暗黒雑貨混沌店

 

プロローグ、都市伝説の店

 

ある時期から、ネットに不可思議極まりない情報が流れるようになった。

それによると、都心の一角に、妙な店があると言う。

一階は新古書店。

二階はゲーム屋。

そして、あり得ない筈の三階に、その店があると言うのだ。外から見ると、どう見ても二階建てだというのに。

その店の外観写真もアップされた。どう見ても二階建て。しかし、三階には、確かにその店があるという。

不可思議な噂は、消えずに根強く残る。

店の写真と呼ばれるものも、一つ二つとアップされた。どれも違ったが、中にはどう見てもただの民家というものもあった。

何故、この不思議なお店の話は、ネットにアップされ続けたのだろう。

それは、この店の性質にある。

売ってくれるというのだ。来訪者が、その時一番欲しいものを。

ある情報発信者は、数万の値がつく超レアゲームソフトを、此処で入手したと言っていた。

またある発信者は、歴史的にも価値がある古文書を此処で入手したとさえ言っていた。

中には、奴隷を手に入れたと、どや顔で報告している者さえもいた。

警察も捜査しているらしいと噂が流れる。

しかし、そもそも存在しようがない店だ。

ネットユーザーの大半も、店があるなどとは、思ってはいないようで。ただ祭だと思って、おもしろがって噂の拡散に協力している様子が、ありありとうかがえた。

だが。

その噂を、嘘ではないと思っている者達がいたのである。

彼らは、情報を集めて、店の実在を確認しようとしはじめた。店のある場所を特定するべく、足を実際に運ぶ者まで出た。

やがて、幾つかの検証サイトまで作られ、噂が固まりはじめた。

噂が固まると、今まで笑い飛ばしていた話が真実味を帯びていく。やがて、様々な付帯情報も拡散されていった。

店は、実在する。そう、噂では結論していた。

ただし、普通の方法では、入る事が出来ない。

店に入るには、どうすればいいのか。

書き込みで、検証サイトは溢れた。

SNSや大手の掲示板でも、専用の板が建てられた。

しかし、おかしな事に。

店に実際に入ったという者は、一切姿を見せなくなった。店の噂が出始めた当初は、あれほどあふれかえっていたというのに。噂はそれで下火になったか。それは否だ。ただし、何処かで噂の拡散を妨げる、何かがあった。

検証サイトも一つ消え二つ消え。

そして、噂はネットの海に埋没していった。

それでも、噂は消えない。

そればかりか、むしろ熱心なファンが、根強く自説を主張していくほどに、強く濃くなっていく。

噂が「店」と呼ばれるようになるまで、最初の情報が出てから、さほど時間は掛からなかった。

たまに「店」に入ったという人物が現れると、噂は再燃する。

さながら、本当に噂が、真実であるかのように。

 

ぼんやりと頬杖をついて、黒い影がPCに向かっている。

周囲にあるのは、クラシックな木時計。様々なアンティークドール。鉄道模型にプラモデル。

古いものばかりではない。

マニアが見たらよだれを流すような、レアゲームの数々。ゲーム機も、封を切らずに置いてある。

黒い影は、机に向かって、一心不乱に指を動かしていた。

影は小柄だが、それでも体の凹凸ははっきりしていて、女性だと言う事が一目で分かる。髪は黒く、ひたすらに長い。座っているとは言え、床にまで完全に届いていた。机はマホガニーだが、黒い影が床に直に座ってPCをたたいている事からもわかるように、背丈は低い。

「アモン、お茶」

「はいはい、ただいま」

その辺りのメイド喫茶から抜け出してきたような、可憐な娘が、即応。しばし、古いものだらけの空間に、茶を淹れる音が響く。メイドは髪を短く切っているが、顔立ちは整っていて、相対するととても柔らかい雰囲気を感じる。背丈もさほど高くなく、一方で体つきは大変に平坦だった。

紅茶が運ばれてくると。

黒い影は口から、棒付きの飴を取り出して、茫洋とした。着込んでいる黒い服は、一点の白もない闇そのもの。

ただし肌の色はごくごく健康的。瞳も青だの金だのではなく、ごく普通の黒だ。

左手に飴を持ったまま、右手に紅茶を。

しばしふーふーと息を吹きかけてから、紅茶を啜る。

また飴を咥えると、黒い影はひたすらに、キーボードに指を踊らせ続けた。小さな指が、キーボードをリズミカルに踊り廻る。

「また検証サイト潰しですか?」

「あー」

「口にものを入れたまま喋ったらいけませんよ」

これも仕事だ。

何もしないでいると、頭が腐る。

そう言われて、少しは動こうと思って作業を始めた影だが。潰しても潰しても湧いてくるので、正直面倒くさくて仕方が無い。

しかも仕事をしないと周りにがみがみ言われるので、面倒くさいと思いながらも、しぶしぶ作業をしているのだ。

此処は、影が作った店。

一階には新古書店。

二階にはゲーム屋。

そして、三階。あり得ない三階が、此処なのだ。

場所は東京の端っこ。

此処は、本来はあり得ない場所。一階も二階も、実際には店ではない。影が置いている番犬であり、邪魔者を避けるためのトラップだ。影よりも立場が下の者が配置され、余計な者が入ってくるのを防いでいる。

「お客、来ませんねえ」

メイドがぼやく。

来ないようにしているのだから、当然だ。

此処には、資格のある者だけが入れる。

影にも有用な相手だけ。

しかし、相手にも、相応の報酬が出る。

サイトを潰し終わった。HPにハッキングして、データをクラッシュしてやった。アクセス経路も逆にたどって、作り手のPCもクラッシュさせた。これで、今の時点では、残った検証サイトはない。

ぱたぱたと、影は足を動かす。

飴をなめて糖分を補給するが、これで仕事が終わってしまった。

飴を口から出して、お茶をひと啜り。

ため息が漏れた。

「これで休んで良いよな」

「監視は専用のツールを動かしますから良いとして、そうですね。 ご主人様には、コレクションのお手入れをしていただきましょうか」

「ちょっとまて、それはお前らの仕事だろう! 何のために私が、働きたくもないのに、お前らの居場所をわざわざ作ったと思ってる!」

「どうせお客は来ませんよ。 それなら、少しは手を動かした方が、頭が呆けるのを防げるというものではないのですか?」

メイドの正論極まりない言葉に、ぐぎぎぎと影は子供っぽく歯ぎしりする。そして一気に茶を飲んで、吹いた。

熱すぎて、舌を火傷したのだ。

涙目になる影に、メイドは情け容赦なく言った。

「まずはこれをお願いします」

未開封のプラモが、机に積まれる。

座っている床は、畳。

正確には、影が座っている所はカウンターになっていて。其処だけが、畳を敷いているのだ。後は木張りのフローリングである。

店の壁側には棚が並んでいて、其処に商品が納められている。問題はその棚の高さ。六メートル以上もあり、この店の異常な天井の高さとあわせて、不可思議な雰囲気を造り出していた。

プラモの埃を丁寧に拭いはじめた影に、メイドは言う。

「今日中に、三十箱お願いします」

「鬼!」

「悪魔のくせに」

「お前だってそうだろうが! 私よりお前の方が、よっぽどタチが悪いわ!」

ぶーぶー文句を言いながら、飴を再び口に突っ込み。

影は、作業に戻った。

ネットの噂に浮かぶ、闇の店の主は。

今日も文句を言いながら、仕事をしている。とても厳しいメイドは、店の主を一切甘やかしもせず。

仕事を減らしもしないのだった。

 

1、一握りの勇気を絞って

 

部屋の外が、まるで悪夢の集積体のように思える。

今年でひきこもり二年目。

外に出るのが、怖くて仕方が無い。

だが、それでも。

店の場所が確信できた以上、行って見たい。そう、弘兼直人は思った。だからこそ、必死にパジャマから着替えて、部屋の外に出ることにした。

親は既に直人のことを諦めている。

それも、悲しかった。

高校二年の時、直人はイジメに遭った。

暴力を伴った酷いイジメだった。しかし、学校はイジメを行った人間を庇い、事件を表沙汰にしなかった。調子に乗ったいじめっ子は直人に対して、金を持ってくるよう要求。断ると、更に酷い暴力を振るった。

結局階段から突き落とされたことで、入院。流石に隠しきれなくなった学校側は、示談金を持って親の元を訪れたが。イジメを行った生徒を罰することもなく、結局隠蔽に動くだけだった。

学校に絶望した。

それよりも、単純な恐怖で、家の外に出られなくなった。

三人がかりで気弱な直人に殴る蹴るの暴力を加え、階段から突き落として、血だらけになった様子を笑っていた連中が怖い。

それをもみ消して、平然としている学校も。

誰か、友人がいれば立ち直れたかも知れない。

いや、どうだろう。

あんな暴力沙汰を起こして反省もしていないような連中に、対抗できたような友人はいたのだろうか。

埃だらけの部屋着を着る。

部屋の外から投げ入れられるだけのパジャマを着込んで、ずっと生活してきた。最初の内は、学校から解放されたと思って嬉しかったけれど。今はもう、取り返しがつかないことは、わかっている。

だからこそ、都市伝説に賭けてみたいのだ。

部屋のドアに、手を掛けようとする。

手が、震えた。

視界が歪む。

立とうとして、二度失敗する。

呼吸を整えた。部屋の外に出るのは、トイレに行くときだけ。それ以外で、親とさえ顔も会わせない。

PCは一世代前の型式。

ネットも遅い。

だが、直人は、流石に自覚している。親が泣いていることくらいは。だから気晴らしにネットをすることはあっても、課金を必要とするMMPRPGの類をする事はなかったし、ゲーム機やソフトを欲しがったりもしなかった。

学生の本分である勉強をしている訳でもないのに。親から金をもらうなんて事は、直人には出来なかった。

わかっている。

こういう生真面目な所が、直人を追い詰めていったことは。他のニートのように、むしろ開き直ってしまえば、楽だったのかも知れない。だが、性格的に、どうしても出来なかった。気がついたときには、取り返しがつかないことになっていた。

ドアに、手を掛けて。

そして、開けた。

呼吸を必死に整える。

一歩を歩くだけで、どれだけ気合いを必要としただろう。洗面所に出て、髭を剃る。髭なんて、何日も剃っていなかった。

廊下に出るだけで、これだ。

階段を下りて一階に下りる時なんて、何度も倒れそうになった。

顔を洗って、ぼさぼさの髪の毛を整える。

居間には、誰もいない。

今は、両親共に、仕事に出ているのだから当然だろう。何度か呼吸を整える。鍵を出す。これだけは、場所を覚えている。

玄関に出る。

そこからが、また一大事だった。

さっき、部屋を出ようとした時の比では無い。

フラッシュバックする。殴られ、蹴られ、唾を吐きかけられ。髪の毛を掴まれ、周りが笑っている中、暴力を振るわれたときのことが。

痛い。

助けて。

女子も男子も、皆笑っている。

この時、思い知らされた。人間は自分の事じゃなければ、何が起きても楽しく傍観する事が出来るのだ。

他人の悲しみは、蜜の味として楽しめるのだ。

ヒーローなんて、漫画の中にしかいない。

教師も学校も、保身のために自分を見捨てた。怪我をしても、誰一人見舞いに来ることなどなかった。

呼吸を整える。

何度も、何度も。

一度玄関で座って、体制を整えた。

何度も何度も、確かめたのだ。

最初にネットで、「店」の事を知ったのは、一ヶ月前の事。ぼんやりとネットを徘徊していたら、たまたま都市伝説を扱うサイトに行き当たった。

何もすることがなかったし、そのまま調べていると。其処では、望むものが手に入るという情報が得られたのである。

まさか、そのような話がある筈もない。

最初は笑い飛ばしたのだけれど。その後また、たまたま変な情報に行き当たったのである。

レア中のレアゲームを、実際に持っている人間が、この店で手に入れたと証言していたのだ。

そのゲームが如何にレアかは、直人もよく知っている。

現在では五万をくだらない値がついているという、伝説的なソフトだ。しかも未開封品で手に入れたのだという。

実際に、ネットオークションなどで出回れば、三十万以上の値段がつくのではあるまいか。

それで興味を持って調べていくと。

幾つかの切っ掛けを経て。

得た。決定的な情報を。

店に入る方法。

店で、買い物をする方法。

その情報を得たときは、何度も目を擦った。信じられなかったし、何よりも可能性を、ずっと否定されてきたからだ。

やり直せるかも知れない。

本当に、必要なものが手に入るのなら。

どのみち、高校の二年を棒に振った直人には、未来がない。このまま生きていても、ろくな就職先なんて、見つかるはずもない。このままでは、年ばかり無駄に取っていって、気がつけば取り返しがつかなくなっている。今でも取り返しがつかないが、それ以上の悲惨な状況だけが待っている。

親も今後は泣かせるばかりだ。共働きで稼いでくれている親に、申し訳ないという気分がある。

ドアを、開ける。

外の光がまぶしい。外に、彼奴らがいるのではないのか。そんな恐怖が、直人をずっと襲っていた。

自分の呼吸の音がうるさい。

何度も目を拭った。

そして、ようやく。自分が裸足である事に気付いた。

こんな事まで、わからなくなっていたのか。外に出るのは、靴下をはいて、靴を履いて。それだけの事が、出来なくなっていたのか。

一度常識から外れてしまうと、こんなにも復帰が難しいのか。

嗚呼。

嘆きが天に流れる。ただ、絶望だけが、直人の全身を覆っていた。だが、それは、打破しなければならない絶望だ。

屈していていいのか。

唯一の希望が見えたのに、すがりつかなくて良いのか。

言い聞かせる。腹が痛くなる。プレッシャーで、全身が軋むようだ。それでも。それでも。それでも。

直人は、行くと決めたのだ。

 

靴下をはいて、靴を履いて。

外に出て、何度も周りを見た。完全に不審者だ。他人と目をあわせるのさえ嫌だった。誰もが、直人の敵だった。いつ周囲から暴力を振るわれてもおかしくないとさえ、考えるようになっていた。

学校は、絶対に行きたくない。

もしも手に入れるとしたら。今後の就職先だ。

中卒でも働けて、最終的には年老いた両親を養えるくらいの就職先。

直人だって、知っている。

今時、普通の人は、中年になっても精々年収は400万。其処まで行かない人も、たくさんいる。

生涯賃金三億なんて時代は、とっくに終わってしまっている。

楽では無くてもいい。

ただ、虐められずに、働ける仕事が欲しい。

だから、お店に行く。何か、そういった仕事に就けるだけのものが貰えれば、それでいい。

駅まで、歩く。

ほんの少し歩いただけで、めまいがしそうだった。

何度も座り込んで、体調を整える。まだ朝なのに、こんなでは、夜までにたどり着けるだろうか。

たどり着いても、帰ってこられるだろうか。

ただ歩く。

それだけの事で、これほど力を消耗するなんて、思ってもいなかった。

もう、今日は帰ろうか。

外に出ることが出来ただけで、充分だ。

そんな悲しい事を、何度も考えてしまう。でも、思い出す。あの時、思い浮かんだ希望を。

どうせこのままでは、自分は一生屑のママだ。

それならば、外に少しでも出る努力をしたい。

学校には、もういけない。いこうと思えないし、何より行った所で、今度こそ殺されるのが目に見えていた。

駅に着いた。

此処までで、どれだけ体力を使ってしまったのだろう。

ベンチでしばらく休む。

小遣いはない。途中、なけなしの通帳から、下ろせるだけ下ろしては来た。往復の電車賃くらいはどうにかなる。

どのみち、隣の隣の駅だ。

或いは、最悪の場合は、歩いて帰ってくれば良い。両親を困らせるかも知れないが、タクシーを使う手もあった。

電車が何両か通過するのを見てから、立ち上がる。

電車に乗るのも、実に二年ぶり近い。どうやって乗るのか、覚えていないのではないかと、来る際に不安さえ覚えていた。

だが、それでもどうにかここまで来たのだ。

電車が来た。

以前は一分一秒を惜しんでいたというのに。今では、電車に乗ることだけで、この有様だ。

幸い、人は殆どいない。

直人を見て、不思議そうにする人もいなかった。今時、高校生が学校をさぼる事なんて、普通なのかも知れなかった。

しばらく、電車に揺られる。

一応部屋には、近所のお店に行くと、書き置きは残してある。

誰にも、学校の人間に会いませんように。

祈るしかない。今の時間は、本来だったら、誰も学校の同級生はいないはずだ。今日は火曜日だし、遭遇する可能性はない。

それでも、怖くて仕方が無い。

もし見つけられたら、殺される。

彼奴らが、逆恨みしないはずがない。自分たちで直人を半殺しにしておいて、イジメはされる方が悪いとか言う理屈を振りかざすのは目に見えていた。彼奴らは話によると、転校させられたらしいけれど。

両親の話だ。それも何処まで信用できるか、わからない。

駅を一つ通り過ぎた。

次の駅だ。

つり革にぶら下がっていると、吐きそうになった。電車に揺られていると言うだけで、気持ち悪い。

如何に今まで、怠けた空間でぬくぬくとしていたのか、よく分かる。

何度も、意識を失いそうになった。

周囲の視線が、ただひたすらに怖い。

自分を刺し殺そうとしているのではないのか。彼奴らを呼んで、全員で袋だたきにしようとしているのではないのか。

此奴らが直人を殺しても無罪になって。自分はただ歩いているだけで、逮捕されるのではないのか。

絶望が、心臓をわしづかみにした。

ドアが開く。

飛び出すように、電車から逃げ出した。涙を何度も拭う。怖かった。これ以上、電車には乗りたくなかった。

店は、駅のすぐ側だ。

此処は都心と言っても端っこ。一応それなりに栄えてはいるけれど、人はそれほど乗り降りしない。

駅を出ると、それでも。

相当な人が、行き交っていた。

店については、わかっている。駅の出口も間違えていない。何度か、それでも旧式のガラケーを開いて、地図を見た。

辺りの光景が、ぐにゃりと歪む。

ただ、歩いているだけで。これほど怖いなんて。昔、中学を卒業したときには、考えもしなかっただろう。

髪を金髪に染めている奴や、いかにもな服装をしている、怖いのもいる。

路を通っていると、直人の事を見ている場合もあった。

怖い。

何かされるのでは無いか。ひたすら、身を縮めて歩くしかない。しばらく歩いて行くと、あった。

新古書店だ。

建物は、明らかに二階建て。

まずは、ここに入らなくてはならない。

何度か躊躇った後、ドアに手を伸ばす。自動ドアだったから、触らなくても勝手に開いた。

呼吸を整える。

これだけのことで、どれだけ苦労しているのだろう。ただ、店に入るというだけなのに。滑稽なのかも知れない。

歩くだけで。

息をするだけで。

店に入るだけで。

これだけ苦しいと、以前は想像できただろうか。とてもではないが、想像なんて、出来なかった。

ニートの絶望は、なってみないとわからない。

だが、この絶望から、立ち上がりたい。そう思って、ここまで来たのだ。

直人は生唾を飲み込むと、前に一歩を踏み出す。そして、自動ドアが導いてくれた店に、入り込んだ。

 

新古書店。各地の本屋や古本屋を潰した元凶とさえ言われているが。しかし実際には、通販の方が更に大きな問題を発生させているようにも思える。

少なくとも、直人はそう感じていた。

中に入ると、ずらっと並んだ本棚に圧倒される。

前はこんな光景、別に珍しくもなかったのに。二年近く外に出なかった今は、不思議にさえ感じた。

カウンターに立っているのは、長身の無精髭が目立つ男性。他に、非常に背が低くて、ドングリ眼の可愛らしい女の子も働いている。だが、ぞっとした。直人にとって、同年代の人間は、全部虐待者だ。性別なんて、関係無い。いずれもが直人に対する暴力と暴虐に荷担した。

二度と関わり合いになりたくない。

しばらく周囲を歩き回って、階段を確認。

いろいろな広告が貼ってある階段を上って、二階に出た。

二階は新古書店と同じだけの広さに、ゲームが多数販売されている。一部は、ゲームの攻略本が置かれているようだ。広さは相応にあるし、ざっと見たところ、かなりレアなゲームも置かれている。無駄な知識ばかり増えた。だから、そんな事ばかりわかるようになっていた。

ただし、今の直人には、手が届く品はない。

今持ってきているお金は、人生を左右するものなのだ。

両親が泣いているのを、知っている。

それをどうにもできない自分だって、ふがいなくて仕方が無い。

そもそもこのままでは、まともに生きることだって出来ない。それならば。

宝くじに、かけるようなものなのかもしれない。

だが直人が出来るのは、これくらい。

今の時代、ニートはなった奴が悪い。根性がないからニートになる。そんな論調が、まかり通っている。

イジメで人の人生を滅茶苦茶にしたクズたちは、好き勝手に振る舞い続けて。

そして被害者である直人は、人生が終わったも同然。

口惜しい。何よりも悲しい。逆転したい。

だからこそ、ここに来たのだ。

二階には、階段はない。だが、それは最初からわかっている。この店で、ある事をすると、三階へ行けるのだ。

ゲームショップのカウンターにいるのは、二十歳前後のお姉さん。

ふわふわした髪で、豊満な体。おっとりした雰囲気と、随分癒やされそうな印象の人だ。だけれど、今の直人では、話しかけるのさえ怖い。

お姉さんが一度此方を見たけれど。知らないフリをした。本当に怖い。噛みつかれるのではないかと思って、気が気では無かった。

呼吸を整える。

幸い、客は殆どいない。

それに、怪しまれるようなことでもない。

まず、同じ列に、人がいない状態を待つ。これは満たされている。

棚には数字がふられている。この数字をよく見る。そして、13の棚へ移動。13、13。数えながら行く。

13を見つけた。

此処で、三回、任意のゲームソフトを出し入れする。

その後、トイレに行く。

二階の奥の部屋に、トイレがある。これで、三階へ行けるはずだ。

生唾を飲み込む。

もし、騙されたのだったら、どうしよう。

それっぽい言葉に乗ってしまっただけで。実際には、この先には、何も無かったら、どうすればいい。

調べたところに寄ると。

これで、ドアから出ると、周囲の光景が変わっているはず。

ドアの中で、ぎゅっと身を縮める。

彼奴らがドアの外にいて、待ち構えていて。そしていきなり直人を蹴り倒して。血だらけの床に這いつくばった直人を、嬉々として殴り殺す。

血まみれになった直人に、彼奴らは言うのだ。

「ばーか、そんな都合の良い話、あるわけねーだろーが!」

「よくもてめーのくだらねえ命なんかで、俺たちの学歴を汚してくれたな! たっぷり礼はさせてもらうからな!」

「此処で殺せば、誰も助けなんかこねーんだよ! 山の中に埋めてやるからな、そう思え、屑っ!」

我に返る。

全身に、冷や汗を掻いていた。

彼奴らの一人が、後でメールを寄越したのだ。絶対に殺すと、メールには書かれていた。両親に見せたけれど、その後どうなったかはわからない。両親は転校させたとか言っていたが、本当かはわからない。

彼奴らは。

直人を殺すつもりだ。

ドアを開けると、彼奴らがいるのではないのか。悲鳴を食いしばって、目を閉じる。頭を抱える。

どれだけ、時間が経ったのだろう。

ドアに、手を伸ばす。

手が震える。

足も。

立ち上がって、まっすぐに見据える。彼奴らがいたら、悲鳴を上げれば良い。できる限り、肺から、絞り出すように。

手を伸ばして、ドアノブを捻った。

そして、前に出る。

其処は。一歩を踏み出した先には。先ほどまでと、明らかに違う光景が、確かに広がっていた。

見回す。トイレは、変わっていない。しかし、何か雰囲気が違う。外へ出てみると、二階ではなかった。

窓がまずない。

周囲にあるのは、非常に背が高い棚。天井も、異常に遠かった。

勿論、トイレの外はこんな場所ではなかった。出口を間違えたのではない。二階は、外から見えたとおりのスペースを、内部に確保していたからだ。

天井近くからぶら下がっているのは、シャンデリアだろうか。こんなものが実用で使われているのは、はじめて見た。

棚には、見た事もない品々。

いや、そうでもない。

非常に古そうなプラモデルの数々。貴重そうな古文書。それにまじって、ゲームソフトが陳列されている。

しかも、ファミコン時代から、最近のハードのものまで、様々だ。

非常に背が高い棚なのに、何処も品物で埋まっている。相当に儲かっているのだろうか、或いは。

これほどの在庫、大手の通販ショップの倉庫でさえ、簡単にはそろえる事が出来ないだろう。

思わず、辺りを見回してしまう。

「何だ、不健康そうなのが来たな」

思わず、背筋が伸びる。

声がした方を、おそるおそる見た。だが、建ち並んでいる棚の向こうだ。

そっと、覗き込んでみる。

其処は、おそらく店のカウンターなのだろうか。隅っこの方が、少しだけ畳が敷かれていて。その上に、机。しかも重厚そうなマホガニー。

そのマホガニーに突っ伏して、ぐったりした様子の黒髪。髪は長くて綺麗なのに、無造作に机の上で広げられている。

つまり、髪の長い誰かが。

机に突っ伏して、ぐったりしているという事だ。

距離を取ったまま見ていると、もたもたと顔を上げる誰か。

眠そうに目を擦っている手は小さい。

噂に聞いたのだけれど。

此処の店主は、十代前半くらいに見える女の子だという。

直人が見たところ、中学一年生くらいか、もう少し上だろうか。少し童顔で小柄だけれど、出る所は出ているし、女性らしい体つきである。

顔立ちも整っていて、さながら人形のよう。見かけがかなり幼いこともあって、どうにか話す事だけはできそうだ。同年代だったら、きっとこの場で固まってしまっただろう。

ただし、相手は好意的とは言いがたい。その目は非常に面倒くさそうに此方を見ていて。そして、おもむろに、棒付きの丸い飴をくわえた。

「こっちに来い。 其処じゃあ、話もしづらい」

「あ、はい」

「アモン、座布団」

「はいはいー」

不意に現れた、とても綺麗なメイドさん。座布団を敷くと、直人を押していって、無理矢理座らせる。

凄く力が強い。

あれよあれよという間に、直人は店主らしい女の子と、座って相対していた。

流石に随分年下と言うこともあって、緊張はしなかったけれど。ただ、怖い事に、変わりはなかった。

「この店に来たと言うことは、何か求めるものがあるというわけだな」

「ええと……そ、その……」

人と喋るのなんて、いつぶりだろう。

怖くて、声がしどろもどろになってしまう。ため息をつくと、女の人は、横に控えているメイドさんに言う。

「アモン、寝てて良いか」

「駄目です」

「なんだよー。 だって明らかにこの坊主、話すのに時間掛かるぞ。 お前メモっておいて、後で私に見せろ。 そしたら仕事する」

「駄・目・で・す」

さっき以上に厳しい口調。

笑っているけれど。メイドさんの言葉には、どうしようもない圧力があって。女の子は呻くと、口から棒付きの飴を出した。

健康そうな肌色の指先に握られた白い棒。その先についている飴は、半分以上、まだ残っていた。

「時間も掛かりそうだし、先に自己紹介でもしておくか。 私はアガレス。 この店の主人だ」

「は、はい。 ぼく、は。 弘兼直人といいます」

「そうか。 喋るのが苦手そうだな。 その様子だと、引きこもりか。 今はニートとかスネップとかいうんだったな」

ずばり言われる。

アガレスと名乗った女の子は、また飴を口に突っ込んで、顎をしゃくる。

此処の店に来た理由を言えというのだろう。

ここまで来て。黙っているわけにはいかない。

しかも、都市伝説が本当であることが、わかっているのだ。噂通りに、ある筈がない三階に、今来ているのだから。

失った全てを取り戻す事が出来るかも知れない今。

勇気を絞らなければ。ここまで来て、わずかな光にすがったことが、何もかも無駄になってしまう。

何度も呼吸を整える。直人は大きく息を吐くと。何故ここに来たのかを、アガレスに話し始めたのだった。

 

2、時を取り戻す道具

 

一時間ほども、話しただろうか。

アガレスは退屈そうにしながらも、話そのものは聞いてくれた。直人の話はとても下手で、声も上擦っていて。彼方此方に話も飛んで。何よりも、相手の目なんて、話すときに見ることが出来なかったけれど。

アガレスは怒ることもなく。

時々新しい飴を口に突っ込んでは、話を聞き続けてくれた。

相手も頬杖をついて話を聞いていたけれど。それでも、直人の話を聞いてくれただけで、嬉しいかも知れない。

「ふーん。 なるほどな。 イジメが切っ掛けで引きこもりになって、二年が無駄に過ぎて。 このままだと社会の落伍者として一生惨めに過ごすだけなのが嫌だから、どうにかしたくて、都市伝説を追ってこの店を探し出したと」

「は、はい! そ、そんなところ、です」

「ふーん。 アモン、料金は徴収できそうか」

「ええ、問題ないでしょう」

しばしアガレスは、指先を机の上に走らせて、丸を書いていた。

何をしているのかはよく分からないけれど。

そろばんでも弾いているように無駄がなかったから、或いは何かしらの意味がある行動なのかも知れない。

「どうしてお前みたいなニワカが、この店にたどり着けたと思う」

不意に、変なことを聞かれた。

直人が小首をかしげると、アガレスは面倒くさそうに。さっきから常に面倒くさそうだけれど、更に輪を掛けて気だるそうに言う。

「餌を撒いてあるからだ」

「餌、ですか」

「そーだ。 この店では、日本円なんて使えない。 まあ、世界的に見て極めて信用度が高い通貨ではあるが、別のものを払ってもらう。 その払えるものを持っている奴が、此処にたどり着けるように、餌を撒いてあるんだよ」

「アガレス様は、いわゆるウィザード級のハッカー並みの実力があるんですよ」

面倒くさくて働くのは嫌だがなと、アガレスがメイドさんの言葉に付け加える。しかしまあ綺麗なメイドさんで、ほれぼれするほどの美しい人だ。時々視線をそちらにやってしまう。

メイド喫茶などと違って、きっと本物なのだろう。

しかし、この国でメイドなんて雇っている人が実在するなんて、とても信じられない事だった。

この人は名前からして、どこの国の人なのだろう。ドイツとか、イタリアとかだろうか。フランスではない気がする。

確かに顔立ちは何というか、日本人ぽくない。ただ喋っているのは、とても流ちょうな日本語だ。

「あー、ともかくだ。 お前には、料金を払ってもらう」

「お金じゃないとすると、何を、すれば」

「お前の過去の記憶を見せろ。 できるだけそれが歪んでて、闇に満ちている方が、私好みだし、いいものを提供できる」

「え」

顔を上げると同時に。

アガレスの手が伸びてきて、直人の顔を掴む。

凄まじい指の力で、頭蓋骨が軋むかと思った。

意識が、消し飛ぶ。

 

イジメに遭った切っ掛けは、何だったのだろう。

ぼんやりと、落ちていくような空間で、直人は思い出していた。

そうだ、それは。

学校の側で、あれを見つけてしまったことだ。

見てしまったのだ。

イジメをしていた連中が、子猫を殺していた。多分飼い主が捨てていった子猫だったのだろう。

イジメの主犯格が、カッターで、震える子猫の手足を切り刻んでいた。

鋭い悲鳴を上げて逃れようとする子猫。

だが人間の力は圧倒的だ。

柔らかい。

切り刻むのが楽しい。

そんな事を、イジメの主犯格はほざいていた。

あまりにも酷い。見ていられなかった。だが、足が竦んで、出て行く事なんて、出来なかった。

思えばこの時、警察を呼べば良かったのだろう。動物虐待の現行犯で、彼奴らは少年院に送られた。

それなのに、どうしても足が竦んで、どうにもならなかった。

やがて子猫の首を落とした主犯は。ばらばらに切り刻んだ亡骸を踏みつぶして、けらけら笑った。

そして。

見られた。

「ふむ、絵に描いたような屑だな」

アガレスの声がする。

そうか。この記憶は、アガレスに見られているのか。

直人は、この時から、イジメグループに目をつけられた。毎日手酷い暴力を加えられて、それでも最初は耐えていた。

罪悪感があったからだ。

どうして此奴らの凶行を止められなかったのか。悲鳴を上げてもがく子猫の様子が、脳裏によぎる。

だから、抵抗できなかった。

殴られても蹴られても、どうにもできなかった。授業中でさえ、暴力が振るわれることはあった。教師はずっと、見て見ぬフリをしていた。周りは最初こそ怖がった。だが、やがて。

いじめグループに、迎合して。

暴力と虐待の宴を、楽しむようになって行った。

やがて、イジメグループが此方に対して、金を要求するようになった。それだけは、絶対に受け入れられなかった。

嫌だというと。

暴力が、更にエスカレートした。

殴られない日など無かった。危なくて、財布など持っていけなかった。昼食の弁当箱は毎日ぶちまけられ、毎日授業中もひっきりなしに暴力を加えられた。

周り中が、その様子を楽しんでいた。

やがて、階段から叩き落とされて。

大けがをして、入院して。

それで、やっと地獄から解放された。

思い出すだけで、涙が零れてくる。最初に、あの子猫を、助けることが出来ていれば。警察に、通報していれば。

学校は何もしない。

周囲の生徒達は、ただ笑ってみているだけ。

暴力を振るう方が正しくて、被害を受けた方はコミュ璋。社会的な悪。社会からの脱落者。

要するに、弱者をいたぶりたいだけの連中が、この世の大半を占めている。

それを、直人は思い知らされていた。

「だが、それだけか」

声が、響く。

頭痛がした。まだ、何か忘れている事はあるのだろうか。いや、思い出せない。思い出しては、いけない。

アガレスの声は、なおも響く。

「悲劇は悲劇だが、ここに来られたからには、まだ先がある筈だ。 それを私にくまなく見せろ」

恐怖が、せり上がってくる。

だが、どうしてなのだろう。忘れていなければならないことが、記憶の表にせり上がってくる。

そうだ。思い出した。

中学三年の時。

自転車で帰宅中。何処かで飼われていたらしい猫を。

轢いた。

刎ね飛ばされた猫は、対向車線から来た車に、跳ねられて。

内臓が飛び出して。

脳みそがぐちゃぐちゃになって。

嗚呼。そうだ。それを、他の生徒に見られた。だから、あの時。イジメを行っていた奴らは、言ったのだ。

 

お前も、俺たちと、同類だろうが。

 

轢いたときの感触。

どうして、飼い猫だったらしいのに、そのまま逃げてしまったのか。後で、その場所を通りかかったとき。

小さな女の子が、泣いているのが見えた。あれは、きっと。猫の飼い主。

どうして、名乗り出なかった。

イジメがエスカレートしたのは、罪悪感から、周囲に訴え出ることが出来なかったから。暴力に逆らうことも出来ず、恐怖に震えることしか出来なかった。あの泣いている子の様子を見て、どうにもできなくて。

お前も同類だと言われて。

そうだとしか、思えなくて。

だから、逆らえなかった。

ただ、雨霰と降り注ぐ暴力に、耐えているしかなかった。僕は罪人で、どうしようもない罪悪を抱えているのだから。

 

気がつく。

目の前で、アガレスが、直人を覗き込んでいた。さっきまでの面倒くさそうな様子ではなくて。しらけた様子で。

「ふうん。 青少年時期特有の、潔癖な正義感と罪悪感から、自分を追い詰めていったのか」

「マスター。 そのように言っては、彼が可哀想ですよ」

「事実を述べているだけだろう。 別に虐めようという意図もない。 まあ、一応基準は満たしているな。 そこそこに腹は膨れた」

何が起きたのかはわからない。

ただ、わかったことは。このアガレスと名乗る女の子に、何もかもを見られたあげく。どうでも良いと言われているという事だ。

流石に、怒りで青ざめる。

これが料金だとしても。

これから未来を取り戻すのに必要だとしても。あまりにも酷い。心の中に土足で踏み込んで、何もかもを踏み荒らすなんて。

直人の怒りを察してか。

だが、小さな手を、直人の前にかざしてくるアガレス。

間近で改めて観ると、子供のもののように小さな手だ。アガレス自身も、側で見ると可愛くて、何というか。怒りが収まってくるのを感じた。

「まあ待て。 料金を得た以上、品物はくれてやろう。 アモン」

「はい、ただいま」

メイドさんが、ぱたぱたと店の奥に行く。

新しい飴を口に突っ込みながら、アガレスは言うのだった。口にものを入れているから、すごく行儀が悪い。

「お前の不幸は、正直言って些細なものだ。 自分自身で苦しんでいったのだから、なおさらな」

「そんな……いくらなんでも、ひどい、です」

「だから、これから取り戻せば良い」

メイドさんが戻ってきた。

手にしていたのは、大きな包みだった。何だかわからないけれど、かなり重量がありそうだ。

どんなものなのだろう。

時間を巻き戻すのだろうか。

それとも、記憶を綺麗に消して、最初からやり直すのだろうか。

「結構重いですので、家に宅配しておきます。 配送料金は、此方でおまけしておきますね」

軽々とメイドさんが、外に出て行く。

いや、壁にいきなりドアが出来て、其処から出て行ったのだ。何が起きたのか、直人にはさっぱりである。

しかもドアの外は、何も無い真っ白な空間に見えた。

何度か目を擦ったが。

その時には。ドアは閉じられていて。ただ、何も無い壁があるだけだった。

此処は、本当に都市伝説の空間なのだと、こういうときに悟らされる。幽霊がぽんと出てきても、不思議では無い魔境。

思い知らされる。此処が、尋常では無い場所なのだと。

「さて、そろそろ帰れ」

「え、でも」

「お前は用事が終わり、私も食事が終わった。 これ以上此処にいられても、私の時間が減って迷惑だ。 私は面倒くさがりで怠け者なのだ」

自分でそれを言うのか。

ちょっと苦笑いしてしまう。

いつのまにか。

先ほどの怒りは、綺麗に消えていた。

立ち上がろうとして、失敗。尻餅をついてしまう。ずっとパジャマを着て、ベッドで寝ていたからだろう。

座布団をもらっていたとは言え、正座していた時間が長すぎたのだ。

飴をくわえたまま、アガレスは言う。

「もうちょっと鍛えろ」

「か、帰ったら、考えて見ます」

いつの間にか、足が手酷くしびれていた。

立ち上がると、改めてアガレスに礼を言う。アガレスは鷹揚に頷いた後、もう一度、少しは鍛えろと繰り返した。

 

気がつくと、店の最寄り駅で、ぼんやりと立ち尽くしていた。

慌てて周囲を見回すけれど。

どうやってここに来たのか、全く覚えていない。

あれは、夢だったのだろうか。いや、そんなはずはない。夢にしては、あまりにもリアルすぎたからだ。

アガレスと名乗った、黒い女の子。

アモンと呼ばれていた、メイドさん。

どちらの事も、鮮やかに思い出す事が出来る。むしろよく分からないのは、いつのまにここに来たか、だ。

とにかく、用事は済んだ。

既に午後の三時を回っている。直人は携帯も持っていない。もしも両親が帰宅していたら、心配。

いや、心配はしないか。

切符を買って、電車が来るのを待つ。

行きほど、電車が怖くはなかった。元々、高二までは、電車にも散々乗っていたのだ。少しずつ思い出してきたというのが正しいのかも知れない。

電車に乗り込んで、最寄り駅まで移動。

この感覚も、少しずつ慣れてきた。学校に行っていた頃は、確かにこうだったのだ。

それにしても、宅配するとアモンさんは言っていたけれど。本当に、そんな荷物は届くのだろうか。

届いたところで、使いこなせるのだろうか。

不安で、心がわしづかみにされる。

すぐに、電車は目的の駅に着いた。

慌てて降りる。

行きよりも人がかなり多かったけれど。直人に注目する人はいなかった。それだけが、救いだったかも知れない。

家に出来るだけ急いで帰る。学校の奴らに会ったら、面倒くさくて仕方が無い。出来れば顔も見たくない。

急ぎ足で、家に。

ドアを開ける。鍵が開いていた。

パートから、母が帰っていたらしい。いきなりドアを開けたら顔を合わせたので、直人の方が驚いた。

「え……」

「出かけていたの?」

「う、うん。 その、懸賞が当たって、取りに行っていたんだ」

「そう……」

母が目を伏せる。

ドアを閉める。

ただ、外に出て。当たり前のように、家に帰る。

それだけの作業を、一体いつぶりに行ったのだろう。不登校になる前は、両親も此処まで直人のことを諦めていなかった気がする。

部屋に戻る。

少しは鍛えろと、アガレスに言われたことを思い出す。

直人は、忸怩たる気持ちを味わっていた。

ぎゅっと身を縮める。本当にアレが事実で、夢ではなかったのなら。いや、夢ではなかったのだ。

自信を持て。

直人は、自身に言い聞かせて。呼吸を整えると、背筋を伸ばした。

 

もしも宅配だとすると、今日には荷物が届くはず。

久々に、朝にちゃんと起きた直人は。部屋を出て、両親と一緒に食事をした。かなり勇気がいる作業だった。

ただ、一緒に食事を取ると言うだけなのに。

引きこもりになってから、どれだけ。これだけの作業をしない日が、続いていたのだろう。

両親でさえ怖いと、直人は感じるようになっていた。

今だって、怖い。しかし、前ほどではなくなっている。少しずつ、話そうという意欲も、わき上がってきていた。

「直人」

サラリーマンをしている父が、声を掛けてくる。

目を合わせられない。ただ、うんと応えた。

「これからどうするんだ。 もうあの学校に行けとは、俺もいわない。 ただ、このまま部屋に閉じこもっていても、仕方が無いだろう」

「うん……」

「仕事をするのなら、ハローワークにでもいくといい。 それとも、定時制の高校に、これから行くという手もある。 引きこもりになってしまったとはいっても、お前はまだ二十歳前だ。 これからなら、まだ取り返しがつく。 勉強して、短大に行くという手もあるから、考えておきなさい。 いきなり正社員になれとはいわない。 バイトでも何でもいいから、やってみなさい」

本当に、そうなのだろうか。

ネットなどでは、引きこもりをしたらもう人生終了と言うような風潮があった。父が言うように、定時制の学校に通ったり、或いはすぐに働いたりという選択肢は、確かにあるかも知れない。

働く。

どうやって。

在宅の勤務なんて、多分相当に立派な会社とかしかないはずだ。それに、会社なんて。正社員採用を、してくれる場所があるとは思えない。

まずはバイトだろうか。

それとも、ハローワーク。

いつの間にか、父はいなくなっていた。会社に行ったらしい。

黙々と、食事を終える。

ずっと部屋で食べていたから、皆で食事をすると言うだけでも。随分と、新鮮でならなかった。

部屋に戻る。

パジャマでいようとは思わなかった。

着替えて、何もすることがないことに気付く。仕方が無いので、旧式のPCに向かって、ネットをはじめる。

ハローワークについて調べて見るけれど。

あまり良い情報はない。

否定的な情報が目立つ。

それに、いきなり働くとしても。何かしらのスキルや経験が要求される場所が、圧倒的に多かった。

定時制の学校などを見てみる。

いずれも、お金がかなり掛かる。

これ以上、両親に迷惑を掛けるのは、つらい。

しかし、ハローワークでの求人情報があれだという事実を鑑みるに、すぐに仕事をするのは、それこそバイトくらいしかないだろう。

家にお金を入れるのは難しいとしても。

せめて、バイトで働いて、マイナスになる事だけは避けたい。せめて食事代くらいは、稼ぎたいのだ。

チャイムが鳴る。

慌てて玄関に出ると、大手の宅配会社だった。

かなり大きな荷物だ。

以前だったら、出られなかったかも知れない。パジャマを着ていただろうし、何より他人と顔を合わせることそのものが怖くて仕方が無かったからだ。

今は、ごく普通に出られた。

朝起きたときに髪の毛も整えていたし、歯も磨いて髭も剃ってあったから。特に恥ずかしいとは思わなかった。

宅配会社の人間は、直人のことを、疑問には思わなかったようだ。

「重いから気をつけてください」

サインだけ求められたので、書く。ボールペンは震えて、ミミズがのたうち回ったような字しか書けなかった。

忙しいからだろう。宅配会社のまだ若い男は、挨拶だけすると、帰って行った。

荷物を四苦八苦して、自室に運び込む。

段ボールを開けようとして、ふと気付く。

いつの間にか、時間を巻き戻そうとは、考えなくなっていた。時間なんて、巻き戻せる訳がない。

どれほど絶望的に見えたとしても。立ち向かっていくしかないのだ。

だから、直人は。現実だったあの店の出来事も踏まえて、やっていこうと考える。段ボールを開けながら。直人は、戦おうと思った。

 

3、苦悩の果てに

 

机に突っ伏したアガレスの元に、アモンが紅茶を持ってくる。

顔を上げたアガレスに、忠実なメイドはにっこりほほえみながら、鬼畜のような事をいうのだった。

「紅茶を飲んだら、お仕事ですよ」

「相変わらずお前は、主君をこき使う事ばかり考えているな」

「貴方は暴君ではないし、暗君でもありませんから。 さあ、今日はこれだけ、手入れをしてもらいますよ」

「やだー。 めんどいー!」

文句は空に流され。

目の前には、どっさりとアンティークドールが積み上げられた。

いずれも百年以上の時を重ねた、名工の手による人形達。肌は本物の人間に勝るとも劣らない質感を持ち、瞳はまるで本当に此方を見ているかのよう。現在日本人の感覚からすると若干バタ臭いが、本物の金持ちのために作り上げられた、生きていると言われても信じそうになるほどの人形達。

そして髪の毛には、人間のものが使われている。

だから伸びる。

たまに切りそろえてやらなければならないのだ。

何種類かの道具を使って、気むずかしい人形達の埃を落としていく。触らせてやるんだから、大事にしなさいよね。

そう、人形達は、アガレスに訴えかけている。

「そういえば、アガレス様」

「なんだー」

「この間のあの子には、どうして会ってあげたんですか? 直接会うにしては、些細なトラウマに思えましたけれど」

鼻を鳴らす。

此奴は、わざとわかっていて言っている。

アガレスが、この店を開いた理由は、人間の心の闇を食べるため。当然人間ではないアガレスだが、物語に出てくるような殺戮の権化としての悪魔でも無い。事実一神教の聖書でも、悪魔は人を滅多な事では殺さない。

悪魔が好むのは、人間の闇だ。

長い戦いの末に、神と悪魔はどうにか妥協点を見いだした。

アガレスのような最上級レベルでも、その妥協点を乱すことは出来ない。つまり、人間の闇を食べる事はしても、人間そのものに危害を加えてはならないのだ。

この国に来たのは。

食事の効率が優れているため。

大量虐殺に直面したというような、強烈な闇を抱えている人間はいない。だが、小規模な闇であれば、そこら中に転がっている。

また、食事の代わりの「代償」も用意しやすい。

此処にあるものは、みな捨てられたり、散逸したり。或いは廃棄されるところだったものを、アガレスとアモンが集めて来たものばかり。しかも、それは現在進行形だ。修復が終わったものから表に出している。

バックヤードにあるものは、まだまだ数も知れないほどだ。

「おやつには丁度良いだろう」

「おやつですか」

「そうだ。 で、まだ掃除しなければならないのか」

「そうですよ。 此処にあるものは、いずれも魂が籠もった道具ばかりなんですからね」

アモンが、更に追加で、アンティークドールを持ってくる。

ため息が零れる。

主君は今日も、こき使われ続ける。怠けたいし、昼寝をしたいのに。

「時に下にいるダンタリアンはどうしている」

「あの子だったら、今日は休みですよ。 確か彼氏とデートに行くとか」

「何だ、相変わらずだな彼奴は」

「あくまでリサーチが目的らしいですけれど。 あの子は情報を得るためだったら、それこそなんでもしますからねー。 魔神らしくないアガレス様より、よっぽど悪魔悪魔しているかも」

はい次と、新しいのが追加される。

じっと此方を見ているアンティークドール達を綺麗にしていくが、きりが無い。流石に四十体ほど片付けた後、アガレスは机に突っ伏していた。

そのままばたばたもがく。

「やだー! もう動けないー!」

「アガレス様!」

「なんだよー!」

顔を上げたところに、紅茶を突きつけられる。

また仕事をしろというのだろう。

うんざりである。

ただ、今度は何処かのメーカー品のドーナツもあった。此奴は本当に、主君の扱い方を心得ていると言うほか無い。

「それを食べ終えたら、残りを片付けてしまいましょう」

「んー」

イチゴのチョコが掛かったドーナツをぱくつきながら。

アガレスは、くれてやったオモチャの一つに、思いをはせていた。

あれは、使う人間次第。

どうなるかは、あの小僧の心の持ちようだろう。

最悪、破滅するかも知れないが。

それは、あの小僧にも、責任がある。いずれにしても、アガレスが手助けをする事はない。全ては小僧が決めることだ。

 

直人が段ボールを開けると、よく分からない部品が、たくさん入っていた。

規則性がない部品の上に、説明書が載せられている。幸い、日本語で書かれていた。かなり分厚いマニュアルで、これを翻訳するのは尋常では無く大変であっただろうから。それは救いだ。

部品の数は膨大。

しかもこの様子では、予備があるとは思えない。

それにマニュアルを見る限り、組み立てて何が出来るかは、わからなかった。

困惑した末に、一応一通りマニュアルに目を通す。組み立て方はわかったけれど、完成品の形状が、想像できない。

とにかく、順番にやっていくしかない。

工具が必要だったので、一通りを物置から取り出してくる。工具なんて使うのは、いつぶりだろう。

勝手がわからないけれど。

幸い、マニュアルに部品の補充については、連絡先があった。また、部品そのものも、交換するための予備が同梱されているようだった。

マニュアルに沿って、順番に組み立てをはじめる。

ネジだけでも、かなりの数がある。

ガワをまず作るのかと思ったのだけれど。中枢部分を最初に作るようにと言う指示があった。或いは、ガワだけでは、組み立てが出来ないのかも知れない。

中枢部分はかなりの大きさがある空洞で、覗き込むと、相当な容積を持っていた。これならば大きなものを入れられる。

炊飯器の釜のようになっていて、頑丈だ。ただし、複数の穴が空いていて、其処へ何かを注ぎ込む仕組みになっているらしい。

発電機と、温熱機。

扱い注意と書かれている。幸い家庭用の100ボルトで動くようだ。バッテリーもあって、持ち運びも出来るようになっているようだけれど。

正直、現時点でもかなり大きい。

これを持ち運ぶのは、骨だろう。

そう思っていたら、部品の中にころころの車輪を発見。これは或いは、持ち運びのための部品なのだろうか。

よく分からないけれど。

少なくとも、実用品のようだ。

組み立てながら、それはわかった。部品がたくさんある様子から、プラモデルか何かかと最初は思ったのだけれど。鉄骨のように無骨な部品もあったし、組み立てていくとずっしりとした質感がある。幸いにも、部品は特徴的な形状をしているものが多くて、組み立てには思ったほどの苦労はなかった。

少し休憩を入れて、また作業に。

気がつくと、夜になっていた。

夕食だと言われたので、居間に出向く。

何かを組み立てているのかと聞かれたので、予定通り懸賞が当たったと言った。両親は、それ以上聞かなかった。

アガレスというあの女の子は。

人の心に土足で踏み込むような真似をした後、これをくれた。

これは何だろう。

不思議と、さほどの怒りは無い。というよりも、どうしてあれほど強い罪悪感を覚えていたのか、わからなかった。

確かに不注意で命を奪ってしまったのは事実だ。

悲しい事をしてしまったし、取り返しもつかない。いずれ、あの道路には、花を供えにいきたい。

しかし彼奴らが直人に対して手酷いイジメをしたのは、全く別の問題だ。それに彼奴らがやっていたことと、直人がしてしまった事は、全くの別。故意での事故と、悪意を持っての虐殺では、まるで意味が違う。

ハンマーを使う作業は後に回す。

ネジをまく。

一つ、二つ。ネジが余らないように、マニュアルを見ながら、丁寧に。何かやら袋が出てきた。

おがくずのようなものが入っている。

常温保存可能と書かれているので、そのままにしておいた。

久々に徹夜をして、そのまま作業をしたが。

それでも組み上がらない。

起きたら、すぐに次の作業に取りかかった。

全身が温かいのは、興奮しているからだろうか。集中力も、ネットなどをしている時とは比較にならないほどに高まっていた。

鉄骨のような部品を並べて、ネジで留めていく。中枢部分だと最初に思っていたのは、真ん中の真ん中。

ガワだと思っていた部分は、想像以上に複雑な構造をしていた。

ハンダ付けや溶接を求められる場面はなかったけれど。それでも、マニュアルを見ていないと、見落としそうな部分がたくさんあった。

何度か、少し分解して、作り直しも必要になった。

いつの間にか朝飯の時間だった。

両親は、直人の行動に何も言わなかった。出かけていった二人を玄関まで見送ると、作業に戻る。

そうやって。ただがむしゃらに。

ひたすら作業に没頭し続けた。

 

二日を過ぎたころから、それが大型の炊飯器のようなものだということがわかりはじめてきた。

ただし、オーバーテクノロジーの産物ではないし、夢のある機能を持つ最新鋭機器でもない。

ネットで調べて見たのだが。

これは前々から流通している、ごく当たり前の機器だ。特定できたのは、四日目の事だった。

名はコンポスター。

組み立てを続けながら、これをどうしてくれたのだろうと、悩む。

ただ、作業の手は止まらない。

ずっと怠けていた反動だろうか。作業を始めると、止まらないのだ。睡眠もとってはいるけれど、それよりも続きをやりたいという気持ちが強くて、それどころではなくなりつつあった。

ただ、おかしな事に気付く。

段ボールに入っていた部品よりも。組み上がっているコンポスターの方が、明らかに大きい気がするのである。

それに、最初はなかったとしか思えない部品が、段ボールから次々に出てくるような気もする。

本当に気のせいだろうか。

しかし、最初からたくさんの部品が入っていたのも事実だ。

コンセントの部分を確認。

掃除機のように、ワンタッチで収納できる便利機能付きだ。作り上げていくとわかるが、これは元々、何十万もする機器なのではないか。

だとすると、アガレスは相当な高級品をくれた事になる。

くみ上げながら、不可解な事にまた気付く。

明らかに、現状の腕力では、持ち上がらないのだ。

段ボールは重たかったけれど、自室まで運び込むことは出来た。しかし、まだ部品があまっているのに。

このコンポスターは運ぶのが極めて難しい。

四十キロくらいはあるのではと思えた。だとすると、どうしてあの段ボールを運ぶことが出来たのだろう。

段ボールを漁って、ガワの部分を取り出す。

ネジで留めていくと、ようやく形状がはっきりしてきた。一休みしてから、仕上げに掛かろう。

そう決めて、眠る。

起きたのは、朝。

無茶な連続作業をしているうちに、いつの間にか生活時間帯が、自動で調整されてしまったようだった。

苦笑いしながら、仕上げに取りかかる。

既に、組み立て開始から、一週間が過ぎていた。

 

機器の内側にはクッションの部品もあって、かなり頑強に作られていた。ちょっと叩いたくらいでは壊れない。

基板の部分も頑丈で、へたっぴな直人の作業でも、上手に接続することが出来たし、くみ上げる途中で壊れることもなかった。

スイッチを入れると、動く。

付属だった素材を入れることで、既に何時でも稼働する仕組みが出来ていた。

コンポスターは簡単に言うと、ゴミの処理装置である。

中に強力な菌を入れておくことで、生ゴミを完全に分解して、肥料へと変える。骨などがあっても、それごとだ。

中には排泄物などを肥料化するタイプもある。

基本は生ゴミの処理が主体だが、このコンポスターはゴミ処理だったら何でも出来る様子だ。熱量を調節して菌が活動しやすい環境を造り、短時間でゴミを分解させるようである。

ネットなどで調べて見ると、更に面白い事がわかってきた。

これは型番が存在しない。

つまり、下手をすると手作りのカスタマイズ作品と言う事だ。

或いは、何処かの企業が試作品として作って、販売に到らなかったものなのかもしれない。

確かにガワに企業ロゴや機体番号がない。

そして、だ。

それを見て、直人は呻く。

これが、コンポスターが普及しない、最大の原因かも知れないと思えるものに行き当たったのである。

この機械には、愛着がある。

こんなに一生懸命何かしたのは、初めてだからだ。

分かったこともある。

一生懸命何かすれば。直人のような屑でも、相応の成果は出るのだ。生ゴミ処理機を作るのにそれだけ時間を掛けたといえば身も蓋もない。しかし、直人には、この巨大な炊飯器のような機械が、とても尊いものに思えた。

周囲は笑うかも知れない。

だが、それでもいい。

何かを成し遂げることが出来たのだ。

一階に運ぶのに、かなり苦労した。階段を一段一段下ろしていって、やっと一階に着いたときには、冷や汗が出た。

そのまま台所に置く。

母が帰ってきたので、使い方を説明。怪訝そうな顔をしていた母が、ぼやく。

「何か一生懸命していると思ったら、これを作っていたの?」

「懸賞でもらったから」

「そう。 でも、立派な機械ね。 お高いんじゃないの」

「多分数十万はするはずだよ」

母が絶句していた。

それはそうだろう。ちょっとした冷蔵庫でも、せいぜい二十万程度。この炊飯器の親玉みたいな機械が、中古の車ほどもすると知れば、驚かないはずがない。

自室に戻ると、このコンポスターを、もっといろいろな形で使えないか、調べて見る。ふと、気付く。

そうだ。

使い道が、ある。

ただそれには、幾つもの前提条件が必要だ。

これだけの巨大な機械を組み立てて、作り上げることが出来た。だったら、今なら、それらの前提条件をクリアすることも、出来るかも知れない。

今から就職しても、多分間に合う。

まだかろうじて二十歳には成っていないのだ。だが、中卒の直人では、やはりそれでも限界がある。

これから出る社会は厳しいのが確定だ。

それならば。

片付けておかなければならないことがある。あのことに関してだけは、絶対に解決しなければならなかった。

一階に下りると、母に相談。

ジムに行きたいと言うと、どうしたのと聞かれた。

「体が鈍っちゃったから。 だから、少しでも鍛え直したいと思って」

「そう。 ただ、あまり高いのは駄目だからね」

「わかってる」

教わるのは、体の鍛え方。

後は、母には言わないが、ボクシングジムか、空手の道場に出るつもりだ。

それと、実戦については、ネットでも調べる。三人同時に相手にするわけにはいかない。一人ずつどうにかするには、戦術を練る必要がある。

少しずつ、わき上がってきている自信。

これを大事に守る。

そして、全ての過去に、決着を付ける。

今後、社会復帰するには、それが絶対に必要だからだ。

「仕事は、できそう?」

「体を鍛えたら、少しは自信もつくとおもうんだ。 このコンポスターは、きっと僕がもらった最後のチャンスだと思う。 だから、無駄にしたくない。 鈍りきった体を鍛え直して、バイトからはじめるよ」

安心したらしく、母が少しお金を出してくれると約束してくれた。

バイトは、出来そうなのがあったら、ジムに行きながら応募してもいい。もし行けるようなら、それがベストだろう。

母からお金を引き出すことは出来た。

後は、ヘタを打たないように、念入りに準備をしなければならない。

 

4、復讐

 

西島博は、高校を出てから工場で勤めていた。

既に職場では暴力的な性格で知られ、周囲には同類しかいない。高校時代につるんでいた友人は、いずれももう連絡を取っていなかった。仕事も休みがち。一度上司をボコボコにぶん殴って工場を離れ、今働いているのは二つ目の職場である。前の職場では、労働基準法に抵触する労働をしていたので。素直に辞めるというと、それだけで相手も起訴はしなかった。

給金は、全て煙草と風俗に消える。

両親と一緒に暮らしてやっているのは、その金をむしるためだ。

今だに喝上げを続けている。

職場のとろそうな奴を見つけては、帰宅時にでも裏路地に連れ込み、何発か殴ってやればすぐに金を出すようになった。

日本では犯罪にあったほうが悪いという、独自の理論がある。

だから、犯罪被害を受けても、相手は黙っていることが多い。警察が出てきた場合は、いろいろな対処法がある。

高校時代から、暴力には慣れていた。

この国の、腑抜けな体質にも。

今日も丁度良いから、一人金づるを脅して、金をむしり取ろう。風俗に行く金がなくなっていたからだ。

工場での労働で、むしゃくしゃも溜まっていた。徹底的に痛めつけてぶん殴って、憂さ晴らしも出来る。

これほど楽しい事があろうか。

ネオンの瞬く繁華街から、裏路地に移る。

舌なめずりしながらスマホを弄って、金づるを呼び出す。

このスマホ自体が、金づるの一人に買わせたものだ。

さて、どんな言葉で脅してやろう。

そう思い、呼び出し音を待っていると。

意識が飛んだ。

 

気がつくと、転がされていた。コンクリの床である。風が入り込んでくるから、何処かの廃屋かも知れない。

何処だろう、此処は。

縛り上げられていて、猿ぐつわも噛まされていた。必死にもがくが、相当に頑強に縛られていて、どうにもならない。

誰かの後ろ姿が見える。

「やあ、目が覚めたかい、博君」

その声。

高校時代、徹底的に痛めつけていた直人。もがく。まさかこんな奴を相手に。怒りが沸騰して、もがくが。

しかし。すぐにそれは、恐怖へと変わった。

白熱電球らしい光源に浮き上がった直人が持っているのは、右手に血まみれののこぎり。そして左手には。

何か、よく分からない足。

鮮血がしたたり落ちている。思わずのけぞるが、縛り上げられていて、殆ど動けなかった。

全身から、恐怖の汗が噴き出してくる。

「君で最後だ」

直人の体は、かなりマッシブになっていた。それだけではない。足捌きなどを見てもわかる。

強い。

ボクシングか何かをやっている。

いきなり、顔面を蹴られた。

歯が何本か折れたはずだ。咳き込むが、そもそも猿ぐつわをされているのだ。血が口の中で広がって、鉄錆の臭いが鼻から出ていかない。

更に頭を踏まれる。

金髪に染めたばかりの頭が。

顎の骨が砕けたかも知れない。

もの凄いパワーだ。蹴られる。踏まれる。悲鳴を上げてもがくが、どうにもならなかった。

「この程度で音を上げるの? これから切り刻んであげようっていうのにさ、それじゃあつまらないよ。 致命傷にならないように、後頭部と下腹部は避けるけれど、これから散々蹴るよ。 何しろ君は強さを自慢していたものね。 少しは叩いておかないと、怖くて仕方が無いからさ」

直人の声は、あくまで低く沈んでいる。その声にはなんら感情がこもっていない。まるで、ゴキブリを潰す子供のように。

悲鳴を上げそうになった。

此奴、完全に狂ってる。

一番殴ったのは俺じゃない。シンナーが大好きだった義男と、女を何人レイプしたって自慢してた五郎だ。俺はちょっと殴って、喝上げをしようとしたくらいだ。その程度で学校から逃げ出した弱虫のくせに。

俺はむしろ社会の厳しさを教えてやったくらいなのだ。感謝されることはあっても、こんな目に遭わされるのは理解できない。

こんなのは理不尽だ。

どうして俺が、こんな目に遭わなければならないのか。

「あの二人が待ってるよ。 地獄で」

あくまで笑顔を崩さない直人。

絶望が、心臓をわしづかみにするのがわかった。

気付く。

巨大な炊飯器みたいな道具がある。直人が、血だらけの手で、其処に何かの足を入れた。何の足かは、考えたくも無い。

がちゃんと、やたら大げさな機械音とともに、蓋が閉じられる。

「これはね、コンポスターっていって、生ゴミを処理する道具なんだ。 僕のお気に入りで、毎日大事に使ってるんだよ」

淡々と。心底から嬉しそうに。

直人が、聞きたくもない話を説明してくる。

「要するに菌でゴミを分解するものなんだよ。 骨もDNAも綺麗に分解して、肥料にしてくれるんだ。 ちょうど前の二人をそうしたようにね」

悲鳴さえ上げられない恐怖。

此奴は、イカレている。

そして、自分はこれから殺されるのだ。

どうして、自分が殺されなければならない。何も悪いことをしてない。イジメなんて、誰だってやっている。どうして、俺が。

もがき、運命を呪う。

こんなサイコパスに、どうして恨まれなければならない。此奴が弱いのが悪い。逆恨みではないか。

「だから、僕が殺ったって証拠も残らない。 調べて見たけど、君、まだ喝上げしてるんだって? しかも四人も脅して、お金を奪ってるんだってね」

もう、体中が震えるのを、止められなかった。

いきなり腹を蹴り挙げられる。

猿ぐつわをされている口の中に、胃液が逆流してきた。窒息しそうだ。

そして、目の前に、突きつけられたのは。原付の免許だ。この免許、教習所の知り合いに頼んで、テスト無しで発行してもらったのである。

「住んでいる場所を突き止めるのも、難しくなかったよ。 とりあえず、この免許はもらっておくね? 戦利品として」

「だ、だふけ……」

「何? 聞こえないなあ」

また、腹を蹴られる。

関節を踏まれた。

もの凄く痛く踏む方法を熟知している。ただ暴力を振るっていた博とは根本的に違う。此奴は、人間の壊し方を理解している。圧倒的な力の差を感じて、もはや抵抗する意思は雲散霧消していた。

そして、のこぎりを、目の前に突きつけられた。

「まず、鼻から切りおとしてあげよう。 その後は、耳。 次は、風俗で無駄に使ってる生殖器も。 後は指を一本ずつ切りおとして、その後は関節を一つずつかなあ。 ああ、顔の皮も剥がしてあげるよ。 どうせ無駄だし、いらないよね? その後は、体中の皮を剥いで、塩をすり込んであげる」

小便が漏れる。

極限の恐怖に置かれた体が、もはや制御を受け付けなくなっていた。

いきなり、手を踏みつけられる。

指の骨が折れた。

跳ね上がる。しかし、逃れる事なんて、出来はしない。

「そーれ、ぎーこぎーこ。 切り刻むときの感覚って、本当に楽しいんだよ。 二人分も切り刻んだから、すっかりやみつきになっちゃってさあ。 屑でもまともな人間でも、切り刻むと感触は同じで、其処だけは平等だね。 よかったね、君みたいなゲスでも、まともな人と同じ部分があって」

頭を掴まれる。

必死に逃げようとするが。直人の指の力は強くて、顔を外すことさえさせてもらえなかった。

更に、顔面から、コンクリの打ちっ放しの床にたたきつけられる。

また骨が砕けた。

鼻血が盛大に噴き出す。

もう悲鳴も出ない。

耳を掴まれ、思いっきり引っ張られる。

更に顔面をコンクリに叩き付けられた。歯が何本か折れた。

「何処へいても、行くよ。 もしもこの場を逃れたとしても。 僕は何処まででも、お前達を追っていく。 逃がさない。 絶対に、切り刻んで、コンポスターに放り込んでやるからな」

何処までも追っていく。

その恐怖が、心を限界までたたき潰す。

その瞬間。博の意識は、消し飛んでいた。

 

博が気絶したのを確認すると、猿ぐつわを外して、その場を後にする。

そして、警察を呼んでおいた。

窒息死されるのも面倒だからだ。ただし、そのまま呼びはしない。

博の携帯から、此奴の被害者は割り出してある。恐喝と喝上げの証拠になる品を、その場にばらまいておいた。

前にたたきのめした義男にいたっては、覚醒剤までやっていた。所持していた覚醒剤をその場にばらまいて、なおかつ売人の番号が入ったスマホをおいておくだけでよかった。此奴の場合も、余罪がごろごろあるのだし、これで問題ない。

多少被害者が事情聴取されるかも知れないが、それだけだ。

色々と、準備をした。

豚の足を買ってきた。それをちょっとのこぎりで切って、派手に血を出して。

ロープや何かは、近くのホームセンターで仕入れてきたものだ。

他の二人も、同じように処置した。

これで、どうにか過去の清算は出来たはずだ。

復讐には意味がない、というような言葉がある。しかし、それは無法者を野放しにして良いと言う理屈にはつながらないはずだ。

此奴らは野放しにしておけば、どれだけの人を不幸にして行ったか分からない。

事実、三人組の一人である五郎は、未だに動物を殺しては切り刻むような真似を続けていたのだ。

襲撃の計画は、一月を掛けて練った。

徹底的に吟味し、勤務地から自宅までのルートも確認。何処で襲撃をすれば良いか、何処へ運び込めば良いのかも、調べ尽くした。

三人とも片付けた今は、随分と気分が晴れやかだった。

足がつくような品は残していないし、何よりアリバイもある。連中がトチ狂って直人のことを口にしても、逃れる事は可能だ。

それより何より、あれだけの恐怖を植え付けてやったのだ。

刑務所から出てきても、国外に逃亡するくらいしかもう路は無いだろう。どのみち、もう仕事など出来ない。

それに、この時のために体を鍛えたのだ。

ボクシングを教わって知ったのだが。しっかりと格闘技を習っておけば、チンピラ程度には負けない。

勿論相手が海外のスラム出身者などのような場合は別だが。体を作って戦い方さえ教われば、直人でさえこれだけのことが出来るのだ。少なくとも、体を鍛練など一切せず、弱い者いじめしかしてこなかったようなチンピラなんて、勝負にもならない。

ボクシングは三ヶ月だけ習ったが。

徹底的に集中して、体作りもしっかりこなした。

試合に出られると、トレーナーにも太鼓判を押されたのだ。

彼奴ら程度なんて、どうして良いように虐められていたのか。今から思えば、不思議でさえあった。

たたきのめしたことに、罪悪感は一切ない。

あのような連中を放置していた社会が悪いという点もある。それに何より、これでやっと惨殺された子猫の仇も取れた。

彼奴らに痛めつけられ、人生を台無しにされた人達の仇も、である。

あのような連中は、地獄に落ちるべきで、「昔はやんちゃしていた」などとしたり顔で言わせるべきでは無い。

社会が制裁を加えないなら。

自分でやるしかなかった。

やり過ぎてしまった場合の時のためにも、コンポスターには来てもらっていた。彼奴らは、別に殺してしまっても良かった。その時には両親に迷惑を掛けないためにも、確実に処理する必要があった。

だから、コンポスターが、保険として必要だったのだ。

コンポスターは車が着いているから、持ち運びは極めて簡単。こうやって、帰り道をひいていくことも容易い。

勇気をくれたこの機械のことを。

直人は、コンポさんと、さんつけで呼んでいた。

「ねえ、コンポさん」

話しかける。

夜道だから、周囲は誰もいない。

たかが機械だけれど。直人はコンポさんを、尊敬していた。

「本当に殺しちゃった方が良かったのかな」

この時のために、徹底的に鍛え直した。

既にバイトもはじめている。今後は少しずつ増やしていく予定だ。目標は月あたり二十万稼いで、自宅にお金を入れること。

いずれ資格を取って、正社員にもなりたい。

多分路は厳しいけれど。

きっと、何か手はあるはずだ。これだけ体も鍛えたし、過去の清算も済ませた。何となく、道が開けているように、思える。

「コンポさんには勇気をもらったよ。 今後も、一緒にいて欲しい」

機械に話しかけながら、夜道を行く。

コンポさんに片付けてもらった豚の足は。数日以内に、肥料に変わっていることだろう。

肥料の元になる菌は、あれからも時々届く。

どういう菌なのかはわからない。

ただ、家庭菜園で肥料がとても役立っているのは事実だった。

ちょっと大きくて場所を取るけれど。コンポさんは家でとても役立っている。直人の心の支えにもなってくれていた。

途中でバスに乗る。

コンポさんを抱え上げるのも、難しくなくなっていた。体を鍛えてわかったのだけれど、人間の力というのは、こんなにも上がるのだ。

たとえば足の速さとか、素質が影響する部分もあるけれど。

筋力は普通に鍛えれば、それだけ増すものなのである。

トレーナーの人にアドバイスをもらって、トレーニングとプロテインの摂取を繰り返した結果、短時間でこれだけ力がついた。腕力だけではない。体力だって、相当に向上したのだ。

努力は、勿論万能じゃない。

しかし、努力をすることには、意味がある。

それが、直人には今まで理解できていなかったのかも知れない。

あまり大きすぎる結果を求めると、努力に意味が見いだせなくなる時もあるかも知れないけれど。

間近では、これだけ努力が意味を持つ瞬間を、実感できるのだ。

バスを乗り継いで、自宅に到着。

明日から、またバイトだ。一日八時間しっかり働いて、安いけどお給金も出る。家で閉じこもっていた時期が嘘のように充実しているし、何より今日で過去の清算も終わった。彼奴らの人生が終了したことで、他の多くの人の人生が始まった。

ただ、直人自身は、もう人を心底からは信用しない。

イジメを受けていたとき。

被害を拡大したのは、周囲の人間全員だ。それを、あの馬鹿三人をぶっ潰して、理解できた。

クラスメイト達まで、復讐を拡大しようとは思わない。

ただ、人間はもう信用できない。

それだけのことだ。

家の中に、コンポさんを入れた後。ぬれタオルで、丁寧に外側を拭う。ありがとう、コンポさん。今日も勇気をくれて。

バイトから帰ってきた後は、いつもこうやってコンポさんを綺麗にする。

それが、直人の日課になっていた。

きっと、コンポさんこそ、直人の恋人だ。

そうだ。思いつく。

もっと優れたコンポさんを作りたい。それこそが、直人の目標ではないのか。仕事をしながら、更に改良した、画期的なコンポスターを作る。そうすることで、直人は何かを為す事が出来るのではないか。

自分に新しい人生をくれたコンポさんに、それで礼をすることも出来るのではないのだろうか。

生物にとっての課題は、子孫を残す事。

それならば、機械にとってのそれは、新型を出し、進歩することだ。それならば、コンポスターにとって最良は、新しい型式を出して、さらなる進歩を遂げていくこと。自分がそれに関われれば。これ以上の事はない。

いきなり、コンポスターを作っている会社に就職するのは、難しいだろう。それならば、まずは自分で実績を作って、それで売り込む。

目標が出来ると、モチベーションが上がるのは、すでに実績で把握済みだ。

直人はガッツポーズを作ると。

コンポスターについて、細かい知識を得るべく、資料を集めようと思った。

 

5、新しい人生

 

アガレスの所に、アモンが新聞を持ってくる。

面倒くさくて机に突っ伏して、寝よだれの跡をつけていたアガレスだが。丸めた新聞紙でパーンと頭を叩かれれば、嫌でも起きる。

「はい、起きてくださいねー」

「お、おま、いくらなんでも! 私主君! 主君!」

「涙目で言われても説得力ありません。 それより、ほら、これ」

地方紙を渡されて、アガレスはふうんと呟いた。

この間来た客の続報だ。

何でもバイトをしながらコンポスターを自宅で行い、画期的なシステムを開発したとかで、ニュースになっている。

専門の業者からスカウトが来たとかで、正社員の幹部採用確定だそうだ。

大手企業で開発はされたが、結局計画が頓挫したコンポスターを引き取り、アモンにくれてやった。

そして、アモンが弄った。

アモンの得意分野なのだ。未完成品を、完成品に仕上げるのは。

此処にあるのは、殆どがそう。

部品が足らなかったり、一部が欠けていたりしたもの。壊れたものも多い。

それをアモンが手直ししている。

アガレスはまた別の作業をするのだけれど。コレクションの収集には、やはりアモンが重要なのだ。

「あいつ、うまく立ち直れたのか」

「ご不満ですか?」

「いや、良かったじゃあないか。 客が人生を取り戻したのなら、それはそれで良いことだ」

嘘はついていない。

アガレスは、いわゆる悪魔と呼ばれる存在だけれど。それは人間の不幸を無意味に喜ぶことは意味しない。

一神教は後期になってから、悪魔をひたすらに貶めるようになったが。

初期のころは、それほど悪魔のことを悪くは扱っていなかったのだ。

アガレスは古い悪魔だし、性質は別に昔から変わっていない。

別に人間が破滅するのを止めはしないが、積極的に破滅させようとも思わないのが、本来の悪魔だ。

アガレスの場合は食事という点で接点があるが。

それ以外の悪魔の中には、それこそ人間なんぞどうでも良いと想っている輩も、少なくはない。

中には下にいるダンタリアンのような、人間の知識に興味を持っている変わり種もいるけれど。

それはあくまで例外だ。

紅茶とマカロンを出してくれたので、頬張る。

「少し前に、工場で働いていたチンピラが、ボコボコにされて簀巻きで見つかったらしいな」

「ええ、それが何か」

少し前と言っても、一年以上経っている。

近所で札付きのワルと言われていた工場労働者が見つかったのだ。縛り上げられ、徹底的に暴行されて。

周囲には、その工場労働者が犯した罪の証拠が山ほど散らばっていたという。

恨みからの犯行かはわからないが。いずれにしても、複数の容疑で、即座に労働者は逮捕された。

同様の事件が他に二度。

一時期は、新聞を騒がした。現代の義賊ではないかと、騒ぐものもいたそうだ。

だが、結局はその三件だけで。以降はぴたりと起こらなくなった。

これらの労働者には、見覚えがある。

アガレスが、直人の闇を喰らったときに、見た。あの、イジメを主導していた者達だ。犯人は、おそらく直人だろう。

だが、今更に告発しても仕方が無い。

それに、これは直人による過去へのけじめだ。社会が制裁しなかった邪悪を、直人が下した。

批判は出来るのだろうか。

アガレスはそもそも、人の世界の外にいる存在だ。社会についてはあまり興味が無い。ただ悪魔から見ても、あの三人はゴミクズというに相応しい存在で、どうしてとっとと殺処分しないのか、不思議でしょうがないが。

アモンが紅茶を淹れてくれた。

「あの子は、これで決着を付けられたんでしょうか」

「さあな。 それよりも、パフェでも作ってくれないか」

「そんなものばかり食べていると、おなか壊しますよ」

「何だよ、けちー」

悪魔が腹をこわすわけがない。

アモンは面倒くさいから嫌だと言っているのだ。此奴は仕事には熱心だが、アガレスに対する態度は比較的雑だ。

茶を飲むと、目の前にどっさりと積まれたレールを見つめる。

鉄道模型用。それも、相当なマニアが作り込むような、しっかりした造りのレールだ。これを丁寧に磨けというのである。

たしかこの鉄道模型、どこぞの博物館が潰れたときに、セットごと引き取ったものだ。最近アモンの能力で修復が完了して、ようやくアガレスの手元に廻ってきた。勿論平時はばらしてある。

鉄道模型を修復しながら、アガレスは能力の一端を使う。

そして、磨き終えた後、しまう棚を指示した。

作業が一段落したところで、休憩する。大きくあくびして机に突っ伏す。流石に一仕事した後だ。

アモンも、これ以上仕事をしろとは言ってこないだろう。

「はい、次です」

「お前は鬼か!」

「いえいえ、悪魔です」

にこにこと笑みを浮かべるアモン。

目の前に積み上げられたのは、先以上の膨大な電車模型。レールが主だけれど、精巧に作られた機関車もあった。

これを手入れするのは手間だ。

「やだー! めんどくさいー!」

「やらないと、食事抜きです」

「鬼!」

アモンは本当に食事を抜く。

悪魔にとって、食事は快楽の一種。つまり抜かれるのは、死活問題だ。

こんな姿になる前は、他にも快楽があったのだけれど。今はもう、食べる事くらいしかない。

恨む相手はいる。

ただ、今は天界の追っ手が掛かる訳でもない。

悠々自適に出来るだけでも、マシなのかも知れなかった。

気付く。

そろそろ、次の餌が、釣り針に掛かるころだ。

この作業が片付いたら、ネットにアクセスして、一本釣りをしよう。

そして、食事にするのだ。

この店は、アガレスの餌場。

世界に悪魔の存在をつなぎ止めるための。鎖の意味を成す店なのだ。

 

(続)