目に見えぬ檻

 

序、遠い街の明かり

 

いつ頃からだろうか。

私には、あの丘の向こうに広がる明かりが、あこがれとなっていた。遠い遠い街の明かり。

行くことは、出来る。

それなのに、住まうことは、とても難しい。

丘に上がって、風に吹かれながら、此処で見下ろす光景。

建ち並ぶビル。

編み目のような道路。

いずれもが。私にとっては、不思議なほどのあこがれとなっていた。

足下に広がる草原が、ある一点から開発されて。其処から向こうは、街。今私が住んでいる田舎とは、違う場所。

「奈々ー!」

後ろから呼ぶ声。

振り返ると、凄い風が吹いて、スカートがまくれそうになった。ただ流石に漫画じゃないし、パンツが見えるような粗相はしない。

振り返った先にいた友人も、自転車を慌てて抑えていた。

私の友人、相川朋子だ。

「また都会見てたの?」

「うん。 あんなに近いのに、どうしてあんなに遠いんだろ」

「哲学的な台詞だね」

「そうかも」

食事だと言われ、頷いて戻る事にする。

友人は隣の家の子。

今日は両親がいないこともあって、お世話になっている。都会ではこういう関係は既に消滅したと聞いているけれど。

田舎では、まだまだ残っているのだ。

まあそれは、私と朋子が、同い年の女子と言う事もあるのだろう。男女だったら、こうは行かないかも知れない。

中肉中背の私と違って、朋子は少し背が低い。

ただもうカレシがいるし、必ずしも発育は心の発達とはあまり関係が無い。ちなみに私は、見かけが怖いとかで、男はあまり寄ってこない。何だか知らないが、目つきが怖いのだそうだ。

何度かカレシも出来たが、すぐに別れた。

だから最近は、朋子ののろけを聞かされる事が多い。別にどうでも良いので聞き流しているけれど。

「もう夕方なのに。 暇さえあれば、彼処に行ってるね」

「将来が不安でさ」

「そうなの?」

「この集落、人口が減る一方。 若者っていえるの、私達だけだよ」

朋子のカレシだって、少し此処よりはマシな所の出身者だ。此処が田舎なのは、とにかく人がいないからなのである。

ただ、昔ほど田舎というのは、酷い状況では無い。

インフラはあるし、インターネットだって通っている。

テレビだって見られる。

勿論都会ほど番組は充実していないけれど。

私も朋子も、既に高校生。そろそろ大学生になる。受験は一応あるけれど、大学は今の時代、簡単に入る事が出来る。

だからさほど気にはしていない。

そもそも、大学に行く気が無いといっても、誰も文句を言わない。

村にも、結構有名な大学に通っている者がいるのだけれど。だからといって、村に貢献できているかと聞かれれば、それはノーだ。

今のこの国では、良い大学に行っても、それは成果に結びつくとは限らない。

かっては、サラリーマン信仰というものがあったけれど。

それも死滅して久しい。

今では如何に村に若者を戻すかで、老人達が青い顔を並べている状態だ。誰もが知っているのだ。

今までの思想で、村から若者が減りすぎた。

失敗だったのだと。

私も朋子も、村からは出ないで欲しいと言われている。

しかし、かといって、である。

それでどうやって子孫を作れば良いのだろう。村のためにも、子供を作ることは最優先事項として考えられている。

しかし見合いなどの文化は、既に衰退して久しい。

朋子は良い。

男にもてるし、なにより今交際しているカレシとも、結婚を前提とすればいいのだから。

私の場合は、そもそも男が寄ってこない。

これは致命的な事だ。

都会に行っても、何も変わらないことは分かっている。かといって、この村を大きくするなんて事、私に出来るとは思えない。

頭が良いわけでも無い。

運動が出来る事も無い。

何かを作った事も無い。

無い無いづくしだ。

家に着く。家族ぐるみのつきあいと言えば良い部分もあるけれど。悪い所もある。たとえば私に男が出来ない事なんて、近隣の全員が知っている。学業成績は私より朋子の方が劣る。それもずっと。

だけれども、私が一顧だにされないのは。子孫を残すという意味で、私が有益では無いからだ。

空き家も周辺には多い。

取り壊しもされず、ただ朽ちている場所も、散見された。

「ねえ、朋子」

「どうしたの?」

「もしもこの村に人が戻ってきたら、少しはましになるのかな」

「何を急に。 日本中で今、人間が減っている状態でしょ? 無理に人を呼んで、訳が分からない犯罪者まがいの人達が集まってきたりしたら、どうするつもりなの?」

事実、そう言う場所はある。

そうして、いつの間にか日本人が何も出来ないようになってしまった場所もあるとか、聞いている。

かといって、今の日本人は、あまりに子供を作ることに熱心では無くなった。

理由は分かる。

とても暮らしていけないからだ。

無理にたくさん子供を作って、それで育てていけるだろうか。

共働きが当たり前になっている今の時代。

更に、核家族化が加速化している状況。

子供なんて、たくさん育てられるはずもない。

家に着く。

今日は朋子の家にお泊まりだ。田舎に暮らしているから、両親が家に帰れない日も多いのである。幼い頃からそうだったから、今更慣れている。

逆に朋子が、うちに泊まることだって多い。

適当に夕食を貰って、さっさと寝る。

朋子も私も、趣味と呼べるようなものはない。それに、朋子も門限が厳しくて、夜には遊びに行けないし。

そもそも、遊びに行く場所がないのだから。

 

朝早く、起きて。

畑の手伝いをして。それで家に戻ってくると、もう学校に出る時間だ。

田舎の農家は、滅茶苦茶に閉鎖的な場所だ。

人間関係は狭苦しくて重苦しい。脱サラしたサラリーマンが農家をやろうと来る事があるけれど、殆ど長続きしない。いずれもが、あまりにも閉鎖的な人間関係に、嫌気が差してしまうのだ。

先人達がそうしてせっかくの金の卵を地面に叩き付けて割ってしまったから、今の農業の高齢化がある。

そんな事は小娘にだって分かっている事なのに。

老人達は、理解しているように見えなかった。

学校に出る。

もう生徒数は数十名しかいない。近隣の街や村から子供達をかき集めた場所だ。近々統合の話が出ているというのも頷ける。ただし一番近い高校が、電車で片道一時間かかる場所にある。

私が卒業するまでは、学校無くならないでくれよ。

そう願うほか無い場所だ。

ただし、今の学校だって、決して良い場所では無い。

なんで教師をやれているのかよく分からないような人もいるし。

年老いて、授業で何を喋っているのか、よく分からない老人が、主任をしている。早めに引退して欲しいのだけれど。やはり年金だけでは暮らしていけないのか、なかなか辞めてくれない。

校長に到っては、滅多に学校に来ない。

殆ど寝たきりの老人なのだ。

一学年十名ほどしかいない寂しい高校だけれど。

もしも統合となると、中学も一緒になると聞いている。正直な話、げんなりしかしないのは、私だけだろうか。

授業もいい加減なので。

大学に行くつもりなら、自主学習するしか無い。

そういう自習時間も設けられている。

朋子と私が一緒のクラスにいないのは、それが理由だ。私は一応進学希望なので、一人で黙々と勉強を続ける。

体育の授業だけは楽しいけれど。

それも高校三年になってからは、とんと疎遠になった。

昼のチャイムが鳴った。

適当に屋上に上がると、朋子が待っていた。一緒に食事をするのは、二人の間での暗黙のルールになっている。

同じように何組か出来ているけれど。

これはいずれも、同じ村の出身者で固まっているのだ。

だから、村八分に会うと悲惨である。

みなぴりぴりしているのは、それが理由だ。

都会者は田舎者より人間関係にドライとか良く言うけれど、それは実際には少し違っている。田舎では、人間関係が、死活問題に直結するのだ。だから、むしろ都会よりも、遙かに人間関係で息苦しい。

「ねえ、朋子」

「どうしたの?」

「あのさ、私やっぱり都会に行こうと思ってる」

「いいけど、戻ってくるんだよね」

口をつぐむ。

この村は、ますます人が減ってきている。

私に求められるのは、良い大学に行くことでも。一流企業に就職することでもない。此処で男を捕まえて、結婚すること。

そして子供を作ることだ。

「村から通うつもり」

「それならいいんだけれど。 でも、都会っていっても、多寡が知れてるよ。 ちゃんとお仕事、見つかるかな」

「どうにかする」

そのためにも、きちんとした大学には行っておきたいのだ。

大学に行けば、選択肢だって増える。

ただ私が行ける程度の大学だと。選択肢は、それほど多くは無いかも知れないけれど。いずれにしても、行って見ないと分からない。

田舎の呪縛。

私は、この土地が、嫌いじゃ無い。

問題なのは、この土地に深く根を下ろしている、人間関係だ。余計な事をすると、周囲全てから足を引っ張られる。

おそらくそれは。

朋子だって、例外では無い。

弁当を食べ終えると、授業に戻る。

午後からは二つだけ朋子達と同じ授業を受けたあと、自習だ。この高校では、生徒の非行にはあまり注意していない。

というのも、非行に走ろうにも。

屯する場所も、遊ぶところも無いからだ。

田舎で駅などに不良が集まることがあるが、それはそもそも、ある程度の規模があるからなしえる事。

本当の田舎では、不良少年なんていない。

いるのは、もっとタチが悪い連中だ。だからこの村でも、警官が時々パトロールには来る。

どれほどの抑止力があるかは知らないが。

午後の退屈な授業が終わると、私は一人で自習に戻る。

それも終わると、帰路についた。

今日は、自宅で生活。両親は二人とも、もう戻ってきていた。二人はやはり、あまり村の人達には良く想われていない。

家族ぐるみのつきあいと言えば良いけれど。

時々朋子の家に、私が預かられているのは。

この二人が、造反するのを避けるためだ。

二人に、大学に行くことを決めたと話す。

二人は口をつぐむ。

村の集まりで、どう説明したら良いか、考え込んでいるのだ。下手なことを言うと、その瞬間村八分決定である。

そうなれば、朋子だって、私と同じように接することは無い。

この村を出て行ければいいけれど。

それさえ、難しいかも知れない。

「分かった。 学費は心配しなくて良い」

父はそれだけ言った。

それ以上、会話は続かなかった。

 

1、鎖は伸びる

 

学校へ通うには、朝五時に起きて。五時半には、家を出なければならない。

大学に通うようになってからの、日常だ。

結局、自分が通える大学より、1ランク下の所に通うようになった。というのも、其処が家から通える限界だったからだ。

村八分は、決して過去の因習では無い。

現在の日本でも、生きている恐ろしい現実なのだ。

両親は何も言わない。

正直な話、生まれ育った村の風土は好きだけれど、人間はあまり好きじゃ無い。ちなみに朋子は高校を出ると同時に結婚。

今、私が大学に通っているのを横目に、すぐに生まれた子供を育てている。二人目も出来たとか言っていた。

朋子は、理想的と判断されたのだろう。

周囲の大人達からは、子供もろとも皆かわいがられていた。

一方で私は。

あまり、良い目で見られていない。

時々、大学なんてさっさとやめて、良い男を捕まえて結婚しろとまで言われる。子供を急いで作れとか、ストレートに言われたこともあった。

それだけ、村の人口減少が激しいと言うことは分かっている。

老人ばかりの村なのだ。

子供がいなければ、村の未来なんて無い。

昔、散々そうなる原因を作ったのに。気楽なものだと、私は見ていて思ってしまう。勿論、昔やっていたことはまずかったと思ってはいるのだろう。

しかし陰湿な体質そのものは変わっていないのが、大きな問題だ。

大学に出る。

ちなみに理系。それも、農業系だ。

他の学部は受けられなかった。

というか、受けさせてさえ貰えなかった。

科学的農業について学んでいるけれど。村の連中が、私が学んだことを、受け入れるとはとても思えない。

何処かの企業に入るための出しくらいにしか使えないだろう。

今日の授業について確認後、教室に向かう。

ぼんやりとしているうちに、講師が来た。一応都会にある大学だから、それなりに生徒も入っているけれど。

やる気のある生徒はあまり多くない。

「それでは、今日はバイオ農業について。 テキストの……」

講師が説明をはじめる。

座学だから人気が無いのだろうかと思うと、そうでもない。実地で教えられることもあるけれど。

それでも、あまり人気は無い。

実のところ、近隣に役に立ちそうな企業は無い。

いっそのこと、此処の大学で教授になろうとさえ思っている。そうすれば、ある程度の社会的地位も手に入るし。

流石に教授ともなれば、頑迷な老人どもも、話を聞く気になるだろう。

大学を出たばかりの小娘と、きちんと大学で博士号を採った人間とでは、彼らが喜ぶ「権威」が違うからだ。

授業についていくことは難しくない。

ルーズリーフに内容を移した後、教科書を確認。

間違っていない。

有用な学問である事は、間違いないのだ。だから学んでおいて損は無い。それに私も、幼い頃から畑仕事は散々手伝ってきている。

だから、これでいい。

そう言い聞かせて、黙々と授業を受ける。

「おーい、寺沢ー!」

授業が終わると、声を掛けられる。

私は大学に入ったころから、厳しい目つきが却ってクールだと言われるようになって、男が纏わり付いてくるようになった。

長身で体型もスレンダーなところが、美貌につながっているらしい。

自覚は無い。

アイドルだったら、美貌を客観的に受け入れて、それを磨くことを考えるのかも知れないけれど。

私はアイドルじゃない。

自分の容姿にもあまり興味は無かった。

「今日、カラオケいかね?」

「五人くらい来るんだけど」

「ごめんなさい。 先約があるの」

「何だよ、カレシかよ」

適当に誤魔化して、その場を離れる。

当然カレシがいると言われている私である。ちなみに、大学に入ってから二回ほど出来たが、どちらも短期間で別れた。

今はフリーであり。

これからも、あまりカレシを作ろうとは思わない。どうにも、男に興味が持てなかったのだ。

ちなみにレズビアンという事も無い。

もしもこれを口外でもしたら、大変なことになる。村の連中は、年を取って、金だけはそれなりに持っているのだ。

人脈は、この大学にも広がっている。

彼らの耳にでも入れば。

どうなるかは、知れたものではなかった。

講堂を出ると、コンビニによって、食糧を補給。流石に最近は朋子の家に泊めて貰う事も無くなった。

何しろ幼い子供を世話している状況である。

朋子の気はいつも立っているし、両親も負担をこれ以上増やしたくないと思っているだろう。

もう少ししたら、手伝って欲しいと呼ばれるかも知れない。

それはそれで、迷惑極まりないが。

家に帰宅。

大学三年になってから、車の免許を取った。試験は全部一発で合格したけれど。合宿免許だったから、とにかく大変だった。

その代わり、今は車で大学に行ける。

寮などの費用も必要ないが、代わりにガソリン代が掛かる。車だと、大学まで、大体一時間くらいだ。

この時間が色々手間だけれど。

電車と違って自分の思うようにコントロール出来るので、それだけは嬉しかった。

それに、車には買ったものだって詰め込める。

運ぶのに手間が掛からないことだけは、嬉しかった。

既に夕方。

黙々と車を走らせていると、ふと気付く。私は今、大学三年。

大学院に入るとなると、もう四年は大学に拘束されることになる。私は大学で相応の成績を上げているし、素行も良いと言われているから、大学院を三年で出る自信はあるけれど。

しかしその時、田舎の連中には、何を言われるだろう。

結婚しろ。

結婚だけが、価値がある。

子供を産め。

何だか、考えるだけで、憂鬱になってきた。

この先が見えている村に、今更若者を連れてくることなんて、不可能に近い。確かに今いる人間が、子供を出来るだけ産むしか無い。

しかし、田舎の陰湿な風習が、何もかもを台無しにしている。

来てくれた人達を、追い払ったのは誰なのか。

自分たちは忘れていても。

追い払われた人達は、忘れない。そういうものだと、どうして分からないのだろう。加害者の理屈というのは、いつも不快だ。

山道に入る。

夜になると、この辺りは非常に暗くなる。

此処を抜けると家に着くけれど。やはりこういう場所だ。悪い噂は、幾つもある。幽霊なんかは怖くも無いけれど。

不法投棄の業者や、一人でいる人間を狙う変質者の類は、どうしても出るようだ。

警官が巡回はしてくれているけれど。

それも、効果はあるのだろうか。目に見えて分かるほどの効果は、どうしてもあるようには思えない。

雨まで降り始めた。

家にどうにか無事に辿り着いて。ほっとする。

家に入ると、両親は既に待っていた。大学院に進みたいという話は、大学を出る前に、メールしたからだ。

「奈々。 本当に、大学院へ行く気なのか」

「ええ。 出来れば博士号を取って、あの大学で教授になるつもりよ」

「……」

二人が青い顔をして、頷き会う。

おそらく、村の集会で、相当にせっつかれたのだろう。

この村はこんな所だけれど。

老人達は金持ちで、コネもある。もしも村八分に会えば、その影響は会社にも波及する。具体的には、取引先にそっぽを向かれる可能性が高い。

もし、一人が原因でそんな事になれば。

一家揃って、破滅は確定だ。

「結婚する気は、ないのか」

「まだ無理」

「でも、カレシは出来るって」

「あんな低脳ども、嫌よ」

それが正直な所だ。

私は別に、自分が頭が良いとか思わない。しかし、猿と大差ないような知能の持ち主と、交尾して子供を産みたいとはもっと思わない。

子供を産むと言う事は、育てると言う事だ。

交尾しか興味が無い雄が、まともな親になるだろうか。

動物だったら、なるかも知れない。

本能が知性に占める割合が、非常に大きいからだ。

だが人間は違う。

私はただでさえ、子育てで一生を棒に振るのはごめんだと考えている人間である。夫にも、子育ては手伝って貰わなければ困る。

「隣の朋子ちゃんは、もう二人目を産むって話よ」

「あの子は、子供が好きだし、やりたいこともないみたいだから良いんじゃ無いの?」

「そんな事ばっかり言って……」

「とにかく、大学院には行きます」

親は反対したいようだけれど。

ただし、二人とも分かっている。このままだと、この村が終わりだと言う事くらいは。だからこそに、私には強く言えない。

私は大学院を出た後、農業の博士号を取得して、この村に還元すると明言しているのだ。

村の連中は、本音でこう言いたいのだ。

そんなのは良いから、さっさと子供を産めと。

ただし、彼らだって分かっている。

この村は、このままでは終わりだと言う事くらいは。だから、私が未来を作ると言っている行動を、阻止は出来ない。

なんだかんだで、妥協は続けてきたけれど。

最終的に私は、これを押し通すことで、自分の路を作るつもりだ。勿論、本当のところ、大学院だって行きたくないし、教授なんて面倒だとさえ考えている。

それでも。

無意味に好きでも無い男と結婚させられて。

子供をバカスカ産まされて。

子供を育てるために一生を棒に振ることだけは、絶対に嫌だった。

 

結局、両親に村の老人達の説得は頼んだのだけれど。

上手く行くかは不安だ。

私はそもそも、何がしたかったのだろう。

あの丘で、都会を見ているとき。何だか不思議な高揚感を、いつも覚えていた。あれは、此処と違う場所だから、憧れていただけだろうか。

それとも、この閉鎖的な村の恐ろしさを、当時から何となく理解していた、からだろうか。

朋子からメールが来た。

そろそろ生まれそうだという。

まあ頑張ってくれと、返事。確か今、朋子の両親もいるはずだし、別に手伝う必要はない筈だ。

一人目は女の子だった。

それで村の老人達は、非常に落胆したとか聞いている。二人目は男の子かどうかが、老人達の関心事だそうだ。

馬鹿馬鹿しい。

朋子の元カレシにて夫は頭がとにかく悪い男で、仕事場でもあまり良く想われていないという話は聞いている。

ただ善良なので、朋子とは丁度良いかも知れない。

ぼんやりしていると、隣の家から車が出るのが分かった。病院に行くのだろう。どうでも良いので、あくびをするとベットに潜り込む。

こう田舎だと、出来る事も無い。

インターネットで時間はつぶせるけれど。

ネット環境は貧弱だから、スマホを使っても回線がとにかく重い。

今後、どうなるのだろう。

不安が紛れない。

昔と違って、都会は拡大していない。昔は、それこそ闇を光が飲み込むように、都会は大きくなっていったと聞いている。

今は違う。

光なきこの時代、進歩の沈滞は、田舎者である私の目にさえ明らかだ。

技術はどんどん進歩しているかも知れない。

インフラもそれにあわせて、整備されているかも知れない。

でも、私には。

それがどうしても、本当だとは思えない。

此処に光が届いたときには、私はもうおばあさんになっているのではないのか。そして偏屈な老人に、いつのまにか自分がなってしまって。今度は自分の手で、数少ない若者を虐げるのでは無いのだろうか。

それも、冗談じゃ無い。

私にとって人生とは何だろう。これから大学院に行って博士号を取得して、それで本当に立身できるのか。

研究については、幾つか考えているものがあるけれど。

それを村の頑迷な老人共が受け入れるのか。

たとえば、私が何かしらの有益な発見をしたとして。それを根付かせる場所が無くては、なんら意味が無いのだ。

そうこうしているうちに。

朋子からメールが来た。

生まれたそうだ。二人目も女の子だそうで、老人達ががっかりしているという。はっきり言って、どうでもいい。

確かに村にいる数少ない若者なのだ。

子供について関心を持つのは分かる。

まあ、朋子の場合は、子供が好きなようだから。今後も周囲のサポートを受けながら、産めるだけ産むつもりなのだろう。

勝手にすれば良い。

私はそうなりたくはない。私は。

何になりたいのだろう。

鳥になって、自由に空でも飛びたいか。

いや、鳥は自由じゃ無い。

空の領域には、縄張りが厳然として存在している。鳥によって、飛ぶ高さは決まっていて、個体事に空間でも厳然たる区別がある。

それが、現実というものだ。

そんな事は分かっている筈なのに、どうして鳥のように、なんて思うのだろう。開放感が欲しいのか。

いや、最悪の場合。

私は両親を捨てて、蒸発してしまえばいい。

そうなれば、自由にだってなれる。

隣の家に、車が帰ってきた。頭をかきむしる。自分がどうしたいのか、分からない。本当に私は、何がしたいのだろう。

目を擦る。

既に成人して久しい。

子供でも無い。

それなのに、迷いが晴れることは無い。

大人になれば、黙々と仕事をして、それに打ち込んで。そうして、何もかも忘れられるのではなかったのか。

私はそうなれそうにない。

私にとって、生きることさえ、まだ見つかりはしない。

朋子は流石に病院だから、帰ってきたのは父母だけだろう。私にとっては、それもこれもどうでもいいし、むしろ鬱陶しい。

これでまた、さっさと結婚しろ、子供を作れと五月蠅く言われるのが目に見えているからだ。

結局の所、私には逃げ込む場所も無い。

このままいけば、パンクしてしまうかも知れない。

田舎はおおらかでも平和でも無い。

私にとっては、檻そのものだ。

 

2、檻は閉じる

 

大学はあっさり出ることが出来た。

そして大学院に進んで。

今は研究を進めている。このままだと、三年きっかりで、出る事が出来そうだと、見積もりも立てていた。

その後は教授だ。

勿論最初から、いきなり教授にはなれない。研究員として実績を積んで、まずは助教授を目指す。

そして、最終的には。社会的地位のある、教授となるのだ。

村では、既に私が、教授だと思っている老人達もいる。その勘違いが、幸いにも私には良い方向へ働いていた。

結婚しろ、子供を作れ。

しつこく迫られなくなったからだ。

私が村の農業を再生する研究をしていると言う話もしてある。

だが。それでもなお、五月蠅くしつこくつきまとってくる結婚話は、厳然としてある。それでいながら、脱サラして来た夫婦を、この寒村の老人達は何の容赦もなく追い払った。何がしたいのか分からない。

村を立て直したいのか。

そうではないのか。

研究室では、ひたすら地味な作業が続く。

私がやろうとしているのは、画期的な農業。とはいっても、理論は別に私が考えたわけでもない。

ちょっとした工夫で、収穫量を増やす。

単にそれだけの話だ。

その規模が大きいので、先端農業に入る。

既に実験的に、幾つかの畑では、作業を行っている。収穫量が大きい上に、農薬を使わなくて良いと言うのが売りなのだけれど。

必ずしも、上手く行かないのが実情だ。

「寺沢君」

「何でしょう」

研究室の外から、石川教授に呼ばれた。

顔中あばただらけの、太った男だ。白衣は汚れきっていて、頭も半ば以上はげ上がっている。

汚らしいところから、院生達からは泥豚とさえ呼ばれていた。

しかも本人は容姿を一切気にしないので、最近は腐臭さえ身に纏っている。農業大学だから仕方が無い部分は確かにあるのだけれど。彼の場合は、体臭が酷いという点で、他とは一線を画している。

勿論、研究室などでは清潔な白衣を身につけているのだけれど。

外や自室では、いつも蠅がたかりそうな格好だ。

ちなみに、こんな容姿でも。この大学では、一番能力があり、実績も上げている教授である。

人は見かけによらないのだ。

「君の所の村、なんていったっけ」

「行沢村ですが」

「そうそう。 ちょっと土地を格安で手に入らないか、君から交渉してきてくれないかなあ。 40ヘクタールほど」

「40!?」

1ヘクタールは、10000平方メートルを意味している。つまり100メートル掛ける100メートルだ。

その40倍だから、縦長にしても4キロ掛ける100メートル。

確かに土地が余っているとはいっても、そんな土地は流石に無い。そんな話をしに言ったら、どれだけふっかけられるか、知れたものではない。

「流石に無理だと思います」

「そうかね。 実はこの実験を拡大して、実用実験を始めようかと思っているんだけれどねえ。 それには大学の敷地では足りないんだよ」

確かにそれはそうだろう。

大規模な農業大学は、土地を確保しやすい田舎に作られることが多い。それは確かなのだけれど、流石に40ヘクタールは規模が大きすぎる。

北海道だったら比較的簡単に手に入るかも知れないけれど。

此処は本州だ。

それも関東圏。

流石に、それだけの土地を、簡単に確保するのは難しいというのが実情になる。

「農業生産力が、一気に二倍になると宣伝しても駄目かね」

「……そうですね」

勿論土地を確保するといっても、買うわけじゃ無い。借りるのだ。

農業大には幾つかのルールがある。

学生の手では足りない場合、周辺の農業従事者の手を借りる場合もあるけれど。いずれにしろ、作物は彼らにも分けなければならない。

流通に乗せられるかどうかは、更に面倒な決まりが幾つもあるので、説明はしきれないけれど。

いずれにしても、土地のレンタルで、眠っている畑を活用できるのなら。老人達は、納得するかも知れない。

それにしても40ヘクタール。

私の実家の土地の、二倍はある。

両親が使っていないから、これはそのまま提供できるとしても。残り半分をどうするべきか。

長老達には言い出せない。

代わりに結婚しろとか言われるのが目に見えているからだ。

そうなると朋子か。

彼処の家も、余った畑があるはず。

しかし朋子は、子供が出来てからは私と少し疎遠になっている。田舎の関係だ。私が長老達と上手く行っていないと、知っているのだろう。知っている以上、少なくとも表向き、仲良くすることは難しい。

田舎の関係とは、そういうものなのだ。

「私の家の土地が20ヘクタールほど。 これは休作中なので、すぐにでも提供できるのですが。 残りは教授が長老達に交渉を持ちかけて貰えませんか」

「私がかね」

「私の立場は、村の中ではあまり良い方ではありません。 学位を持つ教授が話をするのが、一番だと思います」

「そうかね」

何だか分かっているのか分かっていないのか。

ハンカチがベタベタになりそうな顔を拭いながら、教授は何度か頷いていた。

その後、教授は一人で出かけていったので、研究室に戻る。

私も既に大学院に来てから二年。今年でしっかり実績を作らないと、来年中に院を卒業するのが難しくなる。

黙々と実験を続ける。

画期的と行っても、今までの農業とそう変わる訳では無い。

最近発見された、発酵を促進する細菌を用いるのだ。今まで一般的に使われていた細菌よりも、かなりの速度で発酵を進める上、肥料の栄養価も高くなる。

こうして作り上げた肥料は、作物の発育を促す。

ただし土地の疲弊も早くなるので、それをどう緩和するのが課題なのだ。

幾つかの実験例を見る限り。

収穫量は、軽く倍を超える。

ただし、その代わり。土地が痩せる速度も累乗的になる。土地を回復させるために、幾つかの手を取らないと、あっという間に土地が焼け野原になる。

ある意味、焼き畑農業に近いかも知れない。

日本の土は、先祖代々農民達が育ててきた貴重なものだ。日本の土地が豊かなのでは無い。

長い年月を掛けて、豊かにして行った土地なのだ。

それを無駄にするのは、犯罪そのもの。

だから、慎重にやっていかなければならない。

教授が戻ってきた。

また呼ばれる。他の院生は、興味本位という感じで、私の方を見ていた。既に私が美人だが筋金入りの偏屈だという噂は広まっている。口説こうとする男が出てこないのはありがたいのだけれど。

その代わり、大学院でも腫れ物扱いされるようになった。

「ちょっと話してきたんだがね」

「どうでした」

「それがねえ。 強欲で話にならんよ。 君の土地を使うのも許さないって、大変な剣幕でねえ」

この教授、何か余計な事をいったのか。

あり得ることだ。

黙っていると、教授はべとべとなハンカチで額を拭いながら言う。

「村にお金が下りると説明しているのに、嘘だ信じないの一点張りでさ。 使っていない畑のレンタル料も払うと言っているのにだよ」

「私に話してこい、というのですか」

「そうだよ」

君の村だろうと、教授は言う。

ため息しか出なかった。

元々私は、村八分同然の扱いを受けている身だ。結婚しろ結婚しろ周囲からは散々に言われている。

最近は村にあまり帰っていないから、五月蠅い目には会っていないけれど。

それは、研究室でずっと作業をしているから、である。徹夜も珍しくない。農業大学は、基本的に凄まじいまでに忙しいのだ。

ましてや、先端農業になってくると。

大企業なども出資していて、研究は本格的。

その分、院生の負担も大きいのである。

「分かりました。 私が行きます」

「頼むよ。 土地さえ確保できれば、並行実験で一気に進められる。 そうすれば三年以内には、実用にこぎ着けられるかも知れない。 幾つかの企業が、出資してくれているんだ」

なるほど、それが本当の理由か。

大学教授は生臭い仕事だ。

特に農業系は、近年振るわない事もあって、企業は何処も必死。大学教授達は、成果をせっつかれている。

日本の農業畜産業は、質は高いがコストが高すぎるのが以前からの問題。

これを克服しないと、国内の産業は壊滅してしまう。

企業だけでは無く、国にせっつかれているのかも知れない。そうなると、教授が躍起になるのも、分かる。

「とりあえず、教授も来てください。 資料も出来るだけ持って」

「え、もう一度行くのかい」

「それと、風呂に入って、体も洗ってきてください。 待っているので、今すぐ」

「えー?」

情けない声を上げる教授を、宿舎に蹴り込む。

私はと言うと、愛車があの臭いに汚染されるのが嫌なので、先に消臭剤を車の中に撒いた。

しばらくして、あまり綺麗になっていない教授が戻ってくる。

少なくとも、臭いはしなくなった。

あれだけ臭う体。一体いつから洗っていないのか。それとも、何か特殊な病気なのか。

「助手席には乗らないで、後ろに乗ってください」

「はあ、まあいいけれど」

愛車を発進させる。

あの長老共に会うのだって嫌なのに。

この異臭の塊を乗せて車を動かすなんて、本当は冗談じゃ無かった。

 

村の長老は、既に90歳を超えている。

村の一番奥にある神社の主が、長老なのだ。戦国時代は土豪みたいな事をしていたらしい。

そういえば、信長で有名な織田家も、似たような出自だと聞いたことがある。この近辺の田舎ぶりから考えるに、村の先祖達は彼処まで上手には立ち回れなかった、という事なのだろうけれど。

私が赴くと。

長老は出てきた。

相変わらず険しい顔をしたお爺さんで、周囲には手下を従えている。手下もみんな、老人ばかり。

老人が、この村の全てを牛耳っているのだ。

90を超えて健在といえども、流石に足腰は弱っていて、杖を使わないと歩けないけれど。

それでも袴を着こなしていて、それなりに見かけは決まっている。

ただ、流石に耳はもう遠いため、補聴器を付けているが。

「奈々か」

「はい。 教授の話を断られたとか」

「怪しげな農法のために、土地を40ヘクタールも貸せだと」

「休作中の畑です。 レンタル代も出しますが」

既に調べているのだが、細菌は肥料を作る段階で死滅する。死滅しなくても、感染力は弱く、環境を汚染するようなことは無い。

今まで一般的にならなかったのも、極めてデリケートな細菌だからだ。

肥料を効率よく作るためには、人工的に条件を整えてやらなければならない。

更に、作り上げた肥料による畑へのダメージだけが今回実験で確かめなければならない事なのである。

少なくとも、研究で私はそれを見てきている。

淡々と説明すると。

長老は鼻を鳴らした。

「インチキ商売は、常にそんな事をいう」

「これでも大手企業と国に出資を受けている事業ですが」

「……」

長老が腕を組んで、話を聞かないというそぶりを見せた。

はて、これは何かの駆け引きか。

ぴんと来た。

教授を促して、一旦部屋を出る。教授は分かっていない様子だ。此奴は本当に、大企業の営業や、国の監査と戦って来た教授なのか。

「おそらくあれは、金を欲しがっています」

「はあ、お金」

「そうでなければ、ああいう露骨な態度は取りません。 旨みがどれくらいあるかを、説明してください。 この村に。 出来れば長老にも」

教授の尻を蹴飛ばして、カードを出させる。

長老に対して、どれくらいの利益が見込めるか。この村を最初の実験場として、農業生産力を上げた場合、どれくらい儲かるかを説明させる。

横目に見ていても、分かりづらい。

この人は典型的な研究者だ。

研究さえしていれば幸せというタイプで、人間的な欲求を満たそうという概念が無い。だから汚い格好をしていても平気だし、他人との関わりも最小限に抑えている。それは悪い事では無いと思うけれど。

こういう仕事は、向いていないなと、冷徹に私は判断していた。

「そうかそうか、それで」

「もっと儲かります」

「……相談する」

長老が、部屋を出て行くように促してきたので、教授を連れて出る。

教授は長老の眼光を浴びるのに疲れたらしく、また汚いハンカチを出した。

「いやはや、参ったね」

「こんな程度のプレッシャーで、何を言っていますか」

「しかしね、寺沢。 僕はただの研究者だよ」

「お金を大企業の営業や国の役人からもぎ取るには、そんな交渉術じゃ駄目だって、どうして分からないんですか。 何なら専門家を側に置くとかして、対応してください」

なんで私が、親ほども年が離れたおっさんに説教しなければならないのか。

この男は、教授だけをしていれば良いのかも知れない。

まあいい。

決めたことがある。

今、この場では言わないが。

長老が戻ってきた。

取り巻きの老人達と一緒に、具体的な展望を見せろと言われる。とはいっても、まだ研究の段階だ。

三年以内に実用化するとして。

その先にどれだけの利益が見込めるかは、正直分からない。

私は理系だけれど、経営や経済は専門外だ。ただ、これだけは言える。

「遊園地だのゴルフ場だのを作るよりも、遙かに有益なのは確かです。 後、これによって、新しい人脈開拓も出来る筈です」

「……」

「脱サラをしてここに来た人達を、もう追い出す事も無くなるでしょうね」

長老が苦虫をかみつぶす。

田舎特有の狭苦しい人間関係で、脱サラしてここに来てくれた人達を、もう何人も逃がしてしまったことを、思い出したのだろう。

しかし、此処に新しい風を吹き込めば。

或いは。

よく分からない人間をたくさん招き入れて、治安を崩壊させるよりも、遙かにマシだ。

そうも私が言うと。

長老は嘆息した。

「分かった。 ならば儂の土地を20ヘクタール貸してやろう。 後は奈々、お前の土地を貸し出すように」

「有り難うございます」

「ただし儂の土地を貸し出すのだ。 失敗したら承知せんぞ」

一礼すると、長老の家を出る。

既に夕方になっていた。

車で大学に戻って、教授にその道中で説教した。

「本当は貴方が全てやらなければならないことですよ」

「ああ、すまんすまん」

「そもそもですね」

大学に着くころには、教授はへとへとになっていた。

私だって疲れたけれど。

それ以上に、何だか有益なことを思いついた気がする。少なくとも、このままでは、私はどうにもならない。

どうにかするには。

後一手が、どうしても必要なのだ。

 

大学院を出る。

出たが、私は予定通り、大学に残った。これから助教授をまず目指して、それから教授になるのだ。

教授達の覚えは良い。

私が他の院生五人分の働きをしているからだ。

村の畑を使っての研究は進めている。やはり土地を広く取ると、一気に研究は進展する。教授は土いじりをしている時は別人のように生き生きしているが。相変わらず酷い臭いを全身から放っていた。

私もデータをまとめつつ、これなら行けるかも知れないと思う一方で。

ある事にも気付いていた。

どうしても、クリアできないことが一つだけあるのだ。

大根の畑を熱心に弄っていた教授に、後ろから近づく。既に私は助教授に、もう少しでなれることが決まっている。

助教授になったら。

此奴、石川教授を蹴落として、教授に就任だ。

そうなれば大学の中で大きな発言権を得る。直接政府の役人や企業の営業とも交渉する権利も手に入る。

研究が自由に出来るようになる。

この大学は、先端農業を研究しているだけあって、注目されている。

私は妥協で入ったが。結局の所、入って良かったと、今は思っているほどだ。

「石川教授」

「どうしたね、寺沢君」

最近は、何故か私を君付けで呼ぶようになっているこのデブは。私の言う事だけはきちんと聞くと、周囲からは評判だ。

好きなのでは無いかと言われているが。

はっきりいって、どうでもいい。

というか死ねば良い。

此奴がいなくても、研究は廻るのだ。

「A4の畑での症状には気付かれましたか」

「ああ、やっぱり出ているか」

「ええ。 これをどうにかしないと、実用化は無理ですね」

症状というのは、他でも無い。

やたらと虫に食われやすいのである。

勿論、対策はしているが。少し油断すると、すぐに虫がつく。

この農業では、可能な限り農薬を使わない方式を使っているが、それが却って徒になっている。

虫にとっては、美味しい食べ物があれば飛びつく。

それだけ美味しい野菜に仕上がっているとも言えるけれど。

それにしても、この虫のつきかたは異常だ。

白菜などは、ちょっと油断するだけで、虫まみれになる。とてもではないが、出荷できるような代物では無くなる。

「何か虫を呼び寄せるフェロモンでも出しているのでは無いかと思いますが」

「研究チームを立ち上げる。 君に任せても良いか」

「喜んで」

これは、予想より早く助教授になれるかも知れない。

ほくそ笑んだ私は、更に細かくデータを取っていった。このデブの下につくのも、そう長い間では無い。

車に戻ると、メールが来ている。

さっと目を通す。

その中に、朋子からのものがあった。

「四人目が出来て、かなり忙しくなってきたの。 手伝ってくれない」

「何をやっているんだ彼奴は」

まだ二十代半ばなのに、四人目。

いくら何でも作りすぎだろう。周囲の老人達は大喜びしているようだが、私としては頭を抱えてしまう。

あまり頭が良いとはいえない朋子だったが。

これはもう、なんというか。

一種の病気だとしか思えなかった。

「お前は戦国時代の人間か」

「ええー。 でも、子供が出来ると、みんな喜んでくれるんだよ。 奈々も早く作りなよ、子供」

「ごめん被る」

メールを打ち終えると、車を出す。

これから忙しいのだ。

最悪の場合、夫などいらない。適当な孤児院から子供でも引き取れば良い。もう少しすれば、私は高給取りになる。

更に、この村での足場を確保すれば。

その内、政治家になるという選択肢も出てくる。

野心が私の中でふくれあがっているのが分かる。場合によっては、枕営業の類をしても構わない。

大学に着く。

既に他の生徒達からは、あまり好ましい目で私は見られていない。やり手だけれど怖いとか、近づくと噛みつかれそうだとか考えられているようだ。

どうでもいい。

他の連中など、まとめてミンチにでもなればいい。

そうしたら肥料として使ってやる。

研究室に戻ると、高速でタイプして、レポートを作っていく。レポートだけで今月二十件ほど仕上げている。

いずれも、この先端農業に関するものだ。

そして今度、助教授になると同時に、おそらくプロジェクトチームが私に任される。どんどん、運が向いてきていた。

しかし、である。

突然にして、運命の落日が訪れる。

 

愕然とする私の前で、プロジェクトチームのリーダーが挨拶していた。

そいつは確か、コネだけで大学に入ってきた若い女である。見栄えはいい。何より胸が大きい。

噂は聞いている。

複数の教授だけではない。

ここに来る企業の営業や、政府の役人とも寝ていると。

それによってレポートも優を出して貰い。そればかりか、頭がパーにもかかわらず、幾つもの研究で大きな顔をしているらしいと。

そいつが、実績を上げている私を差し置いて。

プロジェクトリーダーに収まったのだ。

教授は。

でれでれと、女の尻を見ていた。何が起きたのかは、分かりすぎるほどだった。

私も助教授に就任したが。

教授になるのには、実績がいる。今度のプロジェクトは、絶好の機会だったのに。まさか、見栄えだけが良い奴が。体を使って、横からかっさらっていくなんて。

流石に殺意が湧いた。

しかも、教授達は、此奴が優秀だと揃って口を合わせている。

馬鹿な話だ。

生徒達の中には失笑している者もいる。誰もが知っているのだ。此奴が見かけだけの脳タリンだということくらい。

骨抜きにされている教授達の演説を遮って、挙手する。

「提案があります」

「何かね、寺沢君」

「彼女はとても優秀だと言う事ですし、研究に関して私からのデータ引き継ぎは必要ありませんね。 何しろ優秀なのですから」

「あ、此方からもデータは出さなくて良いですか」

他の助教授候補も挙手する。

流石に青ざめる女。

私も嫌われているが。此奴も、同級生や下級生からはもっと嫌われている。此奴が好かれているのは、大学の上層部だけだ。

どうせ、助教授になってから、教授になるまで、時間が掛かることは確定してしまった。更に言えば、私を手放すわけにはいかない。

教授共の間で、私は既にコネを作り上げてある。

私の能力が無ければ、研究が進まない事なんて、いくらでもあるのだ。

「ま、待ってくれ、寺沢君」

「では、研究がありますので。 みな、戻りましょう」

手を叩くと。

生徒達は皆苦笑いしながら、教室を出て行った。青ざめて雁首を並べる教授共。石川も唖然としている。

女が私を、刺し殺しそうな目で見ていた。

それから、研究は案の定グダグダになった。

元々ノータリンの馬鹿女である。コミュニケーション能力だけはあるかも知れないが、それしか無い。

研究は遅々として進まず。

あげく、ニセの研究結果を発表しようとしたところを、私が取り押さえた。

女は大学追放となった。

問題は、石川教授もその時連座して、大学を去ったこと。これによって一気に研究が遅れる事になった。

最悪の事態が訪れる。

村の長老に、呼びつけられたのである。

 

家に戻った私は、頭を振る。

あのパー女に協力しておけば良かったのか。しかし、その場合研究成果を全て奪われるのは、目に見えていた。

長老に指摘されたのだ。

研究が遅れているようだなと。

もしも近々成果が上がらないようだったら。土地を貸すのは辞めると。

研究の引き継ぎは、上手く行っていない。

元々石川教授だけが、全体像を掴んでいた上、失職でデータの一部がロストしてしまっているのだ。

私も研究の多くは把握しているけれど。

いきなり、それを全て発展継承できるわけでも無い。

全ては横から出てきたあの女が、ハニートラップなど使って、男共がそれにホイホイ釣られたのが悪い。

そんなのはわかりきっているけれど。

それでもはらわたが煮えくりかえる。

大学もしっちゃかめっちゃかだ。

出入りしていた企業の営業や、それに役人の何名かが交代している。蜥蜴の尻尾切りが行われたのは、明白だった。

その結果、研究の継続が更に難しくなっている。

勿論、問題はまだ解決できていない。

件の女はと言うと、街の方で暴行事件を起こして、この間めでたく刑務所入りになったそうである。

だからもう奴のことを気にする事は無いけれど。

しかし、それ以上に。

今は自分の事を心配しなければならなかった。

携帯にメール。

大学からだ。

呼び出しに応じて出向いてみると、残った数人の教授が、真っ青になったまま、雁首を並べていた。

しかも、学長もいる。

学長は気の弱そうな老人で、研究者と言うよりも、先代学長の息子と言うだけで此処にいるだけの人間だ。

此奴もコネで、大学を駄目にしている一人である。

だから私としても軽蔑しきっている。

「今、君の村の土屋さんから連絡が来てね」

土屋というのは長老のことだ。

あの爺。

棺桶に片足突っ込んでるくせに、鼻だけは利く。

「今、あの土地を失うのは、研究継続にとって致命的だ。 君から、どうにかして説得して貰えないだろうか」

「それなら学長、貴方も来てください」

「は?」

「一助教授である私だけで、あの海千山千の狸を説得できると思いますか? 交渉に使えそうなカードは? 手札を見せてください」

見る間に泣きそうになる学長。

これが本当に、この大学の長か。

私は学長のデスクに手を叩き付ける。真っ正面から視線をぶつけられて、露骨に恐怖の声を上げる学長。

「そもそも、あの馬鹿女にハニートラップでたらし込まれた何人かがいなければ、こんな事にはならなかったんですよ。 分かっているんですか」

「き、君、落ち着いて」

「これが落ち着いていられるかっ! 此方はあの事件のせいで、人生が終わろうとしているんだっ!」

とうとう学長は泣き出した。

他の教授共がなだめに掛かってくる。私は舌打ちすると、大きく息を吐いた。そして、気分を切り替える。

「とにかく、長老を説得するつもりなら来てください。 貴方もあの女にハニートラップ貰ったんでしょう?」

「そ、それは」

「高くつきましたね。 貴方の私財は今いくらありますか? 今、出せるだけ出してください」

「寺沢君、流石にそれは」

流石に教授達が色めきだつが。

私が視線を向けると黙り込んだ。

何だか私は、鬼みたいな顔でもしているらしい。こんな、ろくに修羅場もくぐった事が無さそうな連中では対抗できまい。

「長老を説得するには金か、高級な品です。 ああ、それがいいでしょう。 確か有名な刀でしたね」

「こ、これだけは、勘弁してくれんかね」

「駄目です」

「そんな」

私が視線で指したのは、学長室に陳列されている備前長船。

子供でも知っている名刀だ。

これが学長の家の宝だと言う事は知っているが。そんな事は知ったこっちゃない。此奴が性欲に負けたせいで、大学が窮地に陥っているのだ。

「それと、私を教授に格上げしてください。 今すぐ」

「い、今すぐ……!?」

「ただの助教授の話なんて、あの強欲爺が聞くと思いますか?」

私の目からは、多分ハイライトが消えていただろう。

学長の尻をひっぱたいて、備前長船を包ませる。そして、困惑している教授陣も促した。貴方たちにも、来て貰うと。

「え、我々も」

「この研究が、大学が潰れるかどうかの瀬戸際だって、分かっていますか? ただでさえあの馬鹿女の不祥事で、とんでも無い事になっているのに。 勿論教授全員で、頭を下げなければ、あの爺は納得しませんよ」

「……」

形容しがたい顔を、教授どもが浮かべる。

お気楽なものだ。

これから一番大変なのは、この私だというのに。

学長が、教授の資格を私に手渡してくる。何だろう。教授になったというのに、この達成感のなさ加減は。

分かっている。

すぐ後ろが崖で、もう何も余地が無いからだ。

交渉が失敗したら終わりだ。

結婚させられて、後は子を産む道具、程度ではすまないだろう。下手したら、一生座敷牢で監禁という可能性もありうる。

冗談では済まない。

実際に、この地方では、まだそういった非人道的な所行が残っているのだ。そして散々長老の顔に泥を塗った私が、そうされない保証は無い。

警察なんて、とてもではないけど。助けには来ないだろう。

更に言えば、両親もこのままでは破滅が確定である。

学校のワゴンを運転して、長老の家に急ぐ。

長老の家の周囲では、既に取り巻きの老人共がうろうろしていた。到着すると、遅いといきなり怒鳴りつけられる。

教授達は、完全に青ざめていた。

これから調理される豚の顔である。

学長を促して、長老の家に入る。

長老は数年前より更に衰えていて、布団に入ったまま応対してきた。側には主治医らしいのもいる。

此奴が死んでも、長老が変わるだけ。

村の体勢は変わらない。

勿論、畑の貸し借りに関する事もだ。

とにかく、今どうにかして、説得しなければならない。

私が促して、学長に頭を下げさせる。同時に、他の教授達も、一斉に床に這いつくばって、蛙のようになった。

戦術だ。

こうして平謝りすることで、相手の怒りを削ぐのである。

しばし謝ると。長老は顔を上げるように言った。

其処で、備前長船を見せる。

「これはあくまで私的な贈りものなのですが、これでご勘弁ください」

「お……ふむ……」

長老は分かり易い奴だ。

見る間に機嫌が良くなっていくのが分かった。

学長は泣きそうになっているが、これも一時の性欲に任せて、馬鹿な事をした報いである。

私は教授になった事を長老に告げる。

そして、備前長船を嬉しそうに撫でている長老に、頭を下げながら言った。

「今回の件は、ハニートラップによる学内の汚染が原因です。 既に原因となった女は除去しました」

「知っておる。 逮捕させたのは儂だからな」

ぞくりとした。

此奴、其処まで知っていたのか。

あと三年で、どうにか立て直す。

そう告げると、まんざらでも無さそうな様子で、長老は何度か頷いた。

学長達に視線を送って、出るように指示。

それから私も、長老の家を出た。

長老の取り巻き達は、まだ不満そうに此方を見ていたけれど。これで、どうにか当座は凌ぐことが出来た。

学長は、車の中で、泣き始めた。

此奴、こんなんでよく学長なんてやれていたものだ。正直な話、呆れてしまう。

「学長、戻った後、対策を協議しますよ」

「家宝が……備前長船が」

「自分の責任でしょう?」

冷え切った私の声で、学長は顔を上げて、震えはじめた。

車を出すと、小さな声で、悲鳴を漏らした。

 

3、夢のまた夢

 

大学に戻った後。

私は、すぐに何名かいる助教授を呼びつけて、仕事を指示。

あの馬鹿女が滅茶苦茶にした研究を、少しでも早く立て直さなければならない。

資料は惜しみなく渡す。

私がいきなり助教授から教授になったことを、快く思っていない奴もいるらしい。まあ、、少し前まで同格だったのだから、当然だ。

其処で私は、事情を説明する。

助教授達は、なるほどと、事情を飲み込んだけれど。

それでもやっぱり、納得していない部分はあるようだった。

「流石にそれで教授というのは、納得がいきませんが」

「複数人教授がいなくなったのだし、君達にもおそらくは好機が巡ってくる」

「しかし」

「とにかく、今は一秒でも時間が惜しい。 研究を進めて欲しい。 この虫に食われやすいという特性さえ克服できれば、この農業は実用化に移せるんだ」

手を叩いて、助教授達を作業に取りかからせる。

更に院生達も此処に割り振って、作業開始。

教授の仕事は、思ったより忙しい。

でも、何をすれば良いかは見ていたから、何となくだけれどどうにかはなる。それに、他人を使うのは、これはこれで面白い。

ただ、時間が無い。

自分でも畑に出て、データを積極的に収集する。

こうしてデータを集めれば、何か分かる事があるかも知れない。あの糞女のせいで、さんざんなことになったけれど。

それでも、情報を集めていけば。

 

それから殆ど休まず、毎日作業を進めた。

実地でデータを集め。

研究室に戻っては、そのデータを整理する。

その繰り返し。

だが、この地味さの先に、未来がある。私は自由を得て、金を得て。そして好きなように、周囲を動かせる。

そう思えば、多少の苦労なんて、何でも無かった。

いつの間にか一年が過ぎて。

そして、ようやく私も気付く。

データを何度精査しても、明らかだった。

やはりこの農法には、無理がある。

そもそも、である。

高速で作った高栄養肥料に、欠陥があるとは誰も考えなかったのか。作り上げてみて分かったのだけれど。

ほぼ、もう結論は決まっていた。

青い顔をして、助教授が研究室から出てくる。

「寺沢教授」

「何」

「この結果を」

引ったくるように、レポートを取る。

そして目を通した。

此奴も、同じ結論に達したか。

虫がたくさん集まってくるのは、他でも無い。免疫力が、極端に落ちるからだ。

植物は身動きが出来ない分、自衛手段が限られている。特に空を飛んでどこからでも現れる昆虫は、植物にとっての大きな天敵となる。

其処で植物は、自衛として、昆虫を遠ざけるような物質を分泌する。

勿論個体差はあるけれど。

これが無ければ、あらゆる植物は、あっという間に昆虫に全て食べ尽くされてしまうのが現実だ。

この肥料で作り上げた植物は。

あまりにも急成長するからか。まだここに関する結論は出ていないのだけれど。

とにかく結果として。

免疫が著しく落ちる。

その結果、美味しい餌を見つけたと、昆虫は大挙して押しかけてくるのだ。

残りは二年弱。

もうこの結果は受け入れて、やっていくしかない。手は、あまり多くない。

「此処からは研究の切り替えだな」

「何を、どうすれば」

「植物の免疫力強化について」

他の研究チームも、切り上げ後は同じ題材に取りかからせるしか無いだろう。私の方でも、色々調べなければならない。

助教授を下がらせると、中間報告を学長に。

学長は青ざめていた。

「こ、今度は何の家宝を取り上げられるのかね」

「落ち着きなさい」

黙り込む学長。

私には何故か逆らえなくなっている。まあ逆らっても面倒くさいので、正直それで良い。

「まだ二年弱あります。 この弱点さえ克服できれば、市場に画期的農法として、売り込むことが出来ます」

「しかし、それは捕らぬ狸の何とやら、ではないのかね」

「そうではないように、努力するのです」

学長の尻を蹴飛ばすと。

私は、研究室に戻る。

しかし、これといった対応策が無いのも事実だ。何処かに、対応策が、転がっていないものか。

そうこうしているうちに。

朋子からメールが来た。

今度は五人目か六人目か。うんざりしてメールを開くと、変なことが書いてある。

何でも願いが叶うお店がある。

そう言うのだ。

「そんなもの、あるわけないだろう」

「それがねえ。 この間長老の所に娘を連れて行ったら、そんな事をいっていたんだよ」

あの長老が。

冷徹と非情の塊に思えていたのだけれど。そんな冗談を言うのか。

朋子の話によると、かの長老も、村の未来を担うという幼子には、目を細めて優しく接するという。

朋子の子供は、一番大きいのでもまだ幼稚園だ。可愛い盛りという事だろう。逆に長老も、長い孤独で、心に隙間を作ってしまっていたと言うことか。だから、重要なことを、ぽろりと話してしまうのだろうか。可愛い孫も同然の幼子達には。

推察は当たった。

子供を連れて行った時に、耳に挟んだのだとか。

長老は若いころ、どうしても村の長になりたかったという。まだ戦後、そう時間も経っていない頃の話だ。

色々無茶もしたけれど。

そんなとき、不意にある噂を聞きつけた。そして、実際にその店に行って。それで、長老の座につくことに成功したという。

そんな馬鹿な。

「出来るだけ、詳しくその話を教えてくれる」

「う、うん」

雰囲気が変わったことに困惑したのか。

朋子は、長文のメールを送ってきた。

 

願いが叶う店、か。

昔だったら、どんな願いを叶えて貰っていただろう。いや、昔も今も変わっていない気がする。

村から自由になること。

それが夢だ。

多くの人間は、両親の状態を無視してでも、自分だけは自由になりたいと考える。それを責める気は無い。

私の場合は、両親の事情にどうしても思い当たる所があったから。自分一人だけ、好き勝手は出来なかった。

この研究が上手く行けば。

大学で大きな発言権を得られる。

一教授ではなくて。

学長の座もぐっと近づく。

あの無能な学長を蹴落とすには。

他の教授達をたらし込む。今までの実績を使えばどうにかなる。職員会議で、一気に学長へ上り詰めるクーデターを引き起こすことも可能だ。

そうすれば、財力でも権力でも、もう無力な小娘では無い。

最悪の場合、他の大学にコネをつなげて。

関連部署で、両親を雇って貰う事だって可能になる。

今はまだ足りない。

今の研究さえ、成功させれば。

店か。

もしも見つけることができれば。私の夢に、弾みがつくかも知れない。そんな馬鹿馬鹿しい話と笑い飛ばせなかったのは。

子供達に、あの気むずかしい長老が。

冗談交じりに話した、という事だ。

勿論私も、言葉通りには受け取っていない。

何かしらの巨額の取引が成功したのか。

それとも、GHQ辺りに対して、強力なコネをつなげる事に成功したのかも知れない。それならば、話のつじつまだって合う。

そして、私が驚かされたのは。

ネットから検索してみると、同様の都市伝説が本当にヒットした、という事だ。まさかと思って、詳細を調べてみる。

気味が悪いほど、細部が一致していた。

長老がその時行った店は、闇市の中にあったと、朋子が拾った話にはあった。しかし現在では、新古書店のありえない三階に存在しているという。

新古書店の、あり得ない三階。

都市伝説にしては、少し出来すぎている。私は素直にそう感じた。

研究室に戻ると、データをうち込みながら、時々隙を見てネット検索する。膨大なデータは、打っても打っても終わらない。

色々試行錯誤しているのだけれど。

殆どの野菜で、虫がつくのだ。普通虫の害に強いはずの野菜でさえ、虫まみれになる例が珍しくない。

だから、あらゆるデータを検証しなければならない。

同時に並行で検索していくと。

幾つか、面白い事が分かってきた。

「寺沢教授」

「何?」

「レポート上がりました」

「見せて」

幾つかの作業をマルチタスクで消化しているから、流石に私も、発言者を見ている余裕が無い。

ブラインドタッチには、いつの間にか完璧と言って良いレベルで習熟しているけれど。それでも、だ。

レポートを置いていったのは、声からして助教授の一人。

タイプが一段落したので、ざっと目を通す。

やはり打開策にはつながらないか。

このままだと、来年度に突入しても、問題解決の糸口は掴めそうに無い。薬品を使うやり方も、肝心の肥料を駄目にしてしまったり、まるで効果が無かったりで、さんざんな結果が出ていた。

外虫の天敵を使う方法も試しているけれど。

それもかなり厳しい。

カルガモの類も使っているけれど。処理しきれないほどに、たくさんの虫が寄ってきてしまうと、どうにもならないのだ。

かといって農薬を使うのでは本末転倒。

ビニールハウスでの栽培を前提とするやり方では、農家でも使える所が限られてきてしまう。

「……」

無言のまま、私はレポートを投げ捨てた。

駄目だ。

焦りばかりが大きくなってくる。

私は順調に出世しているはずなのに。どうしてこうも、何もかもが上手く行かないのだろうか。

携帯での検索が終わっていた。

調べて見ると、かなりの都市伝説関連サイトで、店についての情報を扱っている。一つずつ、タイピングをしながら目を通していく。

なるほどと唸らされる情報と。

鼻で笑いたくなるものが混在している。

良くも悪くもネット発の情報だ。

だが、幾つかは、どうしても無視し得ないものもあった。

やはり、調べて見る価値はある。

私はタイピングのの速度を上げながら、情報の精査をはじめる。其処の店で、本当は何が起きているのか。

どうして長老の願いが叶ったのか。

分かったのなら。

道が開ける可能性は、高い。

そう思えば、たかが都市伝説と、笑い飛ばすことは出来なくなる。都市伝説はだいたいの場合、何かしらの原型を持っている。

その原型は殆どの場合が、他愛も無いものだけれど。

しかし、長老がそれに関与しているとなれば。

途方も無い埋蔵金を、掘り当てられるかも知れなかった。

 

4、権力の渇望

 

面倒くさいのが掛かった。

アガレスは、ネットでチェックを進めながら、それを悟っていた。

ハッカーをして、グル級なんて呼ばれるようになってから久しい。だから、ログを見ていると、相手がどんな存在か、大体分かる。

プログラムの流れから相手の人格を読むのは簡単だし。

近年は、ログからでもそれが可能になってきている。

「アガレス様、ロールケーキ、出来ましたよ」

「んー」

さっそく、アモンが作ってくれたロールケーキに、フォークを突き刺す。

もぐもぐとやりながら、相手の素性を確認。

なるほど、これは生臭い。

「田舎出身の教授か。 二十代で教授になったというのは異例だが、大きな裏があると見て良さそうだ」

「そんなに面倒くさそうな相手なんですか?」

「恐らくはストレートに権力が欲しいと言ってくるだろうな」

今までも、そういうのはいた。

中には、一国の王や大貴族が、噂を聞きつけてアガレスの所まで来た実例もある。

勿論対価は対価だ。

生かせれば、きちんと夢が叶うようなものはくれてやった。

面白い事に、アガレスが対価を渡した人間の中で。権力をストレートに欲しがった連中は、大体破滅しているという実例がある。

理由は、アガレスにもよく分からない。

ロールケーキは食べやすい。

生クリームを挟み込んだとても甘い奴で、最近市場に出回りはじめた大粒のいちごをいれている。

ただし魔術で作った模造品だ。

本物は食べる事が出来ないのが、悲しいところだけれど。

猪塚が上がって来た。

今日は、なにやらビニール袋をぶら下げている。

「はい、お土産だよ」

「何だこれは」

「アガレスさまが、喜ぶと思ってね」

開けてみると、工芸品だ。

しかも、真新しい。

木で作った人形。なるほど、これはいわゆるこけしか。勿論コレクションの中にもあるけれど。

これは手彫りで、しかも作って間が無い。

「何処でこれを?」

「ちょっと前に温泉に行ってきてね。 その時、お土産屋さんの一つで、おじいちゃんが作ってたんだよ」

「なるほど、興味深い」

たくさん作られているものの一つなのだろうけれど。

手彫りの暖かさが、触れているだけで伝わってくる。

銘品だ。

しかも、作り手の愛情が、堀目の一つ一つにまで伝わってくるようだ。これはなかなかの品である。

量産品として、片付けてしまうのは惜しい。

具体的に猪塚に店の場所を聞くと、アモンを行かせた。偵察をさせておいた方が良さそうだからだ。

ちなみに、此処に芸術家が来たことも少なくは無い。

ただし、だいたいの場合、碌な結果にならなかったようだけれど。

「それにしても、温泉が好きだったのか?」

「私もいつまでも此処でバイトってのも問題だと思ってね。 勿論バイトが終わっても遊びに来るけれど、色々見聞を広げておこうって思ってるの」

「そうかそうか」

むぎゅうと抱き潰されそうになるので、暴れるけれど、離してくれない。

アモンが戻ってきたけれど、助けてくれなかった。

むしろ苦しむ様子を、にこにこしながら見ている。おのれ。この外道部下め。私が動かなくなってから、やっと猪塚は離してくれた。

奥で一緒にお菓子を作り始める二人。

そして目の前には。

アモンが手際よく用意した、仕事の山があった。

非常に珍しい、古い古いネジだ。ねじ山が潰れていたり、螺旋の溝が駄目になっていたりする。

これらは、古い骨董品の家具にあう品。

細かいネジもある。

これは時計用だ。

ネジは侮れない。小さければ小さいほど、高い技術が必要になってくる。そして、大きなものを土台から支える力になるのだ。

私は黙々と、アモンが潰れた所から再生したネジを、直し始める。

いつの間にかアモンが、目の前に大量の歯車を追加していった。

時計や、その他機械類の部品だ。中には鯨の髭もある。和製のからくり人形を動かすためのパーツである。

しばらく作業をしていると、目の前にショートケーキが置かれた。

大きいいちごが載せられている。

「もう少し頑張ったら、あげましょう」

「んー」

私もかなり気分が乗っていたから、そのまま作業を進めて、一気に終わらせる。

その後は猪塚とアモンと、ささやかな時間だけ。

幸せなお茶会を開いた。

 

数日後。

予想していた相手が来た。

白衣を着込んだ、随分と綺麗な女だ。ここに来た女の中でも、美貌という点では上から数えた方が早いかも知れない。

しかし、何だろう。

どうにも見覚えがあるような気がする。

「寺沢奈々よ。 よろしく」

「此処を見つけるまでが早かったな」

「これでも大学の教授をしているの。 生半可な連中と一緒にされては困るわ」

「そうかそうか」

頭には自信があるらしいけれど。

別に、大学の教授くらい、そう大したものではない。この店に来た連中の事を考えると、もっと凄い面子がいくらでもいた。

とりあえず座らせて、話を聞く。

非常にストレートな要求を突きつけてきた。

「権力が欲しいのだけれど」

「また随分と直球だな」

「私には時間が無いの」

側に置かれたのは、アタッシュケース。

中には五百万くらいが無造作に入れられていた。

「かなりの資産だな」

「貴方がお金を喜ぶかは分からないけれど、最悪の場合、この十倍までは用意できるわ」

「いらん」

金なんて、持っていても仕方が無い。

アモンは餌を釣るときに金を使うことがあるが、それはそれだ。

要求は何かと聞かれたので、心の闇と応える。

ふうんと、退屈そうに女は言う。

「貴方は悪魔と言う噂があるのだけれど、本当なの?」

「正確には魔神だな」

「本物の、ソロモン王の72柱だというの?」

「私の名前がアガレスという事も知っているのか」

知っていると、女は応える。

なるほど、相応に出来る事は出来るようだ。だが、天才と呼ぶにはまだまだ遠く届かない。

少し腕組みした後、私は考える。

権力が得られそうな道具をくれてやるのは大いに結構なのだけれど。しかし此奴の場合、違う所に願望がありそうだ。

まあ、闇を覗いてみないと、どうにもならないか。

指を突きつける。

意識を失った奈々を、アモンが支えた。

闇は非常に濃い。

中を覗き込んでみると、凄まじい渦が、高速で回転している。これはこれは。この陰湿な闇、田舎の因習に取り込まれていると見て良いだろう。

飛び込む。

翼を広げて、泳ぎながら闇を喰らっていく。

この間、色王寺との一件が片付いてから、私の力は少しだけ回復している。大きな困難を乗り越えたから、肉体が多少進化したのかも知れない。

しかし封印というのは、悪魔と言う存在を、根本から壊すもの。天使についても同様だ。多少進化した程度では、とてもではないが、力を発揮するほどに封印を弱めることなんて出来ない。

私の場合は、魔力が無事なだけでもめっけものなのだ。

深淵へと、潜っていく。

丘に立ち尽くし、都会の明かりを見つめる奈々が見えた。

まだ中学生くらいだろうか。

その当時から美貌が輝くようである。憂いを秘めた表情は、周囲の男子達を引きつけて止まなかったに違いない。しかし目つきが鋭かったので、怖がられたかも知れない。大人になってから、花咲く美貌だ。

そして、大体願望は分かった。

周囲に満ちている渦は、どうしようもないがんじがらめの状況。

大本の願望は。

闇を適量吸収したので、浮上する。

外に出ると、奈々はまだ目を閉じていた。

呼吸を整えながら、取り込んだ闇を体に馴染ませていく。アモンは、笑顔のまま、奈々を顎でしゃくった。

「どうでしたか、これ」

「悪くは無い」

「そうですか」

指を鳴らして、暗示を解く。

アモンには悪くは無いと言ったが。中々に美味なる闇だった。問題は、その後である。此奴の願望を叶えるには、権力をくれてやるだけでは駄目だ。田舎の因習をどうにか解体しないといけない。

「……ええと?」

「貴様の闇を喰わせて貰った」

「そう。 それで」

「対価は支払おう」

少し悩んだ末に、私はアモンに、例のものを指示した。

これなら、多分上手く行くだろう。

問題は上手く行ったあとだけれど。

其処までは、流石に責任を持つことが出来ない。

寺沢を帰らせると、私は頬杖をついて、大きなため息を漏らした。人間の中には、特別に厄介なのが、時々紛れ込んでいる。

それは分かっていたのだけれど。

直接相対してしまうと、面倒だなと感じてしまうことは。避けられなかった。

 

気付くと、私は帰りの電車に乗っていた。

東京から戻る電車。

特急でも、二時間ほど、最寄り駅まで掛かる。まあ、乗り換えが無いだけ、マシというレベルの電車だ。

席が空いたので、座ることにする。

ぼんやりしながら、何が起きたのかを、少しずつ整理していった。

結論から言えば、店はあった。

GHQの社交倶楽部でも、特別な株式取引場でも無かった。噂の中で、一番怪しいと思って一瞥もしなかった内容。

まさか。本物の悪魔が経営する店だったとは。

乾いた笑いが漏れてくる。

見せられたものは、催眠術などでは決して出来る事では無かった。何となく、覚えていたのだ。

あの小さな子供が、背中に翼を生やして。

私の中から、闇を喰らっていった。

そして、私の家に、なにやら届けてくると言う。それがどういうものかは分からないけれど。

ただ、確信は出来た。

上手く使えれば、一気に状況を打開できる。

そうすれば、この閉塞された生活ともおさらばだ。私は、名実共に、自由になる事が出来るのだ。

くつくつと、笑いが漏れる。

周囲の乗客が、ぎょっとした様子で私を見たが、どうでもいい。足を組み直すと、私はまず、研究をどう進めるかの思考に戻った。

電車が、最寄り駅に着く。

駅の駐車場に止めている車に乗り込むと、時計を確認。七時か。

これだと、家に着くのは七時半を過ぎる。田舎だから、交通の便は文字通り最悪なのだ。だが、別に今はどうでもいい。

自宅へ直帰。

大学へは寄らない。

ベッドで横になると、来ているメールを確認。学生の何人かが、レポートを仕上げたとメールを寄越していた。明日確認する。

小さくあくびをする。

一階に下りると、両親が揃っていた。

父はいつの間にか頭に白いものが随分増えていたし。

母は何だか小さくなったような気がする。

「奈々」

「どうしたの? 夕食は」

「もう、結婚する気は無いのかね」

「また長老に絞られたの?」

青ざめている父の様子から、答えは明らかだ。

これは、もうあまり長い事、成果が出ない状況では、二人は持たないかも知れない。せっかちな老人共は、もう待ってはくれないだろう。

だが、私には自信がある。

「大丈夫、何とかなるわ」

「もう、俺たちでは、あのじいさま達を抑えられんよ。 会社にも、嫌がらせが来るようになっていてな」

「三十までには学長になるわ」

驚いたように、二人が顔を上げた。

あの学長は、どのみちもう私の操り人形だ。くだらないハニートラップに引っかかった報いである。

尻尾を掴んでいる相手なんて。

どうにでもなる。

他の教授も、私の能力は嫌と言うほど知っている。今の大学は、私がいないと、廻ることは無いのだ。

だからこそ、私は強気になれる。

そして、切り札も手に入れた今、恐れる事なんて、何も無かった。

「見ていなさい。 無能な学長も追い落として、そして長老にも二度と私には口出しできないようにしてやるわ。 二人の仕事先も、私が面倒を見て上げる」

何故だろう。

二人が私の笑みを見て、震え上がっているのが分かった。

どうでもいい。

さて、何が届くのだろう。私には、興味深くてならなかった。

 

5、終焉の日

 

政府の役人と握手する。

これで、大学には膨大な援助が降りる。当然の話だ。ついに研究が完成したのだから。

従来の農業を、ひっくり返す画期的発見。

造り出す野菜は、今までの倍の速度で育ち。味まで良い。

最大の問題だった虫がつくことも、ついにクリアした。

そして、幾つかの学会で発表を実施。検査実験も行って貰い、問題ない事も確認できている。

私は二十九。

そして、後ろで所在なげにしている小さな男が。前の学長だ。他の教授共も、全員が私の下僕である。

二十九で、大学を乗っ取ることに、成功したのだ。

そして、それ以外にも、成果は大きい。

村も、もはや私が掌握したも同然。この新進農法を導入した結果、今まででは考えられない利益が出ているのである。

勿論、もう私の両親の会社にも、手を出せる者は無い。

私は全てを手に入れたのだ。

決め手は、あの店に行って後。家に届いた段ボール箱。

開いてみると、入っていたのは。膨大なレポートだった。紙のレポートだけでは無い。フロッピーなども多数あって。その中の全てから、読み取れる形で、非常に詳細なレポートを回収することが出来た。

内容は、小松菜について。

小松菜に関する、ありとあらゆる詳細極まりない調査が、其処には載せられていた。

私で無ければ、途方に暮れてしまったかも知れない。

だが私はすぐにぴんときた。

現在やっている改良農法の小松菜と、従来の小松菜を比較すれば、何がまずいのかがすぐに特定できる。

何しろこのレポートと来たら、あまりにも細かすぎる。

遺伝子配列から栄養素、葉っぱや茎の構造、根の張り方、栄養をどう吸収するか、成長する際にどう変化するかに到るまで、まさに一分の隙も無く、小松菜という植物を研究し尽くしているのだ。

すぐにデータをスキャンし、或いはPCに落とした。

フロッピー用のデバイスも、すぐに取り寄せて、データを回収した。

誰が書いたものか分からない。

この執拗さ、恐らくは教授レベルの人間が、何十年も掛けて書いていったものだろう。それも、小松菜が本当に好きで好きで、その情熱が燃え上がっているのが、レポートから伝わってくる。

それでいてきちんと客観的に小松菜というものを分析できているのだから素晴らしい。

半年ほど、徹底的な比較研究をさせて。

ついに、特定できた。

具体的には、新型肥料から得られる栄養素が、化学反応を起こしているのがまずかったのである。

植物自体の内部構造を、反応によって生じる生成物質が、書き換えてしまっていた。これにより、植物が本来持っている虫除けの能力が、著しく低下してしまっていたのだ。他の植物でも、この反応が起きていた。

つまり、免疫低下剤を、植物内部で勝手に生成している状態だったのだ。

植物そのものが変わったわけでは無かった。

いずれにしても、これで問題はクリアできた。

考えて見れば、この結果を想定するものはいくつもあった。葉や茎は散々食い荒らされているのに、根につくタイプの害虫は通常の植物とあまり変わらなかった。此処にもっと注目していれば、或いはこのレポートが無くても、どうにかなっていたかも知れない。

とにかく、対応策はすぐに出来た。

肥料に、この反応を防止する薬剤を入れれば良かったからである。

先端農業といっても、滅菌室で作るようなやり方では、どうしても分量的に限界が生じてくる。

現在の農業に対する改良で無ければ、意味が無い。

こうして私は、先端農業を完成させ。

その利益を独占することが出来たのだった。

勝った。

私はそう思った。

研究室に戻ると、今後の利益について、レポートをまとめさせる。既に教授も全員を顎で使える立場になっている私は、この大学の独裁者だ。これほど権力を好き勝手にする事が気持ちが良いとは想わなかった。

老人になってからモンスタークレーマーになる人間の気持ちが、少しだけ分かる気がする。

今まで我慢していた分、傲慢な欲求が抑えきれない。

この権力を用いて、どのように周囲を蹂躙するか。そう考えはじめると、精神が暴走するのを目に見えるほどに感じ取れるのだ。

勿論、私は今や。この周辺にとって、逆らうことが出来ない独裁者だ。

村の長老でさえ、もはや私には意見できない。

朋子に到っては、子供をたくさん引き連れて歩いているけれど。私を見ると、引きつったようにおびえを顔に貼り付けるだけだった。

さて、畑の様子を見に行くか。

こればかりは、ライフワークとして、身についてしまっている。

夫を手に入れるにしても、既に手に入っている膨大な金を用いれば容易い。弁護士だろうが国会議員だろうがよりどりみどりだ。

だから私は余裕を持って、人生を謳歌することが出来ていたのだが。

畑を見回っているとき、不意に背中から灼熱が。

腹へと突き抜けた。

一瞬置いて、絶望的な痛みが、全身を貫通する。

大量の鮮血が噴き出す。

包丁が、背中から腹へ抜けている。

多分マグロなどを捌くときに使う、業務用包丁だ。

地面に倒れた私は、見た。

顔中を髭だらけにして。

ホームレス同然の姿になった彼奴は。

石川教授だ。

そうだ、失職してからどうなったか、聞いていなかった。石川の目には、もう正気と呼べるものがなくなっていた。

凄まじい異臭。

これだけは変わっていない。

「こ、ころし、らぞ。 お、おれのす、べて、うばった、お、おんあ」

もうろれつも回っていない。

奇声を上げながら、飛び跳ねて石川が遠ざかっていく。

薄れていく意識の中で、私は見た。

村の連中が、遠巻きに見ている。

嗚呼。

なるほど、私は用済みになったから消されたのか。

研究材料だけ横取りされたという事か。

乾いた笑いが漏れてくる。

馬鹿めが。

私は、植物の免疫を落とす化学反応に対するカウンター薬物のデータを、ロックを掛けたファイルに収めている。

規定の手順を踏まないと、消えてしまうように仕組んである。

さらに、関係するレポートは全て焼却済み。

なおこのレポートは、私が自分で作った。

他の学生には触らせていないから、関係者には再現不可能だ。

石川をたきつけたのは、誰だろう。長老だろうか、その取り巻きだろうか。あの村人共の様子からして、きっと。

まあいい。

私は目を閉じると。

儚い夢だけを見られたことを、あの黒い子供に感謝していた。

 

アモンが地方紙を持ってくる。

この間、小松菜のレポートをくれてやった女の顛末が、それに記載されていた。

最近いちごに凝っている私は、いちごのクリームムースを食べながら、その記事を読む。記事を読んでいる間だけは、アモンも仕事しろとはいわない。

新進気鋭の学長、不審者に刺される。

一命は取り留めるが重症。特に脳の方に大きなダメージが出ており、一切の記憶を失ってしまっているという。

更に、学長が推進していた新進農法で必要な薬剤の生成について、学長だけが知っていた可能性が高く、大きな躓きの可能性。

現在、関係各所から専門家が集められて、薬剤の解析が必死に行われているものの、未だ成果は上がらず。

鼻を鳴らすと、私は地方紙をアモンに返した。

権力を手に入れた直後は、誰もが正気を失いやすい。

あの女は、その典型例だった、という事だ。

きっと上手く行かないだろうとは思っていたけれど。やはり、上手くは行かなかったか。気の毒な話である。

闇を喰らうとき、私は見た。

丘から都会を見る、娘の記憶を。

あの純粋な想いが、どうしてこう狂気へ行ってしまったのだろう。閉塞的な環境は、結局人間に良い影響など与えないという事だ。

クリームムースを食べ終えると、作業に戻る。

記憶を失ってしまったことで、あの娘。寺沢奈々は、むしろ幸せになれたのかも知れない。

全てのしがらみから解放されたのだから。

わずかな間だが、膨大な資産も得ることが出来た。

今後の一生、生活に困ることも無いだろう。

或いは、記憶を失ったことで、むしろ純粋な人柄になって。退院後は、平穏な生活を選ぶ事が出来るかも知れない。

まああくまで、それらは推察。

それによって寺沢奈々に、幸せが来るかは、正直よく分からないが。

いずれにしても、私に出来る事はもうない。

焼け落ちてしまった寺の図面を、定規と鉛筆だけで修復しながら。私は、次に何をなおさせようか考えているらしいアモンに言う。

「あの娘、寺沢奈々だが」

「時々来る、権力病患者に見えましたが」

「そう言ってやるな」

相変わらず容赦の無いアモンに、私は苦笑するほか無かった。

結局の所。

人間という生き物に。まだ、社会というものは早かったのでは無いか。そう、私には思えてならなかった。

 

(続)