吹き荒れる争乱

 

序、追憶

 

「先生! リシュール先生っ!」

元気な少年の声が、小さな部屋に反響した。いつも繰り返される、朝の情景。それが、賢母と呼ばれる者には、目覚まし時計代わりになっていた。窓から差し込み始める朝の光、快く響く鳥たちの声。陽の光をよく吸った布団を押しのけて、起き出す娘は、すぐに心を引き締め、子供達の前での表情を作る。ドアを開けると、やんちゃと言う文字を実体化したような少年が、満面の笑みを浮かべていた。リシュールは笑顔を作り、その頭を撫でた。

「おはよう、ガゼル。 キミは今日も朝から元気だな」

「おうっ! さ、先生、朝ご飯作ろうって、リプレが待ってるぜっ!」

頷くと、リシュールは廊下を通って、台所へ行く。其処にいるのは、踏み台を使って精一杯背伸びしながら、野菜を刻む少女の姿。兎に角良く出来た子で、今も幼い子を一人おんぶしながら、何の問題もなく作業をしている。

「リプレ、お役目ご苦労」

「先生! さ、早くみんなの朝食作りましょう」

「そうすっか。 朝の食事は一日の活力の素! 気合い入れて作るぞー」

「はいっ!」

腕まくりしながらリシュールが言い、楽しそうにリプレが応じた。この少女は家事の才能が元々あり、リシュールが教えることを真綿が水を吸い込むように吸収した。まだ九才なのに、もう不器用な大人よりは遙かに優れた家事の腕を持つ。会ってまだたったの一年なのに、もう並の家族よりも心がつながりあった皆。孤児という境遇を忘れたかのように、明るく元気な子供達。

朝食が出来、大きな子も小さな子もみんな仲良くテーブルにつく。リシュールは子供達に組織的な行動を教え、意味を叩き込んでいた。子供達はそれを覚えていたから、何よりも(先生)が大好きだったから、それに従って行動していた。リプレが皿を並べていき、つまみ食いをしそうなガゼルを牽制する。もうこの年で、リプレの尻に敷かれているガゼル。トーマスは食べ物を見るだけで幸せそうで、クララはそわそわしながら必死に大人ぶっている。個性は色濃く、心は豊か。皆、大事な大事なリシュールの子供達であった。

「よーし、みんな、朝食にするぞ」

「はーい!」

手を叩くと、リシュールはいつものようにそう言った。子供達はみんな明るくそう答え、旺盛な食欲を発揮して皿を空にしていく。子供達の幸せは、即ち自分の幸せ。少なくともこの子達は、今救う事が出来ている。彼女にとって、幸せな時間は、流れるように過ぎ去っていった。

 

夢が覚めると、其処にあるのは現実である。八年も前の夢を見たことに気付いたリシュールは、ため息をつきながら、ベットから注意深く半身を起こした。四年の強制労働で徹底的に痛めつけられた肉体のダメージは大きく、多少寝返りをしただけで飛び起きるような痛みに襲われることもあった。

半身を起こしたまま、ぼんやりとしていると、かっての教え子の一人セシルが、戸を開けた。強制連行されたときはまだ幼さも残していたのに、今では立派な大人の女性だ。フラット孤児院にいた子ではないが、セシルもリシュールの可愛い教え子の一人だった。

「リシュール先生、朝食が出来ました」

「……すぐ行く」

もう、ベットから敏速に体を起こすことも出来ない。少なくとも今は無理だ。ベットの上で着替えた後、セシルに肩を借り、立ち上がる。松葉杖を手に取ると、それを駆使してゆっくり潜伏している酒場の一階に下りる。其処にいるのは、今の仲間である、アキュートの面々であった。決して冷たい者達ではなかったが、昔のような明るさ暖かさとは決定的に違う雰囲気が、そこには厳然としてあった。リシュールを見て最初に口を開いたのは、アキュートのリーダーであるラムダだった。

「リシュール、体の具合はどうだ?」

「まあまあ、かな。 少なくとも今すぐ死ぬことはないね」

「縁起でもないですよ、先生」

「冗談だよ。 相変わらずキミは真面目すぎるな」

苦笑しながら、リシュールは着席した。セシルは四年前も他人に厳しくそれ以上に自分に厳しい娘だった。三つ子の魂百までと心中で呟きつつ、リシュールは温かいスープを口にする。それを見ながら、ラムダはフォークで肉の切れ端をつついた。

「食事を終えたら、例の作戦の最終打ち合わせをするぞ」

「へいへい。 ……イリアス君には、キミの後輩には今度もまた迷惑をかけることになるね。 会ったらぶん殴られることぐらい覚悟しときなよ」

「……そうだな」

後は無言だった。もう一度、あの頃を、フラット孤児院にいた頃を思い出し、リシュールはスープをもう一口啜った。

 

「……また見ちまった」

フラットのアジトの自室で、ガゼルはそう一人ごちた。(先生)がいた頃の、明るく楽しかった日々は、彼の宝だった。今も良くその頃の夢を見た。今日も、その一日だった。リプレが今でも(先生)の部屋を毎朝掃除している事を、ガゼルは切ない話だと思っていたが、一番(先生)に縛られているのは彼であったかも知れない。

「ケッ! ……畜生」

最初の舌打ちは、女々しい自分へ。次に吐き捨てたのは、現状への憎しみ。ガゼルは綾にこれ以上もなく感謝している。もしあのまま悪事へ突き進んでいったら、(先生)に合わす顔が無くなる所だったからである。それは逆説的に言うと、ガゼルの中で如何に(先生)が大きな存在か、如実に示していたとも言えるだろう。

鉱山の情報は、全く外へ漏れてこない。漏れてくるのは、絶望的な労働実態ばかりである。一度だけガゼルは鉱山から生還出来た男を見たが、まるで幽鬼のようにやせ衰え、精神を破壊されてしまっていた。この男を見たとき、ガゼルは(先生)がもう帰ってこない、少なくとも元のまま帰ってくることはあり得ないと悟った。その絶望が、彼が悪事に走った原因の一つだった。

苛立つ心を抑えると、ガゼルは部屋の外に出た。欠伸をしながら、居間へ向かう彼の耳に、サイジェント全土を騒然とさせている情報が入ってきた。

即ち、血の坑道事件、である。

 

ガゼルは普段、あまり聞き耳を立てるような事はしない。だが、今日はそうも行かなかった。今で話されていたのは鉱山の情報で、しかもレイドの口調から相当に深刻な物だと明らかだったからである。

「……というわけで、鉱山は機能を停止、今は交渉が行われているそうだ」

「噂には聞いていたが、地獄の労働条件だというのは本当だったんだな」

「ああ。 噂によると、召喚獣が現れて、鉱夫を襲ったのも、暴動の一因らしい。 一番過酷な地帯で働いていた者達が、殆ど食べられてしまったとか。 しかもそこは、政治犯や過激派に混じって、マーン家兄弟が気に入らない者達も収監されていたらしい」

「……!」

ガゼルは息をのんだが、リプレが生唾を飲む音が、もっと激しく彼の耳に飛び込んだ。足音が彼の隠れていた戸に近づき、それが跳ね開けられた。現れたリプレは、ガゼルを押しのけると、半ば駆け足で自室に飛び込んでいった。

「どいてっ!」

気丈なリプレの、突き放すような言葉。ガゼルは自らも動揺を隠せず、壁に手をつき、床を見ていた。やがてゆっくり顔を上げた彼の視界には、話し込んでいたレイドとエドス、それに話を聞いていた綾の顔が飛び込んできた。動揺した様子で、エドスが言った。

「ガゼル……聞いていたのか」

「……わ、悪い。 俺とリプレに、しばらく……話しかけないで……くれ」

「……分かった」

「しっかりしなきゃ行けねえ事は、俺が……一番しっかりしなきゃ行けねえ事は……良く分かってる。 だが……今は無理だ。 悪い、本当に悪い」

それからどうやって自室に戻ったか、良くガゼルは覚えていなかった。ベットにそのまま突っ伏し、混乱する心を必死に落ち着けていく。割り切っていたはずなのに、先生はもう死んだと割り切っていたはずなのに、今その死を強烈に意識させられる言葉を聞くと、ガゼルはかってない絶望が全身を包むのを感じた。体の震えはどうしても止まらず、冷や汗はとめどめも無く流れ落ちた。本当はリプレのことを心配しなければ行けないはずなのに、そんな余裕すらもなかった。

ようやく落ち着くことが出来た頃、既に陽は一番高い位置にいた。ガゼルは全身に脱力感を覚えながらも、ゆっくり部屋を出た。朝食を取っていないというのに、空腹は感じず、また嘔吐感もなかった。居間におりると、リプレの後ろ姿が見えた。無理して平静を装っているのが誰の目にも明かで、非常に痛々しかった。昼食は並べられていたが、味付けは微妙に狂っていて、普段のリプレらしからぬ味だった。

地下室は音が漏れない構造になっていて、普段使わない為非常に埃っぽい。其処へ閉じこもると、ガゼルは渾身の力を込めて絶叫した。そして、それで無理矢理震えをねじ伏せたのだった。

 

1,争乱と混乱

 

血の坑道事件の情報が伝わってから一日が過ぎると、リプレもガゼルもある程度落ち着きを取り戻したが、サイジェント自体は混乱の度を一秒ごとに強めていた。(血の坑道事件)は恐るべき早さで街全体に広がり、その過程で様々な怪情報も飛び交った。そしてそれらは、フラットの面々の口を介し、嫌でもガゼルとリプレの耳を打った。その結果、ガゼルは目立って不機嫌になり、リプレは家事で細かいミスを連発するようになった。リプレは子供達の前では笑顔を保ち、綾が魚を釣ってくれば礼を言ってはいたが、明らかにいつもより精彩を欠いた。

それを見て、一番心を痛めたのは綾であった。彼女にしてみれば、ガゼルもリプレも大事な仲間で恩人であり、その精神的危機に際して何も出来ないと言うのは非常に辛いことだった。モナティとガウムが昼寝をするのを見届けると、綾は表情を改め、レイドの部屋を訪れた。レイドも、ここしばらくはずっと考え込んでいることが多く、悩んでいるのは明々白々であった。

「レイド、少し良いですか?」

「……アヤか。 大体話したいことは察しがつく。 ガゼルとリプレの事だろう?」

「何か、良い智恵はありませんか?」

「街の情報を、出来るだけ集める必要があるだろうな。 今は情報が錯綜しすぎていて、何とも判断が出来ない。 前フラット院長の安否も、正しい情報が入れば良い方向に判断出来るかも知れないんだ。 後は情報を出来るだけ集めて、信頼しうる物を選別していくしかない」

それをレイドがしていることは、言葉に出されずとも、綾には分かっていた。ここ数日、街の雰囲気が目に見えて殺気立ってきており、小さな喧嘩や口論が彼方此方で起こっていた。兵士達もぴりぴりしていて、何でもないことで捕まる者が多くで、それがますます市民の不満と苛立ちを高めていた。

更に悪いことに、翌日が税金の納期である。フラットは、レイドが前々から計画的に貯金をしていたため、今回は問題がない。だが街の経済状況は悪化する一方であるし、何より此処まで緊迫した事態である以上、何も起こらない方がおかしいだろう。鉱山の暴動が半ば成功したことは市民達も良く知っていて、兵士達と彼らの睨み合いが、水面下でだが激しく続いていた。

そんな目立って危険な状況下で、レイドは仕事の片手間に、情報を集めてくれてきている。綾は小さく頷くと、決めた。

「私の方でも、手を尽くして情報を集めてみます」

「そうか、すまない」

「私とカシス、それにジンガ君で、彼方此方を調べてみます。 レイドと調査の方向がかぶると二度手間になってしまいますから、打ち合わせをしましょう」

「そうだな。 私は主に公的な情報を集めているから、君はむしろ市井で流れている情報の収集と、街全体の状況を見て回って欲しい。 今のサイジェントは、つもりにつもった不満が爆発寸前で、近いうちに何かが起こりうる情況だ。 何かが起こった場合、私達も敏速に動けるようにしておく必要がある。 地区的には……」

細かい打ち合わせをすると、綾は少し悩んだ末、刀を持って部屋を出た。モナティとガウムには、今日一日子供達と遊んでいるように指示を出し、更にカシスとジンガに声をかけて外に出る。南スラムの者達も殺気立っていたが、それ以上に街の各所で怒号や叫喚が響き、空気自体も非常に張りつめていた。刀を持ってきて正解だったと安堵する綾に、ジンガが緊張した様子で語りかける。

「……アネゴ、俺っち、前におっきな反乱が起こった街に行ったことがあるんだ。 そっくりだ、今のこの街の情況」

「いよいよ、この街の体制が変わるとき、かもしれませんね」

「何にしても、血が沢山流れるんだろ? 何とか話し合いで解決出来ねえのかなあ」

無言で綾はうつむき、ついで辺りを見回した。歴史とは、統一と混乱の繰り返しである。統一政権が腐敗し、瓦解すると混乱期が起こる。力だけが物を言う混乱期が収束すると、安定した統一期が来る。どの地区でも、どの時代でも、どの世界でも。それに変わりはなかった。

此処暫く、綾はリィンバウムの歴史に関する本を読みあさった。リプレに断って、(先生)の部屋にあった蔵書に目を通したのである。結果、それは何一つ彼女の故郷の物と変わらなかった。唯一違う物として、(他世界からの侵略)というのもあったが、それも体制の腐敗の隙をつかれた所が大きい。異界の生物たちは確かに強かったが、侵略を否とする異界の生物たちがリィンバウムの人間に荷担した事実もあったし、両者の実力は伯仲していたのだ。それでリィンバウムの人間が押されていたのは、要は体制に不備があり、隙をつかれたからに過ぎない。一方的な被害者を気取るなど、正に自己陶酔の極みなのである。大体、理由も原因もなく侵略してくる存在など、いるわけもないのだ。そして異世界からの侵略という要素を除いてしまうと、後は延々と続く殺し合いのみが残った。社会的には、統一政権が腐敗し、混乱の中から新たな政権が産まれる、その連続だった。何処の世界でも、人間がやらかすことに全く変わりなど無いのである。である以上、綾が願うのはただ一つ。出来るだけ犠牲を少なくして、変革がなること。これだけしかなかった。

綾の故郷でも例外的な事例として、上から改革が進んだ事がある。だがそれは例外中の例外であり、滅多に起こる事ではなかった。綾はその可能性を排除し、首を横に振った。

「……おそらく、無理だと思います。 召喚師達や、領主さんが、心を入れ替えれば話は別でしょうけど」

「じゃ、百パー無理だね。 残念だけど」

「か、カシス姉さん、そんな言い切らなくても」

「……召喚師達は市民をゴミだとしか思ってないし、貴族や領主は甘い汁を吸い慣れてるんだよ。 それを今更止めろって言われても、まず聞かないよ。 聞かせるには、力を持ってするしかない。 残念だけどね」

相変わらず遠慮のない調子でカシスが言い、ジンガは不満げに押し黙った。殺気だった市民達は、肩が触れ合っただけで殺し合いになりそうな剣呑とした空気の中にいる。兵士が時々団体で彷徨いていたが、彼らには殺気を含んだ視線が無数の槍となって投じられていた。街全体の雰囲気は、ますます悪化していると言っても良かった。大体情況を探り終えると、綾はジンガに振り向いた。

「ジンガ君、ちょっと良いですか?」

「うん? どうしたんだ、アネゴ?」

「子供達の外出を禁止する必要があると私が言っていたって、レイドに言ってきてもらえますか? それが終わったら、アジトで待機していてください」

「この雰囲気じゃ仕方ないかも知れないな。 分かった。 アネゴも気をつけてな」

アジトに駆けていく少年を見送ると、綾は北スラムへ向け歩き始めた。繁華街は周囲にもまして危険な雰囲気が漂っていたが、意外にも目的地の周辺は静かだった。無論いつもより騒然としていたが、繁華街などに比べると幾分か雰囲気も柔らかい。オプテュスの者も二三人いたが、綾の顔を見ると、すぐに顔に怯えを湛えて、どこかへ行ってしまった。無言のまま、オプテュスのアジトの方を見やる綾に、カシスが声をかけた。

「この辺が革命の中心地になるかと思ったの?」

「はい、テロリストや犯罪者も逃げ込む場所だという話でしたし。 でも、この様子だと、それもありませんね」

綾はカシスに促し、この場を離れた。その後は、途中で領主の館を伺った他には、特に寄り道もせずに帰路に就いたのだった。

 

綾が帰宅してすぐ、会議が行われた。ガゼルはいつも以上に不機嫌そうであったが、リプレは少なくとも表向きは平静を保っていた。皆の顔を見回すと、まずレイドが口を開く。

「さっき私が直接城へ行き、納税はしてきた。 というわけで、それに関して、我々は心配しないでも良い」

「やれやれだな、全く」

「だが、問題はまだある。 知っての通り、今街は大変な情況になっている。 例の、(血の坑道事件)の話が伝わり、今まで押さえ込まれていた、皆の不満が一気に噴出したためだ。 それに関して、今まで集まった情報を整理しておこう。 私に関してからは、大体次の通りだ」

レイドの発言に続いて、エドスが石工の仲間達からの情報を披露し、ついでカシスと綾、それにジンガが発言した。綾はスウォンの情報も併せて公開した。

しかしこれらの中に、目新しいものはなかった。傾向は多少判明したが、事実が判明しないのでは大した意味はないといえるだろう。少なくとも、ガゼルとリプレには。二人は沈黙を続け、レイドは話を進めた。

「……次の話に移ろう。 明日が知ってのとおり税の納期だが、例によって領主は厳しい取り立てをすると思われる。 そして、それに伴って、大規模な暴動が起こる可能性が非常に高い。 これに関しての情報を、私と綾、それにカシスで集めてみた。 まず私の方では、軍がある犯罪者を捕まえたという情報だ。 少し前に壊滅した(蟻の牙)のローカスだな。 軍が、彼を今回の滞納者とあわせて、さらし者にするつもりらしい」

「蟻の牙?」

「貴族の屋敷から金を盗んで、下町にばらまいてた連中だ。 奴は、ローカスは連中の頭目だよ。 ケッ、くだらねえ事しやがって。 そういうのを善意の押しつけ、っていうんだよ。 偽善者が」

『うーん、私の世界で言う鼠小僧次郎吉のような人でしょうか? まあ、純粋に褒められた行動ではないとは思いますけど、偽善者、というほどでは……』

忌々しげにガゼルが吐き捨てたので、綾はいつものように困ったような笑みを浮かべた。レイドが咳払いすると、ガゼルは不満げに口を閉じ、綾に発言の順番が回ってきた。

「アヤ、君の番だ」

「あ、はい。 私は今日一日、街全体を歩いて状況を見てきました。 特に空気が緊迫していたのは、この辺り、この辺り、それにこの辺り、です」

「ほう、街の中枢部が特に酷いようだな」

「反面、北スラムは意外に静かな様子でした」

街の地図を前に綾が言うと、多少安心した空気が漂った。比較的南北スラムは雰囲気が安定しており、もし暴動が起きてもアジトが巻き込まれる恐れが減ったからである。

「何にしても、念には念だ。 ワシがこれから、窓とか補強しておく」

「エドス、頼む。 さて、カシス、君はどうだった?」

「私は特に無いけど……あ、そうだ。 兵士達がね、(アキュート)って連中が活発に動いてるらしいって、噂してたよ」

「……!」

その言葉を聞いた途端、レイドの顔色が一瞬だけ変わった。エドスはそれを見逃さなかった。

「レイド、どうした?」

「……アキュートか。 そうか、確かに彼らなら動くかも知れないな。 今の時期は、確かに好機だ」

「アキュート? どういう組織ですか?」

綾の疑問に応えたのは、レイドではなくガゼルだった。ただし、難しい言葉が分からない彼は、残念ながら途中で詰まってしまった。

「この街に存在する組織の中でも、最もヤバイ一つだ。 ええと、レイド、何て言ったっけ、きょくーぶとーは……かくめ?」

「極右武闘派革命集団」

「そうそう、それだ。 元プロの騎士とか兵士とかが多数加わってて、武装もすげえらしい。 今まで何度も街で騒ぎを起こした奴らで、いずれも小火ですんだけど、えらい手練れが揃ってて、結構兵士達には恐れられてるみたいだぜ」

「ごろつきの集団のオプテュスとは違って、本物のテロリストですね」

綾がそう言うと、皆それぞれ不安げに視線を交わしあった。今回の騒ぎが、小火程度では到底済みそうもないと思ったからである。一人だけその中で静かだったのはレイドで、やがて彼は確かめるように言った。

「取り合えず、明日暴動が起きたときの対応策を協議しておこう。 まず、暴徒に此処が襲われたときの対策として、残りたい者はいるか?」

「俺が残る」

「ワシも残ろう」

ガゼルとエドスが言い、頷くとレイドは続けた。

「次に、町の様子を偵察する者が必要だ。 あらかじめ暴動が起きたり、火事が起きたりしたことがすぐに分かれば、対応策も練りやすくなる。 特に暴動から大火が起こった場合、避難が遅れると大変なことになる。 重要な二方向に、それぞれ偵察要員を派遣しよう。 私は繁華街の辺りを調べてこようと思う。 アヤ、君は中央広場から工場区の辺りを頼む」

「了解しました」

「だったら私は、レイドに着いていっても良い?」

意外にも、そう発言したのはカシスであった。彼女が綾にべったりなのは誰もが知る事実であり、レイドも不審に眉をひそめる。

「うん? 珍しいな。 アヤに着いて行きたがると思ったが」

「こうなった以上、街の現状をもう少し知る必要があると思ってね。 見たり聞いたりしたこと質問するには、一番詳しい人の側にいるのが一番でしょ」

「なるほど、確かにそうだ」

カシスの論理的な言葉に苦笑すると、レイドは頷いた。続いて挙手したのは、ジンガであった。彼の主張は綾と共に偵察要員に加わることで、何の問題もなく主張は容れられた。

その後は、保存食の整理や、地下室への移動が行われた。子供達にはいざというときの避難経路が説明され、四人は危地を察したか、リプレにぴったりくっついて離れなかった。モナティとガウムはスウォンが言っていたとおりの力を発揮し、苦もなく木箱を持ち上げては、地下室へ軽々運んだ。エドスでさえ重いと発言する荷物も、彼らの前にはお砂糖の小袋と同じであった。

「マスター! これも地下室へ運ぶんですの?」

「お願いします。 ガウム、逆方向を持って、モナティを手伝ってあげて」

「きゅーっ!」

モナティは綾の言葉に、少しだけ不満そうに眉をひそめた。彼女にとって今の綾の言葉は、自分の力を致命的に信頼して貰っていないものだと映ったのである。

「えー? これくらい、モナティ一人でも大丈夫ですのー!」

「ううん、確かに運ぶだけなら大丈夫だけど、転んだりしたらモナティが危ないですから」

「マスター! 心配してくれるなんて、モナティは嬉しいですのー!」

「きゅー、きゅーっ!」

綾の笑顔はモナティを安心させ、二人は感動して荷物運びに戻った。それを見たガゼルが、にやにや笑いを浮かべながら綾の肩を叩いた。

「良くやったな」

「本音ですよ、今のは」

「ま、そうだろうな。 でも同時に、落とさないようにガウムと組ませたのもあるんだろ?」

苦笑した綾に、ガゼルは小さく笑うと、周りの手伝いに戻った。幾つかある桶には、いつもより多めに水がためられ、いざというときに備えられていた。レイドとエドスは辺りを見回りながら、暴徒に襲われても耐えられるように建物の彼方此方を補強した。夜になってからも街全体に張りつめる緊張は衰えず、それを敏感に悟ったラミは怖がって泣いたので、リプレは夜中までその側について居た。

深夜遅く、ようやく作業が終わった綾は、疲れた様子で子供部屋からおりてきたリプレを見た。リプレは、いつもの彼女には似つかわしくない、疲れ切った笑みを浮かべていた。

「リプレ、お疲れさまです」

「おつかれー。 子供達、やっと寝たわ」

「無理もない話です。 ラミ、恐がりですし、街自体がぴりぴりしてますし」

「どうしてこう男共は、話し合いで解決出来ないのかしらね」

周りを見回してどぎまぎする綾に、リプレは冗談だと告げて大笑いした。男だろうが女だろうが話し合いで解決出来ない問題など幾らでもある。綾の故郷でも、古代は多くの文明が母系世界だったのだが、だからといって戦争がなかったわけではないのである。ただ、女性に比べて男性の方が、暴力に訴える比率が多いのは確かな事実ではあった。

手近な補強が終わると、大人達は集まって再び簡単な会議を行った。今度の内容は寝ずの番の当番を決めることと、合い言葉の決定であった。それはすぐに決まり、まず最初の見張りに決まった綾が、屋根裏に登り、他の者達は眠りについた。

空には無数の星が散らばり、千万の輝きを放っていた。当然その形は綾がいた世界の物とは全く違い、北極星も北斗七星もない。それを見ながら、綾は手に息を吹きかけ、ささやかな暖を取りながら思う。

『星々の位置はあんなに違うのに、リィンバウムの人達は、私の故郷の人達と同じ。 良い所も、悪い所も。 魔法がある世界なのに、人間ではない知性生命が沢山いる世界なのに、全く同じ。 違う知性の持ち主から、何も学ぶことが出来ないなんて。 人という生き物は、本当に業が深い存在なんですね……』

もしものことを考え、綾は塔をイメージしてみたが、まだ次の天井は惜しい所で破れそうになかった。街に視線を戻してみると、彼方此方でガス灯が瞬き、夜だというのに光が存在している。ただしその光量は弱く、俗に言う(光害)には未だ至らない。工場区へ視線を移してみれば、そちらは未だに煙を吐き、稼働していた。住民よりも、工場の都合が優先される時代なのである。そして、労働者の都合より、雇い主の都合が優先される時代でもあるのだ。

『出来れば、血があまり流れないで時代が変わればいいのですけど……子供達のためにも』

綾の心のつぶやきは、無数の星が散らばる空の闇に吸い込まれていった。そしてその願いは、残念ながらかなうことがなかったのである。

 

2,暴発

 

綾の隣で、ジンガが欠伸していた。どちらかというとジンガは決まった時間に寝起きするタイプで、睡眠は非常に深く、それが故に昨晩の寝ずの番は辛かったらしい。少なくとも少年は、綾の視線を受けながら、堂々と欠伸して寝ぼけ眼をこすっている。

事前の打ち合わせ通り、綾は街を哨戒していた。商店街や工場区は大体周り終えたので、今は最も危険な地点の一つである市民公園の前にいる。そこは前評判通り、今や北スラム以上の、街でも最も危険な場所の一つになり果てていた。表面的な危険よりも、潜在的な危険が兎に角大きく、綾はそれを敏感に肌で感じ取り、油断無く辺りに気を配り続けた。

市民公園の内部には、大勢の騎士や兵士が集まり、その中央にはかなりの人数が集められていた。兵士達の囲みの外には市民達がいるが、彼らが兵士達に向ける視線は一貫して非好意的である。綾はジンガを連れて人混みの中を進み、出来るだけ前の方に出た。

「アネゴ、人混みの中にはいっちまうと、出るのが大変にならないか?」

「一度、実際に税金滞納で捕まる人達の現状を見ておきましょう。 それに、ローカスという人の顔も確認しておきたいですし。 はぐれたら、一時間後にあかなべの前で合流しましょう」

用意良く言うと、綾は何とか周囲を押しのけ、最前列に出た。兵士達は意外にもかなり規律正しく隊列を作り、騎士達は良く兵士を統率している。そして、その内側に集められている人達は。その、噂通りの悲惨な現状は。

綾は眉をひそめ、ジンガが露骨に不快感を示した。捕らえられている者達は明らかに貧民ばかりで、老幼も少なからず混じっていたからである。

「アネゴ、これはひでえな」

「……こんな事が、まだ許されているんですね。 言葉で聞いていたうちは我慢出来ましたが、実際に目にしてしまうと……」

一歩前に出ようとしたジンガを、素早く綾は手を伸ばして制止した。ジンガは不平を言おうとしたが、綾の表情を見てその言葉を飲み込んだ。昔は臆病で怒ることさえ出来なかった綾だが、最近はあまりにも理不尽な物に対しては、素直に怒れるようになっていた。距離があり、幸い二人の会話は兵士達には届かなかった。だが、兵士ではない別の人物には届いていた。

「……なかなかに、賢明なご判断ですね」

綾が視線を声がした方に移すと、大柄で穏和そうな男が立っていた。彼は手に長い木の棒を手にしており、二人に向けて穏やかな笑みを浮かべていた。綾は苦笑すると、大男に応えた。

「時々、自分のこういう所が嫌になることがあります。 本当は此処で、怒るべきなのに」

「何、現状に満足している人間など、一部の貴族と召喚師だけですよ。 気にせずとも、誰も貴方を密告も責めもしません」

「……酷い現状ですね」

「街の発展のため、だそうですよ。 領主が決めたことです。 いや、領主を利用して召喚師達が決めたんでしたっけね。 まあ、どちらにしても同じ事です。 税金を不必要に高く設定し、それを納められない者を捕縛し、工場と鉱山での労働要員にする。 それが効率よく街を発展させるのだとか。 お陰で街の南部や北東部は、良く発達しましたね」

「そしてその分、貴族さんや領主さん、それに黒幕である召喚師さん達の心は貧しくなっていったわけですね」

蕩々と語る男の口調は皮肉たっぷりで、それに応える綾はいつもの笑みを浮かべていた。ジンガが驚きの笑みを浮かべているのは、これほど辛辣なことを言う綾を見たのが初めてだったからだろう。綾の言葉に悪意はなかったが、痛いほどに事実を突き刺し抉っていた。

「私は、樋口綾、此方の男の子はジンガといいます。 貴方は?」

「私はペルゴといいます。 なかなか貴方は頭が切れる。 是非長く話していたい所ですが、そうも行きませんね。 ……どうやら、今日の見せ物が始まるようですよ」

ペルゴの言葉に応えるように、兵士が目つきの鋭い男を広場の真ん中に引きずり出した。後ろ手に縛られたその男は、長身の、引き締まった体つきをした男だった。着衣は無惨だが、眼光は衰えず、また何とも孤高な誇りと威厳が備わっている。男は終始堂々としていたが、それが逆に兵士の不快感を刺激したようで、兵士は力任せに男の背中を蹴り飛ばした。

「ほら、何を気取ってやがる!」

男は咳き込んだが、眼光も威厳も衰えなかった。忌々しげに兵士が舌打ちし、それを見ている市民達が声援を送る。兵士長がこれ見よがしに広場の真ん中に歩みで、周囲に良く通る声で呼びかけた。

「この者は、義賊を語る大悪人である! 数々の悪行を犯したこの男も、正義には勝てず、部下達を全て失い、今此処に正義の縄を受けることになった! 皆の者よ、心せよ! 悪は必ず裁かれ、法に屈するのだ」

「何とも安っぽい演説ですね、アヤさん。 どういう目的だと思われますか?」

「おそらく、悪名の高い犯罪者を捕らえている所を見せることで、治安維持者としての実力を見せ、威信を少しでも回復しようとしているのだと思います。 でも、あれでは、逆効果のような気がしますね。 此処に連れ出したと言うことは、おそらくこの後彼を税金滞納者と同じ処置にすることで、執政者の寛大さをも示そうとしているのでしょうが、効果があるかは極めて疑問な所です。 ペルゴさんはどう思いますか?」

「流石によく分かっていますね。 私も大体そう推測します」

ペルゴの言葉に、綾は無感動に応えた。別に熱っぽい会話ではなく、あくまで淡々と、そして論理的に展開し続ける言葉の渦。その背後で、何故かジンガが不機嫌そうに、頬を膨らませていた。それとは関わりなく、広場では事態が進行する。縛られていた男、ローカスが不敵に目を光らせ、反撃を開始したのである。

「はん、俺は確かに盗賊だが、正義の名に反することをした覚えはねえぞ」

「人様から金品を盗むことが、悪と言わずしてなんというか」

「なら貴様らの親玉は何様だ。 市民のみんなが汗水垂らして稼いだ金品を力に任せて奪い取り、そればかりか体と誇りをも奪って死地へと送り込む。 俺が悪であるなら、奴らは何だ? 応えて見ろ、いや応えられまい!」

「口が減らない……!」

目に殺気を宿した兵士長が、ローカスを思い切り蹴りつけたが、(義賊)の頭目は屈しなかった。そればかりか、兵士長は哀れになるばかりであった。市民達の支持の視線を受けながら、ローカスは死を覚悟した目で言った。

「殺せよ。 俺の口は、俺が生きている限り動き続けるぞ。 そして貴様らの安っぽい正義を、真の正義にて切り続けるぞ!」

それが真実かどうかはともかく、その言葉は大いに兵士長のプライドを傷つけた。彼は部下達を呼ぶと、(適当に痛めつける)ように命じ、自らは後方へ引っ込んだ。見る間に無惨なリンチが始まった。舌なめずりした兵士達は、痛めつけて良いと公認された相手に容赦なく殴る蹴るの暴行を加えたのである。それを見ていたジンガが、ついに叫んだ。

「アネゴ、あの人しんじまうよっ!」

「……助けましょう。 この情況なら、何とかなるはずです」

「お待ちなさい」

大きな手が、鯉口を切りかけた綾と、構えを取りかけたジンガの前に差し出された。ペルゴがゆっくり歩みで、目の奥に強烈な殺気を光らせる。

「貴方達が出ることはありませんよ。 ほら、みなさい」

「……! あれは、ラムダさん!?」

綾の視線の先にいたのは、いつぞやの、荒野で出会った剣士ラムダであった。彼は群衆の中から悠々と現れ、太い角材を軽々と振り回し、見張りの兵士達を片っ端からなぎ倒すと、呆然とする兵士長の胸ぐらを掴み上げた。そして片手でつり上げながら、角材を面倒くさげに放り捨てる。

「き、貴様は、アキュートの!」

「市民に手を掛け、圧制者の走狗となるとは、恥を知らぬな。 貴様はそれでも軍人かっ!」

一喝と共に繰り出された拳は、一撃の下に兵士長の顔面を砕き、意識を奪った。そしてそれが合図となって、辺りから無数の人影が躍り出、兵士を叩きのめしつつ市民に呼びかける。元々殺気立っていた市民達はそれを見て歓声を上げた。無論、逃げ出す者も多くいた。元々一触即発だった雰囲気が、一気に争乱の形を取って炸裂したのである。

「市民の諸君! 今こそ立ち上がるときだ! 圧制者を倒し、生きる権利をつかみ取れ!」

「戦わねば、それはならぬぞ! 我らアキュートは、戦う諸君の味方だ!」

驚くべき事に、包囲していた兵士の中からも、同僚を殴り倒す者が出た。ペルゴも棒を振るい、右に左に兵士をなぎ払った。大混乱になる広場。アキュートの者達は包囲陣を手慣れた組織行動で切り崩すと、まず女子供を先に逃がし、自らはしんがりになりながら工場区へ移動を開始した。税金滞納者達は、逃げ出す者も多かったが、覚悟を決めてアキュートに合流、戦う者も多数出た。兵士達は必死に逃走を阻止しようとしたが、市民の内からもアキュートに協力する者が多数で、背後や側面から飛んできた石やら拳やらが、次々に彼らの意識を奪った。無論死者も、一秒ごとに多数生産されていった。それを見て、ジンガが心の底から楽しそうに目を輝かせた。

「へへっ、祭りだっ! アネゴっ! どうする? 一暴れしていくか!?」

「……ついに暴動が起こりましたね。 とりあえず、今することは暴動の流れを確認すること、それに皆への連絡です! こっちへ、早く!」

「えー、俺っち暴れたいよー」

「もう、不謹慎ですよ! 早く行きましょう」

綾が走り出したので、ジンガは舌打ちしてそれに従った。一旦群衆の流れから抜け出ると、綾は来る最中目をつけていた廃屋に入り、素早く屋上へ上がった。其処からは群衆の流れがよく見えた。最初と同じく工場区へ、皆は移動している様子であった。

「アネゴ、どんな様子だ!?」

「とりあえず、アジトが暴動に巻き込まれることはなさそうです」

「それは、不幸中の幸いだな」

「一旦戻りましょう。 当面の危機は回避されましたが、おそらく今後は難しい局面になります」

 

アジトに綾が戻るのと、レイドが戻るのは、殆ど同時だった。居間では既に周辺の地図が広げられ、暴動が起きた市民広場に大きく×印がつけられていた。更に幾つかの矢印が書かれていて、それは暴徒達の動線だった。

カシスは時々屋上へ行って、状況を確認しては、地図に矢印を追加していく。最初は市民と暴徒を示す蒼い矢印だけだったが、そのうち兵士と騎士団を示す紅い矢印が加わった。それはかなり敏速に動き、事前に準備をしていたことが一目瞭然だった。やがて、工場区の一角に陣取るアキュート及び暴徒達と、それを正面及び側面から反包囲する騎士団及び軍という図式が明らかになった。軍も人員が足りないようで、敵後方には本格的な兵員配備が出来ないようだった。ジンガが期待を声に含ませながら、レイドに言う。

「レイド兄さん、反乱、成功するかな」

「いや、無理だな。 騎士団だけならともかく、召喚師が出てくるとかなり厳しい」

「でも、あのラムダ、だっけ? 反乱起こした人、凄く強そうだったぜ? 俺達の前にもペルゴって人がいて、その人アネゴとふつーに難しい話してたし」

次の瞬間、レイドが身を乗り出したので、ジンガは思わず一歩退いていた。自らがした突発的な行動に気付いたレイドは流石に咳払いし、改めてジンガに聞く。

「今、ラムダ、と言ったか? ジンガ、その人の特徴は?」

「えっと、紅い鎧を着てて、ばかでかい剣を背負ってた。 髪は長くて、片目をそれで隠してたな。 声が何かこうぶっとくてさ、厳しいけどどっか優しそうな人だったよ」

「……間違いない、ラムダ先輩だ」

嘆息して、レイドは椅子に座り込んだ。しばし流れる重苦しい沈黙。その中で、最初に口を開いたのは、ガゼルだった。

「……話してくれねえか?」

「サイジェントの、先代騎士団長だ。 私の先輩で、(断頭台)と呼ばれる剛剣の使い手で、人格も高潔で、私達騎士達には怖いけど頼れる人だった」

「そんな凄い人が、どうしてまたテロリストの親玉なんかに?」

「……退役、させられたんだ。 召喚師達にとって、あの人の図抜けた影響力と卓絶した実力は邪魔だった。 それにラムダ先輩は召喚師達の横暴に、最後まで体を張って最前線で抗議し続けた。 だから、ある事件の責任を取って……先輩は退役させられてしまったんだ。 絶望した騎士達は、次々に辞表を提出していった。 私もその一人だった。 先輩を見せしめにして、召喚師は絶対的な権力を握り、今の情況が訪れたんだ。 今の情況は……私が弱く、無能だったことにも、一因があるんだ」

しばしの無言が訪れた。全く代わりがなかったのはカシスで、そのまま屋上へ赴き、また帰ってきた。そして、地図に、黄色い線を引いた。それは事前に決めていた、近衛兵団、即ち召喚師達の直属部隊を示す動線だった。

「動き出したよ、召喚師達。 この様子だと、どっかの壁を召喚術でぶち抜いて、側面攻撃をかける気だね」

「レイド、ラムダさんに会いましょう。 危険を知らせないと」

「……危険を知らせたとして、その後はどうする。 私に、後輩達に剣を向けろと言うのか? 先輩と共に戦うというのは、そう言うことなんだ! 君は、君たちは、私に何をさせたいんだ!」

感情的に、綾に向けてレイドが絶叫した。そしてその後、後悔したように頭を下げた。

「……すまない、君に当たり散らしても、何の意味もないのに」

「ううん、気にしないでください」

「……なあレイド、取り合えず危険を知らせるだけなら問題はねえだろ。 行こうぜ」

「ああ、そうだな……ガゼル、抜け道の案内を頼む」

サブリーダーとしての責務を果たしたガゼルに、レイドは乾いた笑みを浮かべて見せた。リプレに合い言葉を告げ、それに火事になったときの合流地点を素早くすりあわせると、フラットの戦闘要員は、全員が裏道を通って工場区へ向かった。スウォンは声をかける暇が無く、モナティとガウムはアジトに残り、最後の備えとなった。

 

3、心の衝突

 

工場区では、激しい戦闘が行われていた。工場の一つを占拠したアキュート及び暴徒達は、計画的かつ的確にバリケードを築き、強力な軍と騎士団を阻み続けた。アキュートの布陣には隙が無く、数度の攻撃も全て失敗したため、騎士団も軍も今は遠巻きに反乱軍を見守っていた。

工場で働いていた者達は、半ばが暴徒に加わったが、半ばは逃げ出した。そして暴徒に加わったと言っても、そのうちの半数は女子供だった。加わったと言うより、逃げ遅れた者も少なくなかったのだ。暴徒の数は多かったが、非戦闘員の数は存外に多く、長期戦になればなる程不利なのは自明の理であった。

そんな中、アキュートの陣の中央部に、十人弱の人間が不意に現れた。下水道を通ってきた彼らは、ラムダの後輩であるレイドとその仲間だと名乗った。ラムダは鷹揚に頷くと、部下達に彼らを通すように命じた。

 

「おや、貴方はアヤさん。 レイド氏の親友だったんですね。 先ほどはどうも失礼しました」

「いえ、とんでもありません。 私達こそ、助けて頂いて」

ラムダの隣にいたペルゴが頭を下げ、綾は反射的にいつものように完璧な角度でお辞儀を返していた。一瞬流れる和やかな空気であったが、ラムダの咳払いがそれをうち破った。

「……うぉっほん。 アヤといったな、それにレイド、久しぶりだな。 戦場に、挨拶だけをしに来たわけではあるまい」

「先輩、久しぶりです。 ……早速ですが、イムラン達が動き出しました。 これ以上の抵抗は無理です」

レイドの口調に反して、ラムダは感情を殆ど言葉に出さなかった。だが、彼が発した言葉は、誰の予想をも裏切るものだった。

「そうか、それを知らせに来てくれたのか。 有り難う、レイド。 しかしな、それは既に予想の範囲内だ」

「……!?」

「我々はそろそろ撤収する。 無論ある程度の暴徒が逃げられるようにはするが、彼らにも自力で出処進退を明らかにして貰う」

「……まさか、彼らを見殺しにするつもりですか!?」

「有り体に言えば、そう言うことだ」

ラムダの言葉に綾が噛みつき、元騎士団長はそれを平然と肯定した。綾は唖然としたが、一瞬後に事態の全てを飲み込み、わなわなと震え始めた。不安げにジンガが綾とラムダを見比べながら言う。

「アネゴ、ど、どういう事なんだ?」

「おそらくこの暴動は、失敗することも計算の内だったんです」

「ほう、察しがいいな。 ペルゴが頭脳を認めていただけはある」

「アヤ、ワシらにも分かるよう説明してくれ」

「アネゴ、俺っちにも頼む」

ラムダの言葉に唇を噛んだ綾は、更に説明を求めたジンガとエドスに、自分の考えを確かめるように、或いは何かにすがるかのように続けた。

「多分アキュートのみなさんは、鉱山に続いて工場で暴動を起こすことで、サイジェントの経済機能を麻痺させるつもりです。 同時に暴動を起こす事によって、極限まで高まっている市民の不安を煽り、更に大きな暴動へ続けるつもりではないでしょうか。 おそらく今回の一件で、召喚師達は更に高圧的な態度で市民を迫害するでしょう。 それは更に不満を高め、やがて致命的な暴動が起こります。 今回はあくまで小さな火遊び、彼らの目的は街という名の火薬庫をそれによって爆破すること……!」

「ほほう、これだけの情報で、その推測を成り立たせたか。 リシュール、君に匹敵する知謀の持ち主ではないか?」

ラムダの言葉と同時に、目を大きく見開き、硬直した者がいる。ガゼルだった。綾の前に、拳法着を着た美貌の女性に支えられて、厳しい目つきの女性が現れた。松葉杖をついたその女性は、ラムダを見て、面倒くさげに言った。ガゼルの視線は、終始そのリシュールと呼ばれた女性に注がれ続けていた。

「……まあ、その子の頭の出来については置いておいて。 敵は明らかに側面攻撃を狙って動いてる。 D3地点に攻撃を集中、陽動の正面攻撃を防いだ後、撤退」

「うむ、分かった。 行くぞ」

「待ってくださいっ! ラムダ先輩!」

絶叫が、ラムダの足を止めた。絶叫を発したのは、レイドだった。鬱陶しそうに、そして僅かな蔑みをもって彼を見るラムダ。皆の前で、レイドは叫ぶ。今日の彼は、彼らしくもなく、感情の虜だった。

「騎士は領主に仕えると同時に、市民の盾である! そう私達に教えてくれたのは、貴方ではないですか! その貴方が、市民を見捨て、利用するというのですか!」

「……此処で例え死のうとも、彼らは未来の礎になる。 それに、彼らにも、ある程度の責任は取って貰わねばならないしな。 第一俺はもう騎士ではないし、レイド、お前もそれは同じだ。 大体、責務を捨て逃げたお前が、騎士を語るなっ! ……アヤ、君の仲間に、我らの真意を説明してやると良い。 君なら難なく分かろう」

黙り込んだレイドは、拳を固めて身震いした。その表情は痛々しく、誰にも直視は出来なかった。話を振られた綾は、皆の視線を受けながら、血を吐くように言った。

「街をこんな情況にしたのは、市民達が現状に妥協し続け、召喚師と領主の横暴を許してしまった事も一因です。 団結すれば最強の力を持っているのに、小さな現状と幸せを護るために、他人の不幸に目をつぶってしまった。 今は精算の時です。 領主達は勿論、市民達も自らが積み上げた負の遺産を、精算しなければならない。 ……言いたいことは、そう言うことですね、ラムダさん」

「全てその通りだ」

「ラムダさん、貴方の言うことは、正しいと思います。 でも……貴方が今やっていることは、絶対に間違っています! 工場の中は私も見ました! 小さな女の子や、おじいさんもいるじゃないですか! 彼らも、見捨てようっていうんですか! 彼らを犠牲に支配者階級の残忍さをアピールするなんて、あまりにも、あまりにも酷すぎます! もしそれを実行するつもりなら、ここで止めます!」

「良く言った、アヤ!」

エドスが言い、長大な鉄棒を構えた。その隣では、ジンガも同じように構えを取った。カシスも同じように構えたが、ガゼルだけは硬直したままだった。彼の額からは冷や汗が流れ続け、目の焦点も合わなかった。アキュートの者達も武器を構えようとしたが、ラムダがそれを制し、長大な剣を抜きはなった。そして、鯉口を切り、刀を抜きはなった綾に、悠々と近づいていった。

……次の瞬間。轟音と共に間を詰めたラムダが、雷光のような勢いで大剣を振り下ろした。それは凄まじい爆音と共に、綾の体の半ばまでめり込んだ。途轍もない圧力が綾の全身を上から押しつぶし、視界を強制的に下へ移動させた。彼女の心臓が今までにない勢いで飛び跳ねたのはその直後であった。

『……! は、早……! 私……死……!?』

集中を使う暇もなかった。剣を見切ることすら出来なかった。パワー、スピード、技量、全ての力量が決定的に違った。剣の一撃は、綾の反応速度を遙かに超えていた。そして、両膝を地についた綾は、剣が寸止めされ、体にめり込んでいないことにようやく気付いた。あまりにも途轍もない殺気を叩き付けられたが故に、瞬間的に死をイメージさせられたのである。これぞ、名高き断頭台。うち砕くは犠牲者の体だけでなく、それ以上に心。まるで人形が如く、硬直停止する綾を見下ろしつつ、ラムダは言った。

「……君は頭が切れるが、その分相手の力にも敏感だな。 君に我らを止めることは出来んよ。 そして、我らの行動を否定することもな。 なぜなら、君にもどうにも出来ないからだ

「アヤさん、我らだって、貴方と気持ちは同じです。 彼らを犠牲にせず済ませられるのなら、そうしていますよ。 我らとて、サイジェントの民なんです」

「時間がないよ、さっさと行く。 私はセシルと一緒に、後から行くから」

リシュールの言葉に、ラムダは剣を納め、ペルゴは頷き、そのまま歩き出した。今見せた圧倒的な実力が故に、誰もその後は追えなかった。今此処にいる誰もが、ラムダには勝てなかった。それは、誰にもどうにも出来ない事実であった。今の瞬間、カシスでさえ、身動き一つ出来なかったのだから。綾は初めて目にする、超一流の敵の余す事なく晒された実力を前に、身震いを隠せなかった。元々臆病な彼女は、生来の性質を刺激され、それ以上は動けなかったのである。以前のカシスの警告が、如何に的を射た物だったか、今更ながらに綾は悟っていた。

 

二人だけ残ったリシュールとセシル、それに一同との睨み合いは、恐ろしく長い時間続いた、ように誰もが思った。しかしながら事実は、ほんの一瞬だった。永く短い凍結の時が終わると、ガゼルが、夢遊病者のように歩みで、震える声で、リシュールに向け手を伸ばした。

「先生……先生だろ……! 俺だよ、ガゼルだっ!」

「……一目で分かった。 ガゼル、おっきくなったね。 私は嬉しいよ」

「あ、ああ、俺は、俺はチビなりにおっきくなったぜ! それにリプレも! あ、アルバなんてな、最近は背が伸びて、俺の腹まで届いたんだぜ! 剣術なんかも勉強し始めてて、おかしいよな、おっかしいよなっ! ラミも毎晩泣かなくなったし、フィズだってまた喋るようになったんだぜ! もう、あいつも、言葉を無くしていねえ! 最近じゃ、五月蠅いくらいなんだぜ……!」

動揺しきった声で、ガゼルは続けた。かたかたと震えつつ、まるで酔ったようにふらつきながら、額から大量の汗を流しながら、ガゼルは続けた。痛々しいほど必死な口調で、かって自分の全てだった人物に、思いをぶつけ続ける。

「トーマスは今、繁華街で靴屋やってる! き、きいてくれよ! クララとなあ、クララと結婚したんだぜ! 結婚だ、お、おかしいよな! すげえ事だよなっ! クララの腹には、今子供もいるんだってよ! あ、はは、すごいだろ、なあ、なあ先生っ!」

「……そうか……今度、お祝いを届けなきゃいけないね」

「先生……帰ってきてくれよ……!」

それだけ言うと、精根尽き果てたようで、ガゼルは地面に両手をついた。涙を流しているようだったが、必死にそれを隠そうとしていた。

「リプレ、毎朝先生の部屋掃除してるんだ。 いつでも帰ってこれるように、掃除してるんだっ! 帰ってきて……くれ……お願いだ……! 掃除してる彼奴の顔、すげえ辛そうなんだ……だから……後生だから……」

「ごめん、ガゼル。 私は帰れない。 今帰ると、キミ達の幸せに迷惑が掛かる」

もうガゼルは、涙を隠さなかった。顔を上げると、懇願するように絶叫した。

「迷惑なんかじゃねえっ! せ、先生! 俺は例えアンタが悪魔になっても……!」

「今日の作戦、私が練ったって言ったらどうする? 原案を出したのはアキュートの連中だけど、より効果的に私が練り直したって言ったら?」

「……! ……せ、先生……嘘……だろ……! 先生が、あんな残酷な作戦を、練るわけがねえ! 先生、乱暴な口調だったけど、本当は誰より優しかったじゃねえかっ! 強制されたんだなっ! 強制されたんだよなっ! あいつら、あいつら、畜生っ!」

「違う。 私が自分の意志で策を練り上げた。 それに、私を鉱山から助けたのは正真正銘彼らだ。 そして今の私は、自分の意志で彼らに協力している。 なぜなら、それこそがこの街をたたき直す最良の方法だからだ。 私はもう、キミ達とは違う世界の人間なんだ。 かっての賢母リシュールはもう死んだ。 今の私は、軍師リシュールだ。 リプレには、そう伝えておいて」

絶望したガゼルがへたり込むのと、リシュールが地図を放るのは同時だった。それを踏みつけて地面に広げると、冷徹な軍師は言う。

「これが今の戦況。 私達はこの地点に攻撃を集中し、敵を牽制してから撤退する。 それを知ってどうするかは、キミ達次第だ」

 

「アヤ、ガゼル、レイド。 大丈夫か?」

エドスが、綾とガゼルをそれぞれ助け起こした。レイドは立ちすくんだまま、微動だにしない。あろう事かフラットの主力である三人が、揃って心を砕かれていた。何とか事態を認識していたジンガが、痛々しい様子に歯ぎしりした。

「畜生……アネゴが、手も足も出ないなんて……」

「仕方がない。 あのラムダという男、とんでもなく強いぞ。 ワシらが総掛かりでも、勝てたかどうか」

「厳しいね。 仮に勝てても、半分は死んだと思うよー」

カシスがさらりと言い、素早く辺りに視線を這わせる。戦いが始まったことを示す轟音が、彼方此方で響き始めたからである。一瞬ためらった後、エドスはレイドに言った。

「まずいな、おっぱじまったぞ。 どうする? 帰るか?」

「……出来ることを、やろう」

意外にも、返答があった。レイドは顔を半ば手で覆いながらも、ゆっくりと、確かめるように言葉をはき出す。彼は深呼吸して、いつもの冷静な表情を無理矢理作ると、綾に視線を向け直した。綾は泣いてこそいなかったが、自らの肩を抱き、震えていた。

「アヤ、先ほどのリシュールの言葉から、何か策は思いつかないか?」

「……」

「辛いのは分かる。 だがこのまま行くと、あの老人達や、子供達も、鉱山や工場で酷使されるんだ。 しかも更に期間延長のおまけ付きでな! せめて、彼らを一人でも多く逃がす算段をとろう! 我らに出来る方法で! それが、あの男に、ラムダ先輩に、一矢を報いることになるんだ!」

はたと顔を上げた綾が、レイドと視線を合わせる。数秒の沈黙は、やがて勇気の発火につながった。綾は頷くと、地図を見て、頭の中にそれをインプットし、動線を無数に書き込んでいった。そして呼吸を落ち着け、策を練り上げていく。

『アキュートのみなさんは、おそらく騎士団及び軍を、この地点へ圧力をかけることで牽制し、時間を稼いで逃げるつもりですね。 敵の布陣は……。 ……! タイミングを合わせてこの地点を攻撃すれば、時間を……多少なりと稼げるはず!』

顔を上げた綾は、皆の視線が集中する中、地図の数箇所を素早く指し示していった。

「まず、今から工場へ行って、立てこもっている人達に脱出を促してください。 全員は無理ですから、老人や女子供を優先するように、説得出来ますか? それが終わったら、南スラムの無人地帯や、下水道の乾燥地帯へ、皆の誘導をお願いします。 ……いざというときは、死より降伏を選ぶようにも、説得をお願いします」

「よし、それは私がやろう。 案内役として、ガゼルも着いてきてくれ」

「おう、任せてくれ」

ガゼルが立ち上がり、無理に笑顔を作って親指を立てて見せた。綾はそれに笑みを返すと、更に地図上の数点に指を走らせる。

「後、誰かこの地点に登って、騎士団がこの地点へ移動したら合図してください。 その後、進入路を通って、撤退をお願いします」

「おし、それなら俺っちが!」

ジンガが楽しげに言い、腕まくりして見せた。綾は笑顔でそれに頷くと、地図へ、三度指を走らせた。

「後の人は、私と一緒に、この地点に布陣している部隊を叩きます。 そして合図と同時に撤退。 敵を引きつけつつこの地点へ移動した後、敵を振り切って下水道へ逃げ込みます」

「分かった」

「おう、相手は召喚師だな? 腕が鳴るわい」

綾は立ち上がると、刀を手に、ゆっくりと目を閉じた。ラムダに負けたことは事実として受け止め、それとは関係なく戦いに邁進する必要があったからである。綾が目を開けると、いつもの調子に戻ったガゼルとレイドを始め、皆が彼女を見ていた。そしてレイドは、いつになく真剣な表情で言った。

「アヤ、有り難う。 君のお陰で、多少なりとも反撃が出来そうだ」

 

4,それぞれに出来うること

 

狭い路地から飛び出そうとしたエドスを、綾が制した。ゆっくり綾が顔を出し、状況を確認する。意外にも其処は戦いの場と化していて、既に何人かが倒れて動かなかった。これは想定外の事態であったが、計画の変更を促すほどの物ではない。むしろ、追い風になる要素も多々あった。

戦っているのは、先ほどのローカスと、豪奢な装備に身を包む近衛兵数人。周囲には下水道が縦横に張り巡らせられ、橋が架かっていた。そして橋の上から、坊主頭のいかにも頭が悪そうな男が、悠々と指揮を執っている。後方にはかなりの兵力が控えていたが、にやにやと情況を見守るばかりで、動こうとしなかった。ローカスはかなりの腕前の剣士だったが、相手は訓練を受けた兵士であったし、何より多勢に無勢。やがて片膝を付き、無念そうに指揮官らしき男をにらみつけた。

「キムラン、そんなに俺が怖いか? 勝負しろ……!」

「ハン、誰がお前如きを怖いって? あぁん? 随分部下共を倒してくれたが、それもこれまでだな。 覚悟して貰うぜ?」

余裕綽々で、キムランは大振りの大刀を抜き放ち、ローカスに近づいていく。エドスが声を潜め、綾に言った。

「ワシらと同じ事を考えた奴がいた、という事か?」

「いや、おそらく偶然だと思います。 あのキムランという方は召喚師ですね。 多分あの人を狙って、ローカスさんが仕掛けたんだと思います。 エドス、カシスは周囲の人をお願いします。 私は、キムランさんをピンポイントで沈黙させます。 まず橋を落としますから、それと同時に作戦開始です」

二人が頷くのを確認すると、綾は小さく呪文を呟き、印を切り始めた。そして程なく空間に穴が開き、ヴォルケイトスが顔を見せる。そして、綾は鋭く指先を、キムランの背後の橋に向けた。

「誓約において、樋口綾が命ずる! ヴォルケイトス! お願いします!」

発射された光球が、キムランの背後の橋を一撃の下に粉砕した。呆然とする兵士達、それにキムラン。同時に綾が飛び出し、エドスとカシスがそれに続いた。

「な、なんだてめえらはっ!」

無言のまま綾は抜刀し、剣閃をキムランに叩き付けた。キムランは体をひねってそれをよけ、逆に上段から大刀を振り下ろす。その一撃を、刀を斜めにして凌ぎきると、綾は身を低くして足払いを見舞った。だがキムランはそれを的確に避け、バックステップして舌なめずりする。

「ほう、連中の援軍か? 女にしてはいい腕をしてやがるな、あぁん?」

「貴方も、召喚師にしては、接近戦に習熟しているようですね」

「俺はむしろこっちが専門なんでな。 例えば……」

キムランは凶暴な笑いを浮かべると、素早く数度印を切った。すると、虚空から巨大な盾状の生物が現れる。円形の体の周りには無数の機械的な触手が蠢いており、盾の中央には巨大な目がある。キムランは哄笑しながら、それに命令した。

「くはははは、誓約において俺の身を守れ、アーマーチャンプ!」

「了解、マスター。 防御シールド展開」

盾型生物が輝き、キムランの全身を紅い燐光が覆う。だがその間に、綾は間を詰め、無防備状態の敵へ袈裟懸けに一太刀浴びせていた。だが、一撃は乾いた音と共に跳ね返され、にいと笑ったキムランが大刀を振るって反撃する。からくもそれをかわした綾は、後方に跳ね退き、冷静に心中で分析した。

『リピテエルと同じ、防御系の召喚獣ですね。 あれをうち破るには、今も具現化している盾さんを叩くか、或いは……』

「何を考えてやがるんだ、あぁん? いずれにしても、このシールドはそんな剣じゃ斬れねえんだよ! 今度はこっちから行くぞゴルァ!」

吠えると、キムランは大きな足音を立てながら、巨体を揺らして突貫した。綾は巧妙に立ち位置をずらし、斬り結びながら自分の目的とする場所へ移動していく。見れば橋の向こうの兵士達は必死に橋を修復しようとしており、エドスとカシスもまだ敵を排除し終えていない。あまり時間がないが、ここで焦るわけには行かなかった。七合ほど刀を交えた後、綾は目的地点に到達した。そして、わざと隙を作ってみせる。キムランは、それに敏感に反応した。

「はっ! 楽しかったが、此処までだな! 貰ったぜ!」

大上段から打ち込んでくるキムラン。綾はギリギリまでそれを引きつけると、刀で一撃を受け流し、更に足捌きを駆使してキムランの右に回り込んだ。当然キムランはそれを追撃しようとしたが、次の瞬間綾は片膝を付き、空いている左掌を彼に向けていた。そして、ゼロ砲を撃ちはなったのである。シールドでそのダメージはキムランの体に届かなかったが、衝撃までは殺しきれなかった。致命的なことに、彼は数歩蹈鞴を踏んで後ろにさがった。

平地であればそれは問題なかっただろうが、今キムランの背後には何もなかった。正確には、そこには地面でなく空間があり、その下には下水道があった。キムランはアーマーチャンプもろとも落下しながら、絶叫していた。

「う、うぉおおおおおおおおおおおっ! おぉちぃるうううううううう!」

派手に、汚れた水しぶきが上がり、綾は額の汗を拭った。別に殺す必要もないし、これ以上戦いを長引かせる理由もないのである。ほぼ同時にエドスとカシスも近衛兵達に勝利を収め、ローカスを助け出していた。橋の向こうにいた無数の兵士達は、板きれを持ち出し、橋に乗せている。そして慌てた声で周囲に命令を飛ばし、結果一部の者達が迂回に成功、別の橋を渡って綾達に襲いかかった。数は軽く二十人以上である。一旦後退し、一度に二三人しか横に展開出来ない狭い路地で必死に敵を防ぎつつ、エドスが叫ぶ。

「アヤ、どうするっ!? まずいぞっ!」

「もう少し、時間を稼ぎましょう!」

「そ、そうだな! おおおうりゃああああっ!」

力任せにエドスが手近な一人を殴り倒すと、狭い路地であったから数人がまとめて将棋倒しになった。更にローカスと綾が呼吸を合わせて手近な一人を蹴り倒し、更に数人が悲鳴を上げて将棋倒しになる。しかし、ついに適当な板きれが必要数発見され、敵主力が怒濤の如き地響きと共に殺到してきた。数は百人を超すだろう。更にキムランも、彼らに助け上げられ、青筋を額に浮かべながら叫ぶ。

「良くも、良くも俺様をあんなきたねえ所に落としやがったなあっ! は、は、はぁっくしょんっ! ゆるさねえ、ゆるさねえぞっ! あぁんっ!?」

「あ、アヤっ! まずいぞっ! 本格的にまずいぞっ!」

「どうする? 私で良ければ、時間稼ぐよ!?」

「ち、畜生、まだ、まだやられるわけには……!」

口々に言う仲間達及び一名の言葉には耳を貸さず、綾は合図を待った。そして、敵の距離が十メートル以下になった瞬間、爆音が響いた。見れば、ジンガがいるはずの方向から、煙が上がっている。綾は頷き、叫んだ。

「総員、撤退します!」

「よし、逃げるぞっ! よ、ようやくだな……」

「まて、俺はまだ……ふぐっ!」

ローカスは言い切ることが出来なかった。カシスが無言のまま、彼の鳩尾に膝蹴りを見舞ったからである。悶絶して倒れ落ちるローカスを背負うと、エドスが率先して走り出し、綾とカシスがそれに続いた。

既に逃走経路は打ち合わせ済みである。綾は時々とって返して、突出した敵を叩き伏せながら裏路地を逃げ回った。それによって挑発された敵は、ますます頭に血を登らせて突貫してくる。やがて、敵をくい止めるべき地点が見えてきた。エドスが急ぐようにと、手を振って綾をせかす。綾は素早く印を切り、ヴォルケイトスを呼び出した。ヴォルケイトスは光球を撃ち放ち、それは兵士達の少し前にある、工場の壁を直撃した。

強制収容所の役目も持つ工場を覆う壁は、刑務所を覆うそれのように堅固であったが、ヴォルケイトスの火力はその硬度をも凌いだ。瓦礫がまき散らされ、大量の埃が舞う。開いた大穴、そして崩れ落ちる壁。無数に出た瓦礫。敵の追撃路がふさがれ、すぐには追えないことを確認した綾は、急いでエドスの後を追った。

 

ほぼ同時刻。包囲陣全体の指揮を執っていたイリアスは、サイサリスの報告を聞き、苦虫を噛みつぶしていた。

「イリアス様、近衛兵団の一部が独走しました。 敵の攻撃を受け、見境無く追撃をした上、敵を取り逃がし、狭い路地裏に誘い込まれて撤退にも支障をきたしている模様です」

「なっ……」

「アキュートの反撃に、兵の一部を動かした隙をつかれた形になりますね。 このままだと、包囲陣の一部が薄くなります。 再編成が必要かと」

「そうだな、早速手配しろ。 そして、イムラン殿にも、攻撃を少し遅らせるように合図を出すんだ」

サイサリスは無言のまま頷き、退出した。慌てて騎士団及び軍は包囲網を再編成し、一時間以上の時間をロスした。そしてその結果、包囲内にいた暴徒の、およそ半数を逃がすことになったのである。

やがて、包囲陣が再構築され、イムランが大威力の召喚術を使って工場の壁の一部を爆砕した。それと同時に兵士達が突入し、敵の抵抗を排除していく。イリアスは自ら最終攻撃の指揮を執り、降伏を呼びかけた。最前線に出てきた騎士団の姿を見た暴徒達は怯え、殆どの者が武器を捨てた。抵抗した者も、少し戦うと勝ち目がないことを悟って投降した。彼らを縛り上げ、残兵の掃討を行いながら、イリアスは参謀に聞く。

「アキュートの者達には、逃げられてしまったようだな」

「彼らの行動の迅速さから言って、全て計算ずくだったのかと思われます」

「……仕方がないな。 サイサリス、くれぐれも降伏した市民達には、惨い扱いをしないように、皆に徹底させるんだ」

「分かりました。 そのように手配いたします」

サイサリスを見送ると、イリアスは周囲に幾つかの指示を出したが、その手が止まった。イムランと、どういう訳かタオルに身を包んだキムランが現れたからである。キムランは三兄弟の真ん中で、近衛兵団の長をしている。お世辞にも有能な人物とは言えなかったが、一応の戦闘能力は有していた。

「イムラン殿、キムラン殿。 お役目御苦労様です」

「びえーっくしょん! お、お役目御苦労様、じゃねえっ!」

「反乱を起こした市民共を、貴様が勝手に保護したそうだな! さっさと私に引き渡せっ!」

「以前と同じ理由で、拒否します。 もう彼らは税金滞納者ではなく、暴れ出した市民ですので、私に処遇を決める権利があります。 何なら軍法を引きましょうか?」

イリアスの言葉に、イムランは激高して手を横に振った。

「これ以上市民共に舐められたら、国家の威信が成り立たなくなる! それが貴様にはわからんのか! 奴らには、徹底的に刑罰を加え、見せしめにする必要があるのだ!」

「今まで見せしめなら、税金の納期に嫌と言うほどやったではありませんか。 これ以上は逆効果だと、私は思いますが?」

「ええい、貴様では話にならん! どけっ!」

「……いつも自分で言っていることを、ご自分でお破りになるのですか? イムラン殿」

イムランの動きが止まった。イリアスはその様を冷静に見やりながら、的確に相手の急所を刺激する。

「職務を侵すな、いつも貴方はそう言っているではないですか。 これより先は、私達騎士団の職務なのですが? それを破られたら、私は騎士団長としての面目を失います」

「……確かに、そうだな」

「お、おい! アニキっ!」

「あまり、市民共をつけあがらせるなよ、騎士団長」

イムランは舌打ちすると、そのままその場を後にした。タオルに包まれたキムランが、くしゃみをしながら慌ててその後を追う。騎士の一人が、不思議に思って、イリアスに聞いた。

「騎士団長、イムラン殿は、どうして引き下がったのですか?」

「おそらく、彼らも我々が今必要な存在であることは悟っているのだろう。 こんな状況下で私を無理に交代させたら、長年不満を鬱屈させた騎士団までもが反乱を起こす可能性がある。 それに、私の後に騎士団長になるのは、あの切れ者サイサリスだ」

「ああ、なるほど」

「そういうことだ。 彼女よりも、私の方が与しやすいと、彼らは踏んでいるのさ」

失言に口を押さえた騎士の肩を笑って叩くと、イリアスは任務の最終段階に入った。やがて、三日もすると、暴動は沈静化した。

死者は合計五十三名、負傷者は二百人を超えた。また、暴動に参加した者の内、半数以上が逃亡に成功し、スラムや下水道に潜伏した。追っ手を出そうにも、数が多すぎたため、とても手が足りないのが現状であった。

騎士団の者達も、気付いていたかも知れない。この暴動が、大火の前の小火に過ぎないと言うことを。今後、更に大規模な暴動が起こる可能性が、極めて高いと言うことを。街の中の不安は一旦沈静化したが、それは水面下に移行したに過ぎなかった。誰もがそれを悟り、眠れぬ夜を過ごしたのだった。

 

5,大きな敗北、小さな救い

 

綾がアジトにたどり着いたのは、夕刻であった。アジトに帰り着いた途端に、三人ともへたり込んでしまい、迎えに出たリプレに疲れ切った笑みを浮かべるのが精一杯であった。あまりにも多くの事が起こり過ぎたため、皆すぐに立ち直るのは無理そうであった。

何とか全員が、無事に帰り着いていた。治安の悪化は確かであったから、これからもしばらくは厳戒態勢を取らねばならない。こんな状況下でも、寝ずの番をしなければならないのである。

比較的疲労とダメージが少ないレイドが、ジンガと共に番を申し出た。今回ばかりは、皆その好意に甘え、自室に直行した。彼らを見送ると、綾はガゼルと共に、リプレに話すことにした。アキュートの軍師となった、リシュールのことを。綾は立会人として、ガゼルに頼まれたのである。

子供達を寝付かせると、リプレは居間におりてきた。最初から、彼女は、二人の様子から用件に気付いていたかも知れない。テーブルに着くと、リプレは言った。

「……今日、何があったの?」

「先生が……いた」

「……っ! 何処に、生きてたのっ!」

「リプレ、落ち着いてください。 ガゼル、続けて」

綾の言葉に、ガゼルは震えを隠しながら、ぽつりぽつりと話し始めた。話の途中、彼は一度もリプレの目を見なかった。否、見ることが出来なかったのだろう。綾も、リプレの顔を正視出来なかった。やがて、ガゼルの話は終わり、彼はリプレに深々と頭を下げた。

「そういうことだ。 すまねえ……本当にすまねえ、リプレ」

「……」

「俺が引きずってでもつれてくれば良かったんだ。 先生を、先生を……」

「馬鹿なことを言わないで、ガゼル。 こんな良いこと、他に無いじゃない」

リプレの言葉が、ガゼルの罪悪感を断ち切った。言葉を振るわせながら、無理に笑顔を作り、リプレは言う。

「せ、先生が生きてないんじゃないかって、私ずっと思ってた。 でも、良かった。 どんな形であったって、生きていてくれたのよ? こんな、こんな嬉しいこと、他にないわよ」

「でも、でも先生は」

「先生は、きっと帰ってくる! 生きている以上、絶対に帰ってくる! だって此処は……私達と、先生の……家なんだから! 賢母だろうが、軍師だろうと、関係ない!」

弱気なガゼルの言葉を、リプレが断ち砕いた。涙を流しつつ硬直した少年に、フラットを支える母は、むしろ優しい声をかけた。

「だから、私達は、いつでも先生が帰ってこれるように、アジトを維持していこう」

「ああ……ああ! そうだ、そうだよな! 先生に顔向け出来るようなフラットを、維持して行かなきゃいけねえんだよな!」

「な、泣かないでよ、先生いつも言ってたじゃない、泣くなって」

「お、お前だって、お前だって泣いてる……じゃねえか」

綾は自らも涙を拭い、二人を見守った。そして、此処に居場所があったことを、心の底から良かったと思ったのである。

 

無惨な現実と戦いの後には、僅かな救いがあった。綾は自室で目をつぶると、少しだけ安心して眠りにつき、すぐに寝息を立て始めた。そして彼女がふと気付くと、あの(塔)の中にいた。半身を起こした綾に、声は以前同様、軽薄な口調で語りかけてくる。

「よう。 今日は随分な負け戦だったな。 幾ら何でも相手が悪すぎたぜ、アレはよ」

「……力が欲しいと、心の底から思いました」

「だろうな。 あの情況で、危機感を覚えないのはただのアホだ」

「天井、二枚や三枚破れたくらいでは、とてもラムダさんには勝てそうにないですけど……私、頑張ります」

綾の言葉に、(声)は哄笑した。

「そうだな。 てめえが強くならないと、あの二人だって護れそうにないもんなあ」

「強さが必要です。 明日から、抜本的な対策を練ります」

「おうおう、そうしろ。 そして、俺をもっと楽しませてくれ。 くくくくくくくく」

ひとしきり笑うと、声は不意に真面目な口調になった。小首を傾げる綾に、声は淡々と語りかける。

「此処だけの話、俺はお前を面白いと思うぜ? 自分では殆ど何も出来ないのに、他人のためとなるとすげえ力を発揮出来る。 今後も、どうなるか、本当に興味が尽きねえ」

「……」

「そう黙り込むなよ。 (他人のためなら)ってオプションがついても、何か出来るのは事実なんだ。 そしてそれには、充分な価値がある。 もっとてめえの価値を認めろよ」

「私に……価値なんて」

俯く綾に、声は更に続けた。不意に淡々としたり、不意に哄笑したり、情緒不安定な声であったが、綾は不快だとは一切思わなかった。

「正直、今日は良くやった。 あの状態から立ち直るなんて、お前はなかなかだ。 だから、俺から褒美をくれてやる。 お前はもう自力で一枚破れるが、もう一枚、特別にサービスしてやる。 俺を楽しませてくれた礼だ。 ……本当はこれ、お前が自力で敗れるもんなんだ。 だから、お前に気付かせてやるというのが正しいな。 ……今後も、頑張んな、樋口綾」

声はそれきり消えた。綾が気付くと、朝になっていた。そして、天井が二枚、破れる感触があった。

天井を破ろうと綾が思うと、すぐにそれは粉々に砕けた。無数の破片が降り注ぐイメージの中、綾は立ち上がり、無言のままパジャマを着替え始める。力を得ることに喜びなど無かったが、皆を護れるかも知れないという期待は、確かに彼女の中に存在した。

「アヤー! 朝ご飯よー!」

リプレの声が、着替えを終えた綾の耳に届いた。綾はそれに応えつつ、階段を下りる。護るべき明るい声、暖かい仲間達。小さく頷くと、新たなる決意と共に、綾は新しい朝を、仲間達と迎えたのであった。

 

迷霧の森の奥では、無色の派閥の幹部達が、会議を行っていた。蒼の派閥が本腰を入れ始めたこと、金の派閥もそれに呼応したことが告げられると、皆に一様な緊張が走った。しかし、オルドレイクは落ち着いており、その態度が皆を安心させた。

「同志達よ、予定通りの情況だ。 何を恐れる必要がある」

「はっ。 今後はどのような迎撃策を取りますか?」

「捨て置け。 此方の位置を知らせる必要もないが、これ以上敵を叩く必要もない。 これ以降は、例の物の確保に全力を置くことになる。 奴らが新たな攻撃に備えて右往左往している内に、我らは真の目的を果たしてしまうのだ。 無論何度か攻撃を試験的に加えるが、討伐隊を相手にする必要はない」

「なるほど、今までの戦闘は、その陽動だったわけですわね」

ラーマの言葉にオルドレイクは頷き、ザプラへ視線を移した。

「同志ザプラよ、例の物に関しては、どうだ?」

「はっ! 接触を既に果たし、教育を開始しております。 ……理解力、才能等は並ですな。 後、(あれ)との同調率は非常に高い水準を示しております」

「うむ。 的確な選別、さすがだな。 私は君と同志であることを誇りに思うぞ」

「有り難うございます、同志オルドレイク様。 ……所で、一つ問題が」

声を潜めたザプラが、クジマの方を見た。僅かに身を浮かせた少年に、残念そうにザプラは言う。

「実はスペアナンバー19が、同志クジマよ、君の接触している集団アキュートと利権で食い合う可能性があるのだ」

「ほう、それは困ったな。 では、俺はどうすればいいのだ?」

「うむ。 我々同士で争ってしまっては意味がない。 どうしたものだろうか?」

二人は同時にオルドレイクを見た。クジマにしてみても、実験的にアキュートに手を貸しているに過ぎないが、無言で手を引くのも芸がない話に思えたのである。オルドレイクは少し考え込むと、二人を見回した。

「同士ザプラよ、スペアの教育強化には、まだ時間がかかるな? そして、同士クジマよ、アキュートとやらは、目的を達成出来そうなのか?」

「はっ。 まだ少しの時間を頂きたいと考えております」

「微妙です。 達成するにしても、もう少し様子を見ないと」

「ならば保留し、様子を見るべきだな。 アキュートが目的を達成出来なければ即座に手を引く。 もし達成しても、そもそもの目的は金の派閥召喚師を我らの手以外で処分する事であるが故、それ以上の協力は必要ない。 ただ、同志達には、その旨を徹底し、同士討ちが起こらぬように注意を怠ってはならぬ」

オルドレイクの提案は二人を文句なく納得させた。やがて会議は終了し、トクランは頬を膨らませながら、クジマに言った。

「もう暴れるの終わり? つまんないなー」

「そう言うな、同志トクラン。 それに、約束の地を作るには、暴れてばかりでは駄目だ」

「分かってるよぉ、もう」

無邪気な、故に恐ろしいトクラン。本来なら、人なつっこい性格で、みんなに愛されていたことが疑いない娘。だが今の彼女は、人間の業が故、復讐と殺戮に価値を見いだしている。クジマの次に彼女を窘めたのは、ラーマだった。

「いつもガルに言われてるでしょ? 戦意を押さえないと駄目よ」

「ぶーっ、同志ラーマまでそんな事いう」

「そうじゃないのよ。 貴方は凄く強いんだから、本能的な戦意を押さえればもっとずっと強くなるの。 同志クジマ、貴方だって、そうよね」

「ああ……そうだな。 俺も殺意を押さえて、随分強くなることが出来たと、同志オルドレイク様に良く言われている」

更にザプラが、自らの立派な髭を撫でながら言う。

「少しの変化で強くなれるというのは良いことだぞ。 私など、もう飛躍的な強化など、望みようがないからな。 若い君達が実に羨ましい」

「はーい。 もう、みんなかったいんだからぁ」

わずかな空白が生じ、その一瞬後、皆一斉に笑った。そう、今彼らは、笑うことが出来たのである。暗闇の部屋の中で怯えていた頃と違い、コロシアムでドラゴンの餌にされかけていた頃と違い、雪の中で母親を惨殺された頃と違い、森の中で部下達共々虐殺されかけた時と違い。

彼らの幸せは、現行の世界と共存が不可能な物だった。此処を出れば、彼らはどうなるだろうか。ザプラは蒼の派閥に即座に消されるだろう。ラーマは追っ手が掛かり、すぐに殺されて(食肉)に加工されてしまうだろう。トクランは金の派閥に消されることが疑いない。クジマは、そもそも人間社会に受け入れられはしないのである。

人間社会と、彼らの正義は致命的なまでに食い合っていた。それが故に、争いは生存を賭けての物だった。

妥協無き戦いは、終わる要素無きまま、さらなる悲惨な局面へと移ろうとしていた。目を細めて、自らが護るべきものを見ていたオルドレイクは、やがてマントを翻し、森の最深部へと消えていった。皆を護るため、約束の地を作るため、自らの力を更に高めるために。

(続)