血塗られた月

 

序、古くからの伝統

 

血の宿命などと言うものはないけれど。

しかし、親から夢を託される事はある。

運命は決められていないけれど。

皆を養うために、路が決まっている例はある。

平野木稲(ひらのこのみ)は、東北にある酒作りの家に生まれた。今年で二十四歳になる。

江戸時代から続く酒蔵の娘である。長女であり、弟と妹がいる。

大学まで出た後は、現状仕事をしているが。既に将来どうするかも決まっている。農工大の農工学部を出て、酒にも用いる麹の研究までしたのだ。後は適当な夫を捕まえてきて、跡継ぎを産むことだけ。それだけが、一族に求められていた。

嫌とは言えない。

木稲は知っているからだ。

幼い頃から、会社経営が如何に厳しい物かということを。

老舗でも、今の時代は、安定して儲かるという事は無い。

情報戦略に経営戦略。いずれもしっかり考えて行かないと、すぐに新進企業の波に呑まれてしまう。

かろうじて中規模な酒蔵であることを維持し続けてきた実家だけれど。

木稲が知る限り。成人するまで、二回、潰れかけている。その二回ともどうにか会社の倒産は避けたけれど。

出来るだけ急いで、出来る男を捜せ。

木稲はそう言われもしていたし。自身でも、焦ってはいた。

自身は、酒の研究を大学でしてきた。農業大学での研究だから、相応に本格的なものだ。今なら、酒がどういう流れで作られるのに加えて。どうやって酒が出来ていくかも、そらで最初から最後まで言う事が出来る。

自分の酒蔵についても、完璧に熟知していると言っても良い。

だが、わかっているのだ。

そんな事は、自分が望まれていることでは無いと。

望まれているのは、一刻も早い子孫の作成。

夫でさえ、本来はいらない。

将来のこの家のために、子供を産むこと。はっきりいって、両親は木稲が大学に行くと言うことさえ、あまり好ましく思っていなかった節がある。

考え方が古いのではない。

生き残るために必死なのだ。それがわかっているから、自分を殺すことは、何でもないと思っていた。

少女漫画みたいな恋に憧れた時期だってあった。

だがそれも昔。

今は、黙々と婚活をして、適当な夫を探している日々である。ただし、そんな暇も、実際には無い。

もうろくが進んでいる父は、現状事実上経営には関わっていない。歩くことも困難になっていて、杖も使っていた。

父より二十も若い母は元々無学で、父の補助を出来るような状態にはない。他にも子供はいたのだけれど、弟は紆余曲折の末何処かに行ってしまった。今では連絡の一つも取れない。生きているのかさえわからない。ヤクザになってしまっていたり、悪い友人とつるんでいないことを願うばかりだ。

妹はまだ六歳で、何もわからない状態だ。この子に何かを背負わせるのは、あまりにも過酷すぎる。

今日も酒蔵に足を運ぶと、従業員達から話を聞く。酒の状態は、問題なし。頷くと、酒蔵のチェックを従業員達に任せた。こういった作業は部下に任せることで、信頼を作る事が重要なのだと、木稲は経験的に知っているのだ。

朝の作業が終わったところで、事務所に出向く。

父はもう事務職をはじめとした、作業が出来る状態にはない。

母はもとより、会社に出たことが殆ど無い。

事実上、今この酒蔵を。

そして、それに付帯する会社を。

仕切っているのは、若干二十四の木稲だった。これは決して良い事ではないと、木稲自身を含めて、誰もが知っている。

才気煥発などと言う性質ではないし。経営に関する才能だって、自分でもあるとは思えない。

毎日四苦八苦しながら、遅くまで作業して。

それでどうにか会社が潰れるのを防いでいる状況だ。

取引先だって、いつまでも安泰ではない。今年に入ってからも、中規模の取引先が二カ所も潰れた。

新しい取引先を開拓するために、彼方此方に足を運んでいるけれど。

安定など、夢のまた夢。

大規模な取引先を一つでも見つけられれば、楽にはなるのだけれど。そういった取引先は、もっと大手の酒蔵とつるんでいる場合が殆どで、今更木稲が割って入る事など、出来そうにも無かった。

銀行の融資だって、安泰ではあり得ない。

それくらいのことは、木稲もよく知っていた。今の時点では黙っているけれど。父の時代には、何度も青い顔をした父が、銀行に出向いていたことを知っている。いつでも、木稲の酒蔵なんて、銀行に捨てられる。

金の関係はシビアだ。

其処には、人情だとか、絆だとか。そんなものは生じない。

そして生きて行くには。

少しでも多くのお金が必要なのだ。

木稲だけの問題ではない。此処で雇っている人達のためにも。木稲がしっかりしていかなければならなかった。

従業員達を帰した後、作業を黙々と続けて。

一通り終わったのが、十時半。

肩を揉みながら、自宅になっている離れへ。シャワーを浴びて、適当に夕食を食べたら、もう寝るだけ。

妹は父母に任せているけれど。

それもいつまでもいるわけではない。特に父は、そろそろ老人ホームに入れないと、危ないだろう。

いつ倒れても不思議では無い。

時々定期検診を受けさせているけれど。若いころからずっと無理をしていたのだ。体の中はガタガタ。

呆けてしまった後は、何が起きても不思議では無い。

母だって、会社には出ていなかったけれど。家を支えて、ずっと無理を続けてきたのだ。

いつ、体を壊しても、おかしくはないだろう。

そうなったら、家政婦でも雇うしかない。

何もかも、お金が足りない。

時々、銀行が言ってくる。

大手の企業の傘下に入ってしまえば楽だと。

しかしそうなると悲惨だ。大手企業が言うままに、奴隷のようにこき使われることになる。

従業員の多くも、解雇しなければならなくなるだろう。

彼らの中には、年老いてしまっている者もいる。解雇したら、生きていけない。ずっと働いてきてくれた人間を、金の論理に基づいて、殺さなければならなくなる。そんな事は、木稲には出来ない。

鏡に、自分を映す。

長い髪は、手入れも殆どされていない。若いころは綺麗な髪だと言われていたけれど。今では、所々に枝毛も目立っている。

地味な顔は、化粧をしてやっと人に見せられる。

体つきだって、それほどグラマラスなわけではない。

事実上の社長ではあるけれど。こんな不安定な仕事を続けている会社に、婿に来てくれる人間がいるだろうか。

最悪の場合、養子でも。

いや、それは好ましくない。弟が逃げ出さなければ、少しはマシだったのだけれど。彼奴のことは、もう思い出したくも無かった。

結局眠るのは、日付が変わってから。

起きるのは、当然六時前。

酒蔵の状態を確認して、問題が無いことを見てから、事務所に出る。

真面目に仕事をしているのではない。

無能だから、こうでもしないと、仕事が終わらないのだ。

従業員が出社してくるころには、今日の作業が大体固まる。幸いにも、今日は隣町に出張して、取引先との会合があるので。事務作業は部下達に任せられる。

しかし、酒蔵の状態によっては、飛んで帰らないとならないだろう。

せめて、何かしらの売りが酒にあれば良いのだけれど。

良くも悪くも凡庸な酒で、今更特殊な売り込みをするのは、正直な話厳しいところがあるのだった。

 

会合は二時には終わり、そのまま帰路につく。

車も勿論自分で運転。タクシーなど、使っている余力は無い。携帯を確認するけれど、掛かって来ている電話はなかった。

一応事務所に連絡。

特に問題は起きていないと聞いて、ほっとする。

隣町まで来ているので、他の取引先にも何カ所か顔を出し、四時に帰路につく。三十分ほど車を運転して、山道を通り。そして、自宅に。

従業員達に何も無かったか直に聞いた後、上がれる人間は帰らせる。

酒蔵の主のようになっている老従業員が、少し気になることを言った。

「ちょっと三番樽の様子がおかしい」

「まさか、火オチ?」

「今の時点ではないが、不安はある」

火オチ。酒の天敵である。

最近では対抗策がきちんと講じられるようにはなったが、それでも一昔前までは、ひとたび発生すると酒蔵が潰れるほどの損害を発生させた菌。しかも、何年にもわたって被害を継続させた。

これが入ると、酒が著しくまずくなるので、商品としては成り立たなくなってしまう。

対応策は、今の時代ならある。

木稲も知っている。

だが、対策をすると、酒の味が少し落ちる。元々平凡な味しかないこの酒蔵だ。致命的な状況を生じさせかねない。

今までも、火オチが湧いたことはあった。

この酒蔵の歴史は、少し生活が楽になってきたと思ったら、火オチで酒が壊滅するという、悪夢の循環から成っている。

幸い木稲の時代になってからは、まだ一度も無いのだけれど。それでも、同じ悪夢を繰り返すわけにはいかない。

正確には同じ事をやってしまうと、もう耐える体力がない。

父の時代にはまだマシだったのだけれど。今のこの酒蔵は、文字通り青息吐息だ。自転車操業とまではいかないが、かなり厳しい状態が続いている現状、火オチなど発生したら、どうしようもなくなる。

「念入りな消毒と、監視の強化」

「わかった」

年配の従業員が頷くと、ついでだといって、三番樽を見せてくれた。

専門的な勉強をして来ている木稲の筈なのに。今までと、違いが全くわからない。この辺り、経験の差が物を言っているのか。

この老人は、木稲が生まれる前から、この酒蔵で働いている超ベテランだ。頼りになる。分からない事は多分無い。

ただし、今までもっと美味しい酒を作る事が出来なかったのも、彼らベテランに一因があるのだけれど。

何がまずいのか、幾つか説明を受ける。

だが、先の命令を、もう一度する以外、木稲に選択肢はなかった。

 

事務作業を終えると、今日も深夜だ。

自分の肩を叩きながら、木稲は思う。このままではまずいと。わかってはいるのだけれど、どうにもならない。

老従業員は、これから数日、泊まり込みで状況を見てくれるという。

有り難い話だけれど。

多分、対処療法しか出来ないだろう。

他の酒樽に火オチが出てしまったらおしまいだ。最悪三番樽の中身だけ廃棄する状況に押さえ込みたい。

ただし、その場合も損害は決して小さくない。

美味しいお酒を、作れば良いのだけれど。

無数の酒蔵がしのぎを削っている現代、簡単に新しい製法で、美味しいお酒なんて、作れるはずがない。

確かに大量生産のカップ酒何かよりはずっと美味しい自信もあるけれど。

しかし、今時地酒なんて、スーパーでいくらでも売っている。それらのおろし業者が扱っているのは、どれも木稲の酒蔵のものよりも、同等かそれ以上の味を誇る品ばかりなのである。

誠実な商売を続けているから、お客だけは離れていないけれど。

逆を言うと、それ以上でも以下でもない。

いつの間にか、デスクに突っ伏して眠っていた。

目を擦って起き出すと、自室へと戻る。シャワーだけは浴びたけれど、とてもちゃんとした食事を取る余裕などない。

荒れ放題の肌。

まだ二十代前半なのに。

男を捜すどころではない。

それに何より、わかりきっているのだ。

このまま時間だけが過ぎていくと。

そもそも、木稲が求めている夫は。経営がきちんと出来て、従業員達を見捨てないという、二つの点をカバーしている必要がある。

そんな都合が良い相手、いるわけがない。

年収が一千万以上で、コミュニケーションが出来て(つまり自分にとって都合が良いことしか言わなくて)、金を好き放題使わせてくれるイケメン、などと恥ずかしげもなくほざくつもりは一切無い。

木稲の場合、夫に求める条件は、会社存続のための必須事項。

己の欲から来るものではないのだ。

一眠りしたら、すぐに会社に出る。気分転換なんて、する余裕さえも無い。実際の所、中学のころから、事務の補助くらいはしていたから、仕事のやり方はわかっている。しかし、大学を出て二年も経ってこれだ。

木稲は、自分が無能なことを、熟知できていた。

従業員達が出てくる前に、ちょっとだけニュースなどを検索していると。

ふと、気になるものがでてきた。

都市伝説特集。

其処には、書かれている。

何でも願いが叶う店の噂が。

 

1、怠け者二柱

 

ゴモリから苦情が来た。

またダンタリアンが戻ってこないのだという。アガレスは小さくあくびをすると、いつものことだろうとぼやいた。

知識の魔神であるダンタリアンは、人間社会に溶け込んでいる変わり種である。ソロモン王72柱と呼ばれる古くからの魔神の中では、極めて人間に友好的な一柱であり、仲間内からも変な奴として扱われていた。

アモンが、今回は少しばかり違うと、補足してくれる。

「普段だったら連絡だけは入れてくるそうなのですけれど。 今回は、それさえなしのつぶてだそうでして」

「何だ、男でも作って遊んでいるのか」

「その可能性は低くないでしょうね」

嘆息。

アモンに探しに行くよう指示すると。忠実なメイドは、すぐにその場からかき消えた。

しばらくは、アモンが残していった作業を片付ける。面倒くさいが、そうしないとアモンが帰ってきたとき、何をされるかわからないからだ。

怖いと言う事は無い。

彼奴の機嫌を損ねると、お菓子が食べられなくなる。

それに、アガレスは内心では孤独が怖い。これは最近わかってきたことなのだが、多分アモンも同じだ。

上級悪魔が、孤独を怖がっているのだから、ちょっとおかしな話だけれど。ただ、人間の闇をエサにしているように、悪魔と人間は共通項が多い。心も、その一つなのだ。

黙々と、ビーズ細工を直す。

ビーズと言ってもこれは、家庭用のプラスチックビーズではない。宝石を加工した、王侯が身につけるような高級品だ。

ある中東の金持ちが所持していた品なのだけれど。

数年前に戦禍に巻き込まれて、文字通り火の中に消えてしまった品なのである。それをアモンが回収してきたのだ。

最初は文字通り消し炭だった。

だから、二年ほど掛けて再生した。今は再生が完了した品を、アガレスが黙々と直している。

構造は一目で理解したので、作業は極めて単純。

ただし、何しろ構造そのものが複雑だ。単純作業を、延々と繰り返すことになる。ビーズに糸を通して、またビーズを取る。

しばらく繰り返している内に、綺麗な立方体が出来てくるけれど。

まだまだ、完成には遠い。

指先が疲れてきたし、めもしばしばする。アモンの帰りが遅い。あくびをしていると、不意にアモンが戻ってきた。

引きずるようにして、ダンタリアンも一緒だ。

「今戻りました」

「早かったな」

「ダンタリアン」

「いやー、すみません」

へらへらと笑いながら頭を掻くのは、二階の経営を任せているダンタリアン。本来は知恵を司る堕天使なのだけれど。

爆発的に文化が発展する地域には目がなく、かってはフィレンツェでいろいろな芸術家を相手に遊び狂っていた。

そして今では日本だ。

日本では、様々な漫画家や絵師の所に行っては、情報を吸い上げているという。

一方で小説家には興味が無いらしく、時々酷評しているのを、アガレスは聞いている。

もっとも、此奴は経営のためにたまに帰ってくる程度。

普段はゴモリに仕事を任せっきりで、顔も見せない。

姿を自在に変える悪魔だが、今はツインテールに髪をまとめ、思い切り可愛いピンク系の衣装に身を包んだ、かなり幼げな顔立ちの女子になっている。これはその方が男を引っかけやすいからだろう。

此奴の正体は、頭を複数持つ、本が無数に重なり合ったような姿をした魔神だ。

全力で戦闘するときに、悪魔は姿を現すのだけれど。

殆どの場合、その正体は、人間とあまり変わらない。

此奴の場合が、特殊なのだ。

ちなみにアモンも特殊な方である。一方で、ゴモリやアガレスは、ほぼ姿が変わらない。

「今回はどうしたのだ」

「いやー、なんつーか。 神がかった才能の絵師がいましてね。 そいつから情報を吸い上げまくってたら、つい夢中になっていて」

「それで?」

「わかってます。 仕事はします」

ダンタリアンは、元々戦闘タイプの魔神ではない。

昔から戦いの時には後方支援が中心で、72柱の中でもあまり戦闘を好むタイプではなかった。

人間社会との関わり合いも、どちらかと言えば情報の吸い上げが中心。

しかも、そいつの持っている情報を自分のものにしてしまうというような事も無くて、きちんと礼もしている。

ダンタリアンの場合は、その人間をメジャーデビューさせてやることが多い。

日本でもそうだが。

フィレンツェでも、そうやって何人もの画家を、歴史に残る作家へと押し上げた。

「アモン、溜まっている仕事を任せてやれ」

「わかっています」

ひょいと子犬のようにダンタリアンをつまみ上げると、アモンが闇の中に消える。

二階に向かったのだ。

嘆息すると、アガレスは作業に戻る。ビーズ細工は、まだまだ残っている。これを片付けておかないと、あまいお菓子にありつけないのだ。

 

一通り作業が終わって。

ぐったりしていると、アモンが戻ってきた。

ゴモリと一緒に、ダンタリアンの仕事を監視していたという。

ゴモリはなんだかんだで優しくて、ダンタリアンにも甘い。だから、アモンがついていて、監督することが多いのだ。

「アガレス様、作業は終わりましたか」

「んー」

ビーズ細工を手渡しする。

何重にも連なったネックレスだ。とても美しくて、重なり合った光が幻想的でさえある。確か時価総額は六億とか聞いているが、その値段も納得する豪勢さだ。

しばらく机に突っ伏してぐったりしていると、カプチーノを持ってきてくれる。

甘くて美味しいカプチーノは大好物だ。

無心に啜っていると。

珍しく、アモンが肩を叩いているのが見えた。

「どうした、壮健なお前らしくもないな」

「ダンタリアンを探しに行く途中、ミカエルと遭遇したんです」

「やり合ったのか」

「軽くじゃれ合った程度です。 ただ、戦い方がどうにも陰湿で、疲れました」

面倒くさい事を仕掛けてくる。

ミカエルは以前の戦いで、戦闘力の大半を失っている。そうなると、恐らくはアガレスと同じように、魔術中心の戦いを挑んだのだろう。

アモンは逆に前線で戦うタイプだ。

相性は、良いとは言えない。

「アガレス様を、やはり狙っているようでした」

「そうかそうか」

「天界側に通報しますか?」

「放っておけ」

ミカエルはメタトロンと並ぶ最強硬派の一人。放置しておくと面倒な反面、側で泳がせておけば、天界の動きが読みやすいという利点もある。

アモンは今回気の毒だったが、ダンタリアンにも教えておけば、釘を刺すことにも成るだろう。

それにミカエルは元々軍神で、かなりおっちょこちょいなところがある。

もしもドジを踏んだところを捕まえれば、現在天界で実権を握っているガブリエルが黙っていないだろう。

つまり、泳がせておいた方が良い。

小さくあくびをすると、アガレスは空になったカップを下げさせる。

そしてPCを操作して、餌になりそうな心の闇を持つ人間を探した。どうもここのところ不作で、丁度良いのがいないのである。勿論東京近郊だけではなく、日本全国で餌を探してはいるのだけれど。

「どれも小粒だなあ」

「小粒でも良いから、呼びつけてみますか?」

「気が進まん」

食事の対価はコレクションだ。

悪魔は基本的に、契約を必ず守る。人間とは違うからだ。

対価を払うと言ったら払う。

アガレスもその例外ではない。だから、小粒でも食事をした場合、大事なコレクションを手放すことになる。

勿論、小粒であっても、此処までたどり着けた人間には相応の敬意を払って、きちんとコレクションを進呈するけれど。

わざわざ、敢えて小粒なものを此処に招こうとは思わない。

けちなわけではない。

ただ、毎度毎度コレクションは、苦労して磨き上げて、使えるようにしているのだ。悪魔だって心は持っている。

対価には相応のものがほしいのである。

一つ、有望なのを見つけた。

しかし場所が東北だ。此処まで来られるだろうか。

「今度のは、二十代の女性ですか」

「だが、此処まで来られるかはわからんな。 まあ、様子を見るとしようか。 もう一杯、カプチーノくれ」

「駄目です」

どんと、今度目の前に置かれたのはセーターだ。

カシミヤの高級品で編まれていて。ふんわりと柔らかく、デザインもしゃれている。

さっきの時価数億のビーズ細工に比べると値段は下がるけれど。

これは中々に価値のある品だ。いわゆる愛情がふんだんに込められている。

編み物棒を渡されたので、それでちくちくと縫い目を調整する。

「この品は?」

「編み物だけが生き甲斐だった女性が、人生の最後に作り上げた品です。 彼女は孤独死してしまい、部屋にあったものはこれも含めて全て廃棄されてしまいました。 孫のためにと作ったものだったのですが、死臭が酷く染みついていて、廃棄されてしまったようですね。 もっとも、孫は祖母を嫌っていて、セーターのことなど見向きもしなかったようですが」

「そうか……」

臭いはアモンが取ってくれている。

元々燃やされてしまったセーターだ。着られるところまでは回復したけれど、後はアガレスが微調整するしかない。

ため息をつくと、編み物棒を動かす。

案の定相当な執念が染みついているし。調整には手間が掛かるだろう。

人間の業は、様々な宝を産み出す。

このセーターもその一つだなと、アガレスは思った。

 

2、導き行きて

 

会合に出た木稲は、肩を叩きながら自家用車に乗り込んだ。

周りは二回りも年上のおじさんばかり。そもそも女性で酒蔵を切り盛りしているというのが、極めて珍しいのだ。

それに、今は何処の経営も厳しい。

何処の酒蔵が潰れただの、経営が厳しいだの。

明るい話は、全く無かった。

たまに、景気が良い話も出てくるけれど。それも、長続きしないことが多かった。

少し前まで、可愛らしい絵を付けて商品を販売していた酒蔵が、稼ぎを出していたのだけれど。

その酒蔵も、今では売り上げが落ちて鳴かず飛ばずだ。

いわゆる萌え絵というそうだけれど。

木稲には、何が受けるのか、さっぱり理解が出来なかった。可愛いとは思うのだけれど、ターゲット層が男性主体で、多分女性が可愛いと思うのとは基準が違う。幾つか類例を見てみたのだけれど。売れている絵と売れていない絵の差が判別できない。

手を出すには、リスクが高すぎる。

販売戦略としても、あまり好ましいものとは思えない。もう少し同じような商売が各地で利益を上げるならば、手を出したいのだけれど。

今の時点では、あまりにも分が悪い賭だった。

そして、そんなものに手を出して、社員達を路頭に迷わせるわけにはいかない。せめてお酒を少しでも美味し造れれば。話は変わってくるのだけれど。

会合で、酒を造るコツについて聞いたこともある。

だが、いずれもが、教えてくれないか、要領を得ないばかり。

それにこの近辺の酒蔵の味は、何処も似たようなレベル。特に傑出して上手い酒を造る蔵などは存在しない。

所詮、ドングリの背比べだ。

そうでない酒蔵は、大体この辺りからは撤退して、大手と争っていたり。或いは、独自の戦略で売り上げを伸ばしている。

幾つかの酒蔵を統合して、一つにまとめるという案も以前は出た。

しかし、まとめ役になる人間がいないのだ。

元々木稲は経営が得意ではないし、他の酒蔵もみな同じようなもの。年老いた従業員を抱えている場所も多い。

人情というのではない。

責任だ。

金の論理で動く人間には理解できないかも知れないが、人間の命を大事だと思う風潮が、この辺りの経営者には残っているのだ。

銀行などは、金さえ儲かれば人間など死のうが活きようがどうでも良いと考えているようだけれど。

木稲はそうは考えない。

おそらく、この辺りの経営者達も同じ。

だから儲からないのだとすると。おそらく、人間社会は、それだけ汚辱に満ちてしまっているという事なのだろう。

夜道で、車を走らせる。

慣れた路だけれど、油断すると危ない。毎日疲労も溜まっているし、事故など起こしたら一大事だ。

途中で一度車を停め、眠気覚まし用の飴を口に入れた。

山道だから、途中で猫や狸が通り過ぎることも多い。そういうときに対応できないと、古いトラックを更に傷めてしまうことになる。

自宅に到着した頃には、既に夜半。

仕事を片付ける余裕も無い。シャワーを浴びて、後は終わりだ。

設備の点検にも金が掛かる。なんだかんだいって、お金がどれだけあっても足りないものなのだ。

ベットに転がると、携帯を開いて、ネットを見る。

何でも願いがかなう店。

それだったら、単純にお金が欲しい。

お金さえあれば設備だって新しく出来る。農大を出ただけの自分ではなくて、酒の専門家も呼べる可能性が高い。

何だったら、設備を新しくしたいと言うのも良いだろう。

勿論、それが現実逃避の末の妄言だと言う事は、木稲にだってわかっている。しばらくすると、そのまま寝付いてしまっていた。

貧乏会社の経営者に、休日の休みなど存在しない。

父を母に任せると、朝早くから会社に出る。あくびをかみ殺しながら、残作業を片付けていく。

昼食も出来るだけ節約しようと、弁当を作っている。

黙々と美味しくもない弁当を口に入れていると。

やがて、どうにか作業が片付いた。

後は顧客などからクレームが来なければ、多少ゆっくりは出来る。電話を転送設定にして、事務所を離れると。自宅で、ベットに転がった。

婚活どころでは無い。

今だって、疲弊で脳みそがヘドロになりそうな有様なのだ。

あくびを何度かしながら、携帯を弄る。

お金。

欲しい。

何度か無意味にそう検索していて、むなしさに気付く。まだ若いのに。こんな事では、男なんて捕まるはずもない。

大学時代には、交際していたカレシもいた。

勿論、大学を出るときに事情を告げて結婚して欲しいと言ったのだけれど。すげなく断られた。

以前から事情は知っていたらしいのだ。

「お前みたいな重い女お断り。 会社畳んで財産にするんだったら、嫁にしてやるよ」

そういったカレシの顔面にブロック煉瓦を叩き付けて、以降は連絡を取っていない。あの様子では多分鼻も折れて歯も砕けていただろうから、若くして総入れ歯だ。警察沙汰にならなかったのは、色々此方も向こうの事情を掴んでいたからだろう。

しばらくぼんやりしていると、いつの間にか眠ってしまっていた。

起き出して、携帯を弄ってみる。着信はしていない。

嘆息して、ネットを漁っていると。

不可思議なデータが出てきた。

店の、正確な位置について。

どうやったら入る事が出来るか。

内容が、あまりにも生々しい。何だか嘘八百を並べているとは、思えないのである。

しばらくぼんやりと画面を見ていたが。メモ帳に移し替える。そして、時間を作って、行って見ようと思った。

そんな店、ある筈がないのに。

 

一日だけ、時間を作った。

東京へ行ってとんぼ返りするのはかなり厳しいけれど。飛行機を使えばどうにかなる。

勿論その間、クレームが来たら会社にいる者達に対応してもらう他無い。火オチが発生した場合も、どうせ自分がいても何も出来ない。

ただし、反発はあった。

他の社員達は、あまりいい顔はしなかった。

父は既にもうろく。

母は無力。

酒蔵を支えるのは木稲だけなのに。こんな時期に遊びに行くのか、というのである。

遊びに行くわけでは無い。

望む物が手に入るという店がある。

そこに行けば、ノーリスクで何かしらの状況解決手段が手に入る可能性があるのだ。それならば、勝ち目が小さい大ばくちを挑むよりも、遙かに良い。無駄になるのは、一日だけで済むのだから。

空港について、其処から電車を乗り継ぐ。

目当ての店は、都心から少し離れた、東京の端。

幸い駅からはすぐだと言う。電車の乗り継ぎも、最低限で済む。

大学時代を思うと、冷や汗が出る。

あの頃は父が現役で働いていたから、ある程度無理は利いた。だが、ここ数年で、父は見る影もなく衰えてしまった。

恐らくは、決定打になったのは弟だろう。

本来は、家を継ぐはずだったのに。

経営を弟が行って、木稲が研究で支えれば、きっと酒蔵は安泰だったのに。

彼奴は、責任を全部捨てて、逃げてしまった。弟は(父の主観では)出来が良くて、父はいつも期待していたようだったから、余計ショックが大きかったのだろう。

電車に揺られながら、思う。

父は、人を見る目がなかったのだと。

弟は甘やかされて育ったから、本当に性格が悪かった。姉である木稲にも態度が悪かったし、いつも無駄遣いばかりしていた。

わめき散らして暴れたことも、一度や二度ではなかった。

家の外では喧嘩ばかりしていた。

勉強も殆ど出来ずに、周囲の生徒を脅して、自分の分の宿題をさせていたことさえあったらしい。

一度ばれて、先生が家に来たこともあった。それでも弟は、自分が悪いとは認めなかった。

高校のころは暴力事件の常習犯になっていて、二度ほど補導もされた。

それでも父は、弟を庇っていた。待望の男子で、酒蔵の跡継ぎと言うこともあったから、きっと。

いつかは心を入れ替えてくれると、信じていたのだろう。

馬鹿な父だと、本当に思う。

悲しくて、あまり言う事も無いけれど。少なくとも、弟は父の愛に応えることは、一切しなかった。

自分を愛しているが故に庇ってくれているなどとは、おそらく考える事さえ無かっただろう。

そう言う人間がいると、理解できなかったのが。父の限界だったのかも知れない。

目的の駅に着いた。

既に十時である。帰りのことを考えると、あまりもたついてはいられない。駅から、店を探して歩く。

情報ではこの辺り。

代わり映えがしない新古書店だ。二階にはゲーム屋。

ゲームなんて、やったこともないけれど。

三階に行くには、此処である事をしなければならないのだ。

新古書店に入ると、背の低い店員が、忙しく働いて廻っていた。どう考えても本屋に入りそうもない、白衣を着込んだ木稲を見ると、眉をひそめる。

会社でも、それ以外でも。

今では白衣が制服になってしまっている。

髪はあまり手入れできていない。

化粧もしていない。

農業高校で、生物系の授業を受けている内に、癖で白衣での生活が身についた。そして今でも、そのまま暮らしている。

しばらく、店の中を見回す。

本当に、此処なのだろうか。一応特徴はあっているけれど。

まあいい。

駄目ならば、その時はその時だ。一日を無駄にするだけで済む。どうせ研究系の仕事をしている木稲は、会社にいても、頭を下げることと、事務処理くらいしか出来ないのだから。

二階に上がる。

ぎらぎらしたパッケージのゲームが、たくさん並んでいた。

周囲の子供達は、ゲームを知ってはいたけれど。木稲は結局、この年まで触れる機会がなかった。

だから、何が何かもわからない。

ただ、レジには何だかツインテールの可愛らしい小さな女の子と。よく発育した長身の女性がいる。

ちんまい方は、何だろう。

客寄せにでも雇われているコスプレイヤーだろうか。そういうのがいると、聞いたことはある。

しかしその割りにはやる気がなさげで、隣の長身の女性に時々視線で威圧されながら、退屈そうに店番をしていた。

ゲームを見て廻る。

32の棚を見て、頷いた。

一応、条件は合っている。

客は他にもいたけれど、あまり長居はしない。幾つか、ゲームソフトを手に取ってみたけれど。

説明を見ても、どんなゲームなのか、さっぱりわからなかった。

携帯を取り出して、メモを確認。

話しかけるのは、長身の方だ。

「すみません、ちょっといいですか」

「何でしょう」

「32の棚にある、MDのゲームですけれど」

「……少しお待ちを」

32の棚に、MDとやらのゲームが置いていないことは確認済みだ。其処にあるのは違うメーカーのハードのゲームソフトである。

長身の方が、トイレに行って三分待てと言ってきた。

頷くと、そのまま奥のトイレに向かう。

其処でしばらく待つことにした。

本当に大丈夫なのだろうか。あの都市伝説のサイトは、もう一度確認しに行ったとき、消えていた。

それもリンクごとである。

ただ事ではないことは確かなのだけれど。

あれは悪戯で作られたものだったのだろうか。とてもそうだとは思えない。木稲にとっては、何というか。

強烈な、違和感を覚えさせたのだ。

今まで、都市伝説に触れてきていてわかったのは、大体の人間が、冗談だと最初から認識している、という事だった。

中には明らかに本気にしてしまっている者もいるが、それは例外。

都市伝説は、大体がみんなできゃっきゃっと黄色い声を上げて、楽しむために存在しているのだ。

だが、あの時触れたリンクは違った。

他とは違う、強烈な存在感を放っていたのだ。

それが何かはわからないけれど。

はっきりしているのは、尋常では無い、という事。

危険はあるかも知れない。

しかしどのみち、このままではじり貧だとわかっていた。消費者金融なんかに手を出したら、後は転がり落ちるだけ。

ただでさえ、銀行は融資を引き上げたくて、うずうずしていた。

何か勘違いしている人間もいるが。銀行も本質的には、闇金と同じ。人の生き血を啜っている分際で、自分たちがえらいと勘違いし、思い通りのままに金の論理で他人を殺す連中。

彼らが一般預金者の事をゴミと呼んでいたことも、木稲は知っている。

そんな連中のために、何もかも台無しにされるのか。

嫌だ。

せめて、何か活路を開きたい。

だからここに来たのだ。

ドアを開ける。

二階のままか。

いや、違う。

辺りは、いつの間にか。ほのくらい、薄明の世界へと変わっていた。息を呑んで、一歩を踏み出す。

周囲を見回していると、目についたものがある。

無数の棚だ。

そもそも、此処は何処だ。六メートルはあろうかという天井の高い部屋。これは酒蔵と同じか、それ以上も背が高い。

左右に建ち並んでいるのは、棚棚棚。

壁際だけではない。林立している棚には、どれもぎっしり物が詰まっている。中には酒もある。

銘柄を見る限り。

どれも信じられないような高級品だ。伝説になっているような酒もある。

ワインは飲まないと酢になってしまうけれど。

此処に置いてあるのは、何故だろう。

そうなる所が、想像できなかった。

天井にぶら下がっているのは、時代錯誤的なシャンデリア。

生唾を飲み込む。

どうやら木稲は、本当に都市伝説の世界に、足を踏み入れてしまったらしい。歩く度に、高い音が返ってくる。

高級な木材で、床を張っているらしかった。

さっきまでいた店に、三階なんてなかった。

それは見てわかっていた。

ましてやこんな背の高い三階が、ある筈もない。どのようなトリックを使っても、不可能だ。

歩いていると、わかる。

此処は二階よりも、かなり面積がある。さっき出てきたトイレを含めると、1.5倍はあるかも知れない。

これでも酒蔵を毎日管理しているのだ。建物の広さくらいは、歩いてみれば、何となく判別はつく。

天井には、シャンデリア以外の明かりはない。

それなのに、どうしてだろう。

この幻の三階には、隅々まで光が行き渡っている。若干薄暗いけれど。本当だったら棚に阻まれて、もっと暗くなっていなければおかしい。

酒造りには、明かりも重要になる。

だから木稲は、その辺りにも敏感だ。この部屋は、あらゆる場所がおかしいのだ。

ふと、気付いた。

奥に、畳が敷かれている。

其処に歩いて行くと、黒いこんもりとした塊がある。

塊が、不意に動いた。

どうやら、長い黒髪の子供だったらしい。

視線が合うと、子供はどこから取り出したのか。ソーダ味のアイスキャンディーを口に突っ込んで、ひと囓りした。

「客か」

「貴方は、この店の子?」

「店長だ」

座るようにと、店長を名乗る子供に言われる。

不意に気配。

後ろから現れた、女中のような格好をしたのが、座布団をひょいと敷いて。そして、無理矢理座らされた。

困り果てた木稲に、アイスキャンディーを囓りながら子供は言う。

「私はアガレス。 お前は」

「平野木稲……」

「ここに来たと言うことは、都市伝説をたどってきたのだろう? ならば此処が、尋常な空間ではないことも分かっている筈だ」

言われるまでも無い。

だが、まさか、店主が年端もいかない子供だとは思わなかった。見たところ、精々小学生だ。

ただしかし、その目つきの異様さ。醸している雰囲気。

いずれもが、普通の子供だとは、とても思えないものだったけれど。

居心地が悪くて、身じろぎする。

子供は、木稲を、遠慮無く観察しているようだった。

「何を求めて、ここに来た」

「お金」

「夢のない答えだな」

「私の酒蔵は、慢性的なお金不足に悩んでいます。 此処では望む物が手に入ると聞きましたから」

何故か、子供に敬語を使ってしまうことに苛立ちは覚えるけれど。どうしてだろう。この子供は、自然に木稲よりも年上の存在に思えてならない。

子供の方も、アイスキャンディーを食べ終えると、ハンカチで上品に口を拭いた。

そして側にあるゴミ箱に、食べ終えた棒を捨てる。

「ここに来る者はだいたいの場合、心に大きな闇を抱えている。 それを見せる事が、商品を引き渡す対価となる」

「心の闇、ですか」

「そうだ。 お前の場合は、それほど大粒では無いが、私としてはまあ……充分だろうな」

退屈そうに、子供が頬杖をつきながら言う。

失礼な子供だけれど。

しかし、今は金が手に入るかどうかの瀬戸際だ。このまま行けば、酒蔵はいずれ遠い未来ではない時期に潰れてしまう。

ましてや弟が、父の死後に現れて。遺産の半分を寄越せなどと行ってきたら、どうしようもなくなる。

詰み寸前の状況。

それを打開するには、方法は限られている。

「よく分からないけれど、酒蔵を救えるほどのお金が手に入るのなら」

「金をやるとは言っていない」

「えっ」

「お前に一番必要とされているものをくれてやると言っている」

不意に、額に指を向けられる。

同時に、木稲の意識は、消し飛んでいた。

 

何かを掘り返す音。

湿った、土の音。

此処は、何処だろう。

そういえば、何故だろう。これは思い出すべきではないと、感じてしまう。だが、どうしても、思い出してしまうこと。

そうだ。

これこそは、木稲にとっての、悪夢の象徴。

シャベルを置くと、木稲は月明かりの下で、汗を拭った。どうしても、これはやっておかなければならなかったのだ。

トラックから引っ張り出すものは、命無き肉塊。

そして、此処は。

所有している山林。

二束三文の価値しか無い、山だけれど。

誰も入らない私有地であると言う事が。今は大きな意味を持っているのだ。

これでも木稲は、農工大の出身者。

どうすればものを効率よく分解できるかは、よく知っている。そして、その方法も、諳んじることが出来る。

人間程度なんか。

あっというまに、土に返してみせる。

まず最初に。

頭が損壊した弟の死体を、ブルーシートに乗せる。

そう。

弟は、危険だった。

高校時代に、既にヤクザとも関係を持っていた。地元の悪党達とつるんで、如何に酒蔵の金を奪うかだけを密議していた。

知っていたのだ。たまたま。

だから、手を下さざるを得なかった。

警察は、何もしてくれない。

余程腕が良い弁護士が、事前に処置でもしてくれているのなら、財産の強奪は防げたかも知れないけれど。

所詮酒造りにしか興味が無い父には、そんな事は出来ようがないのだ。

だから、弟を呼び出した。

話をしてみると、やはり弟は、せせら笑った。

「分け前はやらねーぞ」

「そう」

だから、その場で。

準備していた方法を用いて、殺した。

弟が立っていた場所に、高圧電流を流したのだ。気を失った弟の頭に、スコップを降り下ろして殺して。

後は、処分するだけだった。

まず死体を切り刻む。

その後は、特殊な細菌を混ぜた液を、バケツに入れる。これは農学部で培養していた、発酵を促進させるものだ。

主に肥だめを早く使えるようにするために用いていた。

当然、肉もあっという間に分解してくれる。

しかも此処は私有地。誰も踏み込んでは来ないのだ。

バケツに入れた死体を、何カ所かに分けて、暗がりに置く。

それから数日間を掛けて、様子を見に来ると。あっという間に死体は分解されて、無害な腐敗液に変わった。

血液も零れないように、念入りに処置した。

殴り殺すときに用いたスコップだけはどうしようもないので、念入りに洗って、しかも埋めた。

後は液体化した弟を、地面に流し込むだけ。

此奴には、恨みが重なるなどと言う次元ではない。散々暴力を振るわれたこともあったし、レイプされ掛けた事さえあった。

それでも完全に目がくらんでいた父は、木稲の訴えなど、耳を傾けもしなかった。

元々弟は、方々でトラブルを起こしていた札付きのワル。

消えたところで、誰も問題にしなかった。

今から、四年前の話である。

警察も、行方不明の連絡があってから捜索はしたけれど。今ではもう捜査も打ち切られていた。

 

それから、木稲は悪夢を見るようになった。

弟が、恨みがましい目で、枕元に立つのである。

どうして俺を殺した。

俺は世界一正しいんだ。親の金を奪って何が悪い。妹や姉を襲おうとしたくらいで、どうして殺されなきゃいけない。

そうだ。

此奴は、まだ幼い妹まで、襲おうとした。

殺す事を決めたのは、恐らくはその時だった。

愛情は、人間をケダモノに変えてしまう。父は愛情を注ぐだけで、躾をしようとはしなかった。

最初に出来た木稲が、よい子に振る舞いすぎたのが原因かも知れない。

弟に、出て行けと、言う。

嫌だと、弟は応える。

一生とりついてやる。

そう弟は言って、朝方に消えていく。

怖いとは思わない。

ただ、ひたすらに不愉快極まりなかった。肌の下を虫が這い回るようなおぞましさというのか。或いは。

生理的に受け付けない感触が、全身を覆っているというのか。

いや、入浴中に、変質者に覗かれているというのが、一番近いかも知れない。

彼奴はクズだった。

殺さなければならなかったのだ。

だから、私は正しい。

誰も彼奴を裁かなかった。警察だって動かなかった。正式な権利だと言って、そのままでいれば、酒蔵が潰されて。多くの人が路頭に迷ったのに。警察は、放置していた。助けることなど、あり得なかった。

だから、殺さなければならなかった。

そう言い聞かせても、弟は夢枕に立つ。

何度でも呪ってやる。

何度でも恨んでやる。

一生とりつき続けてやる。

そう、朝まで耳元で囁き続ける。所詮は無力な霊。しかもささやく内容など、所詮は逆恨み。

だが、やはり気持ちが悪くて仕方が無かった。

愛情なんて、クソ喰らえ。

だから、全部忘れてしまえ。

弟を殺した事は、全部夢。彼奴は今も何処かで、悪さを続けていて。いずれこの酒蔵に、金を寄越せとやってくる。

その時にまた、殺してやれば良い。

そうだ、そもそも私は、弟なんて、殺していないのだ。

自分に、何度も言い聞かせる。

家畜を飼うときに、暗示を繰り返して掛ける方法がある。そうすることで、言う事を聞かせやすくするのだ。

勿論、あまり多くの人が使っているやり方ではない。

木稲の師匠だった人間が、こっそり教えてくれたのである。

あの人も、助けてはくれなかった。

だから、残る方法は。

あの弟という存在を、この世から完全に抹消するしかない。

肉体は抹消済みだ。

それならば。

後は、奴を殺したという事さえ、記憶から消してしまえば、問題が無いのだ。それでいいではないか。

だから、暗示を繰り返しかけた。

罪悪感など無い。

正当防衛だし、彼奴を生かしておけば、いずれ酒蔵を潰され、多くの人が路頭に迷ったのだ。

しかも、殺した証拠なんて、一切残していない。

存在するだけで害悪な人間を、ただ消しただけ。ゴキブリを潰したのと、同じ事だ。

そして、暗示が決まって。

弟を忘れると。

幽霊など、人間の幻覚が作り出す事を示すように。

弟は、枕元に立たなくなった。

 

気付くと、真っ黒な泥濘に浮かんでいた。

周囲からはうめき声が聞こえる。

それで、気付く。

此処は、地獄だ。

本来地獄というのは、具体的に悪魔やら鬼やらがいて、罪人に責め苦を加える場所ではないのかも知れない。

本能的に悟ったのだけれど。

この泥濘の空間こそが、地獄なのだろう。

ふと気付く。

手が、見えた。

引っ張り上げられる。

手は白くて、小さい。それなのに、どうしてこうも力強いのだろう。

目を閉じる。

泥濘を抜けたのを、感じた。

 

3、生きるために

 

木稲が気がつくと、目の前に、さっきと同じように、退屈そうに此方を見ている子供がいた。

見られた。

全て。

そして、知られた。

暗示を掛けて、完全に忘れていた弟のことが。どうして、白日の下に晒されてしまったのか。

不思議と、焦りはない。

此奴はおそらく、人間ではないこと。

それに知られたところで、立証など出来ない事。

これでも農工学部出身。腐敗や発酵、分解の仕組みは、嫌と言うほど知っている。

もう弟の体なんて、分解され尽くして、DNAも残っていない。全部腐葉土に混じって、虫やミミズたちの餌だ。

「そうか、弟を殺したのか」

「……」

「心配しなくても、警察になど突きださん。 というよりも、私自身が、そもそも人間の社会から外れた存在だ」

呻いたのは。

子供の背中から、蝙蝠のような、よく分からない翼が生えたからである。それも、三対も。

「私の名はアガレス。 いわゆるソロモン王の72柱に属する悪魔だ。 とはいっても、お前は一神教の悪魔のことなど知らないか」

「その悪魔が、どうしてこんな事を」

「食事のためだ。 私の食事は、人間の心の闇なのでな」

木稲は唇を噛む。

この子供がした事は、許されるものだとはとても思えないけれど。

かといって、自分はどうか。

どれだけ強弁しても。人間を殺したのだ。警察は捜査はしていないとは言え、場合によっては木稲を逮捕しに来るかも知れない。

実際、話には聞いていた。

一部の警官が、木稲を疑っていたらしいという事は。

「心の闇は見せてもらった。 対価はくれてやろう」

「……」

「アモン」

使用人の女が一礼すると、何かを棚から取り出した。

具体的に何かはわからなかったけれど。ただ、それがお金ではないことだけは、確かだった。

「私がくれてやるのは、お前にとって一番必要なものだ。 逆に言えば、それさえきちんと使いこなせれば、お前は今後の運命を乗り切ることが出来るだろう。 使いこなせなかったら、その時は知らん」

「貴方は、一体何がしたいの?」

「私は食事をしているだけだ。 そもそも、どうしてお前がここに来る事が出来ると思っている」

意地悪げに、子供が笑みを浮かべる。

その笑みは、文字通り悪魔的で。とても子供が浮かべるものとは、思えなかった。

「あれは私が、ネットで餌が掛かるように仕組んでいるからだ。 ただ、悪魔は神と違って、契約には対価を返す。 お前には危害を加えないし、きちんと約束のものは届け置くから安心しろ」

気がつくと。

木稲は、空港にいた。

冷や汗が、どっと流れ出てくる。

今までの出来事が、嘘であったとは、とても思えない。あれは実際にあった出来事だ。悪魔を名乗る子供が店にいて。そして、使用人らしい女が。

そして、ずっと暗示を掛けて、忘れていた事を、思い出して。

その心の闇とやらを、喰われた。

喰われるというのがどういう現象かはわからないけれど。少なくとも、見られた事は間違いない。

そして、自分の中にも残っている。

本当に、大丈夫なのだろうか。

飛行機のチケットを出して、時計を見る。帰りの飛行機には、充分に間に合う。しばらく座席に腰を下ろしてぼんやりする。

大人になってから、時間が過ぎるのが、露骨に早くなった。

あの子供のことは、信用していない。警察の関係者では流石にないとは思うけれど、木稲の事を売りかねないとは思っている。

それに、あのアモンとか言う使用人が送り出していた荷物。

一体何か。

本当に、金になるものなのか。今、木稲に必要なのは、現金なのだ。酒蔵を拡大したり、或いは維持するための金。それだけが、今の木稲には必要なのに。

飛行機が来た。

時間を潰すために、する事がないけれど。

ぼうっとしているだけで、勝手に時間がすっ飛んでいく。日頃の疲れが原因だ。今日だって、無理矢理休みを作って出てきたのだ。

幸い、これまでに、クレームなどの電話は来ていない。

飛行機に乗り込むと、帰りまで寝て過ごすことにした。

 

自宅に着いたのは夕方。

一旦風呂に入ると、すぐに眠ってしまった。普段から激務を果たしているはずなのに、おかしな事である。

ただし、また弟の夢を見ては仕方が無い。

だから、暗示を散々掛けてから、また眠ることにした。

自己暗示は得意だ。

一度掛けた暗示だから、少し解けやすくなっているかも知れないけれど。何日かしている内に、勝手にかかる筈だ。

疲れが溜まっていることもあって。

その日は、弟の幽霊は出なかった。自分でも幻だとわかっているのに、おかしな話である。

目が覚めて、顔を洗って。

白衣を着込んで、職場に出る。

夕方まで仕事をして、酒蔵も確認。どうやら火オチが出る気配は無さそうで、ほっとしたところで、連絡が来た。

「木稲さん」

「んー」

社長に正式に就任したわけではないから、部下には木稲さんと呼ばれている。別に断る理由も無いので、それでいい。

実際問題、肩書きはよく分からない。

若と呼ばせると、任侠みたいだし。

しかし社長というのは、正式にはまだ父なのだ。しかし呆けてしまっているし、いずれ手を打たなければならない。

実際問題、従業員の中には、木稲を馬鹿にしている者も多いのだ。

「何かあったの」

「荷物が届いています」

言われたまま、届いた荷物を確認する。

間違いない。

あのアモンという女が抱えていた品だ。会議室に持っていって、一人で開けてみる。そして、驚いた。

これは、何だろう。

わからない。無数の部品が入っている。

はっきりわかったのは、幾つかの試験管などから、分析装置の類と言う事だ。しかし、何故このようなものを。

苛立ちが、一瞬で噴火しそうになった。

しかし、押さえ込む。

とにかく、組み立ててみるべきだろう。

手を叩いて、社員達を呼ぶ。自身はマニュアルに目を通す。これでも農工大では、そこそこの成績を上げていたのだ。

文系の大学などと違って、理系は基本実践である。

どうしてだろう。

マニュアルを見ても、組み立て方しかわからない。社員達も、一応酒造りの前線で働いている者達だ。

わいわい言いながら、組み立てていく。

装置自体の完成度は、非常に高い。

問題がコレが何か、さっぱり分からない事だけれど。

いずれにしても、社員を拘束し続けるわけにはいかない。適当なところで引き上げさせて、後は自分でやる事にした。

 

昔から、酒が好きだった訳では無かった。

日本酒を、特に美味しいと思った事は無い。ただ、どうすれば美味しい酒が出来るか、いろいろな要素がある事は知ってはいた。

だが、知っていただけだ。

実際、酒蔵の味は、並。

それ以上でも以下でもなく、工夫を凝らしても上手くなる事は無かった。

農工大を出て、研究もしてきたのに。

従業員達が、木稲を馬鹿にしている理由の一つもそれだろう。頭でっかちの役立たず。そう彼らが自分を罵っていることを、木稲は気付いていた。勿論口に出しているわけでは無いのだろうけれど。

部品の組み立て自体は、難しくない。

ただ、量が膨大だ。

付属の部品もかなり多い。マニュアルを見れば作り方はわかるのだけれど。本当にコレは、何なのだろう。

気がつくと、定時を廻っていた。

社員達を全員帰らせる。

後は残務を片付けてから、自宅に機械を持ち帰る。そして、其処で寝るまでの短い時間、組み立てを行った。

風呂に入って、汚れを流す。

白衣を洗濯すると、ため息をつく。

金なんて、手に入る筈もなかった。

あの悪魔は、これが役に立つと言っていたけれど。それは本当なのだろうか。どうにも納得がいかない。

だが、不思議な事に。

組み立てを続けたいという気持ちが、どうしても出てくるのだ。

マニュアルには何度も目を通したけれど。

何故だ。

もっと難解な論文だって読んできたのに。どうして具体的にこの機械が何をするものなのかは、わからない。

翌日は、少し早めに起きて、組み立て。

そして終業後、残務を片付けてから、組み立て。

そうやって、こつこつと作業を進めていった。

農工大にいたときも、こうやってちまちま作業するのは、むしろ得意だった。今も、こうやっていると。

弟の事で頭を悩ませなくて良かったころの事を、思い出してしまう。

あいつさえいなければ。

父が彼奴を溺愛さえしなければ。

何もかも、悲劇は起きなかったのに。

そもそもだ。

皆のためと考える事が出来ず。エゴのためだけにしか動けず。何かといえばかんしゃくを起こし、周囲に暴力を振るい続けた弟を。どうして木稲に優先しようと、父は考えたのか。

愛情が、そうさせたというのなら。

愛情は、木稲の敵だ。

そんなものは、この世から無くなってしまえとさえ思う。今一ドラマだので褒め称えている愛情とやらに、好意を持てないのは。現実にそれが人間を滅茶苦茶にし、そして自分もずたずたにされた経験がゆえだ。そんなものが無ければ、木稲はあのクズを殺さなくても良かったのに。

こんな所で、黙々と作業をしていなくても、良かったのに。

機械の完成が長引く。

だが、どうしてだろう。

毎日の仕事と裏腹に、機械を組んでいるときだけは楽しい。いつの間にか、楽しいという事に、気づきはじめていた。

だんだんと形が出来ていく。

幾つかの試験管を入れて、相互分析が可能な装置だと言う事はわかってきた。

また、内部には相応に高度な分析機構が備えられている。

何となくは仕組みがわかってきたけれど。

それでも、確信は出来ない。遠心分離や赤外線偏差による分析まで備えている所からして、これは国立の研究所に配備されるような最新鋭の装置に勝とも劣らない性能を有していると言えるだろう。

大学にあった古い分析装置とはものが違う。

大学の時に、こんな凄いのがあったら、教授はさぞや喜んだことだろう。

教授はみんな変人揃いだったけれど。

彼らは今頃、何をしているのだろう。彼処で研究をしていた四年は、とても楽しかった。少なくとも、弟の事で、凶行に手を染めるまでは。殺さなければならない奴だというのはわかっていたのに。

暗示を散々掛けたのに。

どうも調子がおかしい。

あの悪魔のせいかもしれない。だが、あの悪魔は、この機械をくれたのも事実なのだ。

一週間が経過したが、まだ機械は組み上がらない。

仕事が忙しくて、時間をそれほど取れないからだ。それでも黙々と、木稲は作業を続けていった。

十二日目の夜。

完全に呆けてしまっている父を寝かしつけている母を横目に、木稲が最後の部品を、機械に取り付ける。

電源を入れて、動かしてみる。

LANケーブルを用いて、PCと接続は可能。自宅のPCは二世代前のOSを入れているが、どうにか接続は出来た。

付帯のDVDを入れて、制御装置をインストールは既にしてある。一晩がかりの作業だったが。

マニュアルを見る。

呻いたのは。どうしてだろうか。今まで絶対理解できなかった内容を、簡単に把握できてしまったからだ。

これは、成分分析装置。

それも、尋常では無い精度によるものだ。

遠心分離に、赤外線偏差。それだけではない。

あらゆる方法を駆使して、成分を分析し、緻密にデータ化して表に出す事が出来る分析装置だ。

試験管の替えもたくさん入っているが、何より凄いのはその精度。

何故か理解できるようになったのだけれど。内部に向けての機構が尋常では無い。顕微鏡も組み込まれているのだが、その精度は電子顕微鏡なみだ。

こんな小型に、どうやって装置をまとめ上げたのか。

そして、使い方についても、何となくはわかる。これで、いろいろな酒を分析して、味をあげろと言うのだろう。

確かに、今まで分析自体はして来たけれど。いずれもが、ベテランを自称する老人達の舌が頼りだった。

勿論、熟練した酒造りの舌は、大いに信頼する意味があるけれど。

しかし、それも限界がある。

実際に美味しい酒はある。酒自体は好きでは無いけれど。それでも、客観的に美味しいと言える酒はあるのだ。

だから、それらを分析すれば。

或いは、酒蔵の味を、上げる事が出来るかも知れない。

勿論、成分がわかっただけで、どうにかなるほど甘い話ではない。しかし木稲には、農工大で研究を続けた実績がある。実用的な知識はいくらでもあるし、何よりこのままでは酒蔵はじり貧だ。

充分に、此奴を活用して、勝負に出る価値はある。

頷くと、木稲は機械を、酒蔵に移設。同時に、最新鋭のPCを、ポケットマネーから出して買うことにした。

コレを活用するには、二世代前のPCでは駄目だ。

それだけの投資をする価値はある。

PCの一台くらいなら、この貧しい酒蔵でもどうにかなる。後は、研究をどう進展させるか、だ。

酒蔵を管理していた老従業員に、今までの研究データを出させる。

色々試してはいるけれど。

あまり、これといった内容はない。

ただし、五十年以上のデータだ。インプットはしてあるだけでも、マシと言うべきなのだろうか。

これに、公開されている、酒の酒造データを加味。

勿論、殆どの企業で、核心部分は社外秘としている。だが、これらのデータを分析すれば、良い結果を出せるかも知れない。

更に、だ。

思い立ったら吉日である。

 

以前あった、幾つかの酒蔵を統合するための会合。その時にあったやりとりを、利用できないか考えて見る。

早速、潰れかけている酒蔵に連絡。

データを出して欲しいと言うと、最初は渋られた。だが、ひょっとしたら、良い酒を造るためのヒントが見つかるかも知れないと言うと、心が動くのがわかった。

そのまま、押してみる。

「どうせそのままでは、この辺りの酒蔵は皆共倒れになります。 それならば、ノウハウを交換して、少しでも良い酒を造りましょう。 此方も、良い結果が出たら提供する事を約束します」

「本当かね……」

気が弱そうな声が、電話先から聞こえてくる。

いい人が、この世では報われるとは限らない。むしろ、商売の原理の中では、いい人は食い物にされることが多い。

この人はその典型だ。

部下達には慕われていたのだけれど、銀行に散々食い物にされて、財産をむしり取られて。今では倒産寸前にまで追い込まれている。

「どうせなら、この辺りの酒蔵全体で、研究データを共有しましょう。 このままだと、この辺りの酒蔵全部が、いずれ壊滅します。 そうなるくらいだったら、一度データを共有して、味の底上げをしましょう。 まずい酒を売って酒蔵が潰れるよりも、せめて美味しい酒を売ったのに潰れたという方が、マシでしょう」

「確かに、そうだが……」

「それに、幾つか手も考えています」

「わかった、今度会合を開こう。 其処で決めよう」

二日後に、再度会合を開く事を決める。

此処で話を付けてしまえば、或いは。

木稲としては、話に乗ってくる酒蔵が二つか三つあればいいとだけ思っている。実際、データを集めてそれを吟味すれば、見えてくるものもあるはずなのだ。

今手にしているのは。

分析を行うだけの装置。

今までは舌だけで判断していたものを、どうしてまずいのか、具体的に調べることも出来る。

今までに無い、有利な状態になっているのだと、頭では理解できている。それなのに、どうしてだろう。

有利な状況を生かそうという気持ちと。

何処かで反発するものが、心の奥底で蠢いていた。

だが、弱気になってはまずい。

今は、強気に出るべき時なのだ。

顔を叩くと、気分を入れ替える。

ここからが勝負だ。

上手くすれば、この辺りの酒蔵を、根こそぎ再生させて。自分は、地元の名士になる事が出来るかも知れない。

そうなれば。或いは。

今までどうにもならなかった全てが。手に入るかも知れないのだ。

 

4、鎌首をもたげるもの

 

会合は、上手く行った。

分析装置の出所は上手く誤魔化して、今までは舌に頼るしかなかったものを、客観的に分析できると説明した。

実際に、この会合を行う前に、装置の精度は確認していた。

驚くべき精度だ。

幾つかの複合検査によって、どのような物質がどれだけ入っているか、極めて正確に割り出すことが出来る。

コレに比べれば、大学にあった分析装置なんて、オモチャも良い所だと、木稲は驚かされていた。

事実、此処の会合に来ている者達も、酒造りに関してはプロだ。

そして誰もが知っている。このままでは、全員が共倒れになってしまうと言う事を。

「わかった。 俺はデータを出そう」

最年長の、長老格の人物がそう言ってくれた。

彼はもう七十過ぎで、跡取りも頼りない。せめて次の代でも酒蔵が続けられるというように、必死の努力を続けてきているけれど。もはや他に方法がないと、判断したのだろう。それは正しい判断だと、木稲は思う。

最長老がそう言うのだ。

他の酒蔵も、データを出すことに同意。

ただし、実験などは公開して欲しいとも言われた。

「別に構いませんが」

「此方としても、これ以上トラブルを抱えるわけにはいかん。 君のことを信頼しないわけではないが、データを持ち逃げされてはかなわんからな」

「それはわかっています」

善は急げだ。

データが集まれば、後はそれを結集するだけで良い。

それに、美味しいとされる地酒も、彼方此方から買い集めて貰う。これらのデータも分析して、何が足りないのかを、調べていくのだ。

 

翌日から、早速公開実験を始める。

皆が見守る中で、データの分析を開始。

それぞれの酒蔵の味を比較して、グラフに出す。はっきりいって、皆どんぐりの背比べも良い所だ。

この辺りの酒蔵は、元々藩主の命令で産業として作られた。

互いに競うこともなく、藩主に保護されて発展されてきた歴史を持っている。だからこそに、競争という概念が、最近まで生じなかった。

だから、伝統が怠惰の言い訳になった。

味が進歩しなかったのも、納得である。どの酒蔵も、こうも味に違いがない。実際にデータを示してみると、皆唸った。

「こんなにも、違わないものなのか」

「だけどよ。 みんな、それぞれ実験は続けてきたし、研究も……」

「やっぱり、外部の人材を入れなかったのは、大きかったんじゃないでしょうか」

そういうと、酒蔵の主達は、みな悔しそうに唸った。

実際問題、木稲の所の酒だって、味はさほど変わらないのだ。藩主がはじめさせたころは、完全に素人集団だった。

それが売り物になるまで発展はしたけれど。

何処かで誰かが思ったのだ。

この辺りで良いだろうと。

其処で、進歩が止まってしまった。

そして伝統という美名の元に、いつか誰もが、研究を熱心にやらなくなってきたのだろう。

更に言えば、面白いデータも取れる。

「平岡さん。 貴方の所のデータで、これ。 明らかに、酒が美味しくなるんじゃないですか?」

「しかし、味が変わってしまうので……」

「変えましょう」

きっぱり、言う。

これだ。伝統の美名の元、味を守るという言い訳の元。試行錯誤が、意図的に放棄されてきたのだ。

木稲も、実験については今まで黙って口出しはあまりしなかったのだけれど。

自分の所のデータも精査してみたら、ひょっとしたらわからないかも知れない。老従業員を疑うつもりはないけれど。

無意識的に、味の向上を、変わるという理由で排除してきた可能性もあった。

考えて見れば、五十年も試行錯誤してきたのだ。味が変わらないというのは、おかしいのである。

それだけではない。

もっと、ろくでもないデータも出てきた。

「二階堂さん、貴方の所のお酒ですけど」

「な、何ですか」

「全然変わってないどころか、退化してませんか」

口をつぐむ二階堂氏。

彼もどちらかと言えば古株だけれど。酒蔵は傾きがちで、最近は顧客も開発できないと嘆いていた。

だが、これは。

酒に手間を掛けていないことが明らかだ。何処かであきらめを感じて、手抜きをはじめたのかも知れない。

味は凡庸でも。

それでも、工場生産品よりはずっとマシ。

ましてや第三国から入ってくる訳が分からない安酒に比べれば、天地の差がある。それも、こういうことをされると、揺らぐ。

「次は、美味しい酒と比べてみましょう」

幾つか、有名な地酒を出す。

皆にも試飲して貰うけれど。口々に美味しいと言う。調べて見ると、味そのものよりも、香りに特徴がある。

香りが、味を引き上げているのだ。

少しわかってきた。

味覚そのものに対しての働きかけも重要だが、如何に香りを付けるかも、重要になってくるのか。

味自体に特徴がある酒もある。

幾つかの地酒を調べて見たが、苦みや臭みの成分が、綺麗に取り去られている。どうやって加工しているのかはわからないけれど、これは参考になる。

科学的な分析なんて、今まで考えもしなかっただろう人々だ。

実際にこういう風に体系立てて説明してみると、なるほどと頷く者も多い。しかしながら、今までは漠然としか、考えてこなかったのだろう。

これほどの精度の装置を、他が持っているとは考えにくい。

しかしながら、大手の酒蔵はきちんとした研究を重ねて、この程度の事は知っている筈だ。

ようやく、大手に並ぶことが出来たのだろう。

咳払いする。

一日がかりの実験で、現実が他の酒蔵のオーナー達にも見えてきたはずだ。

「わかりましたか。 我々は、そもそも勝負の土台にも立っていなかった、という事ですよ」

「……」

悔しそうに顔を見合わせる他のオーナー達。

伝統やら何やらで、研鑽を怠ってきた結果がこれだ。しかも、使えそうなデータを、味が変わると言って廃棄さえしていた。

それでは、熾烈な争いをしている大手の酒蔵に、勝てる筈もなかった。

持ち寄って貰ったデータの中から、使えそうなものをピックアップ。

勿論、次に売る酒は既に醸造中だから、これに手を入れるわけには行かない。どの酒蔵も一つか二つは、実験用の樽を持っているから、これらを使う。

順番に、実験の内容を振り分ける。

この辺りの名産と言えば梅だ。しかし梅を酒に入れること自体は、他もやっている。香りだけが残るようにするのは、少し難しい。

これに関しては、木稲の所で、やるべきだろう。

他にも名産は幾つかある。それも、今後は実験していきたい。

すぐにでも効果がでそうなものがあれば、すぐに取り入れていく。実際問題、実験のデータ自体は、豊富にあるのだ。

「それでは、解散。 すぐに作業に取りかかってください」

めいめい散っていく酒蔵の主達。

これで、少しはマシに、実験を行う事が出来るはずだ。数が数十倍に増えれば、実験の成果も出やすくなる。

次の酒ができあがるまでに、何かトラブルが起きなければ、起死回生もなる筈だ。

 

数ヶ月後。

今回の酒の出荷も振るわなかった。幾つかの酒蔵は潰れる寸前。

しかし、実験の成果については、上がり始めていた。

まず、香りについて。

酒の味を落とす香りを落とす実験が、今までのデータの中から抽出できていた。実際に試飲してみると、今までの地酒とは比べものにならないほど爽やかで飲みやすい。ただし、度数の調整が、少し難しいようだった。

低アルコールの飲みやすい地酒となると、これはこれで面白いかも知れない。

事実、どの酒蔵の主も、これは美味いと口を揃えていた。

気むずかしい、こじらせてしまった酒蔵の主もいる。だけれども、今までのやり方が通用しないことも、彼らは知っているのだ。

だから、渋々、美味いことは認めていた。

問題は度数だが、コレについては今後調整していくしかない。

また、味自体を工夫した酒についても、成果が上がってきている。ただし、香りを調整したものほどではない。

此方については、もう少し努力をする必要があるだろう。

最終的に両者を組み合わせれば、かなり面白い地酒になる筈だ。

さっそく、厳しい状況の酒蔵に、成果が上がりそうな、香りを調整した酒の作成レシピを廻す。

そして銀行側に、試飲用のサンプルも持ち込んだ。

宣伝をする費用については、酒蔵が共同して出す。まずは地元で売り上げを伸ばして、それからになる。

限定生産だけでやっていけるような、大手の酒蔵とは違う。

この辺りの酒蔵では、まず売ることから意識しないと、どうにもならないのだ。

銀行側は驚いていた。

味がどんだけやっても代わり映えしなかった地酒が。いきなり美味しくなったのだから、当然だろう。

融資を引っ張り出すことに成功。

宣伝をするのは、専門の業者に任せる。どのみち宣伝を行う業者も、最近は地元の名産がなくて嘆いていたところなのだ。すぐに動く。

銀行なんぞに融資を持ちかけるのは癪だが、今は潰れるか否かの瀬戸際だ。とりあえず潰れることを免れた酒蔵の感謝は得られた。

これで一息付けるという彼らに、木稲は咳払いする。

「そんな事では駄目です」

「え?」

「借金を完済し、もうけを出して、酒蔵を大きくするくらいの意気を持たないと、今後はやっていけない」

そう言うと、流石に鼻白む酒蔵のオーナー達も出るけれど。

木稲にして見れば、ようやく来た好機だ。

いつの間にか、機械を使うことに対する違和感はなくなっていた。実験自体は楽しい。何しろ、一番人生で楽しかった、大学に入ったころの事を思い出してしまうからだ。

酒は売れはじめる。

今まで、普通でおもしろみがないと言われていた地酒が。いきなり美味しくなったのだから、当然だろう。

更に次の酒が仕上がったころ、実験の成果を投入する。

味をよくする目処がついたのだ。

これも、潰れかけている酒蔵に廻す。銀行が、自分から融資を申し出てきたけれど、今回は断る。

様子を見ながら、事業を大きくすると説明した。

実際は、これ以上借金を増やすと、リスクが大きくなりすぎるからだが。

次に投入した酒は、柔らかいのどごしと、何より素人でも今までの灰汁が強かった地酒とは違うとわかる味の良さが売りだ。

これも、かなり売れた。

以前とは比較にならないほどに。

そして、その次。

香りも良く、味も良い酒を、何種類か作成することに成功。その一つは、地元の名産である梅の香りを出しつつ、味はクリアなものに仕上げることに成功していた。実験装置を得て一年が過ぎていたけれど。

明らかに、状況は改善し始めていた。

 

アモンが珍しく日本酒を持ち込んできた。

となると、おそらくこの間来た、白衣の地味な女が事業を成功させたのだろう。アガレスは体の状態から言っても酒は飲めないのだけれど。味そのものには、興味があった。

コレクションを渡した相手の栄達は、アガレスにとって楽しみの一つ。

だから、いつもアモンが情報を持ってくると、心がうきうきする。

「味の方は」

「そこそこまともになっています。 以前は本当に、伝統の美名の元に努力を放棄したことが丸わかりな、進歩ゼロな駄酒だったのですが」

「其処まで言ってやるな」

笑顔のまま酷評するアモンは相変わらずだ。

アモンはこう見えて無類の酒好きで、だからこそに評価をするときは非常に辛口になる。その舌鋒は凄まじく、例え世界的に認められている酒でも、こき下ろすときは本当に容赦がない。

瓶を開けたアモンが、試飲をはじめる。

感覚は共有しているから、味がどういうものかはわかる。

アモンが味見をすると、それだけで此方にも味が伝わるのだ。

なるほど、確かに長足の進歩を遂げている。

これなら、全国区レベルの地酒とも、充分に勝負が出来るだろう。実際に少し調べて見たが、ネットなどでも話題になり始めているようだ。

ただ、彼奴の場合は。

抱えている闇が、社会的に大きな破滅を産みかねないものだ。

状況的に仕方が無かったというのは、弟の事だけ。

彼奴自身、気付いていたのだろうか。

いや、恐らくは気付いていなかっただろう。ただし、周囲の人間は、気付いている可能性が極めて高い。

特に、彼奴の父親は。

本当に痴呆なのか。

「もう何年か待てば、充分に世界と渡り合える酒になるだろうな」

「問題はその時間が、彼女に残っているか、ですが」

「……それは本当に、惜しい話だ」

アサリの酒蒸しを作ると言って、アモンが酒を持っていった。

確かにこの酒で作れば、とても味わい深い良い酒蒸しに仕上がることだろう。甘いものが好きなアガレスだけれど。

普通の料理も、食べるのは好きだ。

ただ、材料はアモンが作り出したものでないと、世界に影響を与えてしまう。そのまま食べる事が出来ないのは、残念極まりなかった。

不意に、三階に上がってくる気配。

面倒な事に、彼奴だ。

一階に居着いてしまっている、人間の従業員。しかもゴモリと結託してしまっているので、アガレスが嫌でも、平気で三階に来てしまう。

うんざりしていると、姿を見せる小柄な影。

かって闇を喰った者の一人。

猪塚篠目(いのづかささめ)。

可愛らしい容姿だが、実は相当に深い闇の持ち主だった。それもあって、アガレスは側にいることを、渋々認めているのだ。

「アガレスさまー!」

いきなりむぎゅうと抱きつかれるので、げんなりするけれど。口をへの字にして抗議しても、離してくれない。

小さな女の子が大好きだと広言して止まないそうで、その辺りゴモリと大変話があうのだそうだ。

「苦しいのだが、何の用だ」

「あ、お口の周り、べたべた」

話を聞いてくれない。

困り果てていると、アモンが戻ってくる。ちなみにこいつも、篠目の事は苦手にしているらしい。

「篠目さん、料理を手伝って貰えますか?」

「はーい! アガレスさまに食べさせるんですよね!」

「そうですよ」

全く、何をしに来たのか。

ふと時計を見ると、外は定時を過ぎている。なるほど、仕事が終わったから、暇つぶしに遊びに来たというわけだ。

闇は解決できても。

家に居場所がいない奴はいる。

篠目はその一人だ。だから、時々ここに来ることを、ゴモリが許している。その事情を、アガレスは知っていた。

きゃっきゃっと黄色い声を上げながら、奥で料理をはじめる部下と迷惑な同居人。

まああれで料理の腕は確かだから。

おかしな事になる事は、多分無いだろう。

 

おおむね、共同体制を取った酒蔵には、レシピが行き渡った。その頃には、もう近辺の酒蔵は、完全に持ち直していた。

完成形とも言える地酒、梅花火は、全ての酒蔵で生産。

試行錯誤のやり方は、何処の酒蔵でもようやく把握したらしく。これ以上、木稲がああだこうだと、口を出さずとも良くなっていた。

仕事そのものも、極めて忙しくなっている。

だから社員を増やして、作業を分担。それで木稲は、ようやく仕事。つまり、分析作業に没頭できるようになっていた。

銀行の融資は、もう受けていない。

借金も完済ずみだ。

今後は、あの忌々しい銀行と関わらずに済むと思うと、清々する。確か何とか言う酒の世界的なコンテストに、梅花火もエントリーされているとかで、結果が楽しみだ。結果次第では、さらなる売り上げの向上が見込めることだろう。

以前とあまり総合的な忙しさは変わらない。

自宅がすぐ側にある事だけが、救いだ。

肩を叩きながら、自室に戻る。

まだ小学校に通い始めたばかりの妹が、勉強をしているのが横目に見えた。呆けてしまった父の姿がない。

母はいるのに。

「あれ。 父さんは?」

「話があるそうよ」

小首をかしげる。

言われたままに、離れに行くと。杖をついたまま、父が其処に立っていた。

完全に呆けてしまっている父と、会話をするのは何年ぶりだろう。父はしばらく木稲をにらんでいたけれど。

意外にはっきりした口調で、驚くべき事をいいだした。

「光彦を殺したのはお前だな」

それは弟の名だ。

どうして、急にそんな事をいいだしたのか。

確かに真実をその言葉はついているけれど。証拠もないし、ただの言いがかりに過ぎない。

そもそも奴は、行方不明扱いだ。

「どうしたの? そんな事を急にいいだして」

「ここしばらく黙っていたが、ようやく証拠を掴んだ」

何を言い出す。

彼奴は所持品に到るまで、徹底的に処分した。肉体は欠片も残っていないし、身につけていたものだって、見つかるはずがない。

血液も全て分解したのだ。

だが。

父が取り出したものを見て、木稲は絶句していた。

それは、弟を殴り殺すのに使ったスコップ。一体どうやって見つけてきた。目印の類は付けていなかった。

しかし、それがあったところで、どうなる。

丁寧に血は落としたし、何より土に埋めて置いたのだ。見つけたところで、DNAなんて、残っている筈がない。

「お前は昔から乱暴だったからな。 覚えているか。 弟を何度となくぶん殴っては、無理に言うことを聞かせていたな」

「そんな訳ないでしょう」

「決定打になったのは、小学四年の時の喧嘩だ。 あの時、崖から突き落とされた光彦は、お前の事を強く恨むようになった。 乱暴になった彼奴が、お前にだけは決定的な暴力を振るわなかったのは、何故だと思う。 怖れていたからだ」

そんな馬鹿な。

私は彼奴の被害者だ。

いつもいつもいつもいつもいつもいつも。彼奴のせいで、どれだけの被害を受けてきたことか。

「忘れたのか。 お前が会社に誘った彼氏に、何をしたのかを」

「あれは相手が」

「だからといって、ブロック煉瓦を顔面に叩き付けるか? 恐怖で相手が引っ越して、蒸発したのも。 その時のお前の形相があまりにも凄まじかったからだ」

何を言う。

その程度の事、誰でもするはずだ。

「家族は皆、お前に怯えていた。 光彦が殺されたことも、みな内心ではわかっていたんだ。 お前をおとなしくさせるには、好きなようにさせるしかないと、儂は判断したんだよ。 だから会社の社長を任せた。 任せておいて、光彦が埋められた場所に当たりを付けて、掘り返し続けた。 やっと見つけたんだ」

そうか。

この爺。

呆けたフリをして、ずっと弟の事を探し廻っていたのか。

此奴も。あの時に、やっぱり殺しておけば良かったのかも知れない。

気付く。

自己暗示を掛けていたことに。

この爺が、呆けていると。そうすることで、自分が会社を乗っ取ったことを、正当化していたのだ。

そういえば、社員達も。

考えて見れば、どうして木稲に大人しく従っていた。あれは、木稲の事を、怖れていたからではなかったのか。

会社の業績は、うなぎ登りに上がっている。成長も、右肩上がり。

この辺りの酒作りの産業は、盤石なものになりつつある。

だが、木稲はかなり強引なやり方で、その礎石を作った。誰もが黙り込んでいたのは。暴君である木稲の、能力と暴力を怖れていたからなのだろうか。

そうなのかも知れない。

ぷつんと、頭の中で、何かがキレた音がした。

「それで? どうするつもり」

「自首しろ」

「断る」

これからなのだ。

暗示が全て解けた。考えて見れば、無理に此奴の言う事に従っている理由なんて、最初から無かった。

全部自分で掛けた暗示だった。

無能というのも、その影響。そもそも本当に無能だったら、働いていても成果が出るはずも無い。働いていて、作業を事務的とはいえ処理できていたのも。暗示が掛かっていたとはいえ、相応に木稲には能力があったからだ。

そもそも父は。

この会社を、弟が消えたときに、畳もうとさえ考えていたのだ。そんな事をさせるくらいなら、木稲が使って良いはず。そう考えて、会社を奪い取った。酒蔵を、自分のものとした。

それを正当化するために。

いろいろな理由を、自己暗示で脳に叩き込んでいたのだ。

農工大での勉強については、学校でもトップクラスだった。教授の推薦で、大学院にも行けるほどだったのだ。

考えて見れば。分析装置が入っただけで。データを手に入れただけで。あれだけ的確な研究進展を行えたか。

あれは、元々私が優秀だったから。

そして、大学院を出て、教授職になって。

しっかりした研究さえ進めれば。あんな分析装置なんて無くても、酒蔵を一人で建て直せたのだ。それだけじゃない。

あの無能で伝統という美名にしがみついている、周囲の酒蔵のクズ共と利益なんて分け合わなくても。

全て、自分で独占できたはずだったのだ。

それを駄目にしたあの無能弟に対する怒りが。

暗示を、全て成功させていた。

凶暴性が、体中から吹き上がってくる。自分で封印していたはずの、獣のような本性が、牙を剥いて咆哮していた。

暗示が完全に壊れたのだから、当然だ。

父が目に見えてたじろぐ。私の形相が、既に尋常なものではなかったから、だろう。

「ばからしい。 証拠なんて、私が残すと思う? それに、この酒蔵は、もう私のものなのよ。 あんたに口出しはさせない」

「あくまで、酒蔵を、私物化するか」

「私がいなければ、この辺りの酒造産業は、放って置いても壊滅していたの。 それを立て直すために努力していた私の苦労を全部ふいにしたあの阿呆が失踪したくらいで、何を今更」

「確かに光彦はクズだった。 彼奴をクズに育ててしまったのは、儂の責任だ」

どうして此奴を呆けたと勘違いしていたのか。

父はしゃべり方もしっかりして背筋も伸びていた。

「だが、それは、こんな先行きの見えない産業に、家族を関わらせたくないとも思っていたからなんだ。 お前だって」

「巫山戯るな。 ようやく産業そのものを立て直したこの苦労、何十年ものうのうとしていただけのお前なんかに、わかるものか」

「儂も殺すか」

「そんな事はしない」

ようやく手に入れた、自分の場所。それだけじゃない。自分で好きなように金を作り出せる、自分にとっての宝。

それを手放すなんて、あり得ない。

しかし父を放置しておけば、弟を殺したのは私だと、周囲に喧伝して廻りかねない。ならば、方法は一つか。

「老人ホームは少し前から手配してある。 そこに入って貰う」

「ま、まだ儂は」

「入って貰う」

言い捨てると、木稲はすぐに携帯で、部下を呼び出す。

既に会社で木稲の権力は絶対。業績が向上しはじめたころから、部下の洗脳にも着手している。以前は木稲を馬鹿にしている社員もいたが、そいつらも掌握済みだ。

近場に住んでいる若いのを何人か呼び出すと、父を連れて行かせた。

「もうろくして繰り言を言うかも知れないが、気にしないように」

「離せ」

父が、連れて行かれる。

木稲はその背中に、一つ呟いていた。

「誰にも、私の邪魔はさせない」

 

その後。

近隣では行方不明事件が相次いだ。

噂によると、平野木稲にとって都合が悪い人間ばかりが消えている。警察も動いたけれど、証拠など発見できなかった。

何しろ。木稲は既に、地元では絶対者。

白衣の独裁者と呼ばれて、怖れられる存在となっていたからだ。

地元復興の英雄にて、周囲とは隔絶した富の持ち主。一方で、父母はどちらも老人ホームに入れられ、何故か地元の若い衆が監視に当たっているという。若者達は、木稲の手足のように動く、一種の親衛隊だ。

地元のニュースが、インタビューしたとき、平野木稲はこうさらりと応えたという。

「金と権力が欲しければ、手段を選ぶな」

彼女が、笑顔を浮かべることは。

二度と無かった。

まだ幼いころ。平野木稲の妹である双葉は、姉の笑顔をよく見た。

しかし、今では。木稲が笑うところは一切見ることが出来ない。双葉に会社をくれると言ったときも、姉は何一つ笑おうとはしなかった。

何となく、わかる。

この人は、邪魔な相手は、家族だろうと殺す。

双葉が邪魔になれば、殺されるとも。

だから、逆らうことは考えられなかった。

今日も姉は、地元の絶対者として君臨している。もはや姉に逆らうことが出来る人間は。少なくとも、地元には存在しなかった。

陸の孤島の、絶対なる帝王。

姉が果てしない孤独に踏み込み。そして、笑顔を失ったのだと。

幼い双葉も、何処かで悟らされていた。

姉の手元には、いつも不思議な分析装置がある。姉は分析装置に始終張り付いて、お酒の分析をして。

そして時々、何がいらだたしいのか。

地面を蹴りつける。

そんなとき、身を縮める双葉は、以前見た光景を思い出す。

姉が、一人で涙を拭っている所を。

分析装置に触れている姉は。

あの時と、同じ雰囲気を、身に纏っているのだった。

 

(続)