孤独の螺旋階段

 

序、孤高からくる場所

 

ぼんやりと空を見上げる。

周囲に誰もいないから出来る事だ。

柊園観(ひいらぎそのみ)は、都内にある高校の二年生。その生徒会長だ。生徒会長になったばかりだが、その凛としたルックスときびきびした行動、それに何より卓越した行動力で、早くも学生達の信望を集め始めている。

何も生徒会長になってから、そうなったのではない。

高校二年になったころは、生徒会長は彼女しかいないとまで、言われているほどだったのだ。

家は、華族から続く資産持ち。

敷地は五百坪を超えており、庭の隅には離れが4軒ある。お手伝いを雇っている、本物のお嬢だ。

ただし親に言われて、敢えて公立校に通っている。

私立のお嬢学校など行くと、庶民の理屈が理解できなくなるから駄目だ、というのである。

しかし、その懸念は無意味だったかも知れない。

土手に座ってぼんやりとしている時間だけが、心安らぐ。

周囲に友達の類は、一人もいない。

そもそも、友達という存在が、どうもリアリティを感じられなかった。

対等と呼べる相手が、最初からいなかった。小学生のころからだ。周囲は幼稚極まりなくて、頭脳でも運動神経でも、園観に及ばないことが明らかだった。みくだしていると言うよりも、客観的にそうだとしか言いようが無かったのである。

だから、当時から孤独だった。

今後も孤独である事は、間違いない。

大学を出て、親の会社をついで。財閥のトップに上がって。

適当なタイミングで、適切な相手と結婚して。

子供を産んだら、今度は育成に廻る。

人生にはレールが引かれている。そのレールから外れれば、どれだけ悲惨なことになるかは。

園観も、今時の子供だ。それ以上に、親にネットはむしろ推奨されている。

だから、よく知っていた。

スマホが鳴って、時間を知らせてきた。頷くと、土手を離れる。人が来ない此処は、唯一の安らぎの場所だ。

趣味は、ない。

習い事の類は、たくさんやっている。琴に日舞に習字。ダンスに格闘技。そして定番のピアノ。

いずれも相応の腕前にはなっている。

だがどれも趣味とは言いがたい。単に必要だから、やっているだけだ。

スキルは会話の引き出しに通じる。

特に金持ちや高官には、この手のスキルを高尚と考えているものが多い。彼らとサロンで会話するには、実際にスキルを身につけるのが必須なのだ。

ネットは、むしろ積極的に親に触らされた。今後は世俗と接することも重要で、ネットはその最新手段だと。

PCもだ。

自作くらいなら出来る。それだけ、色々良い先生を付けられて、教えられたからだ。

反面、プライベートの時間など、こうやって学校から帰るときくらいしか無い。それも、今日はたまたま空いているだけ。

家に帰れば、すぐに帝王教育が待っている。

その内、房中術も教えられるかも知れなかった。嫌だけれど、仕方が無い。それだけ大きな責任を、もう背負っているのだから。

 

家に帰った後は、全てを作業的にこなす。

テーブルマナーは必須。食べるときにも、全てを機械的にこなせるようにならなければならない。

風呂も、如何に時間を短縮して、効率よく入るかが、重要だ。

作業が終わった後は、自室に。

ネットを検索して、必要な情報を、効率よく拾い上げていく。メールもチェックし、重要な内容には返信した。

無駄なチェックなどしない。

ネットなどをしていても、無駄な検索はしない。娯楽に費やすリソースはない。自分のリソースについても、完璧に管理することが、柊家の跡取りとしては、求められていた。勿論性欲や快楽も、全てコントロール下に置かなければならない。

時間が来たので、寝る準備に入る。

ふと、気になる記事を見つけた。

それは、ある都市伝説についてのもの。

話には聞いたことがある。構造上あり得ない三階にあるとかいう、何でも望みのものが手に入る、とかいう場所だ。

噂によると、超レアなゲームを其処で入手したり。或いは、この国では得がたい違法な品でさえ、手に入るという。

サロンでは、時々話題に上がる。

其処で宝石を手に入れたい。失われたと噂の、何かを手に入れたい。そう笑いながら言っている男性を、何度か見た。

何でも手に入る、か。

自分の自由に出来る時間が欲しいと、園観は思う。

捻出しても、せいぜい三十分。それ以外の時間は、睡眠さえコントロールしている園観にとっては、全てが管理下だ。

たまたまだが。

リンクをたどっていって、見つける。

店についての詳細。どうやって行くのか。

話半分に、観ていこう。或いは、話の種になるかも知れない。園観は暗記についても強い。わざわざメモを取らなくても、覚えるのは容易だった。

記憶すると、ブラウザを落として、眠ることにする。

今日はここまでだ。

明日以降は、こなさなければならないことが、まだまだたくさんある。学問についても、東大に入るには、まだ少し足りない。

自我を殺すのではない。

全てを、レールの上を動くために用いる。

柊家は巨大な経済複合体だ。次期党首である園観がしっかりしなければ、膨大な人数が路頭に迷うことになる。

その時後悔しても遅い。

激務が祟って、父はあまり長生きできそうにない。園観も早い内に子供を産んで、跡取りの育成をはじめなければならない。

欲しいものか。

自分の時間以外にない。

このままでは、自我さえもコントロールして、何もかもを家のために埋没させなければならなくなってくる。

ソレを防ぐためには。

きっと、自分のための時間が必要だ。

眠る訓練もされている。だから、うだうだ悩むこともなく、すぐに眠りに落ちることが出来る。

 

店に、行ってみよう。

噂を確認するくらいなら、出来る筈だ。

そう、夢うつつの内に、園観は思った。

 

1、悪魔の店の日常

 

悪魔アガレスがホームスペースにしている、通称「店」。

都市伝説の主役であり、アガレスの餌場。此処に心に闇をため込んだ人間を誘い込んで、食事をするための空間だ。

つまるところ、単なる食事。

それが、アガレスの目的である。

ネット上には、そのために用いているダミーサイトも作っているし、適合者をおびき寄せるための餌もばらまいてある。

まさしく、蜘蛛の巣にも等しい場所。勿論物理法則など通用しない。

そもそも、本来は三階が存在しない店に、擬似的に空間を歪めて、居場所を作っているのだ。

色々と無理も出るのは、仕方が無い事だろう。

外見から観ると二階建てのこの店は。アガレスの根城だ。

一階は新古書店。

此処で務めているのは、人間の女の子と、それと悪魔フルレティ。

フルレティはひげ面の大柄な男を装っている。人間の女の子は、以前アガレスの食事を提供した相手だ。

普通、食事後はギブアンドテイクの言葉通り、相手との関係が切れることが多いのだけれど。

この人間は例外的に、今でもこの店に足繁く通っている。

そればかりかフルレティに無理矢理頼み込んで、バイトとして雇われることにまで成功していた。

時々、三階にもこの人間の女の子は来る。

アモンとは意気投合しているらしく、お菓子の作り方などで、情報交換もしているようだ。

幼い見かけと裏腹に、高校三年生。

正社員として採用してはどうかと、アモンには時々言われるが。更に突っ込んで来られると面倒くさくて叶わない。

此奴には、餌として呼んだときに、色々苦労させられたし。今でもそれは現在進行形で続いているので、出来れば顔を合わせたくない。

二階はゲーム屋。

此処は悪魔が二人働いている。

一人はダンタリアン。知恵を司る悪魔なのだけれど、店での働きはあまり芳しくなく、さぼることが多い。

店については詳しい。

何しろ知恵を司る悪魔だ。仕入れからリサーチまで、何でもござれだ。ゲームについての知識も深く、値段設定は常に的確に行う。

むしろ普段此処で働いているのは、悪魔ゴモリだ。

ゴモリは買い取りなどは得意だし、何しろ見た目が良いので、常連客を呼びやすい。彼女自身は人間が嫌いではないという変わり種で、接客そのものを苦にはしていないようだ。アガレス自身とも長いつきあいで、日本に落ち着く前から、アモンと一緒に長い旅をしてきている。

アガレスの定位置は決まっている。

三階の、受付になるマホガニーの机。

其処だけ畳を敷いているのは、これが譲り受けたものだからだ。座布団を敷いて、マホガニーの机に突っ伏してだらだらするのがアガレスのジャスティス。しかし、その正義は、極悪非道なメイドによって、いつも粉砕されてしまう。

「仕事ですよー」

「あー」

生返事をすると、頭にまだ熱いカップを乗せられた。

小さな悲鳴を上げて、反射的に顔を上げると。満面の笑顔を保ったまま、アガレスの第一の僕であり。

同じソロモン王72柱に属する悪魔の中でも上位に属するアモンが、覗き込んできていた。

「私の前では、さぼらせませんよ」

「わかってるわかってる! だから、もう少し主君をいたわれ!」

「いたわってますよ、はい」

目の前にどっさり置かれたのは、今日の仕事。

PCでネットでの作業を終わらせた後は、在庫の処置がやってくる。うんざりしたアガレスは、そのまま机に突っ伏しそうになったけれど。

上から漂ってくる気配が怖いので、渋々作業をしなければならなかった。

アモンとは、多分一番古いつきあいだろう。

此奴がアガレスのためにやってくれているのはわかっているし、何よりメイドなんて格好をしているが、実際はもっと地位的にも近い。少なくとも、主君と部下ではあるけれど。何でも仕事を押しつけられるような相手ではない。少なくとも、メイドではない。本来は副官や、もっと高位の存在として扱うべき相手だ。

それでも、アモンはメイドの格好をして、側にいてくれる。

これには色々理由がある。

それに、アガレスに対する虐待にも思える行動には、愛情とかも籠もっているのだ。だから、何も言わないことにしていた。

今日の作業は、テディベアの修繕だ。

大まかなところは、アモンが終わらせている。主に米国で人気がある小熊のぬいぐるみは、今では非常に多くの種類があり、世界中の子供達に愛されている。勿論子供だけでは無く、大人の愛好者もいる。

中には極めて高級な品も、存在している。

たとえば今アガレスが埃を丁寧に取っている品は、日本円で六十万円をくだらない価値がある。

職人の手による一品もので、手触りの柔らかさといい造形といい、何より目に使われているサファイヤといい、いずれも高級品と呼ぶに相応しい。市場に出れば、オークションに掛けた場合、百万を超える可能性もあった。

続いて埃を取っていくのは、非常に個性的な造形のテディベア。全体的にほっそりしていて、子供向けと言うより大人向けだ。

これも二十万はくだらない価値がある。

順番に手入れしていくと、テディベアが語りかけてくるようだ。

僕を大事にしてくれる人は、まだ来ないの、と。

アガレスは鼻を鳴らすと、順番に埃を取っていく。

さっきの六十万はするテディベアは、少し前に東欧のクーデターが起こった国で、資産家が保有していた。

アモンが回収してきたときには戦禍に蹂躙され、半分に引きちぎれて焼かれてしまっていたのだ。

その資産家は相当にあくどい人物で、民衆からも恨まれていた。屋敷は焼き討ちに遭い、資産は根こそぎ略奪。一族揃って皆殺しにされた。

その際、略奪に参加した民衆が、価値を見いだせなかったのだろう。テディベアは放置されて、火に包まれたのだ。

アモンが此処まで修理したが。

多分愛好家の間では、失われたと見なされているだろう。実際失われたも同然だ。

「お前達は、しばらく此処で体を休めろ」

丁寧に毛並みを整え。

埃を取り。

そして、縫い目を確認してから、アモンに渡す。アモンは強化アクリルのケースにテディベアをいれた後、窒素を封入。こうすることで、手入れの手間が著しく減る。

二十体を越える高級テディベアを片付けた後、アガレスは机に突っ伏した。流石に疲れた。というよりも、面倒くさくて、もう何もしたくない。

「もうやだー。 働きたくないー」

「じゃあ、このパフェは私だけで食べます」

「鬼!」

顔を上げると、アモンがパフェを用意していた。

左手には、後十個以上のテディベアが入った籠をぶら下げている。

「これが片付いたら、小休止にしましょう」

「なんだよー! ちょっとは主君をいたわれ! ねたい! 楽したい!」

ばたばた暴れるアガレスの前にテディベアを置くと。

アモンは、冷蔵庫にパフェをしまった。

 

夕暮れ、やっとアモンがアガレスをこき使うのを辞めた。ぐったりしたアガレスは、ちっちゃな手でPCのキーボードを叩いて、餌が掛かっていないか確認する。

どうやら、掛かったらしい。

普通は、相手が来るのをただ待つのだけれど。

今回は、大物の気配がしたから、先に調べて見る。

ログなどをたどって、即座に相手を特定。

そして、情報を精査して、客についての情報を洗い出していった。

「ほう、これは大物だ」

「美味しそうな相手ですか?」

「うむ……」

柊財閥と言えば、アガレスも日本に来てから聞いた。海外にも多くの資産を持っている財閥で、資産総額は確か千億を超えている。

其処からのアクセス。

しかも、かなりのセキュリティが掛かっていた。アガレスに掛かってしまえば、容易い相手だったが。

恐らくは其処の令嬢だろう。

「何を求めてくるんでしょう」

「其処まではわからないが、期待は出来そうだな」

パフェをアモンが持ってきたので、食べる。

食事は、悪魔にとって体を維持するためのものではない。

快楽の一種だ。

味覚という快楽を満たすためだけに、アガレスは甘い物をたべる。食べたものは栄養にもならないし、更には排泄物としても出ない。

アガレスはいうならば、ブラックホールも同然の存在だ。

ただし、外部からの食物は、基本的に受け付けない。

アモンが作ったものだけを食べるようにしている。そうすることで、外部とのバランスを保っているのだ。

情報を出してみた。

幾つかのサイトで個人情報を引っこ抜いてみた。写真も入手してみたが、中々に美しい女性だ。いわゆる瓜実顔の、長くて美しい黒髪を蓄えた女性で。スタイルも優れている。背丈だけならアモンと同じくらいだが、プロポーションは比べものにならない。アモンは洗濯板もいいところなのだ。

経歴も観てみる。

高校二年生で、公立高校の生徒会長をしている。

名門の学校などには通っていないようだが、これには何かしらの理由があるのだろう。

いずれにしても、人間の事情など、知ったことではない。

いつ来るかはわからないが、多分此奴はアガレスの所に来る。小さくあくびをすると、昼寝をしたいと告げる。だが、許可はして貰えなかった。

「パフェを食べたのだし、次の作業をしましょうか」

またどっさりと、目の前にテディベアを積まれる。

今度は三十体はくだらない。夜に寝るまで、アガレスをこき使うつもりか。いつものことだが、ついつい涙目になってしまう。

結局アモンは、アガレスがおねむになってお布団に入るまで、仕事を休ませてはくれなかったのだった。

 

2、到来

 

此処だ。

セーラー服と防寒コートに身を包んだ園観が見上げたのは、ごく普通の商業用ビル。とはいっても、店舗用の傾向が強いつくりで、二階建てである。少し寒くなって来たので、羽織っているコートをかき寄せる。マフラーはカシミヤで、とても温かいけれど。何だろう。本能に来るような、嫌な予感が消えてくれない。

此処については、色々と調べて見た。

一階に新古書店、二階にゲーム屋が入っているのだが、表向きはそれぞれが別の会社に属している。

しかし、事前に調べたところ、一階と二階は従業員が密接に行き来しているとかで、どうもダミー会社らしいのである。

三階は、外部から見る限り、確かに存在していない。

車から降りる。運転手には、駐車場で待つように告げた。学校から此処まで来る時間を短縮するために、今日は自家用車を利用した。

都市伝説によると、此処の二階である作業をすることによって、三階への扉が開く。

不可思議なことに、翌日同じルートで情報を探ってみたところ、綺麗に消えていたのである。

此処に関する噂には、きな臭いものが幾つもある。

政府が調査に乗り出しているとも聞いているのだけれど。未だに、碌な成果が上がっていないらしい。

本当に此処であっているのだろうか。

店に入ると、両手に一杯本を抱えた、少し年下くらいの女の子が、こっちに来る。店員らしくエプロンを着けているが。今日は平日夕方だ。バイトだろうか。

「すみませーん、とおりまーす!」

元々小柄な女の子は、ふらふらしながら店の奥に。観ていて不安になったが、店員にいちいち声を掛けていても仕方が無い。

ただ、生徒会長をしている癖で、どうしても周囲の到らない人間に対して、指導をしたくなってくる。

観ていると、どうにも動きが悪い。

カウンターにいるひげ面長身の店員も、不愉快そうにその背中を見ていた。手伝うわけにも行かないし、もどかしい。

ざっと周囲を見るが。

ごく当たり前の新古書店だ。

品揃えは普通。珍しい本もたまにあるようだが、それほどレアリティの高い品は見受けられない。

何処でも手に入るか、最悪通販でもすればどうにかなるようなものばかりだ。

販売の導線についても、よく考えられているとは言いがたい。

事実上仕切っているのは、あのひげ面だろうか。だとしたら、ひとことかふたことくらいは、言ってやりたいほどだ。

とにかく、今は此処に用は無い。

二階に上がる。一階をざっと見て廻ったのは、癖だから。本はいずれも、知識を得るために読むもの。だから商売品だ。

二階はゲーム屋だが。

正直驚いた。

都心とは言え、かなりの規模だ。ゲームの販売が下火になってきている今、これほど多くのゲームを置いている店はあまり多くない。

セガサターンやPCエンジンのゲームまで置いている。一部は攻略本だが、最近では入手が難しくなってきたゲームのも、当たり前のようにあった。

以外と、此方が本業なのかも知れない。

カウンターには美しい女性がいるが、どうも注意散漫で、客に目を配っていない。もっとも、置いているのは空箱のようなので、万引きは警戒しなくても大丈夫なのかもしれないが。

客が何名かいる。

いなくなるまで、待たなければならないのは、面倒だけれど。

今日の用事については、両親にも伝えてある。

髪を掻き上げると、ざっと商品を確認。

いわゆるクソゲーと呼ばれる駄作をまとめているのが面白い。此処の販売をやっている人間は、かなり勉強している。

クソゲーと呼ばれる駄作は、それ専門のマニアがいる。

中には相当な値がつく品もある。

たとえば、今園観が見た品は、セガサターンで屈指の知名度を誇るクソゲーだ。あらゆる意味で完成度が低く、だがファンから愛された作品である。説明書や箱に傷もない美品と言う事で、かなりの値段がついている。

完全に、大人のマニアを見込んだ値段設定で、研究していることがよく分かる。

他にも、かなり珍しい作品が展示されている。

ゲームはあまりやらない。

というよりも、研究のためにと幾つかの作品を触ったけれど、それくらいだ。あくまで商売のためなのである。

実家は様々な事業に着手しており、現在はいわゆるサブカルチャーが大きな利潤を生むことも、園観は理解している。

それならば、研究が必要と言う事で、幼い頃から専門家の講習にも出て、話も聞いている。

見た感じ、系列店よりも、品揃えはいい。

下の新古書店とは雲泥の差だ。此処は、或いは。買収してしまっても、良いかも知れない。

家に戻った後、提案してみよう。

少なくとも此処の在庫は、生半可な中古ゲームショップとは比較にならない。マニアを呼び込めるようになれば、ある程度の利潤を得ることも出来る。そして良い品が揃うと噂が流れれば、一気に売り上げの向上も期待出来る。

ざっとリサーチをしているうちに、客が消えた。

メモを取っていた園観は、その隙に、三階に上がるための手順を踏むことにした。

園観が見た手順とは、こうだ。

店員に、こう聞くのである。

「キャラクターが洞窟に挑んですぐに死ぬ、ファミコンのゲームがあると聞いていますが」

実際にはそれは超有名な作品で、ゲームの知識がある人間なら大体は名前を上げる事が出来る。

だが、こう言うと、店員は応えるという。

「14番の棚です」

にっこりと、艶然たる笑みを返してくる女性店員。

どうやら、本当らしい。さっき先に14番の棚は確認してきたのだけれど。その作品は、存在していなかった。

そしてこのやりとりの後、トイレに入る。二階の奥にあるトイレで、個室に入り、しばらく無言で過ごす。

座るのも何だから、立って過ごす。

部屋を出たら、本当に存在しない三階にいるのだろうか。

この建物については、来る前に調べた。

所有者は都内在住の四十代の男性で、実在していることも確認済み。そんな都市伝説の舞台に本当になるような建物なのだろうか。

少し古いけれど。

来歴もはっきりしているし、造りも平凡。そんな建物が、どうして都市伝説の舞台になったのだろう。

話の種として、都市伝説は色々と研究している。

だから、どう考えてもおかしいのだ。このような場所に、都市伝説が発生するのは。誰かが、裏で関与しているとしか思えない。

それは一体、誰なのだろう。

ドアを開ける。

一瞬まぶしくて、目を手で覆った。

何度か瞬きしてから、前に踏み出す。そして、驚かされる。

確かに其処は、二階ではなかった。

 

辺りを見回す。

天井まで六メートルはあるだろう。こんなスペースは、あのビルの内部にはなかった。地下でもない。

地下は雑多な設備がわずかにあるだけで、これほどの空間は存在し得ない。

図書館のように、建ち並ぶ複数の棚には、膨大な品が陳列されている。古文書、テディベア、宝石。

いずれも、無造作に置かれていた。

テレビゲームやプラモデル、鉄道模型さえある。

此処は、何だ。

文化博物館か。

天井にあるシャンデリアは、おそらく二百年は経っている品だ。電球を接続しているようだが、あれだけで数百万はくだらない。

それに、辺りの棚に、無造作に入っている品は。

どれも頭がくらくらするほどの高級品ばかり。しかも無造作には置かれているけれど、手入れじたいはしっかりされている。

此処は一体、何なのだろう。

都市伝説は、正しかった。

そう結論するしかない。

不可解な現象に戸惑いながら、一歩を踏み出す。

革靴が、踏み出す度に、かつん、かつんと音を立てる。床は木張りだが、これは普通のものではない。

恐らくは、樫だ。それも家庭用のものではなくて、厳選された高級品。

勿論骨組みは鉄筋コンクリートなのだろうが、床材としてこれだけ使っている樫が、どれほどの値段になるのかわからない。此処は本来ではあり得ない場所。貴族か何かの邸宅レベルの金が掛かっている。

生半可な華族の洋館なんて、及びもつかない豪華さだ。

それだけではない。

見て廻る限り、床の隅々まで埃が取り除かれている。

これほどの手入れ、十人や二十人使用人を使っても、上手く行くかどうか。一体どうやっているのだろう。

ふと、目があう。

此方を見ているのは、不思議な子供。

床の一部だけ、畳が敷かれている場所があって、其処にマホガニーの机。其処で退屈そうにしている、髪が長い子供がいる。髪は無造作にぶちまけられて、机の上を通り過ぎ、滝のように流れて畳にまで広がっている。

しばらく、無言で見つめ合った。口を開いたのは、相手の方。

しかも、お行儀が悪いことに。ドーナツを手にしながらだった。

「客と言う事は、都市伝説については知っているのだろう。 此方に来い」

「貴方が、店主ですか?」

「そうだ。 アモン、座布団」

すっと、何ら気配さえなく現れる使用人。

どうしてか西洋のメイドルック。それもファッションを前提としているようなエセではなくて、労働を意識した作りになっている、非常にしっかりした本物だ。

彼女がてきぱきした動きで座布団を敷く。

促されるまま、園観は其処へ座らされていた。

「この品揃えはどういうことですか。 余程の資産家でも、このようなコレクションを揃えるのは困難です」

「ほう、多少はものがわかるようだな」

「貴方は、何者です」

「さあ、何者だろうな」

無言での見つめ合いが続く。

園観は強い警戒を感じていた。都市伝説の舞台とは言え、此処は尋常ではなさ過ぎる。資産家の私邸に案内されて、コレクションを見た事があるから知っている。此処の品揃えは、それこそ王侯が金に糸目を付けず集めたレベルだ。

それに、先から、気になるものを幾つか見ている。

失われたと言われているものが、あるように思えてならないのだ。

贋作だろうか。

だとしても、これだけの数の贋作を、どうやって。それほど巨大な組織が、背後にいると言うことなのか。

「ひょっとして、私がここに来るのを、誘導しましたか」

「少し違う」

「具体的に、お聞かせください」

「資格のあるものが、餌に食いつくようにしてある。 お前は久々の大物だったから、私としても来るのが楽しみだった」

誘われて、ここに来たのか。懸念は当たった。

不快感がせり上がってくる。

同時に、怒りも。

利用された。ひょっとして、これから誘拐されて、身代金を取るのに使われるのでは無いのか。

そんな懸念さえある。

だが、女の子はドーナツをマイペースにぱくつきながらいうのだった。

「名前は」

「……柊園観です」

「私の名はアガレス。 この店の主だ」

「アガレス……」

聞いたことがある。

いわゆるソロモン王72柱と言われる、一神教で有力とされる悪魔の名前だ。様々な題材で使われている存在で、確かアガレスは72柱の中でも、ベリアルやバエルについで特に強力な悪魔だったはず。

勿論、目の前にいるこの髪の長い不思議な子供が、アガレスなどとは思えない。

それに、使用人も、アモンと呼ばれていた。

アモンも72柱の中で特に強力な悪魔だったはずだ。

何かのカルトだろうか。

あり得る話だ。だとすると、対応をした方が良い。だが、愕然とするまでに、時間は掛からない。

スマホを取り出すが、圏外だ。これは特別強力に作ってある筈の特注品。山でも電波が通じるほどの品なのに。

「此処はちょっと外からは切り離された空間なんだよ」

「トイレごと、エレベーターで地下にでも移動したんですか」

「大がかりなことを考えるが、それが無理なのは、お前ならわかっているんじゃないのかな」

少し小馬鹿にするような口調で、アガレスが言う。

確かに、そうだ。

エレベーターには大がかりな周辺設備が必要になってくる。あのトイレをエレベーターにするのは、難しい。外部から丸わかりになってしまう。

ぎゅっと、拳を握りしめる。

不安に包まれているのを悟ってか、女の子は更にドーナツをもう一つ、口にした。余裕綽々だ。

「それで、どうしてここに来た」

「……」

「ここに来る奴は、だいたい強い願いを持っている。 何となく見当はつくが、遠慮しないでいって見ろ」

促されるが、不安でまだ口を開けない。

この子を制圧することは、簡単だ。この子は見たところ、武術の類をやっているわけではない。動きでわかるが、完璧にただの子供だ。ただ見かけよりかなり力は強いようだけれど、制圧は難しくない。

問題は側に控えている使用人だ。

此奴は冗談抜きで強い。

武術の類は親に言われて習っているし、空手で言えば三段相当程度の実力は持っているから、わかる。

今まで見てきたどの師範も、此奴から見れば子供も同然。

アガレスと名乗る子供は、正真正銘少なくとも武術という点ではただの雑魚だけれど。

アモンと呼ばれていた使用人は、悪魔と呼ばれても、納得できるだけの強さを、現実に備えていた。

「どうした、悩みは。 願いは。 余程強い願いがない限り、此処には来られないのだがなあ。 なんなら、口を開くようにさせてやろうか」

「どういう、意味です」

「こういうことだ」

アガレスが、指先を此方に向けてくる。

反射的に飛び下がった。

一瞬遅れて、背中に冷や汗がどっと流れる。

ほんの一瞬だけだけれど。確かに見えた。

何か、得体が知れない、とてつもないものが。

アモンがあっさり、園観をまた座らせる。普段だったら抵抗できたはずなのに、あまりにも無造作に、座り直させられていた。

まずい。

此処は、予想以上に、危険な場所かも知れない。

しばらく無言でいた園観は。やがて、口を開いた。圧力に屈したのではない。此処は、話を合わせた方がいいと判断したからだ。

「時間が、欲しいのです」

「作れば良いだろう」

「作れません」

「ふうん……」

アガレスが、しらけた目で、園観を見る。

何だか、興味がどんどん薄れている。そんな印象だ。時間を作ると言う事がどれだけ大事か、わかっているのだろうか。

ここに来るのだって、一ヶ月単位で時間を調整して、やっと出来た事なのだ。

此処で費やされている時間がどれだけ貴重か、本当にわかっているのだろうか。

「此処なら、願いが叶うと聞きました。 だから、貴重な時間を割いて、足を運んだのに……」

「まあ良いだろう。 アモン、どうだ」

「料金の徴収については、問題ないと思います。 むしろ、この国にいる人間としては、最大級ではないでしょうか」

「そうか、それならば早速いただこうか」

不意に、顔を掴まれた。

武術の心得もある園観なのに、全く身動きさえ出来なかった。

小さなアガレスの手が、園観の顔をしっかり捕らえて、離さない。

意識が飛ぶまで。

さほど、時間は掛からなかった。

 

何処かを、ずっと落ちている感覚。

こんな感覚が、以前何処かであった。何処だっただろうか。あまり、思い出す事が出来ない。

いや、近い感覚が。

そうだ。思い出した。

そもそも、私は。

最初は。こういう場所から、生まれ落ちたのだ。

忘れるようにしていた。八才からの記憶がないことを。普通、幼少期のことをわからなくても、誰もあまり気にすることがないと知ってからは、随分気が楽になったことを、覚えている。

私は。

実際の年齢は、まだ九才だ。

それも当然で、私は。一部の金持ちのために提供されている、デザイナーズチャイルドの第一世代。

その試作品だからだ。

まだ世間的にはクローン技術は成功していない。しかし、人間の遺伝子解析は既に完了していて。実はデザイナーズチャイルドは、ビジネス化している。最近、それを噂で聞いた。

自分が、その成功例の一つだとも、何となく悟っていた。わからないフリをしていたのだが。

両親が、どうして一歩引いて私に接していたか。

私自身も、それを受け入れていたのか。

それは、この光景を、思い出してから、納得がいった。

最初私は、水の中にずっといた。水ではなくて、多分培養か何かを行う装置だったのだろう。

息をするための機具をつながれて。

排泄を行う器官にも、カテーテルを淹れられて。

時々ぼんやりと、液体越しにみるのは、行き交う白衣の人々。会話は、何となく聞こえて。その内、言葉も理解できるようになった。

被検体何番が死んだ。

廃棄処分。

近くにあった、同じような硝子容器から、液体が抜かれていく、ぐったりした、同じ年くらいの男の子が、運ばれて行く。ただし、ものとしてしか扱われていないのは、明白だった。

嗚呼。

私もいずれ、ああなってしまうのか。

男の子の方が、死ぬ確率が高いようだった。

体は急速に、無理矢理に成長させられている。体中痛くて仕方が無い。時々もがくけれど、体に自由なんてなかった。下手をすると訳が分からない薬を淹れられて、もっと苦しい思いをすることになった。

どれくらい、この狭苦しい水の中で暮らしてきただろう。

不意に、水から出された。

裸のまま、はこばれていく。外はあの機械がなくても呼吸できる代わりに、どうしてかとても寒かった。

思えば、相変わらずものとして扱われていたのだろう。

「これが、完成品の素体となります」

「ふむ。 検査は」

「既に問題ありません。 知能も九歳児相当で、すぐに納品が可能です」

何を言っているのだろう、この人達は。

いずれにしても。

それが、覚えている。人間としての、最初の記憶。

私は人間ではなくて、モノだった。

そして今でも、それに変わりはない。

何故、あれほど怖がっていたのだろう。親の言う事は絶対。機械的な作業にどうして従わなければならないのか。

レールにそって、動かなければならない理由は、何だったのか。

廃棄されるからだ。

私に、人権なんて気が利いたものはない。私の命を握っているのは親だ。親は知っている。

逆らう場合、どうすれば従えられるか。

私がデザイナーズチャイルドだから、逆らうのを防ぐための方法は、幾つも確立されているのだ。

学歴を偽装するくらいは簡単。

私は小学校の三年から、社会に混じりはじめた。

それまでは、モノだった。

他の子供達は、ずっと年上だけれど。学習能力は、私の方がずっと上だった。当然だろう。優秀な遺伝子をこれでもかとこねくり回して、しかも上手く行ったのを引っ張ってきたのだから。

ただし、努力はずっと続けていた。

恐らくは、私も、幼い頃からわかっていたのだ。

逆らったら、あの廃棄された男の子のように、モノとして捨てられるのだと。親には、ソレが出来るだけの財力と、権力があった。

親に本当は子供はいない。

産むことが出来なかったらしい。体の欠陥の問題だと言う事だった。

だが、代わりに私を愛しているのかと言えば、わからない。そもそも私には。愛情という概念が、本当に存在するのか、疑わしいとさえ思えていた。

「ふむ、面白い」

何処かで、声がする。

あの、アガレスという、よく分からない子供の声。

何が面白いのか。私のモチベーションとなってきたのは、ずっと恐怖だった。ちょっとでも気を抜けば、すぐにモノに戻される。肉塊にされて、殺されるという、絶望だったのに。

他の子供達は羨ましい。

能力は兎も角、親から生まれて。個人差はあるだろうが、愛情にも包まれてそだったのだ。

そうでは無い子もいるだろうけれど、そもそも私は前提が違う。

私は、人間でさえない。

子供でさえ無い。

モノだったのだから。肉の塊で、都合良く操作できる子作りのための道具で。有能な子孫を残すための、肉袋に過ぎなかったのだから。

それをうすうすわかっていたのに。

知らないフリをしていた。

全身から、真っ黒い何かが、あふれ出すかのようだ。私は、人間ではなくて、その道具として作られて。

財閥のための部品で。

その維持のためだけに存在していて。

それで今も。結局、自分を部品としか考えられなくて。自分を効率よくメンテナンスするためだけに。

時間が欲しいと願って、こんな悪魔に。

いつの間にか、気付く。

真っ暗な水の中にいることに。恐怖がせり上がる。私が唯一出来ないのは、水泳だ。泳ぐことは出来るのだけれど、恐怖がせり上がってくるのを、抑えられなくなる。風呂だって、長くは入っていたくはないのだ。

水の中を落ちていく。

必死にもがくが、どうにもならない。

助けを求めるという発想は、そもそもない。

自分の力が及ばないのならば。

この世界では、死ぬだけだ。

 

目が覚める。

全身が、冷や汗でぐしゃぐしゃに濡れていた。恐怖で全身をわしづかみにされ、心臓は恐怖に跳ね回っていた、

思わず顔を上げる。

満足そうな表情で、アガレスが頬に両手を当てて。此方を見ていた。まるで、大盛りのパフェでも食べた幼児のような無邪気な表情だ。事実満足したのだろう。とても嬉しそうに、単純極まりない感想を述べる。

「美味」

言葉が、出ない。

全ての闇を、引っ張り出して。何もかもの私を、引きずり出されて、全てを見透かされた。

此奴は、今なら確信できる。

口だけの存在では無い。

本物の悪魔だ。

多分アガレスと名乗ったのも、嘘ではないのだろう。ソロモン王の72柱に名を連ねる強大な魔神。

アガレスとは、きっと本当に、此奴の事なのだ。

「約束通りのものをくれてやろう。 アモン」

「はい」

使用人が、奥の闇に消える。

はしごを使って、棚の上の方にあるものを取っているようだ。高い棚だが、何処に目的のものがあるか、即座に把握したようである。

その辺りから考えて、やはり此奴らは人間ではないのだと、判断するほかない。今だって、碌な意思疎通はしていなかったのだ。それで会話が成立しているのだから、他に考えようが無い。

疲れ果ててへたり込んでいる園観の顔を、アガレスが覗き込んでくる。

「今の私は大変に機嫌が良い。 多少のおまけは付けてやろう」

「な、なんです、か」

「人間のふりをしているお前が、もう少し楽に生きられる方法を、望むのなら教えてやってもいい」

いや。

反射的に、その言葉が出ていた。

側に、大きな音を立てて、荷物が置かれる。

アモンと呼ばれた使用人が、何かを引っ張ってきたらしい。二抱えもある巨大な箱で、中に何が入っているのかは、よく分からない。

「流石に、表にとまっている車でも、これを運ぶのは難しいでしょう。 郵送代金はサービスしておきます」

重そうな音がしたというのに。

ひょいと簡単に抱え上げると、アモンは箱を持っていく。

床の一角が、不意にせり上がると、其処に白い闇のような穴が出来る。何ら躊躇うこともなく、アモンは其処へ飛び込んだ。

穴がふさがる。

此処は、魔境だと、思い知らされていたのに。こういう光景を見ると、先ほどの精神的打撃もあって、歯の根も合わないほど恐怖が全身を包む。さっきまで無邪気な子供に見えたアガレスも、人間を捕食するどうしようもない絶対的な相手のように、見えてしまっていた。

「鉄仮面も崩れたなあ。 もう少し嬲ってみたいが、それは私にとっても本意ではないので、やめておこう。 それ、用事も済んだのだし、帰ると良いだろう」

「あ、貴方は」

「私達悪魔は、何も人間を直接襲って喰ったり殺したりはしない。 聖書でも、我々が人間を襲って殺した例は極小だろう? 現実でもそれは同じだ。 悪魔にとって、人間は餌であっても、動物界のように肉を喰らう相手というわけではないのだ」

すっと音を立てて、指先を額に突きつけられる。

意識が、再び消えて。

気がつくと、リムジンに乗っていた。

運転手は無言のまま。運転し続けていた。

「広沢……?」

「どうなさいました。 寄り道ですか?」

「いいえ、直帰してください」

「わかりました、お嬢様」

防弾のリムジンだ。

マシンガンで撃たれたくらいなら、余裕を持って耐え抜く特注。サイが突っ込んできたくらいでは、壊れることはない。

それなのに、怖くて仕方が無い。

恐怖で身を縮める園観を見て、広沢は不思議そうに、小首をかしげた。

「何か怖い目にでもあったのですか」

「何でもないわ。 急いで」

「はい」

それ以上、広沢は何も聞かない。

自宅に到着。当然のように家族は帰ってきていない。どちらかが帰ってきていたら、儀礼的にしても、挨拶はしなければならない。

自室に入ると、ベッドに倒れ込む。

まだ震えが来ている。

全てを思いだしてしまった以上、当然だ。意図的に忘れるように、どれだけ苦労してきたかわからないのに。

私は人間じゃない。

取り替えがいくらでも効くパーツ。

考えて見れば、両親の接し方もおかしかったのだ。大事な一人娘にしては、あまりにも突き放した態度。

いや、そうではない。

帝王教育というには、異様に合理的すぎる内容。

如何にすれば効率よく、私を後継者に出来るか。それをまるでプログラミングするかのように、両親は育ててきていた。

嗚呼。

最初から、私は孤独だった。

何もかもが、幻に過ぎなかったのだ。

スケジュールの消化どころでは無い。だが、それでも時間になると、知らせが来る。習い事には、行かなければならない。

勿論、内容は散々だった。

様子がおかしいと判断したらしく、両親に連絡を入れている琴の師範。ぼんやりとその有様を見ながら。

私は、ただ眼前にぶら下げられた絶望に、翻弄され続けていた。

 

3、来る自由の時

 

両親は思っていたほど、園観をこっぴどくしかるようなことは無かった。或いは、どうしてこうも精神的な体調を崩しているのか、見た瞬間悟ったのかも知れない。何しろこの二人は、園観をデザイナーズチャイルドとして、注文したのだから。いわば園観の設計もしているようなものであるから、動作不良の理由くらい、把握していてもおかしくはないのである。

無言の食事はいつものこと。

学校でも、園観は通常通りに動く。

一応、それだけは出来たけれど。やはり周囲は、怪訝そうに見ていた。それだけ園観の動きが悪いからだろう。

どうしても、聞こえてきてしまう。

「生徒会長、どうしたんだろう」

「鉄の女、さび付くの巻」

「男にでもふられたんじゃないの」

「馬鹿いってんじゃねーよ。 男女交際なんて、してるわけねーだろ。 ああいう名家の出身者となると、結婚相手なんて親が厳重管理してるんだよ。 男なんか近づいたら、SPにボコボコにされちまうっての。 そうなると、許嫁とかと引き離されたのかもしれないな」

好き放題な話をしている。

どうしてこう、年頃の子供達は、恋愛沙汰に何もかも結びつけたがるのだろう。そんな悩みだったら、一体どれだけ心が楽だったか。

園観は今、アイデンティティが崩されて、泥沼の底にいる。這い上がろうとしても、なかなか出来ずにいる。

勿論、周囲に弱みなんて見せられない。

無表情のまま、業務をこなしていく。生徒会長としての作業は、歴代の誰よりも効率よくこなし、学校の授業でも問題なく動いた。指名されれば正解を応え、授業内容は休み時間に即座に反復。

授業が終われば無駄は一切せず、習い事に。

帰宅は夜遅く。

文句を一つも言わず、使用人が作った食事を口に入れ。風呂に入って、寝床に入ろうとして、気付いた。

部屋の入り口に、荷物が来ている。

使用人が、教えてくれる。

「ああそれはですね。 お嬢様宛に来ていた荷物です」

「私に?」

「物置に移しましょうか?」

「いいえ、そのままに」

大きな段ボールだが、部屋に運び込むこと自体は、難しくなかった。

開いてみると、まず入っていたのは、DVDロムだ。

規格的には、今使用しているPCで充分に動かすことが出来る。マニュアルが付属していたので読んでみると、CADである。

立体的に電子図面を引くツールだ。

更に、一緒に入っているこれは。

いわゆる、3Dプリンタだった。

最近話題になっている3Dプリンタは、立体的に物体の構築が出来ると言うことで、様々な分野での応用が期待されている。

勿論柊グループでも研究を進めているのだが。

これは、ざっと見た感じ、型番がそもそもふられていない。しかも、使用されている部品の精度が、今までに知られている3Dプリンタとは、段違いの様子だ。多分二千万前後の値段はするだろうと、園観は判断した。

冷静に判断している一方で、驚きもしている。

これほどの高級品、滅多に見られるものではない。企業ベースの品か。しかし、不可解な点もある。

型番がふられていないと言う事は、恐らくは試作品。

部品の癖などを見る限り、園観が知っているどの企業とも一致していない。個人が作り上げたオーダーメイド品だろうか。だとすると、凄まじい技術だ。それとも、何処かの企業の研究者が作り上げたが、高級すぎて商用ベースには乗せられなかった品なのだろうか。いずれにしても、園観でさえ入手は困難な品だ。

マニュアルが付属していたので、読んでみる。

案の定、企業ロゴなどは入っていない。

オーダーメイドによる特注品か、試作品と考えて間違いないだろう。

素早く目を通していくと、驚かされる。

これは、非常に特殊な3Dプリンタだ。あるものを作り上げることに、特化している品なのである。

3Dプリンタとして、使用する部品も様々だ。

形状だけではなく、塗装などもこなしてくれる。ただかなり音が大きい。オンライン連携は出来るようなので、ネットワークで接続して、今使用していない離れにおいて、稼働させるのが良いだろう。

あの悪魔達は、何故こんなものを。

わからないけれど、はっきりしているのは。興味が出てきた、ということだ。不思議な話なのだけれど。

まず、DVDロムをPCに突っ込んで、インストールをする。

此方も驚いたのだが、既存品とはにても似つかないプログラムだ。或いは全て一から組んだ品なのかも知れない。そうなると、これを作り上げた人物は、相当な執念を費やしたのだろう。

プログラミングが如何に大変かは、園観もよく知っている。

或いは専属のチームを使ったのかも知れないけれど。完成させるには、余程の労力を費やしたはずだ。

それでも、一年や二年は掛かったはず。

何処かの企業の研究チームが作ったのだとすれば。余程の特価品。商業ベースに乗せられなかったとすると、さぞや無念だっただろう。

OSとの互換性はあったので、インストールは問題なく完了。

今日はここまでだ。

実際にネットワークに接続して、動かしてみるのは、明日以降。

何故かはわからないけれど。

不思議と、少しずつ沈鬱な気分が、晴れはじめているのはわかった。

 

翌日から、作業を着々と進めていく。

ネットワークに接続。

柊家の内部には、独自のネットワークが構築されている。園観が使っているのは、その中でも特に厳重に管理された部分だ。

そういえば、あの悪魔は、園観を知っていると言っていたけれど。

まさか、あり得ない。

それだけ厳重に、ネットワーク的に管理されている場所なのだ。それこそウィザード級のハッカーでさえ、生半可な労力では破れないはずなのだけれど。もし破られたのだとすると。

まだ見直しが必要だと言う事だろう。

少なくとも侵入された形跡は無い。ログを管理しているネットワークチームに確認させたのだけれど、不審な情報は出てこなかった。

離れに不思議な3Dプリンタをおいて、ネットワーク接続。

設定は全部自分でやった。

これくらいの教育は受けている。調べて見ると、プロトコルまで独自のものを使っていた。或いは、海外で作られたシステムを、ローカライズしたのかもしれない。少なくとも、今まで見た事もない規格だ。本当に動くのか不安になったのだけれど、どうにか稼働はしてくれた。

デバッグについては、きちんと行われていたらしい。それだけは、救いともいえた。

何日かかけて、順番に作業をこなしていく。

CADと3Dプリンタを連携できたのは、荷物が届いてから一週間後。別にトラブルが頻発したのではない。それだけ、園観には時間がないのだ。

かといって、専属のSEにはやらせたくなかった。家のネットワーク環境を管理しているチームもいるのだけれど、彼らは彼ら。

自分でこのくらいの事は、こなしたかったのである。

両親は、それについて何も言わない。変なオモチャを触りだした、とくらいしか考えていないのだろう。

余暇をどうしようと自由。

それについては、両親にも許可は取ってある。

勿論、ポケットマネーの使い道も。

二千万程度だったら、園観のポケットマネーから出す事も出来る。特に不審なことは、ない。

マニュアルを見ながら、何度か試運転をして見る。

できあがってくる品は、かなりの高精度。

精度の面で言えば、その気になれば銃だって作れる。

ただし、この3Dプリンタでは無理だ。

なぜなら、この3Dプリンタは特化型。

作れるものは、決まっているのだから。

試運転が終わった所で、本格的に設計をはじめて見る。最初は既存の品を中心に、順番に進めていくのだ。

幸いにも、場所であれば、腐るほど余っている。

何なら、この本家ではなくて、物置代わりに使っている土地を利用してもいい。電車で少し行った所に、いくらでも土地ならある。

作業を進めていきながら。

いつのまにか、楽しくなってきていることに、園観は気付いていた。

 

特注の水槽を準備する。

水槽を動かすための仕組みも。水を入れていれば良いというものでもない。水質を保つための装置も必要だし、時々メンテナンスをする必要もある。

それには専門の業者を雇うべきだろうか。

少し考えたが。やはり、最初は何もかも自分で行うべきではなくて、専門家に話を聞くべきだと、園観は判断した。

幸い、巡回の業者くらいなら、園観のポケットマネーから手配できる。

水槽は二メートル×六メートルという大型のもの。

此処に、設計したものを、順番に入れて行く。その後は水を入れて、購入したテトラをまず。その後は巻き貝と小型の海老、更には水草。そして小型の鯰。これで、メンテナンスの手間が大幅に省ける。

そう。園観の所に届いたのは。

耐水性のオブジェクトを作る専門の3Dプリンタ。

つまり、アクアリウム専門の3Dプリンタなのである。

考えて見れば、これが商業ベースに乗らなかったのは当然だろう。個人で用いるにはあまりにも大がかりすぎるのだ。

確かにアクアリウムには相当なマニアがいる。大型の魚類を扱うマニアになってくると、それこそ湯水のように金をつぎ込んでも惜しまないとは、園観も聞いていた。

しかし、これはいくら何でも需要がない。

何処の企業で開発したのかはわからないが、それこそ園観のような桁外れな金持ち以外には、売れる要素がないのだ。

アクアリウムの基本はテトラから。

テトラは小型の熱帯魚で、奥が深く、飼いやすいので初心者がまずはじめるには最適である。

大きな水槽だけれど、まずはテトラを入れたのは。お金がある程度あっても、最初は基本から始めるのが無難だと判断したからである。

ない時間を利用して、園観だって研究したのだ。

学業の合間に、ちょくちょくこういった研究をするのは、思っての他楽しかった。何というか、活力が湧いてくるのがわかるのだ。

離れに置いた水槽を、メンテナンスの業者に見せる。

業者は、驚いていた。

「この水槽で、テトラがメインですか」

「はじめたばかりですので」

「見栄えがある魚を手配できますが、どうしましょう」

「いいえ、その辺りは自分で研究して進めて行きたいのです。 あなた方は、水槽のメンテナンスだけをお願いいたします」

小首をかしげながらも、業者はわかりましたと引き受けてくれた。いずれにしても、大口の客だ。

断るという選択肢はないのだろう。

自室の設備を、この離れに移す。

両親は、何も言わなかった。

これからは、この離れで暮らすことにしよう。そう、園観は決めた。

 

案の定と言うべきか。

アクアリウムをはじめてみると、少しずつやりたいことが増えていく。オブジェクトをどんどん追加すればするほど、中に入れるべきものをどうするか、考えてしまうのだ。

最初は珊瑚とか岩とか、家っぽいものとか。

木とか、水車とか。

無難なものばかりを作っていた。

しかし、CADが扱えるようになってくると、それだけでは満足できなくなってくるのが、よく分かった。

水中に、地形を作って見る。

これは、アクアリウム専用の3Dプリンタだ。素材は水質に影響を与えないから、気兼ねなくやれる。

まずは岩山のようなものを作って、入れる。

かなり大きいので、業者に作業は手伝ってもらった。鯰や小エビを潰さないようにしないといけないので、入れるときはかなり気を遣った。

やはりというかなんというか、岩山を入れると、魚たちは興味津々。その周囲に独自の縄張りを作ったり、群れで周囲を泳いだりし始める。

岩山に、水草を植えると。

水流は複雑になり、更に変化が見られるようになった。

水槽を増やしてみるか。

離れと言っても、部屋はかなりある。

それに、アクアリウムを始めてから、むしろ成績は上がった。親には文句を言われる筋合いもない。

今まで以上に精力的に動いているのだから、文句など出ようも無い、と言う所か。

言うことを聞かなければ廃棄処分が待っているとしても。

言う事を聞く上で話を聞くならば、文句は出てこない。例え、園観が人間ではなくて、道具に過ぎないとしても、だ。

複雑なオブジェクトを入れることが、楽しくなってきた。

更に機具を工夫して、水流を作る。

テトラだけを飼うのも良いのだけれど、他にも魚を入れて行きたい。やはり定番のエンジェルフィッシュも良いけれど。地味目の魚も、栄えるかも知れない。

とりあえず、まずはこの水槽から、思う存分カスタマイズしよう。そう決めて、翌週にはエンジェルフィッシュを水槽に追加。それから、順番に同じ程度の小型魚を、追加していった。

餌やりは日課として定着。

どうしても無理な日は、使用人に餌を与えるように教育もした。

水中には様々なオブジェクトが増える。

バベルの塔やピサの斜塔を入れると、魚が中に入って卵を産んだ。

卵は業者に取り出してもらって、水槽の一角に網で区切った部分を造り、そこで食べられない大きさの稚魚になるまで育てる。

アクアリウムははまりはじめると、きりがないと言う話は聞いていたが。しかし、自分もそうなるとは、思ってもいなかった。

誰かに見せたいとは思わない。

このアクアリウムは、自分だけの世界だ。その気になれば、何時でも壊すことが出来る、小さな箱庭。

此処は、自分だけが好きに出来る世界。

人間達から道具として育てられ、今も気分次第で廃棄される自分が。

好きなように出来る、最後の心の砦だった。

ぼんやりと、横からアクアリウムを見ているだけでも、心が安らぐ。テトラには、実のところあまり愛着がない。

まとめて素揚げにして食べたら美味しいだろうか。

こんな事をいうと、きっとアクアリウム愛好者には怒られるだろうけれど。実際、どうとも思わないのだ。

そもそも愛情という概念が、思えばよく分からない部分がある。

今まで、両親は。帝王教育の外では、自由を許してくれた。自由時間は、一日三十分もあれば良い方。

しかし、わかるのだ。

その三十分でさえ、多分監視の中にあると。

恐らくは、この離れも監視はされている。アクアリウムという無害な趣味を、無害な範囲内でやっているから、放置されているだけだ。

充分な金を渡されてはいる。

庶民の生活を知っているから、園観のポケットマネーが如何に膨大かは、よく分かっている。

だが、それも両親の感覚では、はした金。

事実、こういったお金持ちの世界では、何も出来ないに等しい金だ。

翌日、CADで作った橋を、水槽に入れてみる。

魚はオブジェクトが増えれば増えるほど、環境が複雑化して。それぞれに縄張りを作って、棲み分ける。

最初は水流などで漠然と棲み分けていたけれど。

今では、明確にオブジェクトの周囲で、それぞれが縄張りを作っていた。餌を与えるときだけは、縄張りを離れて水面近くにまで食べに来るが。

これも、気分次第。

餌の代わりに毒を入れれば、即座に水槽を全滅させることも出来る。それが、園観には、楽しく。とても楽しくなり始めていた。

 

業者がしつこく進めてくるが、断る。

何でも業者によると、これだけの大型水槽なのだから、大型魚類を飼うべきだというのである。

特に、アロワナがお勧めなのだとか。

「かなり難しいですが、これだけの愛情を注いでおられますし、きっと飼うのはとても楽しいですよ」

「それで、アロワナを飼う場合、このテトラ達は?」

「それは、処分するしかないかと思います。 勿論、言っていただければ、此方で手配します」

さらりというものだ。

何が愛情か。

笑顔のままの園観。無言の圧力を感じたのか、露骨に業者の若い男が怯む。水槽を新しく購入して、そちらに魚を移してはどうかと言い出す。

無言。

どうして水槽を更に増やさなければならないのか。

此奴らが儲かって楽しいのであって、園観にとって楽しいわけではないのだと、どうして気付かないのだろう。

はした金だから、悩まず出すとでも考えたか。

機嫌を損ねたと、ようやく気付いたらしく。

平謝りして、業者は戻っていった。上司にでも、アロワナを勧めろと言われていたのだろう。

多分ノウハウだけ学んで、アクアリウム愛好者の事を勉強していなかったのか。しかも、園観はおそらく、普通のアクアリウム愛好者と、かなり性質が違っている。いつでも滅茶苦茶に出来る箱庭を、手元に置いておきたいという理由で、魚たちを飼っている、一種の暴君だ。

大型魚はそうはいかない。

アクアリウムを始めてから勉強しているが、アロワナは一メートルを軽く超えるほど成長する。場合によってはこの水槽でさえ、大きさが足りなくなるだろう。それさえもどうせ見込んでいるのだろうが、考えが甘い。

或いは。別の可能性にも思い当たる。

金持ちのペット愛好家の中には、珍しい動物をアクセサリ代わりにする輩もいるとか聞いている。

たとえば犬。

子犬の内だけかわいがって、大きくなってきたらポイ捨てし、新しいのを買う。事実、そう言うことをする輩は存在するそうだ。

そういった連中と、園観を同じ穴の狢と考えたか。

勿論園観も同類だが。若干性質が違う。その性質の違いを読み切れていないという時点で、商売人としては失格だ。

会社にクレームを入れる。

大口の取引先だという事で、即座に社長が出てきた。作業をする人員を入れ替えるから、取引停止だけは勘弁して欲しいと平謝りされる。

どうするか検討すると言い残して、電話を切ると。

不思議と、とても良い気分になった。

此奴らも、アクアリウムの魚と一緒で、自分で好きなように出来ると思うと、これほど楽しい事もない。

或いは、両親は。

財閥の上層部の人間は。

いつもこんな良い気分を、味わっているのだろうか。

もしそうだとすると、金と権力が持つ甘さが、人間の頭を狂わせる理由もよく分かる。一度この甘露を啜ったら、他の食べ物など口に入らなくなるだろう。

テトラを更に増やすことを決める。

そうしたら、社長が自ら、相当なベテランらしい人物を連れてわざわざやってきた。玄関口で平謝りされた。

はげ上がった頭の初老の男が、女子高校生程度の小娘に。頭を下げる様子は、滑稽を通り越して、哀れでならなかった。

持ってきたテトラの品質を確認。

しばらくは、水槽の上部で、水に慣れさせる。

無口そうなベテランの作業員は、黙々と水槽のメンテナンスを実施。園観がクレームを入れた事を知っているからだろう。何か言いたそうではあったけれど。余計な事は、ひとことも喋らなかった。

業者が帰ると、両親が入れ替わりに来た。

特に父は殆ど園観に関心を見せないから、珍しい。

「これが、最近はじめたというアクアリウムか」

「はい、お父様。 小型魚だけを厳選しています」

「ふむ……」

クレームの事は、聞いているのだろう。

内部は様々なオブジェクトが配置されていて、かなりカオスになってきているが。中央にある幾つか穴を開けた岩山を中心に、様々なオブジェクトを園観なりに研究して配置している。

殆ど動かない魚もいる。

水流が安定したところで、口をぱくぱくしている小型の鯰がそれだ。

小エビは岩山に群がっていて、水槽の壁面ではあまり活動していない。そろそろ少し数を増やすべきかも知れない。

「これを商売に結びつけられないか」

「まだ趣味の段階です。 アクアリウムは世界中に愛好者がいるので、この程度の付け焼き刃では」

「ならば、金が儲けられるまで、研究しろ」

父に逆らうことは許されない。

はいと頭を下げる。

父が離れから出ると、園観は内心舌打ちしていた。それだけではない。今までわき上がることもなかった、明確な両親への敵意さえ覚えはじめていた。

これは、私にとっての禁断の花園。

誰にも足を踏み入れる事を許されない、楽園。

最後の箱庭だ。

それを土足で踏みにじった。金持ちの傲慢と言うよりも、園観を人間だと考えていないから、出来る事だ。

事実園観は父にとって、跡継ぎとはいえ、いくらでも替えが効く人形だ。

調べて見たのだが、前任者もいた。

ここにきてから一年で廃棄処分されている。園観は従順で使えると判断したから、父は使っている。

ただ、それだけにすぎない。

この時、園観は、アクアリウムを見つめながら、笑顔を浮かべる。

監視カメラで見られていると知っているから。表情さえ、偽装することが可能だ。昔から、そう訓練してきたのだから。

肉人形だって、知恵を付ける。

ましてや、普通の人間以上のスペックを与えられているのだ。それくらいは出来る。どうして出来ないと思うのだろう。

作り手の傲慢か。

それならば、傲慢にふんぞり返っているうちに。背中から撃ち殺してやるだけのことだ。

そう。この時。

園観は、今まで与えられてきた全てと。

自分を作った両親に。

反逆することを、決意していた。

燃え上がるような殺意が、体の中でわき上がるのがわかった。それからも、毎日は今までと変わりないように、平然と過ごしていくことは出来た。だが、明らかに、園観の毎日は、躍動感を得た。

明確なモチベーションが、生じたからだ。

漠然と生きてきた。恐怖に押さえ込まれて。

両親の言うまま、肉人形として過ごしてきた。何故かは、デザイナーズチャイルドとして作られた記憶を思い出したときに、全てが納得がいった。

替えが効く肉人形。

だからこそ、両親は園観に、躊躇なく徹底的な帝王教育を施して。なおかつ、距離を置いて過ごしていたのだ。

花園を踏み荒らされたことで、園観の中で、何かが決定的に変わった。もはや両親は、園観にとって敵でしかない。

時間は、それほどない。

まずは自分で自由に出来る資産を作り上げるところからだ。それには、両親が先ほど命じてきたことが、むしろ役に立つ。

これを、商売に変えていけば良いのだ。

頭が働き出す。

今まで、言われるようにしか使わなかった脳が、本来のスペックで動き出したとみるべきなのだろう。

それでいい。

生まれて始めて、園観は自由になった。

恐怖で作られたくびきが、完全に外れるのがわかった。

 

4、薄明の路

 

モチベーションが出来ると言うのは、こうも体の負担を小さくするのか。園観は何度も驚かされていた。

親が決めたスケジュールは、いつもよりかなり早くこなせるようになった。空いた時間を、全て目的のために費やしていく。

普通の人間が、どのようにアクアリウムを好むのか。

研究を進める。

アクアリウムの究極とも言える水族館にも、散々足を運んで研究した。水族館のスタッフにも話を聞いて、様々なデータを仕入れていった。

CADも動かして、様々なオブジェクトを作る。

世界的に愛好されているようなオブジェクトについても、研究を進めていった。このCADは大変に優秀で、市販されているレベルのものだったら、大概そのまま作る事が可能だ。

小遣いをつぎ込んで、離れも改装する。

一番大きな改装は、水槽の下から、中を覗けるようにした事だ。

これはある水族館の、水中通路を参考にした。ぼんやりと横になって、水槽を眺めていると。

そこにいる魚たちの生殺与奪を握っている事が、とても嬉しくなる。

最悪の場合は、この水槽に毒を入れて、自分も死ぬつもりだ。

この魚どもは。

自分と運命をともにする。

そう考えるだけで、嬉しかった。

様々な魚についても、研究を進めていく。既にテトラについては、熱帯魚専門店の店員程度では及びもつかないほどの知識も仕入れていた。それだけ熱心に、情報を集めて、実際に飼ったという事だ。

このアクアリウムを始めてから、既に二年。

高校を出て、東大に進学しても。なんら変わる事がない事は多い。相変わらず両親には全てを決められているし、帝王教育は進行中だ。

だがその一方で、園観自身も、両親には知らせず、反逆の準備を進めている。

いずれあの二人を殺して、首をすげ替える。

それだけが、園観のモチベーションを支えていた。

しばらく水槽の下から、テトラの群影を眺めた後、起き出す。この離れは既に水槽の展覧会場。三十以上の水槽に、様々な魚が飼われている。一般家庭の収入分くらいの維持費は普通に掛かっているが、先行投資と言う事で、園観は両親に説明も終えていた。その水槽全てに、園観がデザインしたオブジェクトを入れている。

ウェブカメラでの監視体制も万全。

どのような形状のオブジェクトが、どのように魚に影響を与えるか。それらも全て、データとして収集中だ。

大学に入ってからは、習い事の類はあらかた終えた。

というのも、講師から免許皆伝をもらったのだ。大体の教養はそうやってクリアすることで、習い事に掛かる時間を、ことごとくなくすことが出来た。

勉学についても、効率よく学ぶ方法を習得したから、以前よりもずっと時間を掛けずに済む。

余った時間は、こうやって、何時でも殺せる相手を眺める至福に、費やすことができるのだった。

自室に戻ると、PCを操作。

実験的に販売をはじめたキットの様子を見る。売り上げは上々だ。

実体験から編み出した、熱帯魚育成のセット。アクアリウムのキットを販売し始めて、それがかなり受けている。

何しろ何も考えなくても、アクアリウムをそのまま楽しめるのだ。餌などを与えるのも全自動で行っているので、オートメーション化はほぼ完璧。しかも、様々に工夫して、一般人がおしゃれと感じるようにデザインしている。

素で園観がデザインしたオブジェクトは、一般人からはかなり珍妙に映ると言う事も、理解している。

だから、一般人の感覚に向けて、調整したのだ。

若い女の子向け。

男の子向け。

様々なニーズに合わせて、デザインを調整した。その結果、売り上げは上々。ちなみに、メンテナンス業者の手配もセットである。煩わしい作業を一切せず、魚を楽しめるという事で、人気が出ているのだ。

既に企業向けなどでは似たようなサービスがあったのだけれど。

これを個人向けにしたところが大きい。

今までは採算が取れるシステムではなくて、マニアか金持ちしか利用しなかった。しかもマニアの場合は、自分でメンテナンスをしてカスタマイズもするので、需要がなかった。しかし、犬猫と違って吼えない悪戯はしないという意味で、魚にはペットとして大きな需要があったのだ。

売り上げは順調。

既に、園観のポケットマネーは倍にまでふくれあがっている。

だが、この程度では足らない。

次は水族館の設立が目的。

有望そうな水族館を、買い取ってしまうと言う手もある。ただし、見かけほど水族館は儲からない。

買い取ったら、人を呼び込むための工夫が必要になるだろう。

やがて、資産を蓄えたら。

その時は、両親に対する反逆の時だ。

 

あくびをしていたアガレスの所に、アモンが新聞を持ってくる。

ここしばらく、餌になりそうな相手がいなくて、アガレスは極めて退屈していた。そろそろ甘い物だけではなくて、しょっぱいお菓子も食べたいと思っていたタイミングである。だから、アモンが新聞と一緒に歌舞伎揚げを持ってきたのを見て、ちょっと嬉しかった。

新聞をさっそく開いて、目を通す。

柊財閥、水族館を買収。

経済新聞の二面に、その記事が載せられていた。

何でも、業績不振の水族館を、柊財閥が買収して、立て直しをはじめたというのだ。改装期間をおいて、リニューアルオープンするという。

買収を実行したのは、この間財界に躍り出た財閥の秘蔵っ子、柊園観。東大を出たばかりだということだけれども、既に財界では話題になっているとか。

彼奴か。

思わず、アガレスは呟いていた。

彼奴は美味だった。

というか、気付いているのだろうか。彼奴が、見た記憶の真相について。まあ、それはどうでもいい。

与えたのは、ある企業が特殊なマニア向けに開発した、3Dプリンタと連動したCADシステム。

アクアリウム専門のオブジェクト製造用で、実際には開発が頓挫。データも破棄されたのを、アモンが拾ってきたのである。

これについては、修復に随分苦労した。

何しろ元々データが破棄されていた上に、3Dプリンタがそもそも作られなかったのだから。

こういった、製造前に破棄されてしまったものを修復するのも、アモンの得意技。

存在そのものの修復、とでもいうべき技。

勿論、人外の技であり、魔術や魔法と呼ぶものに近い。

歌舞伎揚げを頬張りながら、記事について色々とみていく。せっかくなので、ネットでも調べて見ると、面白い事がわかってきた。

ここしばらく、アクアリウム業界が、著しく活性化しているという。

火付け役になったのが、そもそも園観なのだという。

個人向けの、メンテナンスフリーなアクアリウムキットを販売開始。そのおしゃれさから、最初は若い女性層が、続けて男性層がくいついた。犬や猫と違って吼えないし悪戯もしない。それどころか、マンションでも問題なく飼う事が出来る。

アクアリウムにはメンテナンスという問題点があったのだけれど、今回流行っているこれは、その煩わしさを排除しており、故にブームとなっている。勿論、最初はメンテナンスフリーのアクアリウムからはじめて、本格的にのめり込むマニアも続出しているそうだ。

これらアクアリウムには、園観が作り上げたオブジェクト群が用いられていて、それが格安の理由の一つだという。設計もデザインも全部園観がやっているとかで、その辺りの人件費がかからないのだとか。

更に大規模な商売と言う事で、個々の利潤が小さくても、カバーが出来る仕組みになっている。

つまりあの娘。

自分でアクアリウムを知り尽くすまでのマニアになった、ということだ。

そしてここからが問題なのだが。

普通、マニアは一般人と感覚が離れる傾向にある。マニアにこびを売った文化が、いわゆるクローズドカルチャーとなって、他の人間から見向きもされなくなるのも、それが原因だ。

園観の場合は、一般人の感覚も理解しているところが大きい。

事実おしゃれだと言う事で、アクアリウムは大変な人気を博しているのだから。

水族館に関しては、既に事前の評判がかなり高いという事である。何しろ、アクアリウムブームの火付け役がかかわっているのだ。

既にSNSなどでは、この話題が相当に飛び交っている。

ざっと調べただけで、アガレスはその影響の大きさに、驚かされていた。

「もともとスペックは高かったのだし、無理もない。 それにしてもあの娘、完全に薄明の世界に入り込んだな」

「元々ここに来るような子は、大体がそうですよ」

「それもそうか」

他の記事を見てみる。

メンテナンスフリー型のアクアリウムは、他でも話題になっている。

海外でも、西欧などを中心に、展開が予定されているそうだ。似たような事をしている業者もいるようだが、だいたいは採算が合わずに火の車らしい。柊財閥の財力と、本人の卓越した能力でもっている商売なのだ。

柊園観。

今後、アクアリウムの関係者には、ターニングポイントの主導者として認識される存在になるだろう。

ただ、その本人が、どれほどの闇を抱えているかは。

あまり多くの人間は知らないだろう。多分あの様子では、間近で接していた人間や、両親でさえも。抱えている鬱屈は、理解していない可能性が高い。

まあ、それも一興。

そもそもあの闇はとても美味かった。それならば、アガレスは満足。

そろそろ、次の食事もしたい。

「喉が渇いた」

「まずは仕事をしましょう」

けんもほろろな返答を受けて、アガレスは呻くと。

目の前にどっさりと積まれた、アンティークドール用のオーダーメイド衣装の手入れを、はじめたのだった。

 

襤褸が目立つ水族館に足を踏み入れて、園観はまあこんなものだろうと思った。

せっかくの配置が、全く活かせていない。

配置が狭苦しい。

魚の魅力を活かせていない。

何より、照明も足下も、工夫ができていない。水槽の中も殺風景で、見ていて面白くない。

園観自身には、むしろこのような閉鎖的環境は好ましいのだけれど。一般人は、そうではないのだ。

個々で重要なのは、一般人どもがどう考えるか。

ちなみに現在の園観は、一般人を徹底的に軽蔑している。金を生み出すアヒルくらいにしか、今では考えていない。だからこそ、連中を客観的に見ることも出来るのだ。もっとも、口には出さないが。

恐縮している様子の館長に、まずは指示を出す。

既に大学を卒業した園観は、アクアリウム販売の実績を得て、会社を一つ任されている。会社の資金はポケットマネーから出しているから、事実上この会社は、園観の私物といってよい。

つまりは、アクアリウムと同じ。

いつでも好き勝手に出来る、園観の箱庭だ。

ついに、魚だけではなく、人間も好き勝手に出来るようになったのだ。園観にとっては、喜ばしい事である。

いずれ気分次第で蹂躙もしてやりたいけれど。それは、まだ先のこと。今はそうやって遊んでいるほど、力は蓄えていない。

「展示に工夫が足りませんね。 後は、水槽の中身が殺風景すぎます。 私が配置やオブジェクトについて、再設計します」

「は、はあ」

「少し手入れすれば、全く違ってくるでしょう。 元々立地は悪くないのです。 リニューアルオープンの暁には、売り上げが五倍になることを約束しましょう」

「五倍……」

館長が息を呑んだ。

専門家を自称する部下が何名かついてきているが。

此奴らは、アクアリウムの専門家ではあるけれど、一般人の感覚は理解できない、いわゆるディープなマニアだ。

経営面に口出しさせる気は無いし、そもそもビジネス上での期待は一切していない。参考意見を言わせるためだけに、飼っているペットである。

それなのに、アクアリウムの時代が来たと勘違いして、ふんぞり返っているのが滑稽でならない。

頭の悪い犬を飼うような感覚で側に置いている。此奴らも、園観にとっては、何時でも鏖殺できる相手に過ぎなかった。

箱庭は、広がっている。

金が、それを可能にしている。

やがて、この世界全てを箱庭にして。それから、園観は暴君としての本性を明らかにするのだ。

その時に両親は思い知るだろう。

作られた存在が、作り手を完全に越えたことに。

今度は、自分たちが気分次第で鏖殺される側に廻ったという事に。

今ならわかるが、柊財閥なんて、世界規模の軍産複合体に比べれば、ごくごく小規模な存在に過ぎない。

財閥を乗っ取った後は、さらなる巨大経済体を奪う。

やがては、何もかもを自由に出来るようにする事が、園観の望みだ。

リニューアル期間をおいてオープンさせた水族館は、案の定膨大な客足と利益を招いた。元々アクアリウム界に新風を吹き込んだと話題の園観が作り上げた水族館だ。客が何を喜ぶかは熟知している。

利益をことごとく懐に入れた園観は、そのまま柊財閥の他の事業にも食い込んでいき。侵食していった。

両親が気付いたときには。

既に力関係は、逆転していた。

 

財閥本部ビル。

役員のみ入る事を許される会議室で、呆然としている園観の父母。彼らの視線の前では、スーツに身を固めた園観が、笑みを崩さず立ち尽くしていた。

「これにて、役員投票を終わります。 代表取締役会長は、柊園観様に決定です」

淡々と、部下にした役員が告げて。

その時、ようやく園観の両親は、青ざめた。

クーデターを起こされたと気付いていなかったのだろうか。

役員会議で、代表取締役として、園観が就任。股肱の筈の部下達まで、役員投票で園観に入れるのを見て、言葉もないようだった。

まだ三十前の園観が、柊財閥の事実上のトップに、この瞬間立ったのだ。

勿論、園観に言うことを聞かせる仕組みについても、既に解析を終えている。昔だったら隙を見せなかっただろうが、おかしな事に両親は、園観の躍進を喜んでいたようだった。頭が呆けたのだろう。

「今まで有り難うございました、お父様、お母様。 さぞやお仕事で疲れていることでしょう。 老人ホームを用意してあります。 其処で余生をお過ごしください」

警備員が、両親の腕を掴む。

今まで触ることも許されなかった財閥の長が。この瞬間、ただのもうろく老人に転落したのだ。

離せ。

叫ぶ父だが、警備員は容赦しない。

そのまま、引きずるように、連れて行った。

財閥のトップを奪取した園観は、さっそく自分の力を振るうことに決めた。ここまで来たのも、このためだったのだ。

気分次第で、相手を鏖殺できる力。

自分が散々怯えきっていたこの力によって、人間共を押し潰す楽しさ。さっそく、味わうことにしよう。

少し前から、ある最貧国のプラントを買収してある。これはマスコミなどには一切告げていないが、いわゆる奴隷労働が行われている、非人道的なプラントの一つだ。生産しているのはカカオ豆である。

此処を、園観にとっての楽園とする。

足を運んでは、気に入らない奴を殺す。

それが出来るだけの権力が、園観には備わっていた。

さっそく、明日から面白おかしく鏖殺を楽しもう。そう思った矢先の事である。血相を変えた役員が、会議室に飛び込んできた。

「大変です! 新会長!」

「何事です」

「敵対的TOBです! 相手は米国の超巨大軍産複合体! 二千億円以上の資金をつぎ込んでの、一方的な攻撃です!」

「すぐに日銀に連絡を」

恐らくは会長交代の件を、誰かが知らせていたのだろう。或いは、まさか。両親が、うすうす気付いていたのかも知れない。

いずれにしても、好き勝手にはさせない。

この時も想定して、既に準備はしてあったのだ。

だが。

相手の攻撃は、園観の予想を、遙かに超えていた。

一ヶ月ほどの攻防で、柊財閥はどうにかその身を守りきることに成功した。しかし、財産の八割近くを削り取られ、その中には園観のポケットマネーの全ても含まれていた。海外の資本も、全てを奪い取られてしまった。

文字通りの、壊滅。

どうにか相手の攻撃を凌ぎきって。そして気付いたときには。

園観には、何も残されていなかった。

再びクーデターを起こされ。腹心の一人だった男に、会長職を奪い取られたからである。

お情け程度の財産を残され。

そして、路頭に放り出された。

もはや、この状態からの復帰は、不可能だった。

 

自室に戻ってきたのは、いつぶりだろう。

そのままの部屋。

何もかもが変わっていない。

使用人に、そのままにしておくように命令はしていたけれど。此処まで何もかもがそのままだとは、思っていなかった。

離れに行く。

アクアリウムはそのままだ。

お情け程度の財産で、今後も維持は出来るけれど。

小型の水槽類は、全てよそに持って行ってしまった。この大きな水槽だけが。CADで自分で作った水槽のみが。

園観に残された、全てだった。

今でも、園観がごねれば、柊財閥の最後の砦となっているアクアリウム産業を滅茶苦茶に出来るのだから、当然だろう。

園観はあっさり退陣を飲んだ。

その代わりに、此処を残させたと言っても良い。もしそうでなければ、文字通りホームレスになるレベルまで、財産をむしられていたかも知れない。

何も変わっていない。

改めて、水槽を見て思った。

テトラはだいぶ代替わりしているけれど、数は変わっていない。最後に此処のメンテナンスを自分でしたのは、いつのことだろう。

六年前、いや七年前。

その時に比べて、自分は何が変わっただろう。

年だけ取った。

嵐のように働いて。復讐をするためだけに動いて。

そして気がついたら、何もかもを失った。好き勝手に相手を鏖殺することだけが目的で、そのためだけに生きてきたのに。

男女交際どころではなかった。毎日、寝る時間を確保するのさえ、難しかったくらいなのだ。

いつのまにか、アクアリウムを楽しむ事さえ、やめていた。

ブラック企業という言葉があるし、実在もしているが。園観の場合、いつのまにか、自らブラック企業を造り、自分でそうやって働いてしまっていたのかも知れない。

空っぽだ。

気がついたら、何も残っていない。

その上、失敗した。

財産があれば、まだ何か出来たかも知れない。しかし権力を奪われた今、園観に出来る事は、残されていなかった。

自分に出来る事は、全てしてしまった感がある。能力も何も、使い果たしてしまった。

他の人間については、知識もあった。

奴らが持っているものを。

今の園観は、何一つ持っていなかった。此処から、モチベーションなんて、取り戻しようがなかった。

下からアクアリウムを眺める仕組みは、そのままに残っていた。

ぼんやりと、水槽を眺めていると。離れのチャイムが押される。昔だったら絶対に許されなかった事だけれど。

今は、もうそんな権力は、園観には備わっていない。

ドアから出ると、使用人の一人がいた。名前も覚えていないけれど、確かずっと園観の部屋を掃除していた女だ。

「お嬢様、此方が届きました」

「何かしら」

「さあ、私どもにはわかりかねます」

手紙を受け取ると、そのまま下がらせる。

アクアリウムを下から眺められる場所に戻ると、淡い青の光を浴びながら、手紙を開いた。

それは。

両親が、園観に手配したものだった。

とはいっても、手配した日時は十二年も前。

状況を予知していたはずもない。一体何を目的で、今頃手紙が届くようにしていたのだろう。

十二年前というと、高校生だった。

あの頃は、訳も分からない恐怖に後押しされて。両親が言うままに生きていた。あの店に行ったのは、その少し後だっただろうか。

両親は、園観がいつまでも道具でいると思っていたのだろう。

手紙を開いて、中身を見る。

それは、ある研究機関の、紹介文だった。

「そろそろ、お前にも子供が出来るころだろう。 子供が出来たら、この研究機関へ行くように」

子供が、出来たら。

何だか不可解な違和感を覚える。

それにこの研究機関。生体系ではない。どちらかといえば、精神系だ。

人間の精神を研究するものだ。

着替えると、外に出る。もう何も仕事は無い。何もさせては貰えない。余暇がある、ではない。

余暇しかない。

だから、外を歩き回るのも、自由に出来る。

昔は運転手付きの自家用車を使っていたが。今はもう、足で歩くしかない。それはもう、仕方が無い事だ。

黙々と歩いて、駅に。

電車を乗り継いで、研究機関に出向く。

傍目から見ると、ただのビルにしか見えなかったけれど。手紙に同封されていたチケットを見せると、奥に通してくれた。

どうやら国の研究機関らしい。財閥などが御用達にしている、相当な施設なようだった。

研究員が、奥へ通してくれる。

「今日は視察ですか?」

「ええ」

「此処は聞いておられるかも知れませんが、少しばかり特殊な施設でしてね」

エレベーターで、地下二十階くらいまで降りた。

其処は薄明かりに満たされた、薬品臭がする場所だった。ただし、予想していたクローンの培養槽などはない。

あるのは、多分長期催眠用のカプセルの群れ。

中には、子供が多数入れられているようだった。

「あちらの子供達は、洗脳の途中です」

「……」

「あちらの部屋では、そろそろ洗脳が完成します」

「パンフを見せて貰えるかしら」

喜んでと、資料を手渡された。

ざっと目を通す。

そして、愕然とした。

手が震える。

考えて見れば。いや、よく考えれば、おかしかったのだ。どうして気付かなかったのか。

クローン技術の完成など、所詮都市伝説に過ぎない。ましてやデザイナーズチャイルドなんて、SFの産物だ。

二十年以上も前に、そのような事が、出来るわけがない。

此処は、子供に対する洗脳施設。

偽の記憶を植え付けることで、親の都合が良い道具へ変える。主に財閥などの金持ちが、子供に帝王教育を施すため。精神面から子供を改造するために、此処を利用していたのだ。柊家も、その例に漏れなかった。

そうなると、私は。

遺伝子が、両親と一致していないことは、以前調べている。

ならば私は一体、何なのだろう。

研究員が説明を続けているが、頭に殆どは入らない。一体私は、何処の誰で、何のために生きていたのか。

「園観様?」

「何でもないわ、続けて」

「はい。 此処に連れてこられる子供は、大体孤児院で調査を受けて、高い知能や運動能力を備えていると判断された場合が多いようですね。 最近は財閥なども考えていて、自分の子孫の能力が足りない場合を見越して、こういった場所で跡継ぎを調達するようなのです」

ぞくりと、背筋に寒気が走った。

それでは、両親が園観に取っていた態度も、ことごとく納得がいく。理屈があう。

デザイナーズチャイルドなどではない。

園観は、どこぞの誰かが産み捨てた子供。孤児院に捨てられて、両親によって買い取られた、誰のものともわからない種。

しかも、帝王教育がやりやすいように。

此処で記憶を消されて、植え付けられて。

今まで、その植え付けられた憎悪から来るトラウマに押されて、ただ暴走していただけだったのか。

乾いた笑いが漏れてくる。

そうか。

私は最初から、滑稽なマリオネット以上でも以下でもなかったのか。

嗚呼。

何のために生きてきたのだろう。

嘆きは、何処にも届かない。

 

研究所を後にすると、自宅に帰る。

そして、カミソリを用意した。

アクアリウムを眺めながら、園観はぼんやりとする。手首を切ろうかと思ったけれど、そんな気にさえならなかった。

生きてきた意味。

生きてきた価値。

何一つない事が、はっきりわかってしまった。

もはや、気分次第で鏖殺できるのは、自分だけになってしまったというのに。そんな気さえ起こらないなんて。

魚たちは何も言わない。

気分次第で自分を鏖殺できる存在に飼われてきたのに。

ただ、それだけが目的で、園観が飼ってきたのに。

何ら文句は言わない。

いや、そもそも彼らにとっては、園観などどうでもよかったのだろう。犬や猫のようにベタベタしてくるわけでもない。ただ、見ているだけのペット。責めもしないし、愛することもない。

園観がそうであったように。

魚たちも、餌と住処だけがあればよいのだ。

小さな世界。

箱庭。

それは、園観にとって、結局何だったのだろう。

数日を過ごす。

離れから出てこない園観に、使用人達は流石に心配したようだけれど。四日目になって、園観が姿を見せて、安堵する者がいるようだった。

おかしな話だ。

園観なんて、死ねば良いと思っていただろうに。此処で死なれると面倒だから、だろうか。

食事だけ適当にすると、もうそこしか無い、園観の居場所に戻る。

箱庭を見つめていると、心が少しずつ、ほどけていくのがわかった。

魚は何も考えずに、ただ生きているだけ。

原始的な頭脳には、それで充分。

人間である園観は違う。だからこそ、色々とおかしなこともある。妙なトラウマに振り回されて、親ともども人生を台無しにしてしまったのかも知れない。

涙が零れてきた。

何もかもが、無駄だったのだとわかって。今までの苦労も努力も、すべてが水の泡だ。

感情を制御する訓練を積んできたのに、涙が止まらない。

誰にも素の表情なんて、見せたことがなかったのに。此処ではどうしてだろう。どれだけ泣いても、泣き足りなかった。

真の絶望とは、このことなのだろうか。

園観には、いずれこの水槽もなくなる。財閥を乗っ取ったあの男は、どうせ財閥など維持できない。

そうなれば、お情けで残されているこの水槽だって、いずれどこぞの誰かにとりあげられてしまうだろう。

手を伸ばす。

魚たちが、ただオブジェの一つとして、園観を見ているのがわかった。むしろ、感情を込めて魚たちを見ていた園観の方が、おかしかったのかも知れない。

涙を拭う。

何もかもが、流れ落ちた気がした。

 

また、離れのチャイムが押される。

外に出ると、使用人がまた、手紙を持ってきていた。

海外からのものだ。英語ではなくて、フランス語である。

何でも、園観のデザインしたアクアリウムを高く評価しているとか。此方でデザイナーとならないか、というものだった。

デザイナーか。

結局、園観に残されたのは、我が身とアクアリウムだけ。

誘いが来た今、それもまた、一興かも知れない。

どうせ死んだも同じ身だ。

これから何処で死んでも、同じだろう。

CADのシステムと3Dプリンタを片付けて、段ボールにしまう。そして、フランスの企業に、OKの返事を出した。

フランス語くらいなら喋れるし、再出発をするには、日本ではない方が良いかも知れない。

もはや、惜しいとおもうものもない。

水族館に、アクアリウムを丸ごと寄付するように指示。使用人に、後の作業は、全て任せてしまう。

飛行機のチケットを取ると、ふと思い出して。そして、頭を振った。

いつの間にか、憎悪は。

園観の中から、消え失せていた。

アクアリウムが、好きだ。

漠然とした思いだけが、残っている。

あれほど屈折した愛情が、昔は園観を突き動かしていたのに。

今は、思うままにアクアリウムを作って見たい。ただ、そうとだけ、考えていた。

 

(続)