紅い祭

 

序、上手く行かない実験

 

今日も黙々と実験を続ける。

大学を出て、政府の機関に就職出来たは良いけれど。私に実験に対する決定権などありはしない。

多分これは駄目だな。

それは分かっているのに、何も言えないのがもどかしい。

何より機器が古い。

この政府機関は、有事に備えた研究施設なのだけれど。普段はこうやって、何に使うかよく分からない実験をひたすら続ける場所と化す。

私も、それにつきあわされる。

とりあえず、フラスコに薬品を注いで。規定まで温める。そして変化を見るのだけれど。

結果は大変に良くないものだった。

とにかく、この実験は回数だ。

少しずつ条件を変えて、次に移る。今日だけで、同じような作業を、一体何度こなしたことか。

ため息をつきながら、自分の肩を叩く。

「浅沼さん、そろそろ上がったら」

「昼休みは先にどうぞ。 もう少しやってから上がります」

「そうですか」

後輩達が、滅菌された部屋からぞろぞろ出て行く。

此処で働き始めてから、五年。

後輩も出来た。

大学を出てから五年だから、もう私も二十七。そろそろ夫を見つけないといけない年齢だけれど。

こう仕事に忙しくては、婚活どころでは無い。

給料も高いとは言えないし、結婚資金だってそんなにはない。

結果としては、仕事に打ち込むしか無いわけだ。

もう一セット実験をこなしてから、機具を片して外に出る。あくびを一つしてから、滅菌ルームを出て。白衣を着替えて、外に。

休憩だけはきちんと取れることだけが救いか。

それに今は忙しい時期では無いから、定時で上がる事も出来る。

だが、やりがいはゼロだ。

そもそもホワイトボードに書かれている進捗が、茶番極まりないのである。此処の責任者が、コミュ能力だけでのし上がってきた低脳で、まるで科学の基礎が分かっていない。一応慶大を出たという話だけれど、その割りにはあまりにも頭が悪いので、裏口入学では無いかと噂されていた。そのくせ所長や政府のお偉いさんからは覚えが良く、いずれ手酷い事件を起こすだろうと、影でささやかれていた。

この国では。

実能力なんて、誰も求めない。

コミュニケーション能力だとか言う、主体性の無いものだけが要求される。

嗚呼馬鹿馬鹿しい。

そう嘆きながら、食堂へ。うどんを注文して、ちゅるちゅるしていると、隣に二年後輩の秋月が座った。

大学を出たばかりでここに来たのだから、運が無い。

本人は結構なきれいどころだから。

意外に、すぐに寿退社できるかも知れないが。もっとも、今の時代は寿退社なんて行動は好まれない。

時々産休を繰り返しながら、働くのかも知れない。

「浅沼先輩、進捗はどうですか」

「どーもこーも無いわよ」

「でも、これって画期的な試験薬の実験ですよね」

「正確には試験薬を作る中間生成薬のね」

ただし。この実験の場合、根本的な考え方が間違っている可能性が極めて高い。私をはじめ、そこそこの経験と知識がある人間は、全員がそれを知っている。

勿論、今繰り返している総当たりの作業で、何かしらの発見が生じる可能性はある。

今の責任者は阿呆だが。

その前任はそこそこに有能な人で、別の研究所に引き抜かれるまでは、それなりの成果を上げてきていた。

その人が残していった成果も幾らかある。

幸いにも、実験のやり方については、それが踏襲されている。

今の時点では、何かしらの副次成果が出ることを祈るしか無い。結果については、全て記録しているのが救いか。

「秋月さん、あんたは運が無いわねえ」

「そうですか? お給料はそこそこだし、定時で上がれますし、悪くない職場だと思いますけど」

「理想が低い。 苦労して高学歴を取って、国の研究機関に入ったのに。 何か成果を上げないで腐ってるなんて、馬鹿馬鹿しいと思わない?」

「野心的ですね、先輩」

野心的、か。

そりゃあそうだ。苦労に苦労を重ねて、そこそこの大学を出たのだ。

早大でも慶大でもないから、学閥に食い込むことは出来なかったけど。遊びほうけている他の学生と違って、熱心に授業にもゼミにも取り組んで。教授の推薦を貰って、ここに来ている。

しかし、政府機関に来てみてよく分かった。

いや、正確には、就職してみて、だろうか。

此処でものをいうのは、コネとコミュニケーション能力。実務能力なんて、誰も求めてはいない。

だから今の責任者みたいなのが上に据えられるし。

私には出世の機会そのものがない。

いっそのこと、中小の企業に入った方がマシかも知れない。

ただ、考えて見れば、この国、この時代はまだ良い方だろう。もっと昔だったら、更に縛りはきつかったはず。

手段さえ選ばなければ出世は難しくないし。

成果を上げれば、それなりに評価もされる。

封建制度の昔を10とすれば、今は70くらいには改善されているのだから。1か0で評価してしまうのは、もったいない話なのである。

昼休みが終わったので、無為な実験に戻る。

あくびをしながら研究室に入ると、黙々と進捗をこなしていく。他の研究員達もだれているようだけれど。

それは皆、あの責任者が嫌いだからだ。

上には媚を売る。

下には高圧的に出る。

噂によると、所長に尻を掘らせているという噂もある。まあ、あながち嘘では無いだろう。

そう言うことをする人間が、コミュニケーション能力を備えていて、常識的だと評価されるのだから。

この国は、何処か狂っている。

しかしそれでも、混乱期に比べればまだマシだけれど。

17時を廻ったころに、進捗が終わる。肩を揉みながら、研究室を出て行く同僚達。

私はもう一セットをやってから帰ることにする。

それで、切りが良くなるからだ。

責任者は結局、研究室に顔も出さなかった。というか、その方が有り難い。いても五月蠅いだけだし。

何の役にも立たないからだ。

「先に上がりまーす」

「うぃ」

秋月が上がっていく。

私は最後の実験を済ませると、成果無しと呟いて。帰宅の途についた。

 

家に帰ると、ストーブの上でスルメを焼きながら、晩酌にする。

勿論一人で、である。

小さなアパートでの生活はわびしいけれど。給金は悪くないので、その内自宅を持つ事も可能だろう。

両親は田舎でアパート暮らし。

二人とも善良なので、この辺りに家を買ったら、迎えたい。

老人ホームも、手配したい。

そう考えると、金はいくらでも必要だ。

夫もいずれは欲しいけれど。

問題は相手が、今私がそうしたいと考えたことを聞いたら、どう反応するか、である。面倒な話は勘弁して欲しいとか言い出したら困る。

今の時代、皆が我が儘だ。

だから結婚もどんどん減っているし、出来る子供も少なくなってきている。

焼けたスルメをお酒に落として。旨みを入れてから、ちびちびと呷る。この味が染みたお酒が、実に美味しい。

しばらくぼんやりと過ごしていると、不意に携帯が鳴った。

田舎の友人からだ。

勿論着信では無くて、メールである。

「千尋、今何してるの?」

「一人で晩酌中」

「わ、そうなんだ」

「あんたは?」

合コンだという。それはおさかんなことでとぼやきながら、スルメをもう一つお酒に入れる。

お酒の中が烏賊だらけに。

勿論飲み干してから囓るのである。

あまり独身の女らしくない行動だけれど、別にどうでもよい。以前にカレシも作ったけれど、面倒くさくて別れてしまった私としては、こういう風に過ごしているときが、一番楽で良かった。

冷蔵庫から、新しい酒を出してくる。

私は不思議で、酒をある程度飲むと、以降はぴたりと飲みたくなくなる。

その状態で止めるから、手元も狂わなくなるし、二日酔いもしない。

ノートを開いて、作業を進める。

同時にネットの状態も確認。幾つかやっているSNSでメールやらのやりとりをしてから、ツールを動かす。

私の趣味の一つ。

統計だ。

知っているサイトのアクセスなどを調べて、全てデータとして下ろしていく。何年も続けている無意味な作業。

だがこれは趣味だからこなしていける。

今、仕事でやっている無意味な作業とは、根本的に違う。

元々私は中肉中背で、セクシーでも可愛らしくも無い。何処にでもいる、ごく普通のくたびれた女だ。

学力だって、そんなに高かったわけでも無い。

理解力が低いのを、どうにか勉強量で誤魔化して。せいぜい中堅の大学に自分をねじ込むことには成功して。

それからこの研究所に入ったけれど。

何一つ、生きていて楽しいと思った事は無い。

男と寝てみても、大して気持ちよくも面白くも無かったし。むしろ体液でべたべたになって、気持ち悪いだけだった。

恋でもすれば変わるのでは無いかと言われたけれど。

しかし、その感覚が、そもそもよく分からなかった。

何人かつきあった男の中には、テクニシャンと周囲で言われている奴もいたのだけれど。それでも気持ちよいとも思わなかったし。美形の男とつきあいもしたけれど。別に恋など芽生えはしなかった。

どこか冷めている私だから。

或いは、仕事に向いているのかも知れないけれど。

その割りには、どれだけ仕事をしても、面白いとはさっぱり感じない。ただ退屈なだけだ。

慶応を出ようが早稲田を出ようが、無能は無能と分かっただけで有益かも知れないけれど。

それも、ただ今となっては、あくびが出る話である。

統計を終えると、軽くネットサーフィンをする。

動画サイトを見て回る。最近は投稿された素人の動画の方が、はっきりいってテレビ何かより遙かに面白い。

特にバラエティは近年つまらなくなる一方だから、まるっきり見なくなった。

テレビ局だの芸能界だのの内輪ネタを繰り返されても、面白いはずが無い。あちらも作っているのはエリート様の筈だが、一体何がどうしてこのようなことになっているだろうか。

給金が高すぎて、天狗になると、ああなるのかも知れない。

時間を見ると、九時を回った。

そろそろ寝る時かも知れない。

PCを落とし、ストーブを消すと、私は布団に潜り込む。

明日もろくでもない人生が待っているのは確実。だから憂鬱極まりないが。幾つかある目標をこなして行くには、淡々と仕事をして行くしか無い。

あほらしくもあるけれど。

しかし、自分でその仕事を選べるだけマシだと思って、やっていくしかなかった。

 

1、研究者の憂鬱

 

その日は朝から、不満が鬱屈していた。

無能責任者が研究所に出てくると、成果が出ないのはどういうことかとかほざきだしたのである。

決まっている。

元から、実験の意図が間違っているからだ。

そもそも責任者が得意げに書き散らした数式自体が、彼方此方に間違いを生じているのである。

理論的にはあり得ないものも、散見されていた。

誰もがそれを知っている。

指摘した者もいた。

しかし、そうするとぎゃんぎゃん喚きだして、話にならない。しまいには、俺の言う事に逆らうんだったら、所長に上告するとまでほざき出すのだから、始末に負えなかった。

「今月以内に成果を出せ! そうしないと、お前ら全員首にしてやるからな!」

喚きながら、研究室を出て行く責任者。

阿呆な奴だ。

もし成果が出なかったら、責任者が罪を被ることになるのは、此処の規約にも書かれている。

私がボイスレコーダーを取り出したのを見て、隣の年配研究者が、けらけらと笑った。

「やるなあ」

「まあ、自衛策ですので」

「いっそのこと、もっと上の人間の所に掛け合いますか? 責任者が所長とつるんで悪さをしているのは、ほぼ間違いないですし」

「ああ、尻の堀り合いね」

実際、此処のメンバーの中にも、二人でラブホテルに入るのを見た人間がいるということだ。

まああの様子では無理も無いか。

自慢げに書き散らしたホワイトボードの内容についても、写真を撮っておく。ある程度の知識がある人間が見れば、間違っているのは一目瞭然なのだ。

さて問題は、誰が行動するか、だが。

年配の研究員が言う。

「僕に資料をくれるかな。 僕からまとめて、上層部に密告しておくよ」

「良いんですか」

「まあ、一応の実績は積んできているしね。 首になっても、これから別に困ることはないし、大丈夫さ。 君達はそうではないだろう」

確かに、現在の再就職の難しさを考えると。此処で首になるのは、少し厳しい。

仕事を移るにしても、念入りな準備が必要なのが、現在なのだ。

問題は、この人が責任者や所長のスパイになっている可能性だが。まあ、それは無いとみて良いだろう。

あの若造の責任者が、この人を頭ごなしに罵っているのを、何度か見た事がある。しかも、間違っている理論で、だ。

温厚なことで知られるこの人でも、頭に来ているのは、何となくに分かっていた。

科学者にとって、理論は神聖なものだ。

それを間違えて覚えたあげく、長年研究を重ねてきた人を罵ってよい訳が無い。

「それにしても、別の研究所でもあの手の輩が何タラ細胞の作成で問題を起こしていたけれど。 研究者は純粋に能力で選ぶべきだって、どうして分からないのかなあ」

「そんな知能があったら、あんな奴を責任者にしないでしょ」

「それもそうか」

みなでけらけらと笑った。

さっそく、年配の研究者に、上の方に情報を流す作業をして貰う。他の人間は、全員で彼のサポートだ。

さてはて、上手く行くか。

まあ、失敗したとしても、人生が終わるわけではない。

あの責任者にはほとほと愛想も尽きていたから、もうどうでも良い。それに、彼奴がいるくらいなら。

この研究所から、移った方がマシだ。

今のうちに、別の研究所に移る準備をしておこう。この場にいる全員が、その考えを共有しているのも、私には分かっていた。

その日はそのまま研究を進める。

翌日も。

翌日から、責任者は顔を見せなくなった。所長も、である。

なにやらバタバタしているのがわかった。早速、効果があったのかも知れない。まあ、あの式の間違いについては、ある程度研究をしている人間から見れば、一目瞭然だからだ。

それに一度責任者の研究ノートも見た事があるが。

あれはとてもではないが、科学者の書くものではなかった。

話にならないというのが事実である。

その二日後。

責任者の更迭が決まった。

所長も替わることになった。

ただし、ベテランの研究員も、何処かに移ることになった。まあ、これは仕方が無い事なのかも知れない。

 

翌日から新しい責任者が来た。

厳しそうな人だけれど。

科学者としてまともなら、誰も文句は言わないだろう。まず最初に彼が言ったのは、前任者をくそみそに貶すことだった。

「前任者の書いた式を見たが、話にならん。 我々は税金で研究をしている立場だと言う事を分かっていない」

全くその通りだ。

ホワイトボードに、正しい式を書いていく。

意見も求められた。

「間違っていないと思います」

「そうではない!」

いきなりの怒声である。

困惑した私に、新しい責任者は、目を怒らせて唸り声を上げる。まるで威嚇する猛獣のようだった。

「どうすれば、成果が出せると思うか、聞いている。 相手の二手先三手先を読んで行動したまえ」

「はあ……」

有能なようだけれど。

これは、かなり厳しくなるかも知れない。

全員に、仕事が割り振られる。抜けたベテランの分は、よそから廻された、この責任者の部下らしい若い男が担当することになった。

仕事の量を見て、目を見張る。

とても定時で上がれる量では無い。

「不正が行えないように、検証作業は交代で行って貰う。 中途過程については、全てがメモを怠らないように」

そう言われても、この忙しさでは、いちいちそんな事をしていられるかどうか。

挙手して、意見を述べる。

「あの、これではオーバーワークになると思いますが」

「勿論残業代は払う。 私はこれから毎日此処に泊まり込んで、遅れを取り戻すつもりだ」

ああ、なるほど。

一番面倒なタイプが来たかも知れない。

そして仕事をして見ると、その懸念は現実のものとなった。

この新しい責任者は、確かに非常に有能だ。仕事を完璧に管理して、不正が行えないようにそれぞれの担当を巧みに入れ替え。なおかつ、自分もその中に混ぜて、効率よく作業を進めていく。

そして、休まない。

体力が無限にあるのではないのかとさえ思わされるほどだ。全員がくたくたになって帰って行ってからも、自分だけは仕事をして、明日以降の準備をしているのである。

確かにあのコミュニケーション能力とやらしか取り柄が無い前任者とは違う。恐らくは、やり手として、他の研究所でも鳴らした人だったのだろう。

この研究所にも、宿泊する設備はあるけれど。

責任者が、完全に主として居座っていた。

更に、新しい所長も来ているけれど。

頭がはげ上がった、意志薄弱そうなお爺さんで。責任者の言いなりになっているのが、露骨に見て取れた。

残業時間が、月あたり100時間増えたのには、正直閉口させられるけれど。

しかし休日に出てこいとは言われないし。体調が悪い日は、きちんと休ませてくれるのは救いだ。

それに、一応やりがいもある。

今度の責任者は、ミーティングで間違った数式を書く事も無いし、説明もきちんとしている。

多少強引で高圧的だけれど。

権力を振り回すこともないし、自分だけ楽をして手を抜くようなまねもしていない。

そして何より、目に見えて進捗が消化されていくのは、楽しくもあった。

「先に上がります……」

くたくたになった秋月が、研究室を出て行く。

以前は予定より進捗をこなしていた私も、今はもうその余裕が無い。作業を進めた後、目標まで達成したら帰るようになっていた。

進捗が上がれば、後は楽になる。

そう思いたいのだけれど。

この責任者が、そんなに甘い人物だろうか。進捗が遅れている他の研究所から、仕事を引き受けてくるとか、しかねない。

シャワーを浴びて、寝る。

ポストに溜まっている広告を漁っていたら、給与明細が出てきた。結構な金額が振り込まれているけれど。

この労働時間では、金なんか使う余裕が無い。

休日でさえ、家で寝ていて全て終わってしまう状況なのだ。

これでは結局、前の責任者と同じなのでは無いのか。

今更、後悔しても遅いけれど。

私は晩酌も出来ない状態に、うんざりしていたのは、確かだった。

 

進捗が完了。

とりあえずの成果は出た。途中からは成果が出た薬剤生成に一本化したことで、予定より少し早く作業が終わった。

定時で帰るのは二ヶ月ぶりである。

秋月に、帰る準備をしている途中で面白い話を聞くことになった。

「先輩、前の責任者さんですけど」

「ああ、あのチンパンジーがどうしたの」

「首になったそうです。 何でも予算を使い込んでいるのが発覚したとかで」

「は……」

呆れてものがいえない。

コミュニケーション能力が高ければ、何でもよい。そんな風潮を流行らせたのは、一体誰なのだろう。

私服に着替えると、家に帰る。

遊んでいる精神的体力的な余裕なぞある筈も無い。

とりあえずの結果が出たから、明日からは少しはマシになるはずだけれど。それでも、今日はもう体力が残っていない。

家に帰ると、そのまま朝までバタンきゅう。

気がつくと、朝日が窓から差し込んでいた。

救えないなあと思いながら、起き出す。朝飯を適当に口に入れるけれど、料理なんてしている暇は当然のごとくない。

食べるのは全部レトルトだ。

レトルトならまだ良い方。冷凍食品の日も、多くある。簡単に作れるし早いけれど、中身が何かは考えたくも無い。

私は。

年老いたら、どうなっているのだろう。

職場に出る。

やはり、危惧していたことが起きていた。責任者がミーティングをすると言い出したとき、嫌な予感がしたのだけれど。最悪の形で、適中した形になる。

「他の研究所で、遅れが出ている。 うちの研究所で、ある程度サポートをする。 具体的な内容は」

「うげ……」

思わず呻く。

前の研究とはまるで方向性が違う内容。

しかもこの責任者が立てたスケジュールは、過酷極まりない。これでは、今までと殆ど同じだ。

「私も二ヶ月帰宅していない」

そういって、反論を封じる責任者。

外出するのは、髪を切ったりするためだけ。完全に、この研究所に住み着いてしまっている。

「我々は税金で仕事をしていると忘れないで欲しい。 此処での研究は、最速で各地にフィードバックされる。 研究内容は医療に役立てられるものもあるし、新しい技術として、この国の未来を開く場合もある」

演説する責任者。

分かっているそんな事は。

だが、研究者の、人間としての尊厳はどうなるのだろう。次の研究も、こんな感じのスケジュールになるのだろうか。

進捗については、多分昨晩、徹夜で考えたのだろう。

まるでよどみなく、全員に配られた。

私の作業は、延々と耐久実験だ。造り出した高純度結晶を、様々な方法で痛めつけて、どれだけ耐え抜けるかを調べる内容である。ハンマーで叩いたりするのは、機械がやってくれるからいい。

問題は手動の部分。

これがかなりしんどい。データの提出もその日のうちに行わなければならないので、大変だ。

幸い責任者は有能で、提出したデータをすぐに頭に入れてくれる。

この人自体は特別製だ。それは認める。

高学歴で優秀という人はそう多くないのは、この研究所に来て痛感したことだけれど。確か六大学の出だというこの人に関しては、はっきり言って生半可な早大やら慶大やらの出身者より遙かに優秀である。

ただし、周りがどうと言うことを、考えてくれない。

早速作業が始まる。

秋月が、休み時間に、話しかけてくる。

「もう、限界です……」

「前よりきついか」

「それもありますけど……」

仕事の内容もそうなのだけれど、終わりが全く見えないのがきついのだとか。

確かに、ようやく終わったかと思ったのに。最悪の予想が極められてしまったのだから、無理もない。

他の遅れている研究を手伝うのはいい。

税金で働いているというのも分かっている。

しかし、何もこんなスケジュールで手伝わなくても良いのでは無いかと、思うのだ。自分の体力に合わせてスケジュールを造り、他の人間全員を巻き込むのは正直どうかと思うのである。

他の研究員にも、状況を見て話をしに行く。

皆、大体同じ意見のようだった。

研究所は、基本的にかなり過酷だ。他の研究所でも、だいたい此処と似たような感じだと、何処かで聞いたことがある。

だが此処は国立の研究所だ。

労働基準法を、国立が守らなくてどうするというのか。

確かに大蔵省などは、官僚が過酷な労働を強いられていると聞いたことがある。不夜城などという呼び名は有名だ。しかしながらそれは、決算などの特定の時期だけの話だったはず。

この研究所は。毎日がそれに近い状態になりつつある。

いわゆるブラック企業に比べればマシだという話もあるけれど。

それと国営の研究所を比べてはならないのだ。

これが自衛隊や警察消防などの、誰かしらが常にいないとどうしようもないものであるならば仕方が無いけれど。

此処はそうでは無いはずだ。

結局、全員で責任者に話をしに行くことになった。

仕事量が量なので、夜中の十一時である。

責任者は話を聞いていた。これだけは、前任者よりはましかも知れない。しかし、結局自説を曲げなかった。

「つまり、他の研究所の遅れている行程を手伝うのは構わないが、基準労働時間を大幅に超えてまで手伝うのはおかしいと言うのかね」

「はい。 そうなります」

「だが、そうしないと納期に間に合わない」

その上、他の研究所も、手は空いていないと言うのだ。

本当だろうか。

此奴だけが引き受けたのであって。他の研究所では、だらだらとやっているのではないのだろうか。

どうもそんな気がしてならない。

極端に無能だった前任者が去ってから、仕事自体にやりがいが出たのは認める。きちんとまともな作業が出来ているのも事実だ。

だが、あまりにも作業量が多すぎる。

「今回の仕事が終わったら、まともなスケジュールを組んで貰えませんか」

「まともというのは、定時で上がれるような、と言うことかね」

「はい。 本来それで廻るはずです」

「……」

腕組みする責任者。

一応、今回の仕事の納期は、後一月となっている。上手いこと目的が達成できれば、もう少し早く、定時で上がれるようになるかもしれない。

やるべき事をやったのなら。

後は休めば良いはずなのだ。

「もしくは、人員を増やして欲しいです」

「それは出来ない」

「どうしてですか」

「前任者が、此処の金を使い込んでいたからだ。 予算が下りるまでは、今の人員でやるしか無いのだ」

ああ、そう言う理由もあるのか。

あのチンパンジーのせいで、後々まで祟られる。本当に不愉快極まりないけれど、もはやどうしようも無い。

他の研究員が、同じように食ってかかった。

「このままでは、家に帰っても何も出来ません。 給金を貰っても、使う事自体が出来ません」

「体力をつけたまえ」

「そう言う問題では……」

「今はどこも苦しい時期だ。 君達だけに、楽をさせるわけにはいかない」

議論は平行線。

そうこうしているうちに、終電の時間が来てしまった。

皆、ぞろぞろと、諦めて帰途につく。

私は秋月と顔を見合わせると、駄目らしいと判断して、皆の後を追った。

疲れ切った体を引きずって、自宅に戻る。秋月はもう帰る気力もないと言う事で、私の家に泊めた。

狭いアパートだけれど。

女二人が生活するくらいなら大丈夫だ。

とはいっても、もてなす余裕など無い。家に蓄えてあるカップラーメンを、二人で啜る事になったが。

最近のカップラーメンは美味しいとは言え、わびしいことに代わりは無い。

栄養も偏る。

実際、肌はがさがさである。

まだ若い秋月でさえそうなのだ。最近私は、怖くて鏡をあんまりまじまじと見られないようになってきていた。

「シャワー借ります」

「うぃ」

交代で風呂に入って、後は適当に寝る。

布団は一応予備があるので、困ることは無かったけれど。翌日、更に恐ろしい事態が、出社後待っていた。

責任者が、朝のミーティングで、とんでも無い事をいいだしたのである。

「予算が着服された事は、皆に説明したと思う。 それを行った本人は塀の中に入れられたが、問題はその先だ」

監査がいつの間にか入ったらしく。此処の人員は来期も変わらないことが決定したらしい。

ちなみにメールは夜中の三時に来たそうだ。

監査をしているチームも、頭がおかしいレベルでの労働を強いられている、と言う訳か。その話を聞くと、口をつぐみそうになるけれど。しかし、それとこれとは別の問題だと、割り切る。

みんなやっているんだから、自分も頭がおかしい労働につきあわなければならない。

そんな理屈は、この国の恥部の筈だ。

「その、今回の仕事が終わっても、こんな調子で働くんですか」

「つらいかね」

「ええ。 死にそうです」

「……少しは善処しよう」

こうも不満が多いと、士気に関わると判断したのだろう。実際モチベーションが減ると、ミスだって多くなるのだ。

善処という言葉は、全くもって信用できないけれど。

しかし、この責任者は言う事はきちんとこなしては来ている。少しは改善すると信じたい所だ。

全員、黙々と仕事に戻る。

一月我慢すれば、改善するかも知れない。

そう信じて、ただ働くことに専念した。結局、追加で廻されてきた仕事も、予定通りにどうにか完了。

ヘルプを頼んできていた研究所も、無事に自分の研究を完了させることが出来たらしいと、人づてに聞いた。

これで、楽になるか。

そう思ったけれど。

やはり、そうはいかなかった。

 

2、終わらない螺旋

 

自分だけでは無い。

皆も憮然としているのが分かった。

新規研究のスケジュールが、今までと殆ど変わらないレベルで過酷だったから、である。責任者は悪びれもなく言う。

「前回の研究結果が評価され、またヘルプに行った研究も評価された。 それで、一ランク重い研究が、廻されてきた」

「だったら新規人員を追加しろよ」

ぼそりと、誰かが呟く。

責任者は聞いていないフリをしながら、早速ミーティングに入る。

希望が木っ端みじんに砕かれた瞬間である。地獄を超えれば、少しはマシになるかも知れないと思ったのに。

全員に仕事が割り振られる。

私は幾つかの酸を順番に投与していき、結果を見ていく仕事をする。今回はある種の細胞に、特殊な薬品を与えた結果出来る物質の強度検査だ。何でも次期国産兵器の装甲に用いるとかで、生体部品としての超高硬度から話題になっているのだという。しかも生産が極めて簡単なため、諸外国も注目しているとか。

もしも完成すれば、画期的新技術となる。

しかも弱点なども解明できれば、それだけで有利になる。

確かにそれは非常に面白い研究だけれど。

しかし、どうしてこの人員でやる。

明らかに人手が足りていないでは無いか。

私の所に、様々な酸が運ばれてくる。その中にはいわゆる王水もある。扱いを間違えば非常に危険な代物だ。

げんなりした私に、隣で似たような強度検査をしている秋月が、話しかけてきた。

「もう無理です……」

「人員を増やせないか、交渉して見よう」

「でも、あの人、話なんて聞きっこないですよう」

「……そう、だな」

しかし、集団でストライキなんて出来るだろうか。

今の仕事は国家機密レベルの内容だ。下手な行動をすれば、文字通り本当に首が飛びかねない。

そういうレベルの仕事をしている事は、私も分かっている。

だから、あまり多くは言えないのだ。

責任者も、重要部分を担当して、作業をしている。非常に険しい顔で、手際も良い。此奴は特別製だ。

それは分かっている。

だが、他の人はそうではないのだと、どうして理解できないのだろう。

どうにかその日が終わって、家に。

シャワーだけを浴びるのが精一杯。身繕いなんてする余裕も無く、ベッドにダイブ。

ちなみに、ネットなどに制限が掛けられている。

研究内容が内容だから仕方が無いけれど。

あの責任者。

本当に部下を全員殺す気か。

しかし、苛立っている余裕も無い。疲弊が極限まで体に溜まっているから、そのままバタンキュウである。

気がつくと、朝。

よれよれのパジャマのまま。

布団から這い出すと、目を何度も擦る。まずい。このままだと、本当に死にかねない。家の外に出ると、洗濯物をとりこむ。

畳んでいるうちに、出勤時間が来てしまう。

文字通り、何もする暇が無いとは、正にこのことだ。

悲しくなってくるが、どうしようもない。

ただ、研究所の歯車として、動くしか無い。

 

流石に限界だと思ったのか。

四日が過ぎたころ、研究者の一人が、朝のミーティング時に挙手した。彼は無精髭も伸び放題で、目も落ちくぼんでいる。

結構屈強な体格なのだけれど。

それでも、これだけ疲弊するほど、仕事が厳しいという事だ。

「約束を守ってくれませんか」

「上からのお達しだ」

「約束を守ってください」

流石に、皆もそうだそうだと声を揃える。

責任者はしばしだんまりだったが。やがて、少しだけ申し訳なさそうに言った。

「今、政府が人員削減と、経費の節約で動いていてな。 人員の追加については申請したのだが、却下されたのだ」

「何を勝手な」

「しかもこの研究所では、実際に成果を上げている。 他の研究所では成果を上げられず、何人かが左遷もされている状態だ」

確かに給料は上がっている。

しかし、使う暇が無いのだ。

幾らお金を貰っても、使う暇が無かったら、何の意味も無い。飼い殺し。宝の持ち腐れ。なんと言っても良いけれど。

はっきりしているのは。このままだと、いずれ死人が出ると言う事である。肉体的にもそうだし、精神的な意味でも。

責任者は耐えられるだろう。

そういう頑丈な人間だからだ。

しかし他は違う。

「男子でもこれです。 女子はどれだけきついことか」

「少しは配慮もしている。 早めに終わらせれば、次は追加のスケジュールは貰わない予定だ」

「本当ですね」

「善処はする」

またか。

善処するなんて言って、また同じようなことになるのは、目に見えていた。

この人は、自分は仕事が出来る事は分かっている。実際客観的に見ても、仕事は出来ている。

しかし、他の人がどうなのか、分かっていない。

「どうせ、此処の研究が早めに終わったら、他の終わっていないのを引き受けるんでしょう!」

そうだそうだと、皆で騒ぐ。

責任者は、また善処するとだけ言った。

結局仕事は普通に始まる。

わかりきっていた事だ。それに、責任者は不満を抑えるためか、更に自分の仕事量を増やすと言い出す。

正直、普通だったらどうにもならない量なのだけれど。

責任者にとってはそうではないらしくて、さくさくと進めて行ってしまう。だからこそ、この人は。

おそらく、一生弱者の能力と、精神のもろさを、理解できないのだろう。

実際、責任者は仕事をしている。

しかも研究所に泊まり込んでまで、だ。

だから皆、何も言えない。

前任者よりマシ。

その言葉が、重く現場にのしかかっていた。

 

ぐったりして、家に戻る。

研究自体は順調だ。

失敗があっても、即座に責任者が動いて、自分で埋めていくからである。リカバーが出来てはじめてプロだという言葉があるけれど。この点で、責任者がプロである事は、悔しいが間違いが無い。

しかし、である。

その能力に、皆が合わせられるかというと、話が別だ。

私だってそう。

家ですることと言えば、もう寝るだけ。

食事だって基本はレトルト。食べていて味気ないし、何より栄養が偏っていることが、露骨に分かる。

このままだと、老化もほぼ確実に促進される。

それは疑いの無い所だった。

自由に出来る時間なんて、起きてから職場に出るまでの、十数分程度。その時間も、化粧やら身繕いやらで消えてしまう。

電車の中で化粧をする若い女性を、昔は軽蔑していた。臭いも出るし、何より恥ずかしい行為だと思っていた。

今でもその考えに代わりは無いけれど。

しかし、今では自分もそうしかねない。

目の下には、随分前からくっきりと隈が浮き出ている。この前では、嫁入り前に、あまりにも嫁入りには相応しくない姿になるのは、確実だった。そもそも結婚自体これでは夢のまた夢。

職場に出る。

秋月が、此処を抜けるかも知れないと、ぼそりと言った。

「実は、親が見合いの話を持ってきまして。 会ってはいないんですけど、婚約で決定です」

「いいな……」

昔だったら鼻で笑っていただろうけれど。

今では、そんな口実でも。此処を抜けられるのなら、それ以上のものはないとさえ、考えはじめている。

そんな自分が情けないのはわかりきっているのに。

どうしても、止められなかった。

「先輩……その……」

「情けない声を出さないの。 貴方が決める事よ」

わかりきっていることを、わかりきった口調で返す。ため息が漏れたのは、どうしてだろう。

秋月が羨ましくて、自分が情けなかったから。それ以外に、理由などあるものか。

此処の職員は、全員が人生を、責任者にすりつぶされかねない。

責任者が職場に出てきた。

正確には、起きて来た、だろう。

記憶が正しければ、もう四ヶ月以上、研究所で寝泊まりしているはずだ。この人には、家族とかいないのだろうか。

いないのだろう。

だから、こんな無茶が出来る。

無茶も、強要できる。

「明日から、スケジュールを調整する」

朝のミーティングで、そんな事を言い出す責任者。

ああ、そうですかとしか、応えようが無かった。其処で責任者は、不満が大きいので、少し作業量を減らすと言った。

何のつもりだ。

飴と鞭のつもりなのだろうか。

実際に、スケジュールをホワイトボードに書き出す責任者。

頭の中で、全部くみ上げているのだろう。書く様子には、まるでよどみも迷いも無かった。

実際、皆の労働時間が、毎日二時間程度減る。

しかし、その代わり。

スケジュールの終末点が、半月ほど延びた。

「ただし、他研究所の遅れが出ている場合、それをフォローするのが確実になる」

「……」

もう、応える余力も無い。

確かに二時間程度休息できる時間が増えれば、今よりはマシになるけれど。

だからなんだ。

責任者は有言実行の男である。だから、今日の作業については、予定通り終わった。定時よりだいぶ遅いけれど。

いつもより少しは早く帰宅できて。

私は、げんなりしながら、携帯を開く。

このままでは、結局飼い殺しだ。

更に言えば、他の研究所の遅れをフォローする場合。そのスケジュールは、過酷極まりないものになるのが、ほぼ確定である。納期を遅らせないために、相当な無理を責任者がするのは、火を見るより明らかだ。

顔を洗って、風呂に入って。

そしてベッドに倒れ込んで。

結局、気がつくともう朝だ。

今までの疲労がどれだけ根深いか。このことだけでも、明らかである。二時間程度作業時間が減っても、当分はこの有様だ。

自分の中で、恨みが蓄積しているのが分かる。

このまま飼い殺しにされて、なるものか。

しかし、給料という点では、今の職場は優れている。何しろ国営の研究所なのだ。おかしいのは、労働環境だけ。

どうしてこう、極端から極端へ行くのか。

自宅へ帰ると、疲弊からそのまま寝るだけ。

これは人間として、生きていると言えるのか。

産業革命の時代、イギリスでは子供にも、17時間以上の労働を毎日強いていたという話がある。

当然そんな事をしていたら、子供の命が保つわけがない。

平均寿命は二十代を切り。

女性も過酷な労働に晒されて、幼児に酒を飲ませて、仕事に出る事さえあったとか。

今の日本は、それを笑えなくなってきている。

結婚どころじゃ無い。

もう。生きているのか、死んでいるのかさえ、自分には分からなくなりつつあった。

 

3、光と闇の間

 

吐き気をこらえながら、職場に出る。

やっと研究が終わったと思ったら。案の定、責任者が他の所の作業を引き受けてきたのだ。以前、引き受けるのが確実と言っていた通りの事態になった。

分かってはいたけれど。

これほど、苦痛を伴うとは思わなかった。

仕事はまた日付が変わるほどまでに延長。

もはや、誰も喋ることは無くなっている。秋月もやめるつもりではあるらしいのだけれど。周囲の様子を見て、言い出せないようだった。

無理もない話だ。

休憩になると、全員が突っ伏して寝ているのである。

食事も殆どが、すぐに食べられるものに限定されてしまっている。その中で、平然と動き回っている責任者だけが、化け物じみていた。

これは、仕事と言えるのか。

地獄と言うべきでは無いのか。

給金を払えば、何をしても良いとでも言うのか。

不満が爆発寸前。

皆、不満を腹の中にため込んで、活火山のようになっていた。此処はある意味、地獄の一丁目。

そうなるとあの責任者は。

獄卒という訳か。

どうにか仕事が終わる。ふらふらしている秋月が、声を掛けるとぼんやりと私を見た。少し前から、様子がおかしい。

「帰るよ」

「あれ、先輩。 今、仕事はじめたばかりじゃなかったでしたっけ」

「帰るんだ」

少し強く言って、研究室から引っ張り出す。

秋月の目は既に焦点が合っていない。精神を病みはじめているのは、一目で分かった。他の研究員達は、何も言わない。

非情なのでは無い。

構っている余裕が無いのである。

責任者はと言うと、明日以降の予定を黙々と組んでいる。秋月の様子がおかしいことには気付いているようなのだけれど。

そんなのは、まるで気にしていない様子だ。

無視してスケジュールを組んでいる有様は。獄卒が次はどうやって亡者を拷問するか、淡々と決めているかのようだった。

悪魔とか鬼とか、そんな罵り文句は無意味だ。

そういった存在が、人間が考えたもっとも恐ろしいものだという事は、分かりきっているからである。

多分そんなものよりも。人間の方が、遙かに恐ろしいはずだという確信が、私にはあるし。それはおそらく間違っていない。

秋月を更衣室に引きずっていく。

目の焦点が合っていない秋月は、自分のロッカーの前に立っても、状況を理解できていない。

「先輩、どうするんですか?」

「帰るの」

「でも、責任者が、怒るんじゃ」

「仕事、終わったの」

このまま、放置も出来ないか。

タクシーを呼ぶ。自分のアパートに連れて行くことにする。タクシーの中で、既に秋月は眠っていたけれど。

アパートについてからも、目を覚ましてくれなかった。

何度か揺すって、ようやく起きる。

シャワーを浴びるかと聞いてみるけれど。状況を理解できていないようだった。諦めて、自分から先にシャワーを浴びる。

浴室から出てみると。

秋月は、食べ終えたカップラーメンの、ビニールの包装をもぐもぐと噛んでいた。

慌てて、口から引っ張り出す。

「どうしたんですか、先輩。 こんなに美味しいのに」

「これは包装」

「……あー」

へらへらと、秋月は笑う。

もう駄目だ。

先に秋月を眠らせる。これは、起きて治っているとは思えない。精神病院に連絡を入れなければならないかも知れない。

労働災害になるのだろうか。

分からない。そもそもが、労働基準法なんて、完全に無視されている職場だからだ。このままでは、秋月は死ぬ。

いや、秋月だけじゃ無い。

さっき、トイレに行って、愕然とした。

血尿が出たのだ。

それだけ激しいストレスが、心身に負担を掛けていると言うことである。布団に放り込んだ秋月は、丸まって寝息を立てている。まるで幼児のような寝相だけれど。しかし、精神が壊れかけていることを考えると、不思議でも何でも無い。

嗚呼。

秋月は、元に戻るのだろうか。

戻らなければ、人材が一人、潰れたことになる。

真面目で優しい、良い研究員だったのに。

自分も布団に潜り込むと、すぐに眠る。

というよりも。睡魔に抵抗できなかった。

目が覚めてから、秋月の様子を確認。

治っているはずも無かった。

これで、良く昨日まで仕事が出来ていたものだ。仕方が無いので、職場に連絡。まだ六時前なのに、責任者はとっくに起きていた。

事情を伝えると、そうかとだけ応える。

流石に苛立ちが、限界に来た。

「秋月さんを、精神病院に朝一で連れて行きます。 私は遅れて出かけるので」

「出来るだけ急いで出勤するように」

「……はあ?」

「一人抜けたことで、更に皆の負担が増える。 秋月君は、話を聞く限りもう駄目だろうからな。 その分、皆で働いて貰うぞ」

電話を切る。

殺意が沸騰して、のど元まで来ていた。

彼奴が仕事が出来ることくらいは分かっている。しかし、自分が一人の人生を潰したことは、理解できているのだろうか。

幼児のようにはしゃいでいる秋月をタクシーに押し込んで、病院に。

急患である事を告げて、絵本を読みたがる秋月をなだめる。

嘆きしか漏れない。

自身だって、身繕いをきちんとしている訳でも無いのだ。秋月のように壊れてしまったら、どれだけ楽かとさえ、考えている状況なのである。

急患であると告げたのに。随分待たされる。

苛立ちが、波のように押し寄せてくるけれど、必死に我慢。こういう所は、他の患者も悲惨な苦しみを抱えているのだ。

さっき先に来ていた急患は、尿道結石らしく、非常に苦しんでいた。噂には聞いているが、地獄の苦しみを伴う。世の中にある病気の中で、一二を争う痛みを覚える代物らしく、とにかく見ていて痛々しかった。

しかし、秋月だって。

まだ若い女の医師が出てきた。

診察を受ける。秋月はもう、崩壊した精神を、元に戻せるかは分からなかった。

「これは、しばらく入院して貰う事になります」

「治りそうですか?」

「休息させれば、或いは。 しかしこの様子だと、ストレスで過剰な負荷が脳に掛かっていますし、どうなるか保証は出来ませんね」

医師はこの程度の患者など見慣れているらしく、淡々と事実を告げてくる。

とりあえず、秋月の家族にも、連絡を入れておいた方が良いだろう。まずは職場に連絡。出た責任者に、状況を告げる。

「復帰は難しそうか」

「我々も、いつこうなるか分かりません。 すぐに代替の要員を手配してください。 出来れば複数」

「手配はしてみるが、難しい」

そんな事は分かっている。

そもそも、どうして自分の基準で仕事をするのか。あんたが凄いのは分かっているけれど、みんな壊れる寸前なんだ。

多分、そんな事を叫んでいたように思える。

だが、責任者は、動じる様子も無かった。

弱い者は淘汰されるだけ。

そう思っているのかも知れない。

いずれにしても、秋月の家族の連絡先を聞き出す。それだけでも、膨大な努力が必要だった。

スマホをへし折りそうに、何度なった事か。

多分鏡を見たら、其処には夜叉が映り込んでいたはずだ。

連絡先に、電話。

くたびれた老婆の声。

状況を告げると、老婆は分かった分かったと言う。祖母なのか母なのか分からないけれど、あまりに薄情では無いのか。

しかし、である。

恐ろしい事が分かったのは、直後だった。

「うちの美代子に、婚約者なんていませんよ」

「はあ、しかし見合いをしたとか」

「いえ、そんな話はしていません」

どういうことだ。

秋月は、実家とはそこそこに交流していると言っていた。しかしこのよそよそしさは、どういうことだ。

話をもう少し聞いてみる。

どんどん、泥沼にはまっていくのが、わかりきっていたのに。

秋月の親は、何も娘のことなど思っていないらしく、ぺらぺらと喋った。

あれは、一族の面汚しだ。

兄弟姉妹が全員弁護士や政治家になっているのに、国立の研究所職員などになった落ちこぼれだ。

そんな落ちこぼれ、死のうが生きようが知ったことか。

精神病院に金なんか出さないから、そのつもりでいろ。

勝手にのたれ死ね。

聞くに堪えなくなって、電話を切る。これは、本格的に、ぶち切れて暴れ出したくなってきた。

医師が、此方を平然と見ていた。

「問題のある家庭のようですね」

「……」

「ここに来る患者さんは、大きな問題を家庭に抱えていることが、珍しくもありませんからね。 別に驚きませんよ」

入院の手続きをさせられる。

完全に幼児に退行してしまった秋月を、向こうで看護師があやしているのが見えた。

 

昼過ぎに職場に出た。

他の職員に状況を告げる。皆、もはや青ざめるばかりだった。分かっているのだ。次は自分の番だと。

他人事のわけがない。

壊れる寸前まで、秋月は私と同じように働いていた。特に無能だった事も無いし、精神は皆に比べて強くも弱くも無かった。

はっきり分かっていた。

このまま仕事をしていれば、そう遠くない未来、秋月のように壊れる人間が、この中から出る。

しかも一人や二人では無い。

「もう無理だ」

二年年上の先輩が、呻く。

そしてその日を最後に、その先輩は職場に顔を見せなくなった。アパートも引き払って、何処かへ失踪したという。

前任者よりはまし。

それは全員の意見が一致していたけれど。

これでは、もはや仕事を続けるどころでは無い。二人が抜けた。仕事の状態が改善しなければ、更に抜ける人数が増えていくのは確実だ。

代替要員はすぐに来たけれど。

彼らも、あまりの状態に、目を回していた。

「こんな忙しい職場は初めてです」

そうぼやいた二十代の男性研究員は、一月で心を壊してしまった。秋月のように精神病院に連れて行くことになった。

秋月はと言うと。

まだ精神病院から出ることが出来ていない。

何度か様子を見に行ったけれど。幼児に混じって遊んでいるようだった。心まで完全に幼児退行してしまっている。

実家のあの婆の様子では。

元から、居場所なんて無かったのだろう。

だから構う私に、ひよこのようについてきていた。

こんな結果、許せないと思う。

責任者も悪いが、この社会の仕組みそのものが悪い。そしてどうにもならない。強烈な国際競争が行われている現在。この国がやって行くには、無理をするしか無い。実際無理をしない事を選んだ幾つもの先進国は、国際競争力を失い、破綻寸前の状況になっている。国家破綻すれば。

後に待っているのは、敗戦と同じ結果だ。

首でもくくろうか。

仕事が終わった後、アパートに戻る。

誰を恨む気にもなれない。

何も感じていないように見える責任者にはむかっ腹が立つけれど、彼奴を追い出したところで、何かが変わるとは思えないのだ。

実際、前任者よりは、あれでもマシなのだから。

珍しく早く終わった。

というか、気がついたらタスクが終了していた。数日は、定時で上がれるかも知れない。責任者も、流石にこの状況から、他の研究所の積み残しを引き受けようというつもりにはならないらしい。

アパートに戻る途中、肉を大量に買った。

それを滅茶苦茶に焼いて、ただひたすらに腹に詰め込んだ。

何処産の肉かも分からない。牛か豚かさえ見ていない。

ホットプレートでひたすらに焼いて、それで口の中に突っ込む。味なんて、それこそどうでもいい。

今、私はがりがりに痩せている。

過酷な労働が続いたのだから、当然だ。

無理にでも栄養を取らないと。そう感じたのかも知れない。

だが、死のうかと思っていた直後に、こんな風に食欲がわき上がるなんて。それはそれで、おかしくもあった。

散々飲み食いした後。

ベッドで転がって、スマホを弄る。

何とかしたい。

どうにかしたい。

そうしているうちに、私は見つけた。

その都市伝説を。

何でも願いが叶う店。そこに行けば、ひょっとすれば。

頭を振るう。何度も何度も。子供みたいに。

そんな店、ある筈も無い。しかし調べて見ると、休日を使えば遠征して、帰ってこられる場所だ。

どうせ休日なんて、寝ていればすぐに終わってしまうのである。

それなら、希望にすがってみるのも、一興か。

これが駄目なら、仕事を辞めよう。

責任を放り出すようで心苦しいし。

何より再就職が、非常に厳しいことは分かっている。しかし、これ以上此処にいたら、確実に死ぬ。

それよりはマシだ。

一応スキルも資格もある。

此処ほど待遇が良い場所はあまりないかも知れないけれど。職場は探せるし、仕事だって手に入る筈。

そう、自分に言い聞かせる。

しかし、本当に。

いや、弱気になっていては駄目だ。もはや私に、路は無いのだ。

 

電車に揺られながら、思う。

そもそも、主体性のある人生を、私は送ってこなかったのだと。

小中学校のころから、勉強は出来た。頭が良かったのでは無い。勉強を、他の子供よりやったからだ。

特に生物や化学に関しては、並外れた成績を上げる事が出来ていた。勉強を頑張ったのは、家族に楽をさせたかったから。

両親とも、あまり良い会社にいるとは言いがたいところがあったのだ。

高校を卒業したころ。

事故が起きた。

正確には、詐欺に巻き込まれた。

ただでさえ少ない財産を、詐欺師にむしり取られたのだ。引っかかったのは母だったけれど。

見抜けなかった時点で、誰もが同じだったかも知れない。

詐欺師は捕まったけれど。奪われた財産は、戻っては来なかった。

就職を急がなければならなかった。

結局、今も借金は返し切れていない。借金を返す目処は立っているけれど、ただそれだけだ。

此処をやめたら。

給金は安くても、別の場所に就職を急がなければ。

どちらにしても、私の人生は、金に左右されるものだった。両親は貧しい中、どう生活を切り盛りするかで。いつも苦労ばかりしていた。

お金が無いから、買ってもらえるものだってない。

金、金、金。

それだけが、私の人生を縛っていた。

せめて億単位の金があれば。四億くらいあれば、借金を全て返して、一家で静かに暮らすことも出来るのだけれど。

今更、そんな夢みたいな話が、叶うはずも無い。

だから働かなければならない。幸い私は、知恵にもスキルにも恵まれている。場末の料理屋で働くわけでは無い。

ましてや、風俗で体を売らなければならないということだってないのだ。

電車が、目的の駅についた。

降りると、もう一度合い言葉を見直す。中に入るには、合い言葉がいるというのだ。しかし、こんなくだらない言葉で、何の願いでも叶うというのか。

二階建ての新古書店。

其処に、店はあるという。

数日で見つけた情報だ。本当かどうかはかなり怪しいけれど。しかし、もはや私には、それにしかすがるすべが無かった。

だが、どういうことだろう。

店に入って、すぐに違和感を覚える。

何だか分からないのだけれど。

私は此処に。

来たことがあるように、思えてならないのだ。周囲を見回す。どうにも、既視感がある。それも、かなり強い。

働いているのは、無精髭の無愛想なおっさん。それに小柄な女性店員。あの、無愛想なおっさんは。

確かに、見覚えがある。

私は、ここに来たことがある。

しかし、いつの話だ。

二階に上がる。

此処も見覚えがある。それより異常なのは、仕事をしている、美しい女性だ。彼女は、あのままの姿で、確かに前に見た。

いつだったかは思い出せないが。

多分中学のころだろうか。

だとすれば、10年も前の話になる。それなのに、姿が同じままなんて、あり得るはずもない。

呆然としていると。

女性が声を掛けてきた。

「貴方は……!」

「! 私を知っているの?」

「これでも商売柄、大事なお客様は全て把握しているの。 まさか此処に二度目の来訪をする人がいるなんてね」

二度目。

どういうことだ。

そもそも、私は以前ここに来ていたことで確定なのか。それよりも、この声。やはり聞き覚えがある。

つまり私は。

以前ここに来て。しかも、店に入ったというのか。

ならば、何故覚えていない。

女が何か話し始める。どうしてだろう。此処にいない誰かと話しているのが、ほぼ確実だ。

「合い言葉は分かる?」

「ええ。 6番の棚に、魔の海の王はあるかしら」

「……どうやら本当のようね。 普通、一度この店に来た人間は、二度目に来る事はないの。 入ろうとしても、合い言葉が見つからないようになっている。 そもそも居着いてしまう例外もいるけれど、それは本当に例外中の例外」

私だって、そんな事をいわれても、混乱するだけだ。

咳払いすると、女は言う。

「奥のトイレに行って、待って。 普通二度ここに来るお客はいないの。 それを、認識した上で、ね」

 

4、黒い翼

 

まさか、である。

ゴモリから連絡が来て驚かされた。まさか此処に、二度もくる客がいるとは。猪塚のような例外を除くと、普通はあり得ない事なのだけれど。

データを確認する。

いた。

浅沼千尋。

以前ここに来たのは十四年前。その時に中学生だったけれど、今では二十七歳。もうすぐ二十八歳になる。

以前くれてやったものは、きちんと活用したはず。

ならば、何故また来た。

アモンが顎をしゃくる。

どうやら、ゴモリが通したようだ。つまり、食事の要件は、満たしていると言うことになる。

「妙だな。 アモン、どう思う」

「余程に欲深いのか、それともまた大きな事件に巻き込まれたのか、でしょうか」

「考えにくいな」

そもそも、である。

二度はここに来ないように、客には暗示を掛けてある。それが綺麗さっぱり消えたのか、或いは暗示を上回る何かしらの出来事があったのか。

だが、ここに来る人間は、基本的に相当な大事件を体験しているものばかり。そんな事件を、人生で何度も経験する者は多くないし。

何より一度経験すれば、精神にかなりの耐性が出来る。二度も三度もここに来ようとは、思わないはずなのだが。

いずれにしても、来てしまったものは仕方が無い。

浅沼は、姿を見せた。

何というか、二十七歳と言うには、あまりにも老け込んでいる。過剰な労働をしているという雰囲気が、全身からにじみ出ていた。目の下には当然のように隈ができてしまっている。

髪の毛も、手入れをしていないのが、一目で分かる。

多分、今日美容院で乱暴に処置してきたのだろう。おしゃれとは無縁なのが、遠目にも見て取れる。

それだけではない。

身繕いもしていない様子だ。

正確には、あまりにも忙しすぎて、それどころでは無いのだろう。

元々の造作が綺麗なのに。それを認識している様子も無い。せいぜい平凡くらいにしか思っていないだろう。それが容姿の老化に、拍車を掛けている。

原石は泥に放り込まれたあげく、ゴミまみれになってしまっていた。流石に鼻毛が伸びていたり、顔の毛が未処理というような事は無いけれど。

見苦しいなと思ったが。そんな事は言えない。その程度の義は、人間ではあるまいしアガレスは備えている。

アガレスは何も言わず、此方に気付いた浅沼が来るのに任せていた。大体分かった。恐らくは、いわゆるブラック企業か、それに類する環境で、すり切れるまでこき使われてしまったのだろう。

「貴方は……」

「14年ぶりだな、浅沼千尋」

「! そう……」

少しずつ、思い出しているようだけれど。

あまり多くの手助けは出来ない。

アモンが座布団を用意してきたので、浅沼が座る。この店についての説明をするが、浅沼はしらけた様子で、此方を見ていた。

もう聞いたことがある、というのだろうか。

「何を望んで、ここへ来た」

「……まともな人生」

「ブラック企業ですり切れたか」

「そうね」

目録を出して、目を通す。

此奴は、中学の時。激しいイジメに遭った。

イジメの理由は、家が貧しかった、という事だ。クラスで金持ちの子供が何名かいて、浅沼はとにかく格好が貧しかったことから、イジメの格好のターゲットとなった。最悪なことに、教師がそれに荷担していた。だから浅沼には、もはや逃げる場所さえなかった。通知表には、なんと浅沼が全て悪いというような事さえ書かれていた。

というのも、金持ちの子供の親が、教師と個人的な交友関係があったからである。具体的には肉体関係だ。

あきれ果てた話だが。

公私混同のあげく、イジメを正当化して、子供の人生を台無しにする。そんな教師は、実在するのだ。

とにかく、教師失格のその男のため、命の危機にまで陥った浅沼は、アガレスの所を訪れた。

そしてアガレスが渡したのは。

学業のコツについて書かれたノートである。

日本ではあまり知られていないが、とにかく頭が良い学者がいたのだ。しかし、彼の息子は、あまり知恵があるとは言えず。息子のために、学習のアドバイスをしたノートを書き残したのである。

それをくれてやった。

結果、浅沼は成績をぐんぐん伸ばし、次の学年に入ったころには、むしろ金持ちの子供達が惨めきわまりない事になった。

その学校では、テストの採点は、不公平がないように、他の教師が行うようになっていたのである。

だから不正も出来ず。

しかもほどなく、金持ちの子供の親と教師の不倫関係が発覚。

イジメを補助していた教師がいなくなった事で、浅沼の周囲に広がっていた暗雲は、払われたのだ。

その辺のことは、浅沼の記憶に合わせて。アモンの追加調査から知っていた。

だが、何という運命の皮肉か。

そこそこの大学に入って。

結構給料が良い場所に就職したにもかかわらず。

結局、そこがブラック企業化する。

それでは、元の木阿弥では無いか。大人にとっての地獄こそ、ブラック企業。子供にとっての地獄がイジメであるのと、対照的だ。

「本来は、二度此処に来るものはいないのだが」

「ここに来る時間も、必死に作ったのよ」

「……そのようだな。 まあ要件は満たしている。 対価は貰う」

浅沼の額に指を突きつけ、暗示に落とす。

そして、闇に潜ろうとして。

アガレスは、アモンに手を引かれた。

「アガレス様!」

「何だ、どうしたのだ」

アモンの様子がおかしい。魔術に関しては、アガレスの足下にも及ばないアモンが、何かしらの危険に気付くとは、考えにくい。

だがこの必死な様子。ただごとではなかった。

改めて、眠りに落ちている浅沼をよく見る。そして、思わず、アガレスでさえ、息を呑んでいた。

何だこれは。

濃縮した闇が、全身から漏れ出している。

まだアガレスは、闇を凝縮などしていない。これはこの空間に浅沼が来たことで、自動的に誘発された現象だ。

下手に潜っていたら、内部で絡め取られてしまっていたかも知れない。潜るのはやめだ。吸い出すことにする。

魔術を駆使して、闇を吸い上げはじめる。

闇の濃度が、極めて濃い。

膨大すぎて、全て吸い出すのは、とてもではないが不可能だ。

これは、あまりにも凄まじい。

この娘、或いは。

悪魔に、自力でなってしまう所だったのかも知れない。かってのアモンのように、である。

あり得る事だ。

現在の人間の中にも、希に悪魔化する者がいると言うことは、アガレスも聞いたことがあった。

確か天使の中には、それを未然に防ぐための特殊部隊まで存在している筈。一方悪魔側はあまり数を増やすことには熱心では無く、実際アガレスも、実例を見るのは初めてだったくらいである。

この娘の過去は、一度見た。

そして今、追加で増分を確認したが。

確かに陰鬱極まりない。

就職した後こそ、本当の地獄が訪れるなど、何という皮肉だろう。アガレスはブラック企業で働いたことは無いけれど。

奴隷労働から逃げ出してきた人間に、対価を与えた事はある。

そもそも、人間が商品として扱われていた時代よりはマシとは言え。ブラック企業は、正直現在の奴隷商人と言っても間違いが無い。

そしてそれは。

今では、一部の国家組織にまで、拡大しようとしている。

娘の中では、不満が最大級に膨らんでいる。

当然の話だ。

この娘は。世の中のくだらなさを嘆くだけの阿呆では無い。実際に全てを変えるべく、努力を続けてきて。そして、今の社会的地位に就いたのだ。

それなのに、全く報われないのである。

不満を持つなと言う方が非情だろう。

闇は、際限ない。

これは、おそらく悪魔化を止める事は出来ないだろう。アモンに向けて、顎をしゃくる。

「ガブリエルに連絡しておけ。 この娘は魔界で保護するから、狩らないようにと」

「分かりました」

アモンが姿を消す。

帰ってくるまで、それなりに時間が掛かるだろう。それまでに、可能な限り、娘の闇を吸い出しておいた方が良い。

更に、何をくれてやるかも、考えておいた方が良いだろう。

それにしても救えないのは。

この娘を追い込んだのが、能力も責任感もある人物だと言う事だ。結局の所人間という生物がクズである事に、アガレスも異存は無い。こういう実例を見てしまうと、呆れしか感じないからだ。

これでは、やる気を出しようが無くなるのも、当然だろう。

対価については、間もなく決める。

アモンが戻ってくると同時に、浅沼に掛けていた暗示を解く。

頭をフリフリ、起き出した浅沼は。自分の体に起きた異変について、明らかに把握しているようだった。

「……これは、貴方が?」

「いや、私は何もしていない。 お前はここに来ることで、そもそも起きるべきだったことを、前倒しで起こしてしまったのだ」

「そう。 何だか、気分が良いわ」

それはそうだろう。

アモンが悪魔化する時、アガレスは立ち会った。

元々逃亡奴隷だったアモンは、悪魔化した後。自分をこき使った宿主達を、皆殺しにした。

だから天界の刺客とも、随分やり合うことになった。

つまりである。悪魔化すると、価値観ががらりと変わる。人間のくびきが外れるのだから、当然だろう。

アモンの場合、生まれたときから仕込まれていた支配者階級への屈服と、己に対する卑屈な考えが。悪魔化して消滅した。

多分この娘の場合は。

自分を縛っていた窮屈な社会常識そのものが、丸ごと消えて無くなる。

そして今、そうなりかけている。

「お前は、間もなく悪魔になる。 早ければ数日以内、遅くても二月以内に、だろう」

「それで? 人間である事に興味なんて無いけど」

「そう考える時点で、人間では無くなりつつある。 天使共に狩られたくなければ、アモンを派遣するから、言う事に従え。 ただし、どれほど腹が立っても、人間は殺戮するなよ。 庇うことが出来なくなる」

アモンに言って、対価を出す。

今回は、直接渡してしまっても良いだろう。

ザクロの実を使ったジャムだ。

これは鬼子母神の故事にもあるのだが、人間の肉に近い味だ。このザクロジャムは最高級品を使ったもの。

あまり市場には出回らない。

「このジャムに、これから暗示を掛けておく。 多分悪魔化した時点で、周りの人間を皆殺しにしたくなるはずだ。 その時これを食べろ。 そうすれば、少なくともここに来て、精神が安定するまでは、保つ。 普通魔術がらみの道具は渡さないのだが、お前は二回目の来場で、しかも悪魔化し掛けている。 周囲に被害を出さないための、例外中の例外的措置だ」

「……そう」

「両親をはじめとして、大事な人間には、別れを済ませておけ。 もうお前は、人間の社会にはいられなくなる」

人間では無くなる事を、浅沼はさほど悲しんでいるようには見えない。もう悪魔化し始めているからだ。

以前、色王寺という男を、アガレスは人間社会からはじき出してしまった。

あれは道具の不始末だったから、アガレスは相当なダメージを受けたが。

今回の浅沼の件は、道具は適切に使われている。だから、人間社会そのものの問題であって、アガレスには関係が無い。

ただ、悪魔が新しく生じるのであれば。

アガレスとしては、庇う必要もあるだろう。

アモンに言って、浅沼を送らせる。

ため息をつくと。

入れ替わりに、猪塚が上がって来た。

手にぶら下げているのは、ケーキのレシピだ。アモンと一緒に、アガレスに喰わせておもしろがるためのものだろう。

「おんや? アガレス様、どうしたの?」

「またろくでもない客でな」

「そう。 でも、あんまり思い詰めちゃ駄目だよ」

「有り難う。 だが、悪魔を慰める人間なんて、聞いたことも無いな」

だからこそに、猪塚は面白いのかも知れない。

バックヤードで、アモンが造り出した材料を使い、ケーキを作り始める猪塚の後ろ姿を一瞥すると。

アガレスは、新しく生まれ出る悪魔について。どうやって迎えてやろうか、考えはじめていた。

 

自宅に着くと、私はベッドに転がった。

全身がむずむずする。

かゆいのでは無い。

何というか、高揚しているのだ。

あの店での出来事が原因、ではない。何となくに、全てを思い出したこと。それに、何だか力がわき上がってくるのである。

今なら、どんなブラック企業でも、働けるかも知れない。

それにだ。

店に行って思いだしたのだけれど。そもそも私は、自分の能力を引き上げて。それを元に、社会を渡っていく道を、本来選んだのだ。

今回味わっていた災厄は、人間社会の縮図と言っても良い。

つまり、そもそもが、自業自得だったのだ。

そして人間社会の縮図の中で揉まれに揉まれたことで。きっと私の中にあった、人間では無い部分が、表に出てきた。そう言うことなのだろう。

乾いた笑いが漏れてくる。

ベッドに顔を埋めて笑う。やがて自分でも抑えきれないほどに、笑いは大きくなっていった。

近所迷惑なんて、関係無い。

全身から闇が溢れて出てくるかのようだ。今までの鬱屈が、全て力に変わっていくかのようでもある。

人間を止めつつある事が分かる。

他者の意思で、そうなったのではない。

自分自身の選択の結果。

そして、それが故に。

私は全く後悔をしていない。

何となくだけれど。自分が人間でいられる時間は、もうあまり長くは無いと、判断できていた。

だからまず、するべき事があった。

翌朝、研究所でミーティングが行われる。やつれきった皆の中で、私は挙手した。

「退職します」

「何……!?」

「公務員そのものを止めると言っています」

流石に、責任者も面食らったようだった。

既に少なからず脱落者を出している。しかもそのうち二人は、どちらも新人に近かった。それに対して私はベテランだ。

今、ベテランが抜けると言う事が、何を意味しているか。それくらい、分かった上で、私は行動に出ている。

国の仕事だとか。給料が税金だとか、関係無い。

私は人間である内に、やっておく。人間としての最後の仕事を、である。

「ま、待て。 今、君に抜けられると困る」

「いえ、もうあまり時間がありませんので。 此処での仕事で、私の体の中、もうボロボロなんですよ。 医師に宣告されました。 末期癌で、余命も殆ど無いってね」

青ざめる責任者。

他の研究員達も、私の事を、よくやったという目で見ている。

責任者は有能な人間だ。

だが、自分と同じ基準で、他の人間を見るという、最悪のミスを犯した。多分個人の研究員としては、これ以上無いほど優秀な存在だったはず。だが、上に立てては、絶対にいけない男だったのだ。

この国では、よくあることだ。

それに、末期癌で全身ぼろぼろというのは嘘だけれど。人間としての寿命が尽きかけているのは本当だ。

この職場は完全にブラック企業化しているも同然だった。

新しい責任者が来てから、ほぼ一年経っている。

前の責任者よりは、マシだったけれど。それでも、全員が死の淵へ行進するには、充分な時間だった。

私はレミングである事を止める。

もっとも、実際のレミングは、集団自殺などしないそうだが。

「今日は残務整理に当てます。 さっきも言ったとおり、もうほぼ時間がありませんので」

「……」

「貴方に殺されたも同然だと言う事をお忘れなく。 ああ、新人君や秋月も、貴方が壊したも同然だと言う事も、忘れないでいてくださいね。 既に三人、貴方は人生を滅茶苦茶にしたんですよ」

うつむいている責任者。

私は必要な書類をデスクに叩き付けると、後は単純な残務整理と、作業の引き継ぎに移った。

 

綺麗さっぱり仕事を止めると、非常に気分が良かった。

今、この国で仕事を辞めるというのは、非常に高いリスクを伴う。再就職の手間が尋常では無いからだ、

さすがは国家公務員。退職金は自己都合とは言え、それなりに潤沢に入っていた。後は、今まで使い道も無かった金と、これを合わせる。これで、借金を返した上で、更に老後の生活をするに充分な金が出来る。

弟は、借金取りとやり合わせるには少し厳しい。だから翌日には金融機関に行って、借金を根こそぎ返した。サラ金業者はまたのご利用をとか笑顔で言ったが。私の表情を見て腰を抜かしたらしい。本職だろうに。

今の私は、表情だけで本職をびびらせることが出来る、という事か。

一応家には、出来が悪いが弟もいる。

もっと出来が悪い妹もいるけれど、これは既に結婚して、家を離れていた。

体の調子がおかしい。

悪いのでは無くて、完全にギアが変わってしまっている。家で過ごすときも、気をつけないと、ものを簡単に壊してしまうのだ。

一度などは、茶碗を握りつぶしてしまった。

力も意識的に抑えないと危ない。銀行で機械を操作するときも、慎重にボタンを触らないと。

別の意味で、冷や汗が流れた。

こんな所で弁償して、貴重な金を減らすわけにはいかないからだ。

とにかく、お金は一本化した。

そして通帳にまとめる。

結構な額になった。これで両親が、老後を過ごして行くには、充分な金が揃った。一応弟も働いているから、合わせれば充分なはずだ。

無能な弟だけれど。

しかし、真面目だ。

よりによって両親を裏切って、金を使い込むようなことは無いだろう。

久々に実家に顔を出す。

両親は、私を見て、涙を流して喜んだ。随分長い事話をしていなかったし、何より連絡もほとんど取っていなかったのだから、当然だ。

無能かも知れないが。

二人は善良な、私にとって自慢の両親だ。

「急にどうしたんだい、千尋」

「仕事はいいのか?」

「……ええ」

こんな受け答えしか、できないのか。

両親も、すっかり弱ってしまっている。

元々あまり体が強くない人間だったけれど。今では老いもあって、枯れ果ててしまったかのようだ。

一方私は。

この半月ほどで、体はめきめきと回復。

いや、むしろ回復どころか、若返った。十歳以上は老け込んでいた体は、休息とおそらく人間を止めつつある影響で、非常にみずみずしくなってきている。シャワーを浴びれば肌が湯を弾くし、何より十代の活力が、目に見えて感じられるのだ。

元々私は美人でも何でも無いが。

白衣を着込んで街を歩いていると、妙に目立つらしい。二度、ナンパにも遭った。もっとも、人間の男なんてどうでも良くなっているので、相手にもしなかったが。

両親と軽く過ごした後、弟を呼ぶ。

派遣社員として、どうにか仕事をしている弟。真面目なことだけが取り柄の、このあまり有能とは言えない子に。

私は、借金を返し終わっていることと。間もなくこの世を去ることを告げた。

両親に直に言わなかったのは、心臓麻痺を起こしかねなかったからだ。

弟は、何となくだが、気付いていたようだった。

「やっぱり、そうなのか」

「病名は末期癌。 ただね、死んだ姿を誰にも見せたくないから、いなくなるって形を取るわ」

「何だかよく分からないけど、それが姉ちゃんの望みなんだな」

「ええ」

遺産については、全て任せるべく、手配もしておく。保険も掛けてあるから、私が失踪した後受け取れる。満額は出ないだろうが、それでも少しは足しになる。

此奴は無能かも知れないけれど、嘘もつかないし、いい加減なこともしない。だから、後は任せてしまっても大丈夫だ。

両親に、買ってきたケーキを振る舞う。

そういえば、家族でケーキを食べるなんて、いつぶりだろう。

これから、私は死ぬ。

もう時間は、殆ど残っていない。

そう考えれば、涙が出てもおかしくないはずなのに。不思議な事に、私はどうしてか、まるで悲しくなかった。

一緒にケーキを食べて、一晩を過ごして。

そして、後は誰にも気取られぬように、家を出た。

弟は、それで察してくれるはずだ。

家を出ると、電車に乗る。

そして、自宅に戻ると、最後の身辺整理をはじめた。日用品は正直言って、もはや必要ない。

何となく分かるのだ。

この体は、多分老廃物も出さなくなる。

年も取らなくなる。

何も食べられなくなる。

私は、人間では無くなる。

だが、悲壮感は無い。私は人間としてやっていくために、努力した。自分で出来る範囲の事をした。

手だって抜かなかった。

自分のキャパの範囲内で、最善を尽くしてきた自負はある。

悪魔の手を借りてまで、である。文字通り、どのような手を使ってでも、底辺から這い上がろうと努力したのだ。

それに社会がどう報いた。

人材を無駄に浪費するミキサーの中に、私は他の人間と一緒に叩き落とされたのである。秋月だってあの新人だって、そうして精神をミンチにされた。苦労に報いない社会なんて、こっちから願い下げだ。

人間は社会の中でしか生きられない生物だ。引きこもりだって、インフラがなければ生きていけないのである。

だからこそに、社会から出るためには。

人間を止めてしまうしか無い。

普通、それは死という形で行われるけれど。

私の場合は、人間としての死は、新しい未来へつながっていた。だから、それで良いと、思えるようになっていた。

私の事を、社会から逃げたと揶揄する者もいるかも知れないが。勝手にしろと返すだけである。

私は社会の一員である以上に。

自己を保っていきたいだけだ。

身辺が全て片付いた。一度だけ、職場から連絡が来た。責任者からだった。退職の受理と。それに、退職金の交付についてだ。

額はだいたい予想通り。

不満も無ければ、喜びも無かった。

電話もすぐに切った。

これ以上彼奴と話なんて、したくなかったからだ。会社の同僚からは、メールが何度か来た。

みなおかしなテンションで、明らかに妙な喜び方をしていた。

よくやってくれた。

みんなお前を褒めてるぞ。

普段真面目そうにしている男の人から、こんなメールまで来ていた。業務用のIDなのに、大丈夫なのか。

いや、大丈夫じゃあるまい。

みんな、完全におかしくなっているのだ。全員、あのミキサーで、精神をすりつぶされてしまった。

人材をゴミのように浪費していく場所。

私は其処から、逃げたのだけれど。結局の所。逃げる事が出来たのは、私だけだったのだろうか。

精神病院に連絡してみる。

秋月はどうなったのだろう。聞いてみると、壁にクレヨンでずっとお絵かきをしていると言う。

完全に精神退行を起こしてしまっているらしく、もはや手の打ちようが無いそうだ。婚約者がいるという話を聞いていたのだけれど。それはあの酷薄な、秋月の家族に否定されていた。或いは、自分でこっそり見合いをした可能性もある。しかし、その希望は、病院関係者から、綺麗に否定された。

そんな奴は、一度も顔を見せていないと、病院では言っていた。

逃げたのか、或いは。

最初から、存在しなかったのだ。

あんな綺麗な子が、可哀想に。つまり、結婚退職だのと話し始めていたとき。既に秋月の精神は、崩壊していたのだ。現実と妄想の区別が付かなくなり、希望と願望を、手に入れたと思い込んでしまっていたのだろう。

秋月は、もう元に戻らない可能性が高い。

幸い、労働災害が認められて、入院費用は出ると言う事だ。

私は、目を擦ったけれど。もはや、涙の一つも流れなくなっていた。

 

異変が始まったのは、その夜。

体調もおかしくはなっていたけれど。ついに、全身に、目にみえる異常が出始めていた。

何だか、黒いもやのようなものが、全身から溢れているのだ。

少し前に届いていた、ザクロのジャムとやらを食べると、少し気分は落ち着いていたのだけれど。

それも通用しなくなっている。

始まったなと、私は思った。

既にすっからかんになっている部屋を出る。今月で部屋を出ることは大家には伝えてあるし、何より中は片付けた後だ。何も困ることは無い。

手元にあるのも、簡単な荷物だけ。

バッグの中に収めたのは、ノートPCと、後はちょっとだけ身の回りの品。それ以外は、全て処分した。

服も下着も。

もはやいらないと、分かっていたからだ。

夜の街に出る。

白衣の女が、片手にバッグを持ったまま歩いているのを見て、周囲の人間は不思議そうに見ていたけれど。

やがて、誰も私を見なくなった。

何となく分かった。

私は、彼らと位相がずれたのだ。

実際、目の前を通って見せても、反応しないのだ。夜の盛り場だから、色々とろくでも無さそうな商売に手を染めているような輩もいる。それなのに、ちょっと様子がおかしい女に反応しないのである。彼らには見えていないと判断するには、充分だった。

私の体からはずっと真っ黒な何かが立ち上り続けている。

それが不気味なことでは無く、当たり前の事なのだと。自然に自分で、受け入れられていた。

ふと気付くと。

目の前に、あの性悪そうなメイドが立っていた。アモンだ。

アガレスの言葉を思い出す。アモンが迎えに来たと言うことは。やはり、人間である私は死んだと言うことだ。もう私は、悪魔となっているのだろう。

「どうやら、人間では無くなったようですね」

「……そうらしいね」

軽く腕を振ってみるけれど。

軽く前の数十倍は、パワーが出る筈だ。ただし、人間をそれで粉々にしようとかは、全く思わない。

さては、あのザクロジャムに、何か入れられていたのか。

ああ、そういえば何か入れたとか、あの子供悪魔は言っていたか。もう、それこそどうでもいい。

「此方へ」

「まず何処へ行くか言ってくれる?」

「もう貴方に、この世界に居場所はありません。 他にも悪魔達がいる場所へ案内します」

しばし迷ったけれど。ついていくことにした。

どうせ時間は、いくらでもあるのだ。

今なら、理解できている。

私の体は、最盛期の状態になっている。その上、多分今後は老化しない。頭は冴え渡っているし、食事だって必要ない。

いや、いるかも知れないが、少なくとも肉だの野菜だのは食べなくて良いはず。多分からだが受け付けない。

更に言えば、時間の概念が無くなっている。

二十代になってから、露骨に時間が過ぎるのを早く感じるようになってきているけれど。同じ感覚のまま、今は不思議なくらいに落ち着いている。

時間など、もはや私にとってはどうでもよい。

そう感じるのだ。

背中に羽でも生えるだろうか。

念じてみたが、無理だった。黒い蝙蝠の羽でも生えたら、それはそれで面白かったのに。

アモンとやらに伴われて、連れて行かれたのは。

あの黒い子供がいた店ではない。何処かの神社らしい。薄暗いけれど。どうしてだろうか、今は闇をまるで怖いとは思わない。むしろ闇の中にいるのが、心地よくて仕方が無かった。

人間は闇を怖れて、明かりを造り出した。

しかし今は、むしろ明かりが邪魔だ。

闇の中でも、昼間と同じように見えている。もう眼鏡も必要ない。私は、あらゆる意味で、人間では無くなっていた。

神社の中では、年老いた夫婦が待っていた。

どちらも、人間では無いのだと、一目で看破できた。

「これから、魔界に貴方を登録いたします」

「はあ、そうですか」

「此方に」

言われたまま、神社の中に入ると。

地下深くへ通じる、洞窟のようになっていた。外から見ると、明らかに和風の社屋だったのに、である。

奥からは、とても心地よい風が吹いてくる。

そうか、私は、これから。

本当に人間では無くなるんだな。

私はほくそ笑むと、第一歩を踏み出す。悪魔になった事を、後悔などしていない。あの狂気に塗れた職場にいるくらいなら。

悪魔にでもなった方が、まだマシだからだ。

洞窟をずっと降りていく。

目の前にいる夫婦が、見る間に若返っていくのが分かった。

「表では、力を抑えるために、老人の姿をとっておりますので」

「魔界につけば、我らは若き日のままになります」

そんな風に言う二人は。若返ると同時に、背も伸びていく。背筋もしっかりと通って、私と同じ年くらいに見えるようになった。

和服がよく似合う、美しい女性と。

良く整った雰囲気を持つ、幕藩時代の武士を思わせる男性だ。

「あなた方は、元人間?」

「ええ。 貴方と同じように」

「悪魔には、元から悪魔として生を受ける存在と、人間から悪魔になる者がいます。 力が強いのは、どちらかと言えば後者の方でしてね」

それは意外だ。

ゲームとかでは、大体前者の方が純血だの何だので力は強いだろうに。

やがて、出た場所は。

闇に満ちていた。

全てが黒い瘴気に覆われ。そして、息をするだけで、かぐわしい黒が満ちてくる。

目を細めた私は。

促されるまま、ついていく。

「この先で、貴方は悪魔としての名前を得ることになります。 名前をくださるのは、今の魔界の長であるルシファー様。 もっとも、ルシファー様も、単純にシステムを動かしているだけですが」

「何しろ以前戦いにて力を殆ど失ってしまわれましてな」

「何だか、魔界も大変ね」

「ええ。 ですから新しい風を吹き込みうる貴方は、とても歓迎されると思いますよ」

闇の中から、浮かび上がるように、城が見えてきた。

もう、人間社会には。

欠片ほども、未練は残っていなかった。

 

アモンが戻ってくる。

浅沼を魔界に送り届けてきたという。まあ、あのまま地上をふらついていたら、望む望まぬに関わらず災厄をまき散らし、天使の介入を受けていただろうから、妥当な判断になる。

浅沼は、色王寺と同じように、人間社会からはじき出されたけれど。それは納得してのことだった。

結局の所、アガレスには今でも、人間の不幸というのはよく分からない。

いずれにしても今回の件は、アガレスが保つルールには抵触しない。浅沼は今後対等の存在になって、悪魔としての名前も得る。

やがて、この店にも、遊びに来るかも知れない。

「浅沼は、嬉しそうだったか?」

「ええ。 水を得た魚のようでしたよ」

「そうか」

彼奴は、かなり仕事が出来る方だと、アガレスは見ていて思ったのだけれど。そんな人材は、ゴミのように浪費された。

人間社会の無駄は、作り上げられるものだけではない。

ああいう人材も、ミキサーに掛けられたかのように、すりつぶされ、浪費されていく。これでは、進歩が遅いのも、仕方が無いのかも知れない。

小さくあくびをすると、ザクロのジャムをパンに塗ってくれと注文。

少し悩んだ後、アモンは注文通りの品を持ってきてくれた。

「アガレス様、人肉が好きでしたっけ?」

「大嫌いだ」

「ならば、どうして」

「鎮魂の意味を込めてな」

人間としての浅沼千尋は死んだ。

そして、それを知る者はごく一部しかいない。

だから、せめてアガレスは。

此処で、その最後を、悼もうと思った。

 

(続)