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大いなる鎚
序、誇れない仕事
無言で、鎚を振るう。
大きさは、家庭用の工具より一回り大きい。黙々と鎚を振るっている内に、時間も飛ぶようにして過ぎていく。
毎日の事だ。
家には自分しかいない。
既に両親も亡くなって、今やっているのは、ただの趣味になるはずだった事。
しかし、この趣味が、無形文化財でもあるのだ。そして今では、仕事でもある。
司城の看板は、まだ消えてはいない。両親は、家を継がなくても良いとは言ってくれたのだけれど。
自分では、結局好きだったのだ。
こうやって、刀を打つことが。
日本で刀を打つことが出来る、数少ない女子高生。それが私。司城亜騎(ししろあき)。そして、日本の女子高生としては数少ない、無形文化財の持ち主だ。
家はずっとさかのぼると、かの村正の家系に連なる。伊勢の刀鍛冶だった村正は、弟子も多く鍛冶場も大きく、血は彼方此方に残っている。ただし、村正を作る事が出来る家系はあまり多くない。
自分の家も、その少ない一つ。
技術も、最盛期のものに比べると、決して高くはないけれど。
しかし、人斬りにも使える刀は打てる。
湯の温度を確認。
秘伝通りに様々なものを入れて行く。
打った赤熱している鉄を冷やし、また打つ。幾つかの行程を経ていく内に、刀になっていく。
昔だったら、弟子もいたり。
或いは、既に許嫁もいたかも知れない。
しかし没落した刀鍛冶なんて、今では化石も同じだ。学校でも、刀鍛冶を珍しがられる事はあっても。
亜騎自身が、興味を持たれる事なんて、無かった。
無心に刀を打っていく。
一晩がかりの作業になる事も多い。完成した品は、一応それなりの値段で売れる。美術品としては、相応に評価されるのだ。
日本刀は現在、実用品としてはほぼ考えられていない。
一部、ヤクザなどが自分の存在を誇示するために実用品を欲しがることはあるけれど。それは殆ど、人斬り包丁と呼ばれるような超実戦用のものだけで、しかも現在に作られた品ではない。
刀は、相当数作られた。
だから今でも、かなりの数が残っている。
それこそ、涸れた需要には、充分すぎるくらいに、だ。
新しく作っても、海外に売られるだけ。
それも、あまり高い値段では売られない。亜騎の打つ刀は、珍しい武器、位にしか考えられていないのだ。
技術の粋を尽くしてあっても。
それは同じ。
現在の技術なら、無数の試行錯誤で作られた伝説の名刀を上回る品が作り出せるから、である。
事実、研究もしている。
チタン合金などを用いて、より強力な刀を作れないか。
しかし、作ったところで、どうなるだろう。
今の時代、戦車さえ一撃でスクラップにするような飛び道具がある。刀では近距離まで近づかないと斬れない。しかも、戦車を仮に真っ二つに出来る刀があったとしても、物量の前にはどうにもならない。
人間の能力なんて、多寡が知れている。
それに依存する所が大きい刀では、所詮行けるところには、限界があるのだ。
わかっているからこそ。
この技術を、両親は無駄と判断したのかも知れない。
ならば、どうして自分は。化石に等しい、こんな技術に今でも拘泥しているのだろう。それがわからない。
無言で作業を進めていく。
二日掛けて、最後の行程を終える。
美しい波紋が、刃に浮かび上がっている。これは刀に着せてやる服のようなもの。波紋も浮かばない殺戮のためだけの刀もあるけれど。刀匠達は、それでも。何処かで、遊び心を残したいと思っていたのだろう。
刀の多くには、特徴的な波紋が浮かぶ。
亜騎の刀も、それは例外ではなかった。
しばし試し振りをした後、外に。巻藁を準備。
一応居合いはそれなりに訓練を積んでいる。剣道は一段。どちらも、自主的に習い覚えたものだ。
ただし、天賦の才は無い。これは自分でも理解できている事だ。刀を振るうために、使えるようにした。それだけのことである。
気合いとともに、巻藁を斬る。
切れ味は上々。刃に欠けている部分はない。これならば、人を切る事も出来るだろう。
昔ながらの製法で作った刀、１丁上がりである。この後は、チタンを含めて打つ刀を、やってみるつもりだ。
刀を鞘に収めると、納品の規格を最後に確認。
アラブだかの富豪が欲しがっている刀だ。説明書には、扱い方、手入れの仕方などを、図入りで説明してあるけれど。本当にこの説明書の通り、扱ってくれるかどうかはわからない。
少なくとも、この刀一本で百万になる。
材料費や労力を見込んでも、純利益は三十万を超える。つまり二月は喰っていける、という事だ。
一方で、斬れない刀も、時々作って欲しいと注文が来る。
ディスプレイ用に欲しいというものが大半だ。それなら竹光でも入れておけば良いだろうに。どうしてか、中身もちゃんと作って欲しいと言うのだから、おかしな話である。此方は大した金にはならないけれど、それでも評判を落とすわけにはいかない。丁寧に作って、きちんと納品する。
仕上げると、どっと疲れる。
シャワーを浴びて汗を流して。
ベッドに倒れ込むと、そのまま寝てしまう。
後は何が起ころうが知らない。
そういえば、三日ほど学校には行っていなかった。ただ、学校側には、仕事がある事は告げてあるから。行っても、文句を言われることは無い。
目が覚めると、朝。
制服に身を包むと、疲労感と戦いながら、家を出た。
今日も、無為な一日が始まると思うと憂鬱極まりないけれど。これが、自分の選んだ路なのだ。
今更、後悔はしていられなかった。
１、不可思議な注文
村正を作って欲しい。
ある日、そんな注文が来た。寝ぼけているのかと思ったのだけれど、何度見直しても、そう書いてある。
確かに、本物を欲しがるマニアはいる。
村正は海外でも知られた刀だ。
徳川家を三代にわたって傷つけたという噂があるが、あれは単に当時それだけの数、村正が出回っていたからに過ぎない。伊勢の刀鍛冶である村正は数代にわたって続き、悪しき風評が出てからは、名前を変えて更に刀鍛冶を続けている。
つまり、村正の真品なんて、それこそいくらでもある。
数打ちの村正もかなりの数があったと言われていて、銘がない村正で良いのであれば、それこそ数十本はざっと探すだけでも見つかるだろう。
それを知らないマニアかと思ったのだが。
差出人の名前は、アモンとある。
どうやらこれは、外人のマニアによるものらしい。そう、亜騎は判断した。
あほらしいと思ったが、それでも日本語で丁寧に書いてきている手紙には、きちんと目を通していく。
何でも、現在の技術で作られた村正が見たいのだという。
手紙に返事を書こうかと思ったけれど、止めておく。こんなのでも、客は客だ。一応、それなりのものを作らないと、評判を落とすことになるだろう。
現在の技術で、というと。
チタンなどを用いて、最強刀を作るとして。
それを村正の刀鍛冶の技術を応用するとして、どうすれば良いのだろう。
刀鍛冶の技術の中には、どうすれば鋼鉄を強く出来るか、というものが含まれる。これは古い古い時代から、試行錯誤を繰り返して、作り上げてきた技術だ。炭素をどう含ませるか、水に入れるときの温度や内容物は。
様々な要素は、いずれも鋼鉄のために作られている。
勿論、刀鍛冶の技術は、鋼鉄を如何に強くするか、というだけのものではない。
刀の構造は、見かけと裏腹に相当な複雑さを秘めている。
これらの構成技法を応用すれば、それなりのものは作れる。事実、作って見た事もあるけれど。
だが、それは亜騎の専売特許では無い。
村正の子孫というだけでも、同じ事。
実際、現在の技術力で作った最強の刀、というものは、よそでも見た事があるのだ。
しばらく小首をかしげたが、とにかく村正の作り方で、チタンを用いて打ってみることにする。
黙々と作業をこなしたのは、報酬が高値だったこともある。
普通の刀は、精々作っても百万が良い所。しかも、金に糸目を付けないマニアでその値段。もっと買いたたかれることも多いし、何より注文が入ってこないのだ。芸術家もそうだが、幾らで売れる品、というものを見極めて、作る事は重要になってくる。金で全てが動く世の中では、それが当たり前のことなのだ。
黙々とチタン合金製の刀を打つ。
出来たのは、四日後。
波紋も浮き出ている。村正の刀。ただしチタン製。
振るってみると、少し重い。ただし切れ味は凄まじく、巻藁を斬ったときのなじみ方は尋常では無かった。
耐久力に関しても、これは文句なし。
ただ、もっと上に行ける気がする。
一応納品して、料金を受け取った。普段の倍額以上貰ったので、これで当座はしのげる。他の仕事がなかった時期でもあるので、嬉しい話だ。
しかし、妙な話は、更に続いた。
また作って欲しいと言ってきたのである。報酬は前回以上。そんなにチタンの刀が気に入ったのだろうか。
しかも、今度は三本。
短刀から物干し竿めいた長刀まで、である。
こんなものを作って、何になるのだろう。村正はたくさん残っているし、その中には今の亜騎では及びもつかない名人が作った品があるのだ。少し調べれば分かる事だというのに。
何故、今生きている、しかも若造の亜騎が作った刀なんて、欲しがるのだろう。
だが、客は客だ。
黙々と作る。学校はサボりがちだが、これは前からの事。それに、学校の勉強なんて、今更、である。
チタンの刀を作っていて、その性質を調べながら、更に強くしていく。
物干し竿に到っては、その気になれば車のドアくらい両断できる品ができあがった。これならば本来の意味での斬馬刀としても用いる事が出来るだろう。
しかし重くて、長期戦は無理だ。
工夫すれば、もっと軽くて強い刀が出来るかも知れない。両親は技術だけ受け継いで、熱意がない人達だったから、こんな事は口に出来なかった。周囲に、悩みを共有できる奴もいなかった。
だから、自分で調べるしかなかった。
家は一応古くから続いているから、蔵もある。
その中には、先祖が残した書物だってある。
目を通す限り、こんな事が書かれていた。
刀は、それを使いたくなる物こそが最上。だからこそに、魅入られるものもでる。良く出来た刀は、本当の人斬りのためだけに存在している。作り手も、魅入られることがある。厳重に注意せよ。
確かに、何となく言葉の実感はある。
作っていて、思うのだ。これを使って見たいと。一度ならず。
巻藁を斬るのでは無く、人間で試してみたいと。
だが、それは一時の衝動。
シャワーを浴びて寝れば収まる。
それに、亜騎の作る刀程度では、大した人数は斬れない。亜騎の剣道の腕程度では、刀を生かし切れない。
それを考えると。所詮だ。
刀を三本とも納品して。それで。
また手紙が来たときには驚いた。
丁寧な文体で、色々と書いてある。最初のものに比べて、随分進歩していますねとか。使って見たところ、上々の仕上がりです、とか。
少し怖くなってきたけれど。
また注文が乗せられていた。
今度も三本。
少しずつ規格が違う刀だ。どれもこれも、打ってみたら楽しそうだと思わせる空気がある。
生唾を飲み込む。
何だか、魅入られているのかも知れない。
鍛冶場に向かうと、仕入れてあるチタンを引っ張り出してくる。
刀を作る。
学校に出ると、流石に教師が白い目を向けてきた。ただし、同級生達には、むしろ心配された。半月近く、学校に出ていなかったのである。しかもその前後で、八キロも痩せたのだから当然だ。
亜騎は女子としては長身で、百七十近くある。
その体重で八キロも痩せると、見かけが大きく変わる。元々それほど太っていたわけでもないのだが。今では凄惨なほどの頬のこけが目立つと、友人達には言われた。長い髪も、手入れがぞんざいだから艶が消えている。
「美人が台無しだよ」
「有り難う」
丁寧に応じるけれど。
あまり自覚はない。
瓜実顔だとか切れ長の目だとか時々言われるけれど。幼い頃から、自分の容姿には、あまり興味が無かったのだ。
刀が好きというのとも、また違う。
何というか、自分が此処にいないというような、不可思議な感覚に、昔から襲われがちだった。
別に好きでもない刀を打つようになったのは。
その時だけ、もやもやから解放されるから。
それに、以前十キロ以上一度に痩せたこともある。その時に比べれば、今回はまだマシな方だ。
なお、亜騎はリバウンドでさほど太らない。
その辺りは羨ましいと、周囲に良く言われるのだった。
さて、今回だが。
二週間で、十七本の刀を打った。一度に複数の刀を打つと、作業をかなり省略できるのだ。
だから出来た事なのだけれど。
その代償は大きかった。途中四日ほど何も食べなかったし、精神力を湯水のようにつぎ込んだ。
今でも、更に向上を目指したいという気持ちがある。
授業を受けていて、思うのだ。
あの教師を後ろから斬ったら、どんな風になるのか、と。
自分の刀でなら、一体何人を、此処で斬り殺せるのか、と。
隣で笑顔を浮かべている級友の首を刎ねる感触は、どのようなのか、と。
いかんいかんと、頭を振る。
帰ってから、シャワーを浴びた方が良いだろう。実際、その気になれば、人を殺せる環境にいるのだ。
下手とは言え、技術も備わっている。
剣道も、真剣を手にすれば立派な殺しのための技に化ける。
居合いに到っては、そもそも真剣を使うものだ。
授業が終わると、級友が話しかけてくる。
確か真名とか言う。殆どクラスメイトは顔と名前が一致しないのだが、隣の席にいて、よく話しかけてくるので、名前は覚えている。
「今日、亜騎ちゃんの家に遊びに行って良い？」
「別に構いませんけれど」
「そう、じゃあ行こう」
家は意外に近くにあるという。
まあそれなら、別に構わないか。帰り道、連れだって歩く。真名とは身長差が十一センチあるので、終始視線を下げないといけないが。
「刀って、まだ打ってるの？」
「二週間で十七本打ちましたよ」
「へえ、そんなに！」
「かき入れ時ですから」
真名の家はサラリーマンらしく、収入もそれなり。ただ、真名自身は、亜騎のように歪んでいない。
亜騎は望むと望まざるに関わらず、普通からは外れている。
そんな事はわかっている。刀鍛冶に誇りを持っているわけでもない。むしろ疎ましいとさえ思う事もある。
連れてくる狂気には苦しめられているし。何より、今の時代に刀鍛冶などしていて、何になるのだとさえ思う。
それなのに。
わかっているのだ。心の何処かでは。
この狂った自分には、おそらくこれしか生きる道が無いと言う事は。
家に入れると、真名は少し悲しそうな顔をした。
荒れ放題だからかも知れない。
「ね、掃除してもいい？」
「ええ。 私はやり方がよく分かりませんから」
「そう。 じゃあ、任せて」
手際よく掃除をして行く真名。
家で四人の弟の面倒を見ているとか言う話で、かなり動きが手慣れている。見る間に薄汚れた部屋が綺麗になっていくのは、魔法のようだった。
相当な回数を重ねているから、上手くもなる。
理屈ではわかっていても。
自分では、どうにもならなかった。
掃除と片付けを知れてくれた真名に、茶と菓子を出す。茶だけはそれなりに淹れられるし、茶菓子も用意はしてある。
客など滅多に来ないから、用意してあるだけだが。
ポストに入っていた手紙を見せられた。また、あのアモンだ。
今度は、刀を打ち直せるかと聞いて来ている。しかも、村正の本物だという。出来るにはできるけれど。
もっと腕が良い鍛冶士はいくらでもいる。
どうして亜騎に頼んでくるのかが、よく分からない。
「お仕事の手紙？」
「ええ」
「その年で自立できてるって羨ましいなあ」
そう無邪気に言う真名が、実のところ、亜騎には羨ましくてならない。実際問題、このような狂気と、この娘は無縁だろうから。
真名が帰ると、亜騎は大きくため息をついた。
仕事を断るわけには行かない。
今の時代、専業で刀鍛冶をやるなんてことは、殆どできないのだ。他の刀鍛冶は資産家だったり、ちゃんと本業がある。
亜騎はそれ以外に路がない。
この家だって、相続税で相当な財産をむしられた。
借金こそ無いが、稼がないと食べていけないのだ。
綺麗になった家で、横になってぼんやりする。夕食はピザでも頼もうかと思ったけれど。また連続で仕事が来ると、今度こそ耐えられない。
少し悩んでから、外に行って、総菜をかなりの量買ってくる。
そして栄養のバランスを考えながら、口に入れた。
アモンが何を考えているかわからないけれど。
今は稼ぎ時なのだ。
事実今月に入ってから、一年分以上の稼ぎが入ってきている。全て収入を付けているから、確定申告などで文句を言われることは無いだろうけれど。それでも、この収入は大きい。ただでさえ遺産相続の際の痛手があった事を考えれば、今は稼げるだけ稼ぐべきなのだ。
電話が掛かってきた。
古い家だけあって、訳が分からないセールスもたくさん掛かってくる。
だから普段は留守電にしているのだけれど。
その電話は、違った。
「ええと、此方の電話でよろしいですか。 アモンです」
女の声だ。
それも、まだ若い。
アモンなんて名乗るから外人だと思っていたのだけれど。このしゃべり方、明らかにネイティブ。
もしも外人だとしても、相当に日本語に慣れ親しんでいる。
「聞いていますね？ 受話器を取って貰えますか」
無言でしばらく待っていたが。
留守電が切れても、即座にまた掛かってくる。仕方が無いので、受話器を取ると、アモンは嬉しそうに言う。
「貴方の技術よりも才能が喜ばしいと、前々から思っていました」
「何者ですか、あなたは」
「私はアモン。 ソロモン王７２柱の一。 まあ、それは別に今、どうでも良いことでしょう」
くつくつと、アモンが笑う。
まともな相手とは思えないのだけれど。
どうしてだろう。受話器を離せない。まるで妖怪に、心の臓をがっしり掴まれたかのようだ。
足下から、震えが来る。
相手の電話番号が、何故か表示されていないことも、恐怖を誘った。非通知ならそう表示されるのに。
非通知とさえ表示されないのだ。
数字はバグでも起こしたかのように、滅茶苦茶になっている。本当に電話をどこから掛けているのか、わからない。
「次の仕事も、受けていただけますね」
「私より実力のある鍛冶士は、いくらでもいるでしょうに」
「しかし、貴方は祖先譲りの才能の持ち主ですよ。 事実、頼んだ刀も、短時間で長足の進歩を遂げている」
そう言われると嬉しいけれど。
何だろう。この背筋から這い寄られるような怖さは。
「既に郵送は済ませてあります。 明日には届くことでしょう。 出来るだけ早く仕上げてください」
「待って、貴方は」
電話が切られる。
心臓が上下に激しく動いているのがわかった。人間と本当に話していたのだろうか。
スマホを少し弄って、ソロモン王の７２柱とやらを調べて見る。わかったのは、悪魔の名前と言う事だ。
何かのカルトかと疑う所なのかも知れない。
しかし、亜騎にはそうは思えなかった。何というか、少し話しただけで、伝わってきたのだ。
あれは人間では無いと。
ベッドに転がって、ぼんやりとする。
本当に自分は、一体何をしているのだろう。悪魔めいた訳が分からない相手と電話をして、話までして。
一年少しの稼ぎのために、人生を棒に振ろうとしていないだろうか。
稼ぎが純利益で一億まで行けば、後は一生寝て暮らせる。それはわかっているけれど。その利益以上に、何か恐ろしい所に、足を踏み入れようとしている。
そんな恐怖を、感じていた。
朝。
目が覚めると、すぐに郵便が来た。休日なのに。
荷物を受け取って、開けると。やはり間違いない。
村正。
それも、おそらく戦国期のものだ。銘を確認。どうやら、波紋と良い、本物に間違いなさそうだ。
刃が酷く欠けているのだけれど。このやられ方は、間違いない。実戦で人間を斬ったのだ。
それも刃の曇りからみて、間違いなく数年以内に。
あのアモンという女、一体何をしでかしたのか。しかしこの刃だけで、殺人を立証するのは難しい。
それに、刀そのものが、かなり痛んでいる。確かにこれは、打ち直さないと駄目だろう。
鍛冶場に行くと、すぐに打ち直しの準備を始める。
最近は鍛冶士にも、CTなどをつかって、刀の状態を確認する者がいるという噂は聞いたことがある。あくまで噂だけれど。
亜騎にはそんなお金はない。
だから指で叩いたり、場合によってはハンマーを振るったりして、刀の状態を確認するのである。
かなり痛んでいる。
ただし、致命的では無い。痛みすぎると、修理は無理と素直に言うしか無い。そういうときは、一端鉄に戻して、最初から打ち直すのだ。
刀身自体はしっかりしているから、直せる。
まず何回かの行程を経て、刀自体の調整をする。熱して叩いて、滑らかに伸ばす。
その後研ぎを淹れて、刃の崩れた部分を調整。
最後に磨き抜いて、仕上げ。
その後は、刀身自体を再調整。巻藁を斬ってみて、確認。充分な切れ味が戻った。
というよりも、この刀はいわゆる人斬り包丁ではない。出来るだけ元の状態を再現したけれど。
これはおそらく、最初から儀礼用として作られたものだ。
村正作の銘品と言えば、槍の蜻蛉斬りなどが存在している。あれは本物の殺しのための道具だが。
この刀は、そもそも人斬り用のものではない。
だから、斬って無理が生じたのだ。
人斬り用に調整するのは難しい。一から打ち直さないと駄目だろう。しばらく刀身を見つめるけれど。
これは人を斬るための妖気がない。
ただの、飾りとしての刀だ。
魅力がない。鞘に収めると、すぐに郵送し返した。これで、修理自体は済んでいるのだから文句を言われる筋合いはない。
やっと、これで仕事が全て片付いた。
スマホにメールが来る。
真名からだ。どうやら、また家に遊びに来たいらしい。特に仕事もないし、断る理由も無いだろう。
メールに問題ない返事をすると、すぐに来た。
手に袋を持っている。
「夕食、作りすぎたの」
「そうですか」
「台所かしてくれる？ 温め直すから」
「どうぞ。 どうせ私は、殆ど使いませんから」
適当に食事を作ってくれるなら、有り難い。
たくさんいる弟の面倒を見ていると言うだけあって、実にたくましい。背は低いし、美人でもないけれど。
この高い生活能力は、きっと結婚後に、いかんなく発揮されるだろう。
その点、亜騎とは真逆だ。亜騎の場合は、むしろ専業主夫になってくれる夫が欲しい位である。
亜騎自身が専業主婦になる事は、想像できない。
仕事がなくなったとしても、趣味で。刀そのものは、打ちたいのだ。
おかしな話だ。
好きでも無いのに。
やはり、刀の呪縛は、強く亜騎を縛り付けている。分析はしたことがないのだけれど、どうしてこうなってしまったのだろう。
夕食が出来たので、真名と一緒に食べる。
温かいお味噌汁は、久々に食べた。いつも食べているのはインスタントの奴なので、どうにも味気ない。
ご飯と、温かい野菜の炒め物。
それにお肉。
いずれも手間が掛かっていて、総菜とは違う。勿論料理が下手な人が作れば、スーパーの総菜の方がマシなものになってしまうけれど。真名は流石にこの年で家事をこなしているだけあって、いっぱしのものを作って来る。
「また、刀作ってたの？」
「今日は打ち直しをしていました。 誰かわかりませんが、数年以内に人を斬った刀のようでした」
「ええっ」
「刀そのものに罪はありません。 私も何故今のご時世で人を斬ったのかについては、不安がありますが」
真名が、何だか怖いねと、素直な感想を言う。
頷くと、亜騎は食事に手を合わせて、ごちそうさまでしたと感謝を述べた。
電話が鳴る。
またあの、電話番号も告げない奴だ。明らかにアモンからだろう。
受話器を取ると、やはりそうだった。
出来た刀を郵送した事を告げると、嬉しそうに頷く。住所はちなみにダミーの集積所である。ただの倉庫なのだ。
おそらく送られた刀を、何度かに分けて郵送して、最終的な目的地に届かせるのだろう。実際あの刀の状態を見れば、まともな経緯で手に入れたものではない事くらいは、明らかである。
「経緯は聞きませんが、あまり褒められた内容ではありませんね」
「おや、わかりましたか。 あれが人を斬った刀だと」
「まさか、貴方が」
「私だったら、刀なんて必要としませんよ。 ましてやあの儀礼用の刀で、わざわざ人なんて斬りません」
その声には。
絶対的な強さへの自信が籠もっていた。驕っているのでは無い。単純に、圧倒的に強い事を、自覚しているだけの声。
背筋を寒気が這い上がる。
声だけでわかる。此奴は、剣道でも居合いでも、恐らくは自分より遙かに上の使い手だと。
普通、防具を着け、竹刀を持って向かい合えば、大体の力の差はわかる。
しかし此奴の場合は、声を聞くだけで差がわかる。
おそらく、戦国時代の剣豪レベル。いや、更にその上。現在で言えば、十段どころの話では無いだろう。
達人でさえ舌を巻くほどの強さなのだと。声だけでわかるほどの相手。一体どれだけの存在なのか。
「また仕事を依頼します」
「……」
返事を聞かずに、アモンは電話を切る。
真名が心配そうに言った。
「ちょっとやりとりが聞こえたけど、何だか凄く怖そうな人だね。 ヤクザか何かの奥さんかな」
「それにしては若すぎるように思えます。 恐らくは、本人が相当な武闘派なのでしょうね」
「やだ、何それ。 日本人？」
「わかりません」
本人は悪魔だと名乗っていたけれど。
確かにそれも頷ける。声から伝わってくる気配だけでも、尋常な人間では無いことがびりびりと感じ取れるのだ。
食器を真名が洗ってくれる。
ついでだからと、台所の掃除もしてくれた。
てきぱきと、干しっぱなしの洗濯物を取り込んでくれると、真名は笑顔で言ってくれる。
「あまり変な仕事ばかりしていたら駄目だよ」
「このご時世、刀鍛冶は仕事が殆どありません。 仕事を選んではいられないものなのです」
「それはわかるけど……あの人、何だか様子がおかしかったし。 気をつけてね」
心配してくれるのは、嬉しい。
思えば、両親も。同じように、亜騎のことを心配していたのかも知れない。
翌日。
早速アモンから電話が来た。
もう刀を手にしたという。打ち直しとしては充分な仕事だと、満足を声には含ませていた。
すぐに次の仕事を依頼したいという。
断る理由は無い。
次は手裏剣の製作だ。
思わず聞き返してしまった。だが、間違いないと、アモンは言う。
しかも、江戸時代に作られた多くの手裏剣では無い。古くから使われていた、棒手裏剣だ。
一応鍛冶の本職だから、手裏剣についても知ってはいる。
だが、作るのは初めてだ。
刀に比べると単純だけれど、数が多い。
しかも実用品としての手裏剣だから、様々に調べなければならない。知っている、では駄目だ。
実際に作った記録が蔵にあるから、其処から引っ張り出してきて、中身を精査しないといけないだろう。
これもチタンで作れというのか。案の定、現在の技術で作れと言われて、頭を抱えそうになった。
「村正とは関係がありませんが、よろしいのですね」
「ええ。 報酬ははずみます」
確かに、魅惑的な額が提示された。
本当に大丈夫なのだろうか。
材料はある。作る事も出来る。しかし、どうも気が進まない。そもそも潤沢な資金を惜しみなくつぎ込んでくれるのは嬉しいのだけれど。何をしたいのかが、全く分からないのである。
何度も自分を見つめ直す。
やっぱり精々小娘でしかない。
日本では鍛冶士はもう殆どいないけれど。その中でも、下から数えた方が早い程度の腕前でしかない。
何故、亜騎にこれほどまでに、仕事を頼んでくる。
頼んだ後、刀はどうしている。
分からない事が多い。声を聞くだけで強さがわかるほどのアモンだ。何をしでかしているのか、わかったものではない。
「どうしました」
「いえ……」
相手は見抜いたかも知れない。
亜騎が、アモンを怖れはじめている事を。
２、思惑の犬
アガレスのもとに、どっさりアモンが刀を持ってくる。
戦場で使い捨てるための刀。いわゆる数打ちかと思ったのだけれど。鞘から抜いてみると、思わず唸っていた。
まだ技術は稚拙だが。
素晴らしい才覚の持ち主だ。
多分本人は理解していないのだろうが、戦国時代に生まれていたら、確実に名を残していただろう。
しかもチタンで作っているのがわかる。
これは生半可な刀では無い。充分以上に、戦闘で使える品である。しかも悪魔が魔力を通せば、天使との戦いでも役立てる事が出来るだろう。
アモンは武闘派の悪魔である。
何かと戦うのかと思ったら、違った。
「どうです、この娘の闇を食しては」
「何だ、そう言うことか」
「ええ」
アモンは笑顔のまま、頷いていた。
前々から、時々こういうことがある。アモンはアガレスほど引きこもりでは無く、或いはダンタリアンの情報網を使ったり、外の人間とやりとりがあるフルレティと話して、才覚のある人間を探しているのだ。
そして、才覚がある人間は。
だいたいの場合、強い闇を秘めている。
アガレスは知っている。
闇を秘める人間の方が、その力を強く発揮できる。これは特に理由など無い。強いていうならば、闇を秘めるほど強烈な人生経験をすれば、他の凡百に比べて、才能が磨かれる、という事だろうか。
そしてたまに、勧めてくるのだ。
闇を食いに行けと。
外に出る理由を作ってくれているとも言える。
アガレスは気が進まない。アモンが煽って闇を膨らませるようなことをしないことはわかっているけれど。
何というか、自分がわざわざ出向こうという気にはならないのだ。
「止めておく」
「それでは、才能を育てる方向で」
「好きにせよ」
手をヒラヒラ振って、悪趣味な部下に好きなようにさせることとした。
どうせ人間世界の通貨なんて、悪魔にとっては何の価値も無い。まあ金貨や銀貨の中には、アガレスの興味を引くものも、たまにはある。それは貨幣としての価値では無くて、あくまで美術品として、だ。
だから通貨なんか、アモンが好きに使うに任せている。
問題はその後。
アモンがやっているのが、養殖にならないように、時々釘を刺していかなければならないだろう。
しばらくして。
アモンが今度は、手裏剣を持ってきた。
棒手裏剣。原始的なスタイルの手裏剣である。
あまり知られていないが、現在ある手裏剣の殆どは、江戸時代に考案されたものだ。棒手裏剣は細くて投げても音がしないため、暗殺に適しているけれど。投擲距離が近くないと、相手を仕留めるのが難しい。
一方で、十字や八方は破壊力が大きい。
だから確実に相手を殺せる。
問題は音が大きいこと。結局の所、暗殺用の武器が手裏剣なのだけれど。使い所は、極めて難しいのだ。
作られた手裏剣を見る。
やはり技術はさほど高くないけれど。
しかし才覚の片鱗が見える。これは、磨いていけば、何処まで伸びるかわからない。
「使えそうだな」
「元々村正の血を引く一族のようですが、もう遺伝子は薄くなりすぎていて、関係無いでしょう。 この娘は、単純に自分の才覚で、刀鍛冶としての技量を引っ張り出しています」
「ふむ……」
少し、アガレスにも興味が出てきた。
ただ、アモンは少しやり過ぎることがある。養殖されていると相手が気付くと、面倒な事になるだろう。
「しばらく距離を置け」
「え、どうしてですか」
「お前の事だ、矢継ぎ早に色々やらせただろう。 相手を警戒させて最終的には台無しになるぞ」
「……」
アモンが珍しく真顔になる。
アガレスだって、此奴とは長いつきあいなのだ。何が出来て、何が駄目かくらいは、把握している。
傍若無人なアモンだが。
しばらく考え込んでいた。
「わかりました。 アガレス様の食事が台無しになっては本末転倒ですし、仕方がありません」
「んー」
食事と言っても、別にその人間を喰うわけでも無いのだし、もう少し此奴は穏当な表現を使えないのか。
それに、闇は人間が勝手に自分で育てるものだ。
悪魔なんかいなくても、人間は闇を育て、そして世界をむしばむ。かって、人間の悪心は、悪魔に起因すると、様々な宗教が喧伝したが。
実際には、宗教が力を失っても、闇は世界に満ちている。
悪魔が人間に干渉しなくなっても。
人間がこの世でもっともおぞましく、邪悪な生物である事実に、代わりはないのだ。だからこそ、悪魔にとっては、大事なお得意さんなのである。
それからしばらく、アモンは刀鍛冶の娘にちょっかいを出すのを止めたようだった。
少なくとも、アガレスの知る範囲では。
亜騎の所に、良く真名が遊びに来るようになった。
真名は元々社交的で、学校をさぼりがちな亜騎と話す数少ない人間だったのだけれど。亜騎の家事スキルが壊滅的なことや、この年で独立して仕事をしている反面、私生活はずぼらなことを知ると、世話を焼きたくなったらしい。
時々家に来ては、掃除をしたり、炊事をして帰って行く。
別に嫌では無い。
実際掃除をして貰うと、家が見違えるように綺麗になる。
それに、真名が作る料理は確かに美味しい。殆どインスタントで済ませている亜騎にとっては、有り難い事だった。
一時期山のように来ていた、アモンという人からの仕事依頼は、ある時期からぱたりと来なくなった。
しかしその代わり、どうしてだろう。
亜騎の腕が売れたのかどうしてか。仕事は、前よりもずっと多く来るようになったのだった。
高校を卒業した後、大学へはいかない。
学費云々の問題ではない。亜騎は義務教育だけで済ませる気だった。日本では、事実上義務教育は高校まで。
高校だって殆ど義理で行っていたようなものだ。
後は、黙々と仕事をしながら、静かに過ごして行ければ良い。そう、思っていた。
また、真名が来る。
亜騎は大概家にいるので、チャイムを鳴らせば出てくると認識しているらしい。ドアを開けると、小柄な真名は、花が咲くような笑みを浮かべる。
「こんにちわ。 今日もご飯作ってきたよ」
「そうですか」
上がって貰う。
適当に話をする。真名は大学に通っているそうだが、退屈極まりないとぼやいていた。噂には聞いている。
日本の大学は。学生が遊ぶ場所だと。
真名が行った四大も、その例外ではなかったのだろう。
仕事が来ているので、鍛冶をする。そういえば、真名のために包丁も作ってあげた。市販のものとは切れ味も耐久力も違うと、真名は大喜びしてくれているので、嬉しい。確かにその辺で売っているステンレス包丁とは、格が違うものに仕上がってはいるはずだ。売れば、十万くらいにはなるだろう。
今日作るのは、槍だ。
槍といっても、全部作るのでは無い。何処かの寺で演舞に使うものの、穂先を作るのである。
実戦で使えるものを。
そうでなければ、演舞に身が入らない。
そう、武術で有名な依頼先は言ってきた。だから、槍を作る。流石に蜻蛉切りほどのものは作れないけれど。
材質については、どうこうとは言われなかった。
だからチタンを使う。
最近はセラミックを使う手もあるのだけれど。金属加工がやはり性に合うのか、チタンやタングステンの方が、使っていて馴染む。
勿論、単純な鉄の扱いだけの場合もある。
時には、オーダーメイドではさみや包丁を作って欲しいという依頼が来ることもあるのだった。
今回注文された穂先は三本。
単に鉄を打っていれば、槍の穂先は出来ると言うものではない。
刀もそうだが、作るまでに複雑な工程がある。
ましてや強度を重視したチタン製だ。鉄を普通に打つよりも、骨が折れる。試行錯誤しながら、槍の深淵に迫っていく。
打ち、冷やす。
冷やしては、打つ。
その度に、湯の温度を確認。
「何だか、手間暇が掛かるんだね」
真名が言うが、応えない。
作業の間は、例え何があっても返事はしない。それだけ、集中を必要とするからだ。特に今作っているのは、下手な扱いをすれば指が飛ぶ品である。
突けば、相手を殺せる武器。
打っているのは、そういうものだ。
一本目が仕上がった。鏡のように研ぎ澄まされている。今まで作った穂先の中で、最も良い出来だ。
後二本も、同じように仕上げる。
仕事の合間とみたのか、真名が声をまた掛けてくる。
「そろそろ、一端ご飯にしたらどうかな」
「……そうですね」
丁度、集中力も切れた。
一度作業に入ってしまうと、八時間や九時間はぶっ通しで動く事が多い。その間、膨大なカロリーを消耗する。
以前のように、八キロも十キロも一度に痩せることはなくなってきたけれど。
それでも、マラソンをこなす程度には消耗する。額の汗を拭うと、鍛冶場を後に。用意してくれていた夕食を、口に運ぶ。
黙々と食べていると、真名は嬉しそうだ。
米の一粒も残さないで、綺麗に食べきる。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ、お粗末様です」
「弟さん達は」
「以前と同じだよ。 みんなたくさん食べるから、どうやって食費を抑えるか、いつも考えてる」
食べ盛りの弟がたくさんいるとなると、いわゆるエンゲル係数が家計を強烈に圧迫している事だろう。
もっとも、真名の家は共働きで、お金には困っていないと聞いている。
むしろ、だ。
ただでさえ仕事が少ない亜騎の方が、今後は心配だ。
今は仕事があるけれど。
これがいつまでもあるとは、とても思えない。
たまに研ぎ屋の仕事も来るけれど。今は使い捨てが当たり前の時代である。刃物なんて、大事にしない人の方が多い。
てきぱきと食器を洗う真名の後ろ姿を見ながら、少し椅子に背を預けて、ぼんやりとする。
残りの作業は、一眠りしてからだ。
気がつくと、真名はもう帰ったらしい。
毛布を掛けてくれていたので、友人に感謝する。シャワーを浴びて体を温めてから、また鍛冶場に。
残る二本の穂先を、仕上げてしまう。
集中して一気に作業を終えた後、取引先に品を郵送。ようやく片がついて、肩を叩きながら自室に戻ると。
電子メールが来ていた。
ざっと目を通して、呻く。久しぶりに、あの名前を目にしたからだ。
アモンである。
「また、お仕事を頼みます」
そもそも、どうやって亜騎のアドレスを。
いや、それは愚問か。元々亜騎はホームページも作っていて、其処から仕事を頼んでくる人間もいる。
アモンはどうしてかわからないけれど、亜騎のことを気に入っているようだから、その辺りもチェックしていたのかも知れない。
「今度の依頼は、大太刀です」
指定を見て、もう一度呻いていた。
以前作った斬馬刀並のサイズのものだ。これは仕事をするとなると、かなりのものとなる。
しかも、またチタンを使って作れというのである。
鞘などについても、細かい指定があった。この人は、こんな等身大以上のサイズの太刀を持って、戦場にでも行くつもりなのだろうか。
今の時代、銃火器が圧倒的に強い。
刀なんて持っていったって、何かの役に立つとは思えない。それこそ、本人が超絶的な使い手であっても、だ。
銃のリーチと破壊力は、それだけ圧倒的なのである。
そうでなければ、刀が廃れるはずがない。
この人に対する不安はある。
しかし、それ以上に大きいのが、仕事がなくなることに対する不安だ。鍛冶士なんてしていても、いつ食いっぱぐれるかわからない。
確かに一度の仕事で得られる利益は多いけれど。
仕事の量がそもそも少ないのだ。
今の時点では、数年は食べていける貯蓄はある。しかし、たかが数年だ。仕事が来なくなれば、あっという間に貯蓄なんて底を突く。
意味のない仕事。
無形文化財とはいえ。いつ滅びてもおかしくない、社会的にもう役に立たない仕事。それが刀を作る鍛冶。
そんな事はわかっているから。
如何に胡散臭くても、仕事は断れないのだ。
「貴方の腕がどれだけ上がっているか、完成品が楽しみです」
煽り文句までついている。
しばらくメールを見つめていた亜騎だが。
頬を叩くと、仕事場に向かう。
鞘は鞘で、違う場所で作っているので、先に注文。今回は相当なグレードが品に要求されている。鞘もかなりのものをこしらえる必要があるだろう。
これで大鎧でもあれば、完全に戦支度が整う。
だが、声を聞く限り、アモンという人は女性だ。本当に女性が、どうして大太刀なんて、必要とするのだろう。
材料を準備するのに、一日。
鞘の準備も、すぐに業者がしてくれる運びとなった。
大学に行っていないから、時間はある。
研ぎの仕事が幾つか入っていたので、合間を見てさっと片付けてしまう。それから、本格的に、大太刀を打ち始めた。
途中真名が来たけれど。
まる二日、ほぼ没頭して作業に取りかかったから、殆ど相手をする余裕が無かった。途中で一度力尽きて寝て。
食事だけして、すぐにまた作業を行う。
丸一年以上やっているから、チタンの扱いにも慣れてきている。村正の技法も、より強く反映できるようになってきている。
以前作った斬馬刀とは、雲泥の差だ。
これなら、実際に、実戦に持っていっても役立てる事が出来るかも知れない。
だが、それだけに危険だ。
三キログラム近いこの刀は、亜騎の腕力では振り回すことさえ出来ない。余程の大男が、全身を使うようにしないと、とても使い物にならない次元の品だ。しかも、相手を斬るとなると、どれほどの技量が必要になるのか、想像も出来ない。
巨大でも、日本刀なのだ。
西洋刀のように、パワーで押し潰すことが目的では無い。
あくまで斬る武器なのである。
だから、この重さの割りに繊細な武具なのだ。
ようやく、磨く行程に入る。
気がつくと、真名が鍛冶場の入り口で見ていた。此処からは、一段落しても良いだろう。額の汗を拭っていると、意識が飛びかける。
丸二日仕事して。少しだけ寝て。また丸二日仕事していたのだから、当然か。
此処で倒れるのは、あまりにも危険すぎる。
慌てて飛び出してきた真名を制止。
「其処で止まりなさい！」
「亜騎ちゃん！」
「いいから。 鍛冶場に知らぬ人間が入ってはいけません。 彼方此方に武器があるのです」
多少ふらつくけれど。
鍛冶場を、自力で歩いて出る。呼吸を整えながら、自室まで戻ると。横になった。
ぬれタオルを額に掛けて貰う。
「凄い顔色だよ」
「無茶をしましたからね」
「どうして、そこまで」
「……」
仕事がなくなるのが、怖いから。
それはわかっているのだけれど。
視線の先で、真名の背中を追っていて。少しずつ、鎌首をもたげてくる気持ちが、あるのだ。
試してみたい。
あの斬馬刀を人間に振るったら。
いや、今作っている大太刀を仕上げた後、人間を斬ったら。どんな感触が、あるのだろうと。
今、居合いの道場に置いている刀は。自分で打ったものだ。
自分用だから、それほど重くない品だけれど。あの大太刀では、とても居合いなんて出来ないけれど。
持って、降り下ろすだけなら。
戦ったこともない真名なら、多分一刀両断に出来る。
呼吸が、乱れてくるのがわかった。
斬ったときの感触が、どのようなのか。試してみたくて、足下からミミズが這い上がってくるような気分だ。
気持ち悪いのに。
もっとこの感覚に、身をゆだねたくなってくる。
「亜騎ちゃん？」
視線をそらす。
真名は勘が鋭い。亜騎が異常な妄想に囚われていることを。自分が獲物として狙われていることに、気付いたのだろうか。
いずれにしても。そのような考え、抱いてはいけないものだ。
どれだけ真名に世話になってきたと思っている。恥知らずも甚だしい。ぎゅっと拳を握る亜騎は。
悔しい事に、疲弊が極限に達していて、動く事も出来なかった。
しばらく休んだ後、真名がかゆを作ってくれた。
「ねえ、亜騎ちゃん」
「何でしょう」
「もう、この仕事、止めるわけにはいかないのかな」
それは、出来ない。
即答する。
今更、高校を出ただけの亜騎に、どんな仕事があると言うのか。レジ打ちでもして、一生を過ごせというのか。
高校だって、最底辺の成績で、やっと出たようなものなのだ。
亜騎には、これ以外のスキルがない。
そう説明すると、真名は首を横に振る。
「そんな事無いよ。 亜騎ちゃんのスキル、きっと生かせる場所があると思うよ」
「たとえば？」
「それは……」
「ほらやはりそうではありませんか」
真名が心配してくれているのはわかる。
しかし亜騎には、他にスキルも、生きる場所もない。仕事がなくなる事に怯えながら、刀を打っていくしか無いのだ。
刀が好きかと言われたら。
きっとそうではない。
さっきみたいな妄想にだって、最近は囚われることが出始めてきている。いや、囚われることは前からあった。頻度が、以前とは比べものにならないほどに、増えているのだ。庭の木々を、試し切りしたくなる事もある。
巻藁で試し切りするだけでは、足らない。
人間を斬りたいと、刀を作ったときに、思う事は確かにある。
剣道も居合いも、自主訓練を続けている。この間剣道は二段になった。おそらく、近いうちに三段を取得できる。
居合いも同じような腕前だ。
亜騎にあったサイズの刀なら。
人間を殺す事は、容易い。
頭を振る。きっと真名は、気付いているのだ。亜騎が己の中に芽生えはじめた狂気に苦しんでいることに。
だから、刀鍛冶なんて止めるべきだと、訴えているのだろうか。
しかし。
どんな仕事だって、今は狂気を孕んでいるものではないのだろうか。
夕食を済ませると。真名は悲しそうに言う。
このままだと、亜騎は壊れてしまいそうだと。
亜騎はそれに反論できない。
自分でも、それはわかっているからだ。真名が帰った後、母屋から出て、道場に入る。既に誰もいない道場だから。自分だけが使っている。
正座して、刀を置く。
居合い。
一閃。
空を斬った刃をしまう。
精神修養をするはずの居合いなのに。今では、斬ったときに、どうしても人の肉の感触を求めてしまうようになっている。
戦国時代だったら、むしろ。いや、江戸時代でも。
優れた刀は、罪人を用いて試し切りをする事があったと聞いている。亜騎だって、当時の刀鍛冶だったら。罪人の首を刎ねることで、人を斬る感触を味わうことが出来ていたかも知れない。
目を閉じて、深呼吸。
鍛冶士が、みんなこんな妄執に囚われるとは思えない。
亜騎が、恐らくは異常なのだ。
どうして、このような異常が、育っているのか。思うに両親が、亜騎に鍛冶士にならなくて良いと言ったのは。
こうなることを見越していたから、ではなかったのか。
近くの道場にふらりと出向く。
大会などに出ることは滅多にないが。一応二段の腕前であるし、既に三段とも互角に渡り合える亜騎は、指導を頼まれることがある。
両親のつてでは無い。
高校時代、県大会などで助っ人を頼まれたことがある。その時に全戦全勝したのが、未だに知られているのだ。
当時は初段だったが。同じ初段の相手なら、まず負ける事は無かった。
師範が亜騎を見て、開口一番に言った。
「どうしたね。 目が凄まじい殺気を帯びているが」
「やはり、そう見えますか」
「……一手所望願えるかね」
「よろしいでしょう」
此処の師範は、亜騎と同じ二段。ただ、元々サラリーマンをしている人で、時間がなくて昇級試験を受けていないらしい。実際の実力は、五段相当と聞いている。既に四十代で、剣道歴は三十年。
その実力は、円熟の域に達している。当然、亜騎より実力の方は上だ。亜騎はせいぜい三段相当なのだから。
剣道は段位が上の相手には、まず勝てない。
元々格闘技では無く、どれだけ型に沿って綺麗に動き、礼を尽くすかを示す競技なのだから。
防具を着けて、向かい合う。
殺気が、剣道場に張り詰めた。
勝負は一瞬。
面を取って、それで一本。
凄まじいほどに、自分の感覚が研ぎ澄まされているのがわかった。二段上の実力の相手に、一本。
防具を取ると、師範は難しい顔をした。
「一体何があったのかね」
「わかりません。 ただ、ここのところ、難しい仕事が多いというだけです」
「何というか、戦国時代の剣豪とでも向かい合っているのかと思ったよ。 何かしらの方法で、ストレスを発散しないと危ないかも知れないね」
そうか、ストレスか。
この人ほどの名人でも、そんな風に感じてしまうのか。
中学生や高校生の稽古を軽く付ける。生意気盛りの一段の男子に試合を頼まれたのだけれど。
二本瞬殺で取って、相手を凹ませてしまった。
何が起きたのかさえ分からないと言う顔をしていた。というよりも、遅すぎて勝負にならなかった。
夕方まで剣道の指導をして、軽くお小遣いを貰って。
軽く買い物をしてから、家に戻る。
大きな屋敷だ。
離れがあって。
道場もあって。
鍛冶場もある。
自分一人には、明らかにもてあます大きさ。本当にこんな家が必要なのか、わからなくなる時も多い。
実際、不動産屋が良く来る。
この家を処分して、マンションなどに移らないかと。
冗談では無い。
夫は欲しいと思うけれど。正直な話、どうやって見つければ良いのかも、よく分からない。
自分は何のために、この世に生を受けてきたのかも。分からない所は、多かった。
ぼんやりと家の前で立ち尽くしていると。不意に、背筋に強烈な悪寒が走った。何かが、近づいてくる。
いや、違う。
それは、すぐ側にいた。
慇懃な礼をされる。長身、自分と殆ど同じくらいの背丈の女。着込んでいるのは、何だろう。西洋風の、給仕の服か。
そして、わかる。
全身から立ち上る、圧倒的な強さの気配。段位では、どれだけになるのか、想像さえもできない。
「貴方が、アモンさんですね」
「ほう。 一目で見抜かれたのは初めてです」
機嫌良さそうに。アモンは、にこにことしていた。
既に陽も落ちかけている。こんな所で立ち話もなんだ。軽く話を聞いてみると、やはり用があって来たと言うことなので、居間に通す。
以前だったら、お客など入れられなかったけれど。
真名が掃除をしてくれるので、最近はお客を通しても恥ずかしくは無い程度に、綺麗にはなっていた。
近くで見て確信できたが、やはりアモンは人間では無い。物の怪の類。いや、物の怪と言うには、力が凄まじすぎる。
鬼神や魔神の類だろう。
つまり、悪魔と名乗っていたのは、嘘では無いと言うことだ。
相対していて、震えが来る。
此奴の力量は、それだけ凄まじい。亜騎なんて、その気になれば、瞬時に首を折って殺すことが可能なほどだ。
相手が素手で、亜騎が手元に村正の一級品を置いていたとしても。殺せる気はとうていしない。完璧な状態から、油断している相手に居合いを放っても、確実に避けられる。そう言う次元の相手と、今近距離で向かい合っているのだ。
「今日は直接、何用なのです」
「私が悪魔と言う事について、素直に受け入れているようですね」
「それはもう。 見れば一目瞭然でありましょう」
「うふふ」
アモンが嬉しそうに目を細めた。
確かに、武術をやっていなければ、この女の異常すぎる強さについては、気付くことが出来ないかも知れない。
気付けるだけの相手に接していることが。
或いは、アモンにとっては、嬉しい事なのだろうか。
注文書を出される。
刀を五本。
ただし、今回は鉄製だ。どれも村正の技法に沿って作って欲しいと言う。現在の技術なら、何処までやれるかとも聞かれた。
できる限りはと応える。
実際、此奴に仕事を頼まれるようになってから、経験をぐんぐんと積んだ。以前とは比べものにならないほど、技術は向上している。
もう少しで二十歳になる亜騎だが。
その内、人間国宝を目指すのも、手かも知れなかった。
「良い答えです。 今回は、できあがったら、此処へ直接持ってきてください。 貴方の今までの活動に見合った報酬を用意しています」
「此処は……」
地図を出されて、見て驚く。
内容を確認すると、本屋だ。しかも二階はゲームショップ。
二階にはいると、係の者が、三階に案内するという。しかしこの地図では、二階建てとなっているのだが。
悪魔の言う事だ。
何が起きても、不思議では無い。
「それでは、お願いいたします」
「お待ちください」
「ん？」
「貴方は、私をいかようにしたいのです」
それが、ずっと疑念だった。
此奴らは、亜騎に対して、何をしたいのか。それがわかるまでは、店に直接足を運ぶ事なんて、出来ない。
文字通り、何をされるか、わからないからだ。
しばし亜騎の方を見ていたアモンだが。その笑顔は、文字通り獲物を値踏みする、肉食獣のものだった。
「貴方には才能がある」
「……才能、ですか」
「おそらく気付いてはいないでしょうが、本家村正に勝るとも劣らないほどの才能。 戦国に生まれていたら、確実に歴史に名を残したほどの才能です。 それを眠らせておくのは、どうにももったいない。 そう感じました」
アモンはどうにも掴みがたい笑みでそう言う。
嘘は感じ取れない。
しかし、本当だとも、思えなかった。
嘘はついていないけれど。何かもっと大事なことを、隠しているように思えてならないのである。
これ以上の無駄話をするつもりはないらしい。アモンは腰を上げると、そそくさと帰っていった。
しかも半金として、千二百五十万を置いていった。しかも、現金で、ぽんと、である。相当な金持ちだとは知っていたが、まさかこれほどとは。
一本当たり、五百万。
報酬としては、既にこれでも充分なほどだ。
客商売としては断れない。しかも亜騎には、いつ客が途絶えるか分からないと言う恐怖もある。
しばらくうつむいていたけれど。
やがて決意するしかなかった。
３、闇の店
刀を仕上げたとき、体重が七キロ減っていた。
昔ほど無理はしないようになったけれど、それでもこれだ。やはり刀を打つときは、相当に体力を消耗する。
真名が心配していたほどだ。
まだ若いから良いけれど。このままでは、体を壊すと。
わかっている。
ダイエットなど関係無い。元々それほど太ってはいないのだ。生きるための力を引き抜かれながら、刀を打っているようなものなのである。
お金に換えているとはいえ。
これはあまりにも、体に良くない行動。それくらいは、よく分かっている。
しかし、生きるためだ。
ブラック企業などと称する会社を経営している、人倫にもとる輩にこき使われる人達に比べれば。
しかし、底辺を見ていても仕方が無い。
真名が心配する中、注文していた鞘に刃を収める。
五本とも、村正の名に恥じない刀に仕上がったはずだ。昔とは、確かに段違いに技量が上がっているのがわかった。
二年ほどで。此処まで亜騎は腕を上げていたのか。
自分でも驚いたほどである。
数は多くないだろう日本の刀鍛冶の中でも、今なら下から数えた方が早い、などという事は無いはずだ。
打ち終えた後、熱を出してしまったので、真名に看護されていたけれど。
それも食事をしっかりとって、数日静養することで、どうにか回復に向かった。真名が病床で、口を酸っぱくして言う。
「もう、無理はしないで」
「そうもいきません」
「でも、亜騎ちゃんが倒れたら、悲しいよ」
そう言われると、亜騎も苦しいけれど。
仕事なのだ。
それに、満足感もある。今まではどうしても打てなかった次元の刀が、今回は打てたのだ。
確かな手応えが、あった。
少しは、腕も上がってきている感触がある。しかし、まだまだ先がある筈だ。それに、である。
料理をしている真名を、病床から見つめる。
やはり、斬りたい。
作った刀を、試してみたい。
むくむくと持ち上がってきた狂気が、今では実感できる。前は簡単に押さえることができたのだけれど。
今は、抑えるのに、相当な努力が必要だった。
夢の中で、何度真名を殺しただろう。
斬り伏せ、首を刎ね。
血を浴びて。
そして、笑いながら立ち尽くす。手にしているのは、自分の技術の粋を集めて作り上げた村正。
首を刎ねたというのに、刃こぼれ一つしていない。
正に妖刀。
いにしえの時代、所詮妖刀というのは、伝説に過ぎなかったのに。自分が今、この手で再現してしまった。
しかも村正の血を引く自分が、というのは。正に皮肉以外の、何者でもないといえた。
かゆを作ってくれた真名に説教されて。
翌日、刀を包んで、ふらりと家を出る。
身をよそ行きの着物に包んで。髪はかんざしで束ねた。
あまり亜騎に良くはしてくれなかった母だけれど。よそ行きの身繕いは教えてくれた。化粧はあまり濃くはしない。
ただ、人に見苦しくないように。何度も注意して、調整した。
刀は全てアタッシュケースに入れる。
紅いアタッシュケースは、亜騎に似合うだろうと言って、包丁の代わりだと、真名がプレゼントしてくれたものだ。
新幹線に乗って、東京へ。この旅賃も出してくれるという事だ。
東京に行くのは、修学旅行以来。学校は休みがちだったのだけれど、真名に連れられて、この時だけは行ったのだ。
東京はごみごみしていて人が多くて。観光名所も賑やかを通り越して五月蠅くて。
確かに華やかであったけれど。
亜騎の好みでは無かった。もっと静かな所が良い。
かといって、昔から良く足を運んだ京都や奈良も、静かすぎるような気がする。結局亜騎は、自宅にもっともカスタマイズされているのかも知れない。
新幹線に揺られて、二時間ほど。
途中、一眠りして。
起きたら、東京駅だ。
此処からまた電車を乗り継いで、指定された店に出向く。ごみごみした地下鉄の路線図は、見ても理解できなかったので。真名に渡された紙を見ながら、順番に電車を乗り継いでいった。
東京は好きでは無いけれど。
この電車を乗り継げる人達は、素直に凄いと思う。
最寄り駅の近くにとってあるホテルに入ると、しばし休む。実際に店に行くのは、明日だ。
連絡が来た。
既に最寄り駅の近くのビジネスホテルに入っていると告げると。
いきなり、ドアがノックされる。
唖然とした。
外にある気配は、間違うはずもない。アモンのものだ。
「何だ、来ているなら、すぐに店に顔を出してくれればよいではありませんか」
思わず腰を浮かしかける。
ドアにはキーを掛けているはずなのに。がちゃりと音がして、ドアが開く。何の音もなく、悪魔は部屋に入ってきた。
アモンの笑顔は、いつも通り丁寧に作られているけれど。
恐怖で亜騎は、体が竦むのを感じた。
「み、店へは、明日行きます。 プライベートを侵さないでいただけますか」
「そう言わずに。 さあ」
いつの間にか、間合いに入られていた。
そして、腕を引かれる。
抵抗しようとしても、出来なかった。
連れて行かれる。
声を上げようにも、出来ない。
というよりも、周りの人達に、アモンが見えていないようなのだ。
既に夕方。
アモンが歩いていたら、風俗か何かの勧誘に見えるはずだ。実際問題、いかがわしい店の前には、おかしな格好をした女達が多数見受けられる。アモンの、西洋風の給仕の格好は、それらとあまり代わりがない。
剣道なら、五段相当の相手に勝ったほどの亜騎なのに。
此処まで好き勝手にされてしまうものなのか。
離してください、とさえ言えない。
自分の腕を掴むアモンの手は。
まるで、巨大な罠の中に誘い込もうとする、悪魔の網にさえ思えた。
程なく、店に着く。
まだやっているのは、東京だから、だろう。
都会故に、深夜に到るまで、店は開いている。中に入ると、膨大な数の本。アモンが手を引いているのを、見る者はいない。
助けて。
内心で思うけれど、どうにもならない。しかも、左手に掴んでいるアタッシュケースは、手放せない。
二階に上がる。
いい加減、手を離して欲しい。
逃げたい。
だが、どうにもならなかった。
そのまま、奥へ。
周囲には多くの人がいるけれど。亜騎には誰も注意を払わない。一階では、働いていた小柄な店員が此方を一瞥したようだけれど。それだけだった。
二階の奥。トイレに放り込まれる。
アモンの手が離れた瞬間、呪縛が解けるかと思ったけれど。そんな事は無かった。便座に座り込むと、自覚する。
体が動かない。
恐怖で、凍り付くかのようだ。
そして、気がつくと。
亜騎は、真っ暗な空間の中で、へたり込んでいた。
奥には、こんもりとした闇が見える。
辺りには林立する棚。
嗚呼。
自分は今日、此処で死ぬ。亜騎はそう、覚悟を決めた。此処はとてもでは無いが、人間が住む場所には思えない。
魔界。
地獄。
そういった呼び名が、相応しいように思える。
天井には大仰なシャンデリア。
そして床は、黒檀かマホガニーで作られている。ただし木張りで、その下はコンクリだろう。
アタッシュケースを抱きしめる。
まるで、これから解体されることがわかっている豚のように情けないと、亜騎は思った。恐怖で全身が掴まれて、身動きできない。
目を閉じる。
真名にわびる。
何度も頭の中で殺してしまってごめんなさい。
貴方の作ってくれた料理は、いつもとても美味しかった。
殆ど何も返す事が出来なくて、悲しい。
貴方が友達でいてくれて、嬉しかった。
「さあ、立ってください」
いつの間にか側にいた悪魔に、腕を引かれる。そうすると、命令には逆らえないと体が判断したのか。
勝手に立ち上がってしまう。
そして、引っ張られていった。
性根が据わっていなければ、漏らしてしまったかも知れない。恐怖で全身が包まれて、顔に出さないようにするだけで精一杯。
アモンとの戦闘力差は絶対。
何をやっても勝てる相手では無い。中途半端に武術を身につけてしまっているからこそ、味わう恐怖もある。
何か、見えてきた。
それが畳と机と。
退屈そうに突っ伏している子供だと気付いたとき。
座布団がいつの間にか用意され。
座るように、促されていた。言われるままに座ってしまうことが、口惜しくてならない。好き勝手にされる事が、これほど悔しい事だなんて、知らなかった。相手が如何に強大無貌な存在だとしても、である。
「アガレス様」
「んー」
顔を上げた子供と、目が合う。
随分と可愛らしい子供だ。ただしそれは造作だけ。
表情はまるで子供らしい所がない。何というか、大人をそのまま小さくしたような表情だ。
「お前か。 確か司城亜騎。 時々刀を買っている相手だな」
「あ、貴方は？」
「私はアガレス。 其処のアモンと同じ、ソロモン王72柱の悪魔だ。 普通は人間が罠に掛かるのを待つのだが。 今回はアモンが有望だと言う事で、直接連れてきて貰った」
面倒を掛けたな。
そう言われる。
やはり、慇懃というかなんというか。とても子供とは思えないしゃべり方をする。本当に悪魔なのだろうか。
そうだろう。アモンほどの直接的な武力は、相対していて感じない。しかしながら、わかるのだ。この子供からは。子供らしい無邪気さや天真爛漫という要素を、一切感じ取られないのだ。
「まずは取引を済ませよう。 品を見せて貰えるか」
無言のまま、アタッシュケースを開ける。
取り出した刀を五本、手渡した。
アガレスは非常に手慣れた様子で鯉口を切ると、刃を一本ずつ確認していく。中子まで改めている様子から言って、完全に素人では無い。さわり方も、明らかにプロのものだった。こういった様子からだけでも。このアガレスという子供が、見かけ通りの存在では無い事が、明らかである。
「うむ、良い刀だ」
明らかに刀を見る目がある相手から、そう言われるのは嬉しい。
だけれども。
亜騎にはわかった。
この子供は、おそらくはまだ満足していない。
「今回の料金は五割増しで払おう。 アモン、振り込みをしておくように」
「わかりました」
アモンが消える。
文字通り、その気配が消失したのだ。
一体何が起きたのか。
悪魔が使う、あやしの技なのか。震えが来るけれど、必死に自分を抑える。
そして、どうしてだろう。
ある一線から、震えが消えた。もう、死ぬと、覚悟を決めたから、かも知れない。
「ついでだ。 お前の闇を見せてもらおうか」
「闇、ですか」
「そうだ。 ここに入ることが出来ると言うことは、お前には相応の闇があるということだ。 そもそも此処は、人の闇と引き替えに、対価を渡す店なのだ。 お前にも、欲しいものがあるのではないか」
応える前に、額にアガレスの小さな指を突きつけられる。
意識が、消える。
嗚呼。何故このようなことに。
亜騎が気がつくと、辺りは血の海だった。
真名の家に乗り込んだのか。そして、真名と、その家族を、手当たり次第に切り伏せたのか。
手にしているのは、血が滴る刀。
とても、現在の光景だとは、思えない。それなのに、どうしてだろう。握りしめている真剣は、とても手になじんでいる。
突然、周囲の光景が切り替わる。
昔の光景。
父と母。資産家らしく、着物を着て、亜騎と一緒にいる。二人は事故で死んだ。交通事故だった。
亜騎は突然、世界で一人になった。
二人は、矛盾に満ちた存在だった。
亜騎に鍛冶の技を教えた。
しかしながら、鍛冶の技にのめり込んでいくと。それを使うと不幸になるといった。身を立てなくても良いと言った。
免許を順番に取っていった。
刀鍛冶をするのに、必要な免許。鉄を取り扱うのに、必要な技術。どれもこれも、家で鍛えている亜騎には、簡単な免許ばかりだった。
全ての免許が揃ったころ、だっただろうか。
突然家に警察が来て、両親が死んだことを告げられた。
喪服を着て、葬式に出て。
そして、亜騎は二人の死体に対面した。どちらも思ったよりずっと綺麗だった。そして、その時。
はじめて思ったのだ。
車に轢かせるくらいだったら。
手にしている刀を、振り上げる。
そして、棺桶ごと。二人の首を、刎ね飛ばしていた。
鮮血を大量に浴びる。死人の首を刎ねたとは、とても思えない、血の量。嗚呼。この血。そして何より手になじむこの感触。
また、光景が切り替わる。
棺桶は無事。
そうだ。こんな事はしていない。自分は、記憶と妄想を、ごっちゃにしているのか。刀なんて好きでは無いのに。
違う。好きだ。
正確には、刀そのものが、好きなのでは無い。
刀で人を斬るのが、好きなのだ。
今まで、どうしてそれに気付かなかった。いや、とっくの昔に、気付いていたのに。気付かないフリをしていただけだ。それなのに、どうして自分は、こんなに苦しみ続けたのだろう。
私は。異常者だ。
実際に人を斬った経験なんて無い。刀だって、好きなんかじゃない。要するに、ただ人を殺して、その感触を楽しみたいだけの、サイコパスだ。どうして、わかりきっていた事を、見て見ぬフリをしていたのか。
殺したい。
真名も。その家族も。
全部自分で殺して。切り刻んで、散らかして。そして、その血を浴びて、酔いたい。
ふと、顔を上げると。
じっと此方を見ているアガレスに気付いた。口をもぐもぐと動かしている。
まさか。今の考えを、全て見られたのか。
「ふむ、単純が故に美味なる闇よ」
「……」
憤りが、噴き上がってくる。
わかっている。自分が異常者である事は。言われるまでも無く、わかっている。見ないフリをしてきただけだ。だから、しっくりきた。お前はサイコパスだと言われても、驚きはない。
今の幻覚は、此奴に見せられたのだと、即座に理解できていた。
「報酬をやろう」
「私は……」
「アモン！」
アモンが、いつの間にか後ろにいた。
そして、気がつくと。
既に時刻は、次の日の朝。事前に乗車券を買っておいた新幹線に、亜騎は乗っていた。
呆然として、周囲を見回す。
どうして、こんな所にいる。ホテルは、引き払ったのか。頭を振って、何が起きたのか、思い出す。
全て覚えている。
悪魔の屋敷での、悪夢の宴。そして、その後の記憶が曖昧だが、多分ホテルに戻ると、一眠りして。
チェックアウトして、電車を乗り継いで。新幹線に乗ったのだ。
昼少し前に、駅に到着。
其処からタクシーを乗り継いで、家に戻った。
ベッドで横になっていると、罪悪感がさざ波のように押し寄せてくる。それは徐々に、大きくなっていった。
真名から連絡が来る。後ろめたい。真名はずっと亜騎のことを信じて、友達だと思ってくれているのに。
亜騎は、ずっと真名を切り刻んで、殺したいと思っていたのだ。
真名の声は、友好的だ。まるで尻尾をふって纏わり付いてくる犬のように。忠実で優しい友は、亜騎がどれだけ邪悪な存在かなんて、知るはずもない。
「亜騎ちゃん、帰ってきたの？」
「ええ……」
「今、そっちに行くね。 ご飯も作らないと」
「来てはいけません！」
不意に、大きな声を張り上げていた。
家の戸を封鎖するべきかも知れない。もう、亜騎は誰にも会うべきでは無い。自分で自分の喉を切り裂いて、死ぬべきなのでは無いのか。そう言う思いがある。
サイコパスである自分がいる一方。
冷静に周囲を判断できる自分もまた、いるのだ。
仕事のため刀を打ち。
ただ、毎日を無為に過ごす無駄の塊。そんな奴が、家族を養い、皆のために頑張っている真名を殺すなんて事が、許されるはずがない。誰よりも、自分自身が、そんな事を許しはしない。
「ど、どうしたの」
「真名。 私は貴方を殺そうといつも考えていました。 これは冗談では無く、本当のことです。 私は刀が好きなのではありません。 刀で人を殺すのが好きなのです」
「何言って……」
「二度と、私の元へ来てはいけませんよ」
電話を一方的に切る。
鍵も変えようと思った。
今の時代、生活なんて外に出なくても出来る。食糧だって、全て通信販売で手に入れることが可能なのだ。
勿論割高になるけれど。
それくらいの生活費なら、ある。
栄養のバランスが悪くて倒れてしまうかも知れないけれど。
それは自業自得。
むしろ、死ねと、自分に言いたいほどだ。
起き上がると、決める。
自分で死ぬための最高の刀を打とうと。
４、妥協
気がつくと、一週間が過ぎていた。
刀を打つ以外は、殆ど寝もしなかった。食事も、ろくに取っていない。鏡を見れば、やせこけているのは確実だ。
作り上げたのは、自分に合わせた刀。
鋼鉄を使い、最高強度に仕上げた、村正の技術の粋。
技術については、残してある。これ自体に罪は無い。罪があるのは、刀というものに飲まれてしまった自分だ。
作り上げた刀は、あまりにも美しい。
これは、始祖村正の技術に並んだかも知れない。文字通り、全身全霊の力を込めて作り上げたもの。
戦国時代の最高級品に、勝るとも劣らない、珠玉の一刀だ。
死ぬには、丁度良い刀。
軽く頸動脈を撫でるだけで、あっさり首が半分くらい無くなるだろう。それくらいの切れ味が、これにはある。
真名からの連絡は、着信拒否にしてある。
だから、スマホには何も通信履歴が無い。この一週間では、客も誰も連絡をしてこなかったようなのだ。
ただ一つ。
荷物が、届いていた。
まだ開けていない。多分あの悪魔共が寄越した品だろう。なんだかわからないし、興味も無かった。一抱えもない小さな段ボールで、開けてさえいない。
生ものではないようなので、別にどうでもいい。
既に、この世に未練など一つも無い。
まず風呂に入って、汚れを落とす。
死人用の白い装束に着替えると、何処で死のうかとぼんやり思った。鍛冶場を血で汚すのは、あまり好ましい事では無い。
家の中でも。
死体が腐っていったら、先祖達が暮らしてきたこの家が可哀想だ。
それならば、庭か。
ブルーシートを敷く。この上で死ぬなら、多分問題ない。鳥や何かがすぐに死体を見つけて群がるだろうし、それで騒ぎにもなる筈だ。
人は死ねば、ただの肉塊に変わる。
だから、死んだ後、どのようになろうと、知ったことでは無い。
どうしてこんなサイコパスに、育ってしまったのだろう。後天的な理由では、恐らくはない筈だ。
最初に刀を触ったときには、両親は亜騎のことを危惧していた。
交通事故で早くに死ななければ、恐らくは鍛冶としての仕事を、取り上げてしまったかも知れない。
先天的な精神の異常。
それならば、治療は不可能。いずれ必ず、人をあやめる。
ブルーシートに座ると、刀を抜く。
自分で自分を殺すのが、最善の道だ。
不意に、何かの音。
ドアを叩いている音だ。
「亜騎ちゃん！ 開けて！」
この声は、真名か。
もう興味も無い。いや、むしろ丁度良い。死体を見つけてくれるだろうし、どうせなら腐る前に処置して欲しいからだ。
死ぬ事に、もう恐怖はない。
むしろ、真名を殺す事の方が、怖かった。
首筋に刀を当てようとする。
大きな音がして、ドアが破られたのがわかった。思わず驚いて、刀を持つ手を止めてしまう。
真名が家に飛び込んできたのがわかった。
真名は口をぎゅっと結んだまま、何も言わなかった。
亜騎も困り果てている。まさかドアを破って侵入してくるとは、思いもしなかったからである。
「どうして来たのですか」
ブルーシートに座ったまま。
亜騎が何をしようとしているかは、一目で理解できたのだろう。むしろ真名は、邪魔ものでしかない。
「ドアを破ったのですね」
「様子が、おかしかったから」
「今から、死ぬつもりでした」
「サイコパスだから？」
頷く。
真名が、首を横に振った。
違うと、真名は言う。
聞き返すと、同じ事を、もう一度真名は言った。その目には、強い理解と、憤りと、悲しみが宿っていた。
「本物は、そんな風に思わない。 犬とか、猫とか殺して、それから最後に人間を殺しに行くんだよ」
「私は押さえ込んできましたから」
「違う。 本物は押さえ込めない」
不意に、手を引かれる。
ドアの辺りには、人がたくさん集まっていた。周辺の住民達だ。白装束で手に抜き身の刀を持った亜騎が姿を見せると、どよめきの声が上がる。
一応これでも、周辺では資産家として知られている。
亜騎のことも、今時刀鍛冶なんかしている変わり者として、認識されているようだった。だからこそ、だろう。
状況を理解できずに、周囲が混乱しているのだ。
真名に言われて、刀を鞘にしまう。このままでは、どのみち自殺なんて出来ない。そのまま連れて行かれたのは、真名の家だ。
そういえば、真名の家に足を運んだことは、一度も無かった。
小さな家。
サラリーマンの稼ぎで、大勢の弟たちを養っているという話だから、当然だろう。しかし、である。
何だ、この違和感は。
家の中に入る。中はしんとしていた。弟たちは、どうしたのだろう。
いるにはいる。
居間で、最年長が高校生くらい。最年少は小学生くらいの男の子達が合計四人、膝を抱えて座っていた。それぞれ、互いの顔も見ずに。
これは、どういうことか。
異常だ。
「どういうことです、これは」
「うちはね、母さんが「本物」だったの。 興奮すると地が出てね。 芳信、左手見せて」
「……」
弟の一人が、袖をめくる。
其処には、非常に深い傷跡が、きざまれていた。
まるで、のこぎりか何かで、無理矢理掻ききったような跡だ。あまりにも酷い有様に、息を呑む。
「こっち」
手を引かれて行ったのは、台所。
其処も、異常だった。
わかるのだ。此処は、何というか。亜騎の家の鍛冶場に近い。料理を作る場所では無い。もっとちがう、なにかおぞましいものを製造する場所だ。
「時々野良犬とか野良猫を捕まえてきて、母さんてば此処で解体してたの。 結婚前から、いやもう子供のころから殺すのが大好きで、抑えられなかったらしくて。 父さんが庇ってたし、本人は普段はとても優しいんだよ。 でもね。 どうしても、狂気は抑えられなかった」
真名の目は、暗く濁っていた。
何もかも、闇を受け止めてきた目だ。
ひょっとして此奴は。亜騎の狂気にも、最初から気付いていたのだろうか。知っていて、世話を焼いていたのか。
「この間、とうとう弟を此処で解体しようとしてね。 私が後ろからハンマーで殴って気絶させて、縛り上げて。 それで、病院に連れて行ったの。 症状を話すと、そのまま入院。 今は精神病棟の奥深く。 父さんはたまに面会に行ってるようだけれど、症状が危険すぎて、会わせられないってお医者さんが言ってる」
そうか。
それで、か。
亜騎より症状が重い人を見てきたから、このように言えるのか。本物のサイコパスと暮らしてきたから。
症状を抑えられる亜騎は、まだマシだというのか。
「だから、もうあまり無茶はしないで。 衝動を抑えられるんだったら、どうにでもなるんだから」
そう言われてしまうと、もう何も言えない。
そうか。
真名はもっと深い闇を見てきて、それで亜騎にこのように、ものを言えたのか。
少しだけ、気分が楽になった。
死なないで。
そう言われた。
長い長い空白。
天井を仰ぐ。小さな家の、染みがたくさんついた天井。此処で多くの命が奪われ、解体されたことがわかる場所。自分以上の狂気が此処で荒れ狂い、多くの闇が生産され、そして血みどろの宴が行われた。
自分は。此処にいた輩とは違う。
本物を見てきた人が、そう言っているのだ。
狂気は抑えられる。抑えなければならない。
頷く。
どうやら亜騎は。この世で生きてきて、良かったようだった。
「何だか、おなかがすきました」
涙が、止まらなかった。
アガレスが小さくあくびをする。仕事が一段落して、お菓子も食べて。アモンが新しい仕事を持ってこない。
つまり、だらだらしていい時間だ。こんな幸せな時間があるだろうか。
これでコタツがあれば完璧なのだけれど。堕落するという理由で、アモンが使わせてくれない。
机の上で溶けていると、アモンが面白い情報を持ってきた。
「アガレス様。 どうやら以前対価を渡した人間が、あの司城亜騎と親友になっていたようです」
「ほう、それは珍しいケースだな」
名前を聞いて、納得した。
黒金真名。
母親が本物のサイコキラーだった女だ。母親が筋金入りの殺人衝動持ちで、小学生のころに同級生を殺して以来。犬猫などを衝動に任せて殺しながら、人間も手に掛けていた。真名がここに来るまでに十六人を殺して闇に葬り、その全員の死体が未だに見つかっていない。死体を隠すことに、天才的な手腕があったのだ。
普段は優しい思いやりのある母親なのに。
このままでは、弟たちまで殺される。そういってここに来た真名は、母親をどうにかしたいと、切実に言った。
だからくれてやったのだ。
殺さず相手を制圧するのに適切な、麻酔銃を。
真名が帰った後の事もリサーチしている。母親がとうとう肉親を手に掛けようとしたところを、後ろから麻酔銃で何度も撃った。麻酔の成分は残らないものを厳選してあったので、その後アリバイ作りのために、ハンマーで殴って、転んだことにしたらしい。
そして精神病院に放り込んだ。
超危険な疾患の持ち主という事で、今では精神病院の深部から出られないようになっていると言うことだ。
真名はというと、今では母親代わりになって、家を支えていると聞いていたが。
それから何があったのか。
アモンによると、司城亜騎が自殺しようとしたのを、止めたのだという。
そうか。あの娘。
亜騎のことも気付いていて、近づいていたのかも知れない。サイコパスとして行動するようなら、止めるつもりだったのだろうか。
いや、あるいは。
「それでどうなった」
「今でも親友として接しているようです。 司城亜騎は更に一皮むけて、良い刀を打つようになっています」
「どれ」
渡された刀を手にして、鞘から抜いてみる。
凄まじい妖気が漂って来るのがわかった。これは本物の妖刀だ。必ずしも、伊勢の村正は伝承通り妖刀を作る人間では無かった。むしろ良く切れる、使い勝手の良い刀を作る鍛冶士だった。
だが、その子孫に。このような、本物の妖刀を作る人間が出てしまったのは、皮肉と言うほか無いだろう。
この刀身の美しさ。波紋の怪しさ。
そして漂って来る、人間を斬りたいという凄まじい欲求。まさに妖刀と言うに相応しい品だ。
何度か振るってみるが。
これは刀を触った事のある人間なら、殆どが魅入られる。それだけの危険物だ。
「現在にこれほどの妖刀を作る事が出来る人間が登場するとはなあ」
「私が育てたんですよ」
「ああ、そうだな」
若干棒読みで返す。アモンの場合は、元からの素質を掘り出した、というのが正しいだろう。
此奴は時々こういうことをする。
アガレスに比べて、人間が想像する悪魔に近いからだ。もっとも、本物の悪魔は、せいぜいこの程度しかしない。
気に入らないと言って人間を虐殺するような事は無い。
「それで今、司城亜騎は何をしている」
「全国的に名が知られて、刀を打っています。 妖刀と普通のは打ち分けられるようになっているようです。 このまま行けば、その内人間国宝になるでしょう」
「そうか」
刀を側に置くと、アガレスはふと思った。
ひょっとしてアモンは、真名が側にいること。おそらく自殺を食い止めることを見越して、亜騎を育てたのか。
対価として渡してやったのは、同じく名工の手による鎚。
それこそ、最高の刀を打てる品だ。
対価を無駄になるとわかっていて出したとは思えない。亜騎はおそらく、立ち直ってから鎚を使っているだろうし。
もしそうだとすると、アモンは残酷なことをしたものだと思う。
頭を振ると、雑念を追い払う。
アモンが膨大な何かを持ってきたからだ。
大量の洋剣。
ツーハンデットやクレイモアと呼ばれるような、無骨な鉄の塊達だ。
西洋では、剣は時代とともに廃れて、今では見向きもされなくなっている。フェンシングなどを除くと、剣術の類も、伝承されていない。
だからこそ、これらの本物は、とても価値がある。
現在ではあまり価値が無いけれど。
いずれ、西洋では復古主義が出てきて、また価値が生じる可能性がある。それまでに廃棄されてしまうような剣は、アモンに拾わせて、コレクションしておくのが良いだろう。
重い分、日本刀よりも手入れが面倒だが。
西洋剣は、競技化したフェンシング用のものを除くと、不遇極まりない。
手入れしてやると、剣そのものが喜ぶのが、アガレスにもわかるほどなのだ。
どうせこのままでは、良くて骨董品扱い。悪ければ、鋳つぶされて鉄にされるだけ。それなら、まだ悪魔の元で、大事にされた方が良い。
そう考える西洋剣を磨きながら、アガレスは思う。
心に巨大な闇を抱えて。
それを発散する方法を持たないながらも。
理解ある友人を側に持ち。
なおかつ、仕事が金になる亜騎は、まだマシなのでは無いだろうか、と。
人間の世界は、理不尽に満ちている。そんな事は、言われなくてもわかりきっていた事だが。
こういうときには、それを思って、流石のアガレスも苦笑してしまう。
「それが終わったら、ケーキを焼きます」
「んー」
アモンが作るケーキは美味しい。
作業は手間暇が尋常では無いけれど。
楽しみがあるのなら、まあ多少はがんばれるかも知れない。
対価をくれてやった人間が今後どうなるかはわからない。わかっているのは、人間の業が、今後も収まることなど、ありえはしないということだった。
(続)
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