水面の誇り
序、寡黙な作業
昔と今では、子供の数が違う。
だから必然的に少数で遊べるスポーツが、人気を博するようになってきている。野球がサッカーに取って代わられたのも、それが理由だ。サッカーも正式ルールなら相応の人数がいるけれど。
軽く遊ぶにも、野球は人数を要求する。
なにもスポーツだけに限った話では無い。
私は黙々と、作業を進める。三人しかいないこの部活で。メンテナンスに関する一番の知識を持っているのは、私なのだ。
整備しているのは、大会用の機体。それも、ずっと使い古されてきているもの。
一度完膚無きまでに破壊されたので、整備していると言うよりは、再作成している、に近いけれど。
此処は工業高校。
ただし、男子が最後の手段として行くような、底辺高校ではない。きちんとした知識を教えている、まっとうな学校だ。
どうにか形が出来てきた。
この間の大会で派手にクラッシュして、機体がもう駄目になるかと思った。死亡事故になる事は滅多に無いけれど、私も左腕を折った。
水に投げ出されると、実はかなり痛い。
ただ、事故が起きることはよくあるので、すぐに救助が出る。私もすぐ救助を受けて、今はこうやって、機体の整備をしている状態だ。
ハンマーを振るって、釘を打つ。
調整をしながら、エンジンを一瞥。
新しいエンジン。
軽くて安全性も高い。
こういった、競技用の高性能エンジンが出回るようになってきたのは、大きい。いずれこの手の競技は、もっと身近で、触りやすいものになってくるだろう。
部室、とはいっても倉庫と言って良い場所だが。
別の部員が入ってきた。
「五祐、どんな様子だ」
「まあまあだな。 後はもうちょっと調整して、エンジンをセットして。 試運転をして、終わりだ」
「前はすまなかったな」
「きにすんな」
隣に座ったのは、部長。
この部活の紅一点だけれど。どうせ三人しかいないのだから、あまり関係無い。それに此奴は理屈っぽくて、男子からもあまり好かれていないという噂だ。ちなみに同学年である。
もう一人の部員は、今ちょっとしたトラブルに巻き込まれていて、部活に顔を出せる状態では無い。
そうでなくても、此処での作業は、基本私がメインで行っているのだが。
「この船も、もっと頑丈に出来ないかなあ」
「重量が上がると、ぶつかったときが危ないし、エンジンのパワーもいる」
「そうだけどなあ」
小型の原動機付きボートによるレース。
それがこの部活、小型船舶部で参加している大会の概要だ。
今、私が整備しているのも、そんな船である。
こういった競技は、今までも存在していた。
しかしかなり敷居が高く、普通の学校で参加できるようなものではなかった。水産事業を教えている一部の学校や、特殊な大学で無いと、不可能だった。事実大会の規模も、決して大きいものではなかった。
しかし、近年技術の発達により、エンジンやモーターの小型化が著しく進んできている。そして、今までは敷居が高くて近づけなかった分野でも、さらなる発展を促すために、大会が実施されるようになってきているのだ。
工業高校である此処に、話が来たのも、それが理由。
かくして、四年前から、この学校は大会に参加している。
ただし、ろくな成績を上げることは出来ていないが。
大会は年に三回。
冬以外の四季で行われている。
参加する学校も増えてきていて、その内大学と高校が、選手権で別にされるだろうとも言われていた。
今までは、大学が上位を独占してきた。
賞金も、大体は大学がかっさらっていっていた。
しかし今後は、高校にも好機が巡ってくる。
この賞金が、中々に馬鹿に出来ないもので。学校からも、優勝をせっつかれているのが、事実だった。
とりあえず、見た目には、補修は終わった。
後は実際に浮かべてみて、バランスを確認。
更に走らせてみて、強度を確認する必要がある。
勿論水漏れするようでは話にならない。船底の確認も、しっかりしなくてはならない。今いない部員は仕方が無い。
学校の側。
練習に使っている川に、船を運んでいく。
昔のモーターボートだったら、到底不可能だっただろう。二人だけでは、持ち運ぶなんて至難だ。
だがこの競技で使う船は違う。
全長は1.6メートル。
重量は十七キロ。
いずれにしても、非常に軽い。二人がかりは当然として、少し屈強なら、一人で運んでいくことも可能だ。
生憎私はあまりガタイも良くないので、部長に手伝って貰う事になるが。情けない話だが、こればかりは仕方が無い。
黙々と、船を川に運ぶ。
まず浮かべてみる。
川縁は整備されていて、生物の気配が無い。公園化するためだったのだろうけれど、生き物がいない川は、静かを通り越して、不気味だ。
川の彼方此方には堰もあって、船が流される怖れも無い。
まず、川に船を浮かべてみる。
浸水は無し。
前にクラッシュしたときは、船の残骸を引き上げるので精一杯だった。残骸を持ち帰れただけでも、僥倖だったくらいである。
エンジンも、安全性を考えて、スクリューをボックスでガードしている形式だ。そうでなければ、危険すぎて、こんな大会の許可は下りないだろう。
操縦コンソールは、船の前面。
といっても、レバーを幾つかとボタンだけの、極めて簡単なもの。
提供されているものを利用する場合と、カスタマイズして自分で作るものがあるけれど。うちには、後者は敷居が高すぎる。
プログラムの知識も、耐水性の機械部品を作るだけの技術もいる。
それを考えると、提供されている、意図的に能力を落としているコンソールを用いるのは、仕方が無い事なのだが。
残念ながら、大会で上位をかっさらっている連中は、大体カスタマイズをしている。
それだけの力を注ぐ意味が、大会にはあると言う事だ。
賞金もそうだし。
何より、その学校の名を、全国に知らしめることが出来る。少子化が進んでいる現在、その意味は小さくないのである。
しばらくテストを行った後、船を引き上げる。
昔の船より軽いと言っても。
重量はしっかりある。更に安全を考えて、持ち方なども最初に指導される。ボックスでガードしているとは言え、エンジンに巻き込まれたら、指ぐらい簡単に吹っ飛ぶのだ。
流線型の船を自ら引っ張り上げて、部室へ。
大会まではまだ時間があるけれど。
なんと無しには、分かっていた。
今回の大会も、優勝はとてもではないが、狙えそうに無い。上位の学校はこの競技に、力も金も、此処とは比べものにならないほど入れている。
船だって複数持っている場合が多いし。
何より、部員の数も、練習量も違うのだ。
この競技はスポーツに近いが。
しかし、選手の力量を生かすには、船の性能が絶対だ。
ある程度の力量差は、船の性能次第で、ひっくり返す事も、補うことだって出来る。逆に言えば。
力の差がある場合。船の性能にも差があれば。
話にならないと言う事だ。
ラッキーがとにかく起こりにくい条件が、大会では設定される。
何度かレースをして、タイムを競っていくのだけれど。
レースを行うのが、そもそも湖。大きな波などは起きにくく、全体的には環境も穏やかなのである。
更に、予選は基本的にタイムを計って実施する。大会事に予選一度で走るチームの数はまちまちだけれど。
本戦はレース形式を取るのだが。予選はタイム計測の要員が厳正にストップウォッチで調査して行うのだ。
前回は、この段階で、クラッシュした。
他の学校の船にぶつけられたとか、そう言うことなら、まだ闘志を燃やしたり、諦めたりもできたのだけれど。
完全な自業自得だったから、ぐうの音も出ない。
幸い、大会予選が行われた湖は流れも遅く、一旦予選は中断されたから、船は引き上げられたけれど。
次の予選も、そうだとは限らない。
船を丁寧に拭いた後、軽く反省会をして、今日は解散。
部長にしてからが、他の部活と掛け持ちをしている状態。最悪の場合、私一人で、大会に出ることになる。
そもそも、この競技そのものが。まだ始まったばかりの上、競技人口も多くない。他の生徒を誘うのは、難しい。
最悪なことに。
今いる部員三名に、船を操作するセンスがある者はいない。
私を含めて、である。
このままだと、勝利は望めない。
下手をすると、来年にはこの部は廃止されて。別の部に、船も渡されてしまうかもしれなかった。
敷居が下がってきているとは言え、予算が掛かる部である事に、違いは無いのだ。学校としても、成果が上がらない部を、いつまでも放置はしていないだろう。
普通の工業高校だったら、或いは違ったかも知れないが。
此処は大手の進学校レベルの成績を要求してくる、最先端の技術を生徒に仕込むための場所だ。
部活も、それなりの技術を持っているものばかりである。
有名所と言えば、バトルコンテストで三年連続優勝を果たしている、ロボット部。
素人による打ち上げとしては、日本でも屈指の記録を持つロケット部などが存在している。
いずれも潤沢な予算を支給されているが。
それは当然、実績を上げているから、なのだ。
うちは違う。
あまり歴史が深い部では無いけれど。それでも、先輩達も、ずっと肩身が狭い思いをしていた。
私だってそうだ。
部長に誘われてここに入ったはいいけれど。
人材がたりない。
このままでは、最後まで白い目で見られるか。最悪の場合、廃部にされるのがオチだった。
少し前に部長は帰った。
だから、携帯からメールを入れる。
「人員が足りない」
「それについてはどうしようもないな。 今は新入部員なんて応募しても、集まりはしないだろう」
「……そうか」
返事はすぐに来たけれど。
あまり好ましいものではなかった。
この学校では、今時珍しく、部活への所属が義務づけられている。
である以上、今更新入部員を応募しても無駄だ。部活を離れる者もいるけれど、その場合は大体別の部活への所属を決めてから、になる。
私と違って顔が広い部長なら、宛てはあるかと思ったのだけれど。
それもないとなると、厳しいと言わざるを得なかった。
片付けを終えて。外に出る。
幾つかの部活が、作業を進めていた。モーター部が、早速最新鋭のエンジンを試運転している。
モーターを自作するという独特の部であり、全国でも類例が殆ど無いという。勿論危険を伴うため、厳しい制限がされている上、作業時は教師が同伴する。ごついおっさんの教師が腕組みして見守る中、生徒達がガソリンエンジンらしいものを稼働させていた。
「これじゃあ話にならんな。 音ばっかり大きくて、出力はゴミ同然だ」
「何だよ。 苦労したのに」
「全部が無駄じゃない。 改良しろ。 見たところ、何カ所か改良すれば、ぐっと良くなるはずだ」
エンジンを止めた後、教師が手を叩いて、生徒達を集める。
うちにも顧問はいるけれど。
あんな風に掛け持ちしていて、殆ど部室に来ることは無い。来たところで、あまり長時間はいない。
実績を上げていない部に、あまり力を裂くわけにはいかない。
その態度は見え見えだし、実際そう言われたこともあった。ハングリー精神はこの学校での重要な教育方針であり、脱落者には容赦がない。教師の態度も、それに準ずるのだ。
小さくあくびをすると、帰宅の途につく。
既に、陽は。稜線の向こうへと、消えかかっていた。
1、水上の調整
はじめて、先輩達が作ったボートを走らせたとき。
気持ちが良かった。
水上を走り抜ける心地よさ。
後ろでうなりを上げるエンジン。
何より、切った水が飛沫となって、全身に掛かる。これもまた、とても気持ちが良かった記憶がある。
だけれども。
良いタイムは出なかった。
「次は俺な」
同級生と変わる。
同級生も、キャーキャー言いながら、船を水上で走らせていた。走らせてみると良く分かるのだけれど。
実に楽しいのである。
多分、バイクを走らせる感覚に近いのかも知れない。しかもスピードが出ないように抑えられているため、特殊な免許もいらない。これが本格的な大型ボートで、しかも私有地以外の川で動かすとなると、免許がいるのだけれど。この技術力を向上させることを目的としたレース用規格のボートを動かすのであれば、特に免許はいらないのである。ただし、専門の有資格者が、ボートについては念入りなチェックを行うが。
勿論、メンテナンスは大変だけれど。
走らせる楽しみがあるから、この部活にいられると言っても良かった。でも、それも、よく分からなくなりつつある。
目が覚めた。
大会でのクラッシュから、既に体の傷も回復している。
あれは事故だったと言い聞かせても。どうしても、時々体に震えは来る。前を塞ぐように、露骨な進路変更をしてきた、他校の船。
運転のセンスがあれば、避けられただろう。
だけれども。私には、そんなセンスなど、備わっているはずもなかった。
激突。
そして吹っ飛んだ。
私の船は大きく砕けて、水面に叩き付けられ。
相手の船も吹っ飛んで。
二人の選手は、水に投げ出された。
私は右腕を折る大けがをして。相手は殆ど怪我をしなかった。明らかな進路妨害は、嫌がらせだったはずだ。つまり、最初から、怪我をすることは織り込み済み。だから備えていた、という事なのだろう。
相手側のチームは損害賠償だと騒いでいたようだけれど。審判の一人が、露骨な進路妨害を、映像に収めていた。
それを突きつけると、もう何も言わなかった。
結局、相手側の意図は分からない。
「二川五祐」
そう呼ばれたときのことを思い出す。大会の審判に、だ。
優勝を決めたのは、当然別の学校。あのまま試合を続けていても、優勝など掠りもしなかったことだろう事は、私にも分かっていた。
「今回は残念な結果だったな。 次はまず、ゴールすることを目指そう」
そう言ったのは、まだ若々しい、いかにも体育会系という雰囲気の審判だった。肩を叩かれたけれど。
その思いには、応えられるのだろうか。
学校に出る。
いつもいつも、ボートのことばかり考えているわけでは無い。比較的私は熱心に部活をしている方だけれど。
部活自体はあまり動いていないし、本当に忙しい場所とは差があるのだ。
むしろ、本来の学業の方が、忙しいくらいである。
今日も授業は、みっちり入っている。しかも、電子工学からプログラミングまで、かなり難度が高いものも多いのだ。
高校での履修要項もしっかり満たした上で、社会に出て即戦力になる工学技術を習得する。それがこの学校なのだから、当然のことだろう。
私自身は、さほど授業も苦労はしていない。
むしろ、工学に一切触れる環境にいなかった他の生徒の方が、苦労はしているのかもしれない。
手を動かして、ものが出来る。
その楽しさは、実際にやってみなければ分からない、と言うところがある。更に言えば、相性の問題もある。
学力は充分なのに、授業について行けなくなる生徒は、何名も見てきたけれど。それはおそらく、相性の問題から、モチベーションを維持できなくなっていったからなのだろう。そう、自分では結論していた。
私自身は、あまり頭は良くないけれど。町工場の息子だから、幼い頃からいろいろな機械に触り慣れている。
何より、機械を使って、ものを造り出す楽しさについては、間近で知っていた。
両親の節だらけの手が、旋盤や万力で無骨な鉄塊を加工して。それがオモチャになっていく過程も、リアルタイムで見ていた。
最初見た時は、感動もしたし。
何より、触ってみて、その暖かみと冷たさが同居した重量感に、驚きもした。
工場の未来をと言われて、この学校に入ったけれど。
結局の所、私は工場の息子であって。
ものを造り出す事そのものが、好きなのだろう。
ただ周囲は、どちらかと言えばエリートコースの工学関係者を目指す者が多いようで、工場の息子という私の立場は、かなり珍しい。
最初この学校に入ったときは、全国の工場の息子達が、家の未来を賭けてここに来る、と思っていたから。
現実とのギャップに、悩みもした。
既に二年の今は、それもない。
大学には行こうと思っているから、まだまだ勉強はしなければならないし。部活でやった事も、きっと無駄にはならないと思っているから、何にも身を入れる。
それだけだ。
授業が終わった。
今日分の授業はそれほど大変では無かったけれど。少しプログラミングは苦手なので、復習しなければならないだろう。
家に帰ったらそれはやるとして。
まずは部室だ。
校舎の影に隠れるようにして、部室棟がある。コの字をした校舎からは、調度日の光を遮られる位置だ。しかも背後には雑木林があり、時期によっては雀蜂が飛んでくるので、迷惑極まりない。
しかし、学校では、この部室棟を移動する意図は無い様子だ。なんでもハングリー精神が技術を培うという思想があるらしく、生徒を意図的に締め付けることによって、成果を出すという方式らしい。
冗談では無いと思うけれど。
ぬるま湯で甘やかされた奴がどうなるかも分かっているので、私自身はあまりその方針に反対する気は無い。
船に掛けていたシートを外す。
まず、全体の採寸。
船と言っても、木とプラスチックの合成物だ。後は少量の鉄や、その他金属類。つまりは、湿気などで伸びも縮みもする。
水漏れしないようにするためには、きっちりとくみ上げることが重要で。
いっぽうで、きっちりしすぎていると今度はこの伸び縮みに耐えられず、壊れてしまう事もある。
だから部活に出て最初にするのは、船のメンテナンスだ。
採寸に関しては、この学校に入る前から散々やっているので、別に苦労はしない。ざっと量るが、歪みが出るほどの異常は無かった。
問題は、此処からだ。
大会で使うボートには、かなり細かい規定があって、それをオーバーすると即座に失格になる。
つまり出せるスピードも決まっているし。
乗せられる重量にも限界がある。
何よりエンジンが、固定。
その中でカスタマイズしていかなければならない。
勿論、私も工場の息子だ。ルールの中でどれだけ弄るかという事については、幼い頃からやっているから、得意分野だけれど。
船をいじる事と、乗りこなすことは別の話。
この船を、巧みに乗りこなせる奴がいれば、話は早いのだけれど。生憎、部長や私も含めて、適正者はいない。
学校内にも、いないかも知れない。
実際問題、これを乗りこなすには、かなりのセンスがいる。
確か他の学校では、大会のために、操縦者を雇うケースまであると聞いている。大会の意図は、あくまでボートの新興だから、その辺りは気にしないようだ。噂によると、この競技が強い部活は、外部から金を出して操縦者を雇うのが当たり前だとか。
ボートレースは賭博として現在も成立しているし、操縦をやっている若者は実際に存在する。
そういう、ボートレーサーの卵達を使う事で、優勝を狙うというわけだ。
それでは勝ち目が薄いなと、私は調整を続けながら思う。
何しろ、相手は喰うための仕事をしているのだ。
此方は道楽。
必死さにも、差が出るのは当然である。喰うための仕事をしている以上、負ける事はすなわち失職につながるのだから。
それに対して此方は、負けても残念無念で済む。
ましてや、私が今参加している大会は。国が宣伝して、注目を集めているものなのだ。未来のボートレーサーを目指す若者達にとっては、絶好の好機とも言えるだろう。
壁を叩く音。
気がつくと、部長がいた。
部長は女子だけれど、私より少し背が高い。
ただし、そもそも私の背が低いので、女子の中でずば抜けて長身というわけでは無いのだが。
「五祐、どんな調子?」
「ハードの方は、もう大体いい」
「そうか」
部長はどちらかと言えば、プログラミング担当だ。
エンジンに接続したPCから、如何に効率よく動かすか。この辺りのプログラムには市販品もあるけれど。
大手の部は、大体自作でプログラミングしている。
当然の話だ。
エンジンも、今の時代は、PCから微調整をするのが当たり前。それでいくらでもタイムが変わってくる。
部長は腕が良いプログラマーだけれど。
工学技術や操縦はからっきしなので、どちらが抜けても、この部活は終わりだろう。大会に出てもさっぱり勝てない事もあり、学校も予算をあまり出してくれない。あまりにも成績が低すぎると、今度は学校の評判を落とすことになる。
毎回予選落ちなのである。
この学校自体は、工学の名門。全国区で見ても、工業高校の中でトップクラスに位置する。それなのに成果を上げられないのだから、学校としても堪忍袋の緒が緩んでいくのも、無理は無いのだろう。
大会が始まった、五年前には。人員もいて、予算も潤沢だったと聞いているけれど。当時のエース格だった生徒が不意に抜けてしまい、大会でさんさんたる成績になって。それからは、坂道を転がり落ちるような凋落だったようである。
結局私と部長、もう一人が入ったときには、部活は大会に出るのがやっとという有様になっていたし。
今年の新一年は、一人も入部してこなかった。
三年の先輩達は、皆就職活動や進学で必死だ。この不景気の時代である。三年になっても部活に出ろと強制するほど、うちの学校も無謀なことは言わない。名門というのも、就職進学で大きな成果を上げているから、維持できるのだ。
部長が組んだプログラムを入れて、少し動かしてみる。
今の時点では、問題は無い。
「最初のエースが組んだらしいプログラムが、優秀だからねえ。 私はちょっと手を入れただけだよ」
「そうか」
「問題は乗り手だな」
部長も、それは分かっているようだった。
今此処にいない一人も含めて。
この船を、乗りこなせる奴がいない。腕組みしながら、部長は口をとがらせる。彼女は美人では無いが、表情や動作には、いちいち愛嬌がある。
「ネットか何かで、募集してみるか」
「でもセミプロを雇う場合、金が足りない。 大会だけ出てもらうという場合は、おそらく連携が足りない」
「そう、だな」
一発で乗りこなせるほど、ボートは簡単では無い。
ボートレースなどでも、大会仕様のボートで散々練習して、ようやく本番で成果が出せるのだ。
ましてや、素人が作った。新しいエンジンの草刈り場としての大会である。
何度も実機で練習しておかないと、そもそもまともに進むことさえないだろう。
つまりプロを雇うにしても、早い段階からやらなければならない。そうしないと、金を無駄にドブに捨てることになる。
「ただ働きしてくれって、ネットで募集掛けるか」
「誰が乗ってくる」
「それもそうだな」
「ボートが好きな奴を集めてみる方が、早いかも知れないな」
二人で船を持ち上げて、川へ。
今度は川で、性能実験だ。まだ今日は時間が早いから、プログラムの動作確認も、たっぷり出来る。
船自体もほぼ治っているから、川に入れても浸水はしない。
風の抵抗や、水の抵抗。
更には動かした場合の挙動。
これらの調整をして行く必要があるけれど。それについては、もう長期で、じっくりやっていくしかないのだ。
しばらく船を動かす。
まだおかしな挙動が、幾らかある。
特に右に曲げようとすると、変な慣性がつく。ぐっと引っ張られるような感じで、いきなり右に行くのだ。
船を引き上げる。
部長も、それについては、気付いていたようだ。メモを取りながら、船を確認する。
「大きな傷や歪みはないか」
「採寸はしているが、そんな様子はない」
「そうなると、何処かで重量が偏っているのか」
「可能性は否定出来ないな」
勿論、プログラミングの方で、問題が起きている可能性もある。
大会を行うのは湖で、どうしても藻が絡む可能性はある。それを想定して、異物がエンジンに入った場合の対処も、プログラムには組み込んでいるのだけれど。その辺りが悪さをしている可能性もあった。
しばらくなんだかんだと相談した後、再び川に入れる。
他にも幾つか細かい問題がある。
その中の幾つかは、船が大破する前からのものだ。細かくチェックをして行き、メモを取る。
やはり右側へ曲がるときの異様な慣性は、どうしてもついてまわる。
これを直さないと、危なくて人を乗せるわけにはいかないだろう。先生に相談するにしても、殆ど部活に出てこない。
他にも、見ている部活が、いくらでもあるからだ。
一応こういう学校の教師をしている専門家だから、相当な知識を持っている。その点では信頼しているけれど。
必要なときにいてくれないと、困るのも事実だった。
今度こそ船を引き上げて、部室に戻る。
手を洗っている部長の後ろ姿を横目に、彼方此方をハンマーで叩いて確認。反響音で、異物があるかないか、判別できる事もあるのだ。
残念ながら、今はそうはいかなかったが。
エンジンそのものの問題かも知れないけれど。そうなると、どうして右折の時だけ。
舵についても調べているけれど。
此方にも、問題があるようには、見受けられなかった。むしろグリスを入れたばかりで、非常にスムーズに動くほどである。
歪んでいる様子も無い。
「今日はもう上がる」
「プログラムの調整を頼む」
「ああ」
男勝りだと言われる部長だけれど。体力はそれほどない。だから、あまり長時間の作業は強制できない。
本人も、体力がない事は気にしているけれど。
こればかりは、どうにもならないというのが、事実だった。
私も、体力は豊富な方じゃ無い。
ボートを確認しているうちに、日が暮れる。何本か釘を打ち直して、状態を調整するけれど。
どうしても、問題点については、解消しなかった。
翌日。
部長が、DVDを持ってきた。
大会の過去映像である。これは、色々と参考になるかも知れない。少し前に、大会運営に申請していたのが、通ったのだ。
テレビで中継はされていないけれど。
ネットで動画として、一部は流れている。
これはむしろ政府が推奨していて、大手の動画サイトに投稿して銭を稼いでいるような人間達が、知名度の上昇もあって最近はかなりの数が訪れるようになっていた。
その中から、政府が買い取ったデータを集めたものである。
さっそくDVDを見てみる。
なるほど、最上位層のボートは、流石に動きが違う。同じエンジンを使っているにもかかわらず、とにかく軽快だ。
船自体の抵抗も違う。作り手の技術力の高さが、見ているだけで伝わってくる。
乗り手も中々に凄い。
やはりボートレーサーの卵なのだろう。
まるで馬に乗るように、船と一体となって、操縦をしている。動きからして、素人と違うのが丸わかりだ。
こんなのを相手にしなければならない。
そう思うと、乾いた笑いが漏れる。
これは二年前の大会だが、決勝に出てきているチームは、どこもうちの部活とは技術力からして桁外れだ。
ボートにしても何でもそうだが、機械は0.1ミリの誤差が、本当に大きな結果を生むものなのである。
プログラムも、相当にチューンされているとみていい。
人数がいて。
それらがかみあって。
結果を出している。
しかも金まで出して、乗り手にプロを使っている。それで、この成果が出ているのだ。此処まで差があると、悔しいとさえ感じない。ぐうの音も出ないというのが、正直な所だ。
「どうした、怖じ気づいたか」
「今の時点では、勝ち目が無い」
「それを怖じ気づいたという」
「しかし、どうする。 事実上二人しかいない部活だ。 乗り手についても、見つかるとは思えない」
部長は頷く。
ただ、諦めているようには、見えなかった。
「まず技術力に関してだが。 お前も捨てたものではないと思う」
「そうだろうか」
「前回の大会の予選映像だ」
大クラッシュしたときの映像か。
見てみる。
船の動きそのものは、悪くない。
悪いのは、乗り手である私だ。意図的な進路妨害を仕掛けられたときも。私の腕が良ければ、避けられたはず。
それを考えると、口惜しくてならない。
部長が何度か止めて、細かく説明を入れてくる。それによると、今も解消していない問題は幾つかはあるけれど。
他の船に、動きは引けを取っていないというのだ。
「つまり、今の船も、あの右曲がりの問題さえどうにか出来れば、上位チームの船と渡り合える」
「……」
あまり、自信は無い。
勿論、まだ次の大会までは時間があるし、徹底的なチューンをすれば、或いは。
だが、もう一つの問題が、どうしてもそれではクリアできない。
「船が良くても、乗り手が」
「問題は其処だ」
ボートレーサーの卵達は、専門の学校で学んでいると、部長は言う。確かにそういう学校があるという話は聞いている。
だが、そう言う学校にコネが無い。
そもそもいきなり足を運んでも、門前払いされるのが関の山では無いのだろうか。
とにかくやってみるべきだと、部長は言った。
あまりオススメは出来ないけれど。こういう所で、積極的だからこそ。三人の中で、彼女が部長になったのかも知れない。
近場にある専門校には、片道一時間かかる。
そうなると、平日では厳しい。
休日に出向くとしても、そもそも同年代の生徒はいないだろう。学校に許可を貰って、視察に行くしか無いかも知れないが。
それは難しい。
結局、メールや電話でやりとりして、協力できそうな人を、探していくしか無い。色々面倒な上に、無茶な話だ。
「反対か?」
「いや、そもそも無茶な話だ。 やってみて、損は無いとは思うが」
「ならば、船のチューンに注力してくれ。 こっちは私が進めてみる」
方針は決まった。
まあ、部長に任せてしまうのが良いだろう。元々私は口べたで、交渉能力もあまり高いとはいえない。
それに対して部長は、予算会議でも学校側とやりあって、頑張って金を引き出すのに成功もしている。
実績があるのだ。
少なくとも、私よりましだろう。
「二川、優勝しような」
「……ああ」
無理のようにも思えるけれど。
しかし、部長はまだ勝機があると思っている。そして、私は。その部長が頑張っている姿を、曇らせたくないとは思っていた。
船底にやすりを掛けていて気付く。
何となくおかしいと思っていた違和感が、大きくなっていく。
もう一度、採寸をし直した。
そして気付いた。
どうやら、一カ所。わずかに盛り上がるようにして、木に歪みが生じているのだ。恐らくは、これが原因だ。
まず軽くハンマーで叩いて、状況を確認。
木の歪みが原因と特定。
やすりを掛けつつ、何度かネジを締め直し、釘を打ち直す。グリースとタールも、塗り直した。
作業を黙々と進めていく横で、部長が電話に向けて話している。
あまり良い成果が出ているとは思えないけれど。部長はそれでも、自腹を切って、電話を続けてくれていた。
それなら、自分が手を抜くわけにはいかない。
調整を時間を掛けてやっていく。
やすりを掛けすぎると、船底が薄くなる。
勿論一度のダメージで壊れてしまうような柔な造りにして、それでもスピードを追求するようなやり方もあるけれど。
それは文字通りの一発勝負だ。
うちの潤沢とは言えない予算では、長く戦っていける船を作る以外に選択肢が無い。もしもこれが上位常連校だったら、学校も予算を出してくれるし、何より賞金が入るから選択肢も増えるのだけれど。
部長が電話を切った。
「どうだ」
「あまり思わしくは無いが……」
一人、話を付けられそうだという。
学校のエース格では無いが、この近くに住んでいる生徒だそうだ。ただし、かなり気むずかしいという。
別に構わない。
気むずかしくても何でも、そもそもきちんとボートを乗りこなせるなら、それでいいのだから。
そもそも気むずかしいというのであれば、この部活にいる人間全員がそうだ。私も部長も、である。
明日、ここに来るという。
本人はボートの練習が出来れば何でも良いとか言っているそうで、かなりドライな関係になりそうだ。
それでもいい。
あまりベタベタするのは、正直好みでは無い。
この学校でも、通っているのは年頃の生徒達だ。誰と誰が恋仲だとか言う噂は流れてくるけれど。
実質男女二人しかいないこの部活でその手の噂が流れないのも。
私も部長も、あまりにもドライすぎるから、だろう。
船を二人で川に運んで、調整。
かなり右曲がりが、スムーズに行くようになった。やはり船底の歪みが原因だったのだろう。
しかし、どうして。
少し調べて見る必要が、ありそうだ。
2、とがった刃
学校に、そいつが来る。
とてもではないがスポーツマンだとは思えない体型。私よりも更に背が低い。まあ、これは女性だからというのもあるだろうか。
ぐるぐる眼鏡に三つ編み。
ボートレーサーというと、イメージ的にも底辺だったのだけれど。まさか、こんなこじらせた文学少女みたいなのが来るとは思わなかった。
「菱見京子。 よろしく」
「安藤飛世(あんどうひよ)だ。 よろしく」
菱見と名乗ったボートレーサーに、部長が応じている。
挨拶もそこそこに、菱見はボートを見せて欲しいと言い出した。それよりも、此奴が本当に、部長が手配した奴なのだろうか。
心配になってくる。
とりあえず、ボートを見せる。
手慣れた様子で、ボートを触りはじめた。
流石に手つきは玄人臭い。流石に専門の学校で学んでいるだけのことはあるか。ただ、どうにも不安がぬぐえない。
「なあ」
「どうかしたか」
「あんたはどうして、仕事を受けてくれたんだ。 しかも格安で」
「……おいおい話すよ」
しゃべり方はぶっきらぼうだけれど。声がダウナー系の私や部長と違う。声そのものが、随分と可愛らしい。
このぐるぐる眼鏡が無ければ、或いは。
まあ、いずれにしても。この学校では、実は部外者が来ることは、あまり珍しくは無いのである。
機械類の配送業者は日常的に足を踏み入れるし。
今回はボート部に外注のセミプロレーサーを呼んだけれど。他の部活でも、似たような人員を手配することはあると聞いている。ただ、これに関しては、逆も然り、だとか。本格的な工業技術を学んでいる此処の生徒は、他の学校の部活に声が掛かることもあるという。
いずれにしても、私はそういった声が掛かったことはないし。
全ては噂の域を超えてはいないが。
近くの川に船を運ぶ。
菱見は手伝ってはくれなかった。ただ、考えて見れば、この体格である。あまり力仕事は、得意では無いのだろう。それは私も同じなのだけれど。あまり文句をいう気にはならなかった。
川へ、ボートを輸送。
着水させると、おもむろに菱見は、ボートに乗り込んだ。
乗り方自体が、そもそも違っている。
馬に乗るような体勢だ。
部長が、操作について軽く説明。菱見はしばらく頷いていたが、やがて小さく、ぼそりと言った。
「把握したよ」
「そうか、頼む」
若干口調が柔らかくなっている。
或いは、人見知りなのかも知れないと、私は思った。
早速操作する様子を見る。
かなり動きはよい。私は部長が乗ったときとは、別物と言って良いほどだ。ボートはいきいきと動き回り、ターンを決める。水しぶきを上げながら、ダイナミックに動き回るボートを見ると。
流石に、認めざるを得ない。
本職を目指している奴は違うのだと。
部長は腕組みして見ていたけれど、満足げに頷く。
「良い腕だな」
「でも、あれ以上の腕の奴が、ごろごろ出てくるんだろう?」
「それについては、後で説明する」
何だかよく分からないけれど、秘策があると言う事か。
何となく、分かってきた。
部長はひょっとすると、本気で今回の大会、優勝を狙っている。そのために、ピーキーな乗り手を敢えて選択した。
どうやらそれは間違いなさそうだ。
やがて、戻ってきた菱見が、幾つか注文を付けはじめる。
「出力が少し足りないのは、仕様だという話だから仕方が無いけれど。 少し全体的に動きが雑だね」
「調整に関して、意見を聞きたい」
「まず舵」
舵について、幾つかの注文を付けられる。
やはり来た右側へのターンへの注文。これについては此方でも把握していて、現在修正中だと応えると。そうかとだけ言われた。
更に幾つか。
此方でも把握していないことを、指摘された。
「多分稼働プログラムの問題だと思うけれど、加速する瞬間に、ちょっとだけ左にぶれる」
「分かった。 すぐに調査する」
「素人が作った船にしては、全体的に良く出来ているけれど。 所詮良く出来ているどまりかな」
ばっさりと切り捨てられるが。
あの操縦ぶりを見る限り、確かにこの娘は本職だ。ぐるぐる眼鏡のこじらせ文学少女かと思っていたけれど。認識を改めなければならないだろう。
出来る相手には敬意を払う。
当然の話である。
「本格的な練習に関しては、もっと広い場所が欲しいか?」
「いや、予算的にも足りないでしょ? 此処の川でいい。 ただし、ここに来られる回数はあまり多くないから、今の問題点は次には出来るだけ解消して欲しいかな」
「分かった。 どうにかする」
「申し出が有り難いのは此方も同じだからね。 頼むよ」
一時間ほどしか学校にいなかったけれど。
菱見は随分と、役に立ってくれた。
これなら、ひょっとして。
悲願である予選突破も、夢では無くなってきたかも知れない。
ボートを部室に戻す。
早速プログラムを見直しはじめる部長に、私は船の舵を確認しながら聞いてみる。
「なあ、あの娘」
「ボートレースの世界は、非常に狭くてな。 基本は全て年功序列だし、何より女性レーサーの立場は極めて悪いそうだ」
実力があっても、認められない。
それが、閉鎖社会の特徴だ。
あの娘は、中学までは普通の学校に行っていたそうだけれど。一年ほど中学を休学して、不意にボートレーサーの養成学校に行ったそうである。
もしも順当に高校に行っていれば、大学に入っている年だそうである。
つまり、私や部長より年上だ。
とにかく、ボートレーサーの養成学校でも、本職と同じ権力構図があったのだそうで。
菱見は、それに苦しめられているそうだ。
「彼奴が実力があるのは認めるが。 どうしてまた、ボートに」
「何だ、気になるのか」
「それなりにはな」
「まあ、当然か。 今度の大会での命運を担う存在だものな」
部長は淡々と、話してくれる。
元々ボートレーサーの養成学校は、日本にそう多くも無い。殆どは非常に小規模で、専門の学校と言うには、あまりにも拙劣な設備しか持たない場所も多いそうだ。
中には極めて評判が悪い所もある。
菱見が行っているのは、そんな中でも、そこそこの規模を持つ学校。一年ほどで資格を習得し、本職になれるそうである。
本職と言っても、ボートレーサーは狭き狭き世界だ。
国公認の賭博にもなっているボートレースは全国でも彼方此方で開催はしているけれど、レーサー自体の需要はそう多くもないし、何より報酬も高いわけでは無い。
マニアックな世界だから、濃密な部分はあるけれど。
その分、極めて閉鎖的でもあるのだ。
だから、菱見は。
そもそも、練習をさせて貰えないのだという。
「先輩達が乗った後。 そう言う名目で、授業では満足にボートを触れないこともあるそうだ」
「なるほど、それで練習の補助のために」
「ただ、公式の規格と、我々のボートは違う。 だから本人としても、今回の件は賭なのかも知れない」
確かに公式の規格は、ボートを非常に細かく定義しているという。
今自分たちで取り組んでいる大会は、水上モーターの試験を兼ねているものだ。だからこそに、細かい部分での自由はかなり許されている。
公認賭博のレースは違う。
此処で使われるボートは、徹底的にチューンされていて、其処に人間の方をあわせなければならない。
そうでなければアンフェアだからだ。
或いは、他にも就職口はあるのかも知れない。
トレーナーや、或いは業界関係者。
しかしあの菱見の様子を確認する限り、どう見ても本職を目指しているとしか思えない。そうなると、本職以外は、ドロップアウトとなる筈だ。
屈辱だろう。
或いは、何か、ボートレーサーを目指すための理由があるのか。
いずれにしても、モチベーションが上がるのが分かる。
部長が持ってきたこの好機を、ドブに捨てるわけにもいかない。せっかくだから、予選は最低でも突破したい。
それは勿論贅沢な望みだけれど。
人事を尽くして天命を待つのは、贅沢では無いはずだ。
もう一度、ボートのチューンをはじめる。
良く出来ている止まり。
そう言われて、悔しくない筈がない。
絶対に、完璧なものを仕上げてみせる。勿論人間が作る以上完璧は無いけれど。それでも、自分が出来る範囲での完璧をだ。
気合いが入ると、作業にも力が出る。
それから数日、熱心にチューンを続けて。
少なくとも、右へターンする際の問題については、見当がついた。船の底にあるある膨らみが、それに関係しているらしいのだ。普通に見ては分からないほどの膨らみだった。これもこの間、やすりで削ったときのものと、同じだろう。
どうして歪みが出てしまったのか。
それを特定するのは、後だ。
まずチューンをして、直す。
船底だから、やすりがけをするだけでは駄目だ。やすりを掛けた後、ニスも塗らなければならない。
どうにかなおし終えて。
それで、菱見が来た。
二度目の来訪は、一週間を開けての事だった。向こうも学校が休みのタイミングで来てくれている。
だから此方も、休日を用いて、それに応える。
来てくれた菱見は、まず軽く船に乗ってみて、また幾つか注文を出してきた。その全てをメモしておく。
「そういえば、三人目がいるという話を聞いたけれど」
「彼奴は今、停学中」
部長が言いにくいことを告げた。
以前、大会で私がクラッシュしたときのことだ。
相手側の学校と随分揉めた。大会では証拠写真を突きつけて話は終わったのだけれど。問題はその後だ。
どうやら余程腹に据えかねたらしく、相手側の生徒が、何人か乗り込んできたのである。そして暴れた。
部室を滅茶苦茶にして、部長にも殴りかかった。
三人目。
山本が敢然と立ち向かったのは、その時だった。
山本は気が弱くて、体が大きい。だから普段は物静かなのだけれど。部長を殴り倒した相手側の生徒が、地面に押し倒した部長の制服に手を掛けた時に、無言のまま動いた。後は、文字通り血の惨劇となった。
怒れる武神と化した山本は、数人を瞬く間にたたきのめして、血の海に沈めたのである。
レイプ未遂事件と言う事で、相手側の学校に非が認められて。数人が補導。主犯格の一人は、少年院送りになった。
だけれども。手を出した山本も、無事ではいられなかった。
その時私は教師を呼びに行っていて、何も出来なかった。
徹底的にボートは破壊されて。
今でも修理に手間取っているのは、そのためだ。
「勇気のある良い男じゃない」
「ああ。 だから、今でも部に籍を置いている」
今日は休日。
だから、徹底的に練習とチューンをする。
何度か微調整をした後、また川でボートに乗って貰う。その度に調整。馬に乗るようにしてボートに跨がる菱見は、その度に幾つも注文を付けてくる。
いずれも難癖では無い。
勝つための情報共有だ。
夕方までに、七回。
船を川に降ろし揚げして、その度に調整を加えた。どうしても直せそうに無い部分は、部長がプログラムでどうにかすると言う話をしていた。
六時を回った時点で、今日の練習は終了。
明日は菱見の方が用事があるとかで、此方には来られない。そうなると、黙々と此方だけで、船をチューンするしか無いか。
「だいぶ良くなってきたかな」
「大会までの期間を考えると、出来れば完璧を目指したい」
「その意気、いいね」
今の時点で、指摘されている問題点をリストアップする。
山本が戻ってくれば、更に作業は進められる。
勝機は、見えてくる。
3、暗雲と怒り
学校からの帰り道。
駅で、不意に声を掛けられた。
見ると。以前レースで因縁をつけて来た学校の連中だ。相手にする必要も無いと思ったので、そのまま身を翻す。
「おい、待てっていってんだろ!」
無視して、駅のホームに。
振り切って電車に乗ると。ホームで相手が騒いでいるのが見えた。部長にも、連絡を入れておく。
あの学校は、確かかなり此処から離れていたはず。
わざわざ来たと言うことは、余程に恨みを貯めている、という事なのだろう。部長から、学校へ連絡を入れてくれる、という事だったけれど。しばらくは自衛策を採った方が良いだろう。
翌日。
学校では無く、部長が手を回してくれたらしく。
駅には警官が何人かたむろしていた。
授業が終わってから部室に出ると、部長が状況を話してくれる。
「以前のこともあったから、相手側の学校に、直接抗議を入れた」
レイプ未遂に暴行。
どちらも、一発退学には充分な案件だ。
その上大会での露骨な進路妨害。
普通だったら、相手の学校が平謝りする状況の筈なのに。どうしてだろうか。相手側は、ふてぶてしいままに、居直っているという。
「何でも、あのレイプ男、校長の甥だったらしくてな」
「ああ、通りで」
それだけで、状況がある程度分かってしまった。逆恨みにもほどがある。いい年の大人が、このような行動に出るなんて。情けなくてため息しかでない。
更に、である。
例の少年院に入れられた馬鹿に関しても、文句を言ってきたのだそうだ。お前が被害届なんか出さなければ、彼奴は少年院なんかに入れられずに済んだとか。
それを本気で校長が言ったのだとすれば。
呆れてものがいえない。
とにかく、警察に事情は説明。しばらくは警官の巡回を手配してくれたというけれど。そもそも、相手側の学校がどうして此方を敵視するのかが、よく分からない。
いずれにしても、気をつけないと、危ないだろう。
翌日、さっそく駅で乱闘騒ぎがあった。
相手側の学校の生徒が二人。
此方の生徒に因縁を付け、物陰に引っ張り込んで殴る蹴るの暴行を加えたのである。
すぐに警官が駆けつけたけれど。暴行された生徒は、病院行き。しかも、どういうわけか、暴行では無くて、乱闘という形で話が進んでいるというのだ。一方的に暴力を加えたというのに、である。
更に四日後、同じような事件が発生。
流石に危なくて、うちの学校の生徒達も、駅をさけるようになった。
それだけではない。
授業が終わった後、私の所に、何人か来る。
「ちょっと、あんたの所が原因なんでしょ」
「因縁を一方的につけられているだけだ」
「しらねーんだよ、そんなの! 駅も怖くて利用できないだろーが! どうにかしろよ、クズ!」
机をいきなり蹴られた。
人間は数が集まると、途端に馬鹿になるというのは本当らしい。この学校では不良もいないし、イジメもどちらかと言えば陰湿なものになりがちだ。
こういう、数に頼った暴力は、はじめて見た。
呆れていると、周囲がぎゃあぎゃあと騒ぎはじめる。
なるほど、相手側の狙いは、これか。
教師が入ってきて、騒ぎを収める。
しかし生徒達が納得しているようには見えなかった。おかしな話だ。そもそも、相手側の学校が、露骨に悪いだろうに。
昼休みの後。
職員室に呼ばれた。
全国的に見ても、相手側の学校は、柄が悪い工業高校だ。必ずしも工業高校の柄が悪い訳では無いのだけれど。筋金入りの連中である。
だから、停学も退学も怖くないというような奴はうようよいる。
今後も、状況次第では、以前のようなことが起こり続けるだろう。しかも校長があの様子では、学校側も抑えるはずが無い。
「警察に事情を話して欲しいのですが」
部長がぴしゃりという。
だが、教師は、渋い顔をするばかりだ。
「君達が間違っているとは言わない。 しかし、このままだと、騒ぎが大きくなるばかりだ。 学校の名にも傷がつく」
「生徒と学校の名と、どちらが大事なんですか」
部長の言い分は正しい。
しかし、教師達は、こう言いたいのだろう。
学校の方が大事、と。
生徒と深く関わるような教育は、とっくの昔に死に果てている。そんなもの、旧時代の遺物に過ぎない。
その程度は私だって知っている。
今の学校はドライな空間だ。
「そもそも、相手側の要求は」
「……」
部長が口をつぐんだ。
さては、部長に直接アクセスがあったのか。どんな卑劣な要求を突きつけてきたのか、分からないけれど。
教師が、言うように促す。
「落とし前を付けろ、と言ってきています」
「具体的には?」
「さあ」
「それならば、相手側としっかり話し合うんだな。 出来るだけ早めに、この騒動を収めなさい。 相手も学生なんだ。 話し合いで解決するように」
そんな馬鹿な。
話が通じる相手かどうかは、今までの騒動で分かっているだろうに。しかも、此方の生徒まで、騒ぎはじめている。
部長の携帯が鳴った。
見るからに渋い顔を部長がしたので、相手は誰か丸わかりだ。電話を敢えて外にも聞こえるようにして、部長が取る。
私も、ボイスレコーダーをオンにした。
「少しは懲りたか、ああん?」
「何の話ですか」
「そうかそうか。 だったらテメーの所の生徒、もう何人か病院送りにしてやるよ」
露骨な恐喝だけれど。
学生だからと言う理由で、大した罪にならないのだろうか。教師も聞こえている筈だけれど、黙っている。
「落とし前というのが、何のことかよく分からないんですが」
「てめーの所の三人、こっちにツラ出せ。 分からないようだから、徹底的に体に教え込んでやるよ。 それで勘弁してやる」
「お断りします」
「あっそ。 それじゃあ全面戦争だな」
相手側は笑っている。
本気で何かやらかすつもりだろう。そもそも、どうしてこの学校が、目をつけられるのか。大会であのような妨害を受けたのか、よく分からない。
相手の所に行くなんて、論外だ。
部長なんて、子供が産めない体にされかねない。
実際、その程度の事は、平気でやる連中だ。
「そもそも、何が気に入らなくて、うちにこんな事を?」
「おい、テメー」
「此方が気に入らないのなら、大会で決着を付けましょうよ。 それとも、大会で勝てないから、こんな事を?」
「……上等だ! 大会でてめーら、生きて帰れると思うなよ」
ぶつりと、電話が切れた。
これで解決になるのだろうか。よく分からないが、そもそも相手の動機が見えてこないのである。
部長が嘆息する。
怯えている様子は無い。大した胆力だと思う。だからこそ、部長をやっているのだろうけれど。
「相手の意図は分かりませんが、これで解決はすると思います」
「ああそうかね。 もしも問題が継続するようなら、退学を視野に入れて貰うよ」
「今の言葉、録音しておきます。 もしも何かあった場合は、ネットを通じて全国に拡散しますので、そのつもりで」
職員室の空気が帯電したけれど。
部長は私の手を引いて、無言で職員室を出た。
ため息が漏れる。
一応、その日から、暴行事件は止んだけれど。周囲の生徒達が、此方を見る目は、明らかに今までとは違っていた。
大会までの期日は、刻一刻と迫ってきている。
菱見が来た。
とりあえず、この間の出来事について話す。ぐるぐる眼鏡の下で菱見が何を考えているのかは、よく分からないけれど。
相手側の学校については、覚えがあるようだった。
「ああ、あの底辺工業高」
「知ってるんですか?」
「知ってるもなにも、地元じゃ有名な不良高だもの。 学校の内部で傷害事件は日常茶飯事だし、卒業後本職になる奴も結構いるって話だよ。 せっかく専門技能を教えてるのに、もったいない」
本職というのは、ヤクザか何かか。
それはもう、本当に面倒な輩に絡まれたものだ。しかも校長があの様子では、自浄作用なんて期待出来ないだろう。
「どうして、そんな学校が、うちを目の敵に」
「そりゃ、お行儀が良いからでしょ」
「は?」
「ああいう連中の脳内じゃ、工業高校は自分のような底辺の人間が通っているっていうイメージなの。 はっきりいってお笑いなんだけど、ああいう連中にはそれが正しいという訳よ。 それなのに、この学校は、毛並みが良いのに工業高校やってるってのが、気に入らないって訳」
呆れた。
そんな理由で、暴力事件まで起こしたのか。
心の炎が点るのが分かる。そんな馬鹿馬鹿しい理由で、人を傷つけるような相手には、どうしたって屈する訳にはいかない。
絶対に勝つ。
「菱見さん」
「んー?」
「大会の優勝は狙いたいけれど、その前に。 彼奴らには、絶対勝ちたい」
「今調べて見たけれど、相手側も、ボートレーサーを雇うつもりらしいよ。 しかも、本職の」
余程腹に据えかねている、ということか。
あの校長も、或いは。全面的に協力しているのかも知れない。それならば、余計に。なおさらに、だ。
「必ず、勝って欲しい」
「難しい注文を付けるね」
くつくつと、菱見は笑った。
私よりも更に小柄なこの年上の女性は。何だか、果てしない闇を、心に秘めているようだった。
部長だって、今回の件は、良く想っていないはずだ。
卑劣極まりない手を使って此方に圧力を掛けてきたばかりか、多分本当の意味で社会的に抹殺しようとまでして来ている。
「相手が仕掛けてきているのは、ある意味では戦争だよ。 金に暴力に、手段を選ばずに来ている。 多分こっちが勝っても、相手が引き下がることは無いと思うけれど」
「それでも勝って欲しい」
「分かった分かった。 私も雇われたとはいえ、練習の場所を提供されている身だからね」
菱見は、顎をしゃくる。
ボートを、川に運んで欲しいと言うのだ。
それからしばらくは、無心に川でボートを操る。水しぶきを上げながら、小柄な体が、ボートを馬のように駆る姿は。
確かに、決まっていた。
川から上がって来た菱見が、幾つかの注文を付けてくる。
その内容が、以前とは比べものにならないほど細かく、そして厳しかった。
「前は決勝に行くことを想定した注文だったけれど。 今回のは、優勝を想定した注文だから」
「え……」
「返事は?」
「は、はい!」
よろしいと、菱見が頷く。
空気がさっきまでとは根本的に違う。なるほど、どうやら菱見は戦闘モードに、心身を切り替えたらしい。
ぐるぐる眼鏡の小柄な女性なのに。
どうしてだろう。
今までとは、威圧感もまるで違った。歩いて来るだけで、気圧されるほどだ。
部室にボートを持ち込んで、細かい調整に入る。
今までは欠点を潰すための作業だったけれど。
此処からは、長所を伸ばすための作業だ。
菱見は本気で戦いに赴いてくれる。
ギブアンドテイクの関係とは言え。船を作るこちら側が、手を抜いていては、それこそ話にもならない。
彼奴らのような連中には、負けてはいけない。
いけないのだ。
多分誇りだとか、そういう精神的な話だけでは無い。恐らくは、この社会そのものを構成する要因の一人として。卑劣極まりないやり口には、屈してはいけないのである。
しばらく調整を行って、またボートを川に。
既に夕方だけれど。
嫌がることも無く、菱見はボートに乗ってくれた。
休日。
菱見がスケジュールを入れてくれたので、丸一日調整と練習に、時間を費やす。
食べ物を持ってきてくれたのは、部長だ。
部長が手料理をするのは、はじめて見た。三人分の弁当。自分のを食べてみると、少し味付けは甘かった。
「まだまだだね」
「……」
ちょっと部長はむすっとしたけれど。
それでも、作ってくれたことには変わりない。
朝一からボートを川に。
しばらく動かしてから、菱見は上がって来た。
「これなら、予選突破は行ける。 本戦はまだ勝てるか分からない」
「彼奴らは、予選を突破してくるかな」
「相手が雇ったレーサーは、私も知ってる奴だ。 二年先輩の、いけ好かない奴で、ボートレースで現役だ」
それは、厄介だ。
日本にある、数少ない公認賭博の、ボートレース。
レーサーはかなり厄介なルールに縛られている。その中には、不文律も、少なからず存在していると聞いている。
年功序列。
厄介なのは、其処だ。
実力に関係無く、経験年数で、彼方此方に縛りが出てくるという。
同じボートを使っている以上、幾つもの場所で、しばりがものを言ってくる。余程に腕に差が無い限り。
先輩を抜くことは、難しい。
「そいつはレースでもかなりの実績を上げている。 ムカつく奴だけれど、確かに才能があるのは事実だね」
「勝てますか」
「……この戦いでは、ボートの性能を上げられる。 しかも年功序列は無い」
ただし、である。
相手がダーティな手段に出てくることもありえる。そう考えると、油断できる要素は一つも無い。
菱見はそう言う。
彼女の様子を見る限り。
腕前は、自分の方が上だと言っているようだけれど。
それでも、本戦では、何が起きるか分からない。
ボートの性能は、あげられるだけあげておくべきだろう。それについては、私もよく分かった。
午前中一杯を、調整と練習についやす。
部長が、昼分の弁当もあると言った。それは有り難い話だ。
実際、さっきから食べ物が欲しくて仕方ない。
注文に応じて、調整をするのは、神経を使う。そして使った跡は、体力を少なからず消耗するのだ。
チョコも用意してくれていた。
有り難い。
細かい作業を続けていくと、どうしても脳を酷使することになる。脳に直接栄養を補給し、体力も回復できるチョコは、こういう時に最適な食物だ。
調整をしながら、ふと思い当たった事を聞いてみる。
「菱見さんは」
「ん?」
「どうして、ボートレースを始めたんですか?」
「私は、元々何の才能もない女でな」
ボートの状態をチェックしながら、菱見が言う。
言いながらも手は止めない辺りが、この人が本物のボートレーサーの心を持っている事がうかがえる。
「単に本が好きなだけの、偏屈な奴だった。 実際学校でも家でも、誰にも相手にされることが無い、小さな世界の住人だったんだが」
「……はあ」
「ある時、機会を得たんだよ。 願いがかなう機会をな」
何となくだが。
分かるような気がした。
才能なんてものは、私にだってない。誰にでも負けない技能なんてものが、手に入れられるとは思えない。
今の時代、スキルなんてなんら意味を成さない事は、私でさえ知っている。会社でも国でも、要求されるのはコミュニケーション能力とやら。それは主体性など欠片も無く、要するに上司に媚を売って、自分を良く見せるためだけの力。実際、コミュニケーション能力が高いとされる人間が、同僚や部下からは評判が最悪、という事例はいくらでもあるようだ。
だが、何ら才能が無い人間が。
才能あるものに、憧れる気持ちも。
よく分かるのである。
自分自身がそうだから、だろうか。
部長のように堂々としていられる力。
肝が据わっていて、誰に対しても物怖じせずに接することが出来る力。手に入れることが出来れば、どれだけ人生が楽になるだろう。多分それが才能に起因するだろう事は私も分かっているから、これ以上は望まないけれど。
「ボートを操縦する才能は、後天的に手に入れた、という事ですか?」
「ああ。 たまたま手に入ったのが、この才能だったという事だ。 今ではすっかり自分のものにしたけれど、磨けば更に先に行けそうだからな。 こういう機会を貰って、腕を磨くのに余念が無い、というわけ」
「それにしても、どうやって才能を後天的に?」
「具体的には秘密だが、ある店に行く機会があった。 そう言うことだ」
才能を売る店なんてものがあるのか。
それ以上、菱見は教えてくれなかったので、何とも言えなかったけれど。しかし、そんな店があるのなら、是非行ってみたいとも、私は思った。
午後に入ったので、船を運ぶ。
また川で微調整に入る。
確かに菱見の操船は見事で、人船一体とでもいうのが相応しい。水を蹴立てて走る姿は、完全に私が知るボートではない。
乗り手によって、船は此処まで見事に水上を走るのか。
腕組みして様子を見ていた部長は、ぼそりと言った。
「才能が手に入る店、か」
「心当たりが?」
「いや、無い。 ただ、もしそんな店に行くことが出来たのなら、私も……」
視線をそらす部長。
あの時。
奴らに乱暴され掛けて、部長は何も出来なかった。その後、恐怖に泣くのでは無くて。部長は悲しみに拳を壁に叩き付けていた。
クズ共を糾弾することは出来ても。
自分には、たたきのめす武力は無い。
あれから、身を守るためのグッズ類は持ち運んでいるようだけれど。やはり、あの時の事は。
大きな心の傷になっているようだった。
「戦いの才能があればなあ」
「私も、それは欲しい」
「……だよな」
ボートが川岸に着く。
そして、菱見から、厳しい注文が、幾つもついたのだった。
一生懸命うち込むものがあると、またたくまに時間は過ぎていく。
噂には聞いていたが、全くその通りだった。
一月が過ぎる。
昔は、一月はとても長いと思っていたのだけれど。こうして何かにうち込んでいると、あっという間に通り過ぎてしまった。
山本が、間もなく停学から復帰する。
彼奴は不器用で、腕力くらいしか取り柄が無いけれど。
この部活の、大事な仲間の一人だ。
調整も進んでいる。
様々な調整を繰り返した結果、以前とボートは別物と言って良いほど、磨き抜かれていた。
一目で分かるのである。
以前より、遙かに早くなっていると。
だが、まだクリアできていない問題は、幾つもある。休日に菱見に来て貰って、操船と一緒に問題を指摘して貰う。
それを直しているうちに、時間はすぐ通り過ぎてしまうのだ。
部室の戸には、鍵も掛けられるようになった。
元が倉庫だから、シャッターを下ろすだけだったのだけれど。以前のことがあったので、鍵も掛けたい。
そう先生に掛け合って、付けて貰ったのだ。
もっとも、奴らが今後、どんな手に出てくるかは分からない。
それを考えると、鍵一つくらいでは、安心なんて出来なかったけれど。
部長に聞いてみるけれど。
一応、あれから動きは見せていないらしい。ただ、菱見に話を聞く限りは、油断は出来ない。
世の中には、自分が何か悪い事をしたとか、考える事をしない奴がいる。
反省もその手の輩は絶対しない。
奴らは、確実にそうだ。
だから、何を仕掛けてくるか分からない。下手をすると、殺人に手を染めることだって、平然とする可能性がある。
試合に勝った後が、一番危ないかも知れない。
菱見は手を打っておくべきだと言って、部長と何か相談していたけれど。
悔しいけれど、任せるしか無い。
船の調整は、これはぎりぎりまで掛かる。
おそらく大会の当日でも、微調整をしなければならないだろう。プロが完璧を求めてきていて。
しかも、自分は学生なのだ。
翌日。
山本から、連絡があった。
山本はとにかくゆっくり喋る。力は強いけれど、頭はあまり良くない。この学校でも、成績は下から考えた方が早い。
「僕、部活に出ても、いいのかな」
「是非来て欲しい」
「本当に?」
「部長も待っている。 お前が来てくれれば、最後のピースが揃う」
そうだ。
あの時、彼奴らに蹂躙された部は。未だに、二人で廻している。
三人揃ってこそなのだ。
仲間とかそういう話では無い。潰された場所が、これでようやく元に戻るのである。その後は、彼奴らを正々堂々たたきのめして終わりだ。
それで、やっと先に進める。
この学校は、工学系の名門大学にも進めるし、企業からも声が掛かる。未来はある。其処への路が、今までは閉ざされていた。
「山本は?」
「戻ってくる」
「そうか」
部長との会話は、いつも最小限で終わる。
だが、これでいい。山本もあまり口数が多い方では無い。黙々と、作業は進められる。だが、それでいいのだ。
山本は、その日の夕方に来た。
菱見に紹介。ずうたいばかり大きいと言われる山本だけれど。いざというときには勇気を出すことも出来るし、力を生かした作業も得意だ。
何より、三人揃ったことで、チームワークが噛み合いはじめる。
これならば、きっと間に合う。
後は、試合に臨むだけだ。
4、水上の決闘
全国大会の当日。
飛行機に乗って、北海道に。試合に参加するチームメンバーには、飛行機代も支給される。
政府がそれだけ、この大会に力を入れているという証左だ。
更に言えば、ボートの輸送も、政府手配の業者がやってくれるけれど。これは不正を防ぐためのものである。
夏場だから、北海道は実に過ごしやすい。
菱見とは現地で集合と決めている。
北海道最大の湖、サロマ湖が決闘の舞台だ。今回は全国から48の学校が参加。その中には、奴ら。
西横議工業高校の姿もあった。
あんな事件を起こしたのに、未だに大会に参加しているのは、どうしてなのだろう。あの柄が悪い校長が、よほど太いパイプとコネを持っているのか。
どっちにしても、負けるわけにはいかない。
試合は六回の予選をまず行う。1500メートルのコースを二周してタイムを競うのだけれど、ボートレースはというよりも、そもそも実験中のシステムを用いるため不備が起こりやすい。このため、二度のタイム測定を行う。つまり、コースを四周することになる。
西横議の連中は、違う予選ブロックに入った。
レース用の、ゴムのスーツを着込んだ菱見が来る。小柄だけど、女性らしい体のラインははっきり出ていて、ちょっと目の毒である。いつものぐるぐる眼鏡はしていない。目つきが非常に鋭くて、イメージが違った。
山本がどぎまぎしているのが分かる。
いざというときは勇気を出せる男だけれど。
普段は人見知りする、臆病な奴なのだ。
「西横議の連中が雇ったレーサーを見てきたが、体調は万全だな」
「手強そうですか」
「手強いもなにも、間違いなく優勝候補だ」
不意に、怒鳴り声が聞こえてくる。
そのレーサーらしかった。
「おい、何だこの仕上がりは!」
ボートを整備したらしい、髪の毛を茶色に散らかしているチンピラの胸ぐらを掴んでいるその男は。
完全にヤクザにしか見えなかった。
体格も良いし、何より髪にものすごいそり込みを入れている。無精髭も、ワイルドを通り越して粗野。
何より、左目下にある傷が、すごみを何倍にも増していた。
「勘弁してくださいよ、矢部さん!」
「後輩に頼まれたからきてやったが、なんだこのボートはっていってるんだよ! こんなので、全国区のレーサーとやりあえってのか!」
「お金は、払いますから! 上納金はこの日のために集めてますし!」
舌打ちすると、矢部という男は、ちんぴらを離した。
そういえば彼奴ら、未だに喝上げを頻繁にやっていると聞いているけれど。それで金を集めていたのか。
おそらく、目当ては。
大会の賞金だ。
「呆れた連中だな」
「だが、良い風も吹いている」
「え?」
部長の声に、菱見が返す。
水しぶきを避けるためらしいゴーグルを付けながら、菱見は、説明を続けた。
「矢部の奴は私も知っているが、彼奴は古いタイプの不良だ。 負けたら負けを認めるし、弱い奴に手を掛けることも許さない」
しかも矢部は。
西横議の学生達を、完全に掌握している様子だ。
これなら、勝てば全てが解決する。
ボートの状態を確認。
山本が、側でずっと見ていた。何があっても、絶対に触らせないという顔で、周囲に視線を送っている。
部長がさっき、審査員に声を掛けていた。
以前の事件について、説明していたらしい。何を仕掛けてくるか分からないから、警備を強化して欲しいと言うのだ。
「それにしても、どうして西横議のような連中を」
「それ自体は良いんだよ」
「え? どういうことですか、菱見さん」
「技術ってのはな、きれい事じゃ進歩しないんだ。 とにかくいろんな奴をかき集めて、争わせると、一気に進歩していく。 だからああいうクズも、大会には必要なんだよ」
ボートを試運転する菱見。
自ら上がってくると、最後の調整だと言って、幾つかの指摘事項を出してきた。
すぐに微調整を掛ける。
ボートはプラスチックだけで無くて、木も部品に使っている。そして木は生き物だ。湿気や空気の状態で、歪みもたわみもする。
山本に手伝って貰って、ぎりぎりまで調整したけれど。
完璧には、ならなかったかも知れない。
ただ、今の指摘点は直せた自信がある。
もう一度湖に入れて、試運転。
菱見は腕組みしていたが。頷いた。
「よし、不安はあるが。 四回のレースをこなすには充分だ」
予選で二回。
本戦で二回。
つまり、予選は突破してみせると言ってくれているのだ。
コースはサロマ湖の沿岸に沿って、途中でカーブ。ポールの間を抜けながら、入り口近くまで戻ってくる。
サロマ湖は養殖が盛んで、養殖場には擦らないようにしないといけない。
勿論サロマ湖の方でも、観光産業になるかも知れないと、年二回のこの大会は歓迎してくれている。
ちなみにもう一回、冬の大会は琵琶湖で行うのだけれど。
今回、それは関係無い。
うちの予選は、第三予選。
西横議は、第一予選だ。
6台のボートが、水上で一列に並ぶ。矢部という男は、流石に堂に入った構えだ。筋肉が、ゴムのスーツの下からも、浮き上がるように見えるほどである。ボートの操縦については学んだけれど。
筋肉もセンスも必要だ。
フラッグが、振られる。
八艘のボートが、一斉に飛び出した。加速していく中で、矢部が一歩躍り出る。ボートは。
出来が凡庸だ。
不良高では、良くやった方かも知れないけれど。
元々、工業高として、技術がある方では無いのだ。あの程度が関の山だろう。
しかし、出来が悪いボートも、矢部の手に掛かると、凄まじい機動を見せる。水を蹴散らして他のボートを抜き去り、一番でコースを曲がる。
一艘、クラッシュした。
横転した船から、レーサーが救助される。クラッシュしやすいポイントには、監視員が張り付いているのだ。
船は無事なようだけれど。
これでは、予選突破は絶望的だろう。
途中、曲がりくねったコースも、矢部はさほど速度も落とさず、驀進。
船の特徴を完璧に掴んで、技術でねじ伏せているのだ。
凡庸な馬も、名手に乗りこなされれば、途端に神速の駆けを見せる。
何処かの小説で見たフレーズだが。
あの矢部という男。ヤクザのような見かけだが、間違いなく腕前は一流だ。確かに、震えが来るほどの実力だった。
予想通り、圧倒的大差で、第一レースは突破。
第二レースも、文句が付けられない差を付けて、一位で突破。
一組の予選突破は、西横議に決まった。
本戦に出ると、実はそれだけで賞金が出る。だから、これだけでも、充分に元が取れるはずなのだけれど。
彼奴らはどうやら、どうして出るのか、目的を見失ってしまっている。
矢部という男は、これだけ圧倒的な大差で勝っても、まだ不満なようだ。学生達を捕まえると、すぐに調整しろと、だみ声で罵っていた。
予選第二試合が開始。
かなり早い選手がいる。しかし、矢部ほどでは無い。
一方。ボートは素晴らしく仕上がっているのに、乗り手が駄目なチームもあった。
若干の盛り上がりに欠けた後、勝負がつく。
デッドヒートの末、第二予選を勝ち上がったのは、名門のチームだけれど。あれがライバルになるとは、思えない。
次だ。
菱見が出る。
他のレーサーに比べて、随分と小柄だけれど。試合がいざ開始されると、周囲からどよめきが上がった。
小柄な分、空気抵抗だって小さいのだ。
ぐんと、一気に伸びる。
同じ出力でも、乗せている重荷が小さいから、それだけ加速できる。
勿論、ボートが浮き上がらないように、細心の調整が必要になるけれど。菱見はそれくらい、平然とこなしてみせる。
一気に引き離す、うちのボート。
いけ。
いけ。
思わず、心の中で、叫んでいた。
ターンはトップで。途中、一度だけ、わずかに減速する。あれは、以前から指摘されていて、ついに解消されなかったバグ。
だが、その程度はものともしない。
居並ぶライバルを大差で蹴散らして、ゴール。
圧倒的な勝利だ。
だが、二回戦をそのまま続ける事は出来なかった。
「ちょっとボートを調べさせて貰います」
審査員が、ものいいを付けてきたのだ。
加速が出過ぎている、というのが理由らしい。エンジンを取り外すと、中を調べはじめる。
勿論、天地神明に誓って、卑劣な真似などしていない。
リミッターだって外していない。
菱見によると、一種の技術だ。加速する瞬間に、風を掴むのだという。そうすることで、加速による飛び出しを倍にも三倍にもする。
やがて、物言いについて、審査員が発表した。
問題なし。
西横議の連中が、ブーイングしようとしたけれど。矢部が一喝して黙らせる。
「くだらねー事で一喜一憂してんじゃねえ! 俺が実力でぶっ潰してやる! もしも負けたら、それは俺の実力が、彼奴らに負けていたって事だ!」
なるほど、見かけは怖いけれど。
魂は、レーサーのそれらしい。
二度目の予選が開始される。
少し、出だしが遅い。調査されたときに、エンジンに異物でも入り込んだか。だが、飛び出しに遅れはしたが、一気に菱見が加速して、他を抜き去る。
ターンでも、負けない。
ぎりぎりを掠めるようにして、他のチームの間を抜けきる。
滑り込むような、絶妙な操船。
凄いと、素直に思った。
ジグザグのコースでも、他のレーサーを寄せ付けない技術で、差を広げていき、ゴール。
これは、決勝での勝負が楽しみだ。
すぐにボートを調べる。
やはり、調査の時に、少し歪みが生じていた。調整しながら、菱見に聞いてみる。
「勝てそう?」
「……やってみる」
珍しく、歯切れが悪い答えだ。
つまり、勝率はそれほど高くない、という事なのだろう。
後、予選は五試合ある。
その間に、出来るだけ調整をしなおす。徹底的に調整をすることで、ほんのわずかでも良い。
勝率を、あげるのだ。
他の予選でも、喚声は上がっていた。
第六予選では、凄まじい加速を見せていたボートが、ゴール前で大クラッシュ。レーサーは水面に叩き付けられたが、どうにか無事だった。
第七予選では、矢部と同等かそれ以上のレーサーが出てきた。
年配のレーサーで、なんと部の顧問教師らしい。いぶし銀の迫力があり、操船も歴戦の経験に裏打ちされているのが、一目で分かった。
本戦で勝負になりそうなのは。
矢部と、あの三自院という教師。それにもう二人くらい。
八人出てくるレーサーは誰もが手強い。
今の状況だと、順当に行っても首位を狙うのは厳しいかも知れない。そう思った時、部長に肩を叩かれた。
「大丈夫、いける」
優れたレーサーを有する上に、ボートもチューニングされ尽くしているいるチームもある。
三自院のチームなどはそうだ。
多分見たところ、実力は矢部と同格か、それ以上。
その上、ボートまで整備しきっているのだから、間違いなく最強の一角。おそらく優勝候補と見て良い。
だが、菱見も、相当にやる。
ボートはまだ完璧とは言えないけれど。
今まで努力をして来たのだ。
我々が信じなくて、どうするか。
本戦は夕方になる。
これだけの数のレースをしたのだから当然だ。予選同様、二回のタイムを総合して結果を決める。
審査員は、かなりの数が入っていた。
以前の事件も踏まえて、警備を強化しているのだろう。
ボートのチューニングが終わる。
できる限りの事はした。
菱見が試運転をして見て、頷く。
「勝てる?」
「勝つ」
短い言葉には。
圧倒的な、意思の力がこもっていた。
八人のレーサーが並ぶ。
そして、試合が始まった。
西横議の生徒達が、ぞろぞろとやってくる。
一位は、結局地力の差を見せつけて、三自院。しかし、一試合目は、菱見が制した。
二試合目で。
あの解消できなかった、わずかなスピードのロスが無ければ。
ただし、菱見と三自院、矢部はほとんど僅差だったことを、忘れてはならない。ボートの力の差で、負けたのだ。
それならば、あきらめもつく。
結局最後まで解消できなかった問題もあった。完璧には仕上げられなかった。
生徒と教師が一体になって、完璧に仕上げてきたチームに、勝てる筈が無い。
二位はうちのチーム。
そして三位が、西横議だった。
当然、想定されるのは、報復戦だ。審査員達も、慌てた様子で、集まってきた。
山本が、前に出る。
しかし、矢部が出てきて、声を張り上げた。
「てめえら! 分かってるな!」
「はい……」
「早くしろ!」
地面を蹴りつける矢部。
西横議の不良共が、頭をばしっと下げた。
「俺たちの負けだ」
「……」
「というわけだ。 以降、何かあったら、俺に連絡しろ。 国外に逃げたって捕まえて、お前達の前に引きずり出してわびさせる」
矢部は後輩達に向き直ると、凄まじい眼光を飛ばしながら吼える。
完全にヤクザそのものだけれど。
今は、恐怖を感じなかった。
「てめえらも男だ! 素直に負けを認めろ! レースは俺が互角に戦ったが、船は此奴らの圧勝だった! だからこれは妥当な結果だ! この結果は神聖なものだって忘れるなよ! 難癖を付けるのは、俺に対して唾を吐くのと同じだと思え! 余計な真似したら、指の一本や二本じゃすませねえからな!」
青ざめている不良共。
矢部は名刺をくれた。菱見は頭一つ半以上大きい矢部をじっと見上げていたけれど。二人の間に会話は無かった。
優勝は逃したが、二位。
充分な賞金が入る。このボートを、更にチューンも出来る。来年新入部員が入ってきたら、引き継ぐことも出来るだろう。
それに、部活も。
全国区に、名を轟かせることが出来る。
矢部は不良共を行かせると、私に話しかけてきた。
「お前ら、良いチューンするな。 ぶっ壊れた船を、此処まで直したのは大したもんだ」
「あ、ありがとうございます」
「もしも就職先が決まらなかったら、俺に言ってこい。 紹介してやる」
手を振ると、矢部は不良共の引率に戻った。
何だか分からないけれど。
良いレーサーなのかも知れないと、私は思った。
菱見がため息をつく。
「すまん。 結局、勝てなかった」
「やれるだけのことはやってくれた」
部長は満足そうだ。
山本は、何も言わず、ただ頷くだけだった。
「ありがとう、菱見さん」
夕焼けの中、四人は立ち尽くす。
成果は出た。
それにこの大会は、現在注目されてもいる。うちの船についても、注目が集まったはずだ。
此処にいるみんなは、多分就職でも困らない。
でも、そういう実利的な部分以上に、やり遂げたという実感があった。
「来年も呼んでくれるか。 お前達の後輩のために、是非力を振るわせて欲しい」
本当に嬉しい菱見の言葉に。
私は、ただ頷くほか無かった。
アガレスの元に、アモンが地方紙を持ってくる。
珍しい事に、北海道のものだ。
丁度船の模型を組み立てていたアガレスは、その地方紙を見て、此奴はと呟いていた。
「この娘は、確か。 才能が欲しいと言って、ここを訪れた」
「ええ。 それであれをあげたんでしたね」
渡したのは、才能の啓発に用いる道具。
脳波から、得意分野を割り出すという実験的な機械。具体的には、脳波を一日がかりで測定した後、得意分野を計算する、というものである。
何処にも居場所が無く。
文学しか居所が無い菱見は。
将来に不安を覚えて、この店に来た。
そして、アガレスに言ったのだ。将来を、生きていける才能が欲しいと。考え抜いた末の、血を吐くような結論だったのだろう。
文学好きと言うことは、当然作家も目指したはずだ。
しかし、物書きの才能がない事を、自分で悟っていたのだろう。故に、涙を呑んで、この店に来た。
それは逃避というべき行動だろうか。
否、未来を切り開こうとする、誇り高い行いだったはずだ。恥を忍んで行動できる奴は、えらいとアガレスは思う。
近年、この国では謝ると負けみたいな風潮があるけれど。それは間違っている。謝ることさえ出来ない奴が、自己正当化しているだけだ。
菱見は違った。
だから、才能を開発できる道具を渡したのである。
勿論これは試作品。
ある政府機関が作り上げたもので、実効はあるけれど、まだ試験段階の品だった。しかし、菱見が成功したという事は。
実際に、優れた機能を持っていた、という事だろう。
地方紙には、工業高校を対象とした、新型モーターを用いたボートレースで。嘱託のレーサーとして招かれた菱見が、二位になった、という記事が書かれている。そもそも政府がかなり力を入れているプロジェクトで、確か大新聞でも扱っているのだけれど。其処を敢えて地方紙を持ってくる辺りが、アモンらしい。
菱見は相変わらずぐるぐる眼鏡で。
表情も読みづらかったけれど。
三人いる生徒達と一緒に映っている様子は、少なくとも不幸せには見えなかった。きっと彼女は。才能を開発して、居場所を見つけたのだ。
「菱見は、レーサーとしてやっていけそうなのか」
「今回の大会で、鮮烈なデビューを飾りましたから、多分知名度はあがりましたね。 しばらくは、声が掛かると思います」
「なるほど、それ以降は、自分次第というわけだな」
ボートレースの世界は、狭くて閉鎖的だ。
年功序列がものをいい、機械なども古いものが優先的に使われている。良くない慣習も、幾つも残っている。
何より、パイが大きいとは言えない。
そんな中で。
もと文学少女が、どこまでやっていけるかは分からない。
だがこの写真の菱見は、少なくとも不安を感じているようには、見えなかった。菱見はおそらく、今回の件で自信を付けた。
これで、一気に躍進できるだろう。
アガレスはペーパーを置くと、船の模型の修繕に戻る。
これも遺族に価値を見いだされず、スクラップとして粉々にされた品だ。同規模の品としては、例外的に緻密で、博物館に飾れるレベルのものだったのだけれど。
人間は、何処に価値があるか分からない。
ゆえに、こう無駄にされるものも多く出てくる。
今回は、才能が無駄にされず、きちんと活用された。
それは喜ぶべき事なのかも知れない。
「アモン、ケーキ食べたい」
「はいはい」
アモンが、バックヤードに向かう。
今日は未来を掴んだ一人の若者を祝うことにしよう。
そう、アガレスは決めたのだった。
(続)
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