内と外の鏡

 

序、全ての終わり

 

ふられた。

呆然と立ち尽くす樹下ゆかりは、何が起きていたのか理解できているのに。どうにも出来なかった。

喋ることも。

其処から去ることも。

何も、出来なかった。

ラブレターを渡したら、笑いながら相手は破り捨てた。

お前みたいな根暗が、笑わせるんじゃねーよ。そう、優しいと噂の先輩は、ゆかりの願望を木っ端みじんに打ち砕いた。そして鼻で笑いながら、ラブレターの破片を踏みにじり、去って行った。

去る際に、携帯に電話もしていた。

相手は、彼女らしかった。ゆかりのことを笑いものにしているらしい。会話の断片は、此方に聞こえてきていた。

雨が降り出したのは、どういうことだろう。

そんなに、ゆかりの有様を嘲笑いたかったのだろうか。

校舎に戻ると、犬みたいに頭をふるって、水を落とす。茶色っぽい地毛に水がつくと、少し金髪のように見える。

くせっ毛だけれど。

この髪質だけは、自慢なのに。

今は、煩わしくてならなかった。

ずぶ濡れのまま、下駄箱で、自分の靴を探す。終わった。何もかも。夏は始まったばかりだというのに。

根暗、か。

眼鏡を掛けているわけでもないけれど。ゆかりは根暗だと、周囲に言われる事が多かった。

別に本ばかり読んでいるわけではない。

運動はむしろ得意な方で、100メートルではむしろ学年でも上位に食い込む。それなのに、どうしてだろう。

周りと喋らないから、だろうか。

雰囲気が原因だろうか。

とにかく、ゆかりは周囲から暗いと言われる。根暗だとも。友人は何名かいるが、彼女たちも対応は同じだった。

ハンカチを取り出して、乱暴に頭を拭いた。ハンドタオルがないから、ハンカチで代用するしかない。

涙は出てこない。

あれだけテンパったのに。内心では、ふられることがわかっていたのかも知れない。そう思うと、滑稽で、笑いさえ漏れてきた。

教室に戻るが、誰もいない。

今は放課後なのだから、当然だ。さて、どうしよう。傘もないし、級友もみんな帰ってしまっている。

席に着くと、ぼんやりと天井を見上げた。

築二十年、ガタが来ている校舎には。あまり良い思い出がない。今日、そのろくでもない思い出に、もう一つが加わった。傘もないし、どうするべきか。悩んでいると、外が本降りから、若干弱まりはじめていた。

今しか、帰る隙は無いか。

外に出ると、わずかに雨量が減っていた。

走るでも無く、黙々と歩いて行く。どうせこんな根暗女、誰も見やしない。根暗と周囲がいうなら、そうなのだろう。

今更改善のしようもなかった。

家は学校とかなり近い。電車に乗らなくても、つく。

その上片親で、母親は夜中まで帰ってこない。仕事をしているのなら兎も角、大体は男遊びに忙しいのだ。

父親の遺産で、どうにか生きてはいられる。

弁護士が財産管理をしているから、殆どゆかりは触ることが出来ないが。毎日のように、弁護士と母が言い争っているのを、ゆかりは聞いて育った。

もっと金が欲しい。

月に二十万程度では生活できない。

そう母ががなり立てるのを、うんざりしながらゆかりは小学生のころから聞いていた。贅沢癖がついている母は、一種の病気だ。

それだけ金があれば、生活できることくらいは、ゆかりにだってわかるのに。

弁護士は一歩も譲らない。

母が言うように金を出したら、一瞬で契約違反になってしまうからだろう。

事実、生活は出来ているのだ。母が男遊びを控えれば、もっと楽に生活することも出来るだろうに。

ちなみにカードの類は、全て停止されている。

一時期母がホストにつぎ込もうとした前科があったからだ。借金が出来ても、遺産があるから平気という考えであったらしい。

父の位牌に線香をあげると、自室に引っ込む。

その時、はじめて全身がずぶ濡れになっている事を思い出した。くしゃみをして、それで思い出したのだ。

シャワーを浴びて、着替えがないことに気付く。

母が洗濯なんて、するはずもなかった。

タオルを被って、しばらくは過ごす。

ここ二ヶ月以上、母と会話なんてしていない。昔は弁護士が目を光らせていたから一応食事だけは作ったけれど。

高校生になった今は、それさえしない。

ネグレクトに当たらないと考えているからだろう。

子供に愛情を注がない親なんて、どこにだっている。ゆかりからすれば、テレビなんかで報道される子供の虐待死は、決して他人事ではなかった。父が生きているうちはまだ良かった。

父が死んだ後も、弁護士に財産管理を任されなければ。

ゆかりはおそらく、母によって虐待死の憂き目に遭っていただろう。

洗濯が終わったので、乾燥機を廻す。

ある程度乾燥したところで、室内に干した。

しばらくは我慢するしかない。ノーパンノーブラのままパジャマを着込むと、ベッドでごろんと横になった。

染みだらけの天井。

古い家だから、何ら手入れをしないと、こうなる。

おばけでも出てきそうだけれど。

出てくるなら、好きにすれば良い。

携帯も持っているが、二昔前のガラケーだ。今時の高校生とは思えない古い型番。だが、親が金なんか、ゆかりのために出すわけが無い。

ちなみに、買う事が出来たのは、弁護士が口添えしてくれたからだ。

そうでなければ、携帯さえ買う事は出来なかっただろう。もっとも、型落ち品だったから、携帯の本体はただだったけれど。

勿論、家にPCなんてない。

充電器につないだまま、携帯を弄る。

寂しいとは思わない。孤独はゆかりにとって、いつも側にあるものだからだ。ただし、退屈だとは思う。

男の子を好きにでもなれば、少しは変わるかと思ったけれど。

結果は玉砕だった。

何というか、世界そのものに嫌われているとしか、思えなかった。

ぼんやりと、様々なサイトを見ていると、都市伝説とやらに行き当たる。此処は都心だし、幸い電波は強い。

ネットの閲覧には、困ることはない。

「お店……」

思わず、口に出して呟いていた。

最近話題になっている都市伝説だ。怖い話ではない。何でも、そのお店では、何でも願いが叶うのだという。

あり得ない筈の場所にある、あり得ないお店。

政府なども探しているという事だけれど。まだ見つかったという話はないらしい。

そのお店に行ったと言う人間の談話は、幾つか乗っていた。

超レアな鉄道模型をもらって、人生が変わったとか。

歴史的な価値がある古文書を見つけて、論文を発表することが出来たとか。

いずれも、ゆかりには、関係があるとは思えない話ばかりだった。

ただ、こんな生活を抜け出せるなら。正直なんでもいい。

無心のまま携帯を弄って。ゆかりは、その店のことを、調べ続けていた。

 

1、根暗高校生の日常

 

級友が、面白そうに聞いてくる。

先輩に振られたんだって、と。

ゆかりはじっと、相手を見つめる。どこから聞いたのだろう。いや、それは愚問か。恐らくは、あの先輩自身がばらまいたのだろう。

「そうだよ」

「あんたも無謀だね」

「悪かったね。 考えて見れば、彼女持ちなのも当然か」

「え……?」

級友が驚いたようなので、会話の内容を伝えてやる。それに、ふられた場面で、何が起きたのかも。

あの先輩は、女子のネットワークの恐ろしさをわかっていない。

びりびりに破り捨てたラブレターを踏みにじったというと、流石に周囲の半笑いが消える。

根暗だと噂のゆかりだけれど。

嘘はつかないと言うことだけは、周囲に定評があるのだ。

「ちょっと、それマジ!?」

「うん。 こっちからお断り。 あんなゲスいチャラ男だったとは、思ってもみなかったよ」

「そっかあ……」

流石に、今までの半笑いが止まって。同情へ移る。

幸いにも、友人はいる。

さほど深くは関与していないが、女子のコミュニティからも弾かれてはいない。それでも根暗と言われるのは、何故だろう。

よく理由はわからない。

自覚はないのだけれど、見かけは良いと言われる。顔の造作は、それなりに整っているのだそうだ。

スタイルの方は。

これもよく分からない。

ゆかりは喋らなければ襤褸が出ない。

そんな風に時々言われるので、こっちも一応人並み以上なのだろうか。よく分からないけれど。

正確には、違うのかも知れない。

興味が無いのだろう。

たとえば母は、美人な上にスタイル抜群と、周囲から良く言われる。既に四十代にもかかわらず、男にもてるのはそれが理由だ。

一方で性格は文字通り最悪。

父の遺産を食い潰そうと常に虎視眈々と狙っているし、如何にアクセサリ代わりにゆかりを育てていたかも明白だ。

子供のころは、着せ替え人形代わりにいろいろなものを着せられた。

ゆかりが可愛いから着せていたのではないのだと気付くまで、そう時間は掛からなかった。

殆どの場合は、単に見栄えが良い子供を連れているという、自己満足のため。

顧問弁護士に見張られていなかったら、とっくのむかしに何処かに蒸発していただろう。

財産保全の契約書には、ゆかりが成人するまで面倒を見るという項目も、しっかりきざまれているのだ。

帰りに、食事に誘われたけれど。

手持ちのお小遣いがないことを説明。

生活保護を受けているわけではないけれど。それに殆ど近い状況だ。弁護士は母に特に容赦しないけれど。

ゆかりが浪費しないように、目も光らせているのだ。

最近は、家計簿を提出するようにとも言われている。

他の女子高校生の半分以下の小遣いで、どうやってやりくりすれば良いのかは、正直よく分からない。

少なくとも嗜好品の類は、殆ど買う事が出来なかった。

部活か何かも、お金が掛かるから駄目。

交友関係にまで、弁護士は目を光らせている。

たまに出向くのは新古書店。

其処でなら、漫画くらいなら立ち読みできる。気が向いたら本を買うこともあるけれど。とてもではないけれど、新品に近いものなど無理。高くて、手が出ないからだ。ボロボロの廃棄寸前の奴以外は、買ったこともなかった。

一方で、制服などはきちんと洗濯もしている。

家事を一切しない母のせいで、この辺りは、今からスキルが身につき始めていた。もっとも、母と顔を合わせる度に修羅場になるので、家事が手に着かない事も多いのだけれど。

帰宅すると、洗濯を取り込んで、畳む。

昨日のように、下着無しで過ごすようなのは、あまり個人的にも好きでは無いのだ。一応一軒家であり、洗濯物を干す裏庭は存在している。

洗濯物を取り込んでいると、隣の家の老婆と一瞬だけ目が合った。

同情するような視線を受けたけれど、どうでもいい。

この辺りの、愛想が一切ないところが。

根暗だと言われる所以なのかも知れなかった。

明日の準備を終えると、携帯を電源につないで、軽くネットを巡回する。

昨日と同じく、都市伝説のサイトを確認。

やはり、店の情報がある。

誰もが望むことは同じ。やはり、誰でも、自分の願いを叶えたいのだろう。

願い、か。

あの母が死んで、遺産が全部ゆかりのものになったら、どうだろう。

その後は、一生遊んでは暮らせる。

だが、その場合。多分気付いたら、老いぼれて、家の中で豚のように太ったまま、誰にも顧みられなくなっているだろう。

それに母が早死にしたら、あの弁護士が何を言い出すかわからない。

あの母が、ゆかりに愛情など向けていないのと同じように。ゆかり自身も、母のことはもうどうでも良かった。

これ以上迷惑さえ掛けなければ、いい。

以前は男を連れ込んでは、ゆかりを家の外に放り出して、本当に鬱陶しかった。雨だろうが、関係無かったのだ。

弁護士がその醜態を見かねて、いろいろな法的措置を執って、ようやくおとなしくはなったけれど。

今でもその件で母はゆかりを逆恨みしていて、いきなり出会い頭に殴られることが、珍しくもなかった。

だとすると、一人暮らしできる家と財産なんてどうだろう。

今の時点で、一人暮らしは出来る。問題は、自由に出来る生活費なのだ。おしゃれをしようとは、別に思わない。

ただ、日用品は、それなりにお金が掛かる。

最近は百均というのもあるけれど、彼処で売っているものは基本的に粗悪品で、ろくなものがない。

人間らしい生活をするには。

特に先進国の日本では、お金が掛かるものなのだ。

やっぱり、自分で自由に出来るお金、だろうか。

しかしそれは、その内手には入る。

あの乱脈な生活をしている母が、永く生きられるはずもない。確か以前健康診断の結果を見たが、体中がズタボロで、悲惨な状態だったはず。あれでは、その内重い病気にかかるだろう。

それに、正直な話をすると。

生活は、文字通りどうでもいい。

洗濯物を畳んで。冷蔵庫に放り込まれている品を適当に漁って、夕食を作る。出来合いだけれど、おなかが膨れればそれでいい。

食べ終えた後、携帯をまた弄る。

パケット無制限のプランだから、お金はそう掛からない。それに携帯に掛けてくる物好きもいない。

メールなんかが飛んでくることはあるけれど。

返事が素っ気ないので、殆ど会話が続かない。

学校で、それに文句を言われることは、時々あった。

チャイムが鳴る。

玄関に出ると、弁護士だった。

いかにもやり手という風情のキャリアウーマンで。噂によると、父の愛人だったとか。確かに綺麗な人だ。ただ、噂は所詮噂ではないかと、ゆかりは疑っている。父の話題が出たときに、どうも艶っぽい雰囲気がないからだ。勘に過ぎないけれど。

そしてボディーガードをいつも連れているのは、母と何度となくやり合ったから、だろう。

最もこの人は合気道をやっていて、一度などはつかみかかった母を一瞬で放り投げて、地面に叩き付けていた。それ以来、母は一度も実力行使をしようとはしなかった。武器を持っていても、母では叶わないだろう。

ゆかりに対しては暴力を振るうことを躊躇わない母も、この人には戦いを挑もうとはしない。

家に上げると、近況について聞く。

「お母様は、相変わらずで?」

「帰ってくるとしても深夜。 帰ってこないことも多いです」

「そう。 居場所と使用しているお金については、此方で把握しています。 あれだけ遊びたいと言っておきながら、自分で稼ごうとしないのだから、呆れてモノが言えませんけれど」

行動範囲は全て把握しているとかで、近隣のホスト店などではブラックリスト入りさせているという。

カードもガチガチに監視していて、ほぼ金は使わせないのだとか。

そのため、かなりの頻度で、弁護士に電話を掛けてくるのだとか。カードの凍結を解除しろ、と。

「現在四人の男性と同時に交際していますが、その内二人が暴力団関係者です。 遺産が目当てらしく、熱心にカードの凍結解除をせっついているようですね」

「そうですか」

実際、弁護士が手を打つまでは、そういった輩が家にも来た。

五年前はともかく、今もそうだったら。

貞操がかなり危なかっただろう。

容色が衰えはじめている母と、ゆかりは違うからだ。あの手のケダモノ同然の連中が、若い女に何をするかくらい、ゆかりだって知っている。

「問題は、貴方の母上が、貴方に稼がせようとしてきた場合です」

「風俗か何かで、ですか」

「事実一度、児童写真系の雑誌に放り込もうとしましたね。 覚えていますか?」

覚えている。

弁護士が即座に対応してお流れになったけれど。

確か母の男の一人が、芸能界関係者か何かだった。その手の写真誌につてがあるらしく、ゆかりを売り飛ばして小遣い稼ぎに使おうとしたらしい。マスコミ関係者にとって、人権なんて鼻で笑う程度の意味もないとは聞いていたけれど。若いうちにそれが本当であると理解できた事は、大きな意味があったのかも知れない。

父が死んでから、一年しか経っていない頃の話。

まだゆかりは、小学生だった。

弁護士の対応がなければ、おそらく雑誌に売り飛ばされて、裸体を写真にたんまり撮られていただろう。

そしてその金は、母がホスト遊びにつぎ込んだ、と言うわけだ。

今は、自宅などで風俗まがいの事をさせる危険が大きいという。ただ、それらに関しては、弁護士が手を打っているそうだ。

「何かあったら、即座に連絡を」

「……」

無言で頷く。

何でも母は素行が極めて悪い事もあって、このままだと財産凍結も視野に入れることが出来ると言う。

父が死んだときに書いた契約書に違反することが著しく多いからだ。

しかし、どうもその事は母も勘付いているらしく。それが故に、腹を痛めて産んだはずのゆかりを、憎んでいるのだそうだ。

彼奴さえいなければ。

遺産は全部自分のモノなのに。

月に使える金額は二十万と決まっている。

その内ゆかりの手元に来るのは一万五千。これには、様々な諸経費も含まれるので、小遣いは二千円程度しかない。その一万五千さえ、むしり取りたくて仕方が無いと言う事だ。

更に言えば、諸経費の枠を越えている学校などの費用も、二十万には含まれている。

最近は、ゆかりに対して殺意さえ感じるようになってきている。エゴの怪物という表現を、何度か弁護士がしていたけれど。

ゆかりもそう思う。

母性への信仰が、この国にはある。

だが、それは本当なのだろうか。確かに場所によってはあるのだろうけれど。少なくとも生まれてこの方、ゆかりは見たことが無い。

いわゆる出来婚をした父母は、ゆかりが物心ついたころから仲が悪かった。父は母に対して隙を見せず、法的整備をしっかりしていたから、母はいつもわめき散らしていた。子供作ったんだから責任取れ。金を寄越せ。

お情けで与えられたこの家に住んでいて、母がゆかりに温かい視線を向けてきたことなど、一度だってない。

ずっといたお手伝いさんが、守ってくれた時期もあったけれど。

それも父がいなくなってからは。

「それとゆかりさん。 貴方母上に、暴力を振るわれていませんか?」

「え?」

「近隣の住民から、情報が入ってきています。 もしも確定的な証拠を押さえられれば、即座に動きますので。 連絡をしてください」

弁護士が席を立ち、家を出て行った。

もしもこれで彼氏でもいれば、その家に逃げ込むのだけれど。

ゆかりには、居場所なんて気が利いたものは、存在しなかった。

 

小さな自室に鍵を掛けて。

寝て起きて。

朝部屋を出て着替えていると。どうやら、母は昨晩帰らなかったことがわかった。どうせ暴力団関係者だという彼氏の一人の所にでも泊まって、どうやって財産を「奪い返すか」考えていたのだろう。

或いは私を弁護士の目が届かない所で、どう稼がせるかでも、相談していたのかも知れない。

ひょっとすると、もっと法的にダーティな事を話し合っていた可能性もある。

弁護士を消してしまう方法とか。

ゆかりは、学校では資産家の娘だという話はしていない。というよりも、金には興味があまりないので、口に出すことも無いのだ。

それに何より、極めて質素な格好をしているゆかりが、そうだと思える要素がないだろう。周囲に、金の話を振られたことは、一度もなかった。

いずれにしても、母が帰ってこなかったことは嬉しい。

暴力を振るわれることもないし、きんきん声で怒鳴られる事もないからだ。

弁護士は味方をしてくれているようだが、実態は違う。

実際には、ゆかりに対しても、強い監視の目を向けてきている。

ゆかりがしっかりした会社に就職して、ちゃんとした伴侶を得て、身を固めたら財産の管理を解除する。

それが契約書に書かれている事らしい。

逆に言うと、ゆかりがきちんとした会社に就職できないようだったら、財産は永久に管理したまま。

財産は別の弁護士も監視しているから、誰かが食い物にしているというような事はないだろうけれど。

ゆかりに味方なんていないと言う点に、変わりはなかった。

空虚な学校での時間を終えて、家に戻る。

母は今日も外で遊び歩いているらしい。弁護士に言うと、これもネグレクトとして、立件に使用できるとか。

暴力団関係者とつるんでいる以上、多分何かしらの対抗策は採っては来るだろうけれど。

いずれにしても、あの頭の悪い母では、どうにもならないだろう。

適当に夕食を作って、胃に放り込む。

その後は自室で、携帯を弄って都市伝説について調べた。何でも願いが叶うとしたら、何が良いだろう。

母が死んだら。

今でも、事実上は一人暮らしだ。

母が死んだら、それはそれでラッキーかも知れない。あのエゴの塊みたいな女がいなくなれば、ゆかりはだいぶ楽になる。

ただし、だからといって使える金が増えるわけではない。

ちょっと携帯を多めに使うだけで、弁護士に色々と文句を言われるほどの状態なのだ。友人と食事に行くくらいでも、大目玉をもらう。そんな状態で、お金を使えるはずがない。

しかもゆかりは、勉強が出来る方では無い。

大学には行けそうだけれど、それだけ。

大学行って、適当な会社に就職して。適当な男を捕まえる。

ゆかりは年収一千万でイケメンで好きなだけ金を使わせてくれる男じゃなきゃいやだとか女性情報誌に洗脳されてほざくほどアホじゃないが、それでも今の時代結婚は簡単じゃない事くらいは知っている。

ため息が漏れる。

どれもこれも、ゆかりには難事だとしか思えない。

人生が詰んでいるとは、こういうことを言うのだろうか。

友人の中には、カレシとゴム無しでやったとか騒いでいる馬鹿がいるが、その程度なら挽回なんていくらでも効く。

此方は、生まれついて様々な状況が終わっているのだ。

また、例の都市伝説を見つける。

だが、何か願いが叶うとしても。

ゆかりには、何が欲しいのか、よく分からない。自由だろうか。自由ならあるけれど、それだけだ。

何も出来るけれど、何も出来ない。

自分の好きに出来る財産だろうか。

いや、いくら今お金が手に入っても、あの母親がいる限り、自由になんて出来るわけがない。

弁護士だって、どうやって金を手に入れたのかとか、根掘り葉掘り聞いてきて、最悪管理下に財産を置くだろう。しかもその最悪は、恐らくは九割に近い確率の筈だ。

ぼんやりと、携帯を見つめる。

根暗。

そう言われて久しいけれど。友人達は、合コンとやらにゆかりを誘おうとする。

見栄えだけは良いから、だとか。

わからない。

見栄えだけ良くても、根暗だと言われて、告白した相手にもふられて。極貧一歩手前の生活をしながら、母に暴力を振るわれ続けて。下手をすれば、風俗に売り飛ばされる危険さえあって。

一方で、見栄えについては。女子が喉から手が出るほど欲しがっている外見についてだけは恵まれている。

頭も良くない。

運動神経だって、そんなに良い方じゃない。多少はマシだがその程度。国体に出られるような子とは、比較することもおこがましい。

ゆかりにあるのは、見栄えだけ。

美味く使えば男を引っかけて、好き勝手に金をむしり取ることも出来るのかも知れない。しかしそれは。ゆかりが一番嫌っている母と同じやり方だ。

そして母の若いころの写真は、今のゆかりにそっくりである。

其処も。

ゆかりが、この世に絶望する、理由の一つだった。

携帯を閉じると、ベットに転がって、どうしようと思った。どうしようもないどんよりとした沈鬱の中。

時間だけが、無為に過ぎていった。

友人からメールが来る。

適当に応じていると、不意に向こうが、変わった事をいいだした。

「ゆかりってさ、見かけは良いんだし、性格が変わればもてそうだよね」

「性格なんて変わらないよ」

見栄えが良くても、根暗と言われて、ふられるほどなのだ。

話によると、目つきもしゃべり方も、相手に不快感を覚えさせるのだという。そういえば、同年代のころの母の写真を見ると、目が違っている。媚態を周囲に尽くしまくっているのだ。

性格改善セミナーとか言うのもあるらしいけれど。

良い噂は聞いたことがない。

「社会に出たころから、女性は大体狸の皮被るって聞いているけどなあ」

「ああ、性格を隠して、見栄え良く振る舞うって事?」

「私達だって、そう言うことしてるよ。 ゆかりがあんまりにも、素の性格を表に出しすぎなんじゃないのかな」

「そんなこと言われてもね……」

物心ついたころには、父と母は常に怒鳴り合いをしていた。

お手伝いさんはゆかりに同情していたようだけれど。

そもそも、相手への媚態の尽くし方なんて、わからない。出来るとしても、正直なところ、やりたくない。

「女性雑誌とかに書かれてるけどさ、ありのままの自分なんて、受け入れてくれる相手なんて、この世に多分いないよ。割り切って、男なんかATMだと思えば良いんじゃないの?」

「そう言い切れるあんただってカレシなんかいないでしょ。 そういう雑誌なんて、男の価値を年収だけで判断してて、一千万以下なんてカスとかアホなことしか書いてないし、あまり興味ないなあ。 そんな年収の人間、滅多にいないし、いたとしても私達みたいな屑なんて相手にしないでしょうに」

「余計なお世話」

「ああ、こういうのが根暗って言われる原因か」

苦笑いして、メールを打ちきる。

それにしても、性格を変えろ、か。つまり上手に狸、もとい猫を被る方法を覚えろというのだろうか。

母が帰ってきた。

まだ早い時間なのに、泥酔しているらしい。

むしろラッキーだ。

暴れるだけ暴れたら、勝手に寝てくれる。しばらくぎゃあぎゃあ騒いでいたが、やがて静かになった。

外に出てみると、台所の床で寝ている。

昔は抜群のプロポーションで、まさに魔性と言うに相応しかった。特に二十代前半から後半に掛けては、女に五月蠅そうな金持ちだった父が、思わず手を出したのがよく分かるほどだった。

しかし今は、美しいと言っても相応。誰でも衰えるのだ。汚らしく崩れた化粧にも、多分気付いていないだろう。

自分も、いずれこうなる。

そう見せつけられているのと同じ。

前は布団を掛けてやったりした事もあったけれど。母がゆかりに感謝することは、ただの一度だってなかった。

むしろ今から、朝に顔を合わせるのが憂鬱でならない。

部屋に戻る。

放って置いて構わないだろう。どうせ酒を飲んできたにしても、男におごらせたに決まっている。

その男も、母が「不当に凍結されている」財産が目当てだろう。

化け物同士の化かし合いなんて、何の興味も持てない。むしろゆかりが関係無い所で、好きなだけやり合って欲しかった。

性格を変える方法。

自室に戻ると、携帯から検索してみる。

部屋のドアには鍵を掛けてあるから。母が暴れても押し入られることはない。あれだけ暴力を振るわれれば、自衛手段くらい採る。

性格を変えれば、少しは何か、状況が改善するだろうか。

わからない。少なくとも、はっきりしている事が一つあるとすれば。

現状、ゆかりの未来に、光は無いと言う事だった。

 

2、言葉が意味を成さない場所

 

母が家にいないのを見て、ほっとしたのは何度目だろう。

帰宅したゆかりは、買ってきた夕食を適当に冷蔵庫に放り込みながら、洗濯物の状態をチェック。

取り込んで畳んで、できる限り急いで自室に引っ込んだ。

食費は弁護士に請求すれば、出してくれる。

ただし嗜好品の類は、買うことを許されていない。レシートの提出は必須で、金が下りるまでは財布から自腹で出さなければならないのだ。

だから、ある程度節約の知識も身についた。

部屋の鍵も、そういえば弁護士に金を出してもらった。

母の暴力が酷くなり始めたころに、言い出したのだ。実際母が男を連れ込むことも当時はあったので、危なくて部屋にはいられなかった。事実、本能的に身を隠していなければ、陵辱されていたような状況も、何度もあったのだ。

この家を出たいと思うけれど。

勿論弁護士は、金なんて出してくれない。

母は理由なんてどうでも良い。ただ金さえ「奪い返せれば」どうでもいいと考えている。

そのためには、ゆかりは邪魔だ。

だから、どんな内容でも、文句を付ける。顔を見るだけでも気に入らないようで、殴りかかっても来る。

素手ならまだ良い方。

手元にあるものは何でも投げつけてくるし、包丁があったら衝動的に刺してくるかも知れない。

家族の絆。

そんなもの、ゆかりは漫画の中でしか見たことが無い。それも、学校で友達と一緒に読んだ、である。

殺風景な部屋の中。

古い布団に転がって、携帯を弄ってネットをする。

それだけが、ゆかりに許された、小さな箱庭の平和。

適当に合間を見て、夕食を胃に放り込む。母と食事中に顔を合わせでもしたら最悪だ。せっかく作った夕食を台無しにされるのは確定である。

友人からメールが来る。

「ゆかりさ、体鍛えてみない?」

「そんなお金ない」

「いや、朝とか、ランニングするだけでも、結構違うよ。 体力がついてきたら、色々と出来る事もあるし」

「何が出来るの」

体力があると、だいぶ違うと友人は言う。

確かに若さが有り余っている場合は、二度や三度の徹夜は平気とも聞く。体力があれば、ある程度つぶしも利く。

そういえば、暴れる母を取り押さえることも、出来るかも知れない。

母が帰ってきた。

相変わらず、泥酔して、何か騒ぎ立てている。ドアが激しくノックされたけれど、無視。開けろ。開けないと殺すぞ。この穀潰し。ブス。死ね。

わめき立てている母が、やがて静かになる。

放っておく。

しばらくすると、階段を下りていく気配があった。チャイムが鳴ったのだと、今更に気付いた。

外で、母が喚き出すのがわかった。

あの様子だと、弁護士が来たのだろう。

窓からちょっと外を覗くと、丁度弁護士がつかみかかった母の手を捻りあげて、制圧した所だった。最近は、弁護士に突っかかることはなかったのに。酒の勢いか、それとも別の理由か。

暴力だ、痛いと喚いているけれど。

弁護士の側には、警官もいる。警官が、先に襲いかかったのが母だと、見ていたようである。

この様子だと、恐らくは母が帰ってきたのを知って、弁護士は来たのだろう。

やがて、母が連れて行かれる。

パトカーのサイレンが遠ざかっていく。あの様子だと、くわえこんでいる男の一人と、何かあったのだろう。

弁護士がチャイムを鳴らした。

面倒だけれど、対応しなければならない。

弁護士を居間に入れるけれど。

荒れ果てていた。

帰ってきた母が暴れたのだ。夕食をしている時に戻ってきていたら、何をされていたかわからない。

「決定打がありました。 貴方の母君が、どうやら交際中の男のつてをたよって、貴方を殺そうとしていたようです」

「へえ……」

「通話記録などが残っています。 既に男は逮捕。 貴方の母君も、警察で聴取を受けて、恐らくは実刑が降るでしょう」

暴力団は今資金面で相当追い詰められているとは聞いているけれど。

これは危ないところだったのかも知れない。

さっき、顔を合わせていたら。何をされていたのか、本当にわからなかったというわけだ。

既に高校生と言うこともあって、孤児院に入れられることはないようだけれど。

いずれにしても、これでいろいろな意味で終わった。

大学には入れないかも知れない。

内申書に、何を書かれるか、知れたものではないのだ。

もっとも、中学のころから、三者面談に、親がまともな姿で来たことは一度もなかったが。

色々と今後の話をされて。

終わったのは、深夜だった。

弁護士が引き上げていく。

当面財産の管理は継続。それにしても、だ。

これでは、今後何を目的に生きていけば良いのか、よく分からない。親が前科者で、しかも娘を殺そうと暴力団関係者とまでつるんでいたとか。正直、ゆかりも呆れてモノが言えない。

ため息しか出ない。

もっとマシな境遇に生まれたかった。さっき友人に体力があればとか言われたけれど、もうどうでもよい。

弁護士が言うには、母には今後、財産凍結が適応され、一切遺産から金が出ることは無いという。

しかもはたけば埃がいくらでも出てくる状況だという。おそらく執行猶予は適用されない。

完全に無一文で、路頭に放り出されるというわけだ。

ざまあみろとは、思わない。

不思議な事に、あれだけ暴力を振るわれても、どうでも良い相手だと、脳内では認識していたらしい。

勿論暴力を振るわれるのは嫌だし。

容姿が女子高生のころの母そのものだというのも嫌だ。

夜中に男を連れ込んでギシギシやったり、その男がゆかりに好き勝手しようとしているのを、にやにや見ていたのには殺意さえ湧いたけれど。

どうしてなのだろう。

その母が法的に裁かれて、以降は地獄に落ちるも同然の事態になったのに。こう、すっとするものは、一切無かった。

とりあえず、もう暴力を振るわれることはない。

そう思うと、少しだけ気分は楽になった。

ただ、やっぱり心の内には、大きな空洞が残ったままだ。携帯を弄って、都市伝説で、店の情報を探す。

何が欲しいのか、自分でもわからない。

性格を変えたいのか。

自由が欲しいのか。

どれもあっているようで、違うような気がする。

ふと気付くと、不可思議なリンクを見つけた。たどっていくと、どうやら店に行くための、核心情報らしいものが見つかる。

しかもどうしてか、コピペできない。

しばらく悩んだ末に、書き写す。

そして、頭を掻き回すと、今日はもう寝ることにした。これでも学生の身であるから、明日は早いのだ。

 

翌日は、淡々と進んだ。

何かあったらしいと周囲は気付いたようなのだけれど。ゆかりの所の家庭事情がすさんでいることは、友人達には周知。

敢えて何も口にしないことにしたようだった。

気を遣ってくれるのは有り難いのだけれど、別にゆかりはどうとも思っていない。家族の絆なんて感じたこともないし、何よりそんなものがあるとさえ思っていない。母についても、あの女、程度にしか考えていない。

のたれ死のうが餓死しようが、知ったことではない。

裁判にも、行く気は無かった。

ただ、弁護士には行くように促されるかも知れない。その場合は、散々暴力を振るわれたことを、言ってやろうとは思っているが。

いずれにしても、完全に資産凍結された母に、もう価値は無い。

群がっていた暴力団関係者も、もう近づくことはないだろう。むしろゆかりの事情が周囲に知られる方が面倒だ。

それよりも、である。

昨日メモしたことは、携帯に入れてある。

今日の帰りにでも、件の店に行く方法は、試してみるつもりだ。

級友達と別れると、逆方向の電車に乗る。弁護士には、用事があって出向くと言ってある。

電車代だけしか使うつもりは無いので、別に問題視はされなかった。

駅から降りると、都心の外れらしい、若干閑散とした雰囲気がある。人通りはまばらで、裏通りに入ると柄が悪そうなのもうろついている。

別にどうとも思わない。

目的の店は、一階が新古書店で、二階がゲーム屋。

そのゲーム屋で、特定の行動をすると、本来はあり得ない筈の三階に入る事が出来るのだという。

そもそも、どうしてわざわざ足を運ぶ気になったのか。

何か欲しいものが、明確にあるわけではない。

むしろ、何が欲しいのかさえ、自分にはわからない。

それなのに、どうして弁護士に頭を下げてまで、電車代を使う事を許可されているのだろう。

それに、こんな街、来る意味も感じ取れない。

呼び込みの若い男が、周囲に声を掛けまくっている。

もう少しすれば、この辺りはネオン街だ。

ごみごみした雰囲気が汚らしい。母のテリトリーだっただろう事も、余計に不快感を煽る要因となっている。

店はすぐに見つかった。

ごく当たり前にある新古書店。何処にでも転がっているような、珍しくもない佇まいの、二階建てビル。

かなり店舗面積は広いけれど。

入ってみるけれど、代わり映えはしない。中で背が低い女子店員が愛想を振りまいていたけれど、どうでもいい。

そもそも、本には縁がない。

買う事が出来ないからだ。

漫画本を読んだのは、学校がはじめて。それまでは、買うどころか、触ることさえ許されなかった。それからたまに新古書店で読むようにはなったけれど、弁護士に監視されているのはゆかりも同じ。買うことは滅多にない。

母が買っていたのは、女性情報誌ばかり。

内容については知っているけれど、ろくでもないものばかりだ。

異常なフェミニズムの持ち上げと、男性をもののように選別し、金だけむしり取る方法を教授するものばかり。

男は躾けろだとか。

財布をにぎれだとか。

年収一千万以下は全部屑だとか。

好き勝手な事を、言いたい放題に書いてある雑誌だ。

こういうのを読んでいると、母のようになるのだろうと、呆れてしまった記憶がある。母はあれだけ衰えてもまだ自分が美しいつもりのようだったけれど。おばさんを「女の子」なんて持ち上げるあの手の雑誌が、現実の認識阻害に役立っているのは、間違いない所だろう。

二階に上がると、ゲームがたくさん。

ゲームは全く縁がない。

本以上に、全くわからない。

というのも、そもそも触った経験がないからだ。

家にはゲーム機なんて無かったし、そもそもどういうゲームがあるのかさえ、よく分からない。

しかもいわゆるSNSで行われているブラウザゲーやソーシャルゲーの類は、課金したくなると危険だという理由で、弁護士に厳重に禁止されている。

それでは、どうしようもない。

とりあえず、目的は此処だ。

此処である事をすると、三階に上がれる。

そのある事というのは。

カウンターに歩み寄る。とても綺麗な、グラマラスな女性が店番をしている。頭に来るほど綺麗な女だ。

容姿だけは優れているとか言われるゆかりも、多分この女には及ばないだろう。

「ちょっと良いですか?」

「お探しモノですか?」

「ええと、セガサターンの銃を使うクソゲーのタイトルは、超魔海王でしたっけ?」

この会話の内容は、正直訳が分からないのだけれど。

こう聞けとあるのだから、仕方が無い。

実際には違うらしいのだけれど、どうでもいい。

そもそも、一生触れる機会がない存在だからだ。

「そのゲームが欲しければ、トイレに入って三分お待ちください」

本当に、この返事が来た。

言われたままに、トイレに入る。そもそもその銃を使うクソゲーとかいうものがいかなる代物かも全くわからないのだけれど。

まあ、こればかりは仕方が無い。

とにかく、トイレに入って待つ。結構綺麗に掃除されているトイレで、芳香剤も上品なものを使っている。

座ってぼんやり待つ。

時計を見ると、そろそろ三分か。念のため、三分とちょっと待って、トイレを出ることにする。

もしトイレを出て、あの店員が満面の笑顔で、銃を使うクソゲーとかいうものを持っていたら、どうしよう。

しかもお金を請求されたら。

弁護士に何をされるかわからない。あの女、修羅場もかなりくぐっているようだし、ゆかりなんかじゃどうにもならない。

それこそ洗濯物を処理するように、一瞬で折りたたまれてしまうだろう。

ちょっと怖かったけれど。

それでも、勇気を持って、ドアを開ける。

何度か、目を瞬く。

目を擦る。

本当だった。

さっきまでの二階、ゲーム屋ではない。何だか、何処かの図書館か何かのような場所に、周囲が一変していたのである。

並んでいるのは、棚。

一つずつが、六メートルは軽くあるだろう。

天井近くからは、何処かのお城か何かからぶら下がっているだろうシャンデリア。何だか、幻想的を通り越して、非現実的な光景だ。

学校の革靴で歩くと、木の床がカツンと大きな音を立てる。

棚には何だかよく分からないものが、たくさん入っていた。本もあるし、全く正体が分からないものもある。

人形の類もあった。

テディベアだろうか。しかし、一目見ただけで、庶民が触るものではないとわかってしまう。

アンティークドールもたくさんあったけれど、それらにまじって、ブリキのおもちゃも置かれている。

何とか鑑定団とかで、何十万とか値段がつきそうな奴だ。

何だか怖い世界だなと思う。

此処にあるのは、何なのだろう。

わかっているのは、都市伝説は嘘では無かった、という事だ。

トイレを開けたら、いきなり外が変わっているなんて、あり得るはずがない。ちょっとやそっと内装を変えるだけなら出来るかも知れないけれど。これは構造が、そもそも根本的に変わってしまっている。

あり得ない筈の三階。

此処がそうなのは、間違いない所だ。

しばらく見て廻る。

だが、触ろうという気は起こらなかった。

此処にある品物は、どれもとても価値があるものばかり。もし何かしてしまったら、取り返しがつかない。

棚を曲がった所で、不意にそれと遭遇する。

どうしてか、木張りの床に、一カ所だけ畳になっている所があって。

重厚な机が其処に置かれていて。

その机に、突っ伏すようにして、退屈そうな子供が、頬杖をついていたのである。むすっとしている様子は、せっかく造作が整っているのに、その子供を近づきがたい存在へと変えてしまっていた。

「また不可思議なのが来たな」

「何、この店の子?」

「私が店主だ」

「……はあ?」

呆れて思わず聞き返してしまったけれど。

考えて見れば、都市伝説の店だ。店主が子供でも案山子でもおかしくはないのかも知れない。

不意に、後ろから秋葉原にいるようなコスプレっぽい女が現れて、座布団を用意してくる。

座れというのだろうか。

言われるまま、座った。

「おいおい、胡座か」

「だって、横に座ると、足がしびれるから」

「そうかそうか」

呆れたように、長い髪の子供は、此方を睥睨した。何だかムカつくけれど、別にどうでもいい。

都市伝説が正しかったのなら。

此処で、欲しいモノが手に入る筈なのだ。

だが、それが何かさえ、ゆかりにはよくわからない。

「お前は何が欲しくて、ここに来た」

「わからないよ、そんなの」

「ほう?」

「色々考えたけど、私の中って空っぽみたいでさ。 何が欲しいのかさえ、よく分からない」

正直に応えると、子供はあきれ果てたように、ため息をついた。

茶が出される。

長身のコスプレ女は、てきぱきと茶菓子も並べてくれた。黙々と食べる。かなり美味しいお菓子だ。

「典型的な現代っ子だな。 お前の場合は、自分の価値観と違う相手を馬鹿にしていないだけマシとも言えるが」

「何だよ、それ」

「矮小な自分を隠すためには、そうやって自分より劣る相手を設定しなければ、生きていけない。 そういう輩が、この世にはいるということだ。 空っぽな自分に本当は気付いているから、それ以下の存在を設定して、馬鹿にしないと生きていけない。 そんな矮小な存在が溢れているから、周囲が面白くなくなる」

老人みたいな事をいう子供だ。

だが、確かにそうかも知れない。

説教されているのだろうか。しかし、ゆかりは周囲を馬鹿にしたことは。

嫌っている相手ならいるか。

今、刑務所に放り込まれている、母だ。

考えて見れば、彼奴は落ちるところまで落ちたゆかりの未来なのかも知れない。自分を憎むことで溜飲を下げているなんて、どれだけ寂しいことなのだろう。

「アモン。 どうだ、食事にはなりそうか」

「これが、意外にも濃度が高い闇を抱えているようです」

「ふむ、そうか」

コスプレ女と子供が、訳が分からない会話をしている。

何だか帰りたくなってきたけれど。

しかし、周囲にある無数の骨董品。それに、今までにしらべた都市伝説の店と合致する現象の数々。

此処で帰るという選択肢はない。

今の子は我慢しないとか聞いているけれど。

ゆかりはあの親の下で、散々忍耐を鍛え抜かれてきた。多少我慢する程度なら、造作もないことだ。

不意に、指先を、額に突きつけられた。

同時に、意識が消し飛んだ。

 

3、孤独の理由

 

小学生のころだろうか。

公園で遊んでいる自分。周囲にはたくさんの子供達。ボール遊びにしても、かくれんぼにしても、自分はいつも中心だった。

あれ。

おかしい。

根暗と言われて、周囲から遠ざけられている自分に、こんな時期があったか。

生傷が絶えない子供だった。

でも、手当の跡はない。この年頃の場合、親が何かしらの手当をしてくれるものなのだけれど。

泥まみれになって駆け回っているゆかりは、どの傷も放置して。かさぶたが出来るままにしていた。

夕方が来て、子供達がみんな帰って行く。

ぽつんと残されたゆかり。

迎えに来たのは、お手伝いさんだ。

「ゆかりさん、帰りましょう」

「ママは?」

そういうと、お手伝いさんは悲しそうな顔をする。今では名前も思い出せないこの人が。ゆかりが壊れないように、最初に心を作ってくれた人なのだと。今なら、確信できる。

この頃から、親はゆかりを、人間だとは見なしていなかった。

家に戻ると、厚化粧の親が、何処かに出かけようとしていた。

お手伝いさんには、何も言わない。

泥まみれで戻ってきたゆかりに対しては、文字通り汚物でも見るような目で、見ていたのだった。

幼いゆかりには、その理由がわからない。

泥だらけの服を洗濯して貰いながらゆかりはお手伝いさんに聞く。

「ねえ、ママはどうして、いつも機嫌が悪いの?」

「さあ、私にはわかりかねます」

「ゆかりのせいなのかな」

そうだ。

ゆかりも、この頃から、内心ではわかっていたのだ。

母がどうしてこういう性格になったのかは。父と金目当てで結婚したのに、殆ど使わせて貰えない状況。

子供だけ生まれて、責任だけ生じて。

要するに、母は結婚して子供を産んだのに、心が子供のままだったのだ。

もっと遊びたい。

子供なんていらない。遊ぶ邪魔になるくらいなら、売り払ってしまいたいくらい。

お手伝いさんは悲しそうにゆかりを見る。

作ってくれる晩ご飯は、いつもとても美味しいけれど。食卓には、父も母も、姿を見せない。

やがて、子供達は、ゆかりから離れていった。

あの子だけ、親が迎えに来ない。

それを敏感に察したのだろう。

更に言えば、小学校の同級生が、公園の子供達に、ゆかりの事情を話したらしい。悪気があっての事ではなかったらしいのだけれど。

そうなると、後は一方的だ。

クズ親の子供。

それだけで、子供にとっては、迫害の充分な理由になる。子供はとても単純で、自分より何か劣った点があれば、それが即座にイジメを正当化する理由になるのだ。

ただ、イジメは受けなかった。

ゆかりの場合は、運動神経も良くて。

今から考えると不思議だけれど、周囲に比べると頭もとても良かったから。イジメをしても、勝てないと子供達は本能的にわかっていたのだろう。

だから、遠ざけることを選んだ。

ゆかりも、この頃から、ドライな性格だった。

周囲が遠ざかっていくことを見ても、手を伸ばそうとはしなかった。

誰かに、助けも求められなかった。

その内、ゆかりは誰かと友達になろうとすることを、辞めた。

学校などで、コミュニティには言われれば参加した。実際、勉強も当時は出来たし、運動だって出来た。

小学校ではかけっこが早ければえらい。

そういうものだ。

ただ、ゆかりの場合は、親の事情で相殺されてしまっていたけれど。

だから、コミュニティには、相応の需要があった。今では自覚がないけれど、容姿が人並み外れていたのも、その原因の一つかも知れない。

だが、ゆかりは。

周囲に内心を空かすことも無いし。去る者も拒まなかった。

イジメさえ受けなかったけれど。

それ以外には、何も無い人生だった。

思春期のころには、その空虚は更に大きくなっていた。お手伝いさんはゆかりにいつもよくしてくれたけれど。

母は更に行状が酷くなっていった。

葬式の日などは、母は姿を見せなかった。後から聞かされたのだけれど、ホストのカレシと遊びに出かけていたのだ。いつものような、母の行状。中学に上がったころには、母がどういう人間かはもうとっくに知っていたから、驚くこともなかった。

ただし、それが決め手になった。

殆どゆかりに顔も見せなかった父が、弁護士に対して、財産管理を指示していたことが、葬式で発表された遺言状で明らかになったのである。

葬式に男遊びで顔さえ見せないような母が、親族達にどう見られたかは、言うまでもない事だ。

翌日、半狂乱になった母が、告別式の会場に怒鳴り込んできたけれど。

弁護士によってその場でたたきのめされ、わめき散らしながら警備員に引きずり出されていった。

故人の妻が、葬式から放り出される。

前代未聞の事態だ。

父は政治家などにも顔が利いていたから、これは一族最大の醜聞となった。母がどれだけの扱いを受けたかはわからないが。

これが恐らくは、決定打になったのだろう。

一時期は、ゆかりを母と引き離す話もあったそうだ。今になって思えば、そうしてくれればどれだけ気が楽だったか、と思う。

しかし結局は、母がゆかりと暮らすことになった。

そして、邪魔者扱いされたお手伝いさんは、首になった。弁護士も、権利関係が面倒くさくなると判断したからか。

優しかったお手伝いさんを、引き留めることはしなかった。

最後まで、お手伝いさんはゆかりを心配していた。

嗚呼、それなのに。

どうして今も、名前さえ思い出す事は出来ないのだろう。

 

小学校のころから、周囲に無関心になって行ったけれど。

母と暮らすようになってから、更にその傾向はエスカレートしていった。

暴力が振るわれることは、珍しくもない。

お手伝いさんが辞めた理由の一つが、この暴力だと、後で知らされた。推測だが、弁護士も、お手伝いさんが訴え出てきたら、どんな面倒事になるかわからないと判断したから、辞めさせたのだろうか。

勿論母は家事などしない。

お手伝いさんが守っていた家の秩序は、わずか数日で完全に崩壊した。

ゆかりが、全てを引き継がなければならなかった。

見よう見まねで、全てをやっていかなければならなかった。弁護士に渡されているお金で、買い物をして。

必死に携帯のサイトなどで料理の作り方を見て。

洗濯も何度も何度も失敗した。

着ていく服がよれよれになっていったので、教師から文句さえ言われた。見苦しいから、ちゃんとした格好をしろというのである。

その瞬間、教師に興味を無くした。

勉強も、いつの間にか、出来ないようになっていった。

違う。

目立つと、面倒くさい事になると言うことが、明らかだったからだ。

学校での立場がはっきりしたのは、三者面談の時だ。母はなんとホストのカレシの所から直帰で来た。香水塗れで、なおかつ酒臭い格好で。しかも、男におごらせていたらしい。ホストの男は暴力団関係者と裏でつながっていて、どうにかして母から金をむしれと指示されていたそうだった。

教師もそれを見て、流石にゆかりの境遇を理解したらしい。

だが、もう手遅れだ。

ゆかりには、この教師に期待することなんて、何一つ無かった。級友達も、ゆかりの母の狂態を知ったらしく。それ以降は、あまり家庭のことを、口にすることはなくなった。それが、ますますゆかりの心を、周囲から閉ざす要因となって行った。

幼児期には、どうにかお手伝いさんのおかげで、作れた心なのに。

思春期の一番大事な時期に。

ゆかりの心は、そもそも発展する事を許されなかったのである。

何もしなければ、周囲から劣っていくのは自明の理。

だが、ゆかりはおそらく才能があったのか、水準の成績を、学業でも運動でも維持することがで来ていた。

否。

恐らくは、そう意識的に抑えていた。

だが、周囲は何となく、それに気付いていたのかも知れない。

いつしかゆかりは。

根暗と、周囲から呼ばれるようになって行った。

 

気がつくと。

都市伝説の店に、ゆかりは戻っていた。

目の前には、口をもぐもぐと動かしている、黒髪の子供。何があったのかは、何となく、わかった。

此奴に、過去のゆかりを、全て見られたのだ。

怒りがわき上がってくる。

口の中のものを飲み下すと。子供は、訳が分からない事をいう。

「まあまあだな。 対価としては充分だろう」

「あんたねえ」

「金の代わりに、この店では心の闇を提供して貰う事になっている。 そして人間の心の闇は、その人生そのものだ。 だから、殆どの場合は、過去に起きたことを見れば、それで察しがつく」

どうしてだろう。

目の前にいる子供が、まるで獅子か虎のように思えてきた。動物園で遠足の時見た猛獣は、人間が戦って絶対に勝てる筈がない力を、檻の中で誇示していた。

それ以上、喋れなくなって。

身を縮めるゆかり。

後ろで咳払いされて、跳び上がるかと思った。

「此方でどうでしょうか」

「ああ、それでいい。 郵送しておけ」

「わかりました」

後ろにいたコスプレ女が、何か荷物を手にしていた。段ボールのようだけれど、中身はよく分からない。

そのまま女が、床に消える。

いきなり床に四角く穴が空いたと思うと、其処にひょいと飛び込んだのだ。

しかも、床の穴は、一瞬で消えた。

「な……」

「此処がまともな空間ではないことを認識はしているのだろう? それにアモンという名前を聞いて、何か思わなかったのか?」

「そ、それは」

「ちなみに私の名前はアガレス。 あのアモンとともに、お前達が悪魔と呼ぶ存在だ」

背筋が、ぞくりとした。

悪魔だと名乗って、特におかしなそぶりも見せない。

何かのカルトか。

いや、そうだとは思えない。実際ここに来て、訳が分からないものを、幾つも見せられている。

この店の存在からしておかしいのだ。

都市伝説にしても、妙なことが多すぎる。

「そもそもお前が此処にどうしてくることが出来たと思う」

「それは、ネットで、検索して」

「ネットには、私の餌になりうる者を選別し、此処におびき寄せるために、罠を色々と仕込んである。 私はこれでもウィザード級のハッカーでな。 それくらいの事は、容易いのだ」

恐怖が、どんどん大きくなってくる。

私はこの子供に、此処に呼ばれたというのか。

全て予定されていたことだというのか。

手の震えが止まらない。

「そう怯えるな。 悪魔が人間を取って食うなどと言うのは迷信だ。 私は一神教系の悪魔だが、その聖典で悪魔が人間をどれほど殺していると思う。 ほんのわずかだ。 それに対して、神とその部下の天使がどれだけの人間を殺戮しているか、調べて見れば面白いだろう」

「……」

「実際人肉なんて美味くもないもの、食べてもどうしようもないしな。 美味いのは人間の心の闇で、そのために私はこの国に越してきた。 まあ、このようなことを話しても、仕方が無いか。 そろそろ、お前の場所に帰ると良い。 料金分の品はくれてやる。 後はお前次第だ」

気がつくと。既に、駅にいた。

どうやって、駅まで歩いたのか、全く記憶がない。

あの店のことは、事実だったと実感できるのに。

まるで幻の中にいたように、ゆかりには思えていた。

 

帰宅するが、まだ不安だ。ドアを開けると、いきなり母が殴りかかってくるのではないかと。

もう母は檻の中。

帰ってきた後も、ここには来ないだろうし。来たとしても、数年後だ。その時には、ゆかりも対応策を身につけているはずだ。

自室に戻ると、寝転ぶ。

ベッドの上で、ようやく人心地が付けた。弁護士が、メールを寄越した。電車代について支給するというものだ。

無駄遣いはしていないかと書かれていたので、使っていないと返答。

後は、やりとりもなかった。

雨がかなり強くなってきている。

ぼんやりと外を眺めていると、携帯が鳴る。宅配業者からの連絡である。明日の夕方伺いたいというのだ。

適当に応えておく。

どうせ部活も通っていない。

帰ってきたころに荷物が届いていれば、それでいい。

雨音の中、うとうとしていると。おなかがすいてきて、目が覚める。面倒くさいけれど、起きなければならない。

洗濯も処理して、夕飯も適当におなかに入れて。

そして改めて眠ったころには、もう夜半も廻っていた。

夢の中で、思い出すのはあの店のこと。

雑多なものが並べられていて。

それでいながら、一定の秩序があった。

あの店は、本当に何なのだろう。もう行くことは、きっと無いだろう、不可思議なお店。それに、何となくわかるのだ。

あの店で得た物は、きっと人生に大きな影響を及ぼす。

いつまでも、ゆかりは惰眠を貪っているのだろう。本当にこのままで、良いのだろうか。少しずつ、気にはなり始めている。

動くべきなのだろうか。

わからない。

動くとしても、何をして良いのかが、そもそもわからないのだから。

朝、目が覚める。

今までは朝は憂鬱でならなかったけれど。時計を見ると、目覚ましが鳴るよりも、かなり時間が早い。

さっさと学校へ行く準備をする。

一体何が来るのかわからないけれど。

何だか、少しずつ、楽しみになり始めていた。

 

4、器と中身

 

帰宅すると、すぐに宅配の業者が来た。

荷物はかなり大きい。一抱えもある段ボールで、自室に運び込むまでが一苦労だった。だが、運び込んだ後は、開くのが楽しみだ。

開いてみる。

出てきたのは、何だかよく分からないものだ。

モニターのようなものがある。説明書がついているのだけれど、多分これが本体とみて良いだろう。

コードがたくさん。

後は、何だろう。

人形みたいなのが出てきた。

いわゆるオタク達が集めているフィギュアというのとはまたちがう。のっぺりで、顔も髪も服もない。

性別そのものが無い様子だ。

これが、台座と一緒になっている。

しかもかなり稼働が出来るようなのだ。

コードをつないで行く。

幾つかのコードを繋ぎ終えると、電源を差し込んだ。マニュアルを見ながら、動かしていく。

起動は簡単。

電源を入れるだけで良かった。

最近のパソコンみたいに、色々と設定をしなくても動かせるのは嬉しい。いや、多分パソコンなのだろうけれど。

これはきっと、何かに特化している品なのだ。

説明書を見ながら、少しずつ理解していく。

なるほど、これは。

この人形を動かして、好き勝手に着替えをさせたり、髪型を変えたりする事が出来るものなのか。

まず、人形を自分に似せてみよう。

四苦八苦しながら、順番に動かしていく。

体重と身長、後は細かい体のデータを入れると、体型を即座に出してくれた。なるほど、これは大体自分に近い。

更に、顔と髪の毛をある程度調整。

慣れてくると、後はそれほど難しくなかった。

順番に一つずつ質問に答えていくと、後は勝手に設定してくれる感じだ。

それに、後からカスタマイズをする事も出来るという。

少しずつ、わかってきた。

大体現状の自分が、画面に出てくる。最初は下着姿だが、此処に膨大な服を選ぶ事で、着せることが出来るのだ。

超高度な着せ替え人形と言っても良い。

しかも、鏡を使わずに、どうなっているのかを客観的に見ることが出来る。更に凄いのが、服のデータの量。

ゆかりでさえ知っているブランド品が、ゴロゴロ出てくる。

量販店にあるような品も、多数。

高級品なら豪華というわけでもない。似合っている服を、これで片端から試すことも可能だ。

アクセサリ類も凄い。

靴からバッグから、何から何まで揃っている。

どうやってデザインを取り込んだのかはわからないけれど、有名な欧州のブランド品まで存在していた。

しかも、昔のゲームのポリゴンとはものがちがう。

本物と見間違うほどの精度だ。

よく分からないけれど。これは、どんなゲームよりも、ゆかりには価値があるものだ。それが本能的に理解できた。

適当なところで作業を止めて置いて、今日はここまでにする。

電気代も心配だし、明日からは本格的にはじめたいとも思うからだ。

何だろう。

活力が、湧いてくるような感じだ。今までに無い感触が、体の内側にある。眠れないのは、久々かも知れない。

しかも、恐怖で寝付けないのではない。

新しい感覚による高揚で、寝付けないのだ。

こんな状態も、はじめて経験するものだった。

 

昨日同様、目覚ましなど必要せずに起きる事が出来た。

まず学校へ行く準備をするけれど、時間が余る。少し考えてから、ジャージに着替えて、ランニングをすることにした。

どうしてそんなことをする気になったのかは、よく分からない。

ただ、自分自身の能力を、おそらく使い切れていないことが、何となくわかってきたから、かも知れない。

基礎体力は、どうなのだろう。

まず走ってみて、やはり体が重いと思った。

子供のころは、男子にも負けない勢いで、公園を走り回っていたのに。これも、ずっと虚ろな人生を送ってきたからだろう。

今でも短距離走は得意だけれど、体力がないことがこれでよく分かった。鍛え直さないといけない。

ランニングから戻ると。

着替えて、学校へ出る。

弁護士に、懸賞でちょっと珍しいものが当たったと、報告すると。返事がすぐに来た。

実物を見せろ、というのだ。

良いだろう。

別にゆかりとしても、やましいことはない。ズルの類はしていないし、嘘も言っていないからだ。

学校で、級友達に驚かれる。

「あれ? ゆかり、表情が柔らかい?」

「そう?」

「うん、何というか、今までの近づくなオーラがだいぶ緩んでるよ」

「そんなオーラ出してないよ」

苦笑いするけれど。

そういえば、会話も前よりは、長く続いているかも知れない。

暗いと、周囲に言われる事も、少しずつ減ってきている。何よりも、今まで見向きもしなかった男子が、ゆかりの方を見ているのがわかった。

別に、何かしたつもりはないのだけれど。

いや、違う。

これはおそらく、変化による結果かも知れない。

部活動は禁止されているから、どうにもならないけれど。自主的に、何か活動をするのは、良いかもしれない。

休み時間は、今まで寝ているばかりだったけれど。

外を走り回って、運動してみる。いきなり体力が向上することはないけれど。以前に比べて、ぐっと体が軽い気がする。

あの母親に脅かされることはもうない。

それに、手に入れた、あの道具。

いきなり弁護士に取り上げられることもないだろう。帰ったら、試してみたいことが、山ほどあるのだ。

授業も、今までのように、退屈には感じなかった。

一応平均点は今までもとり続けていたけれど。授業への集中力が、少しずつ上がっているのがわかる。

今まで不真面目そうだとさえ言われたのに。

授業が終わると、相変わらず家に直帰。母が財産凍結されても、相変わらず資産を管理されていることに代わりはないのだ。

帰りの途中に、弁護士が連絡を入れてくる。

家に来るそうだ。

母の近況も知らせたいと言う事である。

別にどうでも良いのだけれど、多分ゆかりの宝を見に来るのだろうし、あまり無碍にも出来ない。

買い物をして行く。

この費用を前より気前よく出して貰えるようになったのだけは、助かっていた。

買い物袋を両手に提げて、帰宅。

冷蔵庫に食品類をしまった後、色々と作業。まずは、適当に夕食を作る。前よりも、これも意欲が湧いてきているのがわかった。

何というか、体の奥底から、気力が吹き上がってきているのだ。

弁護士が来る前に、家も片付けておく。

母がいなくなったので、汚す奴がいなくなった。

以前はゴミ屋敷寸前だったのだけれど。ここ数日で、見違えるように綺麗になっていた。とはいっても、偏執的に清潔にはしていないけれど。あれはあれで、ゆかりには苦手なのだ。

ただ、家具にたくさん付けられている傷だけはどうにもならない。こればかりは、母が残した爪痕として、ゆかりをこれからも苛むだろう。

八時に、弁護士が来る。

こんな時間まで働いているというのは、大変だけれど。

ゆかりにしてみれば、この人にも色々と思うところがある。だから、素直に大変ですねとは、声を掛けられなかった。

「随分と綺麗になりましたね」

「母がいなくなりましたので」

咳払い。

弁護士によると、やはり母は刑事告訴に決まったそうだ。殺人教唆だから、当然かも知れない。

しかも財産を独り占めするために、娘を犯罪組織に殺させようとすると言う、例を見ない悪質さ。

情状酌量の余地無しで、実刑判決は確実だという。

しかも逮捕されている状態でも、狂乱の限りを尽くしているそうで。模範囚として出てくる事は、まず無理だそうだ。

「他にも余罪が多数あるので、刑期は十五年程度になるでしょうね」

「余罪というと」

「貴方に対する暴力の数々もそうですけれど。 暴力団関係者の愛人に言われて、小遣い稼ぎに詐欺に荷担していたようです。 もっともぐうたらで、殆ど働かなかったから、愛人も呆れていたそうですが」

「へえ……」

詐欺の具体的な内容は知りたくもない。

まあ、あの母なら。金を稼ぐためなら、何でもするだろうとは思う。不思議でも無ければ、悲しくもなかった。

正直なところ、ゆかりと母は、多分家族の絆を生まれたころから作る事が出来なかったのだろう。

何しろ、母はゆかりが幼児のころから、育児に興味を見せなかったそうだ。

お手伝いさんの名前を、どうして忘れてしまったのかが気になる。ゆかりにして見れば、あの人こそ本当のお母さんだったのに。

「それで、懸賞で貰ったという品は」

「ああ、此方です」

部屋に案内する。

機器を見せると、弁護士は腕組みして唸った。

「これは、ゲーム機? テレビとしては使えないのですか?」

「はい。 しかも、ゲームとしては一種類だけです」

実のところは、本当にゲーム機なのかも怪しい。

このソフトしか使えないゲーム機なんて、聞いたことも無いからだ。それに何より、である。

ゲームとしての機能が、着せ替えだけというのも、妙な話である。

「電気代については、様子を見ましょう」

「じゃあ、使っても良いんですね」

「ほどほどに。 貴方の学業成績だと、大学もかなり厳しいことをお忘れ無く」

釘を刺されてしまったけれど。

取り上げられなかっただけでも、御の字だ。

弁護士は夕食を食べてきたとかで、作った分は明日の朝に廻すことにした。酒臭い母が部屋に怒鳴り込んでくることもないし、落ち着いたものだ。

弁護士が帰ったところで、早速昨日の続き。

ソフトを起動した後、色々と服を着せて、試してみる。

どうすれば見栄えが良くなるか。

実際に服を着なくても、試せるのが大きい。

アクセサリは、場所も移動できる。マニキュアやルージュについても調整できるけれど。自分の顔を再現するのが、結構難しい。非常に細かい調整が出来るからか、いちいち直すのも手間が掛かる。

ブランド品ばかり着せてみたり、安い量販店のものを着せてみたり。

ふと思い立つ。

現実的に着られそうな服を、チョイスしてみる。

中々に良さげなものが揃うまで、大体一時間ほど掛かったけれど。しかし、試してみる価値はあった。

随分と、自分が輝いて見える。

容姿だけはまともと言われていたけれど。

客観的に見てみると、こんなにも良くなる物なのか。

着替えを済ませた後は、歩かせることも出来る。いろいろなポーズも、人形を操作すれば、決めることが出来る。

しばらくは、それだけで楽しめた。

現実的に、充分に価値がある。

このソフトの凄い所は、着ている服の価値を、即座に割り出すことが出来る点にある。

一瞬ではじき出された値段。

ちょっと苦笑いしてしまった。

自由に出来るお金では、とても足りない。しかし、今の学業成績で、バイトなんてさせてくれるはずもない。

ちまちま貯めていったとして、三ヶ月くらいはかかるとみて良い。安売りのお店を見つけたとしても、難しいだろう。

決める。

まずは体力を付ける。並行して、学力も付ける。

同時に、無駄遣いを控えて、お金を貯める。

安物ばかりとはいえ。コーディネートを決めた自分は、画面の中でこんなに輝いているのだ。

母と同じ失敗はしない。

男を引っかけるためのおしゃれじゃない。

自分を引き上げるための、モチベーションの素材としてのおしゃれだ。今は、これといったしたいこともない。

だから、何かしたいことを、これで見つけていけば良い。

それにしても、おしゃれとは今まで完全に無縁だったとはいえ。一旦おしゃれのおもしろさを知ってしまうと、こうも世界が違って見えるのか。

持っているのは制服と安物ばかり。

それも、最低限のものだけ。

デザインでしか知らなかった高級な服を、ヴァーチャルリアリティとは言え、こういう形で自分に着せられる意味は大きい。

自分を磨いていけば。

何か、行き着ける場所があるかも知れない。

モチベーションが生じる。

それがこれほど大きな力を自分にもたらすなんて。ゆかりは、はじめて知った。

翌朝からは、少しずつランニングの距離を伸ばす。

幼児期に散々遊び倒していたのが、やはり基礎体力を作っていたのだろうか。自分でも驚くほど、体力は伸びていった。ランニングだけではなく、他の運動もどんどん取り入れていく。

そうすることで、出来る事も増えていった。

勉強についても、授業で頭に叩き込んでしまう。今まで漠然と過ごしていた休み時間も、復習のために有効活用していた。

勉強の方は、基礎的な地盤がなかったから、少しずつ自力で伸ばしていかなければならなかったけれど。

それでも、以前と比べて、体力がついたことが大きかった。

徹夜の類も、難なくこなせるようになった。

何より、モチベーションが生じてから、三ヶ月もしたころには。

周囲から、根暗と呼ばれる事は、無くなった。

 

ランニングをしていると、随分と気持ちよい。

状況を見ながら、ランニングのスピードと、走る距離を、少しずつ増やしていく。学業成績は、以前よりぐっと上がった。体力もそれにあわせて、随分と向上してきた。

大学の幾つかは合格圏内に入っている。

このまま学力を付けていけば、国立にも入れるだろう。

つまり、父の財産を、自由に出来ると言うことを意味している。

家に戻ってきたころ、ようやく日の出。

軽くシャワーを浴びて汗を流した後、家事をさっさとこなしてしまう。その後は、軽く勉強。

それが済んでから、学校に行くまで、自分のファッションを確認する。

正確なソフト名はわからない。

少し調べて見たけれど。似たようなソフトはあるにはあるけれど、此処まで本格的なものは存在していない。

起動時も、企業のロゴは出ない。

そればかりか、デモのようなものも、表示されない。

というよりも、一番不可解なのがモニタなのだ。調べて見たけれど、型番は書かれていないし、何処のメーカー品かさえわからない。一応国産らしいのだけれど、それ以上は何もわからなかった。

まあ、ゆかりにはそれでいい。面倒くさくないし、何よりデモなんて一回見たら後は飛ばすだけだからだ。

細かい調整を幾つかしてから、自分なりに研究を進める。

服の着こなしが、こんなに奥深い世界だとは、今まで思いもしなかった。

サンダルをおしゃれにして。

マニキュアの使い方を覚えて。

服も、自分に似合う物を見つけて。

勿論学校には着ていけないから、休日に着て外を歩く。

安くても手に入る、似合う服。

場合によっては、古着店も廻った。実際、掘り出しものが手に入る事があるのだ。それも、ゆかりの手が届く範囲で。

弁護士は何も言わない。

成績が露骨に上がったからだろう。学校でも、根暗で気味が悪いと言われていたゆかりが、周囲からの評判が良くなったという事情もあるはずだ。

少し前に、男子に告白された。

しかし、ゆかりは知っていた。

そいつが今まで、ゆかりを根暗だキモイだと好き勝手にオとして、笑いものにしていた事を。だから、こう返してやった。

「君には、私みたいな根暗なキモイ女じゃなくて、別の子が似合うと思うよ」

その時の、青ざめた顔のことは忘れられない。

勿論お高くとまっていたら、婚期を逃すのは確実だろうけれど。今通っている学校の男子と、交際する気は無い。

キモイ。

根暗だ。

そういってゆかりを見下して、馬鹿にしていたのは誰だ。

女子だってそうだが、男子もそう。

運動は、ランニングだけではない。

今後は武道もやろうと思っている。逆恨みから身を守るために必要なのだけれど。体を効率よく動かせるようにもするためだ。

女子がやるのに向いているのは、多分合気道だから、それを中心にやっていく。

順番に、何をしていけば良いか。

どんどん計画が練り上がっていくのが、心地よい。

逆に言うと、今までどれだけ惰眠を貪っていたのか、よく分かる。しかし、あの環境では、そうしないと生きていけなかったのだとも、よく分かっていた。

娘の重荷にしかならない母親とは、何なのだろう。

ああなってはいけない。

ゆかりはそう思いながら、外を歩く。

不意に、声を掛けられる。

どうやらファッション誌の記者らしい。名刺を見るが、聞いたことも無い雑誌だ。風俗関係だろうか。

「君、可愛いね。 写真とか興味ない?」

ボイスレコーダーを、見えるようにオンにする。

そして、弁護士に連絡を入れると、流石に青ざめて逃げていった。

別に、お前らに見せつけるためにおしゃれをしている訳では無い。何だか勘違いしてる奴が多いが、おしゃれは男の気を引くためじゃない。

自分を磨くのは、男子だってやるはずだ。

女子がやったら、どうしてそれが男を引っかけるための行動になるのか。

それに、暴力に対応するのは慣れている。

大概のものは、あの母の狂気を見た後では、怖くない。

さて、適当に歩き回ったところで、帰るとするか。人生設計については、これから順番にやっていけば良い。

自由は、最高だ。

ゆかりは、自分を着飾る楽しみを知って、自由を得た。

多分母から解放されただけでは、こうも上手くは行かなかっただろう。

世の中はあまり良い方向へ動いているとは言いがたいけれど。しかし、ゆかりは未来に希望を見ている。

自宅に戻ると、勉強を進めていく。

選択肢は、多い方が良い。

努力は、するだけした方が良い。

やってみてわかったが、ゆかりのスペックは、通常の人間よりもだいぶ優れているようなのだから。

努力をしてそれを伸ばさないのは、損だと言える。

何でも身につければ、それこそどんなことだって出来る筈。国立大学に行ければ、就職先だって、よりどりみどり。

父の財産を自由に使えるようになれば、更に選択肢は増える。

未来のためにも、ゆかりは努力を欠かさない。

このまま進めば。

少なくとも、母のようにならずにすむのだから。

 

5、光の先

 

アガレスの元に、アモンが新聞を持ってくる。

以前食事した人間の、その後についての情報だ。

樹下ゆかり。

あの中身が何も無い、空っぽの器だった女子。見栄えは良くて、いうならば中身が空洞のケーキみたいな女だった。

だからこそ、アガレスは与えてやったのだ。外側をまず作る方法を。

提供したのは、ゲームの基本プログラムとして開発されたシステム。

要するに、女性キャラクターのファッションを開発するために、組み込み用として作られたプログラムだ。

近年ゲームでは、女性キャラクターを美しく表現することが、必須となりつつある。それには様々なファッションの研究が急務である事は明らかだ。

このシステムは、現実的な観点から、女性のファッションについて、極めて緻密に再現できるようにしたもの。

しかし問題は、高級すぎたという事だ。

幾つかのもっと安価な競合システムに破れ、優秀なのに販売されなかった。倉庫に眠っていたそれが、企業の倒産とともに廃棄されたところを、アモンが拾ってきたのである。で、修理して、取っておいたのだ。

「ほう、これは凄いな」

「ええ。 モチベーションを与えたとは言え、良くも此処まで伸びたものですね」

樹下ゆかりは。

現在、アメリカにて活躍している。国立大学を卒業後、アメリカの大学院へ移行。其処で業績を伸ばし、博士号を取得。

今では宇宙開発の第一線で働いているそうだ。

向こうでも通用するルックスも話題になっていて、女性科学者の希望の星などと言われているとか。

そして驚かされるのは。

自分のためだけに、おしゃれをしていると広言していること。

そして、資産家として、自身でもポケットマネーとして数十億を有している事、などだろう。

話によると、自腹だけでチームを抱えて、相当な研究が出来るのだとか。

あの抑圧されていた女子高生が、良くも此処まで躍進したものだと、アモンと一緒に感心してしまった。

これだけマルチな人材に育つには、さぞや苦労があった事だろう。

写真を見ると、しかし非常に輝いている様子がうかがえた。

白衣を着ていないときは、モデル並みの美貌に、非常にセンスが良いファッションを身に纏っているとか。

ただしそれは必ずしも高級品ばかりではないという。

様々な雑誌社から、ファッションに対するコラムを求められているという事からも。如何にファッションが、彼女の根幹を成しているかが、明らかだ。

「随分と的確なものをあげましたね」

「ああいう中身がない奴は、外側をまず固めることが肝要だと思ったのでな。 元々有能なことはわかっていたから、外側さえ固めれば、後は中に注ぐだけだった」

「なるほど」

アモンとアガレスは、思考が直結している。

だからアガレスがこれだと思ったものを、アモンにすぐ持ってこさせることが出来るのだ。

勿論指示を出して、直接持ってこさせる事もある。気分次第で、使い分けている。

一方で、さぼるとすぐにばれる。

以前、いろいろな事情があって、このようなことになったのだけれど。まあ、面倒くさい事も多いが。

アガレスは、決してこの思考直結を、悪くは思っていなかった。

「そういや、此奴の母親は?」

「今も服役中です。 余罪が出るわ出るわで、結局合計で懲役二十年になったとか」

「それはまた、殺人並みだな」

「長期のネグレクトに具体的な虐待、殺人教唆に詐欺、それに暴力と来れば当然でしょうね」

呆れた様子で、アモンが肩をすくめた。

ただ、アガレスは知っている。

ゆかりの母親は、おそらく才覚に関しては、娘とそう変わらなかったはずなのだ。優秀なビジネスマンだったゆかりの父親の才覚も娘は加えていたのだけれど、それを差し引いても、である。

どうして此処まで差が出たのだろう。

ゆかりは自分のためだけにファッションを楽しんで。ゆかりの母は男漁りのためだけに、ファッションを選んだから、だろうか。

人間の理屈は、正直アガレスには、よく分からないところもある。中身を覗けば、どうすれば栄達できるかくらいは示せるのだけれど。

それも、必ずしも成功するわけではない。

事実、アガレスが対価をくれてやった人間の中にも、破滅してしまった存在はいるのだから。

ゆかりの場合は、空っぽだったことが、却って良かったのだろうか。

だとすれば、人間の業は、果てしなく深い。

悪魔と呼ばれるアガレスでさえ、時々鼻白むほどに。

「さて、そろそろお仕事ですよ」

「んー」

持ってこられたのは、ファミコン時代のレアゲームのカートリッジ多数。

これから分解して、埃を取り、中身を綺麗にするのだ。錆びも取っておかなければならない。

根幹部分は、アモンが直している。

だからアガレスがやる事は、あまり多くはないけれど。アモンに出来ない部分を、アガレスが処置しなければならないから、手は必要だ。

カートリッジを掃除しながら、ふと見ると。

新聞には、こう書かれていた。

来月、樹下ゆかりは帰国する予定と。

 

アメリカで成功して帰ってきたゆかりに、弁護士が久々に顔を見せた。今では財産管理をしている事も無いので、他の一族の所で働いているようなのだが。

ゆかりの母が、刑務所で錯乱していると聞かされた。

「はあ、錯乱ですか?」

「貴方に会いたいそうですよ」

はっきり言って、お断りだ。

あの女は、いずれ法的に近づけないようにして貰うつもりだった。事実、財産を寄越せと言って、暴力団関係者と一緒に迫ってくることも考えられたからだ。先手を打って、いくらでも対処はしておくつもりだった。

それを告げると。

弁護士は、少し老けた顔を、皮肉げに歪めた。

「一つ、気になることを言っているそうなのです。 それを貴方に確かめていただきたく」

「何故に私が」

「貴方が来た時に話すと言っているそうですよ」

ボイスレコーダーを渡される。

こんなものを渡されなくても、手元にある。ただ、無言で受け取りはしたが。

弁護士に、気になることについて、聞かされる。

なるほど、それは聞く価値がある。

ゆかりとしても、興味がある事だからだ。

その日は弁護士に帰ってもらって、久々の我が家で休む。一応定期的にクリーニングはして貰っていたのだけれど。

やはり、何というか、使っていなかった家は殺風景だ。家具の類はそのままだし、食器もある。

普通に、すぐに使える家なのに。

どうしてこう、寂寥感があるのだろう。

防犯システムも導入しているから、空き巣に入られる可能性はあまり高くない。久々のベッドは、少し小さくなったように思えた。

今、あのソフトは。

機械もろとも、アメリカの拠点に置いてある。

研究で行き詰まったときや。

家に帰ってきて、時間が出来たときは。

いつも弄って、自分についてのおしゃれを研究している。

データもどんどんアップデートされているようで、様々な国の最新ファッションを試すことが可能だ。

ただ、知り合いに見せたところ、驚かれた。

機械は最低でも三十万程度の価値があるというのだ。

非常にレアな部品を使っている上に、一度廃棄されたのを修復された形跡まであるという。

デジタル関係は知識がないから、言われるままに話を聞いていたけれど。

そんなものなのかと、驚かされた。

手元にないと、やはり寂しい。

あの機械がある場所が、今はゆかりの家なのだ。

ぼんやりと過ごして、一晩眠って。そして、それから刑務所に出向く。

母が拘留されている刑務所へは、タクシーを使った。面会かと運転手に聞かれたので、家族がいると応える。

運転手はそうかとだけ応えると、後は何も聞かなかった。

場所を告げた時点で、訳ありだとわかっていたのだろう。

帰りまで待とうかと言われたので、言葉に甘えることにする。刑務所の入り口で身分証と、弁護士の名前を告げると。

すぐに、奥へ通してくれた。

分厚い塀と厳重な警備。

ゆかり自身も、厳重にボディチェックされた。持ち込んだものにかんしても、調べ上げられる。

つまり、受刑者を脱獄させようとする人間が、面会に来る可能性があると言うのだろう。

面会にも、人が付き添うという。護衛と同時に監視でもある。

さて、出来れば顔も会わせたくは無いが。

母はどうなっているだろう。

多分防弾の硝子を挟んだ向こう側に、受刑者が来る部屋。ゆかりが通された部屋は殺風景で、後ろ手を組んだ強面の警備の人間が、張り付いていた。あまり法の知識はないから、彼が警官なのかそうではないのかも、よく分からない。

沈滞した空気。

「今、来ます」

頷く。

さて、母はどうなっているのだろう。

息を呑んだのは、それが何かわからなかったからだ。

顔がグズグズに崩れてしまっている。

すっかり皺だらけになり、顔中が染みだらけ。まるで老婆だ。

髪の毛も真っ白。

母は暴虐だったけれど、少なくとも男を引っかけ回せるほどの容姿は持っていたはずだった。

それなのに、これは。

まだ母は四十代の筈なのに。二十才は老け込んでいるように見えた。

「あー、うーあー」

意味を成さないうめき声を、母があげている。

あやすように、制服を着た女性が、母らしき女を連れてきて、座らせる。しばらく虚ろな目でゆかりを見ていた母が。やがて、目に狂気を宿らせた。

「お前……! 金を、奪ったやつ! 私の金!」

「帰る」

「待て!」

髪を振り乱しながら、母が立ち上がる。

名前を呼ばない所か、私の金を奪った奴、か。自分の娘をそんな風に呼ぶ母親なんて、聞いたことも無い。

「あ、あの使用人!」

もう、歯もまばらな口を開けて、母が喚き散らす。

世にも聞き苦しい言葉を吐きながら、母は狂気に歪んだ顔を、硝子に押しつけた。

「誰だか、知りたくないか!」

「で?」

「知りたければ、金を寄越せ! 私の金だ! お前が不当に奪った! 金、金! 金さえあれば、また男も寄って来る! 私は、幸せに、なれる!」

「貴方は、そんな事をいっているから、そんなに醜くなったんだね」

母が知っていると言うことは、何かあったのだろう。

面会時間には制限がある。

言わせるには、コツがいるかも知れない。

これでも、アメリカの学会で、海千山千の化け物共と渡り合ってきたのだ。研究が出来ると言うだけでは、向こうではやっていけないのである。

「金、寄越せ!」

「いやよ。 何か勘違いしているようだけれど、貴方より父さんの方が一枚上手だっただけ。 本当は父さんは、私にもお金を残す気は無かったんでしょうしね」

「五月蠅い! 金だ!」

「私はあれから勉強して、国立大学受かったの。 大学院はアメリカ。 今じゃあ、アメリカの宇宙開発に関わってるのよ」

嘘だと、母が喚く。

お前のようなグズに、そんな事が出来るはずがないと。

だが、出来た物は出来たのだ。

そして母も。

本来は、それだけのポテンシャルを、秘めていたはずだ。それが、外面ばかり気にしていたから、こうなってしまった。

ゆかりは違う。

自分のためだけに、ファッションを用いる。自分を飾るのは、自分のため。他の誰のためでもないのだ。

「あの使用人、正体知ってるよ」

「何……」

「父さんの愛人でしょう」

さらりと告げると、母が固まった。

やはり図星か。

昔はわからなかったけれど。今では、ゆかりはいろいろな醜聞を知る事が出来る立場にいる。

いろいろな話を聞く内に、わかってきたのだ。

石女と言われて、離縁された女性がいた。しかもいろいろな理由から、彼女は使用人として、母に付けられた。

父は残虐な男だった。

母はそれ以上に非情だった。

だが、その使用人は。心優しい女性だったのだ。

だから自分の子でも無いゆかりが、孤独でいるのを見て、我が子のようにかわいがった。ゆかりだって、あの人が本当のお母さんだったらどれほど良かったかと、何度思っただろう。

「どんなに鋭敏な頭だって、磨かなければその通りなんだよ。 さて、もう知る事は知ったし、帰るよ」

「ふ、巫山戯るな! 私の金!」

「あんたは刑務所を出たら、精神病院に直行。 二度と顔を合わせることはないよ。 さよなら」

暴れ出した母を、何人かがかりで押さえつけた。

引きずられていく母を、横目で見ながら、ゆかりはレコーダーの電源を切った。

 

タクシーに乗って、家に帰る。

使用人が、父の愛人だと言う事は見当がついていた。しかし、一つだけ、腑に落ちないことがある。

どうして彼女の名前を、覚えていないのだろう。

そうだ。

唐突に気付く。

彼女は、一度も自分の前で名乗らなかった。何故だろう。ゆかりお嬢様と呼ぶとき、彼女はとても悲しそうな目をしていた。

覚えていないのではない。

知らなかったのだ。

しかし、どうしてそんな。母も使用人の名を呼んでいることがなかった。だから、覚えていなかったのだ。

まさか。

家に帰ってから、データベースを漁ってみる。

そして、情報が出てきた。

間違いない。

あの人の名前は。

田代ゆかり。

そうか、父は極めて残酷なことをしたというわけだ。子をなせなかった女を、一生虐待するために。

その名前まで、奪ったという事か。

今、田代ゆかりさんは、どうしているのだろう。

天を仰ぐ。

探し出せるだろうか。しかし、今のゆかりは多忙の身だ。出来れば、老後の世話くらいはしてあげたいけれど。

弁護士に連絡を入れる。

田代ゆかりという名前を口に出すと、彼女は少し黙り込んだ後。押し潰すような口調で、言った。

「その人は、私の姉です」

醜悪な人間関係の結実。

そして、ゆかりは知らされる。

その人が、既に亡くなっているという事を。使用人を辞めてから数年後、癌で亡くなったというのだ。

涙が零れてきた。

何もかも自分のものにしたと思ったのに。

気がついたら、手から零れていたものもあった。

本当の意味で天涯孤独になった事を、ゆかりは悟って。そして、呟く。

早く、帰ろう。

本当の自分が見られる、あの機械の所へ。

彼処だけが、ゆかりの居場所。

飾らぬ自分を、飾った自分で見られる場所。私が、生きる意味を貰って、今もモチベーションを受ける事が出来る場所。

目を拭うと、飛行機の手配をする。

金なんて、みんな投げ捨ててしまいたい。

でも、そうしたら、生きていけない。

人生とは、何だろう。

そう、日本で最も成功した、立志伝の主人公である筈の樹下ゆかりは。誰にも吐露せず、自問したのだった。

 

(続)