果てに見る山

 

序、先に見える地平

 

この仕事を始めて、後悔したことは何度もある。

狂気は伝染するという噂がある。これは医学上では間違いだけれど、経験的には正しいと知っている。

私は、精神科医。

だからこそ、頭が壊れてしまっている患者には、何度も何度も遭ってきた。改善出来る場合は、確かにある。

しかし、重篤な患者になると。

脳が壊れてしまっていて、もう此方の世界には、戻ってこられない場合が多い。

危険な患者もいる。

中には、拘束衣を付けたまま、診察しなければならないこともある。

精神病院は、監獄では無いけれど。

しかし、起訴は出来ないが、野放しにも出来ない人間が放り込まれることもある。そういった凶暴な野獣に等しい者も。普通に、頭が壊れてしまっているけれど、無害な者も。まとめて面倒を見なければならない場所なのだ。

「はい、次」

屈強な看護師が、患者を連れて出て行く。

今の患者は、薬を投与してしばらく様子見だ。意味不明のことを喚きながら暴れていたけれど、多分興奮した故の結果だろう。度が過ぎて興奮すると、こういう状態に陥ることは、ある。

カルテを見て、確認。

今日は診察では無くて、入院患者の回診だ。だからこそ、余計に大変なのだとも言えるけれど。

この精神病院は、警察と連携していて。

此処の病棟には、捕まったばかりで判断能力の有無を決められない患者や。或いは、完全に頭が壊れていると判断された犯罪者が連れてこられる。

だから看護師はみな屈強で、柔道や空手をやっている者ばかり。

私のように、細い女の医師が来ることは、今までは希だったと聞いている。

此処で、幾度も回診しているけれど。

何度来ても、慣れることは無かった。

続いて連れてこられたのは、細面の青年。かなりの長身で、多分百九十センチ近い。顔立ちは相応に甘いのだけれど、目つきが危険極まりない。

いざというときに備えて、看護師が二人もついていた。

この男は、強盗殺人を4件も繰り返して、その末に逮捕された。死刑かと思われていたのだけれど、脳に大きな腫瘍が見つかり、言動も意味不明だったため、此処に連れてこられたのである。

死刑にするか。

此処に一生閉じ込めるか。

どちらかしかないのだから、あまり代わりはない。

「えー、私の言う事がわかりますか」

「やらせろ」

いきなりドストレートな発言である。

苦笑いすると、順番に質問を繰り返す。看護師達は、微動だにしない。暴れ出したら、患者を即時に押さえ込むつもりで気を張っているから、患者の言う事なんて聞いてさえいない。それで正解だ。

此処に連れてこられる患者の話なんて聞いていたら、正気が幾つあったって、足りやしないのである。

青年は焦点の合わない目で、やらせたら応えるというだけだった。

ため息をつくと、私は連れて行くように合図。

この様子では、何も喋らないだろう。

そもそも、会話をする気が無いタイプだ。

こういう場合には幾つか対処策があるけれど、この場ではそれもない。勿論、要求を聞くのは逆効果である。

最も、それに効果があるとしても。私にはそんな事をするつもりはないし、患者の言う事なんて絶対に聞かないが。

次が連れてこられる。

女性の患者だ。ただし、カルテを見る限り、先以上の凶悪犯である。近場の子供達をさらってきては次々と殺した、連続殺人犯。しかも、その肉を食った形跡さえあるという。現在の鬼子母神として騒ぎになった人物だ。

鬼子母神は子供の守護者として知られる仏教の登場者だが。

その神話は凄惨極まりない。

子供を次々にさらって喰らう恐ろしい鬼女としての本性は、釈迦が教え諭すまでいささか揺らぐこともなかった。

さて、現在の鬼子母神は。

何処にでもいそうな、平凡な女に見えた。

中肉中背。

美人でもない。

体型を見る限り、二人は子供を産んでいると見て良いだろう。目つきも、特に異常者とは思えない。

しかし、である。

会話をして見て、即座にそれが間違いだったと悟らされた。

「ねえ、子供を食べたいのだけれど」

「それはできないかなあ」

「すぐに産んでよ。 食べるから」

「できないねえ」

いきなり、女が凄まじい形相になって、暴れ出す。

二人がかりで、看護師が押さえつけるけれど。とても、小柄な女性とは思えないパワーで、難儀しているようだった。

がちんがちんと、顔の寸前で何度も歯をかみあわせる女。

看護師が必死に床に押さえつける。

意味不明のわめき声を上げながら、引っ張っていかれる女。これはもう、当分は診察どころでは無いだろう。

まるで夜叉のようだった。

完全に人間を止めてしまった怪物的な女は、訳が分からない叫び声を上げながら、引きずられていく。

しばらくは独房で完全に放置。

少し落ち着いたところで、ゆっくりと診察していくしか無い。

非人道的な施設も此処にはあるけれど。

此処に連れてこられる患者の凶暴性と危険さを考えると、それも致し方が無いのである。警察でさえ手を焼くような連中が、ここには来るのだ。

そして、殆どの場合。

更正など、望みようが無い。

ただ犯罪を立証させるためだけに、私は彼らを診察しなければならない。

自身の肩を揉む。

看護師が、ぼそりと言った。

「流石ですね。 あんな狂人達を前にして」

「そうねえ。 身を守る術くらいは持っているから、かな」

私自身は、中国拳法に始まって、幾つかの武術を身につけている。

勿論趣味では無くて、護身用である。

というのも、この業界。そうでもしなければ、危なくてやっていけないのだ。実際暴れる患者を、取り押さえた経験も、何度もある。大柄な男でも、力が強いだけの相手なら、今ではもう怖くない。

次と言うけれど。

どうやら今ので最後だったらしい。

まあ、今回の回診は、様子見だ。最初に診た数人はまともで、話も聞き出せた。彼ら、症状が浅い人間を救うためだけに行うものだと言っても良い。重度の患者については、診察するだけ無駄という連中もいる。警察どころか、親族でさえ匙を投げているような危険人物のオンパレードなのだ。今日連れてこられた何人かは、正にそれだった。

彼らと話して情報を引き出していくのは、これからじっくりやっていかなければならないだろう。

それに、真面目に相対していては、どれだけ正気があっても足りたものではない。

多いのだ。

自身も狂気に足首を掴まれて、泥沼に沈んでいく人間が。

狂気は伝染すると言われる所以である。

精神病にかかってしまう精神科医は、決して少なくない。周りにも、おかしくなった同僚が、何人もいた。

だから、私自身は。

ある程度適当にしか、患者には向き合わないように、心がけていた。

それが高じて、今では患者のことを、完全にモルモットだと思えるようになってきている。

医師として褒められた話では無いことくらい理解できているけれど。

そうでもしないと、狂気に足首を掴まれて、地獄行きが確定なのだから、仕方が無いのである。

医師の仕事は、そういうものだ。

患者をいちいち人間として扱っていたら、精神が保たない。

特に、精神病棟では。

その傾向が、顕著だった。

 

医師の仕事は激務だ。

労働の内容的にも、時間的にも、である。

カルテを片付けて、他の作業も終えると、ようやく帰路につく。あくびをしながら電車に乗る。今日も終電近い。

総合病院の院長辺りになれば、或いは自宅を病院のすぐ側に持つ事も出来るかも知れないけれど。

生憎私は、まだ精神科医になって二年の新米だ。

二十代後半にさしかかってはいるけれど、医師としては本当に下っ端。だから、出来る事も限られている。

それでも、これだけの仕事を任されているのだから、警察にも信頼されているのだとは知っているけれど。

似たような仕事をしている精神科医は複数人いるので、何もオンリーワンの存在では無い。

最初は、警官を目指そうと思った時期もあった。

しかし、親に言われて、医師を目指すことになって。

医師免許を取ったには取ったけれど。

結局此処にいる私は、精神科医としての仕事以外は、出来そうにない。警察と関連した仕事だから、少しはマシなのかもしれないけれど。

だがある意味、本職の警官以上の激務だとも言えた。

電車が止まった。最寄り駅に着いたのだ。

家に向かう。

家についても、何も無い。

夫は一年前に出て行った。元々ろくでなしだったし、正直未練はない。あれでも中学のころからの知り合いだったのだけれど。結婚してみると、表に出てくる本性というものは、あるものだ。

私の貯蓄を使い込むわ、浮気はするわで、最悪極まりなかった。あげくパチンコからどんどんギャンブルにはまり込んでいって、100万以上を一度に競馬につぎ込んで使い込んだことが、離婚の決め手となった。

離婚時、こじれるのはいやだったから、慰謝料を取らないと言って。それで、すぐに別れることには成功した。

子供が出来なかったのは、むしろ幸いだったのかも知れない。

家に着く。

レンジで朝作って置いたご飯を温める。女子だろうが、一人暮らしになると、だんだん生活周りががさつになる。

しかし、お手伝いさんを雇うほどに、お金はない。

もっと売れっ子の精神科医になれば、或いは収入も増えるのかも知れないけれど。今の私には、課長クラスのサラリーマンと同等程度の収入しかないのだ。一人お手伝いさんを雇うとして、給金を払うだけで、余剰金は枯渇してしまう。

シャワーを浴びると、すぐにベットに。

疲れているから、眠るまでは一瞬だ。

そして、起きるのも。

あくびをしながら、顔を洗う。適当に朝食を造りながら、ラジオを付ける。ラジオなんて聞く人間は今時多くは無いけれど。

これは学生時代の名残だ。

天気予報などを聞きながら、出るための準備を整えていくと。

ふと、気になる言葉が聞こえてきた。

「逃走中だった古川容疑者が、この度潜伏先のアパートで逮捕されました」

古川というと、聞いたことがある。

確か連続放火魔だ。地元で周囲の家に片っ端から火を付けて廻り、数十件の放火を引き起こした凶悪犯である。

監視カメラの映像から手口が割れたときには、既に逃走済み。

警察が必死に行方を追っていた。

捕まったのなら良いことなのだけれど。多分此奴は、私の所に送り込まれてくるなと、なんと無しに思った。

外れてくれれば良いのだけれど。

悪い事に、この手の勘はほぼ外れない。

写真が出される。

何というか、軽薄そうな青年だ。にやついているところからして、自分が悪いことをしたなんて思ってもいないのだろう。度胸があるのでは無くて、頭のネジが完全に外れているタイプだ。

この手の輩は厄介だ。

一般的な人間とは考えが違うから、そもそも刑罰を適用しても意味がない。

まともな倫理観念を馬鹿にしきっているから、罰を科しても逆恨みするだけ。だから、本当のところは。殺すしかないのかも知れないと、私は思っている。しかし、口に出すつもりはない。

こういった人間を更正させるのが、私達精神科医の仕事でもある。

しかし、実際問題。

重度に精神を病んだ人間は、更正の可能性がまず無い。

精神の病気は、肉体の病気と同程度か、それ以上に重篤なことが多いのだ。一度むしばまれると、並大抵のことでは癒えない。

人間の脳は、複雑な分極めてデリケートだ。

昔はロボトミー手術なんて乱暴なやり方が流行った時期もあったけれど。今はその方法も否定されている。

しかし、私は。

昔のやり方を、本職であるにも関わらず、否定出来ない。

最近は、あきらめを感じ始めているのだ。

人間は、どうしようとも更正しない生物では無いかと。

病院に出る。

診察で、午前中は潰れた。何十人か患者を捌く。殆どの患者は、不眠症か、鬱病である。

特に鬱病は、ここのところ爆発的に増えている。

精神科医の私がいうのも何だが、鬱は見かけより遙かに厄介な病気だ。現代社会のストレスフルな状況下で、この病を発するのは無理もない。特に我慢強いこの国の人間は、余計に鬱によって精神に致命打を浴びやすい。

これ以上の状況になると、異常行動が目立つようになり、発狂してしまうこともある。

軽度の鬱であれば、対処法はいくらでもある。

それでも、放置していると、危険な事が多い。

幸い、今日は新規の患者も含めて、それほど危険な者は来なかった。

肩を自分で揉みながら、休憩に入ると告げる。

その時、気付いた。

周囲に、人の気配がないことに。

すぐ側に立っているのは、誰だ。慌ててデスクの席から振り仰ぐと、そこにいたのは。長身の女。

しかも何を考えているのか、メイドルックである。

一目で分かったが、かなり凝った、実用的なメイド服だ。これはおそらく、ファッションで着ているものではないだろう。

本職なのだ。しかし、こんなメイド服を着て仕事をしているなんて。一体何処の使用人だろう。

「何よ、あんた」

「月島駈(つきしまかるな)様ですね」

「だったら、何」

「私の名はアモン。 少しばかり、診察をしていただきたいと思いまして」

女は笑顔を崩さない。

しかし、私は女の異常性に、すぐ気付いていた。この女、感情らしいものが、まるで見えないのである。

本当に人間なのだろうか。

笑顔を浮かべているのに、それは完全に仮面。笑顔の裏にあるのは、アルカイックスマイルなどという生やさしいものではない。

虚無も良い所だ。

凍り付いた私に、女が手を伸ばす。

そして、襟首を掴むと。

何処とも分からない場所に、拉致したのだった。

 

1、鬼の霍乱

 

眠くて仕方が無い。

アガレスはここのところ、かってないほどの強烈な睡魔の誘惑に、毎日耐えなければならなかった。

どうしてなのかはよく分からない。

少し前に、自分にとって、存在意義を否定するような事をしてしまった。それについては、もはやどうしようもない。

しかしアガレスは悪魔なのだ。

悪魔は、世の理に反逆する存在。だから、今までも様々な無茶をして来たし。これからもしなければならない。

人間の闇を喰らって生きるが故に。

天使や神などより、余程人間に近しい存在。

おそらく、この世でもっとも人間に近いもの。それこそが、悪魔であると、アガレスは自負している。

しかし。

どうしてなのだろう。人間の闇も、あまり美味しいと感じない。

側で、猪塚が心配そうに見下ろしている。

「やっぱり、おかしいね」

「そうだな。 私も、此処まで眠いのは、初めてだ」

「横になる?」

「アモンに、殴られるのは、嫌だ」

とはいっても。

猪塚に好きなようにされてしまう。敷かれた布団に入れられて、側に座られた。

猪塚が見せてくれたのは。

紛争地で行われたという、鬼畜の所行のリスト。人間は、簡単に人間ではなくなるという、良い証拠だ。

「これは、凄まじい」

「少しは元気出た?」

「私の好みでは無い。 私は人間の闇が好みだが、闇を産み出す人間そのものが死ぬ戦争は、あまり好きでは無い」

「その辺りは、アモンさんと真逆だね」

そうだなと、呟いた。

確かにアモンは、アガレスとは違って非常に好戦的だ。奴がたまに、極めて強引なやり口で、アガレスの餌を捕らえてくることも、よく分かっている。

それに、本気で強い相手とは、戦いたいと常に願っていることも。まあ、それはアモンの悪魔としての存在と。

何より、出自そのものが、大きな影響を与えているのだろう。

しかしながら、アガレスは戦いを好まない。悪魔と言っても、いろいろな考え方をする者がいるのだ。

戦いは破壊を産む。

こういうのもおかしいかも知れないけれど。アガレスにとって、いろいろなものを産み出していく人間は、好ましい存在なのだ。だから、無為に人間が死んでいく戦争は、アガレスの好むところでは無い。

げっぷをした。

別に食事をしたわけでもないのに。

眠いときに、止まらなくなるのだ。

「ゴモリさんを連れてくるね」

「ん−」

好きなようにしろと、いう余裕も無かった。

しばらくして、猪塚がゴモリを連れてくる。此奴とは、アモンほどでは無いけれど、腐れ縁が長く続いている。

ダンタリアンがいれば、少しは楽だったかも知れないけれど。

彼奴はつまみ食いする相手を探すために、今も彼方此方を放浪中だ。たまにふらっと帰ってくるけれど。それは今では無い。

額にゴモリの冷たい手が触れる。

「熱は無いようですけれど」

「何だかな、わからんのだ。 私も膨大な知識を蓄えてきた魔神の中の魔神。 生半可な病など、すぐに判別がつくはずなのだが」

「病気なの?」

「それも分からん」

こんな事は、初めてだ。

勿論、自己分析の術式は何度も掛けているのだけれど。少なくとも、肉体に異常は無い。もしあるとすれば。

それは精神の方かも知れない。

少し前にも、親と壮絶な確執を抱えていた女に対価をくれてやったけれど。

その時にも、妙に眠気があった。

そして今。

眠気は、我慢できる限界を超えている。

仕方が無い。精神の一部を切り離して、それで話すか。

猪塚に、コレクションの一つを、取ってくるように言う。

西洋式のアンティークドールの一つ。ただし、由来があるものではない。ただ、人型をしているだけの土台。

まだ、魂も籠もっていない、単純な人の形だ。ただし、西洋式だから、相当に大きい。小柄な猪塚だと、抱え上げる程度のサイズはある。

それを、側に持ってきて貰う。

精神の一部を切り離し、人形に写す。

同時に、体の整形も実施。

しばしして、光に包まれた人形が、むくりと動いた。

大きさは私が幼児になったくらい。

見かけも着ている服も同じだ。

「まあ、こんなところだな」

「わお、かあいーね!」

「おっと、駄目よ、篠目ちゃん」

ひょいと、ゴモリが猪塚を引き離す。

この小さい私は、本来の私と違って、壊れると戻らないのだ。元々粗悪な未完成品とはいえ、壊すと、コレクションを失う事になってしまう。アモンに言って直さなければならないのは、骨なのだ。

精神の一部を切り離したので。

本体の方は、それと同時に、文字通り糸が切れたように眠りに落ちた。今まで、かろうじて抵抗していた一部が、どうにか自我を取り戻した形になる。

しばらくは本体には戻れない。

勿論共同して動いてはいるのだけれど。

本体の方を、この緊急時非常退避肉体から、上手く操作できないのだ。

「これは困ったな」

「動くのには問題ないの?」

「機能についてはな。 ただ、これだけ小型化すると、やはり色々と不便が出る」

魔力も落ちる。

魔術の展開能力も。

それに、この状態で死んだらどうなるかは、正直考えたくない。猪塚にも、状況は伝えておく。

不思議な話だ。

悪魔が人間に弱みを話すなんて、まずあり得ないのだけれど。

篠目は納得はしてくれたが。

問題は、この先だ。

アモンが、不意にその場に現れる。いつもいる猪塚は兎も角、ゴモリまで来ているのを見て、アモンは眉をひそめたようだった。

「何があったのです」

「調子が著しく悪いからな。 本体を少し切り離した」

「そう、ですか」

アモンが、眠ったままのアガレスを一瞥する。

この歯切れが悪い様子からして。アモンも、アガレスの調子が悪いことは理解していて、独自に動いていたと見て良いだろう。

「今までこういうことは無かったのだが」

「おそらく、食事の影響では」

「……」

アモンがずばり指摘してくる。

確かに、その通りかも知れない。

 

アガレス達悪魔は、魔神などとも言われるけれど。要するにその存在は、精神生命体だ。人間などの生物が、肉体を基本に活動する生物であるのに対し。悪魔や天使などは、基本的に精神だけで出来ている。

いつから、アガレス達がいるのかは、正直分からない。

ただ、唯一神教でいうような、神が全てを作った、などと言うことは無い。人間が出来てから、神話が育ったように。

魔神も、同じように、人間が後から産み出した存在だ。

悪魔の中にも、人間の一部が肉体を捨て、精神という部位に特化したのが、天使や悪魔。更に言うなら、神であるという説を唱えている者がいる。確か身内だと、ダンタリアンもこの一柱だ。

アガレスはと言うと、何とも判断が出来ないとして、意見は保留している。

というのも、判断材料が少なすぎて、結論を出すには危険すぎると思えるから、である。

「アガレス様は」

「んー」

猪塚が、軽くこの話をすると、小首をかしげた。

此奴は、頭自体は良くないが。しかしその一方で、勘は大変に鋭い。時々、いきなり核心部分を踏み抜いてくることがある。

「どうやって自分が生まれたかは、覚えているの?」

「いや、覚えてはいないな。 何しろ古い古い時代のことだ」

「ええと、ソロモン王、だっけ」

「そうだ」

西暦が始まる、更に古い時代のことだ。

人間の中に、名君とも賢王とも。そして後の時代では、国を没落させた元凶とも言われる存在がいた。

一神教で重要な存在とされる、ソロモン王である。

賢王の名で知られるように、非常に頭が良い王であったとされており、様々な逸話が伝わっている。

そして後の時代の一神教からは考えられない話だが。

彼は多くの悪魔を使役して、自分の役に立てていたというのである。それが、ソロモン王の72柱だ。

伝説の存在。

アガレスは、人間から見れば、そのようなものなのだ。

ソロモン王72柱の魔神では、ベリアルと呼ばれる者が最凶の実力者なのだけれど。

あの者は、しばらく前に、魔界最大の実力者であるサタンと融合してしまい、今では一緒の存在として活動している。

このサタンはルシファーという名も持っているのでややこしい。

もっとも、精神生命体は、複数の名前と姿を持つ事が、別に珍しくもない。魔神だけに限った話では無い。

天使でも、似たような者がいる。

アモンが咳払いする。

「話を進めたいのですが」

「うむ、好きにするといい」

「こう可愛いと、いつも以上に虐めたくなりますね」

「お前、とうとう虐めると言ったな……」

げんなりするアガレス。

だが、アモンは笑顔一つ崩さなかった。

アモンが、映像を造り出す。さっき、話を付けてきたらしい相手が、其処に映り込んでいた。

「誰だ、此奴は」

「人間の精神科医です」

「ふーむ」

精神科医か。

人間は、まだ己の精神というものを、殆ど解析できていない。それがアガレスの、客観的な判断だ。

実際精神学は、ほとんどオカルトの類に足を突っ込んでいる。

確かに薬効のある医療も使ってはいるが。

まだまだ判然としない部分が多く、対処療法を行う以外に路がないのが、事実とも言えるのだ。

だから、精神科医には、おかしな人間も多い。

そういった一部の人間が、メディア露出することがあって。そして、余計に精神科医のイメージが悪くもなる。

「私は、アガレス様が精神的な風邪を引いたと判断しています」

「風邪か」

確かに、この症状は。

人間で言えば、風邪に近いのかも知れない。

しかし、精神科医が何かの役に立つのか。アガレス達精神生命体は、人間よりもずっと大きな精神を持っている。

其処に踏み込むのは。

同族でも、かなり危険なのである。

アモンは平然としている。この様子だと、相手の危険については、殆ど考えていないのか。

ため息が漏れた。

駄目だと言おうと思ったけれど、ゴモリが横から口を入れてくる。

「彼女の安全は、私が確保しましょう」

「おいおい、良いのか」

「私が人間好きなのは、アガレスさんも知っているでしょう?」

「んー」

確かにそうだ。

アモンは、正直興味のある人間以外はどうでも良いという考えだが。ゴモリは違う。彼女が此処にいると、大きな意味があるかも知れない。

少し悩んだ後。

アガレスは、アモンの提案に乗ることにした。

ただし、猪塚は帰らせる。

此処で何が起きるか、保証できないからだ。

 

闇の空間に招かれた医師は、中肉中背の女性だった。

まだ若いから、医師としては新米だろう。現在医療技術は、特級の専門知識がないととてもではないが扱える代物では無い。

ましてや精神科医になってくると、色々難しい問題もあることだろう。

見た目非常に見目麗しい女性ではあるけれど。何というか、飄々とした雰囲気があって、付けている眼鏡は妙にはまっている。

かなり色っぽい体つきで、若干垂れ気味の目も少し厚めの唇も妖艶な雰囲気を作り出しているけれど。

しかし、化粧と眼鏡で、相手を寄せ付けない雰囲気を、しっかり完成させてもいる辺りが面白い。

月島と名乗った女医は。

異様な空間を見回しながら、ちょこんと座った私の前で、腰を落とした。

「で、この子が悪魔と」

「アガレス様です」

「ソロモン王の悪魔だったかしら」

一応、それなりには博識なようだ。アガレスはこの国ではかなり知られている部類に入る悪魔だけれど。

ソロモン王72柱だとベリアルやオセの方が、知名度が高いかも知れない。

此方を馬鹿にして掛からない辺りは、流石にアモンが連れてきただけのことはある。アモンはいつもへらへらしているが、プライドは他一倍強いし、興味が失せると見向きもしなくなる。

アガレスについてきてくれているのは、アモンが面白いと感じているから、という事もあるのだろう。

問診をいろいろとされる。

月島という女は軽くカルテを取っていたけれど。

眠っている方の、私の本体に、興味はあまりないようだった。

「そっちの方を調べる方が大事なのでは無いのか」

「今、意識がある部分の方が興味深いのよ」

「そうなのか」

カルテはドイツ語だ。

これは昔、先進医療を取り入れたとき、その輸入元がドイツだったことが関係している。

今では患者に分かるように、日本語でカルテを書く医師も出てきているけれど。カルテはドイツ語というのは、日本における医療のステータスで、それは精神医療におけるカルテでも変わらない。

その割りに、日本の医療は遅れている。

技術に関しては、核心的なものが次々に作られている。特に薬剤などは、日本のものは高品質だ。

しかし、現場にフィードバックされるのが、とにかく遅いのである。

それらの事情は、アガレスも知っている。

白衣を着ている月島は、どこから取り出したか、聴診器で触診を始めた。

「本当に悪魔なのねえ」

「最初からそう言っている」

「触ってみてよく分かるけれど、反応が人間のものとはまるで違うのよね。 そういえば、小さい方の体は、ベースが人形でしたっけ」

まるで、幼児がオモチャを扱うように。

月島は、私に興味津々の様子だ。側でゴモリが見下ろしているけれど。彼女は糸目になったまま、あまり笑顔を浮かべていない。

ちょっとでも油断すれば、大変なことになりかねないと、判断しているのかも知れなかった。

最悪の場合は、月島をこの空間から、影響が出ないようパージしなければならなくなる。そうなってくると、ゴモリほどの専門家でも、一瞬でかなりの大規模作業をこなさなければならなくなる。

質問をはじめる月島。

これまでの食事について、聞かれる。一つずつ応えていくと、眼鏡を直した。

「凄い記憶力ね。 そうも詳細に覚えているものなの」

「私は記憶を外付けで保管していてな」

「ふうん、なるほど、ね」

何か、掴んだのだろうか。

そういえば。

体を此方に切り離してからと言うもの、殆どあくびが出ない。少し前まで、眠くて仕方が無かったのに。

それも告げると、興味深そうに、カルテに書き加えている。

此奴は、なるほど。アモンが連れてくる訳だ。根っからの医師である。アガレスが悪魔であると言う事をあっさり受け入れ、それを想定内にいれて診察をしているのだから、大したものだ。

もう何回か診察をしたいと言われたので、頷く。

アモンに言って、月島を帰らせた。

少しして、月島を送ったアモンが戻ってくる。笑顔のママだけれど。少し、不満そうだった。

「どうでしたか、あの女は」

「珍しく、不機嫌だな」

「私のアガレス様にべたべたと……」

「ああ、そう言うことか」

アガレスは別に誰のものでもない。アモンが仕えてくれるのはとても嬉しいけれど、それだけは譲れない。

咳払いして、仕事を廻すように指示。

ゴモリも一端帰らせた。

運ばれてきたのは、大量のフロッピーディスクだ。それも3.5インチのものではない。さらに規格が古い、8インチのものである。

8インチのフロッピーは紙袋に入れられていた事が多く、非常に曲がりやすい脆い代物だった。

それでいながら容量は、現在では考えられないほど小さかったのだが。

これが使われた時代では、充分だったのも事実である。

ざっと見て、中身を確認。

力はかなり落ちているけれど、それでも判別は出来た。

「これは、PC用のゲームか」

「ええ、黎明期のゲームですよ」

テレビゲームの原型となったのは、勿論言うまでも無くPC用のゲームだ。最初期のころは、こういった大型のフロッピーディスクや、或いはカセットテープにデータを入れて、PCと連動させていた。

勿論その機能は極めて単純だったのだけれど。

PCが家庭向けゲーム機として、誰でも簡単に扱えるようになるまでは。こういうPCのゲームは、一時代を作ったのである。

今よりも、遙かに狭い層、少ない人間を相手にして、だが。

ざっと調べて見るが、かなりマニアックなゲームもある様子だ。

「どうしたのだ、これは。 かなり貴重な品だぞ」

「コレクターの一人が、少し前に亡くなりましてね。 遺族が価値を理解せずに、二束三文で売り払ったあげく、こうやって壊してしまったものも結構あったんです」

「なるほど、ならば再生してやらねばなるまいて」

3.5インチのフロッピーディスクもある。それも、何十枚も綴りになっているものだ。

これはアダルトゲームか。

手をかざして、情報を吸収してみるが。これは、現在では幻になっているような作品ではないか。

アダルトゲームの会社は、通常の、いわゆるコンシューマーゲームとはかなり事情が異なり、企業寿命も短い。

大手と言われる会社でも簡単に潰れるし、息が長い会社でも、一つや二つの失策で簡単に傾く。

だからこそに、貴重なのだ。

古いアダルトゲームは。

現在では殆ど出回っている品が存在せず、会社自体が消えてしまっているため、幻の作品となっているものは多々ある。

今、アガレスが見つけたのは、その一つだ。

死んだコレクターの遺族は、惜しい事をしたものである。

適切に売れば、これだけのコレクション、十億円はしただろうに。二束三文で買い取った業者は、今頃笑いが止まらないことだろう。

とにかく、フロッピーを修復していく。

アダルトゲームをたしなむことはないけれど。アガレスは、春画の類は好きだ。

というのも、性欲を発散するために作られた品は、人間の業と露骨に向き合っていると感じるからである。

アダルトゲームも同じ事。

様々な人間の業が凝縮され、実に分かり易い。人間という生き物が、どのような存在か。性文化は大いに示している。

だからこそ、アガレスはこの手の物が好きだ。

もっともゲームを悠長にやっている暇は無いから、直接データを取得して、頭の中で反芻してしまうが。

しばらく、黙々と修理を続ける。

アモンが、ケーキを焼いているようだ。甘い香りが、此処まで漂ってきた。

「なあ、アモン」

「どうかしましたか」

「もしも、私が……」

いや、それは止めておこう。

アガレスは、そもそも。食事をするために、この店を続けているのだ。悪魔だって、食事をしなければ飢えるのである。

ため息をつくと、作業に戻る。

雑念を追い払わないと、時間ばかりが掛かりそうだった。

 

2、深淵へ

 

二度目の診察が始まる。

月島は今回も、興味津々に私を診察する。眠っている本体には、興味がさらさら無い様子だった。

話を聞いていると、面白い。

色々と、精神治療の裏側が覗ける。

まず、精神科医は、患者とのコミュニケーションを試みる。これが成立しない相手とは、ひとまず距離を置く。コミュニケーションというのは、相手の言う事を何でもほいほい聞くという、現在型のものではない。

相手との意思疎通を図る、というものだ。

だがそれは、危険も有している。

当然のことだが。

深淵を覗けば。自分も深淵に覗かれるのだ。

月島はゆっくり、私について色々と聞き出してくる。談笑を交えながら、私の内実を量ろうとしているようだった。

おそらく、何処に問題があるのか、割り出そうとしているのだろう。

膨大なコレクションについては、聞いてこない。

これについては、最後の最後に聞くつもりなのか。或いは、最後まで聞かないつもりなのか。

月島の得体が知れない様子からして、私にも何とも判断がつかなかった。

「ふうん、それでその人は」

「与えた刀で成功した。 六十万石の領主に成り上がった」

戦国時代の話では無い。

あくまで日本的な状況に置き換えての内容だ。西洋にいたころ、どうしても良い刀剣が欲しいと言って、私の所を訪れた奴がいたのだ。

そいつにくれてやったのが、名も無き鍛冶士が、命を賭けて作り上げた両刃の長大な剣。

しかし後継には恵まれず、朽ちて放置されていた。

それをアモンが拾ってきて。私が磨き抜いたのだ。

くれてやったその剣は、後にエクスカリバーの伝承を為す一部となった。あくまで、一部だが。

人間の歴史は、その遺伝子と同じく、無駄の塊だ。

淘汰を免れた一部だけが、すぐれた成果を残すのではもったいない。朽ちてしまった中にも、明らかに本流よりも優れているものが、幾つも埋もれている。そういったものを修復し、何かの機会でくれてやるのが、私の楽しみの一つ。

対価としてくれてやるのは、悪魔としての性質だけれど。

楽しみもあるから、実利を兼ねていると言える。

不意に、月島が話を変えてきた。

「貴方が珍しく側にいることを許している猪塚という子、理由はどうしてなのかしら」

「どうしてと言われてもな」

わかりきっている。

特級の例外で、面白いからだ。

本来だったら、人間の社会からはじき出されたような、例外を積み重ねて作り上げられた、才能の鬼。

高い戦闘力を内在しながらも、使い道が無いこの世界。

しかし、それでもたくましく生きている辺りが、私からすれば面白い。

その内向こうが良ければ、似たような立場の夫でも探して、縁結びもしてやりたい所である。

「悪魔的な理屈から言えば、面白いから、よね」

「そうだが」

「でも、実は違うのでは無いのかしら」

アモンが側で眉をひそめた。

多分アモンは、理解できていない。この月島の言っている意味が。単にアガレスを馬鹿にしていると言う風に解釈したか。

ゴモリが咳払いして、アモンがわずかに身じろぎした。

こういうときに。フォローに廻ってくれているゴモリの存在は、実に有り難い。アモンだけなら、月島に手を掛けている場面が、既にあったのだ。咳払いをすると、私は質問に答えていく。

「具体的にどういう意味だ」

「自分を理解してくれる人間として、貴重な存在と感じているとか」

きわどいところに踏み込んでくるものだ。或いはそうかも知れない。散々アモンと一緒に私をいじくり廻すのに。

どこかで不快では無いのは。その辺りが、原因かも知れない。

実際、猪塚は見た目ほど天真爛漫では無い。接客などを見ていると、かなり自分を隠しながら、上手に立ち回っている。

冷やかしてきた客に対しては相応に対処しているし。何度かナンパを受けたときは、その場で相手を追い返してもいた。

経歴から考えても、あり得ない話だ。

彼奴は力に飢えていた。

強者との戦いを望んで、散々危ない橋も渡っていた。そう言う奴が、今ではアガレスと仲良くして、この店でも穏やかに生活しているのだ。編み物もまだ続けていると聞いているし、やはり猪塚は。

私を理解して、また理解も望んでいるのかもしれない。

「そうかも知れんな」

月島がカルテに書き加える。

今日の診察は、此処までだという。頷くと、アモンに月島を送らせる。まだ眠っている本体は、身じろぎ一つしない。

小さくなってしまった体では、作業も上手にこなせないけれど。

それでも、仕事は仕事。

何より、だらだらしていると、その方が体に良くないかも知れない。

「ゴモリ、猪塚は」

「篠目ちゃんなら、下で働いてますよ」

「ここには来ないな」

「アガレスさまを抱き潰すとまずいって、しばらくは来るのを自主的に控えているようです」

なるほど。

あいつなりに、配慮してくれていたのか。確かに猪塚のパワーは、既に人間の領域を大分超えてしまっている。力加減は相当に難しいはずで、今の病んだ私に対しては、特に気を遣わなければならないだろう。

それが、いやなのか。

或いは、私に気を遣わせるのが、いやなのかも知れない。

後は、渡されたジオラマを、黙々と直した。

いわゆるガレージキットとして作られた品で、ロボットが機甲師団と戦う迫力がある作品だ。

埃を被るどころか、博物館の目玉として展示されていた品なのだけれど。

博物館が閉鎖されたときに、壊されてしまって。そのまま、ゴミに出されたという経歴がある。

灰の中からアモンが拾ってきて、此処まで修復したのだ。

ロボットも、有名なアニメシリーズの中で、カルト的な人気がある緑色のもので。雑兵的な存在ではあるのだけれど。同作品を代表するため、ディテールが非常に凝っている。対する機甲師団も、地形を利用したりして良く応戦しており、迫力のある舞台背景が彩りを添えていた。

これだけのものなら、何処の博物館においても恥ずかしくないだろうに。

人間は文化を差別する。

ロボットを題材にしているから、これは芸術では無い。

そう判断して、廃棄した人間が大勢いることが。私には、何処かもの悲しく思えるのだった。

アモンが戻ってきたときに、ジオラマが完成。

空間圧縮しようとしたが、小さくなってしまっているから、上手く行かない。ゴモリに手伝って貰って、ようやく何とかなった。

本格的に力が衰えていることを実感して、悲しくなるけれど。

わかりきったことだ。

だからこそ、アモンも動いてくれているのだ。

棚にジオラマをしまうアモンの後ろに、私は声を掛ける。

「すまんが、少し眠ってもいいか」

「ご自由に」

少し、アモンの答えは、ぶっきらぼうに思えた。

肩をすくめると、ゴモリはまず自分から、この狭い空間から出て行った。

 

夢を見た。

悪魔は夢なんてまず見ない。だから、これは余程のことだ。そもそも夢というのは、記憶を整理するために行うもの。

普段のアガレスには必要ないものだから。そもそも、見ないのである。

それなのに。

天軍と魔界の軍勢が、激しい戦いをしている。

次々に落ちていく両者の戦士達。

天使も悪魔も死なない。ただし、ある存在が、呪いを掛けて復活後に著しく弱体化するようにする方式を取り入れてから、戦いは激しさを増すようになった。

総大将であるルシフェルが、鼻を鳴らす。

側近として側に控えていた私に。六対の翼を持つ大堕天使は、言った。

「アガレスよ」

「如何なさいましたか」

この頃の私は、見かけを自由自在に操作できるようになっていた。

巨大な鰐に跨がった老人という姿で、対外的には活動していたけれど。魔界ではいろいろな姿を使い回した末に。十代後半の人間の女性という姿で落ち着くことにしていた。ただし、私のインナースペースを反映して、だろうか。

当時から等身は低く。

大人っぽさを出そうとしても、滑稽になるばかりだったので。

もう諦めて、マントとローブを羽織り、魔術師っぽい格好をすることで、一応のごまかしとしていた。

こんな容姿だから、周りから侮られたのも事実だけれど。

魔界では実力が何より重視される。

私の魔術師としての手腕を疑う者は誰もいなかったし。故に、魔界王の側近という地位にまで、辿り着いたのだ。

「戦況をどう見る」

「どうもなにも、引くべきかと思います」

無駄極まりない戦いだ。

そもそもが、遭遇戦から始まった。其処で止めておけば良いのに、双方ともに援軍をかき集めて、いつの間にかこんな大軍勢が集結してしまっていたのだ。

何の戦略的な意味も無い。

見たところ、戦いは双方互角だけれど。

それは無駄に、互角の人材を浪費することも意味している。

「貴様、悪魔としての矜恃は無いのか!」

「よせ、ルキフグス」

血の気が多いことで知られる魔界宰相を、ルシフェルはたしなめる。嘆息すると、ルシフェルは立ち上がった。

周囲の悪魔達も、それに倣う。

「撤退せよ」

「しかし、陛下!」

「アガレスの言うとおり、これは無意味な戦いだ。 戦略的な意義も無く、勝っても負けても何ら有利不利は生じない」

角笛が吹き鳴らされ。

味方が撤退を開始した。

敵もそれに合わせて、追撃の構えを見せたけれど。ルシフェル麾下の精鋭が、間に入って。追撃を阻止。

安全圏まで兵を互いに引かせて。

戦いは終わった。

アガレスが嘆息していたのは、ルキフグスをはじめとする主戦派が、明らかに嫌な目で此方を見ていたからだ。

悪魔の中でも、こういった権力争いはある。

人間と何ら変わりは無い。

論理を、理性が押さえ込んでしまう性質を持っている者が、権力の上層にいると、色々と不幸なことが起きる。

結局、それからしばらくして、いろいろな戦いを経た末に。

ルシフェルもルキフグスも。他の多くの悪魔も。

それだけではなくて、敵側の多くの天使も。命を落とし。

そして呪いを掛けられて、復活後も著しく力を落としてしまった。

戦いが続けられる状態では無くなり、和平が成立。

ただし、その時には。

私も、ある戦いで敗れて。全盛期の力は失ってしまっていた。

どうすれば良かったのだろうと、後悔はある。

だから、夢を見たのかも知れない。見るはずが無い夢を。私が参謀として、勝てる戦いで積極的に勝ちに行っていれば。話は違ったのだろうか。いや、それはどうなのだろう。私は元々、参謀としてはさほど優秀では無かったように、当時から思えていた。戦場での活躍は著しくまずかったが、それだけではない。

戦いそのものが、あまり好きでは無かったのだ。

これはあくまで個人的な事だから、他者に押しつけるつもりはないけれど。

ふと、鮮烈に思い出す。

彼奴を。

色王寺を、陥ってしまった地獄から、解放したときのことを。

ソロモン王72柱に属する強力な魔神が、五体がかり。如何に、半神となった色王寺でも、勝てる訳が無い。

だが、最後に。色王寺は、此方を見て、言ったのだ。

恨むぞ。

この世の法則、その全てを。

分かっている。

恨まれて、当然だと言う事は。

目が不意に覚める。

全身に冷や汗を掻いているのが分かった。アモンが冷や汗を拭っていたのだけれど。それには気付かなかった。

咳の類は出ない。

「珍しく、本気で眠っていましたね」

「ああ。 夢を見るほどに、な」

「色王寺の事ですか」

「そうだ……」

色王寺は、法則から外れた結果、もはや人でも無く神でも無く、そればかりか魔でも無い存在になった。

そして今でも、何処とも知れず、世界をさまよっている。

もはや奴は観測者としての存在になったのだ。いずれ力を得ることがあるかも知れないけれど。

それはきっと、今の人類文明が崩壊した、もっと先のことだろう。

地獄ならまだいい。

天国ならなお良いだろう。

今色王寺がいるのは、それらさえ生ぬるい、本当の孤独だ。望みもしないルールに縛らせる事は止めさせた。

出来れば人間に引き戻そうとしたのだ。

しかし、色王寺自身が、拒んだ。そして最後の力を振るって、この世界から離脱したのである。

分からないでも無い。

確かに色王寺からして見れば、この世界は、己の全てをもてあそんだ悪しき敵だ。それならば、世界そのものから離れるのも、納得がいく行動である。

悲しいのは、その先。

もはや色王寺を救える者はいない。例え神であっても、不可能なことなのだ。

本体が眠っているのは、その罪悪感から、だろうか。

「次の診察はいつだったか」

「明後日です」

「そうか……」

まだしばらく寝ているようにと、アモンに言われる。

優しすぎて気味が悪いけれど。

たまにはアモンも優しくしてくれる。それが確認できただけでも、私は嬉しかった。

 

予定通りに、月島が来る。

私は多少調子が良くなっていたので、畳の上で正座して、編み物をしていた。自分用に、マフラーを作ろうと思ったのだ。

月島に、早速幾つか問診される。

応えていくと、途中で、不意に核心に迫った事を聞いてくる。これが一種のテクニックなのだと、私ももう理解できていた。

相手の心に踏み込めるように。

リラックスさせて、其処を突くというわけだ。

「最近、何か大きな事件があったでしょう。 たとえば、誰かの命を奪ったとか」

「……」

アモンが明確な苛立ちを目に閃かせたけれど。

ゴモリが手を引く。

このために、来て貰っているのだ。無礼だの何だのと言って殺してしまっては、何ら意味が無い。

「私のコレクションが悪さをした事があってな。 ある純朴な青年が、どうしようもない地獄へ落ちてしまった」

「へえ……」

「私は、その青年を救えなかった」

眠っている本体を一瞥する月島。

また、当たり障りが無い質問に戻る。しかし、カルテになにやら書き加えているのを、私ははっきり見ていた。

その日は、それ以上特に大きな質問も無く。

アモンに月島を送らせると、後はのんびり過ごすようにと言われた。仕事もしばらくはしない方が良いだろうと。

アモンが、見せてくれる。

まだ修理できていない、コレクションの山を。

「体調が回復したら、これらに取りかかって貰いますからね」

「分かってる」

流石に量が量だ。げんなりしそうになったけれど。しかし、私は悪魔。時間はそれこそ、いくらでもある。

だから気にしなくても良い。

気分転換に外に行こうかと思ったけれど、アモンに駄目と言われた。

考えて見れば、確かに今の私は、極限まで弱体化している。普段だったら、何が相手でも魔術勝負で引けを取る気はしないけれど。今はかなり危ない。

アモンが護衛についても、強力な魔術を操る相手に襲われたら終わりだ。それだけは避けなければならない。

クッキーをアモンが焼いてきてくれたので、しばらく黙々と食べる。

体調は回復しない。

そればかりか、悲しい事ばかりを意識していくので、つらい。色王寺を救えたら、少しは変わるのだろうか。

しかし、アガレスにも思いつかないのだ。

他の誰かが、あの哀れな男を、救う方法を知っているだろうか。

いにしえの神々でも難しいだろう事だ。現在の魔術の極みに達しているアガレスが無理だとすると。

天界随一と言われる魔術の専門家、ガブリエル辺りに話を聞いてみなければならないだろう。

「次の月島の診察は、いつだ」

「少し、時間をおくそうです」

「……ならば、此方でも動くか」

アモンがどうしてだろうか。

また不快そうに、目を一瞬だけ細めていた。

 

3、手のひらの上で

 

アモンは著しく不快だった。

当然である。

アガレスが、月島が言うとおりに、踊らされているのが目に見えていたからだ。

最初の診察の後から、既に月島は。帰り道でアモンに言ったのである。本気で主君を直したいのなら、今から言う事を、絶対に言わないように、と。

「あの子は何かしらの大きなトラウマを、最近抱えたのね。 だから、それを取り除いてやれば、一発で治るわ」

「何故そう思ったのです」

「これでも本職よ。 精神を病んだ患者を、年何人診ていると思っているの」

月島の話によると。

アガレスが悪魔であることは、疑っていないという。

精神は人間の体にも強い影響を与えるけれど。悪魔が精神生命体だというのなら、より大きな影響が出る。

そうやって考えて見れば。

最初から、体調不良の原因は、幾つかに特定できるとも。

見た感じ、恋をするにはあの子は幼すぎる。

肉親が亡くなったとも聞いていない。

それならば、可能性があるのは。

消去法で、自分が大事にしている何かが、砕かれた場合だ。しかも、それはおそらく、信念とも呼ぶべき物だろうと。

確かに、全てがその通りだ。

アガレスは昔から。ルシフェルに聞かされたその成り立ちからして、大人には永遠になりきれない存在だ。

あくまで個、アガレスという存在が、性的に成熟し得ないという意味である。

最初老人の姿を取っていたのも、それが故だ。なり得ない存在に自らを変えることで、精神の安定を保っていたのである。

そして、本人が認識しているかは分からないけれど。どうしても、大人っぽい姿になれないのは。

やはり、精神の奥底にある。その成り立ちが、大いに関係しているのだ。

「とにかく、少しずつ私はトラウマを掘り返していくから。 適当なタイミングで、貴方はその根本的な治療に動いてちょうだい」

「……」

「もう、何がトラウマの原因かなんて、分かっているんでしょう? 悪魔が何をトラウマにするかなんて私には流石に分からないから、最終的には貴方が何とかするのよ」

そして、何回かの診察を経て。

少しずつ、月島は爆弾をむき出しにしていった。

地雷を踏んだのも、意図してのことだろう。

アガレスはやはり、相当に心にダメージを受けたようで。普段だったら絶対に取らない行動を取り。

あろう事か、夢を見るほどだった。

治療のためには仕方が無いとは言え。これほどの苦痛を主君に味あわせるなんて。勿論、アモンは味合わせていいのである。

他人がそうさせていることが、苛立ちを募らせるのだ。

今回も、精神病院に月島を送り届ける。

デスクに戻ると、月島はアモンを見上げた。

「次は回復を確認しに向かうつもりよ」

「ええ、分かっています」

「じゃあ、精々頑張りなさい」

ブチ殺してやりたい。

そう素直に思ったが、もしもの事を考えると、そんな事は出来ない。此奴はアガレスの生命線なのだ。

幾つかのデータを漁って、やっと見つけ出した凄腕。

警察さえ、頼っているほどの存在。

どんなに深い心の闇に閉じこもった犯罪者でも、かならず情報を引き出すという噂の存在だからこそ。アモンも、その一端に辿り着いたのだ。

アガレスの所に戻り。

しばらくして、アガレスはやはり言い出した。

色王寺をどうにかして救うと。

そのためには、有識者の意見がいるとも。

全て、月島の読み通りだ。

不愉快だが、認めざるを得ない。奴が一流のカウンセラーであることは。どれだけ不快でも、それが事実である以上。認めて、その通りに動かなければならない。

まず、アガレスが言うとおり、魔界の有識者を当たる。

魔界でアガレスに次ぐ魔術の使い手というと、バエルだろう。

ソロモン王72柱にも属するこの魔神は、昔中東にて最高の隆盛を誇った神、バアルの一部を要素として受け継いでいるだけあって、極めて博識である。続いてベルゼバブ。此方も同じく、バアルの要素を引き継ぐ、最凶の魔神の一柱だ。ダンタリアンも、引っ張り出した方が良い。

あれも、知識の魔神だ。

この三名については、すぐに声を掛けることに成功。

アモンも、魔界の重鎮の一柱なのである。動けば、これくらいの成果は、すぐに出す事が出来る。

そして、何体かの駐在官を介して。

天界側の有識者にも、声を掛ける必要がある。

これは必要だと分かっていても、癪だ。

アモンは天界に元々深い恨みを抱いている。いわゆる魔神には、一神教由来の存在と、そうで無い者がいる。後者は一神教の思想によって無理矢理堕天使とされたが、実態は元々別の信仰による神だった存在だ。

アガレスやアモンは後者。

つまり、一神教には、魔界に落とされ、悪魔として辱められたという大きな恨みがある。アガレスはどうとも思っていないようだが、アモンにとっては今でも絶対に許せない事なのだ。

だが、アガレスを救うためなら、怒りを押し殺すことは出来る。感情を優先していては、大事はなせない。

長い時間を生きてきたアモンである。

その程度の事は、出来る。

もっとも、アモン自身は、感情の制御が下手だと自己把握している。だから交渉の際には、誰か穏健派の魔神に立ち会って貰うつもりだったが。

魔界にある天界の大使館に出向いて、用件を伝える。

数日で、返答があった。

まずは指名があったガブリエル。

ガブリエルは温厚な性格で、現在天界でもトップクラスの権力者だ。メタトロンやミカエルが勢力を失った今、天界が穏健に傾いているのも、ガブリエルの存在が大きい。

流石にガブリエルも、いきなり魔界に出向くのは危険が大きいという事で、護衛数名を伴って、中立地帯に来ると言う事だった。

それに加えて、何名かの知識が深い天使も、一緒に来てくれるという。

ただし、ノーリスクとは行かない。

天界としても、魔界に借りを作る好機なのである。

魔界側としても、天界に借りを作ることを、よしとしない勢力だっている。動いているのがアモンで、大きなダメージを受けているのがアガレスということで。魔界の上層部は、切り捨てる考えには到っていないけれど。

過激派は、どんな世界にも、いつの時代にもいる。

アガレスの身辺警護には、万全を期さなければならないだろう。

準備が整うまで、四日。

中立地帯として選ばれたのは、日本にある、ある廃寺であった。

此処は10年ほど前に住職がいなくなってから、廃屋と化している。一応持ち主はいるけれど、管理を他人に任せて、後は放置している状態だ。

庭にある墓は、老人が交代で世話をしているようだけれど。

寺の中には、殆ど誰も入ってこない。

後何年かして、世話をする老人がいなくなれば。その内朽ち始めて、管理者が取り壊しをする事だろう。

寺の中にある仏像などの、天使が嫌うものは既によそへ移し済み。

アモンが足を運んだときには。

既にダンタリアンとベルゼバブが来ていた。

ベルゼバブは様々な姿を使い分けることが出来るけれど、今日は髭を蓄えた老人の姿で来ている。手には節くれた杖。握りには、当然のように、骸骨をあしらった宝石が付けられていた。

ダンタリアンはいつも通り、ゴスロリスタイルである。ツインテールにしているのも、いつも通りだ。

バエルが、少し遅れて姿を見せる。

非常に不気味な姿で描かれるバエルであるけれど。元々は、中東での至高神だった存在である。

不気味な姿は一神教が喧伝したもので、本来はとても威厳がある中年男性としての姿を持っている。

今回は、砂漠に君臨した、偉大なる王としての姿で現れていた。

「天使共はまだ来ていないのか」

バエルが荘厳な声で、周囲を見回した。

ベルゼバブが指を鳴らすと、ちゃぶ台と茶が出る。アモンが茶を淹れると、バエルが鼻を鳴らす。

「魔犬よ、お前の主君は」

「知っての通り、弱っていますので。 ガブリエルをはじめとする天界の者達が到着してから、連れてきます」

「左様か」

バエルは、幾多に分かたれたという事もあって。天界をかなり恨んでいる。

ただそれ以上に、長年にわたる戦いで、多くの同胞を失ったと言うこともあるからか。戦いを、これ以上は望んでいない様子である。

魔界で穏健派に属しているのも、それが理由だろう。

ベルゼバブと、軽く話す。

ルシフェルは今回の件について、やむを得ないと言っているようだ。

ベルゼバブもそうだが、魔界の重鎮で戦いの結果力を失った者はかなり多いのである。天界もそれは同じ。

また戦いが起こらないためにも。

バランスを崩すわけにはいかないのだ。

バエルが厳重に、周囲に結界を張り始めたころ、天界の者達が到着。

ガブリエルは温厚そうな女性の姿で顕現。

一説によると、神の愛人であるとさえ言われる超大物天使は。魔界の重鎮達を前にしても、物怖じする様子は無かった。

ガブリエルは何名かの、知識を豊富に持つ天使を連れてきていた。

しかし、これで事態が解決するとは限らない。

元々アガレスは、天界魔界を通して、屈指と言って良いほどの知識を持ち、魔術に関しても随一の使い手なのだ。

軽く話して、状況を互いに確認。

ガブリエルはちゃぶ台につくと。アモンが出した茶を一啜りした。

「少し前に、大きな戦いの反応を検知してはいましたが、そう言うことだったのですね」

「アガレスも少し優しすぎる所がある。 世界の外側にはじき出された存在なんて、今まで枚挙に暇が無かろうに」

「自分の管理不足でそれが起きたというのが、かの方には大きな苦痛なのです」

不満を漏らしたベルゼバブに、アモンがフォロー。

アモン自身も、少し主君はナイーブすぎるとは思っているけれど。それ以上に、主君を救いたいのだ。

まず、色王寺の状態を確認。

流石に魔術の大家が揃っているだけ合って、確認はちょっと座標を示すだけで、すぐに終わった。

世界に対する強い恨みを抱いたまま、かの存在は世界の外側に今漂っている。意識はあるようだけれど、完全に閉じているようだ。

無理もない。

其処は完全なる虚無。

周囲を認識などしていたら、それこそ瞬く間に発狂してしまう。普通の人間は、完全な暗闇に閉じ込められると、数時間しかもたない。それが音も光もない場所に封じられたも同然なのである。

当然の自衛として、周囲から自分を閉ざすしか無い。

しかしそうなると。

循環している世界への敵意は、ますます強大になっていく一方だ。

かって、こうして世界の外側にはじき出された存在が、自力で戻ってきて。そして、大きな禍と化したことが、幾度もある。その場合は、もはや完全に滅ぼすしか手段はない。

色王寺は幸い、世界に復讐を考えるにはまだ到っていないようだが。

それでも、予断は許さないだろう。

救ったところで、どうなっているかは、全く見当がつかないのだ。

「で、当のアガレスは」

「消耗が激しいので、これより連れてまいります」

「うむ……」

ベルゼバブが鷹揚に頷く。

その間、ダンタリアンがガブリエルと、何か話をしていた。

ひょっとするとこの二人、何かしらの因縁があるのかも知れない。アモンが知らない事だけれども。

魔術の儀式が、程なく開始される。

バエルが基礎的な術式を構築。

ガブリエルがそれをフォロー。

ただし、いきなり救出できるわけでは無い。色王寺の状況をこれからより精密に確認して、それからだ。

ひょっとしたら、救出できる手段が見つかるかも知れない。

その程度の事に過ぎない。

しかし消耗しきったアガレスには、今はそれさえ出来ないのだ。

それに、魔術が苦手なアモンも。それを見ていることしか手段が無い。もどかしいと通り越して、苛立ちさえ感じることだった。

ベルゼバブが、展開された術式から、情報を読み取りはじめる。

それをダンタリアンがまとめていく。

意外に良く出来た即席チームだ。

天界側の有識者数名も、それに対して、的確なコメントをしている。これなら、問題は無い。

或いは、希望が見つかるかも知れないと、アモンは思った。

 

4、手を伸ばして

 

切り離した体の方にまで、ダメージが少しずつ出始めている。

アガレスはもはやどうしようもないと判断。

一端、分離した意識を、本体へ戻した。

途端、小さなアガレスは、人形へと戻る。物言わぬ人形を一瞥すると、何度も咳き込みながら、アガレスは立ち上がる。

全身がだるい。

眠気も酷い。

あれほど休ませていたはずなのに。

これは、色王寺の救出が上手く行かなかったら、数十年単位で回復魔術を掛けなければ、本当に消滅するかも知れない。

悪魔にとって死は無い。

天使にとっても。

しかし、消滅まで行くと、再構成まで相当な時間が掛かってしまう。その間は、封印されようが何をされようが、抵抗するすべが無い。

それは、屈辱だ。

アモンに言われるまま、空間を渡って移動。

店の方は、ゴモリとフルレティに任せる。猪塚も働いてくれているから、何ら問題は起きないだろう。

途中、何度も前のめりに倒れかけた。

自分の額に手を当てると、とてつもなく熱くなっている。

熱と言っても、人間が風邪を引いたときに出すものではない。完全なオーバーヒートから来るものだ。

悪魔なのに。

契約を、守る事が出来なかった。

そればかりか、自分のコレクションで、他者に迷惑を掛けてしまった。

ルールを破った。

それ自体が、精神生命体であるアガレスには、致命的な事なのだ。もっとも、此処まで酷いルール破りは、アガレスの長い生でも、初めての事だけれど。

あの月島という女は、これを良くも看破したものだ。

ちょっと形は変わるけれど。

いずれ対価をくれてやらなければならないだろう。悔しい話だが。

精神の問題で、悪魔以上にやれる人間は、あまり多くない。あの女は、天性の勘を備えていると見て良いだろう。

「もう少しです、アガレス様」

「んー」

応じる声にも、我ながら力が無い。

足にも、勿論力が入らなかった。不意に、アガレスがアモンを背負う。抵抗する力も無い。

「もの凄く熱くなっていますね」

「爆発寸前の炉というところだ。 私の中で、ルール違反がそれだけ強烈な負荷になっているのだ」

「大丈夫。 向こうには、多くの有識者が揃っています」

「……そうか」

現地に到着したときには。

アガレスの意識は、途切れがちになっていた。

昔の事が、不意に思い出される。

夢のような美しさを誇る花園で。誰かが前に立っている。手を伸ばすと、くれるのは花で作った冠。

「dfopdhga:mcapdfhpdjさま」

呼びかける。

自分の声なのに。

相手が誰なのか、分からない。

目を開けると、横たえられようとしている所だった。ガブリエルがすぐ側で覗き込んでいる。

慈愛の塊のようなこの女とは、天界と魔界の戦いの間に、何度かやり合った。

自分に匹敵するか、それ以上の魔術の使い手。

だからこそ、意識もしてきた相手だし。こんな姿を見せるのは、とても口惜しい。しかし、アモンだっていやなのを我慢して、此処までお膳立てをしてくれたのだ。

今更、アガレスがだだをこねるわけには行かなかった。

「今、回復を掛けます」

「無用だ……どうせ効かん」

「少しは楽になります」

ガブリエルが、回復の魔術を、アガレスにかけ始める。

強烈な光が、全身にしみこんでくる。

焼けてしまうのでは無いかと不安を感じたけれど。少し、気分が楽になった。何度か呼吸して、息を吐き出す。

少し、目の前がはっきり見えてきた。

実際には、こんなものだ。天使が使う魔術でも、悪魔を回復させることが出来る。今のアガレスは、そのような事も、まともに判断できなくなっていた。

全身が汗みずくなのが分かる。

悪魔は普通、汗など掻かないのに。

アモンが側にいてくれる。

それだけで、随分心が楽になるのが分かる。本当に消耗しきっているのだと悟って、アガレスは悲しくて仕方が無かった。

アガレスが、周囲に術式を展開。

情報の共有をはじめる。

まず色王寺との戦いの経緯について。

その後、どうなったのか。

そして、今の時点で、アガレスには、色王寺を救う手札がないと言う事も。本来は、こういう手札の全公開は、あまり褒められた行動では無い。相手の中には、天使もいるのである。

普段だったら、絶対にとっては行けない行動だけれど。

アモンが、プライドを捨ててまで集めてくれた有識者達なのだ。此方も、相応に対処しなければならない。

「おそらく色王寺とやらを、人間に戻すのは無理だろう」

ベルゼバブが言う。

全くもって、その通りだ。その程度の事は、アガレスだって把握している。

そもそも色王寺は、この世の理から外れてしまった。半神とでも呼ぶべき存在になり、さらに其処からこの世の外側にずれた。

戦いの結果。

色王寺を殺したわけでは無い。

世界から、排除することになったけれど。精神世界の戦いというのは、必ずしも物質世界のそれと同じわけではないのだ。

色王寺は、世界の外側にずれたのであって。

それは、本人も意識しての行動である。

彼はこの世界を恨んでいた。

自分をはじき出し、望まぬ形に変えてしまったこの世界を。

誰一人、色王寺を惜しむ者などいない。

たとえば、本当に色王寺の事を好きだった者が、ただの一人でもいれば。それを切っ掛けにして、彼を人間へと戻す事も可能であったかも知れないけれど。

この世で、色王寺を好きだった人間など。

ただの一人もいなかった。

それが現実なのだ。

「他に方法があるとすれば、いっそ神にしてしまうか」

「半神の段階から、神へとランクを上げると。 しかし彼はこの世界に強い憎しみを抱いています。 大きな禍につながるでしょうね」

バエルの言葉に、ガブリエルが持論を述べる。

ガブリエルの言葉に、アガレスも賛成だ。おそらく、色王寺を神とすることでこの世の理に組み込めば。

彼は戻ってくることが出来るだろう。

だが、戻ってくるのは、破壊の存在としてだ。

もはや掣肘するつもりが無い力を、この世に対して、色王寺は容赦なく振るうだろう。自分の理に基づいて動くのが神だからだ。

そして色王寺の理は、恐らくはもはや秩序の枠を超えて、統制と暴力になっている。

弱き者は屈服させる。

強き者は打ち砕く。

血に飢えた狂鬼が、其処に君臨することになる。それはアガレスとしても、ガブリエルとしても。

勿論魔界としても天界としても、好ましい事では無い。

ダンタリアンが、本を一冊出してくる。

「ええ、みなさん。 此方の書物ですが」

「ふむ、珍しい魔術書だな」

取り出したるそれは、魔術書と言うよりも。何だか原色のカバーがついた、禍々しい代物に見えた。不思議そうにベルゼバブが開いて頷く。

アガレスが手を伸ばして、開いてみる。

それだけでも、膨大な労力をつぎ込まなければならなかった。

思わず噴き出す。

これは、非常に過激な、いわゆるBLと呼ばれるジャンルの同人誌である。

ガブリエルは平然としている。

「姦淫を絵で示した魔術書ですか?」

「そうじゃない。 そうじゃなくてだな」

「何だ、これを知っているのか」

「……ダンタリアン!」

怪訝そうにするベルゼバブにたまりかねて、思わず咳き込む。バエルはと言うと、中身を一瞥して、なかなかの絵だと感心していた。ダンタリアンは咳払いすると、こんなものを取り出した意図を告げてくる。

「はじき出されたのなら、もう一段階はじき出してしまうのはどうでしょう」

「何!?」

「皆さんの意見を総合すると、干渉自体は出来る。 しかし戻ってくると面倒くさい事になる。 それならば、別の世界で満足していただくというのは。 ああ、勿論そのBL本は、あくまでもこういう価値観もある、という事で出しています」

にやにやしているダンタリアンに、嘘をつくなと心中で呟くけれど。

しかし、他の者達は、皆納得している。

もう一段階、はじき出すか。

だがそれは、どうすれば良いのだろう。新しい理を示して、遠い別の世界に送り込んで無害化する。

それ自体は、色王寺とアガレス以外にとっては良い。

しかし、色王寺とアガレスにとっては。強制的な行動は、逆効果だ。別の世界に出た色王寺が、更にこの世を恨むようなことにでもなったら、本末転倒だろう。何か、良い道を示せるのだろうか。

力が貴ばれる世界は。

しかし、色王寺自身が、力を振るうことを、決して好んでいない様子があった。アレは自衛のためにアガレスの店を訪れ、偶然最悪の状態に陥ったのだ。

平穏な生活こそが、望みだとすると。

或いは。

色王寺の分析を進めて欲しいと、アガレスは咳き込みながら皆に頼む。熱が酷くなってきたので、ガブリエルが回復の術式を更に強く掛けてくれた。ベルゼバブが、大きくため息をついた。

「お前ほどの魔術の大家が、情けないのう」

「口惜しいが、反論できん」

少し休みながら、ぼんやりと議論を見守る。

バエルが、同時に幾つかの思考を並行させているようで、矢継ぎ早にいろいろな意見を出している。

元々バエルは、複数に分かたれたバアルの一片。

その魂は、非常に複雑な存在で、並列思考くらいは簡単にこなす。

ベルゼバブは老人らしいゆっくりとした口調で、バエルの言葉を一つずつ検証していく。

ガブリエルは時々柔らかい口調で意見を言い。そしてダンタリアンは、暇つぶしのように、刺激的な意見を場に放り込むのを好んだ。

一端休憩を入れようと、ガブリエルが提案。

一同が席を外す。

ぬれタオルを絞ったアモンが、額に掛けてくれる。呼吸が苦しい。ぼんやりとしていると、アモンの手が頬に触れた。

「この程度で倒れて貰っては困ります」

「んー」

此奴との腐れ縁も長い。

まだまだ、終わらせたくないとも思う。

目を閉じて、ぼんやりとする。次の話し合いで決めないと、そろそろ体が保たないかも知れない。

 

光が見える。

色王寺だ。

戦いの末、世界の外側にはじき出された屈強な男は。防衛体制を取って、光の泡の中で座り込んでいる。

目を閉じているのは、外の虚無を受け入れないため。

世界は、無数の泡状の構造で出来ているというのは、悪魔も天使も知っている事。宇宙そのものが泡のようなものであって、無数に重なり合った泡の外側には、さらなる世界が広がっている。

「色王寺」

呼びかける。

命綱を付けてはいるが、結構必死だ。

全盛期の姿を再現するだけでも、相当な体力を消耗している。あまり説得に掛ける時間は、ない。

何度か呼びかけると。

ようやく、屈強なる人外の男は、顔を上げた。

「貴様は……」

「すまなかったな。 私には、お前を世界の理から外すことしか出来なかった」

「それについては、感謝している。 俺は、俺を怖れ、憎み、ただ排しようとする世界そのものにうんざりしていた。 あんな世界でヒーローの真似事を続けるなんて、冗談では無かった。 戦いの末、此方にはじき出してくれて、嬉しかったほどだ」

色王寺の目には、全く現世への未練が見て取れない。

絶望がそれだけ深く。現世への失望が本当に大きかったという事だ。当然の話だろう。人間社会が、彼に何をしたか。考えて見れば、当たり前の結論だ。

人間社会に戻るだけが幸せでは無い。

そもそも悪魔であるアガレスから見ればよく分かるけれど。人間社会は未成熟で矛盾も多く、必ずしも理想郷では無い。

必要な道徳を嘲笑う者が幅を利かせ、本来は守らなければならない存在を踏みにじって栄達する者が存在する。

因果応報などと言うものは弱者を慰めるための悲しい嘘に過ぎない。

それが人間社会の真実だ。

色王寺は、真実を知ってしまっている。

その上で、人間社会そのものに、大きな憤りを感じ。同時に、失望もしているのだ。

それならば。

或いは、ガブリエルの分析通りに、上手く行くかも知れない。

「私は、お前を救いたい」

「俺がこのような有様になった事に、お前の責任は無いだろう、魔神」

「ある。 私の管理不行き届きが原因だ」

「責任感が強い事だ。 幼女のように見えるのに、責任感に関しては、いっぱしの大人も顔負けだな」

幼女は余計だと言うと、額の汗を無理に拭った。

それに、責任感からではない。

悪魔にとって、契約は何より大事なものなのだ。精神生命体である悪魔にとって、契約を破ることは、己の完全否定につながる。それはすなわち、自殺に等しい行為なのだ。だが、説明しても、分からないだろう。

人間と悪魔の価値観念は違いすぎる。

今、その話をしている余裕は無い。

路を示す。

それしか、アガレスに残った時間は無い。

「お前は、どうして欲しかった」

「ただ、平穏に。 差別もされず、排されもせず、過ごしたかった」

「やはり、そうか」

「こうして虚無を漂っている今は分かる。 俺は元々、もう世界の何処にも、居場所などなかったのだと。 人間世界にいたときと、今は何ら変わらん。 周囲に対してあれだけ気を遣っていたのに、恐怖しか周囲は抱かなかった。 一体何がコミュニケーション能力か。 結局人間は、見かけで相手を判断しているだけでは無いか。 俺はこのような姿になった時点で、もう人間社会に居場所など無かったのだ」

ならば、別の路を行ってみてはどうか。

お前はあまりに強大すぎる。人並みの欲望もある。それでいて、理性が強く働いてしまっている。

もはや理となってしまったお前は、人間がいる世界では、どこでも暴君のような恐ろしい神となってしまうだろう。

ならば、そうならない路を行くしか無い。

行く手助けはする。

アガレスが咳き込んだのに、色王寺は気付いたようだった。そろそろ、限界が近いかも知れない。

手を取れ。

そう言って、アガレスは手をさしのべる。

色王寺に比べると、あまりに小さな手。

手を握るなんて事は無理で。指を掴むのが精一杯。それほどに、両者の手のサイズには違いがある。

本来だったら。

握ったら、砕けて肉塊になってしまう貧弱な手。

しかし此処は精神世界だ。

色王寺は、少し躊躇った後、アガレスの腕ごと掴む。

それで良い。

「もう、お前が差別されない世界へ」

「頼む」

色王寺が泣くことは無い。

だが、彼はもはや、人間世界に対して、一縷の希望も抱いていなかった。無理矢理連れ戻しても、さらなる悲劇が起きるだけだ。

アガレスは無言のまま。

天界と魔界の有識者達がくみ上げた術式を、解放した。

色王寺が、この世界の間から。

更に向こうへと消えていく。

其処は、何一つ生命が存在しない惑星。

生命が存在し得る条件は整っているが、灼熱のマグマがたゆたう、この世の地獄。其処で色王寺は。新しい生命を一から見守っていくのだ。

そもそも最初から、価値観念が決まっていなければ。

差別されることなど無い。

色王寺はきっと、ただ見守るだけ。

新しい星に新しい命が芽生えたとしても、それが理想郷になるとは、アガレスにはとても思えない。

しかし、色王寺はきっと。

いつかその星の者達が過ちを犯そうとしたときに。

自分がかってされた事を思い出し、腰を上げるのだろう。

十億年後か、二十億年後か分からないけれど。

その時にはきっと。色王寺の心についた大きな傷も、癒えているに、違いなかった。

魔術には、それを伝える意図もあった。

だからだろうか。

それとも、別の理由からだろうか。

色王寺は抵抗することも無く。

彼にとっての新しい希望となる世界へ、旅立っていった。

最後に、アガレスは感じ取った。

感謝の意思を。

ぐっと体が楽になっていくのが分かる。色王寺が救われたことで、悪魔が犯した最大の禁忌が、回避されたからだ。

自らの管理不行き届きで出してしまった犠牲者を、救う事が出来た。

これほどほっとしたのは、いつぶりだろう。

あの時以来かも知れない。

アモンが、最初にアガレスの所に来て。獣のような目をしていた彼奴が、アガレスの気まぐれで救われて。

そして、アガレスに永遠の忠誠を誓った、あの時。

永く生きてきても、このような経験をすることは、滅多に無い。涙を拭うと、アガレスは少しずつわき上がってくる力の感触を確かめるように。

現世へと、戻っていくのだった。

アモンが集めてくれた有識者達には、大きな借りを作ってしまった。

今後は天界と魔界のバランサーとしても、動かなければならないだろう。

悪魔らしくないと、アガレスは自嘲したけれど。

思えばその誕生の。始まりの時から。アガレスは、そもそもがして、悪魔らしくない存在であったかも知れない。

 

5、それもまた一つの結末

 

多分、アモンの様子から、私が完治したことは悟っていたのだろう。

最後の診察に訪れた月島が、私の様子を見たとき。最初に口にしたのは、喜びの声だった。

「もう完治したと思っていたよ」

「んー」

畳の上で正座したまま、私は診察を受ける。

月島は触診から何から色々していった末に、カルテも幾つか付けていった。別に、カルテを付けることを留める気は無い。

悪魔を診察した。

これほどの名医であっても、そのような事を周囲にいって、信用されるはずが無い。

むしろ精神科医が陥りがちな畢竟の世界に、彼女も落ちたと思われるだけだろう。そして月島が、そのような事を気にするとは、とても思えなかった。

「アモンにアドバイスをしてくれたのだな」

「何のことかしら?」

「別にとぼけなくても良いだろう。 私もきちんと礼をしなくてはなるまい」

「それならば、不思議な道具とかはいいから、現金をいただけないかしら」

現実的なものの考えをする女である。

アモンに視線をやる。

すぐに彼女は動いた。

棚から取り出してきたのは、小さな箱である。中に入っているのは、ダイヤモンドの原石だ。

まだカッティングしていない。

もしカッティングすれば。

カラット数は40を超える、巨大なダイヤモンドができあがる。

これほどの原石は、滅多に見つかるものではない。かって紛争地帯で見つかったこの原石は、人間同士のくだらない争いに巻き込まれ、最後は空爆で金庫ごと木っ端みじんになってしまった。

「現金では無いが、換金すれば大いに役に立つ品だ。 自分で処理すれば、更に大きな利益が得られる」

「楽しみにしているわ」

「それにしても、お前ほどの精神科医が、良くも正気でいられるな」

くすりと。

月島は、悪魔的な笑みを浮かべた。

なるほど、そう言うことか。

この女にとって、自分以外の全てはモルモットに過ぎないというわけだ。

だからこそ、どのような闇を見ても、平然としていられる。どれほどの狂気と相対しても、染まらずに耐え抜ける。

相手はモルモット。

どれだけ奇矯な行動を取ったとしても、所詮は実験動物。

だからこそ、単純に良い実験データが得られたくらいにしか、考えていないのだろう。

まさに人中の闇。

だが、そうでもしないと、医師はやっていけないのかも知れない。流石に餅は餅屋と言う所だ。

此奴の闇を喰うことも出来るけれど。

今は止めておこう。

診察してくれた恩人に、対価を渡したのだ。

闇を喰らったら、また別の対価を渡さなければならなくなる。それはアガレスにとって、負担が大きくなりすぎる。

それに此奴の闇は。

アガレスが今食べても、少しばかり深すぎるように思えた。

結局の所、人間は悪魔の母胎になった存在。

人間より凶悪な悪魔など、存在し得ない。その歴史を見てきたアガレスは知っていたけれど。

今また、その事実を確認したのだった。

「アモン、丁重に送り届けよ」

「分かりました」

アモンが、月島と一緒に消える。

月島のことを、アモンが嫌っていたのは、何となく雰囲気から分かった。だが、アモンは自分の好き嫌いより、アガレスの事を第一に考えて動いてくれた。今回も、アモンには感謝しきれない。

まあ、多少はいじられてやる位は良いだろう。

眠気もすっかり消えた。

さぼりたい気持ちも戻ってくる。

どうやらアガレスは。色王寺との一件で受けたダメージを完全に克服することに成功し。本調子に戻ったようだった。

まあ、あまり長続きはしないかも知れないが。

しばらくの間は、少しは真面目に仕事をしてやっても良いかもしれない。

そう思った。

 

デスクに月島を戻す。

正直この女は反吐が出るほど嫌いだったけれど。アモンにとって、アガレスが幸せである事は第一事項だ。

アガレスが泣いたりするのも許せない。

そう言うことをして良いのは、この世でただ一柱、アモンだけなのだ。

他の輩がアガレスを傷つけた場合、絶対に殺す。

出来れば、心に踏み込むことだって、許したくは無い。猪塚のように、趣味が合うごくごく一部の存在を除けば。そもそもアガレスに、他者を近づけたくだってないのだから。

それでも、アモンも永く生きている存在である。

だから、儀礼を保つ事は出来る。

例え、世界の誰よりも大事な相手の心の踏み込んで、見透かした存在であったとしても、だ。

他に路も無かったのだから。

「今回は世話になりました。 アガレス様からの品は、数日以内に届きます」

「……貴方、アモンと言ったわね」

「それが何か」

「大嫌いな私に頼ってまで主君を救った、その忠誠心の原動力は何? 見たところ、悪魔としての格とやらも、そうは変わらないように思えたのだけれど」

瞬間沸騰的に殺意がわき上がってくるけれど。

我慢だ。

此奴はアガレスの恩人なのだから。実際アモンだけでは、あの状態まで弱体化したアガレスを救う事なんて、絶対に出来なかった。

結局の所、人間の闇を最も上手に扱えるのは、人間。

そして、闇を喰らう悪魔のことを一番知っているのも、また人間。そう言うことなのだろう。

アモンの事を正確に洞察している事に対して、別に戦慄は感じない。

その程度の事が出来るから。私は此奴を選んだのだから。

「秘密としておきます」

「まあ良いけれど。 あの子より、貴方の方がよほどこじらせているように、私には思えるのだけれどねえ」

「若くして死にたくなければ、余計な事は口にしないことですよ」

「まあ怖い。 忠犬を怒らせて噛まれるのもぞっとしないわねえ」

くつくつと、月島が笑った。

私は今。

普通の人間なら失神するほどの殺気をまき散らしているのだが。この女は、まるで平然としている。

利害関係的に。私が此奴を傷つけられないと、知っているからなのだろう。

正に、人中の怪物。

まあ、これ以上借りを作る必要も無いだろう。咳払いすると、私は視線をそらした。もう目を合わせるのも嫌だったからだ。

「それでは、失礼します」

「……また何かあれば、声を掛けてちょうだい。 頭がおかしい犯罪者を相手にするより、よっぽど面白い体験が出来そうだしね」

「記憶を奪っても良いのですが」

「どうせ周囲に喋ったりしないことくらいは分かってるんでしょう? ただでさえ、私達精神科医は周囲からの目が冷たい仕事ですもの。 その上患者の影響を受けて、精神的な体調を崩す者だって多い」

全て見透かされている。

承知の上とは言え、気分が良いことでは無かった。

ぺこりと礼をすると、私はその空間から姿を消す。一刻も早くアガレスをいじくり廻して、この不快感を消し去りたかった。

アガレスの所に戻ると。

既に猪塚が来ていた。

キッチンで作業をしている。アモンに気付くと、にこにこと嬉しそうにする。アガレスが復活したことに、気付いているというわけだ。

一緒にケーキを作る。

ウェディングケーキのような、大きな奴だ。

此奴は分かり易くて、接していて疲れない。あの月島は、一体何を考えているのか、アモンにさえ底が知れなかった。

だが、それだからこそ。

アガレスは、人間に対する興味を失わないのだろう。

その辺りは、アモンとしても評価できる。

人間はオモチャと言うには危険すぎる。

最も残虐で凶暴な人間にとって、周囲の存在はオモチャと見なせるのかも知れないけれど。

悪魔にとって、人間はオモチャにはなり得ない。

その身に秘めた闇は。

凶器そのもの。

だからこそ、食糧としては。栄養豊富でもあるのだ。

今後もアモンは、気をつけて行かなければならないだろう。今回の件は、契約違反という点から来た、アガレスの不調だったけれど。

下手な人間を連れてくると。

アガレスが食事した段階で、体を壊すかも知れない。

ケーキを持っていくと、流石にアガレスも度肝を抜かれたようだった。

「何だそれは。 結婚するのか!?」

「ええ、アガレス様が。 仕事と」

「い、嫌だ! 私は仕事なんぞと結婚しないぞ!」

「えー? せっかくだから、結婚しちゃえば?」

酷い話だが。

猪塚と一緒になってアガレスで遊んでいると、とても楽しい。

この時間がずっと続けば良いと思えてしまう。

ケーキを無理矢理食べさせながら、アモンはふと思い出す。アガレスと出会ったあの日のことを。

最初この魔神と出会ったとき。

その時まだアモンは。

人間だった。

色王寺の気持ちが、だからアモンには、少しは分かる。今回の事件が解決して良かったとも。本気で思っている。

ケーキを適当に食べさせたところで、棚から未製品を出してくる。

今回対処して貰う品は、パズルだ。

とはいっても、ジグソーパズルでは無い。

立体的に組み合わせるタイプの、木製のものである。こういったパズルは、ピースが欠けると台無しになってしまう。

その、ピースが欠け、捨てられたパズルだ。

説明書も無くなってしまうから、想像から復旧させるしか無い。どんと山積みになった品を見て、アガレスは流石にげんなりしたようだった。

「いきなりヘビィな仕事を持ってくるな」

「少しは真面目に働いてくださいよ、我が君」

「分かってる」

ぶつぶつ文句を言いながらも、アガレスは作業に取りかかる。

その姿を見ることは。

アモンにとって至福のひととき。

そして誰にも犯すことを許さない、最後の楽園。

「アガレス様」

「んー」

「少し落ち着いたら、餌を待ちましょうか」

「そうだな。 しっかり食べて、力を蓄えておかなければならないからな」

アガレスは、少しずつ本調子に戻りつつある。

アモンは下の階にいるゴモリに、連絡を入れた。

そろそろ、餌をまた此処に連れ込んでも良いと。

 

(続)