鈍色の酒杯

 

序、強面

 

昔から、顔が怖いと言われた。

中学の頃からそうで。

三十前の今もである。

背が低くて、性格が大人しければ周囲は違う見方をしてくれたかも知れないけれど。生憎私は争い事が大好きで、なおかつガタイも周囲を圧していた。身長は二メートル二十六センチ。体重百七十二キロ。

日本人としては、いや人間として体格の限界に近い。

しかも、このガタイで、脂肪は殆ど無い。体重の殆どは骨と筋肉と、血だけで作り上げられている。

格闘技のセンスもあった。

何しろガタイが武器になる。この圧倒的なガタイから繰り出されるパワーは、生半可な相手なんて一切寄せ付けない。実際、名うての喧嘩士が、私の前では手も足も出ないという事が、日常的に起きる。

結局公務員になったけれど。

今でも、ヤクザより怖いと言われる毎日だ。

地方の市役所で私は今日も働いている。

周囲に人はいない。

上司どころか、市長さえ私を怖れている有様だ。

近寄ったら首を折られそう。

そう周囲は話している。実際問題、手加減しないと、その辺の相手なんてちょっと撫でただけで首が折れてしまう。

地元で何度かヤクザに喧嘩を売られたけれど。

その時だって、極力優しく相手を撫でて、それでも殺さずに済んだとほっとしたくらいなのだ。

やっている仕事は、地味な帳簿整理。

ちょっと力を入れると、柔いキングファイルくらいはすぐに分解してしまうので、思ったよりも気を遣う。

仕事が終わり、定時が来た。

市役所だから、定時で帰れる。がつがつ働いて過労死するよりも、こういう所でのんびりやっていきたい。

おかしな話だ。

これだけ恵まれた体格を持っていながら。それを生かすことも出来ず。むしろおっかなびっくり過ごさなければならない。

ただ世界は窮屈で。

そして狭苦しい。

昔、盛り場で、似たような体格の外人に喧嘩を売られたことがあったけれど。それでも、相手は二発殴るだけで意識を手放した。最初に相手に殴らせたのに、蚊に刺されたほども感じなかった。

銃で撃たれたこともあるけれど。

正直、拳銃の弾なんて、内臓に届く気がしない。

筋肉で防いで、それでおしまいだ。目や頭に当たれば少しは危ないかも知れないけれど。そんな可能性は低い。

私は、思う事がある。

多分、生まれる種族を間違えてしまったのだ。

風俗に行っても、可能な限り優しく接しないと、屈強な相手になれている筈の嬢が悲鳴を上げる。

力が強すぎて、体が千切れそうだと。

握力も腕力も、ひょっとすると国内のレコードホルダーかも知れない。それくらい、桁外れのパワーが私の体には宿っているのだ。

両親はごく普通なのに。

三十少し前の私は、完全に化け物だ。

ぞろぞろと引き上げていく同僚達。私も、退屈をかみ殺しながら、デスクを掃除する。退屈していると、私は更に顔が怖くなるらしく、周囲が引きつった悲鳴を上げるのが聞こえることもある。

だが、正直、どうでもいい。

普通、世間が怖すぎて、萎縮する人間は多いのだけれど。

私の場合は、逆。

周囲が柔すぎて、おっかなびっくり歩いて行くしかない。何とも世界は窮屈で、どうにもならない。

自衛隊に入れば良いと言われたこともあるけれど。

むしろ退屈そうで嫌だ。

それなら、海外で外人部隊に入るという手もある。

私の体は、三十前なのに、衰えを全く感じていない。今からそちらに行くという手もある。向こうは荒くれが勢揃いしているだろうし、喧嘩相手にも事欠かない。戦場に出れば、相手を殺し放題という事もある。

この体を、好き勝手に暴れさせることが出来る。

それはきっと、楽しい。

だが、私は思うのだ。

この体はケダモノと同じ。それを本能のまま自由にさせたら。それはもう、人間では無い。

何か別の、タチが悪い怪物だと。

私は、これでも自分が人間であると思っているし、人間である事にささやかながら誇りだって持っている。

人間を捨てるのは、あまりぞっとしない。

最後に職場を出る。後は警備の仕事だ。数年前に買った車に乗ると、ぼんやりと自宅へ向かう。

車は軽で、乗るときに窮屈で仕方が無いけれど。

コストパフォーマンスからして、これが最適なのだ。

実際、安月給では、これの維持費を払うのが精一杯。4WDなんて買おうものなら、家計を容赦なく圧迫してくる。

それは好ましい事態では無い。

家に着くと、狭苦しい部屋に、自分を押し込む。

この家は、当然ながら普通の日本人に規格を会わせている。だから、何もかもが狭苦しくて仕方が無い。

両親は既に鬼籍に入っているが。

二人ともいたときは、家が狭くて仕方が無いと感じたものだ。

一時期はアパートに住んでいたのだけれど。其処での生活は、なおも息苦しくて、しんどかった。

まだ、此処の方がマシ。

そう思うと、憂鬱になるが。こればかりは、仕方が無い。

適当に酒でもかっくらって、寝る。

翌朝は、当然仕事だ。

だから、飲む量も制限しなければならない。それが煩わしくて、ならなかった。

 

市役所に出ると、騒ぎが起きていた。

何だかわからないが、知らない言葉でまくし立てている男がいる。無言で私が近づいていくと、ぎょっとしたようだった。

「何か?」

明らかに気圧されて、黙り込む。

初老の警備員が、咳払いした。

「広山さんを連れてきて」

「はい」

「あんたは、暴れるようなら抑えておいて」

「はあ」

じっと、暴れていた男を見下す。

恐怖に顔を引きつらせている男。この市役所に、私がいることを知らなかったのだろう。外国語がわかる職員が来て、男が何処かに連れて行かれる。私としては、朝から何もしていないのに。何だか仕事をさせられたような気がした。

課長が来たので、見た事だけを話す。

初老の警備員が、私をなにやら魔神の像か何かでも見上げるようにしながら、適当に補足してくれた。

喋るのは苦手だ。

結局、さっきの男は警察が連れて行った。市役所になにやらゴネに来たらしいが、知ったことでは無い。

一時期は、そういうのが結構いた。

市役所の従業員の中にも、小遣い稼ぎを兼ねて、その手の犯罪者と結託している輩がいた。

ずさんな書類管理も相まって、ずっと放置されてきた悪事も、少なからずあったのである。

「色王寺くん」

「何か」

「君は奥にいてくれるかな。 ああいう奴が出てきたら、顔を見せてくれれば、それでいいから」

「はあ」

言われたまま、デスクへ行く。

このデスクも、当然狭苦しくて仕方が無い。しかも左右の職員は、私から意図的に席を離している有様だ。

出来るだけ周囲には触らないようにしているのに。

どうして此処までされなければならないのか。面倒くさくてならない。

課長が来た。警官を伴っている。なんでもさっきの件で、連れて行かれた男が、幾つかの犯罪に関与している事がわかったらしい。事情聴取をしたい、という事だった。

実のところ、市役所に来る変な奴をつまみ出すのは、私の仕事になっている節がある。その関係か、警官も私と良く顔を合わせる。

またあんたか。

来た警官の顔には、そう書かれていた。

私も、また此奴が来たかと、げんなりしてしまう。

そのまま、警察署へ。

軽く尋問を受けた後、返して貰った。まあ、大した内容では無かったのだし、犯罪者も逮捕できたのだから、それで良かった。

市役所に戻ると、もう昼過ぎ。

適当に食事を終えると、頬杖をついて軽く昼寝する。市役所は一時期に比べれば、ある程度は忙しいけれど。

それでも、結局暇な職場に、代わりはないのだ。

ぼんやりとしていると、すぐに昼休みが終わってしまう。午後もろくでもない仕事を、退屈しながら片付けるしかない。

まあ、定時で上がれるし。

ワーキングプアと呼ばれる人達に比べれば、給料もずっとずっとたくさん貰っているのだから、それでいい。

私の顔が、退屈で更に怖くなっているらしい。

周囲の職員達が、また心なしか、距離を置いているのがわかった。

 

夕方。

帰宅しようと駐車場に出ると、数人の男達に囲まれた。ひょっとすると、さっきの男の仲間か。

「何か」

私が睥睨するだけで。その男達は、明らかにびびる。どうみてもカタギでは無いし、修羅場もくぐってきているはずなのに。

中の一人が、それでも奇声を上げながら、鉄パイプで殴りかかってきた。

鉄パイプなんて、私にとっては、枯れ木の枝にも値しない。

ひょいと取り上げると、その場でへし折り、更に握りつぶしてみせる。鉄パイプにくっきり指の跡がついているのを見て、男達は恐怖の悲鳴を上げた。鉄パイプを持っていた男に到っては、立ったまま失禁していた。

そのまま、全員の襟首を掴み挙げるとひょいと空に投げ上げ。

落ちてきた連中が蛙のように駐車場でへたばるのを見ながら、警察に連絡。私がこの手の連中に恨みを買いやすいと知っている警察は、すぐに来て、男達を逮捕して連れて行った。

喚きながら、男の一人が引きずられていく。

暴力を振るわれた。

不当逮捕だ。

男が喚いているけれど。此奴らが私を囲んだ辺りから、監視カメラが全てを見ていたのだ。どうしようもない。

それに、骨が折れないように、手加減はした。できる限り、だが。

警官が、私が指型をつけた鉄パイプを見て、唖然としている。多分ゴリラより、私の握力は強いかも知れない。

「これは、あんたがやったのかね」

「本気でやると潰れてしまうので、加減しましたが。 その鉄パイプにも、さっきの男達にも」

「君、いつか人を殺してしまうのではないのかね」

「気は付けています」

こうして、今日も私に変な伝説がまた追加された。

とりあえず、愛用の軽に傷が付けられていないので、安心してそれで家に帰る。酒を飲んでいると、課長から連絡が来た。

「色王寺くん、また何かあったのかね」

「駐車場で、朝来た変な輩の仲間らしき連中に絡まれました。 軽く撫でて警察に突きだしておきましたよ」

「頼むよ」

「はあ」

何を頼むのかよく分からない。

こういう日は女でも抱きたいところだが、風俗からは大体出禁を喰らってしまっている。私が足を運ぶと、嬢が怖がるというのである。

かといって、私のようなのを好きだという女なんぞいるはずもない。

何度か交際はしたけれど。手を握るだけで骨が折れたりして、結局何かしらする事も出来ず、みんな別れてしまった。

殴られ屋という職業がある。

ストレス発散代わりに、ボクサーなどがやっている仕事だ。

五分間好きなように殴らせてやるというもので。相手は当然抵抗をしない。勿論素人の拳なんて喰らうはずもなく、彼らにはぼろい商売だという。

ただし。

私が其処に出向いたときは、二度と来ないでと土下座された。

力があると言う事は、スピードも出ると言う事なのだ。

軽く私がジャブを入れただけで、本職のボクサーだという殴られ屋は十二メートルも吹っ飛んで、ゴミの中にダイブした。

結局、私には。

ストレス発散のチャンスもない。

ちなみに、近場のジムも全て出入り禁止になっている。

サンドバックに一撃で穴を開けてしまってから、である。普段だったらあり得ない事だそうだ。

結局酒に逃げるしか無いのだが。

酒代は結構馬鹿にならない。

この缶ビールだって、毎日飲んでいれば、かなり家計を圧迫する。発泡酒だって同じ事だ。

要するに私にとって。

生まれてきた世界を間違えてしまったことは、あまりにも致命的だった。

ギリシャ神話の時代だったら、どうなのだろう。

私は前線で大暴れして、英雄と呼ばれていたのだろうか。後の時代にまで、逸話を残したかも知れない。

日本神話の時代でも、同じだろうか。

わからない。

わかっているのは、今は。私の時代でもないし、生きていく場所があるだけマシ、という事だ。

特に趣味もない。

経験的に知っているのだ。今の時代、趣味を持つ事は、周囲に対して弱みを晒すことだと。

現在日本では、趣味を持った人間は異常者としてカウントされる。

ましてや、私のような存在は、ちょっとした弱みを周囲に見せるだけで、それがどんな災厄につながるか、知れたものではないのだ。

ぼんやりと、酒を飲んで過ごす。

今日もまた、無為に一日が過ぎていった。

 

1、失われた記憶

 

アガレスの仕事は、基本的にアモンが行った作業の引き継ぎだ。アモンが修復したものを、破損前の状態にまで戻す。

そうしてここに餌が来たときの対価とする。

だが、仕事はそれだけではない。

ネット上でトラップをばらまいて廻り、店の都市伝説が拡散しすぎないようにも振る舞う。

また、あまりやらないのだけれど。

目録も作っている。

その内容は。

今まで餌として闇を喰らった人間の名簿と。何をくれてやったか、だ。

アモンがもってきた大量の木材。

これは既に伐採が禁止されている貴重な木材で、ギターなどの材料になる。これで作ったギターは、数十万の値段が最低でもつくほどだ。

さすがに木片まで分解された木材を修理するのは、物理的な手段では出来ない。だから、壊れる前に、時間を戻すのだ。

時間を操作するのは簡単では無い。

いろいろな無理をしていかなければならない。魔術も駆使して、そしてアガレス自身にも負担が掛かる。

お菓子が食べたい。

ゆっくりしたい。

でも、アモンは。

極悪非道な従者は、アガレスを休ませてくれない。

「アモン」

「はいはい、どうしました」

「なんで私は、ブラック企業でこき使われているんだ」

「全てはアガレス様の為ですよ」

それはわかっているのだが。

此奴が、アガレスが涙目半泣きになっているのを、とても幸せそうに見ていることくらい、知っている。

ただし、アモンがアガレスのために仕事をしている事だってわかっているので、あまりどうこうはいえない。

「せめてお菓子くれ」

「これが終わったら」

「鬼かお前は!」

「悪魔ですが」

爽やかなやりとりの後。アガレスは結局半泣きになりながら、作業を済ませる。

そして、以前からちまちまと進めていた目録を作り上げる。その中に、気になる名前があった。

「アモン、この名前だが」

「ああ、この子ですか」

「私はさっぱり覚えがないのだが、どういう客だったか」

「ものすごいもやしっ子だった男の子ですよ。 それで、世界中のスポーツ医学に基づいて体を強くする方法って本をあげたんじゃないですか」

もやしっ子。

しばらく腕組みして悩んで。記憶を引っ張り出す。名前は目録で見て色王寺とかいうのは知っているのだけれど、それ以外のことがどうにも思い出せない。

アモンが嘘をつくはずもない。

ならば、どうして忘れているのだろう。

ちなみに本のことは覚えている。

一般出版された本では無い。昔、フルレティが暇つぶしに、人間の魔術師に知識を与えて作らせた本だ。その後、邪教の本として告発されて、確か焚書された。元々が一冊しかなかった上に、翻訳されたわけでもなかったから、この世には出回らなかった不運な本なのである。

この本をアガレスが引き取って、日本語訳したのが、この目録にある対価だ。

中身は一見するとスポーツ医学に基づいて、頑健な体を作るもののように思えるのだけれど。

随所に魔術的な儀式が込められていて、体を無理矢理永続強化していくのだ。その強化は激烈で、使い始めれば誰でも明らかな効果を実感できる。文字通り、人間を超越した体を手に入れることが可能だ。

もやしっ子でも、もしも真面目に本を読んで努力を続けていたら。

或いは、身長三メートルで、ゴリラより握力があり、ライオンや虎よりも獰猛で、熊よりも力強い人間になるかも知れない。

まあ、それはあくまでそれだ。

実際には、多分途中で止めるから、せいぜい二メートル少しで身長の伸びも止まることだろう。

「思い出せん。 どういうことだ」

「はて、それは妙ですね」

アモンが小首を捻るのも当然だ。

アガレスは人間とは違って、記憶を外付けで保存している。必要なときは、その外部データを頭に入れている。この方が効率が良いからだ。

逆に言えば、そのバックアップがあるので、生半可な事では記憶違いはしない。

勿論、元々の記憶を使っているばあい。つまりあまり考えずに返答した時は、記憶違いをする可能性もある。

今、おかしいのは、そこでは無い。

その外付け記憶から検索しているのに、見つからない、という事なのだ。ただし、流石にアガレスも万能では無いし、全能にはほど遠い。

記憶違いも、ひょっとしたらあるかも知れない。

「アモンは覚えているのか」

「というか、どうして忘れているんです?」

「そう言われてもなあ……」

小首を捻っているうちに、休憩時間終了。

この時は、まだ何もおかしな事は起きなかった。あくまで、この時までは。色王寺という名前は、アガレスにとっては、どうでもいいものだった。

 

猪塚がアモンと一緒に作ったケーキを、胸焼けするまで食べさせられて。生クリームなんて大嫌いになりそうだ。

げっぷをなんどもする。

はしたないけれど。本当に胃をパンクさせられるほど、食べさせられたのだ。アガレスは何度も涙目を擦る。

彼奴ら。

アガレスで遊び過ぎなのだ。

とにかく、気分を変えて作業を進める。目録を作っていくと、他にもおかしな事がわかってきた。

記録は詳細に付けている。

アガレスの所に訪れた、地上での日時。

どんな名前か。

与えた対価は。

その全てが、一致する。

此処にずっとアガレスはいるわけではない。日本に来たのは、比較的最近の事だ。その前は東洋の魔都と呼ばれる上海にいたし、更に前はローマ帝国にいた時期もある。短期間だが、アメリカにも渡っていた。

パリやロンドンにいた時期もある。

此処で店を構えてからはかなり落ち着いているが、目録はその時代からある。

一番古いのは、アガレスが戦いに敗れて、アモンと一緒に落ち延びた時期。もう、数百年も前になる。

その頃は天界と魔界の和睦もなっていなかったから。

客を呼ぶ際も、命がけになる事は多かった。

だから、客のことはみんな覚えているのだけれど。

このもやしっ子と呼ばれる、色王寺と言う名の客だけは、どうしても記憶から欠落しているのである。

何しろ、貴重なコレクションを対価として与えているのだ。

忘れているはずがない。

しかも色王寺の場合、コレクションをくれてやったのが精々十数年前。それで忘れる方が、本来は難しい。

悪魔の生活サイクルは人間よりずっと長いし、魔神と呼ばれるようなアガレスのレベルになってくると、ほぼ永続となる。数十年なんて、ほんの少し前の事に過ぎない筈。

その筈、なのだが。

どうして、色王寺の事だけは、記憶から綺麗に抜け落ちているのだろう。

アモンを呼んで、目録を見せた。アモンの方は、全員覚えている。ちょっと腹立たしい。どうしてこのようなことが起きるのか。

「一人だけ、記憶から抜け落ちている?」

「妙な話もあったものだろう」

「うーむ……」

「何か変わった事は無かったか? それとも、私が特別に興味をそそられない相手だったとか」

そんな事は無いと思うのだがと、自分でも思う。

たとえばアガレスは、人間を容姿で区別しない。これは美的感覚が完全に異なっているからだ。

見た誰もが発狂するような完璧な美形が存在するとして。

それを見て、アガレスも発狂するか。

否だ。

人間の基準とアガレスの基準は違う。

そもそも精神生命体だから、というのも大きいだろう。外側の器なんて、それこそどうでもいいのである。

人間が一番重視する外側の器と、アガレスが一番重視する中身。

其処に決定的な違いもある。

小首を捻る。

どうして記憶の欠落が生じている。色王寺という名前そのものはわかるのだけれど、それ以外の全てがわからない。

「追跡調査しますか」

「そう、だな」

なんと無しに指示を出すと、とりあえず積み上げられた木材の処理に取りかかる。ため息をつきながら、しんどい作業をこなしていく。

この時は、指示を出したことを、何とも思っていなかった。

 

2、違和感

 

昔と今は違う。

私にとって、此処は全てを弱々しく感じる場所。衣服でさえ、自分に合わせてはくれない。少し力むと、簡単に破けてしまう。

市役所に出ながら、ぼんやりと思う。

昔から、私は、こうだったのだろうか、と。どうも違うような気がする。何だかこの異常に強靱な肉体は、後天的な理由によって作られたような気がしてきたのだ。

信号が青になったので、車を出す。

それに関しても、気を遣う。

下手をするとアクセルを踏み抜いてしまう。ハンドルをちぎり取ってしまう。

教習所で、実際にやりかけたのだ。

市役所に着く。

朝の挨拶を終えると、デスクに。私に嫌がらせするような輩は存在しない。凄まじい暴力が、気を抜くだけで周囲を蹂躙することを、皆が知っているから、だ。

少し気を抜いただけで、相手の首を折りかねない。

少し撫でただけで、骨を砕いてしまう。

どれだけ優しく接しても、少し触っただけで、相手の肉離れを引き起こす。

悪意なんて関係無い。

そして私の力は。

思っているほど、制御が効かないのだ。

実際に一緒に働いている職員は、絶対に私を挑発しない。それはもし暴発したら、確実に死ぬと知っているから、である。私はこの職場で、人間として扱われていない。言葉を喋る猛獣だと思われている。

イジメをする勇気を持つ奴なんていない。

特に、ここに来る迷惑な客を何人か粉砕してから、その傾向は更に強くなった。

今日もちまちまとキーボードに向かっていると、茶を入れに来た新人が、おっかなびっくり話しかけてくる。

「あの、色王寺、さん」

「何だ」

「その、お茶、です」

「ん」

茶飲みは、特大のサイズだが。それでも、少し小さすぎるくらいだ。

しかも私にとっては、茶の湯くらいは、熱くも何ともない。他の人間が舌を火傷しそうな温度でも、平気なのだ。

まだ熱いはずの茶をぐいとひとのみ。新人は腰を抜かし掛けて、跳び離れるようにして逃げていった。

どうでもいい。

そもそも、私にとっては。普通に振る舞うだけで、周囲に害を為すのだ。この国の、この時代でなければ、怪物として討伐されていたかも知れない。英雄になる事が出来たかもしれない。

わからない。

いずれにしても、生まれる時代では無い。

きっと、生まれる世界を間違えてしまったのだ。

昼休みが来るまで、今日はこれといったトラブルも起きなかった。悪客害客の類も現れなかったし、これといった問題も起きなかった。

仕事自体でもミスはしなかったし。

何より、誰にも迷惑は掛けなかった。だから、これで良いはずなのだが。それはそれで退屈だ。

外に出る。

市役所の食堂では、とてもでは無いがコスパがあわないのだ。

近場で、大量の食糧を安く出してくれる定食屋がある。いつも昼は、其処で食べるようにしている。

それでもエンゲル係数が、家計を圧迫する率は高い。

この体である。

食糧は、相応に必要なのだ。

黙々と、量だけはあるまずい定食を口に入れる。魚なんかは、骨ごと食べる。骨なんか、その場でかみ砕くだけだ。

サンマなどは、肉を骨から削いだりしない。

頭からむしゃむしゃ、である。

それを見て時々、度肝を抜かれている客がいるようだが。別に迷惑を掛けているわけでもないし、何も言わない。醤油を使う場合は、気がつくと瓶一本を丸ごと消費していることもある。

胃袋は頑強で。

健康診断で問題が出たことも無い。

基本、私のような巨漢になってくると、内臓への負担が大きくなりすぎる場合があるらしいのだけれど。

私の場合は、内臓までもが巨大で。

むしろ猛獣のようなパワーは、筋肉より内臓に起因しているのでは無いかと、医師には言われていた。

そうかとその時は思ったけれど。

今も、別に異論は無い。

食事を終えると、さっさと市役所に戻る。特にトラブルは起きていないが、昨日の襲撃事件の事で、警官が来ていた。

警官に軽く話を聞かれる。

まだ若い婦警だ。女性にしては背が高いけれど、私とは50センチも身長が離れている。だから、終始目線を合わせるのに、苦労していた。

今回は少しばかりしつこいが。それには理由があった。

何でも相手側が、妙なことを言っている、というのである。

昼寝の時間がなくなるが、仕方が無い。

私は元々、ちょっとしたことで社会の居場所をなくす立場なのだ。いや、かろうじて猛獣として鎖につながれる状態、にいると言っても良い。

下手な対応をすれば。

そのまま、駆除されてしまう。

「時に貴方、スポーツか何かは」

「いえ、別に」

「どうやってその屈強極まりない体を作り上げたのですか」

「生まれつきです」

はて。

今、何か妙な違和感があった。だが、それは別にどうでも言い。警官は小首を捻りながら、言う。

「いわゆるプロスポーツ選手でもそうなのですが、屈強な人というのは、大概幼少時から計画的に体を作っているか、相応の環境にいて、修羅場をくぐっている人達ばかりなんです」

勿論遺伝的に大男になる事もあるそうなのだけれど。

しかし、私の両親は、ごく当たり前の体格だったのだ。

そして、警官が、卒業アルバムを見せてくる。

「実は、貴方を襲撃したのは、地元の暴力団関係者です。 正確には下部組織の者達で、暴力団そのものはこの件に関わっていないようなのです。 それで、襲撃の理由が、貴方のような「モヤシ」に舐められたのが許せなかった、ということでして」

「……モヤシ、ですか」

「実は襲撃者の一人が、貴方の同級生だったのです」

てんで覚えがない。

そういえば、おかしな事があった。囲まれたときに、その中の一人が。私を見て、驚いたようだったのだ。

あれは、あまりに大きな違和感があったから、ではないのか。

考えられる事だ。

「貴方は小学生時代まではむしろいじめられっ子で、クラスの中でも運動が出来なかったと聞いています。 しかし中学のアルバムでは、これだ」

そちらも見せてもらう。

私は、既に現在に近い。中学三年で既に身長は190センチに達していて、周囲の同級生なんて、子供にしか見えなかった。

街で不良に絡まれたとき、武器なんて必要なかった。

ちょっと腕を振るうだけで、相手は凄い勢いですっ飛んでいった。怪我させないようにするのが、本当に大変だったのだ。

何かが、中学時代にあったのか。

しかし、思い出せない。

「確かに成長期に子供は伸びるものですが、貴方の場合は異常だ。 一年辺り、20センチ以上伸びている。 何か、違法の薬物などを摂取していたような過去はありませんか」

「そんなものは知りません」

「……でしょうね」

私の両親は、ごく一般的な社会人だった。

薬物の知識だってないし、何より私が平凡に生きることを願っていた。二人が私に、薬を盛っていたようなことは考えられない。

かといって、だ。

私が具体的に、当時何かをしていたか。

思い出せない。

何しろ、十年以上前の事だ。中学のころの記憶は、鮮明に覚えている部分もある。不良に絡まれて叩き潰して。襲ってくる奴を片っ端から返り討ちにして。

はて。どうしてこれで私が、もやしっ子と言われたのか。

小首を捻っている私を見かねたのか、まだ若い婦警は、咳払いをした。それに、そろそろ業務の時間でもある。

「また来ます」

「来ても、何も得られませんよ」

「そうでしょうか。 貴方は地元で番長なんて呼ばれていたようですが、貴方から喧嘩を売ったことは一度も無かったようですね。 そもそも、何もかもがちぐはぐに、私には思えます。 この事件、裏は深いんじゃないですか?」

そう言われても、困るけれど。

しかし、だがどうしようもないとしか言いようが無かった。

午後の仕事を適当に済ませた後、軽に乗って家に帰る。家の前でばったりと遭った隣の家の住人が。目があっただけで、固まる。

私は別に身長四メートルもある訳では無いのだが。そもそも威圧感が桁外れらしく、まともに目を合わせることが出来る者さえなかなかいない。

青ざめて逃げていく住人を。

私は、追うことが出来なかった。

 

あの婦警。

青山という名刺をもらって、懐に入れている。とにかくその青山に言われたことが気になって、アルバムを出してきた。

小さなアルバムだ。古い。ちょっと力を入れるだけで、分解してしまいそうな、脆いそれを、開いていく。

すぐに写真は見つかった。

私だ。

小学校時代のアルバムでは、とにかくひ弱そうな男の子が映っていた。そしてどの写真でも、悲しそうにしている。笑顔の一つも無い。

身長は、平均より大分小さい。

これでは、イジメの格好の標的だっただろう。

ところが、だ。

中学に入ってから、状況は一変する。毎年身長が凄まじい勢いで伸び、三年のアルバムでは、まるで怪物のような。

そう、今の私を彷彿とさせる化け物が映っていた。

周囲の生徒達は完全に萎縮してしまっている。浮かべている表情は、笑顔では無い。というよりも、だ。

考えて見れば、小学校時代から、笑顔で映っている写真が、一つも無い。

自宅のアルバムも引っ張り出して、調べて見る。

写真が殆ど入っていない。

両親は写真を別に趣味にしていたわけでもない。途中まではまばらに入っていた写真だけれど。

小学校を過ぎたころから。

ほぼ、何も無くなった。

つまり、両親はこの頃から、私に決定的な異常を見いだした、ということなのだろう。

ため息をついて、アルバムを閉じる。

しかし、である。

思い出せないものなのだ。別に記憶喪失だから、などと言うことは無い。単純に、ぼんやりとしか、当時のことが記憶から拾い上げられないのである。別に馬鹿と言う事は無い。実際地方公務員になっているのだ。その辺にいるサラリーマンと同等か、それ以上に知恵は働いている。

どんな子供だったか。

それがそもそも、よく分からない。中学を境に、どうも記憶にもやが掛かっている。どうでも良い時代だったから、だろうか。

可能性はあるけれど。

しかし、わからない。腑に落ちないのだ。

携帯に電話。

また例の婦警だ。まだ起きていたので、電話に出ると。彼女は咳払いしてから、言う。

「貴方の同級生に話を聞くことが出来ました」

「はあ、そうですか」

「どうやら貴方、中学校一年の時に、大きな事故にあったそうですね。 その時から、人が変わったと」

事故。

覚えがない。

本当にそれは、自分の事なのだろうか。

一晩寝て、仕事に出て。金曜日だと言う事を思い出して、家路につく。途中、クラクションを鳴らされた。例の婦警だ。

大した事件でもないだろうに、どうしてこんなに熱心に捜査をしているのか。

途中で車を停める。

向こうは、ちょっと話をさせて欲しいと言う。

まあ、別に此方は暇だ。家に行っても、何も無い。趣味を持つ事自体が、今の時代では、命取りだから。

意図的に、趣味を持たないようにしているのだ。それを他人に説明するつもりはないが。

「また何か」

「これを」

見せられたのは、中学校時代の集合写真。

酷い傷を顔中に付けられている自分。その周囲にいる、得意げに笑っている級友達、何人か。

そして、次の写真。

立場逆転。

教室の隅で萎縮したように、引きつった笑みを浮かべている悪友達。

私の顔からは、傷が消えている。

悪ガキどもの体格はかなり良いはずなのに。既に私の方が、背でも体格でも、完全に上回っていた。

「この隅っこにいるこの一人から、証言を聞きました。 中学一年の一学期まで、貴方はイジメのターゲットだったそうですね。 この生徒達は地元でも有名なワルで、万引きや恐喝を繰り返していたとか」

そんな奴らがいたのか。

思い出せないが。

しかし、此処まで鮮やかな逆転劇を見ると。自分が、此奴らに対して、「適切な対処」をしたのは間違いないだろう。

ただ、この当時でも、既に私の力は圧倒的だった様子だ。数人がかりでも、刃が立たなかったのだろう。

そうでなければ、このような連中が。イジメを諦めるはずがない。つまり、わたしに対して、恐怖さえ覚える力の差を覚えた、という事だ。

此奴らも、黙ってはいなかっただろう。

ワルの先輩達を引き連れて、私に復讐しようとして。そして、ことごとく返り討ちになっていった。

だから、高校に到るまで。

私は不良として、周囲から覚えられていた。そして、過剰なほどに、怖れられていたというわけだ。

少しずつ、おぼろげながら、思い出してくる。

しかし、切っ掛けは何だ。

私はどうして、こうも変わった。

婦警に礼を言う。彼女は不思議そうに、どうして礼を言うのかと聞いてきた。

「どうも昔の事は良くわからんのです」

「頭を打ったとか、ですか」

「そう言うことは無いのですが」

思い出さない方が、良いのだろうか。凄惨なイジメの記憶ばかりが、よみがえってくるから。

イジメから文字通りの腕力で立ち直った後も。

その後は、戦いばかりが続いたのだ。来る奴来る奴をことごとく返り討ちにして行って、誰もおそれて近寄らなくなるまで、ずっと暴力を振るい続けた。その間も加速度的に自分は強くなって行って。

今では、この有様だ。

少しずつ、何があったのか、知りたくなってきた。

家に帰った後は、物置を更に引っ張り出す。

今の時点では。

手がかりになりそうなものは。何も出てこない。

 

3、渦の中で

 

アモンが取り出してきたものを見て、アガレスは思わず声を上げていた。

「なっ! どうしてそれが、此処にある」

「わかりません」

流石のアモンも、笑顔を引きつらせていた。

其処にあるのは。

以前、色王寺にくれてやったはずの本だ。魔術書を格納している倉庫で、見つけ出したのだという。

目録には、確かにくれてやったとある。

そして、ここからが重要なのだが。

基本的にアガレスもアモンも、一度手放した品は、破損するまでは回収しない。これは絶対だ。

悪魔にとって、契約とはそれだけ重要なものなのである。くれてやったからには、それは相手のもの。昔は魂を対価にするような事もあったけれど。今は天界と魔界の契約上、出来ない。

何より悪魔にとっては、人間は大事な食糧の供給源なのだ。人間の心の闇を食えなかったら、悪魔は餓死してしまう。

だから、人間が死なないように最も気をつけているのは、他ならぬ天使では無い。悪魔なのだ。

流石に、頭を抱えてしまう。

目録は何度も確認したが、確実に自分の筆跡だ。アモンが嘘をつくはずもない。しかし、色王寺という人間に、この本。スポーツ医学に基づいて体を強くする本と称した魔術書をくれてやったのなら。

どうして、此処に本があるのか。

何度か頭を掻き回す。

現実が理解できない。

この本は、アガレスが修復した。それはよく覚えている。それなのに、手渡した事に対する記憶のみがない。

そして、いつの間に帰ってきた。帰ってきたのなら。作り手であるアガレスが、忘れるはずもない。

アモンもそれをわかっているからこそ。困惑しているのだ。

「まさか、天使か何かが、この空間に干渉しているのか?」

「いくら何でもそれは」

「……そう、だな」

手間と効果が、あまりにも見合わない。

此処は、魔界でも屈指の魔術使いであるアガレスが組んだ空間だ。ルシファーやベルゼバブといった重鎮でさえ、アガレスの魔術能力に関しては、一目を置いているほどなのである。

それを突破して、した悪戯が。

目録とアガレスの記憶の改ざん。しかもほんの一部だけ。

割に合うことでは無い。ましてや、ハッカーとしても超一流のアガレスが、その程度の事に、気付かない筈も無い。

「やはり妙だ。 アモン、この色王寺とやらを調べてきてくれるか」

「ネット上でデータを漁った方が早くないですか?」

「……?」

「いえ、行ってきます」

勿論、どちらも並行で行うのだけれど。

何だろう。妙な違和感を、今のアモンには感じた。いや、他ならぬアモン自身が、自分の発言をおかしいと思ったのだろう。すぐに前言を撤回した。

忠実な片腕が、空間から出て行くのと、ほぼ同時に。

猪塚が上がってくる。

正直相手をする気分では無いのだが。気分転換には、丁度良いかも知れない。

「アガレス様ー! あれ、アモンさんは」

「少し問題が発生していてな」

「どんな問題?」

「私は、基本的に闇を喰らった相手のことは覚えているし、目録も付けている。 それなのに、私の記憶にない人間に、コレクションを対価として与えた記録が残っているのだ」

猪塚は、これでいて馬鹿では無い。

話をすぐに飲み込むと、一緒に考えてくれた。意外に、人間の視点でものを見たら、分かる事があるかも知れない。

「その上、くれてやったはずの対価が、此処に残っている」

「アモンさんが嘘をついている可能性は?」

「無い。 彼奴は基本、私に嘘はつかない」

「そうだよね。 アモンさん、アガレスさまが大好きだもんね」

そう言われると、ちょっと照れくさい。

珍しく真面目に猪塚は考え込んでいたけれど、ふと、視線をそらす。此奴、アモンの影響で、かなり頭が回るようになってきているか。

「もしも、嘘が必要で、仕方が無くついている場合は?」

「そう言うことはあるかも知れないが、少なくともこの目録はごまかせん。 これは私が念入りに魔術で作り上げたもので、これに悪戯をするのは、神でも不可能だ。 ましてや天使どもにはな」

天使の中にも、魔術が得意な奴はいる。

特に四大天使と言われるうちのガブリエルは凄まじい。アガレスでも、魔術勝負で勝てるかはわからない。

ただ彼奴は穏健派の筆頭で、今更自分が火種になるような真似はしないだろう。アガレスも何度か話した事があるが、悪い印象を受けたことはない。もしこれが何かしらの工作による結果だとすると。

多分やったのは悪魔だ。

しかし、やった事の意味がわからない。

アモンが戻ってきた。

猪塚と軽く挨拶をした後、見てきたという本人について教えてくれる。

「アレは確実に、対価の品を使っています」

「そんなに力強くなっていたのか」

「身長は2メートルをかなり上回っています。 身体能力はライオン並みですね。 人間の領域を完全に越えています」

猪塚を一瞥した後。

アモンは、彼女でも勝てないだろうと言った。

猪塚は文字通りの天才で、その凄まじい実力はアガレスもよく知っている。小柄な女という体格的なハンデはあるが、あらゆるスキルと戦技が溝を埋め、実力は歴戦の米国海兵隊員さえ上回る。しかも、帯銃している相手で、である。戦闘に関しては、人間界でも確実にトップクラスだ。悪魔や天使でも、下級が相手なら実力で排除できるだろう。それでも勝てないとなってくると、余程の怪物と言うことになる。

「ほえー。 それは凄いね」

「普通、私は人間に負ける事が絶対にあり得ませんが。 彼の場合は、ひょっとすれば、チャンスがあるかも知れません」

「それほどか」

「ええ。 ただ、不可解な事が」

アモンが見たところ、どうも記憶が曖昧で、難儀しているようだというのである。

ひょっとして、何か彼との取引で、大きな問題が生じたのか。それで、このような訳が分からない事態が起きているのか。

可能性としては否定出来ない。

しかしアモンが、内容の詳細を覚えていることが気になる。それほど危険な状態だったとは思えないのだ。

仕方が無い。

直接、会いに行った方が良いだろう。

大きな問題があるとは思えない。しかしこのすっきりしない感じ、どうも気に掛かるのだ。

コートを着込むと、アモンに出かけることを告げる。

猪塚はついてくると言う。

「何故ついてくる」

「私が勝てない相手が、どんな奴か、見ておきたくって」

「アモン……」

どうにかしろと視線で訴えるが、アモンはあっさり猪塚の同行を許可した。その場ですっころびそうになった。

とにかく、気を取り直して、店を出る。

後をゴモリとフルレティに任せると、空間を跳躍しながら、現地に向かう。場所は、関東の東はし。海に近い街だ。

移動しながら、時間も調整する。

空間が、凄まじい勢いで後ろにすっ飛んでいくのを見て、猪塚が喚声を挙げた。

「わ、新幹線乗ってるみたい!」

「せめてリニアと言ってくれ」

「それ、乗った事無いからわからないもーん」

げんなりするが。

やりとりを見てにこにこしているアモンを見て、さらにげっそりさせられる。アガレスがげっそりするところを見て、楽しんでいるのは明白だった。

現場に到着。

どうと言うことも無い田舎町だ。

此処で色王寺は、市役所に勤めているという。地方公務員というわけだ。資料を渡されたので、ざっと目を通す。

かなりの回数、警察沙汰が周辺で起きている。

「警察沙汰が起きているな」

「ええ。 いじめられっ子だった時代から一転、肉体強化をしてから、しっかり仕返しをして廻ったようなのです。 やり過ぎてしまうことも何度かあったようでして」

「ふむ……」

何か妙だ。

アガレスにしては、どうにも安直なものを渡したような気がしてならない。確かに対価をくれてやっても、どうにもならないようなケースはある。結局破滅に落ちた餌を、アガレスは何度も見てきた。

しかし、である。

今回渡した対価については、どうにもおかしいような気がするのである。

いや、違う。

ようやく、それに気づきはじめた、と言うべきか。

気配を完全に遮断したまま、市役所を見て廻る。

何処にでもある、寂れた役所だ。中で働いている人達は退屈そうで、お役所仕事がのったりゆったり行われている。

面倒くさいので、出来れば足を運びたくない場所だが。

それでも、足を運ばなければならないのが、面倒極まりない。

色王寺は。

探すまでもなかった。

とにかく存在感が抜群である。奥の方の机で、窮屈そうに身を縮めている、常識外れの巨体がいる。

おおと、猪塚が声を上げた。

「でっかい!」

「二メートルをだいぶ超えているな」

しかも、ひょろ高いのでは無い。全身を分厚く筋肉で覆っている。完全に戦士の肉体だ。猪塚に勝てる人間はそうそうはいないとアガレスは知っているけれど。これは確かに、生半可な相手では勝てないだろう。

良く武術家の武勇伝などで、牛を倒した虎を倒したというようなものがあるが。あのような話は、大体がホラだ。

特に素手では、人間の力など、多寡が知れてしまっているからだ。

しかし此奴の場合は違う。

本当に、虎でも牛でも倒せそうだ。

何しろ、アガレスには見えるのだ。

全身を通っている、凄まじい魔力が。単純な肉体だけでは、そうはいかない。この巨体を支えているのは。

以前対価としてくれてやった、スポーツ医学の本と称した魔術書から得た知識と。それに呪い。

執念が、もやしっ子を、巨大な筋肉の塊に変えてしまったのだ。

少しずつ、状況がアガレスにも見えてきた。

これは、本来あってはならない事が、行われたのである。アガレスにとっても、色王寺にとっても、だ。

「声を掛けますか」

「……そう、だな」

タイミングを計って、直接話を聞いた方が良い。

隣から、アガレスの手元を覗き込んでいた猪塚が、無邪気な声を上げる。

「警察沙汰は、最近も起きているんだね」

「市役所に来た無法者を取り押さえたりしているようですね。 もっとも、今ではパワーが違いすぎて、ちょっとなでるというだけでしょうが」

「ちょっと撫でるだけで、あれでは首が折れかねんな」

一応殺しはしていないが。

それでも、警察は色王寺をマークしているようだ。

周囲を見ても、色王寺が尊敬されていることはない。単純に、化け物じみたパワーを、ひたすら怖れられている。ちょっと身じろぎするだけで、周囲が露骨に恐怖を覚えているのが、見ているだけでわかるほどだ。

丁度、色王寺がトイレに席を立った。

トイレそのものに、別空間への入り口を作る。

足を踏み入れた色王寺は、驚くこともなく、周囲を見回した。周囲は真っ暗。店と似たような、異質な空間だ。

「これは……」

「久しぶりだな」

後ろから声を掛けてやると、振り向く色王寺。

しばらく小首をかしげていたが。アモンを見て、頷いた。

「思い出した。 確か会ったことがある」

「アモンです。 此方はアガレス様と、猪塚さん」

やはり、おかしい。

まずアモンに声を掛けた。そして、アガレスの事は、明らかに忘れている。アモンがアガレスを裏切るような真似をするはずもないし、何かが決定的にねじれてしまっていると見て良いだろう。

アモンが大きな椅子を用意してきたので、色王寺が座る。

少しずつ、何があったのか。

アガレスにも、思い出せてきた。

しかし、まだ決定的な所には、届かない。

アガレスにも、席が出た。

席に着くと、その隣に猪塚が立つ。猪塚は圧倒的な色王寺の戦闘力を、肌で感じ取ろうとしているようだった。

口笛を吹くのが分かった。

勝てない、と判断したのだろう。

それでも平然としているのが、今の此奴の実力から来る余裕だ。

 

色王寺に、少しずつ話を聞いていく。

かってもやしっ子だった事は、色王寺も覚えていた。しかし、彼も中学前後の記憶が、曖昧なのだという。

記憶を失っているようなことはない。

だが、どうにももやが掛かったように、思い出せないというのだ。

確かに人間の記憶はいい加減だ。十年もすれば、記憶なんて、綺麗に忘れ去られてしまう事もある。

だが、此奴の場合。

体が弱くて、イジメのターゲットにされていた時代は、悪い意味で印象に残っているはずだ。

トラウマ克服のために、意図的に忘れているという可能性も、確かにある。体を守るために、そうする者もいる。

だが、である。

この男は、アガレスの所で対価を貰ってから、反撃に転じた。

そして数ヶ月もしないうちに、いじめっ子を全員叩き潰して、立場を逆転させたのである。

それは、痛快では無かったのか。

どうして、その痛快なはずの記憶を、忘れ去っているのか。

「確かに、当時どうしようもなくなって、都市伝説に頼った記憶はある。 しかし、人外のものだという貴方が、どうしてそのような」

「私にも分からんのだ」

アガレスが言うと、色王寺は巌のような顔を、わずかに動かした。

顔にはかわいげの一つも無い。

頑強すぎる肉体と、あまりにも男という存在を前に出しすぎた顔は。おそらく、今の日本ではもてる要素には一切結びつかないはずだ。仮に結びついたとしても、抱かれて無事で済む女なんていないだろう。

「そもそも、だ」

アガレスは咳払いした。

此奴を目の前にしてはっきり理解したのだが。アガレスは、やはりこの色王寺という男に会っていない。

目録だけが加えられ。

アモンは品を渡した。

アモンの方に視線をやる。

首を振るアモン。おかしな事はしていないし、ましてやアガレスを裏切るような事など絶対に無い。

無言だけで、それが分かる。

となると、どういうことだ。

「お前が、この本を使ったことは覚えているか」

「分からない。 だが、何かがあったことだけは、確かだろう」

「触ってみるか」

少し悩んだ末、色王寺が本を受け取る。

しかし、中身に目を通した色王寺は、首を横に振るばかりだった。

「覚えていない」

「そう、だろうな」

アドレスを渡しておく。

色王寺も何を思ったか、彼の巨躯にしてはあまりにも小さすぎる名刺を差し出してきた。少しへの字で口を結んだ後、アガレスは頷いて、名刺を受け取った。

空間から、色王寺を送り出す。

仕事場に、色王寺は戻っていった。

はっきりしたことが二つある。

「あの男は、店に来ている。 そして私を介さずに、品を受け取った」

「しかし、私は確かに」

「それも間違っていない。 結果、考えられる事は、一つだ」

あの男は。

この世界の人間では無い。

 

色王寺と別れてから、アガレスは自分の仮説を、アモンと猪塚に話していく。仮説と言うが、可能性としては、それ以外に考えられない。

アガレスは魔術の大家で、それこそ世界屈指の存在である。

だからこそ、簡単に出し抜ける事は無い。

それが、アガレスを介さずにそのコレクションが漏出し。しかも、記録だけが残るなんて事は、あり得ない。

しかしあり得る場合が、一つだけある。

「入れ替わりだ」

「あの色王寺が、ですか」

「そうだ」

「分かるように話して?」

猪塚が隣を歩きながら、笑顔を浮かべる。

笑顔を作ってはいるが、蚊帳の外にいることで、露骨な不満を覚えている表情だ。此奴を怒らせると、色々面倒くさい。

「要するに、だ。 色王寺という男は、この世界とは別の世界で、別の私に接触して、あの本を受け取った」

「うん、それで」

「そしてあの男は、願いを叶えた。 違う自分になるという願いを」

つまり、である。

本当に自分とは違う存在になってしまった、ということだ。

その場合、元の自分はどうなったのか。

恐らくは。別の世界のスポーツ医学本を手にしたまま、元の世界にいるのだろう。ただし、それは元の自分であって、元の自分では無い。

クラッカーを取り出した猪塚が、二つを合わせる。

ボールがかちんと音を立てて、ぶつかり合って。運動エネルギーを、一方へと伝えた。なるほど、飲み込みが早い。

そう言うことだ。

「つまりあの色王寺さんは、別の世界から自分だけ来てしまった、という事?」

「そうだ。 しかしこの考えにも問題がある」

本を手にしたアガレスが、中身を見せる。

元々この本は、禍々しいまでの執念が、悪魔を呼び寄せてしまったものだ。フルレティが呼び寄せられたのは、相手の闇があったから。スポーツ医学というものに、実際以上の成果を求めて得られなかった男が、産み出した執念。それが放つ強烈な闇に呼ばれたのである。

その結果、戯れにフルレティが干渉し。本を読むことで、頑強な肉体を得られる本に仕上がった。

やがてこの本は焚書されて、現存品はなくなったのだけれど。

これはあくまで、本人を強くする本。

一体どうやって、色王寺は自分自身を、此方の世界にはじき出したのか。

それが分からない。

店に着いた。猪塚も流石に疲れたらしく、あくびをしながら帰途につく。彼女を送って戻ってきたアモンが、小首をかしげた。

「納得いく部分と、行かない部分がありますね」

「多分色王寺がいた世界では、私は姿を見せないようにして、取引をしていたのだろうよ」

「いえ、そうではなくて」

目を細めたアモンが、重要なことを、唐突にアガレスに言った。

アモンが目を細めるとき。笑顔は消える。

此奴はアガレスの事を一番大事に思っているが故に。最悪の時には、自分が犠牲になる覚悟までしている。

だからこそ。言葉には、重みがある。

「アガレス様、そもそも魔術で品を修復することはあっても、魔術そのものを品に込める事は無かったじゃ無いですか」

「それはそうだが。 異世界の私は、違うと言う事なのだろう」

「どうにもそれが納得いきません。 ひょっとして、何か前提が、決定的に間違っているのではないのか、と思うのです」

何か前提が間違っている。

つまり、アガレスの仮説は、違う。

しかし他に可能性は考えられない。目録の異常は、あり得ない人間が此処に現れたからでは無いか、と思うのだけれど。

しかし、である。

もしも、他に可能性があるとすれば。

頭をかきむしるアガレス。アモンは珍しく、ハーブティを作って出してきた。甘味を出していないと言う事は。

考えて欲しいと言う意思表示だ。

 

4、私は誰だ

 

何だか、納得がいくような、行かないような体験だった。

私にとっては、この肉体が尋常なものではないことはわかりきっている。確かに人外のものが、体の形成に関わっていたとすれば、それも納得できる。しかし、である。本当に人外のものなんて、この世にいるのか。

何かのトリックだった可能性は否定出来ない。

婦警が来た。

市役所に直接来るというのは、何か急な話か。彼女は場所を変えて欲しいと言ってきた。嫌な予感がびりびりとする。

昼休みに、外で話を聞く。

いつも使っている量だけ多い定食屋に赴くと。彼女はいきなり、場に爆弾に等しい発言を放り込んだ。

「失礼とは分かっていますが。 遺伝子の解析をさせていただきました」

「何……?」

「どうにも解せない部分がありましたので。 その結果、あまりにも驚くべき結果が出ました」

色王寺は、人間では無いという。

正確には、ホモサピエンスとは、微妙に遺伝子がずれてしまっているという事だ。新種と言う事なのか。

しかし、人外の者どもに連れて行かれた空間で、おかしな事を幾つもいわれた。しかも、今の肉体がおかしい事は、色王寺も分かってしまっている。つまり、これは。あの人外達と関わった結果なのか。

妙な話なのだけれど。

私は、あの空間であった人外達の言う事を、素直に聞き入れている。

あの者達が人外の存在であった事さえも、受け入れている。

「それで、私はどうなると」

「この結果は極秘にしておきます。 失礼ではありますが、貴方が本当に色王寺様かどうか、判断したかっただけですので」

「……」

警察が、其処までするのか。

そもそも、色王寺は犯罪か何かの重要参考人か。ただ、チンピラに絡まれて、撃退しただけだ。

何か大きな事件にでも、関わったのか。

定食屋から出ると、ずっと視線を感じるような気がした。人間では無い。はっきりそう宣告されて、ショックを受けなかったと言えば嘘だ。

しかし、どうにもおかしい。

自分が常人離れしていることくらい、ずっと昔から理解していた。それなのに、何を今更、である。

記憶が曖昧なこと。

この異常な肉体。

どれもが、線で結びついてこない。しかも、あの女。

疑いを持つ。あれは本当に、警官なのか。名刺はもらっているから、調べることは出来るけれど。

どうにもおかしいように思えてくる。

確かに、幼い頃は、体が弱くて。いじめられっ子だった記憶はある。しかし、此処まで劇的な肉体変化があった理由は。

人外に、どうしてそこまで変化を熱望した。イジメを受けていたからか。しかし、それだけなら、対処方法はあったはずだ。

命の危険さえ感じるイジメだったのか。

自分が何を考えていたのか、分からない。そもそも、本当に私は、私なのだろうか。当時の私を知る人間と会いたい。

出来れば、当時の私自身に、話を聞いてみたい。

人は変わる生き物だとは知ってはいても。

まさか、昔の自分が分からなくなるとは、思ってもみなかった。

何から手を付けて良いかも分からず、デスクで茫洋としていると。課長が来た。おそるおそるという風情だ。

「色王寺くん」

「何事ですか」

「すまんね。 また、変な客が来たみたいなんだ」

「すぐに行きましょう」

これしか、生き甲斐がない。

受付に色王寺が顔を見せると。おそらくプロ市民と思われる、チンピラまがいの人間が、青ざめて退いた。

ひょっとすると、既に相当な有名人なのか。

「お客様。 他のお客様が迷惑しておりますので、お帰り願いますか」

進み出るだけで、物理的な圧力さえ生じる。

男が小さく悲鳴を上げて、ひっくり返りそうになったところを、優しくつまみ上げるようにして、転ぶのを防いだ。

目線を同じ高さにして合わせる。

「困りますお客様。 勝手に暴れられたあげく、勝手に転ばれては」

「ひ、ひいっ!」

玄関の外に置くと、転がるようにして男は逃げていった。

ため息が出る。

いっそのこと暴れでもしてくれれば、少しは鬱憤が晴れたものの。振り返ると、さっきの男以上に。

私を怖れているのが丸わかりの視線で。

同僚達が、此方をうかがっていた。

 

家に帰ると、酒を浴びるように飲んだ。

思い出せないという事が、こうももどかしいとは思わなかった。本当に当時の私は、どうして悪魔に魂を売るような真似をしたのか。たしかにこの体は頑強で、昔とは真逆だけれど。

ものには限度があるではないか。

弱々しい体に戻りたいか。

そう聞かれたら、答えは否だ。頑強なこと自体は気に入っているし、私は何より、戦いが好きだからだ。

しかし、このままでいても、居場所なんてある筈もない。

それも分かりきっているから、ため息が出るのである。酒は高い。後で財布から金がたくさん消えてしまう事も、分かっていた。

ぼんやりとしながら、テレビを付ける。

チャイムが鳴ったのは、直後である。

玄関に顔を出すと。

いつもの婦警とは、違う警官だった。

ドアを開ける。警察手帳を出してきたので、一瞥。何の用だろうと思ったら、近くで殺人事件が起きた、という事だった。

「何か聞いていませんか」

「今帰宅したばかりですので」

「そうですか」

巨躯に圧倒されながらも。警官は敬礼して、ドアを閉めた。

ビールでは埒があかないので、焼酎を出してくる。勿論水割りなどしないで、そのまま飲む。

しばらくすると、流石にうっすらと酔いが回ってきた。

目を閉じると、頭を振る。

酒にでも溺れないと、やっていられない。しかし、酒を飲み過ぎると、起きたときに部屋が酷い事になっている事が多い。

だからこの辺りで止めておく。

ベッドに転がると、ぼんやりと天井を見た。いっそのこと、暴れてみたらどうだろう。こんな居場所のない世の中だ。

何もかも壊し尽くして。

そして、自分だけが最後に立っている。

そんな光景も、悪くないかも知れない。

しかし、目が覚めると。仕事をしなければ食べていけないという現実が待っている。身を起こすと、いそいそと支度。

頑健すぎる体は。

二日酔いになる事さえ、許してはくれない。

市役所に出る。

ぶるぶる震えながら、新人がお茶くみをしてくれた。一瞥するだけで腰を抜かしそうになるので、もうそちらはみない。

資料を整理していると。

外で大きな音がした。

玄関から外に出てみると。どうやら、近くで爆発事故が起きたらしい。既に消防に連絡が行っており、間もなくサイレンの音が近づいてくるのが分かった。

無言で、爆発事故の現場に乗り込む。

如何に人間に対して無敵であっても。

こういった現場だったら、或いは。私を殺してくれるかも知れないと思ったからだ。

ありふれた工場の中では、引火して、周囲が瓦礫の山になっていた。見回す限り、放置していたら助からない人間が多数いる。みんな気絶していたり、負傷が酷くて動けない様子だ。

倒れている人間を、次々に引っ張り出す。命がないものはいないようだ。

瓦礫を片手で押しのける。

スパークを起こしている機械を蹴飛ばすと、空いている所にぽんと飛んでいった。その後、凄まじい破壊音が響いて。工場の壁に穴が空いた。

耳だって、生半可な精度じゃない。

だが、大きな音は何とも感じない。

むしろちいさな音は、確実に拾える。

こういうとき、思い知らされる。自分がもう、人間では無いのだと。

倒れている人間を見つけ出すと、確実に助け出していく。火も回っていたので、鬱陶しいと思ったが。

体にダメージが来る事は無い。

これだけ危険な現場でも。

私を傷つける事は、出来ないのか。

煙を吸い込んでも何ともない。

普通だったら、これだけで身動きが取れなくなるはずなのに。

助け出した人を外に運び出しながら、吼える。

「救急! 急げ!」

悲鳴を上げた見物人達が、逃げ散る。

舌打ちした私は、自分で携帯を使って、救急に状況を説明した。鏡に映った私の顔は、煤だらけで、怒りに歪んでいて。まるでいにしえの武神か、仏像として掘られた明王のようだった。

救急が飛んできた時には、もう4回目の工場突入を果たしていた。

引っ張り出した人数は合計十七人。そのいずれもが、私が突入しなければ、火と煙に巻かれて死んでいただろう。

消防が、ようやく消火をはじめる。

救急が慌ただしく並べられている負傷者を、手分けして搬送しはじめた。すぐに警察が飛んできた。

見物人が、立ち尽くしている私を見て、ひそひそと話していた。

例の婦警が来る。

険しい表情だ。

「署で、事情を聞かせて貰えますか」

「人命救助をしたのにか」

「見物人の中から、貴方が炎の中から出てきたという証言が出ています。 脅されたとも」

巫山戯るな。

絶叫した。警官達でさえ、尻餅をつく。

見物人達はその場で卒倒したり、悲鳴を上げて逃げていく。

私は、怒るべきだった。その権利も有していた。

だが、権利を使ったことが、致命的な結果を生んだ。

警官達が、一斉に銃を抜く。猛獣を見る目で、私を見ていた。

震えている者もいる。更に応援を呼んでいるようだった。十人以上で、囲んでいるのにもかかわらず。

婦警はいつの間にかいない。

班長らしい男が、叫ぶ。

「頭を手の上で組んで、伏せなさい!」

「……っ!」

この仕打ちは何だ。

工場の事故で、人を助けて。死ぬはずだった人間を、十人以上も救ったのに。

別に感謝しろとは言わない。

だがこの仕打ちは、あんまりではないのか。

人と見かけが違うというのは、それほどの罪だというのか。力だって、積極的に振るった事は無いのに。

「手錠を!」

まだ若い警官が手錠を掛けるが。

力を入れるだけで、内側からはじけ飛んだ。どんな合金で作っているか知らないが、飴細工のように脆い。

「かまわん! 撃て!」

周囲で、一斉に銃声が轟く。

私は、どうやら死ぬ事が出来そうだと思った。

 

アモンが新聞を持ってくる。

いつもの地方のペーパー紙では無い。大新聞だ。

この間見に行った色王寺が載っているというのだ。どれどれと、新聞を受け取ると、一面である。

工場火災発生。

幸い死者は出なかったが。現場にいた男が発砲した警官隊を振り切り、逃走。現在も掴まっていないという。

男は市役所に勤める色王寺誠(29)。非常に興奮しており危険なため、見かけても近寄らず通報するように、と記事にはある。

内容をよく見てみると。

工場の事故は、明らかに人為的ミスが原因だ。

それなのにどうして色王寺を尋問し、なおかつ発砲までしたのか。

しかも、である。

工場火災の跡を見ると、死者が出ずに済むような状況では無い。ひょっとして工場で働いていた者達を助けたのは、色王寺では無いのか。

ため息が出る。

あまり器用そうな男には見えなかったが。脳みそまで筋肉になってしまったのか。素直に警官隊に従っていれば、このようなことにはならなかっただろうに。

ただし、警官隊も、簡単に色王寺を捕まえるのは難しいだろう。

ライオン並みのパワーに、人外の耐久力である。

アモンでさえ遅れを取るかも知れないと言っていたほどの存在だ。自衛隊でも手こずるかも知れない。

「どうしますか」

「普通だったらどうもしないのだがな」

まだ色王寺については、分からない事がある。

そして、今。アガレスは、仮説を一つ立てている。今までの考えに矛盾しない仮説。そしてこれが本当だったとしたら、洒落にならない状況に発展しかねない。

そもそも、アガレスが魔術関連の道具を人間に渡したという事が、おかしかったのである。

確かにアモンが言うように、前提が既に間違っていた可能性が高い。そして、この場合。

色王寺は。

猪塚が丁度来たので、来るように言う。

アガレスは、コートを羽織った。

戦う事は出来ないけれど。

色王寺を捕まえることなら、或いは出来るかも知れない。

 

警官隊から気がついたら逃げ延びていた。

そのまま撃ち殺されれば良かったのに。

ぎりぎりで、本能的に弾を避けてしまったのだ。跳躍して、警官隊の上を飛び越えて。そして、走って逃げてしまった。

蹴散らせば、もっと簡単だったかも知れない。

しかし、そうすれば、確実に警官隊を殺す事になっていただろう。

どれだけ、戦いを挑まれるとしても。

他人を殺すのは嫌だ。

戦いそのものは嫌いでは無いのに。

殺すのがいやなのは、おかしいけれど。しかし、これは色王寺誠の、私の本音だ。

逃げる場所なんて、ない。

友人なんて一人だっていない。

アパートにももう手が回っているはずだ。携帯は電源を切った。入れていれば、場所を探知されるからだ。

それくらいの知識は、私にだってある。

繁華街に逃げ込んで、潰れたビルを見つけた。

景気が悪い今、こういう幽霊ビルは彼方此方にある。中は廃墟同然で、ホームレスが入り込んでいることも多い。

だが、中には。幸い誰もいなかった。

奥へ歩く。

階段を上がって進む。

かつんかつんと、音が響く。鼠がいるようで、小さな足音が、彼方此方から聞こえた。階段に腰を下ろすと、大きくため息をつく。

工場の火事なんて、放っておけば良かったのか。

十人以上を、見殺しにすれば良かったのだろうか。そうすれば、あのような言いがかりを付けられず、警官隊に撃たれることは無かったのか。いや、抵抗しなければ、そもそも良かったのだろうか。

いや、無理だ。

そもそもあのつきまとっていた婦警からして、変だったのだ。

警察は、危険人物として、私をマークしていたに違いない。ようやく、それが合点がいった。

あの女、或いは県警どころか、公安あたりの人間かも知れない。

あの機動力や不可思議な行動。

いつ暴発するか分からない爆弾、つまり私を、公安が見張っていたのだとすれば。つじつまが、確かに合う。

何度も、ため息が漏れる。

腹が減ったけれど。銀行口座も、この様子では凍結されているだろう。

所持金は二万円程度。

途中で拾った新聞を見ると、やはり警察は色王寺を、工場火災の重要参考人として追っているようだ。

しかも射撃から逃げた以上。次は問答無用で撃ってくるだろう。狙撃用ライフルを投入してくるかも知れない。

動物園から逃げた猛獣と同じだ。

或いは、言いがかりを付ける切っ掛けを、探していたのかも知れない。

何か通報があれば、その時点で。

色王寺を危険人物として捕らえ、監獄なり精神病院なりで一生幽閉するつもりだったのか。

疑心暗鬼が。

憶測から、次々に恐怖を呼ぶ。

怖い。

ただし、警官や銃は怖くない。

自分の死も怖くない。

全てが否定される事だけが怖い。

周りは全て敵だ。どうせ誰も、私が言う事なんて、耳を傾けはしないだろう。昔から、そうだったのだから。

世間では、イジメを行う方が正義と言う事か。

いじめられっ子は、死ぬまで虐められていろと言うのか。

抵抗したら、殺しても良いと言うのか。

それがこの世の理屈か。

それならば、みんな殺して、自分が生き残るしかないのか。殺すのは嫌だけれど。このまま全ての尊厳を否定されるのは、もっと嫌だ。

「落ち着け」

階段の下。

口をへの字に結んだ、見覚えのある子供。髪が長くて、コートを羽織っている。元々黒い髪に黒いコートで、漆黒の中、顔だけが浮き上がっているようだ。

「確か、アガレス、だったな」

「そうだ」

「何をしに来た」

「お前に何が起きたのか、仮説を立てることが出来た。 お前を元に戻すことは出来ないが、少しは状況を改善出来るかも知れない」

今更、誰も信用できない。

身構える私を見て、アガレスは大きくため息をついた。

「既に警察は、このビルもかぎつけている。 此処で腐っていても、すぐに踏み込んでくるぞ」

「お前が呼んだのか」

「だったら危険を冒してわざわざお前の所に出てくるわけが無いだろう。 興奮しているお前は、手負いのライオンよりタチが悪い」

興奮している、か。

確かにそうかも知れない。それに相手は、人外の者とは言え、所詮は子供だ。何を怖れる必要がある。

それでも油断せず、階段を下りる。

その気になれば首を即座にへし折れる位置に来ても、アガレスは怖れる様子が無かった。じっと、私が側に来るのを待っていた。少なくとも私を怖れていない所だけは、他の人間と違う。

人外の存在とは言え、其処だけは好感を持てる。

本当に人外だから、なのだろう。

アガレスが言うまま、ついていく。廃ビルの中を歩きながら、アガレスは言う。

「どうにもお前に与えた道具がおかしくてな」

「くれた覚えがない、というやつか」

「ああ。 しかしお前自身は、道具の影響を受けている。 しかも、私だけが、与えたという記憶を持たない」

既に朽ち果てているビルだ。

ドアも何も残っていない。ある部屋の名残らしき場所に入ると。以前トイレに入ったときに見たような、闇が満ちた空間に突然切り替わっていた。

何かのガスで、幻覚を見せられているのかも知れない。

しかし、それにしてはリアルすぎる。感覚もきちんと存在している。

また椅子を用意されたので、座る。

いつの間にか、以前いたアモンと、小柄な女が、側にいた。小柄な女は興味津々に此方を見ているが。アモンは笑顔を浮かべてはいるけれど、戦闘態勢に入っているのが分かった。

大分、私より強い。

ただ、私が動かない限り。戦うつもりは無い様子だが。

アガレスが、以前見せてくれた本を、取り出してみせる。

「お前の人生は、この本のために狂ってしまった」

「そうなのだろうか」

私は、違うと思っている。

弱い体で生まれてしまったことが、全ての失敗だった可能性が高い。強い人間が暴力とイジメを行う事が正当な権利だとされているこの社会で、それは致命的だった。そう、私は考える。

物理的な力が逆転した後も。

幼い頃に培われた力関係は、社会では健在だったという事なのだろう。

どいつもこいつも、弱い者いじめが大好きなのだ。人間という生物は、生まれながらに、その程度のクズなのだ。

私がそう言うと、アガレスはふむと鼻を鳴らす。

「随分とまた、悲観的だな。 いじめられっ子に生まれても、後に社会的に大成した人間はいくらでもいるぞ」

「私は少なくとも、そうではなかった」

「いずれにしても、過剰すぎる力が、お前を狂わせてしまったのは事実だ。 解決策は、これしかない」

アガレスの手が、燃え上がる。

違う。

本が、着火したのだ。

涼しい顔をしている様子からして、アガレスは手に火傷をしていない。手ごと燃えているように見えるのだが。

鋭い悲鳴が上がった。

それはアガレスのものではない。

アモンも、女も、平然と様子を見つめている。その程度で、アガレスがどうにかならないと、知っているのだろう。

本が、悲鳴を上げているのだ。

しかも、中々焼け落ちない。

「やはりな。 ようやく、原因が分かった」

鋭い悲鳴を上げながら、本のページがめくり上がる。その中に無数の牙が並んでいるのを、私は確かに見た。

やがて、本が焼け落ちる。

アガレスはやはり、手に火傷の一つもしていなかった。

「この国を離れろ。 パスポートは偽造したものを用意しておく。 今なら空港から、堂々と出られる」

「何故そのような事をしてくれる」

「此奴はな。 私のコレクションに紛れ込んでいた異物だ。 とはいえ、私がそれに気付かなかったことで、お前をおかしくしてしまったことは事実だ。 よその国なら、その体格でも多少はましに接して貰えるだろう」

気付くと。

国際便も出る空港に、私は一人で立っていた。

旅券も持っている。

体格自体は、変わっていない。私は相変わらず、化け物のままだ。しかし、それでも。

パスポートを取り出す。

搭乗手続きを済ませて、ぼんやりと待つ。警察が押し寄せてくるかも知れないと思ったけれど。

結局、そのまま飛行機に乗ることが出来た。

これから、どうしよう。

飛行機はアメリカに向かっている。所持金を向こうでドルに換えたとして、生活は一からやり直しだ。

日本にはもう家族もいないし、家も財産も他者の手に落ちた。

着ているものとわずかな金だけしか残っていない。これで一体、どうすれば良いというのだろう。

いっそ、死ねば良かったのだろうか。

言葉も通じない異国の生活には、恐怖しかない。市民権だって得られないし、どうやって生きていけば良いかも分からない。

じっと手を見る。

死ぬよりは、マシだったのだろうか。

分からないとしか、言いようが無かった。

 

5、異物の名前

 

焼け落ちた本の残骸が、風に吹かれて消えていく。

この本こそ、諸悪の根源だ。

悪魔であるアガレスがいうのもおかしな話だが。それが事実である。

「アガレス様、結局その本は」

「別の世界の邪神だ」

「はあ?」

「おそらく、権力争いか何かで敗れたかで、この世界に追放されたか、或いは逃げ込んできたのだろう。 それがお前があの本を再生したときに、織り込まれた魔術の中に紛れ込んだのだ。 そしてずっと、人間に寄生する機会を狙っていた。 まさか本そのものに意思があり、しかも私の魔術を改ざんするほどの力があるとは、誰も思わないだろう」

あくまで異界の存在だから、この世界では力を発揮しきれなかった。故に、アガレスでも、種さえ分かれば簡単に対処できたのだ。

邪神は狡猾だった。

目録に登録されたことを良いことに、自分の情報を勝手に改ざん。内側からの改ざんだったから、アガレスも気付けなかったのである。

そして、虎視眈々と。

寄生する好機を狙っていた。

そしてアガレスがたまたまいないときに来た客を見計らい。

周囲の記憶を改ざんしながら。

自分の種を、植え付けたのだ。

客の名前は言うまでも無く色王寺誠。

アモンでさえ、その鮮やかな手並みには騙された。

どれだけ強い邪神でも、異世界の存在である以上、力は発揮できない。力を振るうためには、依り代が必要だったのだ。

色王寺が強くなるにつれて、邪神の力も増していた。傀儡となる存在を、作り出せるほどに。

ここに来る前に、色王寺の周辺で動いていたらしい警察関係者を少し調べて見たが。

少し前から不可解な言動を繰り返していて。尋常な様子では無かった。

そして、本を燃やした直後に、全員が署で卒倒したという事も、先ほど調べて確認した。間違いなく、邪神の傀儡となっていたのだ。

命の別状はないらしいが。此処数ヶ月の記憶がないとかで、周辺を困惑させているのだとか。

色王寺を追い詰めて、狂気を増大させ。

そして最終的には暴発させ、自身の依り代とするつもりだったのだろう。

ほうきとちりとりを取り出した猪塚が、燃え滓を集め始める。確かに放置しておいたら、そのうち復活しかねない。

ちりとりを受け取ると、空間ごと圧縮。

これで、生半可な事では、脱出は出来ないはずだ。

それにしても今回の件。

アガレスほどのハッキングの達人が、トロイの木馬を仕込まれたようなものだ。それに、思うところもあった。

あの色王寺という男。

あれだけの力を得ながらも、自分を見失っていなかった。

暴力に酔ってもいなかった。

それだけ、元々強い心の持ち主だったのだ。それなのに、社会は評価しなかった。人間という生物は、平均的に他者を見る目なんて持ち合わせていないことは、アガレスも知っていたけれど。

ただの一人でも、あれだけの暴威に酔わず、殺人も犯さず、周囲に迷惑を掛けないよう努めていた色王寺を評価できる人間はいなかったのだろうか。

ただ、見かけが怖い。

暴れ出したら、殺されるかも知れない。

色王寺は、その理由だけで、迫害が正当化された。今頃市役所の連中は、如何に色王寺と接するのが恐ろしかったか、マスコミにでもまくし立てているだろう。

「私は、見かけがこんなだけ、まだ幸運だったのかな」

ぼそりと猪塚が呟く。

とりあえず、もう此処に用は無い。アガレスは、今後の事も考えて、アモンにコレクションの整理をさせようと思った。

一度、家に戻る。

ため息をついて、自分の肩を揉むと。猪塚が珍しく優しく接してくれる。

「肩を揉んであげようね」

「んー」

子供なのに老人のように扱われていることに、今は文句を言わない。

ただ、コレクションの中に、あんなものが仕込まれていたこと。そして自身で気付かなかったこと。

それが、口惜しかった。

結局の所、アガレスだって完璧では無い。魔術において卓絶した力を持っていたとしても、それは有限なのだ。

「なあ、猪塚」

「なあに、アガレスさま」

「あの男、今後どうするんだろうか」

「私が思うに、あの人ってきっと、ふとした切っ掛けで力を手に入れてしまった人の見本みたいな存在なんだと思うよ」

不意に死んで、神様によみがえらせて貰って。

そして力を得て。

新しい世界に転生して、其処で大暴れする。

そんな中学生が妄想するような状況に、確かに色王寺が落ちた状況は近い。圧倒的なパワーに、周囲を寄せ付けない頑強な肉体。頭だって、決して悪くは無かった。

だが、此処は中学生の妄想世界じゃない。

異常すぎる力は畏怖される。圧倒的な暴力を振るえば、人は死ぬ。死ねば当然。傷ついても、人には恨まれる。

暴力は暴力の応酬を呼び。

そして、力が故に、誰にも理解できない。理解もされない。そもそも、人間は他人を理解しようとさえしない。理解した気分になるだけだ。

そして、孤独で異常な力だけを持った、ヒトの形をした猛獣が残ったのだ。

妄想の世界だったら、周囲は理解者という名のイエスマンで埋め尽くされたのだろうけれど。

此処は、そうではなかった。

少なくとも、色王寺の周辺に。

彼を理解する者も。追従する者も、現れなかった。

「開き直って犯罪組織か何かを支配するか、或いはずっと逃げ回り続けるか。 それとも、もう諦めて、軍隊にでも入るか。 それくらいしか、ないだろうね」

どの路も、開けているとは言いがたい。

自分もこの件は、一枚噛んでいるのだ。だから、どうにかしてやりたいとは思うのだけれど。

過剰な干渉をすれば、天界が絶対横やりを入れてくる。

それに、彼処まで形が変わってしまった存在は、もう元には戻らない。アメリカに逃がしたのだけでも、アガレスとしては良くやった方なのだ。

猪塚がおミカンを用意してくれた。

アモンが作ったミカンだとさわって分かったので、安心して口に入れる。座布団を敷くのは、いつもはアモンの仕事だけど。今日は猪塚が敷いてくれて、バックヤードからおこたまで出してくれた。

おこたにはいると、流石に心が安らぐ。

「これは日本最高の発明だな」

「だよねえ」

もう、何も考えたくない。

しばらく、横目で状況だけを見ることにした。

アモンがさっそく、コレクションの整理をはじめた。此処は時間の流れが違うから、いくらでも調査することは出来る。

後は、彼奴に、何か出来る事は無いか。

考えて、おきたかった。

 

アメリカの片田舎に、ある噂が流れはじめた。

ヒーローが現れると言うのだ。

アメリカは、屈強なアメリカンヒーローを好む地風がある。だから、たまにそういったヒーローを真似て、正義を気取る男は現れる。だが、大体はただの変人。本物の悪人の餌食にされたり、ストリートギャングに返り討ちにされたりと、碌な末路を迎えないのが実情だ。

だが、そのヒーローは違う。

ギャングが牛耳るスラムに現れると、銃撃戦を繰り広げていた十人以上を、瞬く間に伸して去って行った。

子供をさらおうとした男を、瞬時に叩き伏せ、子供を救い出した。

薬物販売を生業にしていた連中が、一晩で全滅した。警官が踏み込むと、全員が瀕死の状態で、犯罪の証拠も全てさらけ出されていた。

どれだけの警察の追求からも逃げ切っていた汚職官吏が。あまりにも無惨な姿で逮捕された。汚職の証拠を全身に貼り付けて、椅子に拘束されていたのだ。

ヒーローの格好は粗末で、まるで闇に溶けるよう。

それなのに、まるで天を突くような巨体。

本物のアメコミヒーローが、二次元から迷い出たのでは無いか。そんな話さえ、巷には広がりつつあった。

勿論ニュースになった。しかし、取材に成功した者はおらず。

警察もマスコミもその姿を躍起になって追ったが。結局、捉えることが出来た者は、誰一人いなかった。

助けられたという人間は多かったが。

彼らは、一様にこう主張した。

何も喋らなかった。

冷たい目で一瞥だけして、去って行った。

それに、痕跡も不可解だった。

三メートルは垂直跳びしたとしか思えない足跡。百三十キロはある巨漢が、まるでバスケットボールのように飛ばされて、壁に突き刺さっていた。十人を超える屈強なストリートギャングが、二分も掛からず全員のされた。

銃で撃たれたのに、平然と動いていた。

煙の中でも咳き込みさえせず、同じくらいの体格の男が、一発殴られただけで遠くへ飛んでいったというものもあった。

火事場で、人を助けたという目撃例もある。

しかし、彼は。

他人に顔も見せず。

そして、何一つ、語ることはない。

アガレスがその情報を聞いて、すぐに色王寺のことだと悟ったけれど。同時に、もう一つの事に、気付くことになった。

色王寺は、もう人間の活動をしていない。

食糧も必要ない。

眠る必要もない。

もともと、戦う事が好き。

人を殺すことは嫌い。

静かに暮らしたい。

それらの願望を叶えようと思ったら。おそらく、それにしか選択肢は残っていなかったのだ。

コートを出すように、アモンに言う。

アモンは、呆れたように応える。

「助けに行くんですか」

「ああ」

「無為ですよ。 彼はもう、人間ではありません。 分かっているでしょうが、単純な現象になってしまっています」

そうだ。

都合が良いところに都合良く現れ。

弱者を助けて、其処にあり得ない痕跡を残していく。

それは二次元ではヒーローと呼ぶべきものだろう。

しかし、ヒーローは、人間社会では実現できない。食べるもの、暮らす場所、生活に使うお金。

何より情報、支援者、助けを求めている存在。

何もかもが、無私の奉仕では、手に入らないからだ。

だから、いっそのこと。色王寺は、人間を止めてしまおうと思ったのだろう。

そして、魔術に汚染されたあの体は。何より、邪神のよりしろとなるべく調整されていたあの体は。

主の希望に応えた。

今、ネットでは、黒のヒーローとして、色王寺が話題になっている。アメリカだけではなく、他の国でも出現が報告されているようだ。

更に言えば。

人間では無いアガレスには、接触したとき色王寺の心が見えた。

だから断言できる。

色王寺は、ヒーローになりたくて、ヒーローになったのでは無い。もう、其処へしか、逃げ込めなかったのだ。

「人間共は喜んでいるようですが?」

「連中は本能的に知っているだけだ。 色王寺が自分たちに都合が良い存在だとな」

だから、本人の人格など、考えようともしない。

ヒーローに心はいらない。

悪人にも事情があることが分かってしまえば、躊躇うからだ。

ヒーローに腹はいらない。

腹が減れば、動けなくなるからだ。

ヒーローに痛みはいらない。

攻撃を受けて動けなくなるようでは、ヒーローではない。

つまり。ヒーローは、人間では無い。

自分から望んでそうなったのなら、アガレスももう放っておく。だが色王寺は。この世界に居場所がなくなって、そうされたのだ。

コートを掛けてくれたアモンが、側でほほえむ。

「アガレスさまと私なら、どうにか出来るでしょう」

「ん……」

猪塚は流石に連れて行けないか。

相手は完全に現象となった存在。つまり亜神とでも言う段階にまで、己を変えてしまった人間の成れの果て。

アガレスとアモンが全力で立ち向かっても、勝てるかは分からない。

ましてや、人間に戻すのは、難儀だ。

下にアモンをやって、フルレティとゴモリ、ダンタリアンも呼ぶ。

総力戦だ。

すまなかった。

アガレスは、色王寺に内心でわびる。

私の中のトロイの木馬のせいで、迷惑を掛けた。

相手が人だから、ではない。

コレクションを愛するが故。そのコレクションが、思わぬ所で迷惑を掛けた故に、アガレスは悲しく思う。

故に。色王寺を、救わなければならない。

全員が揃ったところで、アガレスは出陣を命令。

ソロモン王の72柱に属する悪魔が5柱も。戦いのために、動き出した。

 

それから。

黒のヒーローの噂は消えた。

そして、誰もその事は、笑い話にしかしなくなった。

馬鹿がのたれ死にしたのだろう。

そう言って笑う人間が、世間では大多数を占め。今日も、人間の社会は、変わる事がなかった。

 

(続)