法と命と意地と剣と

 

序、二つの派閥

 

リィンバウム最大の都市聖王都ゼラムをある二人の人物が訪れ、ある二人の人物が迎えた事実は、歴史の裏側に属することであった。一般市民はもちろんのこと、聖王国の主たる聖王すらも知らなかったからである。聖王都を訪れた二人の人物とは、金の派閥の派閥長ビルイフ=タクェルトと、同副派閥長ファミィ=マーンであった。対し、彼らを迎えたのは、蒼の派閥長カンゼス=プルートと、同副派閥長エクスであった。四人の中で一人だけエクスが名字を持たないが、これは彼が時を超越した存在であり、いわゆる(名門召喚師の家系)に属さないことに原因がある。エクスは少年のような容姿だが、その実四人の中でずば抜けた高齢であり、その識見、能力、共に他の追随を許さなかった。

四人が会談の場に選んだのは、カンゼスの私邸の一つであった。数ある召喚師の家系の中でも、最も優れた名門の一つに属するのがプルート家で、その起源は伝説の召喚師(エルゴの王)の腹心にあるとも言われている(プルート家はそう主張している)。また、マーン家やタクェルト家もそれに勝るとも劣らぬ名門で、その財力や政治的影響力は計り知れなかった。故に、私邸といってもその規模は広大で、貴族の邸宅が数個入るほどの物であった。内部には国宝級の芸術品が山と鎮座され、貴重な書物が升で量り馬車で運ぶほど並べられている。それらを見回すと、金の派閥長ビルイフが、皮肉に口ひげをゆがめて見せた。カンゼスもカンゼスで、それを余裕を持って受け止めてみせる。

「流石は蒼の派閥長の邸宅ですな。 学術研究は、膨大な富をもたらすと見える」

「ふん、君の邸宅ほどではないさ。 市民から税を搾り取れるほどの立場にはないのでね」

「派閥長、ここに嫌みを言いに来たわけではないでしょう? いけませんよ。 子供の喧嘩はおやめ下さいね」

温厚だが怒ると怖いと評判のファミィが二人を窘め、舌打ちして嫌みを吐いた者達は黙り込んだ。ファミィの識見と実力は二人も認める所である。何しろエクスとファミィがいなければ、数百年続いた二つの派閥の抗争が沈静化することもなかったのである。

丸い脂ぎった顔に口ひげだけを蓄えているビルイフに対し、痩せぎすのカンゼスは顎髭を長く美しく保っていた。さながらそれは、豚と山羊が会話しているような光景であった。事実二人は裏で、豚派閥長、山羊派閥長と陰口を叩かれていた。しかも面白いことに、それでも歴代の派閥長よりはましなあだ名であったのである。

ビルイフは一旦咳払いすると、肘をテーブルの上に載せ、身を乗り出す。その目には、深々と興味の光が宿っていた。要は身近な危機だと状況を今だ認識していないのである。

「で、単刀直入に言おう。 例のテロリストども、無色の派閥であったな。 我らが一堂に会さねばならぬほどに強大な存在だと、キミ達は言うのかね」

「エクスがそう申しておる。 説明を、副派閥長」

「……最低でも、獣王クラス召喚獣の使い手が四名、いや五名は在籍しています。 また、蒼の刃、華厳の剣の元隊員、手配書のトップに名を連ねる犯罪者など、極めて強力な人材を多数要しております。 人員は千名を超えないとは思いますが、決して侮れない戦力を有していると、私は判断いたしました」

「むう、にわかには信じ難い話だな」

腕組みをしたビルイフ。金の派閥と蒼の派閥を合計しても、獣王クラス召喚獣の使い手は十五名に過ぎないのである。無論此処にいる四名は全員が使いこなすことが出来るが、実戦経験があるのはこの中でもエクスのみ。獣王クラス召喚獣の使い手でも、実戦経験がある者は五名だけだ。如何に無色の派閥が桁外れの存在か、これだけでも明かであろう。

ビルイフは一見愚鈍そうであったが、その正体は豚ではなく野猪である。頭脳は鋭く切れ、決して理解力も悪くない。今の会話で危機を自然に理解した彼は、再び目を光らせ、エクスに問う。

「……で、わざわざ我らを呼びつけたと言うことは、その正体もある程度判明しているのであろう? エクス殿」

「おそらく首領は、あのオルドレイク=セルボルトだと思われます。 獣王クラス召喚獣の使い手達は、彼が育て上げた精鋭でしょう」

「あの勘違いした正義漢か……奴のお陰で、私のアルナ族肉販売ネットワークは壊滅的な打撃を被ってしまった。 そういえば、華厳の剣も大損害を受けたな。 許し難い反社会的犯罪者だ」

「……」

エクスは唇を噛む。金の派閥がアルナ族の肉を販売していたのは彼も良く知っていた。そしてエクスは、それを決して快く思ってはいなかったのである。結局派閥が違えど、蒼の派閥も金の派閥もやっていることは大差がない。こんな連中の利権を守るために、かっての親友と袂を分かち、今戦わねばならないエクスの心は、鉛のように重かった。

エクスの心中など知ったことではないと言った様子で、ビルイフは笑みを浮かべた。その瞳の奥に、凶暴な欲望が炸裂した。

「良かろう。 我らも、キミ達に全面的な協力を約束する。 そして、それに関する見返りの話なのだが……」

「はい、なんでしょうか」

「オルドレイクが連中の頭目であるならば、奴はアルナ族が何処にいるか知っているはずだ。 この戦いに勝利した後、アルナ族を全部我々に引き渡して貰おうか」

思わず息をのんだエクスに、意地悪く金の派閥長は続けた。

「我らは周囲の領主や聖王国にも働きかけ、五千ほどの兵を用意しよう。 だが、それには何かと金がかかる。 それに、私の懐は、奴に痛めつけられ荒らされて、かなり寂しい状態なのだ。 君も知ってのとおり、アルナ族の肉は天文学的な値打ちが付く。 それを全て我が金の派閥に渡して頂ければ、随分助かるというものだ」

「……! ビルイフ派閥長、もう、そのような残虐行為はやめにしませんか? アルナ族は人です。 その肉を商品として売るなど、恥ずかしいとは思いませんか?」

「悪いが、アルナ族が人かどうか判断するのは君じゃないよ、エクス君。 私のお得意様達だ。 それに召喚師である君らしくもない台詞じゃないか、うん? 大体蒼の刃のボスを使い殺しにしたのは何処の誰であったかな? ふははははははは」

揶揄するような台詞に、エクスは拳を固め、俯いた。召喚術の中には、養殖用の動物を異世界から大量召喚する物もある。その中には文明をある程度有する召喚獣達も少なくない。また、戦闘用に召喚する召喚獣は、文字通り使い捨ての駒だ。そしてその中には、異界の人だって少なくないのである。そして蒼の派閥は、召喚術の軍事研究で生計を立てている組織だ。蒼の派閥の最高幹部であるエクスは、どうあがいても、どう言いつくろっても、ビルイフと同じ穴の狢なのである。大体蒼の刃の首領だったザプラを使い殺しにすることを決断したのは、ビルイフの言葉通り、他の誰でもないエクスなのだ。打ちのめされる蒼の派閥副派閥長を、ビルイフが更に追い討ちした。

もっと大人になりたまえ、エクス君。 で、カンゼス殿、君の返事は?」

「まあ、いいだろう。 そんな条件でよいのなら、私には異存はない。 此方も私兵等から、三千前後の戦力を用意する。 召喚師は、君の所より多めに用意しよう」

「良し、では決まりだな。 出撃準備を整えよう。 そして、敵の本拠地を探るべく、共に力を尽くそうではないか」

白々しく握手を交わすビルイフとカンゼス。悲しみと屈辱に打ち震えながら、エクスはその光景を見やっていた。その肩をファミィが叩いたが、エクスは乾いた笑みで返すことしか出来なかった。

 

……金の派閥は、蒼の派閥と列ぶリィンバウム最大最強の組織である。召喚師達の組合であるという点で両者は共通していたが、金の派閥の活動原理は蒼の派閥のそれに比べてより直接的な物であった。

即ち、金の派閥は、召喚術によって権力と富を得ることを標榜する組織だった。蒼の派閥が表面上は学術研究に身を置き、裏では軍事研究で稼いでいるのに対し、金の派閥は召喚術を惜しむことなく使って権力を得ることを推奨していた。金の派閥の本部が置かれている都市ファナンなどは聖王国の領土であるにもかかわらず、半ば金の派閥の私有都市と化している。他にも金の派閥の私有地は多く、それらは自治権を有し、半ば独立国家化しているのが現状であった。

どちらも同じ穴の狢と言って相違ない二つの派閥であったが、蒼の派閥の人間は金の派閥の者を拝金主義者と罵るし、金の派閥の人間は蒼の派閥の人間を二枚舌と罵る。両者の仲は極めて悪く、ファミィとエクスの努力によって暗闘が沈静化した今も、決して良好な関係だとは言えない。両者が手を携え派兵するなど、空前絶後の事態であった。

にわかに二つの派閥は出兵準備を整え始めた。そして聖王国はそれに沈黙を守り、周辺各国もそれに習った。彼らにしてみれば、召喚師同士の内輪もめに兵力を削られるなどまっぴらごめんだというのが本音であった。兵を派遣させられる聖王国に至っては、不平の声を隠さない将兵も少なくなかった。実際問題、無色の派閥のテロ攻撃は対象が金及び蒼の派閥に絞られており、他の施設や人員には被害がなかったのである。

だが、事態は彼らの予想を遙かに上回って根深い物だった。蒼の派閥と金の派閥は共にそれを思い知らされることになるのだが、それはまだ少し先の話である。

 

1,力を求めて

 

サイジェントは、ここ数日で落ち着きを取り戻していた。

アキュートの手による暴動が一段落して後、暴動の実行者達は地下に潜った。誰もが彼らに対する厳しい取り締まりが行われるのではないかと懸念したのだが、意外にも軍は沈黙を保ち、騎士団に至っては事態静観の姿勢さえ見せたので、市民は安心し、街の状態は安静へ傾いていった。実際問題、軍や騎士団の手を逃れて潜伏した者は多く、取り締まりようが無いというのが現実だったのだ。その上市民達は横の団結を強めて各個に逃亡者を庇い、兵士達との対立を強めていった。結果的に、都市国家としてのサイジェントにとって危険な情況に変化はなかった。

フラットでは、四日前から寝ずの番を終了し、通常の状態に移行した。というのも、南スラムでは廃屋等への逃亡者の移動が完了し、治安が安定化したからである。何しろ人が住める廃屋など有り余っていたので、住む場所だけは事欠かなかったのである。後は食料等であるが、これは驚くべき事に騎士団が南北スラム等で炊き出しを開始したため、ある程度は克服することが出来た。騎士団の者達も、食料を受け取りに来る者達の経歴にはある程度目をつぶった。

後、懸念されたのは新参者の増加による治安の悪化であったが、元暴徒達は自分たちが逃亡するのを助けてくれた者のことを良く覚えており、フラットのアジトが受ける危険度は著しく減少した。更に一日が経つと、子供達に対する外出禁止令も解かれた。レイドが一応の治安回復を確認したからであり、それに伴ってエドスがつけた窓等への補強も外された。元々フラットのアジトは日当たりの良い建物ではないが、これによって差し込んだ日光は、子供達に久々の歓声を上げさせるに充分だった。ただ、道場等はしばしの閉鎖が決定されたが、これは情況から言っても致し方なかっただろう。しばらくは、エドスの稼ぎと、綾の釣りやスウォンからの食糧補給で茶を濁し、更に貯金を削って過ごしていくしかなかった。

「……お天道様が、こんなにありがたい物だとは思いもしなかったな」

庭ではしゃぐアルバとフィズを見て、屋上からガゼルが呟く。その隣では、手すりに体重をかけて、カシスが遠くを見やっていた。無感動のまま、カシスは呟くように言った。

「そうだねー。 私も、初めて日光見たときには感動したよ」

「……そうか。 何というか、ひでえ暮らししてたんだな」

「今、此処で暮らしていると、一般的に言われる地獄ってのがあれだったんだって、よく分かる。 私にとって、ここは天国だね☆」

「こんな極貧生活で天国か? だったら、いつまででも此処にいろよな。 リプレも、ちび共も喜ぶからよ」

カシスは頷き、ガゼルは小さく笑った。二人が同時に振り向いたのは、下から彼らを呼ぶ声がしたからである。

「カシスさーん! ガゼルさーん! マスターとレイドさんがよんでますのー!」

「分かった分かった、今行く!」

「……おおかた用件の見当はつくけどね。 さっさと行こうか」

モナティに応えると、二人は階下へ降りていった。フラットのアジトの離れになるが、少し広い部屋があり、そこにレイドと綾は待っていた。周囲には、エドスとジンガもおり、スウォンもいて、落ち着き無さげに辺りを見回している。ガゼルとカシスに続いて部屋に入ったモナティは、ガウムを抱えて綾の隣にちょこんと座った。部屋の隅には、この間からアジトでかくまわれているローカスが、腕組みをして憮然としていた。最後に入ってきたリプレが戸を閉め、それを確認したレイドが口を開く。

「集まって貰ったのは他でもない。 皆の戦力強化を図ろうと思ってのことだ」

「ああ、そうだろうな。 ……あのアキュートって奴ら、連中と今後戦うことになったら、今の俺達じゃ全く歯がたたねえからな」

「結論から言うと、現在の我々は、経験と智恵を頼りに戦う者、肉体能力と勘で戦う者の両極端に別れている。 前者は私と綾、それにカシスとスウォン。 後者はガゼル、エドス、それにジンガになる」

ガゼルの言葉にレイドが被せて、皆の顔を見回す。元騎士であり熟達した剣術使いであるレイド、蒼い光と優れた頭脳を武器に戦う綾、膨大な戦闘経験を持つカシスに、幼少時から狩人として鍛えられたスウォンは言うまでもなくテクニカルファイターに属する。一方で、天性の素早さと勘を売りに戦うガゼル、生まれついてのパワーと頑健さを武器に戦うエドス、生まれついてのバネと鍛えた体を武器に戦うジンガは、言うまでもなくパワーファイターに位置する。ガゼルは頷くと、レイドの言葉に応えた。

「要は、互いの欠点を補強すれば、ちったあマシになるって事だな」

「そう言うことだ」

「ついでに、今まで戦力にならなかった奴らにも、力になって欲しいってわけだろ?」

ローカスとモナティの顔を見ながらガゼルが言い、レイドが頷く。皆の心は通じ合っていたから、非常に意志疎通は容易であった。話を振られた事に気付いたローカスは、鋭い眼光を辺りに鋳込みながら言う。モナティも、それに続いた。

「……あんたらには恩義があるからな、いや俺の事じゃない。 暴動を起こした人々を、必死に逃がしてくれたことに対する恩義だ。 ……だから手を貸すこと自体は吝かじゃない。 ただ勘違いするな、なれ合う気なんざ最初から無いからな」

「モナティも、マスターのためになるんだったら、必死に頑張りますのー!」

「ありがとう、二人とも。 となると、先ほどの分類で言えば、ローカスは前者に、モナティは後者に分類されるな。 どちらも優れた力の持ち主であるから、今後の戦力増強が期待出来る」

レイドは訓練用の剣で床を叩いた。そして綾に視線を移し、頷いた彼女が、同じように訓練用の剣を手にして立ち上がる。

「今から、レイドと私で模擬戦闘を行います。 それが終わったら、各自組み手をしてみて、互いの弱点を補強しあいましょう。 それが一段落ついたら、前者は体力強化に、後者は前者からの技術供与に、それぞれ徹するのが良いと思いますが、どうでしょうか」

「ああ、異存はない」

ガゼルに続いて、皆が頷く。まず最初にこの二人が組み手を行うのは、現時点のフラット内で最強の使い手だからである。綾とレイドは間合いを取ると、まず最初にお辞儀をして、剣を構えた。これは綾のお辞儀にレイドが乗せられた形であったが、ともかく戦いの開始を皆に告げる合図にはなった。そしてそれは、模擬戦とはいえ、実力伯仲の死闘となったのである。

 

戦いの最初の十五秒は、間合いのさぐり合いに終始された。綾とレイドは、じりじりと間合いを詰め、或いは距離を少しずつ開きあった。両者の間には、膨大な闘気が充満し、それは一秒ごとに密度を増していった。低めに剣を構えている綾に対し、レイドは高く剣を構えており、どちらもなかなか隙を見せなかった。二人の体からにじみ上がるオーラが見えるかのような迫力である。生唾を飲み込んだガゼルが、隣のエドスに囁いた。

「……なあ、アヤの奴」

「ああ、また強くなっとるな」

「仕掛けるよ、みんな黙って」

カシスのその言葉が終わると同時に、戦いが始まった。踏み込んだレイドが、斜め上から抉り込むように一撃を叩き込んだのである。対し綾は一歩退くと、剣先でそれを弾き、両者の剣の間に一瞬の均衡状態が訪れる。だがそれは瞬時に終わり、レイドは力任せに剣を弾くと、今度は逆方向からの一撃を叩き込んだ。それに対し綾は態勢を低くし、下から剣を跳ね上げるように防いで、間髪入れずに足下へのローキックを放った。今の奇襲はタイミング、早さ共に恐るべきものであったが、レイドは読んでいたかのようにバックステップし、耐え抜いた。今の一撃を凌いだレイドが体制を立て直し、綾がゆっくり立ち上がり構え直す。左目にかかった髪をゆっくりかき分けながら、綾は考える。無風状態の中、彼女の黒髪はさらりと音を立て、再び肩から背中へかかった。

『……やはり、新しく覚醒した力のもう一つは、戦闘技術の向上ですね。 おそらく基礎レベルから、熟練者レベルまでは上達しました。 しかし、接近戦における総合力では、今だレイドの方が上です。 ……ならば』

元騎士団員、しかも騎士団長の候補まで登ったこともあり、レイドは強い。特にレイドが傑出しているのが、卓絶した防御能力だ。今のローキックによる奇襲攻撃も難なく防がれているし、今までの戦いでも数人がかりの攻撃を何度も凌いで見せている。かといって攻撃がおろそかと言うわけではなく、その一撃は鋭く重い。レイドは剣技のみで戦っており、その戦闘スタイルに体術による攻撃は無いが、それでも充分以上に強かった。

だが、この間綾が対戦したラムダは、更にその遙か上を行く剣豪である。唇を噛んだ綾は態勢を低くしたまま、じっくりレイドへ間を詰めていく。対しレイドも構えを直し、両者は同時に地を蹴った。音を立てて間が詰まり、先にレイドが仕掛けた。轟音と共に振り下ろされた一撃を、綾はあの(断頭台)と被せた。少なくともこれを凌ぐことが出来なければ、ラムダに勝つことなど夢のまた夢である。そしてラムダに勝てなければ、民衆の犠牲を正当化する、彼の理屈を批判することも出来ないのだ。

戦闘技術が向上したことにより、綾の感覚の鋭さは更に増したが、それでも(集中)を使っている暇はない。また、純能力的には、綾には取り柄と言っていい物がない。彼女の強さを作り出しているのは、肉体戦闘能力よりもむしろ頭脳と(蒼い光の力)だ。しかし、あのラムダは小手先の理屈で勝てる相手ではない。轟音を立てて迫る大上段の一撃。綾は唇を噛むと、逃げずに前に出、相手の一撃に剣を合わせた。

鋭く響き渡ったのは、真剣が打ち合うような、澄んだ音だった。一人落ち着いているのは、茶菓子を口に運んでいるリプレのみで、他の者は目を皿にして事態を見守っている。

結果、両者は互いにはじきあった。パワーにおいてはレイドが上回っており、スピードに関しては綾の方が上だった。同一軌道での一撃は交差点にて両者を弾きあい、だが戦いの終結にはつながらない。レイドは再び中段からの一撃を、綾はそれを受けて立つ。一閃、二閃、そして三閃。訓練用の模擬剣が風を切り、鋭い軌道で弾きあう。鋭く響く風斬り音、鈍く響く激突音。四度、五度と鍔迫り合いが繰り返される。踏み込み、離れ、そして踏み込み合う。立ち位置が目まぐるしく入れ替わり、隙を見せぬ相手へさぐり合いが何度も入る。相手の剣を手から弾こうと、何度もひねりを加えた剣閃が走る。激しく剣がぶつかり合い、汗が疲労と共に飛び散った。

幾度めの鍔迫り合いを終え、レイドが離れようとした一瞬の隙をつき、綾が彼の両足の間に踏み込み、その胴へ密着状態から左手での掌底突きを見舞った。くぐもった声を漏らして、レイドは二歩下がり、片膝をつく。だが綾にしても、そう余裕はなかった。向上しているとはいえ、元々が大したことのない、いや極めて貧弱な部類に入る彼女の体力では、長期戦は苦痛だったのである。まして今回の戦闘は、今までとは違い、まともに相手と正面からぶつかり合っているのだ。今までの戦い、綾はきちんと戦略を練り、それに基づいて戦術を駆使して戦ってきた。しかし今彼女は、それらを捨て、自らの戦闘本能に依存する単なる一戦士として、一つの戦いに身を置いていた。なぜなら、そうやって(戦士)としての力量を増さねば、ラムダには勝てないことを無意識的に悟っていたからである。

立ち上がったレイドが再び構えを取り、綾がそれに対して構えを解き、目を閉じ呼吸を整えていく。双方のダメージ及び疲労は五分、しかも深刻。死闘の決着が近いことを、見物人の誰もが悟った。

「はあっ!」

この戦いで初めて、レイドが気合いと共に声をはき出し、床を蹴った。同時に綾が目を開け、剣を構え直す。閃光がはじけ、両者は交錯した。五秒ほどの沈黙の後、最初に膝を突いたのはレイドであったが、それから間をおかずして、意識を失った綾が正面から床に崩れ伏した。

今の一撃、レイドは一瞬早く猛烈な一撃を肩に貰っていた。だがそれを読み切り、何とか剣で受けて致命傷を押さえると、カウンターをこれ以上もないほどきれいに決めたのである。最終的に勝敗を分けたのは、結局経験と精神力であった。勝った方のレイドも肩で息をついており、大量に汗をかいてすぐには立ち上がれなかった。虚脱から立ち直ったモナティが綾に駆け寄り、揺さぶる。

「マスター! マスターっ! しっかりするですのー!」

「大丈夫、意識を失っているだけだ。 カシス、念のために回復を頼む」

「オッケ。 まっかせといて」

カシスがリプシーを呼び出し、綾の体を紫色の光が包む。ついでレイドも回復の光に包まれ、嘆息しながら立ち上がった。モナティが必死に呼びかけたせいか、まもなく綾は目を覚まし、半身を起こした。そして、素直な感想を漏らした。

「……流石はレイド、強いですね。 まだまだ私では勝てません」

「いや、君が蒼い光の力を使っていたら、あの掌底を受けた時点で負けていた」

互いの実力を認め合うと、二人は立ち上がり、壁がわに座り込んだ。どちらもこれ以上戦う余力がなかったというのが事実であり、また一刻も早く休憩したかったからである。彼らに変わって部屋の中央に出たのはガゼルで、彼は肩を回しながら言った。

「じゃあ、今度は俺達の番だな」

「よし、一丁やるか!」

他の者も銘々立ち上がり、激しい組み手が開始された。

 

二時間ほど後、一旦組み手は終了した。その間、リプレは時々離れと本館を往復していた。子供達を放っておく訳にはいかないからである。それに、彼女が補給するぬれタオルや軽食は、皆に大きな元気と活力を与えた。非戦闘員が果たすべき役割を、これ以上もなく良く把握しているリプレがいるからこそ、訓練は最上の効果を示したと言えるだろう。

手で顔を仰ぎながらガゼルが言う。彼に限らず、全員の動きは以前より遙かに向上している。綾にしても、純粋なストレングスは塔の力に頼らず随分上昇していた。それをもたらしたのは、言うまでもなく絶え間なく繰り返された激しい戦いである。体力だって、リィンバウムに来た頃とは比較にならないほど上昇していた。ただ、先ほどの戦いで示されたように、長期戦を行うにはまだ決定的に不足していたが。

「ひー、きついな。 明日筋肉痛になりそうだぜ」

「嘘こけ。 最近人目を盗んで訓練しとっただろうが」

「ケッ、ばれてたかよ。 そうだな、本当はまだ後ちょっとはいけるぜ」

ガゼルが言い、皆大笑いした。あの敗戦で悔しい思いをしたのは、何も綾だけではなかった。皆それなりに力不足を痛感し、容易に外出出来なかったここ数日の間も、我流で鍛えていたのである。タオルで額の汗を拭うと、ガゼルが言った。

「じゃ、弱点を言い合おうぜ。 ジンガ、お前攻撃受けた後の事考えてねえだろ。 防御自体は下手じゃないけどよ、それが失敗した後、攻撃が面白いように入るぞ」

「うっ、ばれてたか。 俺っちの正拳に耐えられる奴なんてなかなかいなかったから、かなりさぼってたんだ。 確かに、隙をつかれた後に耐える工夫が必要だな」

「そういうお前は、攻撃した直後に大きな隙ができるぞ。 かなり露骨にな」

「そういえば思い当たる節がある……改善しないと多分死ぬな」

ローカスに指摘されて、ガゼルが渋々認めた。元盗賊のローカスは皆が想像していた以上の使い手で、おそらくレイドや綾ともかなり良い勝負が出来るだろうほどの腕前だった。そんな彼にも、弱点が皆無だったわけではない。カシスが茶菓子を頬張りながら、ひらひらと指摘する。彼女は模擬戦用の短刀を使って、真剣であれば致命傷になるアタックを何度もローカスに決めていた。流石にローカスも黙ってやられてばかりではなかったが、カシスの実力は誰の目にも明かであっただろう。

「ローカスさ、攻撃も防御も上手いけど、手の内読まれた後の動揺が大きすぎない? さっき私に返し技決められたとき、物凄く慌ててたでしょ」

「うっ……そう言われると、返す言葉がない」

「ワシから言うとなると、カシスは加減を覚えて欲しいな。 確かにお前さんは強いが、今のままでは不必要な相手まで殺してしまうぞ。 それに、長期戦もおこなえんと思う」

「そだね、分かった。 何とかしてみるよ☆」

モナティはガウムと組んで、まず戦いそのものに慣れることから始めていた。二人の息はぴったり合っていたし、パワーは他に冠絶していたが、モナティは綾以上に気弱だったので、それだけでは戦いに生かすことは出来なかった。誰が言わなくても、彼女の弱点は純粋な経験度胸不足だと分かっていた(勿論本人も)ので、それについて特に触れる者はいなかった。続いて発言したのはレイドであり、彼はエドスの弱点を指摘した。

「後エドスだが、君は武器を使っての戦闘を覚えた方が良いな。 格闘戦闘については問題がないと思うが、やはり武器を持った相手と戦う場合、ある程度対策が出来ないと厳しいぞ」

「確かにその通りだな。 では、後で基礎から頼む。 ……スウォン、お前さんは、接近戦全般、それ以上に防御そのものが苦手みたいだな」

「そうですね。 僕は狙撃が専門ですから……。 確かに、今後勉強の余地がありますね」

皆が言い終えると、暫く考え込んでいたリプレが発言した。そしてそれは、嫌と言うほど当を得ていた。

「レイドは、何か切り札が必要なんじゃない? やっぱり何か切り札ないと、格上の相手には太刀打ち出来ないわよ」

「そうだな、確かにその通りだ。 後、アヤだが……」

レイドの言葉と同時に、皆が綾をみた。レイドは咳払いすると、言葉を続けた。

「……もう少し、自分に自信を持ってみてはどうだ? 君の弱点は、スタミナ不足に尽きると思う。 体力もそうだが、精神力の不足が特に目立つような気がする。 もう少し自信をつければ、それは難なく克服出来ると思うのだが……」

「……そうですね、確かに自分でもそう思います」

綾は下を見て、自嘲的に呟いた。その弱点を、克服する自信が彼女にはなかったのである。

 

今まで綾は、弱点が露呈すると様々な方法でそれを補ってきた。(釣り投石特訓)等はその最たる物であり、それによって実力を格段に上昇させる事が出来た。だが、強くなったが故に、今根本的な弱点が露出してきたことになる。今後絶対に克服せねばならない、根幹にある弱点が。

過剰な自信は身を滅ぼす元だが、実力に比してあまりにも不足した自信もまた力を削ぐ。綾は基本的に何かきっかけがないと行動しない娘だが、それは奥手という性格以上に、自分に対する自信のなさが原因となっている。リィンバウムに来てからも、その傾向に変動はない。

『……私、本当に……何も出来ない。 お父さんを助けることも……私自身を鍛えることも……』

今言われた弱点を元に、訓練を始める皆を見ながら、綾は心中で呟いた。彼女の中に、父泰三の冷たい顔がよぎった。(優しくて可愛い、何でも出来るお嬢様)というフィルターをかけてしか、綾をみようとしなかった同級生達がよぎった。今、綾は自分にとって大切な人達を護るという目的を得て強くなってきてはいるが、それらトラウマの存在は強大で、一朝一夕で克服出来る物ではなかった。

夕方近くまで続いた訓練は激しい物となり、怪我人も多く出たため、カシスのリプシーはフル回転した。今まで例外なくタフさを見せていたカシスであったが、流石の彼女も訓練が終わる頃には疲労の色が濃くなり、夕食を終えるとさっさと自室に戻ってしまった。最近は子供達と自発的に話すことが多かったから、その疲労の程が伺えようというものである。

更に四日間、似たような状況が続いた。流石に四日目になると、全員が揃って無口になってきたので、子供達が怖がった。元々体力の無い綾に至っては、筋肉痛が元で動きまで緩慢になり、たまりかねたリプレが休憩の実施を申し出、それは一も二もなく入れられた。

五日に渡って続いた激しい訓練の結果、フラットの面々はかなり実力を増すことに成功した。それに例外はなく、モナティも次からは実戦投入が可能な状態になった(まだ予備戦力ではあったが)。綾も更に剣技と力、勘に磨きをかけたが、彼女の顔は沈鬱だった。

最大の弱点である、精神的な弱さを、結局克服出来なかったからである。

 

夜、頬に手を当てて憮然とする綾の部屋に、来訪者があった。気配は非戦闘員の物で、既に子供達が起きている時間ではなく、極小の例外的可能性を排除すれば、得られる結論は一つしかない。

「リプレ? こんな時間にどうしたんですか?」

「ちょっといい? 話があるの」

小首を傾げて綾が戸を開けると、其処にいたのは案の定寝間着に着替えたリプレだった。寝間着のリプレを、綾は初めてみた。その意味に気付いた綾は、小さく息をのんだ。

『……! 考えてみれば私、リプレより後に寝たことがないんですね。 本当に私、この人に頼り切っています』

「ん? どうしたの?」

「う、ううん、なんでもありません」

「良かった、何か汚れでも付いてるかと思ったよ」

リプレは机の椅子を引っ張り出してそれに腰掛け、綾はベットに腰掛けた。小さな沈黙の塊が場を通り過ぎた後、リプレは笑みを浮かべた。

「……どうしたの? ずっと浮かない顔しちゃって。 子供達も心配してるよ?」

「すみません……その……」

「そろそろ、話してくれると嬉しいな。 自分に自信がない理由。 貴方なら、とっくに分かってるんでしょ?」

ずばり核心を突かれた綾は、逃げることも出来なくなった。口をつぐみ、膝を掴んで体を縮める。

『今まで色々力になってくれたみなさんに、もう隠すことは出来ません』

「……」

「分かりました。 情けない話ですけど、話します。 途中で情けない奴だって思ったら、遠慮無くぶってください」

「貴方のことを、情けない奴だなんて思う人間は、此処には誰もいないってば」

リプレが変わらぬ笑顔で言う。それを見て、綾は覚悟を決めた。そしてぽつぽつと、自分の(情けなさ)を語り始めたのである。

 

リプレは二時間近くも続いた綾の話に最後までつきあい、細部まできちんと聞いた。全てを語り終えた頃には、綾は感情の高ぶりを押さえきれず、ハンカチで涙を拭いていた。今まで逃げ続けてきたトラウマと、まともに向き合ったのは初めてだったからである。

「そっか。 貴方も、辛い思いしてたのね」

リプレの調子は最初から変わらず、綾は辛かった。元々の気弱さを強烈に刺激された綾は、おそるおそる視線を上げた。涙で曇った視界の中には、リプレの変わらぬ笑顔があった。綾は涙腺を強烈に刺激された。珍しく動揺したリプレの声が、綾の体を打った。

「な、泣かないでよ。 泣いても何にもならないってば」

「だって……私……」

「私達の情けない所を見せたばかりでしょ? これでおあいこよ」

「……はい」

リプレは小さく呼吸を整えると、再び視線を下に逸らしてしまった綾に言った。

「……正直な話ね、私、貴方の事を情けないだなんて思わない。 貴方の悩みは本当に深刻な物よ。 同じ情況にあったら、私だって、きっと気弱になって、自分に自信を持てなかったと思う。 自分の存在に価値がないって、思ったかも知れない」

「でも、私は……」

「待って、まだ話があるの。 ……私ね、みんなが思ってるような強い人間じゃない」

再び暴発しかけた綾の言葉を遮ると、リプレは自嘲的に言い、続けた。

「そして思うの。 貴方も、弱いときばかりじゃないでしょ? 戦いの時、何かみんなに危機が近いとき、そんな時の貴方の強さは本物よ。 それについては、私が保証する」

「……」

「私も、それと同じ。 私が強くなれるのは、私を必要としてくれているみんながいるからよ。 ママって呼んでくれる子供達がいるからよ。 もし子供達がいなかったら、私はきっと、弱くて小さな、ただの女の子に過ぎなかったはずよ」

リプレの言葉が終わると、再び小さな沈黙の塊が、幾つか場を通り過ぎていった。ランプの中で火が燃える音が、いつもより遙かに大きく響いていた。

「強さなんてのは、客観的に見るものよ。 単純そうで、でも実は物をよく見ているジンガ君が、貴方を強いって認めてる。 皮肉屋のガゼルも、冷静なレイドも、みんな貴方の強さを認めてる。 スウォン君やモナティなんて、貴方を恩人だって思ってるのよ。 だから、少しで良いから、その強さを認識して見ようよ。 自分の中にある力を、強さと認めてあげようよ。 ほんの少しでいいから」

「私……私……」

「すぐに、でなくていいよ。 心なんて難儀な物で、体以上にすぐに強く何てならないんだから。 むしろ、貴方は確実に強くなっているはずよ。 だって、条件付きであっても、手強いって分かり切ってる相手に、戦いを挑めたんだから。 自分の命を天秤にかけることだって出来たんだから」

 

リプレが部屋を去った後、綾はベットの中で一人落涙していた。リプレの言葉があまりにも心強かったこと、仲間の中に自分がいること、を改めて悟ったからである。それは悲しみの涙ではなく、嬉しさから来る涙であった。

綾の故郷の世界では、無意識的に(弱い奴はそれ自体が悪い)というような、特に心に関してはそんな無情な考えがまかり通っていた。誰も表だって口に出す者はいなかったが、人々の心の奥底では、そういった酷薄な考えこそが主流であり常識だった。強い人間など、そして強くなりうる人間など、数えるほどしかいないというのに。そんな考えが、弱い者に対する虐待を正統化するだけの物だと分かり切っているのに。誰もが、自分と比較して弱き者を痛めつける口実を得るため、そんな暴論を心の奥底で認めていたのである。だが、リプレの言葉は違った。彼女の言葉は、人の弱さをきちんと受け止めた物であり、故に極めて現実的に綾の心を慰め、包んだ。

いつの間にか、綾は眠りに落ちていた。そして翌朝には、その体調は幾分か回復していた。更に心には、僅かながらの余裕が産まれていた。自分の価値を他者が認めてくれていることを強烈に認識したため、それはなった。生まれて初めて、綾の心の中に自信という物が芽生えた瞬間だった。

 

2,死の伝染病

 

暴動が発生して、ほぼ半月が経過した。一時期は全閉鎖していた工場であったが、その半数も再稼働を開始し、ようやくサイジェントは平安を取り戻したかに見えた。だが、その出鼻をうち砕くように、死の風が街を包んでいったのである。

フラットは休憩期間を挟みながら実戦訓練を繰り返していたが、重大な事件が発生し、継続を断念せざるを得なくなった。事の発端は、昼の休憩に入った綾が、明らかに様子がおかしいラミを発見したことであった。

最近は、ラミは綾にもカシスにも会えば必ず笑いかけてきたし、余裕があるのを見て取ると必ず絵本を読んで欲しいとねだった。しかし釣りから戻り、昼食を終えた綾が見つけた彼女は、階段の上に座り込んだまま微動だにしなかった。しかも顔は蒼白で、いつもにもまして動きが乏しい。年頃の娘だけあり、綾は子供に対する観察眼に長けていたから、不安を感じながら呼びかけた。

「ラミ、どうしたの?」

「お姉ちゃん……あつい……」

無言のまま綾がラミの額に手を当てると、そこは火鉢のような有様だった。反射的に手を放した綾は、ラミを抱きしめて、絶叫していた。

「リプレ! リプレっ! ラミが、ラミが大変です!」

「どうしたの!」

「熱があるみたいです! それも、凄く高い!」

洗濯物を放り出したリプレが駆けつけるまで、丁度十秒。彼女はラミを抱きかかえると、直ちに子供部屋に走った。床に紙を広げてはしゃぎながらお絵かきをしていたアルバとフィズ、人形の髪の毛をいじっていたフラウは何事かとその様を見たが、リプレが無言でラミをベットに寝かせたのを見て蒼白になった。

「か、母さん! ラミ、どうかしたの!」

「落ち着いて、熱が出ただけよ。 きっと風邪ね。 移るかも知れないから、部屋の外に出ていて!」

「え、でも、一緒に」

早くしなさいっ!

リプレの表情が、それ以上の反論を封じ込んだ。綾はくみ置きの水を運んでくると、タオルをそれに浸してリプレに渡した。感謝の言葉もそこそこに、リプレはタオルをラミの額に優しくかけた。小さなラミの手を握りしめ、勇気づけることも忘れない。

「リプレママ……。 ラミ、熱い……」

「大丈夫、すぐに良くなるわ。 だから、ゆっくり休みなさい」

「うん……」

羨ましいな、と綾は思った。彼女が風邪を引いたとき、こんな風に接してくれる人など、故郷にいなかったのである。だが、そんな風に思っていられるのも、そう長いことではなかった。

 

居間で不安げにしているガゼルと綾の前に、リプレが戻ってきたのは数時間後だった。リプレは疲れ切っていたが、ガゼルの問いに答えうる余力は残していた。

「どうだ、ラミの様子は」

「風邪薬を飲ませたら、何とか熱は下がったわ。 今、やっと眠った所」

「他のちび共は?」

「第二子供部屋に移って貰ったわ。 しばらくモナティに遊んで貰う事にしたけど、大丈夫かしらね」

それだけ言い終えると、リプレは肩を叩きながら、綾が集めた洗濯物を受け取り、干し始めた。その背後に、綾が不安げに声をかける。

「今、レイドに医者を呼んで貰っています。 万が一のこともありますし」

「ありがとう、アヤ」

「少し休んでろよ、後は俺達で何とかするからよ」

「そうはいかないわよ。 私は主婦で、このフラットの家事を預かってるんだから」

ガゼルの言葉をぴしゃりと断ち割り、リプレは家事に戻った。暫くしてレイドと共に医師が表れ、深刻な顔で十分ほど会談した後、帰っていった。五時間が過ぎると、事態の悪化は破滅的な勢いを伴い始めた。

「何で目ぇさまさねえんだよっ!」

「わかんない、わかんないよっ!」

ラミのベットの横で、ガゼルが絶叫した。その横では、リプレが必死に手を組み合わせて何かに祈りを捧げている。ラミは熱が下がったというのに、揺れどさすれど目を覚まそうとはしなかった。呼吸は不規則で、夢を見ている様子もない。そればかりか、体温は目に見えて低下し始めていた。

「マスターっ! 大変ですのーっ! みんなが、みんなが!」

蒼白な顔のモナティが部屋に駆け込んできたのはその直後だった。彼女が導くまま、第二子供部屋に駆け込んだ皆が見たのは、床に倒れて眠り込む子供達の姿だった。全員、ラミと同じ症状である。もはやこれが風邪などではないということは、誰の目にも明かであった。へたり込んだリプレが、静かに泣き始めた。誰にも、慰めるべき言葉が見つからなかった。

丁度その時、エドスと一緒にレイドが戻ってきた。そして彼は、リプレとガゼルの言葉を聞くと、皆に居間に集まるように促した。そして、恐るべき事を口にしたのである。

「……まず、ラミ達がかかった病気のことから話そう。 あれはメスクルの眠りと呼ばれる伝染病だ。 別名、死の眠りとも言う。 この地方の風土病で、十数年に一度流行する」

「おいおい、まてよ、俺達初めて聞くぜ、そんな病気」

「まあ聞け、話はこれからだ。 病の特徴は、以下の通りだ。 まず第一に、子供にしか感染しない。 感染力は極めて強く、空気感染もする。 感染者はまず高熱を出し、その次に眠りにつき、早ければ一日、遅くても二日後に、そのまま死んでしまう。 致死率は六割を超えるそうだ。 更に、もう街では、数十人も死者が出ていて、しかも被害は拡大しているらしい」

「……っ!」

リプレが両手で口を押さえ、絶句した。綾は、此処まで脆いリプレの姿を初めて見た。先日慰めてくれた際の言葉は、正真正銘の本音だったのである。だからこそ、それには重みがあった。だからこそ、それは綾の心を揺り動かしたのである。レイドは出来るだけ平静な口調で、言葉を続けた。

「本来は、この病気はさほど怖い物ではない。 トキツバタという薬草から簡単に作れる特効薬を飲めば、ほぼ百パーセント直る上に、二度と感染しないからだ。 ガゼル、リプレ、お前達は子供の時にかかって、おそらく悪化する前に薬を飲んだんだろう」

「その薬は、何処にあるんだよっ!」

「今、私とエドスで、八方手を尽くして探してみたが、無い。 本来日持ちこそしないが非常に安い薬なのだが、今は何処にもない。 話によると、城の召喚師達が買い占めたらしい。 どうも連中は、この病が発生する周期を知っていて、それに併せて薬を買い占めたらしい。 そしてこれから高値で売りつけて、大もうけするつもりだろう」

「や、野郎……っ!」

拳を固めたガゼルの目に殺気が宿った。当然の話であろう、そんなことをすれば召喚師達は確かに儲かるだろうが、同時に貧乏人には薬が行き渡らないのだ。つまり召喚師達は、知っての上で、そのような蛮行をしたことになる。貧乏人は死ねと、言っているのと同じであった。レイドはぎりぎりと歯をかみしめるガゼルに、冷静な一言を放った。

「落ち着けガゼル。 怒るのはいつでも出来る。 今は現実的な対応策を考えよう。 あの医師も、薬がないから手の打ちようがないと言っていた。 だが、流石に召喚師達も街中の医師から薬を買い占めたわけではあるまい。 私はエドスと、これから闇医者も含めて更に手を広げて調べてみる。 他の者達は、薬そのものを何とかして探してくれないか」

ゆっくり立ち上がったのは綾だった。彼女は頷くと、率先してフラットのアジトを飛び出した。それに続いたのはジンガ、ガゼル、それにモナティだった。ローカスは出歩きたくても無理だし、スウォンは呼びに行く暇がない。フラットのアジトを出る際、綾の目には、涙を流して途方に暮れるリプレの姿が映っていた。彼女のためにも、全身全霊を尽くして行動せねばならなかった。

「アネゴ、どうする?」

「ジンガ君、繁華街は任せます。 心当たりは片っ端から当たって、もし薬があれば人数分買い取ってきてください」

「分かった!」

ジンガはそのまま繁華街にかけていった。綾はガゼルに振り返ると、真剣な眼差しで言った。

「方法は二つあります。 薬及びその材料を見つけるか、確実にある所から奪うか」

「……そうだな、確かにいざというときは、城に忍び込むしかねえ!」

「はい。 でも、後者の方法は危険すぎますし、可能な限り避けましょう。 トキツバタ、という薬草の特徴は分かりますか?」

「いや、しらねえな。 ……先生の部屋にも、医学書の類はなかったはずだ」

ガゼルは必死に頭を巡らせ、残念そうに首を振った。綾はそれを見ると、多少表情を和らげた。

「では、専門家に聞いてみましょう」

「うん? 心当たりがあるのか?」

「漢方医ですが、おそらく薬草の知識はあるはずです。 そこで駄目なら、手分けして適当に薬屋に駆け込んでみましょう。 もしそれでも駄目なら、スウォン君に聞いてみましょう。 森で生きている彼なら、野草や薬草に関して詳しいはず」

「す、すごいですのー! マスター!」

綾が並べた論理的な言葉に、モナティが感動して手を叩いた。ガゼルは小さく嘆息すると、少しだけ落ち着きを取り戻して言った。

「すまねえな、なんか希望が湧いてきた。 俺だけじゃ何ともならなかった。 感謝するぜ、綾」

「いえ、感謝は皆が助かってからにしてください」

綾はそれだけ言うと、自ら率先して走り出した。以前ウィゼルという老人を助けて寄った、あかなべという店が、彼女の目的とする場所であった。綾の目には、静かな炎が宿っている。市民をとことんまで無視した政策を採る召喚師達への怒り、そして恩人たるリプレをこれ以上泣かせてはならないと言う思い。それらが渾然一体となり、心をいつもより、いや常人より、何倍も強靱にしていたのである。

 

あかなべは相も変わらず個性的な姿で存在しており、また営業中の看板が掛かっていた。一見した所では、薬屋に見えないその佇まいが故か、こんな情況でも周囲に客の姿はない。店がどれかを悟ったガゼルは、いてもたってもいられず走り出した。

「あの店だなっ!」

「あ、ガゼル、危ない!」

「ちょっとちょっと、きゃあああああああっ!」

鈍い音が響いた。走り出したガゼルと、店の向こうから鍋を持ってかけてきた女の子が正面衝突しそうになった。女の子が避けようとして転び、ガゼルがそのクッションになって尻餅をつき、十字に折り重なった二人は怪我らしい怪我もせずに済んだ。ただでは済まなかったのは二人を止めようとした綾で、女の子の手から飛んだ鍋が、見事なまでに彼女の顔面を直撃していたのである。幸い鼻が潰れて血が出るような惨事には至らなかったが、綾は顔を押さえ、無言で地面に座り込んだ。

「ま、マスターっ! しっかりするですのーっ!」

「だ、大丈夫ですから、ゆさぶらないで

「はいですの」

流石に綾である。以前、金ダライの直撃を頭にもらった後、揺さぶられて意識を失った二の轍は踏まない。やがて綾は顔を拭って立ち上がったが、額にはこぶが出来ていた。無言のまま笑みを浮かべる綾には妙な迫力が宿り、ガゼルと、駆けてきた女の子はひたすら謝り倒した。

「す、すまん」

「ご、ごめんねごめんね、後で治療したげるから」

「ううん、そんなことはもういいんです。 それよりも、貴方は確かアカネさん、でしたか?」

「うん? キミキミ、アタシのことどーしてしってるわけー?」

綾は笑みを浮かべると、事情を説明しながらあかなべの戸を開けた。

「以前、此処に寄ったとき、正面衝突したのを覚えていますか? その時、中からお名前が聞こえた物ですから。 すみません、営業してらっしゃいますか?」

「はいはい、営業しておりますよ」

中から声がして、現れたのは、以前と同じ店主のシオンだった。綾は反射的にいつものように完璧な角度でお辞儀をすると、用件の説明に移った。

 

「なるほど、メスクルの眠りですか。 それにトキツバタを利用した薬がいると」

「はい、四人分です。 何とかなりませんか?」

客の間に通された綾、ガゼル、モナティの前で、シオンは茶を飲んでいた。綾の額には、既に異様な手際の良さで、アカネが手当を施しており、当の本人はシオンの後ろでそわそわしながら情況を見守っていた。不安を抱えているのではなく、単に落ち着きがないだけのようだった。シオンは細目の細面に笑みを浮かべると、綾の問いに答える。

「……今はありませんが、作ることは容易ですよ。 本来茎をすりつぶして飲むだけで効く薬ですしね。 それに加えて、私の薬は、効果が強く長持ちするように特別な加工を施しますが」

「本当ですか? 有り難うございます! お値段の方は、どうなりますか?」

「ざっと、この位になります」

「……話にならん、帰ろう」

値段を見た瞬間、ガゼルが綾の袖を引いた。それはあまりにも高すぎる金額だったからである。今のフラットに、そのような薬、一人分でも買う余裕はなかった。その言葉に対し、後ろで見ていたアカネが、手を振り回しながらシオンをフォローしようとする。

「確かにこれって少し高いけど、仕方ないよ! だってだってだって、ししょーのは特別製なんだよ? 何せしの……ふぐっ!」

『え? 早い!? ……ガゼルより早いかも知れませんね。 それにしても、しの? ……まさかとは思いますが、忍び?』

綾の目の前で、無言のままシオンがアカネに突っこみを入れ、お喋りすぎる女の子は沈黙して床に蹲った。表情を一切変えずにシオンは顔を綾に向け直し、言葉を続ける。

「実は、条件次第では、薬代をまけて差し上げてもよろしいと考えています。 その条件、聞きますか?」

「かまわねえぜ。」

「私も、その言葉に同意します」

「良いでしょう。 其処の不肖の弟子に、先ほど私の薬の、トキツバタ以外の材料を集めさせてきました。 それで、あなた方には、トキツバタそのものを取ってきて欲しいのです。 なにぶん、大まかな位置は分かっているのですが、まだ何処にあるかは分からないのです。 それで、此方としても協力して欲しいのですよ」

ガゼルが眉をひそめて何か言おうとしたが、綾は無言でその袖を引っ張った。今の条件に同意すると、綾は部屋を出た。その服を、モナティが引っ張った。

「あの、マスター」

「うん? どうしました?」

「あまり難しい話は分からなかったですけど、くさをみつければいいんですの? それならば、モナティがお役に立てるはずですのー!」

モナティは目を輝かせて言い、不審そうにそれを見るアカネに言った。

「アカネさん、探すくさ、少しでもありますの?」

「うんうん、あるよ。 ええとね、これが図。 で、これが枯枝と葉っぱ。 これだけじゃ全然足りなくて、それで探しに行かなきゃ行けないのさ。 それでねそれでね、生えてる所、結構広くて、探すのかなり大変でさー」

モナティは説明の半ばで葉に鼻を近づけると、数秒間匂いを嗅いでいたが、やがてにんまりと笑みを浮かべた。

「覚えましたの! 絶対に見つけてみせますのー!」

 

サイジェントの北東部に存在するスピネル高原は、地獄の蟻塚と呼ばれる鉱山地帯と街のほぼ中間点に存在し、比較的安定した気候の、風光明媚な土地である。だがこの辺りには人間を襲うはぐれ召喚獣の巣があるほか、幾つかの小さな盗賊団が出没するため、ピクニックに出かけられるような場所ではない。故に綾は一旦アジトに戻り、改めて捜索隊の編成を要請、編成後に出撃したのである。

トキツバタ捜索部隊は、エドスとローカスを留守番に残したフラットの戦闘要員全員であった。即ち、綾、レイド、ガゼル、ジンガ、カシス、スウォン、モナティとガウム、それにアカネを加えた計九人である。本来、戦力は最大限を動員したい所なのだが、リプレの状態といい、またローカスは昼間から外を彷徨くわけには行かないこともあり、ある程度の人員が残る必要があった。最前衛をスウォンが、最後衛をカシスが務め、中央にレイドが位置して全体に指令を出す。スウォンの一つ後ろには、葉っぱが一枚だけ着いたトキツバタの枯枝を楽しそうに振り回しながら歩くモナティがいて、その隣では綾が油断無く目を辺りに光らせていた。

綾の背後にいるのはガゼルである。彼は時々ちらちらとアカネに視線を送りながら言う。

「なあ、アヤ。 あの店主、何であんな妙な条件出しやがったんだ?」

「どうかんどうかーん。 こんな任務、アタシ一人でじゅーぶんなのにさ」

話に嘴をつっこんだアカネに笑みを返すと、綾は時々辺りに気を配りながら応える。一応周囲は開けているが、凹凸はかなり多く、奇襲を受ける可能性は否定出来ないからである。辺りには何かが隠れるような大木やブッシュ、それに大岩などはさほど多くはないが、だからこそ油断無く気を配らねばならないのだった。

「おそらく、私達に薬を分けてくれるつもりなんですよ。 そう信じましょう」

「あ、そっかそっかー。 師匠あれでお人好しだからねー」

「ケッ、だと良いんだがな。 何か企んでんじゃねえだろうな」

ガゼルとアカネは頬を膨らませ、互いに牽制しあうとそっぽを向いた。精神年齢がほぼ同等の幼さなため、互いに譲り合うと言うことが出来ないのである。

高原にはいると、景色が目立って良くなってきた。草の丈が下がり、歩きやすくなり、また空気自体も綺麗になった。だが、傾斜は目立って急になったので、進みやすさ自体は却ってマイナスとなった。しばし斜面を歩み登った後、モナティは何度も鼻を鳴らし、スウォンの袖を引っ張って率先して歩き始めた。

「くんくん、マスター! 近いですのー!」

はしゃぎながら、半ばスキップするように駆けていくモナティ。だが、その腕を、スウォンが掴んだ。同時に皆が停止し、周囲に対して警戒態勢を取る。それを見て慌ててモナティも、ガウムが変化した棒を握りしめて、辺りを見回した。何も感じることが出来なかった綾は、鯉口を切りながら、スウォンに聞いた。

「スウォン君、どうしました?」

「……鉄の匂い、それに草を切る匂い。 更に、多数の足音が聞こえます」

一旦腰を落とすと、狩人の少年は耳を大地につけ、そして頷いた。彼の言葉に、アカネとカシスも同調する。

「ああー、確かにアタシの鼻にも少しにおうね」

「……数は三十人……いや、遠くにいる分入れると、もっとずっと多いかな。 どする?」

「正体を確認しよう。 モナティ、その音の方に、トキツバタはあるのか?」

レビットの少女は、問いに即座に頷いたので、やれやれとレイドは頭を振った。近くにバンカー状の盛り上がりがあったので、一旦それの裏側に隠れると、レイドは言った。

「アヤ、どうするべきだと思う?」

「おそらく、盗賊団ではないと思いますけど、用心に越したことはありません。 一応偵察してから対策を練るべきだと思います」

「うむ、そうだな。 カシス、偵察頼めるか?」

「へいへい、行って来るよ☆」

カシスは頷くと、気配を消し、見る間に丘陵の向こうへ消えていった。それを見送ると、アカネが驚いたように言った。

「あの子何者? かなり凄腕だよ?」

「さあてな、俺達にはまだ過去のことは話してくれねえから、良くわからねえ。 でも、俺達の大事な仲間の一人である事に代わりはねえよ」

ガゼルが言い、傾斜にもたれかかって休息に入る。無言のままに、体力に余裕があるジンガが見張りをかってで、他の者達は自然に休憩に入る。心が通じていると言うよりも、自然に組織行動が行われている様を見て、アカネは小さく口笛を吹いた。

 

しばしして、カシスは戻ってきた。彼女は綾が渡した水筒の水を遠慮無く飲み干すと、手の甲で唇を拭いながら、客観的な状況報告を的確に行った。

「トキツバタを発見したよ。 ただし、同時に鎧を着た人達の団体さんも。 数は三十三、剣を持ったのが十五、槍が十二、弓が六。 みんな相当に強いね☆ で、彼らはあくまで監視を行ってるみたい。 その向こうで、どうも雇われた人夫らしいのが、トキツバタを採集してたよ。 ざっと見た所でも、トキツバタの育成地域全体が彼奴らに押さえられてたよ」

「鎧の色と、紋章は分かるか?」

カシスは問いに、棒で地面をひっかくことで答えた。描かれた図形を見たレイドは、頭を押さえて嘆息した。

「間違いない、サイジェント騎士団だ」

「厄介だな。 で、その騎士団が、何でこんな所にいるんだ?」

「おそらく、このままだとまた暴動が起こると領主さんが判断したんだと思います。 メスクルの眠りの特効薬を大量生産して配ることで、恩を売るつもりでしょう。 騎士団はその護衛かと思います」

「……どうする? まともに戦って、勝てる相手じゃねえぞ。 かといって、退いてくれと言って素直に退いてくれるとも思えねえし」

ガゼルの懸念はごく常識的な判断に基づく物であり、皆も同意して頷いた。だが、綾は、カシスに真剣な問いを投げかけた。

「カシス、何人まで減らせば、太刀打ち出来ますか?」

「本気? そうだねえ、今の私達の実力だと、君抜きで十四五人とトイトイかな」

「分かりました、では私が何とかして、二十人をくい止めます」

「「……大丈夫か、アヤ?」」

ガゼルとレイドが同時に問いを発し、綾はカシスが好きな、困ったような笑みでそれに応えた。カシスが、綾が取ろうとした手に気付いて、手を打った。彼女には、心当たりがあったのである。

「多分、大丈夫です。 新たに召喚出来るようになった、(彼)の力を使えば」

 

3,法と命と意地と剣と

 

「止まれ! 何者だ!」

綾達が進み出ると、予想通りの反応で騎士団が迎えた。自然に反包囲陣形を取る所と言い、油断無い対応といい、流石に士気も訓練も優れている。その中にいる指揮官に、綾は見覚えがあった。最初にリィンバウムに来たとき、サイジェントへはいるのを見逃してくれた青年だった。

「あ、貴方はあのときの!」

「おや、君は! そうか、その様子だと、街に入って仲間を得ることが出来たんだな」

「はい、おかげさまで。 私は、樋口綾と言います。 その節は有り難うございました」

「私はイリアス、このサイジェントの騎士団長をしている。 私こそ、よろしくな」

相変わらず完璧な角度で礼をする綾。場を一瞬和やかな雰囲気が包むが、それをうち砕いたのは、綾の恩人の隣に立っていたおかっぱの小柄な娘だった。何とも神経質な感じを周囲に与える娘で、上級騎士らしくかなり良い装備を身につけている。目には知性の輝きがあったが、好感を与える雰囲気とは言い難い。

「おほん、此処は騎士団が管理下に置いています。 即刻立ち去りなさい」

「此処に咲いているトキツバタが、我々には必要なんです、少しだけでも採取させて頂けませんでしょうか」

「駄目です。 許可出来ません」

「サイサリス、私が話をする」

にべもない言い方をするサイサリスに青年は苦笑し、手で制止すると、真剣な表情で綾に向き直った。そして、彼女の予測が尽く的中していたことを裏付けた。

「此処に生えている薬草は我々が採取し、領主様の名と騎士団の名誉にかけ加工し平等に配る予定だ。 無論、南スラムにも配布する。 だから、此処は退いてくれないか?」

「ケッ、どうせ金持ちや貴族が先なんだろ? 俺達のアジトにいるちび共は、もう発症しちまってて、下手すると今日中には死んじまうんだ。 それじゃ間に合わないんだよ」

「それは分かるが、我々とて引き下がるわけにはいかないんだ。 諦めてくれ」

ガゼルが横に手を振り、イリアスが穏やかにだが妥協のない口調で言ったため、空気が目に見えて帯電した。見かねたように前に出たのはレイドである。レイドの顔を見ると、青年は一礼した。

「レイド先輩、お久しぶりです」

「イリアス、立派に騎士団長を務めているようで何よりだ。 この件については、私からも頼む。 確かに国家の力を使えば、より多くの者が助けられるだろう。 しかし私の元や、南スラムには、一刻を争う患者が少なくないんだ。 見逃してはくれまいか?」

「先輩、それは出来ません。 例外の看過は法の力を弱め、説得力を薄め、下々への示しがつかなくなります。 騎士たる貴方なら、分かっているはずです」

「騎士だからこそ、譲れぬ線がある。 騎士だからこそ、護らねばならぬ者がいる。 この件について、私は退くわけには行かない」

レイドが一歩前に出た。その間、綾は素早く周囲に視線を走らせ、地形、兵力、更にその配置を頭に叩き込んでいた。レイドとイリアスの間に、一秒ごとに戦気が高まっていくが、こうなることは分かり切っていた。故に、まず最も平和そうな容姿の綾が交渉を申し出、敵の司令部に接触する事。途中からレイドに話を変わって貰い、綾が(狙いをつける)間の時間を稼ぐこと。この二つを先に打ち合わせしておき、今台本通りに実行したのである。綾がレイドに目配せを送り、準備が万端整った事を告げる。レイドは剣を引き抜くと、静かに、だが決意を持って言った。

「イリアス、どうしても駄目か?」

「先輩、その要求はのめません。 どうしてもというなら、この自分を倒していってください」

「分かった。 ではそうさせて貰うぞ、イリアス!」

レイドが構えを取り、騎士団員達が一斉に剣を抜こうとした。だが、次の瞬間、場を蒼い光が覆った。何事かと騎士団員達が向けた視線の先には、煌々と蒼光を纏う綾の姿があった。そして綾は印を切り、右手を高々と挙げながら叫んだ。

「誓約において、樋口綾が命ずる! 我が敵に怒りの雷を放て、ガフォンツェア!」

空間に穴が空き、丸っこい姿が現れる。それは、さながら、鉄で出来たかぶと虫。かぶと虫の召喚獣は、機械音を立てつつ、体の側面の皮膚を一カ所開いた。次の瞬間、十発ほどの小型ミサイルが宙に打ち上げられ、空中で制止すると、角度を変えて地面に降り注いだのである。

響き渡る爆音、吹き飛ぶ地面。慌ててミサイルから逃げようとする騎士団員達を後目に、ミサイルはあらかじめ定められていた位置に着弾していた。煙が収まると、黒く太い線が高原に引かれており、騎士団は中央から二手に分断されていた。慌てて合流しようとする騎士団が見たのは、先ほどとは逆の側面を開くかぶと虫の怪物、そして蒼い光を纏い続ける綾の姿だった。

「これ以上来るなら、当てます」

明らかに召喚獣、そして召喚師。光を纏う綾の姿、それに司令部から切り離されている事実は騎士団員達の突撃する意欲を削ぎ、無言の睨み合いが続いた。睨みを利かせる綾の後方では、司令部及び十名ほどの騎士が、激しい交戦を行っていたが、残り二十名強は加勢することがかなわなかった。綾は自分で主力から切り離した騎士達に睨みを利かせながら、必死に精神力を搾り続けていた。何しろ相手は騎士であり、少しでも油断すればすぐに擬態が見破られてしまうからだ。

綾が召喚したのは、ロレイラルの召喚獣ガフォンツェア。全身にミサイルポッドを装備し、現時点で一度に十発の、五十センチほどの小型ミサイルを発射することが出来る、広範囲殲滅戦に最も適した召喚獣である。綾が手に入れた二つ目の力は、召喚術の全体的な強化で、それに伴ってガフォンツェアも召喚出来るようになったのである。

ガフォンツェアはヴォルケイトスより若干綾に従順だったが、命中精度は比較的低めで、これだけ綺麗に狙いをつけられるようになるまではかなりの特訓を必要とした。更に、トキツバタや騎士団の者達を傷つけぬように、綾はミサイルを撃たせる瞬間も冷や冷やのし通しだったのだ。この召喚獣の消耗はヴォルケイトスより多く、リピテエルより多少少ない程度である。即ち、二発目を撃てば確実に綾は意識を失う。その弱みを悟られぬよう、出来るだけ戦意を纏ったまま、綾は味方が勝利するのを待ち続けた。

 

「小賢しい真似を……」

ぼそりと呟くと、サイサリスは愛用のレイピアを鞘から引き抜いた。周囲は戦場になっているが、著しく戦況は悪い。決して騎士団員は弱くはなかったが、相手が悪かった。イリアスはレイドに係りっきりだし、他の者達は明らかに力量が上の相手と苦しい戦闘を繰り広げている。だが、冷静に戦況を見ていたサイサリスには、勝利すべき点が見えていた。ゆっくり視線をずらした彼女の視界に、蒼き光を纏う綾の背中が入る。無言のまま地を蹴り、サイサリスは綾に突進した。

「おっと、そうはいかないよ☆」

無言のままサイサリスは横に飛び、かろうじて致命的な一撃を避けた。彼女の眼前には、六本の剣が刺さっている。それらは、もしあのまま突進していたら、間違いなくサイサリスの全身を貫いていた。天から降ってきた剣は、召喚術の産物に間違いない。サイサリスが立ち上がりつつ振り向くと、そこには綾の後ろに影のように控えていた娘がいた。その右手にあるのは小さなナイフだが、良く研がれているのが一目瞭然である。どこか線がきれたような笑みを浮かべている娘だが、その目の奥には、時々ぞっとするような殺気が宿った。一般人はともかく、サイサリスにそれは隠せなかった。娘は肩をすくめて、おどけたように言う。

「出来れば大人しくしていてくれないかなー。 私としても、力量が接近した相手を殺さないで伸すってのは骨でさ☆」

「お黙りなさい」

軽く音を立てて、サイサリスは地を蹴った。見る間に娘との距離が縮まっていく。この娘が相当な使い手であることは、サイサリスには一目瞭然だった。油断すれば一瞬で殺される、それは正しい認識であっただろう。惜しむらくは、サイサリスには集団戦の指揮経験は豊富でも実戦経験が不足していたことである。

繰り出されたレイピアを、召喚師の娘がナイフで弾く。そのままナイフの刃を滑り込ませるようにして懐に入ろうとするが、それを読んでいたサイサリスはレイピアを引き、膝蹴りを敵の腹部に叩き込もうとした。だが召喚師はバックステップし、その手には乗らなかった。二度と懐に入らせまいと、サイサリスは連続して刺突を叩き込もうとしたが、敵はむしろナイフを防御に使い、的確にそれを弾く。そればかりか、時々伸び上がるように踏み込んで懐に入ろうとした。密着戦に持ち込まれたら負ける、そうサイサリスは本能的に悟り、切り札である(蝶連舞突式)を繰り出した。それは不規則な軌道から、渾身の一撃を敵に叩き込む技であり、イリアスを除いて今までそれを破ることが出来た者はいなかった。眼前の敵も、対応に遅れ、サイサリスは勝利を確信した。

「アカネちゃん、ご苦労さん」

その言葉の意味が、最初サイサリスには分からなかった。だが、次の瞬間、彼女の延髄に強烈な手刀が決まった。薄れ行く意識の中で振り向くと、朱色の服を着た敵の仲間の一人が、笑みを浮かべていた。今の戦いの隙に、気配を消して回り込んでいたのである。

「いえいえ。 アタシには軽いもんだわ」

「ひ……きょうもの」

「ごめんね、私、勝つためには手段選んでられないんだ。 まだ手加減上手く出来ないから、出来る奴の手借りたけど、恨まないでね☆」

手を合わせて謝る娘の姿が、意識を失う前に、サイサリスが最後に見た人影だった。

 

イリアスとレイドの戦いは死闘となった。イリアスの剣は兎に角早く、またその精度も高かった。だが重みに欠け、どうしてもレイドの防御網を突破出来なかった。更にスタミナ面でも若干レイドに劣っていたため、徐々に戦いはイリアスに不利になっていった。……そう、誰の目にも見えた。

戦況は一秒ごとに騎士団に不利になっていった。主力は綾の召喚獣を警戒して動けず、司令部及び護衛部隊は一人一人着実に叩きのめされていく。フラットの面々は一人一人が正式な訓練を受けた騎士を凌ぐ能力をここ数日の特訓で身につけていたから、もうどうひいき目に見ても騎士団に勝ち目は無かった。ガゼルは攻撃後の隙を不完全ながらも克服していたし、ジンガは本当の意味でのタフさを身につけていた。スウォンは上手く立ち回りつつ、攻撃はある程度的確に裁いていたし、モナティはガウムを振り回してちゃんと戦力になっていた。特にモナティは、一度勇気を振り絞りさえすれば、その圧倒的なパワーで充分以上の戦力として大活躍していたのである。彼女の振り回すガウムを受けて、蹈鞴を踏まぬ騎士などいなかった。彼女に突き飛ばされて、起きあがれる騎士などいなかった。流石に防御はまだ論外のレベルだったが、それは周囲の者達が的確なサポートで補っていた。

絶望的な戦況の中でも、イリアスは屈しようとはしなかった。レイドとイリアスの死闘は、未だ決着しない。

「オラァッ! 良し、終わったぜっ!」

「やりましたのー! モナティ、マスターの役に立ちましたのーっ!」

「きゅーっ!」

モナティと交戦していた最後の一人を、ガゼルが横からの跳び蹴りで沈めた。モナティはガウムを抱きしめて、共に喜びを分かち合っていた。鼻をこすって、目を細めてそれを見た後、ガゼルはレイドの方に向き直る。レイドはイリアスと対峙し、構えを取っている。二人とも、互いのことだけに集中し、明鏡止水の心位にいた。今なら簡単にイリアスを沈めることが出来る。ガゼルは投げナイフを抜き出したが、彼の肩をカシスが叩いた。

「ガゼル、止めときなよ」

「……? お前が効率的に勝てる攻撃を止めるなんて珍しいな」

「うん。 此処暫くレイドを見て思ったんだけど、あの人まだ本物の騎士だよ。 それに、戦ってる人もマジモンの騎士だね。 ……だから、気持ちを尊重してあげよう」

「そうだな」

ナイフを下げたガゼルが、各々勝利を収めた皆に親指を立てて見せた。綾が押さえている騎士団主力は健在だから気を抜くわけには行かないが、これで一段落ついたのは事実である。やがて、健在な騎士団主力や、フラットの面々の、全員の視線がイリアスとレイドに注いだ。

 

「いやあ、負けた負けた。 流石は先輩、強いですね」

「イリアス……すまない」

「総員一時撤退だ。 態勢を立て直し、その後警護に戻る」

「はっ!」

騎士達が安心したように、ゆっくり立ち上がるイリアスの命に従った。十分ほど続いた激しい死闘の幕切れは案外あっけなく、レイドの一撃を受けきれなかったイリアスが尻餅をつき、負けを認めることで終結した。

……イリアスが、勝負を譲ったことは、この場にいた誰もが気付いていたかも知れない。騎士としての道を、レイドとイリアスは共に貫いたのである。それは両者ともに誇り高き姿であり、誰の心にも鮮烈に残る姿であった。

吐息した綾がガフォンツェアを故郷に戻し、騎士団主力が倒れている仲間達を収容していく。騎士団の者達の目に、憎しみや苛立ちは特になく、負けたことを素直に認めて引き下がる者が多かった。或いは、彼らもフラットの面々の行動には、内心同情していたのやもしれない。イリアスが小さく敬礼してその場を去ると、綾が額を抑えて片膝をつき、慌ててモナティが駆け寄った。長時間ガフォンツェアを実体化し続けた消耗は大きく、もう一度やれと言われても出来ないだろう。もし訓練を行う前なら、とっくに時間切れになっていたことは疑いない。

「マスター、大丈夫ですの!?」

「何とか大丈夫です。 それよりも、はやくトキツバタを適量採取しないと。 モナティ、私は良いから、みんなを手伝って」

「はいですの!」

モナティが次々と、トキツバタの群生を指し示した。その量は非常に豊富で、アカネが摘み取り方のコツを説明しながら、手早く見本を見せる。疲れ切った綾はその場で半分意識を失って延びていたが、モナティは忠実に任務を実行し続けた。アカネは汗を拭うと、満足げに言った。

「大丈夫大丈夫、この分だと、トキツバタは十分あるよ。 師匠に言われた分は、大体この位、と」

「おいおい、そんなに必要なのか?」

「ああー、それはねそれはねー。 お金が払えない人からも、結構頼まれてたから。 ししょーってばあれでお人好しだから、みんな助けようって、四苦八苦してたんだよ」

「……」

無言のままガゼルは皆と一緒にトキツバタを摘み取った。やがて必要な分量が集まると、咳払いしてガゼルはアカネに言った。

「な、なあ」

「うん? なになに?」

「さっきはアンタの師匠のこと、悪く言ってすまなかったな」

「へっへーん、ようやく分かったか、ししょーのすごさが!」

大げさに胸を張ってアカネが言ったので、ガゼルは苦笑を隠さなかった。レイドが手を叩き、皆を集結させると、言った。綾も少し体力が回復してきたので、モナティに肩を借りて立ち上がっていた。

「では、撤退だ」

「今我々はかなりの打撃を受けています。 帰りは盗賊さんやはぐれ召喚獣の奇襲を警戒しつつ、その後の行動に備えて体力も出来るだけ温存してください」

ジンガやガゼルは綾の言葉の意味をすぐには理解出来なかったが、サイジェントに戻って後理解することが出来た。シオンは料金を更にまける代わりに、現在判明している重症患者に薬を配ることを要求したのである。フラットの面々は手分けして、医師達に薬を配ると同時に、百三十人ほどいる昏睡状態のメスクルの眠り患者の所を周り、薬を飲ませていった。薬はかなり苦い物だったので、咳き込む者もいたが、きちんと飲ませさえすれば症状は見る間に改善していった。更に城から正式発表があり、薬の配布が翌日に正式決定、実行されたため、それから死者は急減少し、感染拡大も防がれ、五日後にはほぼ街の状態は正常に戻った。召喚師達は大損をしたが、それで悲しむ者は彼らしかいなかったので、誰も問題にはしなかった。それよりも、召喚師達の蛮行はすぐに街中に広がり、民衆の反発は一層強まった。また騎士団と薬を配ったフラットの面々の噂も広まった。結果として、召喚師を中心とする都市国家としてのサイジェント。その基盤はますます揺らぎ、砂上の楼閣は徐々に、だが確実に崩れ始めていた。

 

フラットのアジトでは、持ち帰った薬を子供達に飲ませていたが、一人ラミだけが何度口に入れても咳き込んでしまった。リプレは薬を受け取ると、まず自らの口に含んで、ラミを抱きしめると、口移しでゆっくり飲ませていった。

しばしの時が過ぎ、沈黙が流れた。リプレが顔を上げ、ハンカチで唇を拭う。何故か顔を赤らめたガゼルが、視線を逸らした。

「大丈夫、飲んだわ」

「そ、そうか。 これで何とかなるといいな」

『自然に、こういった行動が出来るって、羨ましい……。 リプレ、やっぱりお母さんなんですね。 それにしても、良かった……』

綾は心中で呟き、リプレを単純に強いと、羨ましいと思った。他者の良さを素直に崇拝出来ること、それが彼女の良さの一つだったが、相変わらず綾はそれに気付かない。少しずつ綾は自信を持ち始めていたが、それとこれとは別の話であった。

医師の言葉通り、後は一旦高熱を出した後、大量の発汗を経て、子供達は目を覚ました。一番重症だったラミも程なく目を覚まし、フラットを襲った伝染病の危機は、ひとまず峠を越えたのだった。

夕食を終えた後、綾の部屋の戸がノックされた。疲れ切っていたので、早く寝ようとしていた綾が、寝ぼけ眼をこすりながら出ると、そこにはラミがいた。

「ラミ、寝ていなくて良いの?」

無言のまま、小さな少女は首を縦に振った。アルバやフィズに至っては、もう口げんかをする元気まで取り戻していた。ラミも全快とまでは行かなくても、もう大分調子を取り戻していた。綾が笑みを浮かべると、ラミはぬいぐるみに隠れたまま、言う。

「リプレママに聞いたの。 ラミを助けてくれるために、お姉ちゃんがいろいろしてくれたって……だから、御礼、言いに来たの」

胸がいっぱいになる綾の前で、ラミは小さく頭を下げて、礼を言った。疲れが一片に吹っ飛んだ綾は、心中で呟く。彼女は一段と、フラットのために身を尽くそうと、心に誓っていた。

『良かった……嬉しいです。 明日からも、頑張ります。 いや、頑張れます』

 

翌日から、フラットのアジトには、アカネが頻繁に遊びに来るようになった。元々さほど忙しい仕事でもないらしく、また来るときには必ずおやつを持ってきたので、誰も文句はいわなかった。似たもの同士カシスとは特に気が合うようで、アカネはいつものように迂闊に口を滑らせた。あかなべでの発言といい、どうもこの娘は、油断すると口を滑らす悪癖があった。

「アカネちゃん、かなり強いね」

「まーね。 何てったってアタシはくのいちですから」

綾が吹き出したので、アカネは失言を悟って口をつぐんだが、もう遅かった。カシスはとうに気付いていたらしく、にんまり笑みを浮かべたまま、頬杖をついて事態を見守っている。

「やっぱり……」

「ひょっとして、ばれてた? あ、あはははははは……はは。 くすん、ししょーにまた怒られる」

しょんぼりと落ち込むアカネを見たガゼルは、頬杖をつきながら綾に説明を促す。

「? どういう事だ」

「アカネさんは、おそらくシルターンのはぐれ召喚獣で、忍者です。 忍者とは、私の世界にも昔は存在していた職業で、科学的に考案された道具と、鍛え抜かれた体、考え抜かれた技を使って、スパイ活動をする人達です。 草の者やらっぱともいいます。 忍者の中で、女の子をくのいちといいますが、本物を見たのは初めてです。 くのいちって言うのは、私の国の言葉で、女の人を意味する文字を解体した物なんですよ」

「ほー。 能力的には充分だけど、根本的に向かない仕事みたいだな、性格的に」

「そ、そこまで言わなくても。 でも、良くししょーにもいわれる。 とほほほ……」

ガゼルにずばり指摘されて、アカネは落ち込んだが、ガゼルは笑いながら肩を叩いた。

「何だ、思ったよりずっと楽しそうな奴じゃないか。 心配すな、誰もお前のことを余所に喋ったりしねえよ。 なあ、だからニンジャってのについて、色々聞かせてくれないか?」

「ほ、ほんと?」

「ああ、お前とシオンは恩人だからな、そんな恩知らずはここにはいねえさ。 悶々と胸の内にため込むくらいなら、いっそ此処で吐きだしちまえ。 それに、ニンジャってのがどういう奴らなのか、結構楽しみだぜ」

ガゼルの言葉に、アカネは目を輝かせると、色々自分の事を話し始めた。彼女が友と、境遇を話せる同年代の人間に飢えていたのは明白であった。そしてこの後、アカネはフラットの友として、戦友として、多くの戦いに協力することとなる。

 

4,絡み合う導火線

 

アキュートのアジトでは、小さな火花が今散っていた。ラムダの提案した今後の戦略に、リシュールが異を唱えたからである。

「リシュール、どうしても、俺の意見を認められないのか?」

「駄目。 悪いけど、認められないな」

むうと呻いて、ラムダは押し黙った。現在、ラムダが進めようとしているのは、騎士団と召喚師達の間隙を利した暗殺である。一方で、リシュールは長期的な革命を考えており、そこでどうしても齟齬が生じていた。

ラムダは厳しい男であったが、暴君ではなく、部下の意見を素直に聞くことが出来た。それに、自身に対する諫言も、きちんと受け止められる度量を持っていた。だが、彼にしてみれば、どうしてもリシュールの反対に納得が出来なかったのだ。

「理由を聞かせて貰おうか」

「はっきり言うと、テロリズムが歴史を良い方向に動かす可能性はない。 市民の危機意識を煽り、共に戦うのは大いに結構。 でも、邪魔な人間を暗殺して、街がよい方向に変わる可能性は無いね」

「しかし、奴らを消さねば、この街がかっての姿に戻ることはない!」

「戻らなくて結構じゃないか。 キミは、かっての街のために戦ってるのか? 違うだろう、今生きている市民のために戦ってるんだろう? 情況に応じて、柔軟に頭を切り換えないと、革命なんてならないよ」

リシュールの言葉はいちいち正論であり、ラムダは黙り込んだ。更にリシュールは、言葉を続ける。

「今、サイジェントは我々にとって極めて都合が良い方向に動いてる。 此処で必要なのは、領主や召喚師と我々が違うって事を見せておくこと。 そして市民が立ち上がったとき、彼らの先頭に立って戦うことだ。 テロなんか起こしたって、一時期市民は喜ぶかも知れないけど、最終的にはマイナスなだけだ」

「しかし、召喚師達は、我々が最終的に描く新しいサイジェントの青図には邪魔だ。 特に、今いる連中はな」

「それは私も同感、大いに賛成。 だけど、今回のメスクルの眠りの対応でも、奴らは無様な醜態を晒し、民衆の失笑を買った。 それに我々が裏で特効薬をばらまいておいたお陰で、我々の味方はますます増えてる。 いい、今は焦る時じゃない。 じっくり時間をかけて、牙を研ぐときだ」

「しかし、俺はどうしても、奴らをゆるせん!」

ラムダの言葉は真摯であったが、ついにリシュールとの接点を見いだせなかった。それに、結局多数決ではラムダの言葉が支持され、リシュールは髪の毛をかき回した。

「分かった。 仕方がない、ただし歯止めが利かなくなるから、今回だけだよ」

「……すまんな」

「多数決だし、しょうがない。 ならば、少しでも成功率と効率を上げるべく、策を練るとしますかね」

 

北スラムは、此処暫く動きのない地区となっていた。オプテュスが大人しくなったのが最大の要因だが、それも終わりを告げていた。水面下で、オプテュスに大きな動きがあったのである。

北スラムの下水道で、バノッサが印を切っている。彼の隣には、カノンと、髭を蓄えた中年男性の姿。やがて、気合いと共に、バノッサは右手を前方につきだした。

「誓約において、バノッサが命ずる! 滅ぼし焼き尽くせ、ブラックラック!」

とどろき渡る轟音、崩れ落ちる石壁。バノッサの頭上に浮かぶは、襤褸のローブを纏った骸骨の姿。その右手には、宝石の着いた錫杖があり、虚ろな眼下には灰色の光が宿っていた。

バノッサは破壊の跡を見やると、身をよじらせて嬌笑した。悲しげな目でそれを見やるカノン、そして手を叩く男。バノッサは凶暴な光を目に宿らせ、叫んだ。

「すげえ、すげえぜザプラさんよぉ! 最高だ、最高の気分だぜ! これが、これさえあれば、俺ははぐれ女に勝てる!」

「まだ、一発撃つのが限界だな。 それに、この程度の召喚師など、世に掃いて捨てるほどいる。 そして水を差すようで悪いが、まだまだその程度では、お前のライバルには勝てんな」

さらりと言われて、バノッサはザプラをにらみつけようとしたが、すぐに怯えを顔に湛えて視線を逸らした。今の彼では、この男には何をやっても勝てない。社会の底辺に身を置き続けてきたバノッサは、相手の力に敏感だった。今の実力では、カノンとふたりがかりでも、不意をついても、ザプラには傷一つつけることは不可能だった。それが、動かしようのない現実だった。ザプラは口の端をつり上げると、淡々と言った。

「……お前は、どのくらい強くなりたい?」

「何?」

「はぐれ女とやらに勝つだけで満足か? それとも、私に勝つくらいで満足か? ……いや、世界そのものを手に入れたいか?」

「世界、そのもの、だと……!?」

猛獣の目の前に、血が滴る肉片をちらつかせつつ、ザプラは更に言う。カノンは眉をひそめたが、無視された。

「お前にこれをやろう。 これは、お前が憎めば憎むほど、念じれば念じるほど、お前に力を与えてくれる。 名は……魅魔の宝玉」

「お……おおおっ! すげえ! すげええええっ!」

バノッサは夢遊病者のような足取りで、その青紫色をした宝玉を手にした。それを手にした途端、バノッサの体内に膨大な力との一体感がみなぎった。バノッサは、身をよじらせると、歓喜の咆吼を上げた。それを見たカノンは、ついに閉じこめていた反論を口にした。

「ま、まってください! 失礼ですが、どうしてバノッサさんに、そんなに良くしてくれるんですか? そんな凄い物をくれるんですか?」

「理由は簡単だ。 彼には膨大な力が眠っている。 私をも凌ぐ、圧倒的な力がな。 それが全て引き出される所を、見てみたいだけだ。 戦士としての本能だよ」

カノンの言葉を封殺しつつ、ザプラはバノッサの快点を更に擽った。

「さあ、まずはその力に慣れたまえ。 そしてその後、私が直接君に戦い方と、それの使い方を教えてやろう。 そうすれば君は、はぐれ女どころか、この街をも、いや世界全てをも手中にすることが出来るのだ」

「お、おおおおおっ! ひひゃははははははははははは! すげえ、すげえすげえすげえええええっ!」

闇の中、哄笑が響き渡る。それはいつまでも、何処までも響き渡っていった。得ようとしても得られなかった物を手に入れた、狂気の獣の雄叫びであった。

 

「……御苦労様であったな、同志ザプラ。 首尾は?」

「計画通り、アレを、魅魔の宝玉をスペアナンバー19に渡してきました。 後は私の部下達と私自身で、丁寧に教育していくことになります。 スペアナンバー19が魅魔の宝玉によって精神内に引き寄せられる(例の物)に気付いた頃には、もう手の打ちようがなくなります。 力という麻薬の、禁断症状によって」

「うむ、流石だ。 君を同志に持てて、私は幸せだ」

「身に余る光栄です、同志オルドレイク」

迷霧の森の奥で、ザプラはオルドレイクに報告した。既に蒼、金、双方の動向は無色の派閥に知れ渡っている。後は、微調整を行いながら、計画を進めていくだけであった。オルドレイクは細かい報告を聞き終えると、皆に改めて言った。

「おお、そうだ。 皆に見せておこう」

「同志オルドレイク、どうしましたか?」

「此方だ。 皆、きっと喜ぶと思う」

その言葉は実現した。立ち枯れ、何の生き物も育たぬ迷霧の森。産業廃棄物によって酷く汚染され、生命を失った死の森。その奥の一角に案内された、無色の派閥幹部達は、一様に目を見張った。

「ついに、この一角の自然を、甦らせることに成功した。 踏まないように、気をつけてくれ」

「わあ……同志オルドレイク様、綺麗ですぅ!」

「小さな花畑だけど、大きな一歩ね」

「……植物とは、強き者達だな」

「うむ……私のような戦人でも、心温まる光景だ」

そこには、小さいながらも、花畑があった。惜しむらくは、現在は特に汚染に強い数種の花しか咲いていなかったが、確かにそこには花畑があったのである。

月に照らされて、花畑はただ咲き誇っていた。そしてそれを見下ろす者達の視線は温かかった。さながら、太陽のように。

とても、各地でテロと破壊を行った者達の視線とは思えないほどに。人の業がために地獄を見て、荒みきった心を持ってしまった者達の視線とは思えないほどに。そして今も、自分たちの目的のために、一人の人間を利用している酷薄な者達の視線とは思えないほどに。

……その五つの視線は、優しく温かかった。そして、彼らの温かい視線が、社会を営む人間に注ぐことは、未来永劫無かったのである。

 

(続)