雪の絶えぬ場所

 

序、白く凍り付いた土地

 

身を縮めて、じっと待つしか無い。

通り過ぎる無数の足音。

見つかれば、殺される。ほぼ間違いなく。

誰にも助けは求められない。隠れている私は、ぎゅっと身を縮めて、ただ災厄が通り過ぎるのを待つしか無かった。

乱暴な声が聞こえてくる。

この辺りに隠れたはずだ。

見逃したらブッ殺すぞ。

殴る音が聞こえる。

彼奴らにとって、暴力は日常茶飯事。実際私の両親も、彼奴らに嬲りものにされて殺されたのだから。

私だって。このままでは殺される。

こうやって逃げ出したのは、どうやってだろう。何処へ逃げれば良いのかもよく分からないのに。逃げたときのことは無我夢中で、あまり覚えていない。

私には、相手の隙を見ること。

逃げる才能。

どうも、どちらもが備わっているようだった。

軒下に隠れていた私は、奴らが去ったのを感じ取って、闇の中顔を出す。いない。影を伝って、隠れていた廃屋から出る。

周りは、見た事も無い光景。

交番に行けと、両親は言っていたけれど。一度そうしたら連れ戻されて、死ぬほど殴られた。

顔中にその時の傷が残っている。

今回が最後の好機だ。

もう一度捕まったら、今度こそ殺されるだろう。警察は私を精神病もちか何かと判断しているようで、私を保護しても、話なんか聞きそうに無い。そうなると、少なくとも警察は頼れない。

雪が降り始めた。

両親は彼奴らに殺された。

私も、その内殺される。

誰も助けてくれる人なんていない。いるはずもない。それなのに、どうして諦めずに、逃げ回っているのだろう。

襤褸切れ同然の服。

彼奴らはいつも綺麗な服を着ていて。私と同じように捕まっている人は、全員が汚れきっていた。

警察が来たこともある。

それなのに、どうして問題にならなかったのだろう。

手に息を掛けて、温める。

このまま、私は逃げ続けるしか無いのだろうか。

雪が降り出した。

少なくとも彼奴らの姿はもう見えない。かなり歩いているから、流石に此方を補足できないのだろう。

足が冷たい。

素足なのだから当然だ。

いっそ、このまま死んでしまう方が楽かも知れない。雪も降ってきているし、物陰で寝れば死ぬ事が出来るだろうか。

自分の年齢さえ、はっきりと分からない。

学校など、いった事も無い。

どうして、このような地獄に、足を踏み入れてしまったのか。

此処は平和で豊かな国だと聞いていたのに。

体に、雪が積もりはじめた。

意識が混濁しはじめる。

足はもう感覚が無い。

周囲には誰もいない。

静かな白が、視界に増えていく中。

私は、目を閉じて。木陰に座り込んだ。願わくば、この地獄が。もう終わりますようにと、誰を相手にするでも無く、呟いていた。

此処なら誰にも見つからないと計算して、座り込んだから。きっと、死ぬくらいの間までは、静かにしていてくれるはず。

あの追っ手達だって。

私には、気付かない筈だ。

体に雪が積もっていくのが分かる。うつらうつらとし始めた。良かった。本当に死ぬ事が出来そうだ。

やがて、意識は。

白い雪に溶けるようにして、消えていった。

 

気がつくと、白いベッドに寝かされていた。

天井が見える。

知らない天井。

辺りを見回す。誰もいない。少なくとも、彼奴らはいない。

此処が天国とやらでないのは、事実のようだ。手にはなにやら管が付けられている。着せられているのは、何だろう。

逃げ出すときに着ていた襤褸じゃ無い。

ぴこん、ぴこんと音がしている。何かを表示しているようだけれど。読み取ることは、出来なかった。

部屋に誰か入ってくる。

白い服を着ていて、肌色があまり見えない。

「先生!」

誰かを呼びに出て行ったようだ。管を引っこ抜いて逃げるべきでは無いかと思ったけれど、体が思うように動かない。

同じように白い服を着た人が入ってきた。

父と同じくらいの年代だろうか。

嗚呼。

失敗したのか。

このまま連れ戻されて、今度こそ殺されるのだろう。どうして凍死させてくれなかったのか。

その方が何十倍もマシだっただろうに。

なにやら聞かれる。

以前脱出した時、警察とやらに必要なことは話した。それなのに、私は彼奴らの巣窟に連れ戻された。

その後何をされたかは。

思い出したくも無い。

だから話さない。

冷たい目で見ている此方に、医師は鼻を鳴らした。これでは事情が分からないと、困り果てた様子で、周囲の人間に言っている。

やがて、警察が来た。

格好で分かる。私が視線を背けると、年配の刑事が、医師達に外に出て欲しいと告げる。

此奴らは信用しない。

私の話を此奴らが聞かなかったせいで。父も母も殺されたのだ。

「以前も、君とはあった事があるね」

知るか。

視線を背けて、あわさない。

殺すなら好きにするが良い。彼奴らの家に連れ戻されるくらいなら、舌を噛み切る。それくらいの抵抗なら、許されるはずだ。

「君が脱走した後、彼らの家を調査した。 数人分の死体の欠片が発見された。 彼らは君が殺したと言い張っているが、勿論我々は信用していない」

嘘付け。

何故そういうなら、私を彼処に戻したのか。

今なら分かる。警察は彼奴らとつながっているのだ。だから、何もかも、彼奴らの言い分を信じたのだ。

「今のままでも、あの者達を逮捕して起訴することは出来る。 既に関係者は全て逮捕して、証拠集めに家宅捜索をしている状況だ」

「嘘つき」

「以前君の言う事を信用しなかった前任者のことは許して欲しい。 あの時はいろいろな事情があって、どうにもならなかったんだ」

刑事が口惜しそうに顔を歪める。

信用などしない。

「彼らは非常に特殊なコミュニティを作っていてね。 全容解明がようやく出来はじめた所なんだ。 君の証言はとても重要になる。 だから、今度こそ私達を信用して、証言して欲しい」

帰れ。

心中でそう呟く。

警察は、いつの間にか部屋からいなくなっていた。

とにかく、此処からも脱出しなければならない。どうやったら脱出できるだろうか。そうしないと、いずれまた、彼奴らの所に戻されてしまう。

そうなったら、死が確定してしまうのだ。

今は力が出ない。

手足の指は、無事だ。

だけれども、体を動かそうとすると、非常に重いのだ。ひょっとすると、雪の中で死にかけた影響かも知れない。

冷静に分析していく。

逃げ出すなら、力が回復してからだ。

彼奴らが来るまで、どれくらい時間が掛かるだろう。警察が来たと言うことは、もう諦めるべきか。

舌を噛もうか。

しかし、舌を噛んでも、確実に死ねるわけでは無いと知っている。

息を自分で止めても、死ねるわけでは無い。

そうだ。

この管を、どうにか使えないだろうか。

全身白い服の人が入ってきた。

看護師と言うらしい。

何だか知らないけれど。此方を同情するような目で見ていた。

「何処か痛いところは無い?」

「全身」

てきぱきと、なにやら動いていく。

さては此奴も、彼奴らの仲間か。私を連れ戻した後、どんな風になぶり者にするか、調べているという訳か。

触るな。

そう叫びたかったけれど、そんな余力も無い。

目を閉じて、全てを拒否する。

早く死にたい。

私はそう思った。

 

1、死にたがり

 

私があの悪魔の家から脱出したのは、9歳の時だった。少なくとも、戸籍上は、そうなっていた。

あの家は。

まさに、魔のコミュニティが作り上げた、悪夢の場所だった。

近隣で幅を利かせる男がいた。

その男が、巧みに周囲の人間を取り込んで。暴力と恐怖で、従えていった場所。後から聞くと、あの家も、そもそも男の持ち物では無くて、他の人間から略奪したものであったらしい。

しかもややこしいことに、実際の黒幕は、その母親。もう腰が曲がっていながら、凶暴極まりない老婆だったそうだ。

少なくとも二十人以上が関わった事件。

自分にとって邪魔な者は殺す場所としても、あの家は機能していた。

私の両親もそう。

ちなみに私の両親は。

死刑になったあの男の、弟と、その妻だった。黒幕の腐れ婆がどうなったかは、よく知らない。少なくとも私の所に、情報は降りてきていなかった。

結局遠縁に引き取られた私は、中学生になった今も、周囲とはなじめずにいる。

「はい、それでは淡石さん、これを解いてください」

無言で立ち上がると、黒板に向かう。

書かれている数式をさらさらと解くと、周囲の生徒達から、どよめきの声が上がった。確かこの数式、今日の授業が初出だ。

だが、教科書の予習くらいはしているし、そう難しい内容でも無い。

先生は無邪気な人で、良く出来ましたと褒めてくれたけれど。笑顔を作ってみせるのが、苦痛だった。

休み時間。

読むのは、早く独立するための本。

高校は出来るだけ行きたくない。一人で生活するために何が必要か。私は今から、徹底的に調べ込んでいた。

「ねえねえ、綾子ー」

クラスメイト達が話しかけてくる。

私は何というか、かなり男っぽいらしくて。女子達から、妙に人気がある。男子からはそっぽを向かれているので、何だか妙な話だ。

もっとも。

その全てを、私は信用していない。

裏で何を考えているか、わかったものではないからだ。

それに、あの化け物が死刑になったというのも疑わしい。本当に死刑になったのか。警察が逃がしたのでは無いのか。

関係者は今でも全員が檻の中。

地元の暴力団も、あの事件でかなりの連座をして逮捕者を出したという。父母が作らされていた覚醒剤や麻薬で、相当の利益を上げていたらしいからだ。噂だけれど、密輸をするよりも遙かに儲かっていたのだとか。

私も無自覚のまま、製造に荷担させられていた。

もっとも、その覚醒剤やら麻薬やらを押収したというのが本当かどうかは、私にはよく分からないが。

「どうしたの」

「此処、分からないんだけど、教えてくれる」

「いいよ」

言われるまま、教えていく。

本当に分かっているのか、良く判断できないけれど。ただ、私が教えていると、嬉しそうにする。

これも、そぶりではないのか。

軽く教えた後、次の授業。

よく分からないけれど。私は頭が良い方だと、自分では思っていない。もし良ければ、両親を救えたはずだからだ。

あの悪夢の屋敷から、自分しか逃げられなかった。

その後は良い手も思いつけず、死ぬ事しか考えられなかった。こんな奴が、頭が良いと言えるのか。

クズなりに、一人で静かに生きていたい。

それが私の、今の願いだ。

「淡石ー」

古文の授業で、教師に言われて。そのまま読み上げる。

何だか知らないけれど。これも教科書を読んでいれば、普通に出来る程度の事だ。周囲が手こずっている意味が分からない。

言われたとおりに読み上げて席に着く。

昼寝していて良いだろうか。いや、将来独立して過ごすには、勉強は少しでも出来た方が良い。

周囲は一切信用できない。

それならば、少しでも武器があった方が良いのだ。

授業が終わる。

隣の席にいる女子生徒が、バスケ部の助っ人に出て欲しいと頼み込んでくる。私は背もそれほど高い方じゃ無い。

だが、近隣中学のバスケ部レギュラーくらいが相手なら、どうにでもなる。

「ね、お願い。 代わりに今度みんなで食事驕るから」

「肉ね」

「いいよ、肉でも何でも」

そういや此奴は、去年も同じクラスだったか。

どうでも良いことだ。私を陥れる可能性がある奴なんて、名前だって覚えなくて良い。うわべだけつきあっていれば、それでいい。

一応顔と形は分かるから、誰という判別は出来る。

それ以上は、私は人間に対して、行おうと思っていなかった。

 

背が低くても、バスケットボールで活躍する方法はある。

たとえばこれが米国のリーグ戦とかだったら、背が低いことは致命的だけれど。私がいるのは、生憎日本の中学。しかもせいぜい小規模な地区大会だ。

バスケットボールはあまりやり込んでいないけれど。

何度かの練習で、コツは掴んでいる。

跳躍して、パスをカット。

そのままドリブルして、マークを外しながらゴール下に滑り込むと、隙を見てボールを放り込む。

頭上を越えるような軌跡で飛んだボールが。

ゴールを揺らすことも無く、吸い込まれた。

これで十五点目。

現在味方が敵の二倍ほど得点している。今が決勝戦だから、もう少しで勝負ありだ。

特に消耗はしていないけれど。

一応、汗を拭った。

「何よ彼奴」

「助っ人らしいわよ」

「信じらんない。 地区大会に出てくるレベルじゃ無いわよ」

相手のチームが、ぶちぶち文句を言っている。

私は知っている。

スポーツは、どうしても才能が努力を凌駕するものだ。勿論あまりにも努力が足りていなければ、天才でも凡人に負ける事はあるだろう。

しかし私の場合は。

幼い頃から、いつ逃げ出すかをずっと考えていたし。

あの悪夢の家から逃げ出した後も、それに変わりは無い。周囲は全て敵。いつ襲われても対応できるように、体は鍛えている。

それは何もバスケットボールに限ったことでは無いが。

スポーツをしていれば成果として発揮される。

軽く休憩を入れた後、試合再開。また一方的な展開になる。

「綾子ー! ロングシュート!」

味方のヤジが五月蠅い。

ただ、心証を良くしておいて、損は無いだろう。人間はいつ裏切るか分からないのだし、コントロール出来るところではしておきたい。

跳躍して、ボールを放る。

入るかは分からなかったけれど。

コートの真ん中より少し自陣よりの場所から投擲したバスケットボールは。すとんとゴールに吸い込まれていた。

喚声が上がる。

更にもう一回。

二度のロングシュート成功が決め手になり、相手は完全にやる気を喪失。相手の監督が、嘆いているのがコートから見えた。

試合終了。

地区大会優勝だ。

バスケ部から、入ってくれないかと頼まれるが、断る。色々と忙しいのだ。ただ、私が忙しそうにしていると言うのは知られているようで、バスケ部もあまりしつこくは食い下がってこなかった。

「見てたよ、綾子ー!」

また、隣の席の奴だ。

見に来ていたのか。わざわざ。

暇な奴である。

「どうやったら、あんなロングシュート、連続で決められるの?」

「練習かな」

「へー!」

素直に感心している様子を装っているが、本当かどうかは知れたものではない。私の欠点を探し出して、貶めようと考えている可能性もある。

人間の本性は、以前嫌と言うほど見た。

大人も子供も信用できない。

だから、一刻も早く、独立しなければならないのだ。

最終的な目標は、無人島で一人で暮らすこと。生活の水準なんて、下げるだけ下げても構わない。

他に人間がいなければ、それでいい。

私にとって、人間は敵だ。今はまだ、周囲にいなければ、生きていけない。だが、本当は、その気配を感じるのも嫌なのだ。

一緒に帰ろうと言われたので、言われるままにする。

どうせ帰り道は同じ方向だ。

それにしても、此奴はいつもどうして、こんなに嬉しそうにしているのだろう。それは何かの呪いか何かなのか。

ただし。今日は違っていた。

他の級友達がいなくなってから。此奴、日俣薫は、不思議な事を言い出す。

「綾子ってさ、どうしていつもつまらなそうにしているの?」

「そう見えるかな?」

「うん。 何だかもったいないなって」

何がもったいないのかは、よく分からない。

私にとって、大事なのは、生きることだけ。そしてそれには、人間は邪魔だ。私の生存を脅かすのは、人間しかいない。

出来れば医者にも行きたくない。

何をされるか分からないからだ。

警察に世話になるのもごめん被る。

彼奴らのせいで、両親は死んだのだ。

ただ一人で、静かに生きて、静かに死にたい。それ以外の願いは無い。

私はおそらく、極端に無欲だが。

それは、思春期に入るまでに、心を全てぶちこわされたから、だろう。ただ、その事については、感謝もしているけれど。

人間に夢を見なくなったことだけは、嬉しい。

「ね、寄り道していかない?」

薫に手を引かれて、アイス屋に入る。

アイスそのものは好きだが、寄り道は好きじゃ無い。もっとも私の場合は、学業成績も良いし。何より通っている学校の規則そのものも緩いから、危険はあまりないが。

しばらくアイスを食べる。

あれだけ走り回ったのに疲れていないのと聞かれたが。あの程度で疲れるような柔な鍛え方はしていない。

病院に入れられていたとき、思ったのだ。

このままではまずいと。

せめて、最悪の場合は自裁出来る程度の体力は付けていないと。死に方さえ選べないのだと。

だから、病院から出て。

遠縁の人間に引き取られてからは。ひたすらに体を鍛えた。それと同時に、いざというときに死ぬ方法についても、徹底的に調べ上げた。

今では、簡単に首を吊る方法や。

あっという間に死ねる毒物の合成方法もそらで頭に叩き込んでいる。最悪の事態の場合は、さっさとこの世から離れるためだ。

難病になったり。

或いは、あの男のような連中に捕まったときには、躊躇無く選ぶつもりである。

「綾子って、アクセサリも殆ど付けてないよね」

「あまり興味が湧かない」

「綺麗なのにもったいない」

「そう?」

綺麗というのは、あまり実感が無い。

というよりも、周囲の女子から見て、私は男っぽいと認識されているらしい。化粧っ気が無い上に、とにかく飾らないからだ。色気という概念を、多分何処かに置き忘れてきたのだろうとさえ、思っている。

まあ、それも当然か。

あの環境で暮らして、私がまともに育つはずも無い。それに何より、男の気を引くようなことをして、利益があるとは思えない。

私は。

自分が異常だと言うことは、認識できている。

多分子供を作っても育てられないだろうし。私を愛する存在が仮にいたとしても、応えることは出来ない。

そう言う存在なのだ。私は。

だから、飾ろうとも思わないし。

周囲に合わせようとも考えない。

おかしいのは自分でも分かっている。

それでも、私は、周囲を信用できない。今目の前にいる此奴だって、適当に話を合わせているだけだ。

他にもいろいろな話をした後、帰ることにする。

多分手応えは無かったと分かっているのだろうに。薫は手を振ると、そのまま帰って行った。

また明日、学校で。

そう言われても、面倒なだけだ。

 

家に着くと、既に周囲は真っ暗だった。

自衛手段くらいは有している。幾つかの通販グッズで、実効がある事も試していた。

家に着くと、犬が出迎えてくれた。

この家の里親が買っている雑種で、真っ白い見かけ通り、シロと名前を付けられている。何のひねりも無いけれど、それでいい。犬の名前なんて凝ったって仕方が無いから、である。

シロは私が帰ってくると、尻尾を振って嬉しそうに飛びついてくる。

ただ此奴、最初中型犬かと思ったのだけれど。どんどん大きくなって、1年もしたころには充分すぎる巨体に成長していた。

体重は五十キロ近い。

飛びついてくると、地面に倒されかねないほどのパワーである。

大型犬が本気になると人間では叶わないという事は知っているけれど。此奴はその見本だろう。

適当にシロとじゃれた後、家に。

里親はどちらも普通のサラリーマンで。一応、今のところ、関係は上手く行っている。ただ、それは一線を引いて対応することに成功している、と言う意味である。

どちらも、互いを信頼していない。

そう言う関係では無いかと、私は考えていた。

夕食くらいは作る。里親は料理を殆ど作らなくて、昔は買い置きばかり食べていた。露骨に体調が悪くなるのを感じたので、自炊を覚えたのだ。

もっとも、私を毒殺するのが目的だったのかも知れない。

買い置きを食べさせて体調を崩して。そして早い内に殺す。確かに、完全犯罪が成立する。

里親はまだ二人とも帰っていない。

適当に食事を済ませると、自室に引っ込む。

以前誰かが使っていたらしい部屋はとても冷え冷えとしていて。膝を抱えて座り込むと、ぼんやりとする。

適当に休んだ後、少しずつ頭を動かす。

この環境は、考え事をするには、丁度良かった。

夜半過ぎに、里親が帰ってきた。

部屋のロックを確認する。このロックは市販品に、自分なりに工夫を凝らしたものだ。余程のことが無い限り突破はされない。

おもむろに取り出したのは、大型のナイフ。

手首なんかじゃ生やさしい。

いざというときには、頸動脈を切る。

そのために準備しているのだ。

もっとも、場合によっては、死体を陵辱されるかも知れない。いっそのこと、焼身自殺が良いかも知れないと、私は思っていた。

幸い、里親が、部屋に侵入してくることは無かった。

今日も殺される可能性は無い。そう思うと、不思議な虚無感が体を包む。どうして生きているのだろう。

それはあそこから脱出に成功して。

今の今まで、ずっと自分に問い続けてきたことだ。

両親は無惨に殺されたのに。

あの狂気の館を生き延びた私は、何のために此処にいるのだろう。そして、これからどうすればいいのだろう。

膝を抱えて、静かにしていると落ち着く。

ただ一人でいるときだけが。

私にとって、安らぎを作ってくれる。

早く死んで、さらなる孤独の世界に行きたい。私の願いは、いつもそれ。しかしサンタも神様も。

私の願いを、かなえてくれる様子は無かった。

 

2、マストダイ

 

家庭科の授業は、中学だからまだ存在している。

私がてきぱきと料理を作っていくのを見て、同じ班の女子が喜ぶ。これなら、美味しいのが食べられそうだ、と。

おかしな話だ。

此奴らは殺される畏れが一切無くて。そして死にたいとも思わないのだろう。

つまり、生を謳歌している者達。

そんな連中が、快楽の究極である食事に何故凝らないのか。料理なんて、練習がこれほど物を言うものはない。

薫も同じ班にいるけれど。

あまり熟練度は高いとは言えない。

てきぱきと料理を済ませて、盛りつけまで完成。教師に評価して貰う。充分な出来だと褒めて貰った。

「下ごしらえも味付けも完璧。 貴方、家で料理しているの?」

「両親とも忙しいので」

「まあ、立派ね」

年配の家庭科教師は、目を細めて自分の事のように喜ぶ。

だがそれも、フリかも知れない。

内心では私の事を殺す機会を、今か今かと疑っているのかも知れないのだ。人間とは、そう言う存在では無いか。

だが、殺されてなんてやらない。

殺されるのは、あくまで自分にだけ。

それ以外に、自分を好きになんてさせるものか。

皆で、料理を試食する。

美味しい美味しいと皆が食べてくれるけれど。嬉しいだとか良かっただとかは、微塵も感じない。

其処にあるのは。

ただ犬の食事を見る飼い主の気分だけだ。

「食べないの?」

薫に言われたので、席について、少し遅れて食事を開始する。

別に美味しく出来たとは思わない。レシピ通りに。なおかつ、いつも通りに作っただけだ。

「ずるいよねー。 勉強も出来るし、スポーツも出来る。 ルックスも上々で、料理までこなせるなんて」

「このチート」

「違うよ。 チートってのは、後から自分が好きなように手を入れて、ズルをすることでしょう?」

薫がフォローをしてくれている。

私はそうではないというのである。むしろ、薫はどういうわけか、私を悲しそうな目で見ているのだった。

理由はよく分からない。

まさか、殺される事を、知っているとでも言うのか。

まあ、私はどんな場所でも油断はしていない。学校だって、生徒を殺そうとしているかも知れない。

小学校の時は、何度も脱走した。

殺されるかと思った事が、その度にあったからだ。

最近は、脱走はしなくなってきたけれど。それでも、いつでも生命の危険にさらされる可能性は考慮している。

場合によっては、死ぬ準備も出来ていた。

家庭科の授業が終わって、教室に戻る。

後は数学と英語。

午後の授業はさほど大変でも無いけれど。どうせ、高校にはいかないつもりなのだ。適当に流す気である。

しかし。

家に帰ってから。里親に、とんでも無い事をいわれた。

「綾子、話がある」

里親の、男の方に呼ばれる。

今日は珍しく、里親が両方とも揃っていた。

「何ですか」

「進路志望を見たが、高校には行かないつもりという事だが」

「一刻も早く独立したいので」

里親が顔を見合わせる。

女の方が、咳払いした。

「綾子、貴方の成績は中学でもトップクラスなの。 このまま中学で終わらせてしまうのはもったいないって、先生から言われていてね」

「授業費用なら心配しなくてもいい。 高校に行きなさい。 出来れば、大学まで行くべきだ」

冗談じゃ無い。

高校なんて、ますます危険な場所じゃ無いか。出来ればそんなところには行きたくない。これ以上集団行動を強制されるのは、ごめん被る。

しかしながら、里親は一歩も引かない。

「お前は昔、大変な目に遭ったけれど。 出来れば、それでも強く生きて欲しい。 高校は最低限出ないと、社会でも苦労することになる。 就職先だって見つからないだろうし、そうなると生活も苦しくなるぞ」

「独立して生きるというのならなおさらよ」

面倒くさい。

そんな事をいわれても、嫌なものは嫌なのだ。

しかし、確かに中卒のままだと、碌な仕事も見つからないと言われると、そうかとしか応えられない。

スポーツのプロ選手になるのなら兎も角。

しかも、そういったプロ選手は、多分相当な実績を上げていないと無理だ。女子で喰っていけるスポーツプロなんて、殆どこの日本にはいない。

生きて行くには、先立つものがいる。

つまり金。

金を得るには、仕事がいる。

つまり学歴。

どちらも、私には備わっていない。

ため息が漏れた。言うことを聞くしか無いのかも知れない。高校を選ぶのは好きにして良いと言われた。

どういうつもりだ。

何処の高校に行こうが、殺す事は容易だとでも言うのか。

解放してくれたのは、九時過ぎ。適当に食事を済ませてから、自室に鍵を掛ける。膝を抱えてぼんやりしていると、言われる事を思い出す。

テレビを見ないのか。

ラジオも聞かないのか。

本も読まないのか。

いずれも、私の習慣には無い。というよりも、音があるとしんどくてならないのだ。静かなのが一番である。

特に人間の声は苦手だ。

テレビのバラエティなんて、私には地獄に等しい。あんないつ襲いかかってくるか分からない生き物が、ギャアギャア騒いでいるだけの、訳が分からない代物なんて。それこそ、怖気が走る。

見たところで中身なんて空っぽ。

そんなものを見て、ストレスをためるなんて。何のための行為なのか。これ以上、私を殺そうとしないでほしい。

何処かで、叫んでいるのが聞こえる。

何かのもめ事かも知れない。

いぶかしんだ犬が吠えている。釣られて、シロも遠吠えをはじめた。犬の声は、さほど気にならない。

飼い犬なんて、所詮大した脅威では無いから。

勿論、襲いかかってきたら、人間では。少なくとも今の私では対処できないけれど。それでも、此処で遠吠えを聞く分には、脅威は感じない。

いつの間にか。

膝を抱えたまま、眠っていた。

ただ、それでいい。私はそもそも、横になって眠るという習慣が無いのだ。膝を抱えて丸くなっているうちに、いつの間にか眠っていることが多い。そうでないと、安心できないのである。

いざというときには、すぐに動けるように。

そうして置いて、場合によっては、手に掛かる前に自裁する。その準備をしていて、ようやく精神の平衡を保てている。

側に包丁があるので、安心。

嫌だけど、今日も。中学校へ行く準備をする。適当に準備を整えていると、すぐに朝食を作る時間だ。

里親は、今日も起きてこない。

もっとも、女の方はどうせ料理も下手だから、どうでもいい。殺されないように隙さえ作らなければ、それでいいのだ。

食事を済ませて。

洗濯も終わらせて。

そして、家を出る。部活に通う生徒達が、時々歩いているのが見える。薫も部活には入っている筈だけれど。

私はそういうのに興味が無かった。

 

昼食で、幸い誰にも声を掛けられなかったので、屋上に。

屋上と言っても、食事に来ている生徒はそれなりにいるので、給水塔の影に引っ込む。此処なら、見つけられる可能性も低い。

なにやら喋りながら食べている連中は結構いる。

そういった連中の声が、此処だと届きにくいというのも、私にとっては嬉しい所だ。

弁当に新鮮みは無い。

当然の話で、これも自分で作っているからだ。はっきり言って美味しいとは思わないけれど。

少なくとも毒殺の畏れは無い。

それで、私には充分だ。

食事を済ませると、目を閉じて、小休止にする。

勿論周囲への警戒は怠らない。

少しでも休息を取ることで、周囲への警戒をよりスムーズにするためだ。授業中でも、周囲に気を張っているから、こうしないと体が保たないのである。

やはり、もっと体力を付けるべきなのだろうか。

知力も、更に付けたい。

何が起きても、対応できるように。

襲われても相手を即時で制圧できるくらいになれば、いちいち自裁を考えなくても良くなるはずだ。

しかし、である。

時々、思いもするのだ。

無人島を買い取るにしても、それにはどれだけの金が必要なのだろうと。

更に生活していくための物資と知識も、相応にいる。

今のうちから、予行演習はしておくべきかも知れない。何かしらの山奥か何かで、自給自足のための練習。

電気を使わない生活も、いきなりやったら多分上手くは行かないはずだ。

そういった場所で生活して行くにも、身を守る術はいる。人間が一番恐ろしいとはいえ、それ以外の猛獣だって危険な事に代わりは無いのだ。

銃器くらいはいるか。

離島となると、おそらく熊の心配はいらない。ただし猪くらいが相手になる事は、想定しないと危険だ。

勿論野犬も群れると大きな脅威になる。

散弾銃も必要になってくるだろう。

動物を捌いて食べる方法も必要になる。

高校には、行かされるかも知れない。

それなら、その3年で、スキルを身につけて置いた方が良いだろう。

目を開く。

そろそろ、昼休みが終わるころだ。教室に戻ると、授業の準備。

「次、小テストじゃん」

「うわちゃー、最悪」

「綾子ー。 何かアドバイスない?」

いきなり話を振られた。小テストといっても、教師の事を考えれば、傾向は大体分かる。教科書を開いて、おそらくこの辺りが出ると教えてやると、何だか随分感謝された。そして、テストでは、予定通りの内容が出た。

もっとも、普段からちまちま勉強しているから、この程度の問題は恐るるに足らないけれど。

周囲の生徒達は、喜んでいた。

ただ、それも見せかけだけの可能性が高い。

早く、今日もこの悪夢の場所から出たい。

私は、そうとばかり願う。

「綾子」

不意に声を掛けられた。声を掛けてきたのは、薫だった。

もう、今日の授業は終わりの筈だ。まさか、また帰り道に拘束するつもりなのだろうか。面倒極まりない。

「ねえ、ちょっと話があるんだけど、いい?」

「良いけど」

「見せて」

いきなり、手首を掴まれた。

私は常に手首にリストバンドをしているのだけれど。それをめくられる。

生憎、リストカット跡は無い。

そんな程度では、中々死ねないことくらいは、私自身がよく分かっているからだ。これでも死ぬ方法については、相当に勉強している。リストカットが中々死に到らない方法だと言う事くらいは、熟知している。

「良かった。 安易なことはしてないんだね」

「どういうつもり」

「いつも綾子が周囲を妙に警戒してるし、心も開いてないから。 家で、酷い事とかされてないよね」

「何を心配しているの」

正直、不可解だ。

此奴らにとって、重要なのは自分の快楽のみのはず。事実、私がいたあの家の連中は、そうだったのだ。

「綾子が周りに壁を作ってるのが心配なの。 何か合ったら相談してよ。 これでもクラスメイトなんだから」

「相応のつきあいはしているはずだけれど」

「だったら、今日私の家に遊びに来て」

「……」

それは絶対に、嫌だ。

他人の家なんかに連れ込まれたら、それこそ何をされるか分からない。明確な拒否を感じ取ったのだろう。

薫は大きくため息をついた。

「私、貴方に何も出来ないよ。 どうしてそんなに警戒するの。 腕力だって頭の良さだって、ずっと綾子の方が上でしょ?」

「不意を突けばどうにでもなる」

「不意なんてつかないよ」

周囲の生徒が、だんだんヒートアップしていく薫をちらちら見ている。

まさかとは思うが。

此奴がこうやって気を引いて置いて。不意を突いて私を刺し殺すつもりか。考えられる事だ。

腰を浮かせかけた私に、薫が食ってかかってくる。

「まだ話は」

「今度の機会に」

少なくとも、此処はあまり良い場所ではないと、私は判断した。このまま此処で話していても、きっと碌な事にならない。

さっさと教室を出る。

慌てた様子で、薫がついてきた。

私を殺すには、機を逸したはずだ。どうしてまだ話を続けようとするのか。それとも、家まで突き止めて、殺しに来る気なのか。

「せめて寄り道にはつきあって」

「どうして。 私に何をするつもりなの」

「何もしない!」

薫が叫ぶが、信じられない。

しばらくにらみ合う。此処まで執拗に迫ってくるという事は、要するに私を本気で殺したいという事か。

周囲を警戒。

完全に私は、戦闘態勢に入っていた。

どうやったら逃げられるか。

場合によっては、自裁も考えなければならないだろう。少なくとも、目の前で気を引いている此奴さえどうにか出来れば、突破出来る可能性だって高い。

「仲間は何人隠れているの」

「どうしてそう言うことをいうの? 私、綾子に今まで、何か危害を加えるようなこと、した?」

「いつも危害を加えようと、隙をうかがっていたように思えたけれど」

「馬鹿! 知らない!」

びんたしようとした薫だけれど。

平手は空を切った。その程度の攻撃なら、余裕を持って見切れる。

しかし、薫は勢い余って転ぶことも無く、走り去ってしまう。隙が無いから殺すのは無理だと判断したのか。

周囲が騒いでいるのが分かる。

この様子だと、皆で寄って集ってなぶり殺しにする計画が、第一段階から躓いたという事か。

急いで、学校を出た。

家に戻るのは、危ないかも知れない。

逃げ込むなら、今まで目をつけていた、何カ所かある。少なくとも、夜になってほとぼりが冷めるまでは。

其処で、静かにしていた方が良いだろう。

 

電車で二駅乗り継ぐと、少し寂れた街に出た。

この町の中央部分には、人気が少なめの運動公園がある。此処の一角に、ペントハウスがあるのだ。

キャンプ用などに解放されているのだけれど、この時期は使う人間もいない。

時々来る巡回さえやり過ごせば、隠れるには丁度良い。

前から、時々何かあると、此処に逃げ込んでいた。勿論、ペントハウスに入る際に、警報装置などが作動していないかは、しっかり確認している。

入ると、奥の部屋に。

先客がいないことも、しっかり確認済みだ。

冬では無いから、此処でも充分に雨露はしのげる。

これで、もうあの学校には行けないか。やっぱり彼奴らは、そろって私を殺そうとしていたと見て良い。

どうにか計画が不発に終わったから良いけれど。

次に行ったら、いきなり網か何かをかぶせられて。それでよってたかって襲いかかってくる可能性も否定出来ない。

膝を抱えて、ぼんやりする。

今はただ、一人で。

生を噛みしめたい。

おかしな話である。

ずっと死にたいとばかり思っていたのに。こうして一人で、自分の鼓動を感じていると、生を感じていたいと思う事があるのだから。

携帯の電源は切ってあるから、煩わしい着信音にも心を乱されることは無い。途中巡回が来たので、隠れる。

手慣れているから、平気だ。

見つかるようなドジは踏まない。

気がつくと、何度か眠って。

そして、朝になっていた。

目を擦って、これからどうしようと考える。学校に行くのは論外として。所持金は、さほど多くも無い。

こういうときに、言われたことを思い出す。

高校まで行かないと、仕事がそもそも見つからない。

自立できない。

そうかも知れない。まだ中学生の子供である自分は。生きて死ぬというごく当たり前の事さえ、させて貰えないという事だ。

ぼんやりと、朝靄の街を歩く。

救急車が、側を通り過ぎていった。誰かが死んだのか、或いは怪我をしたのか。

死んだのなら。

せめて楽に死ねたのならいいなあと、私は思う。

腹が減ってきた。

ふと、気付くと。

前に、里親が立っていた。

何故此処が分かった。

「急にいなくなって。 多分此処だろうとは思ったけれど」

「……」

「さあ、帰ろう。 今日は学校、休みにしておいたから」

所詮、無力な子供。

こんなものか。

これから何処に連れて行かれて、何をされるのだろう。だが、殺されるのはごめん被る。

死ぬのは、自分の手でする。

タクシーが停まっていたので、乗せられる。

そして、家に、まっすぐ車は向かった。

家に着くまで、さほど時間は掛からない。

食事を出された。自分が作ったものではないから、不安はあるけれど。一緒のものを里親が食べているから、毒は少なくとも入ってはいないらしい。

適当に食事を済ませる。

「学校で、何かあったのかい」

何も言わない。

以前。最初に、あの悪夢の家から逃げ出したとき。警察には、全部知っている事を話したのに。

全て嘘と決めつけられ。

両親は殺された。

その時のこともある。本当のことを話したところで、何の意味も無いと、私はよく知っていた。

「今日はとにかく休んでいなさい。 学校には、危険は無いから」

「……」

嘘つき。

そう叫びたかった。

事実、あれだけの人数で、殺そうと機会をうかがっていたでは無いか。彼奴らは、私を殺して、陵辱して。

そして肉でも食べる気だったのだ。

 

翌日。

カウンセラーだという人間が来て、少し話をした。学校に行くようにと言われたけれど。あの学校には、正直もう行きたくない。命の危険があるからだ。しかし、それを話しても、理解されるとも思えない。

しつこく行くようにと言われて、私は今度こそ死ぬなと覚悟を決めた。

しかし、里親が、学校まで付き添うという。

カウンセラーも、一緒に来るそうだ。

そうまでして、逃げ道を塞ぎたいか。

護身用のグッズも、取り上げられている。学校で、あのような恐ろしい場所で、丸腰でいろというのか。

どこまで此方の先手を打ってくるつもりなのだろう。

やむを得ない。

首つり用のロープを準備する。

首つりというのは、別に大げさな準備なんて必要ない。その気になれば、ドアのノブにロープを引っかけて、それだけで行える。

生きたい。

だけれど、殺され方を選べないのは、ごめんこうむる。

準備をしていると、いきなり部屋に里親が入ってきた。

「何をしているんだ!」

ロープを取り上げられる。

女の方は泣き出していた。

意味が分からない。私をよってたかって殺そうとして、それで何をしようというのか。ぎゃあぎゃあ騒がれて、たまりかねて言う。

「殺そうというのに、何をおかしな事を」

カウンセラーが、里親を止めた。

私はもう、明日を超えられないことは悟っていた。自裁を止められた以上、もう方法は無い。

舌を噛む程度では、人間は簡単には死ねない。

幼児のころは、そんな方法で死ねると、甘い見積もりを立てていたけれど。実際には、そうはいかないのだ。

私を見張りながら、三人が話す。

精神病院に入れるしかないのか。

しかし彼女は、お二人も知っている通り、極めて悲惨な過去を経験しています。それが理由で、周囲に対する強い不信感を。

このままでは、いつ自殺するかも分からない。

学校に行かせるのは、とにかくしばらくは見送るしか無いでしょう。様子を見てから、判断するべきです。

口々に、奴らは勝手な事をいっている。

何かの暗号か。

私が育ったから、殺して切り刻んで、ハムにでもするつもりか。人肉を加工して店頭に並べていたケースは何度か歴史上あったと聞いている。ロシアなどの事件が有名だけれど。何人か、貧困層の人間を殺して食用にしようと提案した人間も実在した。たとえばガリバー旅行記のスウィフトがその一人だ。

そうか。

此奴らは私を陵辱し尽くしてから殺して。

肉にでもして、売り払う気か。

それには恐怖を与えて、徹底的に蹂躙した後、殺すと言う事なのだろう。言い争っている三人の隙をうかがう。

しかし、この部屋は、窓にも鉄格子を入れられていて、逃げる余地は無い。以前、何度か脱走を企てて、その内鉄格子を入れられたのだ。

「綾子、とにかく落ち着いて。 誰も貴方を傷つけはしないから」

里親の女の方が言うけれど。

信用など、出来るはずもない。

しばらくぼんやりしていると、白衣を着た人が何人か来た。診察されるけれど、されるがままにする。

抵抗する余裕は無い。

相手の数の方が多いし、制圧した所で逃げられる保証も無い。

隙が無いのだ。

荷物は全部取り上げられてしまっているし、これでは本当に一か八か、舌でも噛むしかなさそうだった。

 

3、死の先にあるもの

 

里親が、なにやら説明してくる。

一週間ほど、学校を休んで、様子を見るという。

ああそうかい。

そうとしか、心中で呟くほか無かった。

連れて行かれたのは、真っ白い部屋。とにかく何も無くて、自分を傷つける道具を一切排していると、里親が説明した。

隣の部屋には。

両手をリストカット跡だらけにしている、少し年上の女がいた。その女も、冷たい目で周囲を見ていて。此方には感心を示さなかった。

馬鹿な奴。

リストカットなんかで、簡単に死ねるわけが無いのに。

やるなら横じゃ無くて、血管に沿って縦だ。さらに洗面器にお湯を張って。其処に手をつければ、或いは。

膝を抱えてぼんやりとする。

学校にいる時よりは落ち着く。監視カメラで見られている以外は、周囲に人間がいないからだ。

家畜も、死ぬ前は餌を減らされるという。

加工する前に、何かしらの儀式的なものでも行っているのだろうか。最初はそう思ったのだけれど。

何故か、餌は差し入れてくる。

しかも、体を傷つけないように、柔らかい容器に柔らかい食器。

何がしたいのか、よく分からない。

隣の部屋の女が、叫びながら暴れていた。数人に取り押さえられて、薬を注射されて、それで静かになる。

鎮静剤を入れられたなと、冷静に分析。

ぼんやりと、過ごしていた。

翌日。

隣から、不意に話しかけられた。

隣の女が、余程暇なのか。私に話し相手になって欲しいようなのだ。どうでもいいので、聞き流す。

「私ね、ふられたの。 大好きだった人に。 私は大好きだったのに、あの人は奥さんも子供もいたの」

なるほど。不倫の相手として、好き勝手にされたという事か。相手は最初から、遊ぶつもりだったのだろう。

それに声から判断するに、この女も現実がどういうものか理解できていたはずだ。それなのに、どうして馬鹿な話に乗ったのか。

そして、わかりきっていたのに、傷ついたのか。

なにやら呪詛の言葉が、延々と垂れ流されている。聞くのもあほらしいので、私は壁や床を調べる。

思い切り頭を叩き付けても、砕けそうに無い。

あらゆる事が先回りされて、この部屋は作られているようだった。

私をなぶり殺しにするのが、よほど楽しみらしい。

頭を振って、私は。

ただ嘆く以外に、手を持たなかった。

そうして、更に数日を過ごす。

不意に隣が静かになった。

殺されたのかと思ったのだけれど。覗き込んでみると、どうやら連れて行かれたらしかった。

看護師が数人がかりで、ぐったりした女を引きずっていく。

ひそひそと話す内容が、嫌でも耳に入ってくる。

「殺した相手が見つかったらしいわよ」

「一家全員惨殺か。 確かにろくでなしとその家族とは言え、悲惨だな」

「あの人、責任能力は認められそうなの?」

「さあ、どうだろうな。 警察の聴取でも意味不明のことばっかり喋ってたらしいしなあ、何ともいえないな。 ただ、動機は痴情のもつれで確定だろうな」

そうか、あの女。

数人を殺して、此処に送られてきたのか。

乾いた笑いが漏れてくる。

私はそんな奴と同レベルとみられたあげく、これから殺されるのか。やはり、この世界は私の敵だ。

殺すなら、早く来るが良い。

殺そうとする目の前で。

先に、どうにかして、自分で死んでやる。

お前達の好きなように、させるものか。そう決意すると、私の思考回路は、普段よりずっと素早く稼働し始めた。

どうにかして死ぬ方法を検索する。

幾つか、手を思いつく。

いずれにしても、試すのは殺されそうになった時だ。連中が悔しがる顔が、目に浮かぶようである。

嬲られてなど、やるものか。

そう思って、構える。

しかしそれから更に数日。

結局部屋には、餌を運んでくる奴以外、誰も足を運ぼうとはしなかった。これはどういうことなのだろう。

或いは、じらし作戦か。

確か伝承では、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で戦ったときに、これが用いられたとか言う話だが。

要するに相手の緊張を極限まで高めて、力を発揮できないようにした、という事なのだろう。

もっとも、実際には、宮本武蔵の弟子達がよってたかって佐々木小次郎を殴り殺したという伝承もあるらしい。

何とも言えない。

事実に即した方法で、私を殺すつもりなのかもしれなかった。

散々私を怯えさせた末に、抵抗も出来ないようにして、なぶり殺しにする。要するに料理の下ごしらえをする感覚で、私を此処に閉じ込めているのかも知れない。

実際の時間は良く分からないけれど。

おそらく、閉じ込められてから、十日ほどが経った。

壁際で膝を抱えてぼんやりしていると、不意に部屋に入ってきた。来たかと思って顔を上げる。

里親だった。

「綾子、帰ろう」

手を引かれる。

そのまま、部屋から出された。

里親は両方とも揃っていた。どちらも悲しそうにしているのが、よく分からない。私が隙を見せなかったからだろうか。

隙を見せたら、よってたかって叩き殺すつもりだったのだろう。

それならば、納得がいく。

「別の学校になら、行ってくれるかい?」

「……どこでも同じよ」

「そうか」

一つ、確信できたことがある。

前回もそうだったが、体を鍛えておかないと危ない。周囲をいきなり囲まれる可能性があるからだ。

携帯を渡される。

危ない事があったら、すぐに連絡するように。

そう言われたけれど。どうもぴんと来なかった。

危ない事は毎日いつも起きている。単に、自分が望むタイミングで私を殺すために、監視が必要なのか。

つまり私をこうやってベタベタ監視しているのは。

面白おかしく、私を殺すために。命を独占するためなのか。

可能性はある。

家に着いた。

部屋に入ると、調度は何も変わっていない。

ぼんやりと周囲を見回して、どうしたら良いのだろうと思った。

だが、何もする事が無い。

部屋の中を徹底的に探ってみるが。今の時点では、監視カメラも盗聴器も、ないようだった。

ぼんやりと、携帯からネットにつなぐ。

何か無いだろうか。

だが、所詮はネット。

うわべだけの言葉だけ。私が望む答えなんて、簡単には見つかりそうにもなかった。

 

結局、元の学校に通うことになった。

嫌だったけれど。

私自身は、もうどうして良いか分からない部分があったし。それに、いざというときにはどんな手段をとっても死のうと決めてもいた。

私を襲撃しようとした連中は、当たり前のように、そのままいた。普通に戻ってきた私を見て、遠巻きに何か話している。

どうせ、次はもっと上手にやろうとでも言っているのだろう。

知ったことでは無い。

私は他人を傷つけるのも嫌だ。

これで、きつい性格の人間なら、相手を殺してでも生き延びようと考えるのだろうけれど。

私は、そんな事はしたくない。

授業をぼんやりと受ける。

薫は、その間、何も話しかけてこなかった。

襲撃の機会を、狙っているのだろう。

私自身は、授業の遅れなど気にしていない。この程度の遅れなんて、即座に取り戻す事が出来るし。元々大分先まで勉強していたのだ。

休み時間になった。

教師に、別の教室に連れて行かれる。

その間も、他の生徒達は、何だかおかしなものでも見るような目で、私を見ていた。

「何があったかは詳しくは聞きませんが、出来るだけ一人になる時間を増やすように言われています。 ただし此方でも、貴方だけを特別扱いすることは出来ないので、自分から動くように」

「はあ」

「貴方は成績も良いのだし、大人しくさえしていれば何の苦労もせずに、良い大学まで進めるのに」

教師がそんな事をいう。

だからなんだとしか、言いようが無かった。

帰り道に、携帯を開く。

周囲に纏わり付いてくる奴は一人もいなくなった。だから、心置きなく、こういう行動が出来る。

しかし、これはある意味危険かも知れない。

周囲に近寄らないと見せかけて、いきなり不意を突く可能性も否定出来ないからだ。

だから携帯を開いても、周囲への警戒は怠らない。

駅に着くと、其処でふと思った。

いっそのこと、ホームから飛び降りてしまったらどうだろう。どうせ周囲が皆殺そうとしているのだ。どれだけ警戒していても、いずれ殺される。

それなら、今。

この苦しみに満ちた命を、断ち切ってしまうのは。

しばらく考えた後、止めた。

電車に轢かれると死体がどうなるか、思い出したのだ。

怖じ気づいたのでは無い。

彼奴らに両親がされた事が、フラッシュバックしたのである。呼吸をゆっくりして、気持ちを整える。パニックになってしまったら、終わりだ。

電車に乗り込むと、自宅へ。

ただそれだけの事に、今日どれだけ神経を使っただろう。

家で、回診らしい医師に診察される。

幾つか質問されるけれど。何とも思わなかった。里親はなんでこんな奴をわざわざ呼んだのだろう。

とりあえず、回診は終わった。

自室に引き上げようとすると、医師らしいまだ若い女は、一瞬だけ此方を見た。

妖艶と言って良い美しい女だけれど。

一体何が楽しくて、私みたいなのを診察なんてしているのだろう。そうか、ただ金のためか。

単純な話だった。

自室で、携帯からネットにつなぐ。この里親の家はそこそこ裕福なようなのだけれど。部屋にはPCもない。

私が欲しがらなかったからだ。

最初、PCを買ってくれると言ったのだけれど。

それを理由に体でも求められたらたまらないので、断った。それに、私はそれほど本格的にネットなどやらない。

携帯で充分だ。

ふと、メールに気付く。

薫からだった。

一週間何をしていたのかとか書かれている。お前に殺されたくないから逃げ回っていたと応えても良いけれど。

無視していると。更に続けてメールが来た。

何だか様子がおかしかったけれど、何かあったの。変な噂がたくさん流れていて、みんな心配しているの。

そんな事が書かれていたので、携帯をへし折りたくなった。

さては心理攻撃か。

こうやって追い詰めていって、そして何かしらの隙を作るつもりなのか。

その手には乗らない。

以降、メールは無視することにした。

ふと、気付く。何か面白そうなサイトがある。何でも願いが叶うとか言う都市伝説について記載している。

それによると。

あり得ない筈の場所にある店があって。

そこに入ると、どんな願いも叶うというのだ。

馬鹿馬鹿しい話だが、妙に盛り上がっているのが気になる。それに、その店とやらが。意外に近くにある。

行って見る価値は、あるかも知れない。

ただし、入るには合い言葉のようなものが必要だともある。調べて見ると、妙なことが分かりはじめる。

店に関するネット上の情報は、殆どながもちしないのだとか。

サーバーは潰される。

ホームページは何故か接続不可能になる。

そんな調子で、片っ端から消えていくのだという。

よく分からない話だけれど。

それはひょっとして、本物の、何か得体が知れない力でも働いているのでは無いだろうか。

 

それから数日。

店について、調べて見た。

欲しいものならある。

安全だ。

私にとって、私を傷つけないものが、一番入り用だ。人間は必要ない。周囲に一人だっていらない。

彼奴らは敵だ。

かといって、動物が味方かというと、それも違う。

私は一人で静かにくらしたい。私だけがそこにいればよく、周囲には何一つ必要ない。音も空気も、最終的にいらない。はっきり言って、自分の命でさえ、邪魔だと感じているほどなのだ。

それが叶うならば。

魂の一つや二つ、売ってやる。

私が活動的になったのを見て、里親は安心したようだけれど。違う。これはお前らにもう二度と関わり合いになりたくないからだ。そう言ってやりたい。

しかし、今の時点では、それは悪手だ。

学校でも、私が少し元気が出たとかで、教師達が安心しているようだった。しばらくは勝手に安心させておくのが良いだろう。

なぜだか分からないけれど。

私は、妙にこの店とやらに惹かれるのだ。ひょっとして、本当にあるのかも知れないと、思い始めている。

それに無いなら無いで、それで構わない。

また別の方法を探すだけだ。早く孤独になりたい。それだけが、私の願い。きっとそれは、いずれかなえることも出来る。

そうして、調査を開始してから七日目。

私は、合い言葉らしきものを見つけた。

事前に店は何度か下見している。だから私は、その合い言葉らしきものを持って。まっすぐ、店に向かった。

学校なんかしらない。

ただ、孤独が欲しい。出来れば今すぐ。

だから、学校もさぼった。

何の変哲も無さそうな、新古書店に、昼少し前に到着。思ったより時間が掛かったのは、電車が人身事故を起こしたからだ。それでも結局、ルート通りに電車は動き、東京の外れのこの駅に、私を輸送した。

中に入ると、小柄で元気そうな女の子が、てきぱきと働いている。

平日の昼間に働いているという事は、この外見で社会人なのだろう。世の中には、色々な不思議が満ちている。

一階の本屋には興味が無い。

二階だ。

手に入れた合い言葉によると、此処である事をすれば、三階に入れる。其処で、何でも願いが叶うのだ。

ゲームの棚は、どれも同じに見えた。

番号を確認し、状態をしっかり見る。どうやら、合い言葉に、嘘は無いらしい。

何だかゆるふわ系の、可愛らしい女性の店員がカウンターにいる。雰囲気が柔らかい反面、随分大人っぽくて、体型もグラマラスだ。何を食べたらああなるのか。まあ、私にはどうでも良いことなのだけれど。

「すみません」

「はいはい、何かしら」

「偉大な物理学者をCMに使っていたゲーム機は、何処にありますか」

すっと、目を細める女性。

それが、拒否を示すことだと、私は敏感に悟っていた。

「貴方、それを何処で聞いたの」

「ネット上で」

「その合い言葉、間違っているわ。 可哀想に、担がれたのね」

そんな。

でも、アレは確かに。

しかし、考えて見れば、ネットでの情報だ。嘘である可能性はあったのだ。どうして検証しなかったのか。

肩を落とす私に、女性は周囲を見回してから言う。

「でも貴方、店に入る条件は満たしているようね。 仕方が無い。 今回は特別措置として、入れてあげる」

顔を上げると、指さされる。

その先にあるのは、トイレだ。

その中に入って、三分待てと言うのである。何だかよく分からないけれど、命拾いしたのかも知れない。

トイレに入って、しばし待つ。

ぼんやりしていると。

何か、かちりと音がした気がした。

腕時計を見ると、確かに数分経過している。そろそろ良い頃合いだろう。戸を開けると、其処は。

先までとはまるで様変わりした、異常な世界だった。

ずらりと並んだ棚。

床は何か分からない木材。

天井は高く、まるでどこかの宮殿のよう。

棚には、古今東西のあらゆるものが入れられているようだった。中でも興味を引いたのは、刀剣の類。

鎧兜もある。

棚はとにかくたくさんあって、その殆どに、何かしらの不思議な品が入れられていた。古いものだけではない。

中には最新のものらしいIT機器や、用途が分からないものもたくさん存在していた。

自分の生存以外に興味が無い私だけれど。

この空間は凄い。

博物館何かより、よほど様々な不思議に満ちている。此処なら、しばらく過ごすには、良いかもしれない。

周囲をしばし見回していると、いきなり奥の方から、声が飛んできた。

「おい。 いつまでその辺をふらふらしている」

声はかなり若い。

みずみずしい、女の子の声だ。

ただし妙に声は低い。その上、しゃべり方もゆっくりしている。何というか、幼さの中に、老成が同居しているような雰囲気だ。

奥を覗き込んでみると。

口をへの字に結んだ、髪の長い女の子がいる。

髪の毛は真っ黒。しかも床につくほど長い。

その子が。何故かその一角だけは畳になっている場所で、マホガニーか何かの机について座っている。

着ている服も真っ黒なので。

手と顔だけが、闇の中に浮かび上がっているようにさえ見えた。

「此方だ。 早く来い」

命令を聞くのは癪だったけれど。

どうしてだろう。

あの子供が、此処の支配者なのだと、なんと無しに理解できた。だから無言で、其方へ歩く。

しばし見つめ合う。子供は見下ろされても何とも思わないようで、静かな時が流れた。

座るように言われて。いつのまにか側に立っていたメイドが、座布団を用意してくる。言われるまま座ると、黒い子供は鼻を鳴らす。

「ゴモリめ、余計な気を利かせおって」

「ゴモリ?」

「二階の店番だ。 ゴモリにも言われただろうが、本来お前はここに入る資格を満たしてはいたが、ネット上で正しい合い言葉を見つけてはおらん。 だから本当は、入れなくても良かったのだがな」

そうはいうけれど。小首をかしげてしまう。

何を言っているか分からないけれど。そもそも、この子供は、一体何をしたいのだろうか。

この店には、どうしても来たいと思っていたのに。実際に来てみた今は、そんな気持ちは消え失せて。

不思議と、興味がわき始めていた。

興味なんて今まで、何にもわいたことが無かったのに。

「それで、お前はこの店に、何を欲しに来た」

「お前じゃ無くて、淡石綾子」

「そうか。 私はアガレスだ」

アガレスか。

何だかゲームか何かに出てきそうな名前だ。だけれど、正直な話どうでもいい。

今興味があるのは、此処で何が手に入れられるか。そして、私は孤独に、このまま生きられるかだ。

「此処では、対価と引き替えに、願いを叶えられるかも知れない品を渡している」

「本当でしょうね」

「今から、見せてやろう」

不意に、額に指を突きつけられる。

そして、私の意識は、闇に沈んだ。

 

アガレスが珍しく青ざめているので、アモンは小首をかしげる。

今まで、散々邪悪な人間の闇を喰らってきた筈なのに。一体どのようなものを見たのだろう。

背中をさすってやると。

アガレスは何度かげっぷをした。

「これは、何とも言いようが無いな」

「何を見たのですか」

「地獄だ。 この世に顕現した、文字通り地獄の宴よ。 途上国でもこれほど邪悪な連続殺人は、そうそう起こらぬだろう」

アガレスは、そう断言した。

この眠っている淡石綾子という娘は、ある地方都市で起きた、連続殺人事件に巻き込まれたのだという。

其処では、地方の閉鎖的なコミュニティを利用して。ある非常に大規模で邪悪な事件が起きたのだ。

「6年前に起きた事件だ。 xx市の」

「ああ、あの生き残りですか」

私も人間世界のニュースは目を通すようにしているので、知っている。

ある老婆とその息子が、周辺の人間を支配して君臨し、暴虐を振るったのだ。飴と鞭を巧みに使い分け、血縁の無い人間も養子として取り込み、手下にして、暴力と金で周囲を支配したのである。

暴力装置として機能したのは息子の方だが、実際の黒幕は老婆だった。残虐非道な親子は、警察の手が入るまで、あまりにも非道な行いを繰り返した。生半可なカルトよりも、その災禍は大きかった。

部下達には薬物や密売品を扱わせ、膨大な利益をたたき出す一方で。

気に入らない相手は監禁して暴力を加え、死にさえ至らしめた。

そのやり口は極めて冷酷で、なおかつ巧妙。

周囲の人間をことごとく部下にしていたため、警察も思うように証拠が取れず、行方不明者が何名も出ているのに、捜査は難航を極めた。

その中で、綾子は。

両親ともども、その事件に巻き込まれたのである。

確かに血縁はあった。

主犯の男の弟が、綾子の父親だったからだ。しかし、性格は正反対と言っても良く、なおかつこの凶暴極まりない親子にとって、血縁などゴミも同然だった。

気がつくと老婆の手下達が家に入り浸るようになっていた。勝手に合い鍵を造り、家の中のものを持ち出して売り払う。

暴虐の限りを尽くす老婆に抗議しに行った両親は捕まり、酸鼻極まりない暴行を受けた。綾子も、それに巻き込まれた。

綾子はどういうことか、脱走に関して天才的なものを持っていたらしい。

一度逃げ出して。

そして警察に駆け込んだ。

しかし警察は、証拠を掴みきれず。両親の所に綾子を戻してしまった。最悪の大失態であった。

結果、何が起きたか。

両親は老婆の手下達に惨殺され。

綾子はあろうことか、両親を目の前で殺された上に。その肉を食うことを強要されたのである。

「それがお前の餌だよ」

老婆は、暴行を加えられて意識朦朧としている綾子を、そうやってせせら笑った。完全に野獣とかしている老婆の部下達は、げらげら笑いながらその様子を見ていた。

最初は、肉の正体を知らせず。

食べた後に、ばらばらに切り刻まれた両親を見せて。そしてその肉についても教えるという、鬼畜のような手段を執ったらしい。

何故このようなことをしたのか。

老婆が作った小さな帝国の中で、自分の権威を示すため。ただそれだけのために、老婆は合計五人の人間を惨殺し、二十人以上から財産を奪い取った。その内二人は、未だ死体が見つかっていない。

結局、二度目に綾子が脱走し、雪が降る中倒れているのを偶然発見され。

そして、その全身に暴行の跡があったことが決め手になった。

警察が踏み込み、邪悪な帝国はついに終焉を迎えたが。

直後に老婆が心臓発作(実際には、取調中に自死したという噂が根強い)で死んだことで、帝国は文字通り崩壊。手下達はそれぞれ断片的な情報しか知らされておらず、責任を互いになすりつけ合っているため、今でも事件の全容は判明していないという。

主犯格の男は死刑になったが、他の人間は大体無期。周辺を震撼させた恐怖の事件は、未だに完全に解明はしていないのだ。

「人間が言う悪魔の所行というやつだな」

「なんと失礼な」

「ああ。 我らでも、人間には残虐さでとうてい及ばんよ」

あきれ果てた様子でアガレスが言う。

アモンとしては、アガレスがそう言うなら、そうなのだろうとも思う。正直な話、あまりそういうものには興味が無かった。アガレスを守り、強い敵と戦う事が出来れば、それでいいのである。

とにかく、綾子は里親に引き取られたけれど。

当然のことながら、心には凄まじい傷跡が残った。

両親の肉を食わされ。

周囲の人間がみな笑いながらその有様を見ていたのだ。

更に、まだ幼い綾子には、想像を絶する暴行が加えられた。まだ生きているのが、不思議なほどに。

頭を掻くアガレス。

この娘は、完全に壊れてしまっていると、綾子を一瞥して言う。

子供は何かしらの形で、大人になっていく切っ掛けを得るけれど。

致命的な人間不信が重なった結果、まともな観察能力を失っている。絶望的な認識のずれが生じて、それが破滅的な結果につながっているのだ。

「おそらく生涯、他人と良好な関係を作る事は出来ないだろう」

「トラウマが深すぎて、治療は不可能、という事ですか」

「そうだ。 それに、治療は我々の仕事では無いしな」

悪魔の仕事は。

あくまで契約に沿って、願いを叶えること。

娘は当然のことながら、人間もその作り上げた社会も嫌い抜いている。彼女の願いは、孤独。

しばらく悩んだ末に、アガレスは顎をしゃくった。

「あれが良いだろう」

「……なるほど」

アモンが棚の一つに向かう。

頭を抑えながら、綾子が顔を上げたのは、直後のことだった。

過去に起きたことと、直接対面したのだ。

相当に強烈な負荷を受けただろう。そうアガレスは思ったのだけれど。

意外にも、平気な顔をしている。というよりも、むしろ強い苛立ちを感じているようだった。

「これは、貴方の仕業ね」

「そうだが、それがどうかしたか」

「どうして、もう少し両親と一緒にいさせてくれなかったの」

「……ほう」

アモンも話を聞いているが、驚いた。

まさか、そう言う反応が返ってくるとは思わなかったからである。なるほど、周囲の人間を元から一切信用していないからか。

暴虐も暴行も、今更何とも思っていないのだ。

だから、むしろ両親と記憶の中で会う事が出来て。それが幸せになっている、と言うわけだ。

人間の思考回路には驚かされる。

かってのことはもう、おぼろげにしか覚えていないから、なおさらだ。

棚から取り出したのは、今回くれてやる対価。

アガレスは食ってかかる綾子に辟易したのか、アモンを手招きした。

「品はあったか」

「ええ。 此方に」

「聞いているの!? 私は……」

「お前の願いは叶えてやる」

ぴたりと、綾子が黙り込む。

アガレスは大きく嘆息すると、家まで送ってやるようにと、アモンに命じてくるのだった。

確かに、このまま放置するのも、あまり面白い結果を生まないだろう。荷物を配送する手続きを、さっさと済ませる。

アモンが利用しているのは、地元の郵便局だ。

そのすぐ側に、空間の穴をつなげているのである。使う業者はいつも決めているけれど、それ以外に変更は無い。

配送料金は基本サービスしている。

とはいっても、店の売り上げから出しているので、通貨を偽造するような真似はしていない。

そもそもが、店がアガレスの住処と食事と直結したシステムなのだ。

人間世界の通貨などに興味が無いという点では、此処に集った悪魔は皆共通していた。つまり、アガレスのえさ代を払っていると思えば、安いものである。

手続きを済ませて、戻る。

綾子は既に眠らされていた。

ここからがアモンの作業だ。

まず綾子の頭に触れて。一種の催眠をかける。

催眠といっても、人間がやるようないい加減な奴では無くて、もっと強力で、確実なものだ。

脳に直接、ダミーの情報を撃ち込むのだ。

だから、そのまま人間は記憶として、撃ち込まれたダミーを認識する。

作業が終わったので、綾子を担ぐ。

跡は家の側に捨ててくればおしまい。家の位置は、既に掴んでいるから、問題は無い。

「では、行ってきます」

「んー」

「帰ってくる前に、これを片付けて置いてください」

どっさりと積み上げたのは。

壊れかけたエンジンのパーツ。

いずれもが、クラシックカーのものである。どれもこれも、事故で大破したり、或いは価値を理解しない業者がスクラップにしたものばかり。

修理すれば、数億の値に化けるものもある。

人間の世界は無駄の集積だ。

だから、こういった稀少なものが、無為に廃棄される場面が出てきてしまう。全くもって、もったいない話であると、アガレスは憤慨している。

アモンにとって重要なのは、アガレスの餌の確保だけ。

勿論、個人的には廃棄されるものを回収して、修復するのは素晴らしいと思っているけれど。

それはそれだ。

まず第一なのは、アガレスの餌である。

隠蔽の魔術を使って、自分と綾子の姿を隠す。そして担いだまま、店を出た。

綾子は完全に精神が壊れてしまっている。

おそらく、アレを与えたところで、きっと社会復帰は難しいだろう。それでも、主人は契約を果たすことを重視する。

それは悪魔としてのあり方の問題だ。

だから、アモンも作業には手を抜かない。

何より、予想が外れたことは、今までに幾度もあった。

アガレスが正しかったこともあったし。予想もつかない結果になった事も。

故に、アモンは仕事を今日も手を抜かず行う。

綾子を家の側に放置した後、指を鳴らす。催眠を解除したのだ。

自身はそのまま、空間のはざまに消える。

しばらく周囲を見回していた綾子だが。とろんとした目のまま、歩き出す。家の人間が気付いたらしく、すぐに保護しているのが見えた。

見たところ、大変に良心的な里親に見えるのに。

一度心についた傷は、こうも現実的な理解を妨げるのか。

いずれにしても、アモンには関係の無い話だ。戻ってアガレスの顛末を告げると、主君はそうか、とだけ応えていた。

 

4、孤独は此処にある

 

気がつくと、自室にいた。

里親が心配した様子で見ていたので、顔を上げると。正気になったかと言われた。正気か。

そんなもの、最初から私に備わっているのだろうか。

とにかく、学校に連絡を入れなければならないと言って、里親の男の方が部屋を出て行く。

女の方はというと、何か起きたのか。誰かに酷い事をされていないか。そんな事を聞くのだった。

酷い事、か。

私がされた酷い事は、はじめも終わりも、あれしかないように思える。

実の両親の肉を、あの鬼畜共に食わされた事。

そしてその前後で。私の体に加えられたことだ。

警察と精神科医も来て、色々話をされる。精神科医は何か話していたが、良く内容は理解できなかった。

とにかく、翌日からは、学校に出ることになった。

何があったのかは、全て覚えていた。

本物の悪魔にあって。

全てをのぞき見されて。

その時に。

忘れていた、両親との思い出も、強引に頭の奥から引っ張り出された。あれはきっと、悪魔が使った魔法か何かだったのだろう。

彼奴らは、何が目的で、私をいじくり廻したのか。

授業を受けながら、考える。

何となく、分かる。

悪魔と言うくらいだ。それに此方の頭をのぞき見する前に言っていた。対価と引き替えに、願いを叶えると。

恐らくは、あの過去を引きずり出す行動が、対価とやらだったのだ。

体育の授業で、ぼんやりと空を見上げる。

飛んできたボールを、そのまま、視線も向けずにキャッチ。今はソフトボールの試合だが、ツーアウトで今のがフライになった事くらいは理解できている。

「ちょっと、どういうことよ」

「あんなにぼんやりしてるのに、隙なさ過ぎ……」

周囲の生徒達が、文句を垂れているけれど、私には知ったことでは無い。ちなみに今のフライを放ったのはソフト部の生徒だが、随分緩い球だった。

それからも、誰とも口は利かない。

あの事件以降、私に話しかけてくる生徒はいなくなったし、それで良いとも私は思う。教師も周囲との溝がどうのこうのと親と話しているようだけれど。昨日の失踪事件もあって、しばらくは様子見という形で決めているようだ。

問題を起こされるのが嫌だ。

教師達の顔には、そう書いてある。

周囲の生徒達は、もし私が弱ければイジメのターゲットにでもしていただろうけれど。私は生憎、周囲の誰よりスポーツも勉強も出来る。自衛手段くらいは有しているし、イジメのターゲットになどならない。

授業が全て終わった。

帰ろうと準備をしていると、不意に薫が話しかけてきた。

「綾子」

「何?」

真正面から視線がぶつかり合う。

殺そうとした相手に対して、警戒するのは当然だ。薫の方は、しばし口をつぐんでいたけれど。

それでも、思い切って言う。

「一体どうしたの? なんで様子がおかしくなったの?」

「あんたが一番分かっているでしょう?」

「分からないから聞いているのっ!」

しらばっくれた言葉。

鼻を鳴らすと、私は教室から出て行った。何故か後ろで薫が泣いていたようだけれど、私の知ったことでは無い。

自宅に、そのまま戻る。

荷物が届いていた。どうやら、これが対価らしかった。

開いてみると、なにやらキットが出てくる。

あまり大きくない箱の中に、細かい部品がたくさん入れられていた。不思議な事に、説明書を見ても、理解できない。

「綾子、それは何かね」

里親に聞かれるけど、分からないとしか応えようが無い。

とにかく、組み立ててみるしか無いか。

機械的な部品は一つも無い。

あるのは、どれもこれも木のパーツのみ。ただしどのパーツも、とても丁寧に作られていて、芸が細かい。

プラモデルでも組むかのような気分だ。

そのまま、黙々と作業に取り組んでいく。何となく、骨格である部分については、理解できた。

出来るまで、さほど時間は掛からなかった。

完成品を見て、息を呑む。

木彫りの龍だ。

鱗の一枚一枚までが作り上げられていて、まるで今にも動き出しそうな迫力。龍は架空の生物だが、これは違う。

蜥蜴か蛇を元にしているのか、とにかく造形がとんでも無くリアルなのだ。

そして、何より凄いのが、その目である。

虚空をにらむのでは無い。

明らかに、意思を持って、何かを見つめている。

これは。ひょっとすると、宿敵である何かを、にらんでいるのだろうか。虎だろうか。しかし、生半可な虎であったら、この眼光に射すくめられて、すぐに飛んで逃げてしまいそうだ。

凄い。

ただ、その言葉しか出なかった。

里親も完成品を見て、これは凄い品だと言う。確かに、一級の芸術品と言って良いものである。

その上、動かせる。

体が柔軟に組まれていて、かなり自由にポーズを変えられるのだ。長細い蛇のような体型とは言え、良くも此処まで。しかも木で出来ているのだから、本当に凄いとしか言いようが無い。

よく見ると、部品の一つ一つに、ニスのようなものも塗られている。

木が劣化することを、防ぐためのものだろう。その塗り方がとにかく丁寧で、龍の迫力を全く損なわないどころか、私のような素人でも、綺麗にくみ上げられるほどだった。

「これは大事にしなければいけないな」

そういって、すぐに里親は保存用のケースを買ってきた。

誰かえらい人の作品かも知れないと思ったけれど。検索しても、同じような品は出てこない。

むしろ、硝子ケースに入れられた龍を見ていると。

感じるものも多かった。

その力強い目。

問いかけられているようだ。お前は弱者である事を嘆いているが、それで良いのかと。

弱者であるなら、強くなろうと努力をしてみないのか。

説教臭い問いかけでは無い。

力強く、此方を見てくるのだ。そして、ただ引き込まれていく。責められるのでは無い。問われているように思う。

強くなりたいか。

強くなりたい。

そう思うなら、まずは心を鍛えよ。お前は、きっと強くなることが出来る。そうすれば、お前の周りを覆っている霧は、いずれ勝手に晴れてくれるはずだ。そう、龍は言っているように思えた。

蛇も蜥蜴も大嫌いなのに。

どうしてだろう。この龍は、あまりの力強さと迫力で、怖いとも気持ち悪いとも思わない。

とにかく格好いいと思う。

誰にも殺されないように強くなれば、こんなに毎日怯えて過ごさなくても良くなるのだろうか。

そう問いかける。

龍は、その目で。応えてくれる。

何も言わずとも。その目が、答えになっている。

そうか。

なら、私は怯え続ける毎日を過ごすのでは無く。襲ってくる相手がいたら、全部まとめて返り討ちに出来るほど強くなればいい。

何だろう。

そう考えた途端。憑き物が落ちたような気分になった。

 

大学を卒業してから。

私は里親の遺産を引き継いで、山奥に籠もった。最低限の電気だけが通った場所。生活は、自分でこなせるから問題ない。山を下りるのは、麓のコンビニを利用するときだけ。

山小屋に籠もった私は、いつものみを振るう。

そして木から、切り出していくのだ。

ある時は仏像を。

そしてある時は、高級な箸を。

かんざしや櫛、他の工芸品を。頼まれたときに、作っていく。

最初から、こんな仕事があったわけではない。高校のときに、コンクールに送って大賞を貰ったのだ。

それから、この生き方が出来るようになった。

龍に諭された日から。

私は気付くことが出来た。

襲われたら、全部まとめて返り討ちにすれば良いのだと。

だから徹底的に体を鍛えた。

元々運動神経は良かったのだ。頭も悪くは無かった。だから、鍛えていけば、すぐに強くなった。

そして、ある段階で、不意に気付いた。

周囲が殺気を発していないことに。

あのクズ一家によって仕込まれた恐怖が、ただ私の目を曇らせて。周囲の人間が、全て私を殺そうとしていると、思い込ませていたのだと言う事を悟ってからは、早かった。中学ではまだ周囲に警戒を解けなかったけれど。

高校になってからは、普通に接することが出来るようになった。

だが、それで改めて気付かされた。

私は孤独が好きなのだと。

安心したように亡くなった里親の墓は、側にある。毎日線香を供えるのが日課だ。

今日も私は、切り出した木から、工芸品を彫る。高いものは、純利益が十万を超える値がつく事もある。

車が止まる音がした。

山奥だから、車の音は目立つ。

来たのは、薫だ。

中学時代に、色々あっても、私を見捨てなかったのは薫だけだった。だから、大学を出てからは、一緒に組んで仕事をしている。

私が作って、薫が売るのだ。

「おつかれー。 頼んでた櫛、出来た?」

「はい、其処にあるよ」

私は薫の方を見ないで、適当に応えながら、蚤を振るう。

龍が、今でもじっと私を見ている。

だから、手なんて絶対に抜けない。儂が見ている前で、手抜きなど絶対に許さぬ。そう龍は言っている。

何よりも雄弁に、その目が語っているのだ。

この龍には、本当にいろいろな事を教えて貰った。疲れたときは、見ていると、今は休めと言ってくれているような気がする。

悲しいときは、立ち直るまで見ていてくれている。

本物の芸術には魂が宿る。

その魂は、作り手次第。

龍を彫った人は、本当に凄い芸術家だったのだろうと思う。私はこの龍に、救われたのだ。

「まだ、私の目、見てくれないんだね」

「ごめんね」

人間の目は、まだ見たくないのだ。

私の両親を惨殺して、その肉を食わせたあの鬼畜共を、どうしても思い出してしまうから。

あの腐れ婆は、牢内で首をくくったらしい。許せない話だ。死刑になって貰わなければ、犠牲者が浮かばれない。部下共も根こそぎ長期の刑を喰らって牢にいるようだけれど。それで反省するとは、私には思えなかった。

ただ、行って殺してやろうとは思わない。

もし殺しに来た場合は。

その時は原型も残らないほど、無惨に返り討ちにしてやる。今の私には、それが出来るだけの武力が備わっているのである。

山奥で暮らしていても、今の私なら平気だ。

生半可な相手なら、男でも複数でも対処できる。

薫が櫛を調べているようだ。雰囲気から言って、満足してくれているようである。

「ん、良いでき」

「じゃあ、持っていって」

「うん。 十五万くらいにはなると思う。 取引が終わったら、振り込んでおくね」

薫は私に目を見ることを強制しない。

あれから話したのだ。過去に何があったのかを。

それからは。ある程度、理解してくれるようになった。

いずれ私が、人間と普通に接することが出来るようになったとしたら。その最初は、多分薫だろう。

作業が終わったので、山小屋に鍵を掛けて、歩きに出る。

周囲を歩いていると、落ち着く。

この辺りの山には、猪が出る事はあるけれど。熊が出ることは無い。出たとしても、手元に置いている猟銃がある。中には熊用の強烈な弾丸を仕込んであるし、遅れを取ることも今更ない。

山を歩くときには、シロの子孫になる犬たちも連れて行く。

いずれも相応に訓練しているから、例え熊が出たとしても、対処は可能だ。勿論、月の輪熊なら、だが。ヒグマが出たら対処は不可能かもしれない。まあ、この辺りは、サイズ次第だ。

山を歩いていると、落ち着く。

犬たちは人間とは違って、私にコミュニケーションとやらを強要してこないからだ。

山の頂上に出ると、周囲を一望できた。

以前のような恐怖もない。

ただ、美しい景色だなと、そう思う事が出来る。

やっと私は。

此処まで、回復できたのだと思う。

龍がいてくれたからだ。

あの龍が、私が此処に立てるようにしてくれた。

これからも私は、少しずつ進んでいこうと思う。やれることを一つずつやって、最後には全てを乗り越えたい。

いずれ子供も作りたい。

そんな日が来るのだろうか。

龍に頼ってばかりでもいけない。いずれ、龍に誇れる自分になろう。

それが今の私の夢。

孤独の先に、見つけた路だった。

 

(続)