清らかなる音色
序、一つだけがない
歌が好きだ。
恵まれた容姿なんて、それこそどうでも良かった。ただ、歌うことだけが、好きだった。いろいろな歌を覚えた。
問題は、私には、才能がなかったこと。
歌が好きだが音痴だ。
周囲からは、散々そうやってからかわれた。だが私は、元々世間的な基準から見れば恵まれた家庭に生まれたこともあったし。何より、下手だと分かっていても好きなものなのだから。何を言われても、気にしなかった。
問題は、それが中学になっても。
高校になっても。
いっこうに、改善しなかった。そう言うことだろう。
バケツを被って歌うという、古典的な方法も試してみた。しかし、それでも改善することは、一切無かった。
音楽の授業で、気持ちよく歌った後。
みんなになじられることが増え始めた。
私は幸い、周囲には嫌われていなかったけれど。
カラオケには、絶対に誘われなくなった。
最初は気にしていなかったけれど。
やがて、自分でも気付かないうちに。少しずつ。確実に。徹底的に。周囲への不信感が、溜まっていった。
そして、今は高校三年生。
いつのまにか、周囲には歌が好きだと言う事を、一切話さなくなっていた。
人前では、そのそぶりも見せなくなった。
音痴と罵られるのが嫌だからだ。
それに何より、高校にもなって、音痴を改善出来ないのは、何処かおかしいのじゃないのかと、面と向かって教師に言われたことがあって。それがずっと、心に引っかかっていたからだ。
いろいろな改善方法を試しても、治らない。
根本的に、センスが不足している。
他は何でも出来るのに。
どうして好きなことだけは、出来ないのだろう。
学校が終わって、帰路につく。
受験勉強も不安は無い。友人達もみんな優しい。歌さえ絡まなければ、私に何も否定的な意見を向けることはない。
だけれども。
私は本当は。みんなに、歌うことを認めて欲しいのかも知れない。
電車で四駅。
揺られているうちに、友人達は減っていく。最寄り駅に着いたころには、一人で静かに電車に揺られている。
家に帰って、最初にすることは。
既に亡くなった祖父母の位牌にお線香を上げて、手を合わせることだ。
三世代で最後まで暮らしていた祖父母は、最後は二人とも老衰で、眠るように息を引き取った。
とても優しい二人で。幼い頃から私は二人が大好きだった。
両親も、いつまでも死なないと祖父母を面倒くさがっていた節があるけれど。少なくともそれを表に出すことは無かったし。最後まで、穏やかだった祖父母も、両親のわずかな嫌悪感を気にしている様子が無かった。
どんな人間にだって、負の心がある。
だから、両親の事を、悪い人だとは、私は思っていない。
部屋に戻ると、しばらく無言で明日の準備をする。勉強も終えた。毎日こつこつやっているから、受験勉強については、それほどたくさんやらなくても大丈夫だ。
問題は別の所にある。
歌うつもりなら、両親が帰ってくる前にしなければならない。
父も、流石に私の下手な歌を聴かされたら、気分が悪いだろう。家のために仕事をして、疲れて帰ってきているのだから。
昔は、嫌な顔をしなかった父だけれど。
最近は、露骨に私の歌を聴くと、顔をしかめるようになってもいる。
それに、母は。私が歌うことを絶対に許してくれない。実際に何度か、折檻さえされた事がある。
だから、早めに歌っておく。
下手だけど。
好きなのだから。
しばらくアガレスが無口になっている事に、猪塚篠目は気付いていた。この間の、大きな人の問題が原因だろうなと分かっているから、それについては指摘しなかった。飄々としているアモンさえ、疲れを見せているほどである。
世界の果て。
地獄と呼ばれる世界で。
何が起きたのかは分からない。
だが、人間で言うならば、家族の命を絶つような真似を。アモンはしなければならなかった。
それは何となく分かったから、篠目はそれについては触れないことにしていた。
頬杖をついてアガレスが黙々とピンセットを動かしている。
とても小さな模型を修理しているのだ。
最初は黒焦げだった飛行機の模型が。
アモンからアガレスの手に渡って、しばらくすると。見違えるように美しくなっていくのだから、面白い。
今では、本当に空を飛びそうなほど、輝いていた。
模型の声が聞こえるようだ。
元に戻してくれて、嬉しい。また、大事にしてくれる人の所に行きたいと。
最後に、プラスチックのカバーをかぶせて、完成。素人である篠目の目から見ても、本当に素晴らしい仕上がりだ。
どれだけの値段がつくのだろう。
五万か、十万か。
いずれにしても、自分に買える品物では無いと判断。アモンが完成品を受け取ると、棚に戻す。
こうして、棚に入れられていく品が、増えていくというわけだ。
あれから二ヶ月ほどしているけれど。
篠目の知る限り、新しい客は来ていない。まあ、篠目も毎日此処で働いている訳では無いし、知らないうちに来ているかも知れないけれど。いずれにしても、此処にいられる時間は、あまり長くない。
適当なところで切り上げて、下に降りる。
アガレスをからかえないのは、あまり気分が良いものではない。
下に降りると、ゴモリが困り果てていた。
この色気過剰のお姉さんは、どうにも不器用なところがある。中古ゲームの値札貼りが上手く行かないようで、四苦八苦していた。
しかも品の数が結構多いのだ。
一応ダンタリアンが事前に指示は出しているのだけれど。それでも、ゴモリには難しいらしい。
「困ったわねえ」
「手伝いますよ」
「あら、篠目ちゃん。 お願いするわ」
まあ、ゴモリにはいつも世話になっているのだし、これくらいは容易い。ゴモリが下に行って、フルレティに今日は此方のヘルプに入る事を、告げてくれた。
一緒になって作業を進めていくと。
珍しい事が起きる。
アガレスが、自分から降りてきた。
勿論トイレから出てくる、と言う形で、だけれど。
周囲の人間はアガレスに気付いていない。篠目も周囲の様子を確認しながら、値札を張りつつ声を掛ける。
「どうしたの。 アモンさんも連れずに」
「ちょっと気分転換にな」
「気をつけてね」
「んー」
そのまま、ふらりとアガレスは店を出て行った。
心配では無いかといえば。心配だけれど。この間の件が、相当に応えているのだろうとも思うし、何も言えない。
ゴモリも、その事については、何も言う気が無い様子だった。
ゲームの値札貼りが終わったころには、定時を少し廻っていた。この店では、労働は西洋式。残業は悪だという風潮の元、仕事をしている。篠目にしても、シフト前に遊びに行って、きちんと仕事をこなしてから帰るという風に過ごしている。勿論ゴモリやフルレティは開店前から仕事をしているけれど。それについては篠目も同じ。
篠目がいないときにどうやって店を廻しているかというと、どうもゴモリやフルレティが、傀儡になる分身を造り出して、それを動かしているらしい。見かけは篠目と全く同じそうだけれど。動きが多少機械的になるそうだ。篠目もまだ見た事は無いのだけれど、一度見ておきたい。
ゴモリに帰ることを告げると。
バックヤードに入って、着替える。
私服に着替えても、大人っぽさなんて出ない。もう背は伸びないだろうし、こればかりは仕方が無い。
ぺこりと一礼すると、店を出る。
今暮らしている家で、篠目は特に誰のことも気にせず、静かに過ごすことが出来る。それだけで、充分。
多くは望まない。
ただ、早くアガレスが立ち直ってくれればなあと思うけれど。
あれだけ大きな事があったのだ。
それは、望外の事かも知れなかった。
シャワーを浴びて、さっさとベッドに入る。目を閉じていると、すぐに眠気が襲ってきた。
篠目は。
いつまで、あの店で、必要として貰えるのだろう。
人としては規格外の戦闘力と言っても。どれだけ技を磨いても、アモンにはとても勝てる気がしない。
ゴモリは篠目のことが好きなようだけれど。
アモンはただおもしろがっているだけだと、内心で理解は出来ている。本当にアガレスが鬱陶しいと思ったら、もう二度と三階には入れないだろう。
まだ若い篠目だけれど。
働いていれば、その内二十代が終わり、三十になる。
結婚相手が見つかったとして。
子供を産んで育てていれば、あっという間に老婆だ。
人の幸せ。
それが本当に自分のためになるのか。篠目には、分からないとしか、言いようが無い。
携帯を弄っていると、妙なものを見つけた。
これは、アガレスに教えてやれば、喜ぶかも知れない。メモだけ取っておいて、明日の楽しみに残しておく。
明日があるだけ、まだマシ。
それが分かっているから。篠目には、今をはかなむことは、許されなかった。
1、自由にならぬもの
学校に出る。
私が通っている学校は、名門と言って良い進学校だ。私自身も塾に行く必要性を一切感じていない。
現時点で目指しているのは早大だが、既に合格圏内に入っているし、受験で相当なポカをやらかさない限り、問題は無いだろう。
周囲も比較的余裕がある。
落ちこぼれる子は徹底的に落ちるけれど。
今の時点で、私の周囲にそんな子はいない。
友人の一人が声を掛けてくる。
一応中学のころからの友人である。名門校だけあって、小学校のころから、エスカレーターで上がってくる率が高いのだ。
だから、クラスがずっと同じになる可能性も低くは無い。
背は抜いたり抜かれたりだったけれど、高校二年に私が百六十を超えてから、以降は一切向こうに抜かれる可能性は無くなった。
「ねえ、吉野」
「どうしたの」
「見てみて、新型」
自慢げに、友人が見せてくるスマホ。確かこれ、最新のモデルだ。
この子の家は、うちよりかなりお金を持っている。成績は私の方がずっと上なのだけれど。財力で対抗しようとしてくる辺りが面白い。身につけている小物類も、私のものよりずっと高価な品ばかりだ。
ただ、友人自身は、対抗意識があるようには見えない。
親の問題だろう。
「ふうん、凄いね。 高かったんじゃないの?」
「ええ」
値段を聞くと、なんと八万である。
子供に買い与える品では無い。だがこの子の親は、平然とその大枚をはたいた。私からすれば、考えられない話だ。
チャイムが鳴って、慌ててスマホをしまい込む友人。
この学校の校則はさほど厳しくは無いけれど。流石に授業中にスマホを弄るような馬鹿はいない。
そんなのは、中学から高校に上がる時に、淘汰されてしまっている。エスカレーター式とは言っても、授業料が高い分、学校の見る目も厳しいのだ。問題を起こした生徒は、容赦なく退学させられる。
この学校では、イジメはない。
するような生徒は、学校が退学させてしまうからだ。
また、成績が思わしくない生徒も、である。
基本的に実績がある学校だから、生徒には全く困っていない。むしろ学校のためにならないような生徒(成績面で)がいる事の方こそ、学校が気にする。
授業が始まる。
空気が張り詰める。
生徒達は、みなしっかり調教されているからだ。
「次、石和」
「はい」
指名された私は、起立すると、黒板へ。
とはいっても、名前だけだ。今ではホワイトボードとマジックが採用されている。
言われたまま、連立微分方程式を解いてみせると、初老の教師は納得して、席に戻してくれた。
テストは頻繁に行われるけれど。
私の学習能力は、充分にそれに対応できる。
別に私が特別なんじゃない。
この学校にいるのは、殆どがそう言う生徒達だ。そして、淘汰は今も続いている。成績が思わしくない子は、三年になってからも何人かが、学校を離れていった。
容赦のない成果主義。
学校が絶対の権力を持っている場所。
だから此処では、実績が作られる。何処の進学校にも引けを取らない実績が。
授業の最後に、小テストが配られる。
ざっと目を通したが、そう難しい内容では無い。さっさととくと、提出して、休憩に。しばらくぼんやりと、先ほどの授業の要点をまとめていると。もう次の授業が来る。ストレスは、溜まる。
だから歌わせて貰いたいのだけれど。
私の歌のまずさは、教師にさえ知れ渡っている。
授業が全て終わると、皆まっすぐに家に帰る事になる。この学校には、部活なんて軟弱なものは存在しない。
生徒は全員、勉強と、進学のためにいるのだ。
そもそもこんな厳しい学校に、両親が私を入れた理由は。よく分かっていない。
祖父母が東大出だから、だろうか。
両親、特に母にとって、私はかなえられなかった夢を押しつけるための相手らしいという事は、何となく分かっていた。
父は母の言いなりというか。そもそも、私の事には、あまり興味が無い様子だ。
それでも、別に構わない。
ただ、歌うことが出来ないのは。悲しいけれど。
「吉野ー!」
駅に向けて歩いていると、後ろから級友が来た。何人かで歩いて、一緒に帰る。談笑しながら、アイドルの話などしている級友達。気楽なものだ。私だって、アイドルみたいに、歌いたいけれど。
そんな暇は、微塵も無い。
正確にはあるけれど。させて貰えない。親が帰るまでのわずかな時間しか、歌えない。
歌が上手だったら、良かったのだろうか。
そうとは思えない。
歌が上手だったとしても、両親はいい顔なんてしなかっただろう。ただ、歌うことだけは、許して貰えたかも知れないが。
四駅揺られて、最寄り駅に。
今日の級友達の中には、最後まで残っている子がいた。手を振って駅で別れると、黙々と自宅へ。
他の学校では、バイトをしているような子もいるらしいけれど。
うちの学校では無理だ。
校則云々の問題ではない。実際には、校則ではバイトは禁じられていない。ただ、物理的に不可能なのだ。
まあ、中にはバイトしながら学業と両立させる猛者もいるかも知れないけれど。
少なくとも、私が知る限り、周囲にはいない。
家に帰った後、さっさと勉強と明日の準備を終わらせる。そして自室に籠もると。マイクを出す。
この部屋は、自費で防音にしているから、近所迷惑にはならない。ただし防音と言っても家の中までは防げないから、親が帰ってくるまでだ。
しばらく、心ゆくまで歌う。
この部屋は防音だ。
だから、音が反響して、帰ってくる。
分かるのだ。
一音たりとも合っていない。
音程は全てずれてしまっていて、歌詞とも一致しない。ただ酷い、雑音の集まり。周囲が酷いというのも頷ける。
ただ、歌うのは好きだ。
すっきりするし、何より気持ちがとても明るくなる。
私の場合は。
楽しいのは私だけで。周囲の全員が被害を被るのが問題なのだ。
充分に歌い終わったので、シャワーを浴びてくる。後は勉強をして、今後に備えるだけ。親が帰ってきてからはもう歌えないので、時間は勉強に費やすしかない。
シャワーを浴び終えた頃、親が帰ってきた。
父親はむっつりと黙っていて、私を見てもにこりともしない。疲れているからだ。普段は此処まで無愛想では無い。
温めて夕食を出すと、無言で食べ始める。
「吉野」
「はい」
「学校は問題ないか」
「大丈夫だよ」
会話はそれだけ。
父は昔、私を名門の私立に入れるという母に、やんわりと反対していたらしい。もっと自由にさせてやれば良いではないかと。
だが母は、受験戦争に敗れて、挫折した過去から、どうしても抜け出せずにいる。
私を私立に入れないなら自殺するとまで言って、父を強引に説得したらしい。その分、鬼気迫る働きぶりで、学費を常に稼いでいる。生半可な男二人分の仕事はしていると、聞いたことがある。
そんな母だから、料理なんてしない。
祖父母が亡くなってからは、夕食は朝の内に、私が仕込んで出る。
帰ってきてから温めて、二人に出すのが普通だ。
母が帰ってきたのは、深夜。
血走った目で、何も言わずに寝室に直行。私の妹か弟が出来ない理由も、これを見れば頷ける。
母は女を捨てるどころか。
自分がかなえられなかった夢を私に押しつけるために。人間の尊厳を捨ててしまっている観がある。
やり手と言うには、あまりにも凄惨。
だから老け込みも酷い。まだ四十前なのに、頭は白髪だらけ。化粧も落とさずに寝ているから、肌荒れも酷い。
父は、母を見送ると、ため息をつく。
「早めに早大でも何でも受かってくれ。 あの様子だと、母さんはもうもたん」
「学費は大丈夫?」
「大学の方は問題ない」
本当に幼い頃には、父母が喧嘩をしている事があった。
祖父母も、母にお前のやり方はおかしいと、何度も言っていた。
しかし、言われれば言われるほど、母は意固地になっていった。そもそも父と結婚したのも、恋愛の末では無かったらしい。子供さえ産めれば、相手は誰でも良かったのかも知れない。
結果、娘にあらゆる全てを託して。
自分を全て捨ててしまったのだろう。
母に反発することは、或いは簡単だったのかも知れない。だが、母は文字通り自分の全てを捨てて、私のために仕事をしている。
もしも、受験に対する疑問でも口にしようものなら。
その時点で脳の血管を切って、死にかねなかった。
反発はある。
歌だって禄に歌えない。自分の時間だって、禄に持つ事が出来ない。
中学のころだけれど。カラオケボックスに、一人で行くことがあった。名目上は勉強のためだけれど。
実際には、自分一人の空間で、思う存分歌うことが出来るからだった。
だが、どうしてか、母にかぎつけられた。以降、カラオケボックスには、行けなくなった。
母は、近隣のカラオケボックスを全て調べ上げて、その番号を控えており。私がいないとなれば、確実に調べ上げてすっ飛んでくる。
もしも見つかりでもすれば、一度二度殴られる程度では済まないだろう。
このまま普通に勉強していけば、目的の早大には入る事が出来る。多少無理すれば、東大だって行ける。
だが、母は今の私の状態を、把握しているのだろうか。
おそらくしていない。もう私を勉強させるために、お金を稼ぐことだけが目的となってしまっている。
大学に受かってしまえば、仕事を辞めさせられる。
父はそう言っていた。
だが、それは本当だろうか。
大学を子供が出た後、いろいろな干渉をしようとする親がいると、私は聞いたことがある。見合いに会社に、あらゆる事を自分が思うとおりでないと気が済まないと。一種のストーカーに等しい行為だが。
愛情が高じると、こういった異常行動に出る親がいる。そして、母はもう、狂気の泥沼に片足を突っ込んでいる。
おかしな話である。
早大慶大と言えば、この国でもトップクラスの大学。卒業できれば、大企業への就職は間違いない。
学閥に食い込んで、将来的にはいわゆる勝ち組になるのが確実だ。
それなのに、どうして未来への不安しか無いのだろう。
「心配いらん」
私の事を見越したように。
結局、出世も出来ず。会社で、平均的な給料しか貰っていない父が言った。
「最悪の場合は、精神病院に放り込む準備も出来ている。 お前はもう気にしないで、目の前の受験にだけ集中しろ」
朝は早い。
勉強をするのもあるのだけれど。
夕食を作ってしまう必要が、それ以上にあるからだ。
適当に下ごしらえと調理を済ませて、後は温めるだけの状態にする。そうすると、家事を手早く終えて、学校へ行く準備。
両親が起きてくる。
母は一言も喋らない。機械的に食事をすると、何も言わずに会社に出て行く。会社でも、相当に不気味がられているという噂は聞いている。朝一から晩まで何も言わず、黙々と働くと。
母が働いているのはいわゆる総合商社で、会社としてのランクも高く、事務としては相当な腕利きだと聞いている。しかし何も喋らない母が不気味がられるのも、無理はないように思える。仕事でミスはしないし、結果として企業からの評価も高い。私の学費くらいは、充分に稼げている。
だが家での状況を見る限り。
もう母に、社会で働くのは無理だ。このままだと後数年もしないうちに力尽きて、死んでしまうだろう。
父が懸念するように、だ。
父も無言で家を出る。
二人が家を出てから、位牌に線香を供えて、私も家を出た。
この辺りはベッドタウンだから、知り合いもいる。出会った知り合いには、笑顔で挨拶をする。
駅まで、そう時間は掛からない。
電車に揺られているうちに、同級生とかち合う事もある。殆どの場合は、勉強の話と、学校の教師の悪口しか言わない。
「今日は人文のテスト日だね」
「ああ、そうだったっけ。 あんたは大丈夫?」
「特に問題は無いよ。 毎日勉強してるし」
「はあ、計画的に動ける人はいいなあ」
そう言われても、苦笑いするしかない。
こればかりは、幼い頃から親に仕込まれたことだ。母親は鬼のように勉強を叩き込んできた。
正直な話、私は別に平均から比べて、頭が良い方では無い。
勉強で点を取るやり方を、仕込まれているだけである。
母は受験で結局希望の大学に行けなかったけれど。学問を叩き込む事に関しては、生半可な教師より余程優れていた。正確には、勉強を子供にさせて、効率よく覚えさせることに高い手腕を持っていた。
私自身の性格が、もしも反抗的だったら、どうなったのだろう。
狂乱した母と、中学のころくらいには、既につかみ合いの大げんかになっていた筈だ。その方が、まだ人生を謳歌出来ていたかも知れない。
それは全てifの話。
私は、今の材料で、やっていくしかない。
学校に到着。
学校によっては、受験前にはもう生徒を登校させないような場所もある。しかし、此処は違う。
受験前だからこそ、徹底的に教師が勉強を見るのだ。
マイクロバスを使っての、会場までの送迎まで行う。早大志望の私としては、多分三十人ほどの生徒と一緒に、受験会場に行くことになる筈だ。勿論会場に着くまで、徹底的に最終チェックを、一緒に乗り込んだ教師と一緒にすることになる。
エスカレーター型と言うよりも。
むしろエレベーター型なのでは無いかと、私は思う事がある。実際、受験会場まで勝手に輸送されるのだから。
朝一から、授業は苛烈を極めるけれど。
今までの積み重ねがある。
特に問題なく、私はこなしていくことが出来る。
だが、歌うことだけは。
自由にならない。
授業開始。今日も授業を受けながら、思うのだ。歌以外の趣味だったら、上手くやって行けたのだろうかと。
違う。
多分それでも無理だ。
母はおそらく。私が勉強以外のことをすれば、確実に否定しに来る。それは火を見るよりも明らかなことだ。
私に求められるのは。
母が願うレールの上を、木偶人形のごとく動く事。その先に、普通の人間よりマシな未来があると、母は信じている。信じているけれど。本当にそれは、そうなのだろうか。
指名されたので、応える。
鮮やかにホワイトボードにきざまれる、古今和歌集の一節。この程度は、ずっと前から勉強しているから、簡単だ。
教師がすぐに授業の続きに入る。
おそらく、来月には、志望校ごとにクラスが振り分けられるはずだ。
私は早大希望の中では、上位に入ってくる。ごく一部の東大志望に関しては、幾つかのクラスを転々としながら、授業を受けていくことになる。そちらに入る事も或いは出来ただろうが。
もし知られたら、母に何をされるか分からない。
檻なんてものじゃない。
首輪だ。
「ねえ、吉野」
「どうしたの?」
授業が終わると、後ろの席の女子が話しかけてくる。彼女は最近勉強が遅れ気味で、必死に授業についていくのがやっとだった。
かろうじてこの学校の水準についていけてはいるけれど。
もしもそれが無理になったら。
この学校から放り出されるだろう。
そうなると悲惨だ。周囲の高校からは、落伍者として見られ、侮られる。この学校が全国有数の進学校だと言う事は知られているし、それが故に反発も大きいのだ。本人としては、地獄のような環境で揉まれて来たという自負もあるから、当然周囲を見下す。結果として、起きるのは。
摩擦などと言うのも生やさしい、悪夢である。
この学校では、むしろそうなることを、積極的に生徒達に教え込む。授業で、わざわざ退学した生徒のことを馬鹿にする教師までいる。
あれが負け犬の末路だと。
そうすることで、生徒達を奮起させる。そして、生徒達の恐怖も煽るために、適当に首を斬っていく。
此処は受験生の製造マシーン。
そして、母が此処からドロップアウトして。地獄を見たことも、私は知っている。教師の一人がいったものだ。
お前の母親は負け犬だった。
お前はどうなのだろうなと。
そういったときの教師の、まるで汚物でも見るような目を、私は忘れていない。我ながら、良く今日まで我慢していると思う。
ただ、完全に壊れてしまった母という実例を見ているから。その言葉には、あまりにも強い説得力があって。
私に付けられた首輪を、強固なものとしていた。
幸い、授業にはついていけているから、だろうか。
後ろの席の生徒は、周囲を何度か見回すと、声のトーンを意図的に落とした。
「あのさ、相談があるんだ」
「分かった。 放課後にね」
ノートを写させて欲しい、のだろうか。
可能性はある。ただこの子は、確か一般大学志望で、六大学に擦る学力も持ち合わせていないはず。
何か、違うような気がする。
授業を受け終えた後、周囲が帰宅しに掛かる中、話を聞いてみる。
彼女は、言った。
「この高校、止めようと思っててね」
「え……」
「もうついていけない。 大学に入るには充分な学力がついてるし、はっきりいってそれ以上は望んでないから。 無理して上位の大学に入ったところで、碌な事にならないのはわかりきってるから」
官僚になるとか、学閥に入るなんて、虫酸が走る。
彼女はそう言う。確か彼女の親は地方公務員の筈だが、上級を取っているせいで、世にもくだらない争いを日常的に見る羽目になっているとか。
「両親ももう私がやる気がないことは分かってるみたい。 国家一種でもない公務員になる事は普通の大学でも大丈夫だって分かってるし、もう抜けるつもり」
「でも、大丈夫なの?」
「それを聞きたいの」
なるほど。
彼女も、知っていたのか。私の母が、落伍者だと言う事は。
正直、大丈夫かと聞かれれば、分からないとしか言いようが無い。母はプライドをへし折られ、結果壊れた。
彼女はどちらかというと、自分の学力がないことに、ある程度あきらめをもって接している雰囲気がある。
しかし、もう高校三年だ。
この高校から転校「させられた」として、先の学校で上手くやっていけるのだろうか。
彼女はごく控えめな性格で、派手なところがないし、自分に学力がないことも受け入れている。
それなら、或いは。
「此処からうんと離れたところなら、あるいは」
「たとえば、適当な公立とか?」
「うん」
確かに、私立と公立では、大分環境が違う。
彼女は頷くと、参考になったといって、教室を出て行った。そして三日後には、このクラスから消えていた。
もううんざり。
そう言って、行動できたのは、尊敬に値する。
教師は散々彼女のことを、負け犬だ腑抜けだ、真似をしてはいけないと、口を極めて罵っていたけれど。
私には、そうとは思えなかった。
結局それからも、私はずるずるとこの学校に縛られて。
受験の日を迎えることになった。
多少不安定な精神を抱えてはいたけれど、それで落ちるような柔な勉強はしてきていない。文字通り弱肉強食のルールの中で、頑張ってきたのだ。勿論、マイペースに、だけれど。
バスで受験会場まで輸送されて。
そして、親達の自尊心を満たすために、受験に赴く他の生徒達。その程度ならまだマシだろうと、私は思う。
私の場合は、親の怨念に縛られての受験だ。
好きなものを全否定されての受験でもある。
これに受かったら。
歌える日が、来るのだろうか。
来て欲しいけれど。望みは薄いかも知れない。
とにかく、志望の学部の試験については、過去問を散々こなしてきているし、同レベルの問題ならどうにでもなる程度の勉強は十二分にこなしている。黙々と受験に対して、今まで詰め込んだ能力を駆使していく。
終了。
周囲の様子は悲喜こもごもだけれど。
私は、別に何も感じなかった。こんなものか、という感触である。受かった手応えはあるけれど。それだけだ。
開放感も、何も無い。
そもそも実感が無いのだろう。小さくあくびをすると、帰りのバスに乗り込む。周囲の生徒達は、比較的余裕があるようだったけれど。受験会場には、何故ここに来たのか分からないような生徒も、ちらほら見かけられた。
ご気楽に、何処へ行きたい遊びたいという話をしている生徒もいるけれど。
これが受かっていなかったら、地獄なのだ。
それを忘れるための、現実逃避という意味もあるのだろう。私は、もう一度。誰にも見られないように、小さくあくびをした。
2、なおも縛られる日
早大の受験は、あっさり合格した。志望の学部の受験も通過。第一志望が通ったので、滑り止めはもういらない。
これで、自由になる。
そう思うと、多少は気分も楽だった。
しかし、心の何処かでは確かに不安も続いていた。あの母が、その程度で自分を束縛から解放するだろうか、という不安である。
一方で、心の何処かで、期待もある。
家に帰ったら、母が憑き物が落ちたように、優しくなっていて。以降は、歌うことも許してくれるのでは無いか、と。
家では駄目でも、カラオケボックスに一人で行くくらいは、許してくれるのでは無いだろうか、と。
クラスの同級生達も、大半が受かっていた。
この辺りは、流石に名門校だ。
もっとも、受かりそうにない人間は切り捨てるという冷酷な方針が、合格者を増やしている要因でもあるだろう。この学校では、志望校に受からなければ、人間では無いのだ。教師達の中には、六大学以下は人間が行く大学では無いと、広言している者さえいるほどである。
彼らは例外なく高給取りだ。
クズは切り捨てる。
その方針でも、この学校は成果を上げているから、充分にやっていけている。そしてここの教師達は、勉強が出来ない生徒を、人間だとはみなしていない。それを証明する事例を、私は幾つも見てきている。
受験結果を聞いて、驚く。
私は学校トップで、早大に受かったらしい。
教師達は喜んでいたけれど。
私自身は、何一つ喜ぶことが出来なかった。実際それはそうだ。望んでいたことでは無いのだし。
ご褒美に、歌でも歌わせてくれれば良いのだけれど。
「吉野ー!」
クラスメイトが、手を振って近づいてきた。
彼女も合格者だ。満面の笑顔である。
一緒に帰りながら、話をする。やはり彼女も、教師達の事は、嫌い抜いているようだった。
「あの腐れ狸どもの顔を見ないで済むと思うと、本当に清々するわ」
「でも、卒業式で、また見ることになるよ」
「あ、そっか」
げんなりした様子で、彼女は舌を出す。
しばらく教師の悪口を言い合っているうちに、駅に。何でも教師の一人は、出来が悪い自分の子を、施設に放り込んでいない事にしたらしい。それが理由で、妻と離婚さえしたのだとか。
優秀な自分の遺伝子を汚した、というわけである。
此処まで来ると、完全に勘違いした貴族か何かだ。そんな人間が実在していて、こういう学校で教鞭を振るっていると思うと、笑いさえ零れてくるけれど。事実なのだから、より薄ら寒い。
「私達の価値を勝手に決めつけて、冗談じゃないよね」
「そうだね」
レッテル貼りは、何処の世界でもある。
私達の場合は、それが「客観的に優れている」と、多くの人間が勘違いしている視点からのものだ、ということだ。
だから、私達へのレッテル貼りは、正当化される。
おかしな話だと思う。
無能で知られる日本の政治家達は、大体学閥の出身者だ。早大慶大、それに東大。そういった所を優秀な成績で出た人間がゴロゴロしている。それなのに、この豊かな国を、こんなに無様な状態にしてしまっている。
無能だからだ。
そして彼らは、本来だったら一部の英才しか入れない大学を、優秀な成績で出ている。この矛盾は、どう説明すれば良いのだろう。
電車で揺られて、最寄り駅に。
手を振って、友人と別れる。落ち着いたら遊びに行こうと言われたので、頷く。ただし、カラオケには行けない可能性が高そうだ。
家に、つく。
少し、緊張した。
この学校では、余計な事に、教師が親にいち早く結果を伝えると言う事をしている。だから、両親は、とっくに私の合格を知っている筈だ。まあ、合格したのだし、何より学校でトップの成績だったのだ。
何も言われる筋合いはない。
流石にまだ二人とも職場にいるらしい。家に帰ってきても、誰もいなかった。まずは位牌にお線香を上げて、祖父母に報告。
それから、自室に戻ると。
両親が戻るまでの時間、歌って過ごそうと思った。
しばらく勉強はいらない。
ただ、一応習慣として、勉強は続けていくつもりだ。
学校にもいかなくていい。
何しろ、合格を勝ち取ったのだ。今まで地獄の淘汰に耐え抜いてきたのである。最悪の場合、学校なんか退学になっても構わない。早大に受かったという事実は変わらないのだから。
防音だから、歌っていると、わんわんと響く。
本当に下手だと分かる。
苦笑いしてしまうけれど。私は歌が好きなのだ。だから、そのまま、続ける。進歩しないのは、なんでだろう。
色々工夫しているのに。
音痴を直す方法という類のノウハウは、散々調べてきた。その全てが、私の音痴を改善出来なかった。
本職に頼もうと思った事もあるけれど。
しかし、そんな時間がなかった。もしもやるなら、これからだろうか。
下位の大学と違って、早大となると、学生もそれなりに忙しい。ただ、その程度の自己啓発はする余裕がある筈だ。
後は、両親の煩わしい干渉さえ、どうにか出来れば。
父が、まず帰ってきた。
「おめでとう」
父はそう言って、ケーキを見せてくれた。あまり嬉しそうにはしていなかったけれど。そう言う顔を作るのが、苦手なだけかも知れない。
問題は、母だ。
「母さんから連絡は来たか?」
「ううん」
「だろうな。 俺からもメールは入れたが、返事がない」
帰ってくるとしても、どうせ深夜だろう。
とりあえず、まずはケーキを食べる。お祝いなんて、したのはいつぶりだろう。誕生日の祝いでさえ、小学校のころ以来していない。誰が誕生日のお祝いで何を買って貰ったとかいう話を聞くと。
その度に、羨ましいとは思わずに。
むしろ、悲しいと感じた。
だから、ケーキだけでも嬉しい。これからうちの稼ぎ手になってくれと期待されていると分かっていても、それでも嬉しい。
さて、母だが。
今日は深夜になっても帰ってこない。
どうせ明日は学校に出なくても良いので、起きている。父は仕事だから、早めに休むべきだと思ったけれど。
何か不安なのか、時々携帯を弄っていた。
母がやっと戻ってくる。
当然のように、次の日になっていた。
「早大、受かったよ」
声を掛けたけれど。
まるでドブのように濁った目で、母は私を一瞥しただけだ。そして、何も言わずに、寝室に入っていった。
大きくため息をつく父。
やはりなと、諦めきった声が漏れた。
朝も、母は変わらなかった。
受験は終わった。しばらくは自由にさせて欲しい。そう言うけれど。血走った目で見られるだけだ。
カラオケに行きたい。
そういうと。
いきなり、茶碗が飛んできた。父がとっさに手を伸ばして、顔に当たろうとする茶碗を防ぐ。
もはや、意味が分からないわめき声を、母が挙げる。
そんな事をしている暇があると思っているの。
早大に入ってからが本当の勝負なのよ。
学閥の争いがどれだけ苛烈かも知らないで。これから名門の出身の子達と仲良くして、将来の仕事も得て。
一流企業の重役か、高級官僚か、政治家になるまで、ずっと戦いは続くのよ。
母はもう、尋常な形相では無かった。見かねた父が、いい加減にしろと一喝するが、その程度ではとまらない。
いきなり机をひっくり返して、暴れ出す。
父が準備をしていたらしく、警察を呼ぶ。母がもう、鬼のような形相で、父につかみかかっていた。
この無能。
役立たず。
お前なんか、死んでしまえ。
叫びながら、髪を振り乱す母。化粧を昨日落とさずに寝たから、もう夜叉のような形相だ。
警察が来て、母を引きずっていく。
その間も母は周囲に噛みつき叫び、狂乱の限りを尽くしていた。警察は手慣れた様子で、母を引きずっていった。
父は傷だらけになっていた。
見ると、床に包丁も刺さっていた。警察が淡々と事情聴取をして行く。
「ご無事で何よりです」
「もうあれは限界です。 精神病院に入れるしかないと思うのですが、手続きは出来るでしょうか」
「相談は署で承ります」
父は、私を残すと、警察と一緒に家を出て行った。
それから、メールで教えてくれる。
母はここのところ、職場でも問題を立て続けに起こしていたという。同僚に対して暴言の限りを尽くしたり、新人を実際に殴ったりもしたそうだ。
とにかくまともな様子では無く、会社の方でも通報するかというような話になっていたらしい。
で、今日。
ついに、致命的な問題を起こしたというわけだ。
「後は俺が対処するから、お前は気にしなくていい」
父のメールにはそう書かれていた。
しかし、今後どうなるのだろう。本当に、父で対処できるのだろうか。不安がよぎるけれど。
夕方、父が帰ってきた。
当然今日の仕事は休んだ様子だ。
残念ながら、父がいてもいなくても、仕事は問題なく回る。だから、休むのは難しくなかったのだろう。
案の定、母は警察でも暴れに暴れて、聴取どころでは無かったらしい。鎮静剤を打たないと、そもそも会話が成立しなかったそうだ。鎮静剤を打ってからも、ちょっとした切っ掛けで吼える暴れるで、精神科医を呼んでくるまで聴取どころではなかったとか。
しかも、ある程度落ち着いてからも、母はおかしいままだったそうだ。
全て周囲が悪い。
私の方針は完全に正しい。
あの子は私が育てて、早大に入れた。今後の事も考えている。だから、私が全ての面倒を見る。
その一点張りだとか。
いずれにしても、罪悪感も無し。非常に悪質かつ危険と言う事で、精神病院に入れることが決定。
告訴はしないそうだけれど。
多分、母がこの家に帰ってくることはないだろう。
精神病院でも、早速激しく暴れているそうだ。私が全て正しい。お前達が間違っている。だから此処から出せ。
喋れる間はまだマシな方で。
そうで無いときは、もう言葉が意味を成していないという。
「大学だけは、出なさい。 後はお前の好きなようにするといい」
父はそう言う。
学費は、充分に今まで蓄えているという。母も働いていたが。父もそれ以上に、稼いでいたからだ。
荒れ果てた台所を見て、慄然とする。
やはり、夢は夢に過ぎなかった。
母は解放などしてくれない。おそらく、最悪の場合、その場で暴力を振るわれて、一生ものの傷も受けていただろう。
今になって思えば、祖父母は正しかったのだ。
早大を目指しているほかの子は、どうなのだろう。こんな家庭環境の中で、暮らしているのだろうか。
私は。
明確に、暴力を振るわれなかっただけ、マシだったのかも知れない。
自室に戻ると、ぼんやりとする。
今日は、何もかも忘れて眠りたい。そう思った。
翌日から、母のいない生活が始まった。
卒業式までしばらくは、何も無い。家でじっとしていようかと思ったけれど。カラオケに行くのも、手かも知れない。
友人達は。
それぞれ、受験から解放されたことを、心から楽しんでいるようだ。中には、親に羽目を外して良いと言われている者もいるようである。
遊園地に。
カラオケ。
温泉旅行。
みんな羨ましいなあと思う。
着替えて、外に出る。一人でカラオケボックスに行ってみようかと思ったけれど。最初に行った店で、いきなり躓いた。
「貴方は、申し訳にくいのですが。 ブラックリストに登録されていまして」
「え……」
母が、この辺りのカラオケを抑えているという話は知っていたけれど。ブラックリストとは、尋常な話では無い。
そういうものが実在することは当然知っていた。だが、まさか自分がそれに登録されているなんて。
詳しく聞くと。
私が店に入ると、凄まじいクレームが飛んでくるのだという。それで首を飛ばされた店長もいたとか。
母の仕業だ。
店員は、此方をじろじろと見ながら。
それでも、関わりたくないと、ありありと態度に示しながら、続けるのだった。
「お気の毒ではありますが、おそらくカラオケ業界全体に、貴方の事はブラックリスト入りの存在として知れ渡っていると思います。 此処までリストが広がっている現状、当店でも貴方を入れるわけにはいきません」
「……そう、ですか」
「すみません」
カラオケボックスだって、商売なのだ。
今は、母は精神病院にいるなんて言っても、彼らには関係無い。彼らにとっては、私を店に入れるのは、爆弾を抱え込むのと同じ。
店長が何人も首になっていると言うのでは、確かに彼らを責められない。母は一体どんな風に、外で暴れ狂っていたのか。完全にモンスタークレーマーではないか。そこまでして、私に言うことを聞かせたかったのか。
私は、何が欲しいあれがしたいと、母には全くせがまなかった。
それなのに、母は一方的に私にいろいろなものを押しつけた。学問もそうだし、趣味を一切否定することも。
反発すれば良かったのだろうか。
だが、もっと酷い人格否定を幼い頃から受け続けている子供も、世間にはいると聞いている。
私はマシな方なのだろうか。
げんなりする以上に、悲しかった。それから、どうやって家に帰ったのか、全く覚えていない。
これから私の未来はバラ色の筈なのに。
どうしてこうも悲しいのだろう。
家に帰った後、小遣いをカウントしてみる。今まで全く使わなかったから、それなりにまとまった金額がある。
まずは、音痴を直したい。
だから専門家のカウンセリングは受けたい。
母は今更何を叫んでも、精神病院の中だ。しかも父の話を聞く限り、相当に重篤で、外に出ることはもう無いだろう。
タウンページなどで調べて、歌についての専門家をリストアップ。
音痴を直すカウンセリングをしている人を探して、連絡を取ってみた。そうしたら、である。
意外な答えが返ってきた。
「また、石和さんですか」
「えっ?」
「迷惑しているんです。 勘弁して貰えませんか」
「私、電話するのは、初めてなんですけれど」
いきなりの対応に面食らう。
そして、話を聞いていくうちに、事情が分かってきた。
やはり、母だ。
私が連絡を入れるのを見越して、先回りしていたのだ。散々此処に迷惑な電話を入れて、ブラックリストに登録させていたらしい。
慄然とする。
其処までして、私の趣味を奪いたいのか。
「とにかく、石和さん。 貴方を生徒にするわけにはいきません。 どんなトラブルになるか、分かりませんから」
「ごめんなさい」
「……」
電話を切られる。
本当に、母は無茶苦茶なクレームを入れていたのだろう。相手から感じる拒否は、凄まじかった。
この様子だと、おそらくタウンページに載っているような人は駄目だ。しかし、ネットで調べたような人にいきなり会いに行くのは、冒険が過ぎる。私だって、小学生ではないのだ。
どんな危険があるか分からない場所に、のこのこでかけていくほど阿呆では無い。
だが、これで詰んだか。
困り果てた。
自分で試せるものは、全て試してきたのだ。それで駄目だから、専門家の話を聞きたかったのに。
母がすぐ側にいて。
そして、いつでも首を絞められるように、機会をうかがっているようにさえ思えてきた。
母はどれだけ私を拘束すれば気が済むのだろう。人生の最後まで、私を縛らないと気が済まないのだろうか。
だとすれば。
鬱陶しいというのを通り越して、悲しくなってくる。
私の人格は、どうでも良いのだろうか。
子供は、自分の道具なのだろうか。
母には勿論母の理屈があるのは分かっているけれど。これは一種のストーキング行為だ。しかし、今更母を告訴しても仕方が無いと思う。一体どうすれば、良いのだろう。
気がつくと、枕に顔を埋めて、泣いていた。
このまま、一生母の影がついて廻るのだろうか。それは正直嫌だ。母の事は、其処まで嫌いでは無いけれど。
こんな風に拘束されて、平然としてはいられない。
大学には受かったのだ。
少しくらい私自身の自由を認めてくれても良いではないか。他人を操り人形だと考えるのは、あまりにも酷い。
友達からの誘いが来たので、遊園地に行くことにする。
そして、其処でも。
私は、鎖を感じる事になった。
呆然として、立ち尽くす。
友人達は、青ざめた顔で、ひそひそ話し合っていた。
出入り禁止。
遊園地の入り口で告げられたのは、それだった。これも、母の差し金である事は、疑いが無かった。
「貴方はブラックリストに入れられています」
そう告げられて、愕然とする。
普通、遊園地では、入るのに素性なんていらない。それなのに、どうしてこんな事になるのだろう。
とにかく、友人達には、遊園地に入って貰う。
中に入った友人の一人から、メールが来た。
「あんた、此処で何したの? 酒飲んで暴れたとか?」
「私じゃなくてね……」
「詳しい事情は聞かないけど。 今度は遊ぼうね」
嫌な予感がして来た。
家に帰ってから、調べて見る。そうすると、愕然とする事実が浮かび上がってきたのである。
温泉宿も、全て出入り禁止にされている。
遊園地も、近場は全てが駄目だ。
私が、気が散りそうなものは、事前に母が全て手を回して、シャットアウトしていた、という事なのだろう。
それでいながら、毎日深夜まで働いていたのだ。その情熱を、どうして別の方向に使えなかったのか。
いや、違う。
おそらく、そんな事をしていたから。母は心の炎を、全て使い果たしてしまったのだ。事実上の廃人になってしまったのだ。
いずれにしても。これはいくら何でも横暴だ。
大学に入った後も、何もかも母のいいなりというのはぞっとしない。自分の路くらい、自分で開かせて欲しい。
父に、相談する。
そうかと、父は寂しそうに応えた。
「あいつは、ずっと後悔していたんだよ。 良い大学には入れないで、俺みたいなクズと親に結婚させられた、って言ってな」
「父さんは、クズじゃ……」
「彼奴の価値観じゃ、普通のサラリーマンの俺はクズだ」
そうか、そうかも知れない。
早大に入ろうとして挫折した母だ。浪人も二年したと聞いている。
母にとっての男とは。
政治家か、高級官僚か、一流企業の重役。それだけだったのだろう。
良く女性情報誌が、結婚する相手なら、最低でも年収一千万とかあおり立てているとか聞くけれど。
母の場合は、早大を目指していて、其処に入る事が出来る一歩手前まで行ったのだ。
もし、早大に入れていれば。
女性情報誌があおり立てるありもしない夢では無い。
実際に、年収一千万クラスの夫を得ることも、難しくは無かったのだろう。それは年収だけの問題ではない。
社会的な地位も、生活の豊かさも。
それに伴って、手に入れていたはずなのだ。
ならば、父のことをクズ呼ばわりしていたのも、仕方が無かったのだろうか。私には、そうは思えない。
父は母の事を、其処まで嫌っていなかった。
母の事を最大限尊重していたし、私に対する行動だって、ある程度認めていた。
父は良い夫だったはずだ。
それをクズ呼ばわりしていたというのは。
やはり、母の方に問題があったのだ。
夢を持たないのは問題だけれど。夢を持つことで、壊れてしまう場合もある。正確には、届かなかった夢が、足かせとなって人を引っ張ることがある。私はそれを、思い知らされていた。
「あいつを許してやってくれ」
父はそうとしか言わない。
だから、分かる。父にもどうにも出来ないと。父にどうにか出来たのは。精神病院に、母を入れることだけ。
そうすることで、私を暴虐から、守る事だけだった。
ため息が漏れる。
自室に戻ると、ふと思い出してしまう。
古い時代中華には、科挙試験と呼ばれるものがあった。優秀な人材を集めるために、国家で行われた試験である。
しかし、それが実際にどのような効果をもたらしたか。
科挙の苛烈さは、今にも伝わっている。
専門の講師を幼い頃からつけてずっと勉強させ、二十歳前後になってようやく勝負の土台が出来る。
そんな苛烈極まりない試験だった。
苦学して通る人間は、例外的にいたことはいた。しかし、そんなものは本当に例外に過ぎなかった。
科挙を通ったのは。
殆ど、専門の講師を雇えて、子供を遊ばせておける裕福な層だけ。
しかも、試験を突破して来た人間達は。
自尊心の塊と化し、現実的な知識も得られず。しかも、幼い頃からの苦学で、性格を歪ませてしまっている者達ばかり。
最終的に、科挙の存在は。中華文明にとっては、決してプラスにはならなかった。
母はセルフで、その悪しき歴史をたどってしまった。
娘の若い時代を全て奪い去り。
そして今も、これからの未来を自分の望む形で押しつけようとしている。そう言う親がいると聞いたことはあったけれど。自分の母が度が外れた狂気に陥ってしまっていると知って、嬉しくいられようか。
ただ、悲しい。
翌日から、友人達の連絡も、途絶えがちになった。
遊園地での一件が、響いたのだろう。
それに、学校での友人なんて。
所詮、その程度のものに過ぎないことは。私だって、分かっていた。
3、揺らぎ
早大に入ってからも。
両足首に鎖を付けられているかのような居心地の悪さは、ずっと継続し続けていた。いや、こればかりは、どうにもならない。
母は相変わらず、精神病院で狂乱の限りを尽くしているらしく、退院の見込みは一切無し。
それなのに、この凄まじい存在感は、どういうことなのだろう。
父は黙々と仕事を続けていた。
以前父が言ったように、学費の準備は潤沢にされていて、早大の授業費用が滞ったという話は聞かない。
だけれども。
私の事は、大学でも、既に噂になっているようだ。
入って見てはっきり分かったが。学閥での争いは、在学時代から始まっている。私の母親が精神を病んで入院しているという事は、「格下」に見られるという事の、充分な材料になるというわけだ。
周囲に、誰も寄ってこない。
高校時代の友人や、苦学して早大に入った子は近づいても来るけれど。エリートコースを進んできた子達は、私をゴミでも見るような目で見ていた。
それに気付いたのは、大学に入って三ヶ月も過ぎたころだろうか。
ただ、孤独は感じなかった。
元々が、ずっと進学校での勉強漬けの日々。今更、ベタベタする友人や恋人がいないからといって、どうなるというのか。
ただ難儀したのは。
早大周辺のカラオケボックスも、全て母が手を回していた、という事だろう。確かにカラオケボックスという存在そのものに、ブラックリストが出回っているとみて良かった。
結局私は、防音の自室に戻るしかない。
其処で、近所迷惑にならない時間を見計らって、歌うしかないのだった。全く進歩しない歌を。
父が帰ってくる寸前に、歌をストップ。
ストレスを解消するのには良いけれど。気持ちよく歌うと言う事は、どうしても出来そうにない。
世の中の殆どの人は、気持ちよく歌えているのに。
どうして私は、こうもがんじがらめに縛られて。好きなことに限って出来ないのだろう。
私の趣味が、人倫にもとるものだったり。或いは、マニアックなものだったら。弾圧されることも、理解は出来なくない。
許せるかは話が別だけれど。
しかし、私の趣味は、歌うというささやかなものだ。それなのに、どうしてこうも窮屈なのか。
趣味を持つ事自体が、今の時代では。異常者扱いされる第一歩となる事は分かっている。しかし、歌である。
世間的にも認められている、数少ない「認可された趣味」なのだ。
ピアノや他の楽器のように、音が響くわけでもない。更に、自室を防音にしてまで歌っているのに。
怖いのだ。
いつ、母が戻ってくるか。包丁を手にして、戻ってきた母は。髪を振り乱していて、狂気の叫びを上げながら、まず父を刺し殺す。そして私の髪を掴んで、引っ張っていく。自分が正しいと信じている、狂気の路へ。
頭を振るって、妄想を追い払う。
父は料理を作れない。
帰ってきた父に、夕食を出す。父は黙々と食事を進めながら、時々聞いてくる。大学は上手く行っているか。
周囲と上手くやれているか。
授業自体は、問題ない。
大学だって、別に苦労はしていない。友人関係は、元々大学生は希薄なものだ。他の大学なら兎も角。早大では少なくとも、かなり忙しい。アパートに悪友が集まって騒ぐというようなことはないし。
私はそもそも、サークルに魅力を感じ取れなかったから。入る事も無かった。
新入生を勧誘しようと徘徊していた、怪しげなサークルに声は掛けられたけれど、その場で断ったし。
学閥にも、正直興味は無い。
母のようにならないためにも。
ほどほどの所に進んで。ほどほどの相手を見つけたい。今から、そう考えるようにもなっていた。
食事が終わって、自室でぼんやりしていると。
ふと、携帯で、妙なサイトを見つけた。
都市伝説に関するものだ。
何でも願いが叶う店があるという。そんな馬鹿なと一笑にふしたが。それから気になって、もう少し調べて見る。
そうすると、色々と不可思議なことが分かってきた。
こんな馬鹿馬鹿しい都市伝説なのに、かなり知名度があり、多くの人間に知られているのである。
専門のサイトまであるそうだ。
詳しく調べて見ると、その店は。小さな新古書店とゲーム屋があるビルの、あり得ない三階にあると言われているという。
三階はビルの構造上絶対にあり得ない筈なのに。
そして、三階に入ると、願いを叶えるために必要な品が貰えるというのだ。
対価については、全財産だとか人間性だとか、好き勝手な事がいろいろに書かれている。願いが叶う品だとすれば、莫大な対価を要求されるのも、当然のことかも知れない。
掲示板も見てみる。
驚くべき事に、かなりの人数が入り浸っていた。
「また、検証サイトが潰されたらしいぜ」
「ハッカーの友人に聞いたんだけど、検証サイトを専門に潰して廻ってる奴がいるんだとよ。 しかも、ハッカーの間でも伝説になるくらいの凄腕らしい」
「なんでそんな凄腕が、わざわざ金にもならない事をするんだよ」
「さあ。 或いは、その都市伝説が本当で、広まられると色々と面倒なのかも知れないな」
冗談めかして言っているけれど。
ハッカーなんて、実際世界にそれほどたくさん存在しているわけがないのである。多くもないハッカーの中の、凄腕と呼ばれる存在が実際に活動して、特定の題材を扱ったウェブサイトを潰して廻っているとなると、冗談ではすまない。
警察は何をしているのだろう。
しかし、それについては愚問か。
日本の警察は世界的に見れば充分に優秀な方だが、ネット犯罪については極めて脆弱な対応しか出来ないはず。
尻尾を掴めていればともかく。都市伝説のサイトを潰して廻っている、程度では動けはしないだろう。
少し、その都市伝説に、興味が出てきた。
どうせ、時間そのものはある。大学は忙しいけれど。私はバイトもするつもりはないし、大学そのものだって相応に近い。
電車で行き来する間や。
家でゆっくりしている時間に。検索をして見る時間くらいは、あるのだ。
それから一月ほど掛けて、都市伝説「店」について調べて見る。
殆どは無責任な噂話の域を超えなかったのだけれど。一つだけ、どうにも不可解な情報を得ることが出来た。
ある男性の話である。
その男性は、ある時から突然コンポスターにはまり込んだという。コンポスターについては知っている。
生ゴミ処理機だ。高性能なものになると、臭いを全く漏らさず、一昼夜くらいで生ゴミを完全に肥料に変えてしまう。近年進歩が著しく、その中核にはある男性がいるというのだ。
コンポスターマスターと言われる彼は。
常に犬の散歩がごとく、車輪を付けたコンポスターを連れて歩いているという。業界でも知られた変人の中の変人である。しかもコンポスターに、コンポさんと名前を付けて、時々恋人にでも接するように声を掛けているというのだから、筋金入りだ。
現在は業界をリードする企業の重役になっていると言うことで、軽々しく会いに行くことは出来ないけれど。
彼について、噂がある。
コンポスターに傾倒させた原因の、その連れて歩いているコンポさんが、見た事も無い品なのだとか。
何処の企業が作ったかも分からないような品。
しかし、企業レベルの開発力がないと、作る事なんて出来はしないような完成度で。とてもではないが、個人が作ったとも思えないというのである。
確かに、個人が出来る事には限界がある。
しかもその男性は、まだ三十代後半。コンポさんとは十年以上、一緒にいるところを目撃されているというのだ。
犬と言うよりも、愛する女性のように扱っているとも。
他にも、妙な噂がある。
現在東北の酒造王と呼ばれる女性がいる。
彼女自身は非常に悪い噂が絶えない存在で、様々な悪評がついて廻っているという。その彼女が、ある一時期から、急激に酒の味を良くし、周囲の酒蔵を統合。
現在では、東北どころか、日本でも屈指の酒蔵の主として、長者番付に名を連ねるほどになっているとか。
それだけではない。
類例の噂は、彼方此方に出てくる。
そしてその殆どで、最後についてくる言葉があるのだ。
店に行ったのでは無いかと。
それなら、これだけ噂話が広がるのも、納得できる。ただの興味本位で、噂話が広がっているのでは無い。
多大な利益を得ている存在が実際に出ているから、噂が拡散しているのだとすれば。納得も行く。
事実荒唐無稽な噂なのだ。
ありもしない三階。
何でも手に入る店。
そんなものが、常識的に考えて、存在するはずがない。殆どの人間が、笑って聞き流すはずだ。
それなのに、噂は拡散していて、ネット上である程度の力を持っている。そればかりか、時々授業中、雑談している生徒達が口にすることもある。店の噂を聞いているか、と。それだけ、浸透している都市伝説ということだ。
オカルトの領域に足を踏み入れてしまうけれど。
本当にあるのかも知れない。
勿論、私の場合は。
音痴を直す機械があるなら、欲しい。
そうすれば、少なくとも。周囲の人達は、私の歌を、気持ちよく聴いてくれるはずなのだから。
夏休みの前に。
決定的な情報を掴んだ。
家の近くに、実際に店に行った人間がいるというのだ。いきなり突撃するのも何だから、電話でまず連絡を入れてみる。
しばらく電話をして見て。
つながった。
覇気のない声だ。まず名乗って、挨拶をする。訪問販売か何かと思っているらしいので、切り出してみる。
「店に行ったと言うのは、本当ですか」
「……ああ」
切り返しにも、力がない。
噂の出所は、かなり確かな情報だ。問題は其処から。その男性を特定するまで、かなり危ない橋も渡った。
それだけ、私にとっては。
音痴を直すというのは、死活問題なのである。
軽く話をする。どうやって居場所を突き止めたのかも教えた。そうすると、男性は口ごもった。
「誰にも、今俺が住んでいる場所を教えないって、約束してくれるか」
「ええ」
「店には、合い言葉がないと入れないんだ。 そして殆どの場合、探していると勝手に情報が見つかる」
それは初耳だ。
しかし、そのように詳しいというのは。本当にこの男性は、辺りなのかも知れない。一体何を貰ったのだろう。
「俺は三人、店に行った人間に会った。 三人とも幸せそうにしていてな。 でも、どっかネジが外れているように見えたよ。 だから、俺自身も店に行きたいと思った。 何より噂の都市伝説の主に、直接取材したかったからな」
男性はフリージャーナリスト。
あまり評判が良い記者ではなかったようだけれど。それでも、特ダネを求めて、彼方此方を歩いて足で稼ぐ、昔気質のやり方を貫く記者だったそうだ。声からしても、既にかなりいい年である。
とにかく、である。
男性はジャーナリストとしての嗅覚を生かして、店に辿り着いた。
其処で何があったかは話せないという。
記者も、店に辿り着いて程なく、止めたのだそうだ。
「記者を、止めた」
「俺が本当に欲しいものには気付いたし、手にも入れたからな。 ただ、引っ越しはするつもりだ。 あんたみたいな若い子に見つかるようじゃ、多分都市伝説を探し求めてる野次馬がわんさと押し寄せてくるだろうしな」
自嘲的なつぶやき。
確かに、それもそうだろう。男性と軽く話をしたけれど、彼は今までの人生を全て否定されるような強烈な体験をしたのだ。
自嘲的にもなる。
そして、新しく得たものを、手放したくもなくなるだろう。
必要とすれば、導かれる、か。
私の事は、店の方がまだ、必要と判断していないのかも知れない。未だに、ネットを徘徊していても。
それらしいものには遭遇しないのだから。
だが、事態は急変する。
元フリージャーナリストと会話した翌日。彼が言っていたような、不可解な情報を、目撃することになったのである。
即座にメモを取る。
そして、ブラウザバックして、もう一度アクセスしてみる。既に其処が、更地になっているのを確認。
どうやら、嘘では無いらしい。
音痴が治る。
そう思うと、気分も沸き立つ。時間を見繕って、店に行くことにする。場所については、随分前に突き止めている。下見も済ませている。
その時、三階になんて入れなかったから。一端引き上げてきているのである。今度は、問題なく、入れるはずだ。
講義が無いのは四日後だから、その日に行くのが良いだろう。
しかし、音痴が治る方法なんて。見当もつかない。実際にプロに指導して貰うというわけにもいかない今。
この店に赴くことだけが、私の唯一の希望だった。
4、ことわりの先
アガレスは、小さくあくびをした。あくびがどうにも止まらないのだ。
先ほど、妙な客を相手にした。
音痴をなおしたいというのだ。
闇を見てみた。かなり根深いとは思った。
母との異常すぎる親子関係。其処にあったのは、母からの全ての押しつけ。受け入れながらも、どうしようもない反発。
母は既に精神病院にいるのに。
未だに重くのしかかる、狂気と束縛。
解放の象徴としての、歌。
だが、その歌は。
どうして、人並み外れて音痴で。なおかつ、自分でどれだけ工夫しても、治る気配がないという。
一体これは、どういうことなのか。
分析していくと、幾つか分かってきたこともあったけれど。解決策については、一応あった。だからそれを渡した。
だが、どうしてなのだろう。
あの客を帰してから。アガレスは眠くて仕方が無いのである。普段は、悪魔はあまり睡眠を必要としないのに。
いきなりデコピンをされたので、額を抑えて悶絶する。
「目が覚めましたか?」
「アモン! 主! 私!」
「分かっています。 でも、私の前で居眠りはさせませんよ」
ぬっと顔を近づけてくるアモン。
その張り付いた笑顔には、戦慄しか覚えない。目の前にどっさり積まれたのは、古い油絵だ。
どれもこれも、土台の段階から痛んでしまっている。
幾つかを検分した後、アガレスは呟く。
「これは修復に手間が掛かるな」
「だから寝ていては困るのです」
「んー」
まだひりひりするおでこを押さえながら、アガレスは修理に取りかかることにした。仕事は好きでは無いけれど。自分が手を入れることで、元に戻る作品には、興味がある。特に今回は、結構レベルが高そうな技術を用いられた油絵だ。
まず額縁の状態と、油絵そのものの状況を確認。かなりの巨匠の絵と見た。扱いが悪くて、倉庫で埃を被っていたり、或いは廃棄されてしまう絵はある。実際、絵はかなりかさばるものなのだ。
名が知れていない作家の絵が、廃棄されてしまうことは、当然のことながら多い。それに伴って、有名作家の絵が知らずに廃棄されてしまう事は、実際にはかなり多いのである。
だから、アガレスの元には、かなりの量の名画が来る。
元々、名画は金になる。
だから争いの元にもなって、劫火に焼け落ちてしまうことも、珍しくない。
アモンがどうにか、見られるところまで直してくれているそれを。
かき立ての状態にまで復元していくのが、アガレスの仕事だ。魔術も使いながら、絵を新鮮な状態にまで復活させていく。
その作業をしている間に、聞いてみる。
「アモン。 さっきの客を、どう思った」
「可哀想な子だとは思いましたけれど。 ただ、あの子は十中八九、自力で立ち直れたでしょうね。 どうして此処に呼び込んだんですか」
「お前はそう見たのか」
「見解が違うんですか?」
小首をかしげるアモン。
アガレスは、あの娘は。このままだと、母と同じ道をたどると判断していた。だからわざわざ、コレクションの一つを進呈したのだ。
それで音痴が治るかは、別の問題。
少なくともあの娘は。母親と同じ運命をたどることはないだろう。
「ほら、出来たぞ」
「これは、ゴーギャンですか」
「そうだな。 タヒチで何らかの形で処分されてしまった品の一つだろう。 拾ってきた時に気付かない辺りがお前らしい」
「この辺りは、アガレス様にはまだまだかないませんね」
とはいえ。
或いは、売り物として作った絵では無かったのかも知れない。若干完成度は低く、絵のタッチは粗い。
少し上下から見直した後、鼻を鳴らした。
これは、例えゴーギャンでも、あまり良い値はつかないだろう。作者のインナースペースを込めるのが芸術だ。絵に魂も籠もっていないし、或いは酔った勢いで一気に作り上げた作品かも知れない。
アモンに引き渡すと、次の絵に取りかかる。
アガレスは、この姿になってから。いやその前から、自分が子供っぽい事は承知している。
だから、褒められると、悪い気分はしなかった。
次の絵を仕上げ終えた頃、猪塚が上がって来た。そろそろおやつにする時間か。ただ、もう少し、作業を進めておきたい。
あまり記憶がはっきりしない。
ただ分かっているのは。その店は実在して。妙な子供に会って。そして帰宅すると、変な品が届いた、という事だ。
段ボール一箱分。
開けてみると、よく分からない機械が入っていた。
ただしその一つについては分かる。メトロノームである。家にもある。ただ、このメトロノームは、家にあるようなものとは、精度がまるで段違いのようだが。しかも電池が入れられていて、中に高度な制御装置が組み込まれている。
ひょっとすると。
自動で、調整を行うのか。
あり得る事だ。
勿論私には機械の知識なんてない。
ただ、マニュアルが英語で書かれていて助かった。この程度の英語なら、多少専門用語が入っていても、解読できる。
問題は、これが何をする機械群なのか、さっぱり分からない事なのだけれど。それでも、組み立ててみようという気にはなった。
それから毎日。
家に帰ってから、少しずつ組み立てていった。
大学で友人も出来たには出来たけれど。家に呼ぶほどの仲の友人は、結局一人も出来ていない。
それでいい。
もともと私は、母の事もあって、友人を家に呼ぶという習慣がない。多分誰かと結婚でもしない限り、家に他人を呼び込むことはないだろう。結婚しても、この家を出るつもりはない。
母の事があって、家を出た方が良いのかも知れないと時々考えるのだけれど。
孤独なまま頑張っている父を見ると。そう言う気も無くなる。
母は精神病院の深部で厳重に監視されているようだし、家に来ていきなり襲ってくるようなことはないだろう。
此処にいる事に、危険はない。
私は、勉強は出来る方らしいけれど。
手先はそれほど器用でもない。
黙々と機械を組んでいくけれど。それでも、最終的に、三ヶ月以上、完成まで時間を掛けてしまった。
そうしてできあがったのは。
何とも複雑な機械である。
学習机より一回りほど小さいそれには。高精度のメトロノームが組み込まれていた。
マニュアルに目を通してみる。
何故か、今度は概要を理解できる。
これは、音の測定装置だ。
自家用のPCと接続も出来る。かなり古いバージョンのOSとも対応していて、私のあまり新しくないデスクトップでも、ログを詳細に確認することが出来た。出力機能は充実していて、一般的な表計算ソフトから、かなりマニアックなものまで対応している。
音痴を直す方法は色々試してみたけれど。
これは、今までのものとは、まるで格が違う。
多分人間の感情が入らない分、今までの方法よりも遙かに高精度に、正確な結果を出す事が出来るはずだ。
しかも、母が散々迷惑をばらまいたおかげで、出禁になっている専門家レベルの細かい判断も可能であろう。
これは、ひょっとしたら。
行けるかも知れない。
早速起動してみる。
音痴であっても、歌には興味がある。だから、ある程度、発声練習などのやり方については、知識がある。
ざっと歌ってみるけれど。
我ながら、凄まじい結果が出た。
測定された音は、それこそ一音たりとも合っていないのである。此処まで音が合っていないとは、流石に想定外だ。
バケツを被ったとき、音痴だなあと自分でも苦笑いしていたけれど。
そう言う問題ではない。
次元が違うと言うべきか。
また、音自体も全く安定していない。
分析結果を調べて見る限り、何というか、声の幅が滅茶苦茶なのだ。高音だったり低音だったり、同じ音を出しているはずでも、全く一致していない。これは或いは、専門家に見せても匙を投げられていた可能性が高かった。
ひょっとすると、これは。
例え母が専門家の所を廻って迷惑をばらまきまくっていなくても。結果は変わらなかったのかも知れない。
気を取り直すと、少しずつ機械を使って、自分の音を調べていく。
どうすれば改善出来るか。
分析を続ければ、分かるかも知れない。
今まで、音痴を改善するために、いろいろな資料は集めてきている。それを併用しながら、私は自分の音に向き合った。
勿論大学にもきちんと行っている。
授業でも、充分な好成績を収めている。
というよりも。高校時代よりも、勉強に対する手応えははっきり言ってある。母は間違っていたのだと、確信できていた。
何かしらのストレス発散手段があって、はじめて勉強は実を結ぶ。
今まで私が、両親がいないところで歌っていたのが、その一助になっていた。
そして今では、更に大きな助けになっている。
父はこの機械のことを知っている。
何も、それについては言わない。
無茶な出費で手に入れたわけではないと分かっているようだし、何より私が楽しそうにしているので、それで良いと思っているようだった。
理解のある父で嬉しい。
こんな父を、どうしてクズ呼ばわりしたのか。理由は分かっていても、やはり母はおかしかったのだとしか、言いようが無い。
一ヶ月もすると。
少しずつ、音が合うようになってきた。
音域も安定してきた。
だが。
一曲を通して歌ってみると、音は滅茶苦茶になる。何度やっても、改善しない。おかしいと、思う。
私はこれでも、自己把握くらいは出来ている。
このくらいの勉強をすれば、これくらい覚えられる。出来るようになるというのは、分かっているつもりだ。
しかし、これはどういうことだ。
練習しても、通して歌ってみると、どうしても駄目になってしまう。
一音一音は合っているのに。
歌を作ろうとすると、其処には極めていびつな、音の残骸だけができあがるのだ。何故、こうなるのか。
随分悩む。
せっかく、音を客観的に分析する機械を手に入れたのだ。
友人達にも、使って貰った。これ自体は外に持っていくのも、そう難しいことでは無いのだ。
友人達は、勿論素人であり、歌だって本職に比べれば下手だったけれど。
それでも、私に比べれば全然マシ。
何しろ、私の「音の残骸」ではなくて。きちんと秩序だった音の流れになっているのだから。
色々検証してみて、分かる。
私には、歌の才能がない。勉学は早大に入れるくらいだから、相応のものがある。多分IQだって高い方だろう。
だけれど、どうして。
歌だけは。
好きなものだけは、どうにもならないのか。
自宅にすごすごと帰る。尻尾を巻いて逃げる野良犬のように。楽しく歌っている友人達は、成績でも頭の出来でも、私より客観的に見てずっと下。それなのに。彼女たちは好きでも無い歌を、私よりずっと上手に歌うことが出来る。
不公平なのは、どちらなのだろう。
自宅に帰ると、機械を調整して、また音を調べて見る。
どうにか、普通に音は出せるようになってきた。音階だって、何とかあうようになってきた。
だが、歌えない。
子供向けの簡単な歌でさえ、私が手がけると、雑音の塊になる。実際家の外を通った子供が、いきなり泣き出したことさえあった。
これでは、私の歌は、ほとんど音波兵器にも等しい。
家でベッドに寝転がると、枕に顔を埋める。母に何もかも禁止されていたころと、これでは変わらない。
何も変わらないでは無いか。
多少成績が落ちたって良い。
少しでも歌えるようになりたい。
うだうだしていても始まらない。
機械を調整して、分析。どうして歌が雑音になるのか、細かく調べていく。
ドアをノックする音。この家で、私のドアをノックする人間は、ただ一人しかいない。父である。
今は分析作業中で、歌っていないはずなのだけれど。
ドアを開けると、父は機械を一瞥した。
「まだやっているのか」
「諦めきれなくて」
「……問題は、おそらく物理的な部分には無いだろうな」
しばらく悩んだ後、父がそんな事をいう。
はて。
精神的な問題だとでも言うのか。まだ話を聞きたかったのだけれど。父はのそりと居間の方へ戻っていった。
何を、父は言いたかったのだろう。
一体、何を知っているのか。
何だか、嫌な予感がする。
夢を見た。
幼い頃。まだ母は狂気に染まっていなかった。父にも、多少は笑顔を向けていたと思う。そんな、夢のような時代のころ。
私は、その頃から、歌が好きだった。
しかし、母は、私が歌うのを見て、眉をひそめた。
違和感がある。
父はその頃から、母のやる事に、あまり口出しはしなかった。祖父母が優しかったから、自分まで優しいと甘やかすことになるとでも考えていたのだろうか。あり得る話だ。父はあまり多くは語らないけれど。家のことを、自分以上に、いつも考えていたのだから。
「吉野」
母が、顔を近づける。
その顔が、般若のような形相に歪んだ。
「お前は音痴だ」
怖くて、何も言えない。
「お前の人生に、趣味などいらない。 お前は音痴だ」
父は止めない。
あらかじめ、決めていたことなのかも知れない。それがどれだけ狂気に歪んだものだったとしても。
父は、母の愛情を、この頃はまだ信じていたはずだ。
「お前は音痴だ。 お前は音痴だ。 お前は音痴だ。 お前の歌なんて、誰も喜ばない」
悲しくなって、目を背けようとする。
凄まじい勢いで、顔を掴まれて。無理矢理目線を合わせられる。狂気に染まった母の瞳孔は、開ききっていた。
「お前は音痴だお前は音痴だお前は音痴だお前は音痴だお前は音痴だお前は音痴だお前は音痴だお前は音痴だただひたすら音痴だどうしようもない音痴だ改善しようがない音痴だ救いようが無い音痴だ」
悲鳴を上げようとするが、口を塞がれる。
母の目の奥の狂気が、どうしようもない私に、徹底的に浴びせられていた。
思わず、飛び起きる。
何もかもが、夢だったと分かった。
どうして、こんな夢を見たのか。それは、分かっている。寝る前に、父の話を聞いたから。
それに、母の声を、分析してみたから。
母は歌がかなり上手かったと聞いている。しかし、である。その声質は、私と殆ど同じ。父だって、時々カラオケで歌っていると聞く。部下達からはそこそこに評判だと言う話だ。祖父母も、町内会では歌を喜ばれていたとか。
つまり、音痴は遺伝では無い。
後天的なものだ。
まさか、あの夢は。
本当に、あった事なのだろうか。
もう一度、母の声を分析してみる。
背筋に寒気が走ったのは、次の瞬間だ。私は、気付いてしまう。母が幼い頃に、徹底的なまでに仕込んだ心理的なトラップを。
母は、わざと私の声に似せて。
徹底的な、洗脳をしていたのだ。
お前は音痴だと。何百回も言い聞かせた。
だから、私は。
歌うときに、母の声に似た自分の声で、強烈な自己暗示を掛けてしまう。故に、音一つは大丈夫でも。複数の音を重ねて歌を作ると。途端に、全てが崩れ落ちてしまうのだ。
全身が震える。
此処までするか。母にとって、私が趣味を持つのは罪悪だったと言う事はわかった。しかし、此処まで念が入ったトラップを仕掛けて、娘の全てを奪うことに、一体何があるのか。
執念。
自分の夢を、娘にかなえさせるための。
それは、やがて狂気になって。私が大好きなものを、全て奪うように、洗脳まで使って仕込むほどになっていった。
悲鳴が漏れる。
人間とは、此処までおぞましい狂気に、身をゆだねることが出来るのか。実の娘を洗脳する。勉強に専念させるという目的だけのために。行く手を先読みして全て潰して行く。ただ、趣味を持たないようにするためだけのために。
金を稼ぐためには、老婆のような容姿になるまで、自分を酷使することも厭わない。狂気そのものの塊が。脳の形になって、母の頭の中に詰まっていると確信できたのは、この全てを理解できたときだった。
メトロノームが、かちりと音を立てて。びっくりして、跳び上がりそうになった。
まさか、私の声まで、洗脳に利用するなんて。
どうして母は早大に落ちたのだろう。
まるで蜘蛛の巣に絡め取られたかのようだ。これだけの遠大な伏線を張って、娘の人生をしばるほどの知恵。生半可な頭では出来ない。
呼吸を整えると、ふらふらになりながら部屋を出る。
今日は大学の授業はない。休日出勤に出る父のために、食事を作って、洗濯を済ませれば、家事は終わりだ。
また、小さく悲鳴を上げそうになる。
母が、目の前にいきなり立っていたからだ。
それが幻覚に過ぎなかったとわかっても、足はがくがくと震え続けていた。母の幻覚は、笑いながら周囲を飛び回る。
いつでも。
見ているぞ。
お前の人生は。
私のものだ。
完全に音程が外れた笑い声を上げながら、母の幻覚が消えていく。しかもその幻覚があげている声は、私と同じだ。
階段から転げ落ちそうになっていた。
頭を振って、妄想と狂気を追い払う。私は、ただ幻覚を見ているだけだ。分かっている筈なのに。
それとも。これも、母が仕込んでいた心理的トラップだというのか。
歌に対して、私が仕込まれていた洗脳に気付いたら。発動するように仕込んでいたとしたら。
母はもう、狂気の果てに。邪神か何かになってしまっていたとしか思えなかった。
ただ、立ち尽くす。
母の妄念が、ひたすらに、恐ろしかった。
機械を一瞥する。
この機械のおかげで、私に仕込まれた心理トラップが分かった。だが、どうすればいいのだろう。
此処まで先手先手を打たれてしまっては、正直なすすべがないようにさえ思える。
しかし、それは悔しい。
何もかも、母の好き勝手にされて。人生を私物化されて。それで、私は一生操り人形か。いつの封建時代の王侯の娘か。
考える。
必死に、この先にどうすればいいか。
これは突破口になる筈だ。
母が念入りに念入りに作り上げた罠。蜘蛛の巣の中心に、自分はいる。それならば、此処さえ打ち破れば。
息を吸い込む。
顔を上げて、幾つかプランを練っていく。
おそらく、この罠は、何重にも仕込まれている。私の声そのものが発動のキーとなっているのだから、今まで音痴が治らなかったのも、当然だ。それならば、解決策は、何かないか。
声色を変えて歌ってみるのはどうだ。
さっそく試してみる。
しかし、声優でもないのに、そう簡単に自分の声なんてコントロール出来ない。ましてや私は、声に関してはそう器用でもない。
幾らか試してみるけれど。
他に案を作って置いた方が良さそうだと結論。しばしして、思いついた事がある。声を分析する装置があるのだから。この手があるではないか。
まず、ヘッドフォンを身につける。
外界からの音を、完全に遮断。
そして、此処から歌ってみる。機械の様子を見ながら、順番に音を出していくのだ。
勿論、最初は上手く行くはずが無い。
ただでさえ歌が下手なのだ。音痴なのである。いつもにも増して、支離滅裂な音の残骸ができあがるだけである。
しかし。
二度三度と歌っていくと、少しずつ効果が見え始めた。
今まで、どれだけ下手でも、練習に練習を重ねてきたのだ。しかも、試行錯誤を繰り返した回数は、合唱部どころか本職にだって負けていないと自負している。目に見えて、機械の方に記録される音声が、秩序を見せ始める。
歌っているのか。
私が。
音痴では無くて、ちゃんとした音の秩序が、出来ているのか。
涙が零れそうになる。
何度目かの実験で、ついに相応のものができあがった。録音して、聞いてみることにする。
期待が膨らむ。
ひょっとしてこれで、何もかも。母からの呪縛から、解放されるのでは無いか。期待してしまう。
だが。
あの母の事だ。
まさか、この先にまで、トラップを仕込んでいるのでは無いだろうか。指が震える。しかし、どうやって。
頭を振って、録音していたPCのツールを操作。
自分の歌を、聞いた。
5、孤独の音
カラオケに出ることは出来ないから、自宅に友人を招いて一緒に歌う。それなりに広い部屋だし、防音もしているから、歌うこと自体は何ら問題ない。
以前は、自宅に友人を招くことはなかったけれど。
母がもう帰ってこない今は。友人達を招く事に抵抗はなかった。
友人達は、歌うときの私を見て、不思議そうな顔をする。
何故、ヘッドフォンをするのか。
そして、歌い終わった後の私を見て、なお不思議そうに小首をかしげる。
どうして歌い終わった後、これだけ良く歌えているのに、あまり嬉しそうにしないのか、である。
理由は簡単。
自分の声そのものに、母が心理トラップを仕込んでいるから。
そして。
上手に歌えたとしても。その後にやはり、もう一つのトラップが仕込まれていたから、である。
友人達が歌っている。
彼女らの話によると、私の歌は。充分に「上手」の域に到達しているという。正直、何処に出しても恥ずかしくないそうだ。
音痴だという噂を聞いていたから、意外だとも。彼女らは言うのだった。
苦笑いするばかりである。
精神科医にも何度か通ってみたけれど。このトラップは外せそうにない。早大を卒業して、会社に入るか公務員になって。
その後結婚して、子供を産んで。
人生をそうやって進んでいって。その先に、このトラップを解除できる未来があるのだろうか。
「再生機能使わないの?」
友人に聞かれた。
今使っているカラオケセットには、歌った後に再生する機能がある。練習するためのものなのだけれど。
私にそれは使えない。
首を横に振る私に、怪訝そうな顔をする友人達。
私は、自分の歌を生涯聞くことが出来ないのだ。ただ、どういう歌なのか、想像することだけは出来る。
散々あの装置で、分析する事が出来るから、である。
私は。
「ちゃんと出来た自分の歌」を聴くと、母の凄まじい金切り声を上書きされてしまう。幼い頃に、きっと強烈な洗脳をされたのだ。
歌うな歌うな歌うな歌うな。
趣味なんて、この世から滅びてしまえ。
お前のためにならない。
母がそう、耳元で絶叫する。最初に自分の「ちゃんとした」歌を聴こうとしたとき、あまりの激烈な効果に、ベッドから転げ落ちそうになった。そして、流石に恨んだ。母は何処まで、娘の人生を私物化しようとしたのかと。
しかし、精神病院に今更足を運んだところで、会話なんて成立するはずもない。だから、自分でどうにかするしかない。
幸い、私には、歌を分析する装置がある。
だから、自分の歌がどんなものか、想像することが出来る。
それだけで、幾分かマシだ。
友人にせがまれて、流行の曲を歌うことにする。ヘッドフォンを身につけて、完全な無音の中に。
これだけされても。
歌が好きだ。
どれだけ母に洗脳された傷が残っているとしても。
私は歌うことが楽しい。
趣味は、悪じゃ無い。
そう、私は証明したい。
歌っていると、友人達が黄色い声を上げているらしいのが見える。音が全く聞こえないので、そう思うほか無い。
いつか、この苦しみを、必ず克服してみせる。
そして、自分の耳で。
ちゃんと歌えた、自分の歌を聴いてみせる。
それが、今の私の願い。
何にも勝る、私の夢だ。
(続)
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