血みどろの住処

 

序、ある村の末路

 

闇に、小さな村が浮かんでいた。其処は今、血なまぐさき地獄の顕現に晒されていた。

村の名はワルトハイム。リィンバウムの北部にある、農業を主とする人口六十人ほどの村である。交通網は整備されておらず、また雪深い気候から極めて閉鎖的な性格を持つ場所であった。中央広場には今人だかりが出来ており、十字架が設置され、それにはまだ若い娘が架けられていた。

村人の目はぎらぎらと輝き、興奮と欲望にたぎっている。娯楽の少ないこの村で、公認された弱者をいたぶることは数少ない憂さ晴らしであった。何か弱みを持つ者、社交的ではない者、理由は何でも良かった。絶対的な堅さを持つ不文律が覆う、小さな小さな閉鎖世界。その中での楽しみは原初的な物であり、何よりも正直な人間の暗き欲望の発露であった。今年は村の作物が少なく、皆苦しい生活をしていた。そんななか、この引け目を山ほど抱えた娘が生贄に選ばれたのは、当然の帰結であったのかもしれない。

広場には老若男女、村のほぼ全員が集まっている。そんな中、小さな人影が物陰から様子をうかがっていた。フードを目深にかぶった人影は、小さな手を自分が隠れている木箱にかけ、寒さより怯えと憎しみに震えていた。その手の甲には、無数の鱗が密生している。また、人影の額には、二本の角も生えていた。

彼の名はクジマ。名字はない。磔にされようとしているのは、彼の母だった。彼の母は言った、人を信じろと。人は愚かなようだが、優しい心も持ち合わせていると。かって血統上の父によって望まぬ子をはらまされた娘。でありながら、その子に愛を注いだ、優しき娘。だがそれは、一切報われることもなかった。

「クジマ、人を殺してはいけません。 傷つけてもいけません。 彼らの心には、等しく温かい心が眠っているのです。 それを尊び、守っていきなさい」

クジマの母は、そんな温かい言葉を吐ける、文字通りの慈母だった。だが、幼きクジマの前にいた人間共は、(半分化け物の血が入っている)という理由でクジマを差別し、(化け物の子を産んだ)という理由で彼の愛する母を虐待した。クジマが命の危険を感じたのは、物心ついたすぐの頃であった。並はずれた肉体能力を持つ彼は、村を逃げ出してからも平然と生き延び、母に会いに来ていた。そして、今此処に、破滅の時を迎えようとしていた。

母の言葉を、クジマは大事に守ってきた。彼を差別する者にも抵抗しなかったし、母を虐める者にも手は出さなかった。もし愛する母を村人達が殺さなかったら、誓いを生涯守るつもりでもいた。しかし愚かな人間共は、その誓いを目の前で踏みにじって見せた。誰よりも優しく思いやりに満ちていた彼の母を、暗き欲望の餌食にして食い殺して見せた。

「殺せー!」

絶叫と同時に、槍が娘を貫く。その瞬間、クジマ少年の中で、今まで我慢に我慢を重ねてきたものが噴火した。

「お……うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

少年の体が、巨大に膨張していく。それに気付いた誰かが悲鳴を上げた。少年はそいつを掴むと、無造作に握りつぶした。そして逃げまどうクズ共を、一匹残らず踏みつぶしていった。

「ォオオオオオオオオオオオ! 蛆虫ドモガ! 母サンヲ返セエエエエエエエエエエエ!」

異形と化した少年の絶叫が、村を覆い尽くした。母が犬死にしたというのは、幼い彼にも分かりすぎるほど分かったのだ。そして、その死を村人共が蔑むことこそあれど、反省することなど未来永劫無いと言うことも。クジマには報復する権利があった。そして、それをためらう気は、力ある少年にはもう無かったのである。小さな村は、地図上から消えた。自業自得の末路だった。

クジマは殺戮に取り憑かれた狂鬼とかし、周辺の村七つを廃墟と化した。その過程で二百三十五人を殺し、(鬼の面を持つ少年)は、人類社会の敵となった。目に付く者を手当たり次第に殺して回るクジマ少年の前に、オルドレイクが現れたのは、それから程なくのことであった。

 

雪の中、無数に転がる人の死体。百人を超す討伐隊であり、流石のクジマもその半ばを倒した所で力つき、形態変化も解け、死を覚悟した。だが、突如天かける獣と共に現れた男と、その男が呼び出した強き獣が、残りを彼の半分以下の時間で皆殺しにしたのである。

燦々と光を放つ剣を鞘に収めると、男はゆっくりクジマへ振り向いた。クジマは荒い息の中、憎悪を込めてそれを見つめる。人間の反応は決まっていた。顔の半分が鬼神であり、二つの角を持ち、半身を鱗が覆っている彼を見ると、怯えるか蔑むのである。だが、その男は違った。全く表情を変えずに、そのままクジマに肩を貸し、自らの僕である獣に乗せたのである。

「辛かっただろう。 だがもう大丈夫だ」

温かい口調で男が言う。その表情は優しく、クジマは今までに一人しかそれを持つものを見たことがなかった。一人とは、言うまでもなく、彼の母だった。

「安心せよ、すぐに本格的な手当をしてやろう。 そして君は二度と人間共に怯える必要はない。 君は私が守る。 そして君を殺そうとする者達は、私が排除する」

クジマは安堵感が自らを包むのを感じ、ゆっくり目を閉じた。これがクジマと、オルドレイクの出会いだった。そして今、クジマは自らを包んでくれたオルドレイクと、その理想のために、全身全霊を捧げていた。

 

サイジェントの北スラムで、クジマは地上を見下ろしていた。彼の視線の先には、オプテュスというならず者集団に属する少年の姿があった。隣に佇む、同志であるザプラが調べた結果、それはクジマと同じ境遇を持つ者だった。名はカノンという。彼もまた、シルターンの鬼神とのハーフであり、人間共に差別迫害された末に此処にいるのだという。

「……人の姿」

ぼそりとクジマは呟き、殺気をたぎらせた。あのように、同じ姿をしていても差別されるというのか。クジマは今でも母を愛しているが、その言葉を守ることは今後も出来そうになかった。人間の深淵に直接触れた彼は、この世で最も愚かな生き物をどうしても許せなかった。

「……同志ザプラ。 この間のトードスの件、聞いているか?」

「ああ。 同志オルドレイク様は、彼を倒した者を倒さなかったそうだな」

「何故だ? 少しそれは気になっていた」

「……倒したその者にも、守るべきものがあった。 より弱き者のために、戦っていたから、だそうだ。 そしてその者を殺した所で、もうトードスは戻ってこないからだとも言っていた。 ……ただ、友をまた守りきれなかったのは事実であったから、今後は更に身を粉として戦いに邁進するそうだ」

ザプラの言葉を聞き、クジマは今一度オルドレイクの大きさを再認識した。そして目を閉じると、もう一度トードスのために祈った。彼なら、決してそんな行動は取れなかっただろう。本当にオルドレイクは、常に(弱き)の味方なのであった。

自分を迫害し、母を殺した人間共に、一人でもそんな者が混じっていたら。自分の権益だけを守ろうとする金の派閥と蒼の派閥。そして召喚師達。トードスを倒した者と、どうしてこうも違うのであろうか。

クジマは常に鬼の面で顔を隠している。それは自分の顔に引け目を感じているからではない。その顔を見ると、九割九分の人間が怯えるか蔑むからで、そう言う手合いを見ると殺意が押さえきれなくなるからだった。今では例え同志であっても、人間とはそう言うものだと理解しているため、滅多に素顔は見せない。彼の素を受け入れてくれたのは、オルドレイクと幹部達だけだった。

「……同志オルドレイク様。 約束の地を」

それだけ言うと、クジマの気配はサイジェントから消えた。まもなくザプラも、同じように気配を消したのだった。

 

1,炎の訓練

 

綾が改めて皆にカシスを紹介したのは、子供達が寝静まってからのことであった。カシスは少しだけ素の自分を出すと、今まで綾を監視していたこと、むしろそのためだけに近づいてきたことを素直に告白した。その後はまたいつもの線がきれたような笑みを浮かべ、席に着いた。心配げに事態を見守る綾の前で、レイドが腕組みしたまま言った。

「……なるほど、そうだったのか。 確かに考えてみれば、不審な点は山ほどあったな」

「私を、どうするの?」

「どうもしねえよ。 最初に此処に来た動機がどうであろうと、お前は俺達を何度も助けてくれたじゃねえか。 俺達だけじゃねえ。 フィズだって、お前が来なきゃ死んでたぜ」

「そういうことだ。 ワシらは、改めてカシス、お前さんを歓迎するよ」

『良かった、みなさんが、私が思っていたとおりの人達で』

ほっと胸をなで下ろすと、綾は再びカシスの方を見た。隣に座る召喚師は、相変わらず例の笑みを浮かべていて、喜んでいるのかどうか分かりにくい。だがわずかながら、温かい雰囲気があるような気がして、嬉しかった。

「異存がある者はいないな。 では、例の儀式をするとしよう」

レイドが立ち上がり、皆もそれに習った。少し遅れて、慌てて綾も立ち上がる。まさか、自分が先達として、グループ内に誰かが入るのを看取るとは思ってもなかった彼女は、少し緊張していた。

チーム・フラットへ、ようこそ! 今日から、君は私達の仲間だ」

「うん、よろしくお願いね」

カシスを素直に受け入れてくれた仲間達。後は、カシスが彼らに心を開いて行ければ、全ては巧くいくだろう。そして彼女に負けないよう、綾も心を開き、頼って行かねばならなかった。

「……ほんの少し前のことなのに、私が入った時間がずっと前のような気がします」

「それだけお前さんにとって最近の時間が、密度が濃い一時だって言うことさ」

エドスはそう言って綾の肩を叩き、そして声を低くしていった。

「……これからも、ワシらをもっと頼ってくれ」

「はい」

この場にいることが嬉しくなる台詞を聞いて、綾は小さく、だがはっきりとそう答えた。

 

一晩が開けると、何事もなかったかのようにフラットのアジトは静けさを取り戻していた。いつもの静寂の中目を覚ました綾は、今までは絶対にあり得なかった声を聞いて眠気が吹き飛ぶのを感じた。

「ご本、読んで……」

「いいわよー。 どれどれ、みせてごらん」

『……! ラミ、カシスをあんなに怖がっていたのに』

慌てて着替えると、髪を整えて、綾は部屋の外に出た。声が聞こえたのは縁側であったから、部屋のすぐ側のはずである。慌ただしく周囲を見回した彼女の視界に、程なく列んで仲良く座るカシスとラミの姿が映った。カシスは大きな絵本を大きな声で読み、ラミはぬいぐるみを抱きしめてそれに聞き入る。残念ながら読書のスキルはお世辞にも高いとは言えなかったが、ラミは喜んでカシスの言葉に聞き入っていた。以前、花見の際も、ラミとカシスは遊んでいたが、その時はまだラミの方に怯えがあった。しかし今、それは過去の遺物となり果てていたのである。

カシスはとうに綾に気付いていて、ちらりとそちらへ視線を向け、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。安心して綾は朝の日課である釣りに向かい、アルク川についた。

『良かった。 本当に良かった……』

心中で呟くと、綾は不意に気を引き締めた。カシスが努力して、前向きに進んでいることが嫌と言うほど分かったからである。である以上、綾も負けているわけには行かなかった。自らの力を高め、ますますフラットに貢献して行かねばならない。釣りはタイミングと呼吸の錬磨と、経験の錬成に役立ったが、それだけでは心許ない。昨日の戦いでは格下の相手に不覚を取ったこともあるし、急激にではないにしても、何かしらの成長を計る必要があった。殆ど無意識的に手を動かし、一匹目をつり上げながら、綾は考えを巡らす。

『今までの戦いから総合するに、攻撃よりも防御の向上が課題ですね。 それも、召喚術レベルの強力な攻撃ではなく、些末な、それも多角的な攻撃を着実に防ぐ工夫を練らねばなりません』

現在綾は防御能力に秀でたリピテエルを有しており、またゼロ砲を防御に利用することで、大概の大威力攻撃には対応出来る強みがある。一方で、先日の戦いのように、些細なしかし致命的な奇襲攻撃にはかなり耐性がない。手慣れた動作で針から魚を外しながら、綾は更に思考を進めた。

『攻撃自体に気付くのと、それを避けるのが課題になりますけど……。 前者はおそらく純粋な戦闘経験を積んでいかないと駄目でしょうね。 それに、今まで受けた奇襲攻撃も、気付かないほどのものではありませんでした。 となると、後者……反応速度の向上が優先課題です。 超一流の使い手と相対さねばならないのならともかく、私の敵は普通の人間なのですから』

超一流の使い手という言葉を思い浮かべたとき、綾の脳裏をラムダとオルドレイクが駆け抜けた。あの二人はどちらも今の綾が一対一で勝てる相手ではない。だが、取り急ぎ、交戦時の対応を考える必要が無い相手でもあった。

『……何か特定の行動に集中しているとき、それ以外の要素が割り込む。 それに対応する速度の向上が課題の具体的内容でしょうか。 塔の力は、今までの経験からいっても、どんな力が覚醒するか分かりませんし、鍛錬によって力の向上を導きたい所です』

「アーヤーちゃん?」

『具体的な鍛錬方法としては……』

「アーヤーちゃん! ……聞いてる?」

「えっ!? あ、ええと、あの……」

慌てて辺りを見回した綾を、いきなり誰かが後ろから抱きしめた。一瞬硬直した後、綾は辺りの魚が全部逃げ出すような悲鳴を上げた。そして同じように硬直した相手を、訳が分からないまま叩いた。

……! い、い、いやああああああああああああ!

「ちょ、いたっ! あいたいたいたっ! いたいって、いたいってばー!」

「ち、痴漢は間に合ってますっ!」

そのまま相手を無理矢理引きはがし、身を沈めた綾は、無我夢中でアッパーカットを(痴漢)に見舞った。強烈な手応えがあり、(痴漢)が吹っ飛ぶ。野次馬が集まり始めた中、暴れ馬のように胸郭の中ではね回る心臓を必死に落ち着けながら、綾は近くの大岩に手をかけた。辺りの野次馬から驚嘆の声が挙がる。一抱えもある大岩が、みしみしといいながら持ち上がり始めたからである。その時ようやく、地面に延びていた(痴漢)が顔を上げた。何のことはない、それはカシスだった。カシスは持ち上げられようとしている巨岩を見て、慌てて後ずさった。

「ちょ、ちょっと! 死ぬ死ぬ! それはマジ死ぬ!」

「痴漢成敗! ……あ、あれ? カシス? ……今のは……ひょっとして……」

「ちょっとした冗談でスキンシップを求めただけじゃん。 大げさだなあ」

肩で息をつきながら、綾は岩から手を離し、地面にへたり込んだ。竿が川に流されなかったのが、不幸中の幸いであろう。野次馬が誤解であったことを理解して去っていき、辺りを気まずい沈黙が包む。鉛のように重苦しい空気の中、先に口を開いたのはカシスだった。

「ごめん。 調子に乗りすぎた」

「……もういいんです。 でも、吃驚しました」

「それより、何考えてたの? ……言っちゃ悪いけど、後ろに立ったのが私じゃなくてバノッサだったら死んでたよ?」

「……丁度、今のような状況下で、奇襲を受けたときの対処法を考えていたんです。 どうも一つのことに集中すると、足下をすくわれることが多い気がして」

模範のような状況下にいた事に気付いた綾が、頬に手を当てて嘆息した。二人は位置をずらし、少し離れて列んで座ると、会話を続けた。

「確かにアヤちゃん、複数の敵を一度に相手にするのは苦手そうだね」

「昨日も、本当に危ない所でしたから」

「あんな三下相手に? アヤちゃん、はっきり言って私なんかより遙かに強いよ? 今の能力はともかく、戦闘中の成長力も含めて正面から戦ったら勝ち目なんか無いのに」

カシスはおどけたように言うが、その言葉が正真正銘の本音であると綾は知っていた。この娘は、(おどけた様子)は真似出来ても、(真意を言葉の裏に隠す)事まではまだ出来ないのだ。

「……訓練、つきあっていただけますか?」

「いいよ。 今日はガゼルがアジトにいるから暇だし。 君の故郷については、研究材料が入らないとどうにも進展しない所に入っちゃったから。 で、何すればいい?」

「私、釣りをします。 それで、タイミングを見計らって、不意に小石をぶつけてもらえませんか?」

「小石のサイズはどうする? 例えば、ね」

カシスは手近な小石を拾い上げると、スナップを利かせて近くの木に放った。鈍い恐ろしい音がして、飛翔した小石は木の幹を抉る。後には生々しい傷跡が残り、蒼白になった綾にカシスは茶目っ気のある笑みを浮かべてみせる。

投石は、技術次第では充分な殺傷能力を持つ。綾の故郷の世界では、南米大陸に存在したアステカ帝国などは投石を専門とする戦闘部隊を主力としていた。また、日本の戦国時代でも、鉄砲足軽は火縄銃が使えなくなると投石で戦うことが多かった。小石は充分な殺傷能力を持つ飛び道具であり、しかも至る所に転がっているという強みがある。そしてカシスがそれによる戦闘技術を身につけていることは、今の事象だけで明らかだった。

「この位の石でもね、やりようによっちゃー頭を果物みたく砕けるよ」

「く、砕かれては困ります」

「じゃ、この位ならどう? こうやって弾くとね」

そう言ってカシスは先ほどの十分の一ほどの小さな石を拾い上げ、近くの木に特殊な方法で撃ちはなった。それはいわゆる(指弾)であり、小石はまたしても鈍い音を立てて木の枝にめり込む。再度蒼白になった綾は、この娘と話す際には細心の注意が必要だと改めて悟った。

「で、出来れば、死なない程度で……」

「えー? 注文が多いなあ」

「最初は普通に放るだけでお願いしますね」

「はーい」

何とも不満そうにカシスが唇を尖らせたので、綾は苦笑を通り越して精神的に二歩ほど退いたが、言い出したのが自分である以上逃げるわけには行かなかった。

 

その後の訓練は命がけのものになった。綾は最初こそびくびくしていたが、やがて心を落ち着かせて釣りに没頭した。それを見計らって異様にタイミング良く小石が飛んでくるため、最初の数発は、完全にはよけ損ねた。命がけの回避であり、綾は心臓が上下に飛び跳ねるのを押さえられなかった。

最初に飛んできたのは、そのまま槍に取り付けられそうなとがった石で、まるでレーザーのように直線軌道で綾の頬をかすめた。かすった頬は直線的に切り裂かれ、綺麗な赤い血が流れ落ちた。綾が泣きながら抗議すると、完全に気配を消していたカシスは不平たらたらで現れ、リプシーで傷を治しながら(もう少し優しく)石を投げることに同意した。

続いて飛来した石はあまり尖っては居なかったが、音もなく飛来したため、回避に遅れた綾の後頭部を直撃した。頭を押さえて蹲る綾に、カシスは(優しく投げた)と主張し、文句を言いながらリプシーで傷を修復した。

三度目は大きさも申し分なく、また飛ぶ際に音もしていたが、形が尋常でなく歪んでいたため、異様な軌道で綾に襲いかかった。そんな調子で、昼が来る頃には三十数度の投石訓練が終了した。そのうち綾が完全回避出来たのは、四割ほどに過ぎなかった。ハンカチは真っ赤に染まっており、後でリプレに渡す際の言い訳に苦労しそうであった。帰り道、列んで歩きながら、カシスは言った。釣果は案の定散々であり、魚籠は軽かった。

「飲み込みが早いね。 反応速度、目に見えて向上してきたよ」

「有り難うございます。 すみません、こんな事につきあわせてしまって」

「良いって良いって。 子供達とも接するんだから、(適当な)手加減覚えないと危ないし。 今後も実験台になってよ」

『じ、実験台ですか……。 でも、考えてみれば一石二鳥ですね。 カシスは手加減を覚えられて、私は良い鍛錬が出来る。 釣果が元に戻るまで、訓練を続けましょう』

辺りをちらちらと見回しながら、カシスは今までより自然な笑みを浮かべている。それが演技によるものだと綾は知っていたが、努力の跡は如実であろう。そしてそれは、昨日の夜綾が教えた笑い方に、少しだけ似ていた。

「それと、何回か見て気付いたんだけどさ。 アヤちゃん、魚を釣りあげる瞬間、隙が最大になるよ。 こればっかりはきちんと訓練していかないと、じきタイミング覚えられて、カウンター貰って死ぬよ。 バノッサ級の使い手なら、そろそろ気付くはずだから、気をつけてね」

「分かりました、努力してみます」

「……お互い、頑張ろ」

二人の娘は、笑みを浮かべあった。殺伐とした訓練の後だというのに、和やかな空気が辺りを包んだのだった。

 

2,合理と不合理

 

小競り合いはいつものように始まった。賭け試合に出かけたジンガを追ってフラウがアジトを出てしまい、それに気付いた綾が慌てて後を追う。案の定繁華街でフラウがオプテュスに追いかけ回されているのを綾が見つけるのと、ジンガとエドスが加勢するのはほぼ同時。三対一の戦力差ながら、遭遇戦では彼我の力の差がはっきり出て、すぐに勝負はついた。無論負けたのはオプテュスで、捨てぜりふを吐きながら北スラムへと逃げ散っていった。

フラウはジンガに手製の弁当を届けようとしたこと(幼い彼女が造った割には、結構なできばえであった)、リプレがきっちり繁華街に出かけては行けないと言っていなかったこと、等があり、誰も彼女をとがめはしなかった。ただ、フラウはますます傷ついて、しばらく足がすくんでフラットのアジトから出られそうもなかった。

「……フラウ。 可哀想に」

「この情況が好転するまでは、どうしようもないわ」

膝を抱えて無言のままでいるフラウを見つめて綾が言い、リプレがそう返した。それは事実その通りであったが、続いてフラウが無意識で放った台詞は、綾の心に軋みをもたらした。アルバとフィズも、慰めの言葉が見つからない様子であった。

「私……もうおうちに帰れないのかな……」

『フラウ……お父さんとお母さんが帰ってきても、オプテュスとの交戦が続いていたら可哀想すぎます。 むしろ私達のせいでおうちに帰れなくなってしまう……』

心中で呟くと、綾は決意を固めた。子供達の安全を守りたいという心は、正真正銘の本物であり、重き決断を為すのに充分なことだった。

「リプレ、私、明日の昼から出かけてきますね」

「馬鹿なことは考えないでよ?」

的確に事態を推察して、即座に釘を差すリプレに、綾は苦笑した。

「大丈夫、無理はしません」

 

北スラムの入り口は文字通り瓦礫の山で、辺りの廃屋の壁は無数の卑猥な落書きが占領していた。南スラムも寂れているが、それとは別の意味で、この辺りは廃された地区であった。

綾は刀を手にしていたが、いざというときは逃げるつもりだった。それに、それが出来うる情況にもなっていた。ここ数日の(釣り投石特訓)の結果、塔の天井がもう一枚破れたのである。覚醒した能力の詳細は判明している。それは永続能力で、気配関知の力だった。以前はフラットのアジト内で誰が何処にいるかなど全く分からなかったが、現在はこれのお陰で、十メートル以内に誰かが侵入したらすぐに分かる。無論それは絶対のものではないが、無いより遙かに有利なのは確かだった。以前も多少の気配関知は出来たが、今度修得したこれはレベルが違う。確実な戦力として、充分に実戦レベルで活用出来る力だった。しかも集中を使わなくても永続的に発動している点が大きい。これと、ここ数日で鍛え上げた反応速度の向上により、綾の対集団戦防御能力は飛躍的に強化されたと言っても良かった。

『この戦いは、私が居ることも原因の一つになっています。 子供達が大きくなる前に、早く終わらせないと。 バノッサさんと対話が出来なくても、他の人達とは……』

考え込んでいた綾は、五時半方向に誰かが近づいてきたことに気付き、はっと顔を上げた。以前であれば気付かず、至近まで接近を許してしまっただろう。気配感知の能力覚醒もあるが、訓練の成果が出たのも事実だった。刀に手をかけ、振り向く綾の目に映ったのは、以前一度だけ顔を合わせたカノン少年だった。

「わっ! 怖いなあ。 僕は何もしませんよ」

「……ええと、カノン君、でしたね」

「そうですよー、アヤお姉さん。 こんな所に、何をしに来たんですか? 僕が最初に見つけたから良かったけど、そうでなければ大変なことになってましたよ。 ささ、早く帰って下さい」

好感の得られる笑みを浮かべるカノン少年に、悪意や敵意は無かった。その言葉も、綾の身を案じての物だと聞くだけですぐに分かる。心中で胸をなで下ろして、綾は言った。元々綾は、戦い自体がそれほど好きではないのだ。それに関する知識は孫子やクラウゼヴィッツから得た物を応用しているだけで、それ自体も別に楽しんで等いないのである。

「カノン君、私は話し合いに来ました」

「話し合い、ですか?」

「これ以上の戦いは、意味がないかと思います。 今までの戦いは全て戦力を削り会うだけでに終わりましたし、此方が戦力の増強を行っている以上、バノッサさんにも短期的な勝利は望めません。 このまま戦いを続けても、どちらにも利益はない、と私は結論しました」

「うーん、難しい話は苦手なんですけど」

カノンは頭をかきながら、笑顔のまま言った。このとき綾は気付いた、カノンが笑み以外の表情を殆ど見せないことに。

「残念ですけど、バノッサさんは、戦いを止めないと思います」

「どうしてですか?」

「……それは……貴方の力が」

『私の……力? ……!』

カノンの言葉が止まると同時に、綾は殺気の発生に気付いた。だが、刀に手を掛けはしなかった。その正体が明らかであり、しかも堂々と姿を現したからである。北スラムで最大の暴力集団オプテュスの首領を務めるバノッサ自身のお出ましであった。

綾な平静を保とうとしたが、完全には実行出来なかった。以前一対一で勝ったことはあるが、油断出来る相手などでは到底無い。全身には異常な憎悪と殺気を纏い、台詞の全てに悪意が籠もっている。白き悪鬼は二人をにらみつけると、露骨な憎しみを言葉に乗せた。

「はぐれ女……! てめえ、ついに俺の領地に土足で踏み込んできやがったか!」

「違いますよ、バノッサさん。 お姉さんは、迷子になってしまったらしいです。 もう帰り道は教えましたし、これから帰るそうですよ」

そういって、カノンは目配せした。綾はその意味を悟ったが、交渉をせずに帰るのも残念な話であった。だが、カノンの言葉通り、バノッサはとても交渉などに応じそうな雰囲気ではなかった。

「カノンてめえ、はぐれ女を庇おうってのか!?」

「違いますよー、バノッサさん。 それに怒ってばかりじゃ体にも悪いですよ。 ほらほら、笑って笑って」

「ちっ!」

『……あれ? バノッサさんが強く出ない。 オプテュスは完全独裁体制で、バノッサさんに逆らえる人はいないのではと思っていましたが、認識を改める必要がありそうですね』

綾の目の前で、カノンになだめられたバノッサの怒気が急速に鎮火していった。バノッサは心底忌々しげに綾に視線を向けると、吐き捨てるように言った。

「ああ、やめだやめだ! 殺る気が削がれちまった。 そこでへらへら笑ってるバカに感謝するんだな。 ……俺が戻ってくる前に、さっさと消えろ! ちっ! 気分悪いぜ、酒でもかっ喰らって寝るか」

綾の方を見もせず、バノッサは大股でねぐらに戻っていった。カノンは本当に困ったように言った。

「酷いなあ、バカだなんて。 お姉さん、バノッサさんは見逃してくれるって言っていたんですよ。 さあ、早く帰ってくださいね」

「わかりました。 ……その前に一つ。 カノン君、貴方からバノッサさんを説得してもらえませんか?」

「え?」

「さっきも言いましたが、私達の戦いに何一つ利はありません。 このままだと、どちらも傷つくだけ傷ついて終わることになります」

真摯に心配した言葉を受けても、カノンは態度を変えなかった。この辺りは、彼がバノッサと兄弟であるが故かも知れない。ただその顔には、心配してくれたことに対する感謝と、心からの笑みがあった。

「僕は何があってもバノッサさんについていくだけです。 そう、誓いましたから。 ごめんなさい、お姉さん」

 

綾は何一つ得ることなく帰路に就いた。いつのまにか彼女の斜め後ろにはカシスがいて、速度を保って歩いていた。綾が振り向くと、カシスはいたずらっ子な笑みを浮かべた。

「あはは、気付かれた☆」

「ひょっとして、ずっといたんですか?」

「アヤちゃんが北スラムに入った頃からねー。 格下に奇襲受けるのもシャクだから、最近は暇なときに様子を探りにいってるの」

「危ないことは……」

いいかけて綾は止めた。それはお互い様だと思ったからである。それにカシスの能力なら、見つかることもないだろうし、見つかってもどうにでもなるだろう。

「……戦いを止めるには、どうすればいいでしょうか。 カシスの意見を聞かせてもらえませんか?」

「私だったら、バノッサを殺す。 後は烏合の衆だし、どうにでもなるよ」

あまりにもさらりとカシスが言ったので、綾は思わず転ぶ所だった。確かに最も効率的な解決法ではあるが、幾ら何でも破滅的すぎる。だが、カシスの表情から言って、悪気がないのも事実であり、怒るに怒れなかった。

「……幾つか私の方でも案を出してみました。 バノッサさんと話し合う、戦いの原因自体をなくす、戦いをする気を奪う、国の力を使う。 一つ目で進めたい所です。 二つ目は私がフラットから離れなければなりませんし、それは頼ってくれて良いと言ってくれるみなさんへの侮辱です。 三つ目は、バノッサさんを圧倒的な力で徹底的に叩きのめさなければなりませんが、私にはまだ其処までの力はありません。 四つ目はやるにしてもかなり卑劣な手を使わなければなりませんし、大体……あの領主さんや召喚師さんには絶対に頼りたくありません」

「アヤちゃんが手汚すの嫌なら、私が今晩あたりさくって殺ってくるのに。 何で一番難しいのにするかなー」

「私は、バノッサさんも被害者の一人だと思ってます。 それに……命を奪うのは、最後の最後まで絶対に避けたいんです」

トードスを思い出した綾の顔に影が差した。カシスは不意に足を止めると、周りに人が居ないことを確認して、素の表情に戻った。

「……私、決めたことがあるんだ。 君の盾になり、剣になり、そして騎士になるって」

「カシス……」

「だから覚えておいて。 君に目立った危険が無い内はその言葉に従う。 でも君が命の危険にさらされた場合は、何があっても助ける。 どんな手段を使ってもね。 ……それで君に嫌われても良い。 最も合理的な手段で、君を助ける」

二人の間に、静かな沈黙が流れた。綾は長い沈黙の後、素の笑顔で、ありがとうと言った。そしてカシスにそんなことをさせないためにも、情況の一刻も早い収束を誓ったのだった。

「一つだけ、頼まれて貰えませんか?」

「なんなりと」

「手紙を、カノン君に届けて欲しいんです。 他の人に気付かれないように」

ようやく一般会話レベルの読み書きが出来るようになった綾は、問題なく手紙を書けるようになっていた。

「おやすいご用だけど、何でまた」

「バノッサさんとの戦いを収めるには、彼がカギになると思います」

「ふーん、分かった。 じゃ、今晩当たり渡してくるわ」

「その前に、皆にも確認を取っておきます。 二人だけで進めて良いことではありませんから。 それからにしてくださいね」

かっては絶対に言わなかっただろう台詞を自然に言うと、綾はまた歩き始めた。自分で気付いては居なかったが、彼女の心は着実に成長を続けていたのだった。

 

3,バノッサの理由

 

アジトに戻った綾が問題提起をすると、レイドはすぐに応じてくれた。一応ジンガにも声はかけられたが、少年は(アネゴのすることに全面的に従う)と宣い、自身は賭け試合に行ってしまった。集団で物事を決定することに、煩わしさを感じてしまうタイプなのであろう。或いは日々確実に強くなっている綾をみて触発され、常に戦いに身を置くことで少しでも力量を上げようとしているのかも知れない。

綾から大体の事情を聞くと、レイドは大体賛意を示したが、難色を示したのがガゼルだった。エドスは腕組みをしたまま、じっと話を聞き入るだけである。

「確かにカノンは悪い奴じゃねえと俺も思う。 だが、バノッサは正真正銘の獣だ。 例え義兄弟の言うことでも、聞き入れようとするかな」

「カノン君は、全面的なイエスマンではなく、私とバノッサさんの争いを治めてくれました。 そんな理性的な彼が従うのだから、バノッサさんにも何か理由があるのかも知れません」

「……理由か。 心当たりがないわけでもない」

不意に発言したのはエドスだった。エドスはガゼルより一回り年上で、バノッサと同じ年である。しかも最近綾は知ったのだが、北スラム地区の出身者でもあった。要するに、下手をすれば、オプテュスの構成員としてフラットの敵となった可能性もあったのである。皆の視線が集まる中、エドスはいつも通りのんびりした口調で、だが切迫した空気を湛えていた。皆を代表して、彼に聞いたのはレイドであった。この辺の行動は、流石リーダーであろう。

「エドス、思い当たる理由とは?」

「居場所と力、……それに自由だと思う」

「居場所? 力ぁ? 挙げ句に自由だと? 今のバノッサが、どんな不自由を抱えているってんだよ。 居場所だって、北スラムを我が物顔に牛耳って、力だって一般人が逆らえないほどの物を持ってるじゃねえか」

「ガゼル、人の欲望の量は様々です。 国家を支配しても足りない人もいれば、愛する人だけを守れれば充分な人も居ます」

一般人レベルの欲望しか持たないガゼルがそう言い、綾がバノッサにフォローを入れた。もっともバノッサがそれを知っても、喜ぶどころか怒り狂うだけだったかも知れない。それに、ガゼルも綾のフォローには満足しなかった。

「となると、バノッサは、キリがねえ欲望を抱えた大食らい野郎って事か? そんな奴の欲望に、俺達は振り回されてきたって事か!? ケッ、冗談じゃねえぜ!」

「確かに、バノッサさんの欲望に、屈する必要はないと思います。 でも、その理由が分かれば、ひょっとすると共存がはかれるかも知れません」

そういって、綾はエドスにもう一度視線を向け、小さく頷いた。自分に話が戻ってきたことを確認したエドスは、小さく咳払いした。

「……彼奴は俺の幼なじみでな、事情は色々知っとるよ。 彼奴が致命的に狂いだしたのは、彼奴のお袋さんが死んで、家を飛び出してからだ。 それまでは凶暴だったが、スリで稼いだ金を体が弱いお袋さんの薬代に充てて、自分は乾涸らびたパンで我慢したりもしていた奴だったんだ。 彼奴はろくでなしの義理の父親の膝元を出ていく前、口癖のようにいっとったよ。 力が欲しい、俺にはその資格がある。 いつか俺にふさわしい居場所を、俺にふさわしい力で奪い取ってやる、とな。 その後彼奴は孤児院に入ったが、そこも彼奴は気に入らなかった。 周りの制止も聞かずに、すぐに飛び出して行ってしまったよ。 ……それから数年、ワシは彼奴と会わなかった。 そして次にあったとき……彼奴は人殺しを経験し、文字通りの狂犬になっていた」

ガゼルも流石にそれ以上噛みつこうとはしなかった。バノッサの境遇は、ガゼルやリプレにも通じる所があったからである。話を聞き終えたレイドが、最初に声を発した存在となった。

「……そうか。 だが我々はさしあたり、彼の牙から子供達や仲間を守らなくてはならない。 誰も抱え込む過去を持つのは当たり前のことで、悲惨な過去を持っているから残忍な行為をしていい訳ではない。 ……問題となるのは、その(力の資格)、それに(ふさわしい居場所)の詳細だな」

無論レイドは、それが自分たちの理屈であることを分かった上でそう言った。不文律は社会の数だけ存在し、常識と正義は個人の数だけ存在する。そして、復讐によってしか心を維持出来ない者は、確かに実在する。故に争いは起こり、凄惨さを増していくのである。

「アヤ、君の提案を受け入れよう。 カシス、配達の任務、任せてもいいだろうか」

「任せといて。 ただ、問題があるとすれば……」

「なんだ、言ってみてくれ」

「下手なことを言うと、あのカノン君、バノッサに殺されないかな」

カシスの言葉に、場が凍り付いた。この娘は、本当に何も制約無く人の死に触れる。それは貴重な時もあったが、恐ろしさを喚起するときもまたあった。

「ワシが言うのも何だが、それは無いと思う」

「どして?」

「彼奴はアヤと接してから、いつも以上に荒れ狂っている気がする。 普段から凶暴な男だが、聞いた話では余程のことがないと女子供には手を上げないし、部下が逆らってもある程度は許すそうだ。 それに、これも聞いた話なんだが、カノンのことを彼奴は誰よりも信頼しているらしいぞ。 ……カノンを殺してしまったら、彼奴には文字通り今の居場所すら無くなってしまう。 流石のバノッサも、無意識にそれくらいのことは理解しているさ」

『となると、私への憎しみが攻撃を更に苛烈にしているのですね……事態の解決には、私のがんばりが必要不可欠だということがよく分かりました。 逃げるわけには、絶対に行きません』

心中で誓いを新たにした綾の前で、決定が下された。今晩、カシスがカノンへ手紙を配達する。そして、カノンを説得し、バノッサとの休戦交渉に入る。その際、交渉は綾だけで行う。無論危険を考慮して、他の者達もいつでも出動出来るようにしておく。それらの細かい日時まで決めると、会議は終了した。難しい単語はレイドに教えて貰い、早速綾は手紙を書き始めたが、その途中で気がついた。

『そういえば……バノッサさんが欲しい(自由)とは、何なんでしょうか』

既にエドスは自室へ戻ってしまっており、今から聞きに行くには時間が遅すぎる。夜中に男の部屋に行くなどと言うことは、古風な貞操観念が真っ先に選択肢の中から外していた。筆を休めて、綾は待ってくれているカシスに視線を移し、考え込んだ。

『……自由。 ……それは一体なんでしょうか。 定義自体が曖昧すぎて、何とも言えませんが……。 バノッサさんは、誰をも自由に操れる権力が欲しいのでしょうか。 それとも、精神的な自由を欲しているのでしょうか。 或いは、どんな力の前でも自由が出来る強大な力が欲しいのでしょうか』

近現代あまりにも安直に使われている言葉、自由。そもそもこういった広い意味を持つ言葉は、解釈次第でどうとでもなるものだ。自らを由とする事が自由だという理屈もあるが、それも説の一つに過ぎない。少なくとも、現行で使われている意味の一つに過ぎず、それを他者に強制するというのは文字通りの愚行であろう。

『バノッサさん……貴方は一体、どんな自由を欲しているんですか?』

無言の問いに、応える者などいるはずもなかった。やがて、夜は静かに、何事もなく更けていったのだった。

 

場所は寂れた市民公園の一角、フラットのアジトと北スラムの丁度中間地点。時間は早朝、朝食の少し前。周囲に人は殆どおらず、秘密の会談をするには丁度いい場所だった。

手紙を渡してから二日後、指定通りの時間に、綾は其処に立っていた。刀は隠れているカシスに渡してあり、現時点では丸腰である。最も、召喚術を使いこなす綾が、丸腰で(無防備)に見えるかどうかは微妙であろう。カノンは正面から堂々と、丸腰で現れた。少なくとも十メートル以内にオプテュスの者はおらず、綾は多少心が痛むのを感じた。優しく理知的なカノンを騙しているような気がしたのである。

「お姉さん、どうしたんですか? こんな朝早くに呼び出して」

「……バノッサさんについて、色々聞きたいことがあるんですが、よろしいですか?」

「はいはい、構いませんよ」

「バノッサさんは、どうしてあれほど力をほしがるんですか? それが分かれば、私達は戦いを終えることが出来るような気がします」

綾が言い終えると、カノンは少し悲しそうな顔をした。

「……強いて言うなら、バノッサさんは力よりも、自由が欲しいんです」

『やはり、そうでしたか』

「バノッサさんは、力、いやむしろお姉さん、貴方の力をほしがっています。 いや、言い換えましょう。 お姉さんの力を、羨ましいと思っています」

「えっ……?」

言葉に詰まった綾は、何故カノンが悲しそうな顔をしたか分かった。要は、バノッサの願いは文字通りの無理難題であり、それと妥協することが不可能なのである。

「この力は、どうして手に入ったか、私も知らないんです」

「お姉さんには失礼ですが、バノッサさんにはそんなことはどうでもいいんです。 要は召喚術を手に入れて、それによって力を手に入れて、自由になりたいんです。 自分を縛る思いから……」

「自分を縛る、思い、ですか?」

「貴方は信用出来ると思います。 だから……話します。 バノッサさんは、召喚術に異常なこだわりを持っています。 それは、バノッサさんのお母さんの死に関わっていることだと思います。 バノッサさんは、お母さんをとても大事に思っていました。 世界に一人だけの肉親でしたから。 でも、助けることが出来なかった。 お金が、いや違います、お金を手に入れる力がなかったから。 そしてバノッサさんにとって、お金を手に入れる力とは、即ち召喚術なんです。 そして、バノッサさんは、召喚術を手に入れれば、その過去の鎖から解き放たれるって考えているんです」

綾には理解出来た気がした。彼女の故郷でも、特に貧しい発展途上国などでは、金=力=美という形式が成立することが少なくなかった。そもそも美とは角が大きな羊を示した言葉で、強さと非常に似た意味を持つのである。多くの人が貧しい世界では、金持ちというのはそれ自体が異性的な魅力となる事で、強さと、また正しさとも混合されることが多かった。

翻って、リィンバウムを見てみると、世界を牛耳っているのは召喚師達である。正確には召喚師ではなく、彼らが扱う魔術テクノロジー、召喚術だ。召喚術はキルカ虫を例に出すまでもなく膨大な富を生み出し、強力なヴォルケイトスを例に出すまでもなく圧倒的な力をも生み出す。バノッサにとっては、それこそ喉から手が出るほど欲しい力であり、憧憬の対象でもあるのだろう。そして同時に、カノンの言葉は問題の根が深いことをも示した。綾の危惧は当たっていた。バノッサも、極めて不公平な現体制の犠牲者であることが、これではっきりしたからである。

ただ、まだ分からないこともあった。綾はしばしの沈黙の後、再び口を開いた。

「分かりました。 カノン君、もう一つ教えて下さい」

「いいですよー、なんでも聞いて下さい」

「確かにバノッサさんの事情は理解出来ました。 しかし、何故召喚術なのですか? 確かに召喚術にこだわるわけは分かりますが、バノッサさんの行動には理屈以上のものを感じます。 カノン君は、原因を知りませんか?」

「それは、流石に僕も分かりません」

小さく苦笑した少年は、更に何か言おうとしたが、反射的に綾が身構えたのを見て振り向いた。其処には、バノッサの姿があった。彼の目は、憎悪に煮えたぎっていた。

 

「カノン……てめえ、てめえっ! はぐれ女と、何を楽しげにくっちゃべってやがる!」

つかつかと大股でバノッサはカノンに歩み寄ると、綾が止める間もなくその胸ぐらを掴み、つり上げた。綾は一瞬躊躇したが、カシスを呼ぶわけには行かない。此処は、彼女自身で決着をつけねばならなかった。

「バノッサさん、止めて下さい! カノン君は、私が呼び出したんです!」

五月蠅エッ! さてはてめえ、カノンを抱き込んで、裏切らせようってハラだな! つくづく、つくづくむかつく奴だぜっ! ゆるせねえ、今日こそは、絶対にゆるさねえっ!」

理屈以上の憎悪が、バノッサの全身から吹き上がる。バノッサは剣を一本抜き放つと、それで綾を牽制しつつ、カノンに言った。

「誓いを忘れたか、カノン! お前は、俺に何を誓ったァ!」

「ぼ、僕は、バノッサさんの、しもべです。 何処まででも、どんなときでも、一緒にいることを誓いました」

「ヒャハハハハハ、そうだ、その誓いを忘れたかと思ったぜ! 心配させるなよ、俺の弟カノン……お前は俺のしもべだ、一生、そう一生な!」

相変わらず凶暴な笑みを浮かべていたバノッサだったが、その顔に一瞬だけ安堵が走るのを、綾は見逃さなかった。

『バノッサさん……カノン君を、本当に大事に思って居るんですね……だからこそ裏切られたかと心配した時は、本気で怒った……』

「じゃあ、命令も聞くな? ……そこのはぐれ女を殺せ!」

バノッサが吠え、吐き捨てた。だが、綾はもう怖くなかった。カノンのためにも、それにバノッサ自身のためにも、怖がるわけには行かなかったからである。

「バノッサさん、止めて下さい。 カノン君は、本当に優しい人です。 誰よりも大事な人に、その人が本当に嫌がることをさせるなんて、悲しすぎます」

「つくづく、つくづくむかつく女だぜ、てめえは……! 夕刻、北スラムに来い。 そこで決着をつけようぜ……俺もいい加減、我慢の限界なんでな……! 来い! カノン!」

バノッサはカノンを地面に放り捨て、背中を向けて歩き出した。彼が去り際に呟いた言葉を、綾は聞いてしまった。そして、やりきれない気分を味わった。

てめえに、てめえなんぞにカノンの何が分かる……畜生……っ!

 

「カノン君、大丈夫ですか?」

「有り難う、お姉さん。 ……ごめんなさい」

「ううん、いいの。 さあ、行って」

綾はカノンを助け起こすと、丁寧に埃を払ってあげた。それは正真正銘の善意から来る行動であったから、何も裏はなかった。カノンは俯いていたが、やがて決然と面を上げた。

「お姉さん、アヤお姉さん。 重ね重ねごめんなさい。 僕は本気で戦います、バノッサさんのために」

「カノン君……分かりました。 私、至らないかも知れませんが、全力で相手になります」

「ありがとう、お姉さん。 ……バノッサさんには、僕しかいません。 自惚れでも何でもなく、僕しかいないんです。 僕にも……同じです。 だから僕は戦います」

カノンはアヤの真似をして、丁寧に礼をすると、バノッサの後を追って駆けだしていった。戦いはこの瞬間、不可避のものとなった。二人が視界から消えてから現れたカシスが、頭をかきながら言う。

「……無駄になっちゃったね」

「いいえ、まだ分かりません。 ……戦いの準備をしましょう」

 

4,オプテュスの敗退

 

夕刻。北スラムの一角では、今までで最大の戦力を整えたバノッサが、手ぐすね引いてフラットの者達を待っていた。バノッサは既に剣を抜き放ち、カノンは身の丈以上もあろうかという巨大な剣を軽々と手にしている。カノンはどちらかといえば小柄な体格であったから、剣の巨大さはますます際だった。バノッサの配下は、二十六名。今までの倍以上の数であり、皆何かしらの武具で武装していた。

一方、フラット側の戦力は、綾とカシス、レイド、ガゼル、エドス、それにジンガである。その背後にはスウォンが控えており、辺りを探って狙撃に適当な地点を探していた。彼は話を聞くと、自ら参戦を申し出、弓を持って来てくれたのである。

「ひゅう、すげえな。 今までの倍はいるぜ」

「さて、アヤ、どう切り崩す?」

「私が最前衛として突入しますから、援護をお願いします。 もしバノッサさんが出てきたらレイド、カノン君が出てきたらエドス、それぞれしばらく相手をお願いします。 相手は数が多いことを頼りにしていますから、出鼻をくじきましょう」

「今までに比べて、随分大雑把な策だな。 勝算はあるのか?」

レイドの言葉に、綾は小さく頷いた。それが皆に安心を呼ぶ。表情を改めると、レイドは続けた。

「……戦いになってしまったことに関しては、気にしなくて良い。 いずれこうなることは分かり切っていた。 ……むしろ前向きに考え、今回で決着をつけよう」

「はい」

「じゃ、気張っていくか!」

「アネゴ、大丈夫、アネゴの背中には指一本触れさせねえ!」

ジンガの言葉にいつもの困ったような笑みを帰すと、綾は歩き出した。そのまま、数メートル突出するまで歩き続け、そして止まる。こんな策を取ったのにも理由がある。バノッサの部下達は、前回の戦いで綾が(多角的な攻撃に弱い)と学習した。その虚をつくためであった。ゆっくり綾は鯉口を切り、それが合図となってバノッサが吠えた。

「さあ、てめえら、行けえっ!」

獣のような咆吼がそれに応え、一斉にバノッサの部下達が駆けだした。吹きすさぶ風が綾の黒髪を揺らし、身を沈めた彼女もまた、敵に向かって一気に地を蹴った。

 

「一人でつっこんできたか、バカめ! 袋だたきにしてくれるわ!」

ヤルフトがわめき、六人ほどが揃って一斉に綾につっこんでいった。綾はそれに無言のまま間を詰めていったが、不意にその直前でサイドステップする。急停止したヤルフトの目に映ったのは、召喚術を唱え終えたカシスの姿だった。そのままカシスは、無数の剣を天から降らせた。それは願い違わずヤルフトの足を、他の者の腕を、次々に貫いていった。密集隊形が故に避けようがなく、絶叫しながら彼らは横転する。

更に綾は、手近な一人を峰打ちで叩き伏せ、更に一人を不意の当て身ではじき飛ばした。そのまま今の攻撃を見て慌てて分散したオプテュスの者達の中につっこむと、右へ左へなぎ倒す。更にフラットの他の者達が前線に躍り出、散開隊形を余儀なくされた敵を一人一人着実に叩きのめしていった。バノッサが剣を振り、咆吼する。

「何やってる! 集中攻撃しろっ!」

その言葉が終わるか終わらないかという内に、レイドの背後に回ろうとした二人が、まとめてカシスの召喚術の餌食になった。更にスウォンが狙撃を開始し、肩を、或いは腕を貫かれた者が次々に倒れていく。オプテュスの者達は数に任せて全員が戦場に出ていた上、少数故の機動力を駆使して暴れ回るフラットの面々にも気を取られ、それに抗する術を持たなかった。一番めざましい活躍をしているのはやはり綾で、囲まれてもそれを苦にせず、冷静に立ち回り、次々に敵を叩きのめしていく。そう、背後に回られても、不意に足下を狙われても、的確に対応するのだ。更に、集まろうとする者には容赦なくカシスの召喚する剣が降り注ぎ、その精度も恐るべきものであったため、オプテュスの者達は皆バラバラに戦うことを余儀なくされていた。

「どういう事だ? あの女、多角的な攻撃に弱かったはず……! がはあっ!」

怪訝そうな顔をしたオプテュスの一人が、見る間に間を詰めた綾の一撃を貰い、そのまま横転する。最初の奇襲で機先を制されたオプテュスは既に半数まで数を減らしており、更にその半数へと見る間に数を減らしつつあった。

叫び、前に出ようとしたバノッサの前に、レイドが立ちふさがった。既に前線は存在せず、彼に突破は容易だったのである。そしてバノッサの援護をしようとしたカノンの前には、エドスが立ちふさがった。バノッサは双剣を振るい、レイドに打ちかかったが、もとより力量は五分、いや経験から言えばレイドの方が若干上だ。両者は激しく斬り合ったが、すぐに勝負などつきようもなかった。その間も部下の数は減り続け、バノッサは焦り、吠えた。

「くそっ、くそっ! どけえっ!」

「バノッサ、止めておけ。 気付かないのか?」

「どういう事だ?」

「今日の戦い、今まで、アヤはあの蒼い光を使ってもいない!」

愕然としたバノッサの剣を、レイドが気合いと共にはじき飛ばした。そして当て身を喰らわせ、はじき飛ばす。バノッサは壁にもろに叩き付けられ、そのまま動かなくなった。

だが、エドスはカノンを押さえきれなかった。カノンは大剣を水車の如く振り回し、その早さ、技、共に凄まじいものがあった。圧倒的な力量を利し、エドスに付け入る隙を与えなかったのである。エドスは太い鉄棒を振るって応戦していたが、防戦一方に追い込まれていた。それを横目で見て取った綾は、残った敵をジンガに任せると、ガゼルに耳打ちし、自らカノンに突貫していった。それにカノンが気を取られた隙にエドスは後退し、大剣の間合いから逃れ出る。

「カノン君、勝負!」

「お姉さん、行きますっ!」

両者の間は音を立てて詰まり、綾が逆袈裟に切り上げ、逆にカノンは大上段から振り下ろす。カノンが少し身を退き、両者の剣は火花を散らして弾きあった。一見五分の打ち合いであったが、事実は違った。

『……! な、何て力!』

今までに感じたほどもないほどの力を受けて、綾の手が痺れた。あの狼王でさえ、これほどの力は持っていなかっただろう。万力のような力という言葉があるが、これは正にその比喩通りのものだった。

蹈鞴を踏む綾に、カノンは今度は中段から胴を狙って大剣を振るった。綾は小さく息を吸い込むと、(集中)を駆使してその軌道を読み切り、刀を斜めに当てて最小限の力で弾いたが、それでも負担は凄まじい。カノンは息つく暇もなく、もう一度逆方向からの剣を見舞おうとしたが、それは果たせなかった。ガゼルが投擲した短剣が飛来し、カノンの右手に突き刺さったからである。苦悶の声を上げるカノン。ガゼルが作った隙を逃さず、綾はカノンの懐へ一気に踏み込み、強烈な脇腹への峰打ちを決めた。綾が膝をつくのと、前のめりにカノンが倒れるのはほぼ同時だった。同じ瞬間、最後の一人がジンガの拳を受けて倒れた。しかし今日の戦いは、まだ終わらなかった。

「勝負あったな、バノッサ! 覚悟しやがれ!」

拳を二三発貰ったガゼルが、切った口を手の甲で拭いながら言う。バノッサは無念そうに歯ぎしりしたが、一瞬後にそれは驚愕へと変わった。倒れたカノンが、白目のまま、ゆっくり立ち上がろうとしていたからである。慌てて飛び退く綾の前で、カノンは異形へと変化していった。オプテュスの者達から、恐怖のあえぎ声が漏れる。バノッサが、動揺しきった声で、懇願するように叫んだ。

「か、カノン! 止めろ、もういい!」

「まだ、マダ……負ける……訳ニ……は!」

カノンの体はふくれあがり、皮膚の色も赤黒く変化していった。そして無数の細かな鱗が、その身を覆ってゆく。額からは角が延び、口からは牙がせり出していった。腕の筋肉がふくれあがり、服が内側から破れる音が周囲を圧する。さっきは巨大極まりなかった剛剣が、見る間に縮んでいった。いや、カノンが大きくなったため、そう見えるのだ。カシスが、カノンの正体を悟り、皆に警告を発した。

「シルターンの鬼神……! 手強いよ、みんな気をつけてっ!」

「よせ、カノン! 本気にならなくてもいいんだーっ!」

バノッサの声は届かなかった。鬼神カノンは獣が如き咆吼を上げると、その巨大な腕で地面を殴りつけた。爆音が響き渡り、そこには小さなクレーターが出来た。石の欠片が吹き飛び、濛々たる土煙が上がる。その中で佇立したカノンは、文字通りの雄叫びを上げた。

ルガアアアアアアアアアア! コロス! コロオオオオオス!

「綾、どうする!? 逃げるか!」

「駄目です! 逃げたら、オプテュスのみなさんが皆殺しになります!」

「お前さんという奴は……分かった! で、どうする!」

エドスの声をバックに、カノンは大股で綾に近づいてくる。綾は目を閉じ、必死に思いを巡らせた。

『カノン君の大きさは、推定で身長二メートル半、体重三百キロ。 おそらく、装甲も相当な厚さのはず。 現時点で、あのカノン君に打撃を与えうるのは、私のゼロ砲かヴォルケイトスのみ。 ゼロ砲は文字通り最後の手段に取っておくとして、ヴォルケイトスしかありません。 ならば……』

きっと顔を上げた綾は、カノンの拳が振り下ろされるのを見た。間一髪それをかわすも、拳はそのまま地面に炸裂し、爆圧が綾を吹き飛ばした。三メートルほど飛ばされて、全身を強打した綾は、凄まじい苦痛を覚えつつも、何とか意識を保った。そして、全身の痛みをこらえつつゆっくり立ち上がり、呼吸を整えつつ叫ぶ。

「カノン君の気を、引いてください……! 一秒でも、半秒でも!」

「分かった! 任せろアネゴっ!」

まず突貫したのはジンガであった。拳に光を纏わせ、連続してカノンの膝に打撃を加える。続いてエドスが鬼神の下半身にタックルし、ガゼルとスウォンが息を合わせてナイフと矢を放った。残念ながら、最初のジンガの一撃にカノンは多少蹌踉いたが、後は殆ど効果を示さなかった。カノンは、ジンガを無造作にはじき飛ばし、さも五月蠅そうに飛来した飛び道具を払い落とすと、邪魔だとばかりにエドスへ手刀を振り下ろした。エドスの巨体が冗談のように崩れ伏し、叫び声を上げながら突貫したレイドの剣は素手で止められた。舌打ちしたカシスが、なにやら凄まじい早さで詠唱を開始する。だが、それが発動することはなかった。レイドは何度も屈せず剣を突きだし、そのうちの一撃がカノンの脇腹に突き刺さったからである。苦痛の悲鳴を上げたカノンが綾から視線を逸らした。掴み上げられつつも、レイドが叫ぶ。

「今だ、やれーっ!」

「誓約において、樋口綾が命ずる! 我の敵を殲滅せよ、ヴォルケイトス!」

印をくみ上げ、綾が叫ぶ。彼女の体を蒼光が包み、空間の裂け目からヴォルケイトスが顔を出す。そして巨大なる口を開くと、カノンに向け光球を撃ちはなった。鈍い音と共に炸裂したそれには、さしもの鬼神化カノンも大きく蹌踉めき、レイドを離して尻餅をついた。カノンの胸板からは煙が上がっており、激しく咳き込んで血泡を吐く。

綾が片膝を尽き、咳き込んだ。強烈な鈍痛を覚えて頭に手をやるが、何とか持ちこたえる。威力が上昇した分、精神力の消耗もまた激しい。更に綾は、先ほどまで多数の敵と戦い、更にそれより強いカノンとも交戦した直後だったのだ。ヴォルケイトスは容赦なく綾の魔力を吸い上げ、精神力を奪い去った。綾は遠くへ行きかける意識を必死に引き戻しつつ、祈るように叫んだ。

「ヴォルケイトスっ! もう……もう一度っ!」

綾の体を、激しい、今までにないほど力強く美しい蒼光が包む。まだ自分の世界に戻っていなかったヴォルケイトスの口にスパークが収束し、再び光球が練り上げられる。カノンは咆吼し、、立ち上がろうとするが、果たせなかった。轟音と共に、先とほぼ同等の大きさを有する光球が発射された。それは、避けようがないカノンを容赦なく直撃した。

ゆっくり、用を済ませたヴォルケイトスが、異界へ、メイトルパへと帰還していく。その下で、綾とカノンは、ほぼ同時に意識を失い、前のめりに倒れた。失い行く意識の中で、綾はカノンの体が縮んでいくのを見た。彼女の口元に、安堵の笑みが浮かんだ。

 

綾が意識を取り戻すと、そこはまだ北スラムだった。オプテュスの者達は敗北感に打ちのめされた顔で空を見ていたり、物陰に引っ込んだりしていた。流石の彼らも自らが負けたこと、そしてあろう事か敵に助けられたことを悟ったのである。その目はうつろで、また綾と目を合わせようともしなかった。

綾が身を起こすと、倒れてボロ切れを被せられたカノンの姿と、その脇でへたり込むバノッサの姿が視界に入った。徐々に感覚が戻り始め、気配探知能力が復活すると、隣にずっとカシスがいたことにようやく気付いた。

「カシス、カノン君は、バノッサさんは」

「大丈夫、彼奴ら二匹とも生きてるよ。 あれだけの規模の戦闘で、死人が出ないってのは信じられない。 まあ、相手が素人だったってのが大きいけどね。 ……プロが相手だったらこうはいかない。 覚悟しておいて」

「はい」

綾の返事に頷くと、カシスは立ち上がり、つかつかとバノッサの方に歩いていった。バノッサは顔を上げる気力もないようで、近くにカシスが歩み寄っても何もアクションを起こさなかった。

「ねえ、バノッサ」

「……なんだよ」

「その子、はぐれ召喚獣、よね」

「ちげえよ。 カノンははぐれじゃねえ。 正真正銘、この世界の人間だ。 ……ただ、親父がはぐれだった、それだけだ。 此奴の母親は、遠出に出た所をシルターンとか言う所のはぐれに犯されたらしい。 それで此奴が出来たんだとよ」

綾も立ち上がろうとしたが、全身が痛んでそれはならなかった。今回の戦いにおける魔力消耗は凄まじく、いつもなら二度三度気絶するほどの力を必死になって綾は絞り出した。その結果、全身を筋肉痛(厳密には違うかも知れない。 魔力過剰使用痛とでもいうべきか)が襲い、ろくに身動きもならなかった。綾は半身を起こしたまま、二人の会話を聞き続けた。

『おそらくカシスは、今後のため、私が戦略を練りやすいように、心を砕かれたバノッサさんをつついて情報を引き出してくれているんですね。 その発想自体はともかくとして、カシスの行動でバノッサさんが心のもやもやをはき出せれば、少しは関係も改善されるかも知れません……』

そう心中で考えた綾は、黙って推移を見守った。意識がはっきりしてくると、気配探知能力はほぼ回復し、後ろの方にエドスやガゼル、ジンガやスウォンもいて、レイドと一緒に手当てしているのも分かった。

「……此奴は、カノンはな。 親に捨てられてここへ来たんだ。 この地獄の北スラムにな。 おかしいと思わねえか? はぐれ女、それにカシスよぉ! 人間より優れた力を持ち、誰よりも優しく温かい心を持ってる此奴が、何で心も体も劣った奴に見下され、捨てられなきゃなんねえんだ? 居場所を奪われ、命を脅かされなきゃいけねえんだ!? おかしいじゃねえか、絶対におかしいんだよっ! この世の中はっ!」

『いつの世も、必要以上に優れた者、劣った者、そして違う者は迫害されます。 何処の世界でも、本当に人間がすることは同じなんですね……とても悲しいことです』

「だから俺は此奴を義弟にして、教えてやったんだ。 居場所がなければ、力尽くで奪えってなァ! 周りが差別しやがったら、ぶん殴って従わせろってなァ! ヒャハハハハハハハ、そうして此奴はようやく居場所を手に入れられたんだ! そうしなきゃ、居場所なんか手に入れられなかったんだ! そう、俺もそうだ! 俺の居場所は、力でむしり取らなきゃ手にはいらねえものなんだよっ!」

「それは違うぞ、バノッサ。 お前には居場所があったじゃないか。 孤児院の人達は、お前に良くしてくれたじゃないか!」

綾が振り向くと、エドスが真剣な顔で立っていた。肩の辺りには大きな痣があり、まだ痛々しいが、しかし強靱な意志力で押さえつけているようだった。

「あんなものは、俺の居場所じゃねえ! 俺の居場所なんかじゃねえっ! 召喚師の血を引く俺が、どうしてあんなせまっ苦しい場所に、負け犬みてえに丸まって居なきゃいけねえんだ! そうさ、俺の親父は召喚師だ! 顔もしらねえがな、会ったこともねえがな、確かに召喚師なんだよ! 召喚術だ、召喚術さえあればてめえらなんかには絶対負けねえ! はぐれ女、てめえにもだっ! ヒャハハハハハハハ! 俺にはてめえと違って召喚術を使う資格があるんだよ! いずれ必ず、絶対に力を手に入れてやる! その時こそ、その時こそてめえらが死ぬときだ! 覚えておけ、そして怯え続けるんだなあ! はぐれ女、てめえは俺が忘れかけていた召喚術へのこだわりを思い出させた! てめえが悪いんだよ……! 何もかもな!」

バノッサはひたすら嬌笑していた。そしてこのとき、綾はようやくバノッサが召喚術にこだわるわけが分かった。不思議と、酷い言葉を浴びせられても傷つかなかった。それは、バノッサが何を考えていたか、その思考が何処へ向かっていたか、理解出来たからかも知れない。

『泥沼の底を這いずってきたバノッサさんの、唯一の誇りが、自らの血だったんですね……。 可哀想。 どうしたら……どうしたらこの孤独な人を助けられるんでしょうか……』

「……綾、行くぞ。 今は駄目だ。 時間をかけて、ゆっくりと解決していこう」

「すみません、体中が痛くて、動けないんです」

「おう、そうか。 じゃあ、ワシが担いでいってやろう」

エドスがそう言い、綾を担ぎ上げた。首の後ろと膝の下に手を回して抱く(お嫁さんだっこ)や、背中に両手をまわして輪を作り其処に座らせる(お婆さんおんぶ)ではなく、小脇に抱える、俗に言う(山賊担ぎ)である。深刻な場面故綾は何も言い出せなかったが、流石の彼女もしばし呆然とした。誰か別の者が同じ事をされたら、暴れていたかも知れない。

無言のまま、皆は北スラムを出た。勝者であったのに、オプテュスの壊滅的な損害から言っても当分攻撃の恐れは無いというのに、皆の顔は暗かった。

 

5、終わりなき戦い

 

アジトに戻ろうとするフラットの面々は皆無言だった。心身共に疲れ切っていたというのもあるし、それにバノッサの妄執に怒りより哀れみを覚えてしまったと言うこともある。ガゼルは道すがら、エドスに抱えられたままの綾にぼそりぼそりと言った。

「バノッサの野郎は何から何まで気にいらねえが、一つだけ同感な言葉があったな。 この世界は間違っている。 ……俺も、そう思う。 アヤ、お前頭切れるよな。 どうしたら世界は良くなる? お前の世界はどうだったんだ?」

「私の世界にも、矛盾はたくさんありました。 差別も、この世界と同じでした。 良くしようとするには、世界中の人間が、何百年もかけて努力していくしかないんだと思います」

「ああ、そうかもな。 ……悪い、アヤ。 お前でさえ、そんな答えしか返せないんだよな、この問題は……」

誰もその言葉にはコメントしなかった。しばしの沈黙と、しばし重なる無数の足音。やがてガゼルが、歩きながら思い出話を始めた。

「フラット孤児院の院長さんは、すげえいい人だった。 誰にも差別はしなかったし、どんな物事にも公平だった。 俺はリプレと、あんな人になれればいいなって、あんな風にみんなを助けられればいいなって、フラットを結成したんだ。 まあ、俺なんかじゃ、幾ら頑張ってもこんなざまだがな……今のフラットがあるのは、殆どリプレとレイドのお陰だ」

「ガゼルは良くやっています。 頑張っているじゃないですか」

「お前の言葉には悪意も裏もないからな、そう言われると嬉しいよ。 ……院長先生は、税金の滞納でフラウの親御さんみたいに捕まっちまった。 そして鉱山に送られて、未だに音信不通だ。 いつ帰ってきても大丈夫なように、部屋は掃除してる。 でもいつまで経っても帰ってこねえ。 リプレがどんな顔で毎朝部屋の掃除してるか……はっきりいって見てられねえよ。 何であんないい人が捕まって、領主や召喚師共みたいなクズがのさばるんだ。 何で罪もねえ先生が裁かれて、領主や召喚師は好き放題に贅沢が出来るんだ」

社会には矛盾があるものだと、ガゼルの不満を片づけるのは容易である。だが、それを言う資格があるのは、同じくその矛盾によって大切な人を失った、即ち同じ境遇の者だけであろう。

「私達で努力して、少しずつ何とかしていきましょう。 大丈夫、あまりにも酷い政治をする体制は長持ちしません。 外圧より内圧によって必ず崩壊します。 歴史がそれを証明しています。 これ以上改善が為されなければ、ガゼルと同じ事を考えている市民のみなさんが絶対に立ち上がるはずです」

「そうさな。 とりあえずワシにあまり難しいことは分からないが、目の前のことを一つずつ片づけていくのは大事だと思うぞ。 ……今日もあまりよい形でなかったとはいえ、オプテュスとの争いは一段落したんだ。 頑張れば、必ず未来は開ける。 そう信じような。 ワシらが考えていることは子供達にもそのまま伝染するんだ。 子供達のためにも、ワシらが頑張っていこう」

エドスが力強く言ったので、元気づけられて皆は頷きあった。エドスは更に何か言おうとしたが、話しながら歩いていたので、壁にぶつかりそうになった。慌てた綾が、注意を促したが、それが逆にまずかった。

「エドス、前、前! 危ない!」

「うん?」

綾を担いだままエドスが振り向いたため、鈍い音と共に壁と綾の額が激突した。一瞬騒然となる場、頭を押さえて痙攣する綾。

「アネゴ! 大丈夫か!?」

「す、すまんアヤ!」

「ちょっと、大丈夫? 脳味噌出てない!?」

「お、おいおい、怖いこと言うなよカシス!」

口々に言う皆は、いつしか自分が暗い気持ちから解放されている言に気付いた。強烈な痛みを我慢して、綾は何とか顔を上げ、無理に笑顔を作って見せた。

「す、凄くいたいです……でも、大丈夫です。 脳味噌もでてません……よね?」

「ううん、出てる。 頭蓋骨割れてる

「えええっ!? そ、そ、そんな……!」

カシスの露骨な嘘に心の底から動揺する綾、その様子がおかしくて、皆笑った。疲れ切って綾は脱力感を味わったが、皆が慰めてくれたので、立ち直ることが出来た。

この場は、綾の犠牲と、それによって生じた笑いが救いとなった。だがそれが一時的なもの、長期的には辛い戦いとそれの克服が必須であると、皆が気付いていただろう。

夕日が沈む。オプテュスとフラットの戦いはこの日一段落したが、新たなる戦いが始まろうとしていることに、今だ綾は気付いていない。更に大きく、凄惨な戦いが、小さな幸せを求めるフラットの者達を、包み取り込もうとしていた。

 

迷霧の森の奥深く。無色の派閥の会議は、いつもと同じように執り行われていた。ラーマが三つの蒼の派閥支部を殲滅したことを報告し、オルドレイクが褒め称える。トクランは長く進めていた実験の成功を報告し、オルドレイクはそれもまた絶賛した。クジマの、金の派閥の動向報告とオルドレイクの激励が終わると、ザプラが表情を改め、自らの入手した大きな二つの情報を疲労した。

「同志ザプラよ、では君の重要な報告を聞こう」

「はっ! まず第一に、スペアの絞り込みが終了いたしました。 これがその資料となります。 今後は能力強化を影から促してやり、更に憎悪を積み重ねさせてやる工夫が必要になるかと」

「へー、バノッサって言うんだ。 ねえねえ同志ザプラ、どうして此奴にしたの?」

「同志トクラン、それは執念だ。 この男は凄まじい執念を有しており、鍛え方によっては充分に(例のもの)と完全同化を果たすことが出来る。 しかも、執念を煽るのに、さほど苦労はないはずだ」

トクランに立て板に水を流すが如く応えると、ザプラは次の報告に移った。相変わらずその口調には、派閥外の人間に対する冷酷さが籠もっていた。

「続いて、蒼の派閥が二次討伐隊を派遣する様子です。 今度は情報収集を目的とする部隊で、此方の戦力次第では殲滅も計るつもりだとか。 兵力はおそらく三十名前後。 ただし、(蒼の刃)のメンバーが中心になり、前回のように容易な撃退は不可能かと思われます」

蒼の刃。蒼の派閥が抱える部隊で、世界屈指の実力を誇る特殊部隊である。シルターンの忍者も何人か含み、各国の戦争を裏から煽り、また情報を集める。現在は三百五十ほどの人員を有するが、並の三百五十人ではない。無論その多くは各国で動いているため、今回襲い来るのは全兵力の一割以下だが、それでも侮ることは出来ない。オルドレイクは大きく頷くと、幹部達の顔を見回した。

「同志ザプラよ、貴重な情報をもたらしてくれて、私は万感の思いである。 さて、同志達よ。 連中は情報収集に長け、捨て置けば敵に大利をもたらすことになりかねん。 それに、一般の同志ではまともにぶつかっても勝てはしないだろう。 何か、良い策はあるか?」

「同志オルドレイク様、私がでましょう」

「私も。 彼らの手の内なら知り尽くしています故」

クジマとザプラが相次いで立ち上がり、決意を瞳の奥に宿した。特にザプラは、かって蒼の派閥に属していたこともあり、今回の任務に適任と言うこともあった。

「分かった、では同志クジマ、それに同志ザプラ。 君たちの大いなる力で、不埒なる蒼の派閥の先兵共を殲滅するのだ。 そしてこれが最も重要な事だが、奴らは手強い。 危なくなったら逃げるように。 君たちの命こそ、私にとって第一の宝であるからな」

「「はっ!」」

二人は敬礼し、すぐに場を後にした。敵が敵だけに、何処で交戦するか、どう撃退するか、その戦略を練る必要があったからである。

会議は終わり、オルドレイクはいつものように瞑想を始めた。彼の脳裏には、無数の思いが工作している。そしてその中で最も強い思いこそ、約束の地を建設せねばならないと言う、切迫した現実との戦いだった。

オルドレイクの双肩には、アルナ族達、(罪を犯した一族)達、他にも無数の命が乗っている。その命のためにも、オルドレイクは全ての力を掛けて目的に邁進するのであった。

 

(続)