には出回らないな」

「……ふうん」

エーリカは話を聞き終えると、一人考え始めた。所在なさげにしているイーリスに、再び声がかけられたのは、しばし後の事であった。

「イーリスさん」

「は、はい!」

「大丈夫よ、愚僧は貴方を怒鳴りもぶちもしないから。 もし良かったら、どうしてそんな簡単な依頼に、貴重な新製品を報酬に出すのか、教えてくれないかしら? 此方としても、ただより高いものはないって考えないと、生活していけないの」

「……。 その……ファルは……怒るかも……しれないけど……。 陛下の行動が腑に落ちないんです」

実に申し訳なさそうに、時々ファルを見ながら、イーリスは言った。

「虎の子の……その……騎士団を……投入……しないばかりか、軍の投入も……中途半端……なんです。 冒険者や、躍起になってるベルグラーノ騎士団長ばかりに任せて……勇敢な事で知られる陛下が……病床とは言え……陣頭指揮を執ろうともしません」

「へえ……」

「それに……あの……ギルドからの情報なんですけど……」

イーリスはもう一度ファルの方をちらりと見やると、静かに言った。ファルとしては、確かにオルトルード王に恩義を感じているが、別にその行動に対する批評に腹を立てるようなことはない。無体な批判には腹も立つが、別にこの位なら何でもない。ファルは狂信者ではないのだ。ただ、もう少しイーリスには、自分を信じて欲しいとも思った。

「とある大物の犯罪者が……迷宮に投入された可能性があります。 多分数日後には……冒険者ギルドにも……情報が流れると思います。 オルトルード王が……犯罪者を使ってまで……何かしようとしているんです」

「……!」

「この迷宮には、魔女がいる以上に……何かあります。 忍者ギルドのためにも、それを調査したいんです」

しばしエーリカは、ファルとイーリスを見比べた。そして五秒ほど考えた後、笑顔で頷いたのだった。

「分かったわ。 迷宮を攻略するか、私達が全滅するまで、この依頼は受けさせて頂くわね」

 

宿でチームが合流した頃には、大分陽が高くまで登っていて、影がかなり短くなっていた。ヴェーラ達の方はこれといった収穫が無く、まずはイーリスの依頼を丁寧にこなしていく事がその後のミーティングで特に反対もなく決定された。

カルマンの迷宮に入るのはこれで二度目になる。心配されたロベルドは少なくとも平静を装っていて、軽い素振りを見た限り、ファルには上出来に見えた。エーリカは若干上機嫌にも見えて、少し足取りが軽かった。

迷宮の入り口は、今日もきちんと騎士団と兵士達が固めている。入り口の近くにコボルドの死体が幾らか積んであって、下っ端らしい若い兵士が余所へと運び出していた。多くの人間種同様、コボルドも血は赤い。舌をだらしなく垂らした亡骸が、不満を呟く兵士達によって搬送されてゆく。

「なんじゃろうの」

「おおかた、入り口にいる騎士団に喧嘩でも売ったんだろ? 知った事じゃねえよ」

「しっ。 そろそろ迷宮よ。 みんな、気を引き締めて」

不意に足を止めたエーリカが、存外に厳しい口調で言ったので、皆心持ちを改めなおした。迷宮は相変わらず、暗くて冷たい口を、五人の前に開いていた。

 

3,吊橋の死闘

 

長い通路だった。奥には小さな扉が一つ。周囲に生き物の気配はなく、戦いの跡も見あたらない。鍵穴はさび付いていたが、ファルは幾つかの道具を駆使して、何とかこじ開けようとしていた。扉の方をエーリカとヴェーラが、後方をロベルドとコンデが警戒する中、ファルは時々頭に手をやりながら、鍵穴に立ち向かっていた。普通の腕前の盗賊であれば、さほど苦もなく開けられる程度の鍵なのだが、ファルには結構な手間がかかる相手だった。情報収集能力同様、こういった仕事も、ファルは少し苦手としていたのである。

結構な時間が経ち、何とか鍵穴がかちりと音を立てた。かろうじてあいた、という感じである。なかなか上達しない自分の鍵開け技術に苛立ちながら、ファルは率先して戸を開ける。隊形を組み直し、緊張して部屋に踏みいる。しばしの沈黙の後、コンデが小さく嘆息した。

「……よかった。 誰もおらぬの」

「油断は禁物よ。 部屋の中をくまなく調べて、全てはその後だわ」

率先してエーリカが部屋の探索に取りかかる。程なく安全が確認され、ファルは地図を取りだして、マッピングを開始した。何にしても、これでまた地図が埋まった事となる。幾つかある通路のうち、また一つが処理出来た。

周囲の壁を探るファルの横で、エーリカがイーリスに渡された瓶のコルク蓋に手をかけた。しばし四苦八苦した後、小さくため息をついてロベルドに渡す。

「ロベルド、開けてくれる? これ硬いわ」

「あん? 本当だ、マジでかてえな」

流石にドワーフである。青年はしばし額に血管を浮かべて奮闘した後、瓶の蓋を開ける事に成功した。同時にきゅっと音がして、瓶に空気が吸い込まれた。エーリカは戦士に礼を言って瓶を受け取り直し、蓋を閉める。彼女はそのまま腰をかがめて、その辺に転がっている小石を、鼻歌交じりで二個、三個と拾って袋に入れていった。この袋も、イーリスに渡されたものである。

ファルはそれらを横目で見ながら、壁の調査を終えた。隠し扉や仕掛けの類はない。少なくとも、ファルには発見出来なかった。部屋の片隅には、腐った箪笥が転がっていたが、引き出しは一つも残っていない。さもありなん、流石に地下一層では、探り尽くされていて当然だ。

まだ今日は、一度も魔物の類には遭遇していない。しかし一方で、昨日よりも三倍ほども深く潜っている。此処で強敵にぶつかると、あまり面白くない事態になるのは明白だ。エーリカはファルが作った地図をもう一度みやると、皆の顔を見回した。

「これからだけど、戻る? もう少し進んでみる?」

「私はまだ先に進みたいな。 敵と一度も戦わずに鼠のように戻るのは、誇り高きアズマエルの子の名を汚す事となるゆえにな」

「小生は、そうじゃのう。 少し慎重にいきたいのう」

「俺はどっちでもいいぜ。 つーか、時間がかかるのは目に見えてやがるからな。 じたばたしても仕方がねえだろ」

「私はどちらでも良い」

意見が出そろうと、エーリカは地図を近くの壁に広げ、未探索地域の一つを指さした。

「そう。 なら、此処を軽く探索したら、今日は戻りましょう」

「何で其処なんだよ?」

「それはね。 地図を見る限り、この辺りが、もっとも奥に通じる通路がある可能性が高いからよ。 奥に深く通じてそうな通路が見付かれば、明日からの探索がまた楽しみになるでしょう?」

ファルは少し驚いて、エーリカの方を見た。成る程、それは全く考えもしない事だったからである。何というか、エーリカの強さの奥にあるものが何か、少しだけファルは分かった気がした。非常に広い懐が、心に存在しているのだ。それに基づく余裕こそが、このシスターの初々しさと、力強さの根元になっているのやもしれない。命のやりとりをしている場所で、これほどの余裕を持つ事が出来る心が如何に懐深いか、言うまでもない事である。彼女はどんな理由であっても、結局リーダーに収まる器なのかも知れなかった。

一回通った通路を戻り、何回か曲がり角を経由して、目的の地点に向かう。そして、その途中、ファルは目を細めて足を止めた。

「どうしたの?」

「戦闘が行われている。 かなり大規模だ」

「! ……急ぐわよ! 状況次第では加勢するから、みんな気を引き締めて!」

 

そこでは、人間と魔物の間で、激しい戦いが行われていた。そして戦闘の情況は、極めて人間側に不利なものだった。交戦を行っているのは、二十人ほどの人間、騎士と兵士達の混成部隊と、それを倍ほど上回る数の魔物であった。騎士の戦闘力から言って、普段なら問題なく戦えるであろう情況なのだが、いかんせん地理が悪すぎる。

戦場には、深い亀裂が走っており、その中央には細い吊橋がある。細いのだが、入り口近くにある吊橋とは長さが桁違いである。人間側はその橋を渡ろうとした半ばで、前後から敵に挟まれたらしい。兵法には、敵軍が川を渡る際にはその半ばをもって討てとある。それを偶然か故意にか分からないが、魔物達は完璧に実行した事となる。エーリカ側の端の出口は、十体ほどの魔物に押さえられていて、必死に剣を振るう騎士もなかなか突破出来ない。後衛は二十体ほどの魔物が、必死に何かの荷駄を守る人間に半包囲態勢から猛攻を加えていて、見る間に人間側に死傷者が増えていた。更に悪い事に、空中にはハーピィと呼ばれる大きな鳥の魔物が十体ほども旋回し、橋の上で苦闘している人間にヒットアンドアウェイで攻撃を仕掛け続けていた。人間側は引くも進むもならず、正に絶望的な情況であった。

地上にいる魔物は、コボルドが多数。他に、オークと呼ばれる豚に似た姿の亜人も加わっている。そして少数いるオーガが、彼らの指揮を執っていた。彼らはそれぞれ粗末な武具を装備し、結構見事な連携を見せて戦っている。 何人かいる騎士は流石に勇敢に戦っているが、あまりに悪すぎる地理的条件に、刻一刻敗北へ近づいていた。

「このままでは全滅するな」

「加勢するわよ! まずは橋の出口を押さえている敵を叩く!」

フレイルの先端を向け、エーリカはそのまま戦闘態勢を取る皆に、苛烈な指示を飛ばした。

「ファルーレストさんは、向かってくる敵を! ロベルドとヴェーラさんは、逃げ腰の敵を主に狙って! とどめを刺す事は考えなくて良いわ! 無力化するか、或いは崖の下に蹴り落として!」

「お、おう!」

「任せろ」

凄まじい指示に、流石にロベルドも少し引きながら言う。ファルは的確な指示に満足し、刀の鯉口を切った。エーリカは一歩二歩進みながら、更に言った。

「コンデさんは、敵の集まってる所にクレタを! 当てる事は考えなくて良いわ! 相手を乱すのが目的よ! 崖下に落とせれば言う事無いわ! まずは騎士団と合流する事が先よ!」

「わ、分かった!」

「行くわよ! GO!」

頷くと、五人は戦いの場にかけだした。先陣を切ったのはヴェーラであった。そのままハルバードを振りかぶり、コボルドの後頭部に、斜め殴りに叩き付けたのである。自分が死んだのさえ気づかないまま、コボルドは頭を砕かれ、脳漿をまき散らしながら数歩進み、崖の下に落ちていった。更にファルがその後に続き、無言でオークの背中を蹴る。オークは手足をじたばたさせながら、崖下の闇へと消えていった。崖は恐ろしく深く、肉が潰れる音さえ響かない。奇襲は見事に成功した。振り返り、慌てて武器を構えるコボルドの脳天に、ロベルドが斧を振り下ろす。挟み撃ちされる事になった魔物達は慌て、右往左往しているうちに、どんどん数を減らしていった。増援に気づいた兵士達も、士気を盛り返す。

慌てつつも、コボルドが槍を揃え、増援であるファル達に突っかかってきた。更に、彼らの指揮を執っているオーガが、忌々しげに巨大な剣を抜いた。さっとファルがサイドステップし、彼らの密集した足下に、コンデが少しタイミングをずらしつつも、クレタの火球を叩き込んだ。爆圧が魔物達の体勢を崩す。一匹がまた、崖下へと足を滑らせて落ちていった。

人間側の戦況も良くない。ハーピーの爪が喉を抉り、吊り橋から一人落ちた。ロベルドとヴェーラはそれぞれ結構熟練したコボルドと刃を交えており、ファルは二体のオークを同時に相手にして余裕がない。コンデは詠唱を続けており、全員手が空いていない。その隙に、吠え声と共に態勢を起こしたオーガが、その巨大な剣を振りかぶり、ヴェーラの頭を砕かんとした。気づいたヴェーラは下がろうとするが、ここぞとばかりに槍を繰り出したコボルドに脇腹を傷つけられ、槍を脇に挟み込んで舌打ちした。

「ちいっ!」

オーガは勝利を確信して、顔を喜びに歪めた。ヴェーラはコボルドと押し合いへし合いしていて、身動き出来ないからだ。正に必殺の好機である。しかし次の瞬間、巨大な亜人は驚きに目を見張った。

「はあっ!」

前線に躍り出、跳躍したエーリカが、オーガの顔面にフレイルを叩き付けたのである。エーリカはそれほど怪力ではないが、それでも元々フレイルは力がないものが有効打を浴びせられるように作られた武具である。首の骨を折るには至らなかったが、鼻を砕かれたオーガは、血をまき散らしながら二歩、三歩と後ずさる。そして、後ろから突進した騎士の剣が一閃し、その膝の裏を砕いた。絶叫し、崖に何度か激突して嫌な音を立てながら、オーガは落ちていった。肩で息をつくエーリカ。最前衛の騎士に続いて、数人の兵士が、這うようにして橋を渡り終える。

「おおおおおおおおおぉおっ、せあああああっ!」

ヴェーラが脇に挟んだコボルドの槍を、力任せにへし折った。そして、逃げ腰になるコボルドの背中に槍の残骸を投げつける。串刺しになったコボルドは、血泡を吹きながら数歩進み、バランスを崩して崖下に転落した。殆ど同時に、ファルは相手にしている一体に背を向けて体を旋回させ、前面の一体に中段の回し蹴りを見舞い、崖から蹴り落とした。吠え、背中へ向け突き出される槍。脇腹を切りさかれるも、地面を横に転がり致命傷を避けると、掌を土につけ、体を旋回させて背後の敵の足下をすくう。横倒しになる敵より先に起きると、容赦なくのど元へ刃を突き立てた。直後、ロベルドが相手にしていた一体を、槍ごと斧で両断していた。彼は槍の柄で肩を、石突きで腹を強打されていたが、まだ立っているだけの余裕があった。それにより、崖のこちら側にいた敵は殲滅された。わき腹を軽く割かれたファルは、額の汗を拭って立ち上がる。噎せ返るような血の臭いが周囲に充満していた。後方に安全圏が確保され、騎士がエーリカに言う。

「助かった、礼を言う!」

「まだよ! 次はハーピー達だわ! 愚僧達は橋の右を担当するから、左をお願い!」

「わ、分かった!」

エーリカの言葉に為す統べなく頷き、女騎士は弓を背中から引き抜いた。橋を渡り終えた兵士達もそれに従う。崖の手前まで来ると、エーリカは印を切りながら言った。

「ロベルド、ヴェーラさん! ハーピーの攻撃を警戒して! ファルーレストさん! 当てるこつは何かある!?」

「攻撃を仕掛ける瞬間だ。 飛んでいる間はまず当たらないが、その瞬間は動きが直線的に、なおかつ隙だらけになる」

「分かったわ! コンデさんは、敵が密集している所へ叩き込んで! 当てる事は考えなくて良いわ!」

「お、おう。 分かったぞ。 しかし、恐ろしいのう」

橋の上では、まだ兵士達がハーピーを相手に苦戦している。橋の両側からヒットアンドアウェイを繰り返すハーピーには、狭い橋の上では有効な対抗策がないのだ。ハーピーはめざとく逃げ腰のものや怪我をしたものを集中攻撃し、一秒ごとに人間側の被害を増やしていた。また一人、まだ若い女兵士が、かぎ爪で傷付けられ、小さく悲鳴を上げて橋の上にへたり込む。一羽のハーピーが、それを狙って横から襲いかかる。そして翼をファルの手裏剣に打ち抜かれ、錐もみ回転しながら落ちていった。続けて彼女を狙った一匹を、エーリカの放った魔法が撃ち抜こうとしたが、これは間一髪で回避された。だがハーピーは、新手の攻撃に、ファル達の方に警戒を向けざるを得ない。

「いまだーっ! 負傷者から先に渡せー!」

指示は女騎士の発したものだ。状況を見て取った兵士達が、次々に橋を渡る。負傷者に肩を貸し、一人、また一人と生還に成功する。させじとするハーピーを、ファルの手裏剣が、一発ごとに精度を増すエーリカのバレッツが牽制し、或いは叩き落とす。女騎士の射撃精度はそれ以上で、また一体、ハーピーが矢に射られて落ちていった。

魔力自体はそうでもないのだが、エーリカの成長はめざましい。一撃ごとに精度もタイミングも向上し、チャンスを確実に狙っていく。天賦の才という奴だ。だが故に、敵の注意も引く。

一体が空高く舞い上がり、射撃を続けるエーリカを狙って急降下突撃をかけてきた。エーリカのバレッツは、惜しい所で外れた。ファルは別の一体に手裏剣を投げた直後で、慌ててロベルドとヴェーラが構える。その時、動き得たのはコンデだった。

「ちかよらせんぞっ!」

杖を構えたコンデが、クレタの火球を鳥の怪物に向けて放った。火球の軌跡は鳥から外れたが、至近で炸裂した。爆圧で翼をへし折られたハーピーは、悲鳴をあげながら落下し、しかし鋭いかぎ爪でヴェーラの肩をえぐっていった。当てなくていいと言ったのはこういう事だ。翼という空を飛ぶための芸術品は非常に脆い。直撃しなくても、極めてこういった不意の圧力には弱いのである。

何にしても、敵も然る者。肩を押さえて呻くヴェーラに、エーリカが戦況を素早く確認しながら言う。

「大丈夫!?」

「大丈夫だ! この程度で、偉大なる火神の騎士は屈しない! 大アシナガバチに刺された方がまだ痛いほどだっ!」

「無理は禁物よ! ああっ! しまった!」

 エーリカが叫んだその視線の先には、傷が深い兵士がいた。橋の途中でへたり込んでしまっていて、動けない。押さえている腹からは、鮮血が止め止め無くながれ続けていた。自己防御に気を取られるあまり、味方の危地に気づかなかったのだ。

ファルが焙烙の札を剥がす。そして紐を掴んで、手元で振り回して回転させる。ハーピー三体が、隊形を空中で組んで、格好の獲物に躍りかかる。その速度を予測し、彼らの中間点へと投げ込む。笛を吹くような音と共に、不格好な筒である、焙烙が飛んだ。そして、ハーピー達の側で炸裂した。

「ギャアアアアッ!」

二匹のハーピーが、炎に包まれ、爆圧で翼を折られ、無惨な悲鳴と共に落ちていった。一匹は遠かったために致命傷を避け、空中で態勢を立て直し、忌々しげにファルを睨む。そのハーピーは利あらずと見たのであろう、彼方へと飛び去っていった。残りのハーピーも逃げ腰になる。しかし、橋の向こう側ではまだ戦況は好転していない。荷駄を守りながら戦っているのが、マイナスの大きな要素となっているのだ。

橋の真ん中で倒れ込んでいた兵士を、後から追いついた別の兵士が、抱きかかえるようにして此方に運んできた。

「いまだ! 荷駄を渡せえええっ!」

橋の向こうで指揮を執っているらしい騎士が叫ぶ。遠目にも相当な傷を負っているのに、大した気迫である。がらがらと音を立てて、荷駄が橋を渡ってくる。一台目、二台目。共に無事に渡り終えた。未練たらしくそれを襲おうとするハーピーは、ファルの手裏剣によって容赦なく叩き落とされた。橋を渡り終えた荷駄は、ファル達の後方へと退避する。しかし、三台目は、最後の一台は無理だった。猛り狂ったオーガが振り回した斧が、護衛の兵士ごと車輪の一つを砕いたからである。荷駄の車自体も大きな損傷を受け、中身がぼろぼろと地面に転がった。何か光るものがそれには混じっていた。

橋を渡って救援に行く事は出来ない。狭い橋を無理に渡って向こうへ行けば、撤退を阻害するからである。諦めた顔つきで、向こうの指揮を執る騎士が、一人ずつ味方を撤退させていく。そして自身は最後まで残り、橋の上で仁王立ちになって、群がる敵を寄せ付けなかった。だが、それにも限界がある。敵の指揮を執っていたオーガを切り伏せた直後。勇敢な騎士は、数本の槍に殆ど同時に貫かれた。だが、橋の入り口に片膝を突き、剣で体を支えながら、敵を睨み付け倒れない。正に修羅、正に鬼神。明らかに動揺した魔物達は、しばしの逡巡の後、きいきいとわめきながら、迷宮の奥へと引き上げていった。

 

兵士達は壊滅状態だった。殆ど無事なものはおらず、隊長らしき女騎士でさえ、頭から血を流している。ずっと橋で頑張っていた騎士は、素晴らしい生命力で何とか生きていたが、それでも虫の息だった。当然意識などはない。地面で呻いている兵士達は、治療が追いつかない情況だ。死者も、部隊の三分の一に達していた。辺りには、人魔問わず死体が累々としていた。

何とか無事だった者達が護衛する中、怪我人を担いだり背負ったりして、兵士達は入り口へと退避していく。彼らを指揮しながら、女騎士がエーリカに最敬礼した。騎士はエーリカの素性を自ら書き留めると、申し訳なさげに言った。

「改めて礼を言わせて貰う。 君達が来なければ、確実に我々は全滅していた」

「いいえ。 困った時はお互い様です」

「いずれにしても、この礼は報酬の形で支払わせて貰う。 後で、ギルドに受け取りに来て欲しい」

騎士は俯くと、橋の向こうで散らばっている、荷駄の最後の一台を見た。

「それと……出来ればアレを回収してきてくれないか? 見てのとおり、我々にはもう余力がない。 入り口に戻るだけでも精一杯の有様でな。 本来は機密の品だが、今はもう、回収する余力もないのだ。 中身は見なかった事にして欲しい。 受け取りは、入り口の守備隊に打診しておく」

「……了解しました。 善処しましょう」

「すまない。 迷惑ばかりをかけてしまったな」

苦笑したエーリカにもう一度敬礼すると、女騎士は自ら負傷した女兵士に肩を貸して、戦場を後にしていった。女兵士は、先ほど橋の上でへたり込み、ファルの手裏剣で助かった者だった。彼女は傷だらけの顔で小さく頷いて、謝意を示して歩き去っていった。ぼそりと、肩を押さえてつらそうにしているロベルドが言う。

「こっちだって、余裕なんかねーよ」

「私は少し余裕がある。 橋の此方にいてくれ。 何回かに分けて回収してくる」

「大丈夫?」

「危険があったら逃げ帰る」

事務的に言うと、ファルはエーリカから予備の荷物袋を受け取り、死闘の中心になった吊り橋を渡り始めた。下には深く果てしない闇が広がっている。血の臭いは、当分この辺から消えはしないであろう。時々ハーピーに警戒しながら、ファルは何とか橋を渡り終えた。其処もまた血肉の展示場とかしており、だらしなく舌を垂らして目を剥いたコボルドの亡骸や、無念の表情を顔に貼り付けた騎士の死体が、折り重なるようにして散らばっていた。死体を回収するにしても、葬るにしても、それはまた後だ。

荷駄は激しく損傷していた。だが、積載量は案外少なかった。積載物の殆どは緩衝材の麦わらである。今は、荷駄の上に寄りかかっている、先ほどオーガの一撃で殺された兵士の血で朱に染まっていた。荷車は半ば壊れていたが、車輪を外してしまえば、時間は掛かるが引っ張って行けそうだった。いや、これなら予備の袋に詰めても一回で持ち帰れる。何にしても、壊れた車軸は尖っていて危ないので、どける必要がある。時々周囲に警戒しながら、ファルは刀も使って、無事だった方の車輪も半ば壊して外した。兵士の亡骸を避けると、改めてファルは中身を見た。

中に詰まっていたのは、無数の識別用ブレスレットだった。新しい血ばかりではなく、古い血が付いているものも多い。迷宮の奥からこれを運び出してきたという事は。間違いなく、命を落とした冒険者達のものだ。無造作に、赤い石が埋め込まれたそれを袋に放り込んでいったファルは、頭痛を覚えた。

「痛い」

刺すような痛みが、徐々に、だが確実に強くなっていった。一端手を休めると、周囲を警戒し直し、再びブレスレットに触れた。その瞬間、頭痛は耐え難いものとなった。頭を押さえたファルに、遠くから鐘のような音が響いてくる。冷や汗が頬を流れ落ち、小さく息を吐いたファルは、地面に手を突いていた。ブレスレットは、吸い付いたように手から離れなかった。

「ファルーレストさん!」

遠くから、エーリカの声が響き来る。それに応える力もなく、ファルは地面に倒れ込んでいた。

 

4,アレイド

 

妙な夢だった。ただ、単一の行為だけが繰り返されているのだ。夢の中で、ファルは案山子を相手に、素振りを繰り返していた。それほどの腕前でもなく、何度か繰り出した剣は、案山子の真芯を捕らえる事もなく、空を斬っていた。手にした得物は、幅広の刃を持つ長剣だ。ファルには適していない武器で、あまり扱いには習熟していない。このタイプの剣で素振りをした事も数えるほどしかない。なのに、何故こんな夢を見ているのか。ファルは小首を傾げたが、動作は止まらなかった。

やがてファルは、やり方を変えた。小さく息を吸い込むと、特徴的な呼吸法に、徐々に切り替えていったのだ。それを始めると、不意に周囲の音がクリアになった。だが、鋭敏になるのは聴覚だけだった。

再び、ファルは素振りを始めた。二回。三回。四回。

そして、結果も再現された。案山子に当たる剣はなく、がっかりして、ファルは呟く。自分ではない声で。

「完成させてやる。 この呼吸法が完成すれば、きっと俺は強くなる」

夢はそこで、ぶつんと音を立ててとぎれ、消え去った。

 

「ファルーレストさん! ファルーレストさん!」

自分を揺り動かす存在と、その声に気づいたファルは、うっすら目を開けた。動揺しきったエーリカが、そこにはいた。ヴェーラも、脇の傷を押さえたまま、側に心配そうな顔をして立ちつくしていた。

「糸が切れた人形のように倒れたから、心配したぞ」

「大丈夫? 何があったの!?」

「……夢を、見た」

「ゆめ?」

まだ痛い頭を押さえながら、ファルは上半身を起こした。右手で、まだブレスレットを掴んでいた。しばし無言のまま、ファルは夢の内容を反芻する。嫌にクリアで、そして心に残る夢だった。夢の副作用か、体へのダメージは大きい。まだ満足に動かない体の、彼方此方が痺れていた。

あの呼吸法は、確かに有用だと、ファルは思った。しかも技術論で反芻出来る。しかし、今の光景は一体何なのか、どうしても理解出来なかった。

「このブレスレット、何かあるな」

「えっ?」

「詳しい話は後にする」

「それが賢明ね。 早く荷物を詰め込んで、出口に向かうわよ」

すぐにファルの言葉の意図をくみ取ってくれたエーリカは、てきぱきとブレスレットを袋に詰め込んでいった。実際問題、こんな血の臭いがする場所に長期間留まったら、新手の魔物に袋だたきにされかねないのだ。エーリカは途中、何度か頭に手をやって不思議そうな顔をしたが、倒れるほどではなかった。立ち上がろうとしたファルは、腰が落ちてしまっていて、為せなかった。困ったファルは、眼前にさしのべられた手を見た。

「肩を貸そう」

「……」

「何、気にするな。 汝の雌獅子が如き武勇には世話になっているからな」

「すまないな」

何故かその言葉は、自然と出ていた。力強く頷くと、ヴェーラはファルを引き上げ肩を貸し、荷物を背負い上げたエーリカに振り向いた。

「それで全部か?」

「ええ。 緩衝材の中にも、取り残しはないわ」

「了解。 早く帰って渋く苦い黒麦芽酒を一杯やりたい所だ」

「おーい! 無事かー!」

「大丈夫じゃろうのー!?」

橋の向こうで、ロベルドとコンデが手を振っている。ヴェーラが笑顔で手を振り返すのを見て、ファルもしばしためらった後、小さく手を振り返した。何か、妙な感情が芽生えるのを、ファルは感じた。

 

宿に戻った頃には、夜になっていた。入り口にいた騎士は、何も言わずに荷物を受け取り、敬礼してファル達を送ってくれた。宿にたどり着いた頃には、激しい戦いを経た後に安全な場所へ出た故、皆疲れ切ってしまっていた。最小限のミーティングだけすると、エーリカは自室に引っ込んでしまい、ロベルドは手を何度か開閉した後、小さく頷いてそれに習った。ヴェーラは一応ファルに回復魔法をかけて貰ってはいたが、肩の傷が痛むようで、時々眉をひそめていた。コンデは若干余裕があり、ファルとヴェーラと相席すると、笑顔で側に立っているエイミに、遠慮無く注文した。

「小生は、そうじゃな。 赤葡萄酒をたのもうかの」

「はい。 あまり高級なのはありませんけど、良く冷やしてありますわ」

「ほほう、それはいいのう。 何、小生も此処だけの話、あまり高級品は飲んだ事がないでの。 安酒でもぜんぜん大丈夫じゃぞ」

「コンデ様?」

「あ、その、あのじゃな。 や、やはり高級品を飲みたい所じゃが、安いのしかないなら仕方がないの。 それを頼むぞ」

いつの間にか頬を膨らませて後ろに立っていたジルの言葉を聞いて、慌てて言い直すコンデに、ヴェーラは遠慮無く笑った。

「私はこれから風呂でも入って、今日の戦いの汚れを落として後寝る。 ファルーレスト殿、汝はどうする?」

「私か? そうだな。 少し飲んでからにする」

「あまり遅くはならないように……と。 これは幾ら何でも大丈夫だな」

苦笑すると、ヴェーラは肩を時々押さえながら、引き上げていった。ファルは頬杖をついて考えていたが、やがて葡萄酒を持ってきたエイミを引き留め、黒麦芽酒を注文した。その横顔を見ながら、早速一杯やっているコンデが言う。

「それにしてもファルーレスト殿。 一体今日は、何があったのじゃ?」

「夢を見た。 奇妙な夢だった」

「奇妙、というと?」

「……そうだな。 誰かの一番大事な技が、誕生する瞬間をのぞき見たような感じだ」

黙り込むコンデ。ファルは少し考えこみ、次の言葉を吐こうとしたが、満面の笑みでエイミが戻ってきた。

「はい、おねえさま。 お持ちしましたわ」

「すまないな」

大ジョッキにつがれた黒麦芽酒を受け取ると、ファルは豪快に煽った。笑顔のまま横に控えているエイミに、ファルは他人には絶対見せない優しい笑顔を見せて応える。

「美味いな。 注ぎ方のこつは誰に聞いた?」

「うふふ、秘密ですわ。 それよりも、体は大丈夫ですか?」

「問題ない。 無理はしないから心配するな」

再びジョッキを煽るファルを見て、安心したようにエイミは離れていった。口に付いた泡を手の甲で拭うと、ファルは視線をコンデに戻した。

「不思議な事はまだある。 あんなに必死になって、何であんな荷物を運んでいたか、という事だ」

「ううむ、そうじゃの……」

「イーリスの言葉も気になる。 一体カルマンの迷宮には、何があるのだ?」

「何というか小生らは、とんでもない迷宮と事件に首をつっこんでしまったような気がするのう……。 お、おう。 すまんな、ジル」

ジルに葡萄酒をついで貰いながら、コンデは暗い顔になった。しばしその後は無言が続いた。先に麦芽酒を飲み干したファルが、席を離れようとしたが、コンデがグラスを片手に制止した。

「のう、ファルーレスト殿」

「何か?」

「その……小生は、その、胆力が弱い。 だが、出来る限り頑張る。 じゃから、その……見捨てないで欲しい」

「それは大丈夫だ。 昨日、今日と確実に胆力を上げてきている。 きっと最終的には、誰もが憧れる大魔導師になれるはずだ。 ユグルタのウェズベル導師のような、な」

「お、恐れ多いの」

ウェズベルといえば、誰もが認める世界最高の魔術師。冒険者研究者問わず魔術師の最終目標にして憧れである。唯一アウローラと魔力で対抗出来る存在とも言われており、魔法国家として知られるユグルタの魔導学院最高権威で、冒険者ギルドの管理者の一人としても名を連ねている。コンデなどと比べたら、文字通りの雲上人だ。

困惑するコンデを残して、ファルはさっと風呂に入り、汚れを落として自室に戻った。布団は良く干してあって、陽の臭いを吸い込んでいた。目を閉じると、程良く回ったアルコールと疲労もあって、すぐにファルは夢の中に落ちていった。

 

夢の中で、ファルはまた素振りをしていた。今度は忍者刀で、的確に案山子にヒットする。ある程度傷付けた案山子を、気合いと共に回し蹴りを放ってへし折る。額に薄く浮かんだ汗が、程良い涼しさを産んで、心地よかった。

「流石に上手いな」

「師匠」

「今度は連携してみるか」

師匠と一緒に歩いてきたのは、ファルと同期の若い忍者だった。戦闘能力はファルよりずっと劣るのだが、探索能力や情報収集能力はずっと高い。総合的な評価はファルとほぼ同じである。無表情なファルに比べて、ずっと感情豊かで、特に笑顔は素敵だった。

新しい案山子が出された。腰を落とすファルの横で、若い忍者も刀を抜いて構える。連係攻撃は決まると非常に効果が高いのだが、息を合わせるのがとても難しい。しばし間合いを計っていたファルが仕掛け、若い忍者もそれに習う。案山子を鋭く抉ったファルの刀に対し、若い忍者のそれは、傾いた案山子の脇を素通りしてしまった。

「ひゃ、ひゃあっ!」

バランスを崩し、前のめりに情けない悲鳴と共に転ぶ若い忍者。師匠は腰に手を当てて残念そうに頭を振り、言う。

「そうじゃない。 ファルーレストは速すぎる。 ライムは遅すぎる。 ならば、ファルーレスト、お前がタイミングを調整するんだ」

「難しい」

「そうです。 とても難しいです」

「呼吸を合わせろ。 それが出来れば大丈夫だ。 相当に息があったベテランでも、完璧な連携はなかなかできないのだがな……」

ファルとライムは顔を見合わせると、用意した別の案山子の前で構えを取り直した。実戦では相手が動き回るわけだし、難度はこの比ではない。呼吸。呼吸を合わせる。言葉を頭の中で反芻する。世界がぐるぐると回り始める。

 

鳥の鳴き声がした。部屋に差し込んできた光が、ファルの眠気を急速に発散させていった。夢の内容は、大まかに覚えていた。随分昔の話である。冒険者を始めた後に師匠にあって、何人かと一緒に修行した時の夢だ。まだあの時は借金がだいぶ残っていて、冒険して稼いでも、孤児院に送金するのと自身の装備を調えるので、家計は火の車だった。師匠には随分世話になった。そういえばライムも此方に来ているはずで、機会あれば会いたいものだった。

さっさと準備を整えて、ギルドに向かう。大した情報はなく、イーリスの依頼が順調だと言う事だけ告げて、ファルは宿に戻った。騎士団が約束してくれた報酬とやらは、後でエーリカと共に受け取ればいい。宿の側にある空き地で、ファルは刀を抜く。朝、素振りをするには、丁度いい場所だった。

例の呼吸法を思い出し、実践してみる。確かに、聴覚がさえ渡るようだった。体にこれと言った負担もない。風を斬ってみる。いつも同様に、忍者刀は空を裂いた。そしていつも以上に、風が切れる感触を実感出来た。

「……」

呼吸が感じ取れる。無言のまま、近くの棒を拾い上げ、地面に突き立てる。小さく欠伸をしながら、ヴェーラがこっちに歩み寄ってきた。

「おはよう、ファルーレスト殿。 朝からたゆまぬ鍛錬とは、結構な事だな。 武人の鑑とも言える」

「おはよう、ヴェーラ卿。 少し試してみたい事がある」

「うん?」

「まず、この呼吸法だ」

多少不安げなヴェーラに、ファルはじっくり例の呼吸法を教えていった。ヴェーラは結構飲み込みが良く、五分ほどで取り合えず覚える事が出来た。後、ハルバードを持ってきて貰い、先ほど突き立てた棒の左右にて構えてみる。

研がれた聴覚の中で、ヴェーラの呼吸が感じ取れた。ファルは目を一端閉じ、集中を高め、そして見開く。徐々に、戦意が上がっていく。

『分かる。 これが、呼吸を合わせると言う事か』

「これは……面白いな。 まるで、呼吸が重なるようだ」

「ゆくぞ!」

鋭く踏み込んだ二人が、左右から棒に一撃を叩き込んだ。僅かにタイミングはずれたが、棒は両側からの一撃をもろに食らい、粉々に砕けて吹っ飛んだ。かなり太い棒だというのに、まるで朽ち木を砕くかのような感触だった。壊れたという事実が、圧倒的な一体感を伴って、手に伝わってきたのである。しかも、武具への負担も、驚くほど少ない。

しばしの沈黙。地面に転がった哀れな木は、バラバラだった。ヴェーラが感嘆の声を上げるが、ファルもそれと同じくらい驚いていた。

「素晴らしいな! さながら灰色熊の渾身の一撃だ」

「これは、使えるかも知れない」

「知れないではなく、確実に使えるぞ! 私はロベルドのねぼすけを今よりたたき起こしてくる。 完璧にものにすれば、あの魔女アウローラとて敵ではない! 三年着込んだ服のように、ボロボロに切り裂いてくれるわ!」

興奮して宿に駆け戻っていくヴェーラを見送ると、ファルは新しい棒を捜して、広場を彷徨き始めた。確かに新しく、そして素晴らしい力を手に入れた。それを実感してもいたが、完璧に使いこなしたわけでもないと思ったからである。まずは修練である。

ほどなく、ヴェーラはロベルドだけではなく、エーリカもコンデも連れて戻ってきた。ファルの説明を受けると、ロベルドにもすぐに連係攻撃が出来るようになった。その様子を見ていたエーリカは、小さく頷いた。

「これは大きな武器になるわ。 実戦で使えるように、サインを出したらすぐに繰り出せるようにしておきましょう」

「そうだな。 技の名前はどうする?」

「ダブルスラッシュ。 単純だけど、それが一番良いわ。 それに、この技も含めて、今後も特殊な連携技能を身につけたら、愚僧達の間でアレイドと呼びましょう」

満足げに頷く皆を見て、しかしエーリカは釘も差す。

「でも、これは強力だけど絶対ではないわ。 実戦で少しずつ確かめながら、実力と相談して迷宮の攻略に役立てましょう。 ……それと、実は愚僧も、昨日少し変な夢を見たの」

「ほう、それはどんな夢じゃな?」

「うん。 詠唱に関するものだったのだけど、上手くいくと、愚僧の魔力を他人に注ぎ込めるかも知れない。 もう技術論で理解しているから、皆にも教えられるわ」

コンデは不思議そうに小首を傾げた。エーリカは皆を見回すと、声を落とす。

「……それと。 この技の事、それにブレスレットの事は秘密よ。 騎士団が、迷宮の奥から、後生大事にブレスレットを回収したわけが分かる気がするわ」

「そうだな。 我らの安全のためにも、黙っていた方が利口だろう」

エーリカの言葉を補助すると、ファルは王城を見やった。尊敬する王がいる、この国の中心を。

『オルトルード王。 一体貴方は、何を考えておられるのだ?』

心の中で発した言葉など、当然誰にも届くわけがない。しばしの沈黙の後、ファルはエーリカと皆と共に宿へ向かい、今日の探索プランを練り始めた。

 

5,騎士団長の決意

 

カルマンの迷宮に一歩を踏み入れ、騎士団長ベルグラーノは、この地の危険性を実感していた。この迷宮は確かに危険すぎる。多くの部下が、毎日死んでいるのも無理がない話であった。まるで、最も激しい戦いが行われている戦場のただ中である。世界屈指の実力を持つ騎士である彼は、それを鋭敏に悟っていた。

手にはめた識別ブレスレットを撫でながら、ベルグラーノは護衛の者達に振り返る。彼も当然、このブレスレットが如何なる代物かは熟知している。迷宮に来る前に、忌々しいゼルから聞かされたのである。

「まずは、現在の情況を報告せよ」

「はっ! 地下一層から三層までの陣は、確保を確認しております。 問題は四層と五層の陣で、四層は兎も角五層は魔物の攻撃が激しく、維持に四苦八苦しております。 また、各階層を行き来する際にも、魔物の襲撃は激しく、特に補給部隊は毎度大きな被害を出しております。 昨日も補給隊が帰還の際、魔物の部隊に襲われまして、冒険者の支援がなければ全滅しておりました」

「なるほど。 今では前線を維持するのがやっと、と言うわけだな」

「恐れながら……」

申し訳なさそうに頭を垂れる部下を、良いと言ってねぎらうと、騎士団長はしばし考えを巡らせた。これは、予想以上に大変な場所である。個人の武勇で言えば、大陸で五指に入るというシムゾンが倒れたのも、頷ける話であった。騎士団の全軍を投入出来ない以上、短期の攻略は無理だ。そうベルグラーノは決断した。

「まずは足固めをする。 各層の陣へ赴く。 それぞれ不安要素を排除していき、今後攻勢に出る際の基礎を築く」

「はっ!」

『これ以上、部下を無駄に死なせてなるものか』

心中にて呟くと、ベルグラーノは迷宮での第一歩を踏み出す。その瞳には、決意が宿っていた。

 

                               (続)