約束の永遠

 

序、変わり種の来訪者

 

三階に、フルレティが上がって来た。

滅多にある事では無い。何か、大きな事があったとみて良いだろう。アガレスも作業の手を止めて、昔からの盟友を見た。

無精髭だらけの大男は、相変わらず不機嫌そうに口を結んでいる。

アガレスはしばらく悩んだ後に、話し始める。

「どうした、フルレティ」

「珍しい客が来る」

「お前の知り合いか」

「ああ」

言葉も短い。フルレティは、あまり余計な事を喋らない。

これでいながら、あの五月蠅い猪塚ときちんと意思疎通が出来ているというのだから、面白い話だ。

しばらく沈黙を流してから、フルレティは説明をはじめる。

「東欧に小さな国がある。 ソ連が崩壊して独立を果たした小国だ」

「それがどうかしたのか」

「其処の王家の人間が来る。 願いを叶えるためにな」

それはまた、面倒な話だ。

しかし、ここに入るには、手続きがいる筈。何故、わざわざ、そのような事をフルレティが話しに来るのだろう。

まさか、特例を認めろと言うことなのか。

それは面倒だ。

そもそもこの場所は、結構繊細なパワーバランスの上に立っている。日本政府だって当然監視している。

当たり前の話だ。ソロモン王72柱が、此処には5柱も集まっている。しかもその内アモンは、天界から砂漠の狂犬と怖れられた猛者で、一万の天使を単独で相手したほどの使い手である。

もっとも、アモンは気付いていないが、今はアガレスがちょっとした細工をしている。日本政府を安心させるための措置だ。

また、天界も此処には警戒している。

今の時点で、余計な事をしていないから、どちらも動いていない。

民間の退魔組織なども、此処の存在をかぎつけている者達がいるようだ。まあ、最大手の組織でも、充分に撃退することは可能だけれど。

「フルレティ、分かっているだろうが」

「勿論、素通りさせろとは頼まない。 俺が、アドバイスをする事を、許して貰えないだろうか」

「おい……」

困り果てたアガレスの前で、フルレティが頭を下げる。

この寡黙な男が、此処までするのだ。

余程の事情があると言う事である。

「分かった。 そうなると一階はその間、猪塚に頼むか」

「そうしてくれ。 四日以内に戻る」

「んー」

フルレティが、空間に穴を開けて、向こうに消える。

小さくあくびをすると、アガレスは再び作業を始めた。今やっているのは、電子顕微鏡の組み立てだ。

「どう思う、アモン」

「女がらみではないでしょうか」

「彼奴は彼奴で、非常に真面目だが……。 まあ、だからこそ、あり得るか」

フルレティの過去については、アガレスもよく知らない。

アガレスと同じように、ソロモン世代の魔神である事は確かなのだけれど。その後、色々と人間の信仰が変わったり、設定が弄られたりして、人格に大きな変化が出ている。アガレスも昔は、戦場で希に顔を合わせる程度に過ぎなかった。

色々あって、この店に招いたのだけれど。

アモンは今でも、フルレティを信頼していないようだ。

一方、フルレティは肝が据わっている。魔界でもトップクラスの猛者であるアモンと正面からやりあって、一歩も引かないところを見た事がある。死なないとは言え、悪魔も勝ち目が無い相手とやり合うことは好まない。

武力という点で、アモンは魔界でも上位十番に入るほどの使い手だが。

フルレティはそれを怖れなかった。

最古参の悪魔と言う事もあるのだけれど。それだけでは無く、肝が据わるに相応しい理由が、何処かにあるのかも知れない。

いずれにしても、フルレティのことを、アガレスはあまり知らない。

ダンタリアンやゴモリは分かり易い。

たとえばダンタリアンは、ある学者の娘だった。非常に知的好奇心が旺盛で、いろいろな事を知りたがる変わった女だったのだ。

それがまずかった。

暗黒の中世西欧。其処で、知識を求める者は、魔女とされた。男でも女でも、である。ましてやダンタリアンは。当時悪魔の手先と思われて迫害されていた、学者の娘だったのだ。

父は火あぶりにされ。

ダンタリアンは、悲惨な拷問の末に、魔女裁判で処刑された。

その魂を拾ってきて、空席の72柱に移し替えたのだ。

だから今でも、ダンタリアンは過剰なほどに、知識と才能にこだわっている。才能がある人間の所に出向いて、データをつまみ食いしているのも、それが理由だ。

魔女裁判に掛けられたとき、ダンタリアンの尊厳は、全て踏み砕かれてしまったのだ。だから今更、女性としての尊厳を守ろうと、思う事は無いのだろう。悪魔になると人間的要素が消失することが多いのだが。

ダンタリアンは、その辺りが顕著だった。

ゴモリはソロモン世代の魔神で、昔から人間に興味が強く、誰に対しても優しかった。アガレスも、同世代の魔神だから、その評判はよく知っている。フルレティと違って、向こうがアガレスに良く関わってきたのも、その理由だろう。

どうして悪魔をしているのだろう。

天使の方が向いているくらいだ。

魔界で、そうささやかれたくらいである。

アガレスとしても、ゴモリがどうしてこんなに優しいのかは、よく分からない。ガブリエルと時々やりとりをしているようだけれど。似たもの同士、とても話が合うようだ。

アガレスが酷い目に会ったときも、何度か世話になった。

能力そのものも、守りや回復に特化しているくらいである。噂によると、封印解除を果たすとしたら、此奴が一番近いのでは無いかという。

そんな話が出てもおかしくないほどの、特化型の使い手なのだ。

ただ、誰かを助けても。恩を売っている気は無いらしい。

単純に、困っている相手を助けたい。そう考えるのが、ゴモリという奴だ。善意の塊なのである。

しかし、今の時点では、正直な話。ゴモリのその優しい性格は、人間の社会を照らすに到らない。

いつも人間社会のニュースを見ては悲しそうに眉をひそめている姿が目につく。

本当に、どうして魔神として生まれてしまったのだろう。

いっそのこと此奴が神だったら、あの悲惨なハルマゲドンも起きなかっただろうに。そう思うことも、たびたびあるのだった。

「私が、監視に行きましょうか?」

「いや、いい。 ネット上からのログアクセスなどを解析すれば、彼奴がどう介入したかは見当がつく」

「へえ」

「いや、本当だ。 私がハッカーとしてはグル級とか人間共に言われていることを忘れたか?」

笑顔のまま、アモンは此方を見ている。

此奴は此奴でわかりにくい。

アガレスに仕えてくれているし。行動は全てその忠義故というのも理解しているのだけれど。

悪魔らしい悪魔だと言うこともあって。

その行動には、いちいち闇がある。その辺り、アガレスも、時々困るほどだ。

ゴモリが悪魔らしくない悪魔だとすれば。

アモンはその真逆。これ以上も無いほどに、悪魔らしい悪魔なのだ。

おかしな話である。

悪魔として生まれたゴモリが悪魔らしくなく。人間から悪魔へと変じたアモンが、これ以上も無いほど、悪魔らしいのだから。

 

黙々とフルレティは、空間を渡りながら、急いでいた。

魔神としての能力をフルに活用すれば、空間転移は難しくない。ユーラシア大陸を縦断するのも、一日で出来る。

ただし、それなりに疲れる。

あの店は、人間の闇を豊富に採取できるという点で、フルレティにも好ましい。多分ダンタリアンも、その要素が無ければ、店を離れているはずだ。あの気まぐれが時々店に戻ってくるのは、悪魔らしく闇を吸収するためだ。

空気が冷たくなってくる。

そろそろロシアを抜ける。人間に姿なんて見せないが。空気が肌に触れることだけは、仕方が無い。

この姿では、体表面積が大きいのだから、どうしても温度の影響を強く受ける。魔神として、フルレティはそれほど強い方では無い。

アモンが此方を嫌っているのは知っているし。

相手が目の前で戦闘態勢になった時は。アガレスにも悟らせはしなかったけれど、背中に冷や汗が流れたものだ。

目的の国に到着。

二時間ほど掛かった。本気で急げば半分に短縮できるが、これ以上急ぐと、体力も魔力も消耗する。

此方には悪魔狩りという行為に荷担する原理主義者の一神教徒がいる。今では天界と魔界が和平を結んだという事を天使がどれだけ説いても納得せず、隙さえあれば殺戮しようと考えている狂った連中だ。

着地すると、周囲を確認しながら、歩き出す。

毛皮のコートを纏い、人相も隠した。

そうしないと、長身のフルレティは、ただでさえ目立つからだ。

実は、今までも。

時々、この国には来ていた。

約束を確認するためだ。

今の時点では、約束は継続している。フルレティにとって、人間の中で一番大事な者は、既にこの世を去ったが。

その血はまだ脈々とこの血に息づいているし。

そして今も、どうにか未来を掴みたいとあがいている。

だが、それが限界近いことも、知っていた。

ソ連時代には弾圧の対象となり、財産の殆どを失ってしまったし。その後は、KGBの監視下に置かれて、非常につらい思いもさせた。

日本に招こうかとも思ったのだけれど。

提案を、向こうが断った。

フルレティにはよく分からない。楽な生活をしたいとどうして思わないのか。そう言う例外がいる事も知っていたけれど。

あの女は、長いまつげを伏せ。

安楽椅子の上で、大きくなった腹を撫でながら。言ったものだ。

この国を、見捨てるわけにはいかないと。

分からない。

だが約束は約束だ。

目的の屋敷に着く。今のところ、尾行は受けていない。

咳払いすると、屋敷の戸をノックする。無愛想なフルレティを見て、以前見たことが無い使用人は、小さな悲鳴を上げた。

「屋敷の主人に用がある。 フルレティだと伝えろ」

ドアが閉じられる。

ひょっとして、面倒な事に、家の中に空間転移しなければならないか。あの様子だと、警察に連絡したかも知れない。そうなると、更に厄介だ。

もう少し、柔らかい接客は出来ないのか。

以前ゴモリにそう言われたが。

どう練習しても出来なかった。あの猪塚でさえ、客には営業スマイルを使っているというのに。

ほどなくして、またさっきの使用人が姿を見せた。

綺麗なこの国の言葉で言う。

「どうぞ、お入りください」

「……」

じろりとにらむと。

恐怖に、すくみ上がったようだった。

 

1、思い出の館

 

懐かしい。

館に足を踏み入れて、素直にフルレティはそう思った。

かってこの国では、慎ましい生活をする王家がいた。帝政ロシアのころから、いやいやもっとずっと古くから存在していたこの国は。周辺国の圧力に晒されながらも、どうにか独立を保っていた小国だったのだけれど。

王家は民から慕われていた。

暴虐なまつりごととは無縁だったのが、理由かも知れない。

少なくとも、平穏な時代は、あったのだ。

勿論国が成立するころは違った。遊牧民の国家から独立するために、血なまぐさい争いも繰り返したし。

建国の父となったのは、武王と呼ばれる人物だ。

ただ、武王は民を虐げなかった。

その良い部分が、幸いにも子孫達には継承され。貧しいながらも、比較的平和な国が続いたのだ。

ソ連に、接収されるまでは。

王家が処刑されなかったのは、民衆の反発がそれだけ大きかったから。ただしソ連は、手加減もしなかった。

財産は殆ど没収されたし。

王家の人間は酷い監視の中、庶民以下の生活も強いられた。中には、強制収容所に入れられた者さえいる。

ソ連崩壊で、ようやくこの国も地獄を抜け出たけれど。ただし、王家が返り咲いたわけでは無い。

民衆の人気を鑑みて、象徴的王家としては存在しているが。

実権は、あまり評判が良くない民主議会の方に移っている。

その民主議会は、王家を極めて煙たい存在として認識しているのが。人間の政治にはあまり興味が無いフルレティにも、一目瞭然だった。

屋敷の中には、国宝と呼ばれるようなものは一つも無い。

殆どが、ソ連時代に売り払われたのだ。

更に言うと、この屋敷そのものも。ソ連からの脱退後に、ようやく王家の元に戻ってきたのである。

それまでは監獄のような施設で、軟禁同然の扱いを受けている時代も、長かったのだ。

元々この国の王家は財産が多くなく、この屋敷も二つしか無い別荘の一つだったのだけれど。

旧王宮は現在議事堂になっており、もう一つの別荘はソ連時代に取りつぶされたので、結果的にここにしか入る事が出来ない。

欧州の王家としては、別荘が二つというのは異例だ。

この国がそれだけ小さく。

そして、今でもあまり豊かでは無いことの、証左と言える。

居間で待つように言われたので、コートを預けて、ソファに座る。

壁にはそこそこにいい絵が掛かっていたが、歴史があるものではない。タッチに見覚えがある。

この国出身の、新進気鋭の作家のものだ。

ソファも決していいものではない。

一応革張りだが、かなり最近作られたもので。格式を喜ぶ欧州の貴人が使っているものとしては、異例と言うほど質素だ。

そもそもが、である。

屋敷の中に警備の姿が無い。

これでは暗殺してくれと言っているようなものだ。

如何に民に慕われているといっても、跳ね返りはいる。フルレティが知る限り、この国にも過激派はいるし、何度か王家が危ない目にもあっている。それなのに警備を追加しないのは。

議会の思惑が透けて見えるようである。

嘆かわしいと、フルレティは思った。

少なくともこの国の王家は暴政と無縁で、民のために国家第一の奴隷として尽くしてきた過去がある。

相応の敬意は払われて当然の存在だ。

民主制になった今、象徴的国家の主として、何故に最低限の敬意を払うことも出来ないのだろう。

「お待たせしました」

「……」

使用人が戻ってきた。

フルレティが一瞥するだけで、すくみ上がって退室する。

あれで、何かの役に立つのか。

ため息を漏らすと、代わりに入ってきた女を出迎えた。

既に四十を過ぎているが、上品な美しさを保っている。

フルレティが約束をした女の、六代後の子孫となる。アレクサンドラである。アレクサンドラは一時期、フルレティに惚れていた節があるけれど。この王家には、フルレティの正体が伝わっていること。ロシア正教の熱心な信者でもある事。何より、約束の存在が未だに伝わっていることもあって、諦めてはくれた。

「お久しぶりですね、フルレティ」

「ああ」

「貴方は全く変わらなくて、羨ましいわ。 私はすっかり年老いてしまいました」

「まだ充分に若かろう」

アレクサンドラには娘と息子がいる。

かってだったら、王には息子しかなれなかったのだろうが。今では、そのような因習も生きてはいない。

そもそも王家が実権を持たず。

政治と関わる事も無いからだ。

流石に象徴的君主として各国の接待を行っているだけあり、アレクサンドラのマナーは完璧。

娘の方は昔かなりのやんちゃものだったのだけれど。

今は年相応に落ちついている。前回の訪問で、それは確かめた。

問題は息子の方。

かなり遅くに出来た子供だけあって、まだ言葉を話すのも怪しい状態だったのだけれど。

今回は、それなりに育っただろうか。

いや、それはない。ないからこそ、ここに来ているのだ。

言葉を話せなかったのも、遅く生まれたからでは無い。

「子供達は」

「シルフィーナは、今隣国の大使を接待しています。 議事堂にいます」

「そうか、代理が務められるようになったのだな」

「まだ少しマナーが不安ですけれど。 何事も経験ですもの」

かくいうアレクサンドラも。

ソ連時代を経験しているせいか、昔は非常に猜疑心が強かった。フルレティが悪魔と言う事も、最初は信じていなかったらしい。

今でこそ、全く老けないフルレティを見ているから、信じてはいるようだが。

「スヴェンスは、熱を出して、今はベットです」

「そうか。 それは困った話だ」

「ええ。 もう少しからだが強くなって貰わないと」

年を聞くと、十三だという。

そうか、もう十三かと、フルレティは懐かしく思った。

確かに社会的には、その年になっても、熱ばかり出しているのでは問題だ。そもそも、この国では。そろそろ王家を解体するべきだという声が、上がり始めているのである。議会を中心に、だ。

ソ連が崩壊後、ロシアはしばらく大人しくしていたが。

近年は力を盛り返して、近隣への圧力をまた強めはじめている。この国はゲリラが暴れているわけでもなく、テロが横行しているわけでも無い。

ロシアとつながっている議員も多い。

ロシアにして見れば、再併合の際に、王家がいると邪魔だ。

簡単な理屈である。

更に言えば、経済状態の悪化により社会情勢が不安定になってきている。犯罪発生率も高くなってきている。

「この屋敷にも、泥棒が入りました。 三回ほど」

「そうか。 王家に対する尊敬が薄れてきているのだな」

「それもあるでしょうが、一度は外国人でした。 警備が見つけなければ、どのような悲劇になっていたことか」

警備は、いるにはいるのか。

とはいっても、アレクサンドラが呼んだのは、大型のシェパードだった。良く躾けられているけれど。

所詮は犬。

犬は餌で簡単に手なづけられる。

このシェパードは相応に賢いようだが。フルレティが一瞥するだけで、びくりと身を震わせた。

「警備会社と契約した方が良いだろう」

「……」

土産を渡す。

猪塚が作ったお菓子だ。

この国でも、日本製の菓子は評判が良い。アレクサンドラは目を細めて、受け取ってくれた。

 

夕食をともにする。

結局シルフィーナはその日のうちには帰ってこなかった。スヴェンスはベッドに張り付き状態。

遅くなってから、医師が来て。

診察を済ませると、すぐに帰って行った。

初老の医師に話を聞く。屈強な大男がいる事に医師は驚いたが、暗示を掛けてフルレティのことを記憶しないようにはした。

「容体は」

「単純に体が弱いのですな。 ちょっとしたことで、すぐに熱を出す。 昔だったら成人するのは無理だったでしょうね。 今は色々な医療がありますので、どうにかなるとは思いますが」

「丈夫にはならないのか」

「難しいでしょう。 子を成すことも出来るかどうか」

暗示を解いて、医師を行かせる。

側で見ていたアレクサンドラが、悲しそうにまつげを伏せた。

「フルレティ。 貴方の悪魔の力にすがるのは、神の僕としては間違っているのだとは分かっています。 しかし、どうにかならないのでしょうか」

「俺の力では、出来る事に限界がある。 俺は悪魔と言っても、それほど力が発揮できる方では無い」

誰にも言っていないが。

フルレティは、一度戦に負けて、封印を受けているのだ。

多分そうだろうと悟っている者もいる。

ゴモリなどはそうだ。彼奴は元々戦闘タイプでは無く、回復中心だから、封印を受けても気にしなかっただろうが。

フルレティはばりばりの戦闘タイプだった。

アモンほどでは無いが、前線でも武勲を挙げてきたのだ。

だからこそに、封印を受けたのは痛い。

プライドもあるし、口には出来ない事だ。元々戦闘タイプだったから、小細工の類は苦手。

今、フルレティは。

アガレス以上に弱体化してしまっているとも言えた。

「だが、出来る奴のことは知っている」

「まあ」

「今日は、其処へたどり着けるよう、手助けをしに来た」

屋敷に入って。

夕食も食べて。

それから、ようやく。

フルレティは、本当の用件を、口にしたのだった。

 

2、吹雪の中で

 

悪魔は、人間に対して絶対的な優位を持つ存在では無い。

アモンのように、元人間の悪魔の場合は。人間を殺す事を、何とも思わないケースがある。

しかしフルレティのような元々の悪魔は、体に染みついているのだ。

人間は、大事な栄養供給源。

だから殺してはならないと。

奇しくも、天使共もそれは同じだと、聞いたことがある。天使の中にも、人間から変わった者がいる。

天界最強の存在、あのメタトロンもそうだと、聞いたことがあった。

だからメタトロンは。

天使とは思えないほどの残虐性を持ち。

思い出すだけでも胸くそが悪くなる。ある国で彼奴は、あまりにも多数の人間を、串刺しにした。

神に逆らったという罪で。

人間共は、聖書にそれを残した。

神の罰を受けたと。

狂気に満ちている。そう、フルレティは思った。人間出身の悪魔や天使にも、良い奴はいるのだけれど。

フルレティも、封印を喰らってからは、特に大人しくしていなければならなかった。

人間社会の影に潜みながら、闇を喰らって少しずつ力を増していく日々。まるで鼠やゴキブリのように。

隠れ、潜まなければならなかった。

だが、それでも見つかった。

あの日、フルレティにとって、一生の不覚。

外に出て、適当な闇を食らえそうな人間を探していたら。一人の子供が、馬車に轢かれそうになったのである。

遊牧民が建てた国であったから。

遊牧民出身者以外は、アリも同然。

かってそれは、戦を早く終わらせるための工夫として用いられた。逆らえば皆殺し。従うなら寛大に処置する。

ずっとずっと昔。

戦が事実上の殲滅戦だったころには、機能していた理屈も。

今では、ただの権力者の傲慢を助けるためのものとなっていた。遊牧民出身の権力者が、子供を轢き殺すのを躊躇う理由など、一つも無かったのだ。

轢かれたはずの子供が、助かった。

フルレティが抱えていた子供は。

フルレティの方を、熱っぽい目で見ていた。

子供の親らしい、髭を蓄えた威厳のある男が。礼をしたいと言ってフルレティを家に招く。

男は。

後に、武王と呼ばれる者だった。

 

武王は熱っぽく訴えた。

この国は、変わらなければならないと。

かって、この国を征服した騎馬民族達は、必ずしも邪悪な存在では無かった。単に修羅の世界の住人なだけだったのだ。

しかし、彼らは支配者階級に居座ると。

遊牧民としての生き方も。

修羅としての掟も。

何もかも忘れて、ただ傲慢に振る舞うだけになっていった。

何のことは無い。世界を席巻した遊牧騎馬民族も、他と同じ。何ら変わる事が無い、ただの人間だった。

置かれている環境と、生き方そのものが。苛烈な強さを支えていただけだったのだ。

時とともに政は腐敗し、何もかもが堕落していった。

今の彼らは、草原の狼などでは無い。

ただの快楽に溺れた豚だと、武王は事実を指摘した。

幸い、彼方此方で、今は反攻作戦が開始されている。

今こそ、自由を取り戻すときだと。

困ったのはフルレティである。

人間の歴史に関わる事は、悪魔にとってはやってはならぬこと。これは天界も同じ。大戦前は、そうでもなかった。

メタトロンをはじめとして、人間の国々に干渉する天使は多かったし。悪魔もまた、しかりだったのだが。

今は天界と魔界の条約で、それは徹底的に禁止されている。

もしも干渉が必要な場合は、天界と魔界が情報を交換した上で、共同して行う事になっている。

たとえば、数百万規模の虐殺が発生する可能性がある場合。

そういったときには。幾つかの国を動かして、それを阻止する。

ただ、必ずしも上手く行っていないのが実情だ。現に今でも、人間の歴史は血と殺戮に塗れている。

「貴方も革命に加わっていただきたい」

「すまぬが、俺は革命には加われぬ」

「なにゆえか」

「……見せるのが早いか」

翼を、背中から生やしてみせる。

フルレティも上位悪魔だ。力の大半を喪失しているとは言え、これくらいの事は出来る。流石の武王も、驚いたようだった。

悪魔か。

周囲の者達も。

革命を起こそうとしている勢力は、キリスト教徒が多いようだった。フルレティの禍々しい翼を見て、驚く者がいても不思議では無い。

「天使も悪魔も、人間は大事な存在でな。 片一方の勢力に肩入れし、社会のバランスを崩すことは禁じられているのだ」

「そうか」

「だが、敵にも肩入れはしないことは約束しよう」

「……」

不満そうだが。

武王は納得してくれたようだった。

一旦武王の側を離れると、魔界に戻る。魔界の王城で何があったのかを、現在実務を統括しているベルゼバブに伝えると。

人間の老翁の姿を取っている蠅の魔王は、腕組みして唸った。

「面倒な事をしてくれたな、フルレティ」

「申し訳が立たぬ」

「天界にも、すぐに使者を出しておく。 それにしても、あの辺りは大変にきな臭いことになっているようだな。 おそらく遊牧騎馬民族は、間もなく歴史の表舞台から転落することだろう」

世界を席巻した一族だったのに。

無情なことだと、ベルゼバブは遠くを見るようにして呟いた。

 

フルレティが再び武王の所を訪れたとき。

既に革命戦争は始まっていた。

遊牧騎馬民の国と言っても、実情は既に、遊牧もしていなければ騎馬民でさえなかった。単なる圧政を敷く権力者と、腐敗した政治だけがそこにあった。

だから、一度瓦解が始まると。

後はあっという間だった。

フルレティが来ると、武王の娘は明らかに嬉しそうにしていた。

それも、武王はあまり喜ばしいとは思わないようだった。戦には強い武王であったけれど。

家庭的には、普通の父親に過ぎなかった、という事なのだろう。

そう思ったのだが。話してみると、まんざらでも無い様子らしい。或いはフルレティのことを、認めてくれているのかも知れない。

「革命は、成功しそうだな」

丘の上で、並んで下を見る。

現王がかき集めた軍勢が、寄せ集めと侮っていた武王の部下達に蹴散らされている。兵の士気が違うのだ。

搾取に晒され続けて、現政権を恨んでいるのは、民の大半。

そして兵士は、民の大半で構成されている。

指揮を執っている者は、騎馬民族らしい格好をして、声を張り上げているが。フルレティから見ても、乗馬が得手とは言いがたい。

遊牧民でも。

生まれたときから馬に慣れ親しみ、過酷な環境で生きなければ、ああなるという事だ。それはそうだ。

人間は生まれながらにして、馬を乗りこなせるわけでは無い。

練習して苦労を重ねて、ようやく人馬一体という境地に至れるのである。

「フルレティ。 君が悪魔だとすると、天使も来ているのか」

「ああ。 姿を見せはしないが、状況を監視している」

「そうか」

兵士達には、一神教の信者が多いと、武王は言う。

今の言葉は良いように解釈して、部下達に伝えておくとも。

渋い顔をするフルレティ。

やがて戦は、武王の完勝に終わった。最後の決定的な会戦が終わって、これで事実上勝敗は決まったと言っても良い。

現政権の指導者達が捕らえられたのは、間もなくのこと。

代わりに、武王が政権を奪取。

近隣でも、似たような革命が随所で起きていた。特にロシアでの革命が非常に大きかった。

もはやこの近辺で。

遊牧民は、隅に追いやられる存在へと転落してしまったのだ。

かっての生き方を忘れ。

武威も修羅としての存在も失った遊牧民達は。その上、苛烈な政を敷いていた遊牧民達に。

もはや、味方する者は誰一人いなかった。

代わりにスラブ系の民が、かっての座を取り戻した。

フルレティは時々様子を見に行ったが、武王は無能とは言いがたく、民の心をしっかり掴んで、善政と呼べるものを敷いていた。

そして、それが故に。

フルレティに思いを寄せているらしい武王の娘のことは、問題になっていった。

やがて、決定的な問題が生じる。

武王の娘が、隣国王子との結婚を拒否したのである。

武門の娘であり、何より王族の出身者だ。政略結婚で国を安定させるのは、仕方が無い事である。

困り果てたフルレティが、天界と魔界の中立地帯に呼び出されたのは、間もなくのことである。

 

2、約束

 

魔界も天界も、この件はあまり良くは見ていなかったようだった。

戦争がようやく終結して。

多くの同胞が傷ついて。

その末に、結ばれた条約である。

勿論、天使にも、人間と交遊する者はわずかではあったがいた。悪魔もそれは同様である。

しかし、権力者と結びつくことは無かったし。

ましてや、国政を左右することも、なかった。

結果としてそうなった、という事例はあった。

フルレティが知る限り、同じ72柱のアガレスはそういう事件に何度となく関わっている。しかし、国政を助言するわけではない。

本人が努力すれば、国政を左右しうる条件を与える、という程度の事しかしていない。それ以上は害悪となると、知っているのだろう。

分かってはいたのだ。このままだと、どんどん泥沼にはまり込んでいくと。

天界側の代表で来ているのはウリエル。

地獄を監視するという役割を与えられている天使で。天界の最重鎮の一人だ。ただ彼は戦いの最中で封印を喰らっていて、今では戦闘能力を喪失している。雄々しいいかにもな武人の姿をした天使であり。

戦争の時も、常に最前線に出てきて、味方を鼓舞している姿が目だった。

一方で、無益な戦争は好まない理知的な部分があり。

現在天界を事実上掌握しているガブリエルが右腕として望んだのも、その辺りの性格が故だろう。

ただし、彼はとても厳しい性格をしている。

今回は、特にフルレティの行動を良く想っていないようだった。

魔界の代表としては、アバドンが来ている。

蝗害を神格化した存在。

彼の体内が地獄とも言われる、一神教における強力な悪魔だ。

此方も青黒い鎧を身につけた戦士らしい姿をしている。彼も大戦の中で敗れて封印を受けていて、力は著しく弱体化してしまっているが。

ウリエル同様。だからこそ、この場に来るには、相応しかったという事だろう。

情報交換がされる。

その後、ウリエルとアバドンが見ている中で、発言を要求された。フルレティとしてはやましいところも無かったので、全て正直に話す。

ちなみに武王の娘と恋仲にはなっておらず。

勿論手だって出していない。

好意を寄せられても、困るだけなのだ。ただ、嫌いだとは思ってはいなかったのだが。

ウリエルは話を聞き終わると、腕組みする。

「なるほど。 しかし、これが国家を揺るがす問題になってしまっているのは事実であるな」

「具体的な権力奪取のアドバイスをしている訳では無い。 それに、アガレスのような例もある」

「あれは特殊例だ」

フルレティの抗弁に、アバドンがぴしゃりと言った。

確かにそれはフルレティも分かっている。

アガレスの行っている行動については、本人に直接的なアドバイスをしていないこと、なおかつ本人が努力しなければ何も得られないこと。なおかつ、特定の思想の持ち主に荷担しておらず、勢力の持ち主に傾倒しているわけでも無い。これらの事から、天界でも魔界でも行動が黙認されている。

というよりも、アガレスに道具を渡されて、それを行かせている人間はあまり多くないという研究結果も出ているようだ。

あくまで、特定条件を満たした人間しか、アガレスに会う事は出来ず。

なおかつ、その先でも、公平平等。

これらを厳正に守っているから、アガレスは天界から文句を言われていない。

ただ、時々アモンがアガレスの餌になる闇を自分から引き寄せていることもあるようだけれど。

それについては、おそらく天界も感知していないのだろう。

何よりその例外でも、アガレスは決して、公平な姿勢を崩そうとはしていなかった。

「小国の王とはいえ、親しくしすぎたな。 アバドン、貴殿はどう思う」

「しかし、アドバイスの類はしていない」

「分かっている。 故に、処罰という話はしていない」

息があっているウリエルとアバドン。

地獄という特性で共通しているからだろうなと、フルレティは思った。いずれにしても、あまりフルレティには分が良くない。

武王はと言うと、フルレティと娘が結ばれれば良いと、内心で思っているようだし。

このままだと、泥沼だ。

咳払いすると、アバドンは言う。

「きっぱり断ってくるように」

「あの娘は、俺への恋慕をこじらせて、政略結婚を拒むほどになっている。 下手なことを言うと、自害しかねん」

「その場合は、やむを得ん」

「……」

頭を振るフルレティ。

ウリエルも、それに賛成のようだった。

困り果てたフルレティは。監視を目的として、姿を消したウリエルとアバドンと一緒に、武王の元へ赴く。

武王は半年ぶりに訪れたフルレティを歓迎してくれた。

王宮は質素なままで。

豪奢を極めた王宮で好き勝手をしていた先代までの王とは、根本的に違うことがうかがえた。

「おお、友よ。 今回は随分と間が空いたな」

手ずから、秘蔵らしいワインを振る舞ってくれる武王を見ると、フルレティは胸が痛んだが。

後ろで目を怒らせているウリエルとアバドンの事もある。

何より、まだ娘のことはこじらせてしまっているままだ。ここで、はっきり話を決めておかなければならない。

「すまぬ。 家族のことで迷惑を掛けている」

「何を言うか。 貴殿が悪魔であっても、娘を助けてくれた事に変わりは無い。 政略結婚には、余も心を痛めていたのだ」

「……」

国情を安定させるための行為だろう。

そうぼやきたくなった。

武王は計算が出来る男だ。しかし彼でも、娘のこととなると、人並みの父性を発揮するらしい。

軍と一緒に戦ったことは無い。

たまに相談に乗ったけれど。それで戦局が劇的に変化したことは無いと聞いている。

それなのに。

どうしてこの王は。悪魔であるフルレティに、こうも友好的なのだろう。フルレティだって、武王のことは嫌いでは無いけれど。

それでも、此処まで好かれる理由が、分からないのだ。

後ろでアバドンとウリエルが顔をしかめているのが分かる。

彼らは人間の世界には干渉しないが。

条約に反しているフルレティを、投獄するべしと魔界と天界の上層部に掛け合うことは出来る。

死は怖くないが。

どうしてだろう。フルレティは、武王と会えなくなることが、どうにも嫌になり始めていた。

「カナンを呼んで貰えぬか」

「うむ。 席を外そうか」

「いや、一緒にいてくれ」

カナン。

あの時助けた娘の名前。

そして、フルレティに、純真な好意を向けてくる女の名前だ。

 

結局、フルレティは、その日のうちに決着を付けた。

カナンに、悪魔として、人と交わることは出来ないと告げたのである。

何故と食ってかかるカナンは、とっくの昔に成人している。政略結婚の話が出たのも、当然の成り行きであったのだ。

「悪魔と天使は、人間が繰り広げているものと勝とも劣らぬ悲惨な戦争を、永遠と繰り返してきた。 ようやく、天界と魔界が条約を結んで、戦争は終わったが。 天使も悪魔も人間の社会に、特に特定の組織や集団に肩入れしてはいけない。 それが、絶対の約束となったのだ」

考えられぬほどの長い間。

戦いは、信じられぬほどの数の弱者を苦しめてきた。

そう告げると、カナンはまつげを伏せて、さめざめと泣いた。

武王も、言葉が無いようだった。

「その言葉が真実であると、証明は」

「我がしよう」

姿を見せるウリエル。

名乗ることは無かったが。流石に一神教の信者でもある武王。ウリエルを見て、即座に名のある天使と悟ったようだった。

悪魔と交流することは、一神教でよしとされるはずもない。

だがウリエルは、其処を責める事は無かった。

「出来れば、彼の立場も理解してやって欲しい。 天界も、長く続いた戦争で、多くのものを失った。 魔界も同じ。 ようやくきた、平和の時代なのだ。 これ以上の苦しみを、加えるわけにはいかない」

「すまん」

フルレティは頭を下げることしか出来なかった。

武王は、口惜しそうに、うつむいていた。

カナンはずっと泣いていた。

 

翌朝。

もう武王に会うのは止めようと思ったフルレティは。武王の屋敷の一室を借りて、此処で過ごす最後と決めた朝を迎えていた。

勿論死ぬつもりは無い。

ウリエルとアバドンはまだ見張りを続けている。思い詰めたカナンが馬鹿な事をする可能性があったからだ。

朝日がまぶしい。

仏頂面の大男であるフルレティだが、爽やかな朝日は嫌いじゃない。別に陽光に弱いというような事も無い。悪魔だって、陽光を浴びて溶けたり焼けたりするような事はないのだ。

勿論そういう設定が付け加えられている悪魔は、打撃を受けることもあるが。

戸がノックされる。

武王だった。

「もう、此処を発つ気か」

「ああ。 カナンには悪い事をした」

「カナンがな、最後に会いたいそうだ」

そうか。

ならば、最後にもう一度あってやるべきだろう。フルレティは、武王とともに、屋敷の中を見て廻りながら歩く。

多くの敵を倒してきた武王だ。

質素ながら、屋敷の中は戦利品が多く飾られていた。

これは何、あれは何と、説明もしてくれる。この国の宝として、伝えられていきそうなものも幾つかあった。

武王の部下とも、フルレティは親しい。

何名かは、家族についても知っている。戦場に出たことは無いが、PTSDを煩った男の相談に乗ったこともあった。

よく分からないが、フルレティは黙って相手の話を聞くところが、好かれる理由なのだという。

人間が考える悪魔のように、相手を悪の道に引きずり込んだりもしていない。

貴方が悪魔だと思えない。

そんな風に言われたことさえあった。

王室が使う館としては大変質素な居間に、カナンは待っていた。

「本当に惜しい。 貴殿がカナンを嫁に貰ってくれれば、これ以上も無いほど安心できるのだが」

「買いかぶりすぎだろう」

「親心というものを分かって欲しい」

「……」

困るフルレティの後ろでは、ウリエルとアバドンが眉をつり上げている。

余計な事をしたら数百年単位で豚箱に幽閉してくれる。

アバドンは、小声で実際にそう言った。

彼らは自分が封印を受けている事もあって、皆がどれだけ苦しんだかは、よくよく分かっている。

だからこそに、一時の感情で安易な判断をされるような事だけは、許せないのだろう。

分かる。

故に、フルレティは苦しい。

カナンはソファから立ち上がると、フルレティに、ペンダントを渡してきた。

「貴方が私を妻にしてくれないことは分かりました。 素直に諦めます」

「うむ……」

「代わりに、時々この国に来て、人々を見守って欲しいのです。 国政にアドバイスを欲しいとか、兵士達を調練して欲しいなどとは言いません。 ただ、見守っていてくれさえすれば」

そう言われても、困るけれど。

ウリエルが咳払いした。

それくらいなら、いいだろう。アバドンも言う。

それならば、妥協案としてはいい。

頷くと、フルレティはペンダントを受け取る。カナンも、今や王族の娘だ。覚悟くらいは、決まっているはず。

そうでなければ、この国は。

長くは続かないだろう。

 

この約束を、フルレティは。

数百年経った今でも、守り続けている。

 

3、希望

 

雪が降り出した。

この国では、雪は冬には必ずふるものだ。だから子供が喜ぶこともないし、大人達は面倒くさいとしか考えない。

人間に比べてフルレティが有利なのは、外を薄着で歩けることくらいか。

この辺りの寒さは、厚着をしていなければ、人間が三十分ともたずに凍死するレベルである。

だから大国は本気での統治に乗り出さなかった。

同じく寒さに強いロシアが乗り出してくるまでは。

そのロシアも、ソ連が崩壊したときは、この国を真っ先に捨てた。それだけ採算が取れなかったからである。

大した資源があるわけでもなく。

人的資源だって、そう大したものでもない。

人口もそう多くない。

あるのは、武王のころからの歴史と、伝統だけ。それも、欧州での王室としては、それほど古いものでもない。

適当に屋敷の周りの雪かきをする。

これくらいは、手伝っても問題にはならないだろう。

アレクサンドラが、シチューが出来たと呼んでくる。流石に手づから作っているのでは無い。

使用人達が、作ってくれたのだ。

この使用人達も、代々王室に仕えてきた者達の子孫。フルレティがPTSDに掛かった際に相談に乗った男の子孫もいる。

だが、全く見覚えが無い使用人も何人かいた。

まあ、このくらいが妥当な数だろう。

王家としては貧しいが。護衛としては少なすぎ、監視役としては多すぎる。だから、警戒を買わない。

シチューを適当に食べながら、アガレスについての話をする。

「インターネットは使えるか」

「最近この国でも、ようやく普及しはじめたの」

「そんなに遅いのか」

「でも、携帯電話は大分前から広まっているのよ。 だから、色々インフラがいびつなのは、ソ連時代からの色々なパワーバランスも原因なのでしょうね」

面倒だが。

携帯を少し触らせて貰う。

一応ネットにアクセスする機能はついている。ただし、予想通り、相当に遅い。PCの方はどうだろう。

非常に古い館ではあるけれど。

一つ、ネット接続したPCはある。

事務室にぽつんと置かれているものだ。まだPCが娯楽に使えるという概念は無いらしく、埃さえ被っている。

一応型式は、それほど古くない。

聞いたことも無いメーカーの品だけれど。ざっと触った感じでは、海賊版のOSを使っていることも無いし、マウスもキーボードも問題なく動く。中には殆どまともなツールが入っていないが、インターネットブラウザは一応フリーソフトのが入れられていた。流石にこの状況では、OS正式のブラウザは使えない。

アンチウィルスソフトも入っている。そこそこに信頼性があるタイプだ。

ざっと見たが、時々誰かが更新は掛けているらしい。

二三回更新をするだけで、すぐに最新の状態に切り替わった。これで、よほど変なサイトでも触らない限りは大丈夫だろう。

持ち込んだUSBメモリから、念のために診断ツールを走らせる。

問題なし。変なウィルスには感染していない。

この様子からして、アダルトサイトなどを見るのには用いていないようだった。

国によっては、インターネットにおけるマナーが著しく悪い場所もある。だが幸いにも。この国では、其処まで染まってはいないらしい。

アレクサンドラに色々教えながら、ざっと触る。

不満点はさほどない。

ただし、電話回線だ。

実際の所、ISDNと光回線も、触ってみるとそれほど速度的な格差は感じ取れない。回線の太さがものをいうようになるのは、大きめのファイルをダウンロードするような場合である。

動画を見たり、ゲームなどを落としたり。

そういった場合であれば、回線が太い方が大いに好ましいのだが。

インターネットを多少閲覧するくらいであれば、電話回線でも、それほど不自由は感じないのが事実だ。

PCの使い方を、アレクサンドラにレクチュアする。

殆ど普段は触らないからか、非常におっかなびっくりであったけれど。それでも彼女は、すぐにコツを掴んでいった。

幼い頃から、フルレティに肩車やら高い高いやらをせがんできた女だ。

背が伸びて、大人になっても。

結局の所、フルレティは第二の親、であるのかも知れない。精神的な意味で、である。だから、教えると、飲み込みも早い。

「それにしても、何でも願いが叶うなんて」

「其処まで万能では無い。 具体的にどうすればいいかは、俺には言えない。 ここから先は、自力で探し出してくれ」

「ええ。 分かっているわ」

「……」

アレクサンドラは、何を願うのか。

スヴェンスの快癒か。

それとも、この国の医療改善か。

アガレスには、事前に四日もあれば充分と伝えてある。あまり豊かな国では無いが、流石に日本まで旅券を買うくらいの余裕はあるのだし、きっと大丈夫だろう。後は、どのような願いを叶えるか、だが。

警備がばたばたしているのがわかった。

これは或いは、何か起きたか。

シルフィーナがいきなり姿を現す。

彼女はアレクサンドラの若いころに生き写しと、国民に評判だ。前にこの国を訪れたときは花も恥じらう思春期だったが。

今はもう手足も伸びきり、凛とした美貌を身につけている。母譲りのプラチナブロンドは長く伸ばしていて、腰にまで届いていた。

「お帰りなさい、シルフィーナ」

「ただいま。 それと久しぶりね、フルレティ」

「うむ……」

アレクサンドラがPCを触っている様子を見て、シルフィーナはあまり良い感情を抱いていないようだった。

さては、このPCを使えるように常に触っていたのは、シルフィーナという事なのだろうか。

あり得る話だ。

昔と比べて落ち着いているシルフィーナだけれど。

心の内には激情を秘めている。それはフルレティも理解している。昔からの約束で、フルレティが行動していることも、シルフィーナは良く想っていないらしい。色々この国の女には、フルレティも苦労している。

「このままだと、この国はおかしな事になってしまう。 それは分かっているでしょうに、そんなに約束が大事なの」

「シルフィーナ」

「分かっているわよ!」

怒ってシルフィーナは部屋を出て行く。

この激情。

若いころのアレクサンドラにそっくりだ。生き写しと言われるのも、無理はない話だろうと、フルレティも思う。

「王家を廃そうという動きが、議会にあるのは知っているでしょう」

「ああ」

「スヴェンスの体調が思わしくないことが、議会がそう言う理由なの」

それは単なる言いがかりだろう。

実際、現状で事実上王家を切り盛りしているのはアレクサンドラだ。彼女の夫は既にこの世にいないが、それを問題視する国民はいない。

更に言うと、シルフィーナは決して知識が劣悪では無いし、その美貌から外交での評判も悪くない。

外交儀礼などで正装して出てきたシルフィーナは日本でも有名なほどなのだ。スラブ的な、典型的な美女である。

つまり、象徴王家としての仕事は、これ以上も無いほどきちんとしているのである。

それなのに、「跡継ぎ」とみなされるスヴェンスの体が弱いだけで、王家の廃止を訴える勢力があると言うのは。

おそらく、何処かしらの圧力が掛かっている、という事だ。

アレクサンドラとも話しているが、ロシア側の勢力だろうと、フルレティも思う。近年はソ連の復活をもくろむ勢力もあるようだし、好ましい事では無い。

「対処療法にしかならない事は分かっているの。 しかし、先進の医療を用いても、スヴェンスは回復できない以上、貴方に頼るしか無くて」

「そう、だな」

体が弱いスヴェンスは、まともに日光の下に出ることも出来ない。

気の毒だけれど。

それ以上に気の毒な人間も、いくらでもいる。

だから悩んでいるのだろう。

アレクサンドラは、自力で探してみると言って、インターネットに潜りはじめた。部屋を出ると、外で壁に背中を預けて、腕組みしてシルフィーナが待っていた。

「薄情じゃ無いの」

「俺もつらい立場でな」

「そんなの、関係無いでしょ」

若いころのアレクサンドラも、そんな風な言葉で、フルレティを責め立てた。この辺りは親子だなと思う。

若いころは、とにかく感情が理性に優先しがちだ。

武王のころから、奴の一族はその傾向が強い。

「あんたもずっとこの家に出入りしているんだったら、少しは母さんのことを気に掛けるべきよ」

「気には掛けている。 今回のアドバイスでさえ、本来はかなりギリギリの行いなのだ」

アモンは平然とルールすれすれの行動を行うが、フルレティはそこまで大胆にはなれない。

もっとも、アモンの場合は、アガレスだけが最優先事項で。そのほかのことは、どうでも良いという事が大きいのだろう。

彼奴は非常にそう言う意味でわかりやすい。

しかしながらフルレティは違う。

魔界をどう守るか。

天界との軋轢をどう避けるか。

考えてしまう。

だからこそに、安易な行動は取れないのだ。アレクサンドラがすっかり弱気になっている今、何かしらの方法で手伝ってやりたいし。王家の存続を願うなら、それを手伝ってやりたいとも思う。

これ以上の事は出来ない。

フルレティのあらゆる判断が、そう告げている。

そしてシルフィーナも内心では理解はしているはずだ。だが、感情的に、納得できない、という事なのだ。

「同胞がそんなに大事なの」

「同胞だけでは無い。 天界と魔界がまた戦争になれば、今度は此方の世界に、どれだけの影響があるか」

「……そんな事ばっかり」

「大局的な視点から見れば、仕方が無い事だ」

シルフィーナは勢いよくフルレティにびんたをくれると、自室に戻っていった。

まあ、これくらいは我慢するべきだろう。

アレクサンドラには黙っておこう。傷を瞬時に修復すると、フルレティは仕方が無い事だと思った。

 

アレクサンドラに言われて、スヴェンスを見舞う。

確かに相当に衰弱している。

同年代の男子よりも、背丈もかなり低い。栄養状態が悪いというよりも、である。見たところ、問題は別にある。

西欧の王家と言えば何よりもハプスブルグだが、肖像画を見るとおぞましい現実が明らかになる。

顔が皆同じなのだ。

血統を守るために近親交配を繰り返した結果である。いとこは普通、叔父や姪とも平気で婚姻を続けた。

その結果、遺伝病が一族全体を覆い、更には肉体そのものも脆弱になっていったのである。

この国の王家は、そこまで露骨な近親交配はしていないが。

遺伝子のプールが元々狭いこと。

何より、武王以降は、あまり才能がある人間が出なかったこともある。王家は慕われてきたが、それは圧政を敷かなかったという理由が大きい。

それに、先述のハプスブルグの血も何回か流入している。

体が弱くなることは、避けられない事だと言えた。

「医師はなんと言っている」

「遺伝病の要素も大きいと」

「……さもありなん」

勿論、現在では治療法もある。

ただし、ものによっては天文学的な金が掛かる。それが遺伝病と呼ばれるものの、厄介なところだ。

フルレティはシルフィーナに薄情とは言われたが。

スヴェンスを見捨てようとは考えていない。シルフィーナが早々に結婚して子をもうければ良いという説も、国民の中にはあるようだけれど。流石に長い間、約束もあって側にいた一族だ。

人間ではあるまいし、そこまで冷酷には考えられなかった。

「急いだ方が良いだろう」

「ええ、分かっています」

アレクサンドラの意志が強ければ。

アガレスの元にまでは、たどり着けるはずだ。

フルレティが日本に居着いているから、ということもある。アレクサンドラは日本語に堪能である。

日本の都市伝説である店を探し出す事に苦労することは無いだろう。

問題はその先。

その願望が、本当に強いか、だが。

フルレティは、嫌な予感を覚えていた。どうもアレクサンドラは。

いや、その時はフルレティが止めれば良いことだ。

「シルフィーナはどうしている」

「あの子は朝から外交に出向きました。 今日はアフリカの方から、お客様が来ているのです」

「ほう、遠くから大変だな。 しかもこの時期に」

「我が国とこの間通商条約を結びましてね。 その接待です」

苦労しそうだとフルレティは思ったが。

帰ってきたシルフィーナは平然としていた。パソコンに向かっているアレクサンドラを横目に、シルフィーナは言う。

「国会の狸共の差し金よ。 わざわざこんな寒い時期に、アフリカの外交官を接待するようになんてね」

「相手の不興を買うように仕向けたか」

「ええ」

しかし、シルフィーナは一枚上手だった。

彼らに温かい料理を振る舞うことで、却って喜ばせたという。寒いところに来れば、温かい料理が美味しく感じるのは当然のこと。

丁寧な案内もあって、外交官は大満足の体で帰って行ったそうだ。

「見物だったわ、狸共の顔」

「あまり挑発してやるな」

「知らないわよ、そんなの」

母を一瞥だけして、シルフィーナは自室に戻っていく。

この好戦的で挑発的な性格が無くなれば、いい王族になるだろう。きっとアレクサンドラも、それが不安に違いない。

ただ、それは若いころのアレクサンドラによく似ているという理由からでもある。

自分が苦労したから。

娘には、同じ苦労を味あわせたくは無いのだろう。

アレクサンドラに呼ばれた。

分からない日本語があると言う。

まあ、この辺りは流石に仕方が無い。日本語に堪能であっても、専門用語の処理は追いつかない場合もある。

このくらいなら、助力にはならないだろう。

軽く説明した後、状況を一瞥。

既に都市伝説のサイトをかなり調べて、データを集めるところまで行っているようだ。

「確かに、何でも願いが叶うという都市伝説が広がっているようね。 それに、貴方の言葉による裏付けもある」

「俺はあまり手助けは出来ない。 辿り着くのは、自力でやるんだ」

「分かっているわ」

再び、作業に戻るアレクサンドラ。

昔から、アレクサンドラは俊英として知られていた。この国には碌な大学がないけれど、あったら東大クラスくらいの学力は有していたはずだ。ただ、これはフルレティのひいき目かも知れない。アガレスがこの場にいたら、なんと言うだろう。

助力できる時間は、もうあまり残っていない。

アレクサンドラの作業が一段落したところで、一旦屋敷を出る。

そして、外で見張りを行っていた天使に挨拶した。

見張りをしていたのは、以前武王の時に同行してくれたウリエルでは無い。名前も知らないようなもっと下っ端だ。

とはいっても封印は受けていないので、そこそこに腕は立つ。

今のフルレティでは多分勝てないだろう。

かなり長身の男性天使で、肩幅も広い。顔つきはかなりごつく、優美さより豪壮さを感じる。

両性具有の天使も多いのだけれど、近年は女性と男性がはっきり分かれるようになってきた。これは半神や随神とでもいうべき存在だった古代の一神教から、天使に関する観念が変わってきている証拠でもあるだろう。

「余計な助力はなさっていませんね」

「ああ。 封印を受けた俺が、お前に隠れて悪さが出来ると思うか」

「出来るかと思います」

「そうか」

買いかぶりだと言おうと思ったが、止めておく。

無意味な挑発は、何ら意味を成さないと、自分でも分かっているからだ。

軽く情報を交換する。

この国の政治体制は、あまり良い状態では無いと、見張りの天使は言う。彼は八十年あまりこの国にいるそうだが、改善の兆しは見られないという。

「ソ連が居座っていたころよりはマシになっていますけれどね」

「随分入れ込んでいるな」

「それは長い事いますから。 勿論貴方にはとうてい及びませんけれど」

なるほど。それで対抗意識を燃やしていたのか。

苦笑いすると、適当に飲みに行くかと誘ってみる。少しだけならと、天使は応えた。

 

飲みに行くと言っても、アガレス同様現世の食物を口に入れることは、あまり好ましくないとフルレティも知っている。

ただフルレティはその気になれば新陳代謝も排泄も出来る。

そうすることで、体内に入れた食物を、循環の輪に戻すのだ。相手の天使も、それは出来るようだった。

とはいえ、それにも限界がある。

武王の一族と約束をしてから、この国には毎年とはいかずとも、時々は来るようになっている。

古いものが保存されやすい欧州とはいえど。

流石に武王のころから残っている店は、殆ど無くなってしまったのが現状だ。その中の一つ。

遊牧民の王朝のころから残っている店に、天使と一緒に入った。

ごつい大男二人が入ってきても、店主は動じない。

この店主の先祖は武王の一族に仕えていて、四代前まではフルレティの正体も知っていたのだけれど。

今ではそんな事も無い。

ウォッカを飲みながら、適当に話をする。

名前も聞いていないことに今更気付いたが。天使殿だけで充分通じるので、それで良いと想った。

「時にこの国をよくするには、どうしたら良いと想う」

「王家の復権でしょう」

「ふむ……」

天使は即答したが。

フルレティは必ずしもそうとは思えない。

近年は平穏な世界情勢が続いていたが、それも間もなく過去になるだろうと予想しているからだ。

王政は、政治的なシステムとしてはあまり優れていると言えない。

急激な改革をするには、中央集権型の政治が良いのは確かだ。しかし王政の場合、血統による権力譲渡が正当化されるという弱点がある。

つまり、とんでもない無能者が、王座に就く可能性が高いのだ。

どれだけ始祖の能力が高くても、その子孫まで優秀とは限らない。王族は優秀だとか考えている頭が花畑の人間には、王政は優れたシステムに感じられるかも知れないが。現実はそう甘くは無いのだ。

「今の議会の無能さは目に余ります。 ロシアの介入を散々受けてしまって。 これではソ連時代と大差ありませんよ」

「流石にそれは言い過ぎだろう」

「……そうでしょうか」

新陳代謝が出来ると言うことは、酔うこともできるという事だ。

目が据わってきた天使を軽くたしなめると、フルレティも酒を呷る。あまり大声で余計な事をいうと、無駄に注目を集めかねない。

フルレティはただでさえ、一部の王家の人間に、悪魔と知られているのだ。

アレクサンドラやシルフィーナは良いけれど。

使用人達の中には、フルレティの正体を、議会に売る者もいるかもしれない。それを考えると、あまり目立つ行動は取れなかった。

「確かに武王の子孫達は、目だった暴政を敷いてこなかったが。 血統に政治を任せる仕組みを正当化すると、いずれそれも過去になるだろう。 今の時代は、民衆がいにしえとは比べものにならないほどに金も力も持っている。 国情を安定させるには、王政は無為だな」

「ですが、武王の一家が、この国をこじんまりとしていながらも、支えてきたのは事実でしょう」

「今までの実績は確かにある」

だが、ソ連の侵攻の時。

武王がこの国に作っていた統治のシステムは失われた。

民衆の信頼はあるかも知れないけれど。

実際の統治システムがもう王家には噛んでいないのだ。そしてフルレティは、それを悪い事だとは思わない。

長い事、あの王家を見守ってきたから、知っていたのだ。

歴代の王は、ずっと政治の重圧に苦しんでいた。中には、王家を放り出して、何処かに逃げ出したいと言っていた者までいた。

天使が酔いつぶれたので、店を出て、連れて行く。

近くの天界の駐屯所に天使を連れて行くと、常駐していた女性の天使が、呆れたように此方を見た。

駐屯所は、空間の皮一枚を隔てた向こう側にある。

だから其処は、もう人間もいないし、姿を隠す必要もない。ただし、寂しい荒野で、そこにぽつんとちいさな三階建てのビルが立っている。

それがきらびやかなイメージがある天界の駐屯所なのだ。

「ヨフィエル! あなた、また飲んで」

「ういいいー。 すびません」

「そんなでは、いずれ堕天使になってしまうわよ!」

「ふいー」

情けない声を上げる天使を、一緒になってビルの中に運び込む。

中にある仮眠室に天使を連れ込んで、ベッドに転がす。女性天使はため息をつくと、一緒にウォッカを飲んでいたフルレティを見た。

「貴方が悪さをしないことは知っていますけれど。 あまりうちの若い子をたぶらかさないでください」

「すまん。 此処まで簡単に潰れるとは思っていなかったのだ」

「この子ったら、酒は好きなのに弱いんだから」

代わりの見張りを、一人手配してくれる。

フルレティは手間を掛けたと言い残すと、駐屯所を出た。

 

アレクサンドラの所に戻る。

お酒を飲んできたのと聞かれたので、そうだと応えた。珍しいと言われたので、そうだなと応じる。

あまりフルレティは、口数が多い方では無い。

作業を一段落させたアレクサンドラは。

既に、おおまかな店の位置を掴んでいるようだった。

血の巡りが良くて何よりである。

「調べる限り、本当に何でも願いが叶うお店というのは、あるようね。 欧州でも少し前から、アクアリウムのレンタルシステムが盛況なのだけれど。 その仕掛け人が、どうも店に関与しているらしいと私はにらんでいるの」

「そうか」

鋭い読みだな。

そう思ったけれど、口にはしない。余計な助力になると判断しているからだ。

結局の所。

神と人、悪魔と人の関わり合いは、このくらいで丁度良いのかも知れない。

神が人のために、強大な力を振るって、敵対勢力を大量虐殺するというのは、あまりにも不穏。

悪魔が同じ事をするのも、良くないだろう。

求められたら側にいて。

助言だけをする。

本来、隣人としてのあり方としては、これが最上なのだろうか。だから、フルレティが数百年もこの王家に入り浸っても。天界も魔界も、目こぼししてくれているのかも知れない。

アガレスからメールが来た。

内容を確認すると、そろそろ帰ってこい、というストレートなものだった。

「フルレティ。 もうすぐどうにかなりそうよ」

「そうか」

「貴方の所の上司からでしょう? もう、帰るときが来たのね」

頷く。

アレクサンドラは、此方を見なかった。

「一人で、どうにか出来そうか」

「私も母親ですもの。 子のためだったら、どんな無茶だって平気よ」

「今はそう言う時代だな」

違う時代も、フルレティは見てきている。

ロシアでは、飢饉の時に、隣家と子供を交換して食す事があった。これはなにもロシアに限った話では無い。

飢饉の時は、どんな国でも起きていた悲劇だ。

そして、この国でも。

比較的東欧では静かで豊かなこの国も、悲惨な出来事と無縁だったわけでは無いのである。

アレクサンドラは、本当に、欲望に流されず。息子を救うことに注力できるだろうか。

どんな善人でも、足を踏み外す。

この王家の人間だって、それは例外では無い。ましてやアレクサンドラは、悪夢のような人間の本性を、散々見てきているのだから。

「信頼、して良いのだな」

「私は、信頼されていないの?」

「信頼したい」

「……」

フルレティも、何度もこの王家の人間に、煮え湯を飲まされたことがある。

歴代の中には、フルレティを騙した者だっていた。その度に関係修復には時間が掛かった。

裏切った者の中には。

善良で、とても嘘をつけないような者だっていたのだ。

「確かにね。 何でも願いが叶うならと、色々と悪い事を考えてしまうのも事実よ。 でも今は、スヴェンスを救うことだけを考えたいの」

「遅くに出来た息子だからか」

「違うわ。 私が、母親だからよ」

「そうか」

ならば信じようと、言えないところが悲しかった。

アレクサンドラは、この様子なら、近いうちに合い言葉にまで辿り着くだろう。もうフルレティの助力はいらない。

「翌日には、日本に戻る」

「次は、いつ来てくれるの?」

「分からないが、出来るだけ早くに来るつもりだ」

「そう。 シルフィーナも喜ぶわ」

シルフィーナも、男でも出来れば少しは落ち着くだろう。

そうフルレティが言うと。

アレクサンドラは、苦笑いした。

 

屋敷を後にすると。

フルレティは、玄関でシルフィーナに通せんぼされた。やはり、抗議するように、此方を見ている。

「薄情者」

「そう言われても困る」

「母さんが、どれだけ寂しい思いをしていると思っているの。 私だって」

「……すまんな」

あまりにも深入りしすぎると。

悪魔も人間も、碌な事にはならないのだ。

シルフィーナも頭ではそれが分かっている筈。だから今は、頭が冷えるのを、待って貰うしかない。

すっと空間を渡って、シルフィーナのいる場所を飛び越える。

彼女が振り返ったときには。

もうフルレティは、屋敷の敷地を出ていた。

薄情者。

そう言われたことは分かっているけれど。だからといって、今更約束を破るわけにもいかない。

同胞達を裏切る訳にも。

天界に喧嘩を売るわけにもいかなかった。

 

4、せめぎ合い

 

一月後。

アガレスの店に、アレクサンドラが訪れた。流石にシルフィーナは伴っていなかった。

店員をしているフルレティを見て、アレクサンドラは少しだけ驚いたようだけれど。会釈だけすると、二階に上がっていった。

さて、此処からだ。

ゴモリが内線電話を掛けてくる。

「あの人、貴方がずっと友情をはぐくんでいる一族の人でしょう?」

「そうだが」

「その割りにはもっと生臭いものを感じるのだけれど」

「お前な」

声に不快感が籠もったのを感じ取ったか。ゴモリはそれで電話を切った。

よいしょよいしょと本を運んできた猪塚が、作業をしながら話を振ってくる。

「フルレティさん、元カノの話?」

「殺すぞ」

「わ、怖い」

ケラケラ笑う猪塚。

此奴は笑っているが。フルレティは気分が悪い。

猪塚はアモンに格闘技を学んでいる上、この世界でも屈指のセンスの持ち主である。下手をすると、格闘戦限定でなら、フルレティでさえ遅れを取るかも知れない。まだまだ進歩しているとアモンが言っていたし、多分人間の中では最強では無いかとさえ思えるほどなのだ。

「あの人、フルレティさんを見る目が、恋をする女の子のだったよ」

「だから困っている」

「悪魔と天使の戦争の話?」

「そうだ。 長い間続いた悲惨な戦争の末に、我らはようやく、過ちを学ぶことが出来たのだ。 もう二度と繰り返すわけにはいかない」

天使も悪魔も、大勢傷ついた。

人間とは違う。

だから、小競り合いは兎も角。大規模な戦争が、二度と起きないようにしなければならないと思い。対策を実行した。

勿論悪魔にも天使にも、悪事を働く者はいる。

だが人間では無い。

利権のために、大量の命が危険にさらされる戦争を行おうと考える人間とは、思考回路が違うのだ。

本のはみ出た部分を裁断しながら、猪塚は言う。

此奴は最近、パワーを抑える技術まで身につけていて。店ではか弱い者を装う事もあるので、余計にタチが悪い。

「何だかフルレティさん、このお店で一番恋愛沙汰に縁がありそうだね」

「ないと言っている」

「毎回グダグダになってるんでしょ、あの様子じゃ。 手を出したことは無いみたいだけれどさ」

「……」

こめかみの血管がブツンと切れそうだが、此奴の言う事はいちいち正論だ。猪塚は頭が悪そうでいて、不意に物事の本質を突いてくる事がある。格闘技のセンスの高さや、とっさの判断力を見ていても。本来の頭の回転は悪くないのかも知れない。

あの約束をしてからと言うもの。武王の一族とは、毎度面倒な事になっている。

約束は大事だし。

武王の一族のことも大事だと思っているけれど。

恋愛感情が絡むのは、確かに面倒だった。フルレティとしても、困ることは多かった。

しばらく無言で作業をしていたが。

アレクサンドラは降りてこない。

「今回は長いな」

「そう? いつもこんなだよ」

猪塚は、もうフルレティの恋愛沙汰に、興味は無いようだった。

武王の一家も、そうであったらよかったのに。

好きだなんて言葉が、災厄しか産まないこともある。

在庫を並べはじめる猪塚を見ていると。何となく、解決方法が分かるような気もしてきたけれど。

ため息をつくと、フルレティは作業に集中する。

天界にも魔界にも。

そして、色々世話になっているアガレスにも。これ以上、迷惑は掛けられなかった。

 

アレクサンドラが帰った後。

アガレスに呼ばれる。一階は猪塚に任せる。

何、問題は一切無い。彼奴の今の戦闘力ならば、生半可な天使くらいは片手で捻ることが出来る。

既に人間の領域を踏み越えはじめているほどだ。

三階に出向くと、アガレスは頬杖をついていた。非常に機嫌が悪そうである。逆にアモンはにこにこしている。

つまり、ろくでもない事があったという事だ。

「随分と困った奴を呼んでくれたな」

「何かしでかしたか」

「息子を救いたいという願いは結構なのだがな。 方法としては、あの女はお前に悪魔の力を取り戻して、それで救って欲しいと願っていた」

息を呑む。

確かに、それがアレクサンドラの思考としては自然かも知れない。

勿論、願いは叶えなかったと、アガレスは言う。

「息子を救うことで妥協はして貰った」

「そう、だろうな」

「人間の情念を甘く見ていたのでは無いのか、フルレティ」

「……すまん」

この機嫌の悪さから言って。

余程食べた闇の質が悪かったのだろう。

それはそうだ。

フルレティに対してため込んだ情念が渦を巻いていたのだろう事くらいは、簡単に察しがつく。

「それで、何をくれてやったのだ」

「ワクチンを少々な」

「ワクチン」

「まだ未認可だが、利く事は確実だ。 これでスヴェンスと言ったか。 病気で寝込んでいる息子は助かるだろう」

頷くと、フルレティは三階を出た。

泊まっているホテルについては聞いている。アレクサンドラは一応国賓だから、かなり厳重に警備もされていた。

警備の外側には、人間には見えないが、天使の姿もある。

彼らも知っているのだ。

今回がグレーゾーンの行為だと言う事は。

勿論事前に許可は取ったし。アガレスから、多分結果の伝達も為されているはずだ。天使達は、あまり此方を好意的には見ていなかったが。

流石に国賓が泊まっているだけあって、そこそこに良いホテルである。

人間には見つからないまま、アレクサンドラの部屋に。

不意に姿を現したフルレティを見て、護衛の者達は慌てて銃に手を掛けたが。アレクサンドラが知り合いだというと、銃を下ろした。

「その様子だと、もう聞いたのね」

「ああ」

「私も、まだまだ吹っ切れないのね」

「……」

フルレティとしても。

今更、悪魔から人間になる訳にもいかない。なる事も出来ないし、なってはいけないとも思っている。

「スヴェンスを救う事が出来たらいいな」

「ええ。 あの子も、きっとフルレティ。 貴方に肩車をして欲しいと願うでしょうね」

「もうそんな年ではあるまい」

「あの子はね、ずっと夢うつつの中にいるの。 体は中学生くらいだけれど、心の方はもっと幼いわ」

母親が言うのなら、そうなのだろう。

しかしワクチンを投与して回復すれば。或いは。

回復すれば、心の成長も、きっと早くなる。いずれ人並みの。武王の一族の男として、相応しい人間に成長できるかも知れない。

それは願望だ。

ずっとベッドに縛り付けられていたことが、悪く働く可能性だって大きい。

本当に、今回のことは、良かったのだろうか。

天井を仰ぐフルレティ。

アレクサンドラは、貴方には感謝していると言った。

部屋を後にする。

既に深夜である。店はもう閉まっているけれど。悪魔は基本的に眠ることがない。ゴモリは黙々と二階で作業を続けているし。珍しく帰ってきたダンタリアンは、自分用に作っている部屋に閉じこもって、八画面くらい同時にオンラインゲームをやっているようだ。

猪塚は帰ったが。

アガレスが、一階に下りてきていた。

「話は、終わったか」

「ああ」

「愚痴があるなら聞こうか」

「いや、大丈夫だ」

自分用に作っている小さな空間に、フルレティは閉じこもる。

小さな和室を模していて、中央にはいろりもある。火を入れると、温かい。

目を閉じると、フルレティは。結局どうすれば良かったのだろうと、漠然と思う。

今回の件は、結局情念を掘り返しただけでは無かったのか。見守ると約束した一族に、大事なことは教えた。

しかしそれが、致命的な事につながらないだろうか。

その日は手酌で、ひたすら飲んだ。

しばらくは誰とも、会いたいとは思わなかった。

 

5、顛末

 

数日後。

アガレスに呼ばれた。

何か問題が起きたかと思ったのだけれど。実態は少々違った。

「アレクサンドラと言ったな。 小国のあの女王のアクセスログを解析し、PCに侵入して、データを消しておいた」

「そうか。 だがアレクサンドラはかなり知能が高い。 多分アクセス経路は全て覚えているぞ」

「それもぬかりない」

ここに来て願望を確認したとき。

記憶の中から、不要なものにブロックを掛けておいたという。

この辺り、アガレスは流石に手慣れている。

うっかりやどじが目立つ事もあるけれど。長年この願いを叶えられる道具を渡し、かわりに闇を喰らうという事をして来ただけのことはある。

「連絡はそれだけか」

「いや、もう一つある」

「ほう?」

「お前やあの女が助けようと考えていた子供のことだ」

あの国の言葉で書かれた新聞が突き出される。

受け取ると、さっと目を通した。

「スヴェンス王子、回復へ向かう、か」

「ワクチンをすぐに投与したのだろう。 実験的に開発されたものなのだが、開発された場所が悪くてな。 権力闘争に巻き込まれて、闇に葬られてしまったワクチンなのだ」

「遺伝病にも効くのか」

「あの子供がまだ幼かったのが幸いしたな」

幼い、か。

確かに遺伝病の影響で、非常に発育が悪くて、幼いとも言える状況だった。逆に、だからこそ、薬は良く効いたということか。

「ならば、もう問題は無さそうだな」

「……そうだろうか」

「何かあったのなら言って貰えるか」

「いや、何でもない」

頷くと、フルレティは、アガレスの空間を出た。

アモンは相変わらずアルカイックスマイルを浮かべ続けていて。それが、何かが実はあったと言っているようなものだった。

だが、それでも。

フルレティは構わないと考えた。

 

アガレスは頬杖をついたまま、今回の件について考えていた。

人間と悪魔の間には、大きな溝がある。

フルレティの行動が認められているのは。

天界にとっても魔界にとっても、テストケースとして有用だからと、以前小耳に挟んだことがある。

だがそれにも、限界があるかも知れない。

アレクサンドラというあの女。

明らかに、若いころにフルレティに抱いた恋心をこじらせてしまっていた。本心はこうだったのだろう。

スヴェンスは救いたいが。

それ以上に、自分の願望。

フルレティを独占したいという心を、叶えたかったのだ。

うすうすそれに気付いていたフルレティだろうが。

見守ってきた一族が、ずっと受け継いできた心を受けていたからか。気付いていたが、完全に素通りさせてもいた。

だからこそ、闇は何というか。

アガレスが食べても、それほど美味しいとは感じ取れなかった。

しばらくして。

また、アモンが新聞を持ってくる。

スキャナーに掛けて、翻訳ツールを起動。流石にアガレスも、東欧のマイナーな言語は分からない。

フルレティは其処に入り浸っていたし。

アレクサンドラは英語にも堪能だったから、どうにか意思疎通が出来たのだ。

アモンはどういうわけか分からないが、素で読めるらしい。何かの任務で、滞在したことがあるのかもしれない。

「ふむ、どれどれ」

アモンが笑顔で見守る中。

記事を読み終えたアガレスは、声を飲み込むのに苦労した。

スヴェンス王子、国会に呼び出される。

議員達の超党派連合が、病弱な王子に対する廃嫡を要求。代わりにシルフィーナ王女を、跡継ぎに据えるようにと要求。

議決は一日で行われたという。

元々ようやく病状が改善したばかりのスヴェンス王子は、議会の最中もずっと眠っていて、反論の言葉はなかったという事だ。

これに対してアレクサンドラ女王は沈黙を維持。

廃嫡が、正式に決まった、という事だ。

「どうも妙だな」

「フルレティに知らせてきましょうか?」

「そうしてくれ」

何となく分かる。

だが、何だろう。この胸につかえるような、気持ちの悪さは。どうにもおかしなものを感じてしまう。

フルレティが来た。

新聞を握りつぶさんばかりである。

「アガレス!」

「どうした」

「すぐに向こうへ行きたいが、構わないか」

「ああ。 だが、用事が終わったら、すぐに戻ってこい」

頷くと、フルレティは姿を消した。

ため息が漏れる。

彼奴はあちらで、おそらく人間の業を目にするはずだ。縁が切れるというようなことは多分無いだろうが。

それでも、あまり良い気分はしない。

アモンはむしろ楽しそうなのが、余計にげんなりさせられる。

いや、アモンは真相に気付いているのかも知れない。性格の悪いアモンの事だ。あり得る話であった。

 

空間転移を繰り返して、フルレティは現地に到着した。かなり疲弊したが、今はそんな事をいっている場合では無い。

議会の周囲は、抗議する民衆であふれかえっていた。

警備の兵士達も、げんなりしている様子が見て取れる。彼らもこの国の民。王家を慕っている者も多いのだろう。

世界的に見て、此処まで慕われている王家はあまり多くない。

皮肉な話だが。

此処が資源もない小国で。

大国との摩擦に常に苦しみ続け。

搾取も贅沢もする暇が無かった、というのが原因の一つなのかも知れない。

「やっとスヴェンス王子は元気になりはじめたんだぞ!」

「人でなし! お前達なんか、二度と支持しないからな!」

罵声が飛び交っている。

議会は沈黙を守っているが。多分議員達は青い顔を並べているはずだ。議会の周辺に集まっている人間は、軽く万を超えている。

この国の規模から考えると、相当な数だ。

王家がそれだけ慕われていること。

超党派連合の決定が、悪辣と捉えられていること。

その二つを、この事態は意味していた。

状況を確認後、王家に出向く。

玄関で取り次ぎを頼む間も惜しいので、直接居間に空間転移した。

アレクサンドラは。

いた。

いたが、フルレティは眉をひそめた。

アレクサンドラは、どういうわけなのだろう。

暖炉の前で、編み物をしていた。

「アレクサンドラ」

「あら、フルレティ」

アレクサンドラはにこにこしていて、この一大事だというのに、困っている様子が微塵もない。

何だか様子がおかしい。

まさか、現実が認識できていないのだろうか。いや、そんなはずは無い。

アガレスの所に来た時は正気だった。あれから一月程度しか経っていないのである。正気を失うにしても、急過ぎる。

部屋を見回すが、何か様子がおかしい事は無い。調度品は前のまま。アレクサンドラだけが、違和感の塊になっている。

部屋に飛び込んできたのはシルフィーナだ。

「フルレティ!」

「ニュースを見て、今来たところだ。 何があった」

「……こっちへ」

手を引かれる。

そして今を出ると、シルフィーナは時々アレクサンドラの方を見ながら、沈痛な様子で話し始めた。

「母さんはね。 あんたがこの間来たころから、精神的な体調を崩しはじめていたの」

「そんな様子は見えなかったが」

「あんたが鈍いだけでしょ」

厳しい弾劾だが。

シルフィーナの言動は、フルレティを糾弾するよりも。むしろ、現実を説いて聞かせるような響きがあった。

まさか。

こいつはそれで、ずっと機嫌が悪かったのか。

「スヴェンスはね、この国の希望であると同時に、母さんの邪魔者になりはじめてたのよ」

「馬鹿な、アレクサンドラはそのような女では」

「勿論大事にもしていたわよ」

なるほど、矛盾を抱えていて。

それが、アガレスと会うことで、一気に噴出したという事か。

まさか。

ぞくりと、背筋に悪寒が走る。

アレクサンドラの願いというのは。スヴェンスを出汁に使って、フルレティを独占することだったのか。

「ようやく分かったの?」

「どうしてそのような狂気にむしばまれた」

「長年あのアホンダラどもの相手をしていれば、心だって病むわよ。 私だって、お酒飲まないとやっていられないことがしょっちゅうだもの」

「だからといって」

病弱な実の息子を、そのような事に。

勿論それがアレクサンドラの心の全てでは無いだろう。実際に心配もしていたはずだ。

そして、今の事態。

まさかこれは、アレクサンドラが手を回したのか。

可能性はある。

権力を実際に持たないとはいえ、国民に多大な支持を受けているアレクサンドラだ。議員にも顔が利く。

この事態を引き起こすことで、何をしようとしている。

「二人とも、何を話しているの?」

アレクサンドラが呼んでいる。

分かっている。人間は魔物だ。心には巨大な闇を抱えていて、だからこそ悪魔は大事にする。光も抱えているから、天使も大事にする。

しかしその闇の濃さは。

時に悪魔の想像を遙かに凌ぐ。

編み物を続けているアレクサンドラの目は、焦点があっていないように、フルレティには見えた。

既に精神の平衡は、完全に崩れているのか。

「スヴェンスは」

「あの子は病院よ」

「行ってあげて」

シルフィーナが目配せする。

頷くと、この場を離れた。楽しむには、この狂気は、少しばかり度が過ぎる。

空間転移して、聞いた病院の側へ。

病院の周囲も、多くの国民が集まっていた。

プラカードには、悲劇の王子を救えとか、悪魔共を許すなとか、色々書かれていた。正直、頭が痛い。

悪魔より人間の方が、余程悪辣だ。

スヴェンスは、フルレティを覚えていた。

ベッドで半身を起こした病弱な少年は。ワクチンで急激に回復しているようだ。遺伝病とはいえ、回復策をきちんととれば。この通り。

もう数年もすれば、外で元気に走り回れるようになるだろう。

「フルレティさま」

「うむ」

愛くるしい王子が、咳き込んだ。

いきなり全快とはいかない。少しずつ元気になっていけば、出来る事も増えていくだろう。

まずは勉強をしたいと、スヴェンスは言う。

良い事だと、フルレティは思った。

知らなくて良いことが、この世にはある。アレクサンドラの真意が何処にあるかは、彼女自身にしか分からない。

シルフィーナからメールが来る。

国は自分が継ぐというものだった。

見合いの話も幾つも来ている。

その一つを受けるとも、書いてあった。

確かに、不安定要素が強いスヴェンスを、そのまま跡取りにするわけにはいかない。外交の場で既に活躍しているシルフィーナが、跡を継ぐのが自然だろう。

どのような闇があるかは、今はいい。

外で遊びたい。

サッカーもしたいと言うスヴェンスの言葉を。

ただ黙って、フルレティは聞き続けたのだった。

 

(続)