流転

 

序、酸鼻なる戦い

 

蒼の派閥は、リィンバウムに存在する組織の中でも、最も大きく力のあるものの一つである。要は召喚師の組合であり、表面的には(知識の探求と解明のための組合)であるが、そのような組織が此処まで大きくなるわけがない。蒼の派閥は国家レベルでの支援を複数受けるほど巨大な組織であるが、それには当然の理由がある。

蒼の派閥は、召喚術を使った死の商人という顔も持っていたのである。彼らが(学術的見地から)開発する召喚術には当然軍用も含まれるのだ。蒼の派閥の仕事には、国家の要請を受けてそれの改良、強化にも当たる事も含まれている。結果派閥は巨額の見返りを国家から与えられ、召喚師自身の発言力もそれに伴って強化される。更に召喚師の懐にも、途方もないポケットマネーが転がり込むという寸法であった。何から何まで召喚師に都合がいい組織であり、殆どの召喚師は裏の顔を知りながら喜んで派閥に協力し、各地に戦乱の種をむしろ積極的に蒔いている。現在では、リィンバウムに起こる戦乱の三割は蒼の派閥が裏で発生に関与したと言われ、残りの殆どにも大きな影響力を持っているのである。最初は資金難を補うためだったという説もあるが、今の蒼の派閥は喜んでそれに関わっていた。彼らにとって戦争は金蔓であり、民衆の嘆きは甘美なハープの音色だった。

召喚術によっては、一撃で数千の兵士を屠り去るほどの物も存在するため、各国共に蒼の派閥には支援を惜しまず、また蒼の派閥も各国のパワーバランスを見比べながら支援の手を様々に入れ替え、恣に操ってきた。最近では、前線で自ら戦う傭兵といっても良い召喚師の教育、そして貸し出しも行っており、自らも強力な私兵を抱えていた。その私兵が今、酸鼻な現実に直面していた。

 

フライン=ハイバルクは蒼の派閥に属する上級召喚師である。彼自身は召喚師十名以上を含む数百名単位の傭兵団を率い、蒼の派閥の指示で各国の戦場を渡り歩く熟練した実戦指揮官である、とされている。その力と熟達した指揮能力から、蒼の派閥の次期幹部の座が約束されているとも言われている男である。当然その戦歴は実に輝かしい物であったが、今日の作戦は戦歴に泥を塗る物にしかならなかった。

敵は正体不明のテロリストで、(無色の派閥)と名乗っている事だけが分かっている。そして、今まで彼らにより、十近い派閥支部が潰され、六十人以上の召喚師が殺され、多くの貴重な召喚獣に関する情報と知識が奪い去られた。今回はそれに対する報復攻撃であり、敵の行動パターンから推測した本拠地への直接攻撃であった。攻撃目標地点は逃げ場のない洞窟(ナプリの穴)であり、油断無く布陣したフラインは攻撃部隊を再三に渡って洞窟内に送り込んだ。召喚師を含むチームであり、大体の敵には対応出来るはずであった。そう、作戦開始前は皆がそう思っていたのだが、事実は異なっていた。敵は鉄壁の防御を見せ、度重なる攻撃にびくともしなかったのである。

「駄目です! 敵の抵抗は想像以上に激しく、どうしても突破出来ません!」

七度目の突撃が失敗し、半死半生の体たらくで部下達が逃げ戻ってくる。今度の突撃は四名の召喚師と五十名の護衛兵士を含む物だったのだが、そのうちの半数以上が戦死していた。既に被害は一割半に達し、もう敗北といって良い情況だったが、今まで確実に勝てる相手と計画通り勝てる戦いしかした事がなく、柔軟に敗北に対処出来ないフラインは、屈辱に青ざめた。

元々彼はかなり家柄の良い召喚師で、権力欲も強かった。彼と同様の立場にいるライバルは複数おり、明らかに少数である敵に良いようにもてあそばれて敗北したとなれば彼らに対して遅れを取る事になる。兵士の命が云々という感覚はない。社会的地位を当然のように世襲で手に入れ、民衆をゴミとしか思っていない、典型的な貴族的性格の持ち主であるフラインは、自分の事を全てに考えていた。ただ、彼自身は、決して臆病ではなかった。彼は優れたサプレス系召喚師であり、実際にその力は相当な物であった。

「奇襲に備え、陣形を崩すな! 次は私が出る!」

「は、はっ!」

恐縮したように彼の副官が言い、促されて戦場の地図を広げた。洞窟の外に陣取る部隊は、奇襲に備えて厳重な警備を敷いている。隣に広げられているのは洞窟の地図で、今まで判明した箇所と、交戦箇所が記されている。問題は少し広い奥の部屋で、そこで今まで七度に渡って部隊が撃破されたのである。他の箇所でもはぐれ召喚獣による襲撃はあったが、彼の部下はそれを苦もなく撃破していた。

「敵の数は?」

「召喚師が一名、召喚獣が二体です。 一体は翼を持つ百足、もう一体は小柄な騎士だとか。 どちらも想像を絶する強者のようで……」

「小柄な騎士だと?」

嫌な予感を覚えたフラインが目を細めた。彼の知識の中で、最強に近いサプレスの召喚獣に、そのような容姿の持ち主がいたのである。だがそれは(獣王)と呼ばれる、人類が扱える中では最強の力を持つ召喚獣の一体であり、たかがテロリストが扱えるはずが無いとフラインは高をくくった。そしてそれが、彼の寿命を縮めた。

他にも細かい指示を幾つか出すと、直属の精鋭と共に、彼は洞窟に潜った。護衛用に何体かの強力な召喚獣を従え、周囲の兵士達もまた強者揃いである。だが、問題の地点にさしかかろうとしたとき、彼の傍らにいる、六本の鋏を持つ巨大なヤドカリのような召喚獣悪魔レペキアルが、露骨に怯えた声を上げた。この召喚獣も、かなりの強者のはずであり、フラインは少なくとも怯える姿を今まで見た事はなかったのに、である。その隣にいる、銀色の鱗に覆われた、頭部を二つ持つワシのような姿を持つ天使コルテルも、ほぼ同様の反応を見せている。

「惰弱者が……」

嫌な予感をねじ伏せるように言い捨てて剣を引き抜き、広間に入り込んだ彼は見た。巨大な百足の背に乗る女と、銀白色の騎士の姿を。騎士は細長い昆虫のような足を無数に持つ蛞蝓のような生物に騎乗しており、目は三つ。腹には大きな口があり、右手には先が二またに分かれたランスを、左手には大きな目が書かれた盾を手にしていた。ランスからは血が滴っていたが、死体は一つも残っていない。代わりに、百足と蛞蝓がもぐもぐと口を動かしていた。死体は、一つ残らず百足と蛞蝓の餌になったのだろう。そんな事よりも、フラインを恐怖させたのは、騎士の存在だった。それは、彼が伝承の中だけで知る、具現化した恐怖だった。

「ツ、ツツ、ツヴァイレライだとっ!」

「……あら、彼女の存在を知っているの?」

百足の上に乗っていた女召喚師が、ゆっくり視線をフラインに向けた。その右手にはもいだばかりらしい果実があり、囓り後があった。余裕を持ちながら、この女召喚師が戦っていた事がありありと見て取れる。それも当然だろう。

ツヴァイレライ。大魔将と呼ばれる女悪魔騎士で、数いるサプレス召喚獣の中でも最強の一体である。勿論(獣王)の一体に数えられている。

「あ、ありえん! 大魔将ツヴァイレライは、蒼の派閥内でも存在が秘匿されているはずだ! な、なぜたかがテロリストが使役している!」

「そんな事、貴方の知った事じゃないわ。 私、冥土のみやげっていうの、好きじゃないから、教えてあげない」

指揮官の恐怖が、部下や召喚獣にも伝染していく。特に召喚獣は、回れ右をして逃げようとしていた。百足に乗る女召喚師は、それを許さなかった。

「一匹たりとて逃がさないわよ……ゴルゴンズルク! ツヴァイレライ!」

「はっ!」

応えたのは百足だけ、騎士は無言のまま槍を構えた。そして一瞬後にはそれが十メートルほども延び、二体の召喚獣を串刺しにしていた。強固な殻も、何の役にも立たなかった。鮮血と内蔵をぶちまけながら、レペキアルが倒れる。その背後では、胸部を粉砕され壁に叩き付けられたコルテルが、血泡を吹きながら地面にずり落ちていた。更に、フラインの背後から悲鳴が上がる。今の隙に驚くべき早さで背後に回り込んだ百足が天井に張り付き、後衛にいた兵士を頭から丸かじりにしていたのだ。その翼に腰掛けながら、女召喚師が親指を立て、下にぐっと向ける。百足は血まみれの口を開くと、紫色のガスを必死の応戦を試みる兵士達に吐きかけた。それを浴びた哀れな兵士達は、鍛えた技や肉体を見せる暇すらなく、見る間に溶け、骨になって地面へ沈み込んでいった。更にツヴァイレライが残像が残るほどの早さで躍りかかり、ランスで次々に兵士達を貫いていく。蛞蝓は無数の足を凄まじい早さで動かして、騎士の動きを最大限までに加速した。何故部下達が負け続けたか、今更ながらにフラインは悟った。この敵は、蒼の派閥が総力にならないと、とてもではないが倒せる相手ではない。

「て、撤退だ! 撤退っ!」

部下が食われている内に、フラインはゴルゴンズルクと呼ばれた百足の下をくぐり抜け、出口へと走った。後方からひっきりなしに悲鳴が響くが、彼には知った事ではなかった。愚かしい事に、彼はこんな状況下でも、どうやって敗戦の言い訳をするか考えていたのである。彼と共に、数人がからくも洞窟から逃れで、そしてそのまま硬直した。

陣が火の海になっていた。辺りは黒こげになったり、体の一部を失った兵士達の展覧会場だった。周囲には、メイトルパから召喚されたばかりらしいドラゴンが最低十体。その上、その中で佇立する赤黒い巨体は、四枚の翼と鋭い角を持ち、六本の足で大地を踏みつける雄々しき姿は。メイトルパのドラゴンの中でも屈指の実力を持つ存在だった。

溶岩竜王、ゲルニカ。勿論(獣王)の一体である、メイトルパ召喚獣の中でも最強の存在の一つ。高い知能を持ちながら、非常に気性は荒く、その存在は危険の一言に尽きる。獣王クラス召喚獣の中でも、最強の戦闘力を持つ一体であった。

「ゲ、ゲルニカ! ば、ばかな、ばかなっ!」

それが最後の言葉となった。ゲルニカの炎が、彼を部下共々単なる炭の塊に変えたからである。更に追撃が行われ、勝利に慣れた兵士達は恐怖の中ドラゴンの餌となり、或いは生きたまま消し炭になっていった。兵士達の逃げそうな場所には尽く伏兵が配置されており、無数に放たれた偵察用の召喚獣も容赦なく逃げる兵士の位置を報告した。

……蒼の派閥による、(無色の派閥討伐隊)は、わずか四名の生存者を残して壊滅した。

 

「どう、(食肉家畜)に、一方的に虐殺される気分は?」

蒼の派閥の腕章を踏みつけながら、ラーマが言った。彼女の口調は、むしろ穏やかであったが、それが故に内包する怒りは尋常なものではなく、殺気すらもが籠もっていた。芸術的とも言える包囲陣の構築は、彼女の手による物だった。無論トクランも指示に良く従い、ドラゴンを的確に操って敵の損害を増やし、味方の被害を減らした。

ラーマの傍らでは、護衛獣である赤竜ガルトアラーズの背からおりてきたトクランが、わざと炭化した死体を踏みつぶしていた。

「いい気味。 (生贄)の痛み思い知った? ほら、ほら! もっと思い知れクズっ!」

「マスター、何も死者を鞭打つ事はありますまい。 もう彼らは、死によって罪をあがなっております」

「……此奴ら蒼の派閥と、金の派閥の連中は、死んだって罪をあがなえないよ。 でも、ガルがそういうなら分かった。 あんたの顔に免じて止めてあげる」

「恐縮です」

低い声で、静かに言ったのはガルトアラーズであった。赤竜族の中では例外的に高い知能と理性的な性格を持つ彼は、怒りに流されがちなトクランのブレーキになっていた。トクランも、ガルトアラーズの忠告は大事に思っていて、その言う事は良く聞いた。

ガルトアラーズも、トクランは実の子のように思っているようで、その心にある悲しみと怒りに心を痛めていた。そこが単なる忠臣であるゴルゴンズルクと異なる点であった。だがガルトアラーズも、トクランの怒りの根元が人類社会の負そのものにある事を知っていたから、どうする事も出来なかった。

敵の掃討を確認すると、ラーマが言った。元々実際に暴れる事にしか興味がないトクランと、戦略戦術を練り込んで戦うラーマのコンビでは、部下を率いる役目は必然的にラーマに回った。トクランも、別にそれに不満を唱えはしなかった。それぞれが、自分のしたい事を綺麗に分担している形であっただろう。

「同志達よ、損害報告!」

「当方、負傷三のみ。 召喚獣一体が負傷しましたが、回復は可能です」

「そう、それは良かったわ。 では、敵の死体はわざと捨て置きなさい。 総員、撤退開始!」

完璧に作戦が成功した事にほくそ笑むと、ラーマは帰投に移った。サイジェントからそう遠くない場所で、一つの部隊が滅び去り、リィンバウムに衝撃が走ったのであった。

 

1,バトル・オブ・花見

 

アルク川は無数の支流を持つ川である。サイジェントを含む複数の都市から汚水を流し込まれているため、下流に行くとさながらドブのような有様だが、中流から上流にかけては美しいせせらぎを持つ綺麗な川だ。

現在綾が所有しているのはリールのない釣り竿であるから、極端な大物はねらえないし、川幅の広い場所も適さない。かといって、新しい釣り竿を買う余裕などフラットにあるはずもない。現行の釣り竿と道具を極力大事にしながら、食事の助けをするべく奮闘せねばならなかった。釣りは、正確にはそれによる食用魚の確保は、綾が出来る数少ない生活支援作業なのだから。

サイジェントの近くには、幾つかアルク川の支流があり、橋で細長い陸地がつながっている。町中に流れ込んでいる支流は下水も同然だが、街の側には幾つか、細くて綺麗な支流もあった。朝の余裕がある時間、読み書きの勉強を独学でした後、綾はここに釣りに来る。その成果か、ここ数日で綾はすっかり地理に精通し、この辺りは庭も同然になっていた。綾が特にお気に入りにしていたのは、桜によく似た花が咲く一角である。その側には非常に良い釣り場があって、なおかつ花がそろそろ満開になろうとしているため、雰囲気も非常に良かった。桜よりずっと甘い芳香を漏らす花で、花びらも小さく可愛いので、綾はこの花が大好きだった。

今日も綾は、釣り道具を手にここを訪れた。一人でいられる事が、この場所の良さの一つでもあった。だが、今日は先客がいた。木の根本に、誰かが寝そべっている。綾がおっかなびっくりのぞき込むと、何の事はない、それはエドスだった。

「どうしたんですか?」

「うん? おお、アヤか。 何、何の事はない、昼寝をしとるところだ」

「まだ、朝ですよ?」

「がははははは、まあ、気分はいいし、健康的だぞ。 それに、ここは雰囲気もいい」

それに関しては全く同感であったため、綾は頷いた。エドスはそれに対し、半身を起こしながら言った。

「この花は、アルサックっていうんだ。 そろそろ、花見をするのにいい時期だな」

「私の故郷にも、似た花がありました。 (桜)という花で、花びらはこれより一枚少なく、もう少し薫りに甘みが少なかったですね」

「ほほう、どこにも似たような物はあるもんなんだな」

「ふふ、私の故郷の人達も、桜の下でお花見をするのを毎年楽しみにしていましたよ」

自然に笑みを浮かべる綾を、エドスはまぶしそうに目を細めてみた。だが、実のところ、綾に花見に対する良い思い出はない。正確に言うと、まだ優しかった頃の泰三に連れて行って貰った頃の思い出が強烈で、それ以降の桜には悲しみの記憶しかない。花見に連れて行ってと頼むと、泰三は必ず忙しいといった。そしてそれは全くの事実でもあったので、綾はそれ以上何も言えなかった。綾に残ったのは悲しみだけだった。

親に甘えるのは子供の大事な仕事の一つだが、悪い意味で必要以上に良く出来た子供であった綾は、無邪気に甘える事が出来なかった。満開の桜自体は好きでも、楽しく花見をするのが嫌いだというのが、綾の本音だった。しかし、ごく自然に笑みを浮かべる事は何故だったのか。

「丁度良い、花見をしてみんか? カシスとお前さんの歓迎会、せっかくだからここで花見をしながらしよう。 それがいい」

「えっ? えっと……」

「嫌か?」

「ううん、楽しそうですね。 早速リプレに相談してみましょう」

 

最初綾は実行に不安を感じたのだが、エドスは実に楽しそうだったし、リプレはリプレで大乗気だった。というのも、エドスに言われるままリプレを件の場所に案内した所、一目で気に入り、綾に謝辞まで述べたからである。流石にエドスも、リプレの好みや思考パターンは良く心得ている。この辺りは、流石に長期間仲間でいるからであろう。

ピクニックといえど、大の大人が六人に、子供が三人であるから、弁当だけでもかなりの分量になる。綾はそれを持つ事を申し出たが、エドスとガゼルが持つ事にリプレが決定したため、それ以上は何も言えなかった。家事関係では、フラット内部で最大権力を持つのはリプレである。ただ、荒事や難事に関してはレイドが指揮権を持っていたから、これは得意分野ごとに権力を分散しているという事である。大規模な組織では明確なナンバーワンを設定しないのは良くないが、この程度の小規模組織ならそれで充分に成り立つ。

南スラムを出発したのは、昼少し前だった。エドスは軽々弁当を持っていたが、実に楽しそうで、足取りは軽く、鼻歌などをそれに交えている。ガゼルは一見憮然としていたが、実に楽しみなようで、時々そわそわしていた。レイドは子供達を引率しており、リプレはカシスと談笑しながら歩いていた。綾は時々不安を感じてリプレとカシスのやりとりを見ていたが、彼女の故郷の女子高生の会話と大して変わらないので安心した。要は上辺だけのやりとりだが、それが出来るだけでもマシだと、何故か綾は考えていた。少なくとも、二人とも笑みを浮かべて、表向きは楽しそうに話していた。ガゼルは最後尾を歩きながら、その前にいる綾に不意に話しかけた。

「心配したが、楽しそうにやってるな。 安心したぜ」

「はい、リプレとカシスさん、お友達になれると良いですね」

「お前も、もうちったあ俺達に甘えてくれていいんだぜ? 仲間なんだしよ」

意外な言葉がガゼルの口から出たので、綾は返答に困った。いつもの、困ったような笑みを浮かべる綾に、ガゼルは言葉を続ける。

「いや、何でもない。 忘れてくれ」

的確すぎる言葉はたまたま出たのか、それとも。それ以上ガゼルは何も言わず、アルク川の沿岸部に一行は達した。細い道を何カ所か曲がって、三つほど橋を渡ると、件の木が見えてきた。しかし同時に、余計な物まで見えてきた。木の回りに数人の武装した兵士がいて、白いクロスが掛けられた机が並べられ、料理がのせられている。そして明らかに庶民とは身なりの違う者が数人、談笑しながら食事をしていた。

「なんだなんだ、これじゃあ俺達が花見できないじゃないか」

「少し場所の取り方がえげつなさ過ぎるな。 少し場所を空けて貰ってこようか」

「いや、ムリだな。 兵士達の鎧に付いた紋章を見ろ。 あれは、マーン家のものだ」

口々に言うガゼルとエドスを、レイドが制止した。

「マーン家?」

「この街を牛耳る召喚師一族だ。 金の派閥という組織に属していると言うが、良くは知らない。 どうも彼らも、此処で花見をしようと思いついたらしい。 残念だが、花見はムリだな」

「む、むう……」

「えー! そんなー!」

エドスが肩を落とし、フィズとアルバが口々に不平を漏らした。子供達も残念そうだが、綾の目の前で、エドスは気の毒なほど肩を落としている。今朝の様子、花見を決めたときの様子からいって、エドスがどれほど今日を楽しみにしていたか、当事者の一人だった綾はこれ以上もないほど知っていた。しばしガゼルがレイドに食い下がっていたが、綾は決意を固め、それに加勢する事にした。

「レイド、お花見しましょう」

「無理だといっている」

「今日の目的は、お花見よりもカシスさんの歓迎会です。 私はもう充分みんなに良くして貰ってますから諦めもつきますけど、カシスさんは可哀想ですよ」

「うんうん。 アヤちゃん、いい事言う! 流石はマイ・ダーリン☆だね。 愛してるー!」

カシスが両手を広げて抱きつこうとしたため、綾は小さく悲鳴を上げて硬直した。だが、リプレが後ろからカシスの肩を叩き、振り向いた彼女に横に首を振って見せたので事なきを得た。どうもリプレは、短時間でカシスの扱い方を修得したらしい。更にカシスも、短時間でリプレには逆らえない事を学習したようだった。

「ふむ、一理あるな。 ではどうしたらいい?」

「ここより少し下流になりますが、アルサックが咲いている場所があります。 そこはどうでしょうか」

それは全くの事実であった。綾はこの辺りの地理に精通しており、更に昨日は時間の許す限りこの辺りを歩き回り、いざという事態に備えていたのである。その過程で、見つけた場所だった。

「そんな場所があるのか?」

「此処に比べるとだいぶ花の量は落ちますけど、場所的な広さは申し分ないですよ」

「そうか、それはいい。 みな、どうする?」

振り向いたレイドに、異論を唱える者は一人もいなかった。ただ、エドスが、少しだけ影のある顔をしたが、綾以外誰も気付かなかったようだった。

 

花見はつつがなく始まった。アルサック自体は若木で、先ほどの場所に比べると致命的なまでに花の量が少なかったが、そんなものは気分次第で幾らでも補える。花より団子という言葉はあまりにも有名だが、それはまさしく真実なのであった。

エドスも楽しそうに飲み食いしていたし、何よりカシスと子供達が話しているのは大きかった。リプレがカシスと話していたのは、この機会を造るためだったのだろう。リプレは自分の影響力が如何に子供達に浸透しているか良く知っており、そのために朝から積極的にカシスと話していた事が容易に推測される。リプレが話しているのを見れば、子供達もカシスと少しは話しやすくなるのは事実であったから。綾は自分の分の弁当を食べ終えると、木陰に移り、心中で呟いた。

『良かった、みなさん楽しんで頂けて。 特にエドスさん、とても悲しそうな顔でしたから、中止にならなくて良かったです。 後、欲を言えば、もう少しお弁当の分量があれば良かったのですけど』

「おい、アヤ」

「はい、どうしました?」

「リプレの弁当、少し足りなかっただろ。 ちょっと俺につきあえよ」

こっそり近づいてきたガゼルが、後ろ手で皆とは逆の方向を指しながら、悪戯っ子っぽい笑みを浮かべた。非常に嫌な予感を覚えた綾は、それでも笑みを浮かべた。故郷で良く儚げで可愛いと言われた、少し困ったような笑みを。

「悪戯ですか?」

「近いな。 折角の花見を台無しにしかけてくれたマーン家の奴らに、ちょっとばかりお礼をしようと思ってよ。 一緒にどうだ?」

「うーん」

「レイドみたいな説教はごめんだぜ? どうする?」

先に釘を差された綾はそれ以上何も言えず、思索を巡らせた。ガゼルはにやにやしながら、その終了を待っている。

『……考えてみれば、お腹がすいているのは事実ですね。 それに私、悪戯も含めて、悪い事って一度もした事がなかったんですよね……。 子供達と接するには、私が温室栽培のままではいけないはずです。 これも経験ですね。 それに、偏見を持たないためにも、一度召喚師の人達が実際にどんな生活をしているのかは、見てみたいですし』

思索を終えると、綾は一番の心配の種だったカシスの方を見た。カシスは膝の上にラミを載せ、笑みを浮かべて何か話していた。ラミは時々不安げにリプレの方を見ていたが、話しかけられるたびにカシスに笑みをきちんと返している。それを確認してから、綾は承諾の返事をした。

「分かりました、つきあいます」

「よっしゃ! こっちだ。 気付かれないようにな」

慣れた様子で、ガゼルは忍び足のまま、マーン家が花見をしている方へ向かった。綾はびくびくしながらそれについていき、一緒に会場に潜り込んだ。

 

マーン家が行っているにしては、意外に小規模な花見であった。良いアルサックの周囲は独占しているが、規模自体はそれほどでもない。またマーン家の私兵達は弛みきっていて、酒を飲んでいる者や食事をつまみ食いしている者さえいた。素人の綾が簡単に忍び込めたほどだから、他の誰でも容易であっただろう。

テーブルの上には無数の料理が並べられ、その半ばが殆ど手を付けられずに残っていた。ガゼルは堂々とその中に入ると、皿を幾つかもって茂みに戻ってきた。

「こういう所じゃ、堂々としてれば却って怪しまれねえんだ」

「その様子じゃ、初犯ではないですね?」

「へっへっへっへ、分かるか? さ、早速頂こうぜ?」

食器も要領よくガゼルがくすねてきたため、食事には全く困らなかった。二人はしばし無言で食事を楽しんだ。美味しいものを食べ慣れている綾にも、新鮮で美味しいと思える味だったからだ。

未知の味というのと同時に、もう一つ、綾の舌を痩せさせた要因がある。(力)を使えるようになってからと言うもの、エネルギー消費が激増したせいか、食欲が三割り増しになったのである。普段はリプレに遠慮してお変わりなど一切しない綾であったから、夜などは空きっ腹を抱えて辛い時間を過ごす事がままあった。故に、腹一杯に食物を詰め込むのは久方ぶりであり、食物の味を引き上げたのである。両者無言のまま食事を終え、小声で、だが満足げにガゼルが言った。

「くはーっ、うめえうめえ。 流石に連中、いいもの食ってやがるな」

「本当ですね。 久しぶりに満腹しました」

「久しぶり? ……やっぱりお前、遠慮していたのか」

「あ、すみません。 でも、家計が苦しいのは事実ですし」

ガゼルは少し残念そうに眉をひそめて、空になった皿を重ねながら言った。

「お前はちび共やリプレを守る最後の盾なんだぜ? だから遠慮しないで、食いたいだけ食っていいんだよ。 俺達は仲間だ。 だから、いいたい事は何でも言ってくれ」

「……」

「実はな、俺は薄々気付いてた。 でも、お前がリプレに遠慮してなかなか言えないのも知ってた。 だから、今回連れ出したんだ」

『ガゼル……』

綾は目頭が熱くなるのを感じた。こんな風に自分の事を思ってくれる人など、今まで一人もいなかったからである。そして、ガゼルだけでなく、エドスもレイドもリプレも、皆それと同じだという事も気付いていた。

自分が仲間の中にいる。それを改めて感じた綾は、ガゼルに改めて頭を下げて礼を言おうとしたが、神経質な声が響き来てそれは中断された。

「どうして皿の数が足りない! しかもよりにもよって、姉上の秘蔵の(蒼甲磁六番)の皿が! あれはセットで初めて価値が出る逸品なのだぞ!」

声はヒステリックで、怒りと憎しみに充ち満ちている。おそるおそる綾が自分の手元にある皿を見ると、絶望的な事態だった。蒼い甲羅の模様がそれには刻まれており、どう見ても上物だったからである。

「まずい、ずらかるぞ」

「待ってください、このお皿、きっと凄く高価なものです。 戻してから行きましょう」

「んなこと言ってる場合か? ほら、早く!」

ガゼルは綾の手を引き、そのまま茂みから抜け出そうとした。綾は皿の価値が分かっていたから、それを素早くまとめると、抱えて出た。そして、手近なテーブルに丁寧に載せた処で、先ほどの声の主に発見された。

「貴様らかぁっ! おのれ、こそ泥共、どこから入ってきた!」

 

振り向いた綾の前で怒鳴ったのは、額がかなり北上し、頭には白髪の交じった男だった。まだ若いのに、悪い意味で非常に老けている人物である。声は高く、ヒステリックな響きを帯び、小さな眼鏡がその雰囲気をますます悪くしていた。

「そこからだよ。 ほれ、見てみな。 子供だって入れるぜ」

白けた様子でガゼルが後ろ手で指さす先には、もう自分を無くしている私兵達が地面に転がっていた。皆良い感じに酔っぱらい、ご機嫌で鼾をかいているのだ。

『が、ガゼル、そんな事言ったら、ますます……』

「おぉのれ、この私を侮辱するか! この私をっ!」

綾の心配は見事に図に当たり、男はますます激高した。誰も男の助けに出ない、いや出られない事を悟ったガゼルは、相手が若い事を知った上で、わざとおちょくった。

「私って、あんた誰だよ、おっさん

「ぬうううう、ならば教えてやろう! この街の政務を取り仕切るマーン家三兄弟長男、イムラン=マーン様とは、この私の事だ!」

「えっと……いいんですか?」

「何がだ!」

「幾ら無礼講でも、経歴詐称は良くないのではありませんか?」

綾には、この男が本物の、街の政務を取り仕切るマーン家三兄弟の長兄だとはとても思えなかったのである。

綾の予想とは裏腹に、男は間違いなく本物のイムラン=マーンだった。堪忍袋の緒がきれたイムランは、数度印をきると、呪文を唱え始めた。そして、自らの行動により、その経歴が事実である事を証明して見せたのである。

「誓約において、イムラン=マーンが命じる。 我が僕よ、戦場へ馳せ参じよ!」

「しょ、召喚術!」

ガゼルが叫ぶのと、召喚術が完成するのはほぼ同時だった。空間が歪み、乳白色の塊が其処から垂れ落ちた。それはもぞもぞと蠢きながら、徐々に形を為していく。それはセンザンコウのような姿だったが、額には鋭い角があり、油のような液体がしたたり落ちていた。爪で地面をひっかきながら、短い威嚇の声を張り上げているその生き物は、まごう事無く召喚獣である。それを証明するように、センザンコウもどきの胴体には無数の目があり、辺りをひっきりなしに見回していた。その傍らに立ち、イムランは瞳に残忍な光を宿した。

「ガキ共が、きつーいお仕置きをしてくれるわ!」

「ガゼル、イムランさんに私達を殺す気はないみたいです。 ですから、出来るだけ怪我をさせないで黙らせるだけにしましょう」

「おう、そうだな。 幾ら召喚師でも、いきなり殺したら寝覚めが悪い」

「何をほざいておるかぁっ! 行けっ! 我が僕ゲレタ!」

綾もガゼルも、今日は最低限の武具しか所持していない。綾は小さなナイフ、ガゼルに至っては拳にはめる小さなナックルだけである。故にかなり不利な戦闘かと思われたが、召喚獣の突進は意外に鈍く、ガゼルも綾も余裕を持ってそれをかわした。サイドステップしながら、綾は思考を練ったが、ガゼルの叱責がそれを中断させる。

『召喚獣は此方に引きつけて、私かガゼルでイムランさん本人に直接打撃を……』

「アヤ、よけろっ!」

「え? きゃああああっ!」

激しい炸裂音が響いて、綾がはじき飛ばされる。イムランの手から、煙が糸を引いて上がっていた。糸が切れたマリオネットのように、膝から地面に倒れ伏した綾。彼女に駆け寄ったガゼルに、身を翻したゲレタが、今度こそとばかりにつっこんでくる。

「野郎、手から雷出しやがった! あれも召喚術か!?」

「くっ……ガゼル、相手から目を離さないでください」

「しかし、召喚獣もつっこんでくるぞ」

言っている内に、角を振り上げゲレタが突貫してきた。よろよろと立ち上がった綾は小さく息をのむと、(集中)を使ってその動きを見切り、背中に鋭い手刀の一撃を浴びせた。小さく悲鳴を上げ、ゲレタが地面に這いずる。

「おおのれ、生意気なっ!」

ヒステリックな声と共に、再び電撃が飛んできた。今度はそれを予測していたため、綾は何とかかわす事が出来たが、事態は更に悪化の一途を辿った。一端塊に戻ったゲレタが、分裂し、二体に増えたのである。更にイムランは、なにやら印を組みながらぶつぶつと呪文を唱え始めている。おそらく、更に大きな雷撃を出すつもりであろう。呪文は綾がカシスの講義で聴いた無生物召喚のものと酷似している事から、イムランが使っているのは何かしらの召喚術で、おそらくどこかから雷撃を召喚しているのだろう事は間違いがない。

突貫してきた二体のゲレタを、ガゼルが体で止めるが、突撃の勢いは殺し切れず弾かれる。その隙に間合いを取った綾は、カシスに教わった召喚術の基礎を思い出しながら、精神を集中し、印を組み替えていった。

『あれから何度か検証しましたが、ヴォルケイトスは問題なく呼び出せるようになりました。 しかし彼では攻撃精度に不安が残ります。 一か八か、新しい召喚獣を試してみましょう! 昨日呼び出す事に成功した(彼女)の防御能力は未知数ですが、恐らく!』

「まずい、綾、避けろっ!」

ガゼルが叫ぶ。少し大きさが縮んだゲレタの一体を彼は羽交い締めにしていた。だがもう一体が角を振りかざし、目をつぶったままの綾に突貫したのである。更に、召喚師の呪文は完成に近づきつつあった。彼の手に、蒼く強烈なスパークが具現化する。流石に騒ぎが大きくなり始め、私兵達も目を覚ましたり距離をおき始めていた。綾は呪文の最後の一節を唱えると、天に紫色の宝石を掲げた。これはかって召喚されてきたとき、拾い集めたものである。名はサモナイト石と言い、召喚の際に媒体とする魔力を含んだ石だった。朱色はシルターン、青紫はサプレス、緑はメイトルパ、灰色はロレイラルに対応し、秘めたる力を消耗して召喚獣を呼び出す事が出来る。きちんとした儀式で契約すればサモナイト石を消費せずにすむのだが、綾の場合呼び出した後に契約する必要がある事が検証で分かっている。更に、結局時間が無くて、まだ契約は済ませていなかったのだ。だから、今回は暴発を防ぐためにも、サモナイト石を使う必要があった。

「樋口綾が命じる! 我とガゼルを守れ、リピテエル!」

「小賢しい、こそ泥が召喚術だと! 召喚獣もろとも黒こげにしてくれるわ!」

それが光臨するのと、イムランが雷を放つのは同時だった。閃光が、辺りを覆い尽くした。激しく電撃が飛び散り、周囲の草を焦がす。また、ゲレタは大きくはじき飛ばされて、地面に転がった。

「……何だとっ!」

イムランが叫んだのも無理はない。綾の上には、コルクの栓抜きのような奇怪な生き物が姿を見せていたからである。それは青紫色をした螺旋であり、両端は鋭く尖った針状になっていた。そしてその針の周囲を、三対の翼が、ゆっくり回転していた。大きさは六メートルほどもあろう。そして、目をつぶった綾の周囲を、それが張ったらしい防御シールドが覆っていた。ゲレタは、これにはじき飛ばされたのである。そして残念ながら、シールドはガゼルまでは守らなかった。召喚術は本人の魔力によって威力が変動し、更に使えば使うほど精神力を激しく消耗する。綾は強烈な目眩を覚え、すぐにリピテエルを戻した。

『昨日もそうでしたが、ヴォルケイトス以上の消耗……! 一度の戦いで、呼び出せるのは一度だけですね』

「今だっ!」

ゲレタの残り一匹を投げ倒すと、ガゼルは地を蹴った。その早さは圧倒的で、見る間にイムランとの間を詰めていく。そして、その拳に装着されたナックルが、空を切って召喚師に迫った。怯えた声を上げ、顔を庇うイムラン。接近戦に関しては経験技量共に素人以下のようであった。

「ひ、ひぃいいっ!」

「そこまでだ、ガゼル」

「レイド! ど、どうしてここに?」

「あれだけ騒げば、いくらなんでも気付く。 最初に気付いたのはカシスだったから、彼女には後で礼を言っておくようにな」

ガゼルを止めたのは、堂々と正面から花見会場に入ってきたレイドの言葉だった。彼は咳払いすると、視線だけで周囲の私兵達を威圧し、イムランに言う。

「久しぶりですな、イムラン殿」

「レ、レイド! そ、そうか、このガキ共は貴様が差し向けたのか! おぉのれ、逆恨みからつまらんことをしおって!」

「違う、といっても貴方は聞かないでしょう。 ならば弁解するだけ徒労というもの」

「おのれおのれ、憎い憎い憎いっ!」

レイドはついと背を向けると、綾に肩を貸すようガゼルに言い、振り返りざまに言った。

「帰るぞ」

「お、おう、だけどいいのか?」

「あの男は、あれで保身に関しては知恵が回る。 これ以上騒ぎを拡大して恥をかいても意味がない事、皿を守る事が現時点での急務である事、客に弁解する事が先である事、等は自然に理解出来る」

わざとイムランに聞こえるようにレイドは言うと、自ら率先してつかつかと会場の外へ歩き出した。それを阻もうとする私兵は誰もいない。レイドの実力が何らかの形で彼らの知識にあるのだろうと、綾は自然に推測していた。

 

「言うまでもないと思うが、自分たちが何をしでかしたかは認識しているな?」

「ああ。 一歩間違えば、とんでもねえ事になってたはずだ」

フラットのアジトに戻ってきた二人は、いつになく厳しい顔のレイドを前にうなだれていた。居間には彼ら三人しかおらず、他の者達は既に事情を知っているものと思われた。

「反省はしているか?」

「ああ。 悪かった」

「すみませんでした。 私……軽率でした」

「いや、反省しているのならいい。 反省をしている者をそれ以上責め立てても仕方がないからな」

レイドはそんな物わかりが良い事をいった。胸をなで下ろした綾に対し、ガゼルは緊張を解かない。その理由を、すぐに綾も悟る事になった。

私からは以上だ。 だが、君たちが予想しているとおり、この一件に関して私より怒っている者がいる。 彼女は私のようには甘くないぞ?」

『ま、まさか……』

心中で綾が呟き終えるのと、居間が膨大な怒りのオーラに充たされるのは同時だった。思わず硬直する綾と、蒼白になって壁に張り付くガゼル。彼らの視線の先で、全身から天をつかんばかりの勢いでオーラを放出し、リプレが笑っていた。あまりにオーラの放出が激しいので、髪が逆立っているほどである。更に、口こそ笑っているが、目からは爛々と光を発している。レイドはさっさと脇に退き、腕組みをして目を閉じていた。

「あーなーたーたーちー?」

ゆっくり進み出るリプレ、その笑みは崩れない。ただし、彼女の踏んだ床からは、オーラに熱せられた故か湯気が立ち上っていた。リプレは更に進み出ると、腕組みをした。オーラが更に強烈に吹き荒れ、辺りは台風のような有様となった。

「召喚師の花見に出かけてつまみ食いなんて、よっぽど私の造ったお弁当が気に入らなかったみたいね?」

「あ、あ、あれは、あれはだな、そ、その、あの、ふ、ふか、ふかふか、不可抗力で」

「ご、ごめんなさい。 私、悪い事ってした事がなくって、つい魔が差して」

言い訳しない!

二人の口は貝が閉じたかのように沈黙した。リプレは笑顔を浮かべたまま、更に言った。

「あれだけつまみ食いしたなら、さぞお腹一杯になったでしょうから、もう夕食はいらないわよね……」

「そ、そんな……」

いらないわよね?

「「いりません」」

 

いつもの夕食も少なくて辛いのに、それが無いとなると、その苦痛は格段に増すというものだった。空きっ腹を抱えた綾は、屋上に上って、頬杖をついてリィンバウムの月を見ていた。反省の意味も込めて、これには耐えなくてはならなかった。信賞必罰の絶対を、身をもって示さねば、それこそ子供達に示しがつかないからである。しばし沈黙が続いたが、屋上へ上がる階段を、誰かが上る気配がした。

『あら? 誰でしょうか』

「よっ、アヤ」

「エドス。 ……あの、今日は折角の花見を、あんな騒ぎにしてしまってごめんなさい」

「いやいや、気にするな。 それにリプレも、多分お前さんの今日の行動で、適量の食事を理解してくれたはずだ。 明日の朝からは、そう空きっ腹を我慢する事もなくなるだろうよ」

その言葉を聞いて、綾は苦笑した。フラットの人達は、皆大人だった。この様子だと、綾の悩みなど、皆がとっくの昔に把握しているかも知れない。エドスは綾の傍らに腰を下ろすと、表情を改め、アルク川の方を見ながら言った。川は月や星々をその身に映し、瞬きながら流れている。

「……あのアルサックの木、お前さんが案内してくれた方の若い木、あれは師匠の墓標なんだ」

「え……?」

「ワシは昔石工でな、師匠の下で修行の日々を過ごしとった。 師匠は気こそ荒かったがワシら若造にも良くしてくれた、性根のまっすぐないい人でな、皆から親のように慕われていたよ。 あんなに頑丈だったのに、数年前の丁度この時期、花見の最中に酔っぱらいにナイフで刺されて、あっさりいっちまったがな……。 当時の仲間達はバラバラになっちまったが、師匠の死んだ時期には、ああやってアルサックを見に行くのが習慣になっとった。 そして今、ワシには新しい仲間達がいる。 師匠に、皆を見せたくて、つい花見、何て言い出しちまったのさ。 ……お前さんがあの場所につれてってくれた時には、運命を感じたもんだ。 昔の仲間達で金を出しあって買った苗木、あんなに大きくなっていたんだもんなあ」

「エドス……ごめんなさい、そんな大事な日をこんなめちゃくちゃにしてしまって」

頭を下げる綾を制止すると、エドスは一つ大笑した。

「いやいや、師匠はきっとよろこんどるよ。 あんな無茶苦茶をしでかす愉快な仲間に囲まれて、エドス、お前は幸せ者だな、とな。 実際その通りだから、ワシは今のままがいい。 ありがとうな、アヤ。 お前さんがフラットに来てくれて、本当に良かった」

エドスはそれだけ言い終えると、自室へ戻っていった。エドスがこんな事を話してくれるというのがどういう事か、綾はこれ以上もなくよく分かっていた。

『少しずつ、皆に心を開いていかないと。 弱い私を、この人達になら見せられます』

少し嬉しくなった綾は、顔を膝に埋めて静かに笑った。夜はただ静かに、流れるように過ぎていった。

 

2,綾のささやかな休日

 

「そう言うわけで、おさらいをしてみよっか」

「はい。 召喚術には、生物を呼び出す物と、無生物を呼び出す物がある。 どちらも魔力を消耗し、儀式をきちんと行う前ならサモナイト石も消耗する。 おのれの力量にあわない召喚獣を呼び出せば、力は暴発し、辺り一帯は粉々になる」

「ま、要約するとそんなトコね。 印の組み方や呪文の詠唱、それに儀式のやり方は毎度解説するから。 本来これって何年も掛けて覚える事だから、一昼夜で覚えようとしなくていーよ」

カシスはそれだけ言うと、テーブルの上に置かれた干し魚の切れを一口摘んだ。カシスは少し前であれば考えられない事に居間で講義を行っており、側ではレイドとエドスも聞いている。花見の際にリプレと話していたのが原因かは分からないが、少しずつ自発的な交流を始めたのは結構な事だった。その一方で、綾は相変わらずカシスに危険な物を感じてはいたが、正体は未だ分からなかった。ガゼルは召喚術嫌いであったから、この場からは欠席していた。

「となると、召喚術は、誰にでも使える物なのか?」

「ええ。 余程魔力がない人間でも、簡単な召喚術なら問題ないない。 本当は一般の人達には教えてはいけないんだけど、場合が場合だから仕方がないっしょ」

「ううむ、にわかには信じがたい話だが……」

考え込むレイドの横で、エドスが身を乗り出した。

「で、問題はもう一つの力だな。 体が蒼い光に包まれて、不意に動きが鋭くなったり、敵をはじき飛ばしたり。 アレはどういう事なんだ?」

「問題はそれなのよ。 無生物系召喚術の中には、雷や冷気といった自然力そのものを呼び出す物や、純粋な(力)そのものを呼び込む物もあるの。 おそらくはそれの一種じゃないかと思うんだけど。 そっちに関しては、自分の力の範囲内で使いこなしてるみたいだから、問題はないと思うんだけどね」

「何か、問題があるのですか?」

「我流の召喚術ってのがそもそも出鱈目にレアな能力だし、しかもアヤちゃんはそれを天然でやっちゃってる。 これ以上は研究してみないと何とも言えない。 とゆーわけで、うふうふふふふ、今晩私の部屋で手取り足取り色々な研究を……」

蒼白になって涙を流しながら首を横に振る綾。大笑いすると、カシスは冗談である旨を告げ、部屋に戻っていった。それを見送りながら、エドスは呟く。

「彼奴、大分話してくれるようにはなったが、それでもまだ必要な事しかしゃべらんな」

「私も、あまり無駄なおしゃべりは好きではないさ。 彼女がとけ込むまで、まだ時間はかかるかもしれないが、長い目で見よう」

苦笑してレイドは頭をかき回した。そして、二人のやりとりを目を細めて見ていた綾に向き直ると、表情を改めて言った。

「それよりアヤ、魚も充分にあるし、街を一人で見てきたらどうだ? 今日は私が一日アジトにいるから、心配は無用だ」

「え? いいんですか?」

「以前リプレに案内されただけでは、分からない場所もあるだろう。 小遣いは渡せないが、ひょっとすると何か発見があるかも知れないしな」

「ありがとうございます。 では、頂いたお暇で、街を散策してきますね」

 

鼻歌を交えながら、綾はアジトから北上していた。彼女が向かう先は、無論商店街である。生真面目な綾は釣りに行く際も帰る際も殆ど寄り道をしなかったから、滅多な事ではそちらに出かける事もなかったのである。

ちゃんとした店の他にも、南スラムの近くには露店も目立った。そう言った所ではいかにも怪しげな品々が売っていて、値札さえ付けられていない。

『こういった店では、ウィンドウショッピングを楽しむも何もありませんね。 他にお店は、と』

それらの脇を通り過ぎながら、綾は心中で呟いた。そのまま商店街を一巡りして、大体の店の位置を確認すると、目星を付けた一店舗へ向かおうとしたが、それはならなかった。激しく咳き込む声が、前方から聞こえ来たからである。周囲の者達は誰もそれに構おうとせず、綾は焦って周りを見回した。

路地裏の隅に、咳の発生源である老人は倒れていた。胸をかきむしるようにして、地面に蹲っているその姿は、実に無惨で痛々しい。綾が駆け寄ると、その老人はか細い喉から、何とか声を絞り出した。

「か……かか……かば……」

「鞄ですね? 頑張って下さい! すぐ出します!」

近くに転がっていた粗末な鞄を探ると、すぐに錠剤が幾つか見つかった。老人は綾の小さな掌にのせられた複数種の錠剤を震える手で取ると、そのまま一息に飲み下す。そのまましばし老人は咳き込んでいたが、不幸中の幸い徐々に収まっていった。

『工場の煙にやられたのでしょうか……可哀想に』

「すまなかったな、お嬢さん。 何とか生き返ったわい」

「いえ、そんな、困ったときはお互い様です。 おうちまでお送りいたしますね」

「何から何まですまんな。 途中の薬屋に寄ってもらえると、少し助かる」

頷き、肩を貸した綾は、老人が意外に軽いので驚いた。単純な力自体が増している事もあるのだが、同時に老人が非常に軽いのも事実だった。枯れ木のような老人という表現があるが、この人こそが正にそれであろう。

程なく姿を見せた(あかなべ)という薬屋に立ち寄ると、漢方独特の匂いが綾の鼻をついた。のれんを潜ると、すぐに店主が姿を見せ、綾は無言でお辞儀をしていた。

「おや、ウィゼルさん。 そちらのお嬢さんは?」

「さっきそこで死んだ所を、助けて貰った恩人じゃ。 シオン、例の薬の調合が終わったから、届けに来たぞ」

「ありがとう。 では其処へ置いていってください」

シオンと呼ばれた店主はおそらく三十代前半であろう。穏やかな口調と糸のように細い目が特徴で、だが妙な隙のなさも同居していた。ウィゼル老人を肩から降ろすと、余裕が出来た綾は辺りを見回す。明らかに漢方としか思えない薬の数々と、更に歴史の教科書で出てくるような調合機器の一群。カシスに教わった召喚術の初歩のうち、シルターンという世界の事を綾は思いだしていた。

『忍者や侍、それに鬼や龍神がいるって聞きましたが、漢方もあるとすると、この店はシルターン製品を扱う専門店かも知れませんね』

「お嬢ちゃん」

「あ、はい」

「わしはここでもういいぞ。 すまなかったな、今日は色々と」

「お体に気をつけてくださいね。 お大事に」

二人に小さく上品に手を振ると、綾は店を後にした。店主にはこの店の事をもう少し聞いてみたいとも思ったのだが、そう言う雰囲気でもなかったので、仕方がなかった。そのまま考え事をしながら店を出た綾に、次の瞬間赤い塊が激突した。

『ウィンドウショッピングを何処から始めましょうか……』

「危ない危ないっ! きゃあっ!」

「えっ? きゃああっ!」

結果起こったのは、両者正面衝突の末、地面に転がる悲惨な事態であった。綾の前でしりもちをついているのは、全身朱色の和服風衣装を着込んだ女の子で、恐らく年は綾と同じか少し上くらいだろう。衝撃から立ち直ったのは、和服の女の子が先だった。恐らく綾と比較して体が頑丈なのだろう。

「あいたたたた……何するのよ、アンタっ!」

「ごめんなさい、つい考え事をしていて」

「あーっ! 荷物が荷物が! 散らばっちゃったー!」

綾が手を貸そうとしたが、女の子はその必要もない、残像が出来るほどの素早い動きで辺りの荷物をかき集め、それ以上何も言わずにあかなべに駆け込んでいった。埃を払って立ち上がる綾の耳に、女の子の騒々しい声と、シオン氏の静かな言葉が飛び込んでくる。

「ししょー! ししょーっ! みてみてみてみて! 今転んで落としちゃったけど、あったよ薬草! 買ってきたー!」

「アカネ、お客さんがいるのだから、少しは静かにしなさい」

『な、なんだか、違うお店みたいですね。 とても賑やかです』

灯がついたように騒々しくなるあかなべの前で微笑むと、綾はその場を後にした。

ようやくウィンドウショッピングに移る事が出来た綾は、六軒ほどを梯子して充分にそれを満喫した。それでも時間は昼までまだ余裕があり、綾はそのままふらふらと繁華街へと歩いていくと、辺りをゆっくり観察した。もうバノッサの部下に襲われても、二人や三人ならどうとでもなるという事実が、多少の余裕を作り上げていた。

やはり繁華街は、人通りが大分少ない。街事態の活気が薄れつつあるが故に、それは繁華街だけの傾向ではないが、それにしてもこれは繁華街の名を自称するには少々役不足であろう。そのまま綾は繁華街を抜けて城門へ向かおうとしたが、その途中で騒ぎに出くわした。

 

少年一人が、三人の男にくってかかっている。どちらかといえば小柄な少年の背後には、蒼白になって怯える女の子の姿があった。おそらくフィズと同じ年くらいと思われる女の子の側には、無惨に割れた鉢植えがあった。辺りには踏み散らかされた花が散乱し、植物の体液の匂いが充満している。

『あれは、バノッサさんの……!』

とっさに身を隠した綾は、こっそり顔を出して、様子をうかがった。少年を取り囲むように立っている男は三人、そのうち二人は以前此処で交戦したバノッサの部下であった。赤毛の少年は小柄で、拳法着のような服を着込んで、鉢金のような、金属がついた鉢巻きを雄々しく巻いている。そして、三人相手に食ってかかり、一歩も引こうとはしなかった。周囲の通行人は皆見ぬ振りをして、そそくさと通り過ぎていく。

『あの女の子が開いていた露店を、バノッサさんの子分さん達がめちゃくちゃにして、あの男の子がそれに食ってかかった、といった処ですね。 あんな小さな女の子のお店を踏み荒らすなんて、相変わらず何て無法な人達でしょうか……。 いずれにしても、もし危ないようなら助けないと』

少し前だったら絶対に選ばなかったような思考をくみ上げると、綾は位置をずらし、路地裏を介してもう少し現場の側に寄った。そこでなら、言い争いの声が良く聞こえてきた。

「だから、この辺りは俺らのシマなんだよ! 人のシマで商売するなら、所場代払うのが筋ってもんなんだ、分かるか!? そのガキはずっと所場代を滞納して、好き勝手に商売してやがった! 俺らは当然の権利を行使したんだよ!」

「何が所場代だ! 街の人達に聞いたが、この街の税金は高くて、こんな小さな子の稼ぎでは払えきれないほどなんだろ! その上この辺をシマだとか勝手に決めつけて、挙げ句に力に物を言わせて所場代だと? あんちゃん、アンタ恥って物を知らないのか?」

「て、てめえ……死にたいらしいな!」

バノッサの部下、以前綾と戦ったとき隊長格だった男の額に青筋が浮かんだ。おそらく身長差は二十センチ以上、体重差は三十キロ近くあるだろう。しかも、その他に敵は二人いるのだ。少年の度胸はたいしたものだが、相手が相手であるし、このままでは命が危ない。綾は小さく呼吸を整えると、場に飛び出した。

「止めてください! 大の大人が、子供相手に何をやっているんですか!?」

「な、てめえはっ! そ、そうか、分かったぞ! この糞生意気なガキは、てめえの子分か! さては俺達のシマを子分使って荒らすつもりだなっ! そうはさせるか!」

「いえ、その子達とは初対面です。 名前も知りません」

「はぁ? ふ、ふざけやがって! そんな嘘に騙されると思うなよ! テメエの子分と分かれば容赦しねえっ! ガキもろともぶっ殺して……」

男は言い切る事が出来なかった。度重なる身勝手な言動に堪忍袋が切れたらしい少年が、獣のように体を躍動させ、敵の鳩尾に凄まじい正拳突きを見舞ったからである。男は数歩蹈鞴を踏むと、無様にしりもちをついた。そして、激しく咳き込む。正拳突きの瞬間、少年の拳が淡く光ったのを、綾は見逃さなかった。

『今の光は? 私の力とは、少し違うようですが……』

「が、がほっ! こ、このガキ……!」

「隙だらけだぜ、あんちゃん。 ワルぶるなら、もう少し腕を磨かないと話にならないよ」

「殺れっ!」

男がわめくのと同時に、左右からバノッサの部下が少年に躍りかかった。そのうち一人を軽々と少年ははじき飛ばした。だが今一人は素早く少年の背後に回り込み、彼を羽交い締めにした。そしてリーダー格が棒きれを持って立ち上がり、叫びと共に突貫した。轟音と共に振り下ろされる棒。だが、それが少年へ到達する事はなかった。横から割って入った綾が、更に鋭くなった集中を駆使して、タイミング呼吸共に見事な中段蹴りを脇へ見舞ったからである。男はもろに弾かれて、激しく地面に叩き付けられ、悲鳴を上げた。

「ぎゃはあっ!」

「ひゅう、やるう! 俺っちも負けてられねえなっ!」

口笛を吹いた少年は羽交い締めにしている男の腕を軽々と外すと、その腹部に三発突きを鋭く決めた。声もなく崩れ伏す敵に、少年は鋭く一喝した。

「さっさとうちにかえんな! あんたらの腕じゃあワルなんて無理だ!」

「おのれ、ことあるごとに俺らの邪魔しやがって……! 挙げ句しのぎまで削るつもりか……! てめえら、絶対に、絶対にゆるさねえからなあっ!」

『ああ……会話が成立しない……』

頭痛を覚えて頭を振る綾は、偏見と思いこみが理解力を著しく低下させる事実を嫌と言うほど悟っていた。彼女の苦悩など知ってか知らずか、駆け去っていくバノッサの部下に、少年は勝ち誇ってあかんべえをしている。よく見ると、おそらく綾より少し年下であろうまだ幼さが残る少年は、笑顔を浮かべながら女の子を助け起こした。

「大丈夫か?」

「う、うん。 でも、お花が……街の外まで行って、頑張って取ってきたのに」

「彼奴ら、ひでえ連中だ。 兵士や騎士は何をやってるんだ」

「そんな事よりも、この場を離れましょう」

泣く女の子をなだめながら、ぶつぶつ文句を言う少年に、綾は咳払いした。この少年はかなりの使い手だが、おそらく多数を相手にした経験が少ないのだろう。攻撃の熟練度に比べて防御は粗く、はっきり言って彼と綾の二人だけでバノッサと十人くらいの部下を相手にするのは分が悪すぎる。それにこの辺りはオプテュスの庭も同然で、地の利も向こうにあるのだ。

「なんで? 俺っち、あんな奴ら怖くないぜ?」

「あの人達三人はともかく、彼らは最低でも三十人ほどの組織員を要する組織オプテュスの構成員で、首領のバノッサさんはおそらく貴方よりも強いです。 しかも、此方には戦闘が出来ないこの子もいます。 取り合えず、この場を離れるのが吉でしょう」

「そうか、確かにそれは分が悪いな。 嬢ちゃん、立てるか? いや、走れるか?」

無事だった花とござをまとめると、少年はようやく焦りを覚えたようで言った。女の子は膝をくじいてしまっていて、それを確認した少年は、有無を言わさず背負う。多少強引だが、男らしい行動といえなくもないだろう。

「で、どっちが安全な方向だ?」

「こっちです。 取り合えず、私達のアジトへ行きましょう」

「よっしゃ! アジトか、なんか秘密基地っぽくて格好いいなっ!」

『ひ、秘密基地……。 男らしい所があると思えば、また随分幼い発言をする人ですね』

綾は再び軽い頭痛を覚えると、二人を先導して自ら走り出した。彼女のささやかな休日は、これにて終わったと言っても良かった。形はどうあれ、オプテュス構成員に戦いを挑んだ以上、彼らが仕掛けてこないはずはなかったから。

 

3,弟子の誕生

 

「それで、連れてきちまったわけか?」

「ごめんなさい。 そのままにはしておけなかったんです」

「いいさいいさ、俺だって同じことしただろうし。 ただなあ……」

憮然とした様子で、ガゼルが視線を少年に送る。彼は遠慮もひったくれもなく、出された食事を旺盛な食欲で平らげ、更におかわりまで要求してそれも胃へと流し込んでいたのだ。綾が来たときでさえ食費が危険になったのに、ガゼルが不機嫌になるのも無理もない話であった。一方で、女の子の方は適量の食事を文句一つ言わず食べると、そのまま縮こまって大人しくしていた。

「くっはー、食った食った! 姉ちゃん達、ありがとな!」

実に満足げな様子で少年が宣い、どぎまぎする綾の横でガゼルの額に青筋が浮かぶ。そんな事など知ってか知らずか、少年は頭を下げつつ言った。

「自己紹介がまだだったな。 俺っちはジンガ。 修行をしながら、各地を回っている流れ者だ。 そっちの子はフラウ。 さっき知り合った、花売りの女の子だ」

「こ、こんにちわ」

それに吊られて頭を下げるフラウ。フラットのメンバーはそれにおいおい自己紹介を返したが、ガゼルは相変わらず不機嫌そうで、頬杖をついて憮然としていた。

「それで、俺っち宿を探してたんだが、此処いい場所だなー。 で、更に言うと、俺っち持ち合わせもないんだ。 働くから、此処に泊めてくれないかな」

いけしゃあしゃあというジンガの言葉に、ガゼルの額に更に青筋が増えていく。綾はどうした物かと困り切って左右を見たが、解決策などこの場にはなかった。リプレと小さな女の子がいる以上、大声を出すのは得策でないとガゼルは悟っているのだろう。女の子が泣きでもしたら、リプレに半殺しにされるのは目に見えているからだ。ガゼルはリプレを排除する事を思いついたらしく、彼女に向け言った。

「なあリプレ、そっちの子の面倒見てくれないか? 事情も出来るだけ聞いて欲しい」

「分かったわ。 貴方もあまり大騒ぎしないでね。 上の子達が怖がるから」

浅はかな策略を簡単に見通され、なおかつ釘まで刺されたガゼルは更に不機嫌になった。残念ながら、完全に役者が違う。それに対し、ジンガはもみ手までしながら、笑みを浮かべてみせる。

「なあ、頼むよー。 薪割りでも皿洗いでもするからさ」

「見てわからねえか? 俺達は貧乏で、収入も少ないんだ。 レイドとエドスの稼ぎと、綾が釣ってくる魚で茶を濁してる状態なんだぜ? その上バカスカ食われたら、子供達もろともひあがっちまうよ」

「となると、現金収入が良いのか?」

「当たり前だ」

それだけ言って、ガゼルは自分の失敗に気付いたようで更に不機嫌になった。今の口調だと、金さえあれば泊めてやらない事もないと言っているのと同じだったからである。

「じゃ、俺っち金稼いでくるよ。 と、その前に」

少年は手袋を外し、にいと笑みを浮かべた。ガゼルは度重なる失敗で憮然としていて、頬を膨らませたまま一言も発しない。

「アヤ姉ちゃん。 ちょっとその場でじっとしててくれるか? さっき助けてくれた礼がしたいんだ」

「え? えっと」

「すぐ終わるからさ」

ジンガの手に、淡く暖かな光が産まれる。そして少年が幾度か印をきると、それは拡大して眩いまでの存在感を示した。そのままジンガは椅子に座った綾の後ろに立ち、肩に光に包まれた両手を置いた。

『……!? 気持ち……いい?』

無言の開放感、そんな感触であった。それほど疲労がたまっていたわけではないのだが、肉体全てが疲労から解放されるような回復感が綾の全身を包んだ。綾は思わずため息をついていた。一部始終を見届けたレイドは、感心したように言った。

「ほう、ストラか」

「ストラ?」

「良くは分からないが、一部の格闘家が使う、(気)を使った回復術だそうだ。 最近ではそれを利用して、格闘家から医者に転じる者もいると聞く。 確かこの街にも一人いたような気がしたが、誰だかは覚えていない」

「へっへっへー。 俺っちなら肩こりも腰痛も全部治してみせるぜ? じゃ、金稼いでくらあ。 宿の件、考えといてくれよっ!」

慌ただしく外へ出ていくジンガ。ガゼルの不機嫌さは、ますます増していたが、やがて小さく息を吐いた。

「……まあ、金をもらえるなら、置いてやる分には問題ないか」

「お、ガゼル、お前大分丸くなってきたな」

「筋金入りの問題児ばかりウチに来るから、怒ってばかりいれなくなったんだよ。 流石に慣れたぜ」

そう言ってガゼルは、カシスのいる部屋の方を見た。そして頬杖をついたまま、もう一つため息をついた。だが、彼のため息は、更にこの後増える事になる。

 

暫くして、フラウが二階からおりてきた。彼女はリプレのお下がりを着せられていて、それで大体事情が皆にも飲み込めた。フラウは丁寧に挨拶すると、フィズとアルバに連れられて、子供部屋へ行った。それを見送りながら、リプレが言う。

「彼女、うちで預かる事になったから」

「……ひょっとして、両親の税金滞納か?」

「その通りよ。 オプテュスの事もあるし、家に一人では置いておけないわ。 後で繁華街の近くにある家に、書き置きしてこないとね。 話を聞くと、生活道具も殆ど差し押さえられてしまったらしいわ。 家にはもう何もないんだって。 ……大事なぬいぐるみも取られちゃったって、あの子泣いてた」

サイジェントでは、膨大な税金が市民に課せられ、納められない者は捕らえられて工場か鉱山に送られる。運良く工場にまわされれば助かる可能性もあるが、鉱山へ送られてしまうと高確率で生きて帰ってはこれない。

『あんな小さな子が、税制の不備で路頭に迷ってしまうなんて。 弱者から奪い、強者を肥やすのでは、犯罪組織と同じです。 税金というものは、皆の生活をよりよくするために集め使うもの。 本末転倒、正に愚劣の極みですね』

膝の上で、綾は拳を無意識に強く強く握りしめていた。あのイムランという男は悪人と言うよりもむしろただの小役人に見えたが、今度見かけたらお仕置きしてやろうと考えた。少しずつ自分の持つ力の形がイメージ出来始めていた綾は、それによって自信と自己表現能力を少しずつ拡大していたのである。

ガゼルが立ち上がり、親指で自分を指さしながら言う。彼の目から怒りは収まり、何か被害者のためにしてやりたいという気持ちが代わりに沸き上がっていた。

「……俺が行って来る」

「私も行きます」

「いや、オプテュスの事もあるから、皆で行って来よう。 それに、少し嫌な予感もする」

「そうか、じゃあワシがカシスを呼んでくる。 皆は準備をしていてくれ」

 

繁華街の側に、フラウの家はあった。中は文字通りのがらんどうで、カギすらもが外されてしまっていた。残っているのは壁と床だけという有様で、フラウの言葉通り換金出来る物は全て差し押さえられてしまったのだろう。ふと綾が視線をずらすと、地面に割られた板きれが捨てられていた。(国有地)とそれには書かれていて、住民の些細な反抗が伺われた。

『これでは、オプテュスの人達の方がまだかわいげがあります。 国の根幹を支える市民を、一体なんだと思っているんでしょうか』

「怒ってるのは俺も同じだ。 多分、市民の皆もな」

綾の怒りを察したらしく、隣でガゼルが言った。エドスも頷いたが、カシスは興味がないようで、外にちらちらと視線を送っていた。

レイドが壁に書き置きを釘で打ち付けていく。何もないがらんどうの小屋に、嫌に大きく釘を打つ音が響いた。こうしてまた廃屋が増え、スラムが拡大する。街が荒廃していく有様が、綾の目にリアルに焼き付けられた。やりきれない様子でレイドが釘を打ち終え、振り返った。

「さて、ではいそいで帰ろう」

「ちょっと待って。 あれ、例のジンガ君じゃない?」

カシスが指さした先は、数百メートル前方の路上である。廃屋から皆が出て、そちらへ近づいてみると、それは確かにジンガだった。地面にござを引き、看板を立てている。その看板には、次のような文字が踊っていた。

《掛け試合 勝者には50バーム進呈。 挑戦料は10バーム》

「ええと、……試合。 勝……50バーム。 10バーム」

「お、大分読めるようになってきたな。 掛け試合で、勝つと50バームだとよ」

ガゼルが自慢げに言い、そして言い終えた後に気付いた。そのまま無言で、つかつかとジンガへ歩み寄っていく。ジンガは既に挑戦者を二三人のしたようで、敗者にストラで治療を施していた。負けた兵士もジンガの実力には舌を巻いたようで、不満も言わずに去っていく。やはりこの少年、一対一での戦いに真価を発揮するタイプなのだろう。ガゼルがすぐ側まで近づくと、流石にジンガも気付いた。

「まいどありー! お、あんちゃん達、それにアヤ姉ちゃんも」

「一体何してる」

「見ての通り、掛け試合。 これ、手っ取り早く儲かっていいんだぜ?」

「そうじゃなくて、ちったあ場所を考えろ! 此処はオプテュスの連中がねぐらにしてる北スラムのすぐ近くなんだぞ!」

慌てた様子で言うガゼルに、ジンガはきょとんとした。その表情にあるのは、実力がもたらす余裕より、むしろ怖い物知らずの無謀さだった。

「俺っち一人なら大丈夫だよ。 さっきはあの子が一緒にいたからまずかったけど、余程の事がなけりゃ逃げられるしさ。 それに今まで掛け試合は、50戦全勝で、負け知らずだしさ」

「そう言う問題じゃありません。 さっきからあまり時間も経っていないし、多分今度はバノッサさん本人が子分さん達大勢連れてきますよ!」

「ほう? 掛け試合だと? 面白そうな事やってるじゃねえか」

聞き覚えのある声に、蒼白になった綾がおそるおそる振り向くと、其処にいたのはバノッサだった。綾の言葉は、細部に渡るまで最悪の形で見事に的中してしまったのだった。バノッサは既に抜剣しており、配下の数は今までで最大の十三人である。怒りで声さえ震えさせながら、バノッサは一歩一歩進み出た。近くの家の窓がいっせいに閉まり、鍵がかかる。周囲から潮が引くように、通行人の姿が消えた。

「やたらつええガキがいるって聞いたから、挨拶してやろうかと思って出てきたら、てめえの差し金か! はぐれ女っ! しかも今回はウチのしのぎに直接手ぇだすつもりたあ、良い度胸じゃねえかっ!」

『さ、最悪の展開です……』

「何とか言ったらどうだっ!」

「違うといって、聞き入れてくれるのですか?」

例の困ったような笑みを浮かべた綾にバノッサは、見たら子供が泣くような凄まじい笑みで返した。まるで死霊か何かが、地獄の底から沸き上がってくるかのような笑みであった。

「聞き入れねえ」

「……やむを得ません」

「まとめてぶっ潰す! てめえら、かかれっ!」

バノッサの凶咆がきっかけになり、繁華街の一角は壮絶な戦いの場と化した。

 

「おー。 あれが(おぷてす)のボスか? 確かに強そうだな」

呑気な事をほざくジンガの周囲で、フラットの面々が戦闘態勢を取る。町中だからそれほど重武装は出来ないが、レイドは剣を持ってきていたし、綾は件の刀を持ち出していた。敵も剣やらナイフやらで武装しているわけだから、それも致し方ないだろう。

「囲まれるとまずいよ?」

「少し後ろに橋があります。 あそこで交戦しましょう」

「よしきた!」

綾の言葉と同時に、皆が一斉にきびすを返し、追いかけっこが始まった。三十メートルほど離れた地点で、下水道を跨ぐ形で橋が確かに架かっている。下水道までの高さはかなりあり、落ちたらかなり痛いだろう。少なくとも、確実に戦闘力を喪失する。最初に追いついてきた一人の剣を一撃ではじき飛ばし、蹴りを見舞って弾くと、レイドが振りかえらずに言う。カシスを背後に庇い、皆は戦闘態勢を既に整えていた。

「それでアヤ、これからどうする!?」

「え?」

「この中ではおそらく君が一番頭が働く! 妙案があったら言ってくれ!」

狭い橋を利して、レイドが二人目、三人目を次々に無力化した。だがそれ以降は他の敵が追いついてきたため、五分の乱戦になった。ガゼルは橋の向こう側から正確無比な狙撃を行い、投石しようとした一人をうち倒す。下水道に落ちたオプテュス構成員は、必死に岸にしがみつくのが精一杯で、参戦する余裕など無い様子だった。どちらも橋を突破する事が出来ず、しばし膠着状態が続いた。

綾は頷くと、一旦前線から後退してきたガゼルとエドスに耳打ちし、ついでカシスに耳打ちした。そして自身は、刀をひっつかんで脇道に消え、そのまま見えなくなった。それを橋越しに見たバノッサは、部下達に警告を飛ばした。迂回路など、この辺りには幾らでもあるのだ。

「一端下がれ! 兵力を分散したら奴の思うつぼだ!」

「流石にひっかからんか!」

エドスが吠え、手近な一人を殴り倒す。ジンガはやはり多対一の、しかも刃物相手の戦いには慣れていないようで、二人同時に襲い掛かられ、あしらうので精一杯だった。

「くっ! ヒカリ物なんて卑怯だぞ!」

「お前さんが喧嘩を売ったのはそう言う相手だ! こうなったら腰をすえんか!」

大柄な、例のリーダー格がエドスに飛びかかり、組合いになった。その隙にもう一人が剣を突き出そうとしたが、バノッサが叱責する。

「出過ぎだ! もう少し下がれ!」

「で、でも、チャンスだぜ、ボス!」

「前どうやってやられたか忘れたのか!? 後ろにも気を配れ!」

渋々後退するオプテュス構成員。その隙にエドスは大柄な敵を投げ伏せ、一旦後退した。流石にかすり傷が増え、疲労もバカにならない。それを見計らってカシスが印をくみ上げ、(聖霊リプシー)を呼び出す。

「誓約において、我が友の傷を癒せ、聖霊リプシー!」

呼び出されたのは、以前と同じく紫色の板に釘が生えたような生物だった。それが放った淡い光がエドスの身を包み、傷が溶けるように消えていく。エドスはフルチャージ状態で前線に復帰し、剛腕を振るって目の前の敵を殴り倒した。それを見たバノッサが舌打ちし、攻撃に出るように命令しようとするが、寸前で思いとどまる。今度は四人がかりで攻撃されたレイドが一旦後退するが、またオプテュス構成員達は攻めきれなかった。姿を消した綾の存在が無言のプレッシャーとなり、前回の敗戦の経験もあって、疑心暗鬼に陥っていたのである。カシスは余裕を持ってリプシーを召喚し、味方の傷を治した。そして、他の者達は巧みに連携して、敵の数を着実に削り取っていった。戦場に立っているバノッサの部下がついに五人になった時、綾が現れた。驚くべき事に、さっき消えた路地裏からそのまま、しかも悠々と。要は実体のない切り札を示して敵の攻撃を鈍らせ、持久戦に持ち込んで敵の力を削り取り、力が減退した所で反撃に転じる策だった。自分が計られた事を悟ったバノッサは、口から泡を飛ばして咆吼した。

「て、てて、てめえっ! だましやがったな!」

「行きます! 総攻撃開始っ!」

「おうっ! まかせておけっ!」

抜刀した綾が、自ら先頭になって突進した。エドスとレイド、それにジンガが手近な敵に躍りかかり、道を造る。目に爛々と憎しみと殺意を湛えたバノッサの懐に、一息に綾は飛び込んでいた。

本気になったバノッサが、手加減無しの一撃を綾に打ち込む。最初は頭を砕くように上から、ついで右から。

『この間修得した(砲)、恐らく正しい使い方は……』

心中で呟きながら、綾は踏み込む。(砲)とは、力を収束させて飛ばす、前回のバノッサ戦で綾が修得した力だった。綾は(集中)の力を使って、刀を斜めに寝かし、上からの一撃を受け流した。ついで襲いかかった右からの一撃を、バックステップしてかわす。数本の髪の毛が切断され、地に落ちた。バノッサは剣を持った両手を蝶のように羽ばたかせ、更に激しい攻撃を連続して繰り出す。だが綾は、それを再三に渡って凌ぎきった。基礎的な戦闘技術を修得したほかに、(集中)によるピンポイント防御及び攻撃、更に元々の緻密な頭脳もある。元々相当苛立っていた上に、決定打を欠いたバノッサは、一声吠えると強烈に踏み込み、大上段からの一撃を放った。だがしかし、それこそが綾の待ち望んでいた瞬間だった。

(集中)を使った綾には、バノッサの力の力の流れ、その最強点、最弱点がこれ以上もないほどよく見えていた。大上段からの一撃は、確かに凄まじい威力であったが、その射程圏から逃れてしまえば最大の隙も産むのだ。バノッサの渾身の一撃は無惨に空を切った。いや、正確には、ほんの僅かな力を横から加えられただけで受け流された。綾はそのまま体を半回転させると、むしろ柔らかく剣に力を加えて、その軌道をずらしたのである。勢いあまって蹈鞴を踏むバノッサ。綾も三度に渡って(集中)を使い、決して有利な状況とは言えなかったが、戦いを終局まで読み切っていた。硬直したバノッサの肩に、綾は左掌を当てると、(砲)の力を発動させた。

『そう、密着状態からの、零距離射撃!』

「がっ! ぐぎゃああああああああああっ!」

そう、(砲)の真価は、零距離射撃が出来る点にあったのである。その力の全てを受けたバノッサはもろに吹っ飛び、悲鳴を上げながら壁に激突した。同時に綾も精神力をほぼ使いこなし、片膝をつく。彼女が顔を上げるのと、白目を剥いたバノッサが地面に崩れ伏すのは同時だった。

綾が初めて独力でバノッサに勝った、その瞬間であった。まだ接近戦での力量はバノッサの方が上であったが、常に心理戦で有利に立ち続けた綾が、最終的な勝利を確実にもぎ取ったのだった。

 

「いやー、みんな強いなあ!」

「そりゃあどうも。 さ、さっさと帰るぞ」

「ん? てことは、泊めてくれるのか?」

「この情況では仕方がないだろう。 勿論、代金は払って貰うがな」

忌々しげにガゼルが言い、レイドが付け加えた。ジンガは無邪気に喜んでいたが、南スラムに入った時点で不意に足を止めた。

「ここ、もう安全な場所だよな」

「ん? まあ、流石にバノッサもしばらくは仕掛けてこないだろう」

「じゃあ、アヤ姉ちゃん。 俺っちと勝負してくれねえか?」

「え? 私ですか?」

きょとんとする綾に対し、ジンガは興奮を抑えきれない様子で、頬を上気させていた。目はきらきらと輝き、長年欲していた玩具に巡り会えたマニアのような顔つきになっていた。

「強い奴と戦うのは格闘家の夢だ! まして、目の前にこんなつええ奴がいて、黙ってるなんて俺っちにはできねえよ」

『うーん、複雑な気分です。 褒められているのは分かりますが、喜んで良いものなのでしょうか』

「おいおいアヤ、どうするんだ?」

苦笑したガゼルに、綾は自身も苦笑した。とんでもない奴に好かれたなと、表情で言っているのがよく分かったからである。

『純粋な強さに対する渇望、憧れ、まっすぐな思い。 ジンガ君本人がとても純粋だからできるのでしょうね。 その心を踏みにじってはいけないはず』

頭の中で決意を固めると、綾は表情を改めた。まだ精神力は回復しきっていないが、此処で戦いを断れば失礼に当たると、生真面目な綾は考えたのである。

「分かりました。 ジンガ君が満足するような戦いが出来るかは分かりませんが、それでもよろしいですか?」

「おうっ! 上等だぜ! 手加減無用で頼む!」

綾は刀をガゼルに預けると、数歩飛び退いて構えを取った。ジンガも別人のように鋭い目つきになり、ゆっくりと構えを取る。両者の間の戦気が一秒ごとに高まっていき、そして爆発した。

 

「はあああああああっ! シャアッ!」

咆吼と共に突貫したのはジンガだった。そのまま体を低く半回転させ、流れるようにローキックを放つ。バックステップしてそれをかわした綾に、ジンガは更に間を詰め、先ほどオプテュス構成員を一撃で黙らせた必殺の正拳突きを放つ。(集中)を駆使して体を横にずらし、更に軽く右掌で力を加え、それを弾く綾。そして、隙ができたジンガの脇腹に、短い叫びと共に彼女の膝蹴りが炸裂した。

「ぐあっ!」

数歩飛びずさるジンガは、右手を脇腹に当ててストラを使いつつ、次に取るべき手を考えていた。綾のパワー自体はどうという事もないのだが、攻撃が兎に角的確で、隙に着実に打ち込んでくる。である以上、一撃で決めるほかに勝機はない。一旦痛み止めだけをすると、ジンガは印を組み、ストラの力を集め始めた。切り札を使う事に決めたのである。乳白色の光がジンガを包み、それが徐々に両手に収束していった。

『……! おそらくストラの攻撃応用ですね。 先ほど見た光は、これでしたか』

心中で呟くと、綾はゆっくり腰を落とし、相手の攻撃を受けきる構えを見せた。ジンガは高揚感に目を輝かせると、両の拳を固めて突進する。そして綾の直前で跳躍し、空中で一回転して弧を描きながら踵落としを見舞った。鋭い踵の一撃が、綾の鼻の寸前を通り過ぎ、髪を数本散らせる。更にジンガは着地すると、体を旋回させて中段後ろ回し蹴りを放った。驚くべき柔軟な体があるから為し得る、アクロバティックな攻撃であった。

更にこの後、後退するか跳躍した、或いは蹴りを受け流した相手の懐に飛び込み、ストラで強化した拳を叩き込む算段であった。蹴りを受け切れないような相手なら、そもそも最初からこのラッシュに持ち込んではいない。ジンガがオリジナルで考え出した攻撃であり、今までこれを耐え抜いた者は師匠を除いていなかった。だが、それも過去形で語られる事となった。

「もらったああああっ!」

バックステップした綾につけ込むように、ジンガはそのまま突貫した。だが、それは罠だった。綾は片膝を地面に付けると、右掌をジンガに向けたのである。そしてそのまま突貫する相手に(砲)を放った。相互加速の状態であったから、その破壊力は二倍にも三倍にもなった。無論、強いと言えども人間であるジンガにはひとたまりもなかった。少年は七メートルほどもはじき飛ばされ、朽ちた廃屋の壁に突っこみ、意識を失った。

 

翌朝。歯磨きを終えた綾が庭に出ると、ジンガがまきを割っていた。昨日この少年は個々への長期滞在を申し出、受け入れられたのである。ただ、食費と滞在費を入れる事が条件であったが。

戦いの後、意識を取り戻した少年は、完全敗北を認めて大笑した。そして綾をアネゴと呼び、弟子にして欲しいと懇願したのである。それを綾が入れたのには、原因があった。夕食の後、ジンガは改まった顔で言ったのである。

「……俺っちの師匠が良く言ってた事があるんだ。 強さと力は別の物だって。 強さは心の中にあるんだって。 俺っちにはそれが分からなくて、ただひたすら力を付ければ強くなれると思ってた。 でも、強く何てなれなかった。 あっちこっちを旅して修行してたけど、分からなくなる一方だった。 だけど、アネゴ、アンタにあってそれが分かり始めてきたんだ。 アネゴの力は違う。 それこそ、師匠が言ってた強さだと思う。 ……みんなに聞いたんだ。 アネゴの力、望んで手に入れた物じゃなかったんだって。 それなのに、アネゴは強い。 だから俺っちは、その理由を知りたいんだ。 それを知ったときこそ、俺っちは強くなれる気がする。 だから、此処に滞在して、修行するのを許して欲しい」

その台詞は、綾にとって大きな契機となる台詞だった。綾にとっては、ジンガのまっすぐで純粋な思いこそがまぶしかった。しかし、ジンガは綾の戦い方が素晴らしいという。無論、ジンガの(力と強さの定義)等という物は一面的な物でしかない。強さというのは総合的な力の集積体であり、使い方や精神だけには寄らないと言う理論もある。そしてそれは、双方共に正しいのである。

『私は……何も出来ない弱い人間です。 心も弱いし、意志も弱い。 唯一出来るのは、子供達や、私を助けてくれた人達を守るために力を使う事。 それが素晴らしいというのなら、私はその道を貫きましょう』

ジンガが気付いて、満面の笑顔で綾に手を振る。綾も笑みを浮かべて、それに応えたのだった。アネゴと呼ばれるのは正直綾にとって喜ばしい事ではなかったが、この少年に敬意を向けられて悪い気がしないのは事実だったのである。

 

4,粘りつく糸

 

「ぐぅおおおおおおおお! がああああっ!」

「バノッサさん、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃねえっ! 畜生、はぐれ女、はぐれ女ぁっ!」

肩の傷を押さえながら、バノッサが咆吼する。人一倍体の丈夫な彼だが、今日の戦いで受けた傷は深く、数日はまともに物も持てそうになかった。隣で献身的にカノンが看病しなければ、更に治癒は長引くだろう。医師の話によると、骨は砕けていないようだったが、一方で数日の絶対安静を命じられた。

「はあ、はあ、畜生、畜生っ!」

「バノッサさん、どうしてお姉さんを執拗に憎むんですか? 普段なら、痛めつけるって言っても半殺しですましているし、余程の事がなければ女の人に手は上げないじゃないですか」

もし他の子分がそんな事を聞いたら、絶対に許さなかっただろう。だがバノッサは、カノンに対してだけは心を開き、かつ嘘を付かなかった。

「……何で彼奴は召喚術が使える」

「え?」

「俺が使えないのに、何で彼奴は召喚術が使えるんだ! はぐれのくせに、たかがはぐれのくせにっ!」

カノンはバノッサの言葉に、怒りや憎しみよりも、別の物を感じた。それは、寂しさだった。

『そうか……バノッサさん、羨ましいんだ、お姉さんの事が。 それに……』

カノンは寂しげにバノッサの事を見つめた。彼には、義兄の心の隙間を埋める事がどうしても出来なかった。

 

サイジェントの北スラム、その一角に、複数の人影があった。皆黒ずくめで、非常に良く組織化され訓練されている。その中に、無色の派閥の幹部である、ザプラの姿があった。

「同志達よ、スペアナンバー19の情報はどうなっている?」

「はっ! 現在の周囲環境を調べ上げました。 目をお通し下さい」

「うむ。 ご苦労だったな」

かっては機械的に組織されていたのに、今は違う。ザプラはきちんと彼らをねぎらい、機械の部品ではなく血の通った同志として扱っていた。素早く書類に目を通していくザプラの前に、真の忠誠と共に、かっての部下達、今の同志達は膝をついている。

ザプラがめくる書類には、対象者の名も無論の事書かれていた。即ち、バノッサ、と。だが、無色の派閥の人間には、そんな名前などどうでも良い事だった。なぜなら、道具としか見ていなかったからである。

冷酷なようだが、自分とプライベートレベルで一切関係のない者を、口以外で人間として見る事が出来る輩はさほど多くない。良い例が日本に存在する満員電車だ。満員電車では、自分を押す手近な見ず知らずの他の者達を、(邪魔なモノ)と潜在的に殆どの者が認識している。そのほかの者達に関しては、殆どの人間が背景上のオブジェ程度にしか思っていないであろう。無論そう言われれば、口では反発するだろうが、逆に言えば口に出されて初めて認識する者が殆どであろう。無色の派閥の者達にとって、(スペア)等は丁度その程度の認識しかない相手だった。

ザプラはページをめくり、彼にとって興味深い記録を見つけてほくそ笑んだ。同志の一人が監視している存在が、其処には記載されていたからである。

「ほう? カシスと、随分面白い形で接触したのだな」

「カシスはどうしましょうか。 所在組織の戦力などは明かですが」

「もう少し泳がせた方が良いな。 おそらくスペアナンバー19の成長を計るのに有用なはずだ」

書類を(同志)に返すと、ザプラは他の(スペア)達の情報も求めた。既に絞り込みは最終段階に入っており、残りは五人を切っている。今重点的に監視している(スペアナンバー19)は、選別の最優秀候補の一人だった。

「我らがいきられる世界は、まもなく来る。 いや、我らの手で引き寄せるのだ」

ザプラが言い、部下達が頷く。暗い闇の中に住みながらも、彼らは心のつながった同志であった。

月がサイジェントを照らし、光が注ぐ。其処に住む人間達の、業を洗い流すかのように。

(続)