緋色の花が咲く土地へ

 

プロローグ、氷雨

 

田舎だろうが、都会だろうが、雨は関係なく降る。無論、この誰も来ない辺境の町でも同じである。静かに、冷たく、そして全てを洗い流していく雨。その中、顔に痣を作り、疲れ切った表情で、何処とも知れぬ店の石壁により掛かり、蹌踉めきながら泥に汚れた娘が立ち上がった。一応この小さな町の大通りであり、傘をさして通りすぎる者はいるが、誰も一顧だにしない。娘は美人、まず美人だと言って良い顔立ちだ。彼女は雨に降られながら辺りを見回し、かすれる視界の中、通り行く人々に手を伸ばした。

「誰か……助けてくれ……頼む……」

生涯で始めての懇願は、あえなく無視された。或いは嘲笑し、或いは無視し、通り過ぎていく人々。唇を噛むと、娘は俯いた。やはり無駄であったかと、表情が告げていた。人に頼るなどと言う事が如何に無駄な事か、彼女は改めて知ったのである。生涯始めての、何より切実な願いを、冷たく無視されたのだから無理もない事であった。

しかし、一人で妹を助けるには、彼女には絶対的な力が不足していた。自らの能力も、社会的な力、即ち金銭も、である。

『私は無能だ』

自分に対する容赦ない言葉が、娘の胸の内で響き渡った。雨の中、疲弊しきった体を引きずって、まだ若い娘は歩き始める。気を失っている暇など無かった。家では、唯一の肉親である妹が、病に伏せって待っているのだ。心優しい妹は、絶対に心配している。だからせめて、絶対に妹の元にはたどり着かねばならない。熱は下がったのか、食欲は戻ったのか、つらくはないのか、少しは楽になったのか。大事な妹の事ばかりが、心に浮かんでいた。

行かねばならない。行かねばならないのだ。何度も倒れ、泥の中に突っこみながらも、娘は驚異的な精神力で立ち上がり、歩き続けた。だがそれは、夜空の星に至ろうとして羽ばたくが如く、無駄な行為であった。

『何故、動かない! 何故、進めない! 私は帰る! 帰るんだ!』

自らを罵りながら、娘は這いずるようにして行く。綺麗な顔が泥にまみれようと、まるで意に介さずに。心も体も痛々しく傷ついた彼女は、何度目かの転倒の後、空を見上げた。どんよりと曇った空から、大粒の氷雨が降り注いでいた。

『私は……無力だ』

生涯始めての涙が、雨に混じって、頬を流れ落ちていた。膝から泥だらけの地面に崩れ伏し、娘は泣いた。雨はあざ笑うように、疲弊した体を更に痛めつけるように、容赦なくその体へと降り続いていた。

 

1,姉妹の再会

 

ベノア大陸最大の国家であるドゥーハン。その王都に、六人乗りの乗合馬車が向かっていた。牧歌的なそれは、今ではありふれた光景であった。

以前は護衛をつけなければ危なくて乗れなかった馬車だが、今ではドゥーハン王国の紋章を掲げているだけで、盗賊は近寄ってこない。英雄の元統率された軍は士気が高く、また官吏達も真面目に仕事をしており、盗賊が社会につけ込む隙自体が減っているのだ。強力な魔物を警戒しなければ行けない一部地域を除いて、馬車は極めて安全で便利な乗り物になりつつある。即ち、一部の例外を除いて安全なのだ。しかし、その一部の例外こそが、この馬車であった。

六人乗りの馬車には、定員通り六人が乗っていた。そのうち五人が恐怖にすくみ上がり、怯えきっていた。怪物の襲撃を受けているわけではない。同席者が、あまりにも恐すぎたのである。

その一人とは、妙齢の娘であった。見るからに旅慣れている様子で、落ち着いており、馬車が揺れようと跳ねようと眉一つ動かさない。呼吸すらしていないのではないかと疑わせるほど静かで、馬車に乗ってから一言も喋ってはいない。何が恐いのかというと、終始物凄く不機嫌そうな顔をしていることである。しかも切れ長の目から放たれる眼光は異常に鋭く、同時に全身から凄まじい威圧感を放っているのだ。その上、誰もが認めるほどの美人なので、余計に怖さが増幅されている。美人がマイナスの方向へ作用する例を、力一杯体現している存在であった。

娘は質素で実用的な衣服に身を包み、少し変わった形状の、細身の剣を帯びていた。黒く繊細な髪は長いが、不用意に飾り立てることなく、首の後ろで実用的に縛っていた。その格好からして、自らの腕を頼みに、荒事から古代文明の遺跡探索まで様々な仕事を渡り歩く、いわゆる〈冒険者〉である事は間違いない。現在、王都に向かう冒険者は多い。珍しい光景ではなかった。現に、彼女の左右にも冒険者と分かる屈強な男達が座っている。それにしても、である。この娘が発する威圧感は少し尋常ではない。焦げ茶の瞳からは常に零下の視線が、前方にのみそそがれ続けていた。

隣に座っている屈強な男達も心底から怯えきっていたが、一番不幸だったのは向かいに座っている親子連れで、特に女の子は母親にしがみついて、蒼白になってふるえていた。母親も母親で、子供をしかと抱きしめ、一言も発しようとはしない。まさしく、針のむしろというのが相応しい情況である。

馬車が大きく揺れ、その拍子に親子がよろけた。そして母の手の内から子がこぼれ、不幸な事に目つきの悪い娘に倒れかかった。女の子は小さく悲鳴を上げ、一瞬後に事態に気づき、しかも刺すような視線で見つめてくる冒険者の娘の顔を真下から見上げてしまった。意味不明の災厄に見舞われてしまった女の子は、唇を蒼白にし、震えながら言った。

「ご、ごめ、ご、ごめんな、さい」

しばしの沈黙。生唾を飲み込む女の子。トラウマになるほどの鋭い視線。やがて、言葉のみが発せられた。落ち着いたアルトで、発音は流麗であった。

「問題ない。 以後は気をつけるようにな」

怒鳴りつけられるかと周囲の誰もが思ったが、意外に冷静な言葉が返ってきた。冒険者の娘の膝に寄りかかってしまった女の子は震えながらこくこくと頷き、母親の隣に戻った。しばし伺うように女の子は冒険者の方を見ていたが、それっきり当の本人は腕組みして目を閉じ、ドゥーハンにつくまで一言も発しなかった。無愛想な事この上ない。

「ついたよー! 此処が麗しの王都だ!」

御者が声を張り上げ、客達は大急ぎで馬車を降りた。一年前の事件以来多少不安定になっているとはいえ、流通している物資といい、豊富な仕事といい、高い金を払って馬車に乗ってくるだけの価値がある土地。ドゥーハン王国の首都。国名と同じ名を持つ、世界で最も発達した都市の一つ。最後に馬車を降りた冒険者の娘が、壮麗な町並みを見て目を細めていた。

王都は四区画に別れている。それ自体が幾つかの区画に別れている住宅区が西にあり、南には世界最大の規模を持つ市場が広がっている。北区は技術区で、ハリスの法王庁にも迫る規模の天主教寺院、錬金術ギルドの世界総本部、魔術師ギルド総本山を始めとする、様々な魔法技術の壮麗な建物が、美を見せつけるように建ち並ぶ。それに負けじと金属加工業、窯業、紡績業などの、ドワーフが作り上げた豪快無比な、様々な物質技術の建物が雄々しい姿を見せびらかすかのように建ち並んでいる。東区は兵士達や、それに冒険者が集まる場所だ。現在、東区こそが、ドゥーハンに流入する人が最も多い場所である。各区画は大動脈といって良い巨大な街路によって結ばれ、水路が縦横に走り、下水が整備されている。旧ドゥーハン王国の王都を大幅に改修した結果、これだけの規模の都が建設され、現出する事となったのである。まだ主要都市と王都をつなぐ街道までは整備されていないが、それも作る計画がある。しかし今は、中途で止まってしまっている状態だ。馬車が止まったのは、各区画からみて少し東寄りにある、メインストリートの一角であった。

彼女を見て怯えていた親子も機嫌を戻し、はしゃいで辺りを見回している。馬車が彼らを置いて走り出し、皆がめいめいばらばらの方向へ歩き出そうとした時、それは来た。

フラフラと歩き来る男の髪はぼさぼさに乱れ、口の端からは涎が伝っていた。大柄なその男の目には、統一された光がない。歩調も危なっかしく、口からは何やら言葉が漏れ続けていた。

「ひひ、ひ、ひひひ、ひ、ひ」

男が笑う。恐怖にすくんで身動き出来ない少女と母親に向けて、男が笑う。冒険者の男達はもうどこかへ行ってしまっていて、近くには先ほどの恐い女冒険者しかいない。辺りには、運悪く兵士達の姿もなかった。

「な、なんですか、あ、あなたはっ!」

「みんな、死ぬ。 みんな、喰われる。 あいつらは、迷宮の、中から、ずっと見てるんだ。 ひ、ひひひ。 みんな、喰われちまった。 ひ、ひひ、ひ、ひひ」

気丈に母親が叫んだが、男にはまるで意味を為さなかった。可哀想に、気が触れてしまっているのだ。壊れた男が笑いながら、固まっている親子の側を通り過ぎていく。そして、不意に振り向き、その瞳が焦点を結んだ。その中心には、よりにもよって不幸な少女の姿があった。

「全部、全部、全部! 全部! 死ぬ! 今に、あいつらは、外に出てくる! そうしたら、喰われる! みんな! みんなみんなみんなみんなみんなみんな! しぬんだああああああああ!」

「い、いやあああああああああっ!」

「どうして分からない! どうしてわからないんだあああああああ! わかってくれええええええええっ!」

涎をまき散らしながら、男が歯をむき出して、少女に掴みかかる。次の瞬間、女冒険者が動いていた。疾風のように男へと間を詰め、無防備な脇腹に、通り抜けざまに肘撃ちを叩き込んだのである。男は少女から手を離し、うめき声を上げながら振り向く。女冒険者は間髪入れずにその顔面に上段蹴りをたたき込み、数歩飛びずさって挑発した。腰を落とし、低い態勢からいつでも動けるように構えるその姿は、まるで猫科の猛獣だ。

「来い」

「う、うがああああああああああっ!」

男が女冒険者に飛びかかった。顔面に蹴りを食らったというのに殆どダメージを受けている形跡はなく、しかも存外に鋭い動きである。さながら、戦い方を知っているかのような。頭一つ分小さい相手に、男は拳を振りかぶり、容赦なく叩き付ける。下がった相手に、低い態勢から獣のように飛びかかる。娘が猫科の猛獣なら、男は熊だ。粗暴なようで、実は正しい戦い方である。体格差がある以上、掴んでしまえば勝ったも同然だからだ。

冒険者の娘の姿が消えた。いや、違う。跳躍し、男の突進をかわしたのだ。そのまま彼女は空中で男の後頭部を蹴りつけ、一回転して、蹌踉めく敵の後方へ着地した。更に低い態勢から、振り向きざまに足を引っかけ、男を前のめりに倒す。地面に這った男の背に素早く昇り、そして右手を後ろ手に捻り挙げる。この情況になってしまうと、もう力が五倍あろうと十倍あろうと勝ち目はない。男はうなり声を上げたがもうどうにも出来ず、いつの間にか辺りに出来ていたギャラリーから歓声が飛んだ。

まだ恐怖に震えて泣いている娘を抱きしめ頭を撫でながら、母親が頭を下げた。

「有り難うございます。 失礼な事をしたのに、助けて頂いて」

「いや、礼には及ばない。 だいいち、この男が正気だったら、私などではとても勝てはしなかっただろう」

素っ気ない口調で言うと、冒険者の娘は、此方に駆けてくる医療僧侶の姿を見やった。必要な事だけが、娘の行動にはあった。無駄な事は一切しない。喋らない。むっつりと黙り込む娘の元へ、まだ若い医療僧が頭を下げた。

「申し訳有りません。 ご迷惑をおかけしました」

「気にするな。 それに、謝罪するのは私の方だ。 怪我はさせていないと思うが、此方も少し手荒に扱った」

「……本当にすみません」

慣れた様子で、医療僧は冒険者の娘に頭を下げ、男をあやしながら連れて行った。頑健な体を持つ男は、別に痛がる風もなく、僧に連れられて歩いていった。不吉な言葉を残しながら。

「俺は死にたくない、死にたくない、恐い、いやだ、まだ俺は喰われたくない。 彼奴は来る。 絶対に来る。 きっと今も、俺を見てる、見てるんだ……」

「可哀想にな。 大陸最強の傭兵様があの有様だもんな。 おっそろしいぜ」

哀れみを含んだ聴衆の声を聞きながら、いつの間にか冒険者の娘はその場を後にしていた。彼女は大通りを歩きながら、一人心中にて呟いていた。

『さっきの子供、なかなか可愛かった。 膝に乗せて、頭を撫でてみたかったな』

思い切り子供を怖がらせておきながら、そんな事を大まじめに考える。この娘の名は、ファルーレスト=グレイウインド。親しい者は彼女をファルと呼ぶが、そんな人間は五指に満たない。まだベノア大陸でも珍しい、〈忍者〉と呼ばれる職業についている娘である。六年間も冒険者をしているベテランで、腕は充分。ただし、色々と欠陥の多い人間でもあった。

彼女は懐から手紙を取り出すと、今一度目的地の番地を確認し、特に急ぐでもなく、東区の大通りを歩いていった。

 

東区には、現在この国の悩みの種である、〈カルマンの迷宮〉を攻略し、莫大な報酬を受け取らんとする冒険者が溢れ、彼らを目当ての商売が好景気にわいていた。西区や北区が王の不調により若干精彩を欠くのとは、好対照といえる。まずは宿。幾ら彼方此方を回る冒険者だって、人の子であり、草ばかりを寝床にしたくはないのである。次に武器防具を扱う数々の店。力量にあわせて、ただの無骨な鉄塊から、魔法がかかった名剣まで揃えた店々は、それぞれに売上を競っている。そして皮肉な事に、一番繁盛しているのが、怪我人を治療する寺院であった。

ベノア大陸六大国家の一つであるハリス。宗教国家であるその首都、いわゆる〈教皇庁〉に本部を置く〈天主教〉。その組織は医療を施し、民を救う事を本業とする〈医療僧団〉と、布教活動を行い、その副業で孤児院や修道院も管理する〈教布僧団〉に、大まかに別れている。此処で言う寺院とは医療僧団が務める寺院であり、有料で冒険者に優れた回復の魔術を用いる彼らは、此処暫く儲かって仕方がない。東区に三カ所ある寺院はいつも怪我人が運び込まれ、慟哭がこだまし、金が積み重ねられていた。

ファルはそれらの店に見向きもせず、時々地図を見ながら道を歩き続けた。時々通り過ぎる人間には関心を示さない。やがて一つ裏通りに入り、目当ての店を見つけた。

小さな宿であった。二度ほど紙と看板へ視線を往復させ、目当ての宿に間違いない事を確認すると、ファルは戸板を開けて中に入った。同時に、けたたましい声が聞こえ来た。そして、懐かしい声も。

「コンデ様! コンデ様っ! 何処に行かれたのですかっ!?」

「まあまあ、ジルさま。 落ち着いてくださいませ」

「これが落ち着いていられますかっ! これでは、奥様にコンデ様を託された私の立場がありません! 毎日毎日どこかへ逃げ回って! 帰ってきたと思えば部屋に閉じこもってっ! 何のために此処まで来たのか、これではわかりませんっ!」

「きっとコンデさまにも、何かお考えがあるのでしょう。 ですから、待ってあげましょう」

けたたましい声を発しているのは、まだ若いメイドであった。年は見たところ十代半ばだが、随分しっかりした印象を受ける。そして彼女をあやしているのは、現在若くしてこの宿を任されている娘である。年は同じく十代半ば、繊細なプラチナブロンドが美しい娘だ。六年経ってもすぐに分かる、ファルーレストの大事な人だった。相変わらずゆっくり喋り、何処か無防備な笑顔は多少の不安感を煽る。だが芯は強く、故に今まで離れる事になった人。

「エイミ!」

昔のように呼ぶ。はたと、彼女の動きが止まった。ゆっくりこわごわ振り向いた妹に、ファルは、普段は絶対に見せない優しい笑みを浮かべた。この笑顔を見せていれば、子供に怖がられる事は絶対なかったのだが。

「来たぞ」

「お……おねえさまあっ!」

顔をくしゃくしゃにした、ファルの妹、エイミート=グレイウインド。飛びついてきた妹を抱き留めると、ファルは安心した表情となって、静かに言った。

「六年ぶりだな。 元気なようで、何よりだ」

「おねえさまも、おねえさまも……」

泣きじゃくる妹の頭を撫でながら、ファルは心中にて呟いていた。

『六年か……長かったな……』

 

エイミートは頑健な姉に比べて小柄で華奢で、耳が尖っている。尖った耳は、人間種族で再多数派であるヒューマンの特徴ではなく、エルフ族のものだ。ファルーレストは何処からどう見てもヒューマンなのに、である。だが、間違いなく彼女はファルーレストの実の妹である。

同じ血を分けた姉妹なのに、彼女だけがいわゆる先祖帰りに産まれてしまった。二人の遙か先祖に、エルフ族と交わった人間がいて、その証拠がこんな形で現れたのだ。人間よりも体が若干脆弱である事や、人間の中に明らかに異質な存在が混じる事は、やはり不幸だった。

ベノア大陸には、七種類の〈人類種族〉が存在している。一番数が多いヒューマンは、現実主義者で排他的な特徴を備え、何より好戦的である。能力的には特に秀でた点はない。ファルーレストはこのヒューマンである。続いて数が多いのはドワーフ族である。彼らは地下での生活を好む傾向があり、兎に角手先が器用で体が頑健である。その代わり、背が少しヒューマンより標準的に低めで、くわえて魔術師としての素養は若干低い。同じく地下種族として、ノーム族を忘れてはならない。彼らは少しドワーフより数が少ないが、人間とほぼ同等の肉体能力を持ち、また魔術的な素養に関しては若干上回っている。そのかわりドワーフほど器用ではないし、また多少頑固な事で知られてもいる存在である。彼らに続いて数が多いのがホビット族である。体は脆弱で小柄だが、すばしっこい事とやたらに強運な事で知られる種族であり、他種族の間を縫うようにして生活している。彼らは生活環境が故に、ある意味ヒューマン以上に現実主義者であり、商売を興して成功している者も少なくない。エルフ族は、あまり数は多くないが、森の民として他の種族からは敬意を払われている。絶大な魔力とホビット以上に脆弱な体、美しい容姿と尖った耳が特徴の種族である。特に特徴的なのは、森を生活圏として活用していることだ。ずっと昔からヒューマンとは対立が絶えない種族だったのだが、オルトルードによる融和政策が功を奏して、今では王都で普通に見かける事が出来る。王都の側にある巨大な森が丸ごと残っているのも、そこがエルフ族の住む里だからであり、オルトルードはわざわざ法で制定してその地を守っているのだ。ただ、やはり対立は種族間で根強く残っている。それを払拭するには、まだまだ時間が必要である。最後に、フェアリー族。生来的に蝶のような翼を持つ小柄な一族で、エルフ族以上の魔力と、更に脆弱な体を持つ一族である。大人になってもヒューマンの子供ほどにしか成長しない彼らは、希少種族であり、ベノア大陸では殆ど見かける事がない。ただ、余所の大陸では普通に生活している所もあるという話であり、それはあくまでベノア大陸の事情に過ぎない。七種族のうち、エルフ族とヒューマン族、エルフ族とフェアリー族は混血可能である事が証明されている。だが、混血児はあまり良く思われず、特にヒューマン族からは迫害されるのが現状だ。この他にも何種か人間に近い知能や文化を持つ種族はいるが、いずれも数が非常に少なかったり或いはあまりにも排他的なため、〈主な種族〉にはカウントされていない。

以上のような事情が、ベノア大陸の人類種族にはある。元々ヒューマンは独善的かつ排他的な種族である。考えてみれば、その中にエルフ族の血が強く出てしまったエイミートがいればどうなるか、自明の理であった。半分ヒューマンの者でさえ、激しく迫害されるのである。ましてやエルフにしか見えない者がいればどうなるかなど、火を見るよりも明らかである。両親も早くになくし、貧しい生活をしていた二人は、つらい幼少期を過ごした。だが逆に、それが故に深い絆によって結ばれていたとも言えた。ファルはずっとエイミを守り、エイミはファルを支え続けてきた。一時期離れる事にはなったが、その間もずっと互いの事を心配しあっていた。そして今、二人の道はまた重なる事となったのである。

何にしても、今はまだ業務中である。それに、さっきからエイミートと話していたジルという少女が、所在なさげにしている。

「ずっといてくださるのでしょう、おねえさま」

「もちろんだ。 だが、積もる話は後にしよう。 宿泊の手続きを頼む」

「はい、おねえさま。 うれしいですわ」

相変わらずおっとりした調子でエイミがそう言うのを聞いて、昔通りである事を確認し、ファルは安心していた。しかし、気を抜くわけには行かない。まだ目的は残っているからである。

そう、ファルがこの街に来た最大の目的は、妹と会う事であったが、次の目的はカルマンの迷宮の攻略であった。それは命がけになる事が間違いない難事業であり、生半可な覚悟では挑めないことであった。

手慣れた様子で手続きを済ませると、ファルは荷物を持って、部屋に向かった。宿の二階にある部屋は、あまり広くはないが、兎に角丁寧に手入れされている。エイミの細かい気配りが伺われる部屋で、布団は陽の光をたっぷり吸い込んで暖かかった。姉バカであるという点を差し引いても、今までファルが泊まった事のあるどの宿よりも快適であった。

夕食まではまだ時間がある。時間があるうちに休んでおくのは、冒険者の鉄則である。静かに目を閉じると、ファルはもう眠り始めていた。眠りに落ちるまで、十秒とはかかっていなかった。

人生の目的の一つはこれで果たされた。今ひとつに、これから全力で挑む事になる。そのためには、休める時には常に休んでおく心がけが、必要不可欠であった。

 

2,カルマンの迷宮

 

昔、エイミの作る料理といえば、犬も喰わないような代物であった。満面の笑顔で妹が差し出す料理を食べて、ファルは何度倒れた事か分からない。人一倍頑丈だったのに、である。その度に大泣きする妹を、どう慰めたのか、いちいちファルは詳細に覚えていた。が、六年間でエイミの料理の腕は改善されていた。今、彼女が作った料理は充分に美味しい。少なくとも、ファルは存分に満足した。

わざわざ業務時間後に、ファルは食堂で、三人とテーブルを囲んで夕食にしていた。無論一人はエイミであり、もう一人は先ほどのジルである。そしてもう一人は、居心地悪そうに、エイミの隣に座っていた。最初、ファルはエイミと二人っきりで食事をするつもりだったのだが、エイミがわざわざ彼女らを連れてきたのである。もう、エイミはファルがカルマンの迷宮に行くつもりである事を、悟っている可能性が高かった。エイミが隣にいるから、普通にファルの機嫌はよい。というよりも、可愛い子供がいる場合と、不愉快な相手がいる場合を除けば、ファルは〈不機嫌モード〉には突入しない。普段は無愛想で仏頂面なだけである。それでも、全身から醸し出す雰囲気が充分恐いのだが。

ジルの隣に座っているのは、魔術師が愛用する、〈ローブ〉と呼ばれる衣服に身を包んだ、初老の男性である。長い髭を蓄え、育ちが良い事が一挙一動から伝わってくる。反面、戦い自体を殆どしたことがないことは、ファルには一目瞭然だった。また、目には自信が無く、しょぼしょぼと時々辺りを見回していた。

一通り料理を食べ終えた後、エイミは相変わらずおっとりした様子で、ファルの事をジルと男に紹介した。

「ジルさま、コンデさま。 此方が私のおねえさまのファルーレスト=グレイウインドです。 冒険者をしています。 職業は、えと、ええと……」

「忍者だ」

「はい、それです。 ええと、ニンジャ。 良くしてあげてくださいね」

「よ、よろしくお願いします」

ジルが頭を下げ、それに吊られてコンデ老も頭を下げた。忍者という職業は、いまだ知名度が低く、一般には殆ど知られてはいない。続いて、彼らが自己紹介をする。

「ジル=ファントです。 イリキア家のメイドをしております」

「コンデ=イリキアじゃ。 魔術師をしておる。 その、冒険者になったばかりで右も左も分からぬのじゃが、よろしく頼む」

『この年で冒険者とはな。 また、随分勇気のある行動だ』

そう冷静に、ファルは心の中で呟いていた。一般に魔術師といえば髭を蓄えた老人、丁度眼前のコンデのような、というイメージがあるが、それは必ずしも正しいとは言えない。冒険者として一線級で戦っている者にはむしろ若い魔術師が多いのだ。ただ、魔術師という職業は、年齢を重ねて技を練ればそれだけ強くもなれる。此処が前線で戦ういわゆる〈戦士系〉と呼ばれる職業の者達と異なる点で、魔術師の強みでもあった。

ファルは聞いた事があった。イリキアというと、百五十年ほど前に半ば自滅する形で滅んだ国である。その関係者かと推測したが、それはずばり当たっていた。少なくとも、当人達の言はそう主張していた。

「コンデ様は、由緒正しきイリキア王家の血を引く魔術師です。 しかし、今は没落が激しくて、再び家名をあげるために、ドゥーハンへ来ました」

「こ、これ、ジル」

「コンデ様!」

ジルに睨まれて、コンデは小さくなった。咳払いをして、ジルは続ける。これはメイドというよりも、しっかりした孫娘だ。料金ばかり高い大手ではなく、この宿を選んでいる所といい、恐らく主人よりも家計を扱う術は心得ている。

「恥ずかしい事なのですが、コンデ様に色々教えて頂きたいのです。 そしてもしよろしければ、家名復興のお手伝いをして頂ければ……」

「冒険者について色々教えるのは吝かではない。 ただ、一緒に冒険をするとなると、いささか問題が異なる」

「と、いいますと?」

「私は参謀にも指揮官にも向いていない。 コンデ老も参謀は兎も角、リーダーには向いていないな。 多分、チームを組むとなると、私以外のリーダーが絶対に必要になってくるだろう。 そのリーダーが、コンデ老をチームに必要とするかは別の問題になる。 無論、私もそれに関しては同じだ」

そこまで言った後、ファルは再び黙り込んだ。不要な事は一切喋らないと言う雰囲気だ。まず第一に、短期間にジルを此処まで信頼させたエイミの腕前恐るべし、である。彼女はスラムでこそ周囲から迫害されていたが、孤児院に行ってからは似たような境遇の子供達とたちまち仲良くなり、上手くいっている様子が院長の手紙からも伝わってきていた。さりげなく他人の顔色を読むのも、感情を読むのも上手いし、何より邪気がないのが大きい。それが故ジルは、家の恥を伝えてまでコンデを頼みたくなるほど、エイミを信頼したのだ。姉であるファルは、その推測に、絶対的な確信を持っていた。

「分かりました。 それに関しては、後にまたお願いいたします」

「いいリーダーが見付かれば問題はないのだがな」

食後の茶を飲み干すと、ファルは再び沈黙に戻った。無口というのではない。必要な言葉以外を、口から出したくはないのだ。エイミと話している時以外は。それに、何処からカルマンの迷宮について、それに冒険者について話したものか、悩んでいたのである。

「そうじゃな、まずは、冒険者の心得とかを小生に教えてくれぬかな」

「了解した。 冒険者というのは、本来己の腕を頼りに各地を渡り歩き、非戦闘員の護衛から遺跡の探索、傭兵業まで、なんでも行う仕事だ。 一種の根無し草で、一般的に思われているほど格好いいものではない。 労働災害に遭う確率も高い」

ファルは説明を続けた。冒険者という括りは、更に幾つかの〈職業〉に分類される。その職業は、大まかに二つに分かれる。一つは前線に立って盾にも剣にもなる、〈戦士系職業〉或いは〈前衛職〉である。これは全部で五種類。戦士、侍、騎士。更に少し特殊な前衛職として、モンクと忍者がある。一方、後方支援を得意とする職業は六種類。魔術師、僧侶、司教、盗賊が一般的である。此方にも特殊な職業があり、それは錬金術師とサイオニックである。異国にはこの他にもヴァルキリーとよばれる女性戦士を始めとした色々な職業があるが、ベノア大陸では一般的ではないので、此処では説明を割愛する。

以上を説明し、コンデがメモをし終えるのを見届けると、ファルは次の話に移った。各職業の詳細については、今後詳しく説明していけばよい事だからだ。

「次に、カルマンの迷宮についてだ。 コンデ老は、どのくらい把握している?」

「そうじゃのう、魔女が住んでいて、その首に膨大な賞金がかかっている、という事くらいかのう」

「了解した。 では、もう少し詳しく話そう」

別に情報不足をなじるでもなく、淡々とファルは言った。これは単純に他人に興味がないからである。もしコンデを本当に心配していれば怒る所なのだが、そこまでファルは他人の事を考えていないのだ。単にエイミに引き合わされ、頼まれたから世話をしているに過ぎない。冷酷なようだが、もっとずっと冷酷な仕打ちを受け続けてきたファルにしてみれば、むしろ優しいほどだ。

ファルは淡々と、長い説明を始めた。

 

ベノア大陸の勢力状況が安定し、戦争が減り、いわゆる平和が訪れてよりおよそ二十年。

大陸最強の国家であるドゥーハンは、旧時代の腐敗した権力層が、民衆の絶大な支持を受ける英雄王オルトルードによって一掃された結果、政治が清潔さを取り戻し、末端に至るまで風通しが良くなっていた。各国との交流も積極的に進められ、経済は発展し、戦乱は過去の遺産になりつつあった。ドゥーハン王都は三十万に達する人口を更に増やしつつあり、毎朝の市場に列ばぬ品物など無く、文化も栄えに栄えた。オルトルードは人種思想出身に関わりなく有能な人材を集め、強大なカリスマと指導力で彼らをまとめ上げ、国は盤石の礎を確保し、一秒ごとにその強度を増していった。千年王国の誕生に、今自分は立ち会っている。一年前までは、誰もがそう思っていた。そう、あの〈魔女〉アウローラが現れ、オルトルードを病に落とし、その愛娘を死に追いやる前までは。

一年前の事件は、公式発表の他にも、様々な怪情報が飛び交っている。怪情報はさておくとして、一般に知られている事の顛末は、大体以下のようなものである。

一年前、ドゥーハン王都はお祭り騒ぎであった。繊細な美貌を持つ事で知られる王女オリアーナと、誰もが認める有能な若き宰相ウェブスター公爵の婚約発表が行われ、民の誰もがそれを祝福していたのだ。王城ではそれを祝うパーティが開かれ、貴族が集まり、宴が開かれていた。民衆にも振舞酒が配られ、心優しい王女を皆が祝福していた。

その式典に、不意に物質化した暗雲が降臨したのである。

魔女アウローラ。数百年以上も前から、世界に混沌をまき散らし続けているという存在。エルフ族の狂魔術師だとか、人外の秘法を成功させた錬金術師だとか、様々な噂を持つ超魔導師。彼女によって滅ぼされた国は十指にあまるとも言われ、身に纏う魔力は魔神達をもしのぎ、その美貌は神をも虜にするという。その彼女が何の前触れもなく、雷の如き音とともに式典会場の真ん中に現れたのである。青ざめるオルトルード。思わず愛する婚約者にすがりつくオリアーナ王女。噂通り度が外れた美貌を持つアウローラは、黒曜の魔女と呼ばれる原因である艶やかな髪を揺らし、整いすぎた顔に蠱惑的な笑みを浮かべた。そして後ずさる貴族達を嘲笑し、オルトルードに恭しく例をすると、美しい唇から言葉の爆弾を投げかけた。

「お久しぶりです、陛下」

「……」

「ふふ、白々しい。 命の恩人に、随分な態度ですわね」

困惑してひそひそ声で話し合う貴族達。オルトルードは、英雄に相応しい威厳を持って、魔女に応えた。

「何用だ、黒曜の魔女よ」

「英雄が聞いて呆れるわね。 もう分かっているのでしょう?」

王の前で、魔女は歌うように言った。

「ドゥーハン王国を、所望いたしますわ」

「断る!」

王がそう言い捨てると、魔女は笑って消えた。逃げたのではない。それが宣戦布告だと、誰の目にも明らかだった。そして伝承通り、彼女の呪いは強力無比であった。

まず最初に犠牲となったのは、王女オリアーナであった。繊細ながらも健康であった彼女は、僅か一月後に謎の病死を遂げたのである。それを誰もが、魔女の呪いだと噂した。それだけではない。王都の東に、謎の巨大迷宮が口を開けたのだ。その中には無数の怪物、恐るべき事に神の敵たる一族、魔神の姿もあった。迷宮の中でアウローラを見たという報告が多発し、勇躍して乗り込んだ者もいたが、誰一人帰って来はしなかった。しかも、悲劇は王も襲った。オルトルードはそれから程なく倒れ、立ち上がる事さえ出来なくなってしまったのだ。

人々は魔女の呪いを怖れた。だが一方で、オルトルードが魔女にかけた賞金を目当てに、いわゆる冒険者が多数王都に集まり始めてもいた。そして一年。数々の高名な冒険者の命を貪欲に飲み干しながら、今だ、アウローラの作り出した迷宮、通称(カルマンの迷宮)は、厳然と存在し続けていた。

 

別に感情を交えるでもなく話を終えたファルは、茶を飲み干した。三人の視線が交錯する中、別に激するでもなく、落ち着くでもなく、淡々と言う。

「大体、一般的に知られている話はそんな所だ。 王の台詞やアウローラの台詞に、幾つかのパターンはあるが、大まかな所で違いはない」

「そうか、噂には聞いておったが、本当に恐ろしい魔女じゃのう。 出来れば絶対に出会いたくない所じゃな」

「コンデ様っ!」

「す、すまんの、ジル」

顔を真っ赤にして怒るジルに、平謝りするコンデ。ジルをなだめるエイミ。それが一段落すると、ファルは続けた。

「以前は誰にでも開かれていたカルマンの迷宮だが、今は少し事情が異なる。 冒険者の寄り合いであるギルドの許可を得ないと入る事は出来ない。 これは、迷宮の中であまりにも多数の死者が出たためだ。 ある程度の実力がないと、入っても死ぬだけだからな」

「なるほど、それでか」

「コンデ様?」

「ん? あ、ああ、何でもないぞ」

小首を傾げるジルに、コンデは慌ててごまかしていた。ファルは眉一つ動かすでもなく、事情を悟っていた。要するにこの老人、何度か一人で迷宮に赴いて門前払いを喰らったのであろう。その後もどうしていいか分からず、町をさまよって途方に暮れていた事はほぼ間違いない。

それほど情けない訳でもないが、肝心な所での行動力が足りない。そんな印象をファルは受けた。思っていたほど苦労は無さそうだと、ファルは密かに思い、話を続けた。

「次は、冒険者の心得についてだ。 要点から説明すると、いつでも死ぬ覚悟はしておけ、という事になる。 そうだな、具体的には……」

 

基本的な話が終わった頃には、既に日付が変わっていた。冒険者相手の宿の場合、どんな時間も一応営業中という事になってはいるが、店主も体力に応じて休まないと持たない。まして、先祖の血が色濃く出ているエイミは、基礎的な体力自体が通常の人間より少ないのだ。大手の宿で有れば交代で店員を働かせるが、こういう末端のチェーン店ではそれも無理である。欠伸をしながら玄関近くにある寝室に向かうエイミを、文句も言わず部屋まで送ると、ファルは無言のまま戻ってきた。

コンデは所在なさげに時々周囲を見回しつつも、きちんとメモを控えていた。案外やる気はあるようだと思いながら、ファルは眠る旨を告げて、その場を後にしようとした。その背に、コンデの声がかかった。

「あの、すまんが、一つ聞いて良いか?」

「何か?」

「うむ。 その、じゃな。 ファルーレスト殿は、何故に迷宮に潜るのだ?」

不躾な質問だとファルは思ったが、別に困る事でもない。少し硬い髪の毛を書き上げると、別に感情を表に出すでもなく、ファルは応えていた。

「理由は幾つかあるが、一つにはオルトルード王には恩義がある、という事だ」

「王に?」

「これ以上は、気が向いた時にでも話す。 では失礼する。 明日は早くなるから、出来るだけ体を休めておいてくれ」

それ以上言う必要もないので、ファルはその場を後にした。彼女は歴とした大人であり、大人にはそれに相応しい接し方をして欲しいと考えていた。だからコンデの事を詮索する気もないし、必要以上に関わる気もなかった。

無愛想な態度の裏には、他者を拒絶する、そんな冷たい壁が隠れていた。

 

3,集まり行く星

 

ドゥーハン王都にある冒険者ギルドは、各国の首都にあるものよりも更に大規模であり、世界でも屈指の情報量を誇っている。カルマンの迷宮に入る冒険者を管理しているのは、騎士団とこのギルドであり、迷宮に赴く際には必ず此処を通さねばならない。一度許可を貰ってしまえば後は自由に出入り出来るのだが、審査は日を追うごとに厳しくなっているのが現状だ。

四棟に別れた建物は、いずれも大きく、飾り気のない実用的な作りになっており、様々な人種や職業の者が行き交っていた。総合的に見て、かなり大規模な建物であり、素人が来ても困惑するだけである。慣れた様子でファルはコンデを連れ、ギルド本部の冒険者登録所に向かった。受付にはノームの神経質そうな老人が座っており、コンデを連れたファルを見て大きな鼻を鳴らした。コンデも一応地元のギルドで登録を済ませては来ていたのだが、それを見せても迷宮入りの許可は下りなかった。困り顔のコンデに、ノームは多少揶揄するように言う。

「フム。 魔術師として、問題のない魔力を有しているのは分かりました。 しかしですな、実績をある程度積んでいるか、実践的な魔法をある程度使えるか、どちらかの条件を満たしていないと、貴方を迷宮に入れるわけにはいきません。 前者がないのはこれで分かりましたから、これから試験で後者を証明して貰います」

困惑してしばしばと目を瞬かせるコンデ。彼が深呼吸の末、試験会場へ連れて行かれるのを見ると、ファルは自身の紹介状を出した。師である人物の紹介状と、六年間で蓄えてきた数々の実績が詰まった書類である。それにしばし目を通すと、ノームの受付官は、度の強い丸眼鏡をかけ直した。

「実績、能力共に問題ありませんな。 しかし、忍者ですか。 転職、なさる気はありませんか?」

「無い」

「左様ですか。 では登録させて頂きますが、苦労すると思いますよ?」

探るような視線を射込んでくるノームに、別に物怖じすることなくファルは応じる。今まで、何度と無く受けてきた視線であったし慣れていたからだ。

「構わない」

「はいはい、では手続きは此方でしておきます。 許可はお連れさんの試験さえ受かればすぐにでも出ます。 後は、迷宮の入り口にある騎士団詰め所で指示を受けて下さい」

この頑固者め、とノームの視線は告げていた。もっとも、ファルにとっては知った事ではなかった。彼女はコンデを待つべく近くの待合い席に向かうと、暇な時間を有効利用し、最近登録した冒険者の名簿に目を通した。案の定、忍者の新米は殆ど見あたらない。

此処最近ようやく認知された忍者という職業は、冒険者の間でもまだあまり受け入れられていない。というのも、非常に微妙な職業で、どう扱っていいか誰も分からないからだ。

忍者は元々諜報活動を主とする職業であり、科学的に考案された道具と、練り込まれた戦術を駆使して闇を駆ける者達である。その戦闘的な面が評価され、最近冒険者の職業として認知を受けた。危険なトラップの解除は勿論、シュリケンと呼ばれる射撃武器も使いこなし、優れた体術も扱う事が出来る。その一方で、周囲の調査などは専門職である盗賊に劣る。盗賊はそういった冒険支援任務を主としている職業であるから当然である。また、スピードは他に冠絶しているが、侍や騎士にはどうしても接近戦能力で劣る所がある。即ち、色々こなす事が出来る反面、これといったうりがないのも事実なのである。命がけの冒険をする場合、これといった仕事がない人間をチームに入れる事は厳禁である。故に、チームには誘われにくいのだ。

ただ、ファルは師を尊敬していたし、忍者という今の職業自体を結構好きだった。チームがくめなければ、一人で迷宮に潜るつもりだったし、リスクはもとより承知の上だ。しばし冒険者の登録名簿を見ていたファルに、不意に声がかけられた。

「おい、其処のお前」

「私の事か?」

「ああ」

ファルが顔を上げると、其処には何とも個性的なファッションの、ヒューマンの女戦士がいた。髪は束ねると言うよりもむしろ縛り上げて、頭頂部から塔の如く天へ延ばしている。肌は黒く、全体的に体つきは逞しく、体の各所に奇抜なデザインのアクセサリーを着けていた。特に、何かの牙を連ねたらしい、首から提げているネックレスが強烈な衝撃を与える。美人は美人であるが、逞しさと野性味の方が前面に出ている、見るからに強そうな女戦士だ。右手に持っているのは長大なハルバードである。要は槍と斧を足した長柄武器で、非常に実用的かつ実戦的な武器だが、普通女戦士が好む得物ではない。重すぎるからだ。

しばしその姿を見やった後、ファルは名簿を閉じ、女戦士に改めて向き直った。向こうは向こうで、剣呑な光を視線に宿している。

「昨日、大通りでシムゾンと一戦やらかした雌獅子が如き女とはお前か。 シムゾンとは、大柄で、狂気を発してしまっている男だ」

「それなら確かに私だ。 一般人に襲いかかったので、他に方法がなかった」

「いや、それは分かっている。 ……済まなかった。 障気満ちた山に住む獣のように変わり果てたとはいえ、かってのリーダーが迷惑をかけた」

ふっと、女戦士の視線が和らいだ。彼女は軽く頭を下げると、誇りに満ちた口調で言った。ファルと同様、ぶっきらぼうな喋り方をするが、言葉の節々には余分で過剰な形容詞が混ざる。これはファルとは似ていながら、正反対の喋り方だ。

「わたしはヴェーラ=ムワッヒド。 美しき草原と猛きアズマエルが子らの土地、ササンの誇り高き騎士である。 ……まだ、駆け出しではあるがな」

「私はファルーレスト=グレイウインド。 忍者だ」

ササンといえば、ドゥーハンの従属国の一つであり、アズマエル火教という独自の宗教と、勇猛果敢な騎馬兵団を持つ事で知られる土地である。互いに名乗りあうと、そのササンの誇り高き女騎士は、周囲を見回してから本題に入った。

「仮にもお前はシムゾンを負かしたほどの使い手だ。 実は、お前の腕を見込んで頼みがある。 わたしと、チームをくんで貰えないだろうか」

ファルにとっては、願ってもない申し出である。しかし、二つ返事で承知するわけにも行かない。

「理由を聞かせてくれ」

「うむ。 実はな、あのシムゾンはわたしの属していた傭兵団のリーダーだった。 それは素晴らしい使い手でな、剣技はほれぼれするように美しく、戦う様は火神が踊るようだった。 サン=ラザールの悪魔と言えば分かるだろうか」

「なるほど、何処かで聞いた事があると思ったら、あの男がシムゾンだったのか」

「うむ……。 残念な話であるがな。 かっての奴ならば、その強さは生ける雷。 誰にも一対一で引けを取ったりはしなかったものを。 無論、お前にもだ」

サン=ラザールの悪魔、シムゾン=デュバン。冒険者ならもぐりを除いて知らぬ者無き、超一級の使い手である。その武勲はそれこそ星の如しで、ベノア大陸でも五指に入る勇者と言われていた男だ。傭兵団を率いていた事もあり、戦場の勇者としても知られ、ドゥーハンの敵からは忌み嫌われ続けた存在でもある。ヴェーラは実に残念そうに、自らの事情を語る。

「シムゾンがカルマンの迷宮に挑む事が決まったのは、ついこの間の話だ。 わたしはその間所用で隊を離れていたのだが、奴ならば、必ずやあの黒曜の魔女が首を取ってくると確信していた。 新たな誇りに身を飾り、必ずや凱旋するものだと信じていた。 しかし、結果は見ての通りだ。 隊は全滅し、一人生き残ったシムゾンは、血まみれのまま、無惨で哀れなドブ鼠のようになって迷宮で発見された。 奴の心は、体以上に砕けてしまっていた。 あんなに素晴らしかった、美しさすら感じる強さを持つ男が……」

わなわなと拳を振るわせたヴェーラは、それを視線の高さまで移動させ、一瞬後に壁に叩き付けていた。ぎりぎりと歯を噛む音が周囲に響く。咳払いしたファルを見て、彼女は冷静さを取り戻し、話を続けた。

「すまない、取り乱した。 ……わたしは何がシムゾンに起こったのか、それを知りたいのだ。 もし協力してくれるというのなら、父なるアズマエルの名において、お前の剣となり盾となろう」

「なるほど、話は承知した。 では、私の連れを紹介させて貰う。 全てはそれからだ」

 

ほどなく、コンデが戻ってきた。意外にもというと失礼な話であるが、彼は特に問題なく試験を受かって、正式に冒険者登録を貰っていた。また、コンデはヴェーラの加入を二つ返事で承知してくれた。コンデにヴェーラを紹介して、一応現有の戦力は三名となった。ヴェーラの実力はまだ未知数であるが、コンデは戦いすらも経験した事がない文字通りの初心者であるから、この人数で迷宮に行くのは無謀である。受付で渋い顔のノームの老人から許可証を受け取ると、ファルは辺りを見回した。

カルマンの迷宮は、ギルドからSランクの指定を受けている。これは歴戦の冒険者でも生還が難しいレベルで、特に地下五層以降は魔神の出現すら確認されている。いきなり地下五層まで潜る事はファルも考えていないが、それにしてももう少し戦力が欲しい所である。しばし考え込んでいたファルに、不安そうに声をかけてきた者がいた。

「あの、すみません」

「何か?」

ファルが振り向くと、其処には何とも初々しいヒューマンの娘がいた。首からロザリオを提げている所から、天主教の僧侶だと分かる。年はおそらく、エイミと同じくらいだろう。彼女の後ろには、腕組みしてむっつりと黙り込んだドワーフの青年がいる。ドワーフにしては珍しく、口ひげだけをほんの短く生やしていた。ドワーフは種族的な習慣として、大人になると男女関係無しに豊富なひげを蓄える。そのため、大人に見られようとする若者も、競うように髭を伸ばす傾向があるのだが、目の前の青年にそれはなかった。むしろ、そう言った風習に精一杯反抗する、悪ガキのようにも見える。

エーリカの口調ははきはきしていて、目には明るい光があった。彼女は振り向いた三人が特に敵対的な態度を見せなかったのに安心してか、先の調子で続けた。

「愚僧はエーリカ=フローレスというものです。 こっちはロベルドさん。 貴方達もこれからカルマンの迷宮に挑戦しようとなさっているようですが」

「如何にも」

「よろしければ、愚僧達とチームを組みません? 此方と合流すれば、戦力的には一応のものが揃いそうですけど」

「そうだな、悪くない話だが」

「誰でも彼でも声かけるんじゃねーよ。 たりー女だな。 アタマわいてんじゃねえのか?」

まるでヒューマンの青年が放つような下品な罵詈雑言が、ドワーフの青年の口から発せられた。ドワーフの青年は、剛力を誇る種族に相応しい力こぶに覆われた腕を壁に叩き付けながら、むっとした様子のエーリカに言う。

「ザコに用はねーんだよ。 足引っ張られて死んじゃあたまんねえからな。 声かける奴は選べよ、ああ?」

「ロベルド? あのね」

「大した自信だな。 オークの子供が如きチビの分際で」

おろおろするコンデの前で、腕組みしたヴェーラが前に出た。口調からして、相当な自信を彼女も持っているのは間違いない。二つの視線が絡み合い、火花を散らしあった。これは面白そうだとファルは傍観の姿勢に入った。上手くいけば、ヴェーラの実力を此処で見る事が出来る可能性がある。それに、もしロベルドというドワーフの青年がそれなりの実力者であれば、その後ファル自身が叩きのめして仲間に引き込めばよい。もしファルでも勝てないような相手なら、その時はその時だ。周囲の冒険者達も、面白そうだと場を見守っている。手を打つ音が、その場を修めたのは、次の瞬間だった。

「はいはい、そこまで。 ロベルド、やめなさい」

「ああ?」

「場所を変えましょう。 此処で暴れてご覧なさい。 折角貰ったギルドの許可証が、パーになるわよ」

エーリカの言葉はもっともであったので、ヴェーラは鼻を鳴らして、その提案に乗る。結構やるものだと、ファルは横目でそれを見ていた。コンデはずっとおろおろしっ放しである。最年長者であるのに、明らかにもっとも場慣れしていない。

「……良いだろう。 確かに僧侶殿の言うとおりだ。 此処で戦うのは、あまりにも火神に愛された民としては美しくない」

「あ、ちょっと待って」

「うん?」

やる気になって先に歩き出したヴェーラを、エーリカが制止した。そして、無言のまま様子を見守っていたファルに笑いかける。

「ねえ、貴方が勝負を受けてくれない?」

「ふむ」

「おい、さっきから聞いてれば、勝手に話を進めてるんじゃ……」

少しは黙らんか、この単細胞生物めがッ!

物凄い音が響いて、聖職者の振り下ろした拳が、ロベルドの頭頂部にめり込んでいた。呆然とする一同の前で、床に前のめりに倒れて痙攣するロベルド。余程力が強いのか、全然痛がる素振りも見せずに、エーリカは蒼白になって引く周囲の人々に笑いかけた。蒼白になっているのは、ヴェーラも同じで、いつもと違って無駄な形容詞が出てこない。

「おーほほほ、ごめんあそばせ♪」

「あ、いや、その、だな」

「ねえ、ロベルド。 どうせなら感情にまかせた喧嘩じゃなくて、ちゃんとした勝負で決めましょう。 だったら、一番強い人か、もしくは責任者と戦うのが筋でしょう? 今のところ、向こうのチームをまとめているのはこの人のようだし。 だからこの人に貴方が勝てるようなら、合流の話は無し。 勝てないようなら、組むのに充分でしょ?」

「あ、うあ、ああ。 お、お前が、そうしたいなら、そうしてくれ。 俺はそれでいい」

時々怯えが混じった視線をエーリカに向けながら、ロベルドは立ち上がった。満足げに頷くエーリカは、まるで早めに犬をしつける敏腕ブリーダーである。なかなかにパワフルで型破りな僧侶であった。

「行こう。 郊外に、適当な場所がある」

ファルは視線で皆を催促し、率先して歩き出した。陽がだいぶ高くに昇り、そろそろ頂点へ達しようとしていた。

 

ドゥーハン王都は良く発達した街だが、やはり郊外に出ると未開発の地域は幾らでもある。特に、エルフ達の森の辺りに来ると、法の関係で所有権がややこしいため、誰も手をつけてない土地が幾らかある。その一つ、十五メートル四方ほどの広場にて、ファルとロベルドは相対していた。

「いっとくけどよ、手加減なんてしねーからな。 顔に傷が付いても歯が折れても恨むんじゃねーぞ」

肩を回してウォーミングアップしながら不敵に言うドワーフの青年。確かに肉体能力に秀でたものがある。見ただけでそれを悟ったファルは、上着のボタンを幾つか外し、腰につけていた刀をヴェーラに手渡した。ニンジャトウと呼ばれる、刃が小振りで、鍔が大きめに作られている専門の刀だ。接近戦の場合はこれを使うか、コダチと呼ばれるずっと小ぶりの刀を扱う忍者が多い。無論、攻撃には豊富に体術を混ぜるのが、忍者の間では一般的だ。

周囲には、既に人垣が出来ている。実のところ、何かしらの試験を行ってチームを組む仲間を選別する冒険者は多い。ファルにしても、ヴェーラを何かしらの方法で試す気であったし、コンデもそうだ。そして当然、自らが試されることも念頭に置いていた。だから、今回のこの戦いは、手間が省けて丁度良かった。飾らない自分の力を見せられるし、ロベルドの力を見られるからだ。

風が吹き、乾いた土にへばりついている逞しい草花をゆらした。心地よい風に髪を撫でさせながら、ファルは腰を落とし、全身のバネに力を充填しながら言葉少なく言った。

「来い」

「おおっ! 行くぜェッ!」

態勢を低くしたまま、ロベルドがつっこんでくる。ファルは動かない。そのまま暴走した馬車のような勢いで突貫してきたロベルドは、膨大な運動エネルギーを生かしてショルダータックルをかけてきた。まずは小手調べに、己のパワーを見せつけてきたのである。最小限の動きでそれをかわしたファルは、自分の予想より相手の力がある事を悟って、わずかばかり目を細めた。

「オラアッ! せぇぃあっ!」

振り向きざまのローに続いて、態勢を低くしてロベルドは猛攻をかけてくる。力自体は向こうが上だ。それをまともに受け止めるような事はせず、弾いて、受け流して、ファルは様子を見続ける。汗を飛ばしながら、腰を落とし、ロベルドは渾身の拳を繰り出してきた。いちいち攻撃の際に暑苦しい叫び声が入るのは、若さが故か。立ち位置をずらすも、拳は早く、避けきれない。始めてその日、ファルは積極的に動き、右手を振って拳を弾き、僅かに軌道をずらした。そして相手の体が泳いだ隙に、腹に中段膝蹴りを叩き込んでいた。華麗なだけではなく、実際にとんでもなく重い一撃だ。カウンターを見事に貰ったロベルドは蹈鞴を踏んで数歩下がり、だが平然と顔を上げてみせる。分厚い筋肉の鎧が、致命傷を防いだのだ。

「へへっ、思ったよりやるじゃねえか」

「其方もな。 師は?」

「俺自身だよ、決まってんじゃねえか」

「どうりで。 隙だらけなわけだ」

「言ってろ、バカがっ!」

さらりと言うファルに、瞬間的に沸騰したロベルドが、今までに倍する勢いで突撃してきた。拳を固め、火のような勢いで間合いを詰めてくる。ファルの体がぶれる。ぶれて見えるほど早く動いたのだ。一瞬だけ突撃の勢いが殺される。そして、素早くサイドステップして間合いを詰めたファルが、ロベルドの顔面に、ドロップキックを叩き込んでいた。

「っは!」

流石に呻いたロベルドだが、彼が顔を上げた時には、もう前にファルはいなかった。後ろに回り込んだファルが、後頭部にハイキックを叩き込んだのは次の瞬間。前に数歩蹌踉めき進むロベルドの、頭を踏み砕くように、跳躍したファルが全身の体重をかけた蹴りを叩き落としていた。

間違いなく美人の部類に入るファルの、情け容赦ない連続攻撃に、下卑びたショーを期待して集まっていた観衆はしんとしていた。ファルはそのまま、倒れて動かないロベルドに言う。

「それで終わりか? どうした、立て」

「い、言われなく、ても!」

流石ドワーフである。頭から血を流しつつも立ち上がる。だが足下はもう覚束ない。あんな凄まじい蹴りを、しかも頭に、三つも連続して貰ったのだから当然である。鍛えていない一般人なら死んでいる所だ。ヴェーラが、困惑した様子でエーリカに言う。

「おい、止めなくていいのか!?」

「いいえ。 本人が売った喧嘩ですもの。 気が済むまでやらせるのが筋というものよ」

「お、お前、本当に僧侶か?」

「愚僧は歴とした神の使徒です。 でも、戦いそのものを否定している訳じゃありませんから」

涼しい顔で言うエーリカに、負い目も引け目もまるでない。完全に正しい事を、普通に実行しているだけだと、その目が語っている。こういった性質の持ち主は時に危険だが、同時に絶大な破壊力も秘めているのが普通だ。流石に鼻白んだ観衆が、一人減り、二人減る。笑顔のまま、エーリカは言った。周囲の視線に全く気を乱される事がない、実に肝が据わった娘である。

「ロベルドー! 頑張りなさーい!」

「へ、へへっ、いわれ、なくても!」

乾いた音が響く。そのまま片足を軸にして、ファルが再びハイキックをロベルドの顔面に叩き込んだのだ。更に連続して四回の蹴りが叩き込まれる。一方的な戦いになるかと誰もが思ったが、ロベルドは最後に意地を見せた。渾身の力を込めて、頭から血を流しながら、最後の突撃を敢行する。

「おおおおおおおっ!」

二人の距離が0になり、鈍くて物凄く痛そうな音が響いた。次の瞬間、力つきたロベルドが崩れ伏す。ファルが片足を上げていて、その膝がロベルドの鳩尾に食い込んだのだ。しかし、ファルも蹌踉めいて、小さく息をついた。

『やれやれ、殺さずに勝つのは大変だな』

内心呟いた彼女は、最後の一撃で拳がかすった脇腹が、結構な痛みを残している事に、機嫌を少し悪くしていた。服のボタンをかけ直して、髪を掻き上げると、目を少し細めて再び心に思う。

『それにしても、結構根性のある奴だ。 チームを組むのには、問題ないな』

倒れているロベルドを冷静に診察し、エーリカが回復魔法を唱える。淡い光がのびているドワーフの体をつつみ、傷を溶かすように癒していった。そして、程なくして目を開けたドワーフに、エーリカは優しい微笑みを向けた。

「よく頑張ったわ。 おめでとう」

「……うるせえ」

「で、もう文句はないわね?」

有無を言わせぬ口調の前に、しばしの沈黙の後、ロベルドは舌打ちしてそっぽを向いた。無言のまま、笑顔を浮かべて、エーリカが手をファルに向けて差し出す。ファルはそれを、快く受けたのだった。どういう訳か、エーリカの手は、とても温かかった。

今はまだ、何の絆もない者達。だが、やがて一丸となって巨大な敵と戦う事となる。その最初の足跡は、こうして迷宮の外で刻まれたのであった。

 

4,結成

 

こうしてファルは、五人組のチームの一員となった。迷宮等の狭い所へ挑む際の人数は、一チーム五人から七人がベストとされている。これは狭い所で役割分担をするにはそのくらいの人数が丁度良いからで、無論迷宮の広さによってもベストとされる隊の規模は変化してくる。

簡単に話し合った後、一同はエイミの待つ宿へ移動する事にした。冒険者目当ての宿の場合、食堂(当然夜には酒場になる)を常備している事が多い。冒険者ギルドと協力して、冒険者に情報を提供するような最大手の酒場は、逆に宿を付属品として装備している事もある。基本的に人間はどの種族でも食事中にはある程度リラックスして、本音に近い言葉を喋りやすくなる。自然に皆をまとめてくれるエーリカのお陰で、ファルは喋る必要が無くなり、ある程度ストレスを減らす事に成功していた。ファルは基本的に、喋る事も、誰かを引っ張る事も嫌いなのだ。それをやってくれる者が別にいるのであれば、自然に身を引くのは当然の事であった。

エイミの宿は、ファルが気を回すまでもなく結構繁盛している。何故か自然に手伝いをしているジルと一緒にエイミは客に料理を運んでいたが、帰ってきたファルを見て笑顔を輝かせた。

「お帰りなさい、おねえさま」

「うむ」

ジルが、コンデと共にいる者達を見てすぐに事情を悟り、しばし嬉しそうに俯いた後、ファルに深々と頭を下げた。奥の丸テーブルが空いていたので、五人は其処へ座り、自然に皆を引っ張っているエーリカが言った。エイミは注文された料理を運んできた後は、自然に距離をとって皆を見守っている。

「改めて自己紹介をさせて頂くわね。 愚僧はエーリカ=フローレス。 昨日まで、サレム寺院で医療僧として働いていたわ」

自らの胸に手を当てながら、エーリカは淀みなく言う。それに反感を覚える者は、少なくとも五人の中にはいなかった。ファルも、医療僧は嫌いではない。

医療僧は布教僧に比べて全般的に評判がいい。いわゆる〈諸神混一論〉によって教皇庁が宗教的な融和政策を取り始めてから時間がかなり経つが、それでも布教僧の中には狂信者が少なくなく、或いは説教を趣味にしていたりするので、特に土着の宗教を熱心に信仰している者や自主を愛好する者には煙たがられがちだ。一般の民衆には絶大な支持を得ているのだが、逆にそれが故彼らは信仰心の上に胡座をかいてしまっているとも言える。対して医療僧は現実的な〈僧侶魔法〉による癒しを主に考え、場合によっては戦場で医療奉仕に当たったりする。その性質から、何処でも歓迎される事が多く、天主教を憎む者でも多くの場合手出しはしない。現実主義者である彼らは、冒険者として旅に出る事も少なくなく、そのためギルドも職業の一つとしてカウントしているのだ。ただし、故に足を踏み外す者が少なくないのも事実である。

サレム寺院はドゥーハンでも最大手の医療寺院で、冒険者諸氏が最も世話になる場所の一つである。医療施設と言うだけではなく、僧侶の中には自分から迷宮に赴いていくものもいる。エーリカもその一人であったわけだ。

「残念ながら、此処最近カルマンの迷宮で出る死人怪我人は増える一方よ。 そればかりか、明らかにドゥーハンそのものが良くない方向へ動き始めているの。 バンクォーの戦役を経てようやく訪れた平和なのに、それが壊れてしまえば、また大陸を巻き込んだ動乱が始まりかねないですものね。 愚僧は、それで寺院で医療をするよりも、積極的に迷宮へ挑み、混乱の元を断つ事に決めたの」

「確かに一理あるな」

「勿論よ。 皆で協力して、カルマンの迷宮を攻略して、戦乱の元を断ちましょう」

自信たっぷりにヴェーラに応えるエーリカは、何というか実に瑞々しい。彼女に続いてヴェーラとコンデが自己紹介し、ファルも短めに自己紹介を済ませた。ついで、実に嬉しそうに料理を食べていたロベルドが、慌てて自己紹介に移る。料理を食べている間は、突っ張っている雰囲気が消えて、無邪気な幼ささえ覗かせている。

「俺はロベルド。 見ての通り戦士だ。 さっきギルドで登録済ませた所を、エーリカに誘われて、今此処にいる。 まあ、これからよろしく頼む」

「少しドワーフにしては変わっているの。 人間の街で育ったのか?」

「いや、俺は単に、伝統とか風習とか、そーゆーもんがだいっきらいなだけだ」

神経質そうに言うロベルドに、コンデは目を瞬かせた。老人だけではなく、ファルも違和感の正体に気づいていた。憎しみである。ロベルドの言葉には、非常に感情的な、純粋な形での憎しみが籠もっているのだ。

「で、ロベルド殿は、どんな目的で迷宮にきたのじゃな?」

「名声にきまってんだろ。 アンタと同じだ、じーさん」

ずばり指摘されて、コンデはむうと唸って考え込んだ。青年は確かに野心的な飾らぬ言葉を吐いたが、家名の再興などとデコレーションしても求める結果は同じなのだ。最初は不快感を示したコンデであったが、数秒後にはその視線を和らげていた。自分でそれに気づいたのは間違いない。皆を見回して、エーリカは言う。

「これで自己紹介は終わったわね。 これからどうするかだけど」

「さっさと迷宮に潜ろうぜ。 体がなまっちまう」

「同感だな。 私も早く、偉大なる火神の捌きを邪悪な魔女の頭上に下してやりたい」

「そう急かないの。 ちゃんと準備をしてからいかないと、あっというまに全滅して魔神の餌にされちゃうわよ」

直情的なロベルドとヴェーラの言葉を一撃にて断ち割ると、エーリカは笑顔をファルに向けた。

「ファルーレストさん。 愚僧は忍者って良く知らないんだけど、もし良ければ詳しく説明してくれる? 今後のポジションを決めたいの」

「忍者は基本的に、情報収集を行っていた東国の集団が、その独自の戦闘技術を買われ、長い年月の間にゆっくり普及していったものだ。 本来は科学的な道具と理論的な戦術を駆使して戦う者達なのだが、私は変わり種でな」

「どう変わり種なの?」

「私は情報収集が少し苦手だ。 僧侶や商人に変装して他国を探ったり、目立ちにくい格好で周囲を調べたりするのが忍者の重要な仕事の一つなのだが、どうしてもそれが苦手なのだ。 代わりに、単純な戦闘能力なら、その辺の忍者には負けない」

トラップ解除も忍者の仕事の一つだが、ファルは其方も少し苦手だった。出来ない事はないのだが、肝心な所で集中力が続かないのである。師匠は残念そうに首を振りながら言ったものだ。

「お前は確かに強い。 潜在能力の事も考えれば、末恐ろしいほどだ。 だが、どうして強いだけなんだ」

無論悔しかったが、返す言葉がなかったのも事実であった。実際問題、ファルは忍者としては並として扱われている。戦闘能力は忍者の中でもかなり優れているのだが、諜報能力が普通の忍者より劣っているからだ。

「そう。 ならば、前衛に立って貰えるかしら?」

「了解した」

「しっかしわかんねえな。 単純な強さを求めるんなら、戦士なり侍なりになりゃいいじゃねーかよ。 アンタの能力だったら、どっちも全く問題ねえだろ?」

侍とは、東国より伝わったカタナと呼ばれる強力な剣を使いこなす職業で、前衛職の中でも破壊力は随一とされている。精神修養のために攻撃系を主とする〈魔術師魔法〉まで使えるのが特徴で、特に伝説の妖刀〈村正〉を持たせると天下無敵だとすら言われているのだ。

戦士とはスタンダードな前衛職であり、単純に戦闘のみの事を考えて体を鍛えるため、パワーとスタミナ、それに成長力は随一とも言われている。ただ、本当に戦うことしかできないため、ある程度経験を積むと、他の職業へ転職する者も多い。

「それは無理だ。 私は忍者でなければならない」

「なんでだよ」

「話す必要はない」

すげなく追求を断ち切ると、再びファルは沈黙に戻った。実際彼女の戦闘能力はロベルドを凌ぐわけであるし、しかも貴重なベテラン冒険者である。今後は戦闘の中核になるのが明白だ。である以上、今後は兎も角、〈立場が微妙だから転職しろ〉等と言う事は強制出来ようもない。下手に慣れない職になりでもしたら、現有の戦力ががた落ちする事になるからだ。

「まあまあ、詮索は野暮というものよ」

「……ちっ」

「まあ、対人情報収集ではなく、単純な情報収集なら一通りは出来る。 戦略面での下準備に情報は必要だと思うが、それはギルドを通じて仲間の忍者から分けて貰うから安心してくれ」

「そう。 当面の問題として、地下一層についての情報はある?」

やはりかなりしっかりしている。個人の道楽で何の危険もない迷宮に潜るなら兎も角、仲間の命の事を考えると、事前に戦略を練るのは当然の事だ。戦略無い戦術は破綻するだけだし、生還率を上げるには絶対条件である。頷くと、ファルは一応ギルドで仕入れた情報を反芻した。

「地下一層はドゥーハンの街の東端に昔からあった遺跡だ。 魔女がこの下に迷宮を出現させてから、危険な魔物が徘徊するようになったらしい。 位置的な関係からはむしろ〈地上一層〉とでも言うべきなのだろうが、便宜的に地下一層と呼ばれている」

「かなり広いの?」

「いや、それほどでもない。 ただ、不死者が出現すると聞く。 また、障気も濃く、たまにとんでもなく強力な魔物が現れるらしい。 気は抜かないほうが良いだろう」

地下一層の地図は、ギルドで他言無用配布不許可と決められている。これは、地下一層のマッピングも出来ないような輩など、今後先に進めない事が明白だからである。自殺に手を貸すような行為は、冒険者の寄り合いであるギルドには無縁なのだ。ファルの言葉に、エーリカは考え込んだ。やがて、小さく手を一打ちすると、皆を見回していった。

「迷宮に挑むのは、明日にしましょう」

「どうしてだ?」

「まず、今日は各自体を休めて、万全の体調を作りましょう。 それから、不測の事態に備えた状態で、地下一層へ挑みましょう。 というのも、ファルさんの言葉を聞く限り、地下一層とて油断出来る場所にはとても思えないの。 何があるか分からない以上、ベストのコンディションを整えるのは当然よね? それに、各自の情報も、それぞれが把握して置いた方が心強いわ」

どちらかというと慎重な意見だが、しかし論理的で納得出来る言葉でもある。後は各自の装備を点検し、使える魔法を明かしあう。コンデはおろおろしながら、案外様々な魔法を使える事を披露した。基本的な魔術師魔法を、結構高いランクまで知っているのだ。しかし知っていると使えるとでは話が別だ。殆どは使った事すらもないとかで、実戦投入など到底無理であった。だいたい根本的に使用するには魔力が不足気味で、無理に使えばバックファイヤ〈魔法の逆流爆発〉さえ起こす可能性がある。これなら、差し引きゼロに近い形で、確かに試験には受かる。流石に、イリキア王家の末裔だと自称するだけの事はある。他にコンデは、幾つかの種類の魔法を覚えていたが、それはいずれも非実用的なものばかりであった。迷宮の中で、酒のアルコール濃度を調べる魔法が、何の役に立つというのだ。

対してエーリカは、治療用の魔法を幾つか覚えているが、戦闘向きの魔法は殆ど覚えていなかった。文字通り駆け出しと言って良い腕であるが、それでも医療が出来るものが仲間にいるのは心強い。それに今は弱くても、いずれ強くなっていけばよいのである。

ファルは冒険者ギルドで貸し出しているコンテナに幾つかの道具を置いているが、それを取り寄せるには時間がかかる。一方資金はそれなりに潤沢であり、暇を見て適当な防具を見繕うつもりだと皆に言った。金など幾らあってもとても足りないが、ファルの場合幸い武器はもう一応揃っているので、今後は迷宮探索用の装備を幾つか仕入れておけばよい。

そう言葉短に言ったファルだが、本当のところは少し違った。実のところ、今まで愛用していた鎖帷子が、直前の任務でお釈迦になってしまっていたのである。エイミが店を持てたという情報がそれに重なり、最小限の装備で此処まで駆けつけてきたのだ。無論換金出来る分は換金し、持ってこれるものは持ってきた。だから、少し装備を調えればすぐにでも迷宮に潜れるのだ。しかし、ファルにはこういった多少無計画な所があり、良く師匠を嘆かせていた。一般人としては良く準備しているが、隠密単独行動が多い忍者としては平均以下で、これは歴としたマイナスの要因となる。

他の者達も、お金を持ち寄って、一応の装備を揃えてはいた。金のないチームだと、前衛が後衛を守りきる事を前提に装備をやりくりしたりもするのだが、今回は一応そう言う事態に陥らずに済む。無論そんな事をするチームは、生還率が低い。

一通りの話し合いが終わった頃には、もう夜になっていた。最後に解散する時になって、コンデが手を挙げた。

「今更分かり切っている事なのじゃが、一つはっきりさせておこう」

「うん? どうした、じーさん」

「何、簡単な事じゃよ。 リーダーが誰かと言う事を、今後のためにも決めて置いた方が良いじゃろう」

ファルは少しだけ視線を上に向けた。コンデが言い出さなければ、彼女が言うだけの事だったが、案外スムーズに事が進んだ。少し悔しそうに、ロベルドは言う。

「俺にきまってんだろ、って言いたいとこだけどよ、其処までバカじゃねえ。 もう、みんなわかってんだろ? 誰がリーダーに相応しいのかはよ」

「まあ、そうじゃな。 小生にも、リーダーなどはつとまらんだろう」

「私は威風なびかせる火神の子足る戦士であっても、指揮官には向いていない。 それは適正を持つ別人の役目だ」

「私も、指揮官には向いていない」

四人の視線が、エーリカに集まった。しばし口に手を当てて考え込んだ後、エーリカは胸に手を当てていった。

「分かったわ。 リーダーの大役、喜んで受けさせて頂くわね」

正式に、チームが結成された瞬間だった。まず最初に立ち上がったのは、ヴェーラであった。他の者も、おいおいそれに続く。

「では、私は火神の子足る戦士の名にかけて、汝の剣となり盾となる事を誓おう」

「あまりにも理不尽な命令じゃなければ、従わせて貰うぜ」

「正しい導きを頼むぞ、エーリカ殿」

「いいリーダーに巡り会えて嬉しい。 これからも頼む」

最後に立ち上がったファルが言うと、エーリカは力強く頷いた。

 

5,最初の一歩

 

まだ夜はさほど深くない。冒険者相手の店は幾つか営業を続けていて、夜闇に明かりを提供していた。無論武装していない人間が歩くには物騒だが、この東区は案外安全である。というのも、ギルドが地元住民との摩擦を避けるために、手が空いている冒険者で自警団を編成して見回りさせているからである。たまに迷宮から出て来る魔物ばかりではなく、今までも様々な魔物を相手に戦ってきた彼らの実力は、街を彷徨く泥棒や犯罪組織の比ではない。

「邪魔したな。 また来る」

そんななか、ファルが三つ目の店を後にした。彼女の後ろには、嬉しそうな様子でエイミがついてきている。宿は別の人間に任せて、姉についてきたのだ。コートを羽織った彼女は、少し頼りない足取りで、ファルを追いながら言った。

「おねえさま、今日は良かったですわ」

「どうしてだ?」

「とても嬉しそうなのですもの。 エーリカさんという方、とてもいいリーダーなのですわね」

「多分六年間で組んだリーダーの中でも、一番素質は優れていると思う。 次を右か?」

「はい」

エイミが紹介してくれた冒険者専門の武具屋を回るのも、これで四軒目になる。あまり目立たない裏通りにはいると、犬の遠吠えが聞こえた。空は晴れていて、大きな月が地面を照らしている。そんな中、何とも寂れた店はあった。

小さな引き戸を開けて中にはいると、刺すような視線がファルに投擲された。それを辿ると、奥まったカウンターに、小さな影があった。エイミが前に出て、小さく微笑んだ。

「ルーシー、私ですわ」

「エイミさん。 夜に来るなんてどうしたの?」

「お客様を連れてきましたわ。 此方、私のおねえさま」

「ファルーレスト=グレイウインドだ。 以後、よろしく頼む」

「よ、よろしく……」

カウンターの向こうで、ルーシーという店主は、少し警戒しながら言った。まだ幼い少女だが、何事にも構えた雰囲気である。可愛い事は可愛いのだが、目つきも剣呑で、あまりファルの好みのタイプではなかったので、自然体でいられた。

店は小さいが、品物は良く手入れされている。それほど高級な武具は置いていないが、そんなものを買う金など無い。結構好感度の高い店である。店の片隅に置いてある、鎖帷子に、ファルは目をとめた。丁度いい大きさだった。しばしなで回し、強度と状態を確認する。問題ない出来である。名工の品と言うほどではないが、充分に実用に耐える出来になっている。

「これを貰おう」

「あ、ありがとうございますっ!」

おっかなびっくりファルの方を伺っていたルーシーが、顔をぱっと輝かせ、頭を下げた。小さく頷くと、ファルは他にも細かい備品を幾つか買い込んだ。早速入手した鎖帷子を着て店を出ると、エイミが少し寂しそうな顔をした。

「どうした」

「……危ない事をしないで下さい、等とは言えません。 迷宮に一緒に行けない事は分かっています。 だけど……少し恐いですわ」

「案ずるな。 お前を残して、私は死なない」

別に恥ずかしがるでもなく、ファルは堂々と言った。別にこの姉妹の間では、それは暗黙の了解であった。

昔はべたべたくっついてきたエイミだが、六年間で上手な距離の取り方を覚えていた。それは、ファルも同じであった。二人は近づきすぎず、離れすぎず、仲良く夜道を宿に帰り歩いていった。

 

翌朝。それぞれに武装した五人は、カルマンの迷宮の前にいた。迷宮の入り口には、かって迷宮などではなかった遺跡の名残らしき上り階段があり、それの先に騎士団の詰め所があった。入り口を数名の屈強な隊員が油断無く見張り、何人かが哨戒を続けている。中が如何に危険な場所なのか、これだけでも明かである。

進み出たエーリカが騎士団に許可証を提示して、迷宮へ入る許可を得る。部隊長らしき中年の騎士団員は緊張した面もちで五人を見やると、リーダーであるエーリカの肩を叩いた。その目には、強い光が宿っていた。戦場に赴く者を見据える目であった。発せられた言葉は短く、膨大な意志が籠もっていた。

「死ぬなよ」

力強く頷いたエーリカは、率先して第一歩を踏み出した。同時に、外とは全く違う、冷気に満ちた空気が吹き付けてくる。ファルは頷くと、念のため周囲を探りつつ、先頭を歩いた。他の者達は、すぐそれに続いた。

最初は三十段ほど、まっすぐ地下に延びた階段をただ下りる事となった。一番下まで降りると、雰囲気が全く外とは異なっていた。空気は冷えており、しばし辺りを見回したエーリカは小さく口笛を吹いた。ファルはもう、エーリカとコンデの前に出て壁となっている。少し遅れて、ヴェーラとロベルドがそれに習った。これで、一応の態勢が整った事になる。

案外光度はある。それに、作り自体もかなり広い。そして遠くからは、奇怪な叫び声や、わめき声の類が聞こえ来ていた。

「打ち合わせ通り、落ち着いていくわよ」

多少の緊張を顔に湛え、エーリカが言う。それぞれに頷くと、五人は深淵へつながる迷宮の中を、歩き出したのである。

緋色の花が咲く土地。カルマンの迷宮の別名である。緋色の花とは、壁に飛び散った冒険者達の血の事だ。呪われし花が咲き乱れる迷宮に、また新しい冒険者達が、足を踏み入れたのだった。

 

(続)