炎渦巻く地

 

序、ドゥーハン変転

 

ドゥーハンの町は、今風雲急を告げていた。

アインズ将軍がレドゥアの謀反を発表し、同時に兵を動かし、町の彼方此方に派遣。

結果、完全武装の部隊が町の中を駆け回り、彼方此方で小規模な戦闘が起こったからである。

元々レドゥアの行動を怪しいとにらんでいた事もあり、アインズ将軍の動きは迅速だった。

彼女はレンの連絡が来ると、間をおかずに精鋭を率いてレドゥアの研究室を急襲

若干の抵抗を爆砕して一気に其処を制圧、多数の書類や研究記録を殆ど無傷のまま押収した。

その他レドゥアの息がかかっていたドゥーハン軍幹部を逮捕すると、的確に辺りを制圧していき

混乱は三時間ほどで止み、その後はいつもの静かな雪のドゥーハンが戻ってきた。

さすがはアインズ将軍、見事な手際であった。 他の将ではこう巧くはいかなかっただろう。

クルガンが地下八層から戻ってきた頃には、将軍は膨大な資料をお抱えの魔術師と一緒に分析しており

中には禁忌の術を行使した記録や、墓場から死体を集めた記録もあったため

精密な分析を要すると判断、何人かの魔術師に文を出し、自ら印を押していた。

丁度その時、天幕に使者と入れ違いにクルガンが入ってきて、そして咳払いをした。

「アインズ将軍、ただ今帰還した。」

「良く帰ってきたの。 取りあえず、情報を聞かせて欲しいの。」

「信じられないかも知れないが・・・まず、何から話したらいいだろう」

アインズは顔を上げ、クルガンの頬にある痣に気付いた。

いたずらっ子に等しい笑みを浮かべ、生々しいその痣を指さす。

「まず、その頬の痣は何か話したらどうなの?」

「そうだな・・・そうしよう。 人払いを頼む。」

頬に手を当て苦笑すると、孤高の忍は目を細め、アインズは頷いて周囲の者を下がらせた。

 

「成る程、大体事情は分かったの。

まあ陛下があまりにもおかしかったから、何かあるとは踏んでいたけど、これは驚いたの。」

「良く受け入れる事が出来るな。 俺は未だに受け入れる事が出来ない。

アティがぶん殴ってくれた御陰で目は覚めたが、女王陛下はもう・・・」

俯いたクルガンから視線を外すと、アインズは再び書類に判を押し、そのまま続ける。

「戦場じゃあ、何が起きるか分からないの。 状況は秒単位で変化し、一瞬の気のゆるみが敗北を呼ぶ。

だから、それに応じて鍛えられてるだけなの。 それにしても・・・」

手を止め、頬杖を就くと、アインズはため息をついた。

「ドゥーハンが死人の町とは、流石に予測していなかったの。

これは最悪の予測を、更に上回って最悪なの。 戦略の修正に、時間がいるの」

「その時間も足りない。 もしも武神が完全な形で復活したら・・・」

「さあて、それはどうかな、なの。」

アインズは肩をすくめ、怪訝そうにクルガンが眉をひそめる。

どうもアインズには、今までの情報を聞き、整理する限り

事態を裏で操っている輩が、世界の全土を支配下に納めようとしているとは思えなかったのだ。

それはあくまで勘のレベルだったから、それを元に戦略を組むわけには行かないが

何にしても、彼女にはやる事があった。 素早く何か書類を書き上げ、立ち上がると

手を叩き、伝令を呼ぶ。 訓練された伝令は小さな音を聞きつけ、すぐに現れた。

「副司令に連絡。 〈閃光〉で生き残ったドゥーハン在住の要人名簿を直ちに作れと伝えるの。

それと、アティという娘を、出来るだけ早く此処に呼んでくるの。 客人だから丁重に。

これが公式書類。 ヘルガの宿にいなければ、酒場に話をもっていくの。」

伝令は無言で頷き、一瞬後には姿を消した。 職業柄その動きを見ていたクルガンは、ふと困惑する。

「副司令の話は兎も角、アティを此処に呼んで、どうするつもりなのだ?」

「決まりきってるの。 我が軍はアティを全面的にサポ−トするの」

「おお、そうか。 それは・・・陛下もソフィアも、きっと喜んでくれるはずだ!」

クルガンの困惑が、喜びへと移り変わり、アインズは笑って忍者の肩を叩いた。

「今まで迷宮で死んだ者達の事を無駄にしないためにも、全力を尽くすのは当然なの。

さ、これからは本当の意味で忙しくなるの。 司令にも手伝って貰うの。」

「おお、任せておけ! 陛下とソフィアと、ドゥーハン市民と俺の部下達の仇、必ずとってやろうぞ!」

大きく頷くと、アインズは更に幾つかの書類を書き始め、クルガンは興奮を隠せずに外に出て

レンを呼び、連絡の取れる旧部下や、任務を終えて帰還してこれる部下達を集め始めた。

既に加速するだけ加速した迷宮内の状況が、これによって終末点へ向け動き始める。

その鍵になる人物アティは、周囲の状況がまとまってきた事など露ほども知らず

疲れ切った心と体をいたわり、宿にて一時の休息を行っていた。

 

水の中を、静かに、だが確実に回転しながら落ちていくような感覚だった。

アティは夢を見ていた。 今までの過去の断片を見せる物ではなく、正真正銘の〈夢〉であり

ゆっくりと巨大な空間を落ちながら、ぼんやり周囲を見回す彼女の周りを、小さな光球が乱舞していた。

「サビシイ」

小さな声が響いた。 寝間着を着たままゆっくり落ちていくアティが、無言で下を眺めやる。

そこには想像を絶する巨大な光の塊があり、光の玉を吸収して今この瞬間も大きくなっている。

それが放つ光量は圧倒的で、思わず手で光を遮りながら、アティはその質感を感じた。

「あー、えーと。 誰?」

「サビシイ・・・・サビシイ・・・・」

アティの呟きにも、巨大な〈それ〉は応えない。 ただ同じ語句を呟くだけである。

いや、少し違う。 〈それ〉の言葉は、声と言うには違和感がある。

呟いているのではなく、その思念を周囲に垂れ流し、ばらまいているような感覚だった。

光の玉が、アティのすぐ隣を通り過ぎた。 その正体を知って彼女は愕然とした。

それは人の魂だった。 苦悶を浮かべる戦士の顔が、その中に浮かんでいた。

またアティのすぐ前を、光が通り過ぎる。 今度は魔物の魂で、苦悶の表情を浮かべる巨人だった。

「サビシイヨ・・・・」

世界が弾けた。 弾き飛ばされる感覚を味わったアティは、一瞬後ベットからずり落ちた自分を発見し

血が出ないように気をつけて頭を掻きながら、毛布を押しのけ、ゆっくり起きあがった。

「何だったんだろ・・・今の」

アティは今の夢を、嫌にはっきり覚えていた。

丁度過去の夢を見たときのように、目覚めた後も、妙に印象に残る夢であった。

下の階で物音がする。 低血圧だから、すぐに寝覚めの頭をはっきりさせる事が出来ず

それでも無理に体を動かそうとして、布団を踏んでアティは思い切り転び

顔面から床板に激突して、盛大に音を階下に響かせたのだった。

 

1,共闘

 

アインズ将軍が現在ドゥーハンに集結させている戦力は、三個連隊約六千人だが

このうち約七割が迷宮内戦闘を未経験で、すぐに迷宮戦に挑むのは不可能である。

また、一方でクルガンは、任務から帰還した忍者兵を集めているが、これは十五人足らずにすぎず

先の戦闘で大打撃を受けた後遺症は色濃く、組織的に行動するのは難しい。

だから、アインズ将軍麾下の者達は、当分迷宮攻略戦は無い物だと思いこんでおり

それだけに主要幹部が緊急に集められた時には、困惑して様々な憶測を話し合っていた。

今回は連隊長が交代した以外は、第三次攻略戦とアインズ軍の幹部の顔ぶれは変化無い。

レドゥアが抜け、クルガンが頬に大きな痣を作っている以外は、ドゥーハン幹部の顔ぶれも変化ない。

天幕の周囲は精鋭が固め、魔法で遮音フィールドが張られて周囲への音漏れを防ぎ

厳重な警戒が敷かれる中、エルフの長老フォーンが、数人のエルフ重要人物と共に天幕へ入っていった。

中では、既にアインズが幕僚達と円卓についており、既知の人物を笑顔で迎える。

「お久しぶりですな、アインズ将軍」

「まったくお久しぶりなの。 残りは後、アティという冒険者だけなの」

フォーンが目を細め、席に着いた。 彼の予測通り、望むと望まぬに関わらず

アティは迷宮の深部にまで歩を進め、ついにドゥーハン王国が注目する存在となった。

「あの娘は、ついに迷宮の深部にまで達しましたか」

「それもあるけど、どうやらドゥーハンを襲った〈閃光〉の正体が、アティの手で判明したようなの」

その言葉に、幕僚達が色めきだった。 沈黙しているのは、その内容を知るクルガンだけだった。

「で、肝心のそのアティ殿は、どうなさったのですかな?」

「今部下をやって呼んでるの。 それと、レドゥアの研究室を押さえた結果・・・」

わざと声を止め、周りを見回して、アインズは続けた。

「中にあった研究記録から、オティーリエ陛下の死がほぼ確実になったの。

今までいた陛下は、レドゥアが禁忌の術で作り出した複製で、完全に別の人間なの。」

天幕内の音が止まった。 三十秒ほどの沈黙の後、副司令ショーズ少将が咳払いをした。

「それで・・・上層部はどういう反応を?」

「遺言の実行を行うだけなの。 既にイナ公女の即位は準備済みだし、問題はないの」

白けた目を向けられて、ショーズは冷や汗をハンカチで拭った。

彼はこの期に乗じて、野心を抱かないのかと暗に聞いたのだが

元々権力欲の無いアインズには、無用の乱を起こす行為は何の感銘も起こさせなかった。

ショーズの考えは、大国の上位の軍人として、いや野心を持つ軍人としては当然の物であるが

それをアインズが完璧に封殺してしまったので、無用の混乱は不発に終わった。

歴史を学んだものなら誰でも知っているように、野心という物は、本人の能力と全く関係なく備わる。

人格的に優れた政治家や軍人が、一方で野心の塊である事は珍しくもないし

逆に無能でも、野心は無く善良な政治家も少なくない。 どちらが国家に有益かは判断が難しいだろう。

「それよりも、私としては閃光の真実に興味がありますな」

「・・・この情報は口外無用なの。 あの閃光の正体は」

アインズの投じた言葉の破滅は、彼女の幕僚達とフォーン長老を驚愕させるに充分だった。

 

「アティ殿に用がある。 会わせていただきたい」

ヘルガの宿に現れた男は、ドゥーハン王国の紋章を見せると、開口一番にそう言った。

黒い服に覆面をした、人相がよく分からない男で、身のこなしに全く隙がない事から

忍者か或いは闇社会の出身者かと思われ、皆の顔に緊張が走った。

「悪いが、確かめさせていただく。 よろしいか?」

進み出たグレッグに、男は紋章を渡し、遠慮無く店内を見回す。

アティの御陰でこの宿は大分知名度が上がり、冒険者中心に客も増えてきて

今も何人かの冒険者が、遠巻きにだが興味深そうにやりとりを眺めていた。

「間違いないですな。 アティ殿を呼んでくればよろしいか?」

覆面の男は鷹揚に頷き、丁度その瞬間アティが自室で転び、皆が上を見上げた。

「何事だ? 何だ今の破壊的な騒音は」

「いえいえ、いつもの事故心配ご無用。 では、其処でお待ち下され」

グレッグの返答に小首を傾げながら、男は席に着いた。

サラがアティを呼びに行き、やがて本人が頭を掻きつつ現れる。

彼女は寝間着から素早く普段着に着替えたばかりで、まだ眠気が覚めないようだったが

それでも自分への客だと聞くと、頬を叩いて眠気を覚まし、小首を傾げて微笑んで見せた。

使者は驚いた。 商売柄アティの戦闘能力は一目で分かったが、それが穏和な行動に内包され

しかもそれと共存し、互いを妨げていない事に、新鮮な驚きを感じたのである。

「あー、えーと。 おはようございます。 私に何のようですか?」

「・・・アインズ将軍からの書状を預かってございます。 お目をお通し下さい」

無言のまま差し出された手紙を、アティは遠慮無く封を切り、読み始め

やがてそれを読み終えると、小首を傾げて使者に言った。

「私なんかを呼んで、将軍さんはどうしたいの?」

「・・・私には応えられません。 詳しい話は主君にお聞き下さい」

それだけ言って、使者は消えた。 アティはいつものように考えていたが、やがてリカルドが言った。

「どうする? アティ。 まさかアインズ将軍から直に声がかかるとは、名誉な事だな」

「えーとね、それはそうなんだけど。 グレッグさん、昨日の夜騒がしかったけど、どうしたのかな」

「それはですな、レドゥアの息がかかった拠点を、将軍が攻撃し、制圧させたためらしいです

詳しい経緯はまだ分かりませぬが、数時間でけりが付いた事もあり、将軍の勝利は間違いないかと」

不意に話を変えたアティに、グレッグは持っている情報を惜しげもなく披露し

アティは再びリカルドに視線を戻すと、手紙を渡した。

「リカルドさん、将軍さんが私一人に来て欲しいんだって。 場所は指定してあるけど、どうしようか」

「行けばいいだろう? 何を躊躇している」

「あー、えーとね。 うん。」

アティは考え込んで、視線を逸らした。 どうもその顔には迷いがあるようで、サラが小首を傾げる。

「アティさん、どうしたの?」

「・・・地下八層の事なんだけど、どうも気になって仕方がないの。」

「それはそうだろう。 あれを気にしない者がいたら、その方がおかしい。

むしろ今お前が普段と変わらなくて、みんな安心しているんだ」

「あー、えーと。 それは嬉しいよ。 でも、ちょっと違うの

私はもう大丈夫だよ。 私だけじゃなくて、ハイムさんもついていてくれるんだから」

記憶は即ち人格。 アティの中に、ハイムの人格が今いるのかも知れない。

二人で支え合っているから、耐えられるのかも知れない。

いや、それでも辛いだろう。 普通の者なら、支える人がいても耐えられないだろう。

アティが気持ちを切り替えるのに、どれだけ苦労したか、想像するは難くない。

「えへへへへへ、心配してくれてありがとう、リカルドさん。

でもね、この問題は少し違うんだ。 ちょっと違和感が残ってて、気になるの」

困ったように小首を傾げて、アティがリカルドを見た。

熟練の戦士は、その様を受けて自分が見当違いの事を言ったと気付き、咳払いして視線を逸らす。

黙り込んだリカルドに対し、今度はミシェルが言の葉を吐いた。

「お姉さま、あの記憶に疑問を持たれているんですか?」

「ううん、違うよ。 あれは絶対にあった事だと思う。 私の中の記憶と一致するんだから。

でも、何か引っかかるの。 それが分からなくて、さっきから悩んでるんだけど・・・

多分将軍さんは、その事を話したいんだと思う。 でも、私で役に立てるかなって。」

やがてアティが顔を上げた。 ヘルガが咳払いをしたからである。

「取りあえず行ってきなさいよ。行くとき来るときのポイントで考えるのがアナタのやり方でしょ?」

「そっか、そうだよね。 分かった、行って来るね」

「あ、ちょっと待ってくれ。 アティ、頼みたい事がある。」

外に駆けだそうとしたアティを引き留め、リカルドが視線を逸らし、少し頬を赤らめながら言う。

「アインズ将軍が、どんな御方か・・・見てきて欲しい」

「・・・。 いーよ。 じゃ、今度こそ行って来るね!」

指先を唇に当て、アティは不思議そうに数秒リカルドを凝視していた。

だがやがて手を振って、まるで少女のように、元気に雪の中彼女は駆けていった。

「何時まで経っても、いくつになっても、男の人って子供なのでございますね」

「あー、おほんおほん。 彼奴が帰ってくるまでは身動きができんからな。 俺は休むぞ」

悪気はない様子で、だがはっきりとヒナが呟く。

リカルドは照れ隠しか、或いは反論の不可能を自分で認めたか、大きく咳払いして自室に戻っていった。

 

雪の中、アティは歩いていた。 右手に握った地図は、既に雪の溶けた水で濡れてはいるが

目印は多いし、だいたい良く知っている地点の近くが会合場所だったので、問題はない。

その既知の場所、地下五層へのショートカットルートがある地点を取り囲み、円上に布陣し

まるで全体が巨大な生き物のように、迷宮へ睨みを利かせている巨大な陣地。

そこは理路整然としていて、兵士には乱れが無く、私語も極端に少ない。

完璧に統率され、いわば陣地そのものがアレイドアクションの母胎と言っても良い場所。

それがアインズ将軍の指揮する、ドゥーハン軍迷宮攻略部隊本営だった。

ポテンシャルが圧倒的に優れたユージン軍を、完膚無きまでに粉砕した手腕は伊達ではない。

陣地の隅から隅まで隙が無く、その人となりを伺わせる重厚且つ緻密な布陣で

それは近くからではなく、雪の降るドゥーハン市内からでも偉容を感じる事が可能であった。

百頭の羊を率いた獅子は、百頭の獅子を率いた羊に勝つ。

無能ではない、むしろ優れた将帥であるグレース相手に、その言葉を実践して見せたアインズは

別に誇るでもなく、ただ淡々とドゥーハン郊外に布陣していた。

市民の中にはその偉容を見て安心する者も少なくなく、つまり圧倒的な軍事力が希望につながるという

軍事力信奉者が涎を垂れ流して喜びそうな、下らなくも効果的な事例が此処に示されている。

それを見やりながら、アティはユージン軍の本営に一歩一歩近づいていた。

雪の積もるドゥーハンの町。 記憶の中の、竜剣士ハイムのいた町とは根本的に違う。

美しい白ではなく、破滅の白に全てが覆い尽くされ、歴史の影に溶け行こうとする。

誰もがそれに抗いながらも、結局は倒れ、冷たい屍とかしてゆく。

そんな町だった、現在のドゥーハンは。

アティは思い出せなかった。 記憶が戻ったというに、いつからドゥーハンはこうなのか思い出せない。

クルガンがそう年を取っていない事から、それほどの年月が流れていない事は明らかなのだが

具体的に何時なのか、そもそも今まで自分は何をしていたのか、さっぱり思い出せなかった。

何かが引っかかる。 何かが違う気がする。

アティは記憶に疑問を抱いてはいない。 あれは確実な自分の過去だと実感している。

しかし、何かが変だった。 近くを通りがかった冒険者がいたので、アティは興味本位で聞いてみた。

「あー、えーと。 ごめんなさい、ちょっといいですか?」

「あん? お、アンタは確か、アティさん! 聞きましたぜ、地下八層を攻略したとか?」

「えーとね、うん。 それはいいんだけど、ちょっと聞きたいの。 いい?」

自分が有名になっている事に、全く自覚がなかったアティは、少し困惑しつつ男に聞く。

「閃光が起こってから、今ってどれくらい経ってるんだっけ?」

「あははははは、噂に違わぬ面白さだ! ・・・大体十四ヶ月経っていますよ。 常識でしょう?

あ、そうだ。 俺の連れがアンタのファンなんすよ。 これにサイン・・・していただけません?」

「そっかあ。 ありがとう。 サインだね、えっと、ちょっとまってて。 はい、これでいいかな。」

可愛らしい字で、剣にサインするアティ。

もう平常心を取り戻し、奢った様子や照れた様子は最初からない。

自然体のまま冒険者と別れると、アティは再び雪の中を歩き始める。

彼女は不意にステップを踏んで、軽快に体を翻し、空を見た。

三十キロを超す首砕きを所持し、革製とはいえ鎧を装着しているとは思えない身軽さであった。

「十四ヶ月か・・・その間、何してたんだろう、私」

呟きは虚空に溶けて消えた。 違和感の正体が、アティの中で形になろうとしていた。

 

陣地の前では、レンが待っていた。

彼はアティを見つけると手ずから天幕まで案内し、幾つかの注意をすると咳払いをした。

「アインズ将軍は気難しい方ですが、無慈悲な方ではありません。 ご無礼なきように」

「うん。 有り難う、レンさん」

笑顔を見せたアティに、未だ少女の自分の娘の面影を見て、レンはまぶしそうに目を細めた。

天幕の中は暖かく保たれており、アインズの幕僚達と、エルフ族の長老フォーン

それにクルガンとアインズ本人がいて、アティに着席を促すと興味深げにその様子を観察した。

「お初にお目にかかるの。 私はアインズ=シェライ。 ドゥーハン軍中将をしているの。

そっちは私の幕僚達。 フォーン長老は、確か既知の間だったの?」

「そう言う事になる。 久しぶりだな」

目を細めて頭を下げたフォーン長老に続いて、アインズの幕僚達が次々にあいさつをした。

クルガンはその様子を見ながら、アティが誤解されるのではないかと一瞬心配したが

叩き上げの軍人には、一見してとろそうなアティが、内部に強烈な意志力と行動力を有し

かなりの傑物である事が素直に理解できたようで、偏見にとらわれずアティを見ている。

アティはごく自然に彼らにあいさつをすると、進められた椅子に遠慮無く座り

肩に積もった粉雪を払い落とし、暖かい飲み物を口にしてから、アインズに視線を向けた。

「あー、えーと。 ところで、私に何の用ですか?」

「貴方が何者かは、クルガンに聞いたの。 背負う物も、戦う相手も、武神の正体も。

我々はそれを元に対応を協議し、結論を出したの。

・・・これから私達がサポートするから、迷宮の攻略戦を行って欲しいの。」

小首を傾げるアティ。 予測と外れた事を聞かれたのだから当然だろう。

彼女は、これから自分の正体や背負う物について根ほり葉ほり聞かれる物だと、覚悟していたのだ。

これはクルガンが社会的地位を持つだけでなく、愚直ながらも嘘を決して付かない者だと皆に信頼され

精神的な地位を、各個として確保していたからであろう。

また、それをアインズが評価し、真っ先に信頼して見せたのも情報の浸透の後押しをした事疑いない。

アインズはフォーン長老に視線を向け、老エルフは笑みを浮かべた。

「我らは、お前をサポートするのが上策と考えたのだ

国家の混乱の方は、我らに任せろ。 お前は仲間と共に、武神を倒して貰いたい。

この混乱の元凶になっている武神は、ドゥーハンのために倒さなくてはならないのだ」

「うん、そのつもりだよ。」

「頼もしいな。 我らとしては、軍を動かすよりもバックアップで君を支援したい」

参謀長アークン少将が、威風堂々たるカイゼル髭をなでながら立ち上がり、兵を呼ぶ。

呼ばれた兵士達は、命令を受けて外に飛び出していき、何かを運んできた。

厳重に封印され、慎重に運ばれ来るそれは、遠い未来の産物にも見える機械の塊であった。

「これは一方通行の〈道〉を作り出す魔導器だ。 謀反人レドゥアの研究室から押収した」

「えっと、〈道〉ってなんですか?」

「前に森からお前たちを魔法で転送した事があっただろう。 アレを恒久的に発生させる魔導器だ

クルガンから報告を受けているが、フレッシュゴーレムはこれで転送されたのだろう。

正確な座標が分からないと使用できないが、それはクルガンが持ち帰ってくれた。

次からは一気に第八層の最深部に入る事が出来るぞ。 これほど有益な支援はあるまい

これの使用を、お前達他一流の冒険者達に許可する。

必要と在れば、転移の薬も支給する。 金銭面でのバックアップもある程度はしよう」

長老の言葉を聞き終えると、アティは唇に指を当て、その後笑顔で聞き返した。

「あー、えーとね。 私は異存がないんだけど、いいの? こんなにして貰って、悪いよ」

「我々には、実のところ、これくらいしか採る手段がないの。

軍を幾ら投入しても、第二次迷宮攻略戦の二の舞になる事は目に見えてる。

まして、今は迷宮攻略用の訓練を受けた兵士達が出払っていて、有効な戦力は殆どいないの。

だから、貴方に期待するの。 正確には、貴方達に、だけどなの。

経歴はどうあれ、貴方達は迷宮攻略のプロフェッショナルで、実際に魔神インキュバスを撃破して

実績も積んでいるの。 これ以上迷宮攻略に特化した人材はそう無いし、育てるのもすぐには無理なの。」

アインズは肩をすくめた。 そしてショーズに命じて、地図を持ってこさせる。

「ただ、これだけはやって欲しいの。 迷宮の白地図をあげるから、これを出来る限り埋めてくるの」

「・・・うん、いいよ。 私達が負けたときの保険だね」

「これから私は軍の訓練をするの。 もし貴方が負けても、攻略に着手できるようになの。」

二秒ほど考えてからアティが応えたのを受けて、アインズは大きく頷く。

アティが決して頭脳的に劣悪なわけではなく、一般時は瞬発力が働かないだけだと理解できたのだ。

戦闘時の行動力と、的確な判断力はクルガン他、様々な情報で確認済みである。

普段もおっとりしてはいても、最終的に頭脳が働くなら、これで問題ないだろう。

「じゃ、そろそろ帰っても良い? みんなが、宿で待ってるから」

地図を丸めて、受け取ったアティが言うと、アインズは頷く。

マイペースで天幕を出て、宿に帰っていくアティの背中を見送りながら、ショーズが呟いた。

「何というか、個性的な娘ですな」

「有能な人材は灰汁が強いものなの。 それを使いこなしてこそ、真価ある司令官といえるの。

そんな事よりも、兵士達の訓練を開始するの。 一ヶ月以内に、モノにするの!」

幕僚達が一斉に立ち上がり、敬礼した。 司令官の自負を聞いて、心地よい興奮が皆の目に宿っていた。

クルガンも満足げに頷いて立ち上がると、レンを呼び、自らも行動するべく準備を始めたのだった。

彼の目的は、レドゥアの抹殺。 部下達の仇を打つべく、彼の心と瞳は燃え上がっていた。

 

2,炎の迷宮へ

 

地下九層は、二つの区画に区切られた、特殊な迷宮である。

一つは地下八層の入り口からつながるダミーの迷宮で、此処は先に進む道が無く

迷宮自体がトラップになっており、入るごとに構造が代わる事もあって非常に危険である。

一方、もう一つの地下九層は、殆ど未知の領域であり、足を踏み入れた者はごく少数であった。

そこは、灼熱の炎の渦巻く、地獄の迷宮である。

下位の竜族の中では、最強級の実力を持つレッドドラゴンが、炎が如き紅蓮の鱗を身に纏い

長大な尻尾を揺らしてその巨体を運び、我が物顔に歩き回る。

それに決して劣らぬ強力な魔物達が各所に無数に巣くい、蠢いている。

普通の冒険者では、入った途端に撤退を決意する程の、凶悪な危険度が渦巻く場所。

圧倒的な障気が、魔物達の威圧感が、想像を絶する重圧となって覆い被さってくる場所。

それが地下九層だった。

魔物達の咆吼が満ち、断末魔の咆吼が響き渡る。 猛き雄叫びと、燃え上がる溶岩の流れる音が

それらに彩りを添え、限りなく繰り返される巨大な者達の死闘を後押しし、またレクイエムとなる。

「ジョナサン! レイウッド!」

そんななか、場違いな人の声が響いた。 そして、すぐに聞こえなくなった。

代わりに聞こえてきたのは、巨大な何かが引きずられる音。

だが、周囲に満ちている喧噪に紛れ、すぐにそれも聞こえなくなった。

地下九層は、今日も猛り狂う迷宮として、炎の中に佇立していた。

 

地下九層の情報はドゥーハンの町に殆ど流通しておらず、その収集は困難を極め

酒場から戻ってきたグレッグは、情報のあまりのなさに頭を振り、手を挙げて言った。

「様々に手を尽くしてはみましたが、此処以降は情報らしい情報もありませんな

爆炎のヴァーゴは地下十層まで行ったという話ですが、あの者から情報を引き出せるとは思えません

申し訳ありませんが、お手上げです。」

「うーん、ヴァーゴさんって、悪い人じゃないと思うんだけど。

そっかあ、グレッグさんにもどうにも出来ないんだ。 じゃあ誰にも何とも出来ないよ」

アティが呟いたので、リカルドとサラが同時に吹き出した。

よりにもよって、あのヴァーゴが良い人とは。 圧倒的な殺気、危険な性格、あの凄まじい強さ。

何度も交戦したが、いずれもギリギリの戦いであった。 そして、好意を感じられた事は一度もない。

なのにアティはヴァーゴを悪い人では無いという。 驚くのも当然であったろう。

それには構わず、アティは小首を傾げ、そして笑顔で言った。

「それじゃあ、会議しても仕方がないよね。 みんなはどう思う?」

ミシェルもヒナも、リカルドもサラも。 そしてグレッグも、情報がない以上は仕方がないと言った。

だが、ヘルガは違った。 腕組みして考えていた彼女は、頭を上げて目の奥に微妙な光を湛える。

この娘は、アティと会ってから戦略家としての本分が目覚めて、的確なアドバイスをする事が多い。

要するに冒険者としてよりも、総司令官として、そしてスポンサーとして優れた人材だったのである。

最近は本人もそれを自覚し始めていて、仕事の間にまめに戦略論を勉強し

真綿が水を吸い込むようにそれを吸収して、確実な知識へと昇華させていた。

「待ちなさい。取りあえず資金にこれからは不足しないんだから戦力可能なだけ整えときなさい

アンタ達は強くなってるけどこの先は何があるか分からない。準備をするに越した事はないわよ」

「あー、えーと。 ヘルガさんは慎重だね」

「・・・未知の地点に挑むのだからこそ準備はしっかりしなきゃいけないのよ。」

ヘルガの瞳が熱を帯び、戦略論に移ろうとしたとき、ドアを叩く音がした。

鷹揚にヘルガが咳払いすると、店の従業員が来客を告げる。

「オルフェ様と、アオバ様という方がおいでです。」

「おや? オルフェ殿とアオバ殿と言えば、まず一流と言って良い冒険者ですな。」

「待ってもらっちゃ悪いよ。 ヘルガさん、ごめんなさい。

準備をしっかりしていけばいいんだよね。

後でしっかりお買い物して、ギルドで勉強していくけど、それでいい?」

ヘルガが鷹揚に頷き、客が会議室に呼び込まれる。

入ってきたのは褐色の肌と蒼い目を持つ屈強な女戦士と、無精髭が目立つ侍だった。

戦士の名がオルフェ、侍の名がアオバである。 二人はアティが来る前から名の知れた冒険者だった。

 

この二人組は、ドゥーハンにおいてまず一流とされる冒険者であり

少し前の第三次迷宮攻略戦でも、魔神数体を屠り、その実力を周囲に見せつけていた。

アンマリーなどに比べて、活躍はどちらかと言えば地味だが、とにかく堅実なのが売りの二人組である。

オルフェがリーダー、アオバが一歩引いてもり立て、戦いでは常に息の合うコンビネーションを見せ

地獄と言っていいこの迷宮を、今まで生き残ってきた猛者だ。

その例を示す第三次迷宮攻略戦では、必ずアオバがサポートをして、オルフェが魔神を屠っていた。

そして、この地獄の環境で一流と呼ばれていると言う事は、二人は世界の何処に行っても通じる

攻守共に優れた、第一級の冒険者であると評価する事が出来よう。

元々良家の子息であるオルフェは、遠慮というものを知らないようで、無愛想に部屋を見回し

アティを見つけると、露骨に不信の光を瞳に宿らせ、アオバに聞いた。

「アオバ、こんなとろそうな娘が、本当にあのアティなのか?」

「お嬢様! 申し訳ございません、お嬢様は少し気が高ぶっておいでなもので」

アオバが頭を下げる。 オルフェのこの様子では、おそらく下げ慣れているだろう頭を下げる。

ただ、その様子に卑屈さはない。 奴隷と言うよりも、執事という言葉が似合う動作だった。

実際オルフェもアオバを信頼しているようで、苦言を呈されて素直に文句を言うのを止めた。

おそらく本人も、足りない所をアオバが補ってくれている事を貴重に思っているのだろう。

それに、自分の気が高ぶっているのを、自覚しているのかも知れない。

「あー、えーとね。 気にしなくて良いよ。 取りあえず座って。」

アティが予備の折り畳み椅子を倉庫から自分で取り出し、二人に勧めた。

尊大に頷くと、オルフェはそれに座って腕を組む。

一方アオバは席に着く事を手を振って謝絶し、一歩下がってオルフェの斜め後ろに立ち

あくまで執事としての姿勢を見せた。 それは彼のプライドの一つなのであろう。

椅子を倉庫にしまったアティが席に着くと、オルフェは剣を机に立てかけながら言った。

「実は、依頼したい事がある。 我が父を捜して欲しいのだ」

「お父さんを? 迷宮の中にいるの?」

オルフェが頷き、腕を組む。 今度は代わりにアオバが発言した。

「お嬢様の父君、グスタフ准将は第二次迷宮攻略戦で、第九層まで行きましたが

そこでの激戦のさなか行方不明になり、現在まで姿を見せておりません。

アインズ将軍の話だと、撤退戦の途中で命を落としたとの事ですが、死体は見つかっておらず

またグスタフ准将を見かけたという冒険者が現れたため、お嬢様は探索を決意なされました」

「成る程、それでそのお父様を捜すのを私達に手伝え、と言うことね」

「そう言う事だ。 情けない話だが、我らの実力では地下八層に辿り着くのがやっとでな

今回一応〈道〉の使用を許可されたが、強力なレッドドラゴンに会って生きて帰れる保証はない

我らまで死んでは本末転倒だ。 故に、恥を忍んで依頼に来た。

報酬は金だ。 金貨をこれだけ払おう。」

サラの言葉にオルフェはあくまで威厳を保ち、だが屈辱を言葉の端に乗せながら言った。

机の上に投げ出された金貨の袋は重く、グレッグが念のために開いて、中身が本物である事を確認する。

「お姉さま、どうしましょう。 おそらくこれは・・・」

ミシェルの言葉の意味は明らかだった。

目撃されたオルフェの父が、死人ではないかと言ったのだ。

第八層で明かされた真実からすれば、後からドゥーハンに来た者以外、町の住民は全て死人だ。

そして迷宮内で死んだ者もまた、実体を持って彷徨う可能性がある。

その実例を目にしたヒナは、何か発言しようとしたが、リカルドが肘でこづいて黙らせた。

不可解そうに眉をひそめたオルフェを見て、ミシェルは咳払いし、アティの発言を待つ。

困ったように頭を掻いていたアティは、それを受けて、静かに言った。

「あー、えっと。 いいよ。 でも約束して。 絶対に無理はしないでね」

「当然だ。 足を引っ張りはしない、自分の身は自分で守るから心配するな

アオバ、行くぞ。 我々は〈道〉の設置地点にて待つ。」

あくまで尊大にオルフェは言い、依頼を受けてくれた礼も言わずに部屋を出ていった。

何時も依頼を受け、調整をしているのはアオバだから仕方がないかも知れないが、少々尊大すぎる。

謝り慣れているらしい彼がもう一度頭を下げると、むしろ気の毒そうにサラが言った。

「気にしなくて良いわ。 私達、気分悪く何てしていないから」

「お嬢様は素でああいう方なのです。 心優しい方なのですが、思いやりが足りなくて」

「思いやりが足りない方が、父君を迷宮に探しに行くなどと言うことをするでしょうか

頭をお上げ下さいませ。 貴方は何も悪くありません」

ミシェルが言うと、もう一度アオバは頭を下げ、椅子を片付けて部屋を出ていった。

「忠臣ですな」

「うん。 でも、あの人本人よりも、お父さんの事が心配なのかも知れないよ

さ、行こう。 まず、足りない武器とかをそういうのをお店で買って、ギルドで魔法を強化して。

えーと、後はアレイドで良いのがあったら仕入れていこう」

 

〈道〉の設置地点は、ドゥーハン軍本営の中央部であり、そこには魔法陣が設置されていて

周囲は厳重に警戒がしかれ、第三者の進入を妨げている。

幾人かの術者が結界を張り、もしも魔力が逆流した時のために備えているのは

地下深部の魔物の強さを知っているからで、どれだけ慎重になっても臆病とは言えまい。

既に何人かの冒険者が入っていき、様子を見てきたようだが、やはり状況は厳しいようだった。

「地下九層は灼熱地獄で、レッドドラゴンが普通に幾匹もうろついているとか。

軽い気持ちで入る事は出来ませんな、アティ殿。」

怪我をしたり、やっとの事で帰ってきた冒険者達に話を聞いたグレッグの顔は、心なしか青ざめていた。

それに対するアティの言葉は、いつものようにマイペースで、緊迫した気を抜く。

「地下八層だって大変だったじゃん、だから大丈夫だよ。 えっと、こういうのを何て言うんだっけ

・・・虎さんの穴に入って、乞食になる」

「それを言うなら、虎穴に入らざれば虎児を得ず! 訳のわからん事を言うな!」

「意味が分からないです。 もうしわけございません」

「あー、えーとね。 えへへへへ、ごめんなさい。」

激高したリカルドと石化したヒナに、アティが謝る後ろから、咳払いの声が聞こえた。

振り向くと、視線を逸らして何故か必死に笑いをこらえているアオバと、仏頂面のオルフェがいた。

「やっと来たか、随分遅かったな」

「えっと、オルフェさん。 ごめんなさい、準備に手間取って」

「アティとやら、凄まじい剛剣を振り回すと聞いてはいたが、本当にそれを使いこなすのか?」

「これ? うん、私が雪の中で気がついた時から、ずっと持ってる剣なの。

だから今までずっと一緒に戦ってきたし、これからもずっと一緒に戦っていくよ」

長さにして1,5メートル、重量三十キロの、分厚い刀身を持つ剛剣首砕き。

ドワーフの戦士や、重戦士だけが使いこなせる剛剣を、平気で振り回すアティの常識外な力。

普通の戦士なら、持ち歩くのさえ苦痛になる重量を身につけ、アティは平然と微笑んでいる。

対してオルフェの使う剣は、細身の魔法がかかって切れ味をあげた剣である。

名剣ではあるが、流石に地下深部の敵が相手では荷が重く、先日の探索ではキメラに苦戦した。

どうしてもこの柔な刀身とオルフェの力では、巨体を持つキメラに致命傷を負わせる事が出来ず

獣特有の的確な攻めを連続して受け、危地に立たされたのだ。

結局何とか勝てたが、オルフェとアオバは一戦にして傷だらけになり、撤退を決断せざるをえなかった。

首砕きのウリは、とにかく重く、そして破壊力が常軌を逸している事にある。

確かにこの凄まじい武器を使いこなせるのなら、魔神や竜族にも戦いを挑めるだろう。

だが逆に、使いこなせなければ、このような物ただの鉄の塊に過ぎない。

現に今までアティはこれを使いこなし、戦果を上げてきているのだが、すぐにそれを認めるのは難しい。

オルフェは、やはり疑惑を持って、アティの首砕きを眺めやるしかなかった。

対してアオバは、先ほどからそんな剣を所持しながら、歩調に全く乱れなく

体の重心もぶれず、問題なく行動するアティの実力と身体能力を見やり、一人感嘆していた。

やがて不毛な思考的循環を無意味と考えたか、オルフェは頭を切り換え、歩き出した。

「此処にいても時間の無駄だな、さっさと行くぞ」

「お嬢様! 申し訳ございません、アティ嬢」

「アオバさん、いいよ、頭なんか下げなくても。

ただ、迷宮の中じゃ先に行かないでね。 ここから先、何があるかは本当に分からないんだから」

不意に真剣な表情になってアティが言ったので、周囲の者は皆気を引き締めた。

 

3,紅蓮の竜

 

地下八層の最深部は、暗く冷たい空間であったが、在る一点で様相が変わった。

祭壇だった部分が崩れ、そこに空間のひずみが発生している。

そしてそこに、地下九層だった部分、おそらく地下深くにあった異界の迷宮と繋がる階段ができていた。

階段の上でさえ、凄まじい熱気が充ち満ちている。 中から、何者かの咆吼が響いてきた。

「周囲に罠はありませんな、アティ殿。」

「うん、じゃあ気をつけて進もう。 ドラゴンさんと逢わないといいんだけどね」

「・・・俺はいつの間にか、レッドドラゴンと戦えるほどの力を付けていたのか」

ふとリカルドが漏らし、祝福の剣の柄に触れた。 熟練者等という、常識的な器に満足していた自分。

それがアティに助けられ、引きずり上げられ、ここまで来た。 感謝は絶えず、今も大事に思う。

アティの背中を見て、安心感を覚える。 リカルドは歩き出し、周囲を見回した。

周囲は複雑に入り組んだ、穴、穴、また穴。 部屋らしい物はなく、無数の穴が入り組み、絡み合い

彼方此方に溶岩が吹き出していて、地上の物とは全く異なる生物が蠢いていた。

「リカルドさん!」

我に返ったリカルドが、横に飛び退き、剣を抜き放つ。

一瞬前まで彼がいた地点で歯をかみ合わせ、獲物を捕らえ損ねた巨大な生き物が悔しそうに咆吼した。

深紅の竜、レッドドラゴン。

竜の口の中には炎がちらついていて、目は暴力に酔い、尻尾は鞭のようにしなって周囲の空を切る。

素早く陣形を組み、アティが剣を抜き放った。 その表情に、敵の力故か、余裕はなかった。

「リカルドさん、大丈夫だった? ダブルスラッシュ行くよ!」

「おう! 不意を打つとは情けない竜だ、行くぞ!」

それほどの巨体で不意を打つとは、流石にこの階層の怪物の強さは伊達ではない。

リカルドに言うと同時にアティはサインを後方に素早く出し、溶岩の冷え固まった岩を蹴った。

「・・・お嬢様、我々は少し下がって様子を見ましょう」

「そうだな、あの様子だと奇襲されると厄介だ、転移の薬の用意をしておけ」

冷静に言い、オルフェは少し下がって距離をとった。

アオバが周囲を見回し、奇襲されにくい位置に移動する。 その間も、戦いは続いた。

レッドドラゴンがその手を振り下ろし、爪を叩き付ける。

直撃を受ければ勿論命はない。 鋭い爪は岩をも砕き、粉々に吹き飛ばす。

間一髪で今の一撃をかわしたヒナが、素早く二度ドラゴンの腕に斬りつけるが、それは効果を示さず

鱗を数枚弾いたにとどまり、戦況を好転させない。

三度目の攻撃で有効打を欠いたアティは、若干距離を取ると、再び後ろにサインを出して叫ぶ。

「リカルドさん、ヒナさん! バックアタック!」

「分かりました! 行きます!」

同時にドラゴンが身をそらし、体の中にため込んだ炎の気を解放せんと躍り上がるが

炎を吐くにはいたらず。 攻撃は不発に終わった。

次の瞬間、アティが跳躍して回転しながら、首砕きを先ほどヒナが攻撃した場所に叩き付けたのだ。

流石に重量級の首砕きから繰り出される一撃が、鱗を砕き、太い腕に食い込む。

絶叫するレッドドラゴンに、更にヒナが一撃を叩き付けた。

そして、できた隙を有効に生かし、背後に回ったリカルドが尻尾を大きく切り裂く。

いずれも急所を貫いた一撃で、ドラゴンは数カ所から鮮血を吹き出して絶叫し

地面に倒れてのたうち回った。 致命傷には至らないが、軽傷と笑い飛ばす事は出来ない。

危なげなく着地すると、アティは素早く下がろうとするが、しかし今度は敵の反応が早い。

レッドドラゴンが立ち上がり、その鱗と同じ紅蓮のブレスを周囲に吐き散らす。

既にアティが指示していた物か、ミシェルが防御魔法を展開するが、ブレスはそれを貫いた。

周囲を炎が覆い尽くし、アオバが手で庇を作って光を遮る。

煙がはれると、アティが膝を突き、首砕きを杖に立ち上がるのが見えた。

死者はいないが、リカルドがかなりの火傷を負い、アティが続けて指示を出している。

サラとミシェルが魔法を唱え始めるのを見ながら、オルフェは呟いていた。

「・・・何だ、たいしたこと無いではないか」

「いや、今のタイミングで防御魔法を展開したのは、極めて的確です。

普通のパーティなら、今の一撃で全滅でしょう。 冷静な指示は流石ですね」

アオバが視線を向けたレッドドラゴンが、続いての攻撃に耐え抜き、再び体内に炎の気をため始める。

「グレッグさん、前に出て。 ヒナさんとダブルスラッシュ!

サラさん、回復魔法、ミシェルさんはジャクレタ準備して!」

アティは首砕きを振り、突進した。 前衛に出たグレッグとヒナが、一瞬遅れてそれに続いた。

レッドドラゴンが腕を振り、アティが鎧に数本傷を作りながらバックステップし

その間にグレッグとヒナが左右に飛び別れ、同時に火竜に襲いかかろうとする。

レッドドラゴンが口の端を歪め、笑ったように見えた。

「同じ手が何度も効くと思うか? 双方向からの攻撃など、もう通じぬ!」

それは確かに、ドラゴンの口から発せられた。 ドラゴンが鋭く尻尾を振り、グレッグが弾かれる。

更にヒナがその先端に捕らえられ、壁に叩き付けられて意識を失う。

ドラゴンが大きく体を反らす。 その口の中には、既に灼熱の地獄が具現化していた。

「終わりだ! 死ね!」

「ジャティール!」

二つの言葉は同時だった。

サラとミシェルの魔法協力による、凄まじい雷光がドラゴンの顔面に炸裂した。

「な、何っ! ぐがああああああああっ!」

それはドラゴンに致命傷を与えはしなかったが、その視界を閃光にて灼き、一瞬動きを止める。

だが、それ以上に心理的な動揺が大きく、レッドドラゴンは焦りに支配された。

そしてその間に死角に入り込んだアティが、困惑して顔を下げようとしたレッドドラゴンの顎下へ

全身の筋肉を躍動させ、はじき出された弾丸のように飛んだ。

首砕きの刀身が、ドラゴンの顎に真下から突き刺さり、脳を貫く。

そしてその先端は頭頂部から飛び出して、溶岩の迷宮にふさわしい紅蓮の雨を作り出した。

「ゴギャアアアアアアアアアアアア!」

断末魔の絶叫が響き渡る。 周囲の岩が、苦痛と恐怖を帯びたそれを受けて揺れた。

そして、バランスを崩したアティが、地面に叩き付けられ

崩れ落ちるドラゴンの死体に押しつぶされそうになり、場の空気が一瞬凍結する。

ミシェルが叫ぶ、だがドラゴンの倒壊は止まらない。

「お姉さま! お姉さまー!」

巨大な肉塊とかしたレッドドラゴンが、凄まじい地響きを伴い床と接吻した。

永劫とも思える沈黙。 死を帯びた沈黙。 だが、アティは生きていた。

その脇で小さな人影が二つ起きあがる、無論一つはアティである。

今一つは、回復魔法を捨て置いて走り、捨て身の覚悟でアティを助けたリカルドだった。

「以前似た状況でグレッグがお前を助けたが、今度は俺の番だな」

「うん、ありがと、リカルドさん」

ひょいとリカルドの腕の中から抜けでると、埃を払ってアティは笑った。

もともと恋愛には縁も興味もない娘だが、此処まで淡泊だと見物である。

少し残念そうにリカルドは視線を逸らし、自らも埃を払っておもむろに立ち上がった。

「サラさん、グレッグさんと、ヒナさんをお願い」

「分かったわ、ちょっと待ってて」

鈍い音が響いたのは、アティに抱きつこうと駆けだしたミシェルをサラがどつき倒したからである。

サラの治療は手際が良く、すぐにヒナとグレッグは意識を取り戻した。

続いてサラに自分の火傷を直してもらいながら、リカルドが疑問をアティに呈する。

「しかし、アティ。 レッドドラゴンの奴、何で驚いていたのだ?」

「ん? それはね、私がサインを出している事に気付かなかったからだよ

ドラゴンさん、私が口に出してる指示しか注意払ってなかったから。」

「そうか、奴は獣のふりをする事で、自分が知能を持っている事を隠し

戦いが佳境になってから知能がある事を見せる事で、俺達を心理的に追いつめようとしていたな」

サラがフィールズを唱え、皆の火傷が消えていく。 アティが頷き、リカルドの言葉を肯定した。

「あー、うん。 びっくりした私達を見て、頭脳戦で圧倒したと思っちゃったんだね

だから、私が嘘の指示を口にするとあんなに驚いて、えーと、なんだったっけ

あ、そうだった。 補欠になっちゃったの。」

「それを言うなら墓穴を掘るですな。 それはそうとして、レッドドラゴンが人語を解すると

何時気付いたのですかな、アティ殿」

「最初からだよ? だって私の言葉にいちいち目を細めてたし、隠してたけど対応が早くなってたし。

半分くらいは勘だったけど、ドラゴンさんの行動がそれを後押ししてくれたよ。

あ、そうだ。 オルフェさんとアオバさんは無事? ちゃんと逃げててくれるといいんだけど」

さらりと言うと、アティは周囲を見回し、すぐに二人を見つけて手を振った。

「・・・成る程、大した物だ」

「頼りになりますね、お嬢様。」

敵わない事を認めてオルフェが頭に手をやり、アオバがその隣で静かに笑った。

鋭い観察力と判断力。 正しい選択を選び取る力。 動物じみた、いやそれ以上の勘。

戦術家としては申し分のない能力であり、しかもまず一級と言っていい高いレベルだ。

本人の強さ以上に、それがアティの武器となっている、それを皆に再確認させる出来事であった。

 

4,迷いし男

 

地下九層の構造は、立体的であったがそれほど高低差はなく

滝をそのまま包んだ地下五層のような意地の悪い構造ではなく、むしろ平面的な迷宮に近い。

故に特に高低差を気にする必要はなく、グレッグは淡々と地図を埋めていった。

しかし、簡単にその全てを進む事は出来なかった。

探索で問題になったのは、周囲に延々と伸び続ける無数の見分けがつかない通路である。

これは右にくねり左に曲がり、上に延び下に進んで、それぞれが複雑に交差しあい

しかもその先が溶岩の池になっていたり、逆に先へ進める広間になっていたり

とにかく探索者泣かせの構造として、アティ達の前に立ちふさがった。

現れる魔物も強い。 レッドドラゴンだけではなく、炎を吸収するスライムや

無数の触手を伸ばして獲物を絡め取ろうとする、植物のような動物のような奇怪な生物ローパー。

彼方此方をうろつくは、地下七層でアティが苦戦したファイアージャイアント。

それにレッサーデーモンの一段階上の、鋼鉄の肉体を持つ魔神デーモンなどである。

凄まじい劣悪な環境で生きてきた生物たちと、それ以上の環境で生きてきた魔神達が住む魔境。

八回目の戦闘を終えた時点で、サラの魔力が半分を切った。

ミシェルもかなり消耗し、大きな魔法はそう何発も撃てないだろう。

つまり、帰るべきか進むべきか、判断するべき状況が訪れた。

「あー、えーとね。 グレッグさん、地図はどんな感じ?」

「着実に埋まってはいますが、とにかくこの構造では、先に何があるか分かりませんゆえ。

もう少しだとも、まだまだだとも言えませんな。」

自分の掌で顔を扇ぎながら、アティはため息をついた。 暑さが疲労を倍加させているのは疑いない。

激しい戦闘の後などは、体が焼けるように熱くなる事も珍しくないが

この環境はそれとは別の意味で、非常に辛い。 雪のドゥーハンに慣れている体には、尚更だろう。

「オルフェさん、お父さんってどんな人?」

ミシェルがリカルドと簡易結界を張って、奇襲を防ぐ準備をする様子を横目で見ながら

アティはふいにオルフェに向け、質問した。

「勇敢な武人だ。 アインズ将軍の麾下でも、宿将として名高かった。」

「んー、えーと。 そうじゃなくて」

「黒い髪に褐色の瞳。 肌はお嬢様と同じ色。 背が高く、そこのヒナ嬢並でした」

アティが困った顔をしたのを見て、アオバがオルフェに助け船を出した。

それを聞くとアティは考え込み、準備が終わった皆を呼んだ。

「もう少し詳しく聞かせて、アオバさん。 みんなで対策を練ろう」

ヒナがそれを聞くと、少し体を浮かせた。 兄を見つけたときと同じ事が行われようとしていたからだ。

あの一件でアティを信頼するようになった彼女だったが、やはり事件自体はトラウマになったようで

時々うなされて、汗びっしょりになっているのをミシェルが目撃している。

(余談であるが、ミシェルとヒナは相部屋である。

ミシェルはアティにしか興味がないので、ヒナに危険はない。)

「・・・極めて几帳面な方でした。 部屋は常に綺麗に片づき、一方で部下には寛大でしたね

自分に厳しく、部下には優しく。 要するに非常にまじめで、融通の利かない方でした。」

「アオバ、父上を愚弄するか!」

「オルフェさん、お父さんが好きだったんだね」

アティの優しい声を受けて、オルフェが見る間に真っ赤になり、ついと視線を逸らす。

「あー、えっとね。 でも、お父さんが好きなんだったら、欠点から目を背けちゃだめだよ

欠点があるから嫌いなんて、完璧な人だから好きだなんて、少し寂しいよ

お父さんが好きなら、欠点も一緒に好きになってあげよう?

無条件で好きにならなくても、どうすればいいか考えてあげよ? その方がお父さんも嬉しいと思うよ」

「・・・分かったような口を」

吐き捨てると、オルフェは動揺を隠せず、壁を叩いた。

アティの言葉の正しさを、そのうちに含まれる優しさを、自分でも認めざるを得ないのだ。

黙り込んだ良家の子女を見て、リカルドが咳払いし、アオバに向き直る。

「続けてくれ、情報がもっと必要だ」

「・・・分かりました。 有用な情報ですか・・・そうですね。

何しろ、あの名将アインズ将軍の部下だったという事もありますが

その前に仕えていた方々も、常勝将軍の名が高い将軍様達だった事もありますが

戦場で部下を見捨てた事がないと言う事を、武人としての誇りにしていらっしゃいましたね」

「・・・まさか、逃げ遅れた部下のために、まだこの辺をうろついているのかしら」

「あり得ますね。 グスタフ将軍なら、それくらいやりかねません」

その言葉を聞いて、オルフェとアオバ以外の全員が、グスタフの死を確信した。

グスタフの魂は、逃げ遅れた部下達を捜して、まだこの辺りをうろついているのだろう。

後は魂を救ってやらねばならない。 まずは、准将を捜し出さなくてはなるまい。

「ミシェル殿、何か障気のような物は感じないか?」

「もうこの辺りでは、障気が多すぎて分かりません。 逆にそれが無い所の方が少ないくらいで・・・」

辛そうにミシェルが応え、グレッグは考え込む。 代わってリカルドが目の奥に閃きを宿し発言した。

「・・・アインズ将軍は、どういう風に集合の合図をかける?

確か集合や前進といった合図は、軍によってそれぞれ違うと聞いたぞ」

「ラッパを使いますが、それが何か。 再現できますよ」

「アティ、どうする?」

不可思議そうに首を傾げるアオバの前で、オルフェを除く全員がアティを見、小さく頷いた。

ラッパを吹けば、妄執の塊になっているグスタフ将軍が現れるかも知れない。

だが、それはただの魔物を呼び寄せてしまうかもしれない。 これは賭けだった。

「アティ嬢・・・?」

アティは考え始めた。 アオバが困惑し、オルフェが背を向けている中、静かに考えている。

十六秒が経過して、アティが手を打つ。 そして顔を上げ、言った。

「えっと。 うん、やってみよう。 ・・・総力戦の準備して」

一斉に全員が気を引き締める。 アオバとオルフェが、困惑しながらその様を見守った。

 

ラッパが吹き鳴らされた。 一度でなく、二度、三度。

彼方此方へ繋がる穴に音が入るように、場所を変え、また二度、三度。

七回目のラッパを吹き終えたアオバが、汗を拭い、ラッパを降ろした。

「こんな事をしなくても、グスタフ将軍に呼びかければいいではないですか」

「一番大事な事以外は、忘れちゃってるかもしれないよ? 自分の名前にも、反応しないかも知れない。」

乾いた音が響いた。 アティの頬をオルフェが張ったのだ。

「父を愚弄するなっ! そのような、獣のような存在に落ちぶれるものか!」

更に手を挙げようとするオルフェの腕を、ヒナが掴んだ。 その力は強く、オルフェははずせなかった。

「くそっ! 離せ、離せっ!」

「・・・アティ様の言うことは本当でございます。 私の兄がそうだったのですから」

オルフェが暴れるのを止め、ヒナの顔を見上げた。

「兄はナチという侍でございました。

同じ戦いで弟を失い、その敵を討とうと迷宮を彷徨ったのでございます。

私がアティ様と一緒に兄を見つけたときは・・・もう兄は人ではありませんでした」

遠くから小さな声が響き始めた。 それは人の声にも聞こえた。

オルフェの手を離し、ヒナが菊一文字を抜き放つ。 圧倒的な霊気が、前方から吹き付け来る。

「・・・ドゥーハンを襲った〈閃光〉以降、ここは死を愚弄するものの住処となったのです。

妄執に支配された人は、死ねず、文字通り死ねず、満足するか死に気付くまで歩かされます

・・・私の、兄がそうだったのでございます」

「どういう意味だ!」

「何故なら・・・ここは死人の町でございますから。」

粘着質な音がし始めた。 巨大なナメクジが、体を引きずり来るような音だった。

同時に死臭と、腐臭が漂い始める。 アティが闇を見据えながら、オルフェに言う。

「オルフェさん・・・ごめんなさい。 おとうさん連れて帰れそうにないよ

でも、絶対に助けてあげる。 だから、ゆるして」

「だからさっきから、一体何をいっているのだっ!」

「お嬢様っ・・・!」

アオバが反射的にオルフェを押さえ、その目をふさいだ。 そして自らも目を背ける。

「ぉおおおおおおおおおおおおお・・・・・・うぉおおおおおおおおおおおおおおお・・・・・・」

声が響き始めた。 その中には、人の声色も確かに混じっていた。

「アイ・・・ンズ・・・・将軍・・・・・・・

部下をたすけ・・・たす・・・たすけに・・・・戻ってきて・・・・・・くれまし・・・たか・・・」

それが姿を見せた。 ミシェルが口を両手で押さえ、ヒナが目を背けて唇を噛む。

「目を背けちゃだめ!」

鋭い声が響いた。 アティが首砕きを構え、それを正面から見据えている。

ただ一人、彼女だけがそれを見据え、悪夢と現実を受け止めようとしていた。

「グスタフさん・・・頑張ったんだよ・・・・みて・・・・・頑張ったんだから。

逃げ遅れた人達、みんな見つけて。 みんな守って!

だから・・・この人達と一緒に、助けてあげよう!」

アティの視線の先には、無数のゾンビが融合した、見るもおぞましい巨大な肉塊があった。

その体の各所からは蠢く触手が生え、その先端部は胎動して周囲に体液を振りまく。

彼方此方にある、兜を被った腐敗した顔からは眼窩が飛び出し、不潔な液をばらまいていた。

肉塊の頂上部には、グスタフがあった。 あったとしか形容できなかった。

それはひときわ立派な鎧を着た、ひときわ立派な体躯の、腐敗した動く肉塊だった。

巨大な肉のナメクジ。 それが〈彼ら〉を形容するに、最適な言葉だったろう。

アインズの腹心だった宿将グスタフの、これがなれの果てであった。

「ぜん・・・いん・・・・?」

それが声を発した。 そして体を不器用に折り曲げ、アティに顔を近づける。

「ちがう・・・ジョナサンと・・・レイウッドが・・・・たり・・ない・・・・・」

「こんな・・・こんな事ってあんまりでございますっ!」

ヒナが叫んだ。 その目からは、涙が流れ落ちている。

「最も誇り高くて、最も勇気があり、最も責任感のある人が! 素晴らしい武人が!

どうしてこんな辱めを! 侮辱を受けなくてはならないのですかっ!」

「分からないよ・・・武神が何を考えているかなんて。 何を望んでいるかなんて!

だから武神を悪くは言えないよ。 だけど・・・でも・・・!

でも、分かってる事はあるよ。 この人達を、助けてあげなきゃいけないってことだけは確かだよ!

私・・・この人を助ける! 絶対に助けてあげるモン!」

涙をこすり、ヒナが菊一文字を構える。 他の者達も、皆一斉に武器を構えた。

「アインズ将軍・・・・どこに・・・・どこにおられるかあああああああああああ!」

肉塊が絶叫した。 周囲の壁が揺れ、魔物達があまりに強力な障気に逃げ出す。

「さては前と同じように、にいいいぃいげたのかああああああああ!」

「サラさん、補助魔法。 剣にありったけの魔力注いで!

その後はディスペル。 ミシェルさん、ジャクレタ、最高出力で用意して!」

剣を構えたアティの前で、腐肉がわめく。 正気など当に喪失して、声の限り叫ぶ。

「おぉおのれぇええええええ! ゆるせん! ぶかのいのちをなんだぁとおもっているのだああああ!

ころしてやる! こぉおおろしてやるうううううううううう!」

アオバの手が外れ、オルフェはそれを見てしまった。 アオバもその拍子に見てしまう。

「ちち・・・うえ・・・・・!」

「閣下・・・何というお姿に・・・」

二人はそれ以上、声を上げる事も出来なかった。 ただ、あまりにも惨な現実に硬直するばかりだった。

 

5,宿将の最後

 

首砕きが腐肉を切り裂き、かっては血だった液体が大量に飛び散る。

更に菊一文字と祝福の剣が一閃、肉の塊を切り崩しにかかった。

「あいんずぅう・・・・・・でてこい・・・・でぇてこいいいいいいいい!」

肉塊が反撃に移る。 無数の腕を振るい、触手を振るい、周囲をめった打ちに打ち据える。

「くっ、これじゃ近づけないぞ!」

「・・・サラさん!」

何カ所かを打ち据えられ、打撲傷を押さえるアティの声に、サラが頷いた。

目を瞑り、聖なるエネルギーを収束させる。 そして、光と共に解き放つ。

「邪なる者よ、地へ帰れ! ディスペル!」

地下二層をうろついていた頃の、一体何倍の光か。 それは死体の山を包み、灼き溶かす。

絶叫を上げながら、死体の塊の表皮が溶ける。 しかし、全て溶かすには到底至らない。

だがそれは触手を数本焼き切り、乗じる隙ができた。

「リカルドさん、ヒナさんとダブルスラッシュ!」

「おう、まかせておけっ!」

伸びてきた触手を払い、リカルドが突進した。 そしてヒナと息を合わせ、両側から肉塊を切り裂く。

更にアティが肉塊に向け跳躍、上から下まで一気に切り裂くが、圧倒的な物量は衰えを知らない。

ミシェルがジャクレタを完成させ、解き放つチャンスを待つが、アティはまだそれを指示せず

地面に降り立つと、一旦距離を取り、再び攻撃を指示した。

次の瞬間、肉塊の背中から数本の太い触手が生え、アティに向け速く鋭く伸びた。

鈍器が机を打つような音がした。 先端部は丸く、そして青黒く、堅さと重さが見るだけで分かる。

生えてきた三本の触手はアティを一気に壁に叩き付け、リカルドを弾き飛ばし

ヒナを捕獲して、宙につり上げた。 ミシェルが悲鳴を上げた。

「いやああああああっ! お姉さまっ! お姉さまーっ!」

「あいいいいんずうううううううううううううううう! どこへいったああああああ!」

腐肉の塊が進み始める。 グレッグが前に出て、捨て身で防ごうとするが、その足が止まった。

「まだ・・・・まだまだまだまだっ!」

巨大な鈍器が、新たに生えた触手が、押し戻されている。

その先端部にはアティがいて、口の端から血の糸を引きながら、一気に触手を押し戻し

更に先端をひねると、驚くべし、力任せに引きちぎった。

近くに落ちた首砕きが、魔力の輝き宿す刀身に、今だ闘志衰えぬアティを写す。

まるで生き物のように、液体をばらまく触手を、アティは敵本体向けて投げつけた。

「せっぇえええええええええええい、そりゃああああっ!」

槍が塊に突き刺さった。 流石にそれは効いたようで、肉の巨体が絶叫した。

震える手で首砕きを持ち上げると、アティは走る。 そして、ヒナを拘束する触手を叩ききり

地面に落ちたヒナが受け身を取るのを確認すると、剣を敵に向け、そして叫ぶ。

「ミシェルさん、今っ!」

「分かりました、お姉さま! 素直に灼かれて、浄化されなさい! ジャクレタ!」

サラが止めとばかりに、同時にディスペルを発動した。 業火の中、グスタフだった存在はもがき

苦しみ、そしてなおまだ進もうとした。

「あああああああぁああああつぅいいいいいいい! あいんずう・・・・ひきょうもの・・・・・!」

先ほどの無理がたたり、手がしびれているアティが、万事休すと上を見る。

もうミシェルの余力はなく、リカルドもグレッグも疲れ切っている。

サラのディスペルも、致命傷には至らない。 ヒナはもう、回復しないと命が危ない。

「・・・ホンタイダ! モウシュウノホンタイヲタタケ!」

何処かで聞いた声がした。 アティは頷くと、最後の力を結集し、敵の体の一部を蹴って跳躍する。

「グスタフさん・・・ごめんなさい!」

首砕きが炎を照らして紅く、魔力の青い光も合わせて紫に輝いた。

振り下ろされる紫の滝、それは何よりも力強く、何よりも明るく、何よりも優しく。

「楽になって・・・おねがい・・・」

着地したアティが、前のめりに倒れた。 そして、巨大な肉が動きを止め、その場で燃え尽きていった。

 

肉塊があった所から、無数の光が立ち上る。

それは小さな光の玉で、蛍のように舞いながら宙へ登っていき、静かにその場から離れていった。

その中央に、立ちすくむ武人がいた。 サラがそれを横目にアティに駆け寄り、抱き起こす。

既にヒナの回復はすみ、応急手当をグレッグがしている。 虚脱の時間は思いの外長かった。

「大丈夫? アティさん」

「うん・・・何とか。 いちちちち・・・手が痛いや。 オルフェさんと、アオバさんは?」

サラは無言のまま、視線を二人の方へ送った。 二人は光の側で、涙を拭っていた。

「おお・・・アオバ・・・オリビアか・・・」

「今はオルフェと名乗っております。 父上・・・・おいたわしいお姿に。」

「閣下・・・帰りましょう。 アインズ将軍は、閣下を必要としています・・・!」

涙を流し、二人が言うが、グスタフは頭を振った。

「わしは敗軍の将だ。 それを認めず、今まで異形の姿となって彷徨っていたが・・・

あの娘に斬られて気付いた。 思い出した。

わしは、攻略戦の最中、此処で死んだのだ。 いや、此処ではない、偽の地下九層で死んだのだ。

将軍はわしの遺体を回収しようとしてくれたが、果たせなかった。

わしの死体のために、兵力を失うわけには行かない。 生きている者を死なせるわけには行かないのだ。

それなのに、わしは置いていかれたと思い、あんな愚かな妄想を・・・」

先ほどまで彼が吼えたてていた言葉は、全てアオバもオルフェも聞いていた。

それが戦士であり、武人であり、アインズを尊敬していたグスタフに取り、どれだけの自責になるか。

聞くまでもなく明らかであり、武人グスタフは疲れた笑みを浮かべた。

その前に、小さな光が二つ舞う。 准将の目が涙に潤み、熱いしずくが地に落ち消えた。

「おお・・・おお・・・・ジョナサン・・・・レイウッド・・・・

わしを迎えに来てくれたか。 わしと逝ってくれるのか・・・そうか・・・すまぬな、皆で逝こう」

「父上! 父上!」

「閣下! お気を確かに!」

「二人とも・・・わしは悔いなくいける。 あの娘に礼を頼む。

そして、アインズ将軍に、わしが悔いなく逝った事を伝えて欲しい。」

光に包まれたグスタフの輪郭が、徐々に薄れていく。 最後に、将軍は笑った。

「無骨だが優しい娘、誰よりも頼もしい忠臣。

お前達がいて、わしは幸せだった。 あの世で待つが、まだまだ来てはいかんぞ・・・幸せをつかめ」

「・・・・・・・・・・っ!」

オルフェが頭を下げ、口を閉じた。 アオバも地面に手をつき、男泣きに暮れる。

グスタフが消えた。 何も残さず、その場から消滅したのだった。

 

6,役者達の狂宴

 

「そう言う事だったのか。」

落ち着いた後、広間に結界を張り直し、アティは大まかな事情を説明し

オルフェは先ほどの事も合わせて納得し、そして不器用に笑って見せた。

「父を救ってくれて感謝する。 私は何も出来なかった。」

「ううん、二人に会えたから、グスタフさんは悔いなく逝けたんだよ」

「アティ嬢、このお礼はいずれ必ず。 身命にとしても返します」

「先ほどは悪かった。 万死に値する愚行だったが、必ず千倍にもして返す。 許してくれ。」

かっては武人だったアオバは、軍式の最敬礼をした。 オルフェも頷き、それに習う。

「いいよ、みんな楽になれたんだから。 私、それだけで良い。

・・・ごめん。 ちょっと用事があるんだ、先に帰ってくれる?」

「・・・ああ、分かった。 無理はしないようにな」

「あー、えーとね。 うん。 大丈夫だよ。」

転移の薬を使い、二人はその場から戻っていった。 暫くアティは彼らがいた場所を見ていたが

やがて振り向くと、小さな暗がりに声をかけた。

「・・・いるんでしょ、出てきたら?」

 

全員の顔に等しく緊張が走る。 暗がりから笑い声がもれ、それは姿を見せた。

「お久しぶりですね、ハイム。 これ程力を取り戻しているとは思いませんでしたよ」

水が滴るような銀髪の美男子が、暗がりから抜けるようにして現れる。

闇の貴公子にて、司教の同胞。 吸血鬼の中の吸血鬼、不死者の中の不死者。

ヴァンパイアロード〈レイ=ガルス〉であった。

「どうして武神はこんな事をするの?」

アティは臆する事もなく一歩を踏みだし、聞く。 吸血鬼王は肩をすくめ、せせら笑った。

「それは我らが盟主、ウィンベル司教に聞いてみてはどうですかな?

彼はこの先、地下十層に待っていますよ。 なんなら道も教えて差し上げましょうか?」

「絶対ヤダ。 前々から何か企んでたでしょ、自分だけのために。」

「さあてね、力づくで聞いてみたらどうですか?」

空気が弾けたように思えた。 凄まじい殺気が、両者の中間点にて炸裂する。

だが、戦いにはならなかった。 第三者が割り込んだからである。

青い巨体が轟音と共に飛来し、偉大なる拳を吸血鬼王に叩き付ける。

地面が大きくえぐれ、凄まじい風圧がアティに吹き付けた。 吸血鬼王は辛くも逃れ、宙に浮いていた。

無理に動いたせいか、口の端からは黒い血が伝い、表情に余裕は見られない。

「グレーターデーモン! 貴様・・・!」

「キサマニ、コノムスメヲガイサセハセヌ。 ダイタイ、ソウホウトモニキズツイタジョウタイデ

ドレホドノタタカイガデキルトイウノダ? イツモツレテイルキュウケツキドモハドウシタ?

サイゼンノジョウタイデ、ゼンリョクヲツクスノガシンノブジンノタタカイダ!

キサマノヤロウトシテイルコトハ、ワレニハユルセヌ!」

拳を叩き付けた者、それはグレーターデーモンであった。

駆け寄ろうとするアティを手で制し、彼は続ける。 その瞳は、侮蔑に満ちていた。

「ウォルフニヤラレテ、カイフクシテイナイノダロウ? ソンナコトデハオレニハカテンゾ・・・」

「ちっ! ・・・まあいい、今日は見逃してあげますよ。 全く、飛んだ邪魔が入ったな」

肩をすくめて、吸血鬼王が消える。 アティが膝から崩れ、大きくため息をついた。

「はふう、助かったあ・・・もう、こんな時に冗談じゃないよ。」

「アティ、あいつはひょっとして・・・」

青ざめたリカルドの顔を見上げて、アティは頷く。 その全身が冷や汗にぬれていた。

「うん。 ヴァンパイアロードだよ。 疲れ切った今の私達じゃ、全然勝ち目無いよ

それより、ヘイゼルさん、ありがとう。 助かったよ。」

「・・・サキホドカラ、タタカイヲミセテモラッタ。」

修羅が背中を見せ、壁に手を突いた。 アティを助け起こしたサラが、奇異な視線を向け、聞き返す。

「じゃあ、あの声は貴方だったの?」

「ソウダ、アティノナカマヨ。 アノブジングスタフハ、オレカラミテモホコリタカイオトコダッタ。

アノヨウナブジョク、ブジンニアジアワセルトハ、ユルシガタイ・・・トウテイユルセンオコナイダ!」

剛腕が一閃し、壁に大きな穴を穿った。 グレーターデーモンは肩を振るわせ、泣いているようだった。

「おいおい、グレーターデーモンが泣いてるぞ。 鬼の目に涙とはこの事か」

誰も見た事のない光景に、リカルドが呟く。

「アティヨ、レイヲイウ。 ヒトリノオトコヲタスケテクレテ、ブジントシテレイヲイウ

ヤツヲチョクシシテクレテ、レイヲイウ。 メヲソラサズタスケテクレテ、レイヲイウ!

オマエハ、ブジンノナカノブジンダ。 オレナドヨリ、ハルカニスグレタシュラダ。」

「あー、えーと。 ヘイゼルさん、でもいいの? 私を助けたら、仲良くしたら、みんなに嫌われるよ?」

「バカヲイウナ。 ココニイルマジンタチハ、マカイカラゴウインニショウカンサレタモノダ

マイルフィックノヤツハチガウガナ。 ヤツラニタイスルチュウセイナドアルモノカ

センコウノシンジツヲオシエルナトカ、メイキュウノコウゾウヲオシエルナトカ

イロイロナブロックハカケラレテイルガ、サカラオウガシタガオウガソレゾレノジユウダ」

苦笑すると、ヘイゼルは浮き上がった。 そして、奥へ視線を移して言う。

「オレハオマエニブジンノタマシイヲミタ。 オレハオマエの〈ブ〉ニホレタノダ。

ヒツヨウナラタスケヨウ、イツデモヨブガイイ。」

「うん、有り難う。」

皆が吹き出す中、アティは暖かい笑みを浮かべ、優しく言う。

グレーターデーモン、ヘイゼル=ハミントンは哄笑すると翼を広げ、奥へと飛び去っていった。

「アティ殿、あれはひょっとして・・・」

グレッグが言い、ヘイゼルの去った方を指さす。 そちらには、小さく力強い明かりが見えた。

地下十層の入り口、炎の迷宮の出口であった。 何の事はない、後少しで最後だったのである。

「・・・一旦戻って、体勢を整えよう。 絶対に負けるわけには・・・行かないんだから。」

首砕きを鞘に収めると、アティは言った。 全員が、静かに心を合わせ、力強く頷く。

地下十層は、迷宮の深奥は、偉大な冒険者だけがゆける地の底は、もう目と鼻の先だ。

魔神の宝など、もう彼女の念頭にはない。 仲間達の心にもない。

あるのは司教に会い、彼を止め、武神の正体を突き止め、その残虐な行動をくい止める事。

皆の心は、一つにまとまっていた。 もはやその連携を崩す事、誰にも敵わぬ事だった。

ついにアティは、剣士に追いつこうとしていた。 力量でも、実績でも、そして心においても。

今、地獄の門が、音もなく開こうとしている。

その先に待ち受けるは、アティの育ての親、ウィンベル司教。

そして妄執に支配された狂気の貴族、ユージン=フォン=レレイラ公爵。

更にもう一つ。 影から様子をうかがう強大な力がある。

それは、物言わぬ抜け殻を連れ、最強の魔力に身を纏うクイーンガード長、レドゥアであった。

(続)