白い空の下で

 

序、平和な世界

 

結局あの時は、自分に何をくれたのだろうと、思うことがある。

天井が常に真っ白。

窓もない。

明かりは常に満たされていて、暗いと思った事は無い。横になって、眠るときは眠って。起きるときは起きて。

そして、何もすることがない。

脳が溶けるかと思った。一体此処は何だったのだろうとさえ、考えなくなってきていた。今思い出すと、体が震える。

あんな所にいて、どうして正気を保てていたのだろうと。

何も無い。

本当に、何も無い。

壁も床も柔らかくて、ぶつけても怪我をしない。触っても、痛いところは何一つない。転んでも怪我しない。ぶつかっても。

食事は、時々気がつくと置かれている。

眠っている間に、置かれていたのだろうと、今になればわかるけれど。その当時は、わからなかった。

世界は真っ白。

色は自分とごはんだけ。

そして、それが終わったのは。

十三才になった時だった。

 

目が覚める。

色のある世界にいるとしって、冷や汗を拭う。子供のようにまだ、あの時の事を思い出すと、怖くて仕方が無い。

自分、緒方弘庸(おがたひろのぶ)は、現在大学三年生。

既に今年分の単位は全て取得していて、後は寝ているだけでも用事は済む。来年はどうせ就職活動地獄だから、ゆっくり出来るのは今年が最後だ。

身を起こすと、あくびをする。

小さなアパート。叔父達が用意してくれたもの。彼らにとって、弘庸は腫れ物も同然の存在だ。

それはそうだろう。身内が起こしたあんなとんでもない事件の、被害者なのだから。

弘庸の母は、とにかく過保護だった。

いや、あまりにも過保護すぎた。

弘庸のことを大事に思うあまり、究極の温室を作ってしまったのだ。そして其処で、閉じ込めたまま、弘庸を育てようとした。

とがったものは危ないから、側に置かない。

壁や床だって、転んでぶつけたら怪我をするから、柔らかくする。

日光には紫外線が含まれているから、絶対に当てない。

食べ物は厳選された健康食品だけ。

有害な娯楽なんて、絶対に触らせない。

自分でさえ、悪影響を与えるかも知れないから、直接接することはしない。

ストレスは敵だ。

だから、何も無い空間で、絶対に怪我をしないようにして、育てるのだ。

どうして其処まで、過剰な保護をするようになったのか。理由は知っているけれど、思い出したくない。

今では母は、父と一緒に田舎に暮らしている。

其処で、弘庸のことに周囲は触れないようにして、母の事を扱っているようだった。腫れ物一家というわけだ。

もっとも、あの事件のせいで、母は既に廃人も同然。

弘庸が大学に入れたのは、あまり良い事情ではない。というよりも、今は誰でも大学に入れる時代なのだ。

携帯が鳴る。

他人に併せるのは得意だから、友人はいる。

時々電話をしてくる奴は、一応十人は超えている。今回は直接の電話ではなくて、メールだったが。

メールの文面を確認。

合コンをしたいと言う事だった。日時を確認すると、残念ながらあわない。

バイトがあると返答すると、それは残念とすぐに答えがあった。

どういうことか知らないけれど。

弘庸はこの手の行事に引っ張り出されることが、妙に多いのだ。彼らに言わせると、女が釣れやすいのだとか。

変な話だが。

弘庸自身が女をつる事は、あまり多くない。というか、興味が無い。

一緒にいる者達にとっては、都合が良い、という事らしい。どうしてそうなるのかは、よく分からないが。

また電話が鳴る。

別の奴からメールだった。内容は非常に些細なもの。授業のレポートに苦労しているから、手伝って欲しい、というものだった。

残念ながら、その授業は受講していない。

ただ、手伝うこと自体は出来るだろう。メールに返信すると、アパートを出る。日差しが強くて、うんざりした。

 

友人の家でレポートを書いた後、ビールを出される。

適当に飲みながら、友人の話を聞く。教授の悪口が殆どだった。黙って聞いていると、最初は容姿を馬鹿にして、それから性格と移る。本当に気に入らないのは、講義の内容だろうに。

要するに、講義がわかりにくいから、嫌いだというのである。

別にそれはどうでも良い。

その教授の講義は去年受けたが、確かにわかりづらい所はあった。だが、人格や存在まで否定するほどの憎悪は感じなかった。

要するに、人間的な相性の問題なのだろう。

「お前は良いよなあ。 女にももてるし」

「そんな事は無い」

「そっかあ? 合コンには必ず誘われるじゃないかよ」

「それでも、もてる訳じゃあない」

淡々と応える。

実際問題、もてるという事に、あまり良い印象がないのだ。母親が起こした事件もさながら。

思春期までを殆ど全部棒に振ったに等しい弘庸にとって。世界そのものに対する認識は、他の人間と違っているのだと、言われなくても理解できている事だった。おそらく女に対する執着も、そうだろう。

そもそも弘庸は、文化に一切興味が持てない。

服装なんかも、与えられたものをそのまま着ているくらいなのだ。自分を飾ろうという概念そのものがない。

着られれば、それでいい。

そうとしか、考えない自分に違和感もあるけれど。ただし、直そうとも、今更思わないのだった。

友人のアパートを後にする。

周囲の交通量はさほど激しくもないので、ほろ酔いでも事故にあう確率は、それほど高くない。

ゆっくり歩いていると、雨が降り出した。

あれほど日差しが強かったのに。

弘庸には、急ぐという概念も希薄だ。こういうとき、周囲が走っているのを観ると、ぼんやりと思ってしまうのである。

ああ、他の人は急いでいるな、と。

雨に散々濡れたので、家に戻ってから、シャワーを浴びる。

雨音は凄まじくなる一方。まるで空の底が抜けたかのような、と言う表現通りの大雨だ。友人宅にもうしばらくいるという選択肢もあったかも知れない。

結局雨は、夜半まで降り続いた。

あまり新しいとは言えないアパートだけれど。一階に部屋があるから、雨漏りの類とは無縁。

ただ、この状態では、服が乾きそうもないのが、難儀ではあった。

茫洋と過ごす。

弘庸には他人と違う点が幾つかあるけれど。これもそう。暇を潰すという概念もないのである。

睡眠についても、概念が違っている。

殆ど眠らないのだ。眠る時間が非常に小刻みで、二時間ほど起きると、目が覚めてしまうのである。

おかしい事は、わかっている。

事実、周囲の友人から、それについては変だと直接指摘もされている。

だが、今更直しようがない。

これらはあの、完璧に安全な部屋で過ごす内に、培われたものなのだ。

その程度の分析は、弘庸にも出来る。

メールが来た。

まだ濡れていた携帯を拭いて、中身を確認。これから遊びに行って良いかという内容。外を見ると、雨は止んでいる。

どうぞと応えると、横に転がった。

そういえば。

パジャマを着たままだと気付いて。茫洋としたまま、着替えはじめる。以前、パジャマを着たまま友人を迎えたことがあって、流石にそれは無いだろうと言われた。こういったことは、流石に学習できる。

学習効率そのものは悪くないと言われているけれど。

直せないことが、あるだけだ。

友人が数人、連れ立ってきた。暇だ暇だとしきりに口にしていた。

ゲーム機を持ち込んできたので。酒を飲みながら、皆でわいわいと遊ぶ。弘庸自身は殆ど何も喋らず、言われたことだけに受け応えた。

「それにしてもお前、無口だよなあ」

「そうだな」

「なんでそれでもてるんだよ」

「別にもてていない」

対応も最小限。

ゲームはごく最近まで触れることもなかったけれど。どうしてだろう。昔から触れていた連中よりも、大概は上手い。

問題は、興味が全く無いことだ。

あっさり弘庸が一番にクリア。

周りから、文句を言われた。やり込んでいる俺よりも、どうしてお前の方が先にクリアできるんだよと。

苦笑い。

悪気はないのだけれど。覚える事自体は、決して遅くないのだ。

「ゲーム変えようぜ」

一人が提案して、パーティゲームに切り替える。

みんなで他愛もない事をするゲームだ。こっちは正直な話、弘庸はそれほど上手でもない。

他の人間と連携を取ることが、あまり上手く出来ないからだ。

友人達がクリアしていくのを尻目に、マイペースに進めていく。結局クリアしたのは、最後だった。

集団行動は苦手だ。

だから来る物は拒まない。逆に、去る者も追わない。

弘庸に勝ったことで味を占めたのか、もう一戦と言われる。同じようにして、勝負を進めるけれど。

やはり、弘庸には苦手だった。

何度か弘庸に勝って、満足したらしい。

一端ゲームを切り上げて、話題は別に移った。

「就職、どうするよ」

「うちはバイト先が正社員として雇ってくれるってよ」

「羨ましいなあ」

弘庸は、まだ展望がない。

頼み込めば叔父達が雇ってくれるかも知れないけれど。それだと、生涯通して腫れ物扱いだろう。

別にそれでも良い。

こういう風に「友人」達と接していると、感じる事が多いのだ。

やはり幼い頃からの経験が故に。

自分は他人と、関係を作る事が出来ないのだと。

おそらく彼女を作って、子供が出来ても、結果は同じだろうとも思う。空っぽな人間。それが自分。

中身を作り損ねてしまった、空白の存在。

それがわかっているのに。悲しいとか、苦しいとかは、一切感じないのも、不思議な話だった。

周囲を見ていると、孤独に耐えられないというタイプの奴も、決して少なくはないからだ。

「ノブ、お前はどうなんだよ」

「ぼちぼちやっていくつもりだよ」

「ちっ、いいよなあ。 余裕があって」

「今のご時世、下手な所入ってみろよ。 二三年で使い潰されて、廃人になっちまうんだぜ。 ちゃんと考えないと、泣きを見るのが自分なんだぞ」

説教がましく言われるが、それくらいはわかっている。

いわゆるブラック企業が地獄だと言う事くらいは、弘庸も知っている。しかし弘庸は、幼い頃から中学くらいまでは、地獄と言うも生ぬるい場所にいたのだ。あれは、天国を模した空白の間。

いわゆる、人工のディストピアだろう。

そして、其処で育った。母親の顔さえわからないまま。警察は介入しなかった。叔父達が助け出したとき。

弘庸は、はじめて自分の名前と、他の人間の存在を知覚したのだ。

助け出されてから一年ほどは、ずっと学習だけをした。最初は、自分と他人という概念さえ、理解できなかった。

「あーあー。 いい就職先、ないもんかなあ」

友人の一人がぼやく。

弘庸は、苦笑することしか出来なかった。

 

1、空白無尽

 

ゼミに所属が決まった。勿論研究したいものなど、あるはずもない。言われるままに、所属先に挨拶に行く。ただそれだけだ。

面白い事なんて、何一つ無い。

教授は無能で知られる人物で、レポートは何を書いても卒業できるとさえ言われていたけれど。

実際に会ってみると、本当に無能そうだとしか、感じなかった。

就職でも、頼れそうにない。

周囲の学生達は、そう悲観的に言っている。弘庸として観れば、そうか、としか言いようが無い。

就職か。

働いて、お金を稼ぐ。自立する。

確かにそう聞くと、悲願に思えるのだけれど。精神を完全に病んだ母が弘庸にした事を考えると。素直にそうしようと思えないのは、どうしてなのだろう。絶望の中、希望を作ろうとして、ディストピアを作ってしまった人間が身近にいた。そう考えると、就職は何なのだろうとも、思ってしまう。

そもそも、大学にいる事そのものが。弘庸には実感が無い。

今だって生きているという感触が、全く無い状況なのだ。

地に足がついていない。

いや、そもそも目が見えているとさえ感じない。

息をしているのだろうか。

本当に自分は存在しているのだろうか。

しかし、おかしな事に。そう考えても、恐怖は一切覚えないのだ。普通の人間なら、発狂しかねないと、知識では知っていても。自分がそうでは無いという現実を考えると、不思議極まりない。

弘庸にとっての世界とは。

空白そのものだ。

大学を歩いて出る。アパートまではほんの数分。

途中、友人から電話が掛かってきた。ゼミはどうなったかと聞かれたので、正直に応える。あの教授かと、友人は同情するように言った。

「彼奴、気をつけろよ。 何書いても卒業はさせてくれるらしいけど、大学側も評価には結びつけないらしいからな」

「そうか」

「彼奴、会社にコネもないらしいから、就職は自力でやるしかないって事だ。 まあ、お前だったら、どうにでもなりそうだけどな」

お前なら、どうにでもなるか。

電話が切れる。しばらくぼんやりと立ち尽くして、空を見上げる。雲がたくさん流れていく。

あのように、空が飛べたら良いのに。

長い下り坂を下りていくと、もうアパートが見えてくる。その中の小さな部屋が、今の自分の城。

だけど入ってみると。

其処が、自分の巣穴という感じはない。与えられた、ただの箱。入っても、満たされることはない。

それなのに、周囲は自分に寄ってくる。

もてると言われるのも、それが原因の一つであるだろう事はわかっている。実際、弘庸に近づいてくるのは、男子だけではないのだ。

決して弘庸は資産家ではない。お金だって持っていないし、金払いだって良くないのに。理由は、今でもよく分からない。

家でぼんやりしていると、メールがある。

一緒のバイトをしないかというものだった。既にバイトをしている職場で、追加の人員を募集しているのだとか。

別に問題は無いので、受けてみることにする。

家からの仕送りだけでは、生活が楽ではないと思っていた所だ。

それに何より。

少しは働いてみるのも、今後の社会経験に役立つかも知れない。

翌日まで寝て過ごす。趣味もなければ、好きなものだって無いのだから、それが当然の過ごし方だ。

バイトの面接に出向くと、どうしてか面接官は、弘庸のことを気に入ったようだった。よく分からない。

コミュニケーション能力などと言う主体性が無いものは、明らかに弘庸には備わっていない。

社会人の中には、コミュニケーション能力とやらが問題で、散々苦労する人が少なくないと、弘庸は聞いているのだけれど。そう言う人に対して、申し訳ないとさえ時々思う事がある。

実際、バイトの面接に来たのは、弘庸だけではない。

意欲がありそうな人もいたし、真面目そうな人もいた。

採用されたのは、弘庸一人だ。

上手く行っているという感触はない。何というか、ただ理解できない。

面接の際の受け答えも、言われたことに普通に応えていただけだ。それなのに、どうして弘庸だけが評価されたのだろう。

早速明日から入って欲しいと言われたので、頷く。

バイトの内容は、短期の工場労働だ。

服の整理が中心となる。仕事の内容自体は決して難しいものではなく、働いた結果の報酬もそうそう多くはない。

だが、自分で使えるお金が手に入ると言う事は大きい。

問題は、お金があっても。

使い道がない、という事だ。

バイトに誘った友人は、弘庸と一緒に働けることが嬉しくてならないようだ。工場の正社員に、満面の笑みで弘庸を紹介して廻っている。

そうして貰えるのは嬉しいけれど。

こう簡単に受け入れられるのは、気味が悪くて仕方が無いとも、時々思うのだ。これが、感情なのだろう。

仕事自体はそうそう難しくも無い。

すぐに作業を開始して、覚えるのもさほど難しくは無かった。別に弘庸が優秀なのではない。仕事自体が極めて単純で、黙々とこなしていれば、それだけで終わるというだけのものだ。

拘束時間も、さほど長くはない。

黙々と作業をしているうちに、バイトは終了。

苦しいともつらいとも思わなかった。友人は弘庸と仕事が出来て嬉しいとは言っていたけれど。

その感情を共有することは、とても出来そうに無かった。

「また頼むよ」

お金を受け取るとき、そう言われたけれど。

弘庸より働いているバイトは何人もいた。どうして自分が評価されているのか、最後まで理解が出来なかった。

友人と一緒に、軽く飲んでから帰る。

せっかく稼いだバイト代だけれど。飲みに使うと、こんなに減りが早いとは思わなかった。

「二次会も行こうぜ」

「稼ぎが消し飛ぶぞ。 此処までにしておこう」

「あー、そうかなあ」

すっかり酔いつぶれた友人と一緒に、アパートに帰る。

そいつも隣に住んでいるから、それで別に良い。帰り道で友人は、バイトの同僚の悪口を散々言っていた。

確かにろくでもない奴だったけれど。弘庸には絡んでこなかったし、どうでも良いと思っていた。

「みんなお前みたいだったら助かるのになあ」

応える言葉はない。

みんなが弘庸みたいに主体性が無かったら。ひょっとして、この世は地獄と呼ばれるのではないのだろうかと思ったからだ。それなのに、どうして弘庸は評価されているのか、さっぱりわからない。

成績が良いわけでもない。

工場でも、決して他より働けていた訳でも無かった。

それなのに、気味が悪いほど、弘庸は好かれた。

さっきから友人が文句を言っている奴だって同じだ。弘庸には絡んでこなかったが、それは悪意を感じるほどではなかった、ということなのだろう。或いは好意を抱いていたのかも知れないが、それはわからない。

「ついたぞ」

「あー。 もうついたのか」

途中からは、肩も貸していた。

友人を部屋に放り込んで、寝るのを確認すると。自分もアパートに引き上げる。

テレビは叔父に貰ったものだけれど、殆ど使わない。友人達が来た時に、ゲームをするために使うくらいだ。

横になって、天井を見上げる。

何一つ主体性が無い大学生活が、今日も無意味に過ぎていった。

 

ゼミの説明会を受ける。

教授は何というか、主体性が無い人物で。しゃべり方もしどろもどろで、何を言っているか聞きづらかった。

弘庸とは違う意味で、中身がないのかも知れない。

ただ、どうしてだろう。

弘庸は好かれるのに。この大学教授は、妙に嫌われている。他の学生に聞いても、悪い話しか聞かない。

一応、ゼミのやるべき内容は理解できたけれど。

学生は、弘庸からみても、無気力か阿呆か、そんなのばかり。ようするに役に立たなさそうなのだけ、ゼミに集めたのかも知れない。

幸いにも、ゼミの拘束時間は、さほど長くないと聞いている。論文も書くのはさほど難しく無さそうだ。

他の奴から、声を掛けられる。

「君の話は聞いてるよ。 このゼミは教授も頼りないし、みんな君に頼ると思うから、よろしくね」

いきなり、そんな事をいわれる。

弘庸は勉強だって出来る方じゃないし、覚えだってそんなには早くないのだけれど。それを説明しようと思ったけれど。途中で止める。

何度それを説明しても、相手に理解されないからだ。

今まで何回もあった。

そうか、此処でも同じか。

仕事が出来る方でも無い弘庸が、異様な好意を周囲から寄せられる。考えて見れば今の生活だって、そうだ。

叔父達が、どうしてこれほど弘庸を庇おうとしたのか。

それだけじゃあない。

母が偏執的に弘庸を独占し、愛情を注ごうとしたのか。

それもよく分からない。

結婚前は、母は普通の女だったと聞いている。それが弘庸を産んでから、頭が確実におかしくなった。

父だってそうだ。

母の凶行を、止めようとしなかった。

あまりにもおかしな環境に叔父達が気付いた後も。弘庸が妙に厚遇されている事実は、変わらない。

いったい周囲は、弘庸をどうしたいのだろう。

ゼミの作業内容の割り振りなどが、翌日から行われる。

大して難しい内容では無いから、すぐに頭に入った。周囲だって、理解できていないとは思えない。

それなのに、弘庸に聞いてくるのだ。

これはどうしたらいい。

どういう意味なのか。

弘庸がわかる範囲で説明すると、大げさに喜ぶ。そして、口々に、皆はいうのだった。噂通りに頼りになると。

意味がわからない。

どうして弘庸は、このように扱われる。

邪険に扱われるよりは、ずっと良いのかも知れないけれど。これははっきり言って、気味が悪い。

弘庸は、周囲にどのように見えているのだろう。

ゼミから帰ると、アパートに。

携帯にはメールが何通か来ていた。いずれも友人からのものばかりだ。ゼミの話題が主体である。

話を聞く限り、他のゼミも決して状況は良くないと言う。

まあ、所詮はランクが高いとは言いがたい大学だ。

教授だって大した人材はいない。社会的にこれといった業績を上げる研究だって、していないはずだ。

どんなゼミに入ったところで、ろくな成果は上げられないだろうし。

真面目に通ったところで、論文が良いものになるとは限らない。そもそも、大学が駄目なのだ。

それは弘庸だけではなく、通っている皆が分かっている筈。

だけれども。そもそも弘庸は、中一まで閉鎖空間に閉じ込められていたような子供だったのだし、学業には大きな遅れがあった。

今更取り戻すのは難しい。

これでもかなり頑張った方なのだけれど。

このランクが低い大学に入るのが精一杯だった。留年しなかっただけでも、まだマシだったのだろう。

ちゃんとした親の下で生活していたら。

もっとましな大学に入れていたのだろうか。

そう思うことは、時々どころか、しょっちゅうある。だが、それ以上に不可解なのは。やはり今の境遇だ。

「お前の所のゼミだったら、ましだったかもな」

友人がそうメールで送ってきたので、何もかもがわからなくなった。

そもそも、弘庸が行っているゼミの悪い評判は、本当だったとメールしているのに、どうしてそんな結論が帰ってくるのか。

気味が悪くなって、今日はもう寝ることにした。

布団に入って、電気を消して。

そして思う。

この世界は一体、弘庸をどうしたいのだろう、と。

 

最初に中学に足を運んだとき。

弘庸は、四則演算も出来ないような子供だった。ただし、教師には事情が伝えられているらしく、いきなり他の生徒と同等の勉強が出来ることは、求められなかった。

普通だったら、虐められると言われたけれど。

どうしてか、周囲の生徒は、弘庸に悪くは当たらなかった。むしろ、優しくしてくれた。気味が悪いほどに。

母親のように。

当時はそれがおかしいとは思わなかったのだけれど。

中学を卒業し。

高校に入ったころから、おかしいとは感じ始めていた。

勉強は、その頃には、どうにかついて行けるようにはなり始めていたのだけれど。何故か、勉強が遅れているはずの弘庸に、教えてくれと言ってくる奴が出始めたのだ。決して、弘庸より勉強が出来ない事も無いのに。

それに、変なことは他にもあった。

イジメの被害に、一切遭わないのだ。

他の生徒は、イジメをしている奴もいた。事実、暴力を伴った酷いイジメを散々目にしてきた。

しかし、本来だったら勉強が遅れていて。特殊な家庭事情を持つ弘庸が、まっさきにターゲットになるだろうに。

下劣なイジメをしている奴でさえ、弘庸には同じようなことはしない。

それだけではない。

最近気付いたのだけれど、妙なことがあったのだ。

イジメをしている光景に出くわしたとき。

弘庸がじっと見ていると。気まずそうに、イジメをしていた奴が暴力を振るうのを止めた。

そればかりか、後日、虐められていた奴に、謝っているところさえ観た。

一体これはなんだ。

イジメをしていた奴に話を聞いたのだけれど、弘庸に嫌われるのがいやだったからと、照れながら説明してくれた。

訳が分からない。

どうして弘庸に嫌われるのが嫌で、素行を改めたのか、理解できない。

この時を境に、違和感が噴出するようになっていった。

中学のころだってそうだったが。

高校のころからは、なおさらだ。

女子は弘庸のことをみな悪く思っていなかったようだし。男子だって、それは同じ。低ランクの大学に行くことが決まったというのに。

中には、同じ大学に行きたかったという奴までいたことを、弘庸は教師に聞かされていたのだ。

どうして、そうも弘庸を構う。

大学に入った今も、状況は変わっていない。そもそも弘庸に構うことで、一体どのような利益があると言うのか。

目が覚める。

今日は一限目から授業がある。早めに準備をして出かけないと、授業を受けるころに、頭をはっきりとさせることが出来ない。

ルーズリーフとテキストを抱えて、授業に。

授業に出ている生徒はまばらで、弘庸は前の方の席につくと。眠気と戦いながら、レポートを取っていった。

そもそもこの授業は教養課程で、ほとんど受ける生徒はいない。だが年間必要数の単位には、教養をいくらかとっておかないと足りない。そもそも興味がある授業だったら、選択したのだ。

あまりにも退屈な内容だけれど。

それは教授の腕が悪いだけ。

テキストはそれなりに面白いし、内容自体には興味もある。

だから授業を受けること自体は、嫌ではなかった。

授業が終わって、眠い目を擦りながら、後の内容を確認。ざっと見て廻るが、休講になるようなものはない。

次は三時限目だ。

一端アパートに戻ると、テキストとルーズリーフの整理。

そうしていると、メールがまた来る。友人達の何人かが、講義に出られないというのである。

別に何人分ノートを取るのも同じだ。

元々授業には出るつもりだったから、構わない。

適当に受け応えて、家を出る。

今日もそらは嫌みなほど晴れ渡っていて。朝も、今出たタイミングでも。空気は異常に爽やかだった。

本当に、何故こうも弘庸に都合が良い事ばかり起こるのだろう。

面白くもない授業を適当に受けて、帰宅。

ノートはしっかり取っておいた。別に分かり易く取れたわけでもないのに、どういうわけか周囲からは評判が良い。

此処でも、弘庸には。

異常なイージーモードで、世界は動いていた。

ぼんやりと、他の人達に申し訳ないとさえ思う。友人達が観ている世界と、自分が観ているこれは。

あまりにも違うものだとしか、思えなかった。

ニュースサイトを見ても、世界は地獄絵図だ。

何処かで紛争が起きていて、何万人が死んだ。そんなニュースばかり。テロ。差別。殺戮。疫病。

人はこうしている間にも、無意味に大量に死んでいく。

弘庸だけが。

まるで世界に愛されているかのように、此処であまりにもぬるま湯にもほどがある人生を謳歌している。

勿論厳しい人生を送りたい、などとは思わない。

しかしこれは、あまりにも不公平ではないかと、思うのだ。

その日は午後からあと二つの授業があったので、どちらも受ける。真面目にノートを取り、夜になって現れた友人に写させてやる。

もの凄く感謝されるけれど。

ノートには、大した事は書いていないのだ。感謝されると、本来は恐縮してしまう筈なのに。

元々、あの部屋に閉じ込められていた影響だろうか。

気味が悪いほど、弘庸自身も、心が動かない。気味が悪いとは思うのに、それが生理的に響いてこないのだ。

レポートを写しながら、友人の一人が言う。

「そういえばノブ、知ってるか? 噂があるんだぜ」

「何の?」

「この近所なんだけどよ。 何でも手に入る店があるっていうんだよ」

「コンビニか何かか?」

違う違うと、友人は笑いながら言う。

他の友人も、話を聞かせてくれた。

何でもその店では、本人が望むあらゆるものが手に入るというのだ。場合によっては、法的に販売が許可されないようなものまで。

「四年の白川って奴いるだろ」

「ああ、あの太った」

「そうそう、そのデブ川。 彼奴がもの凄く痩せて、しかも綺麗な年下の彼女連れて歩いてるって話、聞いたか」

そういえば、そんな話を聞いた。

時々話す女子が、そんな事をいっていたのだ。女子のネットワークによる情報網は凄まじいが、ラグが多すぎる。

だから、話半分にしか聞いていなかった。

「その女、店で買ったらしいんだよ」

「人間を、か」

「発展途上国なんかじゃ、奴隷を売り買いするって話もあるだろ。 その店じゃ、人間も売り買いできるって事じゃないのかな」

まさか。

いくら何でも、あり得ないだろう。

だが、白川という四年生は噂を聞いている。良い評判を一切聞かない人物で、ましてや他人のために努力したり、痩せようとしたりもしない筈だ。

まして、今の時代、他人のために努力しようとしたら、馬鹿にされる時代である。

あのように性根が腐った人間が、そんな事をするとはとても思えない。

だが、痩せて。綺麗な彼女を連れているというのは、本当だとしたら。

何かがあったのだ。

本人の価値観が、180度変わるほどの。何かが。

興味が湧いてきた。

このままでは、弘庸は周囲に好きなように解釈されて、好きなように人生を過ごしていくだけだ。

何か変わる機会があるのなら。

それを掴んでみたい。

「その店の話、詳しく聞かせてくれないか」

「何だお前、性奴隷が欲しいのか」

「違う」

それに話を聞く限り、多分白川という男が変わったのなら、性奴隷ではないはずだ。何もかも言うことを聞くような存在を手に入れたら、駄目になる事はあっても、性格が改善することはあり得ないだろう。

それを指摘すると、友人達は顔を見合わせる。

「お前、そういう所が凄いよな」

何も応えない。

だが、本音は。

止めてくれと、言いたい。

そういうのがいやなのだ。どうしてこのように、奇怪な扱いを受け続けなければならないのか。

実は、精神科をはじめとして、幾つかの病院には行った。

何か、類例があるかと思ったからだ。

しかしながら、類例はなかった。医師達までもが、それは君の人徳だろうとか、訳が分からないことを言うだけだったのだ。

本当に、どうかしている。

どうかしているならば、その理由を知りたい。

この奇怪な世界でも、心を動かさない自分についても、理解したい。それが、弘庸の望みだ。

誰かに会って変わるというのなら、それも良かったのだけれど。

残念ながら、この世はラノベの世界でも、ゲームの世界でもない。そんな都合が良いことは、起きない。

そらから美少女なんか落ちてこないのだ。

「店の情報について、知っている限りを、教えてくれないか」

「何だ、都市伝説、本気にしているのか」

「試してみる価値はある」

「そっか。 とりあえず、そうだな」

メールで、サイトのアドレスを転送してくれる。

頷くと、全てを後で試してみることにした。

 

2、空白の存在

 

胸焼けがする。

アガレスはうんざりして、目の前にあるクッキーの山を見つめた。

最近、アモンがあの面倒くさい猪塚と一緒にクッキー作りをしていて、毎日大量に喰わされるのである。

流石に甘味が好物のアガレスでも、毎日同じメニューでは飽きる。

確かに味はどんどん良くなっているのだけれど。それでもクッキーばかり毎日食べさせられたら、うんざりしてしまう。

アガレスにとって食事は嗜好だ。

食べなくても生きていける悪魔にとって、食べるというのは趣味の領域に過ぎないのである。

だから本来は必要ない。

味覚という快楽を味わうためのものなのだ。

それなのに、これでは。本末転倒である。

幸い今日は猪塚は来ていないけれど。これを食べないと、次は作らないとアモンがとびきりの笑顔でいうものだから。

胸焼けを必死に我慢して、もぐもぐを続けているのである。

確かに味は進歩しているし、柔らかくもなってきている。格闘技のセンスは料理に通じると聞いたことがあるけれど。

あれは化け物レベルの才能を秘めているだけあって、料理も同じようにこなすことが出来るのだろう。

「まだ食べ終わりませんか?」

「量が多すぎる……」

「まだおかわりありますからね」

ひいっと、小さな悲鳴が漏れてしまうけれど。

アモンが凄く嬉しそうにほほえんでいるのをみて、更にげんなりした。此奴は何というか。こういう所が昔から全くぶれない。

とりあえず、胸焼けを我慢しながら、全て食べきる。

その後は手を拭いて、仕事に戻った。

何故だろう。

こんなに仕事が待ち遠しかったのは、はじめてかも知れない。まさか、仕事をしたくなるように、計算してたくさんクッキーを作ったのか。

あり得る話だ。

アモンは、アガレスが仕事をするように仕向けるため、いろいろな策を用いる。

中には、とんでもないものもあった。

それがアガレスのためだと言う事はわかっているから、何も言わない。人間は正論を嫌がったり自分のためにしてくれる行動を余計なお世話と言ったりするそうだが、悪魔はそんなこと言わない。

「時に、獲物は掛かりそうですか?」

「お前と一緒に私で遊んでるあいつとは違うのが来ると良いのだが」

「人間は結構個体で差があるものですよ」

「そうだといいのだがな」

PCを起動すると、状態を確認。

調べて見ると、今の時点で、網に掛かった獲物はいない。ここしばらくは収穫が続いたのだし、仕方が無い。

毎度毎度、豊富に獲物が捕れていたら、それはおかしい。

「駄目だな」

「それでは、此方を」

「んー」

クッキーを山ほど食べさせられるよりは、まだこっちの方がマシだ。

どっさり積み上げられたのは、日本刀。それも、酷くさび付いているものばかりである。

現在、日本刀は実用的な武器ではなく、高価なインテリアと化している。勿論、ごくごく一部に、武器として扱っている者もいるのだが。それは例外中の例外。

アモンが拾ってくるのは、扱いが悪くて放置されていて錆びてしまったり。あるいはたたき売られている内に、壊れてしまったり。そんな品。

それをまず形に戻して。

それから、アガレスが整備する。

流石に名が知られているような名刀はない。正宗だの村正だのは、この中には見当たらない。

ただし、数打ちでもそれなりに良い刀はある。

今積み上げられたのが、それらだ。

状態を確認し、まずは錆取りを開始。

普通だったら治ることはないようなものでも。アガレスとアモンに掛かれば、修復は可能だ。

かっては魔術と呼ばれた力を用いるのである。

順番に刀を鞘から抜いて。

刀身に撫でるように指を這わせる。指が通り抜けた後は、刀は美しい輝きを取り戻すかと言えば、流石に其処まで簡単ではない。

日本刀は極めて複雑な工程の元に作り上げられた、傑作武器だ。

刀鍛冶はそれぞれ腕を競って強力な刀を作り上げていき、結局失伝してしまった技術も存在している。

勿論現在の技術ならば、それ以上の刀を作り上げることも容易だが。

今修理しているのは、実用品としての武器ではない。あくまで、文化と技術の集積体としての武器だ。

構造の解析を終えた後、小さなハンマーを取り出す。

魔術を使って、刀に全体的な調整を加えていく。刀の記憶を読み込んでから、順番に修理していくのだ。

一つ目が終わる。

額の汗を、何度かハンカチで拭った。

今修復した刀は、江戸時代に五人ほど人間を斬っている。その残留思念が、刃に強く残っていた。

次。

順番に、刀を片付けていく。

できあがった品は鞘に収め、時間の流れを調整してしまう。

こうすることで、手入れの手間を減らすのだ。

十本ほど刀を手入れし終えた後。かなりの大物が出てきた。

戦国時代の、本物の刀だ。実戦でかなり使われた形跡がある。人を斬っては研ぎ直し、研ぎ直してはまた人を斬ったのだろう。

触るだけで、相当な怨念が指先から流れ込んできた。アガレスはへの字に結んだ口を動かさないまま、刀に触って、構造を確認。

どうやら無銘ではあるけれど。

打った鍛冶士は、名がある人物だとみた。まあ、解明するのは後でアモンにやらせればいい。

日本刀は、海外に美術品として流れる事も多い。

これがどこから回収してきたものかも、見ただけではアガレスにはわからない。アモンと意識をリンクしているから調べることは出来るが、面倒くさい。今はまず、作り直すことが先だ。品が具体的に何かは、おいおい調べていけば良いのだ。

ただ、最終的には目録を作って、丸ごと記憶することになる。

そうすることで、人間に渡す対価として、整備をしておくのだ。

最後の奴は、調整だけでかなり疲れた。

何度か繰り返して修復し、ようやく輝きを取り戻したときには、くたくただった。刀身から迸る怨念が凄まじい。

やっと生き返ることが出来た。

また人が斬りたい。

そう言っているようだ。

いや、事実そう言っている。悪魔であるアガレスにはわかる。これは命を持つに到った武器だ。

「アモン、これはどこから拾ってきた」

「錆びだらけの状態で、ある神社に奉納されていました。 しかしその神社自体が潰れて、ブルドーザーで神棚ごと粉砕されて、土に混ざっていました」

「それはさぞや無念だろうな」

「しかし、その方が良かったのではありませんか。 それは文字通り、魔性の武器と呼ぶべき存在です。 ざっと見ただけでも、五十人は斬っています」

確かにその通りだ。

鞘に収めると、厳重に封印。これは余程の剣術使いでもない限り、渡してしまえば速攻で持ち主を飲む。

そして、殺戮へ駆り立てる事だろう。

そういう武器は実在しているのだ。あまりにも良く出来ている武器は、人の心に取り入り、魂を汚染する。

この刀は、文字通りの妖だ。

厳重にしまわせるが、気をつけた方が良いかもしれない。もっとも、この店には、このレベルの危険な品がゴロゴロしている。

いずれも、本物の悪魔であるアモンが管理しているから問題は無いが。

在庫整理をするときにでも間違った扱いをしたら、何が起きるか知れたものではない。

とりあえず、此処までだ。

うんざりするほど出てくるクッキーを食べて、気分を変える。

体の中に蓄えている闇は、今の疲れとは別。

元々体の中から湧いてくる力を使って、アガレスは仕事をしている。だから、消耗は考えなくても良いのだが。

今の刀のような、扱いに困る品は。やはり、修復した際、気疲れが酷い。

クッキーを黙々と食べ終えると、アガレスは机に突っ伏した。

「なあ、次は刀以外がいい」

「じゃあ、これにしましょうか」

そういってアモンが笑顔のまま持ってきたのは。

明らかに血を浴びているのも含めた。西洋のプレートメイルの数々だった。

これもどう考えても、相当な怨念が籠もっている。アモンの笑みは、文字通り悪魔のそれにしか見えなかった。

ふと、PCの方に反応。

罠に掛かった奴がいるらしい。

一瞥だけした鎧は後回し。餌について、調べて見る。

今度のは、どうなのだろう。

闇が美味しくても、猪塚のように面倒くさくなければよいのだけれど。

 

幾つかのサイトを調べてみるが、どうも思わしい成果は上がらない。

友人達にも話を聞いてみる。

そいつらは、店で誰かが手に入れたという、美人の奴隷について話を弾ませていた。奴隷を得たいなんて、恥ずべき事だと思うのだけれど。そいつらは、性欲が剥きだしの思考のまま、都合が良いことばかり考えているようだった。

何をさせたいとか。

どんなことを言わせたいとか。

そんな事ばかり、好き勝手に言っている。

別に弘庸はフェミニストではないし、いわゆるエロ本の類だって持っているけれど。妄想を現実に持ってきたいとは思わない。

相手のことは尊重したいと思うし、奴隷にしてこき使いたいなんて絶対に考えない。

ただ、周りがみなそう考えていないかとも思わない。

友人達は、単にばかげた非現実を、口から出して楽しんでいるだけ、なのだろう。

「なあ、ノブ」

「どうした」

「店には行けそうか?」

「どうも良い情報がないな」

実際、いろいろなサイトを調べてみるのだけれど。どうもそれらしい情報が見当たらないのである。

掲示板などでも、都市伝説系のサイトなどでは扱っているけれど。

殆どは雑談ばかりが垂れ流されていて、とてもではないが、行けそうにもない。

そう素直に言うと、友人達は応える。

「そっかあ。 じゃあ、此処なんかどうだ」

メールを送られたのは、かなり怪しげなURLだ。

とりあえずアクセスしてみるが、何だか雰囲気がおかしい。怪しいというか、妙なのである。

サイト構成からして、原色が多用されていて、来た人間を歓迎しているとはとても思えない。

構成も非常に不親切で、何処に何があるかも、わかりづらかった。

「一見するとあれだけどよ、此処、結構詳しいぜ」

「そうか」

礼を言うと、調べて見る。

確かに掲示板などで扱っている情報の量は、今まで見たどんな場所よりも多い。ざっと目を通していくと、気になるものがあった。

奴隷を「店」で手に入れたという白川のものらしい情報が書き込まれていたのだ。

そういえば、白川はどうしているのだろう。

友人達に聞いてみる。

綺麗な年下の彼女らしい人物と一緒に歩いていて、真人間のようになっていたということだけれど。

誰も、近況を知らなかった。

何か、嫌な予感がする。

そんな中、友人がまた情報をくれた。

別のサイトである。此方は情報自体は多くないのだけれど、一つ一つがとても濃い。どうやら、管理人が筋金入りのマニアのようだ。

精度の低い情報を、意図的に排除しているのかも知れない。

チャットがあったので、入って見る。

管理人がいたので店について聞いてみると、妙なことを言われた。

「あれは曰く付きでね」

「どういう曰くですか」

「俺らみたいな、ネットで活動する都市伝説マニアには曰く付きなんだよ。 ホームページとかに載せたりすると、データが消し飛ぶことが多いんだ。 うちは今までに、四回やられてる。 噂だが、サーバごと潰された奴もいるって話だ」

本当だろうか。

もしそうだとすると、何か不可思議な力でも働いているのかも知れない。

鵜呑みには出来ないが、或いは。

誰かが、情報を消して廻っている、ということなのだろうか。

出遅れてはいるけれど。弘庸だって、ITに慣れ親しんできた現代っ子だ。ネットで、実際に情報を消して廻るのがどれだけ大変かはよく分かっている。

ハッカーだのクラッカーだのと言う人種も実在はしているらしいけれど。

それらが実際には相当なリスクを伴う上に、かなりの高等技術だと言う事だって、知っていた。

「もしそんな事が出来るとしたら、本物のハッカーでしょうか」

「実際のハッカーなんてのは、色々と地味な連中だし、相当なスキルがあっても出来る事は知れているもんなんだが。 ただ、もしも此処まで店の都市伝説を消して廻っている奴がいるんだったら、或いはそいつ、ウィザード級のハッカーかもな」

「ウィザード級?」

「ハッカーの中でもトップクラスの連中だけにつけられる尊称だ」

それは、尊称と呼べるのだろうか。

よく分からないが、他にも店について聞いてみる。幾つか説があるらしいのだが、東京近郊の新古書店の三階にあると言う説が有力だそうだ。

それについては、事前に調べてはあった。

あり得ない三階に、ある手続きをすると行けるらしい。

幾つか、それに関する情報も見た。

だが、どれもこれも、ぴんと来ないのだ。

一端ネットを止めて、友人達にも話を聞いてみる。実際に店に行ったと言う白川に話を聞いてみればと言われたので。

二人ほど誘って、一緒に行くことにした。

道中で、散々からかわれる。

「ノブもやっぱり、やりたい盛りだよなあ」

「そうかもな」

「やっぱり店に行ったら、奴隷が欲しいのか? スッゲー美少女の奴」

「んなわけないだろ」

嘘は一切言っていない。

そもそも弘庸が欲しいものは。

他者ではない。

自分なのだ。

 

白川はくたびれたアパートで、一人暮らししていた。

大学でも、既に二留している。必須科目で時々見かけるのは、単位が足りていないからだ。

計画的に単位を取っている弘庸は、そのまま卒業できそうだけれど。

日本の大学は、学生が遊ぶ場所になっている場合が多い。だから、此奴のような落伍者は、どうしても出てしまう。

アパートの部屋の前に立つ。

異臭がした。

友人達が、顔を見合わせる。別人のように痩せたという話だった。真人間になったというのに。

どうしてこう、部屋の前で禍々しい気配が漂っているのだろう。

ドアをノック。返事無し。

ドアノブを捻ると、なんと空いた。

中を覗いてみる。

異臭が、噴き出すように溢れてきた。何かあったときのために、友人達には来て貰ったのだけれど。

「お、おい」

「誰かいますか」

中に声を掛けるけれど、返事はない。

よく太った蠅が、中から飛んできた。これは本格的にまずいかも知れない。

管理人を呼んできて貰う。

中に一緒に踏み込むと、其処は地獄絵図だった。

白川は、生きていた。

ただし骸骨のようにやせこけて、辺りに散乱しているのは食べ残し。中には蛆が湧いているものもあった。

別人のような人相だ。

痩せすぎて、まるで骨。

以前はでっぷり太っていたという話なのに。今の白川は。

すぐに救急車を呼ぶ。虚ろな目で、白川は誰かの名前を呟いていた。部屋を覗いてみるが、食べ残しと湧いた蛆にさえ目をつぶれば、案外に殺風景だ。

ゲームやら漫画やらが積み上がっていることもない。

最近流行のフィギュアも、殆ど置いてない。壁にポスターが貼られているようなこともなかった。

誰かと暮らしていた形跡は。

いや、ない。

そうなると、白川と一緒にいたという美少女は、何者なのだろう。救急車が、衰弱死寸前だった白川を連れて行く。

管理人に話を聞くと。

なんと白川は、少し前から部屋代を滞納していて、電気もガスも止められていた、というのだ。

「家からの仕送りで、今までは滞納だけはしていなかったんだけどね。 留年で家の方が愛想を尽かしたんじゃないのかね」

カマキリのような顔をした、老婆管理人が、そう言う。

だが、それにしても、だ。

評判は悪かったが、白川はバイトなどもしていたという。金自体は、無かったとは思えないのだ。

女に、根こそぎつぎ込んでいたとでもいうのだろうか。

あり得る事だ。

もしもそうだったとしたら、何かしらの犯罪に巻き込まれている可能性も、否定出来ないだろう。

警察も来た。

友人達と一緒に事情聴取されて、結局解放されたのは夕方。白川とは殆ど面識もないと言ったが、中々信じて貰えなかったのだ。

それだけじゃない。

どうしてか警官達に弘庸はやたらと興味を持たれて、根掘り葉掘りいろいろ聞かれた。流石に困り果てたのだけれど。とにかく事件性があったとしても、弘庸達は関係なさそうだと言う事で、釈放して貰った。

後から聞いたのだけれど。

白川はやはり、謎の女に根こそぎ金をつぎ込んでいたらしい。

少なくとも日本人らしいのだけれど、事件性があるのかどうかも、白川の衰弱が激しいためよく分かっていないそうだ。

いずれにしても、白川がそれほど金を持っていたとは思えないというのが、周囲の一致した見解だそうで。

何かおかしな事が起きた、というのが真相のようだ。

友人達はその日以来、店の話を口にしなくなった。

冗談では済まない事態が起きたからだろう。

だが、むしろ弘庸は、これで店への興味が増した。本当に、何かあるからこそ、おかしな事が起きた可能性が高い。

弘庸には、中身がない。

他の人間のような中身が欲しい。

だから、もしも白川が、ハイリスクな何かを店で手に入れたのだとすれば。自分も、それを入手したい。

それが、本音だ。

授業を受け終えた後、毎日まっすぐ家に帰るようになった。

そして、店についての都市伝説を、洗い続けた。

一月ほどが、過ぎたある夜。

ついに成果が得られた。

 

3、中身がない男

 

電車に揺られて、目的地に向かう。

友人達は、誰も誘っていない。流石に、他の奴を連れて行くわけにはいかなかった。何より、何でも手に入る店などに彼奴らを入れたら、何を欲しがるかわかったものでは無いとも思うのだ。

奴隷をくれなんて、言い出すとは流石に思わない。

だが、何か得体が知れないものを手に入れてしまうのではないか。そんな気がして、恐ろしいのである。

三十分ほど電車に揺られて、東京の隅に。結構発展している町なのだが、神奈川と東京の間にあり、所属がよく分からない事で知られてもいる。

実際、神奈川も、よく発達した県だ。

駅から降りると、数分ほど歩く。

この辺りは歓楽街で、夜になるとネオンがけばけばしく辺りを光で染め上げる。だが、今の時間は。

まだ昼前という事もあって、人通りもまばらだった。

情報が得られたのは、一昨日。

あるサイトを見ているときに、不意に妙なリンクを見つけたのだ。たどっていった先にあったのは、不可思議な文字列。

それを見たとき。

何だか、これは試してみる価値があると、感じたのである。

新古書店を見つけた。

大手のチェーンではないけれど。そこそこに大きな店で、品揃えも良いと評判だ。そして此処はどう見ても二階建て。

一階は本屋。

二階は中古を中心に扱うゲーム屋。

こんな所に、何でも売ってくれるという、伝説の店などあるのだろうか。どうみても、ただの店にしか見えないのだが。

一歩を踏み入れる。

小柄な店員が、ちょこまかと働いている。此方を一瞥だけしたが、それだけ。黙々と働き続けている。

カウンターにいるのは、無精髭の無愛想な男。

何か機嫌でも悪いのか、此方をにらんでいるように思えた。

本など殆ど読まない。

だから、此処の本の善し悪しなんて、全くわからない。大学の授業で使う参考書はあっても良いかもしれないが。

漫画や小説が主体で、資格の参考書がちょっとあるくらい。

マニアックな本は、ほぼ無いようだった。

ちょこまか働いている小さな女の子は、高校生くらいだろうか。愛くるしい容姿だが、少し幼すぎるようにも思える。

だが、横を通り過ぎたとき。

妙な悪寒のようなものを感じた。

気のせいかも知れないが、急いだ方が良さそうだ。すぐに二階に上がる。問題は、此処からだ。

二人店員がいる。

一人は、やる気が無さそうな、コスプレ女。髪の毛をツインテールにしている。容姿は日本人離れしているが、どうにもこうにも。眠そうに辺りを見回していたり、やる気無くあくびしていたりと、どうしようもない。

ルックスだけで世の中を渡っているタイプなのかも知れない。確かに綺麗な顔立ちだけれど。

もう一人は、長身の色気過剰な女。

此方は真面目に仕事をしているようだが。どうにも、掴みづらい雰囲気で、出来れば近寄りたくない。

しばらく周囲を見て、客がいない事を確認。

誰もいなくなってから、調べた方法を、試すことにする。

さて、本当に、三階に入れるのか。

入れるとしたら、何が得られるのだろう。

客がかなり多くて、なかなかいなくならない。中年のサラリーマンから、小学生まで、かなりの数が行き交っている。

だが、不意にエアポケットにでも入り込んだように。

周囲から、人の気配が消えた。

メモ紙を出すと、長身の女の方に歩く。

目を細めて、小さい方が此方を見た。

「すみません」

「はい、何ですか」

「ライバルと合併してからグラフィックしか見るところが無くなったゲーム会社のソフトは、どの辺りにありますか」

「それならば、18番の棚に」

此処で、もう一つ聞かなければならない。

一応、18番の棚に、その会社のソフトが売られている事は、確認済みだ。

「合併後にも、面白いゲームがあると聞いていますが」

「それならば、トイレにてお待ちください。 三分ほど。」

「……」

本当だった。

担がれているだけかも知れないと、危惧はしていたのに。しかも、コスプレ女はにやにやして、目を細めている。揶揄している雰囲気では無い。明らかに、おもしろがって此方を見ている様子だ。

トイレに入ってしばし待つ。

不意に、外がぐにゃりと歪むような気配があった。

どうしてか、それがわかったのだ。

無言で扉を開けると。

其処は、何というか。

弘庸によくにた空間とかしていた。

薄闇の世界。

ただ棚だけが並んでいて、雑然と、しかし整然と無数のものが詰め込まれている。詰め込まれているものに法則性があるとは思えないのに。いれられ方だけは、非常に整然としているのだ。

棚そのものも巨大。

背丈は軽く六メートルはあるだろう。上の方にあるものを取り出すには、確実にはしごがいる。

床は木で出来ていて。踏むと、軽い音がする。

気がついたのは、空気が異常だということだ。弘庸は何というか、いつもぬるま湯のような空気を感じていたのだけれど。

此処は違う。

弘庸自身と同じ、空っぽというか。

人間の気配が、感じられないのだ。

おかしい事は、それだけではない。薄闇の中、遙か向こうにまで棚が広がっている。遠くは暗くて見えないのだけれど。

ひょっとしてこれは。地平があったら、その先まで、棚があるのではないかと、錯覚させられるほどだ。

天井には宮殿なんかにありそうなシャンデリア。

しかも、それだけしかないのに、一定の明かりが保たれている。アレがなかったら、真っ暗になっている筈だと思うと、空間の異様さが際立っていた。

本当に一体、此処は何だ。

都市伝説で言及される魔境。何でも手に入る店。

そんなものがあるとは、半信半疑だったのに。これは、あまりにも異常すぎて、恐怖さえ。

いや、怖いとは思うけれど。

生理的には、いつも通り、全く響いてこなかった。

歩いていると、見つけた。

飛行機の模型がたくさんある。きちんと組み立てられているそれは、ため息が漏れるほど精巧だった。

隣にあるのは、何だろう。

わかった、船だ。

殆ど興味は無いけれど、多分戦争に使う船だろうと言う事は、大砲やらミサイルやらがついているからわかる。

「おい」

不意に、声が掛かった。

どこから響いているかわからないのに。何故か、顔は即座に、声の主の方と思われる場所を向いていた。

顔が向いたので、そっちから声が来たのだと、何故か遅れて理解する。

やはりこの空間は、異常だ。

棚の間を歩いて行くと。不意に、一角だけが畳の、変な場所に出る。机の上で頬杖をついているのは、何だろう。

黒づくめの子供。

しかも、髪の毛が妙に長くて、床にまで垂れている。手入れしていないのかと思いきや、とても綺麗に手入れされていて、艶があった。顔立ち自体も人形のように整っているが、しかしその表情は。

弘庸は、こんな表情を向けられたのは初めてだ。

相手はしらけきっている。

弘庸に接する人間は、どうしてか異常に好意を向けてくることが多い。例外は、今までほぼなかった。

「何だお前は」

「俺は……」

「ふむ、そう言うことか」

いきなり見透かしたかのように言う子供。しかし、なぜだか、腹は立たなかった。

不意に現れるメイドのような衣装の女。

友人達がいたら、黄色い声を上げたかも知れない。胸は洗濯板そのものだが、長身で、とても綺麗だからだ。

座布団を用意されて、座るように促される。

茶を出された。

無言のまま、時が流れる。子供は退屈そうに此方を見ていたが。こういう空気は、初めてだった。

「あの、俺は。 此処に、何でも手に入るって聞いて、来たんだけれど」

「此処では、心の闇と引き替えに、対価を渡している。 お前はそれも知っている筈、だがな」

「……」

そういう噂は、確かにあった。

調べていく内に、そんな情報が出てきたのだ。

しかし、半信半疑だった。

この不可思議な空間で、そう言われると。本当だったのかと、驚くばかりである。

居心地が悪い。

「お前の名は」

「緒方弘庸」

「そうか。 私の名はアガレス。 この店の主をしている」

何だか、何処かで聞いたような名前だけれど、思い出せない。

何が欲しいと言われたので、少し悩んだ末に言う。

「俺は空っぽなんだ」

「そうだろうな。 見ていてわかるが、お前はその特異体質から来る異様な周囲からの好意に悩まされているはずだ。 お前は決して、自分から何も出力することがなく、周囲からの好意だけで殻を作ってきた」

図星を指される。

確かにその通りだけれど。それを一瞬で看破するこの子供は、一体何者なのだろう。疑念は、膨らんでいく。

だが、その疑念が膨らみきる前に。

額に指を向けられて。

弘庸の意識は、綺麗に消えていた。

 

アガレスはげっぷしそうになった。

大体の場合、外に影響されて、内側から生まれてくるのが闇というものだ。しかし此奴は違う。

目の前に突っ伏しているこの弘庸とやらは。

外側から、徹底的な量の好意を叩き付けられて、殻が出来てしまっている。殻の中身は、文字通りの無。

外側にある薄皮のような思考だけが、意識を形作っている。

ロボットでさえ、もう少し自主的にものを考えるかも知れない。それほどに、此奴の頭は異常なのだ。

それを産み出しているのは。

周囲からの好意を強制的に得る仕組みだ。

異常なフェロモン体質なのである。

本人は気付いていないだろう。いや、科学では、まだまだ気付けない段階。昆虫などが使っているフェロモンではない。

生物の精神に作用するタイプ。普通のフェロモンは動物的な部分に作用するから、此処から違う。

人間に希にいる、精神から漏れ出るフェロモンが異常に濃いタイプなのだ。

世の中には、理由も無く異常にもてる奴がいるが、これなんかは典型例だ。この弘庸は、実の母親さえもその異常フェロモンで狂わせ。

結果、独占欲を誘発した。

あまりにも異常すぎる閉鎖空間に、母親が弘庸を閉じ込めたのは、それが理由であろう。父親もフェロモンにやられていたから、何も口出しをしなかった。或いは、弘庸を独占できているという事が、喜びを刺激していたのかも知れない。

しかもこのフェロモン。

老若男女関係無しに作用する。

タチが悪いことに、性的な興奮を促すタイプのフェロモンではない。そいつを守りたいと周囲に錯覚させるタイプのものだ。

先祖返りなのか、何なのか。よく分からないけれど。

昔の英雄には、こういったフェロモンを持つ奴が、希にいた。英雄に人々が従った理由が人徳などと言われながらも、本人はいたってクズ、という史実があって。そういうとき、後の歴史家達は、何故その英雄は人々を従えることが出来たのかと、首を捻る。そして、必死に合理的理由をでっち上げる。

彼らは信じたくないのだ。

女王蟻に働き蟻が従うようにして。人間が、盲目的に従ってしまうタイプの相手がいると言う事に。

弘庸の場合は、異常だ。

密度が濃いというのではなくて、保護欲を刺激するのである。だからそれはカリスマとは、少し違う。

周囲を異常者に変えていくフェロモン、とでもいうのだろうか。

それに此奴自身が、空っぽの自分を満たすため、強烈な闇を抱えてしまっている。外側の殻を内側から支えているものこそ、闇だ。

それの濃度があんまりにもあんまりだったので、げっぷしたのである。

「まずいな」

「それでも、闇は闇でしょう」

「百倍に濃くしたコーヒーを、砂糖もクリームも無しで飲んでいるような感触だ」

紅茶をくれと言うと、無言でアモンは代わりを出してくれた。

しばし口直しをする。

それにしても、此奴は。このままだと、碌な人生を送らないだろう。元々中学生くらいまで、家に軟禁されていて。

それから社会常識に触れたから、あらゆるものがずれている。

大学に入っても、フェロモン体質に頼りっきりで乗り切っている。元々の能力は決して低くないのに。

このままでは、周囲の好意にひたすら甘え。

自分では努力の一つもせず。

だらだらと、ただなるようにしてなるように時を過ごし。

そして何ら中身もない人生を、無駄に過ごすことだろう。

本人がそれで良いと言うのなら、良いのかも知れない。

だが、本人がそれを嫌がっている。だから、こんな所にまで来た、と言うわけだ。

「まずかったけれど、対価は対価だ。 アモン」

「そうですねえ」

「悩むか」

「アガレス様だって、悩んでいるじゃないですか」

にこにこしているアモン。アガレスも、苦笑いを浮かべてしまう。

此奴は正直な話、極めて難題だ。

そもそも殻を壊すという手が使えないのである。此奴の人格は、空虚な中身を形作る殻にへばりつく形で、かろうじて存在している。

もしも殻を破ったりしたら。

待っているのは、針を刺された風船と、同じ運命だ。

悩んだ末に、持ってこさせる。指を鳴らして、弘庸を起こすと。奴は、頭をふりふり、体を起こした。

「あー」

「起きたか、空っぽ」

「……君は。 そうか」

「中一くらいまで閉じ込められていた妙な部屋と、それから外の世界で無理矢理作らされた心の殻。 お前は空っぽと言うよりも、空っぽの内側を抱えた風船なのだ」

どうやら、ようやく自分がどういう存在か、弘庸は理解できたらしい。決して理解力は低くないはずだが。

人間は基本的に、分析を自分に行ったりしないものなのだ。

うつむいて震えている弘庸。

空っぽと言うよりも、単なる風船だったのだと知って、心が痛んでいるのか。

違う。

痛む心なんて、最初から無い。

ロボットの方が、まだマシかも知れない。周囲から異常に好意を寄せられ続けると、何の中身もない人間が出来る。

実例を見た事はあまりないけれど。

アガレスも、こうして実例に触れたのだ。温室栽培などというものが、少なくとも人間にとってはろくでもないことは、よく覚えておくべきだろうと思う。

なおかつ、何かの漫画の主人公のように、周囲から一方的に愛されるというのも、同じように駄目な人間を作るだけだろう。

クズを作るには、酒と女をふんだんに若いころから与えておけば良いという話があるらしいが。

この男は、それとは少し違うが。同種だ。

いにしえの時代、宦官が権力を握った地域があったが。そのような国では、人為的にこの弘庸のような輩が作り上げられていった、という事なのだろう。

弘庸の場合は、あくまで天然物だけれど。

だが、それが故に。実の両親までもが、フェロモンにやられて、目をくらませてしまったのだ。

「俺は、そんな異常体質、だったのか」

「そうだ」

「フェロモンを抑える方法は、ないのか」

「今更周囲が普通に接しても、お前は耐えられんぞ。 元々内側の空虚さと、外側からの好意が引っ張り合って、かろうじて殻が出来ている状況だ。 そしてその殻にこびりつくようにして、お前の人格は成り立っている。 殻が破れれば、死ぬだけだな」

これは文字通りの意味だ。

心が完全に死ねば、人間は生きる意欲を完全に喪失する。そうなると些細な病気でも、大病へと変化していくのだ。

結果、何が起きるかは、言うまでも無いだろう。

アモンがはしごを下りてきた。手にしているのは、さっきアガレスが指定したものだ。

混乱している様子の弘庸に、顎をしゃくる。あれをくれてやる。今後どうするかは、お前次第だと。

アモンが宅配業者の所に行くのを見届けてから、弘庸を帰らせる。

大きく嘆息すると、アガレスは机に突っ伏した。

今回は気分が非常に悪い。

胸焼けするほどにまずかったというのもあるのだけれど。

あの風船男。多分、高確率で、道を踏み外す。対価をくれてやった奴が破滅しようがどうしようが知ったことではないけれど。

それでも、多分どうしようもないだろうとわかった上で対価をくれてやるのは、気分が悪かった。

 

4、殻と針

 

気がつくと、弘庸はアパートの前に立っていた。

携帯には、友人達からの連絡がある。

みな、心配しているようだ。

返事をしておく。アパートに入ると、横になって、ぼんやりと天井を見上げる。何だか、体の中身が、空気になった気分だ。

お前は風船だ。

そうはっきり言われた。

どこかで、わかっていたのかも知れない。自分は風船も同然の存在で、人格と呼べるものも外側に張り付いているだけの代物。

周囲に異常に寄せられる好意も、明らかな体質的なものであって。

自分が何かしたから得られたものでもなく。

ましてや、一種の呪いのように、いずれ自分をむしばんでいくものだということも。

何もかも、言われてはっきりした。

心に滑り込むようにと言うのは変だけれど。すんなりと、理解できたのである。反発もない。

言われるまま、その通りだと思ったからだ。

どうして母は、あのような部屋に弘庸を閉じ込めたのか。

父は何も言わなかったのか。

親戚達は、どうして弘庸を遠ざけたのか。

友人達は、何故弘庸に、こうも好意を寄せてくれるのか。女子にもてると、勘違いしているのか。

全ての謎は氷解した。

そして、むなしさに、吐きそうである。

一体人生とはなんだろうとさえおもう。これからもこのフェロモン体質に振り回されて、一生を台無しにするのか。

そもそも、一生とは何かさえも、よく分からない。

この体質を前向きに使えば、人生はさぞや楽になることだろう。面接にいけば、大概の会社は入れてくれる。

そして弘庸でも知っている事だが、今の企業は、コミュニケーション能力とか言う主体性の無いものしか要求しない。

どんな仕事も、それさえあれば乗り切れる。

弘庸の体質は、周囲が勝手にコミュニケーションとやらの便宜を図ってくれるという呪いに近い代物だ。

だから、社会人としては、これ以上もないほどスムーズにやっていける。何一つ問題が無いまま、妻を迎え子を造り、老後を迎えることが出来るだろう。

拳を作る。

あのアガレスという子供に、怒りは感じない。

感じるのは、自分という存在だ。

風船でしかない自分。中身を作ろうにも無理と宣告されてしまう。それならば、より巨大な風船になって行くしか無いのか。

それならば、どうすればいいのか。

 

翌日。

大学に出向いて、授業を受ける。

頭に内容が入ってこない。

それだけ、事実を知ったことは衝撃となって、弘庸を打ちのめしていたのだ。いや、事実を知ったというのだろうか。

むしろ、事実を突きつけられたと言うべきか。

しかもそれは、自分でも目を背けていた事実だったから、被害が大きくなったのだ。

お前は空虚な風船だ。

そういったアガレスに、悪意はない。単に事実を言っただけ。それをわかっているから、誰も憎めない。

授業が終わった後、美味しくもない学食で、適当に昼を済ませる。

「おーい、ノブー」

向こうから友人達が来る。

何か授業を受けていたのだろう。ルーズリーフを抱えている生徒が目だった。ただ、授業で寝ているだけの奴もいるはずだ。

周囲にわらわらと座る。

此奴らが、真実を知ったら、どんな反応をするだろう。

あの店では、何かを手に入れる前に。自分が何者かを、徹底的に暴かれる。それに此奴らは、耐えられるのだろうか。

無理だろう。

奴隷が欲しいとか馬鹿な事をいっていた奴らだ。彼処に行こうものなら門前払いか、或いは徹底的に心の闇を暴かれて、その場で憤死するだろう。

彼処は地獄だった。

「そういやノブ、お前店には行ったのか」

「いいや」

「だろうな。 都市伝説は都市伝説だよな」

真実は言わない。

友人と慕ってくれている奴らに、彼処の真実なんて告げても、仕方が無いと思うからである。

彼処のことは、胸の奥に締まっておけば良い。

昼食を済ませた後、授業を終えて。アパートに戻ると、大きな荷物が届いていた。抱えて中に入ると、何だか中に大きなものの存在を感じる。

蓋を開けてみる。

背筋が凍るかと思った。

其処にあったのは、手。

いや、本物の人間の手ではない。マネキンのような素材だ。

箱から取り出してみると、他にも人間の部品のようなものが入っている。多分全体的に大きさを見る限り、女か子供だろう。

着せる服は一応入っているけれど。

人形と言うべきなのだろうか。

それの体はつるんとしていて、性別はつけられていないようだった。

説明書が出てきたので、見る。

組み立て方しか載っていない。

見ると電子部品もある。

マネキンの顔部分は、当然人形のように整っている。電子部品もコードなどは必要ないのかと思ったら、違う。

コードと接続可能なバッテリーが装着されているようだ。

詳しい友人を呼ぼうかと思ったが、止める。

これはおそらく、アガレスからの贈り物だ。闇に対する対価、というやつだろう。

それならば、自分で組み立てるべき。

そう弘庸は判断した。

黙々と、説明書に沿って作り始める。

部品自体はそう多くもないから、さほど時間も掛からないかと思ったけれど。電子部品の扱いが難しい。

電源を入れれば、すぐ動く、などと言うことも無い。

電力消耗がそれなりで、バッテリーをすぐに稼働させることも出来ないという。電気代が、掛かるかも知れない。

ただバイトをしていて、資金そのものは潤沢にある。

ちょっと電気代が増えたくらいなら、大丈夫だ。

気がつくと、夜中。

一端作業を中止して、残りは明日に廻す。

翌日も、作業をしたが、結局終わらなかった。

作業が実を結んだのは、一週間後。

その時には、何ができあがったのか。説明書を何度も何度も読んだからか、理解できていた。

試作品の、家庭介護用ロボットだ。

人格などあるはずもない。単に家庭内の状況を把握して、家事をしてくれるだけの存在。性別を排除したのは、恐らくはフェミ団体の抗議を怖れてのことか。漫画なんかでは、この手のロボットはセクサロイドを兼ねている事が多いようだけれど。このロボットには、そんな機能はない。

二足歩行もふらふら。

大手企業が発表しているロボットのような滑らかな動きなんて、とても出来ない。大きさも、130センチほど。

表情もないし。あまり出来が良いロボットだとは思えない。

しかし、動かしてみると。

案外悪くないことがわかってきた。

放置しておけば、洗濯も食事の準備も済ませてくれる。訪問販売も、しっかり断ってくれるのだ。

台を使って手が届かないところにあるものを取る知恵も持っていた。元々付属品としてあった台は、こうして使うのかと、感心してしまったほどである。

無表情なのも、少しすると改善してきた。

ネットワーク上からデータをアップデートしていると説明書にあったけれど。最初は病院食みたいだった食事も、少しずつ美味しくなっていることがわかってくる。

それに、文句も言う。

「弘庸様」

「何だよ」

「野菜が足りません。 私は外出できませんので、買ってきていただけませんか。 材料が足りなければ、料理がそもそも作れません」

「肉が食べたい」

文句を言うけれど、頑として聞かない。

栄養のバランスが取れていないというのだ。此処は野菜を取らないと、体を壊すのだと、メイドは言う。

渋々ながら、家の外に出る。

それで、気付く。

此奴は、弘庸を甘やかさない。周囲みたいにダダ漏れの好意をただ叩き付けてくるのじゃない。

人間じゃないから、きっとフェロモンが通じないのだ。

少し気分が上向いてくる。

人間じゃないのなら、或いは。

弘庸のことを、客観的に。的確に、理解してくれるのかも知れない。

人間は駄目だ。

実の両親でさえ、弘庸に対する視線を、フェロモンが故に歪ませた。一挙一動を好意的に解釈し、何から何まで歓迎した。

もしもメイドが、機械で出来ていなかったら。

此奴も他と同じように、弘庸に接してきたことは疑いない。

或いは、普通の人間は。弘庸の環境を羨ましいと思うかも知れないけれど。実際に体験してみると。

いや、状況を自覚してみると。

これは地獄以外の何物でもないと、結論できるのだった。

野菜を適当に買って帰る。

そう言うことを繰り返している内に、野菜の見極め方も、少しずつわかるようになってきた。

スーパーなどでの半額セールの時間も、理解するようになってきた。

メイドが提示してくるのだ。

今の時間は何が半額だ、と。

これは、おそらくオンラインから情報を仕入れているのだろう。弘庸も実際に半額なのを確認しているから、言われるまま動いて買い物に出向くのだった。

勿論学業も、少しずつ身が入るようになってきた。

大学の授業なんて、単位さえ取得できればどうでもいい。そう考えている周囲の者達が、阿呆に見えてくる。

結構役に立つ内容が、授業では行われているのだ。

きちんと授業を受けて、単位を取得して。

ゼミにも足を運んで、しっかりレポートを書く。

来年は、就職活動で忙しくもなる。

だから、今のうちに、やれることは全てやっておかなければならない。叔父達が、いつまで支援してくれるかも、わからないのだから。

 

大学の四年になった。

ゼミの連中は、教授も含めて、相変わらず弘庸をベタベタに甘やかしてくる。何もかも諸手を挙げて賛成してくれるし、教授に到ってはレポートについて、懇切丁寧に指導してくれるほどだ。

フェロモンの作用である事は間違いない。

言われて見てようやく理解できてきたのだが。誰も彼もが、弘庸を見る目がおかしいのだ。

他の人間を見る目と、明らかに違っている。

就職に関しても、ダメ元でかなりランクが高い会社を受けに行ったら、案の定面接で相手が同じ目をしていた。

書類さえ通れば、これは何処の会社でもあっさり入れるなと、弘庸は判断した。

だからこそ。

人間には、どんどん興味が無くなっていった。

アパートに戻る。

黙々と働いていたメイドが、此方に振り返った。笑顔はまだまだぎこちない。髪だって伸びないし、服もいつもと同じ。

何着か着替えはあるのだけれど。

おしゃれをするという概念が、当然無い。機械だから、である。

ただ、アップデートしていく内に、或いはそういう概念も備わるかも知れない。服が欲しいと行ったら、弘庸は買い与えてやるつもりだ。

何度かアパートに来た友人が、不気味そうにメイドを見ていたので、不愉快になった。

歩き方とかが気持ち悪いというのだ。

便利だと言うけれど。

俺はいらないと、来た全員が口を揃えていた。

大事なものだから、興味も出る。

調べて見たのだが、この介護用ロボット、何処の企業のものでもない。恐らくは、個人製作の品だ。

近年はロボットの製作技術がどんどん上がって来ていて、小型の二足歩行ロボットくらいならありふれていると知っていたけれど。

これは技術が桁外れだ。

もしもこんなものを持っていると知ったら、研究者が大挙して押し寄せるのではないのだろうか。

新情報がどんどんアップデートされているという事は、作り手はまだ生きているのかも知れない。

会ってみたい。

しかし、何処の誰かさえもわからないのが、問題だが。

「弘庸様」

「どうした」

「授業の時間です」

「そうか」

触ってみても、機械だから質感が悪い。

硬いのだ。

人肌ではないし、温かくもない。

心も備わっていないし、冷たい。

だが、それが弘庸には、却って有り難い。促されるまま、授業に出る。電気代も、思ったほど掛かっていない。どうやら状況によって省電力をするらしい。もっとも、電気代が例え倍になったとしても、弘庸はこのメイドを使い続けただろうが。

大学に出る。

ゼミの友人の一人が、早速話しかけてきた。

「なあノブ」

「どうした」

「あの気味が悪いメイドロボ、まだ使ってるのか」

「非常に役に立つからな」

渋い顔をする。

弘庸に対して、渋い顔をしているのではない。メイドに対して、渋い顔をしているのだと、一発でわかる。

気分が悪い。

「そもそも、あれって何処の会社のものなんだ」

「叔父のつてで手に入れた。 カスタマイズ品らしい」

「あれなら、丸っこいのとか、虫型のとか、そういうののがマシな気がする」

多分此奴が言っているのは、不気味の谷のことだろう。

前より大分表情などが改善してきているが、皆が口を揃えているという事は、顔などが相当に怖いと言うことなのだろう。

別にどうでも良い。

実際便利だし。此奴らのように、弘庸をフェロモン越しに見ないからだ。それだけで充分である。

友人がいようがいまいが、メイドは関係無しに振る舞っている。

黙々と洗濯をし、掃除をする。動きは人間の使用人に比べると遅いかも知れないが、弘庸がくらすこの小さなアパートの家事をするには充分だ。

或いは一軒家では少し速度が足りないかも知れない。

しかし、此処ではその心配もない。

「何だかお前、変わったよな」

「そうか?」

「ああ。 その気色悪いロボットが来てから、俺たちとあんまり関わろうとしなくなってきたような気がする」

「……」

そういえば。

一つ気になる事がある。

メイドが来て。機械的に、客観的な視点で弘庸と接してくれるようになってから、なのだけれど。

何人か、姿を見かけなくなった。

今まで、友人が弘庸の所に来るときは、必ず数人連れ立っていたのだけれど。その人数が、半減した気がするのだ。

敢えて、此処でその話はしない。

メイドが茶を淹れてくれた。

特に文句も言わず。友人は飲み干した。

 

気になったので、大学の名簿を取り寄せてみる。

名前も知らない友人も多かったのだけれど。違和感が、少しずつ現実のものとなっていく。

一応名簿だから、写真も載っているのだけれど。

やはり、消えた友人達の姿が無い。他の大学に通っている可能性は考えられない。理由は幾つかあるのだけれど、そろって授業を受けているのを見た事があるからだ。

「如何なさいましたか」

「……なあ、この間だけれどさ」

日付を告げて、何人が遊びに来たか、聞いてみる。

メイドの答えは、二人。

その日、弘庸は、四人遊びに来たと記憶している。

しかし機械が嘘をつくはずもない。つまり、二人しか、遊びに来ていなかった、ということだ。

背筋を寒気が這い上る。

今まで、弘庸は何を見ていた。

今まで見ていたのは、本当に人間か。いや、幽霊などを見るはずが無い。だが確かに、考えて見ると。

何人か、様子がおかしいのがいたかも知れない。

あれは、何だったのだろう。

弘庸にとって、周囲にいた人間の何人かは。

幻覚だった、というのか。

考えられる話だ。

頭を振って、今までの記憶を、少しずつ整理してみる。思えば、学校に通うようになってから、既におかしな事はあったのだ。

フェロモン体質の事もあって、周囲に人間が集まってくるのは、当時から同じだった。教師達でさえ、弘庸を甘やかした。それこそ、ベタベタというレベルで。

しかし、生徒達の中には、反発する奴がいてもおかしくない。

「なんで、だれも俺を、憎まなかった」

違う。

如何にフェロモン体質だとしても、様子がおかしかった。

あまりにもおかしな環境だったから、気付けなかったのだ。周囲の人間が、頻繁に入れ替わっている、という事に。

そしてその入れ替わっている人間達は。

「最初から……存在しなかったのか」

呻きながら、頭を抱える。

そうか、わかってきた。

現実を、歪んで認識する事で、過負荷を遙かに超えていたストレスを、緩和していたのか。

嫌う奴はいないことにして。

自分を好きな奴だけを、周りに認識して。

更にその数を増やす。

そうすることで、今まで虚無に生きてきた弘庸は、人生を謳歌する、という路を選んだのだ。

ふと、メイドを見る。

今まで好ましく思えていたのに。急に無機質な存在に変わったような気がする。世間に存在する介護ロボットより数段優れている存在である事は、今でも変わらない。しかし、少しずつ改善していた表情が。

また、無機質に変わってしまっている。

能面のような顔。

それだけじゃない。

動きも、非人間的だ。黙々と掃除をする後ろ姿を見て、弘庸はゲジゲジが動いているような、そんな印象を受けた。

悲鳴を飲み込む。

此奴は何一つ、悪い事なんてしていない。

むしろ弘庸に、現実を認識させてくれた、大事な存在だ。それなのに。どうして、ものを客観的に見ることが出来るようになった途端に。

不気味の谷が、弘庸の心にも、しみこみはじめるのか。

必死に呼吸を整えると、アパートを飛び出す。

大学を見上げると。

いつもとは違う印象があった。

こんなに朽ちた場所だったか。三流の大学であるのは前から同じだけれど。以前よりも、遙かに灰色で、何もかもが沈鬱としている。通っている学生達だって、認識していたより、ずっと数が少ない。

違う。

今まで弘庸は、ずっと自分に都合良く、世界を認識していただけだ。

罅だらけの校舎。

汚らしい施設。

それだけじゃない。生徒達も、三流の大学に仕方が無く通っていると、顔に書いている。

こんな場所で。どうして無駄に時間を過ごさなければならないのかと。彼らは口に出したがっている。

馬鹿な。

確かに今まで通っていた校舎でも、三流の大学だと言う事はわかっていたけれど。此処まで世界は倦怠に満ちていたか。

そうだ。

少しずつ思い出してくる。

何もかも、見ないふりをしてきただけだ。

都合の良い認識を現実に押し被せて、何もかも自分が生きやすいように世界を脳内でだけ塗り替えていた。

本当は、何処かでわかっていた。

そして、今なら理解できる。

こんな弘庸だからこそ。

悪魔の店に足を踏み入れる事が出来たのだ。

「おい、ノブ」

友人の一人が、声を掛けてきた。

怪訝そうにしている彼は。名前を認識できるけれど。顔中あばただらけで、認識とは姿形がずれていた。

客観的にものをみるだけで、こうも現実は変わってしまうのか。

「何だよ。 俺がどうかしたか」

「いや、別に……」

「おかしな奴だな」

友人が行くと、後はもう我慢も出来なかった。

逃げ出す。

脱兎のごとく。

何もかもが歪んで見えた。

辺りはシャッターが降りている店ばかり。看板はすすけていて、破けているものまであった。

電車に飛び乗る。

真っ青になっている弘庸に、声を掛けてくるものは誰もいない。

 

アガレスの元に、アモンがペーパー紙を持ってくる。

一目して、やはりそうなったかと、アガレスは呟いていた。

大学生、自殺。

二十階建てのビルから飛び降り。

何でも地元では噂の、人望の厚い男であったらしく。周囲は何故彼が死んだのかわからないと、口々に言っていたと言う。

幼少期の虐待については、触れられていないが。

捜査の手が伸びるのも、時間の問題だろう。アガレスはやれやれと呟くと、アモンに、介護ロボットの回収を命じた。

弘庸に渡してやった介護ロボットは、見かけが気持ち悪いという理由で、廃棄処分にされたプロトタイプ。

機能は充分に備わっていたのだけれど。ただそれだけの理由で、世に出ることも無く、量産されることもなく。廃棄された、悲劇の中間機だ。しかも組み立ても簡単だった。あらゆる意味でハイスペックな品だったのだけれど。

見栄えで全てを判断する人間には、使いこなせなかった品だった、という事だ。

いずれ機能も優れ、見栄えも良い後継機が出回るだろう。

ただ、弘庸は。

あの青年が、世間の認識を正常に出来ていなかったことは、アガレスにもわかっていた。

敢えてそれは口にしなかったのだけれど。

「何だか彼は、口当たりが良い世界だけに包まれた物語の主人公のようでしたね」

「そうだな……。 だがそういう存在は、おそらく世界そのものがもたらす歪みで、周囲にまで悪影響を与える。 ジャンクフードやスナック菓子ばかり食べていたら体を壊すのと同じ事だ」

アモンが、メイドロボットを回収してくる。

メモリを確認すると、更にため息が漏れるような記録が残っていた。

現実を正確に認識するまで。

弘庸は、この不気味で気持ちが悪いと散々酷評されたメイドロボットを、絶世の美少女だと認識していたらしいのだ。

性別さえ本来は設定されていないのに。

いや、メモリをたどっていくと、最初は無性別の無機質と認識していたようなのだが。

徐々に好ましいと、認識をすり替えていったらしい。

アップデートされていたのは、あくまで機能だけだったのに。表情が柔らかくなったとか、ありもしない事を考えていたようなのだ。

「お前の主人は、気の毒な奴だったな」

小首をかしげるメイドロボットの時を、指を向けて止める。

次の主人が現れるかはわからないけれど。

もはや、其処に生きるべき時は存在しなかった。

異常なフェロモン体質が産み出した悲劇は。

最後に、自分自身の頭を飛び降り自殺で砕く事でしか、終わらなかった。

誰か一人でも、フェロモンに屈せず、ごく当たり前に弘庸に接していれば。少なくとも、もっと幼い頃にそうしている者がいたら。

あの青年は、何か後の時代に、大きな影響を与えていたかも知れない。

アガレスの前に、どんと積み上げられたのは、ゲームの説明書。いずれもよれよれになっている。

これを修復しろという訳か。

ため息をつくと、仕事に取りかかる。

人間の社会は、まだまだ闇に満ちている。

それを食事として摂取するには。まだ仕事が足りない事はわかっているのだ。

さぼりたいけど、これでは当然アモンが許してはくれないだろう。

小さくあくびをすると、アガレスは。

次の獲物から闇を喰らうべく、仕事に取りかかったのだった。

 

(続)