黄色い花の群れ

 

序、孤独の花

 

親が忙しくて、構う暇が無い。

そんな環境で生まれる子供は、今時珍しくも無い。土方直美(ひじかたなおみ)も、そんな環境下で生まれた、今時の子供だ。

幼い頃は、殆ど保育園。

記憶はほぼ残っていないけれど、寂しがって泣いてばかりだったのだろう。

親は両方ともいたけれど。父親は会社の重役。母親は幾つものパートを掛け持ち。家には、ほとんど二人とも帰ってこない。

だから幼稚園に上がったあとも。

遅くまで、親は迎えに来なかった。

たまに親が家に揃っていると思えば、喧嘩ばかりしていた。いつもいつも誰が悪いお前が悪い。

場合によっては怒号が飛び交い、ものも投げ合っていた。

膝を抱えて直美は、そんなとき座って、喧嘩が終わるのを待っていた。父は直美に笑顔なんて向けたこともなかった。

此奴が出来なきゃ、結婚なんかしなかったのにな。

面と向かって、そう言われたことさえあった。

同級生達が遊園地に行った動物園に行ったという話をしていると、それはどういう場所なんだろうと、不思議にいつも感じた。

羨ましいとは、どうしてか思わなかった。

親に冷たく当たられるのが普通だったから。恐らくは、相手に甘えたり、子供らしく振る舞う事なんて、覚えなかったのだろう。

幸い、直美は性格が乱暴では無かった。

だから周囲と諍いも起こさず。ただ溶け込むようにして、クラスの片隅で過ごし続けていた。

やがて両親が離婚。

母親は直美に興味も見せず。

父親もそれは同じだった。親権は結局父親が貰ったらしい。離婚の原因は母の浮気だったらしいが、もうそんな事はどうでも良かった。

家で一度でも、あの人達が甘えさせてくれただろうか。

いや、そんな事は、ただの一度だって無い。

結局父方の祖父の家に引き取られて。ようやく、人間らしい生活が出来るようになった。それまでは、風呂に入るのも数日おきだったのだ。

ネグレクト同然の有様だったと祖父は言っていたけれど。それで、凄く憤っていたのだけれど。

不思議な事に、それを不幸だとか、悲しいだとかは、一度も考えなかった。

とにかく、祖父の家に行ってからは、食事も普通に出るようになった。風呂も入れるようになったし、学校にも普通に行けるようになった。

直美は悪戯も一切しなかった。

おそらく子供らしい精神が欠けていたのだろう。いつも部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。

経験的に、知っていたからだ。

そうすれば、喧嘩に巻き込まれないと。

非常に物静かだった直美に与えられたものがある。

祖父は珍しく先進的な老人で、家に古いPCをたくさん持っていた。

それこそマニアがよだれを流すような骨董品まで、其処にはあった。今でも直美は祖父の家に暮らしているから、蔵を漁れば、とても貴重なパーツがゴロゴロ出てくる。

そう。

直美に与えられたオモチャこそ、それらPCだった。

他の子供がPCに最初に触れるのは、ゲームだろうに。直美の場合は、当初からして、他とは違う開始だったのである。

かくして。

小学校の中頃には。

直美は、自分でタグを組んで、ホームページを開くまでになっていた。

そして、今である。

 

直美は根暗女子として、高校では浮いた存在になっていた。ただし直美が通う私立では、不思議な事にいわゆる裏サイトが存在せず、陰湿なイジメが発生しにくい状況にあったのだ。

理由は簡単。

裏サイトが出来る度に、直美が潰していたからである。

小学校のころから祖父に与えられたPCで遊んでいた直美は。中学のころには、既にレジストリを自由に操作し、複数のOSを仮想で構築。更に、自宅でサーバを造り、ツールを自力で造り出すまでになっていた。

ハッキングの真似事も中学のころからはじめていて、高校に入った時点で、その技術は既にネットの闇で噂になるほどにまで向上していた。

そんな直美にとって。

学校の裏サイトを見つけ出して、クラックするくらいは余裕だった。

最初の内は、其処に流れている陰湿極まりないやりとりを眺めて、呆れていたのだけれど。

下手をすると害が自分に及ぶと判断してからは、容赦しなかった。

作った奴も即座に特定して、そいつのPCもクラックし、データをまっさらにするようにしているので。少なくとも裏サイトが今のところ、短期間で再び立ち上がる畏れはない。まあ忘れたころに立ち上がってくるので、その都度仕置きをしているのだが。

分厚い眼鏡を掛けて。

髪の毛を三つ編みにしている野暮の塊のような直美には、男子どころか女子だって寄ってこない。

いかにもオタクっぽい見かけをしている。

それが理由だ。

もっとも、幼い頃から両親に見捨てられていた直美には、孤独は今更どうでもいい程度の事であったし、何よりむしろ誰かが寄ってくる方が、面倒でならなかった。だから学校ではいつも一人だったし、これからも一人で居続けるつもりだ。

授業が終わったので、スマホを出す。

主にゲーム用として周囲が使っているスマホを、直美はPCを遠隔操作するために用いている。

この機能さえゲーム用として使っている人間が多数なのだけれど。

直美の場合は。一定時間事に監視ツールを確認し、自宅に構築しているシステムが正常か、気に入らない奴がネットで動いていないか、監視するためにやっているのだ。どうせサーバは常時動かしているので、何かしらの形で監視しなければならないのである。

今の時点で、監視の網に変なものは引っかかってこない。

「なあ、また裏サイト潰されたんだって?」

「二年の廣島の奴、PCまで潰されたって言ってたぜ。 HDDまっさらにされて、全部構築し直しだってよ。 しかもバックアップデータも入れた途端に消されるとかで、もう一からやり直すしかないって言ってたぜ」

「マジかよ」

「あれってレンタルの掲示板使ってるのに、どうして作った奴のPCまで潰されるんだよ」

男子達が、馬鹿な話をしている。

馬鹿な連中に相応しい事だが。こういう奴らにとって、イジメを主導する裏サイトは、一種のコミュニケーションツールになっているらしい。無いと他の学校に遅れを取ると、本気で考えているようなのだ。

事実、直美に対するイジメの相談が、裏サイトに上がり掛けた事もある。

速攻で投稿者も特定して。使っていたスマホにウイルス叩き込んでやったが。即時で使用不能になって、ショックで寝込んだらしい。

酷いとか周囲の女子は騒いでいたが。

イジメをしようと裏サイトで話し合う事の方が、よっぽど卑劣で残虐だと、思いつくことはないようだった。

まあこういうサイトに書き込む人間を見ていて、直美にも学習できたことがある。

イジメの対象を、そもそも人間だと見なしていないのだ。

だからイジメは彼らにとって正当な行動とされる。イジメが防がれたら、それは理不尽な暴力の結果、となる。

また、自分が何か悪いことをしたという罪悪感など、最初から存在しない。

更に言えば、世間的なコミュニケーションとやらの手順も、最初から守る事がない。暴力をいきなり使うか、権力を後ろ盾にしているか。直美が見ている限り、そのどちらか、だ。

おかしな話だ。

こういうことをする人間が、「コミュニケーション能力に問題が無い」とされるのだから。

コミュニケーション能力とやらの基準が何なのか、直美にはさっぱりわからない。

この世はクズばかりだ。

だから人間にも興味が湧かない。

それが直美の本音。

野暮ったい格好をして周囲から距離を置いているのも。学校で友人を作ることがないのも。

理由は其処にある。

授業が始まった。

どうも直美は周囲より一回りほど頭が良いらしく、理解する事はさほど難しくも無い。祖父母も、直美に学業成績については、さほど心配していないようだった。また、直美がクラッカーの真似事をしていることもうすうす気付いてはいるようだけれど。それについても、何も言わなかった。

直美自身はネットの祭に参加するようなこともなかったし、そもそもSNSなどで悪友とつるむこともなかった。

ネットでさえ孤独。

本物の孤独者だと言う事が、祖父母には知れていたから、だろう。

授業が終わったので、荷物をまとめてさっさと帰ることにする。

今の時代、部活なんて自由選択制が普通だ。

当然直美は帰宅部。

この学校では、運動部、特にサッカー部だけは人員がそれなりにいるけれど。他は閑古鳥が鳴いている。

帰り際にグランドをみるけれど。

練習しているのはサッカー部だけ。

しかもその練習もいい加減。女を漁るためにサッカーをする部、などと揶揄されているようだが、それも当然か。

実際、県大会などで成績を残したこともないのである。

それでは酷評されるのも、当然だろう。

自宅に帰る。

周囲に対する敵意だけがたまる登校。うんざりして、荷物を下ろすと、眼鏡を取る。分厚いぐるぐるだが、これは伊達だ。髪の毛も解く。三つ編みにしているのは。わざと野暮にするためだ。

直美自身は、あまり自分に興味が無いのだけれど。

相応に綺麗な顔立ちをしている、らしい。

だが、それもイジメの理由になることをよく知っている。だから顔なんか、周囲の人間には見せてやらない。

男子だって女子だってそうだ。

「直美、夕ご飯はすぐ食べるかい」

「大丈夫。 もう少ししたら食べるよ」

「そうかい」

祖母が声を掛けてきたから、適当に応じておく。

祖父は元々エンジニア。祖母は専業主婦50年のベテラン。料理は父母の所にいた時とは比較にもならないほど美味しい。

なんでこの優しい祖父母から、あの冷酷な父が生まれたのか、それがよく分からない。今では、父のことはどうでもいい。

まだ仕事に没頭しているという事だけど。

さっさと過労死でもなんでもしてくたばれというのが、直美の素直な意見だ。勿論、顔だって見たくない。

母はどうせ彼方此方の男と遊び歩いているのだろう。

性病でも貰ってさっさと死ね。

これもまた、本音だ。

幼い頃に、少しでも両親への怒りを抱ければ良かったのに。幼児は親を憎めないように、精神構造が出来てしまっているのだ。

本当に、幼児だったことが口惜しい。

「学校では、友達が出来ないのかい」

「かあさん」

「わかっているけれど。 コンピューターが好きなら、同じ趣味の子を探したり、できないのかい」

「……」

これだけは、不満だ。

祖母はどうも直美の交友関係が心配で仕方が無いらしく、ことある事にこういうことを言い出す。

周りにはクズしかいないと言っても。

聞く耳を持ってくれなかった。

イジメを受けていないのは、現在の子供達のコミュニケーションツールである、裏サイトを潰しているからだ。

祖父はどうもそれを知っているようなのだが。

何も口出しはしない。

「かあさん。 直美は色々大変な事情があるんだ。 あまり口出しはしてやるな」

「それはそうですけれど」

「ごちそうさま」

祖父が助け船を出してくれたので、さっさと食事を切り上げる。

祖父母は優しいから大好きだけれど。

こう説教臭いのが、玉に瑕だ。

 

自室でPCの設定をしているうちに、夜が更けてしまう。幾つかの検証作業をしていると、もうこんな時間だ。

時間が足りない。

学校なんていきたくないけれど。

そんな事をいったら、祖母が泣くのが目に見えている。それだけは、いやだった。口うるさく友達を作れとかいうけれど。それを除けば、大好きなのだ。実際、あの腐れ両親と比べたら、本当に天地の差だ。

まあ、学校で虐められる可能性は、今の時点ではない。

祖父に体を鍛えるように言われていたけれど。どうにもそんな気にはなれない。確かに暴力を伴うイジメを行われた場合は、それで身を守る必要があるだろう。しかし、どうもぴんと来ないのだ。

「直美、少しいいか」

祖父が部屋の外にいる。

顔を出すと、祖父がなにやらDVDをくれた。

「儂の部下がくれたものだ。 使って見るとよい」

「これは?」

「いいから使って見ろ」

それきり、祖父は自室へと引き上げていく。

中身がわからないDVDなんて、とても怖くて本来は使えないけれど。祖父がくれたものだ。

変なものではないと、まず信頼する気持ちがある。

PCにセットして、中身を確認。

実行ファイルがある。一端PCに落として、解析ツールを走らせた。結果はさほど時間も掛からずに、出た。

特定の情報を、ネットで自動で集めてくるツールだ。

似たようなものはいわゆるポータルサイトも含めて、いくらでもある。しかしこれは。何というか、非常に凝った作りになっている。

インストールしてみる。

それから、動かしてみた。

楽しいかも知れない。今まで、漠然とPCを組んで。サーバを構築して。いろいろな作業をして来たけれど。

どうもこれといって、楽しいとは感じなくなってきたのだ。

無言で、様々な情報を洗い出す作業に没頭しはじめる。

やはり祖父は好きだ。

直美が困っているところで、助けてくれる。

祖母も好きだ。

美味しい料理を作ってくれる。

他の人間は、一人もいらない。

いっそのこと、この世から人間が消えて無くなってくれないものか。そう考えて、直美は検索してみた。

人類を地上から抹殺する方法。

色々とある。

核戦争の場合は、人類を消すのはかなり難しいようだ。石器時代くらいまで文明を退行させることは出来そうだけれど。皆殺しにするのは、正直難しい。

ウィルスの類は。

これも難しい。99パーセントが死ぬウィルスがあったとする。しかしその場合、残る1パーセントは耐性を得て、そいつらの子孫が爆発的に増えていく、というだけだ。人間を消し去ることは出来ない。

人間より遙かに強い新生物に駆逐させる、というのはどうだ。

これも難しい。

生物なんて、簡単に新種が出てくるものではない。

仮に出てきたら、人間を駆逐する事が出来るかも知れないけれど。ただ、地球上で、そんな生物が出てくるだろうか。

地球の生物は。

当然の話だが、過酷な淘汰の末に生き延びてきている。つまり、地球の環境に適した進化を遂げた、最強生物が、今生きている者達なのだ。

今更それをも超える、つまり人間を駆逐できるほどの猛者が現れるかと言えば。かなり難しいと言うほか無い。

宇宙人は。

宇宙人は多分いるだろうというのが、統一した見解のようだけれど。しかし、地球に来られるか、というと話が別。

しかも来たところで、わざわざSF映画のように、手間暇掛かる侵略行動などに出るだろうか。

それもよく分からない。

人間の価値観なんて、地球でしか通用しない。

地球人が宇宙に進出したら、当然他の惑星を侵略して廻るだろう。地球人とは、そういう生物だ。残虐極まりない方法で、他の知的生命を殺戮して、奴隷化し、場合によっては食糧にして行くだろう。

奇しくも、かってSF映画に出てきた侵略者達は。まんま人間が、宇宙に進出した場合の姿そのものだ。

色々可能性を検索してきたが。

短時間で人類を絶滅させるのは、難しい。

文字通りの天変地異。たとえば太陽が超新星爆発するとか、そう言うことが起きれば、それこそ一瞬で滅び去るだろうが。

それでは困る。

直美は死にたくないからだ。

夢中になって検索をしていたけれど。楽しいが、あまり実入りはなかった。何か面白い方法はないものか。

ふと、ホームページに置いているチャットに、入ってきた者がいる。

チャットなんて滅多に使う者がいないので、珍しい。此方も入って見ると、アガレスと名乗った。

軽く挨拶してから、話をする。

随分と凝ったホームページですねと言われたので、悪い気分はしなかったが。それだけだ。

ネットでの人間関係がどういうものかは、直美だってよく知っている。というか、最初から他人なんて欠片も信用していない。

アガレスもホームページを作っているという。

言われたまま、足を運んでみる。

何だかその瞬間、ちりりと頭の奥が痛んだような気がした。

ホームページ自体は極めてシャープで、良く出来た造りだ。だがこれは、とてもではないが。

素人が作ったものだとは思えない。

企業用のものでも、これに比べると随分と野暮ったいように思える。少し悩んだ末に、聞いてみる。

貴方は本職ですかと。

否と応えられた。

しかし、アガレスという名前は、何処かで聞いたことがあるような。小首をかしげていると、更に相手は言ってきた。

貴方は高校生ですね。それも恐らくは私立の、と。

確かに図星だが、どうしてわかったのだろう。ちょっと話しただけで、それが洞察できる内容が、あったのか。

勿論それには応えないが。

更に相手は、話を進めてきた。

「おそらく年齢は17歳。 女子。 高校はおそらく私立で、東京のものではなくて地方のもの。 両親とは一緒に暮らしておらず、多分祖父母との生活。 PCに関しては、そのお下がり」

どれもこれも、ぴたりと当ててくる。気味が悪いというのを通り越している。

今まで、ネットで個人情報なんて、出したことが無い。

それなのにどうしてわかる。

直美が女子だと言う事だって、秘密にして来ている。そんなしゃべり方をした覚えはないし、ばれるようなへまだってしていない。

完全に黙り込んだ直美に、相手はなおも言った。

「少しばかりおいたが過ぎるようなので、警告しに来ました。 貴方は頭が良いようだけれど、ちょっと抜き身過ぎる。 あまり巫山戯た事をしていると、今後仕置きに行きますよ」

接続が、切られた。

しばらく無言のまま、画面を見つめていたが。相手の接続経路を確認。プロキシサーバを5つも経由しているが、それだけではない。

その先は、完全に無だ。

これはいったい、どんな腕前だ。

ゾンビ化したPCを踏み台にしてアクセスしてくるようなやり口は、今時珍しくもないけれど。それとも格が違っている。

呼吸を整えると、チャットのログをクリアにした。

気持ちが悪いと言うよりも。

得体が知れない、人外の存在と遭遇したような。そんな気分だった。

 

1、ウィザード

 

ネット上では、卓越した技を持つハッカーをウィザードという。更にその上の称号もあるのだけれど。

それは社交性が高い存在や、経歴が知られている者が、仲間内から呼ばれる場合に限っている。

いずれにしても、ウィザード級と呼ばれているハッカーの中には。

人外の者が存在しているのだ。

その一人がアガレス。

PCを退屈げに弄っている、アモンの主君である。その正体は、ソロモン王の72柱の1。悪魔の中でも、特に上位に属する、強力な存在だ。

今ではある戦いに敗れて、力を失っているけれど。魔術のスキルについては、以前から衰えていない。

魔術とハッキングは似ている箇所が多く、アガレスが凄腕のハッカーであるのも、其処に起因しているのだろう。

体が子供になってしまっているけれど。

頭の冴え自体は変わっていないし、何より。その内面がどうにも子供っぽい所が、昔から、アモンには可愛くてならなかった。

「アモン」

「如何なさいましたか」

「若造だが、使えそうなのがいる」

アガレスは、基本的にネットに網を張り、自分の食事を探している。アガレスもアモンもそうだが、基本的に食糧は人間の心の闇。悪魔にとっては、人間の負の心こそが食糧なのだ。

人間をそのまま食べるようなことはない。

元が精神生命体という事もあるが。

普段は、ネット上に網を張り、獲物が掛かるのを待っているアガレスだが。どうもここのところ、珍しくアクティブに動いて、獲物を探して廻っているようだった。喜ばしい事である。

だから意図的に、こっそり仕事量を減らしていた。

頭が良い反面、アホな所があるアガレスは、気付いていない。其処がまた、可愛いのだけれど。

絶対に、本人にそれを言う事は無い。

猪塚が上がって来た。

喜色満面の様子で、こっちに来る。アガレスが口をへの字に結んだ。天敵という奴は誰にでもいるけれど。

この、以前アガレスが闇を喰らった、背の低い人間の女は。

アガレスにとっての天敵そのものだった。

「アガレスさまー! お、今日はお仕事!?」

「あー、そうだが」

「むくれた顔もかあいーね!」

むぎゅっと抱きしめられて、アガレスは暴れるけれど。元々幼児化したときに身体能力は極限まで落ちているし、逆に猪塚は人間では最強クラスの使い手だ。此処で働くようになったから、更に技に磨きが掛かっていて。アモンが面白半分に戦闘技術を教えていることもあって、今では生半可な相手に遅れを取ることは無い。

もしも猪塚が負ける事があれば、それは悪魔か、それとも天使。それも武闘派が相手の時だけだろう。

「アモン、た、たすけ」

骨がボキボキ鳴っている音がする辺りが可愛い。

とりあえず助けないでしばらく放置した後、ひょいと引きはがす。そして猪塚と一緒に、バックヤードへ。

「今日はケーキを作りましょう」

「ラジャ!」

二人で、仕込みに入る。

全身をボキボキになるまで抱きしめられたアガレスは、机に突っ伏して魂が抜けかけているが、まあそれはどうでもいい。

悪魔だから死なないし。そんな風に死にかけている様子も、可愛くてならないからだ。それに、猪塚のことを、アモンは嫌っていない。興味を覚える人間は元々それほど嫌いでは無いし、趣味が合う奴は好きだ。ただし、アモンが興味を覚える人間はごく少数。それ以外はどうでもいい場合が多い。

しばらくケーキの作り方を教える。

猪塚は料理のセンスがあって、覚えが早い。格闘技の才能と料理のセンスは共通要素があるのだが、猪塚はその典型だ。

不意に、アガレスに呼ばれる。

声のトーンからして、いつもと違う。猪塚もそれを感じたらしく、そのままケーキ作りを続けていた。

アモンがアガレスの所に戻ると。

彼女はまだ痛むらしい体で、涙目のままキーボードを打っていた。

不意に画面上に、ある人物の写真とプロフが出た。

「此奴の事を調査しろ」

「ふむふむ。 土方、直美ですか」

「そうだ。 この年で既にウィザード級の実力者だ。 ただし、ハッカーでは無く、クラッカーだがな」

「へえ……」

世間では、ハッカーとクラッカーは似たようなものとされている。実際、その領域は極めて曖昧だが。

ハッカーにとって、クラッカーと間違われることは、殺意さえ覚えるほどの怒りを感じる事だと、アモンは知っている。

基本的に、おのれのスキルを利用して、ダークヒーロー的な活躍をするのはハッカー。それに対して、他人のデータを破壊したり、荒らしたりするのがクラッカーという認識で間違いない。

近年では、ハッカー集団の活躍で中小規模の国家が崩壊に向かったような例もある。

アガレスはそいつらよりも更に一段上手の使い手なのだが。それは今は、どうでも良いことだ。

アガレスが認めていて。

そして有望だと言っている事が大きい。

つまりそれなりの闇を秘めている、という事である。

ケーキを焼き終えると、アガレスに出す。満面の笑みで食べ始めるアガレス。それを横目に、仕事をさぼらないように、探しておく。まだまだアモンが修復しただけの品は、いくらでもある。

猪塚をまず帰らせると。

その辺の棚を漁って、引っ張り出す。

ひょいと取り出したのは、家具。西欧では、数世代にわたって家具を用いる事も多く、非常に頑丈に作られている場合がある。

取り出したのは、そんな家具だ。

重厚な造りで、取っ手も何度も直した形跡があるタンス。

何人もの女性が、勝負のための化粧をした、鏡台。

多くの人が腰掛け、食事をするのに使った椅子。

それらを順番に出していく。

いずれもが、記録的な不況に襲われたり、或いは家族が何かしらの形で断続したりして、二束三文で処理されたものだ。

燃やされたり砕かれたり。

廃墟から略奪されたあげくに台無しにされたり。

いずれも気の毒な終わり方をした銘品ばかり。アモンが探してきて拾い上げ、此処までは直した。

後の修繕は、アガレスの仕事だ。

ケーキを食べ終えたアガレスの前に、まとめて置く。

「これは大物だな」

「私が調べている間に、修繕をお願いします」

「んー」

あまりやる気はないが、アガレスは作業に取りかかる。今出した品が、どれも銘品だと理解しているから、だろう。

アガレスも良い品を修復する作業については、そこそこに気が向くらしい。

まあそれも気分次第だ。

いつも機嫌良く作業に取りかかるとは限らない。そして今出した品は、どれも一度徹底的に破壊されたものばかり。

簡単に修復できるものではない。

作業を始めたアガレスを横目に、アモンはその場を離れる。

ITが強いアガレスと裏腹に、アモンは昔ながらの魔術で相手を探知する。アカシックレコードと呼ばれる、世界の記憶に対して直接アクセスして、其処から相手のことを調べ上げるのだ。

本来ならかなり時間が掛かる作業なのだが。

周辺時間を操作することで、そのコストをクリアする。アガレスほど魔術は得意では無いアモンだけれど。

何しろ上級悪魔だ。

これくらいは余裕とまではいかないにしても、こなすことが出来る。そして、いつも通り作業をこなしていったのだが。

妙な違和感を覚えた。

一端調査を切り上げる。何だかおかしい。名前とプロフはさっきアガレスに見せてもらったのだが。

どうにもそれが、本人と一致しないのだ。

アガレスに限って、相手に足下を掬われるようなことはないだろうと、アモンは考えているのだが。

いや、相手が天使や同格の悪魔でも無い限り、まずあり得ない。地上最強のハッカーでも、アガレスを手玉に取ることは不可能だ。それが経験と、何よりスペックの差なのである。

少し考えた後、もうちょっとばかり丁寧に、アカシックレコードにアクセスする。

そして、やはりまた違和感に包まれる事になった。

しばし調査をした後、アガレスの所に戻る。

アガレスは魔術を使って、ばらばらになった鏡を修繕しているところだった。破片を一つずつ空中に浮かび上がらせ、ジグソーパズルのように組み合わせている。直接触ると怪我をするから、こんな回りくどい真似をしているのだ。

「どうだ、アモン」

「それが、妙なんです」

「ふむ、聞かせよ」

頷くと、説明していく。

まず先ほどプロフを見せられた人物については、確かに実在している。名前は土方直美。高校二年生、十七歳。

女子。

この年でウィザード級のクラッカーとは凄まじいが、まあ世の中には早熟な天才もいる。アガレスの話によると、中学生そこそこで、ウィザード級と呼ばれるまでに到った天才もいるとか。

「何が妙なのか」

かちり、かちりと音がして、鏡台に硝子がはまっていく。はまった硝子は、アガレスの魔術で融着していく。

古いながらも、雰囲気がある美しい鏡台が、そうして元の姿を取り戻していく。

魔術はある程度自動で行っているから、アガレスが注意を全て向けなくても、誤動作はしない。

それを承知で、アモンは言う。

「何だか、影がぶれているんですよねえ」

「魔術による干渉か」

「いいえ。 その存在が、もう一人、いや一人半いるとでもいうんでしょうか」

そう言う例は、過去にもあった。

認知されない双子がいた場合。或いは、その双子が霊体化して、片割れに憑依していた場合。

途中で、人間が入れ替わっていたとき。

そういった事例の時は、アカシックレコードに異変が出る。そのままの形で、本人の情報が降りてこないのだ。

しばらく考え込んだ後、アガレスは言う。

「それはおかしいな。 スキルを見る限り、この人物は我流で技を磨いた印象だ。 誰かの影は見受けられない」

「そうなると、やはり横からの干渉でしょうか」

「あり得るな。 調査は注意しろ」

頷くと、その場を離れる。

アガレスがタンスを修復しはじめた。これは鏡台より状態が悲惨だった。放置されて虫食いの被害に遭い、その後徹底的に破壊されたのである。

この状態まで修復するのに、アモンも随分と苦労した。

もう一度、調査に戻る。

アカシックレコードがぶれている。同じ人物の情報なのに、妙な揺れがある。少し深く潜ってみるかと思った所で。

横から殴りつけるような衝撃があった。

一端この空間から出る。アガレスを巻き込まないためだ。

しかし、である。

ミカエル辺りの攻撃かと思ったのだが、違う。どうも見当違いの方向を調査したことによる、ぶれの結果らしい。

腕組みして、悩んでしまう。

これはひょっとすると、本人を直接調べるしかないかも知れない。

上位の悪魔と言っても、何でもかんでも出来る訳では無い。とくにアモンやアガレスは魔神と呼ばれるように、一種神に近い存在でもある。そしてここからが問題なのだけれど。神という存在は、自由が利かないのだ。

強い力を持つが、その代わり出来る事に制限がある。

日本では、妖怪という存在が、似たような特性を持っているが。これはやおろずの神々というように、土着信仰が妖怪と結びつくことが多いためである。

つまり、妖怪はそう言う意味で、一種の神だと言える。

もう一度丁寧にアカシックレコードを探ってみるが、やはりぶれが強烈にある。下手に探りを入れると、また勝手にダメージを受けそうだ。

仕方が無い。

多分これは、本人を直接探らなければ、埒があかないだろう。

時間を操作している空間にいるアガレスの事は、気にしなくても良い。アモンは息を大きく吸い込むと、身を沈め、跳躍した。

文字通りの意味では無い。

空間を飛んだのだ。

何度かそれを繰り返して、ターゲットのいる地方へ行く。

東京からかなり離れた場所。

首都圏の端の端。都会とは言いがたい地域にある、寂しい家に、ターゲットはいる。其処で直接接触すれば、このおかしな乱れにも気付けるかも知れない。

途中、連絡が入る。

ダンタリアンからだ。

また才能がある人間の所を遊び歩いているのかと思ったが、違った。

「ゴモリがいないんだけど」

「どういうことですか」

「知らないよ、そんなの! このままじゃ、仕事を延々とさせられちゃうよ! 困ったんだけど!」

馬鹿ぬかせと言いたくなるが。

確かに店番をダンタリアンだけにさせるのは問題だ。彼奴はやる気がないし、何より問題なのは。

ゴモリと違って、空間管理が出来ない。

アガレスの罠に掛かった餌が来ても、案内が出来ないのだ。

現地に急ぎながら、ゴモリのことも調べる。

何か事故にあった、というようなことはない。仲が良い猪塚の所にでも遊びに行っているのかと思ったが、それも違った。

なんと呆れた話だが。

町内会の福引きが当たったとかで、温泉に行っているのだ。

アガレスには断っていたようなのだけれど。話が行き違いになって、アモンには伝わっていなかったらしい。

いつも働いてくれているゴモリには、これ以上負担を掛けられない。

嘆息すると、アモンは急ぐことにする。

一応フルレティにも、ゴモリの代わりは出来ない事も無いが。負担が大きくなる。可能な限り、急いで戻った方が良いだろう。

現地に到着。

寂しい、文字通りのド田舎だ。

日本という国は不思議で、世界最大のメガロポリスがある一方で、そのすぐ側にこんな片田舎がある。

ただし、その一方で家々は大きい。老人がかなり多く住んでいるようだが、反面皆かなり裕福なようだった。

離れや蔵がある家も珍しくない。

この辺りは、通勤距離さえ目をつぶれば、東京の仕事場に対するベッドタウンとしても機能する。

事実時代錯誤の不良がいる事を除けば、大変空気自体は良いし、環境も悪くない。

餌の確保という点で不便なことを除けば。

アガレスと一緒に、こういう風光明媚な土地に暮らすのも、悪くないかも知れない。

いきなり、とんでも無い人物と遭遇する。

一升瓶を持ち、ほろ酔い加減のミカエルである。しかも、格好と言えば、よろよろのシャツに、くたびれきったジーパンだ。

流石に唖然としたアモン。

ミカエルも、吃驚したようだった。

「ななな、なんで貴様が此処に!」

「自称天界一の伊達男が、何をしているのですか」

「やかましい!」

そそくさと、ミカエルが姿を消す。

大体事情はわかってしまった。おそらくこの辺りで、アガレス達に嫌がらせをする機会を量っていたら。

環境に適応して、すっかり田舎のおじさんと化してしまったのだろう。

確かにこの辺りは酒も美味しそうだし、何より空気が良い。

だが、ミカエルがいる以上、アガレスを連れてくるわけにも行かなかった。

これは、余計に早めに切り上げて、戻る必要があるだろう。ミカエルも自宅で着替えて戻ってくると、面倒な事になる。

アカシックレコードから割り出した、ターゲットの居場所へ急ぐ。

見つけた。

かなり大きめの家だ。

おそらく、両親、いや違う。祖父母と一緒に暮らしているのだろう。周囲を探ってみるが、おかしなことはない。

魔術に通じているようなことはないようだし、天使や悪魔が味方についている気配もない。

そうなると、なんだこれは。

おかしい事が多すぎる。

どうして、存在がぶれている。

本人を見ておきたい。気配を消して、家に入り込む。結界の類が張られているようなこともない。すんなり潜り込むことが出来た。

入って見てわかったのだが、まるで電子の要塞だ。

此処が田舎だというのに、内部の設備だけは非常に先進的。どういうわけかわからないが、手入れも行き届いている。

技術者か。

蔵を見ると、古典的なものから、最新鋭のものまで。多くのPCやパーツが、雑然と入れられている。

賞状もかなりある。

IT系の資格が目だった。しかも、かなり上位のものだ。

つまり、此処にいる家主が、本物の技術者、ということである。

家主を見たが、善良そうな老人だ。

ただ年齢以上に老けているように見える。IT業界は労働がとにかく過酷だ。老け込むのも、仕方が無い事なのだろう。

部屋の一つを覗くと、陰気そうな女がいた。

顔立ちは整っているのに、とにかく身に纏った空気が、陰気極まりないのである。しかもわざと陰気になるよう振る舞っている節さえある。自分を周囲から隠すため、なのだろう。

此奴だろうと、アモンは結論した。

しかし、間近で見ると、ますますわからなくなった。

どうして此奴の正体を探れないのか。

爪を隠して身を守る鷹は確かにいる。特に日本では、出る杭が打たれる傾向にあり、爪を見せていても碌な事にならないケースが目立つからだ。

だが此奴の場合は、何というか。世間に対する不信感から、一般的な美的感覚を否定しているような印象を受ける。

しばらく観察を続けるが。

やはり、どうにも妙だった。

外に出ると、携帯を取り出す。いわゆるガラケーだが、日本製の最新モデルだ。ガラケーの方が、アモンには使いやすい。

アガレスに話してみる。

魔術に関しては、アガレスの方が遙かに上手だからだ。

「どう思われます、アガレス様」

「何となくはわかってきたな。 ようするに、前提がそもそも間違っていた、ということだろう」

「前提が、ですか」

ぴんときた。

なるほど、そういうことだったのか。

失念していた。日本ではまず遭遇する事がないケースだから、頭の隅から排除してしまっていたのだ。

しかしその場合、何故正体が分からなかったのかも、容易に説明がつく。

「ミカエルがいたのだろう? そろそろ引き上げてこい。 お前が負けるとは思わないが、今は小競り合いも避けた方が良いだろう。 お前は戦いが大好きだし、挑発されると、ついその気になってしまうだろう」

「わかっています」

時々、アガレスはアモンのことを心配して、こんなわかりきったことを言ってくる。それが嬉しい。

携帯を閉じると、その場を離れる。

どうやら、調査はもう充分のようだった。

 

2、追跡

 

学校から帰ってくると、あくびをしながら調べて見る。直美にとって、どうにもアガレスという存在は、看過できないように思えていたからだ。

スキルは、相手の方が明らかに格上と、現時点では見ている。

いろいろなデータを調べて見るのだが。

少なくとも、相手が何処の何者なのかは、今の時点ではわかっていない。ネット上で交流しているハッカーにも当たってみた。

「アガレス? ああ、あの有名な」

「グルクラスのハッカー?」

「いや、他のハッカーとはほとんどつるまないからな。 実力的にはそうかも知れんが、少なくとも尊敬はされていないよ」

そうか。

グルというのは、ハッカーの仲間内で尊敬される人間の事だ。ウィザード級と呼ばれるよりも、更に格上の実力者になる。

このグル級となると、何かしらの伝説を残している場合が殆どだ。直美も何人かは知っているけれど。実際に会ったことは勿論無い。噂によると、二十歳そこそこのグル級も存在しているとか。

アガレスがそうだとすると、何者なのだろう。

「アガレスが何者かはわからない?」

「さあな。 ただ、ハッキングを受けた奴は結構いるらしい。 手並みが極めて鮮やかで、まるで気付かないうちに情報を掠めていくそうだ。 それこそ魔法でも使っているかのようにな」

冗談めかして相手は言うけれど。

直美には、笑い事だとはとうてい思えなかった。

直美の個人情報が、抜かれているかも知れない。これでも一応ウィザード級と呼ばれるハッカーなのだ。

自分の個人情報を取られることが、ハッカーにとって何を意味するかくらいは、わかりきっている。

他のハッカーにも聞いてみる。

やはり、アガレスは知られていた。彼の場合は、直接ネット上で、やり合ったことがあったという。

「何だかの都市伝説サイトを、アガレスが潰して廻っているって話は聞いたことがあるか?」

「いや、初耳」

本当は聞いたことがあるのだが、此処は敢えて相手にあわせる。

どうも人間は、自分が知的に優位に立つと、機嫌が良くなる傾向があるらしい。此処では、そうやって、相手の機嫌をくすぐってやるのだ。

ハッカーなんてやっている人種は、だいたいの場合表の社会で食いっぱぐれている事が多い。

相手におだてられると、ころっといく事が珍しくもない。

勿論、表立てておだてない。

少しずつ、相手の機嫌を良くして、裏側から心理を操作していくのだ。

案の定、相手はぺらぺら話し始める。

「どうもアガレスの奴、何が気に入らないんだか、店って都市伝説を扱うサイトを潰して回ってるらしくてな」

「店?」

「くだらねー都市伝説だよ。 そこに行くと、何でも願いがかなうらしいぜ」

けらけらと相手が笑うので、それにあわせる。

話を聞き出すために、茶番につきあうことも必要だ。それにしても、何でも願いが叶う店、か。

そういえば。

クラスで同級生どもが、そんな話をしていたような気がする。むしろ個人交友レベルでの世間に疎いハッカーの方が、こういうことは知らないかもしれない。実際、学校にはしぶしぶ行っている直美が、聞いたことがあるくらいなのだ。

「でな、サイトを潰された奴から、仕返しを頼まれたことがあってよ。 網張って待ってたんだ」

「それで?」

「どうもこうも、惨敗よ。 ケーブルを慌てて引き抜いたから良かったが、そうじゃなけりゃ、俺の商売道具まで、まっさらにされるところだったぜ」

詳しい話を聞いてみるが。

そうしたら、驚くべき事がわかってきた。

網を張って見張っていたら、いきなりハッカーのPCにアクセスし、しかも中身を危うく洗いざらい消されるところだったらしい。

アガレスにとって、見張りを置いていることを察知することくらい、朝飯前だった、というわけだ。

今話しているハッカーは、それなりに実績がある人物で、実力は直美だってよく知っている。

それを此処までコテンパンに伸すというのは、凄まじい。

「その後アガレスと少し話したんだがな」

「ふむふむ」

「俺の見立てじゃ、ありゃ子供だな」

子供、か。

礼を言って、会話を切り上げる。

確かに話していて、何とも言えないものは感じた。子供と思うのも、無理はないのかもしれない。

直美より年下で、もっとスキルのある子供だっている。

それがハッカーの世界だ。

ただ、アガレスが本当に子供、なのだろうか。この間話した感触だと、確かにそういう雰囲気はあった。

しかし、何だろう。

どうにも首が据わっていないというか。

妙な違和感が消えてくれないのである。

 

相手を知るには、いろいろなアプローチをする必要がある。

学校で、交流がある友人は殆どいないが。それでも、声に耳を傾けてみる事は、出来る。店について調べて見ると、いろいろな事がわかってきた。

やはり都市伝説としては、そこそこに有名だ。

高校くらいになると、怪談などの都市伝説でも、生々しいものが増えてくる。日本の都市伝説は怪談が多く、米国のは犯罪関係が多いと言う話は聞くけれど。日本でも、高校生以上になると、犯罪関連の都市伝説も少しずつ増えてくる。

裏サイトを片っ端から潰しているのは、今も同じだが。

潰したサイトのデータは収集している。

その中には、都市伝説に関するものもあった。

「店」も、その中にあった。

確かに広い方面で噂になっている。何でも願いが叶う店があって、其処でなら思うものが手に入る。

男子は殆ど、性奴隷やセクサロイドが欲しいらしい。

女子は言うことを聞いてくれて、お金を好きなだけくれるカレシ。

まあ、普通な高校生では、欲望をダダ漏れにすればこんなものだろう。女子だけなら、本性を垣間見ることも出来る。

性別が逆と言うだけで。

欲望をむき出しにすると、望むものはあまり変わらなくなるのだ。

他の学校の裏サイトなども調べてみる。

やはり店に関する話は、かなりあった。

見た後は、綺麗に更地にしていきながら、直美は思う。これだけ広く都市伝説が広がると言う事は。何かしらの裏があるのではないだろうか。

家に戻ると、客が来ていた。

警察だという。

一瞬、ログから足がついたかと思ったが、違った。この辺りで変質者が出たから、気をつけるように、という事だった。

考えて見れば、来ていた警官は、この辺りで見かける駐在だ。

ネット犯罪なんて案件に、対応できるとは思えない。祖父は警官が帰った後、直美を正座させて、珍しく説教した。

「駐在が来た時の反応でわかったが、ネットで悪さをしているな」

「ごめんなさい。 でも、人に恥じる行為はしていません」

「どういうことだ」

「イジメに使われている裏サイトを潰して廻っているだけです。 どうせ話しても、わかりっこないから」

そういうと、祖父はため息をついた。

祖母は何のことかわからないらしくて、おろおろするばかりである。優しい祖母に心労をかけるのも、心苦しい事だ。

少しは友人を作る努力をするように。

裏サイトを潰すにしても、遺恨が残るようなやり方は避けるように。

そういうと、祖父は直美を解放してくれた。

祖父は元々知識がある上に、鋭いから。膝元でハッカーを続けるのは、難しいかも知れない。ただ知識はあるし、将来の就職自体は出来るだろう。しかし、此処が居心地が良いのも事実なのだ。

両親の所にいたときよりも、此処は過ごしやすい。

それに、祖父母も好きだ。

ちょっとくらい怒られたって、それに変わりはない。

それでも、へこむものはへこむ。

何もする気が無くなって、自室でぼんやりする。サーバの方で警告音が鳴って、ぼんやりと見る。

アガレスが動いているらしい。

ハッカー仲間に、アガレスが来たら声を掛けるようにと、言っておいたのだ。

今回は、自分が関係する問題ではない。

以前話を聞いた、アガレスとやり合ったというハッカーからの通報だ。また前回と同じように、アガレスとやりあうつもりのようだった。

状況を見に行く。

店を扱う都市伝説のサイトに対して、アガレスが猛攻を仕掛けている。ハッキングの方法はわかったのだが、問題はその先。

サイトを乗せているサーバが、まっさらにされていくのが、見ていてわかるのだ。

権限ユーザをあっという間に乗っ取って、HDDのレベルで消しに行くやり方は容赦ない。しかもあの様子では、BIOSやメモリにも、タチが悪いものを仕込んでいる事だろう。

ハッカーは必死に抵抗しているようだけれど。

この有様では、多分どうにもならない。

一時間ほどの攻防で、ジエンド。

ハッカーは完膚無きまでに叩き潰されて、すごすごと遁走したようだった。

アガレスの手腕が凄まじいことは、見ていてわかった。他にも何名かのハッカーが状況を観戦していたけれど。

全員が、チャットで感想を述べ合う。

「これは凄いな」

「彼奴も決して腕が悪いわけじゃないのに。 一方的な戦いだったな。 PCまた潰されたんじゃないのか」

「さっき連絡があったよ。 どうにかまっさらにされるのだけは避けたらしい」

という事は、相当な損害があったのだろう。

それにしても、だ。

どうしてアガレスは、こうも「店」を扱うサイトを憎悪する。偏執的なまでに、潰しに行こうとする。

さっきまでアガレスと交戦していたハッカーが、チャットに入ってきた。完敗だったと、むしろ笑っていた。

「悔しくないの?」

「悔しいに決まってるだろ。 だけど、彼処までコテンパンにやられると、むしろすっきりしたぜ。 ただし次は勝つ」

それは勇ましいが。

アガレスは、いわゆるグル級と呼ばれるハッカーより、更に上の実力なのでは無いかと、直美には思えはじめていた。

本当に一体何者なのだろう。

或いは個人では無いのかも知れない。

あのハッキングの腕前を見る限り、極めて鮮やかだ。軍事基地にあるスパコン並みの性能のPCを使って、腕利きのハッカーが複数がかりなら、或いは。派手なやり方をしているのではなく、多分一点突破で一気に本丸を抜き、鮮やかに潰している。出力よりも、演算能力が必要なのかも知れない。

「アガレスは何がしたいんだろう」

「今回やりあってみてわかったんだが、思うに彼奴、店を扱うサイトなんて別に恨んでもいないな。 憎悪が感じられないんだよ」

「どういうこと?」

「単純に、必要だから潰して廻ってる。 そんな気がしたな」

興味深い。

ますます、アガレスという奴のことを、知りたくなってきた。

 

学校で、注意喚起が為される。

霧雨が降る中での朝礼だ。面倒くさくて仕方が無い。あくびをしている直美の前で、仏頂面の校長が、わかりもしないことを言っていた。

何でも裏サイトなる不健全なものを作ろうとしている風潮がある。

そのような場所にはいかないように。

要約すると以上だ。

馬鹿馬鹿しい。裏サイトなんて、雨後の竹の子がごとく、ポンポンと湧いてきている。片っ端から直美が潰さなければ、今でも学校では、イジメのために大活躍している事だろう。唾棄すべき事だ。

やっと朝礼から解放されて、憂鬱な中教室に入る。

幸い今の時点で、暴力を伴うイジメは行われていないけれど。イジメなんて何処にだってある。

面白くもない授業を、退屈しながら受けて。

終わったら、さっさと引き上げる。帰り道、寄り道している同級生を見かけたが、どうでもいい。

まっすぐ家に着くと、早速自室に立てこもる。

祖母が夕食を作るまで、まだ少し時間もある。アガレスについて調べておくには、丁度良いだろう。

それよりも、店だ。

都市伝説の専門サイトを調べて廻る。

いろいろな方面から情報を集めて、そして結論できることもある。

ここ数日で、得られた確信がある。

店は、何かしらの形で、実在している。

というのも、そうでないと説明がつかないことが、あまりにも多すぎるのだ。

無責任な都市伝説が言うように、何でもかんでも手に入る、というのはあり得ないだろう。

しかし、そうでないのなら。

たとえば、だ。

この店という都市伝説の原型をたどっていくと、どうやら最初の内は、願いが叶う、というのが正しかったらしい。

それがいつの間にか。

何でも手に入る、と変わっていったそうなのだ。

これはほぼ間違いない。

潰された都市伝説サイトの管理人とも話してみて、結論できた。つまりその原型が正しかったのなら。

ふと、妙なリンクを見つける。

クリックして、思わず目を剥いた。

こんなソースコード、見た事も無い。一見すると一般的なものに偽装しているが、細部に禍々しいまでの何か異質なものを感じ取られるのだ。

其処に書いてあったのは、店への入り方。

それ自体はいい。

というか、既に場所そのものは特定していたし、何となく見当もついていたからだ。

問題はソースコードだ。

これは多分、記録しても何かしらの形ですぐに消される。そう判断した直美は、ソースコードの内容を速攻で手書きにメモした。これなら、消される事は無いだろう。それにしても、これは。

一度ブラウザバックしてまた入ると、案の定消えている。

これは、来いとアガレスに誘われている、と判断して良いだろうか。しばらく腕組みして考えていると、祖母から声が掛かった。

夕食だ。

祖母の夕食は美味しい。

一時、アガレスの事は忘れて、食事に没頭することにした。

 

3、歪みの根

 

吐き気がした。

イジメは嫌いだ。

だから、裏サイトを潰して廻っている。

何故、イジメが嫌いか。

理由は分かりきっている。両親が直美に対してしていたのと、同じだからだ。

しかし、どうして両親は、直美に対して、あんな過酷な待遇を続けた。どんなに両親の事を好きだと言っても。両親は、応えようとはしなかった。

人間はエゴの怪物だから。

子供より、自分の方が大事だと、決まっているから。

幼い頃は、それがわからなくて。部屋の隅で膝を抱えて、ずっと泣いていた。

ようやく祖父母に引き取られて。少しずつ体重が戻りはじめて。学校へ行くようになって。

其処で見たのは。

弱者が虐げられる光景。

人間は、結局弱者を嬲って、それで喜ぶ生物なのだと、思い知らされた。

だから、対処した。

裏サイトを潰すだけではない。

イジメをしている奴の証拠映像と、個人情報をネット中にばらまくこともし始めた。当然学校にはいられなくなって、よそに転校していった。

しかし、悟ることになる。

クズを潰してもきりが無い。

なぜなら。

人間という生物そのものが。等しくクズの塊だからだ。

目が覚める。

頭を振るが、中々眠気が抜けてくれない。低血圧のこの体が、煩わしくて仕方が無い。こんな体、欲しくなかった。

性欲の処理に困るとしても、男子の方がまだマシだったかも知れない。生理の度に苦しい思いはするし、朝はつらいし。

いつからだろう。

人間そのものをクズとみなして。

そして、自分自身もクズだと思うようになったのは。

両親を明白に恨むようになったころから、だろうか。生きていて、何の意味があるのだろうと、思う事は日常茶飯事。

祖父母のことは好きだけれど。

自分自身のことは、大嫌いだ。

クズである周囲と同じレベルに、どうしようもないゴミクズである自分が。

いずれ誰かと結婚して、子供を産むのか。

或いは、老人になるまで孤独のままでいるのか。

恐らくは後者だろう。

就職は、するつもりでいる。

祖父母に迷惑は掛けられないからだ。両親と違って、ちゃんと直美の面倒を見てくれている、立派な人達だ。

迷惑も心配も掛けたくない。

できれば。

あの両親の子では無くて。年が離れていても、この祖父母の子として生まれたかった。

ぐるぐると廻る思考の螺旋。いつもいつも、朝起きてから、自我がはっきりしてくるまで、時間が掛かる。

その間、ネガティブな思考が、延々と頭の中を支配し続ける。

起き出すと、祖母が洗濯をしていた。これもいずれ出来るようにならなければならない。ハッカーの中には、自堕落極まりない生活をしている者もいる。直美も、まだ子供とは言え、多分その一人だ。

だが、祖母に迷惑は掛けられない。

手伝うと言うと、良いと言われた。却って時間が掛かるから、だそうだ。

いずれ練習して、時間が掛からないようになったら、祖母は手伝わせてくれるのだろうか。

食事はもう出来ていた。

美味しい。

はじめて祖母の料理を食べたとき。こんなにおいしいものが世の中にあって、みんなはそれを食べているのかと思って。

そして、恨んだ。

適当に食べ終えると、学校に出向く。

学校は、負の感情を思う存分叩き付ける場だ。直美にとっては、全ての悪の根源が、此処にあると言っても良い。

こんな所、潰れてしまえ。

そう何度思った事か。

 

ふと、気付く。

目の前には、もぐもぐと口を動かしている、子供。

「随分眠っていたな」

「誰……」

「何を言う。 私を探して、此処までわざわざ来たのだろうに」

黒髪のその子供は、しらけきった目で言う。頬杖をついているその表情は、何ともアンニュイだ。

そして、直美の側には。

何だか得体が知れない雰囲気のメイドが、作り笑顔のまま立っていた。

周囲は、これは。何だろう。

薄暗い空間に、棚が何処までも並んでいる。床は木製。座らされているのは、何だろう。これはとても心地が良くて、柔らかい。

気付く。

座布団だけれど、それは。

多分人毛だ。

悲鳴を上げそうになって、必死に飲み込む。

そして顔を上げると。

其処には、誰もいない。というよりも、自宅の、自室だ。今のは、何だったのだろうか。夢か何かか。

いや、それにしてはおかしい。

夢にしては内容がはっきりしすぎている。それに、どう考えても、先ほどの子供とメイドには、見覚えがあるのだ。

一階に下りる。

祖父母がいて、料理を出してくれる。祖父はもう会社から引退して、悠々自適の生活をしている。今日は新聞を読み終えた後、将棋の本を読んでいるようだった。

はて。

普段は、もっと違う本を読んでいたような気がするのだけれど。

「直美、急ぎなさい。 学校に遅れてしまうぞ」

「はい」

言われるまま、温かくて美味しい食事を、胃に入れる。

田舎の野道を歩いて、学校へ。この辺りは歩き慣れているから、裏道は幾つも知っているのだ。

学校まで、十五分ほど。

ぐるぐるの伊達眼鏡を途中で、何度か直した。

ださださの三つ編みについても、今では自分で編むことが出来る。

昔は、それも。

いや、待て。何だか風景がぐにゃりと歪んだ気がしたが、気のせいか。こんなに早く違和感が出るなんて。

早くとはどういうことか。

わからない。気がつくと、もう学校に着いていた。

生徒は二十名ほどしかいない、僻地の学校。

学年も別々で教えられないから、体育以外は殆ど自習になるような場所だ。

教師は懇切丁寧に生徒達の面倒を見てくれる。一人一人の悩みもきちんと把握しているし、イジメも起こらない。

適当に自習して今日も日を送りながら。

体の中の異常が、むくむくと大きくなっていくのを。直美は感じていた。

 

家に帰って、自室に入ると。

違和感は頂点に達する。

朝は気付かなかったのだけれど。自室は、こんな場所だっただろうか。何だか様子がおかしい。

何というか、殺風景極まりないのである。

何度か周囲を見回す。部屋の隅々まで見て廻る。

足りない。

何かが、決定的にない。自分が命の次に大事にしていたものが、其処には存在しない気がする。

三つ編みをほどいて、伊達眼鏡を置くと。

ぼんやりと、天井を見上げた。

本当に、此処は自室か。

こんな殺風景で、何も無い部屋が、本当に直美の部屋なのか。これも、夢なのではないのか。

そうだ。

思い出す。

自室には、祖父から貰ったPCが、七台もあったではないか。その内何台かをサーバ化して、ホームページを作っていたではないか。

思えば、祖父母の様子もおかしい。

祖父は普段から、将棋の本なんて読まない。祖父が読んでいるのは、大体立身にも使っていたIT関係の本ばかり。高齢になってからも資格の取得に挑戦し続けていたし、何より引退などしていない。

会社に請われて、今でも時々講師をしたりしている。

祖母だって、直美に学校へ行くように、促したりはしない。

学校が、そもそも違う。

田舎とは言え、千人以上がいるマンモス校。クラスではイジメが横行し、関わり合いになるのが嫌だから、伊達眼鏡に三つ編みで通っていたのでは無いか。そして、毎日のように、学校の関連を検索し。

出来た裏サイトを、片っ端から潰していたではないか。

最近ではSNSのコミュニティも、潰していた。情け容赦ないやり口で。

此処は、何だ。

少なくとも、今まで自分がいた部屋では無い。部屋を出ようとすると、空間がぐにゃりと歪む。

そして、直美は。

地面に叩き付けられていた。

起き上がることが出来ない。

いつの間にか、周囲は真っ暗になっていた。

 

顔を上げる。

また、子供とメイドだ。メイドが小首をかしげている。

「どういうことです、これは」

「フラッシュバック現象だ。 闇を見たのが切っ掛けで、アカシックレコードから、本来の記憶が過剰に流入したのだな」

「え……?」

「この者は土方直美では無い。 正確には、本来土方直美と呼ばれている筈の人間は、別の名前で、別の人格として、別の場所で暮らしている。 土方直美の闇を喰おうと術式を使ったから、こんな事になった」

「あ、それで……」

メイドが納得した様子で、何度もこくこくと頷いていた。

頭を振る。

何を言われているか、わからない。

否。

分かっている筈だ。わかっていないふりをしているだけだと、自分でも理解している。そうだ、思い出してくる。

病院で、両親が青い顔をしていた。

一緒にいると言うことは、離婚前か。直美は手を引かれたまま病院に着いていって、血を採られたり、色々あったのだ。

そして、言われている内容は。

「お子様は、お二人のどちらとも血がつながっておりません」

「どういうことですか! 私は確かに子供を産んで……!」

「おそらく、乳幼児の際に、取り替えられたのです。 タイミングはわかりませんが、警察にも連絡はしてあります。 既に当時のスタッフは残っておらず、内容の確認には難儀しております」

医師が頭を下げている。

思い出しはじめる。この日を境に、両親が急激に直美に対して、冷たくなっていったのだ。

名前さえ、呼ばなくなった。

両親が明確な虐待をすることはあまり多くなかったが。しかし、子供心には、豹変した両親の行動は、あまりにもショッキングだった。

泣くようになり。

それをゴミのように見る両親の顔が、ひたすらに悲しかった。

憎めなかった。

子供だから。

子供は親を憎めるように出来ていない。理由がわからなくて、ただひたすらに泣くばかりだったのだ。

やがて、虐待が始まった。それは育児放棄。ネグレクト。最も多い虐待で、もっとも過酷に子供の心を痛めつけるものの一つ。

父親が最初に、直美を見捨てた。

餌だけは作っていた母親も、間もなく直美に対する「義務」を果たすことを止めた。完全に直美は、二人にとっての荷物になった。

もう少し祖父が早く引き取らなかったら。

おそらく直美は、もう生きていなかったはずだ。殺したところで、両親はなんら罪の意識さえ覚えなかっただろう。

知っている。

あの両親は、持ち運び用のゴミ袋を買っていた。シャベルも。

直美が死んだら、何処かの山にでも捨てに行くつもりだったのだ。

どうして、忘れていたのか。

違う。知らないフリをしていたのだ。自分の血もつながらない子供なんて育てられるか。両親がそう叫んでいたのを、記憶を改ざんして忘れていた。

此奴が出来なければ、結婚しなかったのになんて、二人は言わなかった。

私が。本物の土方直美であったなら。

こんな事には、ならなかったのに。

顔を上げる。

そこにいるのは、困り果てた様子の子供とメイド。メイドは肩をすくめると、子供に対して言う。

「如何なさいますか」

「変わった味ではあったが、対価はくれてやる。 そうだな、あれをもってこい」

「……何の話よ」

「記憶が一気に流入しすぎて混乱しているだけだ。 いずれ思い出すから心配するな」

吼える。

一体何のつもりで、私をもてあそんでいる。

ずっと静かに暮らしてきたから、こんな怒りが爆発したのは、初めてだったかも知れない。

世間に対する憎悪は。

こんな事に起因していたのか。

何もかも壊れてしまえばいい。此処で死んだって、構うものか。

何となくわかる。其処でしらけた目で見ているメイドは、無茶苦茶に強い。多分私がどんなに暴れても、指一本で制圧できるだろう。ましてや、私のようなモヤシなんて、どれだけ暴れたって、同じ事だ。

むしろ、殺されたいと、私は思っていたのかも知れない。

頭が沸騰して、とてもまともには働いていなかった。

「店のことも忘れたか」

「知るかっ!」

「アモン。 黙らせろ」

何だろう。

不意に、喋ることが出来なくなった。咳き込むことも出来ない。何をされたのだろう。

地面に叩き付けられる。

顔は座布団に突っ込んだから、鼻を砕くようなことはなかったけれど。息も出来ないのは、苦しい。

急激に、絶望感がこみ上げてくる。

「此処は、心の闇と引き替えに、願いを叶えられるかも知れない品をくれてやる店。 お前はネット上で調査して、自力で此処まで辿り着いた。 ここに来たとき、新幹線やら特急やらを使って一時間半掛かったとか言っていたな」

少しずつ、思い出してくる。

急に、息が出来るようになった。涙目の向こうに見えるのは、此方に指先を向けているメイド。

強いだろうとは思っていたけれど。

私みたいなモヤシなら、指を向けるだけで絶息させられるのか。わざわざ接触する必要も無いと言う事だ。

殺されかけたからか。

少しずつ、頭が冷えてくる。だが、絶望は消えていない。

「とにかくだ。 今日はもう帰れ。 物品はくれてやる」

アモンと呼ばれたメイドが、なにやら抱えてくる。そんなものいらない。今ほしいのは。今と違う過去。

今のままじゃ、何をしても。

例え世界最強のハッカーになっても。

私は、クズのままだ。

 

土方直美を帰らせると、アガレスはげっぷをした。

真相に気付いたら、あれほどの闇を垂れ流しはじめるとは。今周囲に満ちている闇を吸い込んでいるのだけれど。まだまだ空間には、強烈な闇が満ちている。全て喰らうには、かなり時間が掛かるだろう。

品を発送し終えたアモンが戻ってくる。

「まさか本人が本人では無いとは思いませんでしたよ」

「お前は武闘派だから、魔術はあまり得意では無いし、仕方が無い。 まあ、私くらいになれば楽勝だがな」

無い胸でふんぞり返るアガレスだが。

即座に目の前に、山ほどの壊れかけたソフビ人形を積まれる。

「とりあえず、作業を片付けてください」

「あ、ハイ」

「それにしても、あの直美という子、本当にアレで良かったんですか? あのままだと、自宅に帰った後、大量虐殺でもはじめかねませんよ」

アモンは、顔に書いている。

それはそれで面白いと。

此奴はアガレスよりも、よっぽど人間が考える悪魔に近い。ただ、直接人間を殺したりはしない。

人間が勝手に自滅していくのを見て、にこにこしているタイプである。要するに、単純に底意地が悪いのだ。

ただし、アガレスに言わせれば、此奴なんて大半の人間に比べれば、よっぽど真面目で良心的だが。

「そもそもあの娘が、あれだけの鬱屈を抱えていた理由は、周囲に対して恐怖と憤りだけを感じていたからだ。 だから解放してやれば、高確率で周囲と順応できる」

「順応が願いだと?」

「違うな。 檻から出ることが、あの娘の本当の願いだ」

心の奥底では、わかっていたのだろう。

自分が何処か、決定的な意味でおかしい存在だと。だからこそに、あのような闇が育ち上がった。

ITに興味が向いたのは、大好きな祖父母が原因ではあるだろうが、それだけではモチベーションは作れない。

恐らくは。

自分のルーツを探したいのだ。

本物の土方直美は今、どこにいるのか。

そして自分の本当の名前は。

だから、アレをくれてやったのである。

とりあえず、アガレスは今から、ソフビ人形の大群と格闘しなければならない。アモンは容赦なく追加の作業を出してくる。それがまたつらい。

涙目になりながら作業を片付けると。

また、次の仕事を、目の前に積み上げられた。

 

4、対決

 

何度か、深呼吸した。

家に戻ってから、漠然と過ごしていたのだけれど。数日して、本当に荷物が届いたのである。

怒る気力も、悲しむ余力も残っていなかった。

だから粛々と荷物を開封する。中に入っていたのは。驚かされる。

一種のツールだ。

手持ちのPCにもインストールできる。ただし要求スペックが尋常では無い。その上、付帯品がある。

カメラのようなのだけれど。

ただし、何十年も前の。大きな箱形の奴だ。部品もかなり複雑で、説明書もついていた。

ツールをまずインストールして、マニュアルを読んだのだが。どうしてだろう。困り果てたことに、さっぱり用途がわからない。

まず、この箱形の奴を、組み立てなければならないか。

祖父が部屋を見に来た。

部品の山を見て、驚く。

「直美、どうしたんだ。 何だこれは」

「わからないの。 懸賞で当たったんだけれど」

「返品した方が良いのじゃないのか」

「……」

それも手かも知れないと、少し悩んだ。

しかし、あの店のことは覚えている。あの子供は、確かに言った。心の闇と引き替えに、願いが叶うかも知れない品をくれると。

そしてあの二人が、人間だとはとても思えない。ハッカーをしている直美が言うのも何だけれど。オカルトだともわかっているけれど。彼奴らの言う事は、サギでは少なくともない。

料金は、取られていない。

勿論、これから何かしらの詐欺的な行為をはじめる可能性もある。だが、少なくとも。この品を組み立てることは、損にはならないはず。

唇を噛む。

警察が、連絡をして来たという話は無い。

ならば、直美の素性なんて、待っていたって掴めない。今頃は完全に迷宮入りで、倉庫の奥にあるファイルは埃を被っているだろう。日本の警察が無能だとは思わない。ただし、何処の警察なら見つけられたとも考えない。

自分で探すには、彼奴らに。あの店にいた、人外の女どもに頼るしかない。

つまり、この品にだ。

祖父に手伝って貰って、組み立てをはじめる。

PCはパーツを組み合わせて何台も作った。だから、組み立て作業そのものは、慣れている。

祖父は小首をかしげながらも、手伝ってくれる。

「見せてみなさい」

祖父も、マニュアルに目を通したけれど。

やはり用途がわからないようだった。出来ればすぐアンインストールするべきだと言ったのだけれど。首を横に振る。

要求スペックを満たしているPCは、ネットワークから隔離済み。

他のPCとも接続はしていない。

完全なスタンドアロンだし、これなら悪さは出来ないはずだ。USBで接続するカメラ箱のようなものは、ネットワーク接続の機能を有していない。有線にしろ無線にしろ、悪さは出来ないはずである。

しかしわからない装置だ。

数日かけて、祖父と一緒に、ゆっくりくみ上げていく。

祖父は直美よりもずっと手先が器用で。くみ上げていく作業については、一切心配しなくて良かった。

問題は、そのほかのことだ。

箱カメラについては、どんどんそれが得体が知れないことがわかってくる。どうやらスキャナのようなものだということは、くみ上げていって理解できた。しかし、スキャナではなく運用も出来るようだ。

荷物が届いてから、十日目。

品物が、完成した。

そうすると、どうしてか。

マニュアルの内容を、すんなり理解する事が出来た。祖父も同じのようで、小首をかしげる。

何故、こんなあからさまなものを。

今まで理解できなかったのかと。

これは、人の写真を取り込み、或いはもっと詳細なデータを入力することによって、その人物を若返らせたり、年老いさせたりといった事を、データ上で行う事が出来るツールだ。

要するに、モンタージュ写真の作成ツールである。

言うまでも無く、警察の最も必要とするものだ。

しかもこれがすごいのは。

たとえば男女の写真を取り込むと、その子供の写真を作り出す事が出来る、という事だろう。

逆も出来る。

子供の写真、更には母親の写真から、父親の写真を予想でくみ上げることも出来る。

事実、祖父母の写真を取り込んでみると。

其処から、非常に現物に近い、父のモンタージュを作り出す事が出来た。

多分、似たような事を行えるツールはある筈だ。

事実、予想から若返りや老化を、写真に対して行うツールは存在していると、直美は聞いたことがある。

警察でも似たようなものは所持していてもおかしくない。

だがこれは、言うならばその最大機能拡大版。しかも精度についても、申し分ないと言える。

思いついた事がある。

祖父母には内緒で、アルバムを引っ張り出してくる。

というよりも、このやり方を、あの人外共は想定していたとしか思えない。直美で遊んでいるのか、どうなのかはわからないけれど。

乗ってやる。

そうでもしないと、目的の場所にはたどり着けないからだ。

アルバムには、離婚前の両親のものがあった。早速写真を可能な限り、データとして取り込む。

割り出すのは。

本当の、土方直美の顔。

勿論、気まぐれな遺伝子だ。兄弟が同じ顔にはならないように、子供を作れば十回が十回、別の顔になるだろう。

当然似通っては来るだろうが、必ずしもそうとは限らない。

それでも、何処かで、決定的な差異は生じてこないと、直美は判断した。

しばらく、モンタージュを作成し続ける。

祖父母には内緒で、それを続けて。

そして最後に、はじめたのは。

全国で、同年代の女子に対する、調査だった。

 

直美と取り替えっこが行われたのなら、流石に性別が違う相手ではないだろう。しかも、乳幼児の段階でなければ、難しいはずだ。

そんな事はわかっている。

だから、少なくとも、人数は半分に絞り込むことが出来る。

意外に冷静に頭が働いていることを、直美は自覚している。こうやって、一歩ずつ「本来の私」に、近づいていく。

近づいていって、どうする。

わかっている。本来の土方直美が、どんな奴か、調べて見るのだ。私になる筈だっ奴が、どんな人生を送っているのか。

場合によっては、滅茶苦茶にしてやる。

人生を、完全に破滅させてやる。

暗い情熱に基づいて、全国の小中学校のPCに潜入。データを閲覧していく。名前だけしか登録していないような学校は近年まれで、だいたいの場合は写真データを残している。特に、アルバムは。

直美と同い年の人間だから、かなり対象は絞り込むことが出来る。

そうでなければ、調査データが膨大すぎて、とてもではないが手に負えなかっただろう。本職の警官でもどうにも出来なかった事なのだ。

執念が、行為を可能にしていた。

自分から幸せを奪った奴。

必ず、見つけ出してやる。

一月掛けても、成果はなし。

取り込んだデータから、それが特定人物の子供か、検査する機能も、ツールにはついている。

確実に警察に売るために作り上げたものだと、このことからもわかる。しかし、これほどの性能を、どうして警察は採用しなかったのか。モンタージュ作成でこれほどの精度のものは、考えにくい。

或いはコストパフォーマンスの問題かも知れない。

企業向けのソフトになると、使用料が凄まじい事になる代物も多い。幾つか知っているが、世界最大のOS製作会社の作る表計算ソフトなどは、普通のサラリーマン三人分の給金に匹敵する料金を請求してくるはずだ。

或いは、この非常に高性能なソフトも、同じような対価を請求して蹴られたのかも知れないと思うと、少しおかしい。

今の時点で、ヒットは無し。

東京は検索完了。

当たりはなかった。

関東圏も、それから一月ほどで調べ尽くしたが、駄目。関西、特に大阪も調べていったが、同じように駄目だった。

少しずつ、人口が少ない県へ移行していく。

調査は地味極まりない。しかもハッキングを散々しなければならないので、面倒だったけれど。

やる価値は、直美にはある。

他の人間にとってはどうでも良い事も、直美にとっては価値があるのだ。

 

見つけたのは、探し始めてから四ヶ月後。

一致の文字が出たとき、驚かされた。

そして、実物の写真を見たとき、納得したのである。

父母にそっくりな部品が多いのだ。

目元は母に似ているし、口元は父の面影がある。

直美より大分背が高い女で、雰囲気も真逆だった。太陽みたいに輝いて、周囲を照らす人間である事は間違いない。

殺意がわき上がってくる。

此方は、親が真相に気付いた途端、豹変して。地獄に叩き落とされたというのに。

親が気付いていないのか、或いは気付いていても愛していたのか。或いは、最初から確信犯だったからなのか。

それはわからないけれど。

いずれにしても、これは許せない。

通販で、専門職が使う十万以上する包丁を買った。村正の子孫とか言う女がオーダーメイドで作っている包丁で、凄まじい切れ味だと評判である。人殺しの武器としては、これくらいが適当だろう。

それに暴漢鎮圧用のスプレー。

更には、スタンガンも揃える。

学校も最近は休みがちだ。祖母が心配しているようだから、対決するなら、一瞬で済ませなければならない。

こんな笑顔を浮かべて。

愛情に包まれて。

絶対に許さない。

直美が、親が真相を知った途端、どのような目に遭わされたか。それを、体に刻み込んでやらなければ、気が済まない。

通っている学校は突き止めた。

確か結構な学費の私立だ。近くにまで行ってみたが、それでますます殺意が刺激される。

この豪華な建物は、城か何かか。

こんな所で暮らしているような奴が。

本物の、土方直美だというのか。私の名前を奪っておいて、幸せも全て潰しておいて。こんな所に通っているのか。

下準備は進めてある。

近くにある監視カメラを幾つか乗っ取って、本人がいることは確認済み。更に、行動パターンも把握した。

奴はどういうわけかわからないが。

幸せそうに過ごしている割りには。帰りには、一人でいることが多いようなのだ。三十日ほど監視して、そう結論した。

二十日掛けて、計画を立案。

そして、練り上げる。

食事の際に、祖父と祖母が不安そうにしているのを見て、あまりぐずついてもいられないと悟る。

全ての元凶をブッ殺さないと。

私は幸せどころか、居場所さえ無くなるのだ。

計画は完璧。

包丁はしっかり研ぎ抜いた。刺せば首くらい一発で貫く。頸動脈の位置も、事前に覚えた。

此処さえ切れば、瞬時に殺せる。

直美は所詮モヤシ。あんな健康そうな女、そう簡単には殺せない。だからこそ、一瞬で潰す。

殺しを楽しもうなどとは思わない。

理不尽極まりない、ただの一瞬で、この世から別れさせてやる。

殺意がダダ漏れになっているのが、自分でもわかる。決行と決めた日、学校をさぼって電車に乗る。

意外に、奴が暮らしている場所は近いのだ。

あの白い首を断ち割って、無惨な死体に変えてやったら。奴の両親は、どう思うだろう。嘆き悲しむだろうか。

ざまあみろ。

せめて、私が味わってきた孤独と悲しみを、ほんのわずかでもいい。味わえ。

現地に到着。

伏せると決めたのは、ある曲がり角。

カーブミラーの位置が絶妙で、隠れていても向こうからは見えない。それに対して、此方からは丸見えだ。

中途半端に田舎だから、人通りはまばら。

バッグを提げて、人相を隠して直美はかどに立つ。マフラーで口元を隠し、毛糸帽で目元まで隠す。此処にサングラスまで掛けたから、人相はわからない。

二十分ほど、待っただろうか。

来た。奴だ。

近づいてくる。バッグから、包丁を抜く。

ずらりと、いい音を立てて、包丁は空に抜き身を晒した。鋭い。以前試し切りをして見たのだが、大根でもカボチャでも、面白いようにすぱすぱ切れる。まな板が真っ二つになるほどの切れ味だ。

相手の素性も確かめている。

武術の類で成績は上げていない。スポーツもしかり。運動神経は、並程度。

振り回すのでは無い。

刺す。

それで、一発で終わる。

何の苦労も無さそうなにこにこの笑顔。温かそうなマフラー。虐待なんかされたこともなさそうな、天使のような容姿。

全て、ズタズタにしてやる。

この日のために、生きてきたのだ。

「誰か、そこにいるの?」

ふいに、前から声がした。

どういうことだ。影が向こうを向いているようなことはない。此方が死角になっているのは、確認済みだ。

しかし、奴は。

明らかに、此方を見ている。

「物騒なものを持ってるんだね。 私に、何の用なの」

「……」

何故此方の様子がわかる。周囲を見回す。焦りが、募っていく。

向こうがバッグから、何か取り出した。あれは確か、ブラックジャック。布に石とか鉛とかを詰めた戦いの武器。

しかも、スラムで発達したような、インスタントで作れる凶悪破壊力の武器、だ。

相手が臨戦態勢に入ったのを悟って、直美は舌打ちしていた。

元々体格は相手が上。

その上、向こうは此方に気付いている。しかも、包丁とブラックジャックでは、向こうの方がリーチがある。

「その包丁、捨てて。 良い包丁なのに、そんな使われ方をしたら、可哀想」

「黙れ」

鈴を鳴らすような相手の声にも、勘が触る。

直美の声は、良く言っても陰気で地味。こんなアニメの声優をやれるような、綺麗な声じゃない。

怒りで、前が見えなくなっていたのかも知れない。

考えて見れば、得意分野を生かせば良かったのだ。此奴の個人情報も家族の情報も全部ぶっこ抜いて、ネット上に晒してやれば良かった。そうすれば、此奴の天国は、一転地獄へ大変身だ。

「どうして私に気付いた」

「人を襲うのは初めてなんだね。 気配がダダ漏れだし、何より見えてるんだよ。 気付いていないかも知れないけど、其処にホラ」

指さされて、ようやく気付く。

水たまりがあって、其処に姿が映り込んでいたのだとわかった。

間抜けすぎる。

どれだけネットで猛威を振るってきても。現実世界に降りてしまえば、こんなものか。いずれにしても、もう勝機は無い。

引き上げるほか無いだろう。

だが、不意に相手が間を詰めてきた。こっちが反応するより早く、地面に組み伏せられる。文字通り、疾風のよう。

どういうことだ。スポーツが出来るとは聞いていない。武術だって、心得があるのが一目瞭然だ。

抑えられると、身動きできない。

「誰? これでも恨みは買ってきた自覚があるんだけど、知らない顔」

「黙れ偽物っ!」

「え?」

「あんたが私と取り替えられなければ、こんな事にはならなかったんだっ!」

もがくが、力の差は歴然だ。

元々ハッキングばかりしていて、家の中に閉じこもってばかりの直美。それに対して此奴は、事前の下調べとは裏腹に、明らかに戦い慣れしている。普通だったら包丁持った相手に怯えるはずが、此方の心理を巧みについて接近戦に持ち込み、制圧する手腕は並大抵のものではない。

いきなり、腹に一撃入れられた。

意識が飛ぶ。

何だ、こんな結末なのか。情けない。

消えていく意識の中で、直美はただ、そう思った。

 

目が覚めるとは思っていなかった。

嬲られるだけ嬲られて死ぬだけだと思ったから。もう、どうでも良いと感じていたこともある。

気がつくと。

其処は自室だった。

ベッドには、あの女が腰掛けている。

直美の全てを奪った、彼奴が。

思わず身を起こそうとして、呻く。彼奴は、もう此方が起きている事に、気付いていた。顔も向けずに、言う。

「生徒手帳とかを見て此処まで連れてきたけれど。 やっぱり恨まれる理由が、よく分からない。 どうして私を襲おうとしたの?」

「……」

此処に此奴がいると言うことは。

祖父母を殺したのか。

いや、そんなはずは無い。祖父母に断って、直美を連れてきて。ベッドに寝かせた、というのが事実だろう。

襲撃されたと、素直に真実を話したのだろうか。

その可能性は高い。

「あの包丁、調べて見たけれど、十万もする村正印だよね。 そのほかにも、高校生の資金力で、買えるとは思えない装備ばかり。 どうやって手に入れたの?」

別に、責めるような口調では無い。

淡々としていて、単純に興味がある様子だった。

この距離だ。

相手に決定的な隙があれば、殺せるかも知れない。

しかし、手元には殺すための武器がない。何より此処で殺したら、確実に足がつく。

だが。

考えて見れば。

彼処で殺していても、足はついたのではないか。

少しずつ冷静になっていくと、如何に穴だらけの計画だったのかわかる。相手のことを調べたと言っても、所詮はネット上にある情報から。まさかこれほどの使い手で、しかも戦闘経験豊富だなんて。

だが、準備不足の上に、ずさんな計画だったのだ。

怒りに目がくらんでいた。

「もう話してやれ、直美」

祖父が、部屋に入ってきた。

ぺこりと女が一礼する。おそらく女は、直美が自分を殺そうとしたと、祖父に素直に話したはずだ。

そして祖父も祖母も。

直美の様子がおかしいことには、苦慮していた。

そう言うことだったのかと、素直に受け入れていた可能性が高い。

大好きな二人を困らせるのは、まずい。というよりも、計画が上手く行っていたら、最大級の苦難を、二人に味あわせていたのだろう。

ため息が出た。

「病院で、あんたと私は、取り替えられたのよ」

「……」

「それがはっきりしてから、私はあのクソ親に虐待されるようになった。 あるつてから手に入れたモンタージュ作成ツールで、あんたを見つけ出したとき、絶対に殺すと思った」

観念した直美が全てを白状すると。

祖父は嘆息した。

女は。

本物の土方直美は。合点が行ったと言う風に、言った。

「そうか、貴方が本物の黒田令美だったんだ」

「……」

此奴がそう言う名前だと言う事は知っていたけれど、興味は無い。

恵まれた家庭に生まれ、何もかも出来るように育った奴なんて。思春期の全てを周囲の都合で潰された直美にとっては、どうでも良いことだった。

はて。

此奴は、驚かないのか。

「私もね、両親には虐待されていたの。 見せてあげようか」

腕をまくる女。

其処には、明らかな。みみず腫れのような古い火傷の跡が残されていた。

それも一つや二つじゃない。

腹も見せてくれる。

アイロンを当てたらしい、凄惨な傷があった。

「父に到っては、十歳過ぎたころには、私をいやらしい目で見るようになり始めてたし、母はそれに勘付いて、暴力がエスカレートしてた。 このままだと殺されると思ったからね。 だから、年上のいとこがやってた武術を、こっそり学んで。 それで十二の時に、二人を返り討ちにしたんだよ」

此奴は。

まさか、実力で虐待をはねのけたのか。

半殺しにした両親。

二人は警察を呼ぼうとしたが。今までの虐待の証拠は、幾つも押さえていた。これらも全て、いろいろな筋からのアドバイスで出来た事だった。

叔父夫婦の所に引き取られて。

ようやく人間になる事が出来たのだと、女は目を伏せた。

もっとも、逆恨みした両親から、有形無形の嫌がらせを、散々受けたそうだが。襲撃も、何度もされたらしい。

あきれ果てたことだ。

そうか、此奴は。

見かけはともかく。有能な私とでもいうべき存在だったのか。

そして取り替えは、意図的に行われたのでは無いと、これではっきりしてしまった。看護師の誰かがミスをしてしまった。それだけのことだったのだろう。

笑いがこみ上げてくる。

結局の所。

どれだけスキルを身につけて、ハッキングをこなせるようになっても。

此奴のこんな事情は、理解できなかったし。恐らくは、手に入ることもなかったのだろう。

「もう、襲撃はしない?」

「何だかあほらしくなったわ。 襲撃はしない。 だから帰って」

「……そうするね」

直美が謝るべきだったのだろうか。

いや。全てを諦めることが、どれだけのプライドに傷を付けるか、この女はわかっていたのだろう。

だから、それだけで許してくれた。

それも、直美にとっては悔しかった。

 

それから、祖父母には全てを話した。

しかられるかと思ったけれど。二人は何も言わず、直美にこれまで通り暮らすようにというのだった。

結局の所、直美は。

これでようやく、スタートラインに立つ事が出来たのかも知れない。

一瞥する。

モンタージュを作るツールを、あの人外どもは、どうしてくれたのだろう。直美が失敗することを見越していた、のだろうか。

だとしたら。

或いは、全て手のひらの上で、踊らされていただけだったのかも知れない。

負けたな。

素直に直美は認めることが出来た。

そして、人生を、ようやく歩けることを、実感してもいた。

ちゃんと、本来の用途通り使おう。

包丁を見て、そう思う。

何もかもが終わったけれど。

何もかもが始まった。

それを、直美は実感していた。

まず最初に、料理を作れるようになりたい。

ハッカーとしても今後は腕を磨いていこうとは思うけれど。人として必要なスキルを、少しは身につけたい。

そう直美は思った。

 

(続)