はぐれ
序、生贄
無数の光が注ぐ。無数の罵声が注ぐ。無数の悪意が注ぐ。周りにいる十人ほどの者達は、皆恐怖にすくみ、怯えて一カ所に固まっている。その中に、父親にすがりつき、恐怖にすくむ少女の姿があった。まだ幼い少女で、年は十歳にも達していないだろう。
「殺せー!」
自分を正義と確信した声が降り注ぐ。正義と確信しているが故、その口調に躊躇いや迷いはない。ただ殺意を持ち、相手の死を自らの正義から当然と確信している声。そんな声が、無数に周囲から降り注いでいた。
少女の右腕には、重罪者である事を示す焼き印の跡があった。まだ火傷が治りきってもおらず、血と体液が服に染みついている。数年ごとにこの焼き印は押し直されるのである。そのときの痛みは凄まじく、狂気を発してしまう者もいた。
何故周りの人達がこんな悪意を向けるのか、何でこの様な酷い目に遭うのか、少女は全く分からなかった。円状のコロシアムの中央部に、少女は恐怖と悪意に晒され立ちつくしていた。
コロシアムの戸が開けられ、中に巨大な生き物が入って来る。少女が伝説の中でしか聞いた事がない、凶暴な怪物ドラゴンであった。ドラゴンは濁った目をゆっくり周囲に向けると、空を見上げ、辺りを圧する地鳴りのような声を上げた。少女は恐怖に身がすくみ、悲鳴さえ上げる事が出来なかった。
ドラゴンは首を伸ばし、もがく一人をいとも簡単にくわえると、そのままかみ砕き飲み込む。辺りに千切れた肉片が飛び散り、鮮血がぶちまけられる。周囲の熱狂は頂点に達し、興奮にぎらついた無数の目が、悪意を生贄に向け投じた。そして、少女の父も、無惨にドラゴンに食われた。無力な子供、弱い子供。這いずって逃げる少女の服の裾を、ドラゴンが爪の先で突き刺した。そして怯える表情と涙を充分に楽しんで後、丸飲みにしようとした。
次の瞬間、五メートルはあろうかという巨大な剣が、上からドラゴンの頭を貫いた。轟く絶叫、地面に崩れ伏す巨体。騒然となる周囲、舞い降りる翼ある生き物。少女に手をさしのべたは、翼ある生き物に跨り、大剣を背負った男。
「さあ、此方へ」
男は少女を小脇に抱きかかえると、翼ある生き物に命じて空へと舞った。無数の矢が追いすがったが、どれも追いつく事など出来はしなかった。
「怖かっただろう、恐ろしかっただろう。 だが、もう大丈夫だ。 君を殺そうとする者は、私が排除する」
そういって、男は少女の頭を優しく撫でた。これが、トクランとオルドレイクの最初の出会いだった。
「クジマー。 深刻な顔で、どしたのぉ?」
「同志トクラン、何でもない。 ただ、古傷が疼いただけだ」
無色の派閥の幹部級(同志)のなかでも、年齢も組織に入った時期も近いクジマとトクランは非常に仲が良い。積極的なアプローチを繰り返すトクランに対し、クジマは普段からぶっきらぼうだが、決してまとわりつかれる事を悪くは思っていないようだった。無論トクランはクジマが何故仮面をしているかも知っていて、それでも好意を寄せていた。
「それより、同志トクラン。 君こそ、辛い任務だっただろう。 大丈夫か?」
「もういいよぉ、そんなの。 それに仕返しなら、これから幾らでも出来るしね。 こんなふうに、こんなふうに、こんな風にさッ!」
そう言って、不意に冷酷な笑顔を浮かべ、トクランは小さな腕章を幾度も踏みつけ、そのまま悪意を込めて踏みにじった。それは(金の派閥)の構成員である事を示すものであり、トクランの怨敵である印だった。持ち主は既に、彼女の召喚獣の餌食となっていた。彼女の父と同じように、まだ生きている内にドラゴンに食われたのである。ただし、トクランの召喚したものは、コロシアムにいたような小物ではなく、人語をも解する上級ドラゴン(ゲルニカ)であったが。
……トクランは、(罪を犯した一族)の末裔だった。二百年ほど前、召喚師の集団である(金の派閥)に属していた一召喚師が、大規模な召喚術に失敗し、街一つを壊滅させてしまった事がある。事件後、その街の住民に召喚師は捕まり、一族郎党に至るまでがリンチによって処刑された。準備不足、経験不足、魔力不足。その全てが揃っての失敗だったため、無論当人は罰されても仕方が無かっただろうが、無差別なリンチの対象には事件とは殆ど無関係の者も多く混じっていたのである。
此処までリンチが拡大したのには、金の派閥による後押しがあった。召喚術を失敗した者は金の派閥の総帥候補であり、ライバルから徹底的に憎まれていたのである。召喚術の失敗を耳にしたライバルはこれ幸いとその抹殺を計り、民衆の集団ヒステリーを利してそれを成し遂げたのであった。彼は助けを求めてきた者も、一切合切を暴徒に引き渡した。引き渡された者がどうなったかなど、言うまでもないだろう。
更に事態は悪化の一途を辿った。トクランの先祖は件の召喚師の従兄弟の甥のそのまた従兄弟という希薄な関係で、しかも全く召喚師などではなくごく普通の運送屋をしていたにもかかわらず、復讐の対象となった。街の住人は欲しいままの怒りを(罪を犯した一族)にぶつけた。密告が奨励され、無実のまま殺された者も多く出た。街が壊滅し、多くの人命が失われたのは事実であった。だが数十年が過ぎると、(罪を犯した一族)に対する暴力と差別が正当化され、民衆の欲求不満のはけ口ともなった。要するに彼らは、人間の本性である(弱者に欲しいままの悪意をぶつけたい)という欲求の生贄とされたのである。かろうじて生き残った者達は最貧民として扱われ、リンチと差別に晒されながら最低限の生活を送っていった。どこにでもある、人類の業が発露したのであった。
トクランが生まれる少し前には、情況は更に悪化していた。金の派閥にとって都合の悪い資料の一部を、トクランの親戚が口述の形で持っていた事が、金の派閥に知られてしまったのである。更に悪い事も起こった。トクランが暮らしている街は百七十年以上前に復旧していたが、最近は無能な領主による失政が続き、民衆の不満が徐々に高まりつつあったのである。
両者が互いの利益を求めた結果、奇怪な怪物が生まれた。それは、要するに公認のリンチであった。(罪を犯した一族)を適当に捕らえ、コロシアムにてメイトルパから召喚した下級ドラゴンの餌にするショーを繰り広げたのである。民衆は鬱憤を晴らす機会を得て喜び、金の派閥は証拠隠滅と召喚獣の性能調整実験を堂々と行う事が出来た。かくして、蛮行は二十年以上も行われ続けた。だが、現在は行われていない。その理由は、(罪を犯した一族)が、そろいもそろって失踪したからである。憂さ晴らしを失った街は、現在殺意と悪意の渦巻く魔都と化した。殆どの人間が当然のように持つ、(弱者に対して向けたがる悪意の発散先)がいきなり無くなったのだから、当然の事態であった。新たに同様のものが確立するまで、混乱は収まる事がないだろう。
トクランは、幼い頃は自分が何故罪人として扱われるのか知らなかった。だが、今は知っている。それが故に、彼女の中には、民衆の暴走を許した現在の世界と、金の派閥への憎しみが煮えたぎっていた。それは現行の世界を壊滅させ、(約束の地)を作り上げるまでは到底収まらないだろう。それを否定するのは簡単だが、目の前で実の親を(正当な理由)と称するリンチで殺害された者の気持ちを否定するのがどういう事か、それを考えて後に行うのが最低限の筋だろう。結局、強者や絶対者の視点で被害者を語っても何にもならないのである。
「じゃ、クジマー! 頑張ってねー!」
純粋な表情に笑みを浮かべ、トクランは手を振ってクジマを見送る。彼らの結束は鉄の鎖であり、誰一人崩す事など出来はしないであろう。少なくとも、その事情も知らず、強者の理屈で論じようとする者には。
……(罪を犯した一族)は、アルナ族同様、現在無色の派閥の主要構成員となっている。彼らの行動を責める事が出来る資格を持つ人間は、存在するのであろうか、いや存在しないだろう。
1,塔
オプテュスの襲撃を何とか凌ぎきったフラットのアジトには、騒然とした昨夜の雰囲気が既に失われ、穏やかさが戻っていた。穏やかな空気が包む朝の時間を、綾は布団の中で過ごしていた。だが、夢は決して安らかなものではなかった。
「綾……」
遠くから声が響き来る。闇の中に座り込んでいた綾が顔を上げると、そこには父がいた。寂しげな目で父泰三は綾を見下ろしており、呟くように言う。
「おとうさん……」
「何故逃げた? 何故私の元を離れた?」
「それは、その……」
「親不孝者め……もう帰ってくるな」
それだけ言い捨てると、泰三は闇の向こうへ歩き去っていった。鉄槌で殴り倒されたような衝撃を味わって、綾は目を覚ました。
「おとうさん!」
全身に大量の汗をかいた綾は、短い叫びと共に目を覚ました。夢の内容は嫌になるほど正確に覚えており、それが彼女の苦痛を更に後押しした。リプレに借りた寝間着を濡らしたという事よりも、その方が先に立ち、綾の心を拘束具のように厳しく締め付けていた。涙がこぼれ落ちるのを、彼女は止められなかった。
忘れていたわけではない。此処にいる皆が綾を必要と、父とは違う意味で必要としている事も自覚している。そして、故郷とフラットと、両者を天秤に掛けねばならない事も自覚していたはずだった。だが、今の今になって、ようやくその困難さに綾は思い立ったのである。
「おはよう、アヤ。 どうしたの?」
ドアの向こうからノックの音と、リプレの声がした。適当にごまかすと、綾は寝間着を脱いで、此処暫くずっと着ている高校の制服に着替えようとした。だが、リプレがそのとき、意外な事を言いだした。
「あ、そうだ。 着替えは待って」
「え? どうしてですか?」
「ドア開けるよ、いい?」
深呼吸して心を落ち着け、涙を拭うと、ベットに腰掛けて綾は笑顔を浮かべた。
「どうぞ、いいですよ」
「入るねー」
心の体制を整えてから、リプレを呼んだのである。この辺りは、リプレに対する深層心理の警戒心が出たものであろう。無意識レベルで、綾はまだフラットのメンバーに心を許しきっていないのである。だが、だからといって昨日の勇気ある行動が嘘であるという事にはならないのだが。
リプレは後ろ手に何かを隠していた。そして周りに誰もいない事を確認すると、素早く戸を閉めた。そして、妙に含みのある笑みを浮かべる。
「んっふっふっふっふ、アーヤー」
「リ、リプレ?」
「じゃっじゃーん! プレゼントよ!」
朝食時、皆が綾の事で驚いた。今までの、明らかにリィンバウムのものではない衣装を着ていた彼女が、サイジェントで普遍的な服装に替わっていたからである。これこそが昨日、リプレが夜なべをして造った衣服であった。全体的に朱色と白を基調とした服で、袖が大きく取ってあり、雰囲気的には日本の和服に似ている。肩の少し下と腹部に対称となる形でついているボタンがアクセントとなっていて、質素な生地で造ったとは思えないおしゃれな作りである。これならば、高価な生地で造れば一流店舗で充分に売り物になるだろう。しかも、リィンバウムでなく、日本でもおしゃれな服として十分に通用する。何よりも、今時珍しいほどに和風の容姿を持つ綾に、非常によく似合った服であった。リプレのセンスの良さ、さらには傑出した裁縫の才能と技術が、一目で分かる服であろう。更に、おしゃれなだけでなく、充分に動きやすく実用的な服でもあった。
「似合います……か?」
「似合う似合う。 これなら誰がどう見ても、よそ者じゃなくてこの街の住人だぜ。 それに気ぃつけねえと、あっという間にナンパされてつれてかれちまうぞ」
にやにやしながらガゼルが言う。悪意がないので、綾は苦笑せざるを得なかった。
「おおー、また一段と綺麗になったなー」
「これなら目立つ事もないだろう。 別の意味で目立ってしまうかも知れないが、それは努力次第でどうにもなる」
素直に感心するエドスと、生真面目に言うレイド。子供達はみんな綺麗だ綺麗だといい、特にフィズはませた彼女らしく目を輝かせて大喜びした。同じのを造ってとだだをこねるかとも思われたが、それはなかった。無駄な服を造る余裕などありはしないと、幼い彼女もよく分かっているのだろう。
綾は今朝、また一歩サイジェントの住民に近づいた。しかし同時に、故郷への念もまた、一段と強くなったのであった。
朝食を終えると、綾は庭に出た。自分に身に付いた力についてと、その活用法、さらには生活する上での貢献について整理しようと考えたからである。ガゼルとのコンビ戦で見せた、司令塔としての能力にまだ綾は気付いていない。故に、戦略戦術の練り込みや強化という発想はまだ彼女の中にはなかった。
まず最初に、綾は肉体の力が強くなりはしたが、未だに(集中)が無ければまともに戦う事が出来ない。特にバノッサ戦で露出した打たれ弱さは大きな課題で、今後は補強が必要となるだろう。また、(召喚)については、未知の要素が多すぎる。何故あの生物の名が不意に浮かんできたのか、そして従ってくれたのか。それら分からない点は危険要素以外の何者でもなく、無闇な乱用は危険であろう。
また、危地に当たって新しい力が覚醒するわけでもない。現に、バノッサとの戦いは今まででも最も危険な戦いであったのに、結局現行の力を使って勝利した。今後バノッサが戦いを仕掛けてこないわけがないから、少なくとも(集中)を切り札に取っておけるようになる事、更にある程度の能力強化、特に防御の強化は重要となるだろう。
『まず、集中をもっと自在に使いこなせるようにならないと。 そして、集中を使わなくても戦える術を身につけないと』
心の中で呟くと、綾は集中を使っている際のイメージを頭の中に浮かべていった。力がどう流れるか、どう叩けば崩れるか、或いは投げられるか、防げるか。集中について、綾は徐々に分かり始めてきている。要は思考限定の加速能力であり、その副作用として生物的な、いわゆる(野生の勘)も強化される力である。ならば、普段から自分の体を扱う術を身につけておけば、その力は累乗的に増すのではないだろうか。
レイドは騎士と言う事もあり、明らかに基礎の戦闘術を学んでいるが、それに頼るのではなく自分で力を開発すべきだと綾は考えた。なぜなら今彼女は白紙から自分を作り上げている途中であり、自ら築き上げたもので周囲の信頼を勝ち取りたいと考えていたからである。一旦息を吐くと、具体的にどう自己の力を高めるかは後回しにし、綾は次へと思考を進めた。
続いて生活面での貢献であるが、多分な例に漏れずお嬢様である綾には、残念ながらまともな生活能力がない。習い事(文化系限る)だの日本の学校で役に立つ勉学知識だのの習熟度は他の追随を許さないが、実際に生きていく上での実行知識は皆無に等しい。故に、綾はそれに他の追随もないほど習熟しているリプレの事を羨ましいと思うのである。
唯一綾がまともに出来る生活貢献作業といえば、以前父に連れて行って貰い、以降も密かな趣味となっていた釣りくらいだろう。最近は蚯蚓どころか魚もさわれない同級生がごくたまにいたが、綾は平気だった。確実に自分に出来る事を見つけて、綾は少しだけ嬉しくなった。さっそく実行に移す事を思い立ち、台所に行くと、ためた水でリプレは洗い物をしていた。水は一立方センチあたり一グラムとかなり重い物質で、水道が公共であるこの街では水汲みがかなり重度の労働になる。これも手伝えそうだと、綾はまた少し嬉しくなった。
「リプレ、釣り道具ってありますか?」
「あるわよー。 ただ、古いから扱いは気をつけてね。 物置の右側の棚の三段目に、少しだけ付属の備品もあるけど、私釣りは詳しくは知らないから自分で何とかしてね」
流石にリプレ、普段使わないものであろうに、それでも何処に何があるか完璧に把握している。また物置もあまり埃っぽくなく、常日頃から整理を欠かさないリプレの緻密な性格が伺われた。
幸い、釣り道具は大体一式が揃っていた。多少現代日本で使われているものと違う部分もあったが、それは致し方があるまい。良く撓る木を使った餌釣り用の竿で、リールはない。荒削りな竿であり、高級品しか触った事のない綾は少し不安を感じて心中で呟く。
『多少強度に不安がありますね。 小物を少し釣って、様子を見ましょう』
アルク川にたどり着いた綾は、小さな帽子をかぶり、釣りが出来そうなポイントを探した。現在アジトにはガゼルが残っているし、それにオプテュスの者達も幾ら何でも昼間からは仕掛けてこないだろう。逆に、繁華街に行くときは、昼間でも気をつけねばならない。
手慣れた手つきで餌を付け、狙った箇所に的確に針を落とす。父には一度しか連れて行ってもらえなかったのに、また父が連れて行ってくれる事を期待して身につけた技術の数々。実の娘では無いという、現代日本では希なケースになる出自への負い目引け目。一見軟弱にも思えるが、同一のケースでどれだけの人間が強くなれるであろうか。
十分ほどが過ぎて、一匹目がかかった。魚が針にかかる瞬間を的確に見きり、力を加える。餌を突っついた瞬間ではなく、飲み込んだ瞬間を正確に把握し、口に針を引っかけるのだ。元々綾は要領がいい方ではなかったが、逆にそれが故、苦労の末周りの釣り人などにも教えて貰ったコツは体に染みついている。引っかかった魚は必死に逃げようとするが、その力を無理にねじ伏せようとはせず、徐々に弱らせ、だが確実に手元へたぐり寄せていく。魚は必死に抵抗したが、勝利したのは綾だった。空中で糸に吊られて跳ねる魚を、綾は掴み、心中で呟いた。
『わあ、結構大きな魚が釣れましたね。 牙が鋭いから気をつけないと』
手慣れた動作で針を外す、綾の口元が自然とゆるんでいる。意外と竿が丈夫だとわかり、もう少し大きな獲物もねらえそうだとも分かったからである。続けて三十分もしないうちに次が釣れ、昼少し前には十匹を超す釣果が上がっていた。下流は汚くなる一方だという話であるが、この辺りのアルク川は実に自然豊かな、釣りに適した川であった。充分に満足して、綾は帰ろうと思ったが、そのとき気付いた。
『そうか、そうでしたか。 集中の時のイメージ、どこかで感じた事があると思ったら、お魚さんを釣るときの感覚に近いんですね』
魚を持ち帰ると、無論喜ばれた。いずれも毒がある魚や食べにくい魚ではなく、充分に食用に耐える、しかも美味な魚であるという。感謝するリプレを見て、ようやく綾は少しだけ恩を返せた気がした。
釣り道具をきちんと片づけると、綾は釣りのイメージと集中のイメージを思い浮かべ比べながら、日本刀を持って外に出た。庭は丁度いい広さがあり、体を動かすのに非常に適した場所だったからである。日本刀を立てかけると、太めの庭木の前に立ち、綾は深呼吸した。打撃攻撃に手応えを感じたら、日本刀で戦う訓練もしようと考えたのである。
『どちらも重要なのは、力をどう流すか、タイミングをどう取るか、的確な箇所への攻撃をどう行うか、ですね。 今の私は、男の子と同じくらいの力という強みもありますし、どういう訳か非常に感覚的な掴みが早くなっています。 集中の際に、体を動かすときに感じる力の流れをイメージしながら……』
自然と腰を据えた理想的な構えを取りながら、綾は動いた。誰にも教わらないのに、戦いの際に取るべき構えを知っているかのようである。木へ向けて、綾は鋭い掌底突きを繰り出す。本能的なレベルで、拳を固めるよりも打撃には此方が有効だと彼女は悟っていたのだ。短い空白の跡、鈍い音がして、木が揺れた。同時に、手首を押さえた綾が、涙目で地面にへたり込んだ。
『い、いたい……です』
しばし無言で綾は蹲っていたが、やがて気を取り直して立ち上がった。痛いのには慣れていると言う事もあるし、泣き言を言っている場合ではないと言う事もある。
『で、でも、イメージは掴めました。 集中を使ってないのだから、最初は失敗して当たり前です。 もう一度、今度は足で!』
同じように構えを取り、腰の据わったいい蹴りを哀れな木に見舞った。そして、結果も再現された。
『い、い、いたい……凄く……いたいです』
同じようにしばし悶絶した後、埃を払って赤面しながら綾は立ち上がる。何故か恥ずかしくて、誰にも見られたくないと考えながら。そして、考え事を始めたため、目の前で不思議そうにアルバが見ている事にも綾は気付かなかった。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
『痛かったけど、前よりは手応えがありました。 多分、自分の体に上手く力が伝えられていないんですね。 次はもう一度、掌で……』
「ねえ、お姉ちゃんってば!」
「えっ? わっ、アルバ、どうしたんですか?」
ようやく気付いた綾が、目の前にいたアルバに驚いて一歩後ずさった。アルバは右手に棒を持ち、それを揺らしながら不思議そうに言う。
「オイラ、ずっとさっきからいたってば。 それよりお姉ちゃん、何してるの? 新しい遊び?」
「え、えーと」
『あはははは、そ、そうですよね、遊びにしか見えませんよね』
アルバに何と応えようかとして綾は何気なしに上を見て、そのまま硬直した。木の枝に、何か光るものが引っかかっているのだ。しかも、それは今にもアルバの上に落ちそうであった。
「アルバ、危ない!」
「へっ?」
体が先に動いていた。そのまま綾はアルバを守るべく、抱きかかえて飛び退こうとしたのである。しかし、運命は過酷だった。綾の頭がアルバの頭の上に来た瞬間、木の枝に引っかかっていた何かが落下したのである。それは狙い違わず、綾の後頭部を直撃した。金属音が響き渡り、頭を押さえて綾はうずくまった。日本ではいつものように遭遇していた不幸が、何食わぬ顔で、リィンバウムでもその偉大なる存在感を示したのだった。
「お、お姉ちゃん! 大丈夫!?」
「だ、大丈夫」
だから、頼むから大声を出さないでくれと綾は言おうとしたが、果たせなかった。不幸をいつものように悪気無い人災が追い討ちする。
「母さん! お姉ちゃんのアタマに、金ダライがっ! ほら、前イタズラして木の上に投げた奴が落ちてきて当たっちゃったんだ! 早く来て!」
案の定頭に響きまくる甲高い大声でアルバがリプレに助けを求め、ますます綾は意識が遠くなるのを感じていた。更にとどめとなったのは、リプレの行動だった。
「アヤ! 大丈夫!? しっかりしてっ!」
『リ、リプレ、や、やめっ、やめてっ、や……はふ……』
リプレは悪気なく、綾の肩を掴むと、前後に激しく揺さぶったのである。さながらコップが粉々に砕けるように、とどめを刺された綾の意識は闇へと落ちた。
その後、休憩を挟んで五時間ほど綾は木に攻撃を繰り返したが、結局手応えは感じる事が出来なかった。無論日本刀での戦闘訓練などする時間はなく、結局企画倒れに終わった。また、新しい能力の開発も結局出来ず、飛躍的な能力強化にはつながらなかった。
案外鈍く抜けているが故に、綾は気付いていない。そんな事をすれば普通皮はむけ肉は傷つきかなりの惨状になる事は疑いない事を。なのに、多少の痛みは残りつつも、綾の手は皮一つ剥けていなかった。足も同様であった。
夕食には魚が出た。食べきれない分は、干し魚にして保存食にするのだとリプレは言った。調味料などそう手に入れられない情況であるが、リプレは素材の味を存分に生かし、素朴ながら実に味わい深い魚料理を造った。やはり彼女は、フラットの(母)であった。
「明日からも、暇を見つけてはお魚さんを釣ってきますね」
「ええ、お願いね。 家計が浮いて助かるわ」
「しかし意外だな、お前さんがこんなに魚釣りが達者だとは。 結構なんでも出来るもんだな」
「ううん、私は何も出来ません。 本当に……」
実際には何も出来ないのに、いつも綾は(何でも出来て羨ましい)と言われていた。それがとても悔しく悲しかった。その歴史が再現されるかと思い、綾の口調は自然と重くなった。だが、エドスは、日本の自称(友人)達とは違っていた。
「そうか、でも魚釣りの腕は大したもんだ。 それについては保証するぞ」
「ありがとうございます」
「明日から、楽しみが一つ増えたわい」
大笑しながら、エドスは自室に戻っていった。おそらく(何でも出来る)と言われる事を嫌がるのを、的確に察してくれたのだろう。そう綾は自然と悟る事が出来、また少しだけ嬉しくなった。彼女は、仲間達の中にいた。
2,荒野へ
夜の闇の中、カシスは一人膝を抱えていた。廃屋の中、気配を殺して。彼女の視線の先には、そこそこ大きな建物があり、明かりがついていて時々話し声が漏れている。楽しそうと言うわけでもないが、暖かい雰囲気のする話し声であった。
ここ数日、カシスは徹底的に例の事故で召喚されてきた娘を観察していた。その娘は仲間から(アヤ)と呼ばれ、確実に不可思議な力を使いこなし、かつそれに習熟し始めている。これ以上実力を伸ばすようだと、始末するにしても監視するにしても都合が悪い。下手をすると気配を察され、先制攻撃を貰う可能性さえある。カシスは髪の毛をかき回すと、思索の練り込みに入った。そして、自分のもう一つの目的と重ね合わせ、僅かに目を細めた。
ここ数日で、カシスは複数の人間の言動をコピーし、客観的に見て(明るい子)になった自信がついていた。しかし、流石に人間と直接接してみなければ、その成果が完全かは分からないだろう。故に、違和感なく人間社会にとけ込む必要があった。
(アヤ)と呼ばれる娘と、その仲間達が明日サイジェントの外で何かしらの行動を起こす事を、既にカシスは掴んでいた。もし策を実行するなら、それが一番の好機であった。闇の中、全く無表情で、カシスは呟く。
「クラレット……ガルガンチュア……私、生きるよ。 明るい子になって、生きる」
「すみません、何もかも、お世話になってしまって」
「気にするなって。 そんな事より、留守は大丈夫か?」
「奴らも、流石に昼間から南スラムに侵入しはしないだろう。 奴らに反感を持つ南スラムの人間は大勢いるし、流石に武装した連中が昼間から大人数で彷徨けば騎士団も黙ってはいないだろうしな。 それにいざとなっても、此処にはリプレがいる。 彼女なら何とかするだろう」
午前中の空き時間を利して、綾が召喚された場所を調査する。そう言う提案をしたのはレイドだった。話は綾を置き去りにとんとん拍子に進み、もう実行計画へと移っていた。レイドもエドスも時間の調整を既に終えており、綾は何度も感謝しながら彼らの好意を受け入れた。これは、彼女としても、今後は更に発憤してフラットのために戦わなければならないだろう。それが義理というものだ。
調査等の場合、複数人数で行った方がいいのは言うまでもない事である。どんなに論理的客観的にものを見る事が出来る人間でも、それには限界があるからだ。どちらかといえば綾はかなり客観的にものを見る事が出来る方であるが、まだこの世界での知識は赤子に等しいし、それである以上他者による検分は大いに有為であろう。それに、多少強くなり始めはしても、自分に自信がない事、他者の意見を断ることがなかなか出来ない事、それに変動はなかった。
話が半ばにさしかかると、居間にフィズが入ってきた。どうもトイレに行く帰り、話し合いを見かけて興味を持ったらしい。知性溢れる瞳に興味を輝かせて、おしゃまな女の子は言った。
「大人だけで何話してるの?」
「え? えっと……」
「悪いな、フィズ。 ちょっと重要な用事なんだ」
「いーっだ! ガゼルなんて嫌い!」
苦笑する綾の前で、フィズが駆けていった。
翌朝早くに出発する事が決まり、あれよあれよというまに実行された。どこかに出かける事を悟ったフィズは朝もぐずっていたが、レイドが着いてきては行けないと釘を差し、黙らせた。完全武装するわけにも行かず、レイドは剣を持ち、ガゼルは投げナイフを数本、綾は刀を持ったが、防具の類を持ち出すわけには行かなかった。エドスは元々優れた力と頑強な肉体の持ち主であったし、何より徒手空拳での戦いが一番得意であったから、何も武器は持たなかった。
城門の方角を目指すかと綾は考えたが、それは違った。むしろその正反対の方向に皆は向かった。強固な城壁が、そこでは破れており、数人が通る事が出来た。そう、此処こそ、綾がサイジェントに入るときに使った場所であった。堀は相変わらず枯れており、何も問題はなかった。身をかがめる事もなく、穴を通りながら、綾は言う。
「どうして、この城壁は壊れているんですか?」
「ん? ああ、ここは俺達が生まれる前の戦争で、召喚獣がぶち抜いたって話だ。 それで、修理せずに放ってあるのさ。 この穴の辺りがスラムなのも、金のある奴は誰も住みたがらないからさ。 戦争になったときはヤバイし、外には(はぐれ)もいるしな」
「(はぐれ)? それは何ですか」
「化け物だよ。 この辺りじゃ、二足歩行する大きな蜥蜴や、カボチャみたいな頭の怪物が有名だ。 どっちも肉食で、しかも凶暴だ。 蜥蜴の方は五〜六体で群れを造って組織的な行動さえする。 騎士団が何度か討伐してるから殆どの場合街の側には近寄らないが、旅人が襲われたらまず助からないな。 カボチャみたいな奴は口から酸を吐くから、襲われたら殆どの場合死体すらも残らない。 恐ろしい奴らさ」
町の入り口で、騎士隊長と呼ばれた男が、何故町の中にはいるように促したか、ガゼルの言葉で綾はよく分かった。町の外で夜もうろうろしていたら、今頃骨も残さず食われてしまっていただろう。野宿などもってのほかである。
『それにしても、城壁を修復せず、自分の城だけを立派に造るとは、何を考えているんでしょうか。 民無くして国などあり得ないのに。 そんな事も分からないなんて、この街の領主さんは、本当に無能なんですね……』
「そう深刻な顔するなよ。 昼間に出る事はまず無いし、こっちの人数も多いから大丈夫だ。 強いって言っても、勝てない相手じゃない。 さ、行こうぜ」
「あ、はい」
流石に綾が考えている事までは分からなかったようで、ガゼルはそんな事を言った。
街から出てずっと東に行くと、綾には見覚えのある地形が幾つもあった。ただ出鱈目に逃げていればまず辿り着けはしなかっただろうが、綾は逃げる際に影をきちんと見て、西に西へと進んでいた。それが功を奏し、迷う事はなかった。半時間ほど進むと、周囲は(荒野)としか表現し得ない場所となり、そしてあのクレーター状の場所が現れた。辺りは相変わらず荒涼としていたが、もう死体は残されていなかった。代わりに大きな足跡が幾つかあり、何かを引きずっていった跡が残っていた。炭化した死体でも、喜んで頂く獣が生息しているのであろう。
周囲には、見事に何も無い。サイジェント南部に存在する森の側には、多少の人家があるが、この荒野には人の気配すらなかった。それに植物もまばらで、昆虫等の小動物も殆ど姿を見せない。
「昔はこの辺りも、綺麗な草原だったんだが、工場排水を捨てたとかでこの通りさ。 近いうちに、サイジェントには誰も住めなくなるかもな」
所在なさげに辺りを見る綾に、ガゼルがぼそりと言った。環境アセスメントなどという概念が出るのはまだまだ当分先であり、進歩万歳汚染黙認の時代であるといっても、やはり住民の本音から言えばおかしいと言いたくもなるのだろう。
『どの世界でも、人の業が世界を傷つけていくのは同じなんですね。 こうやって世界を傷つけないと、人の豊かさは作れない。 技術は発展しない。 だから、止めろとはいえない。 でも、それを繰り返していると、いつか四日市や水俣のように、自然の復讐が始まる……』
「酷い話ですね」
「だろ? でも、ここはこれでもまだマシな方なんだ。 鉱山に行くと、三年で死ぬって言われてる。 鉱山の周りはもうすっかり禿げ山になっちまって、はぐれでさえ寄りつかねえってよ」
『産業革命の際の英国の炭坑でも、十七時間に達する労働と劣悪な労働環境、それに鉱山病とで、三年働くと死ぬと言われていたそうですが、ここも情況はそっくりですね。 ……何処の世界でも、人のする事は同じなんですね』
綾は小さく嘆息すると、ガゼルと共に皆の処へ戻った。辺りをざっと見回すと、剣を突き立て、レイドは言う。
「見ての通り、安全とは言い難い場所だ。 早めに調査しよう」
一も二もなく頷くと、四人は周囲に散った。綾はガゼルと一緒に、穴の底までおりてみた。自分が倒れていた場所は、あいもかわらず其処に存在していた。
「ここで、私は倒れていました」
「殺風景な場所だな。 地面に焦げ跡が残ってる。 大きな爆発でもあったみたいだな」
「……周りに、焦げた死体が沢山落ちていました。 私のせいで、みんな死んでしまったんでしょうね……」
無惨な光景を思い出して俯く綾に、少し上の方を調べていたエドスがフォローを入れた。
「いや、それは違うぞ。 お前さんはむしろ被害者だろう。 気にするな」
「そう言うこった。 むしろアヤ、お前は怒っていい立場なんだぜ」
ガゼルが肩を叩いて笑うと、綾の表情が僅かに和んだ。そして何か言おうとしたとき、上からレイドの声が落ちてきた。
「ちょっとこっちへ来てくれ!」
「何かあったんですか?」
「ああ。 皆にも見て欲しいんだが」
レイドが膝を突き、凝視していた先には、幾何学的な模様があった。全員が穴の底から這い上がってきたのを見届けると、それを指し示しながら言う。
「この模様、みた事がある。 以前召喚師が、異界から召喚獣を呼び出すときに魔法陣を書いていたが、それに酷似している」
「てことは、アヤはやはり」
「ああ、異界から召喚された事に間違いないだろう。 そして、帰るには召喚師の助けが必要だ。 疑っていたわけではないが、これで確実になったな」
レイドが手を払って立ち上がり、綾をみた。他の者達も、小さく頷いたり、思索を巡らせたりしていた。
「これからどうしましょうか」
「取り合えず、模様をメモしておこう。 それに、他にも辺りに模様が残っているかも知れない。 もう少し辺りを調べるのが良いだろうな」
「いや、どうやらそうも行かないみたいだぜ」
「そうらしいな。 どうも付けられてたらしい」
ガゼルとレイドが相次いで振り向き、それにつられて綾も振り向いた。視線の先には、バノッサと彼の配下の者達がいた。バノッサは既に抜剣しており、殺気を目に爛々と湛えていた。
「よぉ。 こんな処に来るとは、随分不用心じゃねえか」
「ちょっとした用事があってな。 用がないならさっさとどけ。 邪魔だ」
「そう言うわけにもいかねえだろ。 俺としても、貴様らに借りを返すいい機会なんでな」
バノッサの配下の数は九人、数日前の交戦時を凌ぐ戦力である。しかも今回、綾達は穴を背後にしており、逃げ道がないのだ。情況は前回よりも著しく悪いと言えるだろう。
素早く綾は左右に目を向け、周囲の地形を頭に叩き込んだ。この様な場所で、囲まれてしまえばまず勝ち目はない。包囲を突破するか、或いは敵を各個撃破する工夫が必要となるだろう。数秒の思索の後、綾は策を練り上げ、小さく頷いた。
「私が合図したら、みんなで穴に添って右に走ってください。 考えがあります」
「……。 分かった」
「さーて、覚悟はいいか? てめえら、やっちま……」
バノッサが言い切る事は出来なかった。素早く小石を拾い上げた綾が、バノッサの隣に立つ男へそれを投じたからである。狙い違わず小石は男の胸を直撃し、悲鳴を上げて男は蹈鞴を踏んだ。同時に、四人が地を蹴り、穴に添って右側に走る。
「野郎っ! 逃がすな!」
激高したバノッサが叫び、全員が同時に走り出す。石を喰らった男も致命傷を受けたわけではなく、顔中に怒りを湛えて走り出した。だが機先を制された事、有利な状況で油断していた事、もあろう。なかなかバノッサは綾に追いつけなかった。
「畜生、だがこの辺りは殆どが荒野だ! 逃げられると思うな!」
バノッサの咆吼に、綾は応えない。それがますます殺意の塊である白き男を刺激した。しばし、穴を挟んでのおいかけっこが続いた。その途中、ガゼルは逃げるばかりでなく、的確なナイフ投擲で二人を叩き倒した。業を煮やしたバノッサは、部下を二手に分けて挟み撃ちにしようとした。三人が逆側に走り出し、それを見た綾が足を止めた。
「今です!」
「おうっ!」
そのままガゼルとレイド、それにエドスが三人の方へ走る。綾は逆に、バノッサの方へと走り出した。敵が二手に分かれた事に、バノッサは一瞬躊躇したが、綾が一人で此方へ向かってくる事をみて、舌なめずりして剣を構えた。だが、綾は走りながら、大声でわざと言った。
「樋口綾、召喚術、行きますっ!」
「なっ! き、貴様っ!」
「ひっ!」
バノッサも驚いたが、それ以上に彼の部下達は逃げ腰になった。更に綾の全身を蒼い光が包むと、悲鳴さえ漏らした。数日前の夜にみた、あの召喚獣は、彼らの心に多大な恐怖をもたらしていたのである。しばし睨み合いが続いたが、一番最初に立ち直ったのはバノッサだった。この辺りは、流石オプテュスの首領だろう。
「ひるむなっ! あの召喚獣、それほど攻撃範囲は広くねえっ! 五人がかりなら、恐れる事は何も……」
「誰が、五人だって?」
「何っ!? がぐっ!」
横殴りの一撃を受けて、バノッサが吹っ飛ぶ。彼の部下達も、皆地面に倒れもがいていた。顔を上げたバノッサの目に映ったのは、手の埃を払うエドスの姿だった。レイドもガゼルも、殆ど無傷でその場に立っていた。
何の事はない、元々個人個人の能力で遙かにバノッサの部下達を凌いでいたレイド達は、向かってきた三人をそのまま撃破すると、綾が時間を稼いでいる内に残った敵本隊の背後から襲いかかり、叩きのめしたのであった。綾が嘆息し、額の汗を拭う。軽く(集中)の力を使い、敵の気を引いている間も、彼女は見破られたらどうしようと冷や冷やしていたのであった。
剣を穴の底に蹴り落とし、ガゼルはバノッサを見下ろした。口調には、自然と余裕が含まれた。
「さあーて、形勢逆転だな」
「ハン、それはどうかな? カノン!」
「はいはい、今行きますよ」
だが、バノッサは落ち着いていた。そして、彼の呼びかけに応じて、岩の影から非常に大人しそうな少年が顔を出した。いや、(大人しそう)を通り越して、優しげな女の子のような顔立ちである。少年は感じの良さげな笑みを浮かべると、綾に言った。
「はじめまして、お姉さん。 僕、カノンといいます。 これでも一応バノッサさんの義弟なんですよ」
「あ、はい。 はじめまして、カノンさん。 私、樋口綾と言います。 最近この街に来ました。 どうかよろしくお願いします」
殆ど反射的に笑顔で、丁寧な礼を綾は返していた。お辞儀の角度は、流石は良家の子女、誰が見ても完璧であった。ついさっきまで戦っていたとは思えない和やかな雰囲気が場を包んだが、バノッサは語尾を荒げた。
「カノン! 何挨拶なんかしてる! さっき捕まえた彼奴を見せてやれ!」
「はいはい、そう大きな声を出さないでください。 ほら、大人しくしてね」
カノンが岩の影から引っ張り出したのは、縛られ猿ぐつわを噛まされたフィズだった。どうやら意識はあるようだが、その顔は恐怖に引きつっている。ゆっくり立ち上がると、バノッサは勝ち誇った。
「あのガキはなあ、お前らをつけていたのさ。 いい切り札になったぜ」
「子供を人質にするとは……恥を知れっ!」
「はん、知るか! さあ、武器を捨てろ! カノンはなあ、ああ見えてものすげえ力の持ち主だ。 ちょっと加減を間違えれば、あんなガキの細い首なんてひとたまりもねえぜ?」
「くっ……」
レイドが拳を振るわせながら、愛剣を地面に放った。皆もおいおい、それに習った。
3,カシスとの出会い
「どうだ、いい気分だろ?」
バノッサの部下達が、遠慮無くフラットのメンバーをいたぶっていた。抵抗出来なければ、エドスの力も、レイドの剣技も、ガゼルの素早さとナイフの技も、何の役にも立たない。小さな岩に腰掛けて、ふんぞり返るバノッサの前で、綾は二人に剣を突きつけられてへたり込んでいた。拳を浴びても、蹴りを受けても、誰も悲鳴を漏らさない。それは悲鳴を漏らすよりむしろ痛々しい光景で、綾は震えながら言った。隣では、フィズが地面に転がされ、蒼白になって涙を流している。
「や、やめてください」
「てめえは後だ。 そいつらが動けなくなるまでいたぶったら、壊れるまで俺の子分共にまわさせる。 そんでてめえがぶっ壊れたら、そいつらをぶっ殺して、てめえとそのガキもろともその穴に放り込んでやるぜ。 ククククククっ、夜のこの辺りははぐれのテリトリーだ。 みんなで仲良く、はぐれの餌になるんだな」
舌なめずりしながら、バノッサは言った。綾は自分がされようとしている事よりも、むしろ仲間達がされている事の方が辛くて、涙が流れそうになるのを必死にこらえなければならなかった。泣いても何の解決にもならないし、連中を喜ばせ調子づかせるだけだった。
カノンはすでにいない。バノッサの部下達がリンチを始めたら、心底嫌そうな顔でもう帰るといいだし、本当に帰ってしまったのだ。どうもバノッサとは、本当に正反対な存在のようである。バノッサは、綾の背中を蹴飛ばした。そして、頭を踏みつけながら、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ところでよ、てめえには聞きたい事がある。 なんでてめえは、召喚術を使える? 見たところ、召喚師とも思えねえし、使いこなしているようにも見えねえ」
「し、知りません。 本当に分からないんです」
「ああん? そんな訳があるかっ!」
「本当です。 どうも私、この世界に余所から召喚されたみたいなんです。 そのせいかもしれません」
バノッサは綾の髪を掴んで、無理矢理立たせた。そして、腹に容赦なく拳の一撃を打ち込むと、咳き込む綾の顔をのぞき込みながら続けた。
「フン、そうかそうか、要するに貴様は(はぐれ)だったわけか。 人間じゃなくて、はぐれだったわけだな。 クハハハハハハハハハハ、此奴は傑作だ!」
「は……ぐれ?」
「良い事を教えてやる。 はぐれってのは、(はぐれ召喚獣)の事だ。 人間ってのはこの世界で生まれ育った奴の事を言う。 召喚された奴は、どんな形をしていても(召喚獣)っていうんだよ。 おおかたお前は召喚師に召喚されたはいいが、(役に立たない)(使えない)って判断されて捨てられたのさ。 仕えるべき召喚師から捨てられて、野生化した奴を(はぐれ召喚獣)という。 お前は(はぐれ)なんだよ、はぐれ女!」
更にバノッサは綾の腹に一撃を浴びせると、つまらなそうに地面に放り捨てた。綾はショックで心が麻痺するのを感じていたが、その脳裏に再び声が響き来た。以前、初めて塔のイメージを覚えたときに、聞こえ来た声だった。
「よぉ。 なんだ、もう終わりか? 情けない奴だな……」
「……」
「にしても、自分より弱い奴に(使えない)呼ばわりされて黙ってるんじゃねえよ。 ほら立てよ。 テメーの力はまだ一割も覚醒してねえんだ。 それに、今もほら、また天井破れるだろ?」
確かに声の言うとおり、綾は(塔)の天井が破れる手応えを感じた。しかも、二枚である。ここ数日、体を鍛練していたのが効いたのかどうかは、まだ分からなかったが、ともかく次の力へ進む事が出来る。更に、バノッサもその部下達も、皆油断している。反撃するなら今だった。唇を噛み、綾は拳を固めた。此処で負けるわけには行かないのだ。負けたらフラットの仲間達も、フィズも殺される。それに、リプレ達だって、後で殺される可能性が非常に高い。綾の中に、炎が燃え上がり、それは意志の力へとつながっていった。声が嬌笑し、消えていく。
「ひゃはははははは、それでいい! さあやれ、やっちまえっ!」
塔の天井が、二枚同時に、粉々に砕き壊れる。その破片が、綾の周囲に降り注ぐ。強烈なイメージが全身を覆う中、ゆっくり綾は右手をバノッサに向けた。バノッサがそれに気付くのと、綾の新能力が発動するのは同時だった。
綾の全身を蒼光が覆う。そしてそれは一点に収束し、バノッサに向けて放出された。蒼い光の球は、油断したバノッサを直撃し、数メートルも吹き飛ばした。椅子代わりに座っていた岩の後ろに転げるバノッサ。綾は日本刀を拾い上げると、呆然とする男一人に躍りかかり、峰打ちで見る間に叩き伏せた。これでフィズは自由になった。
「こ、このっ!」
叫ぶ今一人、流れるような動作で綾は振り返ると、滑るように脇腹から肩口へ抜ける太刀筋で峰打ちを決めた。苦悶の声を上げ男が倒れるのと、レイドが叫ぶのは同時だった。
「エドスっ!」
「おうっ! おりゃああああああああっ!」
絶叫した巨漢が、良いようにリンチをしていた男を放り投げ、更にもう一人を殴り倒した。ガゼルとレイドも立ち上がり、力を使った直後に頭を押さえて膝を突いた綾の周囲に集まる。バノッサは気絶しておらず、剣を杖代わりに立ち上がり、殺意を込めて咆吼した。そのタフさ、執念、なかなかに真似出来るものではない。バノッサ配下も、先ほどのダメージから立ち直りきっているわけではないが、六対四の数的アドバンテージは大きい。
綾は痛む頭を押さえながら、何とか頭を整理していった。震えるフィズを抱きしめながら、必死に呼吸を落ち着けていく。
『今覚醒した力は……力を収束させて飛ばす能力と……もう一つはおそらくある程度の戦闘技術ですね。 集中を使わずとも、これである程度は……戦えます。 でも、後者は永続的に使えるようですが、前者は……集中以上に、消費が大きいし……召喚術より威力が落ちるようですね』
「くっそ、逃がすんじゃねえぞっ! 行けっ!」
バノッサが叫び、周囲から武器を手にその部下達が襲いかかる。専守防衛を余儀なくされている上に、フィズという荷物を抱え、更に綾もすぐには戦えない。情況は極めて不利であり、綾は覚悟を決め、命に代えても皆を守ろうと考えた。そして、最後の力を振り絞り、(ヴォルケイトス)を呼び出そうとした彼女の前に、不意に新たな影が現れた。
それは、女であった。栗色のショートヘアーを持つ、動きやすそうな衣服に身を包んだ娘であった。年頃は丁度綾と同じくらいだろう。しかも、今の綾には、相当な使い手である事が一目で分かった。無言のまま彼女は、素早く印を切った。そして突然の乱入者に驚くバノッサの部下達に、躊躇無く(召喚術)を叩き付けたのである。
「唸れ、光将の剣群!」
数本の細い剣が空間の裂け目から現れ、そのままバノッサの部下達の足下へと突き立った。悲鳴を上げて後ずさる彼ら。包囲の一角が崩れたのは勿論、それは反撃の契機ともなった。攻勢に転じたレイド、エドス、ガゼルに加え、更に(ヴォルケイトス)を召喚した綾の一撃がとどめとなった。一人、また一人と叩きのめされるバノッサの部下達。バノッサは頭から血を流しつつ、親の敵でもみるような目でその様を見ていたが、やがて吠えた。
「撤退だっ! 畜生、この借りは必ず返すからなっ!」
「へっ、負け犬が……遠吠えだけは立派でやがるぜ」
ガゼルがへたり込み、逃げ行く敵を見送った。どのみちもう、誰にも敵を追撃する余裕など残ってはいなかったのである。綾に至っては、残る力をもう全部使い切ってしまい、立ち上がる事さえ出来なかった。
「大丈夫か? アヤ」
「少し休めば、なんと……か」
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私が、みんなの言いつけ破ったりしなければ」
「ううん、無事で良かったです」
自分にすがって泣くフィズの頭を撫でながら、綾は何とか生き残る事が出来た事実をかみしめていた。本当にギリギリの戦いであり、死者が出なかったのは奇跡に等しい。朦朧とする頭の中、綾はふと助けてくれた女の子の横顔をみた。まるで、人形のように、何も感情のない顔だった。だが、一瞬後、振り向いたその顔には大事な線が何本かきれたような底抜けの明るさが浮かんでいた。女の子は、無邪気な笑顔を浮かべながら、手を振って近づいてきた。召喚師と明らかに分かる相手に、特にガゼルは警戒するが、女の子はまるでお構いなしだった。
「やっほー! 無事だった?」
「無事に見えるかよ。 召喚師様が何用だ?」
「ノンノン、命のお・ん・じ・んにそーゆー態度は関心しないなー。 お仕置きよ!」
そのままカシスは拳を固めて、ガゼルの頭にそれをうち下ろした。呆然とする皆の前で、女の子は綾に向き直り、更にオンリーショーを続けた。
「私はカシス。 見習いの召喚師で、貴方の事情を知るもの、よ」
「は、はあ」
カシスはにんまりと笑うと、ウィンクまでして見せた。
「まあ、ここで立ち話をするのも何だし、安全な所までいこっか。 さあ、ささっと案内して、ささっと」
そのままカシスは、フラットのアジトまで、何食わぬ顔をして着いてきた。更に、半ば公然と、そこへ住み着く事に成功してしまうのである。
フラットへ、大きな力が集まりつつある。その契機となる出来事の、これは一端であった。
不審の目を向けるガゼルとエドス。腕組みして目をつぶるレイド。どぎまぎする綾の隣に座り、カシスはにんまりと笑みを浮かべていた。リプレはというと、フィズを伴って消えて以来戻ってきていない。おそらくフィズは、今頃相当厳しいおしかりを受けている事だろう。リプレは子供達には優しいが、それが甘い事につながるとは到底思えない。今までの様子からして、子供達がおいたをした場合、特に今回のような致命的なおいたの場合は、リプレは鬼と化して怒る事はほぼ疑いがなかった。
カシスの召喚獣、平べったい紫色の板に釘のような赤い突起が一つだけ出ている(聖霊リプシー)の使った魔法で、皆の傷は既に治っている。だが、その程度で皆の不審を解くのは不可能だった。ガゼルに至っては、声に露骨に敵意を含ませていた。
「で、どういうことなんだ?」
「んー、結論から言うと、事故だったのよ」
「事故ぉ?」
「そ、事故よ事故。 要はあそこで大規模な召喚術が行われてて、それが見事に失敗、大爆発ー。 本来呼ばれるはずの召喚獣が呼ばれずにー、彼女が来ちゃったのよ。 私は儀式に見習いとして隅っこの方で参加してたんだけど、何とか逃げ延びて、今此処にいるわけ。 見習いだったから、魔法陣の外側にいたのが幸いしたわ、アハハハハハハ」
綾はそれを聞いて、不審に思った。だが、口に出すのは避けた。
『クレーターから推測する爆発の規模ですと、(外側にいた)くらいではとても助からないはず。 恐らくほぼ確実に嘘ですね。 ……油断はしないでおきましょう』
「……それで、彼女はどうすれば帰る事が出来る?」
「結論から言うと、現時点ではムリ。 召喚獣が故郷に帰るには、召喚した召喚師の手による呪文でないと駄目なの。 それが召喚獣を縛る鎖の一つなんだけど、彼女を呼びだした召喚師は全員死んじゃってるから、彼女に帰る術はないわ」
むうと唸って、レイドは黙り込んでしまった。カシスは暖かく甘い飲料を飲み干すと、笑みを浮かべて綾の肩を叩いた。
「大丈夫、だいじょぶ。 私が責任もって、貴方を帰してあげるから。 ま、方法はおいおい探してあげるわよ。 とゆーわけで、私ここに住みたいんだけど、いい?」
「お、おい、ちょっとまてっ! 何勝手な事をほざきまくってやがる!」
「オプテュスだっけ、あんな物騒な連中に狙われてて、戦力欲しいんでしょ? 私ね、さっき見せたとおり、見習いだけどそれなりに強いわよ。 そ・れ・に、蓄えならある程度あるから、生活費も出すけど? ね、いいでしょー? ア、ヤ、ちゃーん。 愛してるわ〜マイ・ダーリン☆」
そのままカシスは綾の腕を取ると、色っぽい声で耳元に囁きながら、恋人のようにその体に身を寄せた。皆は呆然とするだけですんだが、綾は蒼白になった。ただでさえ(お嬢様)という情況故に男が寄りつきにくく、なおかつ今時珍しいほど純情な綾は、恋人も出来た試しがなかったし、色恋沙汰に免疫もなく、まして相手の言動を冗談と取るのも苦手だった。しかも、カシスの力は存外に強く、逃げる事も出来なかった。
『ひっ! か、カシスさん、冗談は止めてください! だ、だれか、た、たす、たすけて!』
「わー、真っ青になっちゃって、かわいー! 冗談だってば、キャハハハハハ!」
カシスにいいように遊ばれた事を悟り、疲れ果てて机に突っ伏す綾。それを気の毒な様子で見たレイドは、ガゼルに咳払いした。
「ガゼル、リプレを呼んできてくれ」
「? どういう事だ?」
「多数決を取る。 おそらくアヤにとっても、すぐに帰る事が出来なくても身近に専門家がいると言う事は心強いはずだ。 更に彼女の言葉を聞く限り、生活費に負担は出さないとの事だ。 加えて、オプテュスとの抗争をしている以上、戦力は確かに欲しい。 である以上、多数決で決めよう」
「確かにその通りだな。 分かったよ、リプレを呼んでくる」
結局誰もカシスの逗留には反対しなかった。同時に、カシスはフラットへの加入も言い出さなかったので、それに関しては誰もが黙っていた。確かにカシスの言うとおり、彼女がフラットのアジトに住み込む事は色々利益がある事だったが、同時に胡散臭く信用出来ないのも事実であったからである。
しかもカシスは、話が付くとあてがわれた部屋に閉じこもり、必要なとき以外は其処から一歩も出ようとはしなかった。まるで、皆から信頼を買う気など、端から無いような行動であった。翌日になっても、それに変動はなかった。食事時は口から産まれたかのように多弁となり、異様な明るさを振りまいていたが、それが済むと部屋に籠もり、物音一つたてなかった。誰もいないかのように静まりかえった部屋は却って不気味で、子供達もカシスにどう接して良いか分からないようだった。特にラミは怖がって、カシスの部屋に近寄ろうともしなかった。
「それにしてもあのカシスって女、本当に胡散臭い奴だな」
「あら、アヤが最初に来たときも、ガゼルそう言ってたわよ? でも、今じゃ仲間として信頼してるじゃない」
「う、五月蠅いな。 あれはあれ、これはこれだ」
「何、彼女が命の恩人である事は確かだし、それに人間が一つや二つ隠し事を持っているのは当たり前の事よ。 長い目で見ましょ」
憮然というガゼルに、リプレはそんな風に応えた。レイドは剣術道場の師範をしていて、今日はそれの関係で出かけている。エドスは石工の仕事を時々していて、今日はその関係で出かけていた。二人の収入はフラットの貴重な収入源であった。更に最近は、綾が午前中の日課として魚を釣ってくるので、それを食事に出すのと同時に、あまった分を近所で売ってささやかな収入の足しにしている。魚をそのまま売るよりも、リプレが料理した方が好評で、また売れ行きも良かった。
「ただいま。 見てください、今日も大漁でしたよ」
「ありがとー。 助かるわ」
「お、アヤ、丁度良い所に帰ってきた」
噂をすれば何とやらで、日課である魚釣りを終えて綾が帰ってきた。味方を欲していたガゼルは、これ幸いとばかりに語りかける。彼はリプレの白けた視線を受けながら、苦笑する綾に同意を求めた。ガゼルとしても、綾が多少カシスに不審を抱いているのは敏感に察しているのだろう。
「なあ、あの女、一体何してるんだ? メシの時以外、部屋から出ても来ないぜ?」
「カシスさんなら、昨日の夜は、召喚術のイロハについて教えてくれました。 ……でも確かに、部屋からは殆ど出てこないですね」
昨晩、綾はカシスに召喚術の技術論を教わったのである。それによって、暴発の危険性は著しく減り、なおかつ今後の展望も開けた。だから綾としてみれば、カシスに感謝する気持ちも大きいのだが、一方でガゼルの言う事も思い当たる節がある。小首を傾げた綾に、更にガゼルは食いついた。同意者と賛同者を求めたがるのは、人間の本能であり、それはリィンバウムでも綾の故郷たる日本でも同じだった。
「だろ? ちび共も気味悪がっててよ、お前からも何か言ってやってくれよ。 女同士、言いやすい事とかもあるんじゃないか?」
「え、えーと」
「もう、いい加減にしなさい。 そんな事よりも、最近少し収入に余裕が出てきたから、アヤとカシスさんの歓迎会をかねて、ピクニックに行きましょう。 言いたい事があれば、そこで言えばいいわ」
リプレのまとめは見事で、綾もガゼルも、それ以上はぐうの音も出なかった。この強き母があるからこそ、フラットもまたあるのだった。
カシスがあてがわれた部屋は、明かりも付いておらず、四角い闇となっていた。ランプはあるのに、点火されず、放置されていたのである。小さな閉鎖された闇の中、ベットの上で、膝を抱えてカシスは息を殺していた。闇に生きてきた彼女は、そうしているときが一番落ち着くのだった。何も動かないのだから、音も立たないのは当然である。また、夜目が効くカシスには、それくらいで明るさが丁度良いという事情もあった。
カシスは時々部屋の外に、おっかなびっくり子供達が来るのを悟っていた。更に、自分の(造った明るさ)にある程度不自然さがあり、周りの者達が警戒しているのにも気付いていた。だが、どうして良いか分からなかった。言動をコピーするだけでは足りない何かがあるらしいのだが、その正体が分からなかったのである。カシスは混乱し、ますます心を閉ざしていた。
カシスに、誰かと悩みを共有するという感覚はない。唯一心を開けたクラレットとガルガンチュアはもう逝ってしまった。だから、カシスは、自分が世界でたった一人だと考え続けていた。
『……クラレット、どうしたら私、(明るい子)になれるのかな』
心の中で呟くと、カシスはぎゅっと身を縮めた。彼女の孤独感は、ますます大きくなっていった。(生き延びる事)、(明るい子になる事)、その二つの目的に逃避する事でしか、カシスは心を保てなかった。
ノックの音がした。カシスは明かりを付けると、笑顔を作って承諾の返事をした。部屋に入ってきたのは綾であり、辺りを見回すとおもむろに笑みを浮かべた。
「カシスさん、明日フラットのみなさんが、歓迎会を開いてくれるそうです」
「へー、そうなんだ。 私てっきり、アヤちゃんが夜這いに来たかと思ったよ」
人格をコピーした際、覚えた軽口。綾は特に性的な軽口に免疫がないようで、面白いように狼狽した。その真っ青になって慌てる様子を見て、カシスは面白い、と思っていた。また一つ、彼女の中には、感情が産まれ始めていた。
「た、たのみますから、そういう冗談は止めてください。 こほん、リプレが腕によりを掛けてお料理を造ってくれるそうです。 楽しみですね」
「そうだねー。 じゃ、楽しみにしてるわ」
手を振って綾を見送り、戸が閉まると、カシスの顔からは再び表情が消えた。明かりと共に、元から存在しなかったように消滅した。そして、翌日また綾と会うまで、二度と戻っては来なかったのだった。
4,泥濘
サイジェントの繁華街の一角に、小さな飲み屋がある。大柄で穏やかな雰囲気のマスターがいる店で、結構周囲の評判は良い。近所に住む飲んだくれも、この店はひいきにしていて、足繁く通っているほどだった。一見すれば、ごく普通の、優良な飲み屋であっただろう。
だが、この店には裏の顔があった。この店は、極右思想を持つ現在サイジェントで最も潜在的に危険な革命集団の一つ、(アキュート)のアジトでもあったのである。店のマスターである穏やかな大男ペルゴや、常連客の飲んだくれスタウト、時々店に飲みに来る若くて優しい町医者のセシルなどは、アキュートの幹部だった。店じまいを終え、夜のとばりに街が包まれると、屋根裏部屋では今日も会合が行われる。彼らのリーダーは、ラムダと言い、片目を髪で隠した大柄な男だった。
そして、今日の会議には、いつもは姿の見られない者もいた。全身をフードで覆い、鬼の面を着けた少年であった。ただ彼はあまり好意を持たれてはいないらしく、他の会議参加者からは警戒の目で見られていた。
「……今日も、また税金未納者が大勢工場と鉱山へ送られた。 最近では毎日のように死者も出ている。 その数は日に日に増える一方だ」
「もう、そう猶予はありませんわね」
野太い声でラムダが言い、町医者のセシルが受けた。セシルは大人びた雰囲気を持つ女性で、他人にも厳しいが何よりも自分に厳しい人物だった。しかし優しさに欠けるわけではなく、医者としては充分に合格点たる資質であろう。
「で、そこの奴が、召喚獣を提供してくれる、ってわけですかい?」
「……信用は出来るのですか?」
目の奥に鋭い光を宿しながらスタウトが、その横で静かにだがはっきりとペルゴが言う。それに対し、鬼の面を着けた少年は凄みのある低い声で応えた。
「……我が目的は、この街にいる金の派閥召喚師の排除だ。 その目的は、君たちの目的と合致するはず。 我は君たちの思想にも理想にも干渉しない。 ビジネスとして、受け入れ難い事ではないと思うが」
「確かにその通りだ。 して、そちらが求める見返りは?」
「金の派閥召喚師の抹殺か、もしくは身柄の引き渡しだ。 引き渡す場合、生きたままでも死体でも良い。 何にしても、此方で始末するだけだ」
ラムダはしばし考え込み、やがて頷いた。この少年が非常に危険な存在だと言う事は、彼には分かりすぎるほど分かっていた。元騎士団長であり、街でも有数の使い手である彼には、少年が常識外の使い手である事が手に取るように分かったし、発する異常な殺気と憎しみが感じ取れた。それはまるで地獄の業火のような苛烈さであり、下手をすれば周囲の全てを焼き尽くしてしまうだろう。だがラムダは、もう手段を選んで等いられなかったのだ。近く抜本的な対策を講じなければ、この街は滅びてしまうとラムダは認識していたからである。
「承諾、しかと確認した。 では作戦実行時、シルターンの(鬼神)二体を貴殿に貸し与える。 日時等の連絡については、以前と同じ方法で行おう」
「承知した。 ……使わずにすむに、こした事はないのだがな」
ラムダの憂いを秘めた言葉に、少年は反応しなかった。そのまま闇夜へ、身を翻して消えていった。それを見送ると、自分の禿頭をなで回しながら、スタウトが言う。
「……旦那、あんなヤバイ奴、信用していいんですかい? 元暗殺者の俺でも、ぞっとするような殺気を時々感じますぜ」
「他に方法がない。 この街を救うには、あらゆる手駒を揃えておかねば難しいだろう」
決意を目に秘め、ラムダは応えた。彼ほどに、この街をうれいている者はそういなかった。だからこそ、その行動は危険さを加速し、増幅させていったのだった。ラムダは強さと優しさを兼ね備える男だったが、それが故に危険な行動へと走っていたのである。
「領主様を操る召喚師どもを排除し、諸悪の根元たる工場を撤去し、民の血を吸い続ける鉱山を閉鎖する。 そして、昔の農業都市へと戻すのだ。 それしか、この街を救う手だてはない。 もう、この街は救いがたいほどにガン細胞に浸されてしまっているからだ」
ラムダは、大いなる決意を込めて言う。幹部達は、それに頷き、決意を更に固くするのだった。
血を流さねば、諸悪の根元たる召喚師を排除しなければ、この街は救えない。それが、彼らの共通した認識だった。
「接触は成功しました。 後は、彼らの行動と能力次第ですね」
「ご苦労だった、同志クジマよ。 君の働きは、千金に匹敵する輝きを帯びているな」
迷霧の森の奥深く、オルドレイクが言い、恐縮そうにクジマが頭を下げた。アキュートへの召喚獣戦力提供を申し出る事、その力を極力利して金の派閥召喚師を葬り去る事は、今回の作戦の骨子であった。無色の派閥の作戦は、徐々にその規模を拡大し、涼原の炎と化していた。
要は、外部に(協力者)を造る事が、今回の策の概要であった。別に長所でも短所でもなく、人間という生き物はビジネスレベルであれば、正体の分からない相手とも充分妥協を行う事が出来る。それを利用すれば、貴重な人材や戦力の消耗を最小限に押さえ、敵を屠り去る事が可能なのだ。現在作戦は最終段階への調整を進めており、使えるなら猫の手でも使いたいというのがオルドレイク始め幹部達の一致した見解であった。ましてサイジェントは迷霧の森の近くにある最も大きな都市であり、他の攻撃目標と違い表だって攻撃を仕掛けるのは危険すぎる。故に、今回のような搦め手からの攻撃が必要なのであった。
本日、ザプラは調査のため、サイジェントに赴いている。オルドレイクは、次にラーマへと言葉を向けた。
「同志ラーマよ、蒼の派閥はどう動いている?」
「いよいよ、我が方へ討伐隊を派遣してくる模様です。 上級召喚師六人を含む、数百人単位の部隊だとか。 金の派閥も、若干名の援軍を出している模様です」
「予想通りだな。 奴らの目標攻撃地点は?」
「例の洞窟に決まったようです。 見事に陽動に引っかかりました」
大きく満足げにオルドレイクは頷いた。皆の視線が、机上の地図に集まる。今までラーマが攻撃してきた街々の中心点にある洞窟が、地図上で大きく丸を付けられていた。はぐれ召喚獣が多数住み着く危険な洞窟であり、しかもラーマとトクランには庭に等しい。ラーマが此処を根拠地にしているように見せるため、今まであらゆる工作を惜しまなかったのである。
「良し、わざと生存者数人を残し、徹底的に叩き潰してくるが良い! 同志ラーマ、同志トクラン、君たちに訓練を終えた十五名の同志を同行させる。 彼らと共に、思う存分暴れてきたまえ。 今こそ、君たちのつもりにつもった恨みを晴らすときだ!」
「了解!」
「了解ですぅ! 全員ギッタギタのズッタズタにして、ぶっ殺しまくってやります!」
けしかけられたラーマとトクランは、目の奥に尋常ならざる戦意を湛えた。この時点で、蒼の派閥の討伐隊は、その運命を決めていたかも知れない。二人は全く容赦せず、敵を殲滅するだろう。そして、それをするだけの権利があると、二人は心の底から思っていた。
「理想世界は、刻一刻と近づきつつある。 我らが理想のため、最後まで戦い抜こうぞ!」
オルドレイクの言葉に、その場にいた全員が頷き、敬礼した。彼の前には、鉢植えが置かれており、白い花が見事に咲いていた。月の光を受けた花は、奢るでもなく萎縮するでもなく、ただ堂々と咲き誇っていた。
(続)
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