砂漠の狂犬
序、逃亡
もう力は残っていない。
だから、逃げるのは今しか無かった。相互監視の体制が敷かれていることは分かっているから、誰にも相談は出来ない。私は夜中に、寝所を抜け出す。多分、そう時間を掛けずに、ばれるはずだ。
奴隷にとって、信用できる奴なんていない。
此処にいる奴隷は、みな物心つく前に、買ってこられたのだ。
戦争に負けた部族を奴隷化する例は珍しくも無い。
特に女の赤子は、高く売れる。
私はそうやって売り飛ばされた奴隷の一人。
父も母も知らない。乳母に当たる人はいるけれど。ただ乳をくれただけ。優しくしてもらった事なんて、一度だって無い。
死ねば使い捨て。
生きていたとしても、どのみち碌な未来は無い。
屋敷の外には、砂漠が何処までも広がっている。昼になれば灼熱地獄。だけれども、彼処に逃げ込めば、追っ手は来ない。
だから、万が一にでも、逃げ切れれば。
私は、自由になる事が出来るのだ。
見張りの犬が眠っているのを確認してすぐ側を通り抜ける。悪知恵ばかり働くようになっていった。
何時からだろう。
体も随分軽くなった気がする。
力は殆ど残っていない事が分かっているのに。
体自体は、空を駆けるように動かせる。
塀を越えると、砂漠に降り立つ。空には月。裸同然の格好だからとても寒いけれど。昼になれば、今度は我慢できなくなるほど熱くなる。
走る。
何処か、水がある所に逃げ込んで。それから。
別の所へ。
其処でも、きっと碌な暮らしが出来ないだろう事は、今の時点でもう分かっていたのだけれど。
此処にいて、使い潰されるよりは、まだマシだ。
ストリートチルドレンになるくらいしか生きる路は無いだろうけれど。それでも、此処にいるよりは、遙かにマシ。
砂を蹴って走る。
ここのところの労働は、特に酷かった。互いに監視し合って、逃げだそうものがいれば即座に密告し合う奴隷達も。
私が逃げ出したのには、気付いていない様子だ。
ひたすらに走る。
足跡なんて、風が吹いて砂が舞えば、すぐにかき消される。
何個目かの砂丘を滑り降りたころだろうか。
遙か向こうに、光が見えた。
オアシスだろうか。
行って見る価値はある。いずれにしても、私は此処からの脱出が上手く行かなければ、死ぬつもりだったのだ。このまま行って罠ならそれでもいい。罠で無ければ、万々歳だ。失敗したとき死ぬための短刀も、くすねてきてある。
最悪の場合は、これで首を掻ききるつもりだ。
無言で、走る。
体中が冷えているのが分かった。元々無茶な労働で、痛めつけられきった体なのだから、当然だろう。
ひたすら、無我夢中で走った。
そして気がついたときには。
自分がどこにいるかも、分からなくなっていた。
砂漠の似たような光景の下で、ずっと走っていたのだから当然だ。少し離れた所を、大きな蛇がゆったり動いているのが見える。近づくのは、あまり得策では無いだろう。毒をもっているかいないか判別がつかないし、あの大きさだと短刀で殺すのもかなり難しそうだ。
蜥蜴か、鼠はいないだろうか。
呼吸を整えながら、月明かりの下を歩く。
鼠は、ごちそうだ。
奴隷の間で、食べ物は基本的に奪い合い。屋敷にたくさんいる鼠は、捕まえると喧嘩になるほどだった。
焼いて食べると、とても美味しい。
餌として与えられる食物よりも、遙かに栄養があるのだ。
蜥蜴も悪くない。
奴隷の間では、鼠を捕まえたら他の目につかないように、どう食べるかを考えるのが常だった。
だが、砂漠で、堂々と動き回っている鼠なんて、そうはいない。
分かってはいる。
多分このままいけば、餓死するんだろうと。
お月様を見て、その方向へ歩いて行く。
延々と連なっている砂丘。
振り返ると、少し足跡が曲がっているのが分かった。そして、そろそろ、朝が来るころだろうか。
影になる場所に、逃げ込まないと危ないかも知れない。
オアシスにたどり着けなければ、きっと死ぬ。
でも、何だかわくわくした。
大きな砂丘の影に降りると、穴を掘る。手で掘るけれど、柔らかい砂だから、結構簡単に作ることが出来る。
問題は、深い穴にするのが難しい事だけれど。
時間を掛けて、自分が充分に隠れるだけの穴は作った。
日が、昇りはじめる。
襤褸切れ同然の服を脱ぐと、被る。砂漠で日を直接浴びることが死につながることくらい、私だって知っている。
すぐに暑くなってきた。
だけれど、日を浴びるのは自殺行為だ。
無言で私は、襤褸切れを被って。小さく、穴の中で縮こまり続けていた。
灼熱の中で、どうしてだろう。
私は、あまり消耗を感じていなかった。
少なくとも屋敷で鞭を喰らったり、怒鳴られたり、殴られたりするよりも、ずっとずっとマシだ。
無言で手を動かす。
穴の中に這い出てきた鼠を捕まえたのだ。
そのまま頭から囓る。
焼いている暇なんてない。そのままもぐもぐと囓って、尻尾まで飲み込んだ。何だか力が湧いてくるようだ。
水が飲みたい。
耐えられても、そう長くは無いだろうと思った。
しかし、である。
その日、ずっとお月様に向けて歩き続けて。
そしてまた砂丘の影に穴を掘って。
中で丸まって。時々姿を見せる鼠を囓っているうちに、次の日が来て。私は、何だろう。水を飲まなくても、動けるようになっている自分に、気付いていた。
むしろ体が軽いくらいだ。
おかしくなったのだろうか。
あり得ることだ。
あの屋敷では、ありとあらゆる暴力を受けた。もう少し年上の女性奴隷は、性暴力も受けていた。
私だって、それが何を意味するかは分かっている。
更に言えば、私は屋敷で、使えない奴隷と考えられていた。生まれたときから奴隷で、生きているだけでめっけもの。それで何故満足しない。そう言われ、来る日も来る日も殴られた。
粗食は、意外に平気だったけれど。
暴力は、どうにも耐えられなかった。
何度か死にかけた。
息は吹き返したけれど。周囲はそれを見て、何だ生き返りやがったという目で見ていた。死んだ奴隷は、他の奴隷の食事になる事も多い。死んでからで無いと食べてはいけないという無言のルールもあったけれど。
それに、奴隷の中でも、立場が上の人間が、肉を独占する。
私は、人間の肉なんて、結局食べる機会が無かった。
屋敷を逃げ出して、七日が過ぎたころ。
多分偶然だろうけれど。
私は、オアシスを見つけた。
歓喜の声が上がる。元々服なんて着ていないも同然。そのままオアシスに飛び込んで、水をがぶ飲みした。
そして、気付いた。
全然、喉が渇いていない。
むしろ、冷たいことで、一気に頭が冷えたほどだ。
ひょっとして、私は。
もう、人間では無くなっているのでは無いか。
思い当たった事がある。
その日は、穴を掘らずに、昼間を待った。直射日光を浴びることは、自殺行為。分かっているけれど。
私は、平然と、日光の下に出た。
平気だ。
砂漠の動物たちでさえ、日光を避けるために、あらゆる工夫をしていると言うのに。本来砂漠でなんて生きていけない人間の私が、地獄のような直射日光を浴びていながら、平然としているのはどういうことか。
汗も殆どでない。
体も過熱されている様子は無い。
頭がくらくらもしない。
どうやら、私は。本当に、人間では無くなったらしい。そう思うと、何だかおかしくさえなってきた。
オアシスの周囲を回りながら、私はこれからどうしようかと考える。
砂漠の中でのたれ死ぬだろうと、実のところ逃げ出したときには思っていた。生きて別の街に逃げられれば御の字だと。
しかし、砂漠の中で生きるのに困らなくなった今。
もっと、別の事を考えても良いかもしれない。
不意に、空から影が舞い降りてくる。
それは、翼を持つ人間だった。何人かいるけれど、どれも日に焼けているとは思えない肌をしていた。
着込んでいる服は、布地が多くて。
襤褸同然の私とは、身につけているものからして違った。
「強い魔力をたどってきてみれば」
「娘。 名前は」
そんなものはない。
屋敷では、チビとか、役立たずとか呼ばれていた。
小首をかしげる私を見て、顔を見合わせる羽の生えた人間達。羽は真っ黒で、角が生えている人間もいる。
「恐らくは奴隷階級だろう。 何かしらの理由で、人間を超越したのだ。 そして、それを自覚したばかりという所か」
「あなたたちは、なあに?」
「魔神という存在について、聞いたことは無いか。 我らはいわゆる魔神だ。 魔界の王に仕えている」
何か良く分からない事をいわれた。
魔神というのは、聞いたことがある。確か、世の中で起きる悪い事は、大体魔神のせいだとか。
でも、それでもいい。
正直な話。
私は人間である事に、うんざりし始めていたからだ。
私と、見かけの年があまり違わなそうなのがいる。腕組みして此方を見ているそいつは、髪が真っ黒で。足下まで、髪の毛が届きそうなほど長かった。何だかえらそうな格好をしているけれど、妙に子供っぽい。
「その娘は、私が引き取ろう」
「アガレス、いいのか」
「どうせ放置していても、天使共に殺されるだけだ。 中途半端に覚醒した状態では、人間の軍にも遅れを取る。 殺されると面倒な封印を掛けられる可能性も高いし、何より悪魔は非常に増えにくい。 きちんと世話をして、同胞を増やした方が良い」
アガレスとか呼ばれた女が何かを呟くと、白い布きれがいきなり出てくる。
何だろう。
何も無かったはずなのに。
「裸同然の格好では色々恥ずかしかろう。 これを着ろ」
布を押しつけられた。
しばらく臭いを嗅いだりしてみたけれど。変な布ではないようだ。
着方もよく分からなかったけれど。アガレスは丁寧に教えてくれた。着てみると、肌触りも良いし。柔らかい。
動きやすい服だ。
性器を守るようにして、布きれも腰に巻く。
足下までひらひらしている布は何の役に立つのだろう。
いずれにしても、もう肌を日光から守る事は考えなくてもいい。それだけが、用途かも知れない。
その用途も、今ではもう無に思えるのだけれど。せっかくくれたものなのだ。貰って置いた方が良いだろう。
魔神達はアガレスに、早く帰るように言うと、先に飛び去っていった。
アガレスは、服をきちんと着る事が出来た私を見ると、目を細めた。
「うむ、格好をきちんとすれば可愛い。 女の子はちゃんと服を着ている姿が一番いいのだ。 せっかくだから、名前もつけてやろう」
「名前?」
「そうさな。 空席にある魔神の名で良いだろう。 お前は今日からアモンだ」
アモン。
何だか、不思議な名前だ。
短いのに存在感があって。それなのに、どうしてだろう。とてもしっくりくる。
手をさしのべられたので、掴む。
「まずは体を綺麗にして、それからだ。 色々と、順番に物事を学んでいこう」
「何が目的なの?」
「どうしたのか」
「私を奴隷にするの? 人間の奴隷から、悪魔の奴隷になるの?」
アガレスは、首を横に振った。
何でも自分で決められるようにするために、まずは力を付ける。知識も増やす。それから、考えよう。
何だかよく分からなかったけれど。
何となく、アガレスが、今までの人間共とは違う事だけは分かった。
1、復讐の牙
私は、夜闇を走る。
外は危ないから、あまり遊びには行かないようにと、アガレスには言われているけれど。みずみずしい筋肉と、何より幼い好奇心が、体を動かさずにはいられなかった。とにかく、走りたくて仕方が無かったのだ。
勿論、天使に襲われると困るから、遠くにだけはいかない。
悪魔は死なない。
死んだとしても、そのうちに復活する。
ただし、その間に、体におかしな封印を掛けられてしまうことがあって。その時は、とても弱くなってしまう。
勉強をしながら、それを教えられた。
アガレスの教えてくれることは退屈だったり暇だったりするけれど。
文字の書き方や読み方は、とても便利だと思ったし。
数字の使い方も、やってみると使い道がたくさんあるのだと分かった。
一方で、歴史とか地理とかには、あまり興味が湧かなかった。どうやって使えば良いか、よく分からなかったからである。
砂丘を飛び越え、着地。
以前は素足で、それどころか素っ裸同然で走り回るのが基本だったけれど。
最近はしっかり服を着て、足にも履き物を付けている。
履き物は、屋敷では、えらい人しかつけていなかったから。何だかこれだけでも、生まれ変わったような気分だ。
しばらく辺りを走り回る。
人間を止めても、急激に悪魔になる訳じゃ無い。
まだ私は空も飛べないし、魔法の類も使えない。魔法については教わっているけれど、どうにも才能が無いらしくて。どうしてもアガレスのように、魔法を自由自在に使いこなす、というわけにはいかなかった。
人間を止めつつある事で、変わった事は他にもある。
おなかがすかないのだ。
アガレスによると、人間時代とは、食欲の量と質が違うのだとか。
何かを口に入れてみても、満足感もないし、充足もしない。
悪魔が食べるものだという黒いもやもやを口にすると、少しはおなかが一杯になるけれど。
何というか、味気なくて、あまり好きになれなかった。
ぽんぽんと、砂丘を飛び渡る。
月の下で、私はただ無邪気に、遊び回った。
もう蠍も大きな蛇も怖くない。
アガレスに、無闇な殺生はするなと言われているけれど。それでも、時々からだが勝手に動いて、殺してしまう。
気がつくとばらばらの死体になっている動物を見て、私は何とも言えない虚無感を感じるのだった。
悪魔になるからかは分からないけれど。
偽装して立てられているアガレスの家がどちらの方向にあるかは分かる。
だから、離れすぎると我に返って、すぐに家の方に戻るのだ。
空を見上げる。
天使が三十から四十、飛んでいる。
彼奴らと戦ってはいけない。そうアガレスに言われているので、すぐに身を隠す。実際、自分の力がどれくらいか、相手とどれくらい離れているかは、すぐに分かるようになっていた。
戦っても、勝てない。
相手は空にいるし、単純な力も違うのだから。
砂丘に隠れて天使共をやり過ごした後、アガレスの家に戻る。
魔法で隠されている家の周囲には、透明な膜のようなものがあって。通り過ぎると、ちょっとぴりっとする。
家はオアシスの周りに作られていて。
砂漠の中、其処だけは緑の空間になっていた。
普通風で砂が吹き込んでくるのだけれど。
それもどうやら、魔法で防いでいるようだった。
家の入り口では、アガレスが眠そうな目を擦りながら立っていた。
一緒にいて楽しいと思った相手は、アガレスが初めてだ。
あったかいお風呂にも入れてくれたし。ごはんもくれる。
色々教えてもくれる。
今まで周囲にいた人間とは違う。
魔神とは災厄の権化だという話だったのに。私にとっては、どんな人間よりも、優しい存在だ。
大好きである。
「気は済んだか?」
「ごめんなさい」
「いいんだ。 まだお前は子供だ。 ただ、私の目が届かない所には行くんじゃ無いぞ」
寝床も用意されていた。
木で作られた床の上に敷かれた、布二枚。
その間に入って眠るのだ。
部屋は寒くも暑くもないようになっていて。とにかく寝苦しかった、あの屋敷とは大違いだった。
軽く体を洗ってから、寝床に入る。
最初は、お風呂に入る方法も知らなかった。石鹸の使い方も。アガレスに、何もかも教えて貰ったのだ。
寝床の横に、アガレスは座る。
最初は何だか不安で、眠れなくて。丸まって泣くことも多かったけれど。
アガレスが側にいてくれると、何となく安心できる。
でも、分からない。
どうしてアガレスがこんなに良くしてくれるのかだけは。今でも、どうしても、理解できなかった。
「走り回るのは楽しいか?」
「走るのすきー」
「そうか」
アガレスは、あまり走り回るのは好きじゃ無いらしい。いつもご本を読んでいたり、難しい図とかを、魔法で空中に書いている。
勉強は少し退屈なこともあるけれど。
それでも、何というか。アガレスと一緒にいることが楽しいので、あまり苦にはならなかった。
「アガレスさまは、どれくらい生きているの?」
「200年ほどだが」
「そんなに」
「私はソロモン世代と言われていてな。 私と同世代の魔神はかなりたくさんいる」
ああ、難しい話が始まる。
そう思った時には、アガレスは淡々と話し始めていた。
少し前に、ソロモン王という人がいたという。その人が、色々と魔神の定義を決めたのだとか。
「実際にはただの手下の一覧で、人間の部下をおどろおどろしく書いただけの本だったのだけれどな。 色々な事情が重なって、ソロモンという王は神格化された。 結果、書いた本も、同様の扱いを受けた」
人間の思念が、魔神を造り出していった。
思念によりルールが造られて。
幾らかの魔神は、それに当てはまる形で出来ていったのだという。ただし、ソロモン王72柱と呼ばれる魔神にはまだ欠員が多いと言う。
アモンは、その欠員に入れられる形で、魔神としての存在を得たのだとか。
聞いてもよく分からないけれど。
アガレスとお揃いという事は分かったし。
それで良かった。
「ソロモンは前半生は有能な王だったが、晩年は国を乱して、滅びの原因を作った。 お前はユダヤの民では無いが、奴隷として苦しい生活をしていたのも、ソロモンの失政が遠因になる。 周辺国の混乱を引き起こしたのもだ」
「そうなんだ」
「もっとも、ソロモンだけに責任を押しつけるのも問題だ。 王だけでは国は動かないし、人間の行動には無駄も誤差も多い。 いずれ私は、人間がすりつぶしていった有益なものを、拾い上げていくつもりだ」
私には難しい話は良く分からない。
ただ、少し年上に見えるアガレスが、普段は感情を見せず。こういうときだけ、声に感情がこもるのは、見ていてとても嬉しかった。
アガレスは場合によって姿を変える。
時には鰐に乗ったおじいさんにもなるし。
威風堂々たる武人にも変わる。
でも、普段の姿は、私より少し年上のお姉さんに見える。そして、どうやら、これが本来の姿のようだった。
アガレスは眠ることも殆ど無い。それは羨ましいと思う。
眠ることに対する、良い思い出は無い。
周りに常に警戒しなければならなかった。
眠っている所を叩き起こされることは、日常茶飯事。文字通り、叩き起こされるのだ。他の奴隷は、主人に虐められた憂さ晴らしとして、私を殴った。眠れないように、暴力を振るうこともあった。
それを館の人間達は、にやにやしながら見ているのだった。
眠ろうとするときは、大体からだが強ばる。
アガレスが側にいてくれても。
怖い事に、代わりは無い。
眠らなくても、済むようになりたい。
つまり、早く魔神として完全な存在になりたかった。
「アガレスさま」
「どうした?」
「早く完全に魔神になりたい」
「人間に未練は無いのか」
ないと即答すると。少し悲しそうに、アガレスはそうかと応える。
アガレスと一緒になりたいというよりも。人間という存在に生まれたことが、アモンにはのろわしくてならなかった。
人間を止める機会を得たのは、本当に嬉しい事だ。
だから、一刻も早く。私は、本当の意味での、魔神になりたかった。
魔神になるには時間が掛かる。
そうアガレスに言われた。
時々、魔界という場所にも連れて行かれる。其処は地面の下にあるのでは無くて、このよと紙を一枚くらい隔てた別の場所にあるという。行くときは、アガレスと手をつないで、ちょっとぴりっとする膜みたいのを抜ける。
そうすると、もう魔界だ。
魔神がたくさんいて、たまに私と同じように、中途半端なのもいた。
元々人間だったのや。
それに、形が上手く定まっていないような魔神。
アガレスと時々話をしている。
ぐちゃぐちゃの形をしたそれは、とても悲しそうに体を蠕動させながら、アガレスに窮状を訴え。
アガレスも、親身になって、話を聞く。
「そうか。 まだ人間達の間で設定が定まっていないんだな」
「元々幾つかの信仰が混じり合っている状態ですから、私という存在はこのまま形を得られないかも知れません」
「その場合は、空席になっている72柱でもなんでもいい。 我々で、どうにか立場を用意しよう」
「有り難うございます」
魔界は、空が紅い。
地面は赤茶けている。
何処へ行っても、何も無い。
何だか、いい加減に作られて、放置された場所、というイメージだ。
向こうを歩いているのは、とても大きな姿。アガレスに気付くと、巨大な人は、片手をあげて挨拶をして来た。
アガレスも挨拶を返して、適当に話す。
小首をかしげているアモンに、説明もしてくれた。
「巨神だ」
「きょじん?」
「今まで信仰の主流だった存在だが、近年は人間が悪魔的な存在としてみるようになってきた。 だから魔界にも、巨神が生じ始めている」
悪魔は結局の所、人間の思念が産み出した存在。少なくとも、アーキタイプは間違いなくそれだ。
だから、人間の社会や信仰に、存在がどうしても左右される。
「我らは今の時点ではそれほど悪辣でも無いが、そのうち信仰が先鋭化すれば、人間から見て邪悪の権化みたいにされるかも知れんな」
「その場合は、邪悪になるの?」
「影響は受ける。 それだけだ」
とはいっても、人間の邪悪さは、悪魔なんかでは及びもつかないと、アガレスはいう。それだけは何となく、私も納得できるのだった。
何かを作っている場所に来た。
魔法を使って、何名かの魔神が石を積み上げたり、溶かしたりして、形にしている。翼を背中に持つ男の人が、アガレスを見ると右手を挙げた。綺麗な顔をしていて、天使みたいだ。
側にあるのは、チャリオットだろうか。
屋敷にも同じようなものがあった。馬に引かせる車だ。たしか、人間同士で殺し合いをするときに、使うとか聞いている。
「おお、アガレス。 そちらがアモンか」
「変わりが無いようだな」
ベリアルだと、紹介された。
確かアガレスの同期の72柱の中では、最強とされる魔神の筈だ。今の時点では、魔界に決定的な盟主はいないという。
その中では、主導的に魔界をまとめようとしている存在で。
他の魔神達にも一目置かれているという。
今作っているのは、魔界のシンボルとなる城だとか。
とはいっても、アモンから見ても、まだ土台しか出来ていない。
魔界と同じく、何というか基礎が定まっていない印象だ。
「魔王とでも呼ばれる存在になる者が、今の時点ではおらん。 しばらくは信仰の混乱が続くだろうし、下手をすると天使共と戦争をすることになるかも知れん」
「例の唯一信仰の勃興か」
「そうだ。 必ずしも悪魔は神と極端に離れた存在では無いし、殺し合う必要も無いと思うのだが。 どんどん天使が組織化しているし、我々もそれに合わせて、組織化が進むかもしれん」
「面倒な事だ。 人間のルールを、我らに持ち込まないで欲しいものなのだが」
かってはバアルという偉大な信仰があったのだけれど。
それが散々に分裂して、今では混乱しかないという。
難しい話も、年が流れるにつれて、少しずつ分かってきたけれど。まだまだ、私には難しい。
背が高いベリアルは、私の肩を叩くと、言う。
「アガレスを支えてくれるか、アモンよ」
「アガレスさまは大好きです」
「そうかそうか」
嬉しそうに目を細める。
ベリアルというのは、嘘しか言わない残虐な魔神だという設定らしいけれど。少なくとも、今まで話しているベリアルに、そんな人間みたいな要素は無い。もっと高潔な存在に思えた。
「とにかく、信仰が固まって魔界の王が誕生するとなると、我らも組織化をしっかりしなければならないな」
「だが、魔界の設定はいい加減になりがちだ。 公爵で伯爵だとか、何十の軍団を従えているとか。 結局の所、我ら自身で、いい加減な設定を補っていくしか無い。 苦労を掛けると思うが、頼むぞ、ベリアル」
「うむ」
「こう呼び捨て出来るのも、今が最後かも知れないな」
少し寂しそうに、アガレスは言う。
頷くと、ベリアルは仕事に戻った。
「アガレスさまは、ベリアルさんが好きなの?」
「ああ。 人間が言う、生殖したいという意味での好きとは違うがな。 魔界をまとめようと、努力を続けている魔神だ。 魔神達の多くは、ベリアルを尊敬している」
他にもえらい魔神達と挨拶をしていく。
最後にあったバエルという魔神は。滅茶苦茶に姿を歪められてしまって、悲しいと嘆いていた。
その姿は形容しようが無かった。
蛙とかお爺さんとか蜘蛛とかが、ぐちゃぐちゃに混じっていたのだ。
「いつか儂が、もとの光り輝く原初の神格バアルに戻る日は来るのだろうか」
「……境遇は受け入れて、自分にとって都合が良い姿を取れるよう努力しよう。 そなたは私に並ぶ魔術の大家では無いか」
「しかしこの姿だ。 醜いとかおぞましいとかいう次元では無い。 人間達の悪意は、他の者が崇めていた神を、どうして此処まで貶められるのか」
「……」
膿が噴き出している部分まである表皮を、アガレスは優しく撫でながら、回復の魔術を掛ける。
崩れた形の魔神バエルは、慟哭していた。
アガレスは何も言わず。側にずっと付き添っていた。
魔界から戻ってくると、アガレスは疲れたらしく、自室に戻った。
眠るのでは無くて、本を読みながら、ゆっくりするのだ。魔神はそれだけで回復する。私はそうはいかない。
まだ魔神になりきっていないからだ。
同じように、人間から魔神になった者と話がしたかったのだけれど。年格好があう相手がいなかった。
殆どがおじいさんだったりおじさんだったりで。中には、非常に怖そうな人もいた。
外に、遊びに行く。
背が伸び始めている。まだ魔神では無く、人間の要素が残っているからだろうと、アガレスは言っているけれど。
全く嬉しくない。
人間なんて、価値を認められない。
一刻も早く、完全な魔神になりたかった。
どうすればなれるのだろう。
アガレスはいつも言う。
時間が掛かる。今はのんびり、魔神になっていくのを待てと。空席だったアモンは強力な魔神で、育ちきれば、アガレスの右腕にもなる事が出来る。魔界の重鎮として、活躍も出来ると。
砂漠を走り回る。
何となく、分かっていた。
好奇心も、体を動かしたいという欲求も。
人間だから生じるもの。
つまり、こうやって走り回っていて楽しいのも。私の中に、人間としての要素があるからなのだ。
憎いと思う。
どうして私は、はやく魔神になれないのか。アガレスを憎いとは絶対に思わない。何があっても、アガレスの事はすきだ。
アガレスによると、私は今、生きた年数は十四。アガレスの所に来て、三年が過ぎていた。
本来の十四は、もう少し背が高いとも言われた。きっと、ろくなものを食べていなかったからだろう。
更に言えば。
あのまま屋敷にいて生き延びていたら。
今頃、子供を孕んでいたかも知れない。
もうとっくに生理は来ている。
野獣同然の他の奴隷達が、女となれば見境無しなのは、私も身に染みてしっていた。私が性暴力を加えられなかったのは、まだ女では無かったからだ。
これも忌々しい。
こんな事を気にするのも、私がまだ人間の要素が大きいからに他ならない。
人間であったら、もっと影響は大きかっただろう。影響そのものはあるけれど、さほど激しくは無い。
魔神は、子供を作るのも、人間とやり方が違う。
少なくとも、男が女の中に精を放って、子を孕むと言う事は無い。表現は同じでも、過程がかなり変わると、アガレスは言っていた。
子供を作るとしても。人間と同じようにするのは嫌だ。
砂漠を走り回る。
走るのは嫌いなのに。どうしてだろう。
こうしていると、落ち着く自分がいる事にも気付く。天使が空を飛んでいたので、身を隠す。
身を隠すのは、どんどん上手になってきていた。
ふと、気付く。
明かりがある。
砂漠の向こう側に、誰かがいる。そういえば、気付いた。この辺りは砂漠だけれど、どちらかと言えば岩石砂漠。
砂だらけの場所では無くなっている。
アガレスに貰ったサンダルで、石だらけの地面を踏みしめて、周囲を見回す。
もう天使はいない。
そして、あの明かり。見覚えがある。
むわりと、殺意が浮き上がってくるのが分かった。
気配を消す。
人間を止めてから、力は上がった。まだ人間を完全に止めたわけではないし、戦闘を得意とする魔神ほどでは無いけれど。
それでも、人間から察知されない程度には、気配は消せる。
忍び寄る。
そして、見覚えがある塀の下に、辿り着いた。
中から声がする。
この声は、忘れるはずも無い。あいつだ。屋敷の主の、太った男。
塀を跳び越え、壁に張り付き。そして蜘蛛のように這い上がって、中を見る。以前より、壁と塀がずっと高くなっている。私が逃げ出した影響かも知れない。
「また戦だと?」
「陛下が、領土を広げたいと」
「こう戦続きではたまらん」
「しかし、何処の領主も、負担は同じでありますれば」
太った男は、周囲に何名か妾奴隷を侍らせているけれど。
どれもこれも、以前見たより年老いている。三年は、こうも人間を老いさらばらせるのか。
それに、前は遠くから見るだけだったあの太った男。
白髪交じりの頭になっている。着込んでいる服も、以前より金がじゃらじゃらしていない。
屋敷の周囲の壁は高くなったけれど。
よく見ると、屋敷自体は、以前より明らかにしょぼくなった。
聞く限り、戦とやらに、デブは不満を抱えているようだ。どうでも良いことである。
奴隷の待遇はどうなっただろう。
屋敷の中に入り込んでみる。
奴隷は相変わらず、多数が雑魚寝していた。
むわっとした異臭。
思い出す。これが、私がいた場所の臭いだ。体を洗うなんて習慣など無かったから、みな非常に不衛生だった。
アガレスに色々と、不衛生にすると何が害になるか聞かされた。
全員が、殆ど裸同然。女性は胸をはだけているし、男性だって性器を露出している人間も珍しくない。
確かに人間には暑い環境だけれど。
これは、本当に人間と呼べる待遇なのだろうか。
屋敷の中を見て廻る。
以前は入り込めなかった場所も入る。奴隷が何日も掛けて食べるような物が、ごろごろと置かれていた。
つまり領主は。
奴隷を散々苦しい思いをさせておいて、これだけのものを食べ放題、というわけか。
料理人らしい奴らが、領主の食事を作っている。
奴隷は一日一回か二回。ほんの少しだけ、食べるだけ。
あのデブは最低でも三回。
しかも今の時間食べると言う事は。四回目という事か。
ふつふつと、怒りがわき上がってくる。
そうかそうか。そういえば、これが人間という生き物だった。そう思うと、もう殺意は、抑えられなかった。
領主の部屋に乗り込む。
妾奴隷の服をひんむいて、これから交尾しようとしていた領主は。私を見て、小首をかしげた。
「えらいこぎれいだな。 新しい奴隷を誰か買って……」
そのまま、顔を蹴りあげる。
デブの頭が、首と泣き別れになって、吹っ飛んだ。
天井にぶつかって、綺麗に爆ぜ割れる。
一瞬遅れて、周囲の人間達が、悲鳴を上げた。剣を抜いた奴がいたので、それも蹴り飛ばす。壁を突き破って、遠くまで飛んでいった。その途中で空中分解するのが見えたから、生きている筈も無い。
後は、もう。
私はただ、荒れ狂う怪物と化した。
殺し、暴れ、切り刻み、引きちぎり、食いちぎった。
一撃だってもらわない。
こうも人間と、私は。いつのまにか、力に差が開いていたのか。
これは、快感だ。
奴隷達の所にも踏み込む。
私を散々殴った奴を見つけた。逃げようとしたところを、空中に放り投げる。地面にぶつかって、熟れすぎた果実みたいに砕けて潰れる。他の奴隷にも、軒並み恨みはある。全部殺す。
いつの間にか。
周囲に、生きている人間は、いなくなっていた。
そして、空には天使。
十か二十はいる。
不思議だ。以前は、戦っても絶対に勝てないと分かっていたのに。今は、負ける気が、しなかった。
空から舞い降りてくる武装した天使共に。
私は雄叫びを上げ。
殺気を叩き付けていた。
2、幽閉
気がつくと、私は。
暗い場所に閉じ込められていた。
手には枷。
足にも。
転がされている床は、多分地面だ。
魔法が掛かっているらしく、外れない。しばらくもがいたけれど。無駄だと判断して、諦めた。
足音。
光が見えた。どうやら、暗い部屋に閉じ込められていて。誰かが戸を開けたらしい。そして開けたのは。
間違いなく、アガレスだった。
「アガレスさま?」
「面倒な事を起こしてくれたな、アモン」
アガレスの声は、少なからぬ怒りを含んでいた。私は驚く。アガレスが怒る所なんて、はじめて見たからだ。
側に座ると、アガレスは説明してくれた。
「魔神が人間を殺す事は、やってはいけないことなのだ。 具体的には、天界との戦争を誘発しかねない」
「戦争……?」
「大勢が殺し合うという事だ。 お前もまだ魔界の体勢が整っていないことは分かっているだろう。 今戦争になれば、確実に負ける。 お前は、多くの魔神が無意味に殺戮される原因を作ってしまったのだ」
勿論悪魔は死んでも復活するけれど。
弱体化の封印を掛けられてしまうと、まず解除できない。最上位の悪魔でも、それは同じだという。
どうしてこんな事をしたのか。
聞かれたので、応える。
奴隷として使われていた屋敷を見つけてしまった。其処では昔、自分を虐待していた連中が生活していた。
特に、金持ちの領主は。
自分が何日も掛けて食べるようなものを無駄にし、太り。好き勝手な生活を、していた。
だから、許せなかった。
それを素直に言う。
アガレスに、嘘はつけなかった。
「そうか。 そう言うことだったか」
「アガレスさまに、迷惑を掛けたの?」
「ああ。 これから少しばかり面倒な事になる」
「ごめんなさい……」
アガレスはしばらく無言で側に座っていたけれど。やがて埃を払って、立ち上がった。
それからしばらく闇の中で、一人が続いた。見張りはいるようだけれど、私には話しかけてこなかった。
別の魔神が来た。
まだ若い魔神だ。ルシファーというらしい。
最近概念が出来たばかりだそうである。それだからだろうか、私と同じ年くらいのコドモに見えた。
「君が大暴れしたアモン?」
「そうだけれど」
「アガレスってば、君を助けるために大忙しだよ。 戦争はどうにか回避できそうだけれど、君はしばらく幽閉で決定だね」
「幽閉……」
閉じ込められることだというのは、何となく分かった。
それよりも、アガレスにとても大きな迷惑を掛けてしまったことが悲しい。人間を殺戮したことは何とも思っていないけれど。アガレスが大変な目に遭っているのは、とても悲しかった。
手かせと足かせは外して貰う。
これ以上暴れると、アガレスはもう魔界に居場所も無くなると言われてしまうと。何をされても、暴れるわけには行かなくなった。多分ルシファーというこのコドモは、それを察した上で、枷を外したのだ。
頭が良い奴。
それは私にも、理解できた。
悪魔になりかけである私は、長い間放置されれば食事も必要にはなる。排泄も、長い間隔はあくけれど、する。
暗闇にずっと閉じ込められれば、不安にもなる。
アガレスが助けに来てくれればと、何回か思ったけれど。
迷惑を掛けてしまったことをその度に思い出して、どうにか耐え抜いた。
それに、ただ暗闇に放置されるのは。
暴力を振るわれて、滅茶苦茶にされるより、ずっとマシだった。何かにつけて殴られた奴隷のころに比べれば。
はっきりいって、この方がずっといい。
膝を抱えて、ぼんやりと闇の中で過ごす。長い間隔で、時々食事が差し入れされていた。排泄物に関しては、隅にある便器にするように言われていたけれど。そのうち、排泄も無くなった。
食事も、いらなくなった。
見張りが、教えてくれる。
「もう三十年経ったが、そろそろ悪魔になったか?」
「分からないけれど、ご飯もいらないし、排泄もしなくていい。 暗闇も、平気になってきた」
「お前も、もう少し我慢が利けばなあ。 アガレスは元々仲間内でも偏屈で知られているし、今は大変な状況だ。 右腕になって、助けてやれたのに」
そう言って、見張りが肩をすくめる。
そう言われると、更に悔しさが募った。
気がつくと、かなり背も伸びていた。胸はさっぱり膨らまなかったけれど。以前より、だいぶ大きくなった実感がある。
「悪魔はな、闇で成長するんだ」
また、見張りが教えてくれる。
それによると、闇を喰らうことによって、悪魔はその本質に、より近づくことが出来ると言う。
一番良い闇は、人間の心。
しかし、こういった場所。
閉塞や沈滞が産み出す、空間的な意味でも、効果を為すのだとか。
なるほど、それでこういう場所に幽閉されたのか。
アガレスがしてくれたのだとすれば。考えてくれたのだろう。今まで随分寂しかったけれど。
それでも。
アガレスだけは、私の事を考えてくれたのかも知れない。
体の老廃物は、出なくなっていた。時々魔法で老廃物を除去してくれていた門番も、何もしなくなった。
六十年が過ぎたころ。
ようやく私は、幽閉を解除されて、牢を出た。
こんな場所に閉じ込められていたのか。
最初の印象は、それだった。何しろ、ずっと暗いところで、周囲が分からなかったから、そうとしか思えなかったのだ。
何より、立って歩くのは、いつぶりだろう。
体が軽い。
ふわりと、一歩一歩で、空を駆けるかのようだ。
周りは、砂漠そのもの。
私が幽閉されていたのは、その中にぽつんと立つ、石の塊。確か、塔とか言うはずだ。
空は真っ赤。
多分此処は、魔界で間違いないのだろう。
だが、印象が随分変わった。
見張りの悪魔は、中年の男性で。堀が深い顔立ちで、おひげをたっぷり蓄えていた。目元には強い皺があって、いつも愁いをたたえているように見える。肌は異常なくらいに真っ白。
そして目立つのは、何より額から、ねじ曲がった角が生えている事だ。背中には蝙蝠みたいな翼もある。
確か、アガレスが。その気になれば、背中から羽をはやせると言っていたけれど。多分そんな感じになるのだろう。
「此方だ」
「アガレスさまに会う事は出来るの?」
「まずは身繕いと、それから裁判だな」
「……?」
身繕いというのは、よく分からない。
意味は分かるけれど、わざわざする意味があるのか。アモンは魔法の適正が無いと言われていたし、アガレスみたいに服を自在に造り出す事は出来ない。だけれども、別に裸というわけでも無い。
アガレスが作ってくれた服は、多少傷んだけれど。まだ身を覆っている。
奴隷として逃げ出した時に着ていた襤褸そのもの。いや、殆ど全裸にちょっと布を被っただけのあの時に比べると。マシなはずだけれど。
サンダルで地面を踏みしめて歩きながら、おじさんに聞く。
「裁判って?」
「簡単に言うと、お前が犯した罪に対する罰を決める事だ」
「罪……」
アガレスを大変苦しめてしまったことは悲しい。
だけれども、あの人間共を殺した事は、罪になるのだろうか。私は、されてきたことを、ただ返しただけなのだけれど。
ただ、これ以上暴れても、迷惑を掛けることは事実だ。
自分がかなり強くなったこと。
そして、もう人間では無くなったことを実感しながら、私はおじさんの後をついていく。
「時におじさん、名前は?」
「おじさんか。 これでも君よりは年下なのだけれどな」
「ええー?」
「悪魔になって間が無いのだ。 だからこんな場所で、見張りを命じられていたという訳なんだよ」
歩きながら、わずかな間を開けて。
おじさんは、自分の名前を教えてくれた。
「アガリアレプトだ」
「アガリアレプトさんは、どうして悪魔に」
「私は人間の世界で、さっき話題に上がった裁判をしていたんだがな。 あまりにも腐りきった世界に、嫌気が差したんだよ」
どれだけおぞましい罪を犯そうと、金で解決できてしまう。
そんな世の中の現実が、嫌になった。
ある日、どうしようもない罪を犯した男がやってきた。そいつは国の中でもえらい人間で、罪を悔いている様子は一切無いばかりか。金を払うから、さっさと無罪にしろとまで要求してきた。
激怒したアガリアレプトは、即決で死刑を宣告。
そして国から何か命令が来る前に、自分の手で、喚きながら恫喝してくる男の首を叩き落とした。
「そうしたら、私が今度は裁判に掛けられた。 無実の人間を罪に落とした、大罪人と言う事でな」
最初から結果は分かりきっていた。死刑になった。
アガリアレプトは、牢の中からも、男の罪を叫び続けた。だから舌を切り取られた。それでも、屈しなかった。
死刑になる前に、壁に頭を叩き付けて、死のうと思った。
だけれども。
アガリアレプトを死刑にした連中は、余程苦しめたかったらしい。毎日少しずつ、やすりでアガリアレプトの体を削り取って、死ぬまでそれを続けるつもりだった。
やがて左足が、膝まで失われたころ。
不意に、悪魔としての力に覚醒したという。
「何だか、私と同じだね」
「人間社会の強すぎる闇に晒された者が、希に悪魔として覚醒するそうだ。 私は牢から脱出すると、同胞を探しに来た魔神に拾われて、魔界に来た。 今は悪魔見習いとしての仕事をしていると言うわけだ」
砂漠が終わった。
少し寂れた都市が見えてくる。
アガレスに魔法で見せてもらった、人間の世界の大都市。それにくらべると、随分小さいけれど。
都市の真ん中にあるのは、大きなお城。
あれはひょっとして、前にベリアルが作っていたものだろうか。
「アガレスさまに会いたいな」
「アガレス氏は今、最前線にいる。 しばらくは会うこと叶わぬだろう」
「最前線?」
「戦争が始まったんだよ。 人間の一神教が、悪魔と天使が戦争をするという思想を広め始めてな。 その影響を、魔界も天界も、もろに受けたのさ。 アガレス氏は参謀長として、前線にいる。 氏の魔術に関する知識と、何より豊富な見識が、魔界の最上層部に必要とされたのさ」
戦争なんて迷惑な話だと、アガリアレプトがげんなりしきった様子で言った。
都市に入ると、悪魔が散見されるようになった。
殆どは、私でも充分にひねれるような力しか無い。あれらは、定義が定まっていない悪魔だと、アガリアレプトが教えてくれる。
「ここのところ、宗教学が盛んでな。 それこそタケノコが生えるように、色々な思想が作られて、それに伴って悪魔が生まれているのさ」
「へえ……」
「人間社会が、それだけ活発に動いているという事だ。 その分殺し合いも激しくなっているようだがな」
意味が分からないけれど。
とりあえず人間は嫌いだ。それに変わりは無かった。
お城に入ってから。
ベリアルを探したけれど、いなかった。
アガリアレプトに連れて行かれたのは、石で出来た部屋。窓はちゃんとあって、外は見える。
紅い光が差し込んでくるだけで、あまり良い景色では無いけれど。
「此処でしばらく待て」
「今度は六十年?」
「いや、すぐに来る」
信用はしていなかったけれど。
アガリアレプトは嘘をつかなかった。すぐに部屋に来たのは、まだ若い魔神だ。ルシファーも若かったけれど、それよりも更に若いように思える。
ただし、背は凄く高い。
グラシャラボラスと名乗った彼に、服を一式手渡される。清潔な服だ。
「着替えてください。 裁判には、それを着て出て貰います」
「はあ」
「時間がありません。 外に出ていますので、急いで」
服は、ドレスのようなタイプだ。布も白くて、かなり良く出来ている。
ただ、見た感じ、美しさよりも動きやすさを重視しているようである。使用人の服かなと、着てみて思った。
使用人か。
奴隷として始まったからか、その方が落ち着く。
出来れば、アガレスの使用人となって、支えていきたい。
でも、六十年も幽閉されていて、思う事も色々あった。アガレスには散々迷惑を掛けてしまったし、向こうには嫌われたかも知れない。
また、自分を受け入れてくれるだろうか。
戻ってきたグラシャラボラスは、大きな図体なのに。無邪気なコドモみたいに手を叩いた。
「わ、すごく綺麗になりましたね! お風呂にも入っていたんですか?」
「確か、牢の中で何度か洗浄の魔法を使ってもらいました」
「あー、そうでしたか」
此方だと言われて、ついていく。
お城の中は曲がりくねっていて、殆どが石で出来ていた。時々ろうそくがあったけれど、骸骨を模しているようだ。
本物では、ないようだけれど。
床には紅い布が敷かれている場所と、そうでないのがある。
このちぐはぐさ。
きっとまだまだ、魔界は貧しくて、秩序とは無縁なのだろう。そう、私は思った。
ほどなく案内されたのは、大きな部屋。
真ん中に机があって、悪魔がたくさんいる。一番えらそうな悪魔は、髭を蓄えたお爺さんだった。
椅子に座らされる。
側に、二人。いや、二柱というのだったか。明らかに私より強い悪魔が、見張りに立った。暴れる事を阻止するためだろう。
「裁判を始める」
お爺さんが言う。
まず最初に、私の罪が読み上げられた。
屋敷に押し入って、人間二十数匹をブチ殺した事。更に、邪魔に入った天使共を、数匹殺戮したこと。
いずれも間違いないかと聞かれたので、頷く。
そして、何故そのような行動に出たかについても、素直に応えた。
「なるほど、報告通りだな」
「裁判長、被告は既に六十年に達する幽閉を経ています。 罪はそれで充分ではありませんか」
アガリアレプトが裁判に参加してくれている。
なにやら、きっと私を庇ってくれたのだろう事は分かった。
意見はそれほど紛糾しない。
私が素直にした事を認めたから、かも知れない。
「パズズ裁判長。 判決を」
「そうさな。 アモン君は罪を罪として受け入れているようだし、これ以上の幽閉は必要あるまい。 アガレスが前線から戻ってきたら、その身を任せよう。 アガレスに仕えることに、君は異存が無いかね」
「はい」
むしろ、それは願ったりだ。
私の表情を見て、パズズは納得したようで。はげ上がった頭を布で一拭きすると、判決とやらを下した。
「それでは、アモンはアガレスに仕える。 それを罪に対する償いとする」
裁判とやらは終わった。これで、アガレスに会える。そう思った私だったけれど。部屋にどかどかと、悪魔が飛び込んできた。
「大変です、パズズ殿!」
「静粛に。 此処は厳正なる裁判の場ぞ」
「はっ! 申し訳ありません、緊急事態です!」
アガレスが、戦いに敗れて、命を落とした。
そう聞かされたとき。
私は、真っ青になるのが分かった。
3、恩師の眠り
話を聞く限り、アガレスはさほど戦いに優れた魔神では無かったという。
魔法は得意だけれど、それはそれ。
前線でも、戦いに巻き込まれるといつも大けがをしていたそうだけれど。死にまで到ったのは、今回が初めてだとか。
ただ幸いにも、封印の類は掛けられていないと言うことだ。
嘆息した私だけれど。
周囲はばたばたしていて、アガレスに会えるのは、いつだかさっぱり分からなかった。それに、である。
側に控えていた、武人らしい魔神に言われる。
「裁判を聞いていたが、君は武闘派だな」
「はあ。 天使を殺した事はあります」
「充分だ。 今、魔界の軍勢は手が足りない。 すぐに前線に向かって欲しい」
いきなり無茶を言われた。
天使には別に、恨みも何も無い。人間の軍勢を滅茶苦茶に引きちぎってこいと言われるのなら、大喜びでやってくるのだけれど。
鎧とか、武器とかはくれるのだろうか。
そう思う暇も無く、連れて行かれる。
部屋の一角は、明るい円があった。地面から光が漏れていて、それが円形になっているのだ。複雑な文字も、たくさん書かれている。
魔法陣だ。
アガレスが時々、こんなのを空中に書いていた。
それで、とても大きな奇蹟を起こしたのだ。
名前も知らない武人と一緒に円に入ると。いきなり世界が上下反転して。雲の上らしい、不思議な場所に出ていた。
此処が、戦場なのか。
「こ、此処は?」
「天使と悪魔が戦うと、あまりに影響が大きい。 それで両方にとって大事な人間に迷惑を掛けぬよう、天界と魔界の間の、何も無い空間で戦いが行われているのだ」
そういえば、遠くでなにやら光が飛び交っている。
あれは、たくさんの悪魔と天使が戦っていると言うことか。
連れて行かれた先には、悪魔がたくさんいた。
その真ん中には。巨大な蠅と、それに。以前姿を見かけた、ルシファーの姿があった。ルシファーは私を見つけると、気さくに声を掛けてくる。
近づいてみると、何というか。前よりかなり立派になった。
背中には白い翼がたくさん生えているし、光が出そうな美青年になっている。服は殆ど着ていなくて、白い布をたすきみたいに体に掛けているだけだけれど。
「やあ。 久しぶり。 アモン君」
「ルシファー?」
「今は魔界の司令官をしているよ」
巨大な蠅は、こっちを一瞥だけした。羽に髑髏の模様が書かれている。
何だか分からないけれど、助太刀に来た。そういうと、ルシファーは頷いて、さっそく行くべき場所を指示してきた。
よく分からない。
人間を殺戮したら罪になったのに。
戦争とやらで、相手を殺すのは、罪にならないのだろうか。
アガレスは多分天使に殺されたのだとは思うけれど。別に悪魔だから、それは消滅にはつながらない。
何より、殺す殺されるの間での結果だ。
相手に責任があるとは思えない。
アガレスを殺した奴には、当然同じ目に会って貰いたいとは思うけれど。別に絶対にそうしたいとまでは感じない。
「よく分からないけれど、見かけた敵は全部殺せば良いんだね」
「猛々しいなあ。 それでいいよ」
「武器とか鎧とかは?」
「君にそんなものは必要ないだろう。 ただ暴れてくるだけで、大概の相手は木っ端みじんだから、心配しなくてもいい」
そんなものなのか。
よく分からないけれど。実際に前線とやらに出てみると、ルシファーの言うとおりになった。
たまに強いのもいたけれど。
私が殴ったり蹴ったりしているうちに、ぐちゃぐちゃに潰れて光になる。
空を飛ぶのはどうしても難しかったけれど。その内、空間そのものを渡る技を自然に身につけたので、苦にはならなかった。
散々天使を殺して。
味方も殺されているのを見た。
時々、殺された魔神が、何だかよく分からない術を掛けられているのを見た。あれが、封印だろうか。
十回ほど戦ったころには。
私を見ると、天使が怯えて避けるようになっていた。
「狂犬だ! 狂犬が出たぞ!」
天使が叫び、わっと逃げていく。
白い翼を持つ人間のような姿をした天使達は、恐怖を顔中に貼り付けて。それでも、生きたいと思うようだった。
アガレスに会いたいな。
そう思いながら。
私は、機械的に相手を殺戮し。
いつのまにか、息をするように自然に、相手を粉々に壊せるようになっていた。逃げる相手も、できる限りは殺した。
此処でたくさん殺しておけば。
いつの間にか、アガレスを殺した相手にも、仕返しできるかも知れない。そう思うと、更に殺戮には、熱が入った。
戦いのたびに散々相手を殺し。
たまに出てくる大物天使も殺し。
見かけた相手は片っ端から引きちぎり。
潰して砕いて引き裂いているうちに。私は、魔界の重鎮になっていた。何だかよく分からないし、実感も無いけれど。
その頃になって、ようやく何だか凄そうな剣とか鎧とかももらったけれど。着ても仕方が無いので、同じように貰った屋敷にしまった。
部下も付けると言われたけれど、断った。
面倒なんて見ている暇が無いからだ。
アガレスに会いたい。
そう思うけれど、戦場以外には、殆ど出る事も出来なかった。アガレスはと言うと、復活してからは、別の戦場にいるという。
魔界と天界の間には、とても広大な空間がある。
とてもではないけれど。
アガレスのいる戦場に、此処から行く事は出来なかった。
司令官は時々替わった。
セトという鰐みたいな蛇みたいなのもきた。もの凄く古い魔で、昔は神様だったとか。非常に凶暴で、むしろ私には心地が良かった。多分私が獰猛だからだろう。セトは戦利品を、私にとても気前よく分けてくれた。残酷で乱暴だけれど、部下達がついてくるのは、その気前の良さがあるから、かもしれない。
ルシファーは何度か司令官になった。
会う度に羽やら角やら飾りやらが追加されていた。これは、それだけ人間にとって、悪の権化であるルシファーが重要な存在なのだと、教えて貰った。
ルシファーは放任主義で、私に戦ってくる場所だけを任せて、後は好きにさせることが多かった。
酷いときには、一万くらいの天使を同時に相手にしなければならないこともあったけれど。
其処から生きて戻ると、いずれ戦争が終わったときには、アガレスの側に必ずおいてやると、約束もしてくれるのだった。
大きな蠅が司令官になることもあった。
ベルゼバブという名前は、その時聞かされた。何でもバエルと同じ神様から別れたのだという。
それだけ強大な神様が昔いて。
今、世界に広がっている一神教にとって、邪魔だったという事だ。
ベルゼバブは落ち着いたお爺さんで、指揮も渋かった。私にも、かなり面倒な制約をつけて来ることが多かった。
「君は優秀な戦士だが、あまり君だけで暴れると、戦況を制御出来なくなり、却って大きな被害を出す事もある。 自重も覚えて欲しい」
そう言われると、そうかも知れない。
だから、時々は、自重するようにもした。
戦いで、いつも無傷で済んだわけでは無い。
手足を吹っ飛ばされることもあった。大物天使との戦いでは、無傷で済むこともあまりなかった。
天使の中にも、強い奴はいる。
総司令官らしいメタトロンという奴と戦ったときは、危なかったので逃げた。あんなに強い天使もいるのだと、驚かされた。
ただ、それでも。
余程のことが無い限りは、基本的には勝った。
手足を失っても平然としている私を見て、仲間の筈の魔神達も、怖れているのが分かった。
いつのまにか、魔神という呼び名は一般的では無くなり。
殆どの同胞は、悪魔と呼ばれるようになって行った。
魔神と呼ばれていた者達は、魔王とか邪神とか呼ばれるようになったけれど。私は、立ち位置がどうにもよく分からなかった。
そもそも、私は何者なのだろう。
もとは奴隷。極限状態と人間社会の闇に晒されて、魔神になって。仲間からも敵からも狂犬と呼ばれて怖れられ。今では魔神と呼ばれるのか悪魔と言うのかも定かでは無く。そして大好きなアガレスとは、ずっと引き離されている。
同じ戦場に、アガレスが来る事は無い。
意図的に引き離しているのでは無いかとさえ思ったのだけれど。
他の悪魔達に話を聞いてみたけれど、殆どの場合同じ悪魔と戦場が一緒になることはないという。
流石に総司令部はそれほど数が多くないけれど。
それでも、前衛で戦うタイプの者は、特にその傾向が顕著だそうだ。
でも、アガレスは参謀の筈だ。
やはり、意図的に引き離されているのでは無いかという疑惑が、どうしてもぬぐえなかった。
かといって、魔界からも居場所を奪われたら、私はどうして良いのかも分からない。
闇も孤独も怖くは無いけれど。
アガレスにこれ以上嫌われることだけは、どうしても我慢が出来なかった。
どれくらいの戦いをこなした後だろう。
私は戦いがそろそろ終わると聞かされた。
そういえば、いつの間にか多くの魔王が倒され、封印を掛けられて弱体化した。あの強勢を誇ったルシファーやセトさえもがだ。
天使も似たような状況。
メタトロンも倒されたと聞いている。
別に魔界に強者は私だけでは無い。強い奴は他にもいるし、組織戦をする悪魔の部隊だっている。
私も、天使の軍勢に包囲されて、危なく倒される所だった事が、何度かあった。
戦いも負けたり勝ったりだ。
いい加減被害が拡大するのに、天界もうんざりしていたのだろうとは、聞かされてはいた。
私自身は戦いが嫌いじゃ無い。
正確には、何も考えずに暴力を振るえる戦場というものが、いつのまにか性に合うようになっていた。
屋敷には、武勲に相応しい褒美と言う事で、色々な武具がある。
いずれも渡された後しまって、使っていない。
何というか、徒手空拳が一番割に合う。使うとしても、手近にあるものがいい。きっと私が、狂犬と称される、獰猛な戦闘本能の権化だから、だろう。
最後の戦いは、あまりにもあっけなく終わった。
軽く戦った後、天界から使者が来たのだ。
ガブリエルという温厚そうな女で、以前から反戦行動をしていたとは聞かされていた。別に憎悪も軽蔑も無い。
考え方はそれぞれ次第。
私と違うからと言って、どうこうしようとは思わない。
私が興味があるのは、アガレスと。それに、私に危害を加えようとする輩を、排除することだけだ。
面倒くさい事に、かなり前から魔界の重鎮扱いされていた私は。魔王達の護衛と言う事で、和平調印の式に参加させられた。
アガレスも来ているのでは無いか。
そう思ったけれど。周囲を見回る限り、いない。調印式の茶番には、あまり興味が無い。勿論馬鹿な事をしようとする奴は、片手間に抑えるくらいの勘は働く。
大物天使達と魔王達が、書類に判を押して。
調印式は終わった。
礼をして天界に引き上げていく天使共。私アモンを見て、恐怖の表情を浮かべる奴もいた。或いは目の前で、同胞の天使を殺戮して見せたのかも知れない。正直どうでも良いので、覚えていない。
辺りを確認するが、アガレスはいない。
凄くがっかりした。
他の悪魔に聞かされる。
「アガレス殿は、少し前に倒されて、封印を掛けられました」
「それは本当ですか」
「ええ。 元々戦に秀でた方ではありませんでしたし、何より酷い負け戦だったそうでして」
そうか。
あのルシファーやセトでさえ、封印を掛けられて弱体化している状態だ。
アガレスだけがいつまでも無事で済む筈が無い。
あの封印は、まず解除が出来ないという話も聞いている。誰が考えたことか分からないけれど。忌々しい話だ。
ベルゼバブは結局封印も掛けられず、生き残った。
今後は象徴としてルシファーが最上位に立ち。実権をベルゼバブが握るという形で、まとまるらしい。
正直どうでも良いので、私も反対はしなかった。
一応魔界の重鎮扱いなので、反対すれば意見は通ったかも知れないが。ベルゼバブの指揮に問題は感じなかったし、別にそれで良いと思う。
それにトップは、放任主義のルシファーが一番適しているだろうとも感じていた。魔界は秩序というものを作るのが、難しい場所だからだ。
調印式が全て終わり、片付けも終わったので、魔界に戻る。
屋敷でしばらくゆっくりする。
私は部下の類を、屋敷では働かせていない。奴隷だったことを思い出して、つらいからだ。だから屋敷ではいつも一人。
それなりに広い屋敷だけれど。
武勲の結果の宝物類と、私だけ。
アガレスに会いたいなと、寝台で膝を抱えて思う。何百年経っても、この辺りは変わらない。
私は、結局の所。
子供のまま。
心は子供のまま、大きくなってしまった。どんなに力がついても。強い天使と戦っても。歪みに歪んだ心は、どうにもならない。成長なんてしない。戦いを通じて成長する奴もいるようだけれど。私はそうはなれなかった。
そして、大人には、今後なれそうにもない。
しばらくぼんやりとする。
傷も癒やして。戦場にいたころとは、頭も切り換える。
しばらくしてから、アガレスに会いに行くことにした。一旦魔界の王城に出仕してから、アガレスの状態を聞く。
ただ、出仕したは良いけれど。
そもそも受付には長蛇の列。散々待たされたあげくに話をすると、指揮系統を知っている悪魔とは、面会の時間も取れないと言うのだ。
流石に苛立った私だけれど。
周りを見れば、どうにも我慢するしかないと、悟らざるを得ない。
封印を喰らった悪魔がたくさんいる。
その中には、深い封印で意識を奪われていたり、実体化できていない家族がいたり。野戦病院もかくやという悲惨さだ。
悪魔は死なないけれど。
封印という手段が出てきてから、ある意味死ぬより悲惨な目に会うものも出てきているのだ。
戦争が終わって、魔界の混乱も一段落したけれど。
多くの指導者が封印を喰らって弱体化していて、しばらくは皆が忙しそうである。しばらく待たされた後、やっと指揮系統についてしる悪魔が出てきた。上級悪魔であるアモンでさえこれだけ待たされるのだ。他の悪魔達は、どれだけ此処で待たされるのだろう。人間よりずっと長時間のストレスに強いとは言え、流石に気の毒だなと、私も思った。
「これはこれは。 英雄アモン殿。 私はサタナエルと申します」
「よろしく」
握手したサタナエルとやらは、いわゆるグリゴリの悪魔の一柱。見た目は若干くたびれた老人で、鷲鼻と長い長い髭が目立つ。とても痩せていて、目だけが非常に大きかった。
グリゴリとは、人間に文化を教えたとされる存在だ。
ただし、他の宗教では文化を与えた存在は英雄として扱われるのに。一神教では、堕天使呼ばわりされている。
まあこの辺りは、ギリシャ神話でも似たような扱いをされているプロメテウスという神がいるので、特に一神教の文化伝達者が不遇なわけでは無いと、サタナエルは説明をしてくれた。
正直、どうでもいい。
そんなのは所詮人間が作った設定。
人間は自力で文明を育て上げてきた。茶番だと、魔界の誰もが分かっている。この戦争だって、人間がハルマゲドンなんて設定を作ったから起きたものだ。誰もが、人間を恨みこそすれ、愛してなどいない。
アガレスや、ごく一部の魔神は違うようだけれど。
「此方です」
案内されたのは、書庫。
多くの悪魔達が行き交っている。戦場での記録を整理して、遺族や被害者の場所を割り出すのに、てんやわんやだそうだ。
「今頃天界も似たような有様の筈です」
「迷惑な話ですね」
「全くでして。 我々のような戦闘能力の無い悪魔には、本当に肩身が狭い時代でしたし、それが終わったらこう忙しいのだから、酷いとしか言いようがありませんね」
席を勧められた。
辺りにはたくさんの机があり、膨大な本が積み上げられている。多くの悪魔がはりついているが、その多くがグリゴリのようだ。
彼らの監督をしているのはアザゼルという壮年の男性に近い姿をした魔神だが。背中には蝙蝠の翼があって、頭の横からは角が生えている。
あれでは寝返りがしづらそうだと、私は思った。
アザゼルは、時々調査した資料は、所定の場所に戻すようにと叫んでいる。確かにそうしないと、これでは情報を探り出すどころでは無いだろう。
サタナエルが資料を持ってきた。
大戦終盤の記録だ。
「アガレス様は貴方と現状では、同格とされている高位の魔神ですし、主要な戦いの状況を追っていけば、何処におられるかはすぐに分かると思います」
「どうしてこう混乱しているのですか」
「最終決戦が幾つかの地域で行われたのですが、その内何カ所かで、味方も敵も全滅状態になりましてね」
そういえば、そんな話を聞いた。
アガレスが封印されたという事は、首脳部まで攻めこまれたという事だ。というよりも、おそらく本陣まで敵味方ともに大乱戦となるような、悲惨な戦場だったのだろう。
結果は出た。
封印はされたものの、魔界の最深部に沈められたり、木っ端みじんにされて再生中とかいうことは無い様子だ。
今は、自分の屋敷で、静養しているという。
ならば、後は会いに行くだけだ。
「不幸中の幸いです。 封印をされてしまうと基本力は戻りませんが、長い間掛けてこれから研究をして行きますので、希望はまだあります」
「……」
「アガレス様は魔力そのものは残っているようですし、掛けられた封印に抵抗もしたのでしょう。 他の方々よりは、だいぶましな状態です」
「そう、ですか」
一礼すると、書庫を出る。
城の入り口には、まだ長蛇の列が出来ていた。中には見知った顔もいる。時々挨拶を交わしながら、城を出た。
教えて貰ったアガレスの屋敷は。
ずっと昔に、行ったのと同じ場所。
そうか。
幽閉されて、裁判に出されて。
その後戦場に出向いて。
何百年も私は、ただ戦い続けていたのか。それからずっと戦う事しかできなくて、アガレスに会いに行くことも出来なかった。
涙が出てきそうだ。
人間的な感情なんて、消え失せたと思っていたのに。
まだ残っていた。
魔神だって、泣く。それが分かってしまうと、何故かおかしかった。
首都外れにあるアガレスの屋敷に出向く。
空き家がこの辺りでは目だった。アモンの屋敷とは反対方向と言う事もあり、出向く機会はついに無かったのだ。何百年ぶりだろう。懐かしいを通り越して、不安さえ感じる。ただ、屋敷は前とは変わらない。
そして背が伸びたからか。
とても小さな屋敷に見えた。
妙に色っぽい女の魔神が門前にいた。掃除をしているそいつは、確かゴモリとか言う奴だ。
空間操作の大家とかで、何度か戦場をともにした事がある。ゴモリは、私を見ると、小首をかしげた。
「貴方はアモン? 魔界の狂犬と言われる貴方が、どうして此処に」
「アガレスさまは」
「いるけれど、まだ精神が不安定なの。 要件を先に教えて」
「アガレスさまは私の恩師。 できれば、すぐにでも会いたい。 ずっと戦い続きで、会う事も出来なかったから」
少し考え込んでいたゴモリだが。
あまり大きくも無い屋敷の中に入ると、アガレスに用件を伝えてくれたようだ。
待ち時間がもどかしい。
前はずっと一緒に暮らしていたのに。はじめて自分の個を尊重してくれた存在だというのに。
あの時、我慢していれば良かったのだろうか。
だけれども。彼奴らを殺した事は、今だって後悔はしていない。やられたことを、そのまま返しただけなのだから。
ゴモリが戻ってくる。
少し躊躇した後、言う。
「面会の許可が出たわ。 ただ、取り乱さないようにね」
「アガレスさまは、余程酷い姿に?」
「いいえ。 まあ、会ってみれば分かるわ」
嫌な予感が膨らむ。
殺された後、封印を掛けられると。以前とはかけ離れた姿で復活することもあるとは聞いている。
絶世の美男子が、醜い肉の塊にされた事もあったそうだ。
アガレスは。鰐に乗った老人の、よそ行きの姿では無くて。本来の姿のは。美人では無かったけれど。見ていて安心できる容姿だった。少なくとも、アモンはアガレスの容姿が嫌いでは無かった。
中に入ると、異臭。
薬品の臭いだと言う事はわかった。
息を呑んだのは。
ベッドの上で、小さな人影が、苦しみ抜いているのを見たから。
無数のチューブがつなげられて、魔術で薬を投入されているらしい。意識はもうろうとしているようで、此方には気付いてもいない。
姿は、かなり縮んで。
アガレスに拾われたころのアモンくらいになっていた。
嗚呼。
嘆きが漏れる。
「アガレスさまをこんな姿にした奴は?」
「乱戦の中で戦死したそうよ。 しかも封印を受けて、同じように苦しんでいるとか」
「……」
突沸した怒りが、同じようにして収まる。
それでは、怒りのぶつけようが無い。しかもゴモリは具体的な名前を出さなかった。つまり、どうでもいいような雑兵だったという事だ。
アガレスは戦いが得意では無かったし。
近距離での戦いに巻き込まれてしまったら、多分どうしようもなかったのだろう。封印もかなり乱暴に掛けられたようで、苦しみ抜いているのが見て取れた。
側に跪く。
「アガレスさま」
呼びかけるけれど、返事は無い。
小さくて可愛い。
だからこそ、苦しみ抜いている様子は、痛ましくてならなかった。
目を閉じると、頭を振る。
せめて、側にいる事が出来たら。
その時、はじめて。
アモンは彼奴らを殺した事を後悔した。ずっとアモンがアガレスの側にいたならば、こんな事態は到来を避けられた。
雑魚なんて十把一絡げにブッ殺して。
近づけさせもしなかった。
アガレスにも、参謀として、ずっとまともな仕事をして貰う事が出来た。側に強力な直衛がいれば、選択肢は増えるのだ。
彼奴らへの憎悪は消えない。
代わりに、わき上がってくるのは、自身への憎悪だった。
「アガレスさまは、いつ目覚めますか」
「彼女は魔界の重鎮だし、良い医師もついているのだけれど。 何しろ封印されてこの状態ですもの。 目覚める時期は特定できないわ。 目覚めても、かっての力は、取り戻せないでしょうね」
「……っ」
屋敷を飛び出す。
誰も恨めない。
天使共だって、ただ戦っていただけ。味方がたくさん殺したように、敵もたくさんやり返した。
ただそれだけ。
アモンだってたくさん殺してきた。
参謀としては、アガレスも。
だから、何も悪い奴はいない。恨めない。もしも悪い奴がいるとしたら。アガレスの側にいられなかった、自分だ。
狂犬とか魔犬とか言われた。
本当にそうだったら、どれだけ楽だっただろう。
走って走って。
いつのまにか、誰もいない荒野に出ていた。地面を思い切り殴る。地割れが出来る。クレーターが出来る。
こんなに力はついたのに。
何も出来ないなんて。
せめて、アガレスの言うことを聞いていれば。側にいられたのに。
そうすれば、あんな事態は、避けられたのに。
枯れ果てた涙が、どれだけ拭ってもこぼれ落ちてくる。
どれだけ、吼え、荒れ狂っただろう。
気がつくと、辺りは、師団規模の火力が全力で叩き込まれたような有様になっていた。
自分も傷だらけだった。
右腕は力任せに振るったから折れてしまっていて。折れた傷口からは、骨が覗いていた。乾いた笑いが漏れてくる。私は一体、何をやっているのだろう。私が出来るのは、殺戮だけ。
大好きな方も、救えない。
傷なんて、放っておけば治る。
死んでも蘇生する魔神だ。もう人間の要素なんて、とうの昔に失せ果てた。腕が引きちぎれたことだって、過去には二十を超える回数経験している。それなのに、どうしてこんなに痛いのだろう。
遠巻きに、魔神達が此方を見ているのが分かった。
その中には、ベルゼバブもいた。
「アモン、何をしている」
「……」
「危うく近隣の集落が巻き込まれるところだった。 落ち着いたのなら、話を聞かせて貰おうか」
屈強な魔神が二柱、側に降り立つ。
拘束しようというのだろうか。
ああ、それもいい。
私は、アガレスを守る事が出来なかった。見る影も無いやつれた姿にしてしまった。罪は、受けなければならない。
人間を何十匹殺しても、罪悪感なんて欠片も無かったのに。
今の私は。
誰かに、罪を裁いて欲しいと。心底から、願うばかりだった。
城に連れて行かれる。腕はいつの間にか、治っていた。裁判に掛けられたのは二回目。うつむいて何も言わない私を見て、ベルゼバブは嘆息するばかりだった。
「誰も巻き込まれていないし、何も無いところを掘り返しただけだから、大した罪には問えんな。 それにしても魔犬よ、何故にそのように荒ぶったか」
「……」
「まあいい。 しばらく自宅で反省せよ。 ようやく大戦が終わって彼方此方がごたごたしているのだ。 上級悪魔の貴殿がそのように騒ぎを起こされては、皆が困る。 静かにしていればそれでいい。 頼むぞ」
顔を上げると。
ベルゼバブは顔中に疲労を貼り付けていた。
無理もない話だ。
ルシファーが酷い封印を掛けられて、極限まで弱体化したと聞いている。それに、同胞を封印されて、見るも無惨な姿にされたのは、私だけでは無いだろう。
分かっている。
しかし、この荒れ狂う感情は、何処へ持っていけば良いのか。
屋敷に連れて行かれて。外に出ないようにと、見張りを付けられた。
今更新陳代謝も無いから、ぼんやりしているだけでも死なない。悪魔に生活力なんて、いらないのだ。
しばらくは、膝を抱えて、無心に過ごす。
何もかも。
今はもう、どうでも良くなりつつあった。
4、再会
屋敷にゴモリが来た。
膝を抱えて腐っている私を見て、呆れたようにため息をつく。
「郊外で大暴れした後は、何をしているの貴方は」
「放って置いてくれませんか」
「アガレスちゃんが目覚めたわよ」
思わず顔を上げた私に。
いきなりデコピンするゴモリ。
武力で鳴らした私なのに。避けられなかった。
「な、何を」
「着替えて、まずは顔を洗いなさい。 貴方は老廃物が出なくても、その格好で恩師の前に出るつもり?」
気がつくと、あれから十年以上経過していたらしい。
服はぼろぼろ。
そう、丁度あの時の。
アガレスに拾われたときのようだった。
殆ど裸同然の状態だと気付いて、情けなくなってくる。昔と違って私は。いちおうの身繕いをする考えは持っている。
適当に着替える。
出てきたとき、ゴモリは驚いたようだった。
「貴方は確か、武勲で鳴らした筈なのに。 どうしてそんな使用人みたいな服を?」
「分かりません」
ただ、何となくは感じる。
ひょっとすると私は。もう骨の髄から、誰かに仕えるという行動が、染みついてしまっているのかも知れない。
我ながらいびつだと思う。
道中、話を聞く。
とっくに謹慎は解けているというのには、安心した。魔界の町並みも、少しずつ復興が進んでいるようだ。
前は戦禍に遭ったのでは無く。手を入れる暇も無かったので、完全に放置されていたというのがただしい。
今は色々な概念から産み出される新しい悪魔達の住処も必要なので、少しずつ拡張されているようだ。
もっとも、人間と違って、悪魔は食糧をそれほど必要としない。いわゆるインフラも適当でいい。
魔界の名にふさわしい、カオスで統一感の無い町並みが、周囲には広がっていた。
アガレスは目が覚めたけれど。
精神の一部が、幼児退行してしまっているらしい。
具体的には味覚などがそうだとか。
「お菓子が大好きになってしまっていてねえ」
「はあ、お菓子」
「ただ、人間世界の物質を悪魔が取り込むと、単純に消えてしまうから。 魔術で作らないといけないのだけれど」
「……」
そうか、お菓子か。
前のアガレスはもう少し渋い嗜好だったような気がするけれど。そんな事はどうでもいい。
アガレスの屋敷に着く。
少し、緊張した。
中に入ると、アガレスが待っていた。
ベッドで半身を起こしたアガレスは、まだチューブが幾つもつなげられていたけれど。意識はしっかりしているようだった。
「アガレス、さま」
「アモンか。 お前は随分と大きくなったな」
「アガレスさまは、縮んでしまわれましたね」
対照的だ。
アモンは長身と言われるほどに、背が伸びた。これは魔神だの人間だのはあまり関係が無い。
自分に相応しい姿を作ったら、こうなったというだけだ。
逆にアガレスは、おそらく今、姿を調整する余裕さえ無い。今の姿は最良の状態で。それ以外を取ると、消耗が大きいはず。
それだけ弱っている、という事だ。
「話を聞かせてくれ。 今まで、何があったのか」
「私の事を、憎んでいないのですか」
「お前は過ちを犯したが、きちんと罪を償ったし、それ以降は人間を手に掛けてもいないのだろう。 ならば何故憎む」
そうか。
この方は、一部が幼児退行したかも知れないけれど。
それ以外は変わっていない。
良かった。
ただ、涙が零れてくる。私は、どうしてこう涙もろくなってしまったのだろう。どれだけ戦場で傷ついても、泣く事なんて無かったのに。手がもげようが腹に風穴を開けられようが、笑いながら戦っていられたのに。
私は狂犬のはずだったのに。
心があったのだと、再認識できた。
しばらく、今までどんな風に生きてきたかを話す。
でも、それで改めて気付いてしまう。
私は、戦いで。
敵を殺す事だけしか、していないのだと。ずっと戦場にいて、敵を殺して。それしか、私はしてこなかったのだと。
「そうか。 文字通りの常在戦場だったのだな」
「戦いは嫌いでは無いのですけれど」
「それだけでは、さぞや心が渇いただろう」
少し悩んだ後、私は言う。
また、貴方に仕えたいと。
アガレスは少し困ったように遠くを見た後。ため息をついた。
「まあ、いいだろう。 お前に孤独な生を送らせてしまったのは、私がきちんと構ってやらなかったことにも原因がある。 私は子供に戻ってしまった部分があるし、お前は子供のまま大人になってしまった。 こんな不安定な者同士、一緒に暮らすのも悪くは無いだろう」
「一杯、お菓子作りますね」
「ほどほどにしてくれ」
後は、アガレスの話を聞きたいとせがんだ。
アガレスは、つまらないぞと前置きしてから。少しずつ、どんな風な事があったのか、教えてくれた。
人として生を受けた私と違って、アガレスは生まれながらの魔神だ。
だから、その話は。
何だかエキゾチックで。とても面白かった。
いや、アガレスが話してくれることだからこそ、聞いていて楽しかったのかも知れない。
それから色々あって。
彼方此方を転々としたあげく。
私はアガレスと一緒に、今はこの極東の地にいる。無数の信仰がごったになり、それらが共存している不思議な土地だ。
此処は人間の負の心が、極めて濃密になる場所でもある。
だからこそ、悪魔は多く集まっているし。
天使もかなりの数がきている。
ミカエルと小競り合いを何度かしたし、路を歩いていて他の悪魔とすれ違う事もある。アガレスは熱心に人間の社会から取りこぼされたものを拾い集めていて、それで不思議な商売をしていた。
私、アモンには、あまり興味が無い事も多いけれど。
話が合う人間という極めて珍しい存在も出来たし。
アガレスを働かせて、いつか封印を解除する日のことを考えると、とても楽しいのも事実だ。
この国には、闇が満ちている。
かっての社会で、理想郷と呼ばれるに充分な豊かな富と安全があるのに。自殺率は凄まじく高く、鬱屈は誰もが抱えている。
だからこそ、悪魔には都合が良い。
私はあまり食事を必要としない。
今の時代、どれだけ貪欲な悪魔でも、力を蓄えていても仕方が無いのだ。ましてやこの国では。
何処へ行っても、闇が満ちあふれている。
食事には、元々困らない。
適当に見回りをしてから、根城に戻る。色々あって一緒に生活しているゴモリとフルレティ。フルレティは比較的最近になってから悪魔になった。もとが人間だから、経歴は私とよく似ているけれど。
あまり馬が合うことは無い。
ゴモリは人当たりが良くて、誰とでも仲が良い。
理解できない事に人間が大好きなようで、特に此処に出入りしている猪塚とは、本当に仲良くしているようだ。
猪塚とは私も話が合うけれど。
人間に対して、其処まで過剰に入れ込もうとは思わない。
もっとも、ゴモリのような例は、あくまで特殊なようだけれど。
たまにここに来るダンタリアンとは、昔からあまり接点が無い。アガレスが連れてきて、それから居着いてしまった輩だけれど。
どうにも気に入らない。
まあ、私も今更、少し気に入らない程度の事で、相手を殴ったりはしないけれど。
店に入ったので、アガレスの姿を確認。
暗い空間の奥。
どうしてか畳が敷かれている一角に、主君はいた。
「ただいま戻りましたー」
「んー」
アガレスは私が出して置いた仕事を、ちまちまやっていた。
あれから私も魔術を身につけた。当時は魔法と一緒くたに呼んでいたのだけれど、アガレスに色々と教わるうちに、その方が良いと判断したのだ。
私も技を磨いて、破壊され尽くした状態からの再生については、アガレス以上に出来るようになった。
それしか出来ないけれど。
そして私が適当に再生したものを、アガレスが元の状態にまで復元する。
こうして、コレクションが増えていく。
コレクションは対価となって、アガレスのご飯へと変わる。だから、できる限り、コレクションは増やしておかなければならない。
アガレスには物欲が希薄で、対価として適切と判断すれば、どれだけ苦労して復元したものでも、簡単に手放す。
私としても、主君がすることに、文句を言う気は無い。
今では、悪魔として同格に近い位置にいるけれど。
アガレスは私にとっての、世界の全て。
誰にも傷つける事は許さない。
アガレスを好き勝手にして良いのは、この私だけ。世界で、ただ一つだけが、私なのだ。
歪んでいることは分かっているけれど。
私にとっての世界は狭いもので。その全てがアガレスと言うだけ。広い世界を持っている者が、えらいとでも言うのだろうか。
それは否。
アガレスと一緒に多くの人間を見てきたから分かる。連中が、どうこうえらそうなことを言う度に。それが絵空事でしかないと、私には分かるのだ。
結局の所、私にとっては、アガレス以外の全てがどうでも良いのかも知れない。悪魔も人間も。天使も神も。
そして、この店も。
全ては、我が愛する主君のためにあればいい。
傷つけようとするなら殺す。
「すぐに何か作ります」
「んー。 そうだな、ロールケーキがいい。 いちごが入ってるやつだ」
「かしこまりました」
料理の腕も、向上した。
バックヤードにしている区画で、まずは材料を魔術で作り出す。それからそれを加工して、料理にして行く。
たまに猪塚が手伝ってくれるけれど。それは究極的にはどうでもいい。
私にとって大事なのは。
アガレスの胃袋を。私が握っているという事だけ。
前と少し関係は違うけれど。私にとっては、アガレスが第一なのだから。
「そういえば、ネットでまた餌が掛かった」
「近々来ますか」
「ああ。 その時は、頼むぞ」
「かしこまりました」
主君の食事のためだ。本当はずっと二人きりでいたいくらいだけれど。封印で弱っているアガレスの事を考えると、そうもいかない。
歪んでいることなんて、百も承知。
私は。
この後も、アガレス以外の主君を迎えるつもりはないし。
全てのことを、アガレスに優先させるつもりはなかった。
ほどなく、客が来る。
さて、今日もアガレスのために。闇を提供して貰おう。そう、私は思った。
(続)
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