望郷

 

序、遙かなる故郷

 

その生き物は、森の深奥で佇んでいた。基本的に特定の場所に定住する生き物であり、移動能力は決して高くない。移動能力は高くないと言うのに、体がぼろぼろになるのも厭わず必死に此処まで逃げてきたのである。此処は周囲の乾燥した地面に比べれば若干過ごしやすく、何とか生きる事が出来た。だが、それだけだった。

仲間は一人もおらず、食べ物も少ない。恐ろしい敵も襲ってきたが、何とか身に備わった防御機構を働かせて撃退する事が出来た。その敵達は精神を犯され、奇怪な叫び声を上げながら逃げ散っていった。可哀想だとは思ったが、死にたくないと言う気持ちの方がより強かった。そして、何とか生きる算段が出来てきた今、死にたくないと言う思いは、別の物へと転嫁していった。それは、帰りたいという切実な願いだった。

此処が自分のいた世界とは別の処だと、その生き物、トードスは自然に知っていた。空気の雰囲気も、風の薫りも異なるのだ。彼をこの世界に呼び出した存在は、(醜いから)という訳が分からない理由で責任放棄した。つまり、彼を一人で荒野に放り出したのだ。醜いという言葉の概念を理解している彼は、大きく傷ついていたが、どうする事も出来なかった。確かに彼は故郷で美しいとは言われていなかったが、まさかそれが原因で致命的な災厄に見舞われるなどとは想像する事も出来なかったのだ。

森の奥で、悲しみに暮れている彼の元に、一人の人間が現れたのは、しばししてからの事であった。

 

その人間は、彼を呼びだした召喚師とは根本的に異なる目つきをしていて、自然に心を許せる存在だった。人間は彼を見つけると、まずコミュニケーションを図り、ついで素直に同情してくれた。心細かったトードスは喜び、更になんとか故郷へ帰してくれるという言葉に感涙を流した。人間はトードスを色々調べ、様々な召喚術で故郷の食べ物も出してくれた。懐かしい故郷の薫り、そして味。トードスは嬉しかった。男はオルドレイクと名乗り、一月に三回は顔を出した。今、トードスの楽しみは、オルドレイクと会う事だけだった。

「オルドレイク、私はいつ、故郷へ帰る事が出来るのだ?」

「まだ時間がかかる。 君の故郷は判明したが、君を召喚した呪文の解析に手間取っていてな。 今六割と言う所だ」

「そうか。 まだ、帰る事は出来ないのだな」

「まず君を、私の森へと移そうと思う。 人が極限まで汚してしまった森だが、一部の再生には苦労の末に成功した。 そこで君は新たな森の王として、生き物たちの管理をして欲しいのだ。 無論もし君を帰す術が先に完成したら、そちらを優先しよう」

それが危険を伴う事だとは、トードスには自然に分かったが、オルドレイクの頼みなら聞き届けてやりたかった。また、オルドレイクの側の森に移動すれば、寂しさも紛れるというものだった。

「分かった。 それは、いつになるのだ? とても待ち遠しい」

「そうさな、できれば今月中には着手したい。 私も多忙でな」

オルドレイクはそう言って、暖かい笑みを浮かべた。トードスは孤独の中に、希望の炎が灯るのを感じていた。

 

森の外、一人の狩人が、弓を持って立ちつくしていた。彼の目には決意があり、また全てを焼き焦がすような怒りも内在していた。狩人はまだ少年と言っていい年であり、顔つきは年齢以上に幼い。だが雰囲気は落ち着いていて、その動作にはいちいち無駄がなかった。少年の名はスウォン。この森に生き、この森と共に暮らしてきた生粋の狩人である。

「今日こそ……父さんのカタキを取ってやる」

憎悪と共に吐き捨てると、スウォン少年は森へ足を踏み入れた。彼が狙うは、朱のガレフと呼ばれる狼のボス。二週間前に、彼の父を惨殺した相手だった。

狼は基本的に人間には近寄らず、余程の事がなければ殺す事はない。人間と狼の摩擦が起こるのは、人間側の侵略があった上に、それによって狼の食料がなくなってしまった時である。また、狼は人間が近寄れば、まず威嚇し、それでも去らねばある程度自分から距離を置こうとする。故に、余程の事がなければ狼と狩人の共存は可能だった。だがそれは過去形へとなり果てていた。ガレフはこの森の主であり、人間と敬意を払いあって共存していた、偉大なる狼のボスだった。だが今は縄張りの内であろうと外であろうと手当たり次第に生き物を襲い食い殺す、狂気の怪物と化していた。そして少年の父が、その最初の犠牲者だった。しかも必要なだけ獲物を捕るのが野生動物の基本行動なのに、ガレフ達は見つけた動物を片っ端から殺していたのである。それは、さながら人間のような凶暴さであった。

サイジェントの領主が本格的に対応に乗り出せば話は違っただろう。しかし彼は側近であるマーン家三兄弟の言う事を入れ、(具体的な被害がなければ対応は出来ない)等という暴言を吐いて事態を放置した。また、狩人達は貧しい生活をしていたから、強力な冒険者や召喚師を雇う余裕もなかった。その結果、今では狩人達はガレフを恐れ、皆森の外へ逃げてしまった。そんな中、スウォン少年だけが、唯一人森に残っていた。彼を突き動かしていたのは、一流の狩人だった父への憧憬、その命を奪ったガレフへの憎しみだった。ボロ雑巾のような肉塊にされた父の姿を、少年は瞼の裏に焼き付けている。目をつぶるたびにその光景がフラッシュバックし、少年の怒りを更に増幅するのだった。

 

1,森の戦い

 

「何がいるかわからねえから、あまり奥には行くなよ」

綾が薪を拾いに行く事を申し出たとき、ガゼルはそれだけしか言わなかった。ガゼルもサイジェントの南部に広がる森の事は良く知らない事、それに綾の実力を信頼している事、等がその言葉から伺えるだろう。

生活能力が皆無な綾であったから、実行出来る生活の手伝いは限られている。経済事情的にも、料理をして、材料を無駄にしてしまうなどと言う事は許されないのだ。その中で確実に出来る物と言えば、例えば魚釣りである。綾は魚釣りに習熟しており、安定した釣果を上げて生活費の足しにしていた。また、ここ数日は強くなった力を生かして水汲みや薪拾いも手伝っており、少しずつ自分の居場所を確保した気分となっていた。実際問題、そうでもせねば臆病な綾は、不安で不安で仕方がなかったのである。まだ肌寒い早朝、綾は森を一人で歩く。少しでも素の自分を周囲に認めて貰うため、行動を積み重ねるために。綾は今、新たな恐怖を感じていた。せっかく確保した、素の自分を見てくれる居場所が無くなる事がそれであった。

『まず、日の当たる所。 落ちている枝を集める。 枯れていても、立っている木の枝を折っては行けない。 しけっている枝は論外……』

聞いた事を頭の中で反芻しながら、綾は辺りを探したが、なかなか良い場所は見あたらなかった。一時間も歩いたのだが、ほんの一抱え程度の薪しか集まらず、綾はため息をついた。まだフラットのアジトには蓄えがあるが、翌日からはもっと工夫して探さないといけないだろう。皆は適当で言いといってくれていたのだが、綾にとってこれは死活問題だった。

一旦戻る事を決めて、綾はサイジェントに向け歩き始めたが、その時不意に後方から物音がした。半ば反射的に刀に手を掛け振り向くと、そこには険しい目つきの少年が立っていた。背はどちらかといえば低いが、妙に体つきはがっしりした少年である。頑丈そうな皮手袋をして、端正な顔は警戒心と不信感に彩られている。しかし、取り合えず敵意がない事は察して、綾は頭を下げて礼をした。相変わらず完璧な角度でお辞儀しながら。

「ええと、おはようございます」

「……ここで、何をしているんですか?」

「薪を拾っています」

「そうじゃありません! いいですか、今この森は今凶暴な獣が出て、大変な事になっているんです! かみ殺されてしまった人もいるほど、凶暴な奴です」

少年はそれだけまくし立てると、険しい表情のまま手を横に振った。

「さあ、帰って下さい。 薪なら、この辺りよりも森の東端の方が取れますから」

「有り難うございます。 えっと、何とお呼びすればいいですか?」

「……スウォンです」

「スウォン君は、この森を出ないんですか? 危ないのは、スウォン君も同じでしょう?」

穏やかな調子で綾が放った言葉に、スウォンは僅かに表情を緩めた。心の底から心配しての言葉だと、自然に悟ったからだ。彼は綾を今説明した場所へ案内しながら言った。

「狩人が森を出たら、仕事になりませんよ。 それに、僕はこの森でやらなければならない事があるんです」

確かにスウォンが案内した場所には、良質の薪が沢山落ちていた。それこそ、抱えきれないほどである。

「服に引っかけないよう注意してください」

沢山薪を抱きかかえる綾を見て、スウォンは初めて笑顔を浮かべた。何の事はない、生活行動自体に不慣れな様子がおかしかったのだ。彼にしてみれば、生活活動など出来て当たり前の事であり、それが出来ないと言うのは異邦人的なおかしさを感じさせる事だったのである。無論少年は、それによって綾を見下すような下劣な精神の持ち主ではなかった。

そのまま、森を出るまでスウォンは丁寧な案内をした。そして、入っては行けない地域を丁寧に説明すると、手を振って綾を見送ったのだった。

 

朝食の時間に、綾はギリギリ間に合う事が出来た。山ほど抱えて持ってきた薪は当然喜ばれたので、また一つ役に立てて嬉しいと思いながら、彼女は朝食の席に着いた。

この間の(つまみ食い事件)以来、綾に対する周囲の対応が若干柔らかくなった。優しいが生真面目だという雰囲気を、ガゼルと一緒に悪戯をしたという事実が緩和したのである。子供達もそうだし、他の者も前より頻繁に話しかけるようになり、しかもフレンドリーな雰囲気が増した。綾としては、これは実に嬉しい事象であり、生き甲斐ともなった。何しろそれまでは、自分を(優しく穏やかでなんでも出来るお嬢様)というフィルターを付けずに見る人など、いはしなかったのだから。

「それにしても、随分沢山の薪が取れたもんだな。 正直感心したぞ」

「スウォン君って言う人に、いい場所を教えて頂いたのです」

エドスの言葉に綾が応えると、ガゼルが小首を傾げながらそれに加わった。

「スウォン? ……あれ? どこかで聞いたような……」

「相変わらず物忘れが激しいわね。 ほら、あの草笛の」

「ああ、あの無口で気むずかしい女顔の!」

リプレのフォローに対し、失礼なコメントを帰したガゼルは、一瞬後にお盆で殴られた。子供達は、その強さを尊敬の眼差しで見ている。特に今まで(強さ)を目の当たりにした事がなかったフラウは、目を輝かせて憧憬の眼差しでその姿を見ていた。

リプレの強さは、綾にとっても憧れの対象だった。羨ましいなあと思いながら、綾は状況の確認に移る。

「お知り合いですか?」

「うん。 幼なじみの一人で、狩人の子よ。 お父さんがいい人で、時々マルフト鹿やアプト兎の肉を私達に分けてくれたの。 スウォン君も無口で人見知りする性格だったけど、本当は優しくて穏やかな子だったわ。 良く一人で、木陰で草笛を吹いていて、それが印象に残っているのよ」

「そうなんですか……じゃあ、余程大変な事が起こったのですね」

「大変な事?」

スウォンの顔に浮かんでいた怒りと焦燥を思い出しながら、綾は事情を説明する。無言で食事を取っていたレイドや、フィズとなにやら楽しそうに話していたカシスも、途中から真剣な顔でそれに聞き耳を立てていた。ジンガはというと、とっくに朝食を終え、外で体力作りに励んでいた。元々この少年、その場その場では面倒見が良く、子供達に慕われてはいるが、裏を返せばカシス以上に非社交的な面も持ち合わせていた。

「あの森にそんな凶暴な生物がいたとは初耳だぞ。 はぐれの噂すらも聞かなかったのだがな」

「ああ、ワシも初めて聞いた」

「何にしても、薪を拾いに行く場所だ。 あまり他人事じゃあねえな」

「ふーん……」

口々に皆がいう中で、カシスだけは考え込んでいた。一通り皆が発言するのを待つと、レイドは立ち上がり、皆を見回しながら言った。

「私は私で、この件について少し調べてみるつもりだ。 薪拾いには、子供達が行く事もあるからな。 もし情況が情況なら、私達で対処する事も考えよう」

「おう、分かったぜ」

「スウォン君、森でやる事があるって言っていました。 危険がないと良いのですが」

「……狩人は、何だかんだ都合がいい言葉で取り繕った所で、結局生き物を殺して成り立つ仕事でしょ? それである以上、危険がないなんてのは虫が良すぎる話だよ。 他の命を奪い、自らの糧にしているんだから」

綾の言葉に、ぼそりとカシスが言った。皆の視線が集中した事に気付くと、カシスはいつものような線がきれた笑みをまた浮かべた。だが、それまでの一瞬、彼女の顔には確かに虚無が存在していた。命無き人形の顔にあるような、空虚なる闇が。

『カシスさん、やはり貴方には何かありますね……』

綾には、カシスの客観的すぎる台詞が辛かった。自分が人である以前に、世界的な視点からものを見ているような、客観的すぎる台詞が怖かった。綾の恐怖を余所に、カシスはただ笑みを浮かべていた。そして虚無は、二度と表には現れなかった。

昼過ぎ、レイドがアジトに戻ってくると、事態は一気に緊迫化した。レイドは騎士だった時代から人望があり、その情報網は広く深い。その彼が、領主の対応、それに(具体的被害がなければ発言)云々の情報を仕入れ、帰ってきたのである。また、彼の情報には、既に死者が複数出ている事、そのうちの一人がどうもスウォンの父らしい事も含まれていた。これに一番怒りを覚えたのが、ガゼルだった。

「召喚師の奴ら、この街ばかりか、この街の周りまで無茶苦茶にする気か! 草原を荒野にしただけじゃあ足りないのか! ケッ、つくづく最低な外道共だぜ!」

「……今は彼らの無能を嘆いても仕方がない。 現実的な対処を考えよう」

「今から街を出ては、おそらく夜になってしまいますね」

「それがどうしたってんだよ?」

苛立つガゼルは、綾にまで食ってかかった。リプレも彼を止めなかった。彼女も、同じように怒っていたからだ。綾は右往左往する精神を必死に整えると、出来るだけ笑顔を作って言った。

「あ、あの……私達の敵は、森にいる獣さんだけではないということです。 今から出かけると、獣さんと戦った後には、おそらく夜になっています」

「……。 バノッサか」

「フム、確かに夜アジトを開けるのはまずいな。 綾、良い事を言ってくれた」

ガゼルが黙り込み、エドスがフォローを入れてくれたので、綾は胸をなで下ろした。レイドはしばし黙ってそれを聞いていたが、不意に彼はカシスに話を振った。

「カシス、君はどう思う?」

「私? どうして私に?」

「君は冷静で、物事をよく見ている。 一番頭が切れるのがアヤなら、一番冷静で客観的なのは君だろう」

「ふーん、それ褒めてくれてるの? だとしたら、ありがとね♪」

いかにも事実を淡々と指摘しましたという口調のレイドに対し、カシスは終始不思議そうな顔をしていた。それを見ていた綾は、違和感が絡まり合って増幅されていくのを感じた。そんな綾の様子など気にしてかしないでか、頬杖をついてカシスは飄々と嘯く。

「まあ、私もマイ☆ダーリン・アヤちゃんと同じ意見だけど、一つ大事な事みんな忘れてるって思う。 そのスウォン君、多分今も森で張ってるんじゃないかな。 朝見に行ったら、骨になってる可能性高いよきっとー」

『……! そ、そうでした』

蒼白になる綾は、頭の中が真っ白になるのを感じた。だが、精神的に再び右往左往する彼女と裏腹に、幸いレイドは冷静だった。

「誰か、呼びに行ってくる必要があるだろうな。 ガゼル、スウォン少年と最後にあったのはいつだ?」

「そうだな、もう五年くらい会ってねえぜ」

「では、一人では無理だな。 アヤ、君も行ってきてくれ。 スウォン少年を、夜になる前に保護してきて欲しい。 我々はその間、森に攻め入る準備をしておく」

「はい」

「そうと決まれば善は急げだな。 早速行こうぜ」

レイドが決断をすると、ガゼルがすぐ実行に移す。フラットは本当に良く出来た役割分担をしているチームだった。半ばガゼルに手を引かれる形で、綾は森へと歩を進めた。

 

まだ夕暮れまでは時間があるというのに、森は薄暗く沈鬱な雰囲気に包まれていた。ガゼルはナイフを数本取りだしてその刃を点検しながら、油断無く周囲に気を配る。

「さて、どうやって探す?」

「森の外側で、わざと騒ぎながら、少しずつ奥へ進んでみましょう」

「? なんだそりゃ?」

「森の奥まで入ってしまえば、獣さんに出くわしてしまう可能性が高くなりますが、外側なら流石にそれもないでしょう。 スウォン君はこの森で暮らしてきた狩人ですから、変な騒ぎが起こればすぐ気付くはず。 そして彼は、見ず知らずの私を本当に心配してくれたいい人です。 多分、また誰かが森に来たのだろうと思い、すぐに駆けつけてくるはずです」

いい人という言葉は、最近では愚か者の同義語だが、綾の言葉にそのような卑劣な響きはない。なぜなら彼女は、単純にいい人を尊敬し、評価出来る今時希有な人間だったからである。そして掛け値なしにそれを実行出来ると言う事が、故郷で彼女の評価を上げていた要因の一つだった。ただ本人は、それに全く気付いていなかった。

「なるほど、そりゃあ名案だな」

ガゼルは満足げに頷くと、金属製の棒を取りだし、近くの木を叩いた。案外大きな音がしたので、綾は驚いて発作的に耳を塞いだ。それにお構いなしの様子で、ガゼルは木を叩きつつ、歩き出した。歩き始めてから二十分弱、予想通りの事態と、予想外の事態が同時に起こった。

「貴方は……!」

険しい声と共に、スウォン少年が茂みから現れた。綾は事情を説明しようとしたが、その暇はなかった。少年が右腕に負傷している事、更に周囲に複数の気配が沸き上がった事に気付いたからである。

 

「おいおいっ! こんな街の側にまで、(凶暴な獣)とやらは出るのか?」

「だから、危ないって……君は?」

「俺はガゼルだよ、久しぶりだな、スウォン。 そんな事より、気をつけろ!」

抜刀した綾と背中合わせに立ちながら、ガゼルが緊迫した面もちで言った。スウォンもすぐに駆け寄り、呼吸を整えながら弓を構える。程なく、周囲からうなり声が聞こえ始め、茂みが揺れ、巨躯の生き物が現れた。この森の主たる、ガレフと、その配下の狼たちだった。その巨体が醸し出す迫力、威圧感、バノッサの部下達などとはまるで比較にならない。

『大きい! 狼は犬よりずっと大きいとは聞いていましたが、シベリアンハスキーやゴールデンレトリバーよりも更に大きいかも知れません!』

生唾を飲み込む綾の前にいたのは、形こそイヌだが、体長二メートルを超す猛獣だった。人間にタブーを持たないため平気で人を襲う野犬に比べ、知能の高い野生動物である狼は普段ずっと安全な存在である。これは手を出しても噛まれないとかそう言う事ではなく、きちんと相手の縄張りを尊重し、食料を奪わず、節度を持って接すれば致命的なトラブルは起こらないと言う意味だ。しかし、目の前にいるこの狼たちに、そんな理屈は通じそうもなかった。数は十三頭、いずれも目に異様な光を湛え、全身に殺気をみなぎらせていた。その中でも更に一回り大きい赤毛の個体は、顔に向かい傷などを持ち迫力満点だった。

『これは、狂犬病でしょうか? 尋常な雰囲気ではありませんね』

「気をつけてください! さっき、威嚇もなしに襲ってきました。 もう彼らは誇り高き森の王どころか、そもそも正気ではありません」

「おい、綾、どうする?」

「あーあー、やっぱり襲われてる」

不意に第三者の声が場に割り込んだ。三人が上を見上げるまもなく、その声の主は樹上から飛び降りた。三人の側に危なげなく着地したその人は、カシスだった。

「カシスさん!?」

「念のためついてけってレイドさんに言われて、アヤちゃんストーカーしてみれば案の定だったね。 ああ、危うくマイ☆ダーリンが骨になっちゃう所だった……危なっかしいから、悔いが残らないように、今晩(初めて)うばっとこう

「な、なんですか、この変な人はっ!」

いつもながら洒落になっていないカシスの言動に硬直して蒼白になる綾と、免疫がないらしく露骨に動揺するスウォン。一瞬の隙が生じ、狼たちはそれを見逃さなかった。数頭が一斉に地を蹴り、涎をまき散らしながら間を詰めてくる。それに一番早く対応したのは、カシスだった。先頭になってつっこんでくる一頭の前に立ちはだかると、印を組んで呪文を唱え始める。

「我誓約において、異界の力を此処に召喚す。 光ある翼持ちし霊界の職人よ、我にその偉大なる力の一端を、僅かばかりの助力として与えたまえ……」

吠声と共に、目を閉じたままのカシスに狼が躍りかかった。だが、彼の牙がカシスの喉に到達する事はなかった。そのままカシスが、異界の剣を召喚する術を解き放ったからである。

「唸れ、光将の剣群!」

不意に空中に出現した六本の剣が、雨のように狼に降り注いだ。この様な自然界にあり得ない攻撃にはひとたまりもなく、先頭の狼、それにその後方に続いていた二体は頭蓋を貫かれ、即死に近い形で絶命した。だが、狼たちの戦闘意欲は異常で、仲間が倒れたにもかかわらずまたしても突進してくる。これは普段絶対にあり得ない情況だった。例え獲物と此方を認識としているとしても、非常に手強い相手だと言う事は今の攻防で明らかになったのである。鮫の一種には、相手の大きさが七パーセント増しでも接近を避ける者さえいる。まして狼のような知能の高い動物が、余程腹が減っているわけでもないのに、無闇に手強い敵を襲う事などあり得ないのだ。歴戦の狩人であったら、これらの知識を持っているが故、却って敵に反撃を許してしまっただろう。だが、狼たちがまともではないと知っている人間達が、今度は機先を制した。スウォンが引き絞った弓を放ち、ガゼルがそれに続けて数本のナイフを放る。スウォンの技量は元々非常に高く、ガゼルの技量も此処しばらくの激しい小競り合いで着実に上昇している。矢が一体の顔面につきたち、更にナイフは一頭の両目を抉った。それを見届けると、綾は刀を構え直し、そのまま首領らしき赤い個体の元へ突進した。今の攻撃で五体を失った狼の陣容は薄くなっており、また乗ずる隙を見いだしたからである。走りながら、綾は狼たちに心の中で謝罪した。

『可哀想ですが、殺すしかありません。 手加減出来る相手ではありませんし……!』

陣容が薄くなったといえども、障害なしにボスの元まで辿り着けるわけもない。綾の前に、一頭が涎を垂れ流しながら立ちはだかり、そのまま飛びつくようにして躍りかかった。倒されてしまえばお終いだと言う事は、動物との戦いに無知な綾でもすぐに分かる。綾は(集中)を駆使し、身を低くしてその腕と牙を紙一重でかいくぐると、流れるようにその脇腹を切り裂いた。かわしきれなかった爪によって髪の毛が数本散るが、気にしている余裕はない。むしろ、斬ったときの重厚な手応えは大きな負担で、数頭を斬るだけで体力が尽きそうな勢いであった。綾が体勢を立て直す前に、今度は低い位置から、もう一頭が突進してくる。集中は今使ったばかりだから、もう一度此処で使うのは危険が大きすぎる。更に今の戦闘技術では、鋭い狼の攻撃に対処しきる保証はない。一旦退いて体勢を立て直そうとする綾の眼前で、斜め後方から飛来したナイフが狼の眉間に突き立った。血をばらまいて横転する狼。ナイフを投げたのはガゼルであり、親指を立ててにいと笑ったが、一瞬後に横からのタックルをもろに貰って木に叩き付けられた。

「がはっ!」

「ガゼル!」

無言で大振りのナイフを取りだしたカシスが、更にガゼルに飛びかかろうとした狼に組み付き、一息に喉をかききった。吹き出す鮮血を意に介さず、そのまま立ち上がると、カシスはまた剣を召喚し、至近に迫った狼に頭上から叩き付けた。無表情のまま大量の返り血を浴びて戦うその姿は、正に修羅である。綾は息をのむと、頭を振って思考を切り替えた。後衛は後衛に任せるしかないのだ。今は一刻も早く、敵の群れを瓦解させねばならず、それにはボスを屠らなければならない。

呼吸を整えると、綾は赤い個体に突進した。赤い個体は狂気を目に湛えながらも悠然とそれを迎え撃った。正にそれは王者の貫禄とでも言うのだろう。

『行きます!』

綾は心の中で呟くと、跳躍し、斜め上から鋭く見事な斬撃を叩き付けた。だが狼王は、楽々と余裕をもってそれをかわし、逆に鋭い勢いでかぶりつこうとした。とっさに身を翻した綾が、刀をその口に向け、狼王が噛みつく。刀はみしみしと嫌な音を立て、また凄まじい力が無理な体勢を余儀なくされている綾に襲いかかる。人間は同じくらいの大きさを持つ動物の中では最も弱い部類に入る。綾は現在標準的な男子と同じくらいの肉体能力を身につけているが、パワーゲームで、一回り大きな、しかも戦うために産まれてきたような猛獣に勝てるわけがない。それでも善戦はしていた綾だったが、力の差は歴然であり、じりじりと押され、やがて木に背中をついた。狼王は更に噛む力に力を入れ、綾を圧迫する。人間が唯一他の動物に優位に立てる前提条件、道具を奪い去るために。

「くっ……あっ!」

苦痛の声を漏らした綾が、ついに刀を手放した。狼王はそのまま刀を放り捨て、のど頸にかぶりつこうとした。だが、それは罠だった。狼王が見たのは、自分の顔に向け、掌を向けている綾の姿だった。要は、工夫のないパワーゲームは砲を使うために力をためる時間稼ぎだったのだ。本能的に危険を察知した狼王は逃げようとしたが、綾の方が早かった。

「必殺・ゼロ砲!」

「ギャンッ!」

恐らく、この狼王が悲鳴を上げる所を聞いた人間は、彼女が初めてだっただろう。赤き狼王は首に強烈な負担を受け、更に二メートルほども吹き飛んで落ち葉を蹴散らしながら地面に転がった。だが、流石は森の王、よろけながらも立ち上がる。対し、綾は刀をなんとか拾ったものの、今の一撃で膨大な精神力を消費し、また長く狼王とまともにパワーゲームをしていたため手が痺れている。狼王は綾にトドメをささんと、ゆっくり彼女へ歩み寄っていった。

その側頭部に、矢が深々と突き刺さった。鮮血が吹き出し、狼王が声にならない絶叫を上げる。かろうじて自分を殺した相手に目を向けたのが、最後の努力だった。狼王の目に映ったのは、今の矢を放った、彼に父を殺された狩人の少年だった。狼王は、血を吐きながら、ゆっくり地面に倒れた。そして、その目からは、急速に光が失われていったのであった。

残る狼たちが掃討されるのに、さほど時間は掛からなかった。だが狼たちは最後の一頭まで狂ったように戦い、結果戦いは彼らが全滅するまで続いたのだった。

 

「はあっ、はあっ! ……や、やった……!」

スウォンが地面に手をつき、全身で息をつきながら言った。無傷な者はおらず、一番要領よく戦っていたカシスでさえ何カ所かに傷を貰っていた。木なりなんなり背中を預けられる物にもたれかかると、皆は体力の回復に務めた。それほど厳しい戦いであり、ほんの少し攻防のタイミングがずれれば全滅して狼の夕食になっていただろう。丁度陽が沈みかけており、森には闇が訪れようとしていた。

「う、ううっ……」

辺りに慟哭が響き渡る。スウォンが涙を流しているのだ。父を殺した相手を撃破する事で、今まで押さえ込んでいた気が抜けてしまったのだ。誰も声を掛ける者はいなかった。彼のつらさと悲しみは、誰の目から見ても明らかだったからである。だが、慟哭の声は、不意にカシスが発した警告によってうち破られた。

「……いや、ぴーぴー泣くのには、まだ早いみたいよ?」

「カシスさん?」

「ほら、この子達のアタマ見て? これ、なんだと思う?」

綾はガゼルが倒した一体の側に歩いていき、頭部を確認した。そこには、黴とも茸ともつかぬ物が生育していた。さほどの量はないが、どの個体の頭にも確実に生えている。

「これは?」

「多分、メイトルパ系かシルターン系召喚獣の一種だね。 今アタマ開いてみたけど、脳にまで根張ってるよ、これ。 この子達がおかしくなったのは、おそらくこれが原因だよ」

「そんな……そんな事って……」

何の抵抗もなくナイフで狼の頭を開いたカシスが血みどろの手で言い、スウォンは呆然として呟いた。周囲に充満する血の臭いが一段と濃くなった気がして、綾は頭を振って雑念を追い払うと、辺りの獣に哀悼の意を表した。

「一旦……帰りましょう。 今の状態でその召喚獣さんに襲われたら、この子達の二の舞になってしまいます」

「スウォン、行くぞ。 ほら、しっかりしろ」

惚けているスウォンの手をガゼルは引いたが、少年は微動だにしなかった。嘆息したガゼルは、少年に肩を貸し、そのまま歩き始める。綾は慌ててそれを追い、カシスは冷静にサンプルを少し採取してからしんがりを務めた。森で行われた惨劇の第一部は、こうして閉幕した。しかし、更に凄惨な第二部は、これから幕を開けるのであった。

 

2,鏡像

 

森で行われた激しい戦いの一部始終、更にカシスが解析した真の敵の正体を聞くと、フラットのメンバー達は一様に考え込んだ。先ほどの戦いで大きなショックを受けたスウォンは、居間の端で膝を抱えて座り込み、微動だにしない。彼を時々横目で見ながら、レイドはいつもの彼らしい冷静な声を絞り出した。

「その茸の怪物が、一連の事件の真犯人、という事になるのかな」

「まあ、ね。 おおかたはぐれ召喚獣でしょうけど」

「? どういう事だ?」

「召喚師の中には、用が済んだり容姿が気に入らなかったりすると、召喚獣をポイ捨てする奴がいるの。 それこそ、ゴミ同然にね。 世界にこんなにもはぐれ召喚獣が多く生息しているのも、彼らの傲慢な行いが原因の一つよ。 まあその茸君も、多分いらないからとか醜いからとかで捨てられたんでしょーね」

あまりにもさらりとカシスが言ったので、皆の反応が遅れたほどである。はぐれといえば、綾だってそうなのだ。その綾の前で、かのような暴言を吐くのは、流石に神経の所在を疑われる行為であった。

案の定、元々心が弱い綾は大きなショックを受け、うつむき、言葉を閉ざしてしまった。それを見たガゼルが、たまりかねて激発する。

「お、おいっ!」

「ほへ?」

「お前なあ、よりにもよってアヤの前で何言ってやがるんだ!」

「だって、事実だよ?」

(どうして怒っているの?)カシスの顔にはそう書かれていた。もし相手が反省の色を見せたりすれば、ガゼルも更に噴火したかも知れないが、この様な反応を見せられれば却って気勢をそがれてしまう。黙り込んだガゼルに対し、リプレが無言で立ち上がり、いぶかしがるカシスを別室に連れて行った。程なく一人で帰ってきたリプレは、肩をすくめて綾の耳元に囁いた。

「ごめんね。 でも彼女、悪気全然無いから、許してあげて?」

「は、はい。 わ、私……」

「あの子、気付いてるかも知れないけど、人間として非常にちぐはぐよ。 異様に大人びていると思ったら、子供でもしないような残酷な発言したり。 しかも純戦闘面ではもの凄く冷静で強いみたいだし。 多分、可哀想に、まともな環境で暮らしてきたんじゃないと思う。 だから、私がついて、少しずつ色々教えていくから。 アヤも、酷いことを言われても許してあげてほしいの」

やはりフラットのメンバー達は、自分が考えているより遙かに大人だ。綾はそれを改めて感じて、目尻を拭って頷いた。しばし間をあけてから、レイドが皆の表情を確認して続きに移る。

「……兎に角、だ。 明日の早朝、全員でそのはぐれを排除しよう」

「まって下さい」

「スウォン君?」

「もう、いいんです。 僕はもう、いいんです」

いつの間にか部屋に入ってきていたスウォンが、泣き腫らした顔を上げて、沈鬱な笑みを浮かべた。

「僕、気付いたんです。 復讐には終わりがないって。 ガレフを倒したとき、気付いたんです」

「……」

「カシスさんも言ってましたけど、その召喚獣だって被害者なんです。 多分、召喚獣を倒したら、身勝手な召喚師が憎くなります。 召喚師を倒したら、彼なり彼女なりが大手を振るうことが出来たこの世界が憎くなります。 永遠の鎖です、際限がないんです!」

「……ああ、これが君だけの問題なら、そうだろうな」

スウォンの言葉を、レイドがぴしゃりと断ち割った。そのまま彼に続いて、綾が諭すように、むしろ優しい口調で言った。

「これはもう、サイジェントに住む人間全員の問題です。 その召喚獣さんが生きていると、ガレフ達どころか、この街の人達にまで被害が及ぶ可能性が高いのです。 森の動物たちも、もっと多くが狂気に支配されて殺戮を繰り返すかも知れません。 確かに復讐は始めたらきりがありません。 しかし今の行動は、復讐のためではなく、生きるための物なんです。 我々は人間で、卑小な存在です。 だが人が生きようとするのは、卑小な行動でしょうか。 私達は、幸いまとまった力を持っています。 力を持つ者は、その力をきちんと使う義務があるのではないでしょうか? どのような事情があっても、私達は、愚かな領主さんと一緒になってはいけません。 このまま傍観すれば、私達は愚かなマーン家の兄弟達や、領主さんと一緒になってしまうんです」

「アネゴ……」

「アヤさん……」

綾にしてみれば、それは自分の存在意義であった。故に、彼女の言葉にジンガが感動しても、スウォンが心動かされても、何も感銘はなく、そもそも気付かなかった。ただ必死であったが故に、その言葉が出たのである。

無論、綾も敵が全く同じものを背負っていることくらいは知っている。また、自分の言葉が極めて狭い物であり、サイジェントの人間という存在の都合に基づく物だとも知っている。だが敵は、持っていた巨大な力に責任を持たなかった。例え乱用したにしろ、或いは身を守るためだったにしろ、森に多大な被害を与えたのだ。それが故に危険だと判断し、追いつめなければならなかった。綾が、この街の人間であるが故に。

この信念が如何に脆い物であるかは、綾自身が一番よく分かっていた。彼女はようやくジンガとスウォンの尊敬の眼差しに気付き、表情は崩さなかったが内心で激しい痛みを感じた。もし召喚獣が自分と同じ境遇だったら、今言ったことを完遂出来るのだろうかと思ったのである。これを完遂出来なければ、皆にそれこそ示しがつかない。しかし泣き叫ぶ敵にとどめを刺すなど、出来そうもないことだった。

「心配するな。 いざというときは、ワシ達で……」

「……」

敏感に彼女の悩みを察したらしいエドスが小声で助け船を出したが、綾は首を横に振った。こればかりは、自分で言葉の責任を取らねばならないと考えたからである。凄惨なる戦いの開始は、この時点で決定されていたのかも知れない。

 

翌日早朝、昨日同行しなかったメンバー全員を含むはぐれ召喚獣討伐部隊が出発した。先頭をスウォンが、最後尾をカシスが務め、真ん中に位置したレイドが辺りに油断無く気を配る。スウォンは迷うことなくまっすぐ進んでいるので、彼の真後ろにいるガゼルが不審を感じた。

「おいおい、敵の居場所が分かるみたいな歩き方だな」

「分かります。 まず第一に、茸の怪物なら湿気の多い所、即ち日があまり差さない森の深部にいるはずです。 第二に、ガレフ達の様子から推測して……。 茸の居場所は、ガレフ達の縄張りの中にあるはずです」

「なるほどな。 その二つが合わさる地点は、お前のアタマの中では、一カ所しか思い当たらない訳か」

「スウォン、で良いですよ。 お前だの君だのでは呼びにくいでしょう」

もうすっかり立ち直った様子で、少年はガゼルに笑みを向けた。後衛に位置するジンガは不安げに辺りを見回しており、心配した綾が声を掛けた。

「ジンガ君?」

「アネゴ、俺っち方向音痴でさ、知らない場所に来るのって結構不安なんだ。 二回目からは結構平気なんだけど、初回はいつもドッキドキものでさ」

『へえ、ジンガ君、しっかりしているようで可愛い所もあるんですね。 あ、男の子に可愛いなんて言ったら失礼でした』

失礼な思考に反省し、拳で軽く自分の頭を殴る綾。ジンガは不思議そうにそれを見やったが、遅れそうになっているのに気付いて慌てて皆の後を追った。

森に入って暫くして、辺りの雰囲気が露骨に変わった。地面はしけり、木には苔が生え、差し込む光の筋も少なくなった。誰しもが気を引き締め、歩みが慎重になり始めた矢先、レイドが口を開いた。

「現れたな。 どうやらあれのようだ」

「……!」

皆の視線の先には、赤黒い塊があった。巨大な茸という以外に表現のしようがない存在で、だが柄の部分には大きな一つ目があった。そして根本の辺りには、数本の触手が生え、ゆっくり蠢いている。

「さて、綾、どうやって攻める?」

「ガレフさん達の様子から見ても、接近戦は厳禁です。 遠距離から、弓矢とナイフと私のヴォルケイトスで狙撃しましょう。 接近戦闘系のみなさんは、支援と触手からの防御をお願いします」

此方に気付いていない茸に聞こえないように、綾が声を潜めていった。だが、皆が頷く前に、第三者の声が割って入った。

「誰だ……」

慌てて綾が口を閉じたが、声は容赦なく茸の方から響き来た。しかも、そう敵対的ではない口調である。小さくて全ては聞き取れないが、茸は確かに喋っていた。

「……か? 今回は随分早いな……。 どうして隠れているのだ?」

「……! 動けるのか?」

エドスが思わず驚きから声を発した。さもありなん、巨体を揺らして、茸はゆっくり近づこうとしていたからである。綾がふと横を見ると、カシスが蒼白になって震えていた。

「カシスさん?」

「……何でもない。 速攻で倒してこの場を離れよ?」

「言われずとも!」

小さく叫ぶと、スウォンが飛び出した。茸が足を止め、驚きに彩られた声を上げた。

「誰だ、君は?」

「僕の名はスウォン! 貴様のせいで命を落とした、父さんの仇を取らせてもらう!」

「……私は身を守るために必死だった。 今もまた、生きるために全力を尽くしたいと考えている。 君の父君に起こったことには哀悼の意を表する。 しかし、死ぬわけには行かないのだ。 消えてくれ。 さもなくば、全力で排除させて貰う」

茸は淡々と言葉を紡ぎ、激発したスウォンが矢を放った。矢は鋭い音を立てて茸に迫ったが、素早く振り上げられた触手の一本を貫くに留まった。そのまま茸は口を開け、大きく息を吸い込む。

「スウォン君! さがって!」

綾が叫ぶが、完全に頭に血が登った少年はそれを無視し、第二の矢をつがえようとしていた。無言のまま綾は彼に飛びつき、地面に押し倒す。その頭上を、赤い液体が筋を引いて飛んでいった。それは木にぶつかり、煙を立てながら垂れ落ちていった。異臭が辺りに立ちこめる。

胞子を飛ばすのなら厄介であったが、どうも液体がかからねば狂気に陥ることはないらしい。茸に非常によく似ているが、根本的な性質は異なる生物であった。今の攻撃でそれを確認した綾は、第二の攻撃が来る前に、スウォンを引きずって今の攻撃から割り出した安全圏内に待避した。

「動きは案外鈍いです! 後方に回り込めば、今のを浴びることもありません!」

「よっしゃあっ!」

ジンガ、エドス、それにレイドが遮蔽物から飛び出し、大回りに茸の後方へ回り込む。同時に綾は、隣で唇を噛んでいるスウォンと、側で機会をうかがっているガゼルとカシスに言う。

「私はチャンスを見て召喚獣での攻撃を打ち込みます。 スウォン君と、ガゼルは、接近戦組の援護を。 カシスさんは、敵の攻撃を軽めの召喚術で牽制してください」

「よし、まかせろっ!」

後ろに回り込んだ三人は、各々の武器を振るって茸の体を容赦なく打ち据えている。茸は振り向いて反撃しようとするが、その度にガゼルとスウォンがナイフなり矢なりを叩き込み、自由な動きを阻害した。だが、茸の体はかなり丈夫で、それだけでは埒が明かなかった。カシスが時々ねらい澄ました剣での一撃を触手に叩き込んでいるが、それも有効打にはなり得ない。

「アネゴ、此奴思ったよりずっと硬い!」

ジンガが舌打ちし、バックステップして後退しようとしたが、触手が彼の体を追撃し、的確に捉えて一打ちした。野性的な素早い動きで、カシスが阻害する暇もなかった。触手はかなり太く、その動きもまた早い。木に叩き付けられたジンガはくぐもった声を漏らし、茸は振り向いて液体を吐きかけようとする。だが、エドスがその体に組み付き、触手に打ち据えられながらも叫んだ。

「今だ! アヤ、やれっ!」

「……! エドス、避けてくださいっ! 誓約において、樋口綾が命じる。 ヴォルケイトスよ、我の敵を殲滅したまえ!」

そのまま綾は、唱えていた召喚術の、最後の一節を紡ぐ。空間に歪みが生じ、黒い穴からヴォルケイトスが巨体を現した。そのまま彼は巨大な口を大きく開き、その中にある無数の目で茸をにらみつけた。そして、今までよりも二周りほど大きな光球を、敵に向けて叩き付けたのである。一瞬早く、エドスが離れ、綾は内心ほっとした。

ぎゃああああああああああっ!

閃光が炸裂し、凄惨な絶叫が響いた。体が重いと言うことが災いし、茸はその強烈な光の一撃を、全て体で受け止める事になったのである。柄の半分が欠け、傘の半分が吹き飛び、体液らしい汁が激しく飛び散り垂れ落ちた。体が傾き、動きが目に見えて鈍る。さらに追い討ちを掛けるように、レイドが傷口に剣を横殴りに叩き付けた。茸の絶叫は更に大きくなり、大きな目から涙を流しながら、触手を振るって辺りを打ち据える。レイドが、ついでエドスがそれに吹き飛ばされた。激しい苦痛にもだえながら茸は無茶苦茶に液体を辺りに吐きかけ、彼方からも此方からも煙が上がった。ゆっくり立ち上がったスウォンが、強烈な怒りを目に宿しながら、矢を放つ。それはまごう事無く、茸の一つ目を直撃した。断末魔の悲鳴が上がった。そして、茸の抵抗は、それきり止んだ。

 

「……私の負けだ……」

綾の前で、ボロ雑巾のように崩れ果てた茸は、喉の奥から声を絞り出すように言った。そして、そのまま、静かに続ける。

「……醜いから。 そう言って召喚師は私を荒野に捨てた。 私は必死に這いずって、生き残れるこの場所まで逃げ込むことが出来た。 だが……確かに私は力の使い方を間違えたのだろうな……其処の少年よ、許して欲しい……。 父君は……確かに私の弱さが故に死んだ。 私を好きなだけ、恨んで欲しい」

誰もが言葉を発しなかった。結局誰もが自分のために戦っていること、そしてこの茸も間違いなく被害者だと言うことを悟ったからである。

「……一つ末期の願いがあるとすれば……故郷に……帰りたかった……。 仲間達がいて……森が苔に覆われていて……静かに暖かくしめっていたあの森へ……この森は……寂しかった……怖かった……一度で良いから……こ……きょう……へ……戻りたかった……」

「名前は……絶対に忘れませんから……」

一歩踏み出した綾が、崩れた傘に手を置きながら言った。茸は、その手に、震える触手で触れながら言った。

「私はトードス……温かい手の……娘よ、君もはぐれ召喚獣……だろう? ……辛い戦いをさ……せてすまなかった……そして……ありがとう。 オル……ド……ク……すまな……にど……とあ……えそ……う……にない……」

茸の言葉は、それにて絶えた。綾は傘にすがると、静かに声を立てずに泣き始めた。誰もそれを止める者はいなかった。同じ境遇にある者を、葬らざるをえなかった綾のつらさがどれほどか、痛いほど分かったからだった。

「……せめて、埋葬してあげましょう」

自らも涙を拭いながら、スウォンがそう言った。それに反対する者は誰もいなかった。

 

十数時間後。森の最新部に、空飛ぶ生き物に乗り、男が飛来した。そして、彼は見た。埋葬された友の姿を。簡単な墓標には、こんな言葉が書かれていた。

《トードス。 偉大なる戦士、此処に眠る。 せめて魂は、彼が愛した故郷へ帰れることを願って》

「そうか……我が友よ。 間に合わなかったのだな。 すまない……私を許してくれ」

男、オルドレイクは友のために落涙した。そして持参した、トードスが好物にしていた林檎酒を墓標にかけた。そして完成した、彼の友を故郷へ帰すための術を唱えた。

「君を倒したのが、君の境遇を理解出来る者達で良かった……魂だけでも、安らかに」

呪文の最後の一節を唱え終えると、オルドレイクはそう言った。悲しみだけしかもたらさぬ戦いは、この瞬間終わりを告げたのである。

トードスの魂が故郷に帰れたかは分からない。しかし、はっきりしていることがある。オルドレイクの心に、今まで以上に激しく、現行の世界への怒りが灯ったことである。トードスを直接殺した者達には、さほど怒りは感じなかった。しかし、トードスを追いつめた召喚師と、その存在を許している現行の世界を、オルドレイクはもはや絶対に許すことがないだろう。

「約束の地建設を、いそがねばならないな」

オルドレイクは立ち上がり、そう呟いた。地獄の業火と言うも生ぬるい、灼熱のフレアを瞳の奥に宿して。

 

3,違和感

 

「オルドレイク様、どちらへ?」

「少し野暮用がある。 我が友を屠った者を見てこようと思ってな」

「お気を付け下さい。 蒼の派閥、金の派閥、共に本腰を入れ始めております」

「ふっ、私に護衛が必要だとでも? 案ずるな、同志ザプラよ。 奴らの刺客などおそるるに足らぬ。 まして今の奴らには、君も居ないのだからな。 ……話が通じぬような輩であれば、その場で始末してくる」

迷霧の森の奥、オルドレイクはザプラにそう答えた。彼が指を鳴らすと、殆ど間をおかず、彼の目の前にメイトルパの召喚獣の中でも最速の部類に入る生き物が降り立った。大きな翼を持つ鳥であり、四本の足と額にある蒼い瞳が特徴である。言葉を話すことは出来ないが、知能は低くなく、またオルドレイクの能力で意図を問題なく伝えることが出来る。種族はロックスワロウと呼ばれ、この個体はユローと呼ばれていた。

オルドレイクの護衛獣は、十五年も前に死んだ。ザプラの護衛獣は、無色の派閥に入る時に死んだ。最近護衛獣を得たトクランやクジマ、それにラーマと違い、彼らはもうパートナーと死に別れていたのである。親愛の情を示して、頭をすりつけるユローを優しく撫でると、オルドレイクは愛用の大剣を背負い、召喚獣の背に跨った。

「二日以内に帰る。 同志ザプラよ、それまで何かあったら幹部会で決めるように」

「はっ!」

敬礼するザプラを背後に、オルドレイクは高空へと飛び立った。彼の目的は、トードスを倒した者達。その中でも、致命傷を与えたことが間違いない娘だった。

彼らの正体は、ザプラの報告で既に掴んでいる。カシスも其処にいることは分かっているが、現時点で彼女に用はない。用があるのは、アヤと呼ばれる、不可思議な力を使いこなすはぐれ召喚獣の娘だった。

 

「アヤの様子はどうだ?」

「普通に釣りに行ったわよ。 大丈夫、あの子確かにそんなに強くないけど、時間経てば一人で立ち直れるから」

「そうか」

フラットのアジトで、レイドがそんな事を言い、リプレが平然と応えた。綾が加入してから、フラットは俄然活力と発展性を得たと言って良い。新しい仲間の加入はもちろんのこと、以前は戦々恐々としていたオプテュスに怯える必要もなくなり、また経済情況も若干改善しつつある。ジンガは時々繁華街に出かけては賭け試合で稼いでくるし、綾は釣りで魚を獲てくる。また、この間の一件以来スウォンは多めに取れた獲物を分けてくれるので、食費は大幅に浮くようになった。最近はガゼルが目立ってアジトにいるが、それが意味することは何か明かであろう。彼が非合法手段で荒稼ぎせずとも、大丈夫な状態になったのである。ただし、長期的な経済はまた別だ。子供達が成長したときの言を考えると、更に蓄えをする必要があり、そのためには皆が更に稼ぐ必要があるだろう。

綾は自身が時計であるかのように、同じ時間に出かけ、同じ時間に帰ってくる。流石に釣果は毎日同じというわけには行かないが、それでも毎日安定した量を持ち帰ってくる。彼女の釣る魚はよく売れたし、また食べるにも申し分なかった。おもしろみがない生活行動であったが、それを下らないと言い切れるだろうか。それによって助かっている者達がいるのは事実で、必要にされているのも事実なのである。綾におもしろみは確かにないが、おもしろみだけが人の価値ではない。ただ問題なのは、肝心の綾自身が、それに全く気付いていないと言うことであった。

「実際、あの子、凄く良い子なのにね。 綺麗で可愛いし。 少しは自分の魅力に気付けばいいのに」

「ああ。 安心して物事を任せられるタイプの人間だ」

「それはまずいわよ。 頑張りすぎないように見張ってないと、倒れるまで頑張っちゃうタイプでもあるから」

「……確かに、その通りだな」

リプレの言葉に、レイドは全面的な賛意を示した。レイドも、リプレの人間観察の巧みさには到底及ばないと認めているのだ。

「それよりも、彼女が帰るあては出来たのだろうか」

「あの様子だと、暫く先送りでしょうね」

「……一度カシスに相談するように、私から声を掛けておこう。 あの性格だ、誰かに押されないと、自分からは遠慮して実行しないだろうからな」

「誰か背中を押してくれる人がいれば、これ以上もないほど頑張れる子よ。 でも、同時に自分一人じゃ殆ど何も出来ない子でもあるわ」

リプレの言葉に、悪意も哀れみもない。最近では自分で何もかも決めて行動する人間がもてはやされる傾向があるが、そんなことが出来る人間など現実問題ほんの一握りだ。そう言った行動が出来、なおかつそれに責任を取ることが出来る人間は、集団の長となり、社会の上部へはい上がることが出来る。新国家を建設するような英雄は、皆こういうタイプの人間だと言っても過言ではないだろう。つまり、自分で決定出来ない人間をクズ扱いするというのは、身の程知らずの愚行か、そうでなければ極論に近い選民思想なのである。無論そんな愚劣な考えを抱く者は、フラットには一人もいなかった。

ただし、同時に何一つ自分では決定出来ないと言うのも考え物である。それは純粋な弱さであり、何かしらそれを補う工夫が必要になるだろう。ただし、強い人間同様、強くなれる人間もまた少ない。本当に弱い人間に対しては、周囲が補助をする必要が生じてくる。そして、得意とする分野を延ばしてやる工夫もまた必要となるだろう。肉体であろうと、精神であろうと、同じ事である。肉体的な弱さは擁護するのに精神的な弱さは罵倒する人間がいるが、それは極めて不公平な行動である。

綾の場合、何かしら背中を押す者があれば、緻密な頭脳に基づいて決断をすることが出来るが、平時においてはほぼ何も出来ないに等しい。本人がどう思っているかは別として、これ以上もないほど戦場向きの性格であり、乱世に暮らすのに適切な特性だった。事実、綾が最大限必要とされるのは、戦場においてなのだ。しかし、そうでない状況下でも、綾を包み込める度量を、幸いフラットでは持ち合わせていた。世に数ある集団の中でも、それは少数派にはいるだろう。綾は、運が確かに悪かったが、肝心な所ではむしろ強運だったのである。もし仮に最初に所属した組織がオプテュスだったりすれば、着実に破滅へと突き進んでいたであろう事は疑いない。

リプレやレイドの思惑など知るはずもなく、綾はいつも通りの時間に帰宅してきた。当然のように沢山の魚を下げており、子供達に笑顔で釣りの様子を説明している。レイドは咳払いすると、綾を居間へ呼び、そして表情を改めた。

「アヤ、どうだ? 故郷へ帰るあては?」

「それが……」

「そうか、一度カシスときちんと相談しておいた方がいいかも知れないな」

綾は俯いていたが、やがて静かに頷いた。彼女にとって、もう一つの(塔)と出会う、最も長い日の一つが、この瞬間始まっていた。

 

カシスの部屋には相変わらず気配が無く、外からは居るかどうか分からない。子供達、特にラミはこの部屋の前に来るのを今でも怖がるので、時々綾は夜などトイレに手を引いて連れて行くことがあった。

『私、力を使えるようになってから、少し気配とか読めるようになりましたが……それでも全く分かりません。 もしカシスさんと本気で戦うことになったら、多分勝てませんね』

そんなことを考えながら、綾は戸をノックした。全く気配がしないまま、中から誰何の声と、続いてこんな言葉が響き来た。

「あ、アヤちゃん。 何?」

『す、鋭い……顔を見せるどころか、何も言っていないのに……』

「ええと、少しお時間よろしいですか?」

「何遠慮してんの。 アヤちゃんだったら、いつだって大歓迎☆だよ」

困ったようないつもの笑みを浮かべながら、綾はカシスの部屋に入った。相変わらずまるで生活感のない部屋で、いつ入っても殆ど物が動いた形跡がない。特にランプの油は、殆ど減っていない。まるで、殆ど使っていないかのようである。

『ランプ、ひょっとすると誰か来たときしか付けていないのでしょうか』

「何考えてるの? あ、ははーん、さては誰か男の子のことだな? ああ、私というものがありながら……涙が思わずちょちょぎれるなあ」

大げさに涙を拭う動作をするカシス。綾は精神的に一歩退きながらも、必死に自問自答した。

『こ、ここはひょっとして笑う所なのでしょうか』

綾の思惑など知ったことかと言った様子で、笑みを浮かべてカシスは返答を待っている。綾は胸をなで下ろすと、一番無難な返事を返すことにした。

「違いますよ。 カシスさん、私、どうしたら帰れるのかなと思って」

「まだ研究進んでないから、もう少し待ってくれる?」

「これ、役に立ちますか?」

「ん? どれどれ?」

そういって綾が渡したのは、以前魔法陣を調査した際の写しだった。カシスは一瞥すると、首を横に振った。彼女は余白に複雑な文字を三種書きながら、淡々とそれについて説明する。

「駄目。 この文字か、この文字、それにこれ。 考えられるだけでも、三種類の魔法文字と一致してる。 気休め程度の参考にしかならないよ」

「そう……ですか」

「どうして悲しそうなの?」

「え?」

綾の眼前で、カシスは不思議そうに小首を傾げていた。

「だって、簡単に分かる事じゃないって、アヤちゃん知ってるでしょ?」

「それは……でも、やはり帰れないと分かるのは悲しいですから」

「ごめん、さっぱり分からないや」

さらりとカシスは言い、いつもの笑みを浮かべた。綾はリプレに言われたことを思い出し、無理に笑みを造って話をずらした。

「あの、何でしたら魔法陣の調査に行きませんか?」

「そうねえ。 参考になる本買うとなると、多分二百三十年くらい魚釣りして稼がないと無理だから、その方が現実的かな」

カシスはナイフを取りだし、鞘に収めた。メモを懐に入れ、靴のつま先を叩いてはき直す。そして、驚く綾の前で、そのままつかつかと玄関へ歩き始めた。

『か、カシスさん、機動力高い……』

「早く行こう。 夜になっちゃうよ」

「は、はい」

綾は慌てて刀を手に取ると、手近にいたリプレにだけ外出することを告げ、そのまま玄関に走った。妙齢の女性としては、カシスの機動力は信じがたいレベルである。それに比べて自分はどうか。また一つ劣等感を覚えた綾は、胸が痛むのを感じた。

 

もう既に行った場所であるから、綾は道に迷うこともなく進むことが出来た。カシスと二人きりになる事は時々あったが、ここまで孤立した情況で二人きりになった事は一度もない。

『また、いやらしい冗談を言われるのでしょうか。 この状況下で、それだけは勘弁してください……』

カシスの一歩後を歩きながら、綾はそんなことを考えた。だが、意外にも普段は面白がってセクハラをしまくるカシスが、今日は押し黙っている。少し安心した綾であったが、今度は異様なまでに長い間が気になり始めた。普段は良く喋るのに、今日のカシスはねじを巻き忘れたかのように寡黙であったからだ。

「カシスさん」

「何?」

「カシスさんって、どんな子だったんですか? ちっちゃな時とか」

「物心ついた頃には、召喚術の勉強してたよ」

微妙な間が、違和感と共に漂った。歩きながら、綾はそれに捕捉を試みた。

「好きなお菓子とか、お人形に名前付けたりとか、しなかったんですか?」

「うーん、私の周り、召喚術しかなかったから」

リプレの言葉を、綾は無意識レベルでもう一度反芻していた。カシスがまともな環境で産まれ育たなかったというのは、今の返答で裏付けされた形になる。今まで見聞きした情報では、召喚師の生活は貴族レベルであるから、その子弟がそのような生活をしているわけがない。ぬるま湯のように緩い環境下で、必要なだけ召喚術を学んでいるのが事実だろう。かといって一般人が、召喚術の勉強などするはずもないのだ。綾は頭を振ると、その裏付けられた証拠を払拭しようと、更に質問を試みた。それによってもたらされる結論が、単純に怖かったからである。

「フラットの子達、どう思いますか?」

「自由で羨ましいよ。 でも、何も技能身につけないで大丈夫かなーって思う時もあるよ」

「技能、ですか?」

「何があっても生き抜ける力とか、どんな街にでもとけ込める力とか」

そのようなもの、ますます普通の環境下で学ぶはずも必要もない。証拠はますます強固な地盤を有していく。綾は苦痛を感じて、視線を逸らした。カシスの過去が怖くて、でもそれが申し訳なくて、まともに視線を向けられなかったのだ。不意にカシスが足を止めたので、綾は反射的に刀に手を掛けた。遠くから、巨大な剣を担いだ男が歩み来る所だった。長い髪で顔の半分を隠した大柄な男で、赤い重装鎧を着込み、しかもその重さを感じさせぬ歩みで近づいてくる。露骨に彼に敵意を向けるカシスを、綾は慌てて窘めた。

「カシスさん、そんな、失礼ですよ」

「荒野で遭遇した相手は、はぐれ召喚獣か盗賊の可能性が非常に高いよ。 覚えといて」

「慎重なことだな。 まあ、無理もない話だ」

平然と会話に割り込むと、男は二人から十メートルほどの位置で足を止めた。そして値踏みするように二人を見回し、重々しいバスで語りかけた。

「俺はラムダ。 この辺りは不審者が多いので見回っている。 ……お前達は何者だ」

「私は樋口綾、この人はカシスといいます。 すみません、ここに調べ物に来て居るんです」

「アヤちゃんっ!」

厳しい口調になったカシスを右手で制止し、綾は前に一歩出た。どう見てもこの男は強い。無駄な戦いは出来るだけ避けるべきだと、彼女は判断したのだった。

「迷惑は掛けませんから、此処を通して頂けないでしょうか」

「此処は俺の私有地ではない。 好き勝手にとおるがいい。 ただし、分かっているだろうがこの辺りは危険だ。 夜にははぐれも出るし、近くには物騒な大穴もある。 あまり長居するのは賢明ではないな。 用を済ませたら、すぐに帰った方がいい」

「有り難うございます」

いつも通り完璧な角度でお辞儀をすると、綾はカシスの手を引き、男の横を通り過ぎた。男は何もせず、二人をゆっくり見送った。カシスは今にも刺し殺しそうな目つきでラムダを見やっていたが、やがてその姿が見えなくなると綾に噛みついた。

「アヤちゃん、不意つかれたらどーする気だったの!?」

「その時は、二人がかりで撃破するだけです。 大丈夫、あの人は強いけど、二人がかりならきっと何とかなりましたよ」

「……」

『この警戒よう、誰かに追われでもしているんでしょうか……』

その考えでさえ、綾にはもう杞憂だと思えなくなっていた。事実、あの男に敵意がないのは戦闘経験が明らかにカシスに劣る彼女でさえ分かったのだ。カシスに分からなかったはずがない。見えない何かに怯えているようなその反応は、純粋に痛々しかった。

黙り込んだカシスの手を引いて、綾は更に先に進んだ。程なく、クレーターが、途上にその姿を見せたのだった。その途中、綾は不意に、カシスがとても小さいような感じを受けた。戦闘時の冷静さや、普段の発言からは信じられない、そう夜闇に怯えてトイレに一人で行けない子供のような感覚を感じたのである。

振り向くと、視線の隅で、カシスは無表情だった。虚無こそ無かったが、あの笑みもまたなかった。そしてそれこそが、カシスの真の表情のような気が、綾にはしていた。

 

4,二つの魂

 

カシスは無言のまま、クレーターと魔法陣の残骸を調べ始めた。クレーターの底には雨水がたまっていて、その水には得体の知れない油膜が浮いていた。魔法陣も殆ど残骸というレベルでしか残っておらず、素人である綾の目から見ても情報が得られるとは到底思えなかった。

程なく、カシスは肩をすくめて首を横に振った。予想通りの反応であり、綾はもう失望しなかった。

「駄目。 私の知識じゃ、どーにもなんない」

「そうですか。 では、少し休んでから帰りましょう」

「……今度は悲しくないの? 無駄足だったのに」

「今回は、心の準備が出来ていましたから」

笑みを浮かべて綾は返したが、やはり少し悲しかった。以前ガレフ戦の時もそうであったが、カシスは休むときには何一つ発言しない。その横顔をちらちらとみながら、綾は心の中で呟く。

『二人きりになれたんです。 ……聞いて見なきゃいけないことがあるんです』

この世界に呼ばれたときに聞こえた声。あれは今思い出すと、確かにカシスの物だった。そして、冷静で強いはずのカシスは、子供のように助けを求めていた。声には、想像を絶するほどの絶望が含まれていた。三回深呼吸すると、綾は呼吸を整え、なけなしの勇気を総動員した。

「……カシスさん」

「うん?」

「私、この世界に呼ばれたとき、声が聞こえたんです」

「召喚獣は、声に導かれてくるって話だよ」

さらりとカシスは応え、黙り込んだ。しかし一度勇気を振り絞った綾は、ロケットエンジンを積んだ車同様、簡単には止まらなかった。

「私、思うんです。 私がこの世界に来たのは、ひょっとしたら事故じゃなかったんじゃないかって。 その声に呼ばれたからじゃないかって」

「私の言うこと、信用しないんだ。 ひどーい! ひどいよ、アヤちゃん」

「その声……カシスさんの物だったような気が、私にはしてならないんです」

このとき、初めてカシスの顔に動揺が走った。嘘泣きをした振りをしていたのに、それもどこか時空の果てに消し飛んだ。綾は、畳みかけるように、だが優しい口調で続けた。

「……本当のことを話してください、カシスさん。 カシスさん、私のことを見張っていたんじゃないんですか? 私がこの世界に呼び出されてから、ずっと」

「……」

カシスはナイフに手を伸ばしかけ、そのまま静止した。その時、初めてカシスの顔に、例の無表情が露骨に浮かんだ。カシスの手が震えている、そのまま彼女は、珍しく動揺しきった声を絞り出す。

「しょ、証拠は?」

「……まず第一に、あまりにも都合良く私達とオプテュスの戦いの場にいたこと。 ここをちょくちょく調査に来ていたとしても、タイミングがあまりにも良すぎます。 第二に、このクレーターの爆発の規模から言って、外側にいた位では絶対に助かりません。 第三に、あまりにも私のことを良く知りすぎていました。 第四に、普段から気配が薄すぎます。 ひょっとすると、今でも私のことを影から監視しているのではないですか? 第五に、見習いというにはカシスさんは強すぎます。 以前マーン家のイムランさんと交戦したことがありますが、一流の召喚師のはずなのにカシスさんの三分の一程度の実力しかありませんでした」

カシスはそのまま、地面にへたり込んだ。肩がわなわなと震えている。絶望に支配された様子であり、額からは汗が垂れ落ちていた。

「……せめて……楽に」

「え?」

「お願い……あまり苦しく殺さないで……ひと思いにやって……代わりに何でもするから……どんな屈辱的なことでもするから……だから……」

「私、そんな事しません。 カシスさんを、殺したりしません」

「……!」

明らかな怯えの表情がカシスの顔に走った。普段の朗らかさはどこかに消え去り、そこにいたのは哀れな子供だった。恐怖に怯える子供だった。無力な様子で、カシスは首を横に振り、背後の岩にすがってがたがたと震えた。綾は自分の言葉がどう解釈されたか悟り、慌ててフォローした。この様子から言って、カシスが死ぬより酷い目に遭わされると思った事に間違いなかった。

「……そ、それに、カシスさんに酷いことだってしません! 約束、約束します!」

「アヤ……ちゃん……!?」

「私、カシスさんの冗談は怖かったです。 それに、時々覗く、虚無の表情は怖かったです。 でも、友達だと思ってます! 仲間だって思ってますっ! フラットのみんなだって、カシスさんが正式に仲間に入りたいって言えば歓迎してくれるはずです! だから、だから……! 本当のことを、教えて下さい……」

綾が渾身の力を振るって言い終えると同時に、カシスの目から涙がこぼれ落ちた。そしてそれは次から次へとあふれ出し、止まる気配もなかった。綾の目の前で、いつも度が過ぎた明るい娘として振る舞い、まるで弱みなど見せなかったカシスが、両目から涙を溢れさせているのだ。そのままカシスは前のめりに倒れ、綾は慌てて受け止めた。綾の胸で、カシスはまるで子供のように震えていた。そこには強さなどひとかけらもなく、ただの原初的な恐怖だけが存在していた。それがただ哀れだと感じた綾は、カシスが落ち着くまで、そのまま抱きしめていた。服が濡れるのも、厭わないで。

 

「ありがと。 ……おちついたよ」

暗がりに移動した二人は、しばし無言だった。小さな岩に腰掛けて、綾は無言で、だが保護するようにカシスを見ていた。カシスは平べったい岩の上で横たわり、右手で目の上を覆っていたが、やがて綾に向けて無表情のままそう言った。それが自然に、怖がりながらも自分を見せてくれていることだと気づき、綾は少しだけ嬉しくなった。

「……私ね、君のことつけてた。 ……ごめんね、君の言うとおり」

「カシスさん……」

「君が危険かどうか、確かめる必要があったから、つけてたんだ。 ごめん……許して……」

しばしの無言の後、カシスはまたぽつりぽつりと話し始めた。普段と違い、素のカシスは言葉に殆ど無駄がない。また、いつもと二人称も違った。そして、綾同様、自身に全くと言って良いほど自信がないことが、言葉の節々から伺えた。表面的には正反対であったが、深奥で綾とカシスは非常によく似ていたのである。

「結論から言うと、君は危険じゃない。 でも、君の力は危険すぎる。 だから、必要とあれば処分しようかって考えてたんだ」

「……やはり、そうだったんですか。 時々殺気を感じていました」

「はは、気付かれてたんだ。 君としばらく過ごして、私思ったんだ。 君の力ははっきりいって危険すぎる。 でも、君は危険じゃないって。 君といると楽しいって。 私、殆ど感情って呼べる物がないんだ。 この間、ようやくそれが目覚めて、それ以来自分の感情が起きるのが楽しかった。 だから、君が本当に怖がっているのを承知で、性的な冗談をわざと言ってた。 私、隣人として君が好きだった。 だから本当に、君を帰してあげたいと思ってたんだ……最近は特に」

カシスは表情に乏しかったが、しかしその中に自嘲的な笑みが浮かぶのを綾は見逃さなかった。

「ごめん、これ以上は話せない」

「ううん、それだけで充分です。 ありがとう、カシスさん」

「本当に許してくれるの? 私は死神かも知れないよ? まだ沢山、色々隠しているんだよ?」

「隠し事なんて、誰にだってあります。 私の習い事の先生で、真面目な男の人がいたんです。 その人の趣味は、女装で、女の人の服を着ると本当に綺麗になるんです。 でも、その人はそれを知られることを怖がって、誰にも話しませんでした。 ……リプレにだって、ガゼルにだって、エドスにだって、レイドにだって……私にだって、秘匿したい事なんて山ほどあります、あるはずです。 だから、カシスさん」

カシスはもう一度目尻を拭って、半身を起こして言った。

「……君の笑顔、素敵だと前から思ってた。 今度教えてくれると嬉しいな」

「はい」

「それと、私のことを呼び捨てしてくれると……凄く嬉しい」

「分かりました。 フラットのみんなも、きっとそういえば喜んでくれますよ」

今まで一緒に住んでいるだけの関係だった二人が、そうではなくなった瞬間だった。そしてそれは、カシスにとっても、綾にとっても、光ある未来への契機となる出来事だった。

 

5,邂逅する塔

 

肌寒い空気が辺りの地面をなで始めた。太陽の位置もさがり、後三時間もあれば陽が沈む。綾はカシスを促すと、帰途についた。結局元の世界に帰る術は見つからなかったが、カシスと心をつなぐことが出来たのだから、良しとするべきなのであろう。少なくとも綾はそう思った。

「アジトに戻ったら、みんなきっと喜びますよ」

「そうかな? 私の事、みんな怖がるんじゃない?」

「子供達には、まだ真実を話すのは早いですね。 しかし、大人の皆は違うはずです」

綾の笑みを見て、カシスは安心したように俯いた。更に綾が何か言おうとした瞬間、カシスが彼女の前に出て制止した。一瞬遅れて、綾も刀に手をかけ、鯉口を切る。

岩陰から現れたのは、バノッサの部下達だった。数は十名、いずれも剣や槍で武装している。先頭にいるのは、時々見かける、例の小隊長格だった。

「……よぉ、こんな所に二人きりで来るたあ、随分不用心じゃねえかよ」

「貴方は、バノッサさんの」

「てめえらのせいで、俺達は毎日のように兄貴の八つ当たりくらってんだ。 最近じゃ、カノンの野郎でさえ兄貴のイライラを押さえ切れねえ。 何もかも、てめえが来てからなんだよ……どうしてくれるんだっ!」

「そんなの、私のせいじゃありません」

綾は静かに言ったが、馬の耳に念仏というのが目の前の事例だと、嫌と言うほど理解していた。オプテュスの一人が進み出、ナイフの刀身をなめ回しながら言う。

「ヤルフト、もうご託は良いんだよ。 さっさと殺って、沼に沈めちまおうぜ」

ヤルフトと呼ばれた男、例の小隊長格は頷くと、さび付いた青龍刀を鞘から引き抜いた。他の者達も、今までにないほど露骨に殺気を放っている。綾達を殺すつもりであるのは、明白である。

「殺る? なんなら、私が」

目を細めて、無表情のままカシスが言った。綾には、もし彼女が本気になればそれが苦もないことだとすぐに分かった。だからこそ、阻止しなければならなかった。

「駄目です。 一旦二手に分かれて、各個撃破しましょう。 どうしても駄目な場合以外、殺してはいけません。 合流はこの地点で」

「分かった。 君がそういうなら」

どちらかに兵力が偏れば、文字通り各個撃破の好機である。綾が口の中で小さくカウントダウンをし、それが終わった瞬間見事に息を合わせて二人は別々の方向に飛び退いた。

「逃がすなっ! 四人は俺に続け! 残りは茶髪の方だ!」

ヤルフトが叫び、死の追いかけっこが始まった

 

綾は太陽をみながら、東へ東へと走った。人が居ない方向へ誘導したいというのもあったのだが、出来るだけ長く走って敵を分散させたいという意図もあった。しかし振り向くと、敵は意図的に一塊りに追ってきていた。各個撃破戦法で今まで何度もやられている分、流石に耐性が出来てきたのだろう。

『……。 流石に何度も引っかかりませんね』

心中で呟くと、綾は交戦するのに適当な地形を探した。後ろに回り込まれない場所が、この場合は最も望ましい。だが、まもなく失策だと悟った。東は文字通り何もない場所で、岩一つ川一つ辺りにはなかった。敵はフォーメーションを崩さず、悠々と追ってきている。迂回して帰り、先ほどの岩場で交戦することも考えたが、それも巧くいくまい。そしてこれ以上東に行くと、日没までに帰れなくなる。覚悟を決めて、綾は振り向いた。

「堪忍しろ! 女ァッ!」

絶叫しながら、ヤルフトがつっこんできた。純粋なパワーに関しては、まだ綾はこの男に劣る。また、他の敵達も、一斉攻撃のフォーメーションを崩さずつっこんでくる。綾は小さく息を吸い込むと、最低限の威力で砲を彼らの足下の地面にはなった。乾燥した地面であり、もうもうたる砂埃が巻き起こる。綾はその中に突貫し、一気に抜刀した。そして、そのまま辺りの人影を手当たり次第に叩き伏せた。

これは相手が多人数だから出来る戦術であった。用は周りが誰か分からない情況にしてしまえばいいのである。オプテュスの面々は周囲が味方かも知れないと思うし、逆に綾は手当たり次第に敵をたたけるのだ。初歩的な策だが、効果は絶大だった。砂煙の中、綾は見る間に三人を峰打ちし、そして残る二人を叩き伏せようとした。だが、その瞬間、彼女の足を誰かが掴んだ。そして、力任せに引きずり倒した。

「きゃあっ!」

今綾が叩き伏せた中にいたヤルフトが犯人だった。彼は立ち上がると、綾の頭を踏みつけた。小さく悲鳴を上げる綾の手を別の一人が踏みつけ、刀を遠くへ蹴り飛ばす。舌なめずりしながら、無事だった今一人が、ナイフに陽光を反射させた。

『し、しまった! この人達の頑丈さを見誤っていました……』

そのまま綾の右肩に、灼熱の痛みが走った。ナイフが突き刺さったのである。更に続けて、脇腹に鈍痛が走る。刀を蹴り飛ばした男が、力任せに蹴ったのである。激痛に、綾は意識が遠のくのを感じた。

「か、はっ……」

「今まではてめえで楽しもうとして失敗したが、今度はそうはいかねえ。 てめえは獣よりつええからな。 遠慮無くぶっ殺させて貰うぜ。 ……死ね!」

唇を噛む綾の頭上で、ヤルフトが青龍刀を振り上げた。綾は塔のイメージを思い出したが其処まで到達する事はなかった。飛来した光により、青龍刀がへし折れたからである。青龍刀の残骸が飛び、先端部が乾いた地面に突き刺さる。ヤルフトが誰何する暇も無かった。そのまま現れた大柄な男が、剛腕を振るって彼を吹き飛ばしたからである。誰何したのは、ヤルフトではなく、さっきナイフを抜いた男だった。

「だ、誰だてめえはっ!」

「……人間とはこういう生き物だと知っていても、悲しみは隠せないな。 少数を多数でいたぶり、悦にいる。 大の男が複数がかりで、一人の娘の命を蹂躙する。 ……何度見ても、嘆かわしい光景だ」

男はそのまま、一旦剣を鞘に収めると、巨大な拳を振るって、もう一人、更に一人を殴り倒した。拳の一撃は圧倒的な破壊力で、あの巨体を誇るヤルフトが一撃で地面に伸びていた。彼の持つ剣は巨大で、その刀身からは溢れるばかりの力強い光が漏れ続けている。もう老境に入っている男だが、動きは鋭く、また眼光もしかり。オプテュスの一人が剣を構え、わめき散らした。

「て、てめえもぶっ殺してやる!」

「……忠告しておこう。 今回は鉄拳による制裁だけで許してやる。 だが今一度私に、剣を向けたとき、お前は死ぬことになるだろう」

「ぬかせえええええええええっ!」

結果は男の言葉通りになった。剣を抜くまでもない、というのが事実であった。剛腕が再び一閃し、突っかかってきたオプテュス構成員の顔面を粉砕した。鼻骨を砕かれ、鼻血と前歯の欠片をまき散らしながら、まだ若いちんぴらは崩れ落ちる。残る一人は、意味を為さない絶叫を上げながら、逃げ去っていった。残りの者達も、傷ついた体を引きずるようにして、無様に這いずって逃げていった。

 

「酷い目にあったな。 傷を見せてみなさい」

「はい」

「うむ、これならすぐに直る。 誓約において、オルドレイクが命じる。 プラーマよ、この娘の傷を治せ」

男は柔らかい口調で言うと、まずナイフを抜き、召喚獣を呼び出した。プラーマと呼ばれた召喚獣は、五つの球体が重なり合った形をしており、それぞれから二本ずつ突起が出ていた。その突起から溢れ出た光が綾の全身を包み、それが消えたとき傷も痛みも消え去っていた。カシスが使うリプシーとは、桁違いの回復能力だった。

「あ、あの、有り難うございます。 貴方は召喚師さんですか?」

「私はオルドレイク。 君の想像通り召喚師だ」

「私は、樋口綾と言います。 危ない所を助けて頂き、有り難うございます」

「気にするな。 弱き者を助けるのは、私の主義だ。 そして強き者をくじくのも、私の主義である」

『今時、珍しいほどに正義感の強い人ですね。 とにかく、助かりました』

オルドレイクに助け起こして貰いながら、綾は頭を下げてもう一度礼を言った。だが、オルドレイクの返事は、綾の予想とは異なるものだった。

「……トードスは、最後に何と言っていた?」

「……!」

「彼は私の友だった。 そして彼は、おそらく君の手に掛かった。 ……残留魔力が一致しているからな。 私くらいの召喚師になると、それだけで分かってしまうのだよ。 君の行動が、君の信念に基づくものだというのは、彼の墓標から推測はつく。 私としては、友の最後の言葉を、胸に刻みたいのだ」

綾は言葉が詰まるのを感じた。だが、トードスを倒したときの台詞で、友がいたことは見当がついていた。そして、その友が復讐に来ることも覚悟していたのである。だが、その友は、今現れたその友は、最後の言葉だけを聞きたいという。再び辛い思い出を心の中に再生しながら、綾は言った。

「……貴方に、詫びていました。 二度と会えないことを、許してくれって」

「そうか……」

オルドレイクは天を仰いだ。その頬に一筋の涙が光るのを、綾は見た。オルドレイクはしばし落涙すると、不意に表情を改めて言った。

「君も辛かったのだな。 先の表情で、痛いほどに分かった。 ……人は、結局の所、自分か、自分が大事だと思うものの為に戦う。 私は、私が救いたい者達のため、そしてその者達が暮らすことが出来る世界のために戦う。 君は?」

「私は、私を必要としてくれている人達のために」

「そうか」

オルドレイクの言葉は、大いなる規模に基づくものだった。綾がミクロ的なものを守りたいと願うに対し、オルドレイクのそれはマクロ的なものだった。

「君の守りたいもの、私の守りたいもの。 それが互いを侵し会わねばよいな」

「そう……ですね」

「君は聡明な人だ。 これだけで、私の真意を察してくれる。 トードスと君の守りたいものが交わらなかったのは不幸だった。 これ以上の不幸が起こらないよう、君と私の守りたいものが侵し会わないことを祈ろう。 話すことが出来て、光栄だったよ」

オルドレイクが指を鳴らすと、足が四本ある巨大な鳥がおりてきた。そして一礼すると、オルドレイクはそれに飛び乗り、正に疾風が如き早さで飛び去っていった。

「! そうだ、カシス!」

しばしオルドレイクを見送っていた綾であったが、大事な友のことを思い出し、慌てて駆けだした。プラーマの回復効果は絶大で、傷どころか体力までも回復している。走るのに全く支障はなく、ほどなく合流地点に設定した岩場についた。そこでは腕組みをして憮然としたカシスと、先ほどすれ違った剣士が居た。

「カシス、無事でしたか!」

「アヤちゃん……私は無事。 この人が、助けてくれたから。 殆ど一人で叩きのめしちゃったよ」

「……何。 一人の娘を多人数で袋だたきにしようと言う根性が気に入らなくてな。 では、さらばだ。 あまり長居はしないようにな」

ラムダはそれだけ言うと、大剣を背負い直し、サイジェントの方へ消えていった。

「私も、さっき親切な人に助けて貰いました。 あの人ではありませんでしたけど」

「へー、物好きも世の中には結構居るもんだね。 彼奴は嫌い。 私達のこと、ずっとつけてたんだよ」

「……そうですか。 でも、それはきっと心配してくれていたんですよ。 さあ、夜になる前に帰りましょう」

綾は無事だったカシスの肩を叩き、そのまま帰途についた。

……流石に綾も、オルドレイクと、そしてラムダと、二人と戦うことになるとは、この時点では知るよしもなかった。だが残忍なる運命の神は、互いの守るべきものを侵し会わせ、妥協無き戦いへ進むようにと、着実に卑劣なるコンパスを使い導いていたのであった。

 

迷霧の森に戻ったオルドレイクは、瞑想にいつも使う大岩の上にいた。彼は目を閉じ、全てを断っていたが、やがて静かに目を開けた。

「同志クジマよ、どうした?」

「いえ。 トードスの事で、お悔やみを申し上げに参りました」

「そうか。 有り難う、同志クジマ。 君も一緒に、彼の魂が安らかであることを祈ってくれ」

「はい」

仮面を付けたまま、クジマは頭を下げた。普段は異常な殺気に満ちているこの少年も、同志の前では穏やかである。しばしの沈黙の後、クジマは再び口を開いた。

「……塔は、どうですか?」

「まだまだだな。 まだ破れぬ天井が幾重にも重なっている」

「同志オルドレイク、貴方であれば必ずや破れるでしょう」

「努力してみよう。 それよりも、トードスを倒した者と会ってきた。 彼女も、塔の力の持ち主だった」

驚きに目を見張るクジマの前で、オルドレイクは武人の笑みを浮かべた。

「私も因果なる生き物だ。 聡明で心優しい女性でな、できれば戦いたくないと言う気持ちもある。 だが、成長した彼女と戦ってみたいという気持ちも、厳然としてある。 雑念を払わねば、理想世界の構築にはほど遠い」

「……失礼します」

クジマが気を使ってくれたのは明かであり、鷹揚に頷いて退出を許すと、オルドレイクは再び瞑想に戻った。かって死に果てた森の深奥で、人を超える力を持つ男が、さらなる高みを目指して自らを錬磨し続けていた。

 

(続)