修羅道の果てに
序、地獄の祭りの後に
ドゥーハン軍はユージン軍に対し、完全勝利を納めはしたが
これ以上迷宮攻略を行う余裕など無く、撤退して戦力の再調整を行っていた。
それを円滑にしたのは多めに用意して於いた補給部隊と、後方確保に徹した部隊の存在で
彼らの迅速な行動もあり、今まで帰路に於いて兵力をかなり消耗していたドゥーハン軍も
今回は被害らしい被害を出さず、殆ど無傷で帰還する事が出来た。
これだけでもアインズの功績は計り知れず、後世に名将としての名を轟かせるだろう。
兵力の分散は愚の骨頂だが、それは時と場合による。 ましてやこの迷宮に於いては、教本は通用しない。
ドゥーハン軍でも指折りの名将は、二度の攻略戦でそれを良く理解しており、今回成功を収めたのである。
実際、後方に多数の兵力を配置して於かねば、地下五層のオーク王がいかなる動きを見せたか分からず
最悪の場合、ドゥーハン軍は前後から袋だたきにされ、史上例がないほどの全滅的敗北を被った事だろう。
遊兵を作らない事は戦略の鉄則だが、結局戦闘を交えなかった第五層残留部隊も
実は重要な戦略的役割を担っており、アインズの計算通り働いたのである。
ユージン卿は取り逃がしたものの、主要な幹部は一人残らず捕縛し
また彼の軍は完膚無きまでの壊滅を遂げたため、今後は組織的な犯行は不可能である。
アインズは兵士達に臨時の給料を支給し、皆にねぎらいの言葉を掛けると、一旦休息を与えた。
獅子奮迅の活躍を見せた冒険者達は、それぞれに報酬を受け取り、また迷宮に潜り始めたが
一人様子がおかしい者がいた。 隻眼の戦士ギースである。
前は豪快かつ陽気な男で、何が起こっても動じずへらへらとしていて
酒場では金を惜しまず酒をかっくらい、愛用の大剣を磨いては陽気に笑っていた男だが
今は別人のように暗くなり、誰も近くに寄せ付けようとせず、一人でぼんやりとしていた。
ギースには、親友と呼べる者が、少なくともこの壊れかけた町にはおらず
故に相談する事も出来ず、酒場で蜷局を巻く彼に近づこうとする者もいなかった。
彼は知ってしまったのだ。 今まで自分が勘違いし、事実を間違って認識していた事を
それは致命的な事であり、自らの存在に関わってくる事を。
アティと地下六層で分かれた後、彼は以前レッサーデーモン四体と戦った場所を通りがかった。
偶然の事である。 レッサーデーモンの咆吼を聞き、引き寄せられるように其処へ向かったのだ。
そしてあまりにも、絶望的なまでに恐ろしい物を見た。
歴戦の戦士である彼も、前が見えなくなり、転がるように逃げ帰る程に恐ろしい物だった。
壁に寄りかかった亡骸。 レッサーデーモン達の腐敗した遺体。
「・・・あれは・・・あれは間違いだ・・・・あり得るはずがねえ・・・」
机を一打ちすると、ギースは愛用の大剣を担ぎ、迷宮に向かった歩き出した。
生気を喪失し、絶望に満ちた顔は、地下六層に心を飛ばし、希望を求めていた。
「間違いだ、間違いに決まってる・・・今、間違いだと確かめてやる!」
ギースは迷宮地下一層の入り口をくぐり、殺気立った目を弱い魔物達に向けた。
それが彼に取り、最後の迷宮進入となるのだが、彼以外誰もそれには気付いていなかった。
ドゥーハン軍本営は、アインズ将軍が戦闘に参加した兵に休暇を与え、新たに別の兵を呼び寄せたため
人員が殆ど全て入れ替わっていた。 そんな中、アインズの怒声が轟いた。
「ふざけるのも大概にするの! 女王陛下、一体貴方は何を考えているの!」
強烈な弾劾を浴びせると、アインズは女王を正面から見据えた。
ドゥーハンにおいて、彼女は武官のNo、2にあたる。 故にある程度の洒落臭い口は、利いても許される。
現在は形式上クルガンの指揮下に入っているが、本来はクルガンよりもずっと社会的地位が高いのだ。
それでも、普段アインズは、女王に絶対的忠誠を誓っていた。
だが今回ばかりは、将として、ドゥーハンに暮らす者として、我慢する事が出来なかった。
今目の前にいるのは、政治的識見において、彼女の知る女王ではないが、威厳だけは以前のままである。
故に女王はアインズの言葉を平然と受け止め、そして応えた。
「もう一度言います。 私は迷宮攻略に再度戻ります
アインズ将軍には、そのための準備と、手伝いを命じます」
「女王陛下! いいの、今はそんなときじゃあないの!」
思わずアインズは立ち上がり、手を横に振った。 クルガンもあまりの事に口を挟めず、黙り込んでいる。
「現在は大分状況が沈静化しているけど、王都が消滅した事で、ドゥーハンは膨大な被害を被ったの!
例え国家の致命傷とならずとも、今は上も下も心を一つにして、国家の復旧に当たらなければいけないの!
女王陛下、一体貴方はどうしたの! 今の状況では、貴方が率先して動くのが最低限の事なの!
それくらい分かっていたはずなの! どうして、どうしてそう愚かになってしまったの!
迷宮攻略に戻る!? 悪いけど、貴方の道楽で、これ以上兵士を死なせる事は出来ないの!
我が軍は先の戦闘で完勝したものの、損害は大きく、すぐには動かせないの
例え我らが動けと言って無理矢理動かした所で、数量以上の活躍は絶対に出来ないの。
今いる兵士達は、地上戦ではエキスパートだけど、迷宮の中では巧く動きがとれないの。
よって出撃は不可能! 兵士達を無駄死にさせるだけの命令なんて、拒否させていただく以外にないの!」
「では動かなくて結構です。 クルガン、レドゥア、私達だけで迷宮に入る準備をしなさい」
言葉は淡々と紡がれた。 アインズが眉をひそめたのは、その口調がまるで演技のようだったからだ。
女王の言葉には威厳があったが、だが同時に意志の力が感じられず、どことなく空虚だった。
その隣で無言のまま佇むレドゥアの存在も、不可思議と言えば不可思議だった。
「動かせる忍者兵は、十名ほどしかおりません。 それでも構わないでしょうか」
クルガンにとって、それは最低限の苦言だった。 そして、全くの事実でもあった。
戦死者36名、それは負傷者がその三倍出ている事を意味し
実際に軽傷で済んだ忍者兵は殆どおらず、無傷の者など一人もいなかった。
回復魔法で何とか動けるようになった十名以外は、軍病院で今も手当を受ける身であり
実質的な戦闘能力はほぼ壊滅している、組織的に動かせる状態ではない。
だが、女王はあろう事か首を縦に振った。 クルガンもアインズも、唖然とせざるを得なかった。
「これ以上の口答えは許しません、アインズ将軍。」
鋭い視線を向けられ、アインズは机を拳で叩き、天幕の外に出ていき
ため息をつくと、クルガンは今動ける忍者兵達に声を掛けるべく、その後を追った。
クルガンがぎょっとした事に、外ではアインズが待っており
困惑する忍者を、アインズは自陣へと引っ張っていった。
「司令、少し話があるの。」
「・・・丁度俺も話したいと思っていた所だ。 だが、陛下を裏切れと言う言葉は絶対に聞けんぞ」
「大丈夫、そう言う話じゃないの。 ただ、一つだけ、やって欲しい事があるの。」
腰をかがめたクルガンに、アインズは小さな両手で筒を作り、外に聞こえないよう耳打ちした。
真剣な表情でそれを聞き終えた孤高の忍は、静かに、だがはっきりと頷いたのだった。
1,苦痛から光明へ
インキュバスとの死闘に辛くも勝利を納めはしたが、戦いの後遺症は深刻だった。
特にアティはインキュバスの精神攻撃で心に傷を受け、宿に帰還後部屋から出てこない。
他の者達も殆ど体力を使い果たし、部屋でへばっているか、憂鬱そうに居間でぼんやりしており
唯一元気で、心配そうに落ち着きがないミシェルは、周りから浮いて見えた。
「お姉さま、大丈夫でしょうか」
「・・・あの子は大丈夫よ、多分ね。 でも、今さわいだら逆効果だわ」
殆ど魔力を使い果たし、宿に帰り着くと同時に気絶したサラは、二日酔いのように揺れる頭を押さえ
ミシェルの言葉に応えると、その不安そうな視線を受け流し、続けた。
「貴方頑丈ね。 あれだけの魔力を使ったのに、平気なの?」
「私はこれでもエルフですから。 ドワーフの男性が体力に秀でているように、私達は魔力で勝ります
最近は大分底力も付いてきましたから、回復力も上がっていますし。 これもお姉さまの御陰ですね
自分一人で戦って、地下二層をうろついていたら、結局ここまで力は伸びなかったでしょう
実力が接近した相手とギリギリの勝負を続けてきましたから、応じて力も伸びたというわけですね」
「要するに快復力底なしって事ね。 うらやましいわ。」
頭を押さえて、サラは机に伸びた。
普段の彼女では是対に見せない行動だが、つまりはそれほど疲れているのだ。
「・・・悔しい。」
ぼそりとサラが呟いた。 二階からリカルドが降りてきて、二人に声を掛けようとして止める。
出て行きづらい雰囲気を感じたからであり、まるで盗賊のように、彼は二人の様子をうかがった。
「私達、あの子に助けて貰ってばっかり。 何でこうなんだろう
今もあの子に期待して、頼ってる。 きっとあの子は立ち直るって、楽観的に考えてる。
あんなに酷い目にあって、過去に苦しんでるのに。 どうしたら助けられるの・・・
今度は私達が力にならなきゃいけないのに・・・どうしていいのか分からないわ」
「悔しいのは俺も同じだ。 どうして良いか、俺にもさっぱり見当がつかん」
意を決してリカルドが居間に出て、頭をかきながら視線を落とした。
サラはいつの間にか体を起こして、リカルドに視線を移し、吐き出すように言った。
「どうして・・・私達って、あの子がいないと何も出来ないのかしら?」
「ここまでこれたのは偏にあいつの御陰だからな。
だからこそ、これ程のショックを受けてあいつが落ち込むと、俺達まで身動きがとれなくなる」
「お姉さまが転ぶと、私達全員が骨折する・・・ていうところでしょうか」
ミシェルが愚痴り、それは全くの事実だったので、全員が黙り込んでしまった。
何とかしたい、何とかしなければいけない。
それは分かっているのに、何も出来ない。 助けなければいけない、でも助けられない。
サラが先ほど呟いた言葉には、どれほど膨大な感情がこもっていたか。
どれほどのやるせなさが内部で蜷局を巻き、咆吼し、殻を突き破ろうとしていたか。
「あの・・・よろしいでしょうか」
掛けられた声に、サラは鈍重に反応した。 まるで機械仕掛けのように、ぎこちなく首を上げ
ミシェルの右隣に立ち、自分を見下ろしているヒナの姿を確認した。
ヒナにまで絡むほど、サラは落ちてはいなかった。 何とか無理矢理笑顔を作り、柔らかい声を作る。
「・・・ごめんね。 失望させたかしら?」
「いいえ、私にも皆様の気持ち、よく分かりますから。
ですから、提案がございます。 皆様がされた事を、アティ様に返してはどうでしょう」
「意味がわからん。 具体的に言ってくれ。」
憮然としながらリカルドが問い返す。 サラとミシェルも、緯線で続けてくれとヒナに促した。
「皆様は、どうしてアティ様をそこまで信頼するのですか?」
いつの間にか降りてきたグレッグと、取りあえず朝食を作って持ってきたヘルガも、話を聞いていた。
全員の視線が集中する中、サラが手を叩き、頷いた。 顔には生色が戻ってきていた。
「そうだったわ・・・受け入れてくれた・・・」
「包み込むように、受け入れてくれる。 それがお姉さまが素敵な所以・・・」
「だったら今度は、俺達があいつを受け入れる番か。」
「成る程、それは確かに。 しかし、具体的にどうした物ですかな」
グレッグの言葉に、サラが立ち上がった。 その目には決意が宿っていた。
「とにかく、やってみましょう。 説得は、私が引き受けるわ」
アティはドアをノックされても応えなかった。
鍵もかかっておらず、サラがドアノブをひねると簡単に開く。
「アティさん? 入るわよ、いい?」
「・・・・・うん。」
小さな声がした。 サラが暗い部屋に視線を凝らすと、アティはベッドの上で膝を抱えていた。
顔も上げず、自分の膝に顔を埋めたまま、アティは声をゆっくりか細く絞り出す。
「ごめんね・・・みんなに迷惑掛けて・・・」
「迷惑なんて思っていないわ。 早く元気になって、アティさん」
「うん・・・」
この娘の反応の鈍さはいつもの事だが、何時も以上に鈍いと思ったサラが
ふとアティの額に手をやると、燃えるように熱かった。
「暖かくして、ゆっくり休んで。 体の調子も悪いみたいだから」
「あー、えーと・・・ごめんね。 しっかりしなくちゃいけないのに・・・」
「もう自分一人で苦しまないで。」
熱に潤んだ瞳でアティはサラを緩慢に見上げ、そして首を横に振った。
「絶対駄目。 ・・・私、最近、少しずつ記憶が戻り始めたの
本当に断片的なんだけど、少しずつ。 ソフィアさんのことも、少しずつ思い出し始めたの」
サラが毛布を取り出してきて、何とかなだめて横になったアティにかぶせてやった。
「記憶の中の私・・・凄く冷たい。 吹雪の中に、そう、外にいるみたいに冷たいの・・・
視線も冷たくて氷みたいだし、世界も寒いの。 どうして今とこんなに違うのか、全然分からない。
それが怖いの・・・・何が待ってるのか、何が潜んでるのか、分からないのが怖い。
私、過去を思い出さなきゃいけない。 それは絶対なの。
でも、怖い・・・怖いんだよ・・・・凄く怖い
自分がどんな酷い事をしてきたのか、罪を犯したのか、直視するのが怖い。 だから・・・」
「アティさん。 私ね・・・」
意を決したサラが、アティに耳打ちした。 数瞬の空白の後、アティが驚いた顔を上げた。
「本当? そんな酷い目にあったの、サラさん」
「ええ・・・思い出すのも嫌だけど、冒険者見習いになって本当にすぐの頃に、ね。
だからインキュバスから貴方が受けた屈辱もよく分かるわ。 それにね・・・」
更に続くサラの言葉に、アティは驚きを隠せなかった。
「そっか・・・それで手を出したら殺すって、リカルドさんとグレッグさんに言ったんだ」
「ええ。 気が弱ってるときにつけ込まれて、それまでコツコツ溜めてたお金が全部無駄。
今になっては良い思い出よ。 普段だったら絶対だまされないような相手にだまされるって、良い経験ね
人は、気が弱ってるときにはまともな判断が出来ないと思うから」
サラは笑っていた。 それは、真に信頼できる者に見せる笑みだった。
しかし、アティは少し視線を逸らし、天井を見ながら続けた。
「うん・・・・いいの? そんな大事な事、私に話しても・・・」
「いいのよ、どうせ誰かに、絶対に信頼できる誰かに話してすっきりしたかったんだから
・・・この事件の後、ようやくまともな先輩に出会えて、私、まっとうな冒険者になれたのよ
ねえ、アティさん。 みんな貴方を信頼しているわ。
リカルドさんも、ミシェルさんも、グレッグさんも、ヘルガさんも、貴方が元気になるのを待ってる。
貴方が信頼できる、何よりも信頼できる人だから、みんな待ってるのよ」
「あー、えーと・・・何て言ったら良いんだろ」
アティが目をこすったのは、眠いからではあるまい。
「えへへへへへへへ、ありがと、サラさん。 少し・・・元気出たよ
風邪治したら、すぐに下にいくね。 待ってて、絶対元気になるから。」
「私には、弱みを見せてくれても良いわ。 貴方の正体が悪魔だって、魔王だって、私は気にしないから
みんなそれは同じのはずよ。 だから・・・・元気になってね」
サラが部屋を出たとき、空気が一変していたのは言うまでもない事であろう。
ようやく少し疲れがとれて、アティは眠りにつき始めた。
嬉しかった、自分を真から信頼し、サラが誰にも話したくないような事を話してくれた事が。
皆も自分の帰りを待っていると言う事が、アティにはどんな栄養のある食事より
どんな暖かい毛布よりも助けになったようで、休息による体力回復の効率が上がって行く。
心が平静に戻ると、夢も暖かい物に変わってきた。
相変わらず冷たい過去の自分。 しかし、その中には、暖かさもある事がわかり始めてきた。
良い思い出と言うべきなのだろうか、それが記憶の中に戻り始めたのである。
「ハイム! こっちよ、貴方に見せたい物があるの」
自分の手を引くエルフの娘。 華奢な手には、しかし強い意志の力と、誰にも真似できない優しさがある。
こんな者が実在するとは、始めての経験だった。 自分の身よりも、先に他人の身を案じる事が出来る。
しかも、それを自分の主体的な意志で行う事が出来るのだ。
主体的な意志さえ無い自分には、絶対に不可能な事だ、そうハイムは考えていた。
冷たい心は、ツンドラの地と同じく、全てが氷に閉ざされていた。
だが、ソフィアに接すると、その地に光が差し込む。 太陽の光が、少しずつ氷を溶かす。
ソフィアはどちらかというと、どじな娘だった。
何もない所で転んだり、料理をつくろうとすると、三回に二回は焦がしてしまった。
動きも鈍く、放っておくと迷子になったり、どうなるか不安で目が離せないような娘だった。
だが、同時にその細身に、どんな大男でも敵わないような、日の光を秘めていたのである。
そのソフィアが嬉しそうに駆ける後ろを、ゆっくりハイムはついていった。
そして丘の上に出ると、そこはエルフの森を一望できる風光明媚な場所であった。
「見てみて、あの辺に私のお家があるのよ。 王都はあっちの方だわ
あの辺から小川が流れていて、とても綺麗な花畑が広がっているの」
自分の手を引いて、世界を説明してくれるソフィア。 それを見ながら、ハイムは悟っていた。
世界とは、美しい部分もあるのだと。 そしてこの娘は、それを知っているのだと。
自分にはその美しさなど全く理解できない、それがハイムにはもどかしかった。
いつか、美しさとやらを理解してみたい。
・・・それは、ハイムの心に、自主的な欲求が生まれた瞬間だった。
暗い暗いあの場所で、「父さん」以外の誰もいないあの場所で、心を失った日々も彼女には大事だった。
だが、ソフィアへのあこがれで、取り戻される心も、ハイムにはこれ以上もなく貴重に思えたのだ。
どちらが貴重かなどと聞かれても、選ぶ事は出来ない。 どちらも絶対に大事だったからだ。
しかし、ツンドラに差し込んだ日は、凍土の一部を溶かし、水が流れ始めた。
露出した土から、あり得ないはずの物が生まれる。 植物の芽が、土を押しのけて、顔を出す。
欲求という名の植物が、ハイムの心の中で、まだ小さく、だが力強く育ち始めたのである。
「世界とは、あるいは美しい物なのかもしれないな」
「ええ・・・そうよ。 世界は美しい物なの。
醜い部分はあるけど、そればかりじゃない。 美しい部分も、絶対に存在しているのよ
だから笑って、ハイム。 笑って生きよう」
ソフィアの笑顔がまぶしかった。 彼女への憧憬が、心の植物を、更に更に大きくしていった・・・
不意に風景が変わった。 世界が暗くなり、そして懐かしく悲しい顔が浮かび上がる。
「そうか・・・お前までがわしの行動を間違いだと言うのだな・・・・」
「父さん、それは違う。 だが、今やっている事は間違っている!」
いつの間にか完全武装し、ハイムは叫んでいた。 構えた剣は、見た事もない剛剣だった。
「そうか、やはり逆らうのか。 全てがわしに逆らうのか・・・」
「父さん!」
「だが・・・もう遅い。 全ては・・・計算の上だ!」
声と共に世界を光が包み、ソフィアが大事にしていた物が、壊れていった。
美しいと彼女が言った物が、全て崩れ、全て壊れていった。
「ハイム・・・笑って・・・・そして生きて・・・」
ソフィアの声が残響し、ハイムの心を満たしていった。
身を起こしたアティは、全身が汗びたしなのを感じ、更に体が軽くなったのを感じた。
風邪は全快したらしい。 だが、アティは気難しそうに考え込んだ。
彼女には、どうしても記憶で腑に落ちない点があったのである。
汗で濡れた頭をかき回すと、アティは立ち上がった。
全ては迷宮の奥に答えがある。 自分を信じてくれる者がいる以上、必ずそこへ到達できる。
「私・・・頑張らなきゃ。」
アティは立ち上がり、そして部屋の戸を開けた。 その瞳には、再び強固な意志力が宿っていた。
2,奇妙な事件
風呂に入り、汗を流したアティは、皆の視線に気付くと、微笑んで見せた。
いつもの微笑み、いつもの雰囲気。 精神的に立ち直った事が、誰の目にも明らかだった。
「あー、えーと。 ごめんねみんな、心配させて」
「いや、いつもの様子に戻ったようだな。 ならば俺達は何も言う事がない」
リカルドの言葉に、めいめい皆が賛意を示したので、アティは目を細めた。
やはり嬉しいのだろう。 感情を隠せない娘だけに、涙をこらえるのに苦労しているようだった。
咳払いがして、ヘルガが机を軽く叩いた。 会議開始の合図である。
アティが席に着くと、ヘルガはヒナの頭に手を置く。
「今後の戦力強化をかねてこの子を仲間にするのは結構。でもまず最低限の条件として二つの事が必要よ。
一つは言うまでもなくグレーターデーモンの撃破。そしてもう一つはアレイドアクションの修得。」
「そっか、確かにアレイドで連携できないと、却って足を引っ張っちゃうモンね」
「だからしばらくは低い階層で調整した方が良いと思う。」
ヘルガの言葉にアティは頷き、他に意見を求めて周囲を見回した。
ヒナはその間体を縮めて沈黙していたが、アティは最後に彼女へ視線を向けた。
「ヒナさん、何か貴方からも意見があったら、遠慮無く言ってね」
「・・・はい。 出来るだけ、努力してみます」
一つ頷き、アティは視線をずらした。 まだヒナが視線を苦手としている事を敏感に察しているのだ。
「あの、気になる情報が入りました故、報告しておきたいと思います」
「ん? あー、えっと。 グレッグさん、どんな情報が入ったの?」
「この間共闘したギース殿ですが、どうも迷宮から帰還してから様子がおかしいようです」
グレッグの言葉は唐突ではあったが、ほんの一時でも一緒に戦った者の事でもあり
無視できる話でもなく、リカルドがもっともらしく腕を組んで応じた。
「極限の戦いで頭がおかしくなる者は少なくないからな。 奴もその一人だったのかも知れん
あの後強力な魔神にでも会ったのか、それとも余程多数のレッサーデーモンに襲われたのかも知れない」
「ギースさん、凄く戦い慣れてるように見えたけど、そう言う人でも怖かったんだろうね」
「いや、どうもそれが、そうとも言えないのです。 目撃者の話では、地下二層で狂ったように暴れて
弱い魔物を虐殺し、血走った目で何か呟きながら地下三層に降りて行ったそうです
その際、「現実であるはずがない」とか、「あり得ない」とか、しきりに呟いていたとか。」
不審そうに言うグレッグの言葉に、まじめにアティは考え込んだ。
「狂気に落ちた人は、妄想に心をゆだねてしまう事が良くあるわ」
「まあ、それは恐ろしいですね。 わたくし達も、その人からは怪物に見えてしまうのかもしれません」
「あー、えーとね。 そんな風に決めつけたら可哀想だよ
ギースさんにもし会ったら、何故そんな事をするのか確かめてみよう?」
口々に言うサラとミシェルに、アティは苦言を呈すると、ヒナに再び振り向いた。
「ヒナさん、取りあえずアレイドアクションの修得をしてから、地下七層に向かうけど良い?」
「はい、かまいません。 微力を尽くさせていただきます」
「あー、えーと。 そんなに肩肘張らないで。 マイペースで行こうよ。 ほらほら、笑って。」
「はい、努力させていただきます。」
能面のような表情で、ヒナが頷く。
無言のまま立ち上がったアティは、ヒナの後ろに回り込むと、いきなり頬をつまんで横に引っ張った。
「な、なひふるんでふか!」
「わらわないんなら、無理に笑わせちゃうモンね。
これで駄目なら、ほーら、くすぐっちゃうぞー」
「や、やめて、あははははははは! やめ、やめてくださいま・・・・」
唖然とする皆の前で、アティは的確なつぼをついてヒナをくすぐり続け、耳元で囁いた。
「駄目。 笑うまでくすぐるのだ!」
「分かりました、笑います、笑いますから!」
ドゥーハン軍から魔神退治によって支給された賞金は、かなりの額に昇り
アティはその半分を魔法の修得に回し、基礎能力の向上に努めた。
その結果、ミシェルとサラはそれぞれ得意とする系統の魔法を更に強化する事が出来
ヒナにはダブルスラッシュやフロントガードを初めとする、必要なアレイドを問題なく教える事が出来た。
だが、思わぬ事も分かった。 アティには魔法の才能が、常人の半分ほどしか存在していなかったのだ。
騎士へのクラスチェンジは、マジックアイテムの助けを得て、ノーリスクで成功した。
その後ギルドでアティはフォースを修得した。 それの修得自体には問題がなかったのだが
練習室で実験してみて、そのあまりの威力のなさに驚かざるを得なかった。
「貫け、そしてうち砕け! フォース!」
気合いと共に放たれた光弾。 だがそれは鋭く飛ぶどころか、何とも力無く飛び
的へ申し訳程度の音と共にぶつかると、小さな音と煙を上げ
哀れむように、あるいはお情けのように壊れた的がゆっくり地面に落ちた。
「やれやれ、これは記録的な威力のなさじゃな。」
「あー、えーと。 えへへへへへへ、ごめんなさい」
「謝る必要はない。 だがな、今の時点で実戦投入は不可能じゃろうな」
事務的にそう言うと、ギルドで魔法修得を監督している老魔導師は、興味深げにアティに視線を向ける。
「やはり人には得意不得意がある。 お主は相当な剣の使い手のようだが、やはり苦手な物もある
それでよいのじゃろう。 何でも出来てしまう人間は、得てして面白味に欠けるし
能力への過信から、戦場で無理に投入されて、命を落としてしまう事も多い」
「えーと、でも、だからって魔法修得をあきらめて良い事にはならないよ」
「ふむ・・・そうじゃな」
アティに魔法修得をあきらめる気がない事を悟った老魔導師は、自らの白い髭をなでながら続ける。
「ならば少数の魔法に絞って、鍛錬を続けると良いじゃろう
他の者が二つ魔法を覚えている間に、お主は一つの魔法を覚える事が出来る
ならば、他の者が四つの魔法の威力を二倍に伸ばす間、お主は一つの魔法の鍛錬に励む
そうすれば、その一つの魔法だけは、他の者に負けない威力にする事が出来るやも知れぬ
まあ、今のは多少極端な例えじゃがな、器用貧乏になるよりは遙かにマシじゃからのう」
老魔導師は立ち上がり、カーテンを開けた。 外は相変わらず雪が降っていて、日は差し込まない。
「・・・覚えるなら、最強の攻撃魔法と、最強の回復魔法だけにすると良い。
回復魔法はウィルが良いな。 お主では、カテドラルは覚えるだけで一苦労じゃろう
そうじゃの・・・攻撃魔法はフォースがいいじゃろう。
今の情けない威力も、修練すればきっとマシになる。 きっと、じゃがな」
「うん。 色々アリガト。 また来るね!」
「おうおう、また来ると良い。 次はもっと進歩してくるんじゃぞ」
手を大きく振って部屋を出ていくアティを見送りながら、ふと老魔導師は奇妙な感覚にとらわれていた。
それはあり得ない感覚だった。 何故か、今の会話で彼は非常に満足した感覚を味わっていたのである。
単純な満足等ではない、絶対的な充足感、どうしても心残りだった、やり残した物を片付けた感覚。
その数十倍も強い物が、老魔導師の頭の中でスパークとなって走り、そして気付かせた。
「そうじゃ・・・そうじゃった・・・・あの娘は・・・そしてワシは・・・・」
部屋を出て、よろめくように歩く老魔導師。 怪訝な視線を向ける皆の前で、奇妙な煙が立ち上る。
「そうじゃ・・・・あのとき・・・嬉しそうにしていた・・・・
いつも無表情だったのに・・・・始めて嬉しそうにしていた・・・
父さんの言った事は、教えてくれた事は正しかったんだって・・・・言って・・・・いた・・・・
忌まわしい・・・光の・・・・・ひかり・・・・・の・・・・・・まえ・・・・・・に・・・」
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄ってきたギルド長が、老魔導師の肩を掴んで揺さぶるが、既に老人の目の焦点は合っていなかった。
「ワシは・・・・死んだんだ・・・・」
消滅した。 何も痕跡を残さず、言葉と共に老人は消滅してしまった。
唖然としたギルド長は、慌てて周囲を探させたが、老人の姿は何処にもなく
そして、痕跡も残ってはいなかった。 まるで、幽霊か何かのように。
同時刻、一人の町人が、天に向け飛ぶ光の玉を目撃している。
そして、老魔導師は、この事件の後二度と姿を現さなかったのである。
無論ギルドで起こった事態など知るはずもないアティは、ヴィガー商店でグレッグ用に飛び道具を買い
他にも消耗品を幾つか補充して、自らのためには手甲を買い換えた。
彼女の手甲は、地下一層に入ったときから愛用している品だが、流石に近来がたが来ており
地下六層の戦いで、インキュバスの冷気攻撃で致命的に金具が歪んでしまったため、買い換えを決意した。
また後衛になる事を決めたグレッグには、当然大量に飛び道具を買って於かねば役に立てない。
何本かの投擲用ナイフの他、手裏剣と呼ばれる忍者が使う飛び道具を幾つか買いそろえた。
グレッグの談によると、一口に手裏剣と言っても用途別に様々な種類があるようで
また連射する事は出来ないという話であり、使用には慎重を期するようだった。
他にもサラ用のボウガンの矢が不足していたので、それも補充し
最終的には支給された金額の七割ほどを消耗し、補給及び装備の新調は終了した。
新しい手甲は前の物に比べると、若干重かったが、その分強度は勝っており
重みを確かめるかのように腕を上下させて、アティは何やら呟いていた。
「気に入ってくれたか? その手甲は、かなりの業物だぞ」
「あー、えーとね。 うん、結構良いよ。」
「煮え切らないな、なんか問題でもあるのか?」
自分でも気に入っている逸品だけに、思わず店主はカウンターから身を乗り出していた。
アティは唇に指を当てて少し考え込んでいたが、やがて店主の問いに答える。
「ねえねえ、これってそのまま敵をぶっても良いの?」
「ぶつっ!? あ、ああ、そうだな、出来るぜ。
だがアンタのパワーでぶん殴ったら、手甲が壊れちまう可能性もあるな
そいつは防御用だけに考えても充分な品だ。 無理に攻撃に生かそうなんて考えなくてもいいぜ」
小首を傾げたアティが、まっすぐに店主を見つめたので、彼は咳払いして視線を逸らした。
「武器には、防具もそうだが、それぞれに得意な分野ってのがあるんだ
確かにトリッキーな使い方もあるが、王道の使い方をして、始めて意味が出てくるんだよ
邪道はあくまで邪道だ。 手甲で打撃力を増すってのは、あくまで補助的な能力に過ぎねえ
だから、そいつは接近戦で敵の攻撃を弾くのに使ってやればいい。 そいつもそれで満足だろう」
愛着があるだけあり、店主は武器防具を擬人化して呼ぶ
特に逸品にはその傾向が強く、それに気付いたアティは、にんまりと笑った。
「おじさん、本当に武器防具が好きなんだね」
「まあな。 特にそいつは俺のお気に入りの逸品だ。 大事に使ってやってくれ」
「うん、有り難う。 大事にするね」
手を振って出ていったアティは、雪に紛れてすぐ見えなくなった。
グレッグやサラもそれに続き、店の中はすぐに静かになる。
何か思う所があるのか、店主はアティの消えた方を暫く眺めやっていたが
やがて頭を振って雑念を追い払い、仕事に戻った。 その時は、雑念も無視できる程度だった。
3,仇敵への道
アティが戦力調整の場に選んだのは地下二層であった。 ここは他の階層へ容易に移る事が出来るし
現れる魔物や不死者の実力も、今の彼女らには余裕を持って戦えるレベルである。
仮にヒナがお荷物以外の何者でもなかったとしても、この階層だったら彼女を守って撤退できる。
だが、それはヒナには失礼な予測であった。
ヒナの実力は予想以上で、剣の技術なら明らかにアティを凌ぎ、速さも重さも申し分ない。
パワーは若干不足していたが、とにかく優れた技術力で、その弱点を完璧に封殺していた。
何体かの魔物と戦って、ヒナの実戦能力を確認すると、アティは次の段階に移った。
手を叩き、皆の方に振り向く。 緊張した様子のヒナに笑顔を向けて、そして言った。
「あー、えっと。 凄く強いね、ヒナさん。」
「光栄でございます。」
「じゃ、次ね。 アレイドアクションを試してみようか」
アティが首砕きを抜きはなったので、一瞬於いて皆が構えを取り、遅れてヒナが体勢を整える。
この娘の勘の鋭さは、おそらくドゥーハンにいる冒険者の中でも屈指であろう。
それを証明するかのように、闇の奥から、ゾンビが数体現れた。
周囲には特に援護もなく、ゆっくりこちらに歩み寄ってくる。
「じゃ、訓練通り行くよ。 ヒナさん、リカルドさん、フロントガード!
攻撃を受け流してから、サラさんはディスペル、ミシェルさんはグレッグさんと魔法協力してクレタ!」
言葉の通じない相手故、アティはわざわざ指示を口に出していった。
もっとも、以前ヴァーゴ戦で見せたような心理攻撃を含んだ指示もすることがあるのだが
今回は純粋に作戦指示をそのまま伝えている。 全員は頷き、そのまま行動を開始した。
不潔な爪を、ゾンビが振り下ろす。 何度かの攻撃は、フロントガードで的確にはじき返され
だが、最後に振るわれた攻撃が、ヒナの防御を貫いた。
物理的な打撃はどういう事も無かったのだが、ゾンビの爪には麻痺毒が含まれている。
たまらず膝をつくヒナ、更にゾンビが追い打ちを掛けようとした瞬間、サラがディスペルを発動した。
流石に最近著しく力を増しているだけあり、浄化作用は強烈で
ゾンビは二体を残して崩れ落ち、腐臭漂うただの肉塊になりはてた。
続けてミシェルが、グレッグと魔法協力してクレタを発動、残ったゾンビが強烈な火炎に一掃される。
それを見届けると、頭をかきながらアティはヒナに振り向き、抱き起こした。
すぐにサラが回復魔法を唱え始め、麻痺毒の浄化を行う。 視線を微妙にずらしながら、アティは言った。
「大丈夫? 辛くない?」
「申し訳ございません。 失敗してしまいました」
「あー、えーと。 でも、私達だって、凄くたくさん失敗して修得した技だから
ギルドで一応は覚えたけど、実戦で使ってみれば勝手が違うよ。」
よく考えてみれば、〈剣士〉が実戦形式で修得させてくれたから
アティはこうも自由自在に、攻防含めた多種多様なアレイドアクションを使いこなせるのである。
今まで個人戦を主体に行ってきたヒナが、一度や二度で巧く使えるわけがないし
(実はミシェルも、仲間になった当初は何度か単純なミスを犯してはいる
しかし、元々要領がいい彼女は、すぐにこつを覚えて今では失敗をおこさない)
それにもう一つ、ヒナがアレイドを巧く行えないのには、重大な理由があり
アティはそれを正確に洞察していた。 ヒナは、致命的なレベルで皆を信頼していないのである。
だが、当然の事ながら、それを口に出していったら逆効果である。
ましてやヒナの場合、落ち込むどころか現実から逃走する可能性すらありうる。
考え込むアティを見て、ヒナが不安そうにしている。
気まずい沈黙の後、やがて手を一打ちし、アティは振り向いた。
「もう少し戦ったら、、一旦戻って、明日地下七層に降りてみよう」
「大丈夫なのか? 今の状態で」
リカルドの言葉は、彼らしい常識的な不安提起であり、だがアティは笑いながら応えた。
「えへへへへへへ、大丈夫だよ。 多分ね」
三時間ほどで、アティは一旦地上へ引き返した。
彼女の目から見て、ヒナのアレイドアクションは、技術面上で全く問題がない。
上達速度から言えば明らかにアティより上で(無論ギルドの特殊訓練室で修得した事も原因だが)
本人の精神面での鎖足かせが無くなれば、実戦投入に全く問題無い状態になっていた。
だが、やはり何度かの失敗は必要以上にヒナの精神に負担を掛けているようであり
誰の目から見ても分かるほど、彼女は落ち込み、帰路でも言動に精彩を欠いた。
殆ど消耗らしい消耗をしていなかったので、その日は皆余裕を持って行動する事が出来
翌日、全員の顔には疲労の色はなかった。 これ程楽な探索の翌日であったから、当然だったろう。
簡単な朝の会議を済ませると、アティは首砕きの状態を念入りにチェックし
全員に今日の調子を尋ね、良好な返事を確認すると、爆弾を場に放り込んだ。
「あー、えーとね。 じゃあ、今日はいよいよ地下七層に行くよ」
「じゃあって何だ! じゃあって!」
一瞬の空白の後、リカルドが激発した。
「いつもながらお前の考えている事はわからん!
こんな状態で、こんな半端な状態で、あのグレーターデーモンと戦えるというのか!」
「うん。 えへへへへへ、多分何とかなるよ」
更に言葉を吐きかけて、リカルドは口をつぐむ。
アティは考えていないようで何時も理にかなう行動をしてきたし、成功を収め続けてきた。
しかも、後で突拍子もない行動に、理由があった事が、一度や二度ではない。
今回もわざわざ曖昧に言っていると言う事は、何かしらの理由があるのかも知れない。
たとえば、今のヒナには聞かせられないような・・・
それに気付いた後は、リカルドも周りが見えた。 自分の仕事を改めて思い出し、咳払いをする。
「本当に大丈夫なんだろうな」
「あー、うん。 大丈夫だよ、多分ね」
周囲を見回すと、サラが首を横に振り、グレッグは視線を逸らしていた。
リカルドは肩を落とし、ため息をつく。 まあ、アティなら大丈夫だろうと考えたのである。
常識論より結局信頼が優先する、アティの人たらしな魅力に取り込まれた、彼も一人だった。
「じゃあ、みんな依存無い? 地下七層へ行くよ。」
満面の笑みのアティに、反対する者は誰もいなかった。
地下七層は、地下三層と同様の空間が歪んだ迷宮であり
一定周期ごとに形を変え(大体36時間くらいが周期だと言われている)、冒険者を幻惑する。
出現する魔物は地下六層の物と大差がないが、怪力と巨体を誇る巨人族がこの辺りから出現し始めるため
小手先だけの技術で勝負してきた者は、そろそろ通用しなくなってくる階層である。
地下三層と広さは同じ程度だが、邪気の影響か構造の歪みは凄まじく
〈閃光〉によってもたらされた異変の際、これ以降の階層から、地上へ脱出できた者は誰一人いない。
アインズ将軍の指揮するドゥーハン軍も、第二次迷宮攻略戦で
特にここ第七層と第九層の構造に苦戦し、大きな被害を出したという。
そして此処の危険性が増す要因の一つとなっているのが、狂った侍ナチの存在であろう。
見境無しに殺戮を繰り返す、妖刀村正を所持するこの男は、最近は地下七層を主な出現の場としており
手当たり次第に魔物や冒険者を襲うため、伝説じみた恐怖の対象となり
熟練の冒険者も、出来るだけこの階層には近寄らないようにしている。
会話が出来るだけヴァーゴの方がマシだという声もあり、それはヒナの心を深く傷つけていた。
そんな地下七層に、アティは躊躇無く足を踏み入れた。
地下七層は地下六層の中途に入り口があり、入るだけなら簡単である。
だが中の探索は非常に難しく、或いは簡単で、丸一日歩き回っても下の階層に行けない事も在れば
入った途端に下の階層の入り口が目の前にあり、呆然とさせられる事もある。
この辺りの事情は地下三層とほぼ同じであるが、だが危険度が比較にならないほど高いため
全く別物の威圧感が、入る者を押しつぶす。 アティは平然としていたが、他の者達は皆緊張していた。
「あー、えーと。 グレッグさん、ここって地下三層に似てるね」
「似てはいますが、出現する魔物のレベルが違います。
アースジャイアントとファイアージャイアント、それにガスドラゴンより二周り大きいブルードラゴン等
強力な魔物が多数生息しています。 レッサーデーモンも出る事があるようです」
「それに、兄上が時々殺戮を繰り返しているようでございます」
ヒナの言葉に、グレッグが声を止めた。
アティは頭をかくと、ヒナに視線を送った。 詳しく説明をもう一度して欲しいと望んでいるのだ。
数秒の逡巡の後、ヒナはそれを解し、咳払いをして詳しく兄の話を始めた。
仲が良かった兄弟の話、優しかった兄の話、全てが狂った日の話。
そしてそれらを終えると、現在彼女が知っている兄の情報に移った。
「現在兄上がこの階層にいるのは間違いございません
何でももう人間を辞めてしまっているような雰囲気で、途轍もない殺気を常に纏い
紅く目を輝かせて、うなり声と共に現れるとか。」
心底切なそうにそう言うと、ヒナは視線を下げてしまった。
「取りあえず、現在の大まかな構造を把握しよう。
えっと、後何時間くらいで構造が変わるって話だったっけ」
「確か後27時間という所よ」
「そっか。 じゃ、一日探索してみて、それで駄目なら一旦引き返そうね
まずは通路から、次は大きな部屋から探そう。 奇襲を受けたら歯が立ちそうにないから」
アティの言葉に、全員が頷いた。 妖刀ムラマサを持つ相手に、奇襲されて生き残れるなどと思う者は
少なくとも、彼女の仲間の中には一人もいなかった。
長期戦が覚悟されたが、意外に事態は、早い時点で推移を迎える事になる。
「リカルドさん! 私とダブルスラッシュ! ヒナさんはアキレス腱を狙って!
ミシェルさんは防御、サラさんは雷撃魔法、グレッグさんは牽制射撃!」
素早く指示を出すアティの前に、小山のような巨体が立ちはだかっている。
身長は四メートル強、全身を炎のオーラに包んだ巨人、ファイアージャイアントである。
魔法は使う事が出来ないが、その代わり炎のブレスを吐く事が出来
巨体から繰り出すパワーは強力無比、生命力も高く、生半可な攻撃では倒れない。
外周部分で、最後の通路の探索に取りかかった途端に、この巨人は突然扉を開けて現れた。
背後は通路が延々と延びていて、逃げてもブレスの好餌になるだけである。
また、周囲には幾つかの扉があったが、中に何がいるかは見当もつかない。
わざわざハイリスクな逃走を選ぶより、戦うのが一番良い判断であろう。
巨大な顔を殺戮の歓喜に歪め、ファイアージャイアントは巨大なハンマーを振りかぶり
どうもリーダーらしいアティに襲いかかろうとしたが
指示通りグレッグが手裏剣を素早く投げつけ、生じた一瞬の隙をつき、アティとリカルドが走った。
両側から、鋭い剣閃が完璧なタイミングで巨人の体に吸い込まれ、いやに熱い鮮血が吹き出す。
そして、顔をしかめてわずかによろめくファイアージャイアントの腱を
ねらい澄ましたヒナの鋭く芸術的な一撃が、流れるような動きで切り裂いた。
名刀菊一文字の切れ味は強烈で、しかも狙いは正確であり
右足のアキレス腱をものの見事に切断された巨人が、巨木が倒れるような音と共にもんどりうって倒れ
そこへ、サラが放った雷撃魔法が炸裂した。 絶叫が、スパークの背景音楽となって広がる。
「距離を取って! ヒナさん!」
アティの言葉に、突出していたヒナが反射的に回避行動を取ったが、わずかに遅い。
巨人は起きあがりざま右手を振り、クリーンヒットとは行かなかったが、ヒナはそれを受けて吹っ飛んだ。
壁に叩き付けられたヒナを見て、アティは指示を素早く出す。
「サラさん、回復魔法! ミシェルさん、グレッグさんと協力して雷撃魔法!
リカルドさん、行くよ! バックアタック!」
首砕きを水平に構えると、アティはそのままファイアージャイアントに突進していく。
ようやく体を起こした巨人は、片膝をついたまま、ハンマーを握りしめ、迎撃の体勢に入った。
両者の距離は見る間に縮まり、空気が帯電するかと思われた。 間合いに入った瞬間、巨人が動く。
轟音と共に、ハンマーが振り下ろされた。 驚くべし、アティはそのまま構えを変えると立ち止まり
迎撃するように首砕きを、下から落ち来るハンマーに叩き付けたのである。
無論得物の大きさが違うから、そのままでは首砕きがへし折れるだけであったが
アティはその辺の力加減をきちんと心得ていて、ハンマーの加重を殺し、逆に支点に無理な力を掛ける。
凄まじい音が響き渡り、弾き飛ばされたアティが尻餅をつく。
強烈な手のしびれを感じた巨人が呻いた瞬間、後方に回ったリカルドが頭に一撃をうち下ろした。
絶叫する巨人、リカルドが飛び離れ、次の瞬間雷撃が炸裂する。
流石に炎の巨人も、直接体内に電撃を、しかも頭に電撃を叩き込まれてはひとたまりもない。
白目をむき、前のめりに倒れる敵の姿を確認し
首砕きを鞘に収めると、流石に痛そうに手を振って、アティは苦笑いした。
「あいたたたたた・・・巨人さん、凄い力だね」
「俺はむしろ、それを正面から受け止めたお前の方が驚異的だと思う」
真顔でまじめな事を言うリカルドの言葉に、アティは小首を傾げ、そして笑った。
「褒めてくれてありがと、リカルドさん」
「いや、褒めるというか、何というかだな。 とにかく勝てて良かった」
「あー、えーと。 それはいいけど、ヒナさんは? 大丈夫?」
立ち上がって、アティは壁の方へ視線を送った。 ヒナは既にサラが治療を始めていていた。
「お姉さま、大丈夫ですか?」
駆け寄ってきたミシェルが傷薬を取り出し、アティの掌を見て、眉をしかめて不思議そうに言った。
「お姉さま、どうして今の激突で、掌の皮一つ剥けていないんですか?」
「どうしてかな? 私にもわかんないや」
「いずれにしても、強くて素敵です、お姉さま。 また惚れ直してしまいました」
熱っぽく潤んだ目で自分を見上げるミシェルに、困ったように笑みを向けると
視線を再びヒナに戻し、念のため周囲をもう一度見回し、アティは歩み寄って片膝をついた。
「申し訳ございません、私が至らぬせいで」
「? ヒナさん、ヒナさんの凄い一撃があったから、今回は勝てたんだよ。
大丈夫、ヒナさんは凄く頑張ったよ。 だから、次も頑張って。」
自信なさげにヒナは頷き、サラが回復魔法を発動した。
受け身を取ってダメージを最小限に殺していたヒナは、それでほぼ回復し、歩けるようになった。
「・・・それにしても、こんな奴がうろうろしているのでは、長期間の探索は難しいな」
「そうだね。 疲れた所にグレーターデーモンさんが出てきたら、どうしようもないモンね
ねえねえヒナさん、お兄さんの現れそうな場所とか、分からない?」
そう言ってアティは現時点でのマップを広げた。 今、大きな通路は大体通り終えた所で
現時点での地下七層の構造の輪郭が、ようやくはっきりした所である。
それによると、大きな部屋が四つ、小さな部屋が最低七つ存在しており
一番大きな部屋は、100メートル四方程も広さがあるため、中にもう一つ二つ部屋があるかも知れない。
「兄は・・・方角の吉凶にこだわる人でございました」
不意に発せられた言葉に、アティは顔を上げた。 何か言おうとしたグレッグが、黙って様子を見る。
「兄は風水の知識があり、戦いに赴く際は必ずそれを気にしておりました」
「えっと、じゃあこの階層で、吉と凶の方角って分かる?」
「吉はあちら、凶はこちらになります」
ヒナは即答し、地図の二点を指し示した。 吉の一点は小部屋、凶は二番目に広い部屋であった。
「あー、えっとね。 どっちにナチさんいると思う?」
「私は・・・凶の方にいると思います」
「どうして?」
「兄の性格からして、グレーターデーモンを吉の存在と考えるわけがございません」
アティはそれを聞くと頷き、皆の方へも視線を向けた。 最初にリカルドが、腕組みしながら言う。
「試してみる価値は在るな。
部屋に入るたびに、巨人だのドラゴンだのと戦う羽目になったら冗談ではすまん」
「私もリカルド殿の意見に賛成です、アティ殿」
「そうね・・・やってみる価値は在ると思うわ」
「今おっしゃられた方角から、邪悪な気は確かに感じます
しかし、この階層くらいになると、彼方此方に邪悪な気が存在しますから
其処が目的の場所かどうかは、残念ながら分かりませんが」
皆の言葉を聞くと、アティは頷いた。
「うん、分かった。 じゃあ、最初に凶の方向の部屋を調べてみよう」
4,取り戻す物は心
部屋の奥には、凝りがあった。 忌まわしい感情にとらわれた、凝りがあった。
それは血走った目を地面に向け、何やらぶつぶつ呟きながら、妖刀を抱きしめていた。
不意に、部屋に異分子が進入する。 身長は凝りの三倍。 体重は三十倍。 翼持つ、魔界の住人。
「ドウヤラマダキエルキハナイヨウダナ・・・」
「グレーターデーモン! またしても、またしても現れおったなあああああ!」
立ち上がった凝りが、自分の目よりも血走った刀身を持つ、最強の刀を抜き放つ。
「ナンドワレニフンサイサレテモ、ナンドワレニタタキノメサレテモ。
アキラメナイシセイハタイシタモノダ。 ヒトリノセンシトシテ、ケイイヲハラウゾ」
理性的な魔界の住人の言葉に対し、凝りは狂気に満ちていた。
狂気に追い込んだ犯人でもある魔界の住人は苦笑すると、身軽に浮き上がり、舌なめずりする。
「ユクゾ・・・! ワガノゾミハシュラドウノセイハ・・・キサマトタタカイ、ソレヲナス!」
「死ねえええ! バケモノォおおおおおおおおっ!」
もはや自分も人ではない事を、魔道に落ちている事さえ気付かず、凝りは咆吼する。
何度目かすらもわからぬ、修羅の戦いが、再び始まったのだった。
アティが足を止めた。 前方から漂い来る凄まじい血の臭いに気がついたからである。
グレッグが前に出て、そしてすぐに皆を手招きした。 其処には、ブルードラゴンの死体があった。
顔面に物凄い力で殴られた跡があり、鱗がひしゃげてへこんでおり
周囲には鮮血が飛び散っており、だが一方的な戦いだったと誰の目にも分かった。
「凄いね。 ドラゴンさんを、ぶってやっつけてるよ」
「ブルードラゴンを一蹴できるほどの存在は、第七層の魔物にはいないはずですが
ジャイアント達でも、ドラゴンは避けて透りますからな。」
「と言う事は・・・近いね。 みんな、気を付けて。」
目的の部屋は黙視できる位置まで近づいていた。 扉は半開きになっており、薄明かりが漏れている。
不意に、爆弾が炸裂するような音が轟いた。 グレッグが周囲に罠がない事を確認し、頷いた。
「部屋まで障害はありません、アティ殿」
「あー、えっと。 グレッグさん、ありがと。 走るよ!」
「やれやれ、相変わらず元気な事だな」
率先して駆け出すアティを見て、リカルドが苦笑するが、すぐに真顔に戻って追いかける。
部屋の中からは凄まじい音が連続して響き、刃物で切り結ぶ音や、魔法の炸裂音もしていた。
部屋に駆け込んだアティは、素早く陣形を組むよう遅れて入ってきた五人に指示し
爆炎が巻き起こる前方を見据えた。 其処には、巨大な体躯を持つ青い魔神がいた。
グレーターデーモン。 レッサーに対するグレーターでは無く、悪魔として上級の破壊力を持つ存在。
圧倒的な攻撃力及び防御力を有し、優れた魔力を持ち、しかも頭脳も優れている。
実力は地下六層で戦ったインキュバスを凌ぐであろう、強力な魔神である。
隙のない強さは冒険者にも広く知れ渡っており、その恐怖は眼前で再現されていた。
「兄上・・・兄上っ!」
前に賭けだそうとしたヒナを、アティが制した。
グレーターデーモンの前にいる人影は、口の端から泡を飛ばし、血走った眼光で殺気をまき散らしている。
「兄上・・・何という変わり果てた姿に・・・」
「ヒナさん、様子を見よう。 このまま加勢しても、多分両方から攻撃されちゃうよ」
アティの言葉に気付かぬまま、ナチは咆吼し、妖刀村正にオーラを溜め、一気に振り下ろした。
それは光の刃となってグレーターデーモンに飛んだが、魔神は身軽な動作でかわし、中空で笑う。
後方の壁が爆裂し、傷ついて崩れた。 グレーターデーモンが右腕を左手で掴み、何やら念じ始める。
次の瞬間、右腕が巨大に膨れあがった。 そして滑空しながら、魔神は叫ぶ。
「ユクゾ、シュラヨ!」
「殺してやる、バケモノオオオオオオオオ!」
狂気じみたナチの声に、ヒナは耳をふさいで目をつぶった。
剛腕を一閃、グレーターデーモンが地面を叩き付ける。 床に小さなクレーターが出来
直撃は避けたものの、ナチは破片を喰らって大ダメージを受ける。
だが、侍は踏みとどまった。 頭から大量に出血しながら、村正を振るう。
それはグレーターデーモンの左腕を大きく切り裂いたが、魔神は意に介さぬように、尻尾を振るった。
勝負はそれでついた。 ナチは反撃をかわしきれず、もろに尻尾を喰らって壁に叩き付けられ
魔力を殆ど瞬時に溜めたグレーターデーモンが、大きく口を開き、魔力弾を撃ち放つ。
尻尾というものは、基本的に筋肉の塊である。 見かけ以上に、その打撃力は凄まじい。
それを喰らって動けないナチに、容赦なく放たれたフォースは、問答無用で着弾し
侍の肉体と、壁に鋭い亀裂を入れ、彼の戦闘力を完全に沈黙させた。
その時になって、ようやく魔神は左腕を押さえ、苦痛の声を上げた。
「ルグオオオオオオオ・・・! ガハッ、グガアアア・・・・サスガニヤルナ・・・・・
・・・ソコノニンゲンドモ、イツマデケンブツシテイル。 カカッテクルナラハヤクシタラドウダ?」
床に呆然とへたり込んでいるヒナを置いて、アティは前に進み出た。
まだナチは生きている様子で、時々痙攣しているが、もう反撃する力はないだろう。
それを確認すると、青い血が噴き出す左腕を押さえている魔神に、アティは歩み寄っていく。
「本当に、そんな事をして楽しい?」
「キミョウナコトヲイウニンゲンダナ。 ワレハタノシクテタタカッテイルノダガナ」
「あー、えっとね。 違うよそれ、絶対に」
興味の視線を湛えたグレーターデーモンに、アティは更に近づいていった。
「本当に強い相手と戦いたいなら、魔界にでも、もっと下の階層にでも行けばいいはずだよ」
「・・・ダカラドウシタ」
「貴方は、その人の、ナチさんの弟さんを殺しちゃったんだよね。
戦いだったから、戦争だったから仕方がなかった。 でも、それでナチさんの心は壊れちゃった」
いつの間にか、グレーターデーモンは左腕を押さえるのを辞めていた。
苦痛はあるはずなのに、呆然と目の前の人間を見ている。 手も出さずに、口も出さずに。
「さっきから戦いを見てて確信したんだ。 貴方はナチさんの気が済むようにしてあげたかった
でも、戦士としてのプライドがあるから、負けるわけにも行かなかった
だから何度も何度も戦ってあげた。 わざと逃がしてあげて、何度もチャンスをあげた。 違う?」
アティの口調は柔らかい。 だが、それには相手に心を伝える要素が確かに存在していた。
グレーターデーモンは頭に手をやり、困ったような声を絞り出した。
「・・・ハンブンハズレ、ハンブンアタリトイウトコロダナ
ソレデワレヲドウシタイ? ツミヲツグナエトデモイウツモリカ?」
「ううん、違うよ。 そっちの人、ナチさんの妹なの。 ヒナさんって言うんだけど」
アティは視線をヒナの方にずらした。 魔神は明らかに動揺した。
「ヒナさんはね、お兄さんを、ナチさんを助けて欲しいんだって。
それで私達に敵討ちを依頼してきたんだけど・・・正直、今の貴方を見てたら敵討ちなんて意味無いよ。
ねえ、お願い。 ナチさんを、助ける方法があったら教えてくれないかな」
「タスケル・・・トイウノハドウイウコトダ?」
「あー、えーとね。 うん、今の状況から抜け出せれば良いと思うんだけど・・・」
ふと、奇妙すぎる状況に気付いたのはグレーターデーモンだった。
考えてみれば、魔神と人間が友好的に話をしている、こんな状況は殆ど世の中にはないだろう。
「マジンノワレニ、モノオジナクモノヲイウトハオモシロイムスメダ
・・・ホウホウハアル。 ソノサムライヲショウキニモドスニハ、チョウドイイアイテガイルデハナイカ
ワレハタタカイデ、ソノサムライノオトウトヲコロシタ。
タタカイダッタカラトイッテ、センソウダッタカラトイッテ、モウシヒラキハデキン。
ソノサムライガショウキニモドッテカラ、ドウスルカハキメルガイイ
マア、ワレニモセンシトシテノプライドガアルカラ、ワザトマケテヤルキハナイガナ」
「あー、うん。 そうだね、確かに、それが一番いいかもね
ヒナさん、お兄さんを・・・・ナチさんを、助けてあげようよ。 敵討ちより先に、ね。」
腰を抜かしているヒナを、アティは助けおこしてやった。
グレーターデーモンは近くの大きな岩に腰掛けると、傷口に手を当て、回復を始めたが
一朝一夕に回復できるような傷ではない。 魔神の回復力を持ってしても、数日はかかるだろう。
つまり今、彼は人間に対して無防備な身を曝しているのだ。
念のため、リカルドはグレッグとミシェルに視線を送り、警戒するように呼びかけたが
サラが彼の肩に手を置き、首を横に振ったので、舌打ちして視線を逸らした。
ヒナはアティに支えられて、ナチの方へ歩いていった。
壁に倒れ込んでいる侍は、近寄り来る人影に獣じみたうなり声を上げ、村正を掴もうとしたが
素早く踏み込んだアティが刀を踏みつけ、遠くに蹴飛ばしたので、それは果たせなかった。
息も荒く、地面をまさぐるナチは、顔を上げて狂気に満ちた声を肺の奥から絞り出した。
「何・・・何者・・・だ・・・」
「兄上、私でございます。 ヒナでございます!」
「ヒナ・・・・だ・・・と・・・」
がばと顔を上げ、ナチが血走った目を向けた。 そして、ヒナを見て、咆吼した。
「お・・・・おぉおおおおおおおお! ヒナ、ヒナアアアアアアアア!」
明らかな怯えがヒナの顔に走った。 まるで餓鬼のように、ナチは妹へ手を伸ばす。
ヒナの服を掴むと、力加減も考えずに掴むと、狂気に落ちた侍は口から泡を飛ばした。
「何故、何故此処にいるのだ、お前は・・・」
「兄上・・・兄上を、助けに・・・」
「俺を・・・助け・・・」
ナチの言葉が止まったのは、目の前に何か光る物が飛び出したからである。
アティが差し出した、首砕きの刀身だった。 巨人の血は既に拭ってあり、燻銀の輝きを見せている。
鏡の役割を果たすそれに、ナチの顔が映った。 一瞬の虚脱の後、ナチは絶叫した。
其処にあったは、分別のある、優しく強い侍の顔などではなかった。
狂気に取り憑かれ、目に付く物全てを殺戮し、血に酔う怪物の顔だった。
「これは! これが、これが俺の顔か! ヒナ、ヒナぁアアアアア!
お、俺は、俺は一体どうしてしまったんだ! どうしてこんな顔になってしまったんだ!」
ヒナは怖かった。 優しかった兄の変貌が怖かった。 だから、何も言えなかった。
だが、アティが隣で首砕きを鞘に収め、静かに頷く。
やがて、彼女の中に窮鼠の勇気が醸造され、それが臨界点を越えたとき、ヒナは行動した。
変わり果てた兄を抱きしめ、そしてその顔に頬を寄せたのである。
「兄上、もういいの・・・もう復讐はいいの・・・!」
「俺は・・・俺は・・・・こんなにも・・・狂っていたのか・・・・・ヒナよ・・・」
「もういいの・・・だから・・・だから帰りましょう、我が家に!」
自分を抱きしめる力を感じて、ヒナは顔を上げた。 ナチが、落涙していた。
限りないほどに返り血を浴びた男が、枯れ果てたはずの涙を流していた。
「いや・・・もう俺は帰れない・・・俺はもう・・・・死んだんだ
グレーターデーモンの手などにかからず、名もない雑魚の手にかかって・・・死んでいたんだ
さまよう内に、こんな深い所でなく、ずっと浅い階層で・・・・死んだんだ。
それで・・・俺は・・・死にきれず・・・死にきれず・・・・」
ナチの体から、光が立ち上り始める。 輪郭が薄れ、質感が消滅していく。
そう、〈剣士〉が消滅したときと、全く同じ現象だった。
「だが・・・俺は救われた。 最後に、お前が、俺を必要としてくれたから・・・
やっと・・・・あいつの・・・・所へ・・・・行ける・・・・・・・・・
ヒナ・・・お前は・・・・復讐など・・・復讐などに・・・・・・とらわれ・・・るな・・・・・」
「兄上! 兄上っ!」
「ヒナよ・・・・最後に・・・あえて・・・・うれし・・・・・・かった・・・・・」
ナチが消滅した。 自分の腕の中の兄が消滅した事を悟ると、ヒナは泣き崩れた。
「兄上・・・・兄上・・・・!
いや・・・・こんなのいや・・・・いやああああああああああああああああああああっ!」
ヒナが落ち着くのを見計らって、アティはグレーターデーモンの方へ振り向いた。
魔神は好敵手が消滅した事を知って、寂しそうであったが、やがて静かに声を絞り出した。
「ムスメ、オマエハツヨイソンザイダナ」
「そんな・・・そんな事無いよ」
「イヤ、オオクノニンゲンハコウイウジョウキョウデ、オマエノヨウナコウドウハトレナイ
ナヲキイテオコウカ。 ワレハグレーターデーモンノ〈ヘイゼル=ハミントン〉トイウ」
「私はアティだよ。 ねえ、ヘイゼルさん。 聞きたい事があるんだけど」
グレーターデーモン、ヘイゼル=ハミントンは、ゆっくりと翼を広げ、立ち上がった。
「サキホドノ、ショウメツノコトカ?
ワルイガワレニ、ソレヲオシエラレルケンゲンハアタエラレテイナイノダ
・・・ダガ、ドウシテモソレヲシリタイナラ、チカハチソウヘオリテミルトイイ。」
「あー、えっと、有り難う。 ヘイゼルさん良い人だから、出来れば、今後も戦いたくないね」
「フ・・・・クフフフハハハハハハハハハハハ! シュラノワレニソノヨウナコトヲイウトハナ
タシカニワレモ、キサマトハタタカイタクナイナ。 ハヲキソウヨリ、ココロヲフカクシリタイ
・・・サラバダ。 マタアウトキハ、センジョウデナイコトヲ、ジャナルカミニイノリタイモノダ。」
返事を待たず、言うだけ言って、グレーターデーモンは飛び去っていった。
「地下八層か・・・そこに何があるのかな。 私、耐えられるかな。」
独語すると、アティはヒナを促し、他の皆と一緒に部屋を出た。
ナチの墓標代わりに、村正を床に突き立て、部屋を出たのだった。
この後、ヒナはアティに信頼を寄せるようになり、アレイドで失敗をする事は無くなったのである。
「一旦帰ろう。 地下八層は、逃げたりしないよ」
アティの言葉に、皆は頷く。 核心に迫る時が近づいている、それを実感しながら。
5,破滅の予感
クルガンは十名ほどの忍者兵と共に、レドゥアと、オティーリエを護衛しながら地下へ向かっていた。
目指すは地下最下層。 現時点で公式に確認されているのは地下九層までだが
冒険者の間では、地下十層や十一層があるという噂があり、真偽は不明である。
地下五層まではショートカットルートで行けるし、地下六層はこの間の攻略戦で魔物が激減しているので
それらは簡単に通過する事が出来たが、問題はそれ以降の階層である。
危険度は、地下七層でも言うに及ばず、更に下の階層は輪を掛けて危険である。
地下八層は、二階層構造とでも言うべき不思議な構造で、地上部分と地下部分に分かれており
その内の地上部分に地下九層への入り口があり、地下九層へ行くだけなら簡単だが
魔物の数は多く、しかも強力なため、迅速な行動がどうしても必要になってくるし
しかも未確認情報では、地下九層への入り口がもう一つあるという物もある。
無論その地下部分に入り口があるという噂なのだが、其処は無数の転移装置と通路と小部屋で仕切られた
非常に複雑な迷宮で、魔物も数が多く、生半可な覚悟で足を踏み入れる事は出来ない。
今更調査している暇はなく、最も迷宮の情報に精通しているアインズの助力が無い事が悔やまれる。
クイーンガード長レドゥアの魔力は確かに凄まじく、そこいらの魔物は全く寄せ付けなかったが
それでも、最下層にいる強力な魔物に通じるかどうかは分からないし、トラップ相手には無力だろう。
不安と不満を抱えながら歩くクルガンの足が止まった。 忍者兵達の足も止まる。
前方に人影を発見したからで、全員が戦闘態勢を取るが、やがて構えを解いた。
「何だ、確かギースだったな。 どうしたのだ?」
レンが声を掛け、歩み寄っていくと、焦燥しきった様子で、ギースが顔を上げた。
「見てくれ・・・このざまをよ・・・」
周囲を指さすギース。 周りには、腐敗した死体が五つあった。
そのうち四つまでは、レッサーデーモンの亡骸だったが、一つは人間の死体だった。
明らかに相打ちになる形で、双方が死力を尽くした戦いの後倒れたのだろう。
「これが、どうしたのだ? 迷宮では珍しくもないだろう」
「これは・・・この死体は・・・俺なんだよ・・・・」
「はあ? どうかしたのか、具合が悪いのか?」
レンの顔を見上げると、ギースは忍者装束を掴み、そして叫んだ。
「俺は、レッサーデーモン四体を一人で倒した。 それで名をあげた。
でも、本当は変だったんだ。 倒した後、どうやって町に帰ったかの記憶がなかったし
それに、自分でも不思議だった。 レッサーデーモンに、憎悪がわくのかが分からなかった!
でも、これを見たら全て思い出した。 俺は勝ったんじゃない・・・相打ちだったんだ・・・」
「な、何を言っているんだ!」
クルガンも、レドゥアも、皆が驚きのまなざしで見つめる中、ギースの体からは光が立ち上る。
「俺は・・・ここで・・・・死んだんだ。 それだけ・・・誰かに・・・伝えたかった・・・・・・」
〈剣士〉のように、ギルドの老魔導師のように、ナチのように。 ギースも消滅した。
呆然とするクルガンは、途轍もなく嫌な予感を覚えて、直ちにその場を後にするよう皆に命じた。
だが、やがて彼の危惧は的中する。 しかも、考え得る限りの、最悪の形で・・・
(続)
|