背負うべき責任
序、闇夜の死闘
クラプの森と言えば、凶暴なはぐれ召喚獣が住む暗き地であり、現地の住民は皆恐れて近づこうとしない魔境であった。蒼の派閥が派遣した特殊部隊がこの地に引きずり込まれたのは、事実この森に無色の派閥支部があったこと、此処しばらくの蒼の派閥支部に対する攻撃の拠点になっていることが確実だったこと、更に幹部の所在が確実であること、等の情報が入ったからである。蒼の刃は確かに無能ではなく、それらの情報は正しかった。そして、無色の派閥の一般構成員も、自分たちが餌になっていることは直前まで知らなかったのである。
ただ、蒼の刃も、支部にどれほどの人員がいるかは知らなかった。そこで彼らは動員戦力の全員を終結させ、夜明けと共に森に突入、支部の殲滅を計った。そして、見事に返り討ちにされた。流石の彼らも、自分たちが敵にしている敵が、かっての上司であり、手の内を知り尽くした相手だ等とは知らなかったのである。
ザプラは召喚師であったが、家格を現すため召喚師が最も大事にする名字を持っていない。彼は蒼の派閥が代々(飼って)来た暗殺兵器一族の者であり、その存在は公ではなかったからである。蒼の派閥と対立する金の派閥との抗争、各国の主戦派扇動、穏健派暗殺、軍事技術の裏供与。ザプラは蒼の派閥が行ってきた汚い仕事の全てを総括した一族の長であり、感情と自我を奪われていたためそれに何の疑念も抱かず行動する人形だった。事実、蒼の派閥上層部は、彼らのことを(殺戮人形)と呼び、そもそも人として扱っていなかったのである。
境遇になんの疑念も抱かず、ザプラは行動してきた。だが、それにも終わりが来た。長年蓄積された無数の情報が、蒼の派閥上層部に危惧を抱かせたのである。(もしかしたら裏切るかも知れない)という懸念が、破滅の坂へザプラを突き飛ばした。
……その日、ザプラは金の派閥の特務部隊である(華厳の剣)との戦を行っていた。華厳の剣に蒼の刃は兵力で劣っており、代わりに質で上回っていた。互いを軽蔑しきり、権益でも食い合っていたため、裏で激しく両者は抗争を繰り返し、毎度血みどろの戦いが繰り返されていた。一進一退の攻防、どちらも勝たず、そして負けず。だが、その日の戦いは、いつもと違っていた。
「状況を知らせろ。 第一分隊、第二分隊、何処にいる」
「分かりません。 安全圏にいるはずの、第四分隊の連絡もありません」
「なんたることだ」
既に彼の周囲には、殆ど味方が残っていない。とある王国での利権を巡って、金の派閥が有する秘密施設を攻撃した帰り、ザプラと部下達は想像を絶する敵の大軍と遭遇していた。今回の襲撃は練りに練られたものであり、最高機密に属する作戦であった。また、今までの作戦とも関連性が無く、仮に敵の反撃を受けることがあっても、この様な大軍に包囲されるなどと言うことはあり得ないはずだった。
推定される敵戦力は開戦時の時点で味方の六倍。幾ら有能な部下達といえども、まともに戦って勝てる戦力ではなかった。しかも上層部から供与された地図が彼方此方食い違っており、地形もよく分からなかった。逃げることも戦うことも出来ず、何とか逃げ延びてきた部下達とザプラは息を殺していた。後の者達の運命は、誰が口に出すまでもなく明らかだった。生き残りは、一個分隊十名を構成することさえ出来ないほどの少数だった。そしてザプラの護衛獣も、既に命を落とし、この場には居なかった。
「司令官、これは一体どういう事なのでしょうか」
「わからぬ。 我らの中に、裏切り者が居るとは思えぬ」
「……ひょっとして、上層部に裏切られたのではないでしょうか?」
部下の言葉に、ザプラはひくりと顔を上げた。それは皆が薄々気付いていた事であり、だが絶対に考えては行けないことでもあったからである。
「……愚かなことを言うな!」
「しかし、敵の中には、明らかに華厳の剣では無い者もおりました。 私は、エクス副派閥長の顔も、確かに見ました」
入ったばかりで、まだ洗脳が完全ではない部下の言葉に、ザプラは動揺した。その言葉を理屈で説明出来ないことが、彼の混乱に拍車をかけていた。やがて、ザプラは、それらが事実だと悟ったのである。
一旦それが事実だと理解出来てしまうと、ザプラには全ての事情が分かった。自分たちが、ゴミ同然に捨てられたことを。派閥上層部の蜜月を造るためだけに、生贄にされたことを。
最近蒼の派閥は金の派閥と裏での取引を行っており、数百年に渡って繰り返された暗闘の収束に動いている勢力もあることを、ザプラは知っていた。もし金の派閥の条件が、にっくき蒼の刃の首領である、自分の命だったとしたら。この機に、余計な事を知りすぎている自分を、処理するつもりだとしたら。エクスは善良な男だが、一方で必要とあれば如何様にでも手を汚す男だ。ザプラは頭を押さえ、絶叫していた。今まで全てを捧げていた者達に、ゴミ同然に捨てられたことは、流石の彼にも耐えきれない事実だったのである。
周囲に無数の殺気が浮き上がった。数は今居る部下達の十倍以上。ザプラは覚悟を決めると、立ち上がり、一人でも部下を逃がすべく動こうとした。もうまともに動ける部下は一人もおらず、彼もろくな召喚術を使えそうになかったが、これは意地というものだった。ザプラは周囲を見回し、産まれて初めて感情を目に宿して言った。
「者共! 蒼の刃の誇り、拝金主義者共と、裏切り者共に、見せつけてやろうぞ!」
「おおっ!」
同じく事態を悟った部下達が、半ば自暴自棄の、だがプライドに満ちた絶叫を上げた。だが、彼らが絶望的な突撃に出ようとした瞬間、閃光が辺りを包んだ。空に浮き上がったは、獣王クラス召喚獣の一体、プラミュデセス。巨大なる球体の中央部に抱くは、赤く大きな目。それが今までずっと蒼の刃が追い続けてきた、手配書の最高位に位置する人物の召喚獣だと、ザプラは良く知っていた。
召喚獣の目から放たれた光が、辺りを蹂躙し、一掃し、焼き尽くしていく。今まで一方的な虐殺に酔っていた者達は、逆に一方的に虐殺されていった。そして空から舞い降りた男が、光り輝く剣を振るい、周囲の者達を片っ端からなぎ払っていった。
……ザプラは生き残ることが出来た。男は、オルドレイクは、今まで敵だったはずのザプラを助け起こし、生き残った部下達もプラーマを使って回復していった。ザプラは、思わず叫んでいた。
「何故だ! 私が貴様の部下を今までどれほど倒したか、貴様が私達の部下を今までどれほど倒したか、忘れたわけではあるまいっ!」
「……一方的に殺される弱き者を見過ごす趣味は、私にはないのでな。 ましてその弱き者が、信じていた者から人形と蔑まれ、ゴミと捨てられようとしているならなおさらだ」
ザプラは地面に手をつき、男泣きにむせび泣いた。相手の大きさを知り、そして人として扱ってくれていることを知ったからである。オルドレイクはザプラに手をさしのべ、言った。
「むしろ君は、そして君たちは犠牲者だと、私は考えている。 偉大なる闇の長、ザプラよ、そして誇りある蒼の刃の闘士達よ。 私と来るが良い。 そして、我らが生きられる、約束の地を共に建設するのだ」
「同志よ、敵の様子は?」
「九割方殲滅しました。 此方の被害は軽微です」
「うむ。 では、生存者を救出して撤退だ。 敵にも、生きている奴が居たら捕獲せよ」
「はっ!」
あの戦いの時以来、同じ目的に邁進している部下達。かっては道具として扱っていたが今は血の通った人間として、同志として扱う者達。ザプラは満足げにその応えに頷くと、マントを翻し、帰還の途についた。
戦いの経過自体は極めて地味なものだった。要は、手練れた敵とまともに戦う必要など無いのである。施設内の同志達を先に撤退させ、入り口付近、及び内部に召喚獣を数体放しておく。それとの交戦で、敵が施設の内部に入ったのを見計らい、召喚獣を異界へ戻し、仕掛けて置いた爆弾を炸裂させる。生き残った敵が逃げ出てきた所を、クジマと共にザプラが、獣王クラス召喚獣でタイミングを合わせて攻撃。クジマが操る仙界の門番開明獣、ザプラが操る機界の破壊神ヘカトンケイレス、両者の大威力攻撃は見事に敵を直撃、壊滅させた。後は傷ついた敵を、深追いしないように撃破する、それだけで良かった。いずれも蒼の刃の行動パターンを知り尽くしているからこそ鮮やかに決まった策であり、ザプラの有能さが伺える事象であっただろう。蒼の派閥は、目先の利益にかられて、最も頼りになったはずの味方を自ら切り捨ててしまったのである。
ザプラがヘカトンケイレスを機界ロレイラルに戻し、小高い木立の上で状況を見ていると、部下が一人現れ、報告した。
「敵の一部は逃亡に成功したようですが、どうしましょうか?」
「捨て置け。 此方の戦力を、的確に報告して貰う必要がある。 ……それに、この気配は最近エクスが見つけたパッフェルだ。 お前達では荷が重い。 いずれ私が直接葬る」
「はっ! では、そのように致します」
「うむ。 お前達の命は、私の宝だ。 無駄に擲たぬようにな」
敬愛するオルドレイクの真似をしながらそう言い、ザプラは再び森の向こうへ視線をやった。ニヒルな笑みが、その口元に浮かぶ。感情を有するようになってから、ザプラには強者との戦い自体を楽しむ、武人的要素が色濃く浮き上がり始めていた。
「命は預けておくぞ。 いずれ雌雄を決しよう」
「……何人、いきてます?」
「どうやら、私達だけのようですよ。 不幸中の幸いになりますが、敵は追撃してこない模様です。 助かりましたね」
クラプの森の外、小さな木立に背中を預け、パッフェルが言った。全身傷だらけであり、疲労にも蝕まれ、だがまだ若干の余裕がある様子であった。彼女はまだ若いが、現在蒼の派閥の副派閥長であるエクスが抱える最強の密偵である。普段はケーキ屋のバイトなどをしているが、クラスAランク(国家破滅レベル)の任務には確実に狩り出され、今日のように戦う。以前は暗殺者をしていたという噂もあるが、実際はよく分かっていない。少なくとも現在はエクスに絶対的な忠誠を誓う密偵であり、普段は人なつっこい陽気な娘である。
彼女の隣にいるのは、同じく蒼の派閥が最近召し抱えた人物で、シオンという。普段はサイジェントであかなべという漢方専門薬局の店主をしている。彼はシルターンから召喚されたはぐれ召喚獣であり、故郷では上忍と呼ばれるクラスの忍者だった。
この二人は、派閥の次期党首と呼ばれるエクスが抱える切り札である。逆に言うと、この二人を動員するほど、エクスは事態を問題視していたのである。パッフェルは頭をかき回し、心底忌々しそうに言った。
「全く、冗談じゃないですよ。 まさか敵の実力がこれほどとんでもないなんて。 これじゃ追加でお給金請求しないと、とっても割に合わないですぅ」
「……そうですね。 で、これからどうするんですか? 私への指示は、貴方へ一任されているはずですが?」
「とりあえず、この近くの街に潜伏して、連中をさりげに監視しといてもらえます? 私は雇い主に、今の戦いの報告しなきゃ行けませんから」
「なら、私はサイジェントに戻ります。 ……では、御武運を」
シオンはその言葉を吐き終えると、かき消すように居なくなった。パッフェルは横目でそれを見やると、傷ついた体を引きずって、自らも帰途についた。
「前回の報告も会わせると、敵には獣王クラス召喚獣の使い手が最低でも四人。 こりゃ、本格的にやばそうだわ。 様子見は兵力を損じるだけ。 これからは総力戦か……」
その独り言は、風にながされ消えた。蒼の派閥による第二次討伐隊は、第一次討伐隊同様、全滅的な敗北を遂げたのである。
1,異邦人
サイジェントにサーカスが訪れたのは、フラットとオプテュスとの戦いが一段落して、十日してからのことだった。サーカスの一週間前には陽気なパレードが行われたが、チケットの売上は芳しくなかった。チケットの値自体はさほど問題なかったのだが、時期がまずかったのである。
サイジェントで最も市民の財布の紐が硬くなる時期こそが、今であった。なぜなら税金の納期が近づいており、皆金策に必死だったからである。現在サイジェントでは、収入の半分を税として納めねばならず、しかも富裕層はその義務が免除されるという極めて不公平な体制が取られている。故にサーカスのチケットを購入したのは一部の富裕層のみであり、下層市民をターゲットにしたチケットの販売戦略は見事に破綻した。サーカスは公演日数を縮めると同時に、少しでも失敗を取り返そうとチケットの一部を安値で放出した。そのうちの一枚、五人用のセット券が、幾人かの手を介してリプレの手に入ったのは、サーカス公演の前日のことであった。
「アヤー、アーヤー。 何処ー?」
「はい、何でしょうか?」
「……何してるの?」
「ええと……何と言いましょうか」
綾を捜して歩いていたリプレは、庭で件の人物を見つけた。呼ばれていた綾は、右手に棒を持ってアルバの棒を押さえ、左手でジンガの繰り出した拳を押さえていた。ジンガはそのまま身を翻して回し蹴りを見舞ったが、綾はそちらを見もせずに身を沈め、脇腹に肘撃ちを見舞う。更にアルバが気合いと共に棒を繰り出すが、綾は軽くそれを受け流し、首の後ろに棒を当てた。
気配探知能力を覚えてから、綾はそれを習熟させて実戦に用いるべく、様々な工夫を凝らしてきた。レイドに剣術を教わり始めたアルバと、我流で拳を磨いているジンガは丁度良い相手であり、最近は実戦組み手の際、二人まとめてあしらっていた。無論ジンガが本気を出せば結果は変わってきたであろうが、訓練レベルではそれで充分だったのである。
ただ、綾が飛躍的に強くなったかというと、それは否だ。今彼女が行っているのは、あくまで対集団戦用の訓練であり、個人戦を想定したものではない。身に付いた実力も、もし超一流の使い手と相対することになれば、すぐにうち砕かれる程度のものでしかなかった。極端な話をすれば、ジンガが本気で挑んでくれば、以前同様そう簡単には勝てないだろう。
だが、ジンガもアルバも、綾の実力を素直に崇拝出来る純粋さの持ち主だった。それに綾も、力に溺れはしなかった。これは単に、元々強さに絶対的な価値を見いだしてはいないことも起因していた。
「やっぱり、お姉ちゃんつえー!」
「ああ、これでこそアネゴだぜ!」
「有り難う、アルバ、ジンガ君。 それより、リプレ、どうしたんですか?」
「ちょっと、子供達を連れてサーカスに行って欲しいのよ」
棒をアジトの壁に立てかけながら言う綾に、リプレは笑みを浮かべながらチケットを取りだして見せた。アルバは目を輝かせ、話に割り込んだ。
「うわー! サーカスなんて、オイラ初めてだよ! 母さんも行くよね?」
「ごめんね、私は行けないのよ。 で、アヤ、子供達を連れて行って来て欲しいんだけど」
「はい、構いませんが……」
そこまで言いかけて、綾は何故リプレが行かないのか悟った。彼女以外に、フラットで家事を出来る者が存在しないからである。此処で言う家事とは、大家族を支えるレベルの職人芸的な家事のことだ。現在フラットのアジトには、アルバ、フィズ、フラウ、ラミの四人の子供達に加え、レイド、エドス、ガゼル、リプレ、綾、カシス、ジンガの七人の大人達が居る。無論大人達はある程度の家事もしているが、彼らにリプレの代わりは不可能だ。故に子供達の希望と裏腹に、リプレは残らなくては行けないのである。
「分かりました、私がみんなを連れて行ってきます」
「え……でも、オイラ……」
「アルバ、我が儘言わないで。 さ、他のみんなも呼んできてくれる?」
「……うん」
アルバは凄く残念そうな顔をしたが、彼にしても綾が嫌いなわけではない。ぱたぱたとアジトに駆け込み、他の子供達を呼びに行く。綾は笑みでそれを見送りながら、リプレに言った。
「それにしても、これ、高かったのではありませんか?」
「ううん。 何か全然チケットが売れなかったとかで、捨て値で流れてきたらしいわよ」
「あ、あらあら……」
「サーカスかー。 俺っちも行ったこと無いんだよなー」
隣でぼそりとジンガが、だが心底残念そうに言ったので、綾は吹き出すのをこらえなくてはならなかった。
普段は人気のない市民公園には、それなりに大きなテントが設営され、ある程度の人数が集まっていた。だが、サーカスの周囲に露店が列んでいるわけでもなく、全体的にはやはり寂しい雰囲気である。
子供達四人を連れて、綾は四苦八苦しながらテントまでたどり着いた。子供は結構好きな彼女であるが、子供達を引率するのがこれほど大変なことだとは知らなかったのである。活発組のアルバやフィズは放っておくとどこかへ行こうとするし、大人しい組のラミやフラウも、放っておくと置いてけぼりになってはぐれてしまう。四人に目を配り続けるのはかなりの労力を要し、戦闘中でもないのに気配探知能力を最大限に駆使せねばならなかった。
かなりの気苦労をしつつもテントにたどり着いた綾は、がらがらの受付へ行ってチケットを示した。その間にアルバがはぐれかけたが、何とか探し出して皆に合流させた。綾は決して子供達に舐められてはいなかったが、リプレのように(怒ると怖い)とも思われていなかったので、子供達の行動にはやはり統率性が欠けた。リプレの膝下にいる彼らが軍隊並みの統率を示す事実を鑑みるに、やはり綾の統率力はまだまだであると言わざるを得ないであろう。
ともあれ、サーカスの中に入ると、ようやく綾は落ち着くことが出来た。やはり内部も客入りが良いとは言い難く、簡単に綾は最前列を確保することが出来た。本当はもう少し後ろの方が見やすいのだが、子供達が其処が良いと主張したためである。やがて照明が落ち、サーカスが始まった。
サーカスのプログラム自体は、綾の故郷の物と大差がなかった。動物、特に猛獣を使ったショー、複数がかりの大がかりな手品、空中ブランコ。楽団による演奏を交えながら、照明を匠に使い、それらをテンポ良くこなしていく。客を飽きさせないその作りは、確かにプロの仕事と呼べる物であり、子供達は終始大満足であった。特に綾が嬉しかったのは、最近塞ぎがちだったフラウが喜んでいることで、途中で拍手なども交えてさえいた。
やがて、サーカスが一段落すると、いつものようにアルバとフィズが喧嘩を始めた。空中ブランコと手品のどちらかが凄いか言い争い始めたのである。ラミがそれを見て泣きそうになり、しかも二人は同時に綾に同意を求めた。
「「お姉ちゃん、どっちが凄いと思う!?」」
『ええと、二人の主張を同時に入れて、なおかつ不公平にしないようには……』
「……? お姉ちゃん?」
「あ、はい。 まず、空中ブランコだけど、アルバの言うとおり膨大な訓練を必要とするの。 だから、とても難しいのよ。 一方で手品だけど、まず大変なのは、手品自体の種を考えることなの。 それに手品を如何に自然に見せるかも凄く大変。 だから、どちらも同じく位凄いのよ」
論理的にねじ伏せられた形で、子供達は不満を抱えつつも黙り込んだ。それを見て、綾は考え込んだ。
『六十点くらい、ですね。 リプレなら、こんな時はどうやって子供達をあやすんでしょうか……』
「……お姉ちゃん」
ラミが袖を引いているのに気付いた綾がステージに視線を戻すと、新しい出し物が始まっていた。団長が良く通る声で空席が目立つ観客席に呼びかけ、場を盛り上げようとしている。要は今までと趣向を変え、技術による見せ物ではなく、珍獣による見せ物に切り替えるという事だった。団長が鞭を持ったまま呼びかけると、その(珍獣)は姿を見せた。
「モナティ! ガウム!」
「はいですのー!」
それは、極めて人間に近しい生き物だった。丸みを帯びた茶色い尻尾がある以外は、殆ど人間の女の子と変わりない。彼女が大事そうに持っているボールには、注視すると耳と尻尾がついており、なにやら鳴き声を上げていた。
「モナティ、自己紹介しろ」
「初めまして、モナティですの。 こっちの子はガウム、モナティの大事なお友達ですのー。 モナティ達は、召喚術で呼び出されたんですけど、ご主人様が亡くなられて、危ない所ではぐれになってしまうところだったんですのー」
丸っこい帽子をかぶったモナティは、内股でちょこんとお辞儀した。その様子が何とも可愛らしく、観客席からは喜びの声が挙がる。
だが、其処までの台詞で、綾は生唾を飲み込んでいた。トードスとは違う方向で、綾が辿り得た境遇の一つが其処にあったからである。
「路頭に迷って途方に暮れていたモナティ達を、団長さんが拾ってくださったお陰で、はぐれにならなくてすんだのですのー。 だから、モナティは、団長さんにご恩返しをするために、一生懸命がんばりますのー」
無邪気な笑顔を湛えたままでモナティはそう言い、芸が始まった。ガウムと呼ばれた生き物は、以前綾がイムラン戦で目撃したゲレタのように自在に姿を変え、また空気を吸い込んで大きさまでも変えた。二人の息は見事にあっていたが、残念ながらモナティの技量が決定的に不足していた。玉乗りは失敗し、輪潜りの途中で転び、トランポリンの際は顔面から地面に激突した。観客はその有様を見て大笑いし、モナティはへらへらとそれに応えていた。この挙動、天性のピエロというべきであったかも知れない。マイナスの要素が、プラス以上に客を喜ばせることは確かにあるのである。
悲劇はその直後に起こった。モナティがジャグリングを始めたのである。綾は嫌な予感を覚えてそれを見ていたが、悲劇は起こってしまった。最初の内は三つのボールをなんとかジャグリングしていたモナティだったが、四つ目を加えた途端、大きく外れ、観客席に飛び込んだのである。しかもそれは、ラミの顔面を直撃しそうになった。元々動きが鈍いラミはすくんで動けず、綾はとっさに手を伸ばして彼女を庇った。ボールは見事に弾かれて、何とか事なきを得たが、バウンドしたボールは観客席の背中に当たり、先以上の速度で綾の額を直撃した。
しかも、悲劇はそれでは終わらなかった。額を押さえて蹲った綾は、大きなモノが接近するのを感じて顔を上げた。要は今の失敗に驚いたモナティが転び、近くにあったボール状のガウムをはじき飛ばしてしまったのであった。それは避けようがない綾を、真っ正面から非情なまでに正確に直撃した。椅子ごと後ろに転んだ綾は、そのまま意識を失った。
「ご、ごめんなさいですのー!」
「ううん、私は大丈夫。 あまり気にしないで」
公演終了後、テントの裏で、団長と共にモナティは綾に平謝りした。団長の話によると、こういう必要以上の失敗が日常茶飯事だと言うことで、謝るのも毎度のことらしかった。角を生やした団長が控え室に戻っていくと、綾は表情を改め、モナティに聞き直した。子供達は、人なつっこいガウムと遊んでおり、此方には注意を向けていない。
「ええと、モナティさん、さっき公演の最中に言っていたことは本当なの?」
「はいですの! 団長さんは、行き場が無くなったモナティを拾ってくれた、本当に優しい人ですの。 だからモナティは、頑張って恩返ししていくですのー! 今は失敗ばかりで全然恩返し出来ていないけど、いずれ恩返しするんですの!」
『……本当に、心の底から助けて貰ったと思っているようですね』
綾は心が痛むのを感じたが、同時にしてあげるべき事が見つからなかった。綾が暮らしていた現在日本では、障害者に対する社会的な保証や、外国人に対する待遇の平等化などは(例え実質的には已然として不平等があるとしても)行われているが、百年ほど前にそんな物はなかった。技能無き外国人は社会の最も底辺で暮らしていくしかなかったし、障害者達は自らの尊厳を切り売りして見せ物小屋などで生きていくしかなかった。今先進国と自称している国々でも、社会的な平等がどうのと言い出したのはつい最近のことなのだ。発展途上国では現在もそう言った風潮は健在であり、障害者を産んだと言うだけで差別迫害される例もままあるし、宗教や出身による差別は容易に命を奪う。こういった差別は人間の恥部そのものだが、大概の人間は精神の奥底でそれを肯定しており、虐げることを社会的に公認でもされれば喜んでそれをするのである。人間などという生き物が本来どういう存在か、この事実だけでも明かであろう。だからこそ、適切な教育と法の存在は絶対不可欠なのである。
そしてサイジェントでもそれに代わりがないことは、綾も此処しばらくの体験で嫌と言うほど思い知った。無邪気なモナティの笑顔と、子供達と遊ぶガウムの鳴き声が、綾には痛々しかった。幸い子供達はモナティを差別せず、それだけが綾にとっての救いだった。
「もっと、ワシらを頼ってくれ」
ふと、そのエドスの言葉が、綾の脳裏に甦った。自分には悩みを共有する仲間がいることを思い出し、綾は少しだけ心が楽になるのを感じた。
思う存分楽しんだ子供達を連れて帰ると、綾は今日あった出来事を皆に話した。それを聞いてレイドは真面目に考え込み、ガゼルは憮然と頬杖をついた。いつもと全然変わらない様子で、最初に発言したのはカシスだった。
「その子、多分レビットね」
「レビット?」
「メイトルパにいる何種類かの獣人族の一つよー。 何か他の獣人同様生きた動物しか食べないとか言う話だけど、良くは知らない。 召喚獣としては、力仕事をさせるか、それか大人しい性格を利用しての愛玩用が殆どだって話だよ」
「愛玩用……」
流石に綾もその言葉を聞いて二の句が継げなかった。本当に召喚獣がむごい扱いを受けていることを感じたからである。生きた動物しか食べないという言葉が右から左に抜けるほど、さらりと告げられたその事実は強烈だった。
「何にしても、だ。 そいつ、バカじゃねえのか?」
「ガゼル、言い過ぎ」
一瞬後、リプレにお盆で殴られたガゼルは、不満げに頬を膨らませたが、確かにそれは一方の事実を告げる言葉でもあった。しばし黙り込んでいたレイドは、考え込みながら言った。
「……実際問題、生きていくために尊厳を切り売りする者はいる。 そうせねば生きられぬ現実が、世には厳然としてあるんだ。 しかし、その子が善意を装った悪意に騙され、利用されているというなら、事実を知る権利があるだろうな。 もし事実を知れば、その後どうするかはその子次第だ」
「ただ、事実を知るというのは残酷なことだ。 その子がそれで、幸せになると良いんだがな」
エドスが言い、更にガゼルがそれに自らの意見を加えた。
「俺としては、言った方がいいと思う。 確かに辛いと思うけどよ、知らずに騙され続ける方が……多分後で知ったとき、もっと辛いぜ。 誰かが言わなきゃならないんだ」
「それに今回のは、一番汚い騙し方だもんな。 人が良い奴を、それにつけ込んで働かせるなんて、俺っちだったら絶対に許せねえよ」
ジンガの言葉はまっすぐで、故に純粋だった。綾は決意が固まり行くのを感じ、遠慮がちに、だがはっきり言った。
「もしもの時は、受け入れて……もらえますか?」
「何のことやらわからねえが、行き場所のない奴を放り出すようなクズなんか、此処に一人でもいたっけか?」
ガゼルが茶目っ気たっぷりに言い、皆が首を横に振った。綾は小さく皆に礼を言うと、一刻も早く真実を告げるべく、居間を飛び出していった。悲しくないのに、何故か涙がこぼれて、それを隠すのに苦労せねばならなかった。
2,責任無き者
サーカスのテントは、公演を終え、元々少なかった人が更に減っていた。こういう時は堂々と動けば却って怪しまれないと言うかってのガゼルの言葉を思い出し、綾は出来るだけ自然体を保ったまま、堂々とテントの裏に回った。同時に悲鳴が耳に飛び込んできた。流石にまだ不慣れな綾は、慌てて身を隠し、物陰から様子を伺った。そこにいたのはおとぎ話に出てくる王子様のような格好の優男であり、彼は露骨に嫌がるモナティの腕を掴んでいた。さながら悪夢のような光景である。優男の後ろには槍を持った男が二人、仏頂面のまま立ちつくしていた。
「いやいやいやーっ! いやですのーっ!」
「はっはっは、何を嫌がることがある。 お前はこれからこの華麗なる私のペットとなるのだ。 何の不満があるんだい?」
「まだ、モナティは団長さんに恩を返してないですの! 離してくださいですのーっ!」
「その団長さんが、私にお前を売ったんだよ。 さ、暴れていないで、来るんだ」
『……! 何という酷いことを!』
綾はここに来る途中まで、もしかしたら団長が本当に善意を持っているかと思っていた。だが、それが百パーセント無いことが、今実証された。それに、今男が言った台詞は、どう考えても看過出来るものではない。案の定モナティは見る間に大粒の涙を目にため、泣き始めた。あまりに痛々しい光景に、綾は思わず唇を噛んでいた。
「うそっ! 団長さんが、団長さんがっ! モナティとガウムを拾ってくれた優しい団長さんが、そんなことをするはずがないですのーっ!」
「やかましい召喚獣め。 後できっちり調教しないといけないな。 おい、お前達、取り押さえ……」
優男が振り返り、背後にいた男に命令しようとしたが、実行はされなかった。素早く背後に回り込んだ綾が、二人とも峰打ちで叩き伏せたからである。ゆっくり地面に倒れる男達を見据えながら、綾は拳を振るわせて言った。
「やめて……下さい。 大人として、いや人間として、恥ずかしくないんですか?」
「はぁ? なんだね君は? 私はこの召喚獣を、正当な経済活動によって手に入れたんだよ? 見ず知らずの君に、どうこう言われる筋合いはないけどね」
「人身売買の、何処が正当な経済活動ですかっ!」
「人身? は、あははははははははは! これは傑作だ、どうやら子供並みの常識も持ち合わせていないらしいな君は。 いいかい、お嬢ちゃん、召喚獣は人の所有物なんだよ」
なにやら勘違いした優雅なポーズを取りながら、優男はハンカチを取りだした。綾は今まで人に憎悪を覚えたことなど無かったが、それは過去形になり果てようとしていた。目の前にいるこの優男は、今まで綾が会ったどの悪人よりも質が悪い存在だった。
「ああ、申し遅れたね。 私はカムラン=マーン。 この街を支配するマーン家の三男で、マーン家の中でも最も華麗で美しい男だ。 下賤な君と話すと、臭くて鼻が曲がりそうだが、特別に講義してやろう。 召喚獣は人の所有物であり、これもそうだ。 そう言う仕組みになって居るんだよこの世の中は。 小さな脳味噌で理解出来たかい? それに私はこの街の最も優れた有力者の一人だ。 そんな私に逆らうと言うことが、即ちどういう事か、分かっているかい? 仕方がない、おちえてあげまちょうねー、お嬢ちゃん。 あはははははははは! とーってもいたいめにあってしまうんでちゅよー」
「……」
「キューッ!」
調子に乗ったカムランは、綾が無言なのを良いことに、更に饒舌を振るおうとしたが、それを遮ったのがガウムだった。ガウムはボール状に形態変化すると、思いっきりカムランの顔面にぶつかったのである。どうやら相手に反撃されたことすらなかったらしいカムランは大げさに驚き、モナティの手を離して尻餅をついた。モナティは両手で顔を覆うと、控え室に駆け込んでいった。おそらく、団長に事実を確認するつもりであろう。綾は刀を鞘に収めると、モナティを追おうとしたカムランの前に立ちふさがった。今の反応で、この男の実力は分かったからである。イムランはそれなりに警戒せねばならない相手だが、召喚術を使えたとしてもこの男は全く脅威に値しないと判断したのである。カムランは舌打ちすると、わめき散らした。
「ちぃっ! これだから畜生系の召喚獣は嫌いだ! この間の茸と言い、品がないことはなだたしい! さあ、君、其処を退きたまえ! 退かないと酷いぞ!」
「退きません。 それに茸って、ひょっとしてトードスさんの事ですか? 貴方が召喚したんですか?」
「トードス? ……そういえば、そんな名前だったな。 前のペットに飽きたから召喚してみれば、随分醜い奴が出てきてしまってね。 気持ち悪いから速攻で捨てたよ。 それにしても、召喚獣にさん付け? 君はまた、際限なく幼稚な……」
この瞬間、綾の理性が、生まれて初めて消し飛んだ。綾はガウムに刀を差しだし、微笑んだ。その笑みは、リプレが怒ったときの物と、よく似ていた。ガウムは刀を受け取りつつ、一歩さがった。本能的に危険を察したのであろう。
「ガウム君、持っていて。 お願い」
「きゅ? きゅー」
「な、何をす……」
無言のまま、綾はカムランの襟首を掴むと、ものすごい勢いで頬をはり倒した。やはりまるで戦闘経験がなかったカムランは、マリオネットのように揺れた。綾が刀を渡した理由は唯一つ、それを持ったままだと、斬り殺しかねなかったからである。悲鳴さえ上げられず、目を白黒させるカムランに、綾は絶叫した。
「これは、知らない世界の森の中で、寂しく死んでいったトードスさんの分ですっ!」
更に鳩尾に膝蹴りを決め、身をかがめたカムランの後頭部に肘をうち下ろす。そして顎を蹴り上げ、一瞬宙に浮き上がったカムランに、綾は拳の連打を叩き込んだ。
「これはそのせいで死なねばならなかった、ガレフさんと、その部下達の分! これはその煽りでなくなった、森の狩人さん達の分! 絶望的な悲しみに襲われた、スウォン君の分っ!」
「ぐ、ふぐっ! はぐふううっ!」
無様な悲鳴を上げるカムランの顎を蹴り上げると、綾は止めとばかりに踵落としを叩き込んだ。
「これは友を亡くしたオルドレイクさんの分っ! これは尊厳を冒涜されたガウム君の、そしてモナティさんの分っ! 思い知りましたかっ!」
「ひ、ひぎゃふうううっ! 痛いいいいいいっ!」
「……貴方の愚かな行動が、どれだけの悲しみをもたらしたか、少しは考えてみてください。 今の痛みの一つ一つなんて、今私が上げた方達の痛みに比べれば、何ともありません……っ!」
地面で無様に痙攣しているカムラン。綾は涙を拭うと、ガウムから刀を受け取った。新しい気配が場に割り込んだことに、敏感に気付いたからである。それは強大な気配であり、相当な強者だと一目瞭然だった。空間が歪み、姿を見せたそれは、上半分がオトシブミ、下半分が飛蝗のような格好をした生き物だった。全身を燐光が覆い、体の各所には刃物が着いている。ガウムを背中に庇い、身構える綾。カムランは、倍にふくれあがった頬で絶叫する。
「サ、サビョーネルっ! 今まで何をしていた!」
「全て目撃しておりました。 カムラン様」
「な、何だと! か、華麗なる私が、この様な悲劇に遭っているというのに、何もせずただ見ていたというのかっ!」
「……姉君が、何故私を派遣したか思い出してください。 それに私は幾度も言ったはずです。 召喚師としての自分の力に、責任を持つように、と。 今回は、非常に良い機会でしょう。 姉君に一人前と認めて欲しいのなら、このお方の台詞を、痛みと共に身へお刻み下さい」
ぎりぎりと、華麗とはほど遠い様子で歯ぎしりするカムランは、自力で立ち上がり、蹌踉めくように逃げていった。逃げる際に、捨てぜりふは忘れなかったが。
「か、貸しておくぞっ!」
「……知りません」
「私は大天使サビョーネルと申す者です。 以後お見知り置きを。 ……このたびは、我が家の坊っちゃまが、無礼を致しました」
「いえ、そんな」
「……決してあの方は暗愚ではないのです。 しかし、産まれ育った世界が故、他人の痛みと、自らが保有する責任の存在を知らないのです。 他の町に住んでおられる私のマスター、あの方の姉君もそれを憂慮していて、私にあの方を含む三兄弟の教育係をお命じになったのですが、どうも巧くいきませぬで。 ご迷惑をかけたことをお詫びいたします」
サビョーネルと言われた召喚獣は、綾にそう言い、不器用に頭を下げて見せた。綾はこの召喚獣には、全く憎悪を感じなかった。カムランは、今でも許すことが出来なかったが。
「それよりも、モナティさんは」
「取引は、此方で処理しておきます。 その代わりといっては何ですが、他言は無用に願います。 では、失礼します」
それだけ言い終えると、もう一度頭を下げ、サビョーネルは消えた。そして、代わりに、モナティの泣き声が聞こえてきた。顔中をくしゃくしゃにしたモナティは、控え室から蹌踉めくように歩き来、そして倒れるようにガウムに抱きついた。
「ガウム! ガウムー!」
「きゅー、きゅー……」
「団長さんが、団長さんがーっ! モナティ達いらないって! お金にならないから、いらないってー!」
綾はかける言葉が見つからず、ただ立ちつくした。モナティは大粒の涙を目からこぼしながら、言った。
「ごめんね、ガウム。 モナティのせいで、またはぐれになっちゃった……行く所、無くなっちゃった……」
「……来る?」
「……?」
「私の所に、来る?」
はたと泣きやんだモナティ。綾は、その小さな体を抱きしめながら、続けて言った。
「行く所がないなら、私の所に来る? ……私も、はぐれ召喚獣なの。 きっと貴方の悲しみは理解出来ます。 私も帰れないの。 だから、一緒に帰る方法を探しましょう」
再び、それを聞いたモナティが泣き始めた。陽が、紅き光で再び居場所を手に入れることが出来た召喚獣の全身を包みながら、地平の彼方に沈み行こうとしていた。
……この日、フラットのアジトに、また居候が増えることになった。そしてそれを咎める者は誰もいなかった。
3,違うことは……
綾がモナティとガウムを連れて帰ってきたその夜。フラットでは、小さな騒動があった。経済的に好転したと言っても、慢性的な不景気であることに変わりない中、リプレは鼻歌交じりに皿を洗いつつ新しい客の歓迎パーティの献立を考えていたが、台所を通りかかったカシスが核弾頭を遠慮無く投下した。
「ねえねえリプレ」
「うん? カシス、どうしたの?」
「あの子達の歓迎パーティの料理作る気なら、止めといた方がいーよ」
「どうして?」
心を開いてくれてから、リプレはカシスを信頼している。また、途轍もなく冷酷なことを言うことがあっても、不合理な発言はしないことも知っている。故に、突発的に噛みつくようなこともなかった。
「さっきも言ったけど、レビットって、生きた動物しか食べないから。 あっちのガウムって子も、多分同じじゃないかな」
がちゃんと音が立ったのは、リプレが低高度から洗っていた皿を落としたからである。幸い皿は割れなかったが、音は結構大きく、カシスを精神的に退かせるには充分だった。目を爛々と光らせ、髪を逆立てながら振り返るリプレに、思わずカシスは肉体的にも一歩退く。彼女は、リプレが料理にプライドを持っている事、それを刺激されると本気で怒る事、を知っていた。そして今、またその厳然たる事実を見せつけられたからである。
「私の料理が、ナマのどうぶつに劣るって言うの!?」
「そ、そうじゃなくて、そもそも生理的に受け付けないんだと思うけど……」
「……そう。 じゃあ、仕方ないわね」
リプレの周囲を覆う強大なオーラが萎んでいくのを見て、カシスはようやく一息ついた。百戦錬磨のカシスにとっても、本気で怒ったリプレは恐怖の対象であることに違いはなかった。やがてカシスが、自分の言葉を裏付ける事項を見て、リプレの袖を引いた。
「ほら、あれあれ」
それを見て、思わずリプレは吹き出していた。固まる綾の前で、鼠を捕らえ、それを嬉々として丸ごと頭から食べるモナティ。そして、尻尾を分けて貰って、麺のように啜るガウムの姿があったからである。モナティは口の周りを真っ赤にしながら、さながらお菓子を貰った子供のように無邪気に宣った。再びリプレの体を怒りのオーラが覆い、怯えおののいてカシスが壁に背中から張り付いた。リプレも綾も理性的な存在であるから、頭では理解出来ている。しかし、体がすぐには理解出来ないのである。リプレの場合、それが怒りの形を取って、外に漏れだしたのだった。
「おいしいですのー!」
「きゅーっ!」
「私の料理は、ナマのネズミ以下だというのね……」
「だ、だから違うってば」
一晩が開けると、新たなる問題が浮上した。モナティは綾のことを(ごしゅじんさま)と呼び始めたのである。無邪気な笑顔でガウムを抱えるモナティを見ながら、綾は慌てて思惑を巡らせた。ちなみに昨日以来、モナティは自分を呼び捨てにしてくれるように綾に要請し、既にそれは入れられていた。
『子供達の手前、ごしゅじんさまはあまりにも良くありませんね。 何か別の呼び方を考えて貰わないと』
「モナティ、あのね」
「はい、ごしゅじんさま」
「……お願いだから、別の呼び方を考えてくれない?」
しばしの沈黙の後、モナティは無邪気な笑顔のまま宣う。
「じゃあ、おくさまはどうですのー?」
綾は、激しい精神疲労を覚えてそのまま机に突っ伏した。綾が顔を上げると、モナティの背後では、楽しそうにガゼルが腕組みをして事態の推移を見守っていた。他人事であれば、確かに愉快な事態であったかも知れない。
「あのね、モナティ。 おくさまというのは結婚した女性に使う言葉なの。 私はまだ、結婚もしてないし、その予定もないんです」
「え……では、だんなさまはどうですの?」
「勘弁してください」
「こうていへいかは?」
頭痛を覚えた綾が、嘆息して再び机に蹲った。モナティが大まじめで悪気がないのは分かり切った事だから、怒るわけにもいかない。此処に来た直後のカシスのように、面白がってセクハラをするよりはマシだが、いやそれよりむしろ更に質が悪いかも知れなかった。
綾が顔を上げると、ガゼルが部屋の隅に蹲って痙攣していた。声を殺して笑っているのは間違いない。一刻も早く、事態の打開を計る必要があった。
「呼び捨てにしてくれて構わないですよ」
「そんなこと、モナティにはできませんですのー。 ごしゅじんさま」
「……」
「ふえ……ごしゅじんさま……モナティは頑張ってますの……」
見る間に泣きそうになるモナティを見て、綾は自らも泣きそうになりながら、心の中で呟いた。
『正直な話、泣きたいのは、此方の方です。 でも悪気がないし、何か考えてあげないと可哀想』
「マスター、にしたら?」
修羅場に、不意に割り込んだのはカシスの声だった。カシスは咳払いすると、別に楽しげでもなくいつもの調子で言った。
「大概の召喚獣は、召喚主をそう呼ぶよ」
「それ、いいですのー! カシスさん、有り難うございますですのー!」
『……ま、まあ、かろうじて……妥協点ですね』
「マスター! マスターっ!」
「うん、それでいいですよ」
嬉々としてそう言うモナティに、綾は笑みで応えた。こうしてかろうじて修羅場は終結したが、その後数日に渡って、綾はこの件でガゼルにからかわれ続けることになる。
綾はそのまま日課である釣りに出かけたが、事態はそれからも悪化の一途を辿った。モナティとガウムはぴったりくっついて離れなかったのである。ただこれは、明確な指示を与えていなかったのも原因であったから、モナティに責はなかったかも知れない。
綾が釣りを始めると、モナティはじっとその姿を見た。一匹目をつり上げた綾は、その様子に気付き、最悪の展開を予測して蒼くなった。
『つ、釣りをしてみたいと言い出したら大変です。 この竿は一本しかありませんし、道具も最低限しかありませんから、釣りに習熟していないモナティに触らせるわけには……でもそんな事をいったらこの子は傷つきますし、どうしたら……』
「あの、マスター」
「あ、はい、なんですか?」
「お昼寝、していてもいいですの? モナティ、少し眠くなってしまったですのー」
「ええ、構いませんよ。 その辺りなら、丁度陽が当たって気持ちいいですし」
笑顔で、だが実は心底から胸をなで下ろしながら、綾は細かい指示を出した。見かけに違わずモナティは子供であり、きちんとした指示さえ出せばちゃんと行動出来るのである。すぐにモナティとガウムは寝息を立て始め、綾は再び釣りに戻った。
しかし、今フラットは四人の子供を抱えている。これ以上子供を抱えると、リプレの負担が大きくなりすぎる。モナティにも、何かしら活動して貰う必要があった。綾は手慣れた動作で釣り糸を狙い通りの地点に垂らしながら、思索を進めた。
『モナティに手伝って貰うことと言えば、何があるでしょうか。 料理は無理ですし、掃除の類は適材適所とは思えません。 現在のフラットの経済状況から言って……』
魚が掛かり、手際よくそれを釣り上げ、針を外す。この間も、気配探知能力を綾は展開し続けている。というのも、カシスにいつ攻撃しても良いといっているためである。最初の内は、殆ど石を避けられなかった綾だが、最近は九割以上の確率で回避出来、残りの殆どもガード出来るようになっていた。感覚的な掴みが異様に早くなっている事が、その習熟を確実に後押ししていた。
カシスのことを考えた時点で、綾はふと彼女が言っていたことを思い出した。昨日は他の重要情報もあったせいで、右から左へ聞き流していたが、今はあらゆる情報を総括的に判断する必要があった。
『……! そういえば、カシスが言っていましたっけ。 試してみましょうか』
あることを思いついた綾は、モナティの方へ視線を移した。丸まったガウムにもたれかかって、レビットの少女は涎を垂れ流しつつ寝息を立てている。その光景がほほえましくて、綾は思わず笑みをこぼした。
『ま、起きてから、ですね』
綾は思考を閉じると、針に蚯蚓をつけながら、水面に再び落とした。
昼過ぎに一旦アジトに戻ると、綾はモナティとガウムを連れて森へ移動した。表向きは、昼食を終えた時点で薪の在庫がほぼ切れたためである。もっとも綾は、そうでなくても、最初から何かしら理由を造って森に出かけるつもりであった。
スウォンの住居は森の辺縁部にあり、この時間帯には在宅であることを綾は良く知っていた。果たしてスウォンは住居におり、モナティとガウムに自己紹介させると、綾は表情を改めた。
「スウォン君、この森で、野ネズミが沢山居る場所ってありますか?」
「え? ……そうですね、ここから北には結構居ますけど、またどうして」
「モナティとガウム、二人とも生きた動物しか食べられないんです」
スウォンは笑顔のままゆっくりモナティとガウムに視線を移し、手を振る彼女らに手を振り返した。その後、ゆっくり視線を綾に戻した狩人の少年は、形容しがたい笑みを湛えていた。
「ひょっとして、召喚獣ですか? あの子達」
「はい。 はぐれになりかけた所を、うちで預かることになりました。 驚きましたか?」
「ええ、少しだけ。 分かりました。 取り合えず一度の摂取量を見ましょう。 森の動物たちは、生態系のピラミッド上で自らの役割を果たし、バランスを取りながら生きています。 一種の動物を狩り尽くすと後が大変ですので、様子を見ながら、ですね」
スウォンの言葉に頷くと、綾は意図的に声のトーンを落とし、言った。
「それと、あの子達の力がどれくらいあるか、調べてもらえませんか?」
「純粋なストレングスの話ですか? 分かりました」
頷きあうと、綾はモナティとガウムをスウォンに預け、薪拾いに出かけた。以前スウォンに教えて貰った穴場は相変わらず豊富に薪が落ちており、さほどの苦労もなく目標量をクリアすることが出来た。時間が余ったので、一旦アジトに戻って薪を置いてくると、綾は急ぎ足でスウォンの家に戻った。
スウォンの家は木を組み合わせて造った素朴な建物で、必要な物しか中には存在しない。中にはいるのも失礼だと考えた綾は、外にある切り株に腰を下ろし、スウォンが帰ってくるのを待った。しばしの沈黙の後、予定の時間通りにスウォンは戻ってきて、すっかりモナティとガウムは彼になついていたため、綾は少しだけ安心した。再びその辺で昼寝を始める二人を見ながら、綾は言った。
「スウォン君、どうでした?」
「……二人合わせて、一度に大体五匹ほどで満腹するようですね。 あの分だと、一週間周期で狩り場を変えていけば、ネズミを狩り尽くすこともないでしょう。 後、純粋なストレングスですが、モナティは僕の六倍前後と言った所です。 ガウムも僕の二倍近いですね」
綾が吹き出すのと、スウォンが苦笑するのはほぼ同時だった。細身のスウォンだが、森で鍛えられた彼の力は一般人よりむしろ強いのに、である。
「僕も、驚きました」
「あの子、本気になって暴れたら、人間を素手で解体できるんですね」
「性格的にあり得ないですけどね。 ……そうならないように、貴方が責任を持って監督してください」
「はい、勿論です」
頷いた綾は、改めて責任という物の重さを感じた。取り合えず、人間の数段上の力を持つことが分かった以上、モナティに出来ることは幾らでもある。ただそれを子供達に不意に見せると怯えるかも知れないから、ゆっくりならしていく必要があるだろう。
これはモナティより綾が上で、故に責任を持つとかそう言うことではない。綾の方がこの世界に先に来たから、先達として社会的な常識を教え、護って行かねばならないと言う事だ。逆に言うと、綾がリィンバウムではなくメイトルパに召喚されていれば、立場は逆になっていた可能性もある。単にそれだけのことだ。
アジトに戻った綾は、リプレに(単純な力作業)を大体モナティに任せてしまって良い、と告げた。一瞬リプレは難色を示したが、綾が事情を告げると、すぐに納得して受け入れた。そしてモナティも、今後はリプレの手伝いをすることに喜んで同意した。彼女にしてみれば、(マスターのためになる)事が出来るのは、際限のない幸せだったのである。
ようやく一段落ついて、居間で読書に戻った綾は(ようやくそれが出来るまでに読み書きに習熟した)、ガゼルが目の前に立ったのに気付いた。顔を上げると、ガゼルはホットミルクを差し出し、表情を改めた。
「ご苦労さん。 一段落ついたみてえだな」
「はい、おかげさまで」
「……みんな違うのは当たり前なんだよな。 違うから怖くて当たり前、何て言うのは怖がる側の理屈にすぎねえ。 正直、彼奴を受け入れるのはもう少し苦労しそうだと思っていたんだが、すんなり決まって良かったぜ」
「本当に、感謝しています」
改めて頭を下げようとした綾を手で制すると、ガゼルの顔に影が浮かんだ。
「感謝は俺じゃなくて、こういう風潮を造った院長先生にしてくれよな。 今の台詞だって、院長先生の受け売りなんだぜ」
「どんな方だったんですか?」
以前も話題が出た、ガゼルの精神的な親のことを、単純に綾は知りたくなった。話を振られたガゼルは、それは嬉々として語り始める。
「すげえいい人だったよ。 単純にいい人って言うんじゃなくて、今のリプレみたいな感じかな。 怒るときは怒り、それでいながらみんなが帰る家になる。 理不尽な差別が大っきらいで、何事にも公平で……普段は頭の良さを生かして、今レイドが行ってる道場で学問を教えてたりもしたっけな。 子供達みんなに慕われてて、俺も大好きだった。 そ、ちび共がリプレを好きなように、俺も院長先生が大好きだった。 ……考えてみれば、少し前の俺はその先生の教えを踏み外すところだったんだよな。 感謝してるぜ、アヤ」
「ううん、感謝するのは私の方です」
二人は心底からそう言い合い、その後不意におかしくなって笑った。だがその笑いには、決して歓喜ばかりが籠もらなかった。どこか寂しい、乾いた笑いだった。
『強い……人だったんですね。 羨ましいです。 私はきっとそんな人にはなれないけど、一度で良いから、会ってみたい』
心の底から、綾はそう思った。院長先生の話をするガゼルは本当に嬉しそうで、その邪魔をするのは忍びなかったので、何も言わなかったが。
……この日は、サイジェントの住民が、絶望的な不景気の中であったとはいえ、安らかに過ごす事が出来た最後の日となった。翌日起こった大事件が、都市国家としてのサイジェントを大きく揺るがし、根幹へくさびを入れたからである。
後に言う、血の坑道事件。今まで圧政に屈してきた労働者達の、堪忍袋の緒が切れた瞬間であった。
4,血の坑道事件
サイジェントの北およそ十五キロにある鉱山地帯は、地獄の蟻塚と呼ばれている。鉱山業で出た猛毒のガスが全域を禿げ山と化し、その光景は正に凄惨。また此処で働くと三年で命を落とすという噂が、半ば事実と化しているからである。露天掘りであればもう少し被害は減ったかも知れないが、サイジェントでは坑道を掘って鉱物資源を採取していて、方針に変更はなかった。
鉱山での労働は地獄と言っても過言ではない厳しさであり、また精錬の過程で出る有毒ガスや、鉱物粉塵によって、労働者の体は大きなダメージを受ける。狭い坑道でトロッコを押すために女子供も容赦のない労働を強いられ、酷使に悪い意味で差別はない。殆ど休み無しでの労働時間は平均で十七時間に達し、落盤事故や爆発事故は日常茶飯事。給料が多少高かろうと、それは関係がない。労働者の殆どは、サイジェント、及びその衛星都市から集められてきた(税金滞納者)であり、労働監督官も(代わりが幾らでもいる)為に彼らを次々に使い捨てにした。最も大きな鉱山である(ワシェル山)の北部斜面には、そうやって死んだ労働者の墓場が造られているが、最近はもう埋葬するのも手間が足りないため、毎日多数出る死者が野ざらしで放置されていた。ガスによって黒ずんだ骨が無数に散らばるその様は、正に地獄。いや、地獄よりも悲惨であっただろう。黒ずんだ肉が骨にこびりついているが、蠅でさえそれを食べようとはしなかった。貪欲なことで知られるはぐれたちも、見向きもしなかった。
この鉱山、そして紡績工場での労働人員を確保するために、サイジェントでは税率の引き上げと、容赦のない税金滞納者の取り締まりが行われていた。結果、現在では北スラム南スラムを合わせて街の約四分の一が既にスラムと化し、半ば無人地帯と化している。それでも領主が政策を変更しなかったのは、それによってサイジェントの鉱物生産能力が上昇し、また(総合的経済力)も跳ね上がったからである。サイジェントだけではなく、産業革命に突入した他の都市も成果を上げるのに躍起になっていて、それとの競争がますます政策を過激化させた。
市民を完全に無視した(全体のための政策)に、行き詰まりが近づいていることに、領主と召喚師達は気付いていなかった。だが彼らは、力尽くで気付かされることになる。地獄の労働を強いられていた労働者達が、ついに堪忍袋の緒を切ったからである。きっかけとなったのは組織的な外圧であったが、労働者達の我慢はとうの昔に限界を超えていたのであった。
ワシェル山の、最も厳しい地帯で働いている者達は、税金の滞納者だけではない。危険分子と判断された者や、マーン家三兄弟の政敵、それに重犯罪者などであった。彼らの中で、一つの噂があった。まだ若い娘であるのに、四年以上も生き延びている者がいるというのである。
こういった噂は大概希望を反映した物で、事実無根なことが多いが、これに関しては事実だった。最も激しい労働を強いられ、心身に激しいダメージを負いながらも、今だ正気を失わぬ人物が実在したのである。その娘の名は、リシュール=ブライテス。現在二十代半ばになる、かってフラット孤児院の院長を務めていた人物だった。
資産家の二女に産まれた彼女は、幼い頃から行動力に長け、また的確な情況洞察力の持ち主だった。サイジェントの現状を早くから憂いていた彼女だったが、資産家といっても召喚師や貴族レベルの資金力があるわけでもなく、また二女というのも災いして、殆ど実質的な力はなかった。リシュールは悩み、何度か自殺未遂も起こした。自分の取るべき道が見つからず、無力感にさいなまれたからである。しかし、自分の個人的資産が、庶民レベルから見れば途方もない物だと気付いた後は、その行動は一本に搾られた。リシュールは自分で動かせる資産を整理すると家を飛び出し、自分に出来ること……即ち(より弱き者)を助けることに全力を注いだ。具体的には、孤児院を経営し、子供達の世話をすることを始めたのである。これが、フラット孤児院の始まりだった。図抜けた行動力と頭脳がフル回転した結果、夢は一年弱でかない、リシュールはその後も全精力を孤児院の運営に注ぎ続けていった。
リシュールは市民を強くするのは知識であると考えており、孤児院経営の傍ら子供達に読み書きを教え、大人達に政治の仕組みや社会のシステムを教えていった。やることを見つけた彼女は俄然精気を帯び、その行動には力強さが増した。周囲からリシュールは学者だと思われていたが、事実そこいらの学者より豊富な知識の持ち主だったので、別に否定することもなく、その情報を素直に定着させていった。だが、破局は突然に訪れた。彼女が教えていたことが、召喚師達に目をつけられたのである。
召喚師達は、市民は無知にしておくべきだと考えており、リシュールは彼らにとって邪魔だった。何より、下町全域における、(賢母リシュール)の影響力は大きく、危険視もさせた。愚劣を極める召喚師達も、流石に市民が全員で刃向かってきたら敵わないことくらいは悟っていたのである。その過程で彼らは意図的に階層間の差別意識を煽り、対立感情を煽っていた。リシュールの下層市民教育はそれらの政策を壊しうる危険因子となりうる物で、有り体に言えば目障りだったのである。
リシュールには、残念ながら経営者としての素質が欠けていて、フラット孤児院の運営は芳しく無かった。召喚師達は、其処に目をつけた。かくしてリシュールは拘束され、鉱山に送り込まれたのである。リシュールが逃げなかったのは、子供達の命を盾に取られたからである。大の男でも三年は保たぬ地獄の労働。リシュールなど、早々に命を落とすはずだと、彼らは推測していた。
だが、リシュールは、驚くべき精神力で命を保ち、執念と運で生き残っていった。そして不意に現れた何者かが、彼女を鉱山から助け出したのである。同時に小規模の落盤事故が起こり、リシュールは生死不明という形で片づけられた。リシュールは助けられたことで張りつめ続けた気がゆるみ、三日ほど昏睡状態に陥った。次に目を覚ましたとき、彼女の周囲には、四人の男女が居た。
「お目覚めか? 賢母リシュール」
「その恥ずかしい名を知っている人が、まだいたとはね。 で、キミは誰?」
「俺は騎士団長ラムダ。 現在は、元騎士団長だがな。 此方の男はペルゴ、こっちはスタウト、そして彼女はセシルだ」
その名を聞いて、リシュールの意識が徐々にはっきりし始めた。視界が広がり始め、自分が小さな小屋の中にいること、周囲に四人が居ること、なども分かった。リシュールは、基本的に自分が興味を持たないことには何の意欲も湧かない娘だった。鉱山で生き延びることが出来たのも、子供達が心配で、彼らの元に戻ろうと精神力を振り絞り続けたからである。
ラムダの名は、リシュールも知っていた。硬骨漢で、剛直で、召喚師達の横暴に抵抗し続けた人物。そのラムダが元騎士団長で、自分を浚ったと言うことは、大体の情況は推測出来ようと言うものである。少なくとも、リシュールには大まかな事態変動が手に取るように分かった。そしてそれは、彼女の知的好奇心と活力を沸き上がらせたのである。
「で、もと騎士団長様が、この私に何用で?」
「貴方の力を、是非とも借りたい。 ……サイジェントを、救うために」
リシュールは半身を起こそうとしたが、四年の労働で痛めつけられた体は言うことを聞かなかった。全身を強烈な痛みが襲ったが、何とか耐え抜き、平静を装う。セシルと呼ばれた女が傍らに膝をつくと、その手に乳白色の光が生まれ、リシュールの全身を包んだ。すると、痛みは嘘のように消え去っていった。その光が何か、博識なリシュールは当然知っていた。
「これはストラ…… ひょっとしてキミ、まさかと思ってたけど、格闘家のセシルちゃん?」
「久しぶりね、リシュール先生。 今の私は、町で医者をしながら、ラムダ様に協力しているわ」
「そっかぁ……あーあー、ちょっと見ない内に大人になって、それでまた随分綺麗になって。 それにキミが革命行動に手を貸しているって事は、いよいよヤバイの?」
無言のまま、セシルは頷いた。リシュールは目を閉じて考え込むと、十五秒ほどで自らの考えをまとめた。
「……分かった。 協力する。 ただしやるからには、サイジェントを根本からぶっ壊す位の覚悟をして貰うけど、いい?」
「無論、最初からそのつもりだ」
「生きが良くて結構。 じゃ、現在の情報を教えて。 取り合えず、今日中に情況を把握したいから」
改めて半身を起こしたリシュールに、ペルゴが整理された情報を流し込み始めた。そして、これから実行しようとしている、幾つかの計画も。無言のままリシュールはそれを聞き続けていたが、やがて無感動に言った。
「計画の骨子は分かった。 まあ、最終的に何を目指すかって所では、あまり共感出来ないけど」
「……なんだと?」
「もうサイジェントは、どうあがいても農業都市には戻れないよ。 私が言いたいのは、そう言うこと。 変わってしまった物は、それを利用する方向へ動いた方がいいと思うけどね」
「なるほど、確かに一理あるかも知れないな。 まあ、その点は置いておくとして、領主と召喚師の排除という点では、何の問題なく我らは協力出来るだろう」
ラムダの言葉に、リシュールは頷いた。これほどまでに彼らが情報を明かすのは、拒否されたら殺すくらいの気持ちでいること、それにリシュールが築いてきた名声を信頼していること、があるだろう。リシュールにしても、それは名誉なことであったから、最初から出来るだけ協力するつもりであった。ラムダという男の物わかりの良さも、彼女にとっては追い風となった。リシュールは目を細めると、親指で地面を指しながら言った。
「じゃあ、まず最初に、此処を叩こう」
「む? どういう意味だ?」
「この鉱山で、まず最初に暴動を起こす。 そして開店休業状態に追い込む。 まずこっちで、次に工場で騒ぎを起こし、サイジェントの経済的な命綱を寸断する。 領主と召喚師を表舞台に引っ張り出すためには、おそらく工場への攻撃だけでは足りない」
「……具体的に聞こうか」
真顔になったラムダに、リシュールは蕩々と策を語り始めた。
リシュールが消えてから一週間が過ぎた。鉱山内で、表面的に目立った動きはなかったが、裏ではある噂が流れ始めていた。
「なあ、お前も聞いたか? 例の噂」
「ああ、何でもワシェル山の最深部に、とんでもなく凶暴なはぐれが出たっていうんだろ?」
「そうそう、それだ。 そいつに殆ど鉱夫が喰い殺されちまったんだとよ。 おっかねえなあ……」
「おっかねえのはその後だよ。 ……上の連中、討伐隊を派遣するくらいなら、代わりの鉱夫を用意するつもりらしいぜ。 それで、無作為に俺達の中から選別するつもりらしいとよ。 おっそろしいなあ」
鉱夫達は声を潜めて、その噂をまことしやかに流し合った。この噂は瞬く間に広まったが、それには理由があった。事実ワシェル山の労働者が数人、かき消すようにいなくなったこと。上層部が箝口令を敷き、それを隠蔽しようとしたこと。今までにもワシェル山には正体不明のはぐれの噂があり、都市伝説化していたこと、等である。
労働監督達は、そもそも鉱夫達を人間扱いしておらず、代わりは幾らでもいるなどと考えていた。それに今まで目立った暴動もなく、鉱夫達を舐めきっていた。彼らは噂を力尽くで抑えようとしたが、それは逆効果だった。
更に数日が過ぎて、噂を一気に加速する事態が起こった。ワシェル山に、本物の召喚獣が出たのである。それは鬼神と呼ばれるヒューマノイドで、良くはぐれとして討伐される存在だった。からくも鉱夫に被害は出なかったが、鬼神は暴れるだけ暴れてその猛威と姿を存分に見せつけて消えた。噂は真実味を増し、鉱夫達の間に恐怖が奔った。その上、更に悪いことに、最悪のタイミングで(人員交代)の時期が来たのである。
これは以前から鉱夫の不満を多少なりと抑えるために取られていた政策であり、真面目な者は比較的安全な場所へ、不真面目だったり反抗的だったりした者は危険な場所に移すことで、鉱夫のやる気を出そうとする物だった。だが今回は、それが逆に作用した。鉱夫達の間に、ワシェル山最深部に、問答無用で多数が配備されるという噂が流れたのである。
高まる不安の中、鉱夫達の中でリーダーを務める者達が、幾人か連れだって監督に抗議を行った。しかしそれは入れられず、逆に彼らは懲罰牢へと叩き込まれてしまった。そして、ついに力による支配に、限界が来た。
主要な坑道に勤める鉱夫達が、集団で抗議行動に出る。規模は一秒ごとに大きくなり、そのうねりに恐怖を覚えた労働監督達は武器を持ち出す。鉱夫達は始め言葉で抗議していたが、パニックに陥った労働監督の一人が鉱夫を殴り倒すと、臨界点まで達していた憎しみが爆発した。圧倒的な人の波が、今まで恣に暴力を振るってきた労働監督達を殴り倒し、或いは殺し、或いは縛り上げた。鉱夫達はリーダーを力尽くで取り返し、凱歌を挙げた。暴動は鉱山全域に瞬く間に拡大し、たった一日で攻守合わせて五十人が命を落とした。特に激しい戦いになった(第九坑道)は、辺り中に返り血が飛び散り、その凄惨さを後世に語り継がせる事となった。これが俗に言う、血の坑道事件のあらましである。
鉱夫達は勝利に湧いたが、事態を聞きつけて駆けつけた騎士団を見ると、その雄々しき姿に怯えてしまう者が多く出た。また、鉱夫の数は圧倒的であり、騎士団も力尽くでの鎮圧には二の足を踏んだ。そこで鉱夫の中の代表者が、騎士団の長であるイリアスとの交渉を行った。イリアスはまだ若いというのに、理知的な騎士団長との評判高く、以前名騎士団長と称えられたラムダの後継者として相応しい人物だと噂されていて、鉱夫達もそれを良く知っていた。その噂通り、イリアスは鉱夫達の主張を入れ、以上の提案を受け入れた。
・暴動の情況を調査し、早急に召喚獣の調査を行う。
・明らかに無謀だった労働条件を改善し、また野ざらしにされている死者達を手厚く弔う。
・暴動を行ったリーダー達は公正な裁判にかけ、他の者は処罰しない。
・今後は鞭によって、鉱夫を虐待しない。
・今まで鉱夫を虐待してきた労働監督達は交代させる。
だが、その条件に噛みついた者がいる。事態を聞きつけて飛んできたイムランである。イムランは甲高い声を張り上げ、イリアスに食ってかかった。
「貴公は阿呆か! 無闇に反乱を起こした謀反人共の言うことを入れ、国家の威信が保てると思っているのか?」
「国家といえども、間違いは間違いと認めるべきでしょう。 前々から鉱山については良くない噂が流れていましたが、私の調査した所それはあながち嘘ではないようです。 それに、公正な条件で働いてこそ、労働者達も真の力を発揮してくれるというものです」
イリアスの言葉は理性的であったが、それでイムランを納得させることは不可能だった。
「ええい、手ぬるい! 反乱の首謀者をすぐに私に引き渡せ!」
「お言葉ですが、それは出来ません。 騎士団長として、私は平等な交渉を行った彼らを保護する義務があります」
「貴様、私に逆らうつもりか!」
「……貴方の造った法ですが? イムラン殿」
ラムダに比べて、イリアスには一つの強みがあった。それは、少なくとも記憶力に関して、頼れる参謀が居たことである。イリアスの視線を受け、その参謀、サイサリスは頷き、蕩々と言った。
「サイジェント軍法第七条第十六項。 騎士団長は市民と名誉ある交渉を行う権利を有し、それに関する交渉人の保護を己の剣にかけてする義務を有する。 イムラン殿、貴方が決めた法ですよ」
「く……おのれ……」
「ご用がそれだけならば、お帰り下さい。 現場は我ら騎士団の者に任せてもらえれば幸いです」
サイサリスは静かに頭を下げ、舌打ちしたイムランは地面を蹴りつけながら去っていった。イリアスは若いが、サイサリスは更に若い。ラムダの先代騎士団長の孫娘で、まだ十代半ばである。彼女個人として硬すぎるのが欠点だが、記憶力は確かで、法にも詳しい。イリアスにとって、頼れる参謀であった。
「有り難う、サイサリス」
「いえ。 イムラン殿の独走にも困ったものです。 ですがイリアス様、多少は柔軟な対応を覚えられても良いかと思います」
「……サイサリス、騎士団の任務は、市民を護る事だ。 騎士団は領主様に忠誠を誓うと同時に、市民にも忠誠を誓っている。 如何なる相手が立ちふさがろうと、それを破るわけには行かない。 市民あってのサイジェント、市民あっての騎士団なんだ」
「……分かりました」
サイサリスは頭を下げ、その場から退出した。イリアスは嘆息すると、小さな声で一人ごちた。今後イムランの嫌がらせで、細かい部分の交渉や裁判が長期化するのは目に見えていたからである。
「ラムダ先輩、レイド先輩、貴方達ならどうしますか? 私は……この道を行き続けて……良いのでしょうか」
「しっかし恐ろしいな、アンタは」
鉱山の一つから、ワシェル山を見下ろしながらスタウトが言った。隣では、立ち上がれるようになったリシュールが、松葉杖を片手に、髪を掻き上げて情況を見守っていた。一見おとなしそうなこの娘は、ワシェル山の最過酷労働地帯から使えそうな人材を拾い上げ、多少噂をばらまくだけで、殆ど手を汚さず此処まで大きな暴動を起こして見せたのだ。手を汚さないばかりか、自らの力をもいながらにして強化した、一石二鳥の恐るべき策であった。
更にその後、最初に駆けつけてくるイリアスが鉱夫達を護ろうとすること、それにイムランが食いつくであろう事、それによって交渉が長引き、鉱山機能が麻痺するであろう事。そのいずれをも、全てリシュールは予測していた。まさしく神算鬼謀というに相応しい頭脳であり、召喚師達が問題視したのも無理はないことであっただろう。
「リシュール。 次の作戦に移るぞ」
事態の推移を確認したラムダが、リシュールの側まで上がってきた。リシュールは頷くと、声を意図的に低くした。
「……所で、あの鬼面の坊やだけど、何者?」
「知らん。 だが俺達の望みと食い合うことはないだろう。 向こうが俺達を利用しているのは承知の上だが、俺達も彼奴を利用させて貰う、それだけだ」
「そう巧くいくかな。 ……なんか、とんでもないことに巻き込まれている気がする」
「今私達が行っているのも、充分にとんでもないこと、ではありませんか?」
ペルゴの言葉に鷹揚に頷くと、リシュールは松葉杖をつき、セシルに付き添って貰って歩き始めた。
……この後、サイジェントの混乱は更に加速していく。その中心となる人物達と、フラットの面々が激突するまで、そう多くの時間は残されていなかった。
5,動き始める派閥
聖王都ゼラム。蒼の派閥本部がある都市であり、リィンバウムで最も大きな国家の一つ聖王国の首都でもある大都市である。蒼の派閥本部にある薄暗い部屋で、パッフェルは小さな人影に跪いていた。その人影、蒼の派閥副総帥エクスは、ゆっくり振り向いて部下を見やった。驚くべし、その姿は少年のものである。だがエクスは、実際には少年ではなく、長き時を生きている存在だった。
「パッフェル、状況の報告を」
「ごめんなさい、全滅しちゃいました。 敵は最低でも獣王クラス召喚獣の使い手を四人以上保有してます。 クラスAから、クラスS(世界的危機レベル)に引き上げた方が、良くありません?」
「……そうか、そうだな」
「そういえば、ヘカトンケイレスでしたっけ? アレの使い手もいましたよ。 いやー、ガツンって凄いカミナリ来ましてね、本当に死ぬかと思いましたよ。 ……部下はみんな死んじゃいましたけど」
エクスが咎めるような視線を送ったので、パッフェルは饒舌を止め、申し訳なさそうに頭をかいた。
「では、次の任務だ。 この手紙を、金の派閥副総裁のファミイ=マーン女史に届けて貰いたい。 あくまで、内密にな」
「はいはい、了解しましたっ。 でわっ」
手紙を受け取ると、パッフェルはかき消すようにいなくなった。その手紙は、金の派閥で最も理性的かつ信頼出来る存在に総力戦の開始を告げ、協力を要請する物だった。小さく嘆息すると、敵の正体を知ったエクスは、服の袖をまくり上げた。右腕には、未だ消えぬ傷跡が、生々しく残っていた。
クラプの森での戦いは、今でもエクスの脳裏に焼き付いている。乱入したオルドレイクは、かっての親友であった。互いに力を認め合った仲でもあった。だが、今ではどうやっても相容れない存在になっていた。護りたいものが、致命的なまでに違ってしまったからである。
オルドレイクの召喚したプラミュデセスに味方を壊滅状態にされ、追いつめられたエクス。オルドレイクは、むしろ悲しみを称えて、エクスを見下ろした。エクスの右腕は、プラミュデセスの光線が抉り、無惨な傷口からは大量の血が溢れ出ていた。
「蒼の派閥で、お前は唯一話すに足る男だと思っていたのだがな」
「オルドレイク……これは……仕方がなかったんだ。 彼らを犠牲にしなければ、金の派閥は納得しなかった。 彼らを犠牲にしなければ、むごい争いは終わらなかったんだ」
「それはお前達、(より強き者)の理屈だろう。 より弱き者を救わずして、何が支配者だ。 何が(仕方なかった)だ。 腐ったな、エクスよ。 かっての気高き魂は、風化して散ったか」
オルドレイクは剣を振り上げたが、エクスの頭は両断されなかった。苦笑すると、オルドレイクは剣を鞘に収め、そして吐き捨てた。
「今の貴様は、殺す価値すらない。 貴様など斬った所で、剣の汚れになるだけだ。 失せろ……ダニが」
その台詞は、エクスの心を深く傷つけた。今でもエクスは、人の業に直接触れる場所にいて、ダニと罵られても仕方がない決断をせざるを得ないときがあった。しかしどれだけ長く生きようと、それを割り切るのは不可能だった。悲しみを抑えきるのは、不可能だった。
政治が汚いと罵る者がいるが、それは間違っている。政治とは即ち社会的な人間そのものを扱う作業であり、最も現実的にその本質を直視せねばならぬ難行だ。それが汚いというのは、早い話が人間の本質自体が汚いからに他ならない。だから、理想と現実を天秤にかけ、少しずつ良くして行かねばならない。しかし、その作業の最中、無惨な犠牲に会う者は確かにいるのである。それが社会の現実であり、人類が抱える業であった。
オルドレイクは、それを知っての上で行動している。つまり、それ以上の動機で、確実に社会自体の存在を破壊する目的で動いている。それをエクスは知っていた。だから、社会を造る人類と、無色の派閥は、絶対に相容れないのかも知れない。両者の激突は必至であった。
「……オルドレイク、私は戦うよ。 私が護りたいものを、護るために」
直視出来ないほどに無惨な悲しみを湛えて、エクスは言った。彼の決意は固く、それを揺るがすことは何処の誰にも不可能であった。
エクスとオルドレイク。かっての親友達は、人間の持つ業が故に、激突せねばならなかった。両者ともに、大事なものを護りたいと考えているだけなのに。それは悲劇と言うべきだったのであろうか、いやそうではない。悲劇などというのも生ぬるい、惨劇と言うべきであっただろう。
血の惨劇は、いよいよ不可避になり、三つの派閥が直接牙を交える瞬間が刻一刻と近づきつつあった。
(続)
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