風船の言葉

 

序、軽装備

 

風船を片手に、蛇の背中のようにうねった山道を登り終えると、牧歌的な村の光景が広がっていた。だからこそに、村はずれに見える積乱雲のような人外の地「フィールド」の異常さが際だっていた。

大きく嘆息した後、足を止めて呼吸を整える。まだ幼い体に、山道をてくてく歩くのは骨だった。赤い靴の中の足が痛い。だが、こうしないと、どうしても仕事とプライベートを切り替えられないのだ。

不愉快なくらい子供な自分に苛立ちながら、アリスは開いている左手で、セミロングに切りそろえている髪の毛を整え直す。世界でも最年少のフィールド探索者であるアリスは、徒手空拳で戦う連中を除くと、もっとも軽装備で戦う事でも知られている。いつも使うのは、風船のみ。それでいながら、巨大な体躯を誇る異常な怪物を倒したことが一再ではなかった。

麗らかな日差しの中歩いていると、不審そうに此方を伺う視線が集まってきた。やがて、道に立ちふさがった、頭のはげ上がった気難しそうな老人が咳払いをする。

しらけた目を其方に向けると、たじろいだように、老人は一瞬だけ躊躇した。

「アリス・シャーウッドさんですかな」

「見てわかりませんの? こんな小さな村で、よそ者だと言うだけで明らかでしょうに」

丁寧な口調から吐き出される毒に、老人、おそらく村長であろう人物は、露骨に鼻白んだようである。

「念のため、フィールド探索者としての証明をしていただけませんかな」

「N社から写真は送付されているはずですが」

「詐欺師の可能性も否定できないでしょうしな。 それに貴方のような子供が来ると言うことで、村人はみんな不安がっておるんじゃ」

徐々に村長が苛立ってくる。他の村人も、家から出てきてやりとりを見物し始めていた。中には、露骨に不審な視線を向けてくる者もいる。

だが、それが何だ。

体長何十メートルもある桁違いの怪物と渡り合ったこともあるアリスである。如何に場数を踏んでいるとは言え、人間の老人ごときに気圧されはしない。

「あまり、フィールドの外で能力を見せたくはないのですけれども」

冷笑混じりに、能力を展開。

ふわりと、二十メートルほど浮き上がる。

そして特注の翻らない設計のスカートに風を感じつつ、踏み固められた土の路に着地。数メートル四方に渡って凹み、即席のクレーターが出来た。

「これで、ご満足ですかしら? 見ての通り、フィールド探索者ですが」

「あ……」

「今は先に休憩を取りたいので失礼。 フィールド探索は、少ししてから伺いますわ」

今までの不遜な口調は何処へやら、唖然とし硬直する村長を一瞥すると、懐から写真を出す。宿代わりに提供された家があるはずだった。

其処は、北欧の山間に存在する小さな村である。人口は四百名程度と小さく、これといった産業はないが、麓には耕作地が広がり、遠くには海が見える。普段脅威と言えば猪や熊くらい。それも、熟練した猟師がいるし何より熊の危険性を熟知した村人も多いから、人死にが出ることは滅多になかった。典型的な、平穏な田舎村にも見える。

ラットソンという名を持つこの村に突然の災厄が降って湧いたのは二週間ほど前のこと。村の外れの、少し他からは離れた家から、大量の雲が吹き上がったのである。それは積乱雲のように見る間に巨大化し、瞬く間に村はずれの一部を飲み込んだのだった。

すぐに軍に連絡がいき、調査した所、フィールドであることが判明。幸い被害者はまだ報告されていないという事で、アリスらが探索要員として呼ばれたのだ。ただ、呼ばれた戦力が少し大きいのが気になる。何か裏があるのかも知れなかった。

渡された地図通りに歩いていくと、パステルカラーの綺麗な屋根を持つこじんまりとした家があった。此処に違いない。特注の風船とは言え、そろそろメンテナンスもしたかったのだ。場合によっては、予備を膨らませなければならない。

電子チャイムはついておらず、いまどき呼び鈴である。古風にもほどがある。

ひもがついた呼び鈴を鳴らすと、奥から人の気配。呆れて笑ったのは、明らかにそれっぽい、人が好さそうなお姉さんが出てきたからである。黒っぽい茶髪で、かなり度が強そうなハーフグラスを付けている、三つ編みの女性だ。目は大きくて愛らしいが、顔の造作は十人前である。

どちらかと言えば小柄な人だが、小学校に通う年頃のアリスから比べれば頭二つ大きい。じっと見上げると、お姉さんは友好的な雰囲気を全身から発しながら、にこやかな笑顔を浮かべる。迷惑なことに、子供好きなのかも知れない。

「貴方がN社のアリスさん?」

「見ての通りですわ」

「きゃあ、可愛い喋り方っ!」

抱き潰されそうになったので、さっと逃げる。お姉さんは案外すばしっこくて、転ぶようなこともなく、一瞬だけ均衡が訪れた。敵意がないにじりあいだが、アリスにとっては死活問題である。体格差もあるし、協力者に攻撃も出来ないからだ。

家の奥から足音。

姿を見せたのは、眠そうな知人だった。

「あ、アリスちゃん。 おはよふ。 来てたんだ」

「スペランカーさん。 また貴方はこんな時間に、そんなだらしないことを」

「ごめん、長旅で疲れてて。 すぐ側にフィールドがあるのは分かってるんだけど、私、体力無いから」

目を擦るスペランカーは、何だか早速この家に馴染んでいるようだった。それにしても寝癖を付けたまま人前に出てくるとは、どういう事か。

スペランカー。常人ではとても立ち入れず、軍隊でさえ手に負えない異界、「フィールド」の攻略を生業とする「フィールド探索者」の一人。頭は悪いわ運動神経は切れてるわで、日常生活にも四苦八苦するような輩である。しかしその特異な能力によって、絶対生還者の異名を持つベテランだ。

お姉さんとスペランカーが話し始める。

意外なことに、簡単な意思疎通はお姉さんとちゃんとこなしている。ただし音声が出るタイプの電子手帳を使って、だが。それもあまり早いとは言いがたい。お姉さんは電子手帳の操作に四苦八苦しているスペランカーを何だか危ない目つきで見ていた。多分N社が用意してくれた有能なサポートだと思うのだが、先が思いやられる。

奥に通される。今回はスペランカーと二人だけの攻略戦だ。この小さな村では、フィールド対策にあまり大きな金額を用意できなかったのである。それに、北欧は最近景気もあまり良くない。もらえた補助金も、多寡が知れていたのだろう。

村人達が非好意的なのも、仕方がない部分はある。何も悪いことをしてないのに、いきなり訳がわからないフィールドが発生して、今までの平穏な生活を奪われてしまったのである。筋違いとは分かっていても、フィールド探索者くらいしか、恨みをぶつける相手がいないという訳だ。

今は古風なソファやランプが置かれていて、実に雰囲気がある。作りがとても広くて、田舎の家とは言っても快適そうだ。だが、あまりにもものが揃いすぎているのが、気になる所だ。

「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「あ、そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」

お姉さんはエプロンスカートを摘んで優雅に一礼する。アリスはこれでも一応上流階級の出だからわかる。

同類だ。

「私は、アンリエッタ=ロマノフと申します」

スペランカーは、蒼白になったアリスを、不思議そうにソファから見つめていた。一応それなりの戦闘経験は積んでいるだろうに、相変わらず鈍い奴である。

分かっていないのだ。今の言葉の意味が。

そして、村に対するイメージも一瞬にして崩壊した。牧歌的どころか、これは危険な犯罪や秘密結社の匂いがぷんぷんする。一撃粉砕能力が高いアリスに加えて、生存率が高いスペランカーが指名されているのも、それが原因かも知れない。N社の連中を、アリスは心中で罵った。先に連絡を入れてくれればいいものを。子供だから知らせる必要はないとでも思ったのだろうか。

いずれにしても、はっきりしたことがある。

どうやらこの探索、一筋縄ではいきそうにもなかった。

 

1、風船少女

 

風船を使って戦うフィールド探索者アリスは、名門貴族の一つ、シャーウッド家の出身である。といっても、この家は様々な事情から貴族の間からも孤立し、しかも財産も少ない。

だが、従兄弟同士だという両親は常にアリスと弟に言い聞かせていたものだ。

貴族としての誇りを、忘れる事なかれ。

既に民衆の上に立つという役割を喪失した貴族である。そしてかって民衆の上に立っていた貴族どもが、俗悪で、とてもではないが人に誇れるような連中ではなかったことも、現在のアリスは知っている。箸を侮蔑する貴族がいるが、ナイフとフォークなどいうものは数百年前、フランス革命の際に貴族が「民衆との文化的格差」を見せつける使い始めた歴史の浅いものだ。その前には手づかみで料理を食べていたのである。貴族など、その程度の存在だ。F国の革命および大規模な労働者革命の時代を引き起こしたのは、彼らの勘違いと傲慢、それに搾取が原因である。高貴なる義務という言葉が近年復権してきているが、そんなものを行使している貴族など、現実問題としてほぼ存在しなかったのである。

だが、幼い頃はそんな事は知らなかった。

無邪気に両親の言うことを信じて、必死に背伸びして生きていた。帝王教育は何でもかんでもこなした。非常にストレスが溜まる日常だったが、それでも誇りを失わないように、生き方を変えないようにと思っていた。厳しいが、本当は優しい所もある両親のことが大好きだったからだ。

二歳年下の弟は、しかしその生活に耐えられなかった。幼い頃から、泣いてばかりいた。勉強が嫌だ、御習い事が嫌だ。そんな事をいっては、アリスの影に隠れる毎日だった。今になってみれば、背伸びしっぱなしだったアリスに比べて、子供らしい子供だった、という事なのだろう。両親は児童虐待に走るようなことさえなかったが、弟にはある程度の年で見切りを付けたようだった。ある日ぴたりと帝王教育が止まり、のびのびと弟は暮らすようになった。

この日からだろうか。何もかもがおかしくなり始めたのは。

元々無理がある家庭環境だったのかも知れない。アリスと弟の露骨な格差は、今まで盲目的に両親の言うことを聞いていた価値観に罅を生じさせた。泥まみれになって同年代の友達と遊んでいる弟。貴族がどうのと言われることもなく、ごく普通の家庭の子供として、平和な日常を謳歌していた。

それに対してアリスは、毎日遅くまで習い事を行い、学校での成績も常に上位をキープすることを要求された。それも、学校内ではなく、E国の全土で、での話である。貴族としての誇りという言葉は、毎日耳にした。礼儀作法も、弟とは比べものにならないほど厳しく徹底的に叩き込まれた。

何だかおかしいなと、小学校に上がる頃には思うようになり始めていた。周囲の学友も、アリスの異様な家庭環境には気付き始めたようで、距離を置き始めていた。虐めに遭うことがなかったのは、アリスが三歳年上のいじめっ子を軽々と投げ飛ばして、徹底的に叩きのめしたからである。教師でさえ手を焼く凶暴な生徒だったのだが、習い事の一つとしてT国の拳法を習っているアリスにはあまりにもたやすい相手だった。

虐めには遭わなかったが、しかしその事件が決定的になった。学校で、アリスは完全に孤立した。

話し掛けてくる子供は一人も居ない。プライドが高いアリスは一人遊びばかりするようになり、周囲の大人からは心配された。だが、両親は何も言わなかった。孤高こそが上に立つ者の義務と考えているようだった。

心が少しずつひび割れていく中で、さらなる事件が起こる。

学校交流会で、別の学校にいた、貴族の子と接する機会があったのである。

未だにE国では、多大な財産を持つ貴族が実在している。労働者革命が起こりはしたが、貴族が生き残った珍しい国だからだ。何しろ王室がその筆頭なのだから、その事情は推して知るべし、という所であろう。民主的な議会も存在はしているが、その中でもなかなか侮りがたい力を持つのが、E国の貴族なのだ。

その貴族のボンボンは、アリスの家名を聞くやいなや爆笑した。

そして、出自について触れたのである。

「卑しい反乱勢力の物乞いの徒が、偉そうに貴族なんて名乗ってんじゃねえよ!」

次の瞬間、沸騰したアリスは、そのボンボンを投げ飛ばし、マウントになって顔面を三十五回殴っていた。相手が饅頭のように顔を腫らし、完全に戦意を喪失しても、怒りは収まらなかった。相手の親を恐れた教師に羽交い締めにされてもなお、顎を蹴り砕いた程だった。

内臓破裂さえしなかったが、相手の子供は骨折だけで七箇所、十六針縫う大けがをした。流石に問題になったが、しかしアリスの両親がどういうコネを使ったのか、生活が変化したり、転校したりすることはなかった。

だが、アリスも、ついに我慢の限界だった。

少なからず感じていた反発が、ついに歪みの限界を迎えようとした時。

その悲劇は起こった。

そして今、アリスは一人だった。

 

目を覚ますと、目を擦って意識を覚醒させる。周囲の様子を確認。となりでは、ソファでスペランカーが無防備に仮眠を取っていた。作戦開始まで三時間というのに暢気な話である。もっとも、彼女の実力はアリスも認めている。自分とは違うタイプの戦士だと思って、不満は零さないようにも努めている。

トランクを調べて、触られた形跡がないことを確認。基本的にアリスは、誰も信用していない。ジェラルミンの少し重い特注ケースを持ち歩いているのもそのためだ。多少の攻撃ではびくともしないこのケースに、お財布も着替えも入れている。

薄い胸を上下させて、スペランカーが幸せそうに寝息を立てていた。流石にそろそろ起こさなくてはならない。

「スペランカーさん、起きてくださいませ」

「むー。 アリスちゃん?」

「そろそろ作戦会議の時間帯ですわよ」

「ええっ!」

飛び起きたスペランカーは、ソファから落ちて、顔面から床に着地した。思わず視線をそらしたのは、見ていられないと思ったからだ。

しばらく身動きしなかったが、やがて鼻を押さえてもぞもぞと起き出す。鈍い。だけど、戦闘では頼りになるし、黙っておく。

洗面所に二人で顔を洗いにいく。歯ブラシもコップも自分のものを使うアリスを見て、スペランカーが笑顔のまま喋りかけてくる。

「アンリエッタちゃんの事、信じてあげようよ。 歯ブラシも歯磨きも新品だよ」

「お言葉ですが、これだけは譲れませんわ」

子供用ではなくて、歯磨き粉もとびきりきつい大人用のものを使っている。そういえば、昔も背伸びをしていたが、今はそれ以上なのかも知れない。コーヒーも紅茶も、砂糖もクリームも入れずに飲む。それが習慣になっているのかも知れなかった。

顔を洗って髪の毛を整える。そして、帽子を被った。丸い縁の着いた赤い帽子で、リボンがアクセントになっている。これはアリスの戦闘帽だ。特注品で七つ用意してあるが、消耗品でもあるので、毎度無くしてしまう。しかし、敵を討ち果たすまでは、絶対に無くしはしないのだった。

風船を手にしたまま、ダイニングへ。心がこもった食事が用意されていた。

にこにこと笑顔のまま準備をするアンリエッタは、相変わらずスペランカーにもアリスにも、不作法なまでの好意を向けてきている。きっと、小さな女の子が好きで好きでしょうがないのだろう。スペランカーはもう小さな女の子とは言い難いが、東洋系は西洋系に比べてぐっと幼く見えるから、関係ないのかも知れない。ただでさえ彼女は童顔だ。

テーブルに着く。

地方の家庭料理らしいのだが、やはり調味料などに随分金が掛かっている。パンは焼きたてで香りが香ばしいし、野菜類を中心としたスープと、軽めの肉料理は何処に出しても恥ずかしくない出来だ。アンリエッタははっきりいって同類と言うこともあって虫が好かないが、料理に関しては敬意を表するべきだとアリスは思った。

完璧なテーブルマナーを維持したまま食事を進めるアリスの横で、四苦八苦しながらスペランカーがかちゃかちゃ音を立てていた。

食事を先に済ませたアリスは、おもむろに席を立つと、ソファの側で携帯を取り出す。

今回はまず偵察を行い、状況次第では二人だけの攻略作戦となるが、場合によっては援軍が来る。最初は二人でどうにかなるだろうと思っていたが、今は考えが変わっている。ほぼ確実に援軍が必要になるだろう。

「すっごく美味しいけど、お箸が欲しいなあ」

「あら、スープなのに?」

「それは別。 あ、レンゲがあると嬉しいかも」

「まあ、それはなあに? お花?」

スペランカーがアンリエッタと脳天気な話をしている。

その後ろで、携帯に出たN社の営業と、アリスは深刻な話を始めていた。

「どういうことですの? 現地協力者とかいって、保護対象ではありませんか」

「ガハハハハハ、もうばれたか。 ガキいっても、流石にペロペロキャンデーで誤魔化される年でもねえよなあ」

「本気でいっているのなら、怒りますわよ?」

「冗談だって、そうむくれんな。 テメーの実力を知ってる俺が、本気でガキ扱いする訳がねーだろ、バルーンクラッシャーさんよお」

電話先の相手は、かって、N社のエースフィールド探索者であるM氏と激しい戦いを繰り広げたことで知られるJという営業である。色々と悪事をしていたが、結局犯罪は割に合わないと気付いたらしく、闇の世界の大物である主君「K」から離れて自分から出頭。N社に拾われて、今は営業任務に当たっている。雲に乗る能力と、いざというときは分身を生み出す力があるので、かなり危険な地域でも営業が出来るようだ。

元々下品なやつばらなので正直虫が好かないが、ビジネス上のパートナーである。それに、フィールド探索者の会社が横につなげているコネクションは想像以上に広く深い。あまり彼らとの仲を悪くすると、後に響くから、何も言わずに我慢する。それにしても下品な笑いである。

「それで、援軍の到着は?」

「必要か?」

「決まってるでしょう? スペランカーさんがぐうぐう寝てる間に村を見て回りましたけれど、アンリエッタさんが今まで無事だったのが不思議なくらいですわ」

「OKOK、ガハハハハ。 何、もうすぐ近くで待機してるし、スペランカーとも仲が良い奴だからな。 何か起こる前に、そっちに着くだろうよ」

嘆息して通話を終えた。

後ろではレンゲとは何か、スペランカーがアンリエッタに説明している。しかし阿呆なので、説明が著しく下手で、にこにこしながらもアンリエッタは全く理解できていないようだった。たまりかねたアリスは、咳払いして助け船を出してやる。

「要は大きなスプーンのことですわ」

「それがどうしてレンゲなの?」

「蓮の花びらに似ているからと言う説が一般的ですけれど、スペランカーさん、何を頷いていますの?」

「いやー、アリスちゃん、流石だね」

思い切り脱力した。

とりあえず、偵察任務は此奴にいってもらうのが不安で仕方がない。ただ、偵察任務でしくじったという話は聞いたことがないし、多分戦場で実力を発揮するタイプなのだろう。そう、自分を納得させる。

トランクを開けて、準備を始めるアリスを見て、スペランカーもヘルメットを被り、バックパックを漁り始める。

年上なのだから、リードしてくれるくらいの気概が欲しいと、アリスは思った。だが、もう何か言うのは諦めた。

バックパックを背負うと、スペランカーはまるでジョギングにでも出かけてくるかのように、にこりと微笑む。

「じゃ、出かけてくるね」

「心配はしていませんけれど、油断だけはなさらないようにお願いいたしますわ」

「大丈夫」

不思議と。

その笑顔だけは、どうしてか安心できるのだった。

スペランカーが出て行った後、アリスも玄関に。アンリエッタが後ろで食器を洗っている。

「わたくしも、少し出かけてきますわ」

「夕ご飯までには帰ってきてくださいね」

「……あー、はいはい」

援軍が来るまで、まだ少し時間はある。その間に、この村で起こっていることと、その裏側にあるものを、しっかり見極めておく必要があると、アリスは考えていた。

 

アリスはもう気付いているようだが、この村はどうもうさんくさい。スペランカーはてふてふと牧歌的な村の路を歩きながら、思っていた。家々から時々、嫌な視線を感じる。欲望に起因するものではなくて、どうも嫌悪に思えてならなかった。もっとも気のせいという可能性もあるが。

少し歩いて村の外れに出ると、F国の軍勢がバリケードを作っていた。スペランカーの顔を見ると敬礼して通してくれたが、どうも表情は好意的とは言いがたい。この村出身の兵士にでも話を聞きたい所だが、多分まともに取り合ってはくれないだろう。それどころか、隙を見せれば何をするかわからない所がある。

そもそも、この小さな村のフィールドに、探索者が三人。しかもあのN社が出張ってきているのである。何かあると気付くのが普通だった。鈍いスペランカーでも、それなりに修羅場は潜ってきているし、それくらいは判断できる。アリスは本当にスペランカーが気付いていないと思っていたようだが、地雷を踏まないように結構冷や冷やだったのである。

森の奥。

障気が渦巻いている。足を踏み入れると、もう空間が違うことが、肌で分かった。

フィールドだ。

ご飯を食べるために、毎度痛い思いをしながら攻略する場所。何百回も死ぬこともある。でも、幼い頃の飢餓地獄はトラウマであり、二度とあんな目には会いたくない。だから、今日もスペランカーは、地獄へ潜るのだ。

不気味に拉げた木々の間を歩く。何度か転んで、そのたびに死んだ。難儀な体質である。でもこの体質は父からの贈り物だし、なによりこれのおかげでご飯にありつけるのだ。

時々、奇怪な叫び声が上がるが、多分警戒音だろう。フィールドの主は、とっくの昔に、此方に気付いている。

森の中に足を踏み入れてしばらくすると、河に出た。とても深そうな河で、しかも流れが速い。森そのものが非常に暗いので、まるでタールが流れているような川の水の質感が、見ているだけで嫌悪感を誘う。見るからにいやな予感がしたスペランカーを嘲笑うように、それが姿を見せる。

魚だ。あまり詳しくはないが、ナマズの仲間かも知れない。口が非常に大きく、全身は鮮やかな極彩色だった。上半分しか見せていないが、どうも様子がおかしい。

河に入れるものなら入ってみろ。

魚は、そう言ってでもいるかのように、背びれを水面から突きだし、見せつけるようにして悠々と泳いでいた。

威圧感は大きいが、スペランカーはどちらかというと、そのサイズよりもむしろもっと何か違う部分でいやな予感を覚えた。ただ、怖いとは思わなかった。

ざわざわと、風の音。葉が揺らされているだけのはずなのに、森が嘲笑っているかのような気がした。濃厚な悪意を感じて、スペランカーはヘルメットを被り直す。この手のフィールドは、人のものにしろ何にしろ、悪意が生成に関わっている事が多い。或いは悲しみや憎しみや、悲劇や絶望が。

川に沿って歩く。魚はすぐに見えなくなった。その代わり、空に点々と何かが見え始める。木の陰に隠れると、それは徐々に近付いてきた。

最初は鳥かと思った。

だが、全部が鳥ではない。人間ほども大きさが、いやもっとある。

遊園地で風船を配っている人形。いや、違う。その質感は、あまりにも生々しい。顔だけが鳥。全身は筋肉質の、男性の肉体だ。服らしきものも身につけてはいるが、腰の部分を覆っているだけである。

魚と同じように、極彩色の羽毛を持つそいつらは、それぞれが手に風船を持っていた。は虫類の感情が見えない目、などと良く言うが、それは鳥も同じである。着地した鳥人間達は、息を殺して様子を伺うスペランカーの前で、甲高い声で何か会話を始めた。

音が高すぎて聞き取れない。だが、どちらにしても、人間の言葉では無さそうだった。

鳥人間は三匹いたが、やがてもう一匹が加わる。引きちぎったらしい、豚の下半身を手にしていた。凄まじいふくれあがった筋肉で、更にそれを引きちぎる。そして三匹は、鶏がミミズを飲み込むように、一呑みにした。

ギャッギャッと声がした。きっと美味い美味いと喜んでいるのだろう。

風船を手に、また空に消える。ため息をつくと、スペランカーはN社に今回支給された軍用トランシーバーのスイッチを入れた。ずっと使っている品なので、どうにか利用は出来る。

「此方スペランカー。 アリスちゃん?」

「状況は?」

「内部は思ったほど酷くないよ。 でも、少し気になることがあって」

フィールドによっては、巨人や怪物が闊歩しているような場所もある。此処はかなりまだマシな方である。普通の人間でも、ある程度は生存が可能かも知れない。

逆に言えば、今回はそれがネックになってくる。

「気になることとは?」

「中で、鳥の頭をした空飛ぶおじさんたちを見掛けてね。 アリスちゃんと同じように、風船を手にしていたんだけれど」

「続けていただけます?」

「引きちぎった豚の下半身をご飯にしていたんだ。 まだ、フィールドの外に、怪物が出たって話はないよね」

アリスは少し考え込む。

スペランカーは、アリスの返事を待つ。相手が一人前のフィールド探索者だから、仕事をする時は対等の相手と考えるべきだと思って、返事は待つ。

さっき見たあの下半身は、猪のものではなかった。明らかに豚である。つまり、スペランカーの結論はこうだ。

「貴方の結論を、先に聞かせていただきます?」

「まだ、フィールド内部に取り残されている住居がある、んじゃないのかな」

「なるほど、村の連中のうさんくささから考えても、あり得る話ですわね。 彼らの発言では、フィールドに取り込まれた家はないし、被害者は出ていない、と言うことでしたけれど」

懐から栄養スナックを出す。食べると他のものを食べる気にもならなくなるチョコバーだ。これから長丁場になる可能性があるから、食べておく。正直、さっきの鳥人間達の様子からいって、もしもの事があったら、事は一刻を要する。

「アリスちゃん。 私、これからもう少し奥まで調べてみる」

「ちょっと、お待ちなさい。 それなら私も行きますわ」

「現地で合流しよう。 アンリエッタさんには、無線で私から連絡しておくから」

地図を拡げると、合流ポイントをを指定。

渋々という感じで頷くアリスの様子を確認すると、無線を切った。

木陰から、向こうを伺う。この様子だと、この地図も疑って掛かる必要があるかも知れない。

アリスちゃんと合流したら、アンリエッタさんの本名を聞いた時、露骨に何かを悟ったらしい理由を聞いておこう。そう思った。

 

トランシーバーを切ると、アリスはアンリエッタの家の屋根に着地。

俯瞰してみると、冗談のように露骨な作りになっていて、少し呆れた。地図は、一応間違っていない。しかし、微妙に細かい部分に嘘が書いてある箇所が多く、それが全体的に大きな嘘を造り出している。

まるで、貴族の歴史のようだと、アリスは思った。

近年、加熱しすぎた資本主義の影響で労働者階級の地位が下がり、社会的に貴族階級が復権しつつある。そのせいか、「高貴なる義務」などというお題目が広まり始めていて、アリスは辟易していた。貴族の歴史を間近で見ているアリスは、子供だからこそに、思考は苛烈。故に、許せない部分もあった。この村はそれを思わせる。だから腹が立つ。

屋根からふわりと飛び降り、庭に。よく手入れされている、こぢんまりとした庭園である。ピンク色の可愛らしい薔薇がかなり見事に咲いていて、一人で世話をしている割には大したものである。

さて、どうするか。

直接村長の村に乗り込む前に、まずJに相談しておく必要があるだろう。それに、増援と合流した方が良いかもしれない。拳銃やライフルを持った連中に囲まれると、色々面倒だ。

それなりに修羅場を潜ってきているからこそ、わかる。M氏のような例外を除けば、フィールド探索者も人間なのである。そして人間を一番効率良く殺す術を知っているのは、他ならぬ人間なのだ。

スクーターの音。いや、がらがらと引きずっている音が、やかましい。古い車のエンジン音か。これは、やっと到着したらしい。

外に出てみると、錆が車体の彼方此方に浮いた三輪トラックが、アンリエッタの家の前に停車していた。もはや途上国でしか見ないモデルだが、不思議と動きは軽い。見かけはおんぼろでも、中は色々弄られているのかも知れない。後ろにはアジアでよく見掛ける屋台がついていて、色々と商売道具が積まれているようだった。

誰が来るかは聞かされている。スペランカーよりもかなり戦闘向けの能力者で、頼りになる。銃器で武装した人間相手にも、充分な猛威を発揮できるだろう。スペランカーの親友で後輩ということだが、先輩よりも戦闘面での実力は遙かに上である。

車から降りてきた彼女に対し、アリスは歩み寄ると、フィールド探索者の免許を見せて、周囲に気を使いながら、言葉短く、危機の到来を告げたのだった。

 

2、闇と光

 

貴族。

どんな国にも存在する、あるいは存在した権力階級の一つ。民主主義がスタンダードとなりつつある現在も、様々に形を変えて存在している。米国のパワーエリートなどがその典型例だろう。

貴族制度自体が悪い訳ではない。国王の手足として、或いは地方の有力者として、束ね役になりまとめ役になる重要な社会的地位ではある。問題はいつのまにか、社会的に重要な役割を果たしている事が尊敬の理由ではなく。その血筋が尊敬の理由であると、結果と過程が入れ替わってしまうことにある。

貴族だから偉い。偉いから高貴な血筋だ。だから、愚民を踏みにじって良い。それが普通の理論になった時、国は滅ぶ。多くの場合民が散々血を流すことになり、復讐の対象となった貴族は自業自得の末路を迎えることになる。

ところが、革命が起こっても財産を持って逃げ延びる貴族もいるし、場合によっては上手に社会の変化と折り合いを付けて生き残る場合もある。アリスの故郷であるE国は、その後者の事例だった。

そして。

その結果、かってありもしなかった様々な事柄が、さも現実のように語られるようになったのだ。

悲劇がそれに起因していることを、アリスは知っていた。

彼女の家族が、一人残らずいなくなった悲劇が起こったのは、十歳の誕生日を迎えた時のことである。あの日は、土砂降りだった。雷鳴が家の外でとどろいていて、怖い者知らずのアリスも、思わず身をすくめたものだった。

E国貴族としてはさほど裕福ではないシャーウッド家も、誕生日にはちゃんとケーキも出る。慎ましやかで幸せな時間。現金なもので、どれだけ両親に反発を感じていても、甘いケーキを食べている間は幸福感の方が勝った。

しばらくにこにこ満面の笑みでケーキを食べていると、そとでがたりと大きな音。

ジェントル髭を整えている父が、真っ先に立ち上がる。ライフルを手にする父に、母が気をつけるように言った。

何もわからずにこにことしていた弟。

それが、家族の見納めとなった。

正直な話、その時のことを、アリスはあまり詳細に覚えていない。気がつくと、家が燃えていた。

父も母も血みどろの肉塊になり、弟は既に姿を消していたのである。

手には血だらけのサーベル。確か、父祖が宝物としていたもののはず。そして、足下には、狂気の笑みを浮かべた子供の死骸が転がっていた。少し年上の男。そうだ、あの時、徹底的に叩きつぶしてやった貴族の子供だった。

土砂降りの中、爆発音。ボイラーに引火したのかも知れない。アリスはただ、無言で振り返った。呪いの声が、辺り中に広がっていた。

コロシテヤル。

貴族としての誇りを踏みにじった卑しい豚は、皆コロシテヤル。

子供の頭を踏みつぶしても、まだ嬌笑は続いていた。のろわしい、相手を殺すと宣言する声も。

それはきっと、人間の言葉ではなかったのかも知れない。

警察に保護されたアリスは、自分が不思議な力を使えるようになっていることに気付いた。罪に問われなかった理由はよくわからない。以前の話を詳しく聞き直そうとは思わなかったし、無罪放免ならそれで良かった。そういえば、子供の頭を踏みつぶしたのも、この新しい力によるものだった。幸い、両親の親友の弁護士が財産の保護を買って出てくれたおかげで、今でもある程度の生活は出来ていた。

N社に声を掛けられて、フィールド探索者になった時。アリスは営業の人間に言った。

弟を、探すと。

恐らく生きていないのは、分かりきっていた。だが、今やアリスには、それだけしか目的が残っていなかった。あれほど嫌いな家族だったというのに。帝王学には、内心反発しか覚えていなかったというのに。

その気になれば、もう学校にいかずとも暮らせるだけの金はあった。まずしいと言っても、それはE国貴族としての基準なのだ。火災保険で屋敷の修理費も出たし、慎ましく暮らせば一生働かずにも生きられただろう。

だがアリスは、学校に通いながら、フィールド探索者を続ける道を選んだ。

そしていつの間にか。両親が課していたことよりも、遙かに厳しい帝王教育を、自分に行うようになっていたのだった。

もしも、それが後世の作り事で、絵空事に過ぎないとしても。

何処かで、アリスは何よりも馬鹿にしている「高貴なる義務」ノーブル・オブリゲーションを心のよりどころにしていたのかも知れなかった。彼女一人しかいない、孤独な心の世界で。

目を開ける。

まだ、ジュニアハイスクールにも上がっていない年なのに、アリスは何か事を起こす時、必ず精神集中する癖を付けていた。隣に立っているのは、ピンクのバックパックを背負ったフィールド探索者。海腹川背であった。

スペランカーと同じくJ国出身のフィールド探索者で、同じように童顔である。ただ体の凹凸は非常にはっきりしていて、プロポーションは白人系のモデルにも引けを取らない。妙なアンバランスさを持つ女であった。これで二十歳だというのだから、恐ろしい話もあったものである。

動きやすくするためか、ショートカットに切りそろえた髪に半ズボンという活動的な格好の彼女は、フィールド探索者の中でもバリバリの武闘派である。経験こそ浅いようだが元々の素質が優れている事もあって、機動力においても単純な戦闘力においても相当な次元に達している。既にこの村が相当におかしい事は気付いているようで、愛車で来たことを後悔しているようだった。

並んで歩きながら、必要な情報について交換はした。そして今、村長の家の前にいる。スペランカーの負担を減らすためにも、出来るだけ早めの事態決着が必要であった。

既に村人がわらわらと集まってきている。村長も、呼び鈴を鳴らす前に出てきた。やかましく吠え立てている犬。このまま修羅場になる可能性もあった。手にしている風船を、心なしか強く握る。

「大丈夫。 アリスちゃんには、僕が指一本ふれさせないから」

「期待しておりますわ」

川背は手にしているゴムつきのルアーを握り込んでいる。これが相当に高次元な機動を可能とする武器らしいのだから、面白い。

そういえば、この川背という女、本職は料理人だとか。N社がわざわざ零細に所属しているフリーランス同然の彼女に声を掛けて此処に派遣してきたのは、何か理由があるのかも知れなかった。

「おや、あんたが増援かね。 また随分あれな子が来たもんだ。 東洋人は、みんなそんな子供みたいな顔をしているのか」

「子供っぽい顔って良く言われますけど、一応成人しています」

スペランカーよりずっと手慣れた手つきで、川背が電子手帳を操作して見せる。恐らく何を言われたかくらいは、雰囲気で察したのだろう。村長は露骨に驚いて、口をつぐんでいた。

にこりと微笑んでみせる川背だが、元々客商売をしている事もあって、雰囲気が海千山千である。専門的な話は言葉が通じるアリスがせざるを得ないが、充分に頼りになる。胆もかなり据わっているようだった。

「さて、説明していただきましょうか」

「な、何をじゃな」

「この村は、埋蔵金目当てに集まった一族の末裔ですわね。 そしてありかを知っているのは、いえ知っている可能性があるのは、あのアンリエッタさん。 違いますか?」

「何を馬鹿な。 確かにあれの名字はロマノフじゃが、ロシア革命の埋蔵金など、夢物語に過ぎぬわ」

笑い飛ばしてみせる村長だが、アリスは更にそれを鼻で笑う。

「ならばこの村の構造は何ですの?」

「な、何の話か」

「アンリエッタさんの家は、牢屋と同じです。 全ての家が相互監視しながら、アンリエッタさんの逃走を防ぐ。 それが目的でしょう。 もっとも、あの家の広さから言って、アンリエッタさんではなくて、アンリエッタさんの家族を、だったのかも知れませんけれど」

どうやら図星であったらしい。村長の顔色が見る間に変わっていく。

これは相当血なまぐさい事があったことは疑いない。

「更にもう一つ。 あのフィールドの中に、取り残された家族、或いは家がありますわね」

「な、何のことかっ! 何を言っている!」

「人の命が掛かっている事ですわ。 まあ、その反応から言って、どうやら確実でしょうけれど。 まさかもうどうせ死んでいるから大丈夫、なんて思っていないでしょうね」

川背がきっと左右を睥睨する。童顔だが、修羅場を潜り、客商売をしているだけあって、かなり威圧感が強い。残念な話だが、アリス一人ではこうはいかなかっただろう。所詮は子供であるからだ。

だが、子供であっても、大人を揺さぶる方法くらいは知っている。

「話さないのならいいですけれど、その場合はわたくしから報告がN社にいくことになりますわ。 違約として今回の料金が跳ね上がるのは確実ですので、覚悟しているとよろしいでしょう」

「ま、待て! 待ってくれ!」

地面を踏み込むと同時に、能力発動。

辺りの地面が、蜘蛛の巣状にひび割れた。どずんと凄まじい音がして、転倒する村人達もでる。川背は発動のタイミングを見切り、跳躍して転倒を逃れていた。

危なげなく着地する川背。服の埃を払いながら、彼女はにこりとした。

フィールド探索者が一般人に攻撃を加えたり暴力を振るうことは厳しく禁じられているのだが、やむを得ない状況の反撃に関してはそうではない。この場合であれば、川背も証人になってくれるし、充分に言い訳が出来るだろう。

何より、村人達はフィールド探索者のルールなど知らない様子である。だから、脅しとして有効である。

「僕たちが本気で怒らない前に、話した方がいいと思いますよ」

川背は笑顔を崩さない。

村長は観念したか、がっくり肩を落として、ぺらぺら喋り始めた。

 

浅瀬を見つけて、河を渡った。だが、辺りはずっと浅瀬が続いている。山の中の小川としては考えられない規模だ。恐らく、フィールド化した時に、地形も何もかも歪んでしまったのだろう。

川背に前聞いたのだが、魚によってはかなり乾燥に強い種類がいるという。ウナギなどは雨が降ると、陸上を這って別の河に移動することまであるという話である。あの巨大な魚が、そうやって襲ってこないことを祈るしかない。何よりこの河は広い。今、敵がスペランカーを発見する可能性は非常に高い。

だが、元より鈍いスペランカーである。浅瀬で何度も転んでは死に、息を吹き返してはまた転び。遅々として、河を抜けられなかった。

やっと対岸に渡りつく。そろそろ、地図上の合流地点だ。

リュックからフラッグを取りだして、ぐずぐずに湿って酷い匂いを立てている地面に刺しておく。一旦此処まで到達したという目印である。フィールドとしては歩きやすい方だが、敵はとっくにスペランカーを発見して、待ち伏せているという可能性も高い。

アリスは今頃、後顧の憂いを断ってくれているだろうか。川背がそろそろ来るはずだから、心配はしていないが、それでもあの子は子供だ。大人として扱うようにと自分に言い聞かせてはいるが、それでも不安は拭いきれなかった。

今回の探索のために買ったスポーツシューズは、既に泥まみれだ。それも黒い泥ではなく、赤茶けた気味の悪い色である。服もかなり濡れて汚れているが、この靴の汚れが一番いやだった。

しばし進んで、やっと泥沼を抜ける。木陰で嘆息して、腰を下ろした。

さっきの豚の死骸が気になる。もしも要救助者がいるのなら、急がなければならない。あの鳥人間はとても大きかった。人間なんて、ばらばらに引きちぎってぱくぱく食べてしまうだろう。

トランシーバーが震動した。

連絡に出ると、緊迫したアリスの声がした。

「はい、此方スペランカー」

「良かった、ご無事ですの。 何処にいらっしゃいます?」

「丁度合流地点の少し北かな」

方位磁針を見ながら応える。声は出来るだけ殺しているが、もしもこれも察知されていたら少し危ないだろう。方位磁針が効く事自体が、罠の可能性も低くはないのだ。フィールドの主になる怪物には、とても知能が高い奴も珍しくない。場合によっては、人間以上の事もあるのだ。

それにしても、アリスの様子からいって何かあったか。かなりの腕前の戦闘タイプである川背がついている以上、多少の軍隊程度なら相手にならないはずだが。

「すぐそちらに向かいます。 出来るだけ動かないでいてくださいまし」

「何があったの」

「合流してから話しますわ」

一方的に通話を切られる。不安を覚えたスペランカーは、リュックからその唯一の武器であるブラスターを取り出そうとして、気付く。

視線だ。見られている、ような気がする。

辺りを探すと、どうやら図星だった。どうしてか、この村に来てから、いつもは当たらないことも多い勘が妙に当たる。体の中の何かが疼いているかのようだ。

無数の光が、二つ横に並んでいるもの、三つが放射状についているもの。スペランカーを遠巻きに包囲している。しかも、数は十や二十ではなかった。痛いのは嫌だなあと思いながら、スペランカーはブラスターをしまい直す。敵の出方をある程度把握して、やっとこれは使えるようになる武器だ。必殺が故に、安易に振り回してはいけない武器でもある。

これは中枢に近いか。フィールドの主が、やはり此方を泳がせていた可能性が高いと言うことだ。

最悪の展開である。此処で仕掛けてきたと言うことは、それなりに意味があると言うことくらい、スペランカーにさえわかる。相手にとって非常に有利な場所なのか、或いは各個撃破する気なのか。

スペランカーの特性を見極められると面倒だ。トランシーバーに叫ぶ。

「状況開始! 敵の数、測定不能!」

返事はない。

向こうも、とんでもない状況になっている可能性が高かった。

 

枯れ木を蹴って高々と跳躍した川背が、しなったゴムロープを直上に投擲。鳥男の首に巻き付け、更に滑車の原理で枯れ木を中間に使って、一気に引きずり落とす。羽をへし折られ、バランスを崩した鳥男は、奇怪な悲鳴を上げながら地面に落下。ぐずぐずの腐葉土に、頭から叩きつけられた。

爆音がする横に、川背は着地。巻き上げられた腐葉土が、クレーターを作り上げる。

だが、鳥男は、曲がった首を、その逞しい腕で直しながら立ち上がる。傷口が、泡を吹きながら修復されていく。

其処に走り込んだアリスが、踏み込みつつ、左手で掌打を叩き込んだ。そして、能力を発動。鳥男の全身に蜘蛛の巣状の罅が入り、鮮血が噴き出した。緑色の嫌な血は、鳥男の断末魔とともに止んだ。巨体が仰向けに倒れふし、見る間に腐敗して骨になっていく。

だが、風船を持ち、彼方から飛んでくる鳥男の物量は圧倒的だ。

三匹が、同時に急降下攻撃を仕掛けてくる。以前戦った相手とは言え、こうも数が多いと面倒きわまりない。そして、ルアーつきのゴム紐を使って高機動移動を見せる川背に比べて、どうしてもアリスは瞬発的な移動能力に欠ける。

鳥男の足は丸太のような太さで、なおかつかぎ爪もある種の恐竜のように鋭い。アリスが跳躍するのと、わずかにその肩を爪が掠めるのは同時だった。枯れ木を蹴って方向転換したのは、上に待ち伏せているのが一匹いたからである。

今度は腿を、鳥男の爪が掠める。だが、返す刀で、鳥男の風船を蹴り割る。真っ逆さまに落ちていく鳥男が、仲間を巻き込んで土煙を上げた。

既に周囲は十を超す鳥男に囲まれており、なおかつその数は増える一方だ。スペランカーから戦闘開始の連絡があったが、救援にいく余裕はない。唯一僥倖だったのは、要救助者の事くらいだろう。

「はあっ!」

叫びながら、また一匹の風船を蹴り割る。きりもみ回転のまま落ちていく鳥人間。真下では、川背が猛烈なドロップキックを浴びせて、再生中の鳥人間の頭を砕いているのが見えた。自分をああやってゴムロープで加速して、砲弾のように撃ち出すことが出来るとは。身体能力が並外れているだけではなく、相当な空間把握能力と、何より度胸が必要だ。

「アリスちゃん! 後ろ!」

地面に落ちた二匹を再び飛ばせないように、立体的な機動でジグザグに走り回りながら、川背が叫ぶ。

能力を展開して、上空に加速。だが、背中に鋭い痛みが走った。鳥男が豪腕を振るって、アリスを叩きつぶそうとしていたのだ。

数が多すぎる。呼吸を整えながら、周囲を見回す。敵は更に増援を呼び集めていて、既に十三。また遠くから、二匹が加わろうとしているのが見えた。

それだけではない。

鳥男の一匹が、大きく胸を膨らませる。いやな予感がしたアリスは、手近な一匹の風船を蹴り割りながら、今度は不意に加速して落下した。

鳥男が、無数の雷撃を放ったのは次の瞬間である。それはアリスが一瞬前までいた地点を焼き尽くし、枯れ木を瞬時に数本粉砕していた。

下で、鳥男の首をへし折り、また引きちぎった川背も、肩で息をついている。戦闘開始から既に一時間。倒した敵の数は二十を越えた。そして、敵はまだまだ余力を残している。厳しい戦いであった。

着地して、今たたき落としたばかりの鳥男の頭を踏みつぶす。頭蓋骨が砕ける感触が、足にもろに伝わってきた。倒した、そう思った瞬間、鳥男の巨大な手が、アリスの胴をつかむ。頭を半分潰されながらも、鳥男は喉から声を絞り出す。

「ぎ、がぐげ、ぎゃろおえええええええっ! やくーつく! ぎゃくーつく! ぎろおおおおおおおおお!」

「何を言っているか、わかりませんわ!」

軋む全身に表情を歪めながらも、もう一度足から一撃を叩き込む。鳥男が断末魔の絶叫を挙げ、脳みそが広範囲に飛び散った。主を失った風船が飛んでいく。

戦闘用の安い丈夫な服とは言え、こうも異形の血と内臓まみれになると、気持ち悪くて仕方がない。

既に傷だらけのアリスと違い、川背は返り血以外は殆ど浴びていない。この辺り、戦闘面での才能差だろう。疲弊も、川背の方がずっと小さいようだった。もう少し年を取ればと思い、考えを改める。今ある材料できちんと戦うのが、一人前の戦士だ。IFを想定してそれに甘えるなど、素人の行動である。

「頑丈だね。 面倒な相手!」

「以前交戦した時よりも、強くなっていますわ」

「もうちょっとは温存したかったけど、しょうがないか」

川背が、立ち上がろうとした一匹の首にルアーを引っかけ、リュックに引き入れる。文字通り吸い込むようにしてかき消したのだ。

続けて、もう一匹。体術も優れているが、こんな技も持っていたか。或いは、あのルアーを出した技の延長線上なのかも知れない。

空を不吉に舞う鳥人間の群れは、地上の部隊が全滅したのを見届けると、距離を取ってぎゃあぎゃあと鳴き始めた。作戦会議でもしているということか。知能があることは知っていたが、見ていて良い気分はしない。

木陰に入り込むとリュックから素早く取りだしたジュースのパックに口を付ける川背を見て、アリスは呆れた。

「交戦中に、大した度胸ですわね」

「飲む?」

「いただきますわ」

投げ寄こされたアルミのパックを口に付ける。ゼリーが入っているジュースらしい。J国では変な飲み物を考えるものだと、アリスは美味しいと思いながらも、ちょっと呆れた。

川背は屈伸運動をして、酷使した筋肉をほぐし始めている。横目にそれを見ながら、アリスは告げた。

「恐らく、敵の本隊はスペランカーさんの方ですわね」

「多分ね。 先輩は僕より強いから、大丈夫だと思うけど」

「ご冗談を」

にこりと川背は笑う。冗談ではないと言っているのだろう。そしてその口調から言って、本気で川背はスペランカーを尊敬していると言うことだ。

呼吸を整えながら、ジュースを投げ返す。体の傷は十二箇所。どれも染みるが、致命傷は一つもない。恐らくは、どうにか耐え抜けるだろう。

「敵の作戦が決まるのを、待つ事はありませんわ。 今の内に突破しましょう」

「……まって、あれ」

川背の言ったとおり、アリスは硬直した。

何匹かが、ボウガンらしきものを構えているのである。更にさっき雷撃を浴びせてきた一匹が、大きく息を吸い込んでいるのが見えた。新しいルアーとゴム紐を虚空から取り出しながら、川背が敵から視線を外さず言う。

「雑魚は任せていい? 大物は僕が潰す」

「……どうやら、逃げるにしても、最低あのボウガンは何とかしなければならないようですわね」

「その風船、能力の命綱でしょ?」

不意に、川背が話題を変えた。

意図を悟って、アリスはにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。

雷撃が撃ち放たれる。川背とアリスが別方向に飛び退いたのは、ほぼ同時だった。膨大な爆煙が周囲を覆ったのは、アリスが逃げる際に地面に能力を叩き込んだからだ。

そして、煙が晴れると。

其処には二人の姿は無かった。

今の瞬間に戦場を離れたアリスは、低空を高速で疾走する川背の背中に掴まっていた。川背はバックパックを小脇に抱えて、アリスを背中に掴まらせ、もしもの時に備えて左腕をつかんでいた。

あんな機動をするだけあって、腕力も強い。どっちかといえば小柄なのに、アリスを背負ったまま軽々走っている。

「あれ、どう見ても言葉を理解してたものね」

「でも、阿呆ですわ」

既に敵の姿は後ろにない。

完全に撒くことに成功していた。作戦通りである。わざとべらべら作戦の内容を喋った後、その逆を突いたのだ。確かに追撃を受ければ不利だが、一気に引きはがせば問題はない。

「それにしても珍しいね。 フィールドって大体オンリーワンの内容が多いから、同じような怪物が出てくるって滅多に無いって聞いたんだけれど。 これも、さっきアリスちゃんが話してくれたことと関係あるの?」

「恐らくは。 そろそろ、下ろしてくださいます?」

流石に恥ずかしくなってきたのでアリスが言うが、川背は笑ったまま応える。

「恥ずかしい? もっと甘えて良いんだけどな」

「こ、子供扱いしないでくださいまし」

「僕も昔は意地張ってたけど、気にしなくて良いんだよ。 ただでさえ結構傷貰ってるんだから、少し休んでて。 それに、子供を助けるのは、大人の仕事だからね」

子供じゃないと言おうとしたが、言葉を飲み込む。ずっと強力な能力を持っているのに、使いこなせていない時点で、子供ではないか。自分に厳しくと心がけているアリスは、己の心に嘘をつけず、結果それ以上は何も言えなくなった。

何だろう、この不愉快な気分は。恥ずかしいと言うだけではなくて、何だか凄くもやもやした。

 

立ち上がったスペランカーは、敵が遠巻きに此方を伺うのを見つめていた。

服の袖が、左腕の肩から先が無くなっている。ズボンの方も、もう半分以上持って行かれていた。

今度は左腕を食いちぎられた。狼に似た奴だったが、口を血だらけにして、美味しそうに食いちぎった腕を飲み込んだ次の瞬間、爆ぜ割れて上半身を失った。どうと倒れる狼の死骸からは、大量の鮮血が噴き出し続けていた。

周囲には、既に十体以上の怪物の死骸が転がっている。最初一斉に襲いかかってきた数体を含めて、皆呪いのカウンターを貰ったのだ。

フィールド探索者は、多くの場合特異な能力を持っている。巨大化したり炎を手から出したりするM氏が有名だが、スペランカーもある事件で後天的に強制付与された能力のおかげで、今まで生きてこられた。

不老不死の代わりに、頭も体も弱くなる。それが、スペランカーを蝕む呪いだ。

そして、スペランカーの体に欠損部分が出るか、悪意による攻撃で体が欠損すると、攻撃者もしくは周囲から欠損部分を強制的に補填する。生体ミサイルや無数の生命や精神体の融合体にはとても相性が悪いが、今のような相手にはまさに必殺である。もっとも、スペランカーからの攻撃手段は一つを除いてほぼ存在しない。運動神経も同年代の並み以下で、武術も何も持ち合わせがないからだ。

だが、それが故に。絶対生還者と呼ばれるのだ。

血まみれで凹んでいるヘルメットをわざとらしく直すと、泥まみれの地面を歩く。包囲をしている連中が、ざわりと蠢いた。

もう一歩進むと、包囲は二歩下がる。互いの顔を見合わせながら、怪物達はスペランカーの動きを見守っている。スペランカーは両手をぶらりと下げたまま、また歩き始める。怪物は下がる。やはり、違和感が大きくなる。頬に飛んだ返り血を、手の甲で擦って落としながら、スペランカーは考えを纏める。

此奴らは、普通のフィールドに現れる怪物とは、明らかに違う。

意思を持っているのだ。死を恐れて、スペランカーに手出しできずにいる。

今までも、意思を持っている奴は結構見てきた。だがそれは大体の場合、フィールドの主か、それに近い立場にいる奴だけである。こういう雑兵が意思を持つというのは、初めての経験であった。

村の様子と言い、このフィールドは一体何なのか。アリスはもう勘づいているようだから、合流すれば聞けるだろう。後は要救助者だ。此処やアリスと川背の所にフィールドの主が注意を向けていれば、きっと助けられる可能性は上がるはずだ。

「ふん、醜いだけあって、使えぬ奴らよ。 わざわざ生け贄をもって異界の海から呼び出してやったというのに」

突然、場に人の言葉が割り込んできたのは、その時だった。

思わず足を止めたスペランカーの前に、小太りの男が現れる。ぱつんぱつんの燕尾服をきて、口元に髭を蓄えた、シルクハットの男性である。白人であるからか、まだ若いのか、もう中年なのか、即座に見分けはつかなかった。怪物は男の歩みを妨げないように、左右に分かれる。

少し遅れて、その言葉が直接脳に響いてきたことに気付く。下品な笑みを浮かべながら、白人の男性は続ける。

「アリスの小便垂れが出てくると思ったが、なんだお前は。 獣臭い、文明を知らぬ卑しき黄色い猿の分際で、私の高貴なる戦場に踏み込んでくるとは身の程知らずが。 とっとと去れ!」

「……」

差別的な発言に、頭に来る前に呆れてしまう。何だか、さっきのアリスの反応が分かった気がした。多分この男の仕業だと、既に気付いていたのだろう。

妄執の果てに人間を止め果てた存在がフィールドを作ったりフィールドのコアになったりすることはある。交戦経験もある。しかしフィールドを作成する生きた人間など聞いたこともない。フィールド探索の仕事を結構長くやってきているが、それでも一度も、である。多分M氏の宿敵である闇の世界の顔役Kでも、そんな事は無理ではないのか。

だいたい、この男がそんな大それた力を持っているとは、とても思えないのだ。全体からして小心で小物で、現実を見る勇気もないのが一目瞭然である。天才というのならともかく、そういった人種が持つ一種の狂気も、この男には感じられないのだ。単に力を持ってしまって舞い上がっている小物なのか、或いは。

何かに良いように使われている捨て駒なのか。

いずれにしろ、これはスペランカーで対処しなければならないだろう。二人の手を煩わせるわけにはいかない。

「どうした、去れ猿!」

「お断りします。 それに、今の発言からすると、このフィールドを作ったのは貴方、と言うことでいいんですか?」

「それがどうかしたか」

「だったら、逃がす訳にはいかない」

ひくりと、男が口の端を痙攣させた。どうやら態度を露骨に変えたことが、余程かんに障ったらしい。

ステッキを取り出す。それで殴打するつもりか。スペランカーはじっとそれを見つめた。というよりも、さっきまで怪物に体を食いちぎられていて平気なのに、ステッキを抜いた男くらいにびびるとでも思ったのか。

確かに痛い目に会うのは嫌だが、それはそれ、これはこれだ。出来るだけこの男の注意を引きつけ、出来れば倒してしまう。

今、スペランカーは、それをしなければならなかった。

 

3、呪われし宝

 

川背は追撃部隊を振り切ると、頭の中でアリスに聞いた話を整理しながら、ある一点を目指して急いでいた。

目的は二つ。

スペランカーの支援。それに、フィールドのコアとなっている何者かの撃退である。その内後者の位置は、さっきの話で大体特定できた。

「それにしても、ロシア革命ね」

「多分それだけでは済みませんけれど」

背負ったままのアリスがぼやく。小脇に抱えたバックパックが、風にはためきぱたぱたと音を立てる。

ロシア革命。世界でも屈指の大国であるロマノフ朝ロシア帝国を崩壊させた出来事であり、現在では悲劇としても名高い。その後の革命勢力が、悪名高い独裁者に牛耳られたこともその理由の一つだろう。そうでなければ、悪逆の王室の崩壊程度に捉えられていた可能性が高い事件である。

ともかく、この事件によって当時ロシアを支配していたロマノフ王朝は崩壊。皇帝一族は悪政と搾取に晒された民衆の怒りを買い、皆殺しの憂き目にあった。

このロマノフ王朝が、膨大な金を蓄えていた、という伝承が、以降は一人歩きするようになる。特に凄まじいものでは、その財宝は黄金のインゴットにして数百トンに達するなどというものまである。当時のロマノフ朝が世界の十分の一の富を独占していたなどという無責任な「専門家」達の発言もあり、この「財宝」の規模は伝説となって一人歩きを続け、その輝きに魅せられた多くの人間を破滅させていった。

アリスと川背が村長に聞き出したのも、そんな伝説に破滅させられた、一族の物語だった。

かって、ロシア帝国の軍艦が、この辺りに来たという。F国はロシア帝国の領土となっていた時機があり、その時に何かが埋められたのではないかという伝承がそれによって出来た。実際、村の中でも、ロシア帝国のやる気がないことで知られる軍人達が、しぶしぶ何かを埋めているのを見た、と主張する者がいたという。

村長は、彼らと同年代の人間であったそうだ。

ただ、彼らほど愚劣ではなかった。

当時、ロシアから逃げてきた一族がいた。ロマノフ一家と名乗る彼らが、実際には皇室出身者などではないことは、一目で村長にはわかっていた。だが、これが金を呼ぶと、村長は思ったのである。

ただでさえ貧しい村なのだ。埋蔵金目当てにやってくる山師が落とす金を、期待しても良いではないか。

そうして、異様な構造の村が作られた。

ロシアから来たロマノフ一家を中心に、周囲を他の家々が囲む。そうすることで、山師達の動きを効率よく囲み、彼らに金を落とさせる。森の中も山の中も探索は自由。ただし、探索費は必ず取る。

このもくろみは当たった。山師共は今まで見たこともないような金を僻地の村に落としてくれたのだ。

しかし、それも時が経てば終わりが来る。最初の頃景気よく現れた山師だったが、その内数も減り、ロマノフ一家を蜘蛛の巣の中心に据える構造だけが残った。そうしている内に、村人達の中に、不思議な妄想にとりつかれる者達が出てきた。

本当に、埋蔵金があるのではないかと、彼らは思い始めたのである。村長は苦々しく、老いた顔を歪めながら言う。

「だから、儂は言ったんじゃ。 あんなもの、幻にすぎんとな。 実際そんな金があったんなら、革命だって防げたろうし、もっとマシな軍隊でも作れただろう。 滅びた国家が、埋蔵金なんぞ、そうそう残す訳がないわ。 そんなもの隠す暇があったら、自分で使っておるじゃろうからの」

過疎化が進む村々の中で、此処だけは人が減らなかったのも。いつの間にか、そういう妄想が、村の中で膨らんでいたからだった、だろう。

やがて悲劇が起こった。

金の卵として「飼って」いたロマノフ一家が、失踪したのである。まだ幼いアンリエッタだけは、血だらけになって、村はずれで見つかった。何人かの村人も姿を消しており、何が起きたのかは明らかだった。

森の中には、幾つかそれらしい怪しいものをわざと配置している。その辺りに血痕は見つかったが、死体そのものは結局見つからなかったという。失踪した連中が本当に財産を見つけたのか、凶行の果てに姿を消したのかはわからない。いずれにしても、アンリエッタの両親、それに兄は。これで姿を消した。

問題は、それで村人の中に蠢く妄想に、拍車が掛かってしまった、という事であった。

山の中、森の中で暮らす連中が出始めたという。そして彼らは、妙な連中と、連むようになり始めた、と言うことであった。

最初そいつらは、大学の研究チームか何かに見えたという。今までの山師とは比較にならないほど高性能な機器類を持ち込み、絨毯爆撃的に山を森を調べていた。アンリエッタの家も調べていたが、すぐに興味を無くしたようだった。

彼らに、財宝がまだ残っていると考える村人達が協力したのは、当然だったかも知れない。

だが、その欲望は報われることなく散った。ほどなく、彼らが一人、二人と失踪し始めたのである。

そして自警団を編成して連中を調査しようとしたその矢先に。フィールドが発生した、という事であった。

詳しく調べられれば、何しろ以前の失踪事件まで判明してしまう。過疎化していた村に、更にとどめが刺されてしまうスキャンダルとなるだろう。かといって、国からの補助金があるとはいえ、フィールド探索者の依頼は小さな村には耐え難い負担である。

N社が協力を申し出てきた時に、その金額に村長は目を剥いたという。気持ちはわかる。以前南A大陸の小国で、フィールドに漁場を蹂躙された貧しい村の再生に協力したことがあるからだ。N社としては、この村の素朴な風土にあった料理を川背に作らせようとして、呼んだのだろうか。もしそうなら、あまり魚料理以外は専門ではないのだが、やってみるしかなかった。

思えば、村長も金という魔力に振り回された一人なのかも知れない。そう思うと、気の毒でならなかった。

足を止めたのは、嫌な気配を感じたからだ。

合流地点の少し前。あり得ない幅の河が走っている。空間がおかしくなっているとはいえ、あまりにもおかしな規模である。そして、水面に姿を見せる、途轍もなく巨大な背びれ。ざっと六メートル、いやそれ以上はあるか。

フィールドで遭遇する怪物としてはむしろ小振りだが、何かいやな予感がする。河の中で悠々と泳いでいるだけというのも気になる。背中からアリスが降りるのを確認すると、バックパックを背負い直した。

「彼奴は……!」

「アリスちゃん!?」

何か、変な音がした。

水音だ。同時に、全身が跳ね上がるような違和感。びりびりと、何か見てはいけないものを見たような感触が、血管の中をはい回る。

嘔吐感が、胃からせり上がってくる。

踝まで来た水は、徐々にかさを増しつつある。それなのに、身動きが出来ない。視点がぶれる。膝を、突きそうになる。

金属音がした。いや、何かを擦り合わせているかのような音。ぎぎぎ、ぎぎぎぎ。それが嘲弄だと気付くまで、どれだけ時間が掛かっただろう。

視界にもやが掛かる。ぽかんと口を開けたまま、立ちつくす。見てはいけないものを見てしまったから、脳が強制的にシャットダウンされたのか。ゆっくり、何かが近付いてくる。緑色で、青で、赤で、黄色で、茶色で。大きな目がたくさんあって、牙が一杯生えていて、それで、それで。

「いやああっ!」

不意に、アリスの金切り声が響く。

気付くと、無数の水棲生物を思わせる触手が、アリスの全身に絡みついていた。それでも風船を離さないアリスだが、額に脂汗をかいて、そのまま身動きできずにいる。その淫靡な触手は、川背の足にも腿にも絡みつこうとしていた。

「あああああああああっ!」

絶叫。同時に、ルアーつきゴム紐を手中に出現させる。瞬時に周囲を把握。枯れ木に引っかけ、反動で体を一気に外に逃がす。触手には無数の吸盤があり、アリスの襟首をつかんで一気に逃れさるも、大量の鮮血がぶちまけられた。

膝から腿にかけて、牙が抉ったような跡。アリスの方も、スカートの下の足に何本か酷いみみず腫れが出来ていた。枯れ木の枝に掴まって、呼吸を整えながら見下ろす。

其処には、魚がいた。

ただし、それは魚ではなかった。

鱗に思えたのは、全てが目だった。えらのある部分からは、さっき二人を捉えようとしていた触手が伸び、巨大な口にはずらりと並んだ牙。ただし、それは三重になっていて、一種の鮫を思わせるほどのものだった。

水面から半分体をせり出しているその体は極彩色で、さっき見たよりもずっと大きい。いや、認識がおかしい。魚の体の下半分には無数の手のようなモノが見えるが、どうもぼやけているようにしか思えないのだ。

目には人間のものに似た瞳が複数あり、揺れながら回転している。吐き気を誘う醜悪な姿。そして、さっきの感触、思い当たる節がある。

あいつは、同類だ。以前、E国最強のフィールド探索者アーサーと、少数民族バルン族の勇者グルッピーと、それにスペランカーと一緒に戦った事がある。見るだけで狂気を誘発され、並の人間なら見た瞬間発狂死するという。スペランカーが言うには、あの不死の呪いの元凶、海底の神。

しかも、使い魔とか、そんな代物ではない。

あのプレッシャーは、恐らく川背が交戦した中でも、最大級の相手だ。スペランカーの呪いの相手かどうかはわからないが、その同種だろう。

「どうやらそちらは私を覚えているようだな」

「アリスちゃん!?」

意外に紳士的な声に振り向くと、真っ青なままアリスは川背の腕の中で震えていた。最初は恐怖からかと思ったが、違う。

目には、怒りがある。恐怖に満ちながらも、しかし燃え尽きぬ炎が。

「まさか、父親と同じ風船を使う戦士に成長するとは驚いたぞ。 味もあの時我が美味しく魂をいただいた父親と同じかな? お前は逃がしておいて正解だったかも知れぬ。 成長したと聞いて、私の配下の愚物を使ってちょっとした罠を仕掛けてみたが、手間暇掛けただけの料理になりそうだ」

「ダ、ゴン!」

「見ちゃ駄目!」

無理矢理視線をそらさせる。見るだけで、精神が削り取られ、どんどん狂気に近付いていくほどの相手だ。もしも彼奴を倒せるとしたら、可能性は一人しか居ない。腕の中から逃げようともがくアリス。

呼吸を荒げたまま、アリスは吠える。

「弟は! ジムはどうしましたの!?」

「ああ、あっちか。 見込みがないから丸ごと喰らった」

「っ……!」

「なら、会わせてやろう。 せめてもの冥土のみやげだ」

触手の一本が、めりめりと音を立てて膨らんでいく。それは徐々に人間の子供の顔に変貌していった。

あまりにも残虐な運命に、川背はアリスを締め落として気絶させようと思ったが。しかし、一瞬早く逃れたアリスは、腐臭漂う河水が満ちた地面に着地して、その有様を真正面から見つめた。

「お姉ちゃん。 僕だよ、ジムだよ」

顔だけは、愛らしい人間の子供。

だが、その胴体に当たる部分はさながら百足のようで、きちきちと音を立てて蠢いている。魚は、ダゴンと呼ばれた怪神は、特に感慨もなく、触手の先端に出現させたおぞましき怪異を蠢かせていた。

「ここ、とても気持ちが良いんだ。 お姉ちゃんもおいでよ」

「……」

「お父さんとお母さんもいるよ。 また、家族で一緒に暮らせるよ。 もう何もかも忘れて、永久に。 あは、ははは、ははははははははは」

川背の中で、何かが弾けた。どうやら、やるしかないらしい。

アリスの隣に着地。そして、胸の高さまで上げた両手の間のゴム紐を、ピンと張った。

「スペランカー先輩を呼んできて。 此処は僕がどうにかするから」

「何を、言っていますの?」

「今の貴方じゃ、彼奴に有効打一つ与えられずに喰われるだけだよ。 その能力、グラビトンクラッシャーだっけ、それがあったってね」

先輩なら、やってくれる。

川背はそう信じている。だから、此処はアリスの頭を冷やさせる意味もあって、壁を買って出る。

相手はゆらり、ゆらりと触手を蠢かせ、川背の出方をうかがっている。向かい合っているだけで、全身が汗になって溶け出しそうだ。だが、それでも引けない。

家族を。家族の悲劇を、経験しているから。

「そいつは私が殺しますわ」

「うん。 後でね」

「……勝手になさいませっ!」

地面から、アリスが飛び離れるのが分かった。川背はちかちかする視界を何度か瞬きで強制的に戻しながら、怪神ダゴンに言い放つ。

「貴方の目的は? お魚の神様」

「より美味なる餌の捕食」

簡潔きわまりない答えだ。そして、真理でもあるのだろう。

神の理屈と人間の理屈が違うのは当然のことだ。だから、そのこと自体は責めない。

「ならば僕と一緒。 お魚は僕にとって、専門分野の料理素材。 相性が悪かったね」

「それを言うなら、人間である以上我には勝てぬ。 ふむ、だが我に対して、そのような物言い、気に入ったぞ。 貴様の魂も此処で喰らい、闇の星空でたわけた顔を並べる白痴の神どもを叩きつぶす材料にしてくれようぞ!」

吠え猛った魚が、巨体を起こす。

水面から立ち上がったその体は、二十メートルを超えているように思えた。魚だったように見えた部分はほんの一部で、その下には鮹やら貝やら蟹やらを無数につなげた、異形の下半身がついていたのである。

だが、大きな敵との戦いは、望む所だ。

川背はルアーを振るうと、中空に舞った。時間は、必ず作る。そう、既に消えたアリスに向けて呟きながら。

 

アリスは泣いた。

川背の言うとおりだった。どんなに強力な能力を持っていても、勝てる訳がなかった。もしもあのまま特攻していたら、一瞬で丸呑みにされてしまっただろう。周りが見えていなかった。どうしようもないほどに、子供だからだ。

子供だ。どんなに背伸びしても、まだ子供も産めない体なのだ。

走る。ただ、森の中を。風船をつかんだまま、時々飛ぶが、美味く重力の制御が出来ない。

アリスの力は、グラビトンクラッシャー。

自分の中および手足から半径六十センチにある重力子の制御を行う力である。

これにより、インパクトの瞬間対象との重力を数百倍にすることによって、一気に粉砕することが出来る。また、内部の重力子の流れを滅茶苦茶にする事により、触れた先を粉みじんにすることが可能である。特に構造物の類には効果絶大だ。アリスがバルーンクラッシャーと呼ばれる所以である。生命体相手にも、かなりの打撃力を発揮する。

風船の中に入れている水素を使って浮遊するのも、この能力の展開によるものだ。攻撃にも機動にも使える強力な能力。ただし、一つだけ致命的な欠点がある。

風船と、帽子。もしくはリボン。

この二つが揃っていないと、発動しないのである。帽子は大きいほど効果が高まる。リボンは利便性に優れているが、帽子よりだいぶ効果が小さい。

専門家によると、一種の「験担ぎ」的なものらしい。元々フィールド探索者が使える能力はオカルトじみたものも少なくないので、科学的には解明がほど遠い。ましてやアリスの場合は、重力子などというまだ科学的には解明がほど遠いしろものを操作するのである。聞いた話によると、他にも発動条件が厳しい能力持ちはいるらしく、フィールド探索者としてはあまり高い評価を受けていないそうである。

風船も帽子もどちらも特注の頑丈なものを使ってはいるが、どちらかを失ったら子供に毛が生えた程度の能力しかないアリスは、死が確定する。

慌てて飛びそうになった帽子を押さえた。普段なら絶対しない失態で、いつになく混乱しているのがわかる。

既に河は越えて、合流地点に到達。目を擦りながら周囲を見回すが、スペランカーはいない。呼吸を整え、混乱する頭を必死に落ち着かせる。そうだ。最後の通信で、此処より少し北にいると言っていた。

薄暗いが、影の出来る方向と時刻から、北を特定。再び走り出す。転びそうになるが、何とか踏みとどまった。乱れた呼吸は、なかなか収まってくれない。まだ涙が溢れてくる。情けなくて、自分を何度も罵った。

やがて、戦闘音が聞こえてきた時には、むしろ安心したほどである。

悲鳴を上げてのけぞる巨体が見える。無数の生物を無理矢理つぎはぎしたような、異形の巨体。普段なら何とも思わない相手なのに、今は恐怖を感じてしまう。それだけではない。空には、無数の鳥人間の姿も見えた。

そして、青ざめて立ちつくす小太りの男の姿。

あの嫌みったらしい笑顔が、引きつっている。そうだ、あれは。あの時の。

地面には幾つもクレーターが出来ていた。その中央で、着衣が既にぼろぼろになっているスペランカーが、立ち上がる。拳を大きく抉られた巨大な怪物は、咆吼しながら、体を再生させていた。否、違う。

周囲にいる無数の小さな怪物を、取り込んでいるのだ。

「おのれ、貴様不死身か!」

男の声が、恐怖に引きつっているのが分かった。

あの日の光景が、フラッシュバックする。自らの子供を生け贄に、あのダゴンを呼び出した外道。父は、全身がズタズタになるまで戦ったが、ダゴンに魂を吸い尽くされて命を落とした。母は発狂して死んだ。弟は、良く覚えていないが、ダゴンの言葉や状況証拠からして、喰われてしまった。

アリスは壁に掛かっていたサーベルを抜き放つと、媒介になっていた奴の子供を突き刺した。白目を剥き、泡を吹いていた子供は、大量に吐血してそのまま死んだ。だが、ダゴンはそれをにやにやしながらただ見ていたように思える。

男の無様な絶叫が、最後にとどろいていた。

そういえば、告訴もされなかったのは確かにおかしかった。アリスが殺したのは確実だったのに。何か、あのダゴンに関するモノが働いたのか。N社はあるいは、怪奇なる神々の存在を知っていて、アリスを手駒にしたのかも知れない。

ひょっとすると、そもそも。それさえも見込んで、ダゴンは動いていたのではないか。そうでないと、あの魚神の台詞に説明がつかないではないか。眼前で喚き散らした男。嫌々ながらも怪物がスペランカーに拳を振り下ろす。無数の怪物の塊が落下し、逃げる間もなくスペランカーはぺしゃんこに潰れた。だが、結果は何度やっても同じだ。怪物の拳が消し飛び、肉塊だったスペランカーが、クレーターの中で再生し始め、人の形を取り戻していく。

「ひいいっ!」

男の無様な悲鳴が聞こえた。哀れな奴と、アリスは思った。

だんだん落ち着いてくる。それと同時に、頭も冴えてきた。あの時と同じなら、ダゴンは呼び出すために使う媒介がいるはず。村長は、財宝が存在すると信じていた村人達がすでに行方不明だと言っていたが、高確率で媒介はそいつらだろう。

問題は豚の死骸を鳥人間どもが喰らっていた、と言うことだ。

風船を持った鳥人間どもは、中空を旋回し続けている。シルクハットを地面に叩きつけ、踏みにじりながら、男は吠えた。

「貴様ら、何をやっている! 加勢せんか!」

完全に男は目を血走らせて、冷静さを失っていた。

アリスが飛び出す。そして、男が振り向いた瞬間、顔面にドロップキックを叩き込んでいた。

 

鼻血をまき散らしながら、傲岸不遜な貴族が倒れる。真横からドロップキックを浴びせたアリスが、顔を踏みつけながら、冷徹な声を絞り出した。とても子供のものとは思えない。。

「お久しぶりですわね、シュナイゼル卿」

「き、貴様、E国貴族の面汚し、反逆者の豚め!」

「そんな何百年も前の話を持ち出されてもね。 そもそもそれを言うならE国の王室自体が、民衆に仇為したヴァイキングの子孫でしょうに」

「お、おのれえええっ! 我らの誇りを、降らぬ寝言で踏みにじるか!」

もがくが、アリスが容赦なく能力を展開した。シュナイゼルと呼ばれた男の両耳から鮮血が噴き出す。殺しはしなかったようだが、無様な悲鳴を上げてシュナイゼルは悶絶した。

「知り合い? アリスちゃん」

「ええ、出来れば顔も見たくない相手ですわね。 そんなどうでも良いことよりも、川背さんがご指名ですわ。 はやく行って差し上げないと、魚の餌にされてしまいますわよ」

「! 分かった。 でも、此処をどうにか突破しないと行けないね」

シュナイゼルは、スペランカーに最初怪物を一匹ずつけしかけてきたが、どれもこれもが攻撃する度に自滅していくのを見ると、怪物をまとめて融合させるという暴挙に出た。生体ミサイルと同じで、攻撃の意思がある存在が間にはいると、カウンターは届かない。だが、あの怪物は露骨に嫌がり始めていた。もう少しで、シュナイゼルが肉塊になる所を見られたかも知れない。

頭を振る。

そんな風に考えてはいけない。相手と同じ所まで落ちても、虚しいだけではないか。

潰されている間に、靴は駄目にされてしまった。服もちょっと歩くには恥ずかしいくらいぼろぼろである。リュックを背負い直し、半ば潰れたヘルメットを被り直す。悠々と準備をするスペランカーを見て、アリスに押さえ込まれたままのシュナイゼルが、意識を取り戻し、目に狂気を宿した。

「おのれ、このまま無事で済むと思うなよ! E国の貴族には、貴様らを憎むモノが幾らでもいる! その財力は米国の成金パワーエリートどもにも引けを取らん! フィールド探索者だかなんだか知らんが、何時か絶対に殺してやるからな!」

下品きわまりない言葉が、散々スペランカーの頭に流れ込んでくる。一瞥だけすると、スペランカーは大事な後輩を助けるべく、森の中を小走りで進み始めた。だが、その前に、風船を持った鳥人間が、たくさん舞い降りてくる。

「殺せはしなかったが、通しもせん! 通れるものなら、通ってみよ! 我が配下の卑しき獣ども! 貴様らの降らん命など惜しむな! その子豚二匹を絶対に通すな!」

「その子達、貴方の子分でしょ? そんな事して、恥ずかしく思わないの?」

「愚民は貴族に使われてこそだ! ましてやそのような卑しき動物ども、どのように使おうが私の勝手だ!」

アリスが目に怒りを宿し、もう一度シュナイゼルを踏みにじる。今度こそ、浅ましき男は気絶した。

だが、鳥人間達は、バリケードを崩さない。何かいやな予感を覚えたスペランカーは、アリスに叫ぶ。

「アリスちゃん、その人から離れて!」

「えっ!? っ!」

アリスが全速力で飛び上がるのと、妙な鈴の音が場に割り込むのは同時だった。

それはとても気味が悪い鈴の音。硝子を引っ掻くような音が混じり込んでおり、生理的な嫌悪感が聞いただけで全身を這い上がる。

シュナイゼルが、まるで出来の悪いマリオネットみたいな動きで立ち上がったのは、その瞬間だった。

既に頭は大量の血にまみれていて、白目を剥いている。意識があるとはとても思えない。スプラッタ映画に出てくるゾンビのようだ。本気で手加減しないで踏みつけたと言うことは、相当にろくでもない奴なのだろう。まあ、喋っていて気分が良い相手ではなかったが。

ぎいんと、凄い音がして、スペランカーは思わず蹲って悲鳴を上げた。それが音ではなく、脳に直接響いてきているのだと悟り、呻く。

「わ、私は、貴族だ。 ほ、誇りを維持するためなら、なんでもして、来た」

怪物達が、一斉にシュナイゼルを見る。

多分一種のテレパシーだろう。それを発しているシュナイゼルは、二歩、三歩と、非人間的な動きで歩く。

「ノーブル・オブリゲーションは守ってきた。 貴族はそうなるべき人間がなるのだと、示しても来た。 だが、そうではない豚どもが、あまりにも、あまりにも貴族を名乗りすぎている! 私は、貴族の誇りを守るためなら、家族だって犠牲にしてきた! 自分の息子だろうと、貴族に相応しくないと思ったら、涙を呑んで斬り捨てた! それなのに、それ、なのに! どうして、高貴なる世界は作られない!」

「高貴なる、世界!?」

「我が求むは! 民衆は家畜として一生を貴族に捧げ! 貴族はそれを的確に管理する、そんな秩序ある世界! かってはそれが存在した! それなのに! 一部の愚劣な連中が、それを全て台無しにしたのだ! 何が人間は平等か! 能力にも精神にもあまりにも差がある愚民どもと我らを一緒にする事自体が間違っているのだ!」

シュナイゼルの全身に、無数の怪物が群がっていく。ばりばり、むしゃむしゃと、凄まじい音がした。

それでも、シュナイゼルの自己主張は止まない。

耳を押さえて、ふらつきながらも、スペランカーは立ち上がる。

「アリスちゃん! 今だよ、突破して!」

「で、でも!?」

あれは、もう駄目だ。

スペランカーは、あまり早くない足で走り出す。今は後ろの凄まじい光景よりも、前の川背を救うことが先決だった。

それにしても、あの鈴の音は。何処かで聞いたことがある。しかも、つい最近である。

すっころんで死に、息を吹き返して立ち上がる。服も少しずつ再生しているが、ちょっとまだ外を歩くには恥ずかしい。

だが、今はそんな事にこだわってはいられなかった。

上で、アリスの悲鳴。振り仰ぐと、今の鈴に影響されなかったらしい、ひときわ逞しい鳥男が、アリスと激しくぶつかり合っていた。気迫と言い、動きといい、まるでアリスに引けを取らない。手にしている風船が少し滑稽だが、その戦闘能力は少し見ただけでも凄まじいものがある。

「先に行ってくださいまし!」

「分かった!」

川背が心配だ。かなりの使い手だが、もしも今感じている気配がスペランカーの予想通りだとすると、とても勝てる相手ではない。

一刻でも早く、駆けつけなければならなかった。

 

全てを少し離れた所から見ていたその者は、掌にある鈴を見て、にやりと微笑んだ。

流石は、父祖の宝だ。

後は、もう一手だけでチェックメイトである。

マントを翻して歩き出すその姿は、不思議と小柄に見えた。

 

4、それぞれの悪夢

 

森を震わせるダゴンの咆吼。

既に満身創痍ながらも、川背はそれをはじき返すように、雄叫びを上げた。

ダゴンの異形の全身から伸びる無数の触手。大蛇を思わせるそれらには、人間の顔のようなものが浮き上がっている。子供であったり大人であったり、男であったり女であったり。いずれもが表情に狂気を浮かべ、空中をはい回るようにして迫ってくる。

それが、およそ三百。

鞭のように振り回される触手をかいくぐり、ゴムの伸縮力と反発力をフル活用して川背は迫る。触手にとって、枯れ木が無数にあるこの戦場は、曲線の動きを制限される相性が悪い場所だ。パワーはあるとしても、どうしても障害物自体が、速度を削いでいくのである。

雨あられと降り注ぐ、茶褐色の触手をかいくぐりきる。だが、ダゴンは、その巨体を揺るがせもしない。

「無駄だ」

ダゴンの体を覆う鱗、否。それは無数の目。一斉に見開くと、全方位にレーザーにも似た光の束を掃射する。とっさに上空に逃げて密度を減らすが、それでも数本が川背の体を掠めていた。

腕が、足が、切り裂かれて、血をしぶく。痛みが判断力を奪い、一瞬のミスが落下を引き起こす。

川背の遣っているゴムロープ付きルアーは、能力を最大限に生かす武器だ。だが、取り扱いが途轍もなくデリケートであるという欠点がある。集中を一瞬でも欠くと、それは破滅を呼ぶ凶器に早変わりするのだ。

しまったと思った時には、地面に叩きつけられる。数度バウンドして、したたかに枯れ木に叩きつけられた後、浅瀬に落下。一瞬意識が飛んだ。

受け身は取ったが、そろそろ限界だった。

「見事な動きだ。 多くの人間を喰らってきたが、これほど我の攻撃に耐えた者はなかなかおらぬ。 褒めて遣わす」

「はあ、はあ、ううっ!?」

今ので、肋骨が何本か折れた。柔らかい土の上でなければ、ぺしゃんこになっていただろう。体を起こしながらも、川背は顔に掛かったおぞましい汚水を拭う。

ダゴンは、ゆっくり向き直る。前面には生殖器に似た器官も並んでいるようだった。何をするものなのかはよくわからない。だが、どうせろくな事には使わないだろう。

立ち上がった川背に、ダゴンは声を低くする。

「泥にまみれ、地に伏してもまだ闘志を捨てぬか。 そなたの魂、実に美味と見た。 今やあの子供よりも、優先して喰らいたいほどよ」

「そりゃあどうも。 でも、僕にも、相手を選ぶ権利くらいあるんだから」

「ふむ、まだ我の力に心服せぬか。 ならば、その味をさらに高めるためにも、もう少し本気を出してやるとしようか」

ぐっと、ダゴンが弓なりに体を曲げる。その背中がみしりみしりと変形していく。背びれが二つになり、三つになる。骨の間に張られている膜が音をたてて切れると、並んでいたのは曲がりくねった無数の骨だった。

それらが、空へ一斉に射出される。

川背が本能的に飛び退くのと、空から無数の針が降り注ぐのは、殆ど同時だった。しかもその針は後ろから青い炎を吹いて、自身を加速している様子だった。空からミサイルが降ってくるに等しい。

ジグザグに走りながら、かわす。だが、真上から降ってくるに等しいミサイルは、どうにも出来ない。更に、ダゴンの触手が、周囲を囲むように迫ってくる。その上、ダゴンは全身の目を、一斉に見開いた。

気がつくと、地面に叩きつけられていた。

肩と、脇腹に、針が突き刺さっている。ふくらはぎにも。

焦げている匂いがする。自分の肉か。

引きずられているのが分かった。耳元に、何か笑い声のようなものが届く。ぎゅっとルアーを握りしめる。もう少し、油断して近づけろ。そうしたら、その時には。

天地が逆転する。

足に絡みついていた触手を、ダゴンが振り回したのだと気付く。そして、自分が鳥人間にしたように、地面に叩きつけられたのだと。

肺から強引に空気が押し出される。吐血した川背は、更に振り回されて、もう一撃地面に叩きつけられた。機械的に、ダゴンは川背の戦闘能力を奪っていく。地面に激突。もう一度激突。意識が、二度、三度と飛んだ。

気付くと、ダゴンの顔の前にぶら下げられていた。

「ほう、死なぬか」

手の中にルアーを出現させるが、そのまま取り落としてしまう。大量の血が流れ落ちている。これは、自分の血か。こんなにたくさん、流れるものなのか。

「なにやら森の様子がおかしいな。 我を呼び出した者が、別の神に乗っ取られたようだなあ。 我が目を付けた者の支配権が入れ替わるとは、妙なこともあるものよ。 まあ、もっとも我は既に現界している。 関係ないがな」

ダゴンがなにやら呟いている。

意味はわからないが、ダゴンにもあまり良くないことが起こっているようだ。

悔しいのは、もう少し時間が稼げれば、先輩がこんな奴やっつけてくれた、という事だ。もう、ルアーも握れないほどの状態では、どんな反撃が出来ようか。

一つだけ手はあるが、それを行える条件が今は整っていない。

「残念だが此処までのようだな。 いただくとしようか」

ダゴンの声に、若干の失望が混じる。

触手が、川背の足を離した。

 

放たれた雷撃が、アリスのすぐ側を掠めた、どうやらこの鳥人間、さっき雷撃を放ってきた奴と同一個体らしい。他の連中は十把一絡げにまとまって、向こうの森でシュナイゼルと融合し、どんどん巨大な肉塊と化して行っている。

此奴だけは、なぜそうならないのか。

弾きあい、上を取り合う。さっと下降して、枯れ木を蹴って敵が引っかかるのを狙うが、しかし。上空を冷静にキープしながら、隙あれば風船を狙ってくる。壁を蹴って跳躍し、加速。その爪を逃れる。

地面すれすれまで急降下し、地面を蹴って水平に飛ぶ。少し上を、鳥人間はついてくる。顔が鳥なのに、アリスと同じように風船を使って飛ぶ、訳がわからない奴だ。腕は筋骨隆々で、鳥よりもむしろ人間に似ている。

一か八か、試してみるか。

木の枝に、つんのめる。同時に、一気に鳥人間が間合いを詰めてきた。

振り返り様に、地面に能力を叩き込む。

吹き上がる。膨大な木の葉。

鳥人間は、それにもろに突っ込んだ。アリスは飛び下がるようにして加速、後ろにあった木を蹴って殆ど垂直に上がった。

上を、取ったか。

そう思った瞬間、影が自分を覆う。木の幹を蹴って、真横に飛び逃れる。

枯れ木を鳥人間の回し蹴りが打ち砕いていた。

距離を取る。呼吸を整えながら、アリスは叫んだ。

「貴方は、いや貴方たちは何者ですの! 父も貴方と同じような方々と戦ったと聞いていますわ」

「……」

感情を宿さない鳥の目が、じっとアリスを見つめる。

雷を放つ特殊な力と言い、他の鳥男と一線を画しているのは間違いない。だが、そもそも、である。アリスが訪れるフィールドで、時々群れを成して現れる此奴らが何者なのかが、結局今まで分かっていないのである。

アリスもずっと単独でフィールドに挑んできた訳ではない。今回のように別のフィールド探索者と一緒に戦うことは珍しくなかった。だが、彼らの誰もが、このような奇怪な連中は知らないと言った。そもそも、同じ存在が別のフィールドにて現れること自体が珍しいのである。

再び、鳥男が仕掛けてきた。鋭い足の爪による一撃をかいくぐり、膝をしたからたたき上げる。したたかに重力子の流れを乱してやったはずなのだが、平然としている。他の鳥人間ならともかく、どうしてか此奴には効き目が薄い。

それだけではない。

次の瞬間、ゼロ距離から雷撃を叩き込まれた。避けられる距離ではなく、一瞬絶息したアリスは、頭から真っ逆さまに地面に墜落していた。

地面寸前で意識を取り戻し、着地の衝撃を緩和するが、しかし。激しい痛み。胸を、真上から踏みつけられていた。まだ洗濯板に等しいとはいえ、不愉快きわまりない。それに、鳥人間の体重はどう見ても三百キロはある。本気で体重を掛けられたら、圧死するだろう。

「ア、リ、ス」

不意にしわがれた声がした。

鳥人間の喉から、その声が絞り上げられているのに気付く。しかも、鸚鵡や九官鳥のような、感情のこもっていない真似声だった。しかし、これは一体誰の声を真似しているのか。スペランカーや川背は、終始「アリスちゃん」と自分を呼んでいたではないか。

しかし、以前戦った鳥人間はこいつのような実力を持ち合わせていなかった。動きは遅かったし、頭も悪かった。前に遭遇したのは半年前だが、その時道具を使いこなすのを見て驚いたくらいである。

最初、あのシュナイゼルが行使しているのかと思った。実際、さっき見た限りでは、そうとも思えた。

或いはダゴンかも知れない。しかし、その眷属にしては弱すぎるようにも思える。それとも、ダゴンがより強く現世に現れたから、この鳥人間どもも力を増している、と言うことなのだろうか。

鳥男の足に、更に力が籠もる。何処か急所に入ったらしく、手足が動かせない。全身の骨が軋む音がした。

このまま踏みつぶされるのか。

絶望を感じながらも、アリスは目を閉じて、一瞬の勝機をうかがう。

さっき、シュナイゼルがほざいていたノーブル・オブリゲーション。あれは、意外だった。かって西洋圏の貴族は、ノーブル・オブリゲーションを口実にして、贅の限りを尽くし、搾取を働き続けていた。この言葉自体が、そもそも彼らの行動を正当化するために生み出されたものなのである。

特にフランスの貴族に顕著だったが、自分の行動を正当化するためには、どんなことでもした。ナイフやフォークを使い出したのはその一例に過ぎない。暴虐を正当化するための、一見正しい言葉。それが、ノーブル・オブリゲーションに過ぎないのだ。

だが、どうしてだろう。

歪んでいたシュナイゼルの言葉の一部に、共感を覚えたのは。残りの全てに、言い難い不快を感じたのは。

やはり、アリスの中で、その言葉は大きな意味を持っているのではないのか。

フラッシュバックする。反発ばかり覚えていた両親の顔。父は言ったものだ。高貴なる義務を果たせ。お前になら出来る。それに不快感を覚えながらも、どうしてだろう。お前になら出来るという言葉に、僅かな幸せを感じたのは。

「オ、前は、お前の、路を、探せ」

「!」

目を開ける。

鳥男の目から、涙がこぼれ始めていた。鳥の目に、そんな機能があっただろうかと、アリスは愕然とし、それ以上に、発せられる言葉に驚かされた。

「例え史実が、どうで、あろウと、お前は、お前ダケで、も、その言葉を、本当にすれば、イイ」

「な、何を言っていますの!?」

「私は、モ、う疲れた。 意識が、無くナる前に、お前ノ、手で」

鳥男の、巨大なナイフのような爪が生えた足の力が、緩む。

悩んでいる暇はなかった。鳥男の太い足をつかむ。

そして、全力で、鳥男体内の重力子を乱してやる。

元々一定方向から掛かっている重力が、四方八方からいきなりかかったらどうなるか。それが四つの力のなかでもっとも弱いとしても、結果は目に見えている。

全身から大量の鮮血を噴き上げ、天に向けて悲鳴を上げながらも。

アリスが見上げる鳥男は、何処か、安心しているようにも思えた。

 

「川背ちゃん!」

大きく開かれた、異形の魚の口。其処へ川背が落ちようとしているのを見て、スペランカーは絶叫していた。

ブラスターを取り出す。走る。

間に合う訳がないと、分かっていたとしても。感じる気配から言って、かなう訳がないと知っていても。

魚が、ぎょろりと此方を見た。その全身に付いている鱗が目だと知っても、スペランカーは引けなかった。

恐怖よりも、勝る感情に突き動かされる。

魚の口が閉じ合わされようとした時、もう一度叫んだ。

身動き一つしなかった川背が、不意に動いたのは、その時だった。

ピンクのリュックを外すと、魚の牙に被せる。

同時に、魚の下あごが、この世からかき消えていた。

「! ぎゃああああああああああっ!」

無様な絶叫がとどろく。満身創痍の川背を抱き上げると、必死にスペランカーは岸に運ぶ。酷い怪我だ。骨も折れているだろう。こんな酷い状態で、此処まで戦ってくれたのか。魚の下あごが、どんどん再生していく。水浸しになりながらも、スペランカーは川背を岸に着ける。うっすら目を開けた川背は、血だらけの手を伸ばしてきた。

「おそい、ですよ。 先輩」

「大丈夫、もう大丈夫だからね」

「……」

手を握り返すも、返事はない。

目を閉じた川背が気絶しただけだと知って、スペランカーは心底から嘆息した。だが、病院に連れて行かないと危ないだろう。

それには。

後ろで雄叫びを上げている、あの魚をどうにかして滅ぼさないといけなかった。

立ち上がり、振り返る。

無数の触手がしなっている。全身に付いている目が、一斉にスペランカーを見る。

下あごを失っても、魚の怪物が放つ威圧感に、衰えは見えない。そればかりか、怒りを加えている分、更に迫力を増しているかも知れない。

だが、不思議と。スペランカーは怖いとは思わなかった。

「ほう? 我も見ても恐れぬ上、狂気すら覚えぬか。 どうやらその身に纏う我が同族の呪いが原因のようだな」

「下あごが無くても、喋れるんだ」

「我は精神に直接話し掛けている。 それにしても、そのような受け答えを、この場でしてくるとは。 大物なのか阿呆なのか、わからぬ奴よ」

魚の怪物が心底呆れてぼやいたので、スペランカーは怒りが鎮火していくのを感じた。どうやら残虐であっても邪悪な奴ではないらしい。多分、邪悪なのは。あのおじさんのような、この怪物を利用しようとした人間なのだろう。

だが、いずれにしても。

放置は出来ない。

同胞の尻ぬぐいはしなければならない。腹立たしい話ではあったが。

「どこから来たか分からないけど、帰ってはくれないよね」

「我はこの世界にもう数万年前から住み着いている。 お前達よりも古くからだ」

「それでも、どうにかならない?」

「そもそも、人間は我らが介入で、お前達のような姿に進化したと言っても、その考えは代わらぬか」

何様かと思えるようなことをほざく魚だが、多分此奴はスペランカーに呪いをかけてくれたあの海底の神と同類の存在だろう。それならば、或いはそれも正しいのかも知れない。ちらりと、川背の方を見た。完全に意識を失っているし、戦える状態ではない。少しずつ、歩み寄っていく。

もしも倒せる可能性があるとしたら、好機は一度だ。

あの神と同類の存在だとしても、ブラスターは効く。多分倒せる。

だが呪いの方は効果があるかはわからない。もしも呪いの主の神と同格以上の存在だったら、通用しないことも考えられる。

水に入った。

触手が、神経質にきちきちと音を立てる。

「代わらない。 私は、はっきりいって、食べるためにこんな仕事してる。 毎回酷い目に会うし、それでも食べていくのがやっとだし、贅沢だって出来ないし、こわいめにばっかり会うし」

「ほう? 難儀な話であるな」

「でも、私は、周りにいるみんなが好き。 後ろにいる川背ちゃんも好き。 今森の中で戦ってるアリスちゃんだって好き。 だから、此処は引けない。 はいそうですかって、貴方を通す訳にも行かない」

硝子が擦り合わさるような音。魚の体から無数に突きだしている触手が立てているのだろう。

魚の鱗が全て目であったり、見るだけで正気を保てなくなるような姿をしているこの神様は、しかし怖くない。なぜだろう。震えも、殆ど来なかった。

「面白い。 とても戦士とは呼べぬような輩かと思ったが、その身に纏う呪いは伊達ではないと言うことか」

「ごめんね。 貴方に恨みはないけど、倒させて貰うよ」

「良く吠えた! 此方も敬意を表して、最初から全力で行かせてもらおうか!」

魚の触手が天に向けて伸びる。

何かが来ると思った。その瞬間。

意識が飛んだ。

意識が戻る。全身が痛い。そして見上げた先には、下あごが再生しつつある魚の神が。悠然と触手を動かしていた。

「ほう。 空間ごと切り取って、貴様がこの世界に存在する確率をゼロにしてやったのだが。 それでも復帰してくるか」

「まだまだ……!」

立ち上がったスペランカーは、自分が全裸に近い事に気付くが、恥ずかしがってもいられない。手にしたブラスターだけは離さない。

ぼっと、鈍い音がした。右腕が、消し飛んでいた。壊れたホースみたいに鮮血が噴き出すが、魚にダメージが行く様子はない。その周囲の空間が、どす黒い何かに包まれているのは見えた。

「無駄だ。 我の力は、その呪いと同格! その呪いの特性である反転呪撃は、我には通らぬ!」

「やってみなきゃ、わからないよ!」

右腕を押さえながら、スペランカーは叫ぶ。しかし、右腕が再生する前に、魚の目が光るのが見えた。

河の中で目を覚ます。多分、また粉みじんにされたのだろう。触手が絡みついてくるのがわかる。空にたかだか放り上げられた。魚が光る。恐らくあの目全てから、レーザーみたいな何かで攻撃してきているのだ。

再び、水の中。考えられないほど徹底的に、粉みじんにされたのは疑いない。

だが、それでも。

泡を吐き出して、顔を上げる。魚はすっかり再生していた。だが、少しずつ、その力は弱くなってきている。

「なるほど、根比べか。 楽しませてくれる」

「女の子は、痛みに強いんだから……っ!」

「ならば、これはどうか」

ぐしゃりと、何かが潰れる音。河に顔面から叩きつけられる。同時に、体中を、今まで感じたことがないほどの痛みが襲った。即死し、生き返り、また痛みで死ぬ。背中に何か突き刺さっている。

「痛覚神経を二十五万千五百倍に鋭敏化した。 その脆弱な肉体では、瞬時にショック死するほどの痛みも同時に与えている。 どれだけ耐えられるかな」

もがく。だが、痛みは益々酷くなる。指を動かそうとするだけで痛い。目を開けようとするだけで痛い。死ぬと、またすぐ激痛が全身を覆う。死の無限連鎖。ダゴンの周囲を覆う黒い霧も、益々濃くなっているようだ。放電しているのが見える。

がばりと、顔を上げた。ダゴンは、触手を激しく動かして、何かの攻撃に出ようとしている。丁度円を描くように、ダゴンの周囲に、雷撃の輪が出来ていた。

「三万七千回ほど殺したが、それでもまだ耐え抜くか……!」

「根比べ、だったら、負けない……から……っ!」

「おのれ人間! 貴様は、既に人間の範疇を超えているぞ! 不遜と知れ!」

キュンと、小さな音。

何をされたのかはわからないが、多分また考えられないくらい粉々にされたのだろう。

気がつくと、河は干上がっていた。

そして、魚の神の周囲を渦巻く黒い霧は、ますます濃くなっていた。魚の声に、焦りが混じり始めている。

「マイクロブラックホールによる時間逆流粉砕に耐えぬく、だと! 貴様、その呪い、一体誰から受けた!」

「わからないよ、そんな事っ!」

手のブラスターは。見ると、ある。どうやらスペランカーと一緒に再生しているらしい。

そう言えば、今までも考えてみれば不思議だった。散々酷い目にあってリュックごと何度も潰れたのに、これはどうしても壊れなかった。

裸のまま、歩く。もう少しだ。魚の神が、恐怖の声を初めて挙げた。

大量の触手が降り注いでくる。多分めっちゃくちゃに潰されたのだろう。意識が戻ると、闇の中にいた。また意識が飛ぶ。潰されて、砕かれて、それでも死ねない。

負けるか。

それでも、負けるか。

此処が地獄でも、相手が神様でも。

地面に投げ出される。盛大に、派手な血しぶきが上がっていた。あまりにもダメージが酷すぎて、再生が追いついていないのがわかる。だが、それでも。立ち上がる。此処で、まだ負ける訳にはいかない。

魚の触手が、砕け、飛び散るのが見えた。黒い霧が、一斉にフィードバックしたらしい。魚の神が吠える。

「名を聞かせよ、人間! 貴様の魂を食らいつくしたとしても、覚えておこう」

スペランカーは名乗る。己の本名を。

魚の神は名乗り返す。ダゴンと。

無数の触手を振るい、ダゴンは距離を稼ぐことに終始し始めた。流石に神、スペランカーの狙いくらい、もう見通している、と言う訳だ。

あと一つ、何か欲しい。

近づけさえすれば。

死の連鎖から続く均衡が、破られたのは。その次の瞬間であった。

 

5、もっともおぞましきもの

 

ラットソン村の郊外に、軍用ジープが停車したのは。アリスらがフィールドに消えてから、きっかり二時間後のことであった。ジープから降りてきたのは、筋肉質の巨漢である。何事かとわらわら現れる村人達も、その男の事は知っていた。

「ふん、Jの奴の報告通りか。 既に中は異神の領域のようだな」

「あ、貴方は!」

「お前達、アンリエッタとか言う小娘は何処にいる」

突然話を振られた村人達は、青い顔を見合わせると、アンリエッタの家を指さす。

頷くと、その男。世界最強のフィールド探索者Mは、大股で目的の場所へと歩き始めたのだった。

そもそも今回の事件は、N社上層もきな臭いと感じていた、らしい。異質な存在鳥男の事は、アリスからN社もたびたび報告を受けていた。それによってMら一部には知らされていたが、N社も今回のフィールドを要注意攻略対象として認定していたほどなのである。故に豊富な実績を持つスペシャリスト二人を社外から派遣して貰い、なおかつ何度も交戦経験があるアリスを動員したのだが。

しかし、Jの話だと、妙な所から横やりが入ったのだという。しかもその横やりには、かなりの資金が投入されていたらしく、N社としても対処に困ったと言うことだ。

そこで、N社は彼らの動向を調査するために、飛行能力と高い偵察能力を併せ持つ営業Jを派遣した。Jはアリスや他二人にも気付かれないように配下の分身をフィールドに派遣し、そして状況を観察したのである。

結果が、近くのフィールドを攻略し終えたばかりだったMにも届けられた。それで、事態を重く見たMは、自身援軍に赴くことを承知したのである。

無遠慮に呼び鈴をがらがらと鳴らしたMだが、誰も出ない。そういえばこの呼び鈴、古くさいしろもののはずなのに、妙に汚れていない。風雨にさらされた雰囲気が無く、ついさっき取り付けられたような感触だ。着いてきていた村人達に、筋肉に覆われた太い首を回してMは振り向いた。

「誰も外には出していないな」

「そ、それはもちろん」

「それはそうだろう。 此処の小娘は、お前達にとって大事な金づるだものな」

蒼白になる村人達を無視して、Mはドアを強引にこじ開ける。といっても、Mの腕力からすれば、ドアを外すことくらい、何でもないことであったが。

中に入ったMが見たのは、ある意味予想通りの光景であった。

息を呑む村人達を無視して、Mは無線の電源を入れる。

「私だ」

「おや、旦那。 もう到着しましたか」

「それはいい。 J,すぐに此処に魔術解析班を派遣しろ。 しかもとびきり腕が良い連中を、金に糸目を付けず集めろ。 私はこれからフィールドに乗り込むが、それでも確実に勝てるとは思うな。 へたを打つとF国が滅ぶぞ」

「わかりやした。 ひひひ、すぐに手当たり次第に集めまさあ」

無線を切ると、Mは村人達に振り返る。

そして中の惨状を見て青くなっている彼らに、すぐに村から避難するように勧告したのだった。

 

人間の顔が浮き出た触手が、引きちぎられていた。正確にはアリスが引っ張った途端、はじけ飛ぶようにして中途が吹き飛んだのである。

そんな至近に、ふわりと降り立ったアリスは。燃えるような目をダゴンに向けていた。

「あの鳥男、貴方の僕でしたのね」

「ほう、良く解析したな」

「それも、貴方が取り込んだ人間や、その魂を材料とした!」

「その通りだ。 お前達も、食べたものを血肉にしているだろう。 それと同じ事だ」

無数の触手が、アリスに殺到する。だが、さっきまでとは比較にならないほどスムーズな動きで、アリスは飛ぶ。

続けて、ダゴンの全身の目が見開き、レーザーを照射する。ジグザグに飛び、アリスはその全てを回避して魅せた。ダゴンの猛攻はまだまだ続く。背びれからミサイルのように骨が撃ち出され、上空から降り注ぐ。

スペランカーは、アリスがその全てを、見事にかわしていくのを見て、気付く。

何かあった。精神的に、一回りも、二回りも大きくなるようなことが。

援軍を求めに来た時のアリスの様子を思い出す。きっと、このダゴンとアリスは、何かとても深い因縁がある相手なのだろう。さっきの会話を聞く限り、アリスと鳥人間達の間は何となく想像できる。

怒るのも当然だ。そして、それを止める権利は、スペランカーにはない。

「ハッ! 少しの間に、素晴らしい動きだ! さっきとは能力の展開がまるで段違いではないか!」

「父の魂を、受け継ぎましたから!」

アリスは気付いたようだ。ダゴンの周囲を覆う、帯電した黒い霧に。

そしてダゴンが、アリスを近づけたがらないという現状に。

あの、ダゴンを覆う障壁は非常に強力だ。だが、さっきからスペランカーに対する猛攻を停止し、距離を取り始めていることからもわかるが、確実に限界が近付いている。あれさえ破れれば、勝機はある。

「よかろう! あの男同様、貴様も白痴の至高神を打ち倒すための貴重なる糧としてくれよう! 光栄に思うがいい! 辺境惑星の能力者が、宇宙の中心にいる狂気を打倒する鍵となりうるのだ!」

「させない! そんなこと、させないからっ!」

ダゴンの目が、スペランカーを見る。ブラスターを向けている、スペランカーを。

同時に、アリスが急降下に入った。ダゴンが放つ、無数のレーザーが迎撃する。近付けば密度が上がるのは自明の理で、足から腕から肩から、次々血がしぶく。風船は風邪に揺られて激しく上下しているが、何かの加護でもあるかのように被弾しなかった。

拳を固めたアリスが、ついに至近に。ダゴンが吠えたけり、光の壁のようなものを出現させた。

まだ、こんなものを出せる余力を残していたか。

しかしアリスは、躊躇無く、その壁に拳を叩き込んでいた。

「魔術だか何だか知りませんが、構造体内部の重力子を乱されて、無事ですみますかしら!?」

「ふん、その程度の小さな牙で、我に届くと……」

スペランカーが、位置を変えているのに、ダゴンがやっと気付く。

そこは、さっき川背がもぎ取った下あごの、再生しきっていない部分の下。

近付いてみて分かったが、さっきの死闘の影響か、まだ回復しきっていない部分があったのだ。これほどの至近距離なら、へっぽこなスペランカーの腕前でも、ゼロ距離射撃で頭部を狙える。

僅かな躊躇が、命取りになった。

集中が途切れたダゴンのシールドを、アリスが放つ渾身の拳が打ち砕く。

「アリスちゃん、下がってっ!」

同時にスペランカーは、ブラスターを。海神の頭に、直接叩き込んでいた。

意識が途切れる中、見る。

絶叫するダゴンに、ついにシールドを打ち破った黒い霧が殺到する有様を。

巨体が、見る間に骨になり、溶け、砕けていく様子を。

既に干上がっている川の底に倒れ込みながら、スペランカーは思う。これで、良かったのだと。

 

意識がはっきりしない。

酷い死に方をした後や、ブラスターを使った後。蘇生すると、こんな感じになることがある。だが、目が冴えてきたのは、危険がまだあるからだろう。

体中が重い。

裸身に、毛布を掛けられているようだった。無理もない。ダゴンの言葉を信じるのなら何万回と想像も出来ないような滅茶苦茶な攻撃で殺されたという話だし、服はもう諦めるしかないだろう。

咳き込むと、口の中に錆の味がした。

「よかった、目を覚ましましたわ」

「だから、大丈夫だって言ったでしょ」

「信じられませんわ、そんなこと」

川背ももう意識を取り戻しているらしい。だが、声に元気がないのは仕方がないことだ。常人なら何度も死ぬような目にあったのだから。

体を起こそうとして失敗する。

意識が飛んで、また目が醒めて。毛布に、大量に血が飛んでいるのに気付いた。

なるほど、蘇生しては吐血して、というのを何度も繰り返したという訳だ。それでは心配もするだろう。

やっと体を起こす。包帯を手足に巻いた川背が、笑顔で側に据わっていた。アリスも傷だらけだが、帽子も風船も無事である。

「お疲れ様でした、先輩」

「うん。 何だか、とても悲しい戦いだった。 それに、これはどうしたの?」

周囲の様子はどうしたことか。

禍々しい枯れ果てた森は消えていない。ダゴンがフィールドの核になっていたのはほぼ間違いない。このような現象ははじめて見る。

「ダゴンは?」

河のあった所を、アリスが指さす。

其処には、僅かな残骸だけが残っていた。黙祷するスペランカーに、アリスが非難の声を挙げる。

「貴方は、あんな鬼畜に!? なぜそのような!」

「あの神様、確かに残酷だったけど、紳士だったと思うよ。 だって、私と戦ってる間、川背ちゃんに攻撃しなかったもん」

「え? そうだったんですか?」

「うん。 あんなに強かったんだから、その気になれば森ごとドカン、だって出来ただろうにね。 きっと、正義が違うってだけだったんだよ。 でも、倒さなきゃいけなかった」

アリスはずっと器が大きくなったみたいに思えるが、それでもまだ子供だ。さっきのやりとりからして、すぐに相手を受け容れられないのは当然ともいえる。

だが、それでも。いつまでも憎み続ける訳にはいかないだろう。

「川背ちゃん、動ける?」

「肋骨が折れてて、あまり激しくは難しそうです」

「弱ったなあ。 私もブラスターは連射が効かないんだ。 もしダゴンより強い敵が出てきたりしたら、もうどうにも出来ないよ」

「それでも、待ってはくれないようですわよ」

そういえば、周囲の地形が違う。スペランカーを満身創痍なのに出来る限り引きずって、敵から離れようとしていてくれたのだろう。

そして、遠くから地響き。アリスが舌打ちした。

「追いつかれ、ましたわね」

「先輩、僕の着替え使ってください」

川背が、痛みに眉をひそめながらも、ルアーを取り出す。川背のバックパックはちょっと心配なのだが、開けてみると普通のだった。ダゴンの下あごは、多分異世界にとばされたのだろう。

もたもた着替えている内に、足音の主が見えてくる。

巨大な肉塊。怪物が無数に重なり合った、最初にスペランカーが交戦することになったあの貴族が操っていた相手だ。そういえば、これはまだ排除していなかった。ダゴンが言っていたように、契約相手が切り替わったのだとすれば話は通じる。だがあんな強力な神との契約を強制的に切断して、別に切り替えることなど出来るのだろうか。あのシュナイゼル卿という貴族は、とてもそんな事が出来そうな人間には見えなかったのだが。

兎に角、流石に裸のままでは動けない。

川背とスペランカーはあまり背丈が変わらないし、以前服を貸し借りしたこともある。胸の大きさだけが決定的に、同じ生物かと思えるほどに違うが、それ以外は大丈夫だ。あわてて着替えている内に、すっころんでごちんと後ろ頭を強打。一度死んだが、すぐに蘇生して、黙々と着替える。やっと上着とズボンを着た時には、もう肉塊は見上げるほどの至近に迫っていた。

最悪なことに、威圧感はさっきのダゴンに全く引けを取らない。

ブラスターを使えるようになるまで、後数時間は軽くかかる。これはまだ何十万回か死なないといけないかもしれない。非常に憂鬱だが、他に方法もない。都合良くM氏でも来てくれれば、どうにかなるかも知れないが。

立ち上がる。立ちくらみがして、膝が折れかけた。

どうにか態勢を立て直して、敵を見る。ヘルメット無しだと、どうも気分が乗らないが、それでもやらなければならない。

融合した巨大な怪物は、塔のように高い。ざっと見上げても、四十メートルはくだらないだろう。

ただ、救いがあるとすれば。

ただ一点だけから、力を感じると言うことか。ブラスターを撃てるようになるまで時間を稼げれば、或いは。

それに、一つだけ、気付いたことがある。

無数の生物が重なり合った頂上にいるのは、狂気の笑みを浮かべたシュナイゼル卿。はげ上がった頭を晒した中年男性は、なにやら吠え猛っていた。

「なぜ美しい世界は来ない! 私は、全てを捨ててきたのに! なぜ貴様のような、貴族の面汚しが生きている! 神は慈悲も何も持たぬと言うのか!」

「あの男は、私がどうにかしますわ」

「倒そうと思わないでいいよ。 時間だけ、稼いでくれる?」

アリスは、じっとスペランカーを見る。

その視線が、さっきとくらべると、幾分和らいでいるように思えた。

「十時間でも、二十時間でも」

不敵に、そうアリスは言った。

舞い上がるアリス。手も足も包帯で巻かれているというに、戦意は衰えていない。肩を貸してくれた川背に、スペランカーは無理を言う。

「一つ、お願いがあるんだけど」

「先輩の言うことなら。 あ、でも僕のお店が傾くようなのは駄目ですよ」

「大丈夫、そういうのじゃないから」

耳打ち。

川背は頷くと、残り少ない力を振り絞り、ルアーを振るってくれた。

 

フィールドの中。その小柄な人影は、鈴のを持って全てを見下ろしていた。

あの三人が、まさかダゴンを葬るとは思わなかった。疲弊はさせられるだろうとは思っていたから、漁夫の利を締めようとは思っていたのだが。

この計画は、父祖の代から数十年にわたって作り上げられたものだ。

餌に釣られた馬鹿どもを使って、もっと大きな魚を釣り上げる。実際、それはもう寸前まで進んでいる。

振り返ったのは。大きな人影を見たからだ。自分の影を覆うほどだった。

「やはりお前が黒幕だったか」

男が言う。

知っている。この男は。世界最強のフィールド探索者、Mだ。枯葉を踏み、傲然と立ちつくしている。

「英国貴族どもだけではなく、N社まで振り回すとは大したタマよ。 私の知り合いにも権謀術数に優れた悪党がいるが、そいつ以上かもしれんな」

何のことか。Mに聞き返すが、既にネタは割れているのだと、一蹴される。

「そもそも、ロマノフ王朝の遺産が本物だったとして、それが金塊とは限らない。 あまりにも意外なものであれば、目立つ場所にあってもきづかれはしない」

Mは、意外にも頭が良かったらしい。次々と、真相を掘り返してくる。或いは、ブレインになるような奴が、一緒に来ているのかも知れない。

「お前は、いやお前の一族は、わざとらしい名字を名乗ることで、金の匂いをちらつかせ、欲得づくの馬鹿共を集め、負の力をこの地に集めた。 そしてそれを使い、さらなる大きな獲物をつり上げることが、目的だった」

「よくご存じで」

「ダゴンの手先になっているあの馬鹿貴族が釣れたのは幸運だったとでも思っているのだろう。 アリスに異常な執着を魅せるあの変態野郎を誘き出し、そして馬鹿なトレジャーハンターどもを呼び出した。 そいつらと、欲に狂ったアホどもを生け贄に、ダゴンを完全な形で呼び出させ、フィールドを発生させた。 そして、アリスと手練れ達にぶつけ、更にもっと大きな奴を、ああやって中途から呼び出したのは。 デモンストレーションだったんだろう? その鈴が、如何に兵器として優れているか、見せつけるための」

アリス達が負けても、それで良かった。ダゴンを打ち倒すほどの神威を呼び出し、なおかつ操ることが出来れば。その破壊力は核兵器にも匹敵する。欲しがる国はそれこそ幾らでもある。

ぎりぎりで、N社は陰謀の全容を暴き出すことに成功したのだと、Mは言った。

くすくすと笑う。

N社にコネクションを作るのは大変だったのに、案外壊れる時は脆いものである。顔を上げた、アンリエッタ=ロマノフは、鈴をもう一つ鳴らした。

地面を突き破り、無数の触手が伸びる。多くはMとアンリエッタの間を遮り。そしてアンリエッタは、地面を割ってせり上がってくる、巨大な球体に跨った。

「分かった所でどうにもなりませんよ。 この宝、ロマノフ王朝の宝物庫から先祖が持ち出した威神の書の破壊力は見ての通り。 さっそく貴方の宿敵と名高い大魔王Kにでも売り込むとしますよ」

「たわけが」

「はあ?」

「制御できん武器など、ただの危険物に過ぎん。 お前、そいつが本当にお前などの言うことを聞いているとでも思ったのか?」

ぴたりと触手の動きが止まる。

そして、世界全てを覆い尽くすような、巨大な笑い声が辺り中から響き渡った。

「そいつの、鐘に擬態している神さんの目的はな。 お前みたいな阿呆を使って、大きな戦争を起こさせて、その死者の魂を全て喰らって完全な形で復活することなんだよ。 ロマノフ朝の宝ぁ? そんなもの、金塊どころか小骨一つも残ってはいない! あったら、国など滅びてはおらん! お前は、先祖の代からずっと、その神さんの掌の上で踊らされてきたに過ぎん! さっさと目をさませ!」

「ざ、戯れ言をっ! 焼き尽くしなさい、クトゥヴァ!」

狂気の笑いの中、触手が炎を帯びる。

そして、Mはにやりと笑うと、構えを取った。世界最強のフィールド探索者M、本領発揮の瞬間であった。

 

辺りには、ダゴンの亡骸が点々と散らばっていた。あの後、相当派手に吹き飛んだらしい。

川背も痛いだろうに、ゴム紐を振るって跳んでくれている。肩に掴まって一緒に行きながら、スペランカーは一度だけ、振り向いた。

アリスは、あの巨大な怪物相手に、残る力を振り絞り、戦ってくれている。

多分あの怪物は、植物で言う根みたいな存在の筈だ。巨体を振り回して、辺りに訳がわからない攻撃をばらまいて。爆発が巻き起こり、嬌笑が響き渡る。

アリスはああいっていたが、何時までも耐えられはしないだろう。一か八かやってみて、駄目なら自分が身代わりになって、皆を逃がすしかない。

「川背ちゃん、分かってると思うけど、いざというときはアリスちゃんと逃げて、Mさんでも呼んできて。 それまで、何百万回でも耐えるから」

「先輩ッ!」

「大丈夫、いやだけど、こわいけど。 痛いのは平気だから」

ああやって、無限の死の連鎖に放り込まれることは、初めてではない。

最初は幼い頃だ。育児放棄した母が食料を全くくれなくなった時機があった。ゴミための中に放置されたスペランカーは、極限の飢餓の中で、それこそ数え切れないほどの死を経験した。

その時は正気を取り戻すのに、随分時間が掛かった。今でも母を許してはいないし、一緒に暮らす気もない。だが、神のあの無茶な攻撃に精神が崩壊しなかったのも、あの時の経験で耐性が出来ていたからだろう。

不老不死なんて、ろくな能力じゃない。

さっきは神様がああいう手を使ったからスペランカーは五分に渡り合えたが。実際には、スペランカーを無力化する方法など幾らでもある。あの神様は、それを承知で真っ向からの戦いを挑んできた。

残虐だったし、人間を食料としてしかみてはいなかった。だが、戦士として認めてくれたから、本気での戦いをしてくれた。だから、黙祷したのだ。

遠くで、凄い音がする。アリスの戦っているのとは、また別の方角だ。スペランカーは頭を振ると、急いでと呟く。川背は唇を噛むと、無言で加速した。

到着したのは、ダゴンが死んだ場所。

予想通りと言うべきか。其処には、まだ残留思念らしいものが残っていた。賭だ。だが、やる方が、やらないよりはマシ。

「ダゴンさん」

「我を屠った戦士か。 我にはもう具現化する能力もない。 好きにするがよい」

「うん。 好きにする。 私の体に、住まわせてあげる。 だから、少し力を貸してもらえないかな」

ぎょっとしたのは川背である。

だが、スペランカーは、考えを変えない。

恐らく、それしかアリスを救う方法はないから。

それに、訳のわからない神様の呪いを受けている身である。今更、新しいのが入った所で、大した代わりはない。

「何を言っている」

「同格の神って最初言っていたよね。 それは要するに、相性が良いって言うことでしょ?」

「……その通りだ」

「それなら、私の体の中で、力を蓄えたら出て行くといいよ。 できれば出て行った後人は殺さないでほしいけど……」

ダゴンが混乱しているのがわかる。もっと慌てているのは、川背だった。

「せ、先輩ッ! な、何を言ってるか、分かってるんですか!? 錯乱しちゃってないですよね!? ぼ、僕の目をしっかり見てください!」

「大丈夫だから、落ち着いて、川背ちゃん」

「目的は何だ。 ほとんど面識もないあの子供を救うために、我を体に入れるなど、正気の行動ではない」

「一応取引がしたいって事かな。 こっちの要求は二つ。 一つは、ブラスターの充填して欲しい」

ダゴンが考え込んでいるのがわかる。川背は慌てていて、何を言ったらいいのかわからない様子だった。

「もう一つは」

「出来れば、アリスちゃんの家族を解放してあげてほしいかな」

「……わからぬ。 我を体に入れたりすれば、どのような禍を為すかわからぬぞ。 そなたの脆弱な精神を砕き潰すくらい、我には容易だと知れ」

「そうかもね。 でも、誰かを助けられる方法があるんだったら、そうしてみたい。 それだけ」

あれだけ散々酷い殺され方をしたのに。

スペランカーは、ダゴンに手をさしのべた。悩んだ末、ダゴンは。闇そのものとなったその霧状の体から、触手を伸ばした。

スペランカーは、目を閉じる。

そして、貧弱な体に、貧弱なりの力が漲るのを感じた。

 

6、決着

 

シュナイゼルが吠える。触手が燃え上がり、無数の火球を投擲してきた。それは空中で炸裂し、更に多くの稲妻となって、辺りを蹂躙する。

ついに、風船を掠める。

特注とは言え、これ以上掠めると、多分爆ぜ割れる。

アリスは必死に重力子を制御して、分子運動をそらし、雷の軌道を自分から外しつつ、機動を続ける。だが、重力子は世界の四つの根幹となる力の中で最も弱く、なおかつ力にも限界がある。

唸りを上げて、触手が跳んでくる。騎士が使うランスのような巨大な棘が、無数に跳んでくる。それも、空中で自在に軌道を変えながら、だ。

ダゴンよりも、更に手強いかも知れない。

けたけたと笑いながら、シュナイゼルが唾を飛ばす。

「死ね、まがい物! まがい物ばかりの世界など、滅びてしまえ!」

「哀れな人」

「哀れなのは貴様らまがい物だ! 卑しい反逆者の分際で、国を恫喝して貴族の地位を得た愚か者どもめ! 貴様ら豚が高貴なる義務などと口にするたびに、言葉が汚れる! 我らの誇りも、地に落ちて汚される! それがどれほどの屈辱か、わかるはずもあるまい!」

「貴方こそ、何も分かっていませんわ」

静かに、アリスは返す。

ランスのような棘を、正面からはじき返した。そろそろ息が上がってきている。もう、そう長くは戦えないだろう。

だが、それでも、此奴相手にだけは退けなかった。

周囲の空間が歪む。加速して、移動する後ろから、次々と爆圧が襲ってくる。完全に精神のたがが外れているらしいシュナイゼルは、けたけた笑いながら、空間そのものを爆破しているようだった。

シュナイゼルの全身が大きく軋む。鮮血が噴き出す。

多分、相当無理をしているのだろう。だが、奴が滅びる前に、此方が倒されそうだった。

大きく、シュナイゼルの口が裂けた。そして、空を割かんばかりの青白いエネルギービームが放出される。どうにか回避はしたが、余波は凄まじく、きりもみ回転しながら落下、地面に激突した。

遠くの空で、巨大な爆発が巻き起こる。

村は衝撃波をもろに浴びているかも知れない。だが、直撃は避けているし、死人が出ないことを今は祈るしかない。

「豚よ。 我ら貴族は、存在そのものが高貴なのだ。 故に王の手足となって世界の秩序を守り、秩序は我らに従わなければならぬ。 さもなくば、世界は麻のように乱れ、有象無象が好き勝手なことを繰り返す」

「残念ながら」

足に、力が入らない。だが、アリスはそれでも立ち上がる。

「貴方の言う高貴なる義務などという言葉は、腐敗した貴族が、豪勢な生活を正当化するために作り上げた寝言に過ぎませんわ。 貴族が産まれながらに、存在そのものが高貴ですって!? もしもノーブル・オブリゲーションという言葉が意味を持つとしたら、その当人が高貴であろうとするために必要なのであって、暴虐と搾取がそれによって正当化される訳ではありませんわ!」

さっき、恐らくは父の魂を得ていたあの鳥人間に言われて、気付いた。

例え、史実の現実がどうだったとしても。その心が高貴であろうとするために、必要なこととすればよいのである。

少なくとも。貴族だから産まれながらに高貴であり、世界がその秩序に従わなければならないなどという事は、絶対にあり得ない。

言葉を汚すなと、シュナイゼルが叫く。アリスは視界の隅に、紅蓮の炎を捉える。殆ど同時に、シュナイゼルの巨体全てが燃え上がった。地面の下から、もの凄い熱量を感じる。

いやな予感はしていた。

このフィールドそのものが、今や敵の背中に乗っている状態なのではないのか。

邪神というのなら、それくらいのことはあり得る。

「殺す! 殺す殺す殺す! 私がやってきた事を全て否定し、汚そうとする貴様は、殺す!」

「貴方自身が高貴であろうとすることを止めはしませんわ。 しかしそのために他者を否定することは、悪以外の何者でもない!」

「ほざけ、乳臭いガキがああああああっ!」

塔のようなシュナイゼルの巨体が、バナナか何かでも剥くかのように、五つに分かれていく。中央の巨大な塔の周囲が、極太の触手となり、地面をせり上げながら放電する。多分、全力での、辺り一帯を吹き飛ばすつもりでの攻撃を仕掛けてくるつもりなのだろう。

シュナイゼルの頭から鮮血が噴き出しているのが見えた。充血している奴の目から、血涙が流れ落ちている。

泡を吹き、叫いているその姿は。もはや滑稽であり、狂気に満ちている。いや、とっくの昔に、この男は狂気に落ちていたのかも知れない。恐らくは、自分の家族でさえ、信念の名の下に犠牲にしてきたのだろうから。

実の息子を生け贄にしてまで、己の誇りを守ろうとした。

誇りが大事なことはわかる。だが、此奴のあり方だけは、逆のことをした父の名誉のためにも。本当の意味で、アリスが今や信じられる高貴なる義務のためにも。許す訳にはいかなかった。

 

アリスに向け、総力での攻撃を放とうとしている怪物が見えた。

そして、その下の地面が、大きく撓んでいるのも。

感じる。恐らくこれは、もうフィールドの地面の下全てが、奴の体なのだろう。ダゴンと此方が交戦している間に、念入りな準備をしていたというのか、或いは別のことか、よくわからない。

ただ、もう尋常な手段で奴を倒せないのは確実だった。

だが、わかる。あの巨体の核となっているのは、間違いなくシュナイゼル自身だ。それさえ打ち砕いてしまえば、確実に滅ぼすことが出来るだろう。

全身に力が満ちているのがわかるが、同時に酷く痛む。川背も状況は同じだろう。

もう、好機は一度だけだと見て良い。

敵の動きが止まるとしたら、攻撃の寸前。その一瞬だけだ。

「タイミングは任せるよ」

「有難うございます」

真剣な面持ちで、川背が頷く。というよりも、タイミングの見極めという点で、川背を凌ぐ猛者は存在しないだろう。折れた骨が痛むだろうが、我慢して貰う他無い。後は。もう一つ、何か有利に働く要素があれば。

無限にも思える一瞬。バナナのように展開したシュナイゼルの巨体が、停止する。川背が躊躇無く近くの枯れ木に複雑にルアーを巻き付け、激しい機動で一気に距離を詰めた。凄まじいGがかかり、一回死ぬ。だが、意識を取り戻した時には。

既に、至近に、苦悶の表情を浮かべるシュナイゼルの顔があった。

「な、こ、これは!」

この人自身に、憎しみは感じない。

可哀想な人なのだなと思う。その点では、ダゴンと同じだ。

ダゴンとの契約で、充填が完了しているブラスターが、至近で、シュナイゼルに突きつけられる。その太ったナマズのような顔に、恐怖が浮かんだ。

川背を突き飛ばして、引き金を引く。

シュナイゼルに直撃したブラスターの光は、かの人が天に向けて咆吼するのと同時に、その核を粉みじんに砕いていた。

スペランカー自身も、その光の柱に巻き込まれる。多分、数度は死んだだろう。全身が焼け付くのが分かった。

うっすらと、見える。

天に舞い上がったアリスが、己のありったけの力を込めて、巨大な怪物に鉄拳を振り下ろす。

そしてそれは。

破竹の言葉そのままに。巨体を、頂上から根本まで、根源的に粉砕していた。

 

風船が爆ぜ割れる。帽子も、真っ二つに引き裂かれて落ちた。

地面に着地すると同時に、吐血した。あまりにも体に負担が掛かりすぎたのだ。拳も煙が上がっている。焼け付くように熱く、そして引きちぎれそうに痛かった。呼吸を整えようとしても、巧く行かない。深呼吸を何度かして、ようやく、涙を拭うことが出来たほどだった。

辺りが、フィールドではなくなっていく。

最後、シュナイゼルの動きが止まったのはなぜかわからない。だが、スペランカーのブラスターが直撃したのは、そのおかげだろう。完璧なタイミングで、そこまでスペランカーを運んだ川背の動きも凄まじかった。

ふと、見上げて気付く。

青い空に、無数の風船が上がっていく。

それには人々が掴まっていた。

父がいた。母も。そして、弟のジムも。

何か笑顔で言っているようだが、言葉は聞こえない。

でも、アリスは悟る。ああ、そうか。これで、本当の意味での別れなのだと。

アリス。

見事だったぞ。お前はもう、小さくとも立派な貴族だ。

父の声がした気がした。聞こえた気なのか、本当に聞こえたのか、それさえもわからなかった。

涙で視界が霞む。どうして、邪神に喰われたのに。魂まで喰われて、あんなおぞましい怪物に変えられてしまったというのに。

アリス、貴方は私達夫婦の誇りよ。

今度は、母の声がした気がした。もうおぼろげにしか覚えていない声なのに、そうなのだとはっきり分かった。

ああ、どうして、笑っていられるのか。

アリスは、涙を拭っても拭っても、顔がくしゃくしゃになるばかりなのに。

お姉ちゃん。

格好良かったよ。

ジムの声もした。もう、どうしても、涙は止まらなかった。

あんなに反発していた家族なのに。あんなに嫌っていた弟なのに。

だが、わかる。此処は。笑顔で、送らなければいけないのだと。

心を強く持て。

貴族などと言う連中が、歴史上どうであったかなどというのは関係ない。自分は、違う存在になればいいのだ。

アリスは、渾身の努力で、笑顔を作った。きっと、くしゃくしゃで、みれたものではないだろうけれど。

それが、アリスに出来る精一杯だった。

いってらっしゃい。そして、いつか帰ってきて。

その言葉を送るだけで、精一杯だった。

 

フィールドではなくなっていく森の中、巨大な仏像が立ちつくしていた。地蔵菩薩を象ったそれは石で出来ていて、全身から煙を上げていたが。全体の構造はまるで崩れておらず、神々しささえ湛えていた。

やがて、大量の煙が巻き上がり、身長八メートル程まで巨大化したMが其処にたっていた。その尻からは、縞々の尾が生え、揺れている。

全身をはち切れんほどの筋肉で覆ったMは、今、粉砕した敵の亡骸を踏みにじりながら、鼻を鳴らしていた。

「ふん、流石に何十年も周囲中の人間を手玉に取っただけのことはあるな。 呼び出した邪神を盾に逃げたか」

Mは人間大のサイズに戻ると、服に付いた埃を払う。

邪神との戦いで、ほぼ無傷だったのだ。

戦いが始まり、邪神が恐怖に悲鳴を上げるまで、ほとんど時間は掛からなかった。要は、邪神は気の毒にも来る世界を間違えてしまったのだ。Mの技である「星の一撃」を受けた邪神は戦力の過半を瞬時に消失、とどめにMが放った技「仏像地獄」を浴びて爆散した。

普通の人間しかいない世界であれば、猛威を振るったのかも知れない。だが、この世界の人間は、既に尋常ではない耐久能力を身につけている。宇宙人との交戦ばかりか、異世界との交流までも経験し、そのタフネスは類を見ない。

Mは確かに最強だが、他にも強い戦士はまだまだいる。N社の精鋭になると、Mでさえ勝てるかどうかと言う相手が何人もいる。

アンリエッタを手配するようにJに連絡。既にフィールドは解け始めており、空には美しい星空が広がり始めていた。昼間のように明るかった辺りも、見る間に暗くなっていく。

それにしても、驚いた。

満身創痍のアリスが、スペランカーと川背に助力を受けたとはいえ、このフィールドのコアとなっていた邪神クトゥヴァを倒したことは、フィールドが消えていることからも明らかだ。Mがいくまで、あの小娘では生き残るのが精一杯、それも精々五分五分かと思っていたのだが、認識を変えなくてはならないかも知れない。或いは、スペランカーの力か。胸くそが悪い相手だが、その生存能力は認めている。アリスを其処まで成長させたのは、奴の力なのだろうか。

ヘリのロータリー音が辺りにとどろく。

弟のLが迎えに来たのだ。

Mとほぼ拮抗する力量を持つLは、しかし戦歴に恵まれず、どうしても影が薄いと言われ続けている。しかしその戦闘能力は決して低いものではなく、Lが来ても今回は同じ結果になっただろう。

ヘリに飛び乗ると、用意されていた特性のドリンクを口にする。

「アリスの方は満身創痍だろう。 出来るだけ早く、救助隊を廻してやれ」

「はい。 すぐにも」

パイロットに鷹揚に頷きながら、Mは今後、さらなる修羅場が訪れることを予感していた。

この世界に、嵐が来るかも知れない。

その時には、Mでさえ手に負えないようなとんでもない邪神が、現れるのかも知れなかった。

 

7、予兆

 

病院で目を覚ましたスペランカーは、まず最初に伸びをした。何日眠っていたのだろうか。よくわからないが、とても気持ちが良い目覚めだった。

点滴の注射がされていないのは、つけるだけ無駄だと判断したからだろうか。個室なのはなぜだろう。入院費が、保険が利くかどうか不安になる。あまりお金持ちではないのだ。

それにしても、あれからどうしたのか。

記憶が綺麗に消えている。ダゴンと契約して、塔のような怪物にブラスターを叩き込んだ後の事が分からない。

ブラスターを連射したのだから、相当なダメージがあったのは疑いない。しかも、邪神を体内に受け容れるという極めつけの無理をしているのである。このまま、目を覚まさないこともあり得たのだ。

「ダゴンさん、いる?」

返事はない。

力が漲るような感覚もなかった。

ドアがノックされる。返事をすると、川背が入ってきた。手足に包帯を巻いていて、かなり痛々しい姿である。

「先輩! 良かった!」

「私、どれくらい寝てたの?」

「一週間と少しです」

それは酷い。それだけ、桁違いのダメージを受けたと言うことだ。何万回もダゴンに殺されたダメージが、今頃になって負担になったのかも知れない。ベットから起きようとして、すっころんで床に激突。

意識が戻ると、川背が心配そうに覗き込んでいた。

「大丈夫ですか、先輩」

「うん。 いつも通り」

「もう、しっかりしてください」

手を貸してもらって、立ち上がる。そういえば、白衣の下はオムツに尿管なのだと気付いて、流石に赤面する。一週間も寝ていたのだから当然の処置だが。

ナースコールを鳴らして、看護師さんに処置をして貰う。一通り検査をするも、何も問題は無し。これなら明日には退院できるという。ダゴンは眠っているのか、気配を全く感じなかった。

川背と一緒に、ロビーに。大きなテレビがあるという。途中、色々と聞いた。

あの後、N社のレスキューヘリが来て、ぶっ倒れていた三人を回収してくれたそうである。アリスも酷く消耗していたが、今は歩くことも出来るそうだ。

謎なのはアンリエッタである。あれから姿を消したという。村人達には厳重な監視が付いているから、彼らの仕業でないことは確かである。川背は小首を傾げていたが、スペランカーにはぴんと来たことがある。

あの鐘の音。

アンリエッタの家の呼び鈴に、良く似ていたのだ。

次に会う時は、あのように友好的な宴は開いてくれないかも知れない。もしも黒幕だったとしたら、大勢人も殺しているだろうし、許すことは出来ないだろう。

ロビーに出ると、テレビの前に大勢人が集まっていた。白衣を着たアリスを見掛けたので、歩み寄る。アリスはぱっと華が咲くような笑顔を浮かべた。

「ご無事で。 良かったですわ」

「え?」

「目が醒めてから、こんな感じです。 僕もびっくりしました」

以前の何もかもが気に入らない様子のアリスは何処かにいなくなってしまったかのようである。とても可愛らしい笑顔が、実に眩しい。

「この間は有難うございました。 わたくし、一皮剥けた気分です」

「そうなんだ。 何だか、肩の力が抜けたみたいで、安心したよ」

テレビを見ていた患者達が、わっと声を挙げる。

何かあったのだろうか。

「ああ、先輩にこれを見せたかったんです」

川背の言葉に振り向くと、船に乗ったテレビディレクターが、興奮した声で喋っていた。日本語ではないので何を言っているのかわからないが、アリスが通訳してくれる。

「アトランティス大陸が、三日前、南大西洋に浮上しました。 広さはおよそオーストラリア大陸の半分に達するほどです。 周囲はフィールドに覆われており、既にN社を筆頭とする各社が、調査を始めている模様」

「アトランティスって、あの伝説の」

胸の中で、何かが疼く。

ダゴンの気配を、目覚めてから初めて感じた。

世界は変わりつつあるのかも知れない。だが、スペランカーは、この世界を生きるのだ。

そう、決めたのだから。

 

(終)