闇の果てに続く渦
序、お店のあり方
店を出ると、ぐっと寒くなる。
昔はこれがつらいときもあったけれど。
今はどうしてだろう。
正直、水着で歩いていても、平気なように思える。体の頑丈さが、生半可な人間とは違ってしまっているのだ。
振り仰ぐ先には。
二階建てに見えるショッピングビル。
大好きな悪魔達が住み着く、伏魔殿。
猪塚篠目は、今もまだこの悪魔達の経営する店で働いている。勿論、家族のことも大事に思っているけれど。
いつの間にか、此処がとても心地よい場所になっていたのも確かだ。
編み物を通じて、人間性を得ることも出来ている。
それなのに、どうしてだろう。
年々感覚は鋭敏になり、身体能力は上がる一方。おもしろがって技を仕込んでくるアモンによって、人外に改造されている、という事はないだろう。
元から自分には、こういう素質があって。
そして、それが場所によって伸びているに過ぎない。
最近は、悪魔の力も、正確に測れるようになってきた。別に特別なことをしなくても、気配で分かるのだ。
フルレティにはもう勝てる。
相手が全力でも、真正面からでの戦いなら遅れは取らない。
アモンにはまだまだ勝てない。
戦ったら、おそらく五分ほどで叩き潰されるだろう。
封印を受けた悪魔と、そうでない者の差。
ましてやアモンは、魔界でも指折りの猛者だと聞いている。強くなればなるほど力の差が開くように感じるのも、無理はないだろう。
家につく。
里親の事は、最近は母さんと呼べるようになってきた。
料理もお菓子ばかりでは無くて。
地に足がついた、栄養があるものも、作れるようになってきていた。
人間と悪魔の間を行き来する日々。
とても心地が良いけれど。何となく、分かるのだ。私はもうそろそろ、戻れなくなりつつあると。
里親が降りてくる。
「今日は遅かったね」
「正社員だからね」
「そうかい」
体が衰えはじめているのが分かる。
歩くのもかなりたどたどしい。
階段にはてすりがついているのだけれど。そろそろ二階には上がらないようにと、言う必要があるかもしれなかった。
二人で編み物をするととても嬉しそうにするので、ソファに座って一緒にやる。セーターは作ってもらったけれど。
本当のところは、もういらない。
体が強くなりすぎていて、この程度の寒さでは、ダメージにならないのだ。はっきりいって、今の身体強度なら、雪山に登っても確実に生還できる。
ヒグマくらいなら、素手で瞬殺可能だ。
「今度のボーナスが出たら、温泉に行こうか。 お店の人達も、誘おうと思ってるんだよ」
「そうかいそうかい」
温泉旅行には、何度か一緒に行った。
一度はゴモリも一緒に来た。
里親が眠っている間に、診察もして貰った。ただ、人間の世界の病は出来るだけ人間で直すようにと言われたが。
健康診断には、まめに行って貰っている。
そろそろ、老人ホームにいてもおかしくない年だ。
ゴモリが見てくれたときには大きめの病巣は無かったけれど。いつ、体内に病魔が巣くうか、知れたものではない。
「お前が早く結婚してくれれば、安心できるんだけどねえ」
「良い男がいないよ」
「孫の顔がみたいねえ」
そう言われると、苦笑いするしかない。
篠目の基準では、男子は顔では無い。財力も、あまり気にしない。ただ、ある程度の強さがあってほしい。
これが難題だ。
この仕事をしていると、強い相手とは何度か巡り会ってもきた。色王寺という大男に到っては、最終的に人間を超越もしてしまっていた。
だが、この男なら、結婚したいとは、あまり感じないのだ。
既に二十歳を過ぎて、大分経つ。
過酷な労働を強いられて、気がつくと結婚適齢期を大幅に過ぎてしまっているような女性と。
給料をそれなりにもらってはいるけれど。
自由に過ごしている私。
どちらが幸せなのだろう。
ある程度妥協すれば男も見つかる。里親がこの様子では、早めにそうした方が良いかもしれない。
だが、実の両親の悲劇もある。
あまり考え無しの結婚をするわけにもいかなかった。
編み物が終わる。
里親を眠らせると、軽くトレーニングをする。最近は、外を走り回らなくても。座禅して力を練るだけで、体の隅々までを調整することが出来るようになっていた。それが良いことなのかどうかは。
正直、篠目にも判断がつかなかった。
職場に出る。
不機嫌そうなフルレティに挨拶すると、一旦三階に上がった。仕事前に、挨拶をしておくのだ。
アモンは相変わらず上機嫌そうにお菓子を作っている。
だが、今日は。
珍しい事に、アガレスから話しかけてきた。
「猪塚。 大事な話がある」
「どうしたの?」
「店を、お前に譲ろうと思っている」
「へあ?」
店といっても、此処じゃない。
偽装に使っている、下の新古書店とゲーム屋のことだと、アガレスは付け加えた。わざわざ言われなくても、それくらいは分かる。
この店はアガレスの生命線。
人間で言うと食道に等しい。
其処を人間に譲るはずがない。
「実はな、近々店の位置を移そうと考えているのだ。 そこで、入り口となる店舗を、別に変えようと思っている」
「どうしてまた」
「少し此処は知られすぎてな」
確かに、最近は下の店に、都市伝説から場所を割り出して来る冷やかしが増えてきている。
アガレスがどれだけ頑張っても、もう無理なのだろう。
「もう、会えなくなるの?」
「いや、この店自体は入り口として重要だ。 だから、お前に預けて、なおかつ店番としてここに来られるようにもする予定だ」
アガレスが指を鳴らすと。
もの凄く可愛い女の子が、奥から顔を見せた。
何となく分かる。
ゴモリが小学生くらいまで若返ったら、ああなる。なんというか今の余裕があるお姉さんとは違って、内気で気弱そうだ。
思わず飛びつきそうになるが、我慢。
多分力を込めてハグしたら、壊れてしまうだろう。
「店そのものの管理はお前に任せる。 店員の管理についても自由だ。 店の在庫も、好きにしていい」
「うーん。 そうなると、ダンタリアンさんが残って欲しいかな」
「良いだろう。 実は彼奴も、残りたいと言っていたのだ」
そうだろう。
なにしろ、あの怠け者だ。
店にもたまにふらっと来るくらい。今更、根城の場所を変えようとは、思わないのだろう。
後、幾つか細かい話を聞く。
そもそもこの三階は、物理的に店の二階から上がっているわけでは無いという。それは何となく分かっていた。確かに何も無いお空に、透明な店があるわけではないのだ。実際、正式な手続き。つまり非常階段から三階に上がると、屋上に出る。
そうやって屋上に不法侵入したアホを、何回か捕まえたから、間違いない。
ちびゴモリが、魔術で今まで通り、此処と下の店をつなぐという。
合言葉についても、使い方を教わる。
「お前には魔術の素養は無いが、言われたら分かるように手はずは整えておく」
「そっか。 それだけ、私を信用してくれるんだね」
「ああ。 これからも頼むぞ」
アモンに呼ばれた。
奥で一緒にお菓子を作る。
並んでお菓子を作りながら、今の件について聞くと。アモンは相変わらずのアルカイックスマイルを浮かべたまま言う。
「アガレス様も、もう少しゆっくりしたいんでしょうね」
「今、忙しいの?」
「封印を受けてからは、食事をするのがかなり大変なんですよ。 だからかなり厳しく、餌を選別しているんです」
そういえば、思い当たる節がある。
少し前に、フルレティの関係者が店に来たけれど。その時、かなり不機嫌そうに、口をへの字にしていた。
「でもそれなら、どうしてお店を増やすの?」
「それはね」
アモンが、すっと目を細める。
隠しきれない歓喜が漏れる。それだけで、普通の人間は、恐怖で失神していたかも知れない。
かくいう篠目でさえ。
震えが来るのを、実感したほどだ。
「どうやら、封印を解くための方法が、見つかるかも知れないから、ですよ」
1、怪人の宴
まだ二十代なのに、店長か。
感慨を感じてしまう。
しかも、軽食屋などの、名ばかり店長では無い。ある意味この国にマークさえされている大物悪魔が、財産を任せてきたという事を意味している。
膨大な本は、知的財産でもある。
ゲームだってそうだ。
猪塚篠目は、自分用に貰ったデスクにつくと、どうしたものかなと頬杖をついた。
預けられた部下は、ちっちゃなゴモリだけでは無い。
ダンタリアンは暇そうにはしているけれど。猪塚を馬鹿にはしないで、以前より多めに職場に顔を出すようになったほど。
ついでにいうと。
里親も、時々店に顔を出してくれるようになった。
ただし、禁じられている事もある。
店員を雇うことだ。
特に人間の店員は、絶対に雇わないようにとも、言われていた。
まあこれに関しては、無理もない。
一階で仕事をしていると、不意に来たのはフルレティである。不機嫌そうにしているのは、何故だろう。
「あ、久しぶりです」
「ああ」
「どうしたんですか、こっちに顔を出して」
「少し手伝ってくれないか」
頷くと、二階へ。
留守は勿論ある。預けられた部下に任せるのだ。
ボットとでもいうべきなのだろうか。
自分とよく似た姿をして。無難に接客が出来る、影みたいな存在。人間には、普通に人間に見える者。
それが、全部で七体いる。
里親には、自分には見えないように、暗示を掛けてあるから大丈夫。
この七体を、交代でシフトを組ませて、仕事をさせるのだ。
二階のバックヤードに入ると、六畳間の和室、本の山の間にちょこんと座っていたちびっ子ゴモリが、篠目を見上げてにっこり笑う。
「どうしたの、おねえちゃん」
「アッチのお店に行きたいんだけれど」
「うん、わかった」
虚空に、小さな指で円を描くちびっこゴモリ。
不意に、周囲の光景が歪むと。
いつの間にか篠目は、古ぼけた本の山の間にいた。同じ本の山の中でも、種類が全然違う。漫画中心だった向こうと違って、此方はお堅い本ばかりだ。
此処が、新しい職場。
首都圏から少し離れた場所にある、新古書店だ。同じように二階建てで、ちょっと古め。ただし面積は前より広い。
アガレスは人間世界向けの財産も、そこそこに持っている。
その財産を使って、少し前に買い取ったらしい。
窓から外を見ると、富士山が見える。白い雪を被った富士の山は、とても美しくて。霊峰と呼ぶに相応しかった。
少し遅れて、フルレティが姿を見せる。
「それで、何を手伝えば良いの?」
「来れば分かる」
バックヤードから出る。
うんざりした様子のゴモリと目があったので、黙礼。
かなりの客が来ていた。
特需だ。
それはそうだろう。丁度首都圏から微妙に離れた場所に、都会でも滅多に無いような、マニアックな品揃えの大型店が出来たのである。物珍しさに、足を運ぶ客がたくさん出ても不思議では無い。
二階はゲーム屋になっていて、一階は本や。
この辺りは、本家と構造が同じだ。
「少し前までは、アモンが手伝ってくれていたほどだ」
「うちにおいている分身を使ったら?」
「あれは融通が利かない」
少し曲がった階段。
途中にはゲームやアニメのポスターがたくさん貼ってある。強面のフルレティも、何かのアニメの広告らしいエプロンを着けていて。それが何というか、とてもシュールな光景を造り出していた。
一階に下りてみて、すぐに分かった。
何人か、田舎の不良がいて、好き勝手をしている。
一角の本に座って、げらげら笑っていて。煙草まで取り出して、吸っているほどだ。
「ブッ殺してこようか?」
「そうしないために、お前を呼んだのだが」
「空気を作らないと駄目だよ」
そう。
こういう連中が、自然に追い払われる空気。
以前の店には、それがあった。多分アガレスやアモンが、無意識のうちに作り上げていたのだろう。
まだこの店にはそれがない。
とんとんと軽く喉の下を叩いてから、篠目は。深呼吸して、人には出せない音域の声を出した。
少し前から、これが出来るようになった。
何も魔術的な行動では無い。ある年代の人間には聞こえる不快な音。それを、喉を使って造り出しているだけだ。ただ、この音に暗示も仕込んでいるので、普通の人間に出来る技では無いが。
不意に、不良達が黙り込む。
そして、いそいそと出て行った。
「本を片付けて置いて」
「お前は?」
「ああ、お仕置きしてくるから」
慌てて出て行った不良共を、外で捕捉。
勿論顔なんて見せない。
裏路地に引っ張り込むと、其処で半殺しにして。そして顔面を掴むと、暗示を叩き込んだ。
二度とこの店に入るな。
お前らの友人にも伝えろ。
ここに入ったら、こんなものでは済まさないぞ。
ああ、この怪我は、お前達が自分たちで付けたものだってことにしておけ。
恐怖で失禁しながら、田舎の不良共は、こくこくと頷く。目は完全に焦点があっていない。
当たり前だ。
自分が強いと思っていたペットの子ウサギに、野生の獅子が本気の怒りをぶつけたも同然なのだから。
今の篠目は、腕力だって此奴らを束にしたよりある。
その気になればコンクリの壁を砕ける篠目に、田舎の不良など武力を用いて相手にする価値も無い存在だ。
だからこそ、こういう対応が取れる。
昔とは、違う。
仕事が済んだので、店に戻る。
不良共が消えて、後片付けも済んで。店には、また平穏が戻っていた。フルレティはため息をつく。
「あまり手荒にはしていないだろうな」
「私、昔に比べれば、凄く優しくなったんだけどなあ。 昔だったら金的潰して、二度と子孫が作れないようにしていたよ」
軽くレジを手伝いながら、そんな事を話す。
客が多いだけあって、かなりレジは忙しい。
作業を手伝いながら、あの手の輩を寄せ付けないコツをレクチュア。昔強さを求めて、いろんな不良を半殺しにして来た篠目だから。その辺りのコツについては、熟知していた。
適当に客がはけたところで、本店に戻る。
二階のバックヤードから、ゴモリに送って貰うと、もう根城だ。
忙しいときは、バックヤードに布団を敷いて、眠ることも増えてきた。ちびっ子ゴモリは寒いのが嫌いらしく、一緒に寝たいとせがんでくることもある。篠目としては、嬉しい限り。
抱き潰さないように、手加減するのが大変だけれど。
翌日、「客」が来た。
最近は、一目でそれがわかるようになっていた。
十代の後半。
恐らくは高校生だろう、地味な女子だ。何というか、造作は良いのだけれど、極端に化粧っ気がない。髪の毛も短く切っていて、自分を飾る楽しさを知らないようだった。
かくいう篠目も、あまり自分を飾ることは熱心では無いけれど。
ゴモリのように、魅力の引き出し方を知っている者も側で見ているので。一応の知識はある。
右往左往していた彼女は、二階に上がっていった。
条件さえ満たしていれば、ちびっこゴモリに出会えるようになっている。
そう、アガレスが店に細工したのだ。
小さくあくびをすると、しばらく放置。
やがて、彼女は降りてきた。アモンが側にいると言うことは、アガレスに会う事が出来たのだろう。
明らかに正気を失っている彼女を、アモンが連れて行く。
客は見向きもしない。
アモンが見えないように、暗示を掛けているのだから当然だ。
ほどなく、アモンが戻ってきた。
外での仕事も終わったのだろう。
軽く黙礼する。
アモンが引き上げていった後の階段は、どうしてだろう。妙に冷え込んでいるように思えた。
上位の悪魔ともやり合えるようになった篠目なのに。
仕事の時のアモンは、ぴりぴりしていて。時々、背筋をひやりとさせられる。
アモンにとっては、大事なのはアガレスだけ。
アガレス以外のことは。例え自分であっても、どうでも良いこと。
それを知っていなければ、二重人格か何かでは無いかとさえ、思ってしまうかも知れない。
事実長生きした悪魔の中には、人格が分裂する者も珍しくないとか、ゴモリには聞かされている。
仕事が終わる。
新古書店は深夜まで営業することが多いけれど。
此処は分身を使っていることもあって、夕方には上がる事が出来る。残りの作業は、分身にやらせる。
どうしても対応が出来ない案件が来た場合は、携帯に呼び出しが来るけれど。
いままで来たことは四回だけ。
更に言うと、その四回も、後にアガレスが改良を加えたので。今は対策が出来るようになっていた。
二階から、ちびっ子ゴモリに三階へ転送して貰う。
「今日は、お客さんもう来ないの?」
「ううん、まだちょっと分からないかな」
「んー」
「我慢して。 後でアモンさんが、お菓子をくれるから」
大人っぽくて健康的な色気を醸し出しているゴモリも。子供のころは、こんなに愛らしい性格だったのか。
いや、確かゴモリは最初から悪魔だったと聞いている。
だとすると、これはきっと、ゴモリが想像して作り上げた、子供の自分なのだろう。こんなに可愛ければ良かったという願望が、込められているのかも知れない。
だとすればそれはそれで、可愛らしい話だった。
三階に上がると、アガレスがぐったりした様子で机に突っ伏していた。
食事の後も、仕事をたっぷりさせられたらしい。
アモンと並んで、お菓子を作る。今日はクッキーを焼いている。クッキーはかなり奥が深いお菓子で。きちんとプレーンクッキーを焼けるようになった後は、色々と応用が出来る。
生地が焼き上がっていく。
オーブンから漏れる良い香り。
アモンは、既にアルカイックスマイルを浮かべる状態に戻っていた。
「今日のお客さんは?」
「自分探しをしたいって子でしたよ」
「自分探し……」
「で、アレをあげました」
顎でアモンが刺したのは、人気アニメをもしたプラモデルだ。ただし、ディープなマニアが、金型から自分で作ったものらしい。
当然オンリーワンの品。
「また、随分マニアックなものを」
「プラモというのは、極めれば極めるほど先がある、結構奥が深い代物なんですよ」
クッキーが焼けたので、取り出す。
本来の時間よりかなり早いけれど。これは多分、アモンなりアガレスなりが、短縮できるよう、オーブンに魔術を掛けているのだろう。
ハート型のクッキーを冷ました後、アガレスの所に持っていく。
顔を上げたアガレスは、口を三角にしながらも。クッキーを掴むと、礼を言った。
「美味そうなクッキーだ。 いただくぞ」
「どうぞ」
実際良い香りだけれど。
最近は、アモンが作ったお菓子を、食べる事はあまりない。というよりも、食欲が露骨に減ってきている。
里親の前では、以前同様に食べているけれど。
気がつくと、昼食を抜いていたりもする。
多分、篠目の体は。
人間の領域を超え始めている。その影響が、食欲というものに、出ていると見て良いだろう。
アガレスが人間的な意味での食事をしているのを横目に、アモンに稽古を付けて貰う。軽く型どおりに体を動かした後、実戦形式で稽古をする。アモンはかなり手を抜いているけれど。
それでも、篠目ではとうてい及ばない。
魔界でも上位に食い込んでくる使い手で、その上封印を受けていないのだ。
しばらく稽古をした後、アモンが戦闘態勢を解いた。
稽古に使った空間は、四畳半程度の空き。
つまり、其処から出ていないのだ。
力を練ると言う事は、コンパクトに出来る事を意味している。下手なうちは、もっと広い空間が必要になったけれど。
今ではこれで充分である。
軽く指摘を受ける。
その後、アモンが実践をしてくれた。なるほど、確かに歴戦を重ねた戦士の動きは、参考になる。
稽古の度に、力が離れていくような錯覚さえ受けるけれど。
しかし、自分の力が上がっていることも、よく分かる。だからこれでいい。
「そういえば、アガレス様の封印解除の話はどうなっているの?」
「ゴモリが解析中です」
「上手く行きそう?」
「膨大な闇が、集まってきていますから。 きっとどうにかなりますよ」
アモンは魔術に関してはあまり力がないと聞いているけれど。本当に大丈夫なのだろうか。
せっかくなので、ゴモリにもあっていく。
ゴモリは相変わらず、ゲームの販売という点では四苦八苦しているようだったけれど。それでも、どうにかなれない店員を続けていた。
上がる前に、ちょっとだけ手伝っていく。
ゲームの扱いは相変わらず危なっかしくて、見ていて不安になる。
「助かるわ、篠目ちゃん」
「いえいえ、ちびっ子ゴモリちゃんには癒やされてますし」
「あの子、可愛いでしょう」
「ええ、かあいーです」
女子から見て可愛い子供を作ったのだ。同じ女子から見て、可愛いのは不自然では無い。一方、男子が見て可愛い子供というのは、人形じみている場合が多い。まあ、表層的なかわいさを求めているのだろうから、当然だろうか。
「どうですか、上手く行きそうですか?」
「うーん、どうかしらねえ」
手早くレジを終える。
かなりマニアックなゲームを、いかにもな容姿の大学生が買っていった。12000円もしたのだけれど。
バイトでこつこつ貯めたお金か、或いは親のすねをかじったのか。
それは分からない。
ただ、とても大事そうにしていた。余程欲しいゲームだった、という事なのだろう。
「実験のための材料は揃ったという所よ。 ただしアモンちゃんには悪いけれど、上手く行く保証は無いし。 確率も、あまり高くは無いわね」
「そうですか」
「それに、アガレスちゃんはね。 元々戦闘能力も低かったし、封印を解除しても、あまり強くはならないでしょうね。 性格的にも昔からあまり変わってはいないし、何がおかしくなるという事はないわよ」
何となく、言葉の意味は分かる。
アモンは願っているのだ。
同類になってくれることを。世界で一番大事なアガレスが、自分と同じ、狂気の怪物に変わってくれることを。
だけれども、現実問題として。
アガレスはきっと、アモンと一緒にはならない。
「そろそろ戻ります」
「ああ、これこれ。 お母様にお土産をどうぞ」
「有り難うございます」
手渡されたのは、心がこもった温かいポトフだ。
ゴモリは何度かの温泉旅行で、篠目の里親とすっかり意気投合。今では料理を交換したりする仲になっている。
彼女は元々人間に対して極めて友好的だけれど。篠目の里親ほど、仲良くなった人間はいないという。
事情はよく分からないけれど。
ゴモリがそう思ってくれるなら嬉しい。篠目も、ゴモリのことは大好きだからだ。
封印解除は、上手く行くのだろうか。
よく分からないけれど。
上手く行っても、何も変わらないで欲しい。そう、思う心は、確かにある。
根城に戻ると、軽く肩を揉んでから、家に帰る。
力が増している。それに伴って、嫌でも強くなっている。自分だって、いつまでも同じままではいられない。
体が変わってきていることが分かる。
きっと、年を取るのも相当に遅くなっているし、このまま行くと人間を止めて悪魔か天使か、いずれにしても今とは違う存在になるだろう。せめて、里親が生きている間は人間でいたい。
一緒に編み物をするのは好きだし。
今では本当の親だとも思っているからだ。
だが、その願いは叶うのだろうか。
アガレスの所に来た客と、その顛末の話は、アモンが時々話してくれる。何もかも上手く行く奴は殆どいないという。
完全に失敗して、首をくくる奴。
上手く行くけれど、大きな闇を心に抱えてしまう者。
いずれもが、苦しみを抱えながら、生きていくことになる。だけれども、いずれもが、後悔だけはしていないとか。
後悔、か。
家に着く。
里親は元気だ。最近から体にガタが来ているから、少し不安な日もあるけれど。ゴモリからもらったポトフを見せると、随分喜んでくれた。
「彼女のポトフ、美味しいのよねえ」
「温め直して、食べようか」
「そうしようかねえ」
ゴモリが、きっと喜んでくれるだろう。
そう思って、二人でポトフに、舌鼓を打った。
2、境界に立つ
本格的に、体の具合がおかしくなってきた。
睡眠が必要なくなってきているし。
何より、味が分からなくなってきたのだ。
篠目の体は、かなりリミッターを掛けないと、日常生活も危険になってきている。握手なんかしたら相手の手を握りつぶすし。攻撃なんかしたら、瞬間で相手は赤い霧になってしまう。
以前、人間の領域を超えたことに苦しんだ、色王寺という男と関わる事があったけれど。篠目も、同じ苦しみを、持つ事になったらしい。
店を貰ってから、一年。
本当だったら、そろそろ分別がつくころの筈の篠目なのに。相変わらず心は子供っぽいまま。
そして、力だけが奇形的に増えていく。
人間を止める事に、それほど抵抗は無い。
ただ、里親を此処に置いてはいけない。人間と悪魔は、どうやったって交わることが出来ない。
それはどうしても、自分の体と、強さを把握していけば、分かるのだ。
幸いにも。色王寺と違って、篠目は自分に対する制御がある程度出来る。これはおそらく、相当な修羅場を昔からくぐってきているから、だろう。
色王寺は元々戦闘が好きでは無かったようだけれど。
篠目は逆。
戦闘は大好きだ。
だからこそに、ある程度力は抑えられる。どうすれば何が起きるか、完璧に把握しているからだ。
自分を戦闘マシーンと化せば。
強さも、部品として客観的に把握できる。
そう言う意味で、篠目は昔から、普通の人間からは外れてしまっていたのかも知れない。だけれども、それを悲しいと思った事は無い。
店に出て、接客をする。
この店の周りは、不良も結構うろついているのだけれど。
めぼしいのは篠目が全部一度半殺しにして、暗示を掛けているので、店には絶対に近寄らない。
警察も不審に思ってはいるようだけれど。
篠目にとっては、この程度は余技。
もっと弱いころ、田舎の夜道で不良を襲って半殺しにしていたころに比べれば、制約も小さい。
人間を超越したのか止めたのかは分からないけれど。
それで出来る事も、以前よりぐっと増えてきている。
応対をしているうちに、また「客」が来た。
五十代の、初老の男性だ。非常に上品で、紳士的な雰囲気である。シルクハットにステッキでも、似合うかも知れない。
しばらく本を目を細めて見つめていたけれど。やがて、二階へと上がっていく。ゲームなどには縁が無さそうな雰囲気には見えたけれど。
やがてアモンと一緒に降りてきた。
彼は、何を貰ったのだろう。
後で話を聞いてみるとして、アモン達を見送る。客の流れは一瞬絶えたけれど。すぐにまた忙しくなった。
昼になったので、分身に任せて、少し休む。
バックヤードに行くと、退屈そうにしていたちびっ子ゴモリが、ゲームをせがんできたので。
一緒にジェンガをした。
ちびっ子ゴモリは、テレビゲームよりも、こういうレトロなゲームの方が好きなようなのだ。
トランプをしたり、類似のカードゲームをしたり。
力の調整が大変だけれど。
その勉強にもなる。
何しろ普通の子供は、今の篠目にとっては、柔らかい豆腐のようなもの。ちょっと力加減を間違えると、すぐに腕を千切ったり、頭をもいだりしかねない。
「ささめお姉ちゃん、もっとわたしの仕事こないの?」
「それはなかなかね」
ひょいとブロックを引き抜く。
ちびっ子ゴモリは、魔術以外は殆ど普通の人間の子供と同じなので、ジェンガはそれなりの腕前だ。
だからかなり手加減してあげる。
二回に一回くらい、相手に悟らせないように負けるのは難しいけれど。
力の制御が出来ないとどうなるかは、色王寺という前例を見ていて知っている。だから、遊んでいながらも。篠目は必死だ。
三回やって、二回勝たせてあげると。
凄く上機嫌になったちびっ子ゴモリ。一緒にお菓子を食べていると、丁度時間が来た。残りのお菓子も全部あげる。
もう、必要ないのだ。
「じゃ、お店に行ってくるね」
「ねえ、ささめお姉ちゃん」
「んー?」
「ママがね、ささめお姉ちゃんと、一緒に暮らしてみるって言うの」
ゴモリが、そんな事をいったのか。
確かに里親も喜びそうだけれど。
しかし、この子は。
人間では無いし、多分社会に馴染むのは難しい。学校に行かせてやることは、出来るだろうか。
アガレスの力を借りれば、戸籍を誤魔化すことくらいは何とかなるはず。
学校に行かせるとして、成長する機能はついているだろうか。いつまでも育たなければ、それはそれで怪しまれる。
「ここに来る人達と、ママが違う事は、何となく分かるの。 ささめお姉ちゃんは優しいし、おばちゃんも好きだから。 一緒に暮らせたら、嬉しいな」
「うん、そうだね」
考えておこうか。
孫が欲しいと、里親は考えているはずだ。
体の衰えも自覚しているはず。
篠目はなんだかんだ言っても、考えているうちに、もう子供を為す事は不可能になってしまった。
分かっているのだ。
人間とはもう、おそらく子供を作れない。
性行為をしても、孕むことは無いだろう。
これでも一応、時間に余裕が出来てからは、何度かカレシは作って見た。勿論性行為もしてみたのだけれど。
分かるのだ、それで。
子が出来ないと。
気持ちいいとも思わない。
界隈で、かなりの技術を持っているという男に抱かれても、結果は同じだった。
体が、人間では無くなってきているから、だろう。かといって、悪魔にとっての子作りは、人間とは違うとも聞いている。
子供を孕む、か。
ゴモリがちびっ子ゴモリを作ったやり方を聞いて、自分でもやってみようか。
魔術もちょっとずつ勉強しているから、良い機会かも知れない。
好きな人に触られるのは、とても幸せなことだと言う。
だが、それを知らないまま、人間を止めつつある篠目は。結局の所、半端者かもしれないけれど。
ただ、里親は安心させてあげたいし。
ちびっ子ゴモリのことは可愛いと思うのも事実なのだ。
人間としての要素が残っているうちに。里親には、最後の奉公も、してあげたかった。
店に戻った後、どうするか考える。
最近は並行で思考を進めることも難しくなくなっているので、仕事をしながら思考を錬ることも出来た。
仕事が終わった。
三階に出向く。アガレスはまた、随分と疲れ果てていた。魂が口から出ているのが、見えるような気さえする。
アモンはご機嫌で、包丁を振るって何か作っていた。
「どうしたの? アガレスさま」
「封印が解けるかも知れないと言うことで、アモンが張り切っている。 それだけだ」
「わあ、それは良かった」
「良くない」
涙目のアガレスもまた可愛い。
先ほどの老紳士の話を聞くが。とんでも無い答えが返ってくる。
「ああ、あれはな。 いろんな色の道を試してきたが、そろそろ飽きが来たから、斬新なのがほしいとか言ってきた。 そんなんで此処まで辿り着いたのだから、ある意味尊敬に値するな」
「へえ……そう……」
「そこで、中東の王家に伝わっていた、ハレムの心得をまとめた冊子をくれてやった」
人は見た目に寄らぬものだ。
何でもあの老紳士、現時点でも妻の他に愛人を十四人抱えているそうだ。しかもその内三人は男だという。
冊子を得た後は、いろんな体位でいろんな行為を試すのだろう。
想像すると何だかおかしい。
まあ、人は誰も、心に秘密の花園を持っている。あの上品そうな老紳士が、実は性欲の権化でも、不思議な事は無いだろう。
アモンの後ろ姿を見ながら、アガレスに聞いてみる。
「ね、聞きたいんだけれど」
「何だ」
「私、いつまで人間でいられるかな」
アガレスが、ぴたりと止まった。
アモンは平然としている。アモンの方が、私の事を、よく分かっているから、かも知れない。
アガレスは疲れた頭を無理矢理持ち上げると。
私の事を、じっと見つめた。
「そうか。 もう、気付いていたんだな」
「うん。 でも、後悔はしていないよ。 心残りがあるのは、母さんのことだけかな」
「ゴモリとも仲良くしていると聞いているが。 確かに、人と人では無いものは、今の時代ではまだ交わることは出来ぬな」
ため息をつくアガレス。
具体的な時間が、提示された。
このまま行くと、篠目は二年で、人間を超越する。そしてその精神的な要素から言って、おそらく悪魔になると。
「既に魔界も、お前の事はマークしている。 二年以内には、確実にスカウトが来る事だろう」
「そっかあ」
「問題はその後だ」
篠目の里親だけれど。
寿命は後、10年程度はあるとアガレスは言う。
これは魔術などで、総合的に判断した結果だそうだ。つまり、篠目が悪魔になる方が、早いのである。
それならば、どうするか考えなければならない。
「ね、もう私、子供産めないみたいなんだけれど。 悪魔と同じ方法で、子供を孕めるかな」
「今はまだ止めておけ」
「どうして?」
「悪魔にとって、子を作るというのは、己の分身体を作ると言う事だ。 他の悪魔の要素も取り入れるが、要するに人間が生物的に行う事を、魔術的にこなすことになる。 かなりの難易度がいるし……何よりだ」
中途半端に人間で悪魔の今の篠目がそれをやると。
子供も同じ事になるという。
そうかと、ため息が漏れた。
篠目にも、それがまずい事はよく分かる。篠目は修羅の路を生きてきたから、自分をしっかり作る事が出来た。
幼いうちから、篠目の今の状況と同じに置くのは、あまりにも危険すぎるのだ。
「二年後、里親の所にはいられなくなると見て良いだろう。 もう少し、ぎりぎりまで話すのは待とうと思っていたのだが」
「ううん、いいよこれで」
「そうか」
「ただ、そうなると。 方法は、一つしか無いかな」
ちびっ子ゴモリを養子にする。
素直な良い子だし、それである程度、里親も安心するだろう。
ただ、少し残念ではある。まだ人間のうちに、子供を産んでおくのも良いかと思ったのだけれど。
結局、機を逸してしまった。
「時間は、いくらでもあるし、同時にもう何も残っていないんだね」
「後悔したか?」
「ううん。 むしろ好きでも無いことに全ての時間を取られて、自分の生きることを棒に振るより、ずっとマシだね」
アガレスは、そうかと言った。
篠目は。
そうだよと応えた。
元々、篠目は後悔をしない。今回もそれは同じだ。少し惜しいと思ったけれど、それだけ。
恐らくは。
そんな篠目だから、悪魔達は気に入ったのだろう。
そして今、悪魔になろうとしているのも。
篠目だから、なのだろう。
そのまま、ちびっ子ゴモリの所に戻って、決定を告げる。うちで暮らすと聞いて、ぱっと顔を輝かせるちびっ子ゴモリ。
この子は寂しがり屋だ。
いつも店で寂しそうにしていたし、これで良かったのかも知れない。問題は、その後だ。
この子がいないと、客を三階に案内できなくなる。
これについては、ゴモリが代案を出してくれた。
条件を満たした客が二階にはいると、自動的に共通の場所に転送されるようにする。其処でゴモリが見極めて、三階に移送する、というのだ。
なるほど、それは良いかもしれない。
いずれにしても、篠目にはまだ関与できない問題だ。魔術に関してはほぼ専門外。たとえばある程度の音波を扱うくらいのことは出来るけれど、それは肉体に関する技術であって、魔術では無い。
また、問題がもう一つある。
いつまでもちびっ子ゴモリではまずい。きちんとした名前を付けないといけないだろう。今までは、二人でいる事が多かったから、名前を呼ぶ必要が無かった。だから、考えていなかったし。ちびっ子ゴモリの方でも、あまり気にしていなかった様子だ。
あまり奇抜な名前でも良くない。
そもそも容姿が容姿だ。
格好が日本人離れしているし、西洋人形みたいに綺麗だから、ただでさえ目立ちすぎるのである。
日本で目立つと言う事は、イジメを即座に誘発することも意味している。
もっとも、小学校なんか、通わなくても場合によってはいい。
この子は生粋の悪魔だ。
同年代の子供と交流する方法なんていくらでもある。なにもそれが、人間である必要は無いだろう。
魔界がどういう場所かは良く分からないけれど。
「まずはお着替えをしようか」
「うん」
用意してきた、そこそこの服。安価の量販店では無くて、相応のブランド品。篠目もあまりお金を使う用途が無いので、財力に関してはそこそこにある。一応、今の時点で貯金は三百万を超えているし、其処から使えば屁でもない。
普段はパジャマっぽい服や、ワンピースっぽいひらひらを着ているちびっ子ゴモリだけれど。服を着る知識はきちんとあるようだ。苦労しながら裸になって、下着をまずつけて。時間は掛かるけれど、ボアのついた靴下やら、フリルがアクセントになっている上着を斬る事が出来た。
靴も準備してある。
キャラクターものにするには、少し背が高いか。だから薄ピンクのシューズにした。金髪碧眼のちびっ子ゴモリは、これだけでも充分に可愛い。街を歩いていると、児童モデルとしてスカウトが掛かるレベルだ。元々ゴモリが綺麗な人だから、その要素を詰め込んだ子供は、可愛くなっても不思議では無い。しかもこの子の場合、父親があらゆる意味で存在しないのだから、当然か。
いつも使っている空間はそのままにする。
そういえば、此処からちびっ子ゴモリが出るのは、はじめて見た。新陳代謝がない生粋の悪魔だから、当然か。
ドアに鍵を掛けると、鍵が消える。
ちびっ子ゴモリの一部であるらしい。
なるほど、流石に空間操作に特化して作ったと言うだけのことはある。子供に関しても、便利なカスタマイズが出来ると言うわけだ。
ある意味、デザイナーズチャイルドに近い存在なのだろうか。
店は分身に任せて、帰ることにする。
手をつないで、路を歩く。周囲の全てが珍しくて仕方が無いらしく、ちびっ子ゴモリはずっと辺りを見回していた。
ただ、この子は知能が高い。
今までもかなりの本を読んでいたようで。知識と現物を、照らし合わせて確認しているようなそぶりが見て取れた。
まだ夕方だから、夜のとばりは降りていない。
時々不良っぽいのが此方を見ているけれど。戦闘力がないちびっ子ゴモリを、守るくらいは篠目にも難しくない。
というよりもだ。
この近辺の不良は。いや、暴力団員なども含めて全部制圧して、無意識下に篠目への恐怖心を叩き込んでいる。篠目の姿を見ただけで、連中は近寄ってこない。恐怖心で人間を縛るのが、一番良いのだ。
特に、あの手の連中は。
しばらく歩いて、家に着く。
里親は、連れてきたちびっ子ゴモリを見て、喜んだようだった。
「あらまあ。 随分可愛い子ね」
「今日から、うちで世話をするから。 ほら、挨拶して」
「は、はい。 ニコです」
名前は最近見た刑事ドラマの、ちょっとおっちょこちょいな外国人の婦警から取った。ドジだが優しくて、見ていて和むキャラだった。
ただ、演じていた女優が麻薬がらみの不祥事を起こして、もう芸能界からは姿を消している。
ブロンド碧眼でありながら親しみやすい容姿の、貴重な女優だったのだけれど。
まあ、役の名前だ。
中の人は関係がない。
「日本語がお上手ね」
「日本育ちだから」
「そうなの……」
「訳ありだけど、家にいる間は世話をよろしくね。 後、養子縁組するつもりだから、多分私の娘って事になると思う」
そうかいそうかいと里親は言うけれど。
きっと、納得はしていない。
何かあると、悟っているはずだ。
ちびっ子ゴモリあらため、ニコは。家の中を案内されると、彼方此方見て廻る。とはいっても、それほど広い家じゃないから、すぐに把握してしまう。
家の中では、例の空間には行かないようにとも釘を刺しておく。
まだ所詮は子供。
里親に見つかりでもしたら面倒な事になる。
新陳代謝はしようと思えば出来ると、ニコはいう。そうかと応えると、篠目は、今後について、計画を順番に立てていくことにした。
まずは教育だ。
地元の小学校に通わせるか。しかし、おそらくこの容姿である。ほぼ確実にイジメに遭うと見て良いだろう。
どれほど日本語が堪能だろうと関係無い。
小学生にとっては、「違う」「弱い」という事は、ストレートに悪に直結することなのだ。
イジメを行う連中は何一つ罪悪感など覚えないだろうし。
何よりそんな事で傷つくニコは見たくない。
勿論、ニコ自身が望むなら、話は別だ。
後は魔界の教育機関だけれど。そんなものがあるのかは、アガレスやアモンに聞いてみなければ分からない。いや、ゴモリの方がこれに関しては詳しいかも知れない。
いずれにしても、解決すべき問題はたくさんある。
良く漫画なんかでは、空から落ちてきたヒロインとあっさり同居をはじめたりするけれど。
人間世界で、そんな事は簡単にはできないのだ。
里親が料理を作り始める。
ニコは見かけの年からは考えられないくらい大人しくしているけれど。
さて、問題は起きずに済ませられるだろうか。
正直、篠目には、判断がつかなかった。
店に出る。
気がついたのだけれど。考えて見れば、店で働いている分身達を除くと、もう此処に悪魔はいない。
いや、悪魔化しつつある篠目だけか。
既に篠目自身は、ゴモリに会いに行くつもりなら、バックヤードの扉から直通の入り口を作ってもらっている。
始業前にゴモリの所に出向いて。魔界の教育機関について聞いてみる。
悪魔の子供は数があまり多くないと聞かされて、その時はじめて驚いた。人間と違って、そもそも子供を作ることに、リスクが小さそうなのに。
何かしら、悪魔が子供を作りたがらない理由があるのかも知れない。
寿命が長いから、だろうか。
考えられる話だ。事実上寿命がない悪魔が増え続けたら、どんなに世界が広くても、いずれ破滅してしまうだろう。
「あの子が人間世界で潜むように暮らしていくか、魔界で生きるか、選ぶのは任せるけれど」
「ニコは、この世界が好きなようですけれど」
「そう」
寂しそうに、ゴモリは笑みを浮かべる。
彼女は人間が好きだろうからこそ、その闇も身に染みて知っているのだろう。腹を痛めたわけでは無いとは言え、子供が其処へ踏み込むとなれば。あまり、良い気分はしないのかも知れない。
「貴方はどうするの?」
「後二年で、この世界を去ります」
「それでいいの?」
「ええ。 ただ里親が少し心配なのだけれど」
老人ホームに入れるのでは、あまり安心は出来ない。
親として接してくれた人だ。
人間の温かみも教えてくれた。
誰よりも、感謝している人でもある。
だから、せめて最後には立ち会いたいし。出来れば、一緒にいたいのだけれど。完全に悪魔になったら、おそらく居場所はこの世界には無くなる。だいたい篠目は、この世界が、あまり好きでは無いのだ。
戦闘力がないニコの場合は、溶け込むことが出来るかも知れない。
しかし、篠目は無理だ。
色王寺の一件で、それは思い知らされていた。
「ニコに其処はある程度、任せたいと思います。 ただ、全てを任せるんじゃ無くて、時々魔界から手伝いに出向く気ではありますけれど」
「何だか大変ね、貴方も」
「……」
こういう会話をするのも、もう長くないのかも知れない。
篠目が悪魔になったら。魔界に移って、そこで暮らすことになる。
天界との戦争が終わっても、武力がいる案件はいくらでもある。一定の武力は維持しなければならないし、何より封印を受けた悪魔が多数である以上、戦闘力がある存在は貴重なのだ。
続いて、フルレティに会いに行く。
店も、当然最終的には。二年以降後には、分身とニコに任せるつもりだ。だから、サポートを頼みたい。
当然時々篠目が店に出向いて、悪客害客の類は駆除するけれど。
ちょっとしたトラブルの場合は、フルレティに対処して欲しいのだ。
出向くと、フルレティは非常に面倒くさそうな顔をした。
「そんな事を、俺に頼むのか」
「ゴモリさんの娘さんを助けると思って、お願いします」
「仕方が無いな……」
なんだかんだ言って、フルレティは面倒見が良いし、何より優しい。寡黙なだけで、モテモテな訳では無いのだ。
後は、ダンタリアン。
幸い、店の二階に、今も閉じこもっている。
フルレティに閉鎖空間の鍵は貰っているので、踏み込む。部屋に入ると、ダンタリアンは、驚いて顔を上げた。
「どうしたの、篠目ちゃん」
「後二年くらいしか人間世界にいられないから、その話をしに」
「あ、そっか。 もうそんな時期か」
八画面同時のネットゲームプレイ。
見ていて凄いと思うけれど。マクロを動かして、その全てを自動に切り替えたのは、更に凄い。
この悪魔。ひょっとして、アガレスとためを張ることが出来るのでは無いのか。
ある意味、アガレス以上のネットっ子である。
「それで、ゴモリさんの娘さん。 ニコって名前にしたんだけれど、彼女の面倒を見て欲しくてね」
「ああー。 ゲームの値段設定とか、苦手そうだもんねえ」
「お願い」
「分かったよ。 此処はあたしにとっても心地が良いからね。 それにあの子可愛いし」
この人は。
人間の才能を貪るだけでは無くて、幼女を虐めて楽しむ趣味もあったのか。
あきれ顔を感じ取ったのか。
ダンタリアンは、もう一つと付け加えてきた。
「あんたも一時期、人間の男と結婚しようとして、何人かつまみ食いしてたでしょ」
「まあ、それなりにね。 私も容姿がアレだから、声を掛ければついてくる奴がいるし、そういうのから見繕っただけ」
「逆ナンかー」
「で?」
その中に、芸術面の才能がある男はいなかったかと聞かれたので、首を横に振る。
まあ、今の時代は、こんなもんだろう。
「じゃあ、しょうがないや。 あたしもつまみ食いしようかと思ったんだけど」
「中古でもいいの?」
「別に構わないよ」
雑食なダンタリアンらしい。
さて、次だ。
アガレスとアモンにあっておかなければならない。
ダンタリアンの部屋を出て、三階に。一旦ゴモリのいる二階に入って、其処から転送して貰わなければならないから、少し手間が掛かる。
しかし本来だったら、電車で二時間かかる距離だ。
これくらいは我慢しなければならないだろう。
アガレスは今日も、アモンに涙目で何か仕事させられていた。見たところ、CDか何かを弄っている。いや、もっと大きい。別の規格のものだろうか。CDやDVDが規格として流行する前に、幾つものものがあったと聞いている。
「アガレスさま、それはなーに?」
「CDの前にあった規格の一つだ。 かなり貴重なアニメが入っていてな。 今、修復している」
「ふうん……」
「会いに来たと言うことは、考えをまとめたか」
さすがはアガレスだ。
多分篠目が、里親の次に一緒にいた時間が長い相手。それが悪魔だろうが、人間だろうが、どうでもいい。
アモンも一緒にいた時間が長いけれど。
アガレスは篠目を対等に扱ってくれていた。
アモンはあくまで、面白い実験動物として接していた。
これでも篠目は、それくらいの判断は出来る。勿論、その上でアモンとは接していたのだし、何ら不満は感じていない。
「魔界に行くことにしたよ。 ただ里親は心配だから、ニコ、ゴモリさんの娘と一緒に暮らして貰うつもり。 二年で調整して、その後は魔界に。 後は時々、様子を見に来るくらいかな」
「この店のために、良く尽くしてくれたな」
「ううん。 アガレスさまのためなら、苦労じゃないよ」
「そうか」
CDより大分大きいそのディスクを、アガレスはなにやら大きめのパッケージにしまった。
色あせたパッケージに書かれている絵は、見た事も無い。
聞いたことが無い作品だ。
でも、アガレスが貴重だと言っていたほどだ。余程に重要な作品、という事なのだろう。
「今日中に後七枚か。 肩が凝る」
「手伝って貰えますか?」
「はいはーい」
奥からアモンの声。
すぐに手伝いに行くと。かなり大きなブッシュドノエルを、最終調整しているところだった。
かなり難しいお菓子の筈なのに。
そして、今では。
食べたいとさえ思わない。
昔は甘味も、見るのも嫌と言うほどじゃ無かったのに。普通に食べたくなったものなのに。今はそもそも、見たところで食欲が湧かないのだ。それでいて、力は以前以上に出るのだから、不思議極まりない。
これが、理から外れると言う事。
悪魔になると言う事。
実感する時間が与えられたから、篠目はまだ良かった。自分がおかしいと気付けなかったり。急激におかしくなった場合は。きっと、死ぬような精神の軋みを味わうことになったのだろう。
そして無理に人間社会に居座ろうとした場合。待っていたのは、色王寺のような、悲劇だけだ。
作業を手伝う。
そして、切り分けて。丁度良いタイミングで、アガレスの所に持っていった。
作業が終わったところで、アモンが言う。
「まだまだ篠目さんは強くなっています。 いずれ、私に並ぶことが出来るかも知れませんね」
「やれやれ、それは困ったな。 アモンが二人になったら、手に負えん」
「今でも手に負えないのに?」
「そう言うことだ」
アガレスが、アモンに目配せ。
頷くと、アモンは。普段とは違う棚に向かった。
取り出してくるのは、何だろう。
「これは、お前にでは無くて。 今後人間世界で生きるか、それとも魔界に行くかを選ぶ事になるだろう、ニコに渡してやれ」
渡されたのは、何だろう。
見覚えがない、小さな木彫りの置物。非常に暖かみがあって、見ていると安心できる。ト−テムポールか何かだろうか。
「これは?」
「もう名前すらも失伝した、ネイティブアメリカンの一部族で使われたお守りだ。 魔力の類は籠もっていないが、代々受け継がれてきた由緒のあるものでな。 人間の世代が受け継ぐ暖かみを秘めている」
確かに、この何だか分からない。棒状のものは。
見ているだけで、優しい気分になる事が出来る。
「餞別ってわけだね」
「それと、今までの給金に加えて、退職金を振り込んでおく。 ニコが自立するくらいまでは、それで充分に足りるだろう」
「ありがとう。 そんなにしてくれると、嬉しくて、涙が出そう」
でも、涙なんて出ない。
アガレスにもう一度礼を言うと。
篠目は、目を擦る。何度擦っても、感情は動かないし。涙も漏れなかった。きっともう篠目は。
感情という点では、とっくの昔に。
人間を止めてしまっていたのだろう。
三階から出る。
この三階に、多くの奇人変人達が行くのをみた。篠目も、その一人。そして、きっとようやく、篠目にも結末が来る。
世話になった里親が、逝くまでは。せめて人でいたかったけれど。
結局篠目は、もっと早くに、この世界と事実上離れなければならないようだった。
3、おみせのあるじ
自分に名前をくれたお母さんが、魔界に事実上去って。
たまにしかおうちに帰ってこなくなってから。
おばあちゃんの体が、露骨に悪くなっていったのが分かった。私も一応悪魔のはしくれ。生まれたばかりだとは言え、回復の魔術は使える。
だから、必死に、おばあちゃんを直そうとしたけれど。
どうにもならなかった。
その場しのぎは出来る。私が魔術を使っていることを、なんと無しにおばあちゃんは分かっているようだけれど。それについては、なにもいわなかった。随分楽になって嬉しいとは、言ってくれたけれど。
回復するわけがない。
何しろ癌だ。
老人はだいたいの場合、体の中に抱えてしまう病気。少なくとも、私の力では、どうにもならなかった。
死者を復活させるような魔術もあるらしいけれど。それを使うことは悪魔も天使も掟で禁じている。人間が聖典に書いたような出来事が昔起きたとき。聖典に書かれていない悲劇が、とんでも無い規模で起きたことが原因らしい。だからもし存在していても使えないし、使ったらおばあちゃんごと私は処分されてしまっただろう。
おばあちゃんがベッドで寝たきりになって。
老人病院に入って。
流石にお母さんも見に来たけれど。それでも、首を横に振るばかりだった。
魔界で働き始めて、日も浅い。
助ける手段なんて、あるはずもない。
私も悪魔として作られたとき、分別も判断力も与えられている。子供らしい部分もあるけれど、それを客観的に自覚できる時点で、私は子供では無かったのかも知れない。
いびつな子供。
自分でもそれを理解できている。
だから、私は。
周囲の異物を見る目に、抵抗することが出来なかった。
「篠目や。 篠目は、いるか」
おばあちゃんが、手を伸ばす。
中学校から病院に駆けつけてきた私は、手を握ることしか出来なかった。もうすっかり衰えたおばあちゃんは、目も見えない。
「私よ。 ニコよ」
「おお、ニコや。 篠目は、いるかい」
「ううん、お母さん、忙しくて」
「そうかそうか。 それはよかったのう」
人間の世界を去ったお母さんは、今ではもう、すっかり魔界の住人だ。優れた武力を持っているから高く評価されて、一線級の人材として活躍しているとか聞く。人間界とのアブソーバーとしても期待されているという話だ。
だけれども。
そんなお母さんでも、おばあちゃんの病気はどうにも出来ない。
おばあちゃんは、お母さんが人間の世界にはいないことを、うすうす勘付いているらしいのだけれど。
働いていて、立派にしている事はほんとうで。それをいうと、いつもとても嬉しそうにするのだった。
「ニコや。 いるかえ」
「うん。 此処にいるよ」
「篠目は強いけれど、まだまだ不安なところもある。 きっと私がいなくなったら、うんと泣く。 だから、側で支えてやってくれ」
「そんな事、言わないで」
私は、悪魔なのに。
涙が止まらなかった。
結局、お母さんは間に合った。
でも、その時には、もう明日までは保たないと言われていた。耳も聞こえているか怪しかったけれど。
魔界から特急で駆けつけてきたお母さんがベッドの側に座ると。
おばあちゃんは、お母さんの方を向いた。
「篠目かい」
「ええ。 ごめんね、遅れて」
「大丈夫だよ。 お仕事は、大丈夫かい」
「部下に任せてきたから、平気」
少し、お母さんは寂しそう。
お母さんは、私が養子になった少し前くらいから、ぐっと大人っぽくなった。それまでは大人なのに、子供みたいなことばかりしていたらしいのだけれど。今では、誰が見ても、立派なレディだ。
しっかりした自分を確保して、自信も身につけたからだろうか。
でも、純粋な悪魔の私より、ずっと感情を見せない。おかしな話だった。私が鼻をぐずぐずにしてずっと泣いているのに。
元人間のお母さんは、感情が消えたように振る舞っているのだから。
その晩。
おばあちゃんは、天に召された。
87歳だったから、大往生だ。お葬式も、手配は済んでいる。私を作ったゴモリさんが、手伝ってくれたのだ。
戦闘力がないから、人間の世界に溶け込める。
でも、悲しい事は、いくらでもある。
お葬式に、同級生は殆ど来てくれない。
小学生のころから、散々虐められた。金色の髪。青い目。それが、周囲からの拒絶を産んでいることは、すぐに分かった。中学でもイジメは続いた。幸い私は勉強が出来たし、お金もそこそこにあったから、あまり酷いイジメでは無かったけれど。周囲の子供は、絶対に私を、仲間に入れてはくれなかった。
大人は可愛い可愛いと言ってくれたけれど。
子供が向けてくるのは、拒絶と敵意の目だけ。
言葉が通じたって、意思が通じないことはいくらでもある。分かっていたはずなのに、とても悲しかった。
今日だって、そう。
大好きなおばあちゃんが天国に旅立った日なのに。来てくれたのは、学校の先生と、少数のご近所さんだけ。
お母さんも、お葬式の間だけはいてくれるというけれど。
私はこれから、どうしていいか分からなかった。
葬式に来てくれたのは、ゴモリさんだけじゃない。
フルレティさんもいる。
葬儀屋との折衝は、お母さんとゴモリさんがやってくれる。フルレティさんは側にいて、じっと無言で立っていた。
「愚痴があるなら聞こう」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか」
それ以降、フルレティさんは何も喋らなかった。
でも、それがとても安心できる空気を作ってくれる。側に無言でいてくれるだけで、こんなに安心できるのだから、不思議だ。
アガレスさんと、アモンさんも来ている。
二人はなにやらお母さんと話していた。以前はとても仲良くしていたらしい三人だけれど。
今はある程度、距離を置いているのが、遠目にも分かった。
きっとお母さんは、完全に依存していた二人から、どうにか抜け出すことが出来たのだろう。
中学の先生が、お母さん達を見て言う。
「ずいぶんな変わった人達だな」
「……そうですね」
「とにかく、今週は色々あるだろう。 休んで、それから中学校に来なさい」
優しそうな言葉だけれど。
実態は違う。
この人は、私に対する周囲の拒絶を見ても、何もしない。自己責任や生徒の自主行動という言葉を振りかざして、自身の責務を放棄しているのだ。
既に中年になっている男性なのに。中学生教諭が、それで良いのだろうか。
だとすれば悲しい話である。
和式の葬式でやったけれど。特に違和感は無い。
通夜も告別式も終わって。
他の色々な事も全て済んで。
おうちの中は、空っぽになった。
おばあちゃんが亡くなる半年くらいの間は。老人病院と此処を行き来する回数が、ぐっと減った。
おばあちゃんの容体は、とても安定していたとお医者に言われていたけれど。
それは出来る範囲で、私がずっと回復の魔術を使っていたからだ。そうでなければ、おばあちゃんは二年くらい早く、天国に行っていただろう。
もっとも、最後の方は、痛み止めの魔術しか使えなかった。
「ニコ、つらいと思うけれど」
「ううん、平気」
目を何度も擦る。
自分で決めたことなのだ。魔界に行けば、こんな差別には晒されなかったはず。でも、私は人間界で生きることを選んだ。
それを、おばあちゃんは尊重してくれた。
学校でイジメに遭っていることは理解していたようだし。アドバイスも色々くれた。高校くらいになれば、イジメも落ち着くから我慢するように。でも、決して弱者には落ちないように。
そう言われて、私も納得した。
結局、私がとても周囲から見て力持ちだと言う事がわかってからは、暴力的なイジメはなくなった。
今では、精神的な。陰湿なイジメにだけ耐えていれば良い。
私のお母さんが、周囲で怖れられているというのも、あまり苛烈なイジメにつながらなかった理由の一つだろう。
一連の事が全て終わって。
私は、空っぽになった家の中で。一人、膝を抱えていた。
翌日から、中学校に行かなければならない。
ぼんやりとしたまま、準備をする。制服はクリーニングから帰ってきている。自炊の類は、それほど難しくも無い。出来ない部分は、お母さんが補助してくれる。お母さんは自炊も出来るし、お菓子作りも得意だ。家事関連では、多分同年代のどの母親よりも、しっかり出来る筈だ。
膝を抱えて、ベッドで蹲る。
何もする気力が湧かない。
私は悪魔として作られて。
人間が好きだという、ゴモリさんの心の一部を受け継いで。
それで今、こんな苦しい思いをしている。
こんな事なら。
お母さんみたいに、最初から人間に対して、ある程度斜に構えた考えが出来ていれば、楽だったのだろうか。
でも、おばあちゃんは。
私の、それでも人間が好きだという心を、尊重してくれた。だから、私は、学校へ行こうと思う。
お母さんが、ふいに帰ってきた。
葬式が終わって、すぐに魔界に戻ったのだけれど。忘れ物だろうか。
「どうしたの……?」
「ニコに、話があるから、戻ってきたの」
「魔界にだったら、行かないよ」
「ううん、そうじゃない」
実は、お母さんには、何度か誘われているのだ。
此処での生活がつらいなら、魔界へ行かないか、と。
私はその度に断った。
意思を、お母さんはきちんと尊重してくれた。実際におなかを痛めていなくても。お母さんは、私の事を誰より大事に思ってくれている。だから好きだ。
「お店を、任せたいと思う」
「お店って、あのアガレスさんの?」
「そうだよ」
「……考えさせて」
アガレスさんのお店。
何でも願いが叶うという、都市伝説の発信地。
其処の管理システムの一部として、私が作られたことは分かっている。ただゴモリさんは、お母さんが私を引き取るといった時、本当に喜んでくれたという。
悪魔にとって子供は、人間のそれとは随分違う。
でも、愛情がないと言うのは。多分成立しないのだろう。
「今、何も生き甲斐が無い状態でしょ? あのお店にいて、人間を色々見ていれば、きっと変わってくるよ」
「うん……」
「その気になったら、連絡先に電話寄越して」
電話といっても、いきなりお母さんに通じる訳では無い。
魔界とこの世界では、壁があって。電波が直接は届かないのだ。
一旦この世界の交換手的な基地局に留守電が預けられて。それから、本人がアクセスしたときに、情報が行くようになっている。
お母さんと話して、少し陰鬱な気分も晴れた。
翌日から、学校に出る。
流石に机に花瓶、というような不謹慎なことはされていなかった。だが、周囲は相変わらず、絶対に話しかけてこない。
高校までは、我慢しろ。
周囲と違う事が、イジメの対象になるのは、中学校までだ。それ以降は、むしろ周囲から好ましいと思われる。
そうおばあちゃんは言っていた。
本当かどうかは分からないけれど。今日も私は、孤独だ。
でも、人間はこれでも嫌いになれない。
そう作られたからだろうか。
いや、そうだとは、思いたくない。
授業が始まる。ホームルームで先生が、私について少しだけ触れたけれど、それだけ。後は淡々と授業が始まった。
正直、中学校レベルの勉強だったら、それほど難しくは無い。
昔お母さんは勉強と無縁だったらしいけれど。人間を止めたころから、学習効率がガツンと上がったらしくて、今では私が分からない事は全て教えてくれる。語学に関しては下手な大学教授よりも出来ると、フルレティさんが太鼓判を押してくれているほどだ。
私が苦手なのは国語だけれど。
それも、時々お母さんに相談すれば、どうにでもなる。
数学に到っては、教科書の内容が簡単すぎてつまらないほどだ。さくさくと進む。ケアレスミス以外では、点を落とすこともない。
ただこの辺りも、嫌われる理由であるらしい。
私は、目立つ言動は一切していないけれど。
髪と目の色が、そんなに悪い事なのだろうか。小学校のころは男子に髪を引っ張られたり叩かれたりもした。
一度それで相手を突き飛ばして、教室の端から端まで吹っ飛ばしてから。男子は暴力的なイジメを止めたけれど。
それ以降、私は一切周囲から声を掛けられなくなった。
虐められる人間は、死ぬまで虐められていろ。
そう言っているのと、同じだ。
人間は嫌いじゃ無いけれど。人間の集まりは、本当に酷い事を平気ですると、私は学んでいた。
だから中学でも、私は身を縮めて、じっと静かにしていた。
アニメの世界が羨ましいと、時々本当に思う。
髪が青だろうが緑だろうが、差別されることは無い。現実の世界はどうだ。実際にいるブロンドでさえ、これだけの扱いを受けるのだ。
カーストや社会差別が肯定されている国では、もっと酷い事は容易に想像が出来る。私は時々、後悔する事さえあった。
でも、此処で頑張ろうと決めている。
おばあちゃんも、そう望んでいたのだから。
体育は100メートル走だった。
私は元々戦闘タイプでは無いので、さほど人間離れした瞬発力は無い。それでも、本気で走ると100メートルで13秒程度は出てしまうので、ある程度は加減して14秒半ば程度にまで抑えている。
目立つと叩かれる。
人の中で生活を続けて、それを嫌と言うほど、私は思い知らされていた。
体育の授業も、無事終わり。
集団内で一位を取ろうとは思わない。今の時点で、13秒後半をたたき出している陸上部の女子が上位の成績を独占しているが、別に羨ましいとも悔しいとも感じない。
幸いこの中学で、部活は無い。
だから、授業が終わったら、帰宅する。
私は、一人だ。
女子は何グループかに別れて帰宅しているけれど。その勢力範囲は、常に可変している。リーダー格が機嫌を損ねて、グループからはじき出されたりすると、悲惨だ。そうやってグループからはじき出されると、即座に虐められる側に転落して、だいたいの場合復帰はもう出来ない。
そう言う子が、私に接近してくることもあったけれど。
優しくしてあげても、グループに復帰すると、掌を返すことがしょっちゅうだった。或いはそれさえ見越して、グループから意図的にスクールカーストの低い子をはじき出して、私を痛めつけているのかも知れない。
女子のコミュニケーションは魔窟だ。
今のところ、私は。
クラスの女子全員の名前と顔、性格を把握している。
だから今更傷つくこともないし。彼らが私を徹底的に壁の向こう側におきたがっていることも理解している。
故に、何も思う事は無かった。
寄り道もせず、誰もいない家に戻る。
以前の習慣だ。
おばあちゃんがどうにかなってしまわないか。不安で仕方が無かった。だから家に戻ると、空っぽの屋根の下で。私はどうしようもない虚無感に囚われる。おばあちゃんの位牌に、お線香をあげる。悪魔である私が、異国の神様である仏様に対する儀式をするのもおかしな話だけれど。おばあちゃんが大好きだから、喜ぶことはしてあげたかった。
お洗濯も済ませて、お庭の花にも水をあげて。
お料理も終わると、空虚な時間は、実体をもって私にのしかかってくる。
嗚呼。
膝を抱えて、ぼんやりとしながら。
私は、お母さんの言ったことを、思い出していた。
生き甲斐があれば、少しは変わるかも知れない。
私のルーツである、あの場所へ戻れば。
でも、それは。私が最初は道具であったと、認めることでは無いだろうか。
無言のまま、鍵を取り出す。いつぶりのことだろう。
そして、この家から行く事は無かった。あの小さな部屋に、久しぶりに踏み込んでいた。
時間が止まっていたのだから。何も変わっていない。埃っぽくさえなっていない。
六畳間の、小さな和室。
壁際には本棚。
漫画だけでは無く、ちょっと気取った本もある。哲学書は、結局渡されただけで、読んでいない。
真ん中には小さな机。
数年で、随分背が伸びた私は。もうお母さんよりも、背丈だけなら上になっている。机がとても小さくて。
その真ん中にある、ジェンガが。酷く懐かしかった。
この部屋で、ずっと孤独に過ごした方が、良かったのだろうか。人間が好きという気持ちのまま、人間の社会の縮図である小学校へ行って。散々現実を見せられて。中学校に行っても、現実は何一つ変わらなくて。
散々傷つけられて。
此処なら、本来の姿になれる。
背中の翼を広げる。真っ黒な蝙蝠の翼。尻尾も出す。少しとがった先端部をもつ、黒い尻尾。
ただし、それだけ。
それ以外は、人と同じ。
空も飛べるし、新陳代謝も、その気になればストップできる。成長だって、その気になれば停止できる。
でも私は、人と一緒に生きようと決めた。
お母さんはそれを放棄した。
戦闘タイプのお母さんは、したくても出来ないから。以前、色王寺という人の、悲劇を見てしまっているから。出来ないと、知っていると言っていた。
でも、戦闘タイプじゃない私は、出来る筈。だから、諦めては、いけない。そう、何度も自分に言い聞かせる。
気がつくと、机に突っ伏して、眠っていた。
目を何度も擦る。
悪魔になっても、感情は消えない。私は意を決すると。
お母さんに、電話をした。
形式上は、まだこのお店の長は、お母さんだ。
だから私は、代理と言うことになる。まだバイトが出来る年では無いから、バックヤードから出る事は出来ないけれど。以前に作られたお母さんの分身が七人もシフトを組んで働いているから、殆ど問題は無い。
それに、問題を起こすようなお客さんも、来ない。
以前、お母さんが、散々処置をしたからだ。
私が仕事をすると聞いたゴモリさんは、少し心配そうに目を細めた。
「学校での話は聞いているわ。 無理をしなくても、いいのよ」
「ううん、大丈夫」
それよりも、聞きたいことがあった。
ゴモリさんは、どうして人間が好きなのだろう。
この人は確か、アガレスさんと同じ純粋な悪魔だったと聞いている。それなのに、どうして自分たちを散々過酷な運命に巻き込んでいった人間を、恨んでいないのだろう。
素直にそれを聞いてみると。
ゴモリさんは、寂しそうにまつげを伏せた。
「私は珍しく、悪魔の中では美女と設定されていてね」
「そうなの?」
「ええ。 基本的に醜く描かれる事が多い悪魔の中では、例外的な存在よ」
悪魔は人間の作った設定に、存在が左右される。
或いは、何かしらの宗教の女神を悪魔化した存在なのかも知れないと、ゴモリさんは言う。
人間に興味を持ったのは。
流布されている伝承を見た時だという。
「他の悪魔達の酷い伝承に比べて、私のそれはどうしてか比較的優遇されているようにも思えた。 勿論最初は嫌いだったけれど。 興味を持ったのは、其処が切っ掛けね」
「……」
「人間は調べて見れば見るほど独善的で身勝手で、残忍で暴力的。 彼らがもつ負の側面こそ、悪魔に押しつけられた性質だと言う事はすぐにわかったのだけれど。 どうしてでしょうね。 私はそれらを見ていて、むしろ彼らを気の毒に思えるようになってきたのよ」
遠い目をするゴモリさん。
私には、分からない話だ。
結局の所、この人は。人間を愛している、数少ない悪魔の一人。人間出身のアモンさんや、何よりお母さんがあれだけ距離を取っているのとは、対照的だ。
「此処のお店で働けば、人の業を直接見ることになるわ。 それでもいいのね」
「私、分からなくなっていて」
「……どういうこと」
「人間が分からない。 だから、人間をもっと知りたいと思って、このお店に関わろうと思ったの」
どうしても相容れないと思ったら。
お母さんが言うように、魔界に去るつもりだ。
おばあちゃんはもう天国へ旅立ったのだし。人間の世界に対する義理は、もうない。だからせめて、この世がどういう場所なのか、見極めておきたいのだ。
ゴモリさんは、幾つかアドバイスをくれると。
三階への転送権を、私にくれた。
そして、教えてくれる。
「転送権を持ったと言うことは、ここへ来た人の業を、直接見ることになるの。 耐えられなくなりそうなら、すぐに私にいうのよ」
4、業のありか
中学の二年生になった。
人間に合わせて体を調整しているから、背はすくすくと伸びている。そろそろ大人っぽい体つきに皆なってくるころだ。
そして、周囲からの態度が、少しずつ変わってきているのも分かった。
以前と違って、周囲と異なることが、少しずつ敵意を呼ばなくなりつつあるのだ。
何て身勝手な連中だろう。
そう素直にも思ったけれど。
ゴモリさんの言う事を思い出す。
人はどうしようもない生き物だけれど。其処に、美が隠れている事もあるのだと。
時々、お店にお客さんが来る。
私の所には、お客さんが来る度に。直接、二階から情報が転送されてくる。おうちにいるときは良いのだけれど。
一度は中間試験を受けている時にそれが来て、随分困った。
そういうときは、意識を分割して。一部でまず人間の情報を探る。
人の業を見るようになってから、およそ一年。
まだ私は、人の良さを、見つけられていない。
家に帰ると。まずするのは、洗濯物のとりこみ。
一人暮らしを事実上していると分かるのだけれど。洗濯物はあっというまにたまっていく。
たまに帰ってくるお母さんも家事はしてくれる。
むしろ家事はとても上手だけれど。
それを期待して、家事をしないという選択肢は無い。
一応私は、お母さんと暮らしていると言うことになっているけれど。家庭訪問の日などは、ひやりとさせられることが多い。
炊事を適当に済ませて、家事はひとまず終わり。
勉強をしていると、ぴんと頭の中に、連絡が響いた。
お客さんが来たのだ。
タイミングとしては悪くない。すぐに鍵を使って、部屋に入る。部屋の中で、お客さんの業を、じっくり読み取った。
今回のお客さんは。
人生に疲れた、二十代後半のサラリーマンだった。
いわゆるブラック企業に就職し、その人生の全てを食い潰されながら、お給金さえ搾取され。
気がつくと全身がぼろぼろになっていた。
どうにか会社を辞めて、小さな良心的な企業に移ることは出来たけれど。
そうしてみると、気付いてしまったのだ。
自分が何一つ持っていないことを。
趣味を持てばオタクと言われ。
オタクと言われれば、人権の全てが剥奪される。
そんな社会になってしまっている今では、仕方が無い事なのだと、私にも分かる。何か、生き甲斐が欲しいと、この店を探して、訪れたらしい。
三階へ、サラリーマンを通す。
後は、アガレスさんとアモンさんの仕事だ。
不意に、アモンさんの声が、頭に響く。
「三階に上がってきて貰えますか」
「あ、はい。 どうしたんですか」
「せっかくだから、アガレスさまのお仕事を見て行ってください」
「……」
お母さんに、お店を事実上譲り受けてから。
三階へ通したお客さんの数は、既に十二人に達している。男性が五人、女性が七人。いずれもが、二癖以上ある人達だった。
闇は基本的に、女性の方が濃いような気がする。
一方で、男性が持っているのは、闇より虚無の方が多かった。
言われるまま、三階に上がる。
丁度アガレスさんの前に座らされたサラリーマンが、闇を喰われている所だった。こんなにスピーディに進んでいるという事は。アガレスさんから見ても、非常に楽な客だった、ということだろう。
サラリーマンの周囲に渦巻く闇が。
目を閉じ、手をかざしているアガレスさんの中に、取り込まれて行っている。
サラリーマンは意識が無いようで、時々うわごとで、なにやら呟いているようだけれど。内容までは聞こえない。
アモンに促されて、もう少し近づく。
不意に、見えてきた。
ノルマ。それだけがお前達の価値だ。
客を客だとか思っているのか。馬鹿が。あれは金づるだ。相手が自殺しようが一家離散しようが関係無い。金を絞れるだけ搾り取れ。
必要があれば、自殺にも追い込め。
金を会社のためだけに奪い取れ。
残業代。出るわけ無いだろう。
お前達は、全て我々の道具だ。
豊かな生活をしているのは、会社の幹部達だけ。他のサラリーマンは、全員が奴隷も同じで。非人道的で詐欺同然の仕事を強要されている。
労働基準局は動かない。
むしろこれは、おまわりさんの仕事では無いだろうかと思ったけれど。
新聞を渡される。
このサラリーマンがいたブラック企業は、二年前に自殺者を出し、それが切っ掛けで一斉検挙されている。
大規模な会社だったら、賄賂をばらまいて逃げる事も出来たのかも知れないけれど。
所詮は中規模な独裁者の王国。
経営者一族は芋づるに逮捕され。会社は潰れた。
サラリーマンは。どうやらその時に、会社を離れる事が出来たらしい。しかし、会社に施されていたマインドコントロールが抜けてからは、自分がやってきた事の実体と、罪悪感からの逃避で、板挟みになっていたようだ。
警察では聴取されて、その結果無罪放免にされている。
会社は呆れたことに、下々の社員達に責任を押しつけようとしたようだけれど。流石に警察は其処まで甘くなかった。多くの詐欺事件で、被害届が出ていたことも、決め手になったのだろう。
大学も出て。
良い会社に入る事が出来たと思ったのに。
実体はこれだ。
サラリーマンの慟哭が、聞こえてくるようだった。
闇を喰らい終えたアガレスさんが、此方に気付く。
「おや、来ていたのか」
「はい」
「アモン、客を送ってやれ。 くれてやる品は、あれがいいだろう」
「分かりました」
アモンさんが、お客さんを送っていく。
そして棚から取り出していたのは。どうやらサイクリング用の部品らしい。パイプや車輪。それに説明書に工具箱。
確かに一人でやるには、サイクリングは最適だ。
しかもスポーツによって、綺麗にストレスも飛ばすことが出来る。その上、そのための道具は、自分で組んだとなれば。愛着も湧くと言う事か。
場所だけが心配だけれど。
新聞を見直すと、このサラリーマンが住んでいるのは郊外のベッドタウンだから、休日に自転車を乗り回すには丁度良いだろう。
しかも手作りの高性能マウンテンバイクとなれば、乗りこなす楽しみはひとしおの筈だ。
アモンさんが手続きのために、段ボールを持って外に出るのを横目に。かわいいげっぷをしながら、アガレスさんは言う。
「仕事を見て、どう思った」
「ええと……」
流石だなとしか、言葉が出てこない。
漠然と、人間世界に残り。
世界の中で、生きていくことしか考えていない私と。
人間社会の闇に潜み。
それでいながら、きちんと+の影響も与えることが出来ているアガレスさんでは、根本的に存在が違う。
劣等感を刺激されるだけだけれど。
しかし、小さな手で。私よりずっとちいちゃな手で頭を掻き回しながら、アガレスさんは言うのだ。
「違う。 私だって、結果として此処にいながら、社会に多少の影響を意図的に出しているだけだ。 そうお前と変わりはしない」
「それでも、充分に凄いと思う……」
「お前は母親に似ているな。 しかもお前は人間社会の中で生きていくと決めた以上、彼奴、猪塚篠目よりも、ずっと主体的に影響を与えることも出来る。 もっとも悪魔だから、天使どうように、特定国家や団体に肩入れして行動することは許されんがな」
なんで自分が、このお店に関わる事を、母に任されたのか。
それは、まだ分からない。
だけれども、アガレスさんは考えるようにと言ってくれた。
元の小さな部屋に戻ると、私は膝を抱える。
分からないよ。少なくとも、まだ今は。そう呟く。
おばあちゃんも大好きだし。おかあさんだってすきだ。だけれども、人間全体で見ると、不信がどうしても沸いてきている。
私は一体、これからどうすればいいのだろう。
中学を卒業したころから。
おばあちゃんの予言が、本物になった。
周囲が、掌を返しはじめたのである。
金髪碧眼の美少女という触れ込みで、グループ内に客寄せやら男寄せの目的で、女子達が積極的に勧誘してくるようになった。私の性格なんて、関係無い。ただ利益だけが目的というわけだ。
男子もそう。
これまでは異質なことをただ敵意を持って見ていたはずなのに。
中には、好意を告白してくる男子もいた。
私はその全てをやんわりと断る。
今までの行動を忘れたのか。
好き勝手なことをしておいて、今更掌を返してくるなんて、どういうことか。
勿論、表向きのつきあいはする。
誘われれば放課後にお店に寄ったりもする。早熟な子は合コンまがいの事もしているようだけれど。それにも、何度か一緒に行ってあげた。そうすると、次からは誘われなくなった。男の注目が、私一人に集中するから、らしい。
知るかとしか言いようが無い。
どこまで人は、勝手なのだろう。
上手く利用すれば、楽に生きられるのは分かっている。この世界で生きることを決めた以上、当然の話だ。
だが、人間の身勝手さにつきあうことを、一緒に暮らすと言うのだろうか。
必然的に、作り笑顔が上手になった。
誘いに対する断り方も。
便利なのは、家で仕事があると言う理由。これについては実際そうなのだから、何ら周囲に文句は言わせない。
不愉快なことに。
近年では、帰宅路で、芸能スカウトマンに声を掛けられることさえ起きるようになっていた。
中にはかなり強引な勧誘をしてくる奴もいて。
私は、人間に対する不信が、どんどん大きくなることばかりを感じ取れていた。
家に着く。
隠れて煙草でも吸おうかと、何度か思った。しかし実際煙草を手に入れて吸ってみると、とてもではないけれど、煙を飲めるものではなかった。体にどれくらい悪い、というのが瞬く間に分かってしまうのである。
人間だったら、そうは行かなかったかも知れない。
しかし私の場合、体が悪魔なのだ。
人間より鋭敏な感覚が、煙草の害を強烈に伝えてくる。だから一度だけ口をちょっとつけてからは、もう吸おうとは思わなかった。
お酒についても、同じ。
一人の家の中で。お母さんが残していったお酒を、ちょっと口に入れた事もある。
気持ちよく現実逃避するには良いけれど。
体へのダメージが露骨に分かってしまうので、絶対常習的に飲みたいとは思わなかった。
結局私は、体を大事に考えてしまう。
人間と違って、悪魔は寿命がほぼ無限だ。だからこそに、体調を崩すと人間よりも長時間、ダメージが継続してしまう。
お酒をたしなむ悪魔もいる。
確かフルレティさんは、かなり強いお酒をぐいぐい飲むと聞いている。
おばあちゃんとお母さんと、職場のみんなと温泉に行ったとき。大人はみんなお酒を口にしていたけれど。
飲み方はささやかで、宴会で大騒ぎしてストレス発散、と言うわけには行かなかったようだ。
実際、側にいても、危険は感じなかった。
お母さんなんかは、力が戦闘タイプの悪魔の中でもかなり凶悪なので、もしも精神の箍が外れたら旅館事木っ端みじんになってしまう。事実若いころは、強さをもてあましてかなり暴れていたと聞いている。
でも、旅館では、むしろ静かにお酒を口に付けていて。私に飲酒を強要するようなことも無かった。
それどころか、お酒の臭いが気にならないかと、気遣いさえ見せてくれた。
合コンに連れて行かれたとき、カラオケボックスなどでは、平気で酒が出ていた。
勿論飲まされそうにもなった。
上手に逃げられたのは、運が良かったと言うほか無い。
結局、私は人間社会で、どう生きていきたいのだろう。
誰もいない家。
お母さんは時々帰ってくるけれど。小さかったころのように、べたべた甘えることももう出来ない。
お仕事をしよう。
そう思って、鍵を使い、部屋に入る。
部屋の真ん中にあるテーブルに着くと。
膝を抱えて、私はぼんやりと天井を見つめた。
いっそのこと、此処に引きこもってしまおうか。そんな事を、時々考える。
ゴモリさんが私を作ったころには、それが普通だった。でも、その頃は、お母さんが遊びに来てくれることが、楽しみでしょうがなかった。
あの頃のお母さんは、人間だった。
どうして私の周囲には。
お母さんみたいな人間が、いないのだろう。
社交的には振る舞おうと試みてきた。
小学校のころからずっとそう。だけれど、周囲の拒絶は、とてつもなく壁が厚かった。
おばあちゃんもお母さんも、大変だろうと何度も言った。
お母さんに到っては、魔界に来ないかとも誘ってくれさえした。
それを断ったのは自分だ。
人間の世界で生きたい。
それは、どうしてだろう。今でも、消えていない想いだった。
想いは消えていないけれど。
ただ、苦しい。
ぎゅっと握りしめるのは、お母さんから貰った木彫りの人形。トーテムポールのような意匠のそれは。
触っていると、とても暖かみを感じる。
少しだけ、気分が安らぐ。
こつんと、頭を叩かれた。
振り仰ぐと、お母さんだった。
「どうしたの、辛気くさい顔して」
「ううん、ちょっとね」
「その様子だと、学校で周囲の対応が変わってきたな」
言わずとも、悟られる。
最近は、学業成績も、周りとは目に見えて違ってきた。単純な学習効率の差が出てきているだけだ。
私は戦闘タイプでは無いけれど。その分、頭の出来自体は周囲より良いのかも知れない。少なくとも、勉強量とテストの成績を見る限り、周囲より学習効率という点では優れているようだ。
テスト前には、ノートを写させてと、媚態を尽くしてくる奴もいる。
そういうのに限って、テストが終わると、私からは距離を取る。
何度期待を裏切られたか分からない。
人は、心を入れ替えなんてしない。どうしてか。それは常に自分が絶対正義だと思っているからだ。
拒絶はされなくなったけれど。
今では、私は。
どう利用するか舌なめずりする隣人達に囲まれている。
「生まれてきたことを、後悔している?」
「ううん。 ゴモリさんもお母さんも、おばあちゃんも、みんな大好きだから、後悔はしていないよ」
「そう。 やっぱり魔界に行く?」
悩んでしまう。
後悔はしないけれど。結局この後も、私の周囲には、掌を返した連中だけが集って、好き勝手に私をもてあそぶのでは無いかという不安はある。
不意に、手を引かれた。
アガレスさんのお店に連れて行かれる。
何の用も無いけれど。
ただ、アガレスさんは。だいぶ背が伸びた私を見て、鼻を鳴らした。
「会う度にでかくなるな。 その内ゴモリなみになるんだろうな」
「ゴモリさんくらいに?」
「まあ、それはそれで良い事だ。 私なんてこの姿が一番自然だから、これ以上大きくすると無理が出るしな」
どうしてかふてくされるアガレスさん。
そういえば、封印解除が出来るかも知れないと言う話が一時期あったけれど。今も昔も、変わっていない。
失敗したのだろう事は、私にも分かった。
それなら機嫌が悪いのも、無理はないか。
邪魔をしたかなと思うけれど。お母さんは、腰を落として、アガレスさんと視線の高さを合わせる。
「アガレスさま、この子にあげて欲しいものがあるんだけれど」
「駄目」
「どうして?」
「もうくれてやっただろう。 それに、悪魔の闇なんて、喰らっても面白くないし、美味しくもない」
けちだなあと、お母さんは苦笑い。
私は側で、じっとやりとりを見ているしか出来なかった。
「ニコ」
「は、はい」
「もう少し、頑張ってみるか?」
「……」
アガレスさんは、お母さんと私を、交互に見た後に言う。
人間は難しい生き物だ。
「私は人間以上に人間を見てきたが、彼奴らはとにかく難しい生物だ。 例外は何処にでも存在するし、外道の中に聖性があり、聖性の中に外道がある。 地域によっても時代によっても違うが、結局私は、人間が嫌いでは無いから、此処でこの仕事をしているのだろうな」
アモンさんが、パンケーキを焼いてきた。
どっさり生クリームが載っている。これは一人では食べきれそうにない。三人で、分けて食べる。
胸焼けになりそうな生クリームの量だ。
「もう少しすれば、もっと周囲はお前に好意的になる。 子供特有の、排外的な思想を持ったままの人間と、変わった事を貴ぶ者に別れるからだ。 別れた方は、お前に好意的に接してくる者も出る筈だ。 見極めていけば、お前は友も得られる」
友か。
欲しいとは思う。
でも、結局。今まで、得られることは無かった。
話半分に、聞いておこう。
そう、私は思った。
誰よりも人間を知っている人の言葉だ。時々子供っぽいし、アモンさんに遊ばれているし、お母さんに骨がバキバキになるまで抱きしめられていたりもするけれど。
この人は、ずっと昔から。
人を見てきて。
そして、その闇と共にあった。
それなのに、人そのものを否定していない。徹底的にこき下ろしてはいるけれど、滅びてしまえとか、全滅しろとかは言っていない。何より今でも、人の闇と関わる仕事を続けている。
本心では、人が好きではないにしても、嫌いではないのだ。
だからこそ、人を知っている。
それならば、きっと。いつかは、私が報われるような時も、来るのかも知れない。
お母さんに連れられて、アガレスさんのお店を出る。
「つらくなったら、何時でもいうんだよ。 魔界に連れて行ってあげるから」
言い残すと、お母さんは仕事場に戻っていった。
私は部屋を出て。自宅に戻ると。
まずは洗濯から片付けようと思った。
外は既に夕暮れ。
これ以上時間が遅くなると、洗濯は乾きづらくなる。食事だってまだ作っていないのだ。食べなくても平気だけれど。
人間とあわせるために、食事の習慣は、しっかり作っておきたいのである。
日常作業を済ませると、軽く勉強してから、寝る。
本当に、私に友達なんて、出来る日が来るんだろうか。
布団に入ると、丸くなって眠る。
きっと明日は良い日だと信じて。私は、眠らなくてもいいのに。無理矢理眠ることで、人間世界に溶け込もうと、努力を続けた。
エピローグ、闇のお店
その店は、あり得ない三階に存在している。
入るには合い言葉が必要で。
そして、店に入ると。
あらゆる願いが叶うという。
最初は笑い飛ばしていたけれど。調べて見れば見るほど、笑い飛ばせなくなっていった。今では、都市伝説好きの中では、知らない者はいない話になっていると言う。
一階は、何の変哲もないただの新古書店。
二階はゲーム屋になっていると言う。
働いている店員達は、どうしてだろう。私には、どうにも兄弟か姉妹のように感じられた。
顔は全然似ていないのに。
しばらく本屋で辺りを見回して、在庫を確認。
かなり良い本が揃っている。中には、数千円の値がつく、貴重な古書の類もあるようだ。店としても、充分に優れた場所だ。
眼鏡を直すと、奥へ。
二階へ上がる階段はしばし放置。
此処には調査に来たのだ。だから、まずは全体を調べる。
気に入った本を数冊取ると、レジに。精算を済ませると、いよいよ二階に上がる。辺りにあるのは、ゲームのポスター。キラキラ輝くものばかり。中には、かなり古いゲームのポスターも貼られていた。
勉強不足なのではなくて。
これはマニアックな嗜好によるものだと看破。つまり、店にはそれだけ期待が出来ると言うことだ。
二階に上がると、私は足を止める。
思わず息を呑んでいた。
カウンターの向こうにいるのは、クラスメイトの猪塚ニコ。
金髪碧眼の美少女で、学園随一とも言われる美貌の持ち主だ。日本人とは根本的に異なる容姿と、物腰柔らかく、とても優しい事から人気があるけれど。
告白して上手く行った男子はいないという噂も聞いている。
また、帰り道やカラオケに誘っても、滅多に来てくれないという噂もある。ゆえに彼女は、ダムと渾名されていた。
壁があまりに分厚いからである。
「あ、あんたは」
「? 確か貴方は、クラスメイトの吉田さん」
「……」
私も女だから、彼女の美貌が如何に桁外れかはよく分かっている。
モデルなどに勧誘されることもあるとか言う話があるが、さもありなん。ロシア系かゲルマン系か知らないけれど、長身でメリハリの利いた体つきは、とても高校二年生とは、というか同じ生物とは思えない。
「働いているとは聞いていたけれど、此処だったのか」
「……」
じっと、見定めるように私を見つめるニコ。
あまり話した機会は無かったけれど。まあ、都市伝説部なんてものの部長をやっている私には、そもそも友達が殆どいない。
「合い言葉を言えば良いのか」
「ええ、お願いします」
「某ヒーローを題材にしたクソゲーを三回パスワードに入れる」
「……トイレに入って、三分待ってください」
言われるままにする。
奥にあるトイレに足を運びながら、私は一度だけ振り返った。
彼奴は、意外に面白い奴かも知れない。今回私は、あるものが欲しくてこのお店に来た。そして彼奴がいたことで、それが本当になるかも知れないと言う確信を得た。
後で、色々と話を聞いてみたい。
トイレに入って、しばし待ってから。
戸を開けて、外に出る。
其処には、闇が広がっていた。
高級な木の床。
異常に高い天井。
林立する棚。
そして奥には、闇がくぐもったような場所。どうしてかそこだけは和室になっていて。人形みたいな整った容姿の子供が、此方を憮然として見つめていた。
歩きゆく。
彼奴が、噂に聞く、アガレスだろうか。
「座れ」
いつの間にか側にいた長身のメイドさんが、座布団を用意してくれる。
促されるまま座った私は。此方をじっと見つめる子供に、用件を伝えた。
「都市伝説の話が出来る同志が欲しい。 ネット上の関わりだけじゃ無くて、現実でも強い影響を与え合える相手だ」
「……アモン」
女の子が、長身のメイドを振り仰ぐ。
私はもう確信していた。
このお店は、本物だと。
其処には、闇がある。
闇の中に光もある。
光を掴めるかどうかは、その人次第。
混沌の中に浮かぶその店は。いつしか都市伝説で有名になり。そして一部で、こう言い表されるようになった。
暗黒雑貨混沌店。
現在、もっとも有名な都市伝説の主にて。
多くの人間の人生に影響を与えた。悪魔が主人をしている店である。
(ちょっと不思議なお店経営小説、暗黒雑貨混沌店 完)
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