狂拳の揺らぎ

 

序、爪痕

 

ぼんやりと空を見上げる。

其処に浮かんでいるのは、小さな月。どうしてだろう。昔はもっとずっと大きかったように思うのに。

目が悪くなったのか。

どうしだろう。

手にしているのは、銅剣。

土から掘り出した、昔の剣。刀とは形状が違っていて、今では人なんて、とても殺せそうになかった。

体に浴びているのは、たっぷりの血。

父も母も殺された。

借金があったから。

金を返さない奴は殺していい。

そういう理屈の元に、殺されたのだ。

私も、売り飛ばされるところだった。別の国に。其処で一生、奴隷として過ごすのだと、今死んだ奴が、言っていた。

別に、私が殺したわけじゃない。

何が何だかわからないけれど。武装した人がたくさん来て、一方的に殺していった。一方的に殺されもした。

最後の一人ずつは相打ちになった。

血だらけで月を見たまま突っ立っていると。

サイレンの音が、遠くから聞こえてきた。

それで、ようやく。自分が港にいて、潮風を浴びていることに、気付いたのだった。

 

今は、その事件の真相を知っている。

北九州で起きた、暴力団同士の抗争。闇金を資金源としている暴力団員が、私の両親と、私を拉致。

内臓を売るという目的で、私の目の前で両親を殺した。

両親は借金があって。しかもこの暴力団は警察に顔が利くとかで。平然と、殺しをした。暴力団なんて、そんなものだ。

殺している様子も、映像に収めていた。

スナッフムービーとして売るつもりだったのだろう。

私も、その場で強姦されたあげく、海外の富豪に売り飛ばされる運命だったのだろう。

だが、その時。

対立組織の暴力団員が、殴り込みを掛けた。その場で壮絶な銃撃戦になり、十人以上が死んだ。

私はどうしてだろう。

血みどろの中で、生きていた。

襲撃側も、された側も、全員が死んでいたのに。

警察に保護されて、話をした。闇金に借金の取り立てで、両親が殺された。彼らは警察のえらい人とつながりがあって、殺人くらいなら逮捕されないって言っていたって。全て、聞いた話を言った。

警察は、話を聞きもしなかった。

具体的に、どの警官と結託しているかという話もしていた。名前も覚えていたから、それも全部言った。

勿論、その話も無視された。

今になって思うと、そんな話、聞かれるはずも無い。子供の発言には、実効がないのである。

錯乱しているとされた私は、精神病院に放り込まれた。まだ十歳だったのに。おそらく、私が名前を挙げた警察キャリアの手によるものだろう。勿論、精神鑑定で異常なんか出るはずも無いのに。

一年以上精神病院で過ごした。

それから孤児院に入れられた。

孤児院でも、院長に起きたことを話したけれど。信じてなどは貰えなかった。きっと、余程あの事件は、闇が深かったのだろう。

後で調べたけれど。

マスコミも、銃撃戦があった事だけ報道していた。私の両親が殺されたことは報道されず、単に暴力団関係者が殺されたとだけあった。

私も、暴力団関係者というわけだ。乾いた笑いが漏れてくる。

今の時代、金貸しはどうしてか、世界からとてもよく見られている。

理由はわからないけれど。

父母は別に、ギャンブルで借金をしたのではない。慎ましく事業をしていたけれど。社会の流れで、借金が増えていって。そしていつの間にか、利子さえ払えない自転車操業になっていただけだ。

返せない方が悪い。

返さないのだから、何をしても良い。

そんな理論で、金貸しの行動が全て認められた。私がたまたま海外に売られて、変態になぶり殺しにされるか、臓器を取り出されて海に捨てられなかったのは。運が良かっただけだ。

かくして。

成人したころには。

私の心は、荒みきっていた。

 

日本に帰ってきた私は、さっそくアパートを借りる。

足など付けるつもりはない。単なる拠点として用いるのだ。帰ってくるまでに、既に調査を終えている。

フランスの外人部隊で勤めて、戦闘経験はしっかり身につけてきた。彼方此方に派遣されて、実戦も散々経験した。

相手は此方を人間だと思っていない狂信者達。

殺戮し殺戮され、散々血を浴びる過程で、感覚は麻痺していった。だが、どうしてだろう。

ある程度殺して勲章を受けたころには、殺す事は平気になっていた。

これから、復讐をする。

いろいろな手段で持ち込んだ銃器が、既に届いている。宅配でばれないように、様々に分解して、持ち込んだものだ。

殺すターゲットは、全部で十三人。

二人は闇金関係者。

三人はその家族。

此奴らは言うまでも無く、私の両親を殺した奴らだ。しかも此奴らによる借金は、後で調べて見たが、殆ど詐欺同然の手法で、両親に追いかぶせられていた。

弱い奴は死ね。

そういう理屈を振りかざすなら、これから弱い此奴らを虐殺する。ただそれだけのことである。

因果応報。

やられたことを、そのまま返すだけのことだ。やられっぱなしでどうしていてやるものか。

此奴らの金で肥え太った家族も、一切許すつもりはない。

消す。

二人は、警察関係者。

北九州の県警で、上位に昇り詰めているキャリアだ。

資金源は言うまでも無く暴力団とのコネ。暴力団に情報を流す見返りに金を受け取り、それを出世に生かしてきたクズ共。

此奴らが、両親の死を間接的に作った。

更に此奴らの家族四人。

此奴らも、同じ理屈で消す。生かしておく理由など、ただの一つだって無い。今でも此奴らは、弱者の生き血を啜って、のうのうとしているのだ。

ただ、日本の警察は、他の国に比べればこれでもマシ。

此奴ら以外の警官は、出来るだけ消さないように工夫はするつもりだ。まあ、あくまで出来るだけ、だが。

そして残る二人は、この北九州に巣くっている、暴力団のトップ二人。対立組織のボス達である。

勿論、言うまでも無く、両親を殺した間接的な原因。その主要な存在だ。

此奴ら全員に共通しているのは、弱者をなぶり殺しにしながら、自分たちの金を作ってきたと言うことだ。

それならば、今度は弱者に転落して、なぶり殺しにされるが良い。

勿論、楽になど殺してやらない。

ヘッドショットなどするつもりはさらさらない。肺を撃って、可能な限り苦しめながら殺すつもりだ。

バッグから取り出した銅剣。

たまたま両親が、発掘現場ツアーで掘り出したもの。

今はコレが、唯一の形見となってしまった。だから、触っていると、とても落ち着く。外人部隊で苦労を重ねながら、これを触るときだけが、心の安らぎになった。

さて、はじめよう。

軍用のスナイパーライフルをくみ上げる。

今の腕前なら、八百メートル先からの狙撃も成功させることが出来る。

それに手榴弾。

コンバットナイフ。

拳銃四丁。

弾は合計五百発。これについては、北九州で、現地取得することも可能だ。

足など掴ませない。

ついでだから、暴力団の屋敷にいる人間は、女子供も関係無しに皆殺しだ。生かしておく理由も無い。

そして今の私は。

人間を殺す事に、躊躇など一切無かった。

装備を確認し終えると、アパートを出る。懐かしい日本語が行き交う街の夕暮れに、私は消える。

作戦案は、日本に来る前に練り上げきっている。

全てが終わった後も。

足などは、掴ませない。

 

1、嵐の北九州

 

アガレスの所に、アモンが新聞を持ってきた。

珍しく。ペーパー紙に、他の地域のニュースが載っている。それだけ話題になっていると言うことだ。

北九州で、連続殺人事件。

闇金関係者が、家族ごと立て続けに殺された。その後、暴力団関係者。特にある暴力団組長は、屋敷にいた関係者事、皆殺しにされたという。

一連の事件で警察は犯人の足取りを追っているが、尻尾を掴むどころか、人物の特定にさえ到っていない。

しかも手口が完全にプロのもの。

殺された人間、特にターゲットと思われる者は肺を撃たれているのだが、狙撃距離は500メートルから800メートル。

軍で現役のスナイパーをしている人間でさえ、限界という距離だ。

しかも弾痕を調べる限り、登録されている猟銃などではないという。

「これはまた、物騒なニュースだな。 この国では珍しい」

「数十年前の、戦後の混乱期は、過激派が彼方此方で暴れ回っていたのですけれどね」

「あの頃はまた、闇の性質が随分違ったな」

アガレスにとって、懐かしい昔、という程度の話だ。

ただ、その頃は、まだ日本に定住はしていなかった。たまにアモンと一緒に来ては、めぼしい闇を啜っていた程度の関係だった。

日本に定住するのには色々と理由があったのだけれど。

今は、もう関係が無い話である。

小さくあくびをするアガレスの所に、どんと置かれるのは、分解された狙撃銃である。軍用のものだ。

「これはまた、使い込まれているな」

グリップにきざまれた名前を見て、納得する。

なるほど、使い込まれていて当然だ。

かって、北欧に、史上最強と謳われたスナイパーが実在した。その人物の名が刻まれていたからである。

勿論彼は、ずっと同じライフルを使っていたわけではない。

これは戦禍で失われたものの一つである。

「よく見つけてきたな」

アモンが、にこりとした。

此奴は、本来は失われた銘品を、拾い上げてくるスキルを持っている。今回もそれを使ったのだ。

アカシックレコードに対する限定介入で、ものの残骸がある場所を洗い出す。

そして、実際に空間転移を用いて足を運ぶ。

最後に、残滓を集めて、戻ってきて。自分の手で、形がある所にまで、修復を進めていく。

そして、アガレスの所に持ってくる。

アガレスは、その残骸を、修復して。在りし日のクオリティにまで、復活させるのである。

勿論アガレスも、銃火器の修復は、したことがある。

黙々と修復をしている内に、アモンが新しいペーパーを持ってきた。一段落したところで、目を通す。

今度は警官一家惨殺だという。

手口は同じ。

明らかにプロの仕業と言うことで、北九州では厳戒態勢が敷かれているそうだ。

「それにしても、家族ごと皆殺しか。 余程恨みが深いのだな」

「この国は比較的穏当な社会のルールがありますけれど、それでも弱者を踏みにじって生き血を啜る連中はいます。 踏みにじられた弱者が、恨みを抱くのは当然のことでしょうね」

「はっきりいって、人間の方がよほど悪魔らしいわ」

人間は、悪魔を邪悪の権化と設定しているけれど。

実際には、人間の方が、余程邪悪さでも残虐さでも、悪魔の遙か上を行っている事の方が多い。

嗜虐的思考に沿って同族を殺すような真似は、流石に悪魔もしない。

だいたい仕上がった銃を手渡す。

アモンはしばらく構えたり操作したりしていたが、満足げに銃口を下ろした。此奴は元々戦闘タイプ。銃の扱いもお手の物だ。

「見事な調整です。 これならば、かの狙撃手も満足するでしょう」

「当たり前だ。 私を誰だと思っている。 それより、な」

「わかっています」

うずうずしているアガレスの所に、クッキーが山盛りで出てくる。

口に入れると、素晴らしい食感と甘さだ。思わず笑顔になって、クッキーをみんなむしゃむしゃ食べてしまう。

満足したアガレスだけれど。

皿を下げられて、とても嫌な予感がした。

どんと机に載せられたのは、さらなる銃。

どうやら、アモンは今日も、アガレスに楽をさせるつもりは、さらさら無いようだった。

 

夜は寝る。

朝は起きる。

何も無い空間だと、これをするのが苦痛になる。

アモンに起こされて、朝ご飯を食べて。仕事をしている内に、いつの間にか昼が過ぎている。

以前は徹夜もへっちゃらだったのだけれど。

体がこんな風になってしまってからは、アモンにさせて貰えない。これも戦いの結果だし、死んで呪いを受けたのだから、どうにもならない。

本当にもう。

迂闊に負けた自分を、何度叱責したことかわからない。

勿論呪いを解除する努力は続けているが、魂にまで染みついた呪いだ。解除するには、後何百年掛かるか、知れたものでは無かった。

ここ数日、アモンは新聞の影響か、銃火器ばかり持ってくる。

いずれも、なのある狙撃手が使っていたものばかりだ。中には、百年以上前に作られた、最初の狙撃銃もあった。

最初の狙撃銃は非常にお粗末な代物で、単にスコープを精度が良い銃に付けただけ、というもの。

勿論大した距離を狙うことは出来なかった。

ただこんな時代にも、長距離を狙い撃てるプロフェッショナルはいた。たまに人間の中には、本物と呼べる本職が現れるものなのである。

十丁ほど片付けた後だろうか。

ようやく、アモンが甘い物を持ってきてくれた。同時に、ペーパーも。

警官の一家がもう一つ皆殺しにされた後、不意に連続殺人事件が止まったという。

勿論警察は血眼になって犯人を追っているが、全く足取りが掴めていないという。狙撃地点などにも残留物は一切無し。

本物のプロの仕業だ。

「これは多分、軍の特殊部隊か何かの仕業だろうな。 それも日本の軍ではないだろう」

「自衛隊にも優秀な隊員は多いと聞きますけれど、此処まで来ると、やっぱり実戦経験者でしょうね」

「お前から見てどう思う」

「強い憎悪を抱えたプロでしょう。 ただこの様子だと、もうターゲットは全員始末したようですけれど」

しかも、その全員を、苦しめ抜いた上で殺している。

完璧な手際だ。

おそらく、軍でも重宝されていたのだろう。

日本の警察は先進国でもかなり優秀な方だが、この手の相手では分が悪い。おそらく、国外に出るにしても潜伏するにしても、犯人を捕まえるのは難しいだろう。というか、正直な話SASやシールズが出てきても、それは同じかも知れない。

本物のプロ。

この国では長く失われている、戦闘の本職。戦闘のプロに対抗できるのは同じく戦闘のプロだけだけれど。

軍が自衛隊と名を変えている今は。それも望み得ない。

また、たくさん部品を机に置かれたので、口をとがらせて抗議する。

「ちょっと主使いが荒いぞ……」

「文句を言う暇があったら手を動かす」

アモンが笑顔のママでいう。こわい。

怠けたいけれど、そうさせてくれない部下に。今日も涙目になりながら、アガレスは作業を続けるのだった。

 

一通り、目標は達成した。

ターゲットは全て処分。犯罪組織のメンバーなんて、所詮こんなものだ。命乞いをさせるのも馬鹿らしかったので、撃っておしまい。苦しみ抜いた末に全員が死んだことだけを確認して、北九州は離れた。

私にして見れば、造作もない。

むしろもっと手応えがあるものだと思って、覚悟していたのだ。最悪の場合、差し違えるつもりだったのだけれど。

正直、弱すぎて拍子抜けだ。この国では、北九州を修羅の国などというそうだけれど。実際にはもっと悲惨な戦場はいくらでもある。それを見てきた私からすれば、こんな所はぬるま湯に浸かった天国だ。

飛行機に乗って、堂々と九州を離れる。

空港には警察もたくさんいたけれど。そもそも私は外人部隊でも、ルックスが特殊すぎると言われていたほどだ。

つまり、カタギの人間にしか見えないのである。

更に言えば、日本に戻ってきたときに、パスポートなどは全て偽造済み。身分証も、全部用意してある。

警察は、私の尻尾を掴むことは出来なかった。

銃火器の類は、全て来た時と同じく、ばらばらに分解して、別々に発送済み。

後は東京で、しばらくほとぼりが冷めるのを待って。それから、国外にでも出るつもりだった。

散々戦闘を経験したから、だろうか。

殺し合いも散々やってきた。

故に。

一方的に復讐して、大勢を殺した今も。心は、さざ波ほども動いてはいなかった。

死ぬべきなのに生きている連中がいた。だから、それを社会そのものから駆除した。本来は、社会が駆除しなければならない連中だった。代わりに自分がやっただけだ。それに、正当な理由もあった。

だから、何も感じない。

殺したのは当然の権利に基づくもの。

生かしておく理由も、意味もない。そんな奴がいくらでもこの世にいる事を、私は幼い頃から、知っていたのだ。

飛行機が東京につく。

確保してあるアパートは、東京の端っこ。

小さなアパートでごみごみしているけれど、こういう雰囲気の方が好きだ。いっそのこと、永住してしまうのも、手かも知れない。

身分はとっくに偽装済み。

当分暮らしていくだけの蓄えもある。

まあ、いずれにしても。これからどうするかは、私の気の向くままという所だ。

アパートに到着。

予想通り、ごみごみした、小さなアパートである。だが、これくらいの方が、小柄な私には、丁度良いかもしれない。

すぐ側には、大きめの新古書店もある。暇を潰すには、丁度良いだろう。

どうせ、長居をするつもりはない。

この時点では、そのつもり、だった。

 

2、どこにでもいる塵芥

 

ぼんやりとしていると、隣の部屋から聞こえてくる怒号。またか。苛立ち紛れに、カーテンを開ける。

隣の家では、児童虐待が行われている。

安アパートに住んでいるのは、明らかに風俗で働いている女。けばけばしく化粧して、三十過ぎの老い始めた容姿を必死に誤魔化している。

その女は、いつも子供に対して、怒鳴り声を上げていた。

正直聞き苦しい。

話を聞く限り、子供は女の実子では無いらしい。以前別れた夫の連れ子だったそうなのだ。

しかもその夫は、子供を残して蒸発。しかも、財産までも、あらかた持ち逃げしていったそうだ。

女は怒りを、子供にぶつけることになったらしい。

それで、子供に何の責任が生じるのか、正直理解できないところであるのだけれど。女は自分の行動を、正当化しているようだった。

殴る音。

食器が割れる音。

怒鳴り声。

アパートの住人達は、皆うんざりしているけれど。特に私は、毎朝毎朝鬱陶しくてならないと思っていた。

しかも他の連中は仕事をしていて、朝と晩だけアパートに帰ってくるけれど。

私の場合は、此処にずっといるのだ。

十年分以上の生活費はあるし、海外に出れば働くことも難しくない。どこの国でも、フランスの外人部隊で働いていた経歴を言えば、仕事を得ることは難しくない。この国では少々難しいかも知れないが。

荒事が必要な国なんて、幾らだってあるのだ。

とにかく、今は騒ぎを大きくしたくない。

隣で殺人事件でも起きたら、面倒な事になるだけだ。

一応、児童相談所には通報しておいたけれど。動くかどうかわかりやしない。実在もしない子供を守るとか訳が分からないことを言っているくせに、実際に起きている児童虐待から子供を救いもしないなんて。

やっぱり私には、この世の仕組みという奴が、よく分からなかった。

一度通報して動かなかったので、もう児童相談所には頼らない。

面倒くさいから、隣の女を適当に絞めることにした。

最初の内は、子供も散々泣いていたのだけれど。今はすっかり泣くこともなくなった。何度か顔を合わせたけれど、人なつっこい可愛い子供だ。こんな子供に憎悪を思うままにぶつけるなんて。

まあ、人間なんてそんなものか。

それから二日掛けて、女の行動パターンを分析。働いている店から、移動している路まで、全て把握。

そして襲撃した。

夜道で、人がいない路を通るタイミングが、何回かある。

其処を襲ったのだ。

いきなり棒で後頭部を殴って黙らせ、暗がりに引きずり込む。軍で実戦もこなしていた私には、この程度は容易い。

ついうっかり、喉をコンバットナイフで切ろうとしてしまった。むしろ本職になりすぎていて、手元が狂うのが怖い。

縛り上げて猿ぐつわを噛ました後。

私は、女を徹底的に痛めつけた。

恐怖の悲鳴を上げる女の耳元に、ささやいておく。

「お前、子供を虐待しているな。 これ以上やったら、この程度では済まさない」

声も変えているから、私とは気付かれない。

徹底的にボコボコにしてやったから、風俗にもしばらくは行けないだろう。客商売には致命的なほどに、痣だらけにしてやったのだ。

何時でも見ている。

もしももう一度子供を虐待したら、今度は殺す。

そう宣言してやってから、離してやった。女はそれこそ、転がるようにして、逃げていった。

これで大丈夫か。

まあ、駄目だったら殺すだけだ。またアパートは離れなければならなくなるが、それは別にどうでも良い。

その夜は、虐待の音もなく、静かに寝ることが出来た。

問題は。翌日以降だ。

ぱたりと、隣から音が止んだ。

どうやら女は、子供を見捨てて、一人で何処かに失踪したらしかった。

 

部屋に呆然と取り残されている子供。

昨日から、親が帰ってきていないという。全身は痣だらけで、しかも酷く痩せている。これは、正直、私が手を下していなければ、近いうちに殺されていただろう。

自分が幼い頃、どういう目に遭っていたか、よく覚えている私としては、放置もしていられなかった。

まず、警察に連絡。

すぐに来た警官に、親が失踪したらしいと告げるが。

対応は芳しくなかった。

「此処の家の人、数日は帰ってこないことも多かったんでしょう」

「馬鹿言ってないで、子供見ろ。 そんな事をいっている場合か。 このままだと、本当に死ぬぞ」

警官に顎をしゃくる。

子供の惨状を見て、警官も流石に事態を悟ったようだった。いずれにしても、放置しておける状態ではない。

部屋の中も、悲惨極まりない散らかり方だ。

生ゴミも散らばっていて、蠅も彼方此方で発生している。異臭の元をたどってみると、台所。

いずれも、コンビニの弁当の残骸らしいゴミで、うずたかく埋まっていた。

こんなのと結婚した夫も夫だが。子供を残して蒸発するなんて、一体何を考えていたのか。

親が子供に愛情を掛けない例がいくらでもあるとは知っている。実例も見てきている。孤児院にいたことがあるのだ。親から愛情を得られずに、決定的に歪んでいる同年代の奴は、いくらでも会ってきた。

だが、これは。

孤児院にいた方が、まだマシなのではあるまいか。

或いはこの夫とやらは、消されたのかも知れない。

どこの国でも、犯罪組織と通じた金貸しなんて、同じようなものだ。連中を人間だと考える方が間違っている。

「通報もあったはずだが、児童虐待もされていたんだぞ。 さっさと動けよ」

「わかりました。 保護します」

舌打ちすると、警官が動く。

この国の警官は他の先進国よりマシだとは知っているけれど。それでも、私が消したような連中や、こういうのもいる。

所詮は、こんなものか。

外人部隊にいたころ、人間の業を散々見てきた。

だから、今更もう驚くことはない。

子供はこんな状態にもかかわらず、まだお母さんはとか聞いていた。児童養護施設の人間に引き取られながらも、自分の事がわかっていないようだった。

警官に事情聴取を受ける。

明らかな虐待があって、通報をした事も告げた。日時も控えていたから、それも併せて。警官は渋い顔をしていた。

「それで、今日はどうして異変に気付いたんですか?」

「毎日明らかに虐待されていて、酷い音が響きまくっていたからな。 それなのに、今日は静かだったから、様子を見に行ったんだよ」

「暇なんですか」

「海外で一山当ててな。 しばらくはゆっくりしようと思って過ごしてたんだよ」

そういえば、この国では。

定職を持っていない人間は、ゴキブリ以下の存在としてしか認識されないのだったか。海外で暮らした私としては、あまり考えていない事だった。

相手が露骨に此方を侮る様子を覚えたので、舌打ち。

失敗だったか。

どれだけ高い戦闘力を身につけても。こういった国ごとの社会常識にまでは、頭が回りきらない。

もっとも、この国の社会常識とやらは、あまりにも複雑化しすぎていて、当の本人達でさえ理解しきっていない部分があるようだが。

アパートの他の十人も聴取を受けていたが。

右隣の私はともかく、左隣の連中は、部屋から覚醒剤が見つかってその場で逮捕。上の階にいた奴らに到っては、部屋で売春をしていたらしく、これまたその場で逮捕されていた。

呆れた話だが。

先進国一治安が良いこの国でも、こんな場所はあるのか。

まあ、そうでなければ。私を受け入れることはなかっただろうが。

とにかく証言能力が私にしかないこと。

実際母親が姿を消して、戻ってくる気配がないこと。

これらからも、子供は孤児院に引き取られることが決まった。児童虐待の容疑で母親は捜索が掛かったようだが。この様子では、見つかるかどうかは微妙だろう。

カレシの所にでも逃げ込んだか、或いは。

それに、母親の実家の方にも当然連絡は行っているはず。そちらにも、帰ってきていないと言うことなのだろう。

いずれにしても、隣の部屋は完全に放置された。

後から大家に聞かされたのだけれど。

部屋代も、数ヶ月にわたって滞納していたのだという。

真面目に部屋代を払っていた私が、あほらしくなってくる話だった。

とりあえず、これでようやく静かになった。

上の部屋の馬鹿学生が、時々大騒ぎをするくらいだ。まあ、ほとぼりを冷ます間くらいは、我慢してやる。

やっと静寂が戻ったかと思った私の所に、連絡がまた来る。

孤児院からだった。

 

児童養護施設をたらい回しにされたあげく、子供は結局近場の孤児院に落ち着いたという事だった。

様子を見に来て欲しいと言われたので、思わずはあと応えていた。

どうして私が。

確かに見かねて助けてやったけれど。そもそも、隣に住んでいた、というだけの間柄だ。しかも短期間。

クズ親をボコボコにしてはやったけれど。

少なくとも、感謝される謂われは無い。まあ、逆恨みも出来ないように、徹底的に叩き潰してはやったが。

「よく分からないんだが、どうして私が?」

「実はですねえ」

若干間延びした様子で、孤児院の職員が言う。

この子供、天涯孤独の身だという。

父親も母親も、身内のつてをたどってみたのだけれど。誰一人、連絡が取れないのだとか。

死んでいるのでは無くて、蒸発しているらしい。

連絡先までわざわざ足を運んだそうなのだが。其処はシェアハウスになっていて、ワープア状態の労働者が寿司詰めにされていたとか。

なるほど、そう言うことか。

要するに親子揃ってろくでなしで、どうしようもないクズ一家だった、という事か。

それならば、話もわかる。

あの虐待の様子は、尋常では無かった。そもそもが、オツムがまともではなかったということなのだろう。

もっとも、人の事は言えた義理ではない。

私も充分、オツムの方はまともとは言いがたい。むしろ、あのクズ一家より、私の方がおかしさでは上の可能性も高い。

「で?」

「保護した子が、貴方にお礼を言いたいと」

「……わかった。 足を運べば良いんだろう」

「お願いします」

外人部隊として、彼方此方で汚れ仕事もしてきた。

だから、どんなどうしようもない状況にいる人間も、散々見てきた。あの子供は、まだマシな方だ。

どうせ暇だから、というのも、出向く理由の一つとしてはあった。

しばらくはほとぼりを冷ますつもりだし、金なら充分にある。ラフな格好のまま、孤児院に出向く。

出向いた先はこぢんまりとした施設で。

似たような子供が、十人ほど暮らしているようだった。

孤児院は必ずしも善意の施設ではない。

犯罪組織に子供を売りさばくような孤児院は、特に発展途上国ではいくらでも存在している。

養子縁組の美名の元に、社会の闇に消えていく子供は、数限りない。

日本でも孤児院での虐待なんて珍しくもないと聞いている。幸い、私がいた孤児院では、そのいずれもなかったが。

運が良かったのだ。

それはわかっている。それまでにあまりにも不運なことが重なりすぎたから、揺り戻しが来た可能性も高い。

あの子供は、いた。

がりがりに痩せていて、命の危険もあるような有様だったが。今では、体中の痣も消えて、体型も普通になっていた。

ちゃんと食べているらしい。

それだけで、見て安心できた。

ただ、同年代の子供に比べると、かなり小さい。先進国の子供はたくさん食べるから、後進国の子に比べて大きくなる傾向があるのだが。この子は、後進国の子並だ。子供は成長が早いとは言え、他との差は埋まるのだろうか。

私の事は、覚えていた。

ぺこりと、頭を下げられる。

やり方は、孤児院の人に教わったと言われた。

孤児院の人が言うには、基礎的な挨拶や、食事のマナーさえ、教えられていなかったという。

充分に立件が可能なレベルのネグレクトだと、職員は憤慨していた。

私も流石にその言葉を鵜呑みにして職員を信頼するほど純心ではないけれど。まあ、責任感があるのは良いことだ。

「飯は食ってるか」

「はい。 食べてます」

「大きくなれよ」

頭を撫でると、軽く話をして、その場を後にする。

もう少しで、日本を発つつもりだけれど。

楽しみが、一つ出来た。

私も、これでも性別は女だ。背はあまり高くないが、女らしくないと散々言われてきた。実戦を経験し、相手を殺してからは、なおそう言われるようになった。だから、子供自体は、嫌いじゃない。

仕事で、散々殺したとしてもだ。

途上国で仕事をすれば、チャイルドソルジャーが相手になる場合が決して少なくないのだ。

油断すれば、相手は自動小銃を持っているから、殺される場合も多い。

中には、子供に手榴弾をくくりつけて、油断したところをどかんとやる外道共も、たくさんいる。

途上国では命が安い。

日本でも、一部では。

自分も、安い命の一つだった。そして、あの子供も。

アパートに戻る。

しばらくは、何もせずに過ごそうと、そう思った。

 

3、駒鳥の時

 

結局の所。

私が、あの人に会ったのは、孤児院で一度きりだけ。

住んでいるというのは、私が虐待されていた部屋の隣だったのだけれど。数ヶ月後に孤児院の職員と一緒に出向くと、もぬけの空になっていた。

しかも、住んでいた人は。

自分の経歴を偽造していたのだという。

警察が、色々捜査をしていた。

私の所に、話も聞きに来たけれど。もう覚えていないと言った。本当は覚えていたのだけれど。

例え殺人犯でも、あの人に不利になるようなことはしたくなかったのだ。

孤児院で十四才まで過ごして。

その後は、ようやく見つかった親戚の家に住まわせて貰う事になった。幸い、遠い親戚だという老夫婦はとても優しい人達で、虐待されることもなかったし、性的暴行を加えられるようなことも無かった。

孤児院は人手が足りない。

更に言うと、殆どの子供は、心が荒んでいる。必要なときに、愛情を受けられなかったのだから、当然だ。

多くの場合は、ハンデも抱えている。

その中でも、珍しくないのが。私も抱えている、低身長だ。

親に必要なとき食事を与えられなかった子供は、珍しくない。ネグレクトの典型的なパターンである。

私も、そのパターンに当てはまった。

夜の仕事に行く前に、むしゃむしゃとコンビニ弁当を食べていた親を見つめながら、部屋の隅で膝を抱えて座っていた。

何か言えば殴られるし。

食べたいと言えば殴られた。

残飯を漁るしか、飢えを満たす方法はなく。残飯を散らかさずに食べられるほど、大人でもなかった。

気を失うほど殴られた次の日。

幼稚園に行けなくなった。

正確には、行かせて貰えなくなった。多分体中の痣が目立つようになって、虐待で通報されると思ったのだろう。

その程度の知恵も、あの母にはあったのだ。

そして当時の私は。

そんな母親が、大好きだった。

どれだけ暴力を振るわれても。

血がつながっていなくても。

人生最大の過ちだった。それで死にかけたのだから。

今では、会ったら殺してやる方法を、本気で考えている。いずれ武術も学ぼうと思っているし、出来るなら軍隊仕込みの格闘技がいい。罪に問われるかなんて、関係無い。彼奴を確実に殺せれば、それで良いからだ。

その後捕まろうがどうなろうが、知らない。

 

学問は、どうにか孤児院で習えた。小学校にも通ったけれど、孤児院の子だと聞くと、殆どの人がいい顔をしなかった。

当然仲間はずれにされた。

ただ、イジメは受けなかった。

小学校の半ばくらいから、体は小さくても、運動神経だけは良くなってきたからだ。喧嘩をしても、少なくとも同年代の女子には絶対に負けなかった。同年代の男子にも、高確率で勝てた。

イジメは弱い者相手に行われる。

特に小学生ではそうだ。

私は自分がどうしてか強い事に気付いてからは、それを使う事を躊躇しなくなった。生意気な奴は本気でぶん殴ったし、男子だって女子だって容赦しなかった。

この辺り私には。

あのクズ母親と同じ血が、確かに流れていたのかも知れない。

ただ、見境無しに暴力を振るったわけではない。自分に対して好戦的な態度を見せる相手は、絶対にボコボコにした。

陰口も容赦しなかった。

だが、自分に対して距離を置き、悪口もいわない相手には、何もしなかった。

ただしそれで評判は良くならなかったが。

そんなだから、私は小学校高学年のころには、完全に不良として認識されていた。おかしな話で、金髪にしていたわけでもないし、校則違反の制服を着ていたわけでもない。鞄にゴム入れていた訳でも無いし、授業中に携帯を弄っていたようなこともない。

中学のころには、更に喧嘩慣れしていたから、生半可な相手には負けなかった。力で勝てない大柄な男子相手でも対応できる、幾つかの戦術を身につけていた。

それでも、里親に引き取られるときには、警戒したし。

優しいとわかった今でも、何処かでやはり警戒はしている。

里親は、典型的な、子供が出来なかった老夫婦で。私に随分よくしてくれる。実際にこんな優しい親がいたら良かっただろうとも、思う。

だが、結局の所。

私の中で燃えさかる炎は消えない。

格闘技の道場には、少し前から通っている。最初は空手から始めた。段位はすぐに取れた。やはりセンスがあったのだろう。

合気道に柔道もやった。

どちらも段位を取ったところでストップ。高段位に行くには金と手間と時間が掛かることに気付いたからだ。

女子ボクシングをやり始めたころ、流石に里親は心配した。周囲はダイエットを目標にやっている奴ばかりだったので、本気で殺気をみなぎらせて拳を叩き込む私は、怖がられた。

そして、怖がっている奴が、里親に連絡した。

元々学校でも、札付きのワルとして怖れられている私だ。喝上げなんてした事がないし、私を馬鹿にした奴以外には手なんか出さないのに。

ただ、喧嘩したという噂は、何度も里親の所に届いていたらしい。そして、何となく気付いていたのだろう。

私が、戦闘を想定して、毎日を過ごしているという事に。

「貴方は、何処かで、何かと戦うつもりなのかい」

そう、心優しい義理の母は言う。

戦わなくていいのだと、臆病な彼女は、不安に顔中を満たしていた。

私は、そうは思わない。

あの怪物同然の母親が戻ってきたら。この優しい里親では、きっとどうにも出来ない。私が彼奴をブッ殺さなければいけない。

そう言う思いが、ある。

おかしな話だ。

彼奴とも血はつながっていないのに。

同じ里親でも、どうしてこうも違うのだろう。

ただ、今の里親は、好きだ。自分の事を本当に心配してくれているのを、わかっていたからだ。

娘だとも思ってくれていると、知っているからだ。

だから次。マーシャルアーツを教えてくれる場所に通い始めてからは。何処に通っているという話は、一切しなくなった。心配をこれ以上掛けたくなかったからである。

結局、私の背丈は、高校に入ったころには、もう伸びなくなった。

だから、同じ体格で勝負するしかない。

そのためには、一撃必殺の技がどうしても必要だった。喧嘩という軽度の実戦で色々試した。

不良を、夜道でマスク被って襲撃して、二十人ほど病院送りにしたが。その時に、色々と技も試した。骨を効率よく折れる技や、筋肉をつぶせる技が、中々に使い勝手が良かった。

体重が三倍ほどある相手には、通常の打撃技など通用しない。

だから骨を折りに行ったり、関節を潰しに行く技が一番だった。体重百二十キロある不良を半殺しにしてからは、打撃技はむしろ実戦には向かないと理解していた。体重が同格の相手ならともかく、小柄な私には、その条件は前提からして厳しいのだ。

私は、見失っていた。

何のために強くなろうとしているのか。

やがて、強さを得ることだけが、自己目的化していきつつあった。

 

その日も私は、早い内から道場に出ていた。

獰猛な私と組み手をする事を嫌がる相手が多いので、一人で黙々と型の稽古をすることが多い。

型は勉強になる。

どう動けば良いか、教えてくれるからだ。

実際に実戦で試してみると、それがよく分かるのだった。

名前を呼ばれたので、師範の所に行く。

今いる道場は、中国拳法だ。いわゆる八極拳である。日本でも有名な拳法であり、実際に学んでみると確かに使える。

ただ、既に里親には、通っていることは教えていない。

通うための費用は、バイトで稼いでいるのだけれど。バイト先での評判は、あまり良くなかった。

里親はバイトなんかしなくて良いと言ってくれているけれど。

こればかりは、頼ってばかりはいたくなかったのだ。

師範は帰化中国人で、非常に真面目な中年男性である。

何でも、何もかも金で動く風潮が嫌になって、此方に来たらしい。もっとも、日本だってその辺りはあまり変わらないように、私には思えるけれど。

「技の習得が早いな。 ダイエットをするためには思えないが、どういう目的で、道場に来ている」

「単なる格闘技マニアなだけですよ」

「そうは思えない。 お前、実戦を経験しているだろう」

ずばり言われた。

そういえばこの師範。今まで教わってきた中では、ずば抜けた使い手であることは、わかっていた。

私自身、いろいろな実戦を経て、試合のやり方ではなく、相手を半身不随にする方法が自然に身についている。

だから、もしもやり合うとなったら、自然に潰しに行くだろうけれど。

はっきりいって、それでも勝てるかわからない。

体格差が、此処では物を言ってくる。

スキルが互角なら、勝負を決めるのはパワーだ。パワーはスピードにもつながる。小柄だけど早いというのは、単純に私が鍛えているから。

だからこそ、パワーの意味はよく分かっている。

だらしなく太って、力だけ強いような奴なんかは問題にならないけれど。

この師範は極めて真面目にトレーニングして、毎日型を体に叩き込んでいる。その地道な努力が身につけたパワーは、正直私では及ばない。

普通、複数の相手を同時にいなすことはまず無理。

私だって、結構実戦はこなしたけれど。それも相手が一人になったところを狙うようにしている。

この師範の場合。

不良の群れに正面から挑んで、叩き潰すくらいのことは、平然とやってのけそうな実力が備わっている。

私はスキルで、体格の貧弱さを誤魔化しているけれど。

この師範は、体格が優れている上に、スキルもあるのだ。

「入門の際の書類を確認したが、お前養子だな。 里親にこの件については、言っているのか」

「いいえ。 迷惑を掛けたくないので」

「立派な心がけだが、無謀なことを続けていると、いつか里親を泣かせることになるぞ」

「それはわかっています」

だから無謀にならないように、技を磨いているのだ。

はて。

最終的には母親が現れたときにブチ殺すのが目的だったはずだが。考えて見て、彼奴はそんなに強いのだろうか。

今だったら、ナイフを持った素人ぐらいならどうにでも出来る。勿論、此方も武器を用いるという前提でだが。武器になるものなら、その辺にいくらでもある。石でも棒でも何でもいい。

「お前は強い。 多分今いる門下生の中では図抜けている。 だがお前のは、文字通りの狂拳だ。 そのままやっていると、いずれ身を滅ぼすぞ」

「……」

「しばらく道場には来るな。 考えてから、また来るといいだろう」

そんな事をいわれたのは初めてだ。

ただ、相手が悪意を持っているわけではない事は、敏感に理解できた。小学校のころから孤立しがちだった私は、周囲の悪意を察する力に長けている。

素直に従うつもりになれたのは、それが故だろう。

止めろとは言われなかったし、毎回見てもらう度に金を払う仕組みだから、しばらく来なくても金は掛からない。

道場を出ると、まっすぐ自宅に帰る。

途中、新古書店の側を通り過ぎる。中にはたくさんの本が売っているけれど。私には、縁がないものだ。

冬になったばかりの今。

夕方は短い。

だから、陽が沈む前に家に着くのは、久しぶりだ。

元々資産家の里親は、家にいることが多い。もう仕事をする必要もないからである。私が比較的早めに帰ってくると、二人は喜んだ。

義母は私が喜びそうな料理を作ってくれたし。

義父は、私が学校で何をしているのか、聞きたがった。

正直面倒くさくはあったけれど、二人とも私を案じているのはわかっているのだし、これ以上もない好条件の親なのだ。

あまり邪険にも出来ず。

二人につきあっている内に、寝る時間が来てしまった。

自室に引っ込むと、携帯を開いて、検索する。

最近は、自分を強くすることばかりを考えていた。

そうで無い事をしろと師範に言われて、素直にそうしようと思ったけれど。どうするべきか、よく分からない。

あのクズ親は、いつ私の所に現れるかわからない。

その時ブッ殺すための技を身につけるためには、まだまだ時間が必要だ。ただでさえ小柄な私なのだから。

鈍ったりしたら、それこそ最悪の事態になりかねない。

「何をすれば良いんだよ」

ぼやく。

黙々と、携帯からネットにつないで、情報を見ていくけれど。

役に立ちそうなものなど、見つかりはしない。

ましてや、私にメールなどを送ってくる奴など、この世にいない。級友はいるけれど、親友と呼べる奴なんて、いないのだ。

携帯を見ていても、相手を壊す方法ばかりを検索してしまう。

どうやれば、戦いに勝てるのか。

具体的なインファイトの戦術について。

アウトレンジからの攻撃に対する対処法について。

そんな事ばかり、検索していた。

里親達は、こういうことをうすうす気付いているから、私を心配しているのだろう。綺麗な服でも着てみせれば、少しは安心するのだろうか。

私は小柄で、服自体は似合う。

だから里親達は、そう言う服を買ってきている。

まあ、たまには着てやるのも良いか。そう、携帯を弄りながら思う。

ふと気付いたときには。

都市伝説のサイトを見ていた。

そういうものがあるという話は聞いている。具体的な定義はよく知らないけれど、要するに噂話だ。

私が知っているものは、某ファーストフードでは、肉の繋ぎにミミズを使っているというものだけれど。

これは里親に聞いて、真相を知っている。

ミミズはどちらかと言えば高級食材で、実際に漢方などで存在している。つまり、繋ぎなどに使ってしまうと、採算が却って取れなくなる。

ただ、真相に近い都市伝説については、聞いたこともある。

たとえば、同じチェーンの卵料理についてだ。

何でも有精卵と無精卵が滅茶苦茶に混ざっているらしく、料理に使おうと卵を割ると、かなり育った状態のひよこが出てくる事があるとか。

これについては、どうも本当らしい。

というのも、学校に内緒で、バイトをしている級友がいるからだ。

級友が話しているのは、どうしても耳に入ってくる。

嘘を言う理由も無いだろう。実際、かなり形になっているひよこが出てきたという話は、それなりのインパクトがあった。

漠然とみている。

里親を心配させない方法。

そんなもの、あるわけないか。

だが、どうにかしたいと思うのは本当だ。

父親は失踪、母親は素性さえ知れず。父親の後妻に虐待され、その後孤児院に入った私が今いるには、この環境はあまりにも温かすぎるのだ。

かといって、私の戦闘本能を抑える方法がわからない。

正直な話、私もうすうすは気付いている。

あの虐待クソ婆を叩き殺す事は、あくまで理由に過ぎないのだと。私は単純に、戦う事が。

いや、暴力を振るうことが、大好きなのだ。

相手が、暴力を振るわれて当然のクズである内は良い。

里親が心配しているのは、きっとその辺りだ。

悶々としている内に、面白いものを見つけた。

何でも願いが叶う店。

其処では悪魔が店主をしていて、足を踏み入れた客に、何でも願いが叶う道具をくれると言う。

ばからしい話だ。

今の時代に、何が悪魔か。

しかしながら、何でも願いが叶うというのは、魅力的だ。ゲームやらアニメに出てくる便利な道具ではあるまいし。

或いは、お金だろうか。

だが私は、お金はあんまり必要じゃない。

バイトをしているのも、強くなりたいという欲求に突き動かされての事だ。

必要なだけお金があれば、それで満足だ。

あくびをしながら、一旦携帯を畳む。電源につなぐと、風呂に入って、今日掻いた汗を流した。

 

翌日。

面白くもない学校から、珍しく直帰した。

里親はどちらも喜んだけれど。この程度の事で喜んでくれるなら、言う事は無い。問題は、安心させるには到らないという事だ。

ケーキまで買ってきたので、有り難くいただくことにする。

これでも甘味は嫌いではないのだ。

しばらく、里親の話につきあう。老人達は、孫をかわいがるようなつもりで、私に接しているのだろう。

だが、それでいて、気付いてもいる。

私が極めて冷めた視点で、接してきていると言うことも。

もしも二人が私をいらないと言ったら。

すぐにでも、此処を出ていくつもりである。

絆とか言うものは、よく分からない。

そんなものがあるとは、どうにも信じられない。二人の愛情は結構なのだけれど。私にして見れば、たんに生活の足しになるから。二人の機嫌を伺っておきたい。それには、心配させないのが一番だ、という理屈が成り立つ。

わかっている。

薄情なことは。

だが、私はこんな風にしか考えられないのだ。孤児院でも、事実周囲に親と呼べる大人はいなかったし。

あのクズ親に捨てられたと悟ったとき、随分泣いた。

そして、涙は涸れ果てた。

自室に戻る。

携帯を開いてまた都市伝説の情報を見ていると。やはり、あの店について、データが出てきた。

なんと、店の候補は。すぐ側にある、新古書店だというではないか。

面白いけれど、とても信じられない。彼処は一階がおっさんだけの店員で、二階には色気過剰な女がいるだけの場所。二階のゲーム屋はマニアックな品があるとかいう噂を聞くけれど、そもそもゲームなんかやらないから、わからない。

掲示板が賑わっていたので、覗いてみる。

みな、好き勝手な事を言い合っていた。

何でもこの都市伝説、最初は50年も前に、原型が確認できるという。その頃は場所も違って、遊郭の地下だとか。城の地下だとか。とにかく、地下にあると言うのが、定番になっていたそうだ。

それがいつの間にか、あり得ない三階に話がシフトした。

興味深いと、周囲がいろいろな説を飛ばしている。しかし、である。

ふと、掲示板を移ろうとしたら。

いきなり、データが消し飛んでいた。

何かのサーバートラブルかと思ったのだけれど、違う。掲示板がまた立て直されて、議論が始まっているけれど。

一人が言っていることが、気になる。

この話をしていると、こういうことがよくある。

場合によっては、ホームページごと消し飛ぶ。

少し、興味が出てきた。

他の都市伝説サイトなどでも、調べて見る。興味が少しずつ、大きくなってくるのがわかる。

それから数日かけて、ゆっくりいろいろなサイトを見ていった。

そして、天啓に出会った。

 

結局、すぐ側の新古書店に足を運ぶ。

本の臭いは嫌いだ。ニット帽を深く被って、人相を消す。マスクでもすれば良いのだけれど、それはそれだ。

あれは他人を襲うときの衣装。

着込むと戦闘モードに心身が切り替わってしまうので、これくらいでいい。制服のままなのは、学校帰りだからだ。

他にも、制服を着た女子がいる。

少しエロい本の棚の前に集まって、黄色い声で喜んでいる横を通り過ぎる。本には、興味が無い。

あの後、調べていて、どうもみょうなものを見つけたのだ。

入れない三階に入る方法。

それがあまりにも突拍子がない内容で、どうも嘘だとは思えなかったのだ。あまりにも突拍子がなさ過ぎて、である。

しかも、翌日それを調べて見たら。

データが綺麗に消えていたのだ。

まあ、試すだけなら損は無い。だから、今。わかりもしないゲームがたくさん並べられている店に、足を踏み入れたのである。

周囲は異界だ。

全く自分がわからない場所は、そう表するしかない。

猫なら耳をピンと立てて、周囲に警戒していただろう。私はしばらく周囲を見回したけれど。

意を決して、色気過剰な店員の元へ、足を運んでいた。

チビの私には、とうてい出せない色気を纏った店員は、にこにこと笑みを浮かべて此方を見ている。

「すみません。 いいですか」

「何がご入り用ですか」

「ひたすら旅が苦痛な西遊記のゲームってありますか?」

ちなみに、タイトルさえしらない。

どうでもいいから、知っても覚えられないだろう。

店員は笑顔で、奥のトイレを指さして、言う。

「あちらで三分お待ちください」

「え……本当!?」

「うふふ、この台詞を言えると言う事は、真相はすぐ其処ですよ。 さ、行ってらっしゃい。 今更尻込みすると、損します」

困惑しながら頷くと、奥のトイレに。

あの女。

近くで見てわかったけれど、強い。というか、強いなんて次元じゃない。多分私でも、相手が油断していた場合限定で、一矢報いるのがやっとという次元だ。

怖いとは思わないけれど、出来れば戦いたくない。

そして彼処までの強さを手に入れるには、相応の苦労をしているはずだ。ならば、尊敬するべきだろうとも思う。

私が師範の言う事を、素直に聞いたのも、それが理由だ。

トイレに入って、しばし待つ。

そして、外に出ると。

其処は。今までいた場所とは、全く違っていた。

 

4、波濤

 

薄闇の世界。

そう表現するのが、一番正しいように、私には思えた。

木の床が張られていて、何処までも棚が並んでいる。どうしてなのだろう。この広さ、明らかに二階よりある。

それだけではない。

棚の高さもおかしいし、中身も。

棚の中には、ぎっしりとどれもものが詰め込まれている。殆どは、私には価値が分からないものばかりだった。

奥の方に、こぢんまりとした闇が固まっている。

それが、髪の毛だとわかって。近づいてみると、小さな女の子が、だるそうにつっぷしているのだと、理解できた。

顔を上げる女の子。

への字に口を結んだ、やたらめったら可愛い女の子だ。

そういえば。私が孤児院で問題を起こさなかったのは。後から入ってきた小さな女の子の、面倒をよく見ていたから、というのがあるかも知れない。

大好きなのだ。小さな女の子が。

これで私が男だったら犯罪だけれど。

生憎私は女なので、母性本能という言葉で言い訳が出来る。この辺りは、都合が良くて便利である。

「何だ。 今回は随分近くから来たな」

「えー?」

「何だにやにやして」

「かわいーね!」

満面の笑顔でいう私に、女の子は少し鼻白んだようだった。

何となく、反応と表情でわかる。

この女の子、私より年上だ。しかも、ずっと。

「名前は?」

「猪塚篠目(いのづかささめ)」

「そうか。 私はアガレス。 この店の主だ」

「へえ……アガレス様」

おそらく、この女の子が、明らかに超常的な存在である事は、わかっていた。私もこれでも修羅場を散々くぐってきたのだ。意図的に、だが。

だから、気配がおかしい事は、すぐにわかった。

普通の女の子の気配ではない。正直な話、私が本気で技を叩き込んでも、壊れる気がしないのである。

体重がどれだけあろうと、相手を壊せる技はある。

流石に四つ足の動物で、体重が何十倍もある場合は無理だけれど。三倍くらいの体重までならば、手段さえ選ばなければどうにかなる自信もある。それなのに、この子供には、それが通じる気がしない。

腰を落として、視線の高さを合わせる。

相手は面倒くさそうに、小さな手で髪の毛を掻き上げていた。

「ここに来たと言うことは、何か目的があるのだろう?」

「強くなりたい」

「それ以上か。 お前、この国で暮らすには、不必要すぎるほどの武力を身につけているでは無いか」

ずばりと指摘される。

相手が呆れているのがわかったけれど。

ただ、ひょっとすると。私はそれ以上のものを、何処かで求めているのかも知れなかった。

「まあいい。 ここに来る事が出来たという事は、お前には相当の対価が払えると言う事だ」

「お金なら持っていないよ」

「私が必要とするのは、人間社会の硬貨などではない。 食糧。 人間の心の闇だ」

すっと、指を額に突きつけられる。

どうしてだろう。

動きは見えていたのに、回避できなかった。

 

なるほど。

アガレスは呟く。

意識を失って倒れている娘。篠目といったか。これは、相当に深い闇と、屈折した生い立ちの持ち主だ。

美味だけれども。これは与えるものが極めて難しい。

「アモン!」

忠実な部下を呼ぶ。

闇からにじみ出すように、メイドルックの部下が姿を見せる。

奴も、意識の一部を共有しているから、此奴の闇は見ていたはずだ。濃厚で美味なる闇であったけれど。

「実の両親から見捨てられ、酷薄な最初の育ての母親に虐待され。 その後、たまたま通りがかった人間から助けられ、影響を無意識的に受けた、か」

「見た感じ、その通りがかりの人間が、酷薄な育ての母親を、何らかの方法で追い払ったようですね」

「そうだな。 或いは通りがかりの誰かを探せるようにしてやるのがいいか」

「実質上の母親が、その人物でしょうから、妥当でしょうかね。 いや、どうもそれでは解決しないようにも思えます」

確かにそうだ。実際問題、それでは解決に到らない。

この娘は、合理主義の怪物である。現在の優しい里親を、都合が良いからと言う理由で大事にしているほどだ。

その一方で。幼い頃に受けた影響から、凄まじい闘争本能も宿している。

この小柄な身で、生半可な格闘家では及ばないほどの武力を身につけたのも。たぐいまれなるセンスを、努力と実戦で磨き抜いたからだろう。この国で、である。

いずれにしても、放って置いてはこの娘、そのうち自滅する。

あまりにもそぐわない生き方だからだ。

「あれがよろしいでしょう」

「ふむ……」

頷くと、アモンの好きなようにさせる。

意識を取り戻した娘が、頭をふりふり、体を起こしたのは、その直後だった。アガレスが暗示を解かなくても意識を取り戻すとは。

やはり、ただ者ではない。

よほど心身を鍛え込んでいるという事だ。

面白い事に、心身を鍛えれば、必ずしも高尚な精神を得られるわけではない。アガレスも今までに何例か見た事があるが、この娘はその典型だろう。

「ん……何……」

「中々に堪能させて貰ったぞ。 濃厚にて深遠なる闇であった」

「そう……」

何が起きたかは、娘にも分かっている筈だ。

闇をアガレスが喰らうとき。

喰われている本人は、それを客観的に見ることになる。これは、フェアな状況を作るためである。

悪魔は契約を重視する。

昔の悪魔は魂を対価に契約することが多かったが、これは天界から強い反発を受けていた。

戦いが終わった今では、いろいろな方法で、魂以外のものを対価とする。

アガレスも、同じようなやり方を取っている。

「アモン」

「はい」

アモンが、棚の裏に消える。

其処から、外へ出たのだ。娘の住所も、心を覗いたときに調べてある。郵送することは、難しくない。

「お前に必要なものをやろう。 郵送しておくから、受け取るが良い」

「……うん」

「どうした、浮かない顔だな」

「改めて思うと、私って何だか馬鹿な人生を送ってるなって」

娘は生まれる国を間違えたのかも知れない。

この戦闘的な性質は、明らかにこの平穏な日本向きではない。しかし、それが誕生した背景を考えると。

アガレスは、娘にだめ出しをする事も出来なかった。

「お前はまだ若いし、時間はたっぷりある。 ゆっくり考えれば良いことだ」

「……ちっちゃいのに、おじいちゃんみたいなことを言うね」

「ちっちゃくて悪かったな。 私だって好きでこんな格好をしているわけでもない。 不便でしょうがない」

「また会いに来てもいい?」

妙なことを言われた。

普通、闇を喰われた人間は、気味悪がったり、怖れたり。或いは怒り狂ったりするものなのだけれど。

頭を振ると、アガレスは娘を自分の空間から追い出す。

何から何まで、変な娘だった。

 

気がつくと私は、玄関に立っていた。

何が起きたかは、詳細に覚えている。あのアガレスという悪魔を名乗る女の子に、自分がしてきた事と、抱えている闇を全て見られた。

それ自体は怒っていない。

何となくわかっていたからだ。あの女の子が、この世の理から、外れてしまっている存在だと言う事は。

きっと、側にいたアモンというメイドもそうだろう。

雨が降ってきた。

ちょっと濡れたくらいで風邪を引くほど柔では無いけれど。

軒下で雨に濡れるのも、あまり良い気分ではない。さっさと家に入る。不思議な事に、こういうときに限って、珍しく里親はいなかった。

ダイニングに書き置き。

近場の温泉に出かけて来るから、夕食は温めて食べるように、とある。

夕食と言っても、六品もある。

そして見て気付くのだけれど。

野菜も肉もバランスよく準備されている。これは本当に、愛情が籠もった夕食だ。そうでなければ、此処まで手間暇が掛かったものは作れない。愛情を向けてくれることには、とても感謝している。

ただ、どう答えて良いのか、よく分からないのだ。

少し、気分が楽になっているのは、わかった。

電子レンジで夕食を温めながら、軽くストレッチをする。これからも、何があろうと、体を鍛えるのを止めるつもりはない。

里親が帰ることはないから、今日はゆっくりするけれど。

それは私にとっては、必ずしも休むことを意味しないのだ。

夕食を食べた後は、軽く体を鍛え込む。

少し前だったら、夜道で誰かを襲撃することを考えただろう。そのための準備をするかも知れない。

見境なしに襲撃などしない。

相手のことは徹底的に調べて、その後襲う。

だいたいの場合、悪事を繰り返している不良がターゲットになる。最近は昔ほどこういう不良はいないけれど、少し田舎の町に行けば、今でも現役でいる。

ただの不良では大体圧勝してしまうので、強いと評判の奴だけを厳選。叩き潰しても何ら良心が痛まない輩であるかを調べてから、襲っていた。

だが、その気はもう起こらない。

狂拳と呼ばれたときから、違和感はあった。

あのアガレスの所で、改めて自分が抱えていた闇を見てから。なおさら、その違和感は強くなった。

力では何も解決しないなどとは思わないけれど。

少なくとも、今まで自分が振るっていた武力については、考え直さなければならないかも知れないとは、感じた。

一眠りして、朝。

まだ里親は帰ってきていない。

適当に朝食を作って食べて、学校に出る。

何となくだけれど。少し、自分が変わった事を、私は感じていた。だから、適当に学校から帰ってきて。

それが届いているのを見た時には、あまり驚きはなかった。

段ボール。一抱えもあるけれど、重いものではない。

里親が受け取って、自室に入れて置いてくれた。老人でも運び込むのは、難しくないほどに軽かった。

十中八九、アガレスがくれたものだろう。

開いてみる。

何か、長い棒がたくさん入っている。それだけではない。この機械は、何だろう。

取り出してみる。

糸玉もたくさんある。

まさかとは思うが。これは。

機械の説明書があったので、見てみると。

ミシンだった。

長い棒も、これで用途がわかった。これはつまり、お裁縫のセットだ。奥の方には、針などのセットも入っていた。

孤児院で暮らしているときに、習った。

生きていくためのスキルを。料理のやり方もそうだし、お裁縫のやり方も。

ただし好きでは無かったから、それこそ最低限のスキルしか身につかなかった。しかしながら、知識そのものはある。

だから、一目でわかった。

これは非常に本格的なセットだ。しかも、どの棒もミシンも、非常に使い込んでいる事がよく分かる。

本職が使っていたものに、間違いない。

少し前だったら、殆ど興味が湧かなかった可能性もある。しかしながら今は、それも違う。

触ってみると、わかるのだ。

これらの品に、込められている強い情念が。

愛情というのかはわからないけれど。これらの品は、誰かの一生とともにあった事は間違いない。

本も入っている。

具体的な、レシピ本だ。しかも相当に分厚い。

まずは最初のページを見ると、定番のマフラーから。

毛糸は入っているから、引っ張り出して、編み物棒を使って少しずつちまちま編んでいくことにする。

最初は上手く行くはずも無い。

しかし、この棒、かなりしっかりした造りだ。力を入れ間違えても、折れる畏れはない。説明書を見る限り、かなり難しい編み方を駆使するものもあるようだけれど。初心者向けだからか。最初のマフラーは、とても易しい編み方だけで作られているようだった。

というよりも、このレシピ本も凄い。

手書きなのだけれど。

相当な研究の末に作られたことが明らかだ。武術ではないけれど。作った人間は、文字通りの達人だろう。

一生が編み物とともにあった人。

どういう仕事をしていた人なのだろう。具体的にはわからないけれど。これだけの高みに到達したことは、素直に凄いと思う。

天才というのでもないだろうし、偉人でもない。

だけれど、この人の到達した高みは、凄い。

無言で指を動かす。

何度も失敗して、最初からやり直し。

よく考えると、この毛糸も、相当な高級品だ。カシミヤか何かだろうか。少なくとも、化学繊維ではない。

どうせしばらく道場の類にはいかないのだ。

勿論自分で今まで通ったトレーニングの理論を生かして、毎朝毎晩修練は欠かさないけれど、それでも時間は余る。

武術に関しては、生半可な相手では及ばないほど鍛え込んでいるから、到達地点も高い。

余った時間を使って、しばらくの間。黙々と、編み物に励んだ。

一週間ほどして、マフラーが二つできる。

せっかくなので、どちらも里親にあげた。

本当に嬉しそうな顔をしてくれたので、私としては、どう反応して良いのかわからなかった。

ただ、今までくれた愛情に。

分かり易い形で、少しは報いることが、出来たのかも知れない。

 

それから、私は編み物に没頭した。

毛糸を使った編み物だけをするのではない。生地とミシンを使って服を作ったり、皮を用いて手袋を作ったり。

レシピにそって、一つずつ再現していった。

このレシピは、どういうものなのだろう。

手垢で汚れているけれど。これを作った人が、どのような相手に、この数々の品を作っていたのかは、よく分からない。

恋人だろうか。

だとしたら、報われたのだろうか。

それについては、どうとも言えない。はっきりわかっているのは、これを書いた人が、本当に編み物を愛していた、という事。

人生とともにあったと言うだけでは無い。非常に丁寧に作り込まれている幾つものレシピが、試行錯誤の末に産み出されていると、一目で分かるものばかりだ。

勿論、編み物だけはしない。朝晩の修練は欠かさない。

腕を鈍らせないために、時々八極拳以外のトレーニング場にも通った。無心のままスパーリングをしていると、頭がすっきりもする。ただ、やはり訓練は訓練。実戦も積みたいと思うのも、私の業なのかも知れない。

だが、どうも不良を襲撃しようとは思わないのだ。

今まで襲撃した連中は、どいつもこいつも半殺しにして、病院送りにした。戦いとはそういうものだ。

実際私も反撃されて、危ういところだったことは何度だってある。

実戦では、技量差があっても、必ず勝てる訳では無いのだ。不慮の事故によって、とんでもない窮地に陥ることは、いくらでも可能性がある。

それがむしろ楽しいのだけれど。

どうしてだろう。

昔ほど、危険に飛び込んで、全身を奮い立たせようと、思わなくなりつつあった。

ただし、スパーリングをしていると、相手が怖がる事は多い。凄まじい殺気を放っていると、指摘されることもある。

私自身は、やはりまだまだ、裏側に所属する人間なのだと。そういうときに、思い知らされる。

家に帰ると、編み物を黙々とやる。

ミシンを動かして、縫い物もする。

手袋が出来た。

義父にあげた。手袋が古くなっていることを、知っていたからだ。

靴下を作った。

これは自分で使う。自分用の靴下は、孤児院にいたころから使っていたのだけれど。そろそろ、痛みが酷くなってきたからだ。

ニット帽を作ったけれど、これは義母に。

寒くなって来たから、セーターも里親に渡した。二人とも、喜んで私が作るものを、使ってくれた。

三ヶ月が過ぎたころには。

すっかり、余った時間は編み物に使うようになってきていた。

元々大学なんて、行くつもりは無い。

高校を出たら働くつもりだったから、それでいい。

ふと思い立って、作り始めたのは、タートルネックのセーターである。セーターは多少サイズが違っていても、着る事が出来るのが嬉しい。

十日ほど掛けて出来ると。

私はそれを包んで、家に出た。

 

久方ぶりに足を運んだ新古書店。

一階では、相変わらず無精髭の店員が、不機嫌そうに店番をしている。もう少し愛想を良くすれば、多少はましになりそうなのだけれど。或いは、三階の事情を考えると、そもそも売る気が無いのかも知れない。

ただ、品揃えは良いようで、そこそこに売れてはいるようだ。

二階に足を運ぶ。

あの色っぽい長身の女はいた。

カウンターに足を運ぶと、少し驚いたようだった。

「貴方は、以前ここに来たことがあるわね」

「ひょっとして、再訪は珍しいですか?」

「ええ。 何の御用かしら」

「また、アガレスさまに会いたいのですけれど」

眉をひそめる長身の店員。

この間の出来事からも、この女がアガレスと関わっていることは、ほぼ間違いない。少し店員は悩んでいたが、やがて無言で奥のトイレを指さした。

トイレに足を運ぶ。

三分待って、外に出ると。

またあのほの暗い、謎の空間だった。

最初に姿を見せたのはアモンである。彼女は以前と違って、愛想良く振る舞うことがなかった。

いきなり戦闘態勢である。

異物だと、私を認識したのかも知れない。

それにしても、戦闘態勢に入ると、露骨な力の差がよく分かる。此奴、人間じゃないというのは本当らしい。

生半可な使い手では、束になっても捻られてしまうだろう。それほどの、超絶的な次元の使い手だ。

「貴方は、以前ここに来ましたね」

「アガレス様に会いに来ました」

「どのようなご用件で」

「お礼です」

持ってきたセーターを見せる。しばらくの間警戒を解かなかったアモンだけれど。やがて、セーターを渡すと、くんくんと臭いを嗅いだ。

まさかこんな行動に出るとは思わなかったので、驚く。

「毒物の類は無さそうですね」

「あんな可愛い子に、毒なんて盛りません!」

「ん……」

力説する私に、アモンが目を細める。

わずかに警戒を解いてくれたのがわかった。多分だけれど。同じ嗜好の持ち主だと、気付いたからだろう。

アモンが顎をしゃくる。

奥では、山盛りの何かの中、アガレスが埋まっていた。半泣きになりながら、何か組み立てている。

近づいてくとわかったのだけれど。

それはブロックのオモチャだ。凹凸をくみ上げることで、形にして行くもの。ブロックの量からして、相当な超大作を作っているのだろう。

「普段は、お客様が来るタイミングに合わせて、仕事を止めています。 今日は思わぬ来訪だったので、あの通りです」

「可愛いですね! モフモフしたい!」

「でしょう」

もの凄く性格が良く分かる言動である。

アモンというこの女。アガレスが半泣きになるのを影で楽しんでいる。ただ、それでも虐めている様子は無い。

恐らくは、歪んだ愛情表現の一種なのだろう。

しばらく見ていると、アガレスがようやく作業を終えた。できあがったのは、城である。しかも、あれは。

何処かで見た事がある。

西洋のお城のようなのだけれど。正体は、よく分からない。

アモンが咳払いすると、目を拭いながらアガレスが顔を上げた。

「ん、どうした。 お菓子は」

「お菓子はありませんが、お客ですよ」

「どういうことだ。 ゴモリは何をしてる」

「さあ?」

ひょいと私が棚の影から顔を出すと、アガレスが青ざめる。

にっこにこに笑顔を浮かべたまま、セーターを渡す。少し悩んだ後、アガレスは受け取ってくれた。

「お礼です。 どうぞ受け取ってください」

「人間から礼を受け取ったのは久しぶりだ。 まあいい。 あまり長居はするな」

「えー。 涙目で仕事しているところ、もっと見たいんですけど」

「帰れ」

手をヒラヒラと振るアガレス。

気がつくと、追い出されたらしく、家の前に立っていた。

まあいい。

最初はこんなものだ。諦めずに、通っていって、いずれてなづけてみせる。

編み物と一緒に、もう一つ楽しみが出来た。

少しずつ、楽しみが出来ると。

人生の展望も、明るいものに、思えて来始めていた。

 

5、運命の皮肉

 

結局高校を出た私は、そのまま里親の所にいついた。

ずっといて欲しいと言われたこともある。それに、私自身も、ようやく人間らしい感情を、得始めていた、というのもあるだろう。

仕事場は、あの新古書店に決めた。

驚くべき事に、雇ってくれた。

しばらくはバイトで働いた。フルレティに散々言われて、自分の強さを隠すように、工夫はした。

まあ、空手で言うと四段くらいまでの相手なら、力量を隠せるように調整はした。それで、満足はしてくれた。

アモンもゴモリも、通う内に私の事を気に入ってくれたらしい。最近は少しずつ、料理もはじめている。

勿論編み物はずっと続けている。

今では武術と並ぶほどに、私の大事な趣味になっていた。

今日も、軽くトレーニングをした後、帰ることにした。仕事がないから、そのまま帰る事になるのだけれど。

夕刻。

ある夜道で、後ろから迫る殺気を感じた。

こういうときは、気付いている事を示す方が効果的だ。今までも、変質者などに遭遇したことはある。

足を止めて、振り返る。

しばらくすると、夜闇の中。

その人が、姿を見せた。

あっと、思わず声が漏れていた。

忘れるはずもない。その人は。

「まさか……」

「それはこっちの台詞だよ」

かなり老け込んでいるが、間違いない。

私を、あの虐待地獄から救い出してくれた。名前も結局わからなかった、女の人だ。

助けてくれたとき、二十代の後半くらいだっただろうか。今私は十九才。あの時から十年以上過ぎているから、四十の手前になるはずだ。

しかし、もっと年老いているように見える。

以前は非常に平凡な顔立ちだったのだけれど。今ならわかる。明らかに、人生の裏道を歩き続けてきた存在。

戦闘力も。今の私と比べて、そう遜色ない。

あれから、私も相当に鍛え込んだ。八極拳の師範は、考えた末に、組み手をしてくれた。三十分以上の死闘の末、私が勝って。もう何も教えることはないと、半ば放逐するように、師範の免許を手渡されて、道場を除名された。

師範の免許と言っても、実際には使い道なんて無い。事実上、もう手に負えないと言われたのと同じだ。

体格差を、スキルの差が上回ったのである。

わずかな距離を置いて、相対する。

「あんた、少しばかりやり過ぎたね」

「どういう、事ですか」

「あんたがぶっ潰してきた不良の親の一人が、暴力団の関係者でね。 回り回って、私に仕事が来た。 そう言うことさ。 しばらく海外にいたんだが、日本に戻ってきた途端にこれだ。 どういう運命の巡り合わせ何だか」

どうして私の事を突き止めたのかは、聞かない。

ただ。わかっているのは。

実力は伯仲。しかもこの人は、私と違って、実戦で自分を鍛え上げてきた、プロ中のプロ。

私も実戦は積んでいるけれど。

この人がやってきたのは、本物の殺し合いの筈だ。何というか、放っている気配で、わかるのだ。

「今なら、わかります。 あの虐待婆をぶっ潰して追い払ったのは、貴方なんですね」

「あんまりに気の毒だったんでね。 本当に、大きくなったようで良かったと、言えないじゃないか」

「その後、あの婆は」

「この間興味が湧いたから、調べて見た。 もうとっくに死んでいたよ。 重度の薬物中毒になって、ラリって高速道路にさまよい出て、数台の車に轢かれてね。 死体はぐちゃぐちゃに潰れて、判別もつかないほどだったそうだよ。 借金まみれで葬式は関係者がずっと監視していたらしいし、死体の引き取り手さえ現れなくて、無縁墓地に葬られたんだとか」

そうか。

クズはクズに相応しい報いを受けた、という事か。むしろ轢いてしまった人達が、気の毒かも知れない。

ただ、報いを受けるというのなら。

私も、今がその時なのかも知れない。

自分だって、色々と罪を重ねた身だ。クズを相手にしていたとはいえ、言い訳をするつもりはない。

それに、今まで鍛え上げてきたことも無駄になった。奴が現れたときブチ殺すことを目的としていたのに。

もう死んでいたのなら、どうしようもない。

昔だったら、どうしていただろう。

実力は、互角。ただしそれはスキルや身体能力の話。経験は相手の方が格段に上。ならば、勝負は乾坤一擲。バトルジャンキーである以上、必ず戦いを挑んだはずだ。

でも、今は。

同じバトルジャンキーでも、私の中で、何かが確実に違っていた。

「お好きに。 貴方になら、何をされても文句は言いません。 ただ、里親には、私が死んだことは伝えてくれませんか」

「……」

戦闘態勢を解く。

このレベルの使い手が相手なら、一瞬で死ねるはずだ。相手も私の対応を警戒して、一瞬で殺すしかない。

里親とは心が通じた。

今では、本当の両親だとも思っている。

編み物を通じて、いろいろな恩返しも出来た。自分が作ったセーターを寒い日に着てくれているのを見ると、本当に嬉しくもなる。

これが親子の愛情なのだと感じると、幸せだとも思う。

だけれど、私は業を抱えている。

戦いが大好きで。相手を叩き潰して、半身不随にするのも大好きという。救いがたい業。

何かを作るようになってから、それが如何に度しがたいものなのか、ようやくわかりはじめてきた。

実際、どんなゲスでも、好き勝手に叩き潰すまでは良くても。彼処までの負傷をさせるのは、明らかにやりすぎ。罪があると言うのなら、あるだろう。

だから、死ねるのなら。

それは拒まない。

大きく嘆息する彼女。

「そんなつもりはないよ。 ただ、これ以上は流石に控えてくれるか」

「私も……業を抱えた身です」

「わかってる。 何か別の趣味でも作るんだな。 私のようになる前に」

自分はもう、路を引き返すことが出来ないと、彼女は言う。

生い立ちを、話してくれる。

北九州に生まれて。闇金業者に人生を滅茶苦茶にされて。両親は臓器を売買するためにその場で惨殺されて。

自身は変態に好き勝手にさせるために、海外に売り飛ばされそうになって。

たまたま逃げられた後は、海外の軍に入って。経験を積んで。

そして日本に帰ってきて、関係者を全員殺した。家族までも、容赦なく、苦しめながら皆殺しにしたという。

復讐は達成したが。既に、自身は、取り返しがつかないことになってしまっていた。殺戮と硝煙が、身についてしまっていたのだ。

理性を、狂気が上回ってしまっていた。

「ほとぼりが冷めるまで、この国で待とうと思っていたんだけどね。 私の体の中で、ささやくんだよ。 殺せ。 血が見たいって。 何がささやいているのかはわからないけれど、きっとそれは悪魔か何かだろうね」

悪魔か。

それには会ってきた。だからわかる。

この人に悪事をささやいていたのは。きっと悪魔などよりも、遙かにおぞましいものだろう。

多分、人間としての本能そのものだ。

「すぐに私は海外に出て、前々から声が掛かっていた民間軍事会社に入ったよ。 紛争地域に今でも足を運んで、敵を殺さないと、体が浮つくようで落ち着かないんだ。 多分その内、どうしようもないくだらない死に方をするだろうね」

そう語る彼女の目には。悲しみもなければ、自分への憤りもなかった。

ただ淡々と、事実のみを告げている。そんな、人間を止めてしまっている存在の、「異質」だけが存在していた。

嗚呼。この人は。

いや、もう彼女は。きっと、人間ではなくなってしまったのだろう。

彼女の言うように、死ねるかさえわからない。私はその存在を、恐ろしいとは思わなかった。

「わかったね。 私のようになるんじゃない」

それが、親の最後のアドバイスだと、私は理解した。

マフラーを取り出す。

いつかの時のために、編んでいたものだ。手渡すと、彼女は、ようやく人間らしい感情の一片を、目に宿した。

「何だ、人間らしいことも出来るじゃないか」

「あげます。 私が作りました」

「そうか。 良く出来ているマフラーじゃないか。 暖かくていいね。 じゃあ、これを貰って、仕事の報酬にしようかね。 どうせ依頼主は仕事が終わった後に叩き潰そうと思っていたし、それでいい」

これから、さぞや血の雨が降るのだろう。

あくまで互角なのは、身体能力のみ。

この人は躊躇なく銃も使うだろうし、海外で実戦経験も豊富すぎるほどに積んでいる。生半可な暴力団なんか、寄せ付けもしないだろう。

明日のニュースで、暴力団が抗争の末壊滅とか出るのは、明らかだった。

いつのまにか、私の本当の意味での母は、姿を消していた。

そういえば、手に持っていたのは何だろう。あれは。古い時代の剣のように思えたのだけれど。

どうしてそんなものを持っていたのだろう。

ひょっとして、あれは、よりどころだったのだろうか。

あんな人にも、弱みがあったのか。そう思うと、何だか肩の荷が下りたようだ。

まだ血統上の母親とはあっていないけれど。もう、これで何というか、満足した。

これからも武力を衰えさせるつもりはない。

でも、戦闘経験をこれ以上つもうとは、思わなかった。

幸いにも、私には服飾という趣味が出来た。まだまだ充分な腕前とはいかないけれど。これを伸ばしていけば、きっと。

抱えている業にも、対抗できるはずだ。

いや、そう努力していかなければならない。本当の意味での母が、こうして私に、機会をくれたのだから。

 

鼻歌交じりに作るのは、制服である。

元々独立企業の新古書店。しかも気配でわかるけれど、働いているのはみんな悪魔ばかり。

だから、私が人間社会になじめるように、手助けしてあげなくてはならない。

アモンさんとアガレスさまは、滅多な事ではお店には降りてこない。それでも、必要なときのために、作ってあげようと思っていた。

「母」が、二階から降りてくる。

里親の彼女は、私と編み物が出来る事が、嬉しくてならないらしい。既に老い先短い事を諦めているようだけれど。

死ぬまでの楽しみが出来たと、時々喜んでいた。

二人でしばし、編み物をする。

私は散々業を積み重ねてきたけれど。編み物をしていると、少しずつ人間らしい感情が生まれてくるのがわかる。

いずれ結婚して、子供を産んだとして。

その時に、同じような失敗は、絶対にしない。

私を虐待して殺そうとしたあの腐れ婆や、おいて蒸発した産みの親のような。あのような連中とは、一緒にならない。

私のような怪物を、また作ってはならないのだ。

一つ仕上がる。

ミシンも最近は、手足のように動かすことが出来る。少し古いミシンだけれど、怪我をしないように工夫が幾つもされていて、とても安全に使う事が出来る。型紙の扱いも、編み物棒の動かし方も。

もう、誰にも言われずにも、こなせるようになっていた。

「おや、随分早くなったねえ」

「練習したからだよ」

「ふふふ」

里親は喜んでくれる。

この様子だと、あと数日以内に、全ての服が仕上がるだろう。そうしたら、お揃いの制服で、仕事が出来る。

最近は私服で仕事をする職場もあるようだけれど。

やっぱり、制服で仕事が出来れば、それはそれで嬉しい。連帯感というか、一体感があるからだ。

できあがった服を、職場に持っていく。

フルレティさんは、見かけが怖いし無愛想だけれど。話してみると、真面目で優しい面もある。

多くの悪魔は、単純に人間の心の闇を食糧としているだけで、実際には真面目だと言う事が、接してみてわかった。

無駄な殺しもしない。

フルレティさんに言わせると、昔はそうでも無かったとかいう話だけれど。

ただ、天使などに比べると、無駄に人間を殺すようなことも、なかったのだそうである。

ゴモリさんはどうやったらそんなに育つのか、羨ましくてならない胸の持ち主だ。元々彼女は人間が好きという変わった悪魔だったそうで、私にもよくしてくれる。時々二階にもヘルプではいるのだけれど。

ゲームには殆ど知識がない私と、一緒に四苦八苦しながら仕事をすることがある。

優しいお姉さんは、側にいて和む。

孤児院にも、面倒見が良い年上の子はいた。でもその当時、私はその優しさに気付けなかった。

今度会ったら、優しくしてくれて有り難うとお礼を言いたいけれど。そんな機会は、もうまずないだろう。

後悔はある。そう言う生き方をしてきてしまった、自分に。しかし、私の業は、簡単に克服できるものでもなかっただろう。

滅多に職場に来ないダンタリアンさんは、私と殆ど同じ背丈と体格。

私にはあまり興味が無いらしい。話しかけても、あんまり嬉しそうにはしない。ただ、可愛いので、アガレスさまのようにもふもふしたい。嫌がるところを、もふもふしたい。

ゲームもアニメも大好きという、筋金入りの変わり者だ。何でも芸術全般が好きだとかで、才能がある人の所に出かけていっては、才能を徹底的にしゃぶり尽くすまで戻ってこないそうだ。

それであまりにも戻ってこない場合は、アモンさんが連れ戻しに行く。

一度コブを作って、目を回している状態で、襟首を掴まれて引きずられていく様子を、見た事がある。

たまに職場に来ると、値段の設定とかで大忙しにする。

ゲームに関してはとにかく詳しいそうで、アモンさんもこの人の仕事には、絶対の信頼をしているそうだ。

さて、アガレスさまとアモンさん。

アモンさんは、ずっとずっと昔から、アガレスさまの友達だという。確かに主君と部下という関係にしては随分と気安い。

時々三階に出かけていって、アガレスさまで一緒に遊ぶのだけれど。

仕事をさぼっているところを怒るのが楽しくてならないと、時々顔に書いている。食事を抜きにするというと、アガレスさまは幼児みたいな顔で悲しむので、それが可愛くてならないのだろう。

かといって、アガレスさまを馬鹿にしているわけではない。

きちんと一線は引いているし、食事の際にはきちんとしたものをだす。多分仕事をきちんとするように仕向けているという意図もあるはずだ。

アガレスさまは、話を聞く限り、今凄く力を落としているらしい。

だから食事が必要。

おやつではなくて、本来の食事。

つまり、私にしたような。心の闇を食べる事だ。

そのためには、多くの対価を準備する必要がある、という事なのだろう。

ただ、食事の材料は、アモンさんがどこからか用意しているようだ。材料がどこから出ているのかは、私にはよく分からない。

ただ、最近は私も一緒に料理をさせてくれる。

殆どはお菓子作りなのだけれど。

私が食べても問題ないから、多分おかしな材料ではないのだろう。ただアモンさんは、下で働いている悪魔達よりも更に高位の存在らしいので、ひょっとすると原材料は想像しない方が良いものなのかも知れない。

アガレスさまはいつも可愛い。

ただ、食事を。人間の心の闇を食べているときだけは、此処に入れてくれない。

その時だけは、悪魔としての本来の姿をしているのか。それは私には、よく分からないのだけれど。

いずれにしても、下の店には、時々冷やかしで来る子がいるのは事実だ。

そう言う子は何となく勘でわかる。

だから、たまに苦言をするようにしていた。

「はい、制服ですよ」

「んー」

最後に、アガレスさまに、制服を渡す。

しばらく興味なさそうに見ていたけれど。アモンさんに言われて、渋々着替える。着替えた後は、鏡に自分を映したりしていたけれど。どうもぴんと来ないようだ。

「下の連中にも、これを配ったのか」

「そうですよー」

男子の制服とは違うけれど。基本的には同じ。

可愛らしすぎず。

硬すぎず。

動きやすくて。

それでいて仕事着すぎない。

全体的には白を基調としていて、青のラインを入れている。ネームプレートはあまり存在感を刺激過ぎない灰色。

いろいろなところの制服を研究して作って見たのだ。

フルレティさんは、無精髭にへの字口のまま、着てくれている。ゴモリさんも嬉しそうに着てくれていた。

アモンさんは、どうなのだろう。

普段のメイドルックの方が好きなようなので。それに下のお店に出ることも無いだろうし、着てくれるかはわからない。

勿論私は、既に着ている。

「悪魔と人は相容れない。 それはわかっているのだろう」

「ええ。 でも、私はアガレスさまが大好きです」

「……そうか」

嘆息すると、だるそうに、アガレスさまは机に突っ伏す。

今日はもう戻るようにアモンさんに言われたので。頷いて、二階に下りることにした。

 

「告げないんですか」

アモンが笑顔のまま言う。

わかっている。そんな事は。ただ、長い年月生きてきたのだ。私と関わろうとする人間も、いなかったわけではない。

彼奴は。猪塚篠目は、悪魔と接しすぎている。

確かに相応の武力はあるし、生半可な相手には屈しないだろう。だがそれにも、限界がある。

いずれ、あの娘は。

人では無くなっていく可能性が高い。

悲惨なのは、中途半端に人では無くなってしまった場合だ。あれだけ鍛え込んでいるからそう言うことは無いだろうけれど。

「悪魔になってしまったとしたら、それはそれだ。 それにあの娘、うすうす気付いているのではないのかな」

「そうですね……」

「分かっている筈だ。 あの身に秘めた業を押さえ込んでいられるのは、編み物という趣味の存在だけでは無い。 人間から離れつつある事が、精神の狂気を制御することにつながっている」

もはや、暴虐に手を染めたくない。

だから、うすうす気付いていながら。馬鹿のフリをして、ここによく来ているのだろう。

まあ、人間が選ぶ事を拒みはしない。

新しい悪魔は生まれない時代だ。

悪魔になる奴がいても、罰は当たらないだろう。

PCを弄っていると、どうやら次の餌が掛かったらしい反応があった。嘆息すると、アモンに指示。お客様を迎える必要がある。

まだまだ。

呪いを内側から破り、全盛期の力を取り戻すには。

闇が、あまりにも足りなかった。

闇が足りても、呪いをどうにか出来るかはわからないのだ。むしろ、どうにか出来る可能性は、極めて小さいと言える。

それでも、アモンは本気で取り組んでくれている。アガレスも、それに応えていきたいのだ。

「次はどんな方でしょう」

「さてな」

わからないが。

分かっている事もある。

人間の世界には。深くてどうしようもない闇が。今もみちみちているという事だ。

 

(続)