薔薇の魔王

 

序、砂漠の薔薇園

 

砂漠を二時間。ジープを走らせて、ようやく其処に辿り着く。灼熱の日差しの中、ジープが止まってしまったら、一大事だが。幸いこれは、砂漠のレースで優勝をかっさらったこともあるマシン。そう滅多な事では壊れはしない。

ジープを運転しているのは、バチカンから指定されている本職エクソシストの一人。まだ若い男だが、悪魔払いの実績も持っている武闘派だ。

ただ、今回、奴はただの監視役。そうなってくれることを、私としても祈るしかない。

バチカンが幽閉している、地上に存在する数少ない魔の者。通称、薔薇園の魔王に、今回仕事を頼みに行くのに、自分だけでは不足だと思ったからである。そこで、気にくわないこの若造を、供に選んだのだ。

小さくあくびをした。

岩石砂漠を強引に踏破に掛かるジープは、激しく揺れるが。それくらいは、慣れっこだ。今更何とも思わない。

「レイディ。 そろそろつきますよ。 気むずかしい方なので、あくびは避けてくださいね」

「分かっていますよ」

不快感が喉までせり上がってきたが、我慢。

まさかバチカンに喧嘩を売るわけにはいかない。

やがて、見えてきた。

砂漠の中に、不意に緑が生じる。オアシスだ。

今まで石と砂しかない、赤茶けた大地だったのに。いきなり、緑の草が生い茂る世界が見えてくる。

ジープを止めて、降り立つ。

サボテンが、辺りには林立していた。流石に緑といっても、潤う草とまではいかないか。砂漠の緑化を進めている場所も近年は珍しくないと聞いているのだが。

ビニールハウスが見える。そして、歩み寄っていくと、不意に砂漠特有の、おぞましいまでの熱気が、溶け消えていくのを感じた。

犬が数匹、此方にゆっくり歩いて来る。

足を止めた私の隣で、神父。カルミティは、慇懃に礼をした。若造のくせに、礼儀だけはしっかり学んでいる。

「恐れながら、魔王陛下は」

「バチカンの者が、何用か。 そちらの連れは」

犬が喋る。

どの犬も、チベタンマスチフと同等の体格を持つ、化け物のような姿だが。神父は少なくとも、恐れてはいない様子だ。

まあ、私には、どうでも良い事だが。

「依頼人です」

「人では無かろう」

「主君の所に、案内してもらえますか? 貴方たちに用がある訳ではありませんから」

犬たちはしばらく私とカルミティを見ていたが。やがて、リーダー格らしい大きいのが、顎をしゃくって歩き出した。

ビニールハウスが林立している。

中では、例外なく、薔薇を育てている様子だ。

しかも紅いもの黄色いもの白いもの、色々。中には、濃い青のものもあるようだった。

青い薔薇は不可能の象徴と言われて来た。

ただ、最近日本の技術によって、遺伝子を無理矢理組み込んで、実現が為された。邪道ではあるが、此処の管理人は、気にしていないのだろう。薔薇でさえあれば、何でも良いと言うわけだ。

こだわりが感じられないと取るか、薔薇の全てを愛していると取るかは、人次第。

少なくとも私は、あまり気にはしない。薔薇自体、さほどこだわりがあるわけではないからだ。

それに、薔薇の栽培が如何にマニアックで難しいものなのか、よく知っている。

こんな砂漠の真ん中で、独自の世界を作って薔薇の栽培をしている者が、それくらい把握していないとは思えない。

東洋のことわざにある、釈迦に説法という奴だ。

ビニールハウスの中では、何かが働いている。

人では無い。

筒状の体に、触手がたくさん生えているものが、あくせくと蠢いている。流石に、此処まで魔のものが露骨に蠢いている場所は、私もはじめて見た。流石にバチカンが「封印」しているだけの事はある。

「あれは、陛下の眷属でしょうか」

「そうだ。 我々のような戦闘種族と違って、薔薇の世話をするだけに造り出された」

「人間を雇おうという気は無いのですか? この近辺の人間は貧しく、金を出せば喜んで働くでしょうし」

「そもそも怖れて近寄ってこない。 十数年前は原理主義者とやらが爆弾を仕掛けに来たりする事もあったが、みな我らが排除した」

なるほど、今でも魔王の恐怖は健在、ということか。

林立するビニールハウスの更に奥には、緑が濃い空間があった。椰子だけではなく、此処には草も生えている。

綺麗な薔薇園が、緑の奥に作られている。

「魔王陛下の、力の影響で、この辺りは砂漠化から守られている」

「砂はどうしているのですか」

「風向きがいつも決まっているから、防砂林が作ってある。 毎朝、眷属が掃除してもいる」

「なるほど」

便利というか、何というか。

こんな所で薔薇園をやるには、文字通り一つの世界を作ってしまう覚悟がいると言うわけだ。

土地自体も格安だという事はあったのだろう。

砂漠のど真ん中に、オアシスとは言え、こんなものを作ろうだなんて。あまり、考えつくことではないが。

大きな塔のような肉塊がある。人間の背丈の三倍ほどもあるが、動く様子は見られない。

チューブが差し込まれている所を見ると、ポンプの役割をする眷属か。或いは、オアシスの調整のために存在しているのかも知れない。

空を見ると、薄いネットのようなものが見える。

正確には幕のようだ。あれも、眷属の一種と言うことか。

薔薇園に入る。

足下を、ちょこちょこと蜘蛛のような生き物が走り回っていた。それは薔薇の葉の上も動き回り、葉につく虫を退治してもいるようだ。それぞれが蜘蛛よりも遙かに大きいが、どうしてか不快感はせり上がってこない。

「これだけいろいろな眷属がいるとなると……いや、逆ですね。 快適に薔薇を作るには、これだけの数の眷属が必要と言うことですか」

「そう言うことだ。 その苦労を知っているから、我らは無粋な侵入を好まぬ」

「バチカンの人間も、ここに来るときは気を遣っているんですよ。 あなた方の主との戦いで、昔は随分被害も出しましたからね」

「それは此方も同じ事だ」

犬が、神父の方を見ずに応えた。

それはそうだろう。

何匹かついてきていた犬達が、足を止める。

一匹。一番大きな奴が、ついてくるようにと指示。他はその場に座り込むと、ぴたりとも動かなくなった。

「ここから先は聖域だ。 無礼な真似をしたら、このマルコシアスが許さぬ」

「分かっています。 私も魔王が戦闘用に作った眷属と、戦おうという気はありませんから。 貴方は分かっていますか」

「問題ありませんよ、レディ」

「ついてこい」

神父は巫山戯ているのか、目に愉悦が浮かんでいた。

私としては、あまり良い気分はしない。

私も人間では無いとは言え。此処にいる魔王は、バチカンとまともにやりあって、封印という名目で自治まで勝ち取った強者だ。

もしもやりあった場合、無事で済むとは、とても思えない。

薔薇園の奥。

人影が見えた。

ほっかむりを被って、籠を腕からぶら下げている。薔薇を吟味しては、つぼみを落としたり、枝を剪定したりしている様子だ。驚くことに、はさみは使っていない。手をはさみにして、ちょきん、ちょきんと斬っている。

指で挟むだけで、枝が切れる様子は、あるいみ滑稽を通り越して、恐ろしくさえもあった。

「陛下、客人にございます」

「……」

無言で、魔王が此方を向いた。

見かけは、二十歳そこそこの小娘だ。白い肌をしている所からして、噂通り元は人間、それも西洋圏の、であろう。

ただ、現在の人間に比べると、だいぶ背丈そのものは低いようだが。せいぜい百六十あるかないか。アジア人としては平均より少し高いが、逆に白色人種としては小さめだ。

目つきは、異様にするどい。

特に神父に対しては、ゴミを見るような視線をぶつけていた。

一方私は、東洋圏の存在だ。

元々人間の外という共通点はあるが、東洋と西洋の壁は大きい。近年は沈静化してきたが、互いに大規模な代理戦争をした事もある。

「それは確か道服だな。 アジアンの仙人か」

「分類としてはそうなります。 天仙娘々と申します」

「余も噂は聞いている。 今だ生き残っている、数少ない道教信仰の仙女じゃな」

「貴方は、魔王リリスでよろしいですか」

頷かれる。

リリス。最初の人間の妻とされた女。だが、男性優位の結婚に反対して、楽園を追放された。

その後、多くの悪魔達と交わり、子を百人も設けたという。

聖書に名を残す、淫売の中の淫売である。

だが、目の前にいる女性は。清楚とか淫乱とか、そういった雰囲気とは、まるで別の存在に思えた。

単純に野暮ったい。

美しい顔立ちはしている。相応に整っているが、それは農作業をする格好では、あまりにも目立たない。

それに、何よりだ。もしやと思うが。

周囲にいる眷属達が、リリスの子なのか。

「そなたほどの大物が、何用じゃ。 薔薇なら譲らんぞ。 この薔薇は、余の宝ゆえな」

「確かに素晴らしい薔薇ですが、私には興味がありません。 今回は、仕事の話をしに来ました」

「聞かせよ」

頷くと、話を始める。

神父は、ずっと一歩下がって、様子を見ていた。此奴もバチカンから、エクソシストの資格を与えられている男だ。こんな所に来るには、相応の準備をしている事だろう。もっとも、それが使われる機会は、おそらく無いだろうが。

リリスとしても、バチカンと今やり合うのは好ましくない筈。散々やり合った末に、やっともぎ取った自治なのだから。

「実はある場所に、厄介なものが出来ましてね。 恐らくは、あなた方に由来する術の結果と思われまして。 専門家に対処を願おうと思い、此処に来ました」

「厄介なものとは」

「過去への扉」

「!」

過去といっても、この地球の過去ではない。

偵察用の遣いを飛ばしてみたのだが、内部には明らかに、異様な世界が広がっていたのだ。

恐らくは、別の星の、それも異なる文明。

しかも、ろくでもない文明である事は、ほぼ間違いが無いだろう。

「協力して、いただけますか」

「……良いだろう」

まあ、此方も、反対されることは予想していなかった。

人と人ならぬものが、どうにかバランスを保った今の時代。互いに仲悪く、争っている場合ではないからだ。

準備をしてくると言い残すと、農作業姿の魔王リリスは、奥に消える。

其処に母屋があり、着替えることが出来ると言うことか。

見えないのは、何かしらの術でも使っているか、眷属にでも見えないようにさせているのか。或いは、両方かも知れない。

「相変わらずお美しい。 アダムは女を見る目がない」

「その伝承は正しいのですか、神父」

「さあ? 我々は聖書の教えに、疑念を抱く事を許されていませんので」

嘘ばかりを言う奴だと、私は内心で毒づいていた。

此奴は。エクソシストは、悪魔払いと呼ばれる職業だ。当然、悪霊に憑かれた人間を救済すると同時に、悪魔を排除することを目的とする。

だから、だろうか。

悪魔の側に、近い嗜好を持つ者も、出てくるのだ。

キリスト教における、ルシファー堕天のエピソードは、私も知っている。あの時、もっとも魔界に引き込まれた天使は、悪魔と最前線で戦い続けていたパワーズという階級だそうだ。人間でも、状況は代わりが無いという事だろう。

小一時間ほどすると、リリスが出てきた。

どちらかと言えば、野暮ったい格好をしている。よそ行きのドレスなどではない。野山に山菜採りでも行くような姿だ。

とてもではないが、淫売の代表格のようなリリスを思わせる姿ではない。色気など当然ゼロだ。

そういえば、スタイルもそれほど良い方では無い。

目には強い光があるが、それだけ。

顔がどれだけ整っていても、色気が出るかというと、話は別なのだ。

リリスという存在は、どれだけ歪められて伝わっているのだろう。かくいう私もそれは同じなのだが、まあ別に良い。

伏せていたマルコシアスが、体を起こす。

「我らがお供しますか」

「いや、この薔薇園を守れ」

「かしこまりました」

深々と頭を下げる犬。

私は、魔王と連れだって、ジープに乗り込む。神父は何も言われずとも、後部座席に移った。

リリスは手袋をしたままだ。

指先が出るタイプだが、其処に色気は欠片もない。

唯一美しい黒髪を頭の後ろで束ねているが。それも隠すように、熱射を防ぐためだろう、帽子を被ってしまった。

この人は、男に自分を見せると言うことを、全く意識していない。

事実、顔も殆ど化粧していない。

化粧をしなくても美しい顔もあるが。リリスはどちらかというと童顔なので、化粧はした方が良いだろうと、私は思う。

実際私は、砂漠に出る今回も、一時間ほど掛けて身繕いしているのだ。

「それで、場所は何処か」

「崑崙と言いたいところですが、東南アジアの山奥です」

「お前達仙人の縄張りではあるまい。 その辺りはむしろ、ヒンズー教の神々の支配地域ではなかったか」

「彼らは衰退が著しく、今では実質上無政府状態なんですよ。 もっとも、今は西洋の神々も、同じ状況のようですが」

力を持つのは、一神教と、その敵手ばかり。

東洋では、仏教が強い。道教がわずかに追随。後は、だいたいが独自の勢力だ。印度系はヒンズーとイスラムが半々で互いにつぶし合っていて、それが互いの破滅を産んでいる。仏教系は全体的に勢力を広げてはいるが、だいたいその土地で独自の信仰を築いており、一つとして同じものはない。

「そんな場所に、何故我らの勢力が干渉したのじゃ」

「それがよく分からないのでして。 地上で勢力を保っている貴方であれば、何か知っているかと思ったのですが」

「余は知らぬ」

「でしょうね。 ここに来て、それがよく分かりました」

神々と呼ばれる存在は。

いや、悪魔もそうだが。

実際には、別の世界などにはいない。この世界で、活動している。だからこそ、悪魔と呼ばれる勢力は、昔から狩られてきた。

一神教ではそれが特に熱心だった。

神話と現実は違う。

サタンもベルゼブブもルシファーも、有名所は殆どがとっくの昔に狩られてしまっていると、私は聞いている。

それだけ人間は恐ろしいという事だ。

そして、このリリスは。

その中で、ほぼ唯一。一神教の勢力から離れている砂漠の中でとはいえ、生き延びている悪魔なのだ。

今でも残党がいるという噂は聞いているが。

それも、大した数ではないだろう。

ジープが砂漠を行く。

運転しているのは私だ。免許を取るときは、色々と面倒な手続きを踏まなければならなかった。

神仙の類が、人間世界での資格を取るのは、色々と大変なのである。

ましてや私も。崑崙も。

今では極めて立場が弱くて、色々と苦労している状況なのだから。そうでなければ、道教でも信仰を深く集めている私が、こんな砂漠にまで来て、異境の悪魔にものを頼んだりするものか。

「まずは空港に。 幾つか飛行機を乗り継いで、数日はかかります」

「何なら飛んでいこうか?」

「出来るのですか? いや、止めておきましょう。 下手に通過途中の国々の空軍を刺激する事もありますまい。 中には、一神教の悪魔と言うだけで、問答無用の攻撃を仕掛けてくる所もありますから」

「面倒な事じゃな……」

話している内に、空港に着く。

後部座席の神父は、その間、ずっとにやつきながらガムを噛んでいた。どうやらリリスに相当にご執心らしい。

それで良いのかとも思ったが。

バチカンからエクソシストとして認定されるような人物は、実力本位で判断されると聞いたことがある。

この人物は相当な女好きで、素行も悪そうに見えるが。

実力は確かと言うことなのだろう。まあ、道中尻を触られるようなことはなかったし、別にどうでも良いが。

砂漠の中に、空港が見えてきた。

此処から、かなり時間が掛かる。

かってと違い、今は人間の文明が、神々の力を凌いでいる。たまに、人間の手にも負えない事が起きるが。それは、単に解明できていない、という事に過ぎず、人間が対処できないという話ではないのだ。

今回は、人間に対して、多少恩を売るため。

そのために、私は動いている。

情けない話だが。それが、現在の、神々の現実だ。

髪についた砂を払いながら、私はリリスの方を見る。リリスは、砂漠の向こうを、じっと見つめていた、

何かを呟いているように見えたが。

何を呟いたまでは、分からなかった。

 

1、魔王の現実

 

飛行機に乗ってからも、リリスはずっと静かだった。意外に旅慣れているのか、途中でアイマスクを取り出して、座席を倒して眠りはじめたくらいである。

私もアジア人としては兎も角、白色人種の女性に混じるとそれほど背丈が高い方では無いが。リリスは、一緒に座って見ると、私よりも更に小さい。雰囲気が控えめだから、余計にそう感じるのだろう。

一神教は、中東を起源とする宗教だ。

元々白色人種が造り出したものではない。リリスは或いは、最初はもっと肌が焼けていたのかも知れない。

神々や悪魔が、信仰の影響で姿を変えることは、よくあるのだ。

「時に陛下」

「何じゃ」

「中東を離れたことは?」

「ある」

素っ気ない答えだ。

私も読んでいたハードカバーに飽き始めていたので、せっかくなので話を続けてみる。リリスの半生には、興味がある。

だいたいの場合、神々や悪魔は、後から造り出される。多くは神話による信仰が形を作った結果だが。

中には、人間が何らかの理由で、神々に変わることもある。悪魔も同様だ。

おそらく、リリスは後者。

元は人間だったのだろうと、私は見ていた。

ちなみに私もそうだ。

そういう神々の場合、筋金入りの人間嫌いになるか、人間の事を理解できる調停者になる。私は後者を選んだが。

おそらくリリスの場合は、前者だったのだろう。

「やはりバチカンとの抗争ですか?」

「少し違うな。 バチカンなどと言う形にまとまったのは、余らの勢力が著しく減退して、悪魔狩りの必要がなくなったからじゃ。 以前は国家軍事力を駆使して殺しに来ていた悪魔も、それほどの脅威ではなくなったという事よ」

「そちらも大変だったのですねえ」

「多いときは、年に何度も殺されかけたが。 どうにか余の首は、まだ胴についておる」

あくびをするリリス。

ただし、周囲に気は配っている。こういう所にも、狂信的な思想の持ち主はいるのだ。自爆テロでもされたら、もろに巻き込まれかねない。

「アダムってどんな方だったのですか?」

「会ったことも無いわ。 というよりも、神話上の存在が、全て実在している訳でもあるまいて」

「それもそうですね」

神父が、いきなり此処で話に割り込んでくる。

内容も、好色なこの男らしかった。

「何なら未婚ですか?」

「生憎余は、誰かと契るつもりはない」

「そんなことを言わずに。 一度試してみましょうよ。 エクソシストは天使と婚姻することを、最大の喜びとしています。 あなた方悪魔も、今は戦いが止んだ身でありますし、特例として許されるかも知れませんしね」

「嫌だ」

すげない答えだが、神父は諦める気が無さそうだった。

一度は引くが、すぐに別の手を考えてくるつもりだろう。或いは、やぼったい、ちょっと小さい子が好みなのかも知れない。

西欧人はもっとモデルみたいな、長身で、金髪碧眼の、グラマーな女が好きだと思っていたのだが。

まあ、それには個人差もあるのだろう。

それならば、私も狙われるかも知れない。気をつけた方が良いだろう。

しばらくして、空港に到着。

飛行機を乗り継ぐが、一時間以上余る。途中の売店で食事にしたが、なんとリリスは日本食を頼んだ。

しかもそばである。

「以前、食べて気に入っている。 家には乾燥麺の備蓄もある」

「へえ、それは……」

「ラーメンも美味しいですよねえ」

「ああ、あれは中国のとは別物の進化をしていますね。 確かに美味しいです」

神父が話を振ってきたので、返す。

確かに日本に行くときは、ラーメン屋に出向くのが楽しみではある。リリスはそばを上手に食べていたので、にわかではないだろう。

空港での食事を終えると、次の飛行機に。

あまりにも庶民的な行動をしているので、まさかキリスト教でも最も忌み嫌われる淫乱の悪魔が此処にいるとは、誰も気付かないだろう。

もっとモデルのような体型で、蛇でも体に巻き付けて、或いは全裸寸前の格好とかなら、話は分からないでもないのだが。

いや、それはないか。

隣のリリスを見る限り、そんな事を実際にやっても、下手なコスプレになるのが関の山だ。本人がそうなのだという事実は、ある意味面白い。

もっとも、実力に関しては本物だろう。

ずっと見てきたが、動きはいずれも本職のもの。身にひそめている魔力にしても、尋常では無い。

昔の軍隊であれば、一個師団を真正面から相手に出来たのではないか。

流石に疲れが出てきたか、次の飛行機では、リリスは最初からアイマスクを付けて、寝に入っていた。

或いは、危険がないと判断したからかも知れない。

口元はあどけなくて、とてもではないが、百の悪魔と交わった魔女だとは思えない。或いは、神話によって特性が後付けされてもどうにもならないほど、元の彼女がちんちくりんで、可愛らしい女性だった、という事なのだろうか。

それなら分からない事がある。

どうしてこの娘が、後天的にとはいえ、リリスにされたのか。

私の場合は、自業自得の部分がある。

だが、もしも何かしら、ろくでもない人間社会の業に巻き込まれたのだとしたら。それは、とても悲しい事なのだろうと、私は思った。

 

東南アジアの大地を踏んだのは、夕方のこと。

ほぼ一日を飛行機の上で過ごしたので、ずっと眠っていたような気もする。いずれにしても、砂漠に比べれば、ずっと過ごしやすい。

神父はまだついてきている。仕事なので、当然だ。此奴がいなくなった場合、別の監視役がつくだけである。

「疲れたのなら、お姫様だっこでもしま」

無言でリリスが腹に肘鉄を叩き込んだ。

その時、神父を見る目は、まるで道ばたの犬の糞を見ているかのような冷たさだった。まあ、こんなものだろう。

悶絶している神父を横目に、私がフロントへ行く。

私が、事前に携帯からホテルをとっておいたので、すぐに泊まることが出来た。

勿論神父と部屋は別々である。ただし、私とリリスは、同じ部屋だ。

部屋で荷物を下ろすと、ようやく一息。

とはいっても、リリスは殆ど手ぶら同然だったが。着替えしか持ってきていない有様なのだ。

「すぐに眠りますか?」

「そなたは」

「私はプールで泳いできます。 一応崑崙から活動資金は出ていますし、このホテルで豪遊するくらいなら平気ですよ。 日本食が出るレストランもあります」

豪華ホテルとはいえ、だいたいボーイのモラルはゴミ以下。あまり、部屋を離れるのは得策ではない。

ただ、リリスも私も、術の類が使える。

荷物をボーイが好きかってしないように、手は打てる。

「余は此処で静かにしている。 正直な話、人間に見られるだけでもいやなのでな」

「じゃあ、神父は」

「想像するだけで怖気が走る。 あのような輩だと知っていれば、眷属を何名か連れてくるのであったわ」

そういうと、不機嫌そうにリリスはベットに潜り込む。

私は苦笑いすると、部屋を出た。

ただ、あの言葉。

人間に対する強烈な憎悪は、笑って済ませられるものではないだろう。きっと、彼女には、余程のことがあったのだ。

その上、余程のことの後は、散々人間に追いかけ回され、戦いが続いた。

嫌いになるのも、当然か。

部屋を出ると、神父がいた。壁に背を付けて、待っていた様子である。

「リリス様は?」

「可能な限り、人間には会いたくないそうですよ」

「筋金入りの人間嫌い。 其処がまたいい」

神父は、余程リリスが気に入ったらしい。

まあ、気持ちは分からないでもない。この神父が、偏った趣味の持ち主であれば、という前提つきであるが。

どちらかと言えば、リリスは酸っぱい青リンゴに見える。

神父の様子からして、何かしらの特性。たとえば、魅惑の術が自動で掛かる、などというのも、最初予想したのだが。

どうも違うらしいので、やはり神父は自分の意思で、リリスを好んでいるとみて良いだろう。

いずれにしても、私には関係のない事だ。

「見張りは頼みますよ」

「貴方はどこへ?」

「プールで一泳ぎしてきます」

勿論、ただそれだけではない。

この神父がいない所で、崑崙側の使者と、接触も済ませておきたかった。携帯からの連絡だけでは、やはり心許ない所があるのだ。

これから仕事になる。

不安要素は、一つでも多く、排除しておきたかった。

 

プールで一泳ぎして、なおかつ崑崙側の者と接触も果たして。戻ってくると、リリスは既にベッドで寝込んでいた。

神父は私が戻ってくるまで、ずっと廊下にいたらしい。

もっとも、廊下で立ちっぱだったわけではなく。近くのフロントで、テレビを見るふりをして、部屋を監視していた様子だが。

「お話は済みましたか、レイディ」

「滞りなく」

勿論、此奴が私の要件を洞察している事くらい、分かっている。それくらいは、バチカンのエージェントなのだから当然だろう。

仮眠していたリリスに悪いが起きてもらうと、神父の部屋に揃って移動。これからの、仕事の打ち合わせをする。

ホテルを出た後、崑崙側が手配した業者のタクシーに乗って、ほぼ半日揺られる事になる。

水牛が荷物を引くために闊歩し、茶色く濁った泥の大河がある、アジアらしい片田舎。それが、目的の村だ。

この辺りは、仏教の勢力も、色々と手を焼くほど利権関係がこじれている。勿論、自爆テロの温床でもある。

何よりも、黄金の三角地帯に近い。訳が分からない犯罪組織が闊歩しているし、何より薬物が山ほど栽培されている。

人間の命など、ゴミ同然。

人身売買も、殆ど公然と行われているほどだ。子供達は実の親によって犯罪組織に売り飛ばされ、其処で臓器を摘出されて捨てられたり、後は民兵にされたりする。

地獄という言葉が、これほど近い地上の場所は、あまり無いだろう。楽しみがないという理由で、薬物に溺れることが正当化されるほどなのだ。

面倒くさいので、どんな場所にでも突っ込んでいく一神教の宣教師達でさえ、近寄ろうとはしない。

具体的な場所を、地図で示す。

その後は写真だ。

地面には、巨大な魔法陣が浮き上がっている。

今の時点では、かろうじて封印が作られていた。仏教側の勢力が、これだけはやってくれたのだ。

後は知らんと、放置しているが。

まあ、其処までやってくれたのだ。これ以上は、求めるのは酷だろう。彼らとしても、足を突っ込みたくないほどの、手酷い泥沼なのだ。

「魔法陣の形状に、見覚えは」

「この写真だけでは何ともな。 幾つか分かったことはあるが、それでもやはり現地で確認したい。 この写真だけでは、余とはいえども断言は出来ぬわ」

「いえ、妥当な判断だと思います。 むしろ、この写真だけで全て分かるようでしたら、心配していました。 では、移動する途中について、説明します」

地図上で、私は指を走らせる。

山間の道路をなぞる。

ちなみに、一番安全なルートを厳選している。それでも、アフリカ最凶の名も高い魔都ヨハネスブルグ並の危険がつきまとうが。

「ゲリラが出没する地域を幾つか通ります。 タクシーは防弾仕様ですが、それでもRPG7を撃ち込まれると、面倒な事になります。 防護用の術式は準備してはおきますが、それでも、覚悟はしておいてください」

「何、面倒な場合は、排除しますよ」

神父がさらりという。

まあ、此奴の事だ。護衛の部隊くらい、手配するのは造作もないだろう。民間軍事会社にも、手が回る可能性もある。

崑崙はというと。

どちらかといえば武闘派ではない私を廻してきている事からも分かるように、手が足りていない。

単純な軍事力は、悔しいが神父に頼るほか無かった。

「術式の解析が出来たとして、封印は可能ですか」

「最悪の場合、力尽くで押さえ込むことも可能じゃ。 ただし、余にはどうにも解せぬが」

「何が、でしょうか」

「異世界の過去につながるとなると、其処へ危険覚悟で、何かしらの技術を求めて行く者もいるのではあるまいか。 良く封印するという話へ持っていくことが出来たな」

まあ、当然の話ではある。

そろそろ、手札を見せておかなければならないだろう。

過去の世界で、干渉は出来ない。

しかし、空間がねじれていたり、地形自体の問題で、危険は生じてくる。

だから、余程のことがないと、過去や未来へは行けないのだ。そんなところで事故にあったら、文字通り助かる見込みがない。

「実は、機械的に動く遣いでさえ、行った者は殆ど生還できていないほど、危険な場所なのです」

「それで?」

「中には、極めて危険な神か、それに類する存在がいると思われます。 相当に空間がこじれてしまっているのでしょう。 ただでさえ、混沌としているこの土地の現状ですから、あまり好ましくない。 複雑に絡み合っている勢力のどれか一つでも、その力を入手することになったら」

下手をすると、国境紛争では済まなくなる。

ただでさえ、幾つかの大国が、国境を接してにらみ合っているほどなのだ。それに核爆弾を投下するような有様になりかねない。

此処では、たかがダイナマイト一本が。

戦術核に匹敵する惨禍を招く可能性があるのだ。

リリスは腕組みした。

彼女にして見れば、面倒極まりない、という事なのだろう。だが、これも仕事なのだ。我慢してもらう他無い。

ちなみに、私だって、このような案件に首を突っ込むのは、嫌に決まっている。

なお、封印が存在する村の連中は、さっと雲隠れして、今は無人だ。

面倒事に巻き込まれる事を察知したのだろう。賢い判断である。

最悪の場合は、幾つか荒っぽい手段も取る事が出来る。

たとえば。

戦術核とか。

「それで、出発はいつになる」

「早ければ早いほど良いのですが。 手配しているタクシーが来るのが、早朝ですので、それにあわせます。 何より、夜中にこの地域を移動するのは、あまりにも危険すぎますから」

「そうか」

「此方でも、早朝に民間軍事会社が来るように、手配しておきます」

嘘をつけ。

私は、内心で、神父に毒づいていた。

此奴が手配するのは、多分違うものだ。民間軍事会社くらいは、とっくに手配を済ませている筈。

恐らくは、インドの軍か、米軍だろう。

最悪の場合は、インド軍に指示して、巡航ミサイルを叩き込ませる準備をしているはずだ。更に、米軍に指示して、戦術核を搭載した爆撃機も手配すれば、完璧だろう。

強力な異世界の神格といっても。

この世界では、力を発揮できる規模は限られる。来たばかりの場合は、至高神であろうとも、戦術核で滅ぼせる。

既に、実証済みの事実だ。

「時間になったら起こします。 それまで、眠っていてくだされば大丈夫です」

「ならば、余はその言葉に甘えるとしよう。 いずれにしても、この仕事が終わったら、すぐに帰る」

「分かっています……」

リリスは、小さくあくびをすると、部屋に戻っていった。

私も地図をまとめると、それに続く。

神父が咳払いした。

「貴方がここに来ている本当の目的は? レイディ」

「これ以上、状況をこじらせない事ですが」

「本当ですか? たとえば、この機に乗じて、異世界の神格を身に下ろす、などと言うことは考えていませんね」

「生憎、これ以上の権力には興味がありませんから」

崑崙が弱体化した理由は、その勢力が、激しい内輪もめに晒された事にある。何でもかんでも神に取り入れる混沌が続いた結果、誰が一番偉いのか分からなくなっていった。その結果、ある事件を切っ掛けに。対立が、火を噴いた。

結果、主要な神は、殆どが死んだ。

かくいう私も、それを側で見ていた。

しかも私がいわゆる昇仙してから、すぐにおきた出来事だった。

今生きているのは、権力闘争に身を任せなかった、ごく一部の神だけ。それも、皆年老いている。肉体的な話ではなく、精神的な話で、だ。二郎真君やナタといった武闘派も、此処で殆ど命を落としてしまったのだ。

この無駄な争いで、崑崙が受けた打撃は計り知れなかった。私のような、本来武闘派ではないものが、こんな場所に出向いていることからも、その打撃は知れようというものだ。

惨禍があまりにも凄まじかったため。崑崙では、誰もが争いを嫌っている。

生理的な次元で、である。

私は、其処まで老け込んでいる自覚はないが。それでも、これ以上、混沌の中に身を置きたくは無いと考えている。

むしろ、単純な思考の方向性を持たせることにより、行動方針を決められた一神教勢力は、幸せだったのかも知れない。

悪魔を排除する。それだけで、誰もが動いたのだから。

もっとも、そのとばっちりをもろに受けただろうリリスには、聞かせられない話ではあるが。

「貴方こそ。 今言ったようなことは、考えていないでしょうね」

「僕はこれでもこの世が大事でしてね。 人ならぬ身になってまで、権力を謳歌しようとは思いませんよ」

「それは重畳」

「ただ、近辺にある幾つかの武装勢力は、そうは思っていないでしょう。 今の時点ではにらみ合いが続いていますが、我々が動く事は、もう彼らも察知しているはず。 明日は、おそらく百人単位で死者が出るでしょうね」

十字を切る神父。

だが、その目には。

混沌と争いから生まれる死者を、倦む様子は無かった。まあ、それくらいでなければ、此処に監視役として、派遣されて来ないと言うことだろう。

もっと大勢のためなら、百人単位での死者など、何でもない。この神父は、本気でそう考えられる男、という事だ。

とにかく、早めに決着を付けなければならない。

人の世の混乱は、容易に拡大する。

この状況下での放置は、悪手以外の何物でも無い。

 

2、混沌から来る孤独

 

現地時間で早朝四時。

目ざまし時計の力など借りず、起き出す。リリスも、同じように、ベットから起こさずとも這いだしてきた。

そういえば、彼女の趣味は薔薇作り。いや、趣味と言うよりも、人生そのものが、か。

それならば、規則正しい生活は必須だろう。

眷属に任せきりというのなら、彼処まで見事な薔薇園は作れないだろうし、ある意味当然と言える。

勿論、睡眠を律することくらい、簡単なはずだ。

シャワーを浴びて精神を整えると、着替えを済ませる。

ライフルの弾くらいは防げる仙衣を着込んではいるが。それでも、RPG7の直撃を受ければ面白くない。

幾つか、先に防御用の術を掛けておいた。

私は元々戦闘向きの仙人ではない。

だから、守りと癒やしが主体だ。これは私個人がそう望んだのではない。私に関係する信仰が、そうだからだ。

一方でリリスは、単純な戦闘力よりも、おそらく搦め手の戦い方が得意なはずだ。これも信仰に関係する話である。

もっとも、このどちらかと言えば幼く見える魔王に、そんな事が出来るのかは、よく分からないが。

ただ、リリスは、苛烈な攻撃に対して生き延びた数少ない存在。しかも、手を焼かせ、封印という名の自治まで勝ち取っている。戦闘力に関しては、期待しても良いだろう。事実、かなりの使い手である事は、分かっているのだ。

「防御用の術は使えますか」

「余の得意分野じゃ」

「それを聞いて安心しました。 出来るだけ厳重にかけておいてください」

実際、これから先は、何が起きるか分からない。

いかなる使い手でも、ちょっとした油断で、あっさり命を落とすのが、この世の理というものだ。

ホテルをチェックアウトして、外に出る。

まだ陽が出る前だが。既に武装タクシーは準備されていた。更に、民間軍事会社らしい屈強な男達が、何台かの改造車に乗って待っていた。いずれもが、装甲車並みに分厚く武装している。

改造車には、重機関銃も搭載されている様子だ。

一個小隊の戦力が、見たところ整えられている。神父が話している。耳をそばだてる。話を拾う限り、途中で更に二個小隊が合流するという。

周辺の混沌から考えると、妥当な戦力だが。

しかし、それでさえも、なお不安を私は抱いた。確か事前の調べでは、少なくとも四つの武装勢力があり、それらはカラシニコフを標準装備している。RPG7も、かなりの数有しているはずだ。

請われて、装甲車に防御の術を掛けて廻る。

これで一発くらいなら、RPG7の直撃に耐え抜けるようになったはず。だが、それでも飽和攻撃を受けてしまうと、どうにもならない。

「アジアンのデーモンよ、ありがとうな」

「少しはこれで命をつなげると良いんだが」

デーモン呼ばわりされたが、悪気がないことは分かっている。

一神教では、他の宗教の神を悪魔呼ばわりするのが普通だ。この世界に、悪魔や神がいる事が分かっている現在でも、その風習は変わっていない。時に天使扱いされる事もあるようだが、それは例外に過ぎない。

もっとも、異教の神をデーモンと呼ぶのは、その分類の一つに過ぎないらしいが。まあ、この者達の間には浸透している分類なのだろう。

いずれにしても、間違いを此処で指摘しても仕方が無い。

今は戦力が一つでも欲しいのだ。

リリスが相変わらず野暮ったい格好のまま出てくる。

いかにもな風貌の傭兵が、笑いながら聞いてくる。ちなみに私は英会話くらい出来るので、話は拾えている。

「ヘイ、彼女は君の同類か? 薬草取りの現地人みたいな格好だが」

「彼女が淫蕩の魔王リリスですよ」

「はあ? あれが?」

「もうちょっとましな嘘をついてくれよ、姉ちゃん。 アジアンは確かにエキゾチックだが、あの格好は流石にねーよ! ましてやリリスだなんて、ありえねー!」

けらけらと笑う傭兵達。うそだと思っているのだろう。まあ、信じられないのも、無理はないか。

だが、それでいい。

リリスは気にもしてない様子で、タクシーに乗り込んだ。続いて私が乗り込むと、しっかり聞こえていたらしく、文句を言ってくる。

「いいのか、教えても」

「信じていないでしょうし、かまいません。 それよりも、車酔いは大丈夫、ですか?」

「ああ、問題ない」

そういえば、あれだけ激しく揺れた砂漠のジープでも、平然としていたか。

まあ、歴戦の猛者である事実に変わりはないのだ。

この程度で音を上げる程度の貧弱ガールではあるまい。私は念のために札を取り出すと、タクシーの内側から、もう一枚防御の術式を展開しておいた。それだけ、此処から先は危険なのだ。

一人で隠密していくには良いのだが、今回は調査、解析、更には消去と三つの段階をこなさなければならない。

その間、リリスが行動する自由を確保する必要もある。

地元の軍は腐敗していて話にならないようだし、文字通りの無法地帯では、人間こそが最悪の災厄になる。

私も、人間の頭の箍が外れると如何に危険かは、身をもって知っているのだ。

神父は、どうやらタクシーではなく、傭兵達の車に乗るようだ。

いざというときに、指揮系統が崩壊しないようにするための工夫だろう。タクシーの運転手が、車のエンジンキーを廻した。。

車列が動き出す。

 

最初の一時間ほどは、全く動きがなかった。

だが、もしも民兵組織などが察知していれば、仕掛けてくる可能性は高い。リリスはと言うと、渡しておいた写真に何か術式を掛けて、分析を続けている様子だった。

高速道路を抜けて、脇道に入り。

更に山路に入ると、空気が一変する。

まだ朝だというのに、一気に周囲が殺伐とし始めたのである。

荒涼たる山が広がるなか、点々と見えるのは、まるで要塞。彼方此方にある村が、全て要塞化されているのだ。

所々見える緑は、よく分からない薬物の原料となるような植物の畑だろう。

この近辺は、土地が痩せていて、まっとうな作物は取れないし、とれても金にならない。だから、薬物を半ば堂々と作って、金に換える。

酷い場合は、軍の高官までもが、賄賂をもらって、それを黙認しているのだ。

文字通り、神をも怖れぬ所行だが。

実際、神がこの辺りにいる凶暴な民兵組織に、天罰を加えたという話は、聞いたことが無い。だから増長するのだろう。

民兵の姿が、ちらちら見え始めた。

当然のように突撃銃で武装している。多分カラシニコフだろう。

この辺りには、万を超える数のカラシニコフが存在しているという話がある。どの民兵組織も、先進国に薬物を売りさばいて金を作り、それで武器を買うのだ。

「今の時点では、仕掛けてきません。 どうぞ」

「敵の斥候、数が増える一方。 狙撃に注意してください。 どうぞ」

無線でやりとりをしているのが聞こえる。

本番は、無人化した村に入ってからだ。

この有様では、とっくの昔に、こちらの動きは掴まれているとみて良い。総出で仕掛けてきても、不思議では無いだろう。

「レイディ、よろしいですか?」

不意に無線を通じて、神父が話しかけてきた。

タクシーの運転手が、視線で無線を取るように促してくる。まあ、タクシーと言っても、この男も傭兵だ。

このくらいの状況は、慣れっこなのだろう。

「何ですか?」

「お姫様はどのようになされていますか?」

「余なら写真から解析を進めている最中じゃ。 現場に着いたら、すぐにでも作業を開始するための措置よ。 当然であろう」

「だそうですよ」

本人に直接聞けば良いものを。

神父はおそらく、リリスとの関係性をどう構築するかで、色々と間合いを計っているのだろう。

面倒な奴である。

「それで、時間はどれくらい掛かりそうですか、姫様」

「調査に三時間、術式の解析、解除に十時間。 予備の時間が十時間という所よな」

「ほぼ一日ですか。 少々厄介ですね……」

無線が切れる。

この様子では、何かあったとみて良いだろう。相当に面倒な事態が、到来しているのかも知れない。

無線のやりとりに、耳をそばだててみる。

今の時点では、状況は解析できない。というよりも、私も村に着いたら、村全体を覆う防壁を展開しなければならないから、忙しくなる。

激しいオフロードを突き進む車列。

今の時点では、地雷などは仕掛けられていないようだ。もっとも、地雷などがあっても、一撃で駄目になるような、ヤワな装備ではないようだが。それに加えて私が防御の術式を掛けているのだ。簡単にやられてもらっては困る。

峠を越える。

山の彼方此方に、薬物の原料となる作物が植えられている畑が見える。

こうも露骨だと、苦笑してしまう。

黄金の三角地帯と言われるだけのことはある。面倒な土地だ。

「そろそろ、到着しますよ」

「分かった」

応えたのは、意外にもリリスだ。

彼女はそそくさと写真をしまうと、幾つか道具類を取り出していた。西洋魔術はよく分からない。

解析に使う物なのか、何なのか。

いずれにしてもその一つは、いわゆるブラックマリアに見えた。

確かマリア像とカーリー信仰などの地母神信仰が融合したという不可思議なものだとか。仏教系の信仰と、マリア像が混ざることは日本ではあるらしいと聞いたことがある。同じようにして、元々土着の信仰を取り込んできた一神教では、珍しいものではないのだろう。

後、砕けた十字架。

それに、何だろう。

薬瓶か。

「おや、お薬ですか?」

「! これは違う」

もの凄く大事そうに、リリスは薬瓶を懐にしまい込んだ。どうやら、間違えて取り出してしまったらしい。

肌身離さずという事は。

よほどに大事なものだった、ということなのだろうか。

それに、非常に慌てているのも感じた。他者に見せることすら、嫌なもの、というのだろう。

もの凄い拒絶の空気を感じる。彼女にとっては、それこそ聖域と呼べる存在なのだろう。間違いなく、アキレス腱に相当するものだ。

下手に触れると、文字通りの地雷を踏みかねない。いずれ話を聞くにしても、今回の一件が片付いてからだ。

ようやく、平坦な道に出る。

村の周囲は、古びた鉄条網で覆われていた。監視用のやぐららしきものまで備えられていて、当然銃座がついている。

文字通りの、修羅の地。

車が展開して、周囲に陣を作り始めた。

村の内部を、傭兵達が確認していく。伏兵が潜んでいないとも限らないから、だろう。既にさっきまでのおどけた雰囲気は無い。油断すれば、即座に頭を打ち抜かれるのだから、当然だ。

リリスが車を降りると、辺りを見回す。

そして、嫌悪感を、目に湛えた。

「醜悪極まりない。 貧しくとも、美しい村は存在しているが、此処は真逆だ。 人間の愚かさと醜さを、凝縮したような土地ではないか」

「ある一線を越えると、人は見栄を張る余裕が無くなるんですよ。 此方です、魔王リリス」

目的の場所は、村の一カ所から行くことが出来る、地下空間だ。

地下に作られた倉庫のようなものだったのだろうか。いや、以前入ってみた感触だと、鍾乳洞を改装したような印象を受ける。

村はずれ。

厳重に鉄条網で保護された場所に、それはある。

ほこらだ。

ほこらには、よく正体が分からない神像が安置されている。そのすぐ脇に、トーチカのような土盛りがあって、其処から地下に降りる事が出来るのだ。

土盛りの側に、粗末な木の蓋がある。

蓋を取り出すと、まるで死者の国に通じているような暗い穴が姿を見せる。先に遣いを飛ばして、中をうかがわせる。

今の時点では、安定していた。

「このような場所にあるものを、良く見つけたな」

「何しろきな臭い村ですから。 村長を中心に、一丸となっている、なんてことはないんですよ。 細かい事情はよく分かりませんけれど、この空間で好き勝手をした愚か者は、村の中でさえ歓迎されていなかったようですね」

ロープが垂らされているので、ぶら下がって降りていく。

明かりを術式でカバーするのは、リソースの無駄だ。

ポータブル式のランタンを用いる。

穴の周囲にも、傭兵達が展開してくれる。一番恐ろしい人間による襲撃に備えるには、やはり人間で対抗するのが一番だ。

二分ほど、ロープを伝って降りる。

流石に薔薇をずっと栽培するような野良作業に従事しているだけのことはある。リリスは音を上げず、ロープをするする降りてくる。この様子なら、帰り道も、特に問題はないだろう。

底に到着。

ランタンをかざして、穴の奥を探る。

遣いの者に確認させているとは言え、何か潜んでいないとは限らない。しばらく様子を見るが、問題は無い。

穴は酷く埃っぽい。

「醜悪な穴じゃ」

「何か気に入りませんか、陛下」

「分からぬか。 この穴は、本来墓地を兼ねておる。 それなのに、副葬品どころか、骨の一つも見当たらぬ」

私には分からなかったが、リリスはその辺りを、即座に見抜いたのだろう。

墓であって、死体がない。

つまり。

「漢方の類として、死体すら売り払ったという事よ。 勿論副葬品など、供える度に略奪、というわけじゃ。 死者にさえ敬意を払えぬ連中が、生きた人間に対してどう接していたかなど、いうまでもなかろうよ」

「先ほども言いましたが、ある一線を越えると、人間は地上のどんな醜い獣でさえ目を背けるほどの、愚かなおぞましい存在になりますから」

「知っておる。 恥知らずの恩知らずどもだともな」

「やれやれ、ずいぶんないいようですね」

するすると降りてきたのは、神父だ。

他に護衛は連れていない。

穴の外は傭兵達に見張らせて、中での作業は、自分で確認する、というわけなのだろう。わざわざバチカンがこんな片田舎に派遣してきているほどなのだ。リリスが何か余計な事をしないよう、厳重に見張るつもり、というわけか。

「ガールズトークはその辺りにして、目的のものは奥でしょう? 傭兵達が展開しているとは言え、あまり無駄な時間はありません。 急ぎましょうか」

おどけた口調ではあるが。

神父の目は笑っていない。この男、仕事とプライベートの区別はつく人間だ。散々ベタベタしていたリリスに対しても、いざとなったら容赦なく天罰やら制裁やらを加えることが出来るだろう。

リリスを促す。

此処で、神父と争うことに、何ら意味はない。

穴の奥は、もう少し先だ。

 

鍾乳洞の最深部に、それはある。

周囲はライトが炊かれていて、かなり明るい。地上からわざわざ線を引いて、電気を通しているようなのだ。

滑稽な事に、周囲にはセキュリティシステムの類まで付けられていた。

守る人間が、とうにいないというのに。

そして、空中に浮かんでいるそれは、まるで黒いボールに思えた。非常に安定している、過去への穴。

しかも、通じているのは、異世界だ。

リリスが荷物を下ろすと、早速辺りを調べはじめる。

地面に書かれている魔法陣は複数に重なっていて、しかも動き続けている。写真だけでは、解析できなかったのは、それが理由だ。

よほど、西洋の魔術に精通した人間が、これを作ったと言うことである。エキスパート中のエキスパートが、作成には関わっていたのだろう。

そいつがどこに行ったのか。

どこの何者かさえも。

もはや、分からない事なのだが。

「どれくらい、解析には掛かりますか」

「予定通りに進めるつもりじゃ。 余に話しかけるでない。 気が散るでな」

「そんなに厄介な魔法陣ですか?」

「見た目より遙かに面倒じゃ。 神父、そなたも少し離れていよ。 側に誰かがいると、集中力が乱される」

しっしっと、手を振って追い払う動作を、リリスがする。

そう言われるのなら、仕方が無い。距離を取るほか無いだろう。

広い空間の入り口まで後退すると、神父が話しかけてきた。

「どう思います? レイディ」

「どうもなにも、彼女は魔王とまで呼ばれる存在。 貴方たちが西洋魔術の類に詳しくない以上、専門家は此処に彼女しかいない。 違いますか?」

「いいえ、そう言うことではありませんよ。 何か妙なことをもくろんでいるように、私には思えるんですが、ね」

そうだろうか。

私には、そうは思えない。

リリスは激しい戦いの末に、ようやく自治を勝ち取った。だが、それはあくまで、割に合わないと思わせたからだ。

バチカンが本気になったら。リリスは勝てない。

あの砂漠の薔薇園は、丸ごと人質に取られているようなものだ。此処でリリスが下手なことをすれば、戦術核を叩き込まれかねない。

笑い事ではない。

人間は、そう言うことをする生き物だ。

薔薇園で働いていたのが、いわゆるリリスの子であるとなれば。リリスにとっては、さぞやつらいだろう。

つまり私の判断では、リリスは裏切る事も無い。

黙々と動いているリリスが、手をかざすと。

地面から、茨が這い出す。

決して無意味に動いている訳では無い。魔術による産物だろうが、無からいきなり薔薇を産み出している訳では無さそうだ。

或いは、あの薔薇園から、手足となる茨を呼び出しているのかも知れない。一種の召喚魔術である。

無線を取り出す神父。

何か命令をしている。多分ラテン語だ。

あまり細かくは聞き取れないが。普段のおどけた様子とは、全く違う、厳しい口調だ。何かあったとみて良い。

茨は更に増えている。

魔法陣を取り囲んだ茨が、無音のまま蠢いている様子は、滑稽と言うよりも、気味が悪かった。

神父が無線をしまう。

「どうかしましたか」

「いえ、何。 不測の事態に備えておいただけですよ」

リリスに執心している様子はあったが、此奴は猟犬だ。

いざとなったら、いつでも牙を剥く。

私にだって。

此方も油断はしていられない。勿論、手は幾つか打ってある。ただ、それは最後の最後。バチカンとやりあうには、今の崑崙は、衰退しすぎている。

洞窟の中に、茨は増える一方だ。

此方にまで這ってきている。やはり凄まじい速度で成長していると言うよりも、元ある場所から引っ張り出されている。

そのような雰囲気だった。

いばらが、空中に浮かんでいる球を包み込みはじめる。

リリス自身は、手袋ごしに、茨を何度か撫でていた。時々横顔が見えるが、やはり優しい目をしていた。

茨には、心を開いているのだ。

「このままだと、洞窟内が茨で満たされそうですねえ、レイディ」

「それだけ、解析が大変という事でしょう」

「……本当に?」

愉悦が、神父の口の端に浮かんでいる。

此奴は、何を考えている。

「もし、解析など、本当はとっくにすんでいるとしたら?」

「何がいいたいのです」

「たとえば、あの過去に行く術式を、自分のものにしようとしているとしたら、どうなのでしょうね」

そうは思えない。

リリスにとって、過去はつらいだけのもののはず。

敢えてそれを自分のものにしても、面白いとは思えない。

更にここからが重要なのだが。いわゆるタイムパラドックス問題は、既に解決されている。

術式で過去に行った神々が、身をもって実験台になった事だ。

過去には干渉できない。

過去を直接見ることは出来ても、其処で実体を持ち、行動することは不可能なのだ。何が原因かは分からないが。至高神レベルの神々でも、出来なかった事。リリスに出来るとは、とうてい思えない。

どすんと、もの凄い音。

上からだ。

来たなと、私は思った。勿論、周辺の武装組織が、仕掛けてきたとみて良いだろう。

無線を取り出す神父。

今度はラテン語ではなく、英語だ。

「敵の規模は」

「およそ百五十」

「分かりました。 空爆支援を此方から出しておきます。 防御にだけ徹していなさい」「イエッサ!」

無線が切れる。

空爆支援とは大げさなことだが。近辺の軍ではなく、もっと大規模な支援を要請できる立場にある以上、邪魔者は手段を選ばず排除する。それが神父の考え方になるのだろう。

それにしても、周辺の民兵組織が仕掛けてきたという事は。

既に綱引きの段階が、終わっていると言うことになる。

此処からは、更に攻撃が苛烈になると見て良い。

この神父が何かを考えているとしても。たとえば、この過去に戻る術式を、自分のものにするというような、浅ましいもくろみがあっても。

欲の皮で全身を突っ張らせた民兵組織が、総攻撃を仕掛けてくる中を、撤退しなければならない、という事を意味している。

当然連中は、近年安価になる一方の地対空ミサイルくらいは備えている。

此奴に、一体どんな手段があるのか。

私も、無線を取り出す。

手は、できる限り、打っておいた方が良いだろう。今のうちに、何かあった時に、対応できるようにしておく。

這いだしてくる薔薇が、一気に勢いを増した。

同時に、過去への路を作っている球体が、激しく揺動する。強烈な光が漏れだしているのは、活性化しているとみて良いだろう。

「魔王陛下?」

「どうやらトラップが仕掛けられていた様子だ。 今、対処している」

茨も、激しく噴き出しはじめる。

球体を包み込む茨。

魔王の肌に、汗が浮かんでいるのが見えた。すこしばかり、まずいかも知れない。それにしてもこの魔力、尋常な代物ではない。

この小さな空間で、戦術核が炸裂するような有様に、このままではなりかねなかった。

防御術を重ねて展開。

勿論、最悪の場合は、気休めにもならない。上にある土砂ごと、この村は過去の存在と化すだろう。

ひやりとしたのは。

隣で神父が、銃を引き抜いたからだ。

小型の拳銃。

いや、違う。何かのカスタムモデルだ。銃器に詳しくない私はよく分からないが、ワルサーに似ている気がする。

「ちょっ!」

たんと、小さな音がした。

リリスが崩れ落ちる。

魔王に直接打撃を与えると言うことは、余程に特殊な弾丸を使っているという事だろうか。

走り寄る私にも、数発弾が飛んでくる。

防御術式で、はじき返すと。神父はほうと呟いた。

「おや、思ったよりもやりますね」

「貴様っ!」

リリスを抱き起こす。

即死とはいかなかったようだが、明らかに意識がない。一体、何を撃ち込まれたのか。弾は、体の中に残ってしまっている。

手をかざしたのは、防御の術式を展開するため。

私は戦闘向きでは無いが。

それでも、防御術は、生半可な相手には負けない。

冷静に次の弾を装填している神父。此奴は、一体何を考えて、このような暴挙に及んだのか。

茨が動き出す。

一斉に、神父に襲いかかった。

だが、神父が手を振るだけで。茨が、全て枯れていく。一体どのような手品か。魔術を展開する時間はなかった筈なのだが。

それだけではない。

神父は見るだけで、茨に掛かっている術式を、解析している様子だ。これは、もはや人間業ではない。

術式に特化した神か、その眷属なら出来るかも知れないが。

一体何が起きている。

かなり乱暴だが、やるしかない。悔しいが、此奴には勝てない。いや、そもそも此奴は、本当に。

バチカンの神父なのか。

崑崙の指示で合流したとき、経歴は調べておいた。バチカンが飼っている、公認エクソシストの一人であり、猟犬と言っても良い存在。

そう判断していたが。ひょっとすると、その前提から間違っていたのではないのか。いくらバチカンの猟犬とはいえども、この能力はあまりにもおかしい。何かあるとみて良いだろう。

一か八か。

切り札の一つを用いる。地面に札を叩き付けると、術式を展開。

強烈な光が、上にある球体からの干渉を、押し戻していく。神父は顔色一つ変えない。私に向けて発砲。

二発、三発。防いだ。

しかし、四発目で、防御術式に亀裂が入る。

神父は冷静かつ完璧な正確さで、その亀裂を撃つ。防御術式が貫通され。私は、肩、腹、そして胸に、灼熱を覚えていた。

「っ……!」

「おや、頑丈ですね。 東洋系のデーモンには効きづらいか」

「これは、聖遺物、ですね」

「その通り。 よく分かりましたね」

一神教の開祖か、それに近い存在の骨か何かを、弾丸に仕込んでいると見て良い。弾丸そのものは柔らかいが。それが故に、体内で破裂して、聖遺物をまき散らすという事だ。また、弾丸を装填しはじめる神父。

此処で、ようやく。

私の術式が、完成した。

一気に、空間を跳躍する。この洞窟からの脱出を、果たす。

神父はそれを、余裕の体で見ていた。

何か、対策をしていたと言うことだろう。

私は目を閉じると、衝撃に備えた。それに、転移先でも、安全が確保されている保証は無い。

何が起きても、覚悟だけは。しておかなければ、ならなかった。

 

3、赤薔薇の悲劇

 

線が細い青年が、黙々と乳鉢で、何かをすりつぶしているのが見えた。

周囲にあるのは、原始的な化学機器類。

煮立った液体には、何かがつけ込まれている。

何となく、それがなにか分かってきた。今はほとんど見られない、薬草の一種だ。それを、独自の方法で、加工している。

「にいさま、今回のお薬は、上手く行きそう?」

「難しいね。 リリス、まずはお前の術で、解析してくれるかい?」

「分かった! にいさま、上手く行くといいね!」

鈴が鳴るような声色。

この声には、聞き覚えがある。確か、リリス。そう、そのまま、リリスと呼ばれているでは無いか。

しかし、このにいさまと呼ばれている青年は、誰だろう。

線は細いが、肌はチョコレート色。彫りの深い顔立ちからいって、間違いなく中東系の人間だろう。

それに、この行われているのは。

錬金術か。

いや、違う。錬金術に特有の、化学と魔術の中間的な雰囲気がない。これは、純粋に、化学とみて良いだろう。

私は、徐々に意識がはっきりしていくのが分かった。

これはリリスの記憶か。

どうして、私がリリスの記憶をのぞき見している。

声からして、まだリリスは幼い。兄とは、相当に年が離れていたのだろう。いや、本当に兄なのか。

この当時、人権という概念はない。

確か中東での奴隷売買は、西洋と同じで、かなり活発だったはず。勿論、将来妾にする目的で、奴隷を飼う家もあったはずだ。

ただ、青年が、此方を見る目は温かい。

リリスの声も。優しいぬくもりに満ちていた。

青年が調整した薬物を、リリスが手をかざして調べはじめる。

茨が見えた。

この頃から、薔薇が彼女にとっては、大事な存在だったらしい。小さな手。汚れを知らない、血に塗れてもいない。

「にいさま、駄目みたい」

「そうか。 薬効成分を取りだして、凝縮するのは、難しい。 やはり薬草だけでは、疫病には対処しづらい現状、どうにかして固形薬に変更できれば、それだけ多くの人を救えるのだが」

不意に、周囲の光景が変わる。

これは、幸せだった思い出の、終焉か。

辺りが、焼け野原になっていた。

檻の中から、それを見ている。

「悪魔を殺せ!」

誰かが叫んだ。

聞き慣れない言葉なのに。どうしてか、意味は理解する事が出来た。無数に集まっている男女は、悪意をむき出しにしていた。

焼け野原の中。

十字架が。いや、あれは磔台だ。

其処に、全裸のまま、兄様と呼ばれた青年が掛けられていた。既に息は絶え絶え。無理もない。

全身は傷だらけ。特に酷いのは、晒されている股間。性器を抉り取られてしまっているのが、此処からも見て取れた。

声も出せない。

恐怖からではない。

口にも出せないような酷い仕打ちを受けて。自分も、死の寸前にまで、追い込まれているからだ。

役人らしいものが来た。

偉そうにふんぞり返ったその男は、全身にきらきら光る、勲章だか飾りだか、良く分からないものを身につけていた。

「罪状を言い渡す!」

声だけは、張る。

色々と言っていた。だが、これは。要するに、形を変えた魔女裁判のようなものであるらしい。

科学者をやっていた「にいさま」は、周囲の無理解の中にいた。雰囲気からして、おそらく医師でもあったのだろう。

日々、責任感を持ち、人々のために働く、医師の鑑のような人物であったことは、疑いがない。

だが、それが却って悲劇を助長した。

無知と無理解。嫉妬と陰謀。

今でも、世の中では。自分に分からない事を言う奴は全て馬鹿というような風潮が、厳然として存在している。

知らないものを言う奴は、自分を馬鹿にしているという風潮も。

ましてや、このような閉鎖的な社会では。

恐怖と、絶望に全身を包まれてしまった幼い命は、声も出ない。

やがて、手を伸ばすことさえ出来ない状況で。見せつけられるようにして。

にいさまの体に、槍が突き刺された。

嗚呼。

悲鳴も、零れない。

涙だけが、流れる。

「淫売ぃ! 次はお前だ! お前も磔にしてやる!」

「悪魔の研究をしていた邪悪の、おぞましい性欲のはけ口! 貴様のような輩は、焼き尽くさなければ、浄化などされるはずもない!」

「焼き殺せ!」

無数の手が、檻を揺らした。

狂気に満ちた声。

檻の周囲に、積まれていく薪。藁。そして、ぶちまけられる油。逃れることも出来ない。押し潰された絶望で、もはや身動きさえ出来なかった。

助けて。

助けてにいさま。

もう死んだ上に、徹底的に辱められた者に。手を伸ばそうとする。それを嘲笑う、無数の民衆という名の。

そうか。

此奴らは。

悪魔だ。此奴らこそが、悪魔だったんだ。

人間こそが、悪魔。そんなものを、どうしてにいさまは、救おうとしたのだろう。自分は、絶対に救われないって、わかりきっていたのに。

こんな奴らのために、にいさまは何もかもを捧げたのか。

知っている。

もっと都会で、にいさまは働けた。

よく分からないけれど。学問の発展のためとかで、声も掛けられていたのだ。それなのに。

貧しい世界で、苦悩する人々を助けたいという志で。ここに来て。毎日、寝る間も惜しんで、研究をしていたのに。

火が付けられた。

笑っている声。

これで悪魔が死ぬ。

浄化されれば、流石の悪魔も、よみがえる事なんて、出来ないだろう。

愉悦に満ちた目。

本当は。此奴らも、分かっている。単に、暴虐を楽しんでいるだけ。正当化された暴力に、酔っているだけだ。

煙が、酷くなってきた。

熱い。苦しい。

だけれども。それ以上に、わき上がってくるのは。

此奴らへの、怒りだった。

 

気がつくと、周囲は焼け野原になっていた。

既に何も生きていない。

リリスは、自分の背中に、翼が生えている事に気付く。それは蝙蝠のような翼。

そうか。何となく理解できた。

自分は、悪魔になってしまったのだ。本物の、悪魔に。

くつくつと笑う。

裸のまま、歩く。服など、全て燃え落ちてしまった。辺りは、まだ燃えている。そうだ。自分で、何もかも、焼き払ったのだ。

おかしなものだ。

悪魔になってみて、分かった。ようやく、理解できたと言っても良い。人間こそ、本当の意味での悪魔。

世の中で、悪魔などと呼ばれているものは。

都合良く、造り出された。全ての悪意を押しつけるための、存在に過ぎないのだと。

渇いた笑いが漏れてくる。

にいさまと、リリスの家に行く。

徹底的に荒らされていて、破壊され尽くしていた。以前は絶対に踏むなと言われていた硝子の破片も、今の体なら、踏んでも何ともない。

研究資料も、意味を理解しない者達の手で、焼き捨てられていた。

お前達のために。

その英知を全て使っていたのに。

奴隷として売られていたリリスに、手をさしのべてくれて。本当の愛情をくれた、思いやりのある人だったのに。

怒りが、わき上がってくる。

許せない許さない絶対に許してはおかない。

お前達が悪魔と、にいさまを呼ぶのなら。この私を、悪魔とお前達が変えて、これからも嬲り続けるのなら。

絶対に、私は、お前達を。

許さない。

愛していた、にいさまを殺したお前達を。絶対に、地獄に引きずり落としてやる。

 

気がつく。

私は、リリスの体を抱きしめたままだった。全身のダメージは、まだ抜けていない。弾丸は。

まだ、体の中だ。

無言で、施術をはじめる。

術式で、一つずつ、弾丸を取り出す。やはり弾丸は潰れていて、聖遺物を体内でまき散らしたようだ。私には効きが弱いが、リリスには。

リリスはかなり熱を出していた。

魔王と呼ばれるほど強くても、人間に掛かればこの通り。

長年戦い続けて独立を得たとしても。不意を打たれれば、こうなる。これが、世界の現実だ。

神も魔も、人間には勝てないのだ。

幸い拘束はされていない。

回復のための術を、順番に掛けていく。

弾丸を摘出し終えた。

痛みは既に消してあるとは言え、体の中から弾丸を取り出す作業は、何度やっても気持ちが悪い。

辺りは。

一応、当初予定していた転送地点に移った様子だ。

だが、敵に知られていてもおかしくはない。安易に無線の類は、使えないだろう。

傷口を処置していく。

呼吸を整えながら、順番に作業。

リリスが苦しそうな声を漏らした。やはり、あの過去への穴の影響だろう。リリスの過去を、私も見てしまった。

あれでは、人間を恨むはずだ。

いわゆる魔女狩りは、決して過去の蛮行ではない。なおかつ、西洋に限定されたものでもない。そして、餌食になったのは、なにも女性ばかりではない。

西洋では特に顕著だった。勿論、中東でも蛮行はあった。

西洋の場合で言えば、教会の意向に逆らう学者は、容赦なく見せしめのために殺された。勿論、その家族も、残虐な行為の餌食になった。

一説には、世界全土で数百万人にも達するというその被害者は。

現在でも、こうして残っている。

小柄だったのも、当然だったのだろう。リリスは、幼い内に、人間としては一度死んだのだ。

徹底的に陵辱暴行されたあげくに、生きたまま焼き殺された。

恩も恥も知らない「普通の人間」達によって。

彼女の敬愛した「にいさま」は、医師として彼らを救い続けてきたはず。それが疫病か何かで、評価が一気に反転した。或いは何かしらの宗教による煽動工作だったのかもしれない。

私も、そんな光景は、いくらでも見てきた。

意識がないリリスを見ていると、その悲しみがよく分かる。

回復術を掛けていく。

あの神父が、何者で、何を考えているか。それは後回しだ。とにかく、今は。リリスを救う事だ。

回復の術を掛けていくが。まだ、意識は戻らない。

同時に、周囲についても調べていく。

最初に予定していたのは、過去への穴があった場所から少し離れた、山の小屋。以前来た時に、確保した場所だ。

神が無力な今の時代。

決して、ここも安泰な隠れ家とは言いがたい。

どうにか持ちこたえているリリスだが。それでも、全身に廻った聖遺物は、未だにリリスをむしばんでいた。

無線を使うと、探知される可能性もあるが。

このままでは、どのみちじり貧だ。無理を承知で、崑崙に援軍を頼むべきか。いや、無理だ。

崑崙も、バチカンとやりあう勇気はないだろう。

あの神父は、一体どこまで、バチカンの指示通りに行動しているのか。全くの独断という可能性もある。

だが、もしもバチカンの全面バックアップがあったばあい。

とてもではないが、崑崙では勝ち目がない。

リリスが目を開けた。

まだ喋るには到らない。

「大丈夫。 今、回復しています。 タクシーの運転手は、私が自動で転送しておきましたから、危険はないでしょう」

「……」

口惜しそうに、リリスは目を閉じる。

何が起きたのかは、だいたい分かっている様子だ。

少しずつ、バイタルが安定してきた。眠って欲しいのだが。リリスは自分でも、回復の術を使い始めた。

「聖遺物を、撃ち込まれたようじゃなあ」

「大丈夫、助かります」

「当然よ。 余も、聖遺物を撃ち込まれたのは初めてではないからな。 前にやられたのは、二百年ほど昔か」

その時は、三日三晩、生死をさまよったという。

今回は、一種の抗体があるのかも知れない。

「薔薇園が心配じゃ」

「今は、貴方の心配をしなさい」

「……あれは、余にとって、唯一の、生の証なのだ」

異様な薔薇へのこだわり。

単なる嗜好で固めたものだとは、私も思ってはいなかった。もし薔薇が好きで好きでしょうがないのなら、身の回りをそれで固めているはずだ。

ファッションとして薔薇をあしらっているものなど、いくらでもある。

それなのにリリスは、小物に到るまで、薔薇とは無縁。

やはり其処には、深い悲しみと、闇の歴史があったという事だ。

「解析は、終了していた」

「やはり。 だからこそ、神父は行動を起こしたのですね」

二重になったからか、回復の術式の効率が上がってきている。

とはいっても、まだ全身はズタズタだ。もう一発聖遺物の弾丸でももらったら、今度こそリリスは死ぬ。

「何か目的に、心当たりはありませんか」

「見当もつかん。 余も一神教との抗争から離れて久しい。 仲間と言えた悪魔達も、殆どが殺された。 情報が入ってこないから、今のバチカンにとって何がトレンドなのかは、殆ど分からぬ」

「でしょう、ね」

一度、此処から離れようと言うと、リリスは首を横に振った。

あの神父を、放置は出来ないというのだ。

自分の術式を利用したが故の怒りかと思ったが。それも、どうやら違うらしい。そうなると、過去への穴についてか。

「あの過去への穴はな、異世界へ通じているものではなかった」

「え? しかし、異様な光景が広がっていたと、遣いから聞いていますが」

「当然だ。 だって、あの穴の先にあったのは」

身を起こそうとするリリス。

押し止めて、回復術をかけ続ける。まだ、リリスは本来、絶対安静の状態なのだ。

何度か咳き込むと、リリスは、苦しげに言った。

「おそらく、ソドムとゴモラの街だ」

 

凄まじい戦闘が続いている。

欲の皮を突っ張らせた民兵組織は、波状攻撃を村に続けている様子だ。爆撃が時々行われ、民兵組織を薙ぎ払っているが、それでも怯む様子は無い。

あれだけの部隊が、確保に動いたのだ。

よほど価値があるものだと、民兵組織の連中も、気付いたのだろう。

使い捨てられる兵士達は気の毒だが。麻薬を売って、人間性を徹底的に蹂躙して稼いでいるような連中だ。

人間の命など、もとよりゴミとも思っていない。

村の側からの反撃は強烈で、文字通り民兵組織は武器の違いと練度の違いで薙ぎ払われていた。

だが、それでも怯む様子は無い。

或いは、薬物投与で恐怖を取り払われているか。

遠くからその様子をうかがう私。側に、リリスが顔を寄せてくる。

「どうじゃ、入れそうか」

「戦闘の隙を突けばと思ったのですが、見てください」

鉄条網を乗り越えようとした民兵が、光の壁のようなものに弾かれて、黒焦げになりながら吹っ飛んだ。

勿論即死だ。

神父が展開した防御術式だろう。

「茨を使って探れませんか」

「余の茨をなんと心得るか」

ほっぺを掴んで引っ張ってくるリリス。

こういう感情表現は、子供のまま大人になってしまったのだろう。本来なら可愛らしいとも言えるのだが。

彼女の場合は、事情を知っているから、痛々しくてならない。

「天仙娘々よ、あまり良くない気配がある。 あの神父め、神の光に薙ぎ払われたソドムとゴモラで、どうせろくでもない事をするに決まっておる」

「歴史への介入は、出来ないはずですが」

「介入は出来ぬが、何が起きたかは解析できる。 あまり考えたくは無いが、神の光を兵器化するとか考えているとすれば、良くない結果になるだろう」

それは、確かに嫌だ。

力衰えたとは言え、一神教から見れば不愉快な存在、「悪魔」は未だに世界に結構存在しているのだ。

一神教にして見れば、他の神話の神々も、みなそれに分類される。

もしもソドムとゴモラの、原初の一神教の神の力が、バチカンの手に落ちれば。他の宗教の神も悪魔も、根絶やしにされるのがオチだろう。

今の神々には、対抗できる力など無い。

正確には、元々のソドムとゴモラの力だったら、問題は無いだろう。

問題は、現在の技術力で増幅された場合だ。

現在、人類の力は、神々を凌いでいる。それも、遙かに、だ。

今は神々が、人類に命乞いをする立場になってしまっている。実のところ、一神教の神でさえ、それに代わりは無い。

結局の所、神父は何をもくろんでいるのか。

リリスが胸を押さえている。

傷口は塞いだが、まだとてつもなく痛いはずだ。どうにか動けるだけには回復させたが、正直私としては、動くのさえ許可したくない。

神父が、姿を見せた。

何だろう。

何だか、以前と雰囲気が違う。そういえばあの神父、人間業とは思えない術の類を使っていた。

それはリリスには話してあるのだが。

考え込むばかりで、まだ結論については、聞いていない。

「何か、指示をしておるな」

「傭兵達が、穴に入っていきますね。 ……運び出しているようですが、なんでしょう」

「……」

何となく、分かってきた。

ひょっとすると、私は神父を、過大評価していたのかも知れない。もっと遙かに俗っぽい男だったのだとしたら。

過去に干渉は出来ない。

だが、其処にあるものの、解析はできる。

そして、解析を済ませたのであれば。あの男がもし、私が考える存在だったのだとすれば、構築も可能なはずだ。

米袋のような、大きなものを担いで、傭兵達が出てくる。

トラックに、荷物を積み込んでいる様子だ。民兵組織の攻撃には、もはや神父は興味を示していないようだった。

ひときわ大きな爆撃があった。

集っていた民兵達が、根こそぎにされる。辺りは死屍累々。軽く数百人は死んだだろうが、大国のマスコミは報道さえしないだろう。

「撤退を開始しましたね」

「追うぞ」

「あの戦力をどうにか出来ると?」

「仕掛けるのは、兵力と分断されてからだ。 奴らが持ち出したものが何かは、もう見当がついているだろう」

頷く。

やはり、リリスも、気付いていたようだった。

仕掛ける好機は、あまり多くない。

「足は用意してあるか」

「ええ。 ただし、辺りには殺気だった民兵が少なからずいます。 いつ銃撃してくるか分かりませんから、気をつけて」

「余を誰だと思っておると言いたいところだが……そなたの言うとおりじゃな」

一応、小型のスクーターを隠してある。

どこだかよく分からないメーカーのものだから、いつまで動くかさえ分からない。日本製のスクーターなら信頼度は高いのだが。この状況で、そんな事は言っていられない。この隠れ家も、いつ発見されてもおかしくない状況なのだ。

スクーターの後ろにリリスを乗せて、エンジンを掛ける。

何度かエンジンを掛けて、ようやく動き出した。

ハリウッドのヒロインのように、ハーレーをライダースーツでかっこよく乗りこなすなんて事は、私には出来ない。

道服は、そもそも乗り物には向いていないのだ。

ただし、一応下り坂だから、速度は出る。

一気に坂を下る。

ただし、まだ神父に仕掛けるのは、時期尚早だ。

仕掛けるのは、護衛の戦力と離れてから。

つまり、空港で、である。

後ろの方で、誰かが叫ぶ。すぐに、銃弾の雨が、降り注いできた。やはり、簡単にはいかないらしい。

リリスに、防御の術式を展開してもらうのは酷だろう。

かといって、私も、運転するだけしか今は出来ない。二人に防御の術式は既に掛けてあるのだが、それでもRPG7の直撃をもらったらひとたまりもない。

「逃げますよ」

「ねずみのようで滑稽だな」

自嘲的なリリスの声。

魔王と大仙女が揃っていても、何も出来ない。それが、現実だ。

トラックには、およそ一トンにも及ぶ何かが積み込まれていた。あれが何を意味するのかは。

だいたい、私には理解できていた。

 

4、因縁の結実

 

空港で、ようやく神父に追いついた。

途中、スクーターを乗り捨てて。相当な苦労をしながら、ようやく此処まで辿り着いたのだ。

傭兵達は、既に給料をもらって、解散している。既に神父を守る者は、周囲にはいない。だが、あの様子は。

神父は、充分に、自分の身を守る自信があるとみて良いだろう。

神父はすぐに、歩み寄る此方に気付いた。

「おや? 無事でしたか」

「一人きりとは余裕ですね。 私達二人を相手に、勝てる自信が?」

「楽勝ですよ」

そうなのだろう。

道服はぼろぼろ。私は、既に力の殆どを失っている。民兵の集団から逃れるために、必要な措置だった。大仙女と呼ばれる私でも、今の時代の武器を相手にすると、そうなってしまうものなのだ。

リリスはもとより病み上がり。

全力どころか、二割も力を出すことなど、出来ないだろう。全力を出したとしても、聖遺物を中に含む弾丸を多数所持している神父相手に、勝てるかどうかは疑問だが。

いや、それよりも、だ。

神父は、何か、様子がおかしかった。

「実は、此処まで来てくれて安心しています。 私の死を看取ることも、貴方たちの仕事でしたから」

「……何ですって?」

「既に荷物は送り出しましたから。 私は、用済みという事です」

ぞくりとした。

此奴は、バチカンの掃除屋だったはずだ。どうして、このような。女に色目を使うことも平然としていたし、リリスにも執心していたではないか。

どちらかと言えば、戦闘力を買われた破戒僧だったはず。

それなのに。

何故、今になって。全てを神に捧げた、敬虔な信者のようなことを言い出しているのか。

何かがおかしい。

私は札を取り出して、後ずさりする。

リリスは、戦闘形態をとる事も無く、じっと神父を見ていた。周囲の人間達が、気づきはじめる。

喧嘩だ。

誰かが叫んだ。

実際には、これから始まるのは、殺しあいだが。

「お前、昨日まで一緒にいたカルミティ神父ではないな」

「ほう?」

「いつ入れ替わった」

リリスが、そんなことを言った。

私には見分けがつかない。確かに不意に性格が変わったとは思ったが。しかし、入れ替わりとは、どういうことか。

神父は、愉悦に、口の端をつり上げた。

「やはり見抜いたか、魔王リリス」

「お前、同輩だな。 だが、今生きている悪魔は、そう多くはないはずだが」

「さて、当ててみるか?」

「で、本人はどこにいる」

神父が、無言で指さすのは、空だ。

つまり、既に死んでいると言うことか。それにしても、一体いつ。凶行に走った神父の様子からして、あの穴に入るときか。

もしくは、ホテルか。

あれほどの武闘派神父を倒したとすると、一体どうやって。リリスは、まだ血がにじんでいる野暮ったい農作業着のまま前に出る。

その背中に黒い蝙蝠の翼が具現化した。

ようやく、やる気になったという事か。

時間を掛けると、警備員が駆けつけてくる。

だが、その前に。

決着を付ける。

 

神父が右手を挙げる。その手には、リリスを無力化した銃。だが、今回は、私の反応が早い。

即座に札に掛かっている術式を展開。

神父が、視線を手に向けた。

既に、その手の動きは、拘束した。喋っている間に、ずっと術式を使っていたのだから、当然だ。

間髪入れずに、リリスが、神父の顔面にドロップキックを叩き込む。

吹っ飛んだ神父が、空港のつるつるした床に、何度かたたきつけられた。その手足が、あり得ない方向に曲がる。

首も、折れていてもおかしくない。

すぐに次の札を用意。

リリスの言葉からして、あの存在が、神父と入れ替わった何者であってもおかしくない。可能な限り迅速に、勝負を付けないと危ない。

まるで悪霊めいた動きで、神父が立ち上がる。

悲鳴を上げて、駆けつけてきた警備員達が、後ずさった。

私が札を投げつけるのと、それが燃え尽きるまで、わずか二秒。だが、燃え尽きさせる事が、目的だ。

破裂した札から、粉塵が出る。

リリスが、術式を中空から投擲。

爆発。

神父の全身が、炎に包まれる。すぐに次の札を出すが。今の二連続で、ほぼ術式を使う力を、使い切ってしまった。

後、展開できる術式は一回。

炎を内側から斬り破って、姿を見せる。

白い翼。

天使か。いや。その顔は、どす黒く。目が何よりも、狂気に染まっている。

「堕天使か」

「その通り。 昨日まではあの神父とパートナーを組んでいたのですがね……」

噂には、聞いている。

既に一神教の至高神さえも、人間の管理下にあると。至高神がそれなら、天使達など、なおさらだろう。

もはや人間に使役される哀れな奴隷。

悪魔が負け組なのは明らか。何しろ、人間の方が、よっぽど残虐で非道なのだから。それでも、堕天使に、つまり悪魔に転向したというのは。

「人工的に、堕天させられたのか」

「そう言うことですよ。 私は前々から、神への扱いが酷いと人間達に抗議していましたからね。 それが彼らの怒りを買ったのでしょう」

「カルミティ神父は、お前の反逆くらい見越していたはずだ。 どうやって倒した」

「倒したなんて、言っていませんよ」

堕天使が、私を見る。

瞬時に伸びた手が、私の首筋をかすめていた。

上空から、隕石が落ちるように、踵落としを叩き込むリリス。片腕だけで受け止めてみる堕天使。

床に、クレーターが出来る。

だが、その足に。茨が絡みつく。

地面にへばりつくようにしていた私が、最後の札を投げつける。それは、堕天使の腹に、直接張り付いた。

術式防御を無効化するものだ。

リリスが翼をはためかせ、地面すれすれまで降下。

そのまま、地面と水平に加速しながら飛ぶと、踏み込みつつ、札に対して掌底を叩き込んだ。

防御を完全に貫通した一撃だ。

文字通り、致命の技となった。

堕天使の背中から、背骨と、内臓が噴き出す。

悔しそうに、堕天使は。

笑いながら、溶けて消えていった。

此奴は倒したが。

悔しいが、戦いそのものは負けか。

飛行機が、出るのが見えた。

荷物を積んでいた飛行機だ。どうやら、全てが、神父のもくろみ通りに進んでしまったらしい。

軍が出てくる。

私は、呼吸を整えながら。力を使いすぎて、片膝をついているリリスの手を引いた。

「もうどうにもなりません。 引き上げますよ」

「口惜しいが、他に方法はあるまい」

吐き捨てるリリスの手を引いたまま、私は。

ここに来る前に展開しておいた、空間移動の術式を発動した。力は残っていなくても、既に練っておいた術式を発動させることくらいは、出来る。

空港の外に、空間跳躍して出ると。

私は、タクシーに向けて、手を上げた。

ぼろぼろに傷ついた私とリリスを見て、タクシーの運転手はぎょっとしたようだが。札束を見せてやると、大喜びで車を出した。

 

国境線が封鎖される前に、隣の国まで出て。

其処から、空港を使って、リリスを砂漠のオアシスへと送り届けることにした。今は、フェリーに揺られて、海の上だ。

あれから崑崙に連絡を取ってみたが。

バチカンは、知らぬ存ぜぬだという。まあ、そうだろう。

更に、リリスも砂漠の自宅へ連絡を入れていた。

そちらが攻撃されている様子は無いと言う。神父に好き勝手されたが、まあ、生き延びただけでも良かったと言うことだ。

崑崙と連絡を取り合う内に、進展があった。

ベッドで寝ているリリスの部屋に入ると、私は携帯を見せた。

「どうやら、バチカンの公式発表が出たようですね。 邪悪な堕天使が、神父に化けたあげく空港で大暴れして、バチカンのエージェントに倒された、という内容のようです」

「巫山戯た話だ。 私達が、バチカンのエージェントだと? あいたたた!」

「まだ寝ていてください。 無理をしすぎです」

身を起こそうとするリリスを、無理矢理寝かせる。

回復の術でだいぶ良くなってきてはいる。だが、無理をして全開で戦闘したのは事実なのだ。

今はそのフィードバックで、酷いダメージが体中に出ている。命に別状は無いとは言え、出来れば常時眠っていてほしいくらいなのである。

安フェリーだが、どうにか個室は確保できた。

バチカンも、今回の件で、目的のブツが確保できたので、由としているのだろう。後から崑崙の調査員が入ったところでは、過去への穴は綺麗に消されていたそうだ。私の目的そのものは。あまり良い結果ではないにしても、達成されたことになる。

「これで、両者手打ちと言うことになるでしょうね」

「バチカンは目的のものを手に入れ、なおかつ用済みだった道具を処分出来た。 その過程で、邪魔だった崑崙の仙女も余も殺すつもりだったが、そこまでは上手く行かなかった、ということか」

「そうなります。 時に……神父は何を持ち出したんでしょう」

「聖遺物に決まっておろう」

リリスは不快そうに吐き捨てた。

滅びたソドムとゴモラの街を解析して、塩になった人間の分析を進めた。その結果、膨大な聖遺物を作り出す事に成功した。そんなところだろうと。

「余を撃った弾丸が、一発あたり日本円で五十万ほどじゃ。 バチカンは「子」の遺体や関係者の物品を多数保有しており、最近ではクローンを利用して増やしていると聞いておるが、それでも聖遺物そのものは値上がりする一方らしくてなあ」

「私も、単にお金が目的だったのではないかと、途中から踏んではいました」

「聖遺物は、今でも神や悪魔を狩るのに、大きな力を発揮する。 西洋圏でなくても、ある程度効くことは実証済み。 あれだけの膨大な聖遺物、さぞや大金に化けることであろうて」

それなら、民兵を散々殺したり、近代兵器で爆撃したりしても、釣りが来ると言うことか。

私は嘆息した。

もはや、神も悪魔も。人間の欲には、勝てない時代が来ている。

あの神父と今度会ったら、顔面に拳の一発も叩き込んでやらなければ気が済まないが。まあ、今は。体を休めるしかないだろう。

「そうそう、こんなものを見つけました」

「ん」

リリスに手渡したのは、珍しい薔薇の種だ。

この近辺にしかない固有種らしく、園芸家の間でも高値で取引されているという。地元なので、そこそこの値段で手に入れることが出来た。

リリスはそれを見て怒りを収めてくれたようで、目を細めて、優しげに種の袋を撫でている。

私は、ベッドの横に座った。

目を合わさないまま、リリスは言う。

「そなたは、何故人間を信じている」

「私は七人兄妹の末っ子で、幼い頃から奉公に出されましてね。 まあ、体よく奴隷に売り払われた訳です。 ただ……」

「ただ、何だ」

「その奴隷先で、良くしてもらったんですよ。 もう千年も前の話ですけれど」

中華圏では、奴隷の社会的地位が、西洋圏よりも高かった。

ただ、それだけが理由ではない。

奉公先で、私は人間が持っている、良いものについて、触れることが出来た。それが逆転する前に、いろいろな理由で、天女になった。

だから私は、人間の綺麗な部分も、汚い部分も知っている。

悪魔や神々と、人間の間の存在にも、徹することが出来る。

「貴方にとって、薔薇は何ですか」

「余にとっては、絆こそ、薔薇よ」

「……」

恐らくは、あの「にいさま」と呼ばれていた科学者が、大事にしていたものか。

或いは、自分の使命とも考えていた医療とは別の、単純な趣味で育てていたのかも知れない。

中東は、薔薇の本場だ。

特殊な品種改良をした薔薇が、周囲にはたくさんあったのだろうか。悲劇の日に、全て焼かれてしまったのだとしたら。

今も、リリスが、薔薇に固執しているのも、分かる気がする。

もしも、慕っていた相手の趣味が薔薇だったのだとすれば。

きっと、薔薇を作ることで、その人のことを思い出す事が出来るのだろうから。

人間に、彼女の行動を責める資格は無いだろう。

「それで、いつまで側にいるつもりだ」

「薔薇園までは、付き添います」

「そうか……」

感謝すると、リリスは言った。

この孤独な魂に、少しでも救いが得られると良いのだけれど。しかし、きっと人間には、それは無理だろう。

私は小さく嘆息すると、膝を抱えて、身を縮めた。

世の中は、理不尽の塊だ。

そして今も。

理不尽は、小さな命を踏みにじり。犠牲者を出し続けている。

人間が自己正当化を続ける限り、その悪循環は止むことがない。そして、人間が技術力を高めることはあっても。

その精神を進歩させる傾向は、今のところ見られない。

船が、間もなく港に着く。

此処から、飛行機に乗って、あの薔薇園がある砂漠へ戻ることになる。ほぼ一日がかりだが。

あの薔薇園は、ひょっとすると。

墓地なのかも知れない。

いや、ある意味、その推測は間違っていないだろう。

淫蕩の魔王とされたリリスは。

今でも、慕った相手の墓を管理しつづけている事になる。そして、それは。これからも終わることがない、悲劇の鎖の一端だ。

やりきれない。

リリスの孤独は。今後も、消えることが無い。

私に出来るのは。ただ、彼女を。家に送り届けること。

それだけだった。

 

(終)