異界の街

 

序、業を見た者

 

小さな部屋に、少女が押し込められていた。殆ど衣服は身につけておらず、恐怖に震えてぎゅっと身を縮めている。部屋には殆ど光も入らず、音もまたしかり。だが、やがてそれは唐突に破られた。

鉄の戸が不意に跳ね開けられ、後光を背に男が不意に入り込んできた。少女は小さく悲鳴を上げて、部屋の隅に逃げ込んだ。(お母さん)をほんの少し前に連れて行った男を思いだしたのである。こわごわ少女が振り向くと、男の後ろには何人かの武装した人間がいて、小声で何か交わしあっていた。恐怖を更に増幅されて、震える少女に、男は意外にも優しげな口調で言った。

「……言葉は分かるか?」

恐怖に支配されながらも、こわごわ頷く少女に、男は後ろにいる者達に命じて布を被せてやった。そして自ら力強い手を貸して立たせてやると、優しく背を撫でながら言う。

「もう大丈夫だ。 この屋敷に住み着いていた外道共は皆私達が倒した」

男の言葉の意味が最初少女は分からなかった。しかしながら、部屋を出てすぐにその意味を悟った。今まで絶対的な力を有しており、逆らえばぶち、泣けば殴り、常に蔑みの目で彼女を見ていた怖いおじさん達が、皆死んでいたのである。だが、少女はまだそれが信じられず、こわごわと身をかがめて死体に触った。だが、もうそれは既に冷たくなっていた。

「もう誰も君を殴らない。 差別しない。 殺そうとする者は私が排除する」

少女の目に涙が溢れた。男の言葉は優しく、嘘が一切無かったからである。想像を絶する悪意に晒され続けた少女には、それは光のようであった。少女は安堵を覚えると同時に、質問をした。

「あ……あの……おかあさん……は?」

「……ついてきなさい」

しばしの逡巡の後、男は少女を屋敷の別室へ連れて行った。そこは地獄だった。

大きく目を見開いた少女が、腰を抜かしてへたり込む。皮を剥がれた死体がぶら下げられ、腹を開かれて内臓が取り出されている。彼方此方には機能的に骨が転がされ、内臓や細かく切り分けられた肉が干されていた。なめされたらしい皮が重ねられ、完成したらしい干し肉がつるされ並べられている。その隣には、人間の小腸で創られたらしい腸詰めが、ゆっくり揺れていた。

「……君は人間の社会では生き残れない。 君が何処まで逃げても、人間共は追ってくる」

もはやどれが(おかあさん)かなど、少女には分からなかった。だが、この死体の中に、(おかあさん)がいることだけは、分かりすぎるほど分かっていた。

「だが案ずるな、私が君を必ず守りきろう。 そして、君も生きられる新しい世界を必ずや創ろう」

男の声が、少女の中で反響していく。やがて、今は大人になっている少女が、自分の存在を意識下に確認した。

 

岩壁に背を預けて眠っていた、召喚師ラーマが目を覚ました。隣には彼女の護衛獣である大悪魔ゴルゴンズルクがいて、心配げに顔をのぞき込んでいる。ゴルゴンズルクは大きな百足に長大な翼を生やしたような姿をしており、長大な触角を持っている。魔力を使った強力な防御結界と、普通の動物なら即死させるほど痛烈な毒が武器である、総合的な実力は相当高い次元にあるといえるだろう。

「マスター、昔の事を思い出していましたか?」

「ええ……」

ゴルゴンズルクが足の一本に乗せて差し出してきたハンカチを受け取ると、ラーマは額の汗を拭った。

同志であり恩人であるオルドレイクに助けられてより数年。彼女は何故山奥の小さな家から(お母さん)もろとも拉致され、地獄の底にあるような屋敷で(飼われて)いたか知っている。ラーマはアルナ族と呼ばれる少数民族に属していた。そして、アルナ族の肉は至上の珍味として豪商や好事家や上級召喚師に想像を絶する高値で取り引きされていたのである。だから(お母さん)は山奥に隠れて住まざるを得なかったのだ。

純血のアルナ族の肉は、干し肉や塩漬け肉でさえ、一切れで家が数件建つほどの価値がある。そして社会的絶対地位が当然であると確信している上級召喚師や、国すらも動かしうる豪商、絶大な力を持ち膨大な財力を世襲で得ている好事家にとって、人道など笑うべき物でしかなかった。本来そうであっては絶対にならないのだが、何処の世にも、どの時代にも、モラルをあざ笑う社会的強者は後を絶たないのだ。

アルナ族は乱獲、養殖され、今では数を激減させ、僅かな生き残りも人間に怯えながら細々と暮らしている。もし自分の出自が知られれば、一週間と生き残る事が出来ないからだ。ラーマが閉じこめられていたのは(養殖・加工)を目的とした(工場)の一つだった。そして、今でもアルナ族の肉の価値に変化はない。ラーマが何処へ行こうと、地獄の底まででも追っ手が来るであろう。仮にラーマが生き残ったとしても、その子孫は絶対に生き残れないだろう。

ラーマの居場所は、オルドレイクの側しかなかった。そしてここは、同様に人類社会の業に晒され、地獄を見てきた者達の集まる場所だったのである。そしてオルドレイクは真なる情愛を惜しみなく(同志)に注ぐ男だった。同志の中には、ラーマが助けたアルナ族も多くいる。彼らのためにも、ラーマは戦わなければならなかった。

「……さて、行きましょうか。 約束の地を創るために」

「はい、マスター」

二人は歩き出した。同志達が望み、自らも望む、(約束の地)を創造するために。

 

1,希望の目覚

 

瞼の上に、淡い光が注ぐ。体の上に、柔らかい布の感触がある。太陽の匂いがする、暖かな布の肌触り。数年来味わった事のない、幸せな感覚。

『気持ちいい朝ですね』

夢心地の中で、樋口綾はそう思った。そして、不意に気付いた。もう自分が、日本にはいない事に。眠気がそれで一片に吹き飛び、跳ね起きる。周りを見回すと、其処は小さく、手入れが行き届いた部屋だった。窓からは日差しが差し込んでおり、それは強すぎず弱すぎず暖かい。

「気がついた? 良かった」

足下から声がして、綾が視線をそちらに向けると、小柄な女性が笑みを浮かべていた。おそらく年は綾とほぼ同年代だろう。赤毛を後ろで三つ編みにしていて、ピンク色の可愛いエプロンを身につけている。丸顔で童顔だが、表情は落ち着いていて、口調も整い穏やかだった。

「あ、あの」

「私はリプレ。 貴方は?」

「樋口綾……です」

「アヤさん、ね。 レイドに聞いたけど、街の外に倒れてたんですって? ガゼルとエドスが見つけて良かったわね。 彼奴ら、がさつだけど根はいい奴だから」

リプレと名乗った娘(少女と言うには年齢的に無理があろう)の言葉を聞いて、綾は一瞬意味が分からなかったが、すぐに事情を理解した。この娘はおそらくスラムで絡まれたガゼルとエドス、それにレイドと名乗った男の家族か知人であろう。そして幾ら何でも、真正直に事情を話すわけにはいかないと、レイドという男が判断したのだろう。

「朝食をつくっておいたわ。 こっちに来て」

「え?」

「遠慮しないで、さあ」

困惑した綾の腹が大きな音を立て、赤面して彼女は俯いた。遠慮出来る状態ではないと気付いたのもあるし、元々相手の好意を断る事など出来ない性格でもあった。ベットの下には靴が置いてあり、室内でも靴を履いて移動する習慣があるのだろうと誰にでも推測が可能である。現にリプレも、部屋の中を靴で普通に歩いていた。

部屋の大きさと裏腹に、かなり大きな建物であった。部屋は結構数が多くあり、廊下は長く延びている。リプレについて歩きながら綾は振り返ったが、奥は階段があり、二階もあるようだった。しかも結構手入れが行き届いており、窓や壁も綺麗である。華美ではないが、素朴で好感の持てる綺麗さであった。

食堂には誰もおらず、一人分の朝食だけがあった。遠慮しがちの綾を半ば無理矢理座らせると、リプレは笑みを浮かべる。

「お口に合うか分からないけど、どうぞ」

「はい、何から何まですみません」

「いいっていいって」

綾は頷いて食べ始めたが、それを見届ける事もなくリプレは洗い場へ行き、家事を始めた。非常に手慣れた動作で、綾の家で雇っていたプロのメイドよりも動きが良い。それに料理もかなり美味で、お口に合うとか合わないとかいう問題ではなく、綾は充分に満足した。気持ちの良い目覚めといい、美味しい朝食といい、昨日の苦闘が嘘のような素晴らしい朝だと、綾は思い、自然と笑みがこぼれた。

「ごちそうさまでした。 とっても美味しかったです」

「それは良かった」

「そりゃあただで食えればうまくもなるだろうよ」

第三者の声に綾が振り向くと、そこにはガゼルがいた。いつの間にか部屋に入ってきたのか、背を壁に預け、腕組みをして鋭い視線を綾に射込んでいる。そしてそれにリプレが何か言おうとしたとき、部屋に子供が入り込んできた。数は三人。緑色の髪を持つ賢そうな女の子と、生傷が絶えなさそうな茶髪の腕白坊主。この二人は小学校の低学年くらいの年頃だろう。その後ろにいるのは、大きな熊のぬいぐるみを抱きかかえた二人より更に小さな金髪の女の子だった。この子は、おそらく幼稚園に行けるか行けないかくらいの年頃だろう。最初にガゼルの服を掴んだのは、やんちゃそうな腕白坊主だった。

「ガゼルー、遊んで遊んでー!」

「今大事な話の途中だ。 後でな」

「そんなのいいじゃん、今遊ぼうよ!」

「うるっせぇな、大人しく部屋で遊んでろ!」

まとわりつかれたガゼルがつい大きな声を出してしまい、小さな女の子の目が見る間に涙で一杯になる。そして当然の結果というか何というか、すぐに泣き出してしまった。根は善良な男らしく、ガゼルは見るも哀れなほど困惑した。

「あ、あとで遊んでやるから、泣くな、な」

「ガーゼールー?」

後ろから覆い被さったリプレの声に蒼白となったガゼルが、まるで人形のような動作でリプレに振り向く。事態の急変に何とコメントして良い物か分からない綾の前で、リプレはその正体を解放していた。優しげで有能な家事の達人はどこかその辺へ行き、今其処にいるのは笑みを浮かべた鬼だった。リプレは全身から圧倒的な威圧感と怒りのオーラを放っており、更に目からは爛々と光を放っていた。ガゼルの膝が笑うのが綾にはよく見えた。

「謝りなさい」

「こ、これはこいつらが大事な話の最中に……」

「へえ、生意気にも、口答えなんかしちゃうんだ?」

絶対存在の前にいる弱者。蟒蛇の前にいる蛙。狐の前にいる鶏。虎の前にいる羊。今のガゼルは正にそれだった。固唾をのんで見守る綾の前で、リプレは更にオーラを強大化させる。

「じゃあ、勿論今日の夕食は抜きと言う事でいいわね?」

「ど、どうしてそうなるんだよっ!?」

いいわねっ!?

「ごめんなさい」

素直にガゼルが謝り、更に泣き出してしまった子供にも謝った。子供達は、リプレを尊敬の眼差しで見ている。綾はこれを見て、リプレが最近の日本にはいない(強いお母さん)なのだと悟っていた。

「よろしい。 じゃ、アンタはみんなと遊んであげなさい」

「はい。 そうさせて頂きます」

まるで機械人形のような硬い動作で、ガゼルは部屋を出ていった。皆が部屋を出ていくと、リプレはまた優しそうな娘に戻っていた。だが綾は、この人には絶対逆らうまいと心の中で既に決めていた。

「ごめんね。 あいつも、悪い奴じゃないんだけど」

「ううん、気にしていませんから」

「そう、ありがとう。 処で、レイドが起きたら呼ぶようにって言ってたから、後で顔だしてきて。 彼、この時間は大体庭で薪割りしてるから、これ持っていって」

そういって、リプレは綾にタオルを渡した。それほどいい生地のタオルではないが、丁寧に洗濯されて日の暖かさを充分に吸い込んでいる。綾は礼をもう一度言うと、部屋を出た。

 

庭では、快い音が響いていた。そこには、どうも普段着らしい服に着替えたレイドがいて、リプレの言葉通り薪を割っていた。綾が近づくと冷静な男はすぐに振り向き、斧をおいてタオルを受け取った。

「ありがとう。 すまないね」

周りには、割られた薪がかなりの数転がっている。おそらく、今日必要な分量は充分にあるだろう。レイドは薪を拾い集めると、建物の側によせながら、綾に言った。

「ます簡単に自己紹介しておこう。 私はレイド。 此処に住む者達は、自分たちの事を(チーム・フラット)と称している。 私はその後見人、ガゼルはサブリーダーだ。 次に、この世界の事を簡単に説明しておこう。 この世界は(リィンバウム)、そしてこの街の名は(サイジェント)という。 地理的には、この大陸の中央やや北寄りに位置している。 聞いた事はあるかい?」

「いえ、聞いた事もありません」

「そうか、そうだろうね。 おそらく君は、この世界に(召喚術)を使って呼び出されたんだと思う。 君の世界はどうだったか知らないが、この世界には(召喚術)と言う魔法が存在するんだ。 召喚術は、異世界から生物や道具を呼び出す術の事で、それを使う者を(召喚師)という。 君を呼びだした(召喚師)が、近くにいなかったか?」

「私が目を覚ましたのは、クレーターのようにえぐれた地面の底でした。 辺りには何人かの人が亡くなっていて……」

それを聞くと、レイドは考え込んだ。おそらく、綾の言った事を自分の保有する情報と合わせて吟味しているのだろう。やがてレイドは、薪を整理し終えてから、着いてくるように促した。

建物の中にはいると、レイドは居間を借りる事と薪を整理し終えた事をリプレに告げ、そのまま話の続きに移った。

「私は召喚術についてはそれほど詳しくはない。 ……単刀直入に聞こう、君は元の世界に帰りたいか?」

「……」

レイドの言葉にはそれ自体に、相手の決断を待つ響きと、相手に余裕を与える間があった。間を与えて貰った綾はしばし考え込む。しかし、結論は彼女の中で既に決まっていた。

「……帰りたい……です」

「そうか、そうだろうね」

レイドは苦笑すると、人差し指で机を小刻みに叩きながら、次へと話を進めた。

「君が帰るには、おそらく召喚師の協力を仰がないと難しいだろう。 しかし、ここからが難しい。 召喚師はその性質上、下手な貴族より力を持っている者が多く、性格も偏狭だったり強欲だったりするんだ。 会うの自体も大変だし、彼らに何かを頼むとしたら、途轍もない見返りを要求される可能性が非常に高い。 お金だったら、天文学的な金額だろうね」

言葉を切ると、レイドは更に付け加えた。

「それと、この町にいる召喚師達は当てにしない方がいい」

「どうしてですか?」

「彼らは領主様に取り入り、この町の政治を好きなようにしているんだ。 私腹を肥やす事は勿論、気に入らない人間を遠ざけたり、やりたい放題さ。 君が何を頼んだ所で、門前払いされるのが落ちだ」

綾には、ガゼルがあれほど召喚師を嫌悪する理由が分かった気がした。もし今レイドが言った事が本当なら(おそらく間違いなく本当であろうが)、貧民であるガゼルは徹底的に、しかも一方的に絞り上げられる対象であろう。綾はガゼルに苦手意識を持っていたが、それが今心の中で消えていくのを実感していた。

「それと、もう一つ大事な事がある」

「なんでしょうか」

「君はこれからどうする? 無論我らも出来るだけの事はするが、まず衣食住を整えないと生きてはいけないぞ」

『そうでした。 ここに無期限でお世話になるわけにも行かないですし、帰るまでとしても、この世界で暮らすために色々覚えなくても行けませんし』

頭の中で呟きながら、綾はまた頭痛の種が増えるのを実感した。だがその心を見透かすように、レイドは少し寂れた笑みを浮かべた。

「まあ、焦る事はない。 後で、リプレとガゼルに、この町の事を案内させる。 そのとき、日用品も用意すると良い。 それからの事は、後で考えなさい」

「何から何まですみません、本当に」

「いいさ、我々にも責任があるんだ。 それに、何をするにしても、ゆっくり考える時間は必要だしね」

 

とりあえず、一時間後に出かける事が決まって、綾は何度も感謝しながらあてがわれた部屋に戻った。その途中、昨日ガゼルと一緒にいた大男に正面から出くわした。相変わらず上半身裸で、鍛え抜かれた体を余すことなく周囲に晒している。そしてよく見ると、実に穏和そうな雰囲気で、力強くも暴悪に満ちてはいなかった。

「お、目が覚めたか。 昨日はすまんかったな」

「いえ、もう大丈夫です。 それよりも、エドスさんの方こそ、お体は大丈夫ですか?」

「ワシか? ワシは見てのとおり馬鹿力と体の頑丈さだけが取り柄でな、怪我一つしとらんよ。 それと、大体の事情はレイドから聞いた。 あまり気にしないで、ゆっくりしていってくれ」

結構若いだろうに、エドスはそんな口調でゆったり喋った。元々エドスに綾は苦手意識を感じてはいなかったが、二言三言喋るだけで、本来穏和な男なのだろうという評価が心の中で定着していった。

「それよりも、ちび共がアンタの事を気にしてた。 よければ遊んでやってくれんか?」

「私で良ければ、よろこんで」

「そうか、ありがとうな」

エドスを見送りながら、綾は心の中で呟いた。自分の部屋に荷物だけおくと、子供達の部屋へと向かう。子供達は、三人とも二階の部屋を共同で利用していると既にリプレの説明があったので、綾は迷う事もなかった。

『それにしても、ここは孤児院なんでしょうか? レイドさんは院長で、ガゼルさんやリプレさんは住み込みのお手伝いさん? (フラット)というのは孤児院の名前? 子供達に聞くのはあまりにも失礼ですし、後でリプレさんに聞いてみましょう』

階段は結構頑丈に創られていて、手すりも綺麗に磨かれていた。階段の壁には張り紙がしてあったが、見た事もない文字が書かれていて、綾には読めなかった。

「あ、お姉ちゃんだー!」

元気のいい女の子の声で、綾が上を見ると、さっきの緑髪の女の子が笑顔で見下ろしていた。綾が微笑み返すと、男の子も出てきて、二人で半ば強制的に綾を部屋に引きずり込んだ。既にガゼルはおらず、逃亡した物かと思われた。

上の女の子はフィズ、男の子はアルバと名乗った。熊のぬいぐるみを抱きかかえた女の子は小さな声でラミと名乗ると、それっきり口を閉ざしてしまった。この人見知りする行動、小さな頃の綾にそっくりである。子供に囲まれるなどと言うのは殆ど初めての経験だったが、綾は子供が嫌いではなかったから、むしろ口調には嬉しそうな響きが籠もった。

「ええと、何して遊びましょうか」

「海賊ごっこ!」

「おままごと!」

「ご本……読んで……」

行動には組織的な匂いさえ感じられるほど息が合っているのに、発言は見事に三人で食い違った。まず遊ぶより、子供達の事を知りたいと思った綾は、海賊ごっこと宣ったアルバに笑みを向けた。それはおそらく最善の選択だっただろう。

「アルバ君は、海賊が好きなの?」

「うん! 格好いいし、強いし!」

「将来は、海賊になりたいの?」

「ううん、おいらは騎士になる! 騎士になって、リプレ母さんを楽させてやるんだ!」

『若いのに、もうお母さんと慕われているんですね、リプレさん。 それと、騎士がいるという事は、忠誠を誓う王様や貴族もいると言う事ですね』

アルバの健気な発言と、リプレが子供達に母として慕われている事を再確認して、綾は心底から感心した。更に多少ながら情報が得られた事も事実であったから、会話は極めて有意義だった。

「フィズさんは」

「フィズって呼んで! アルバにもラミにも、リプレママにも(君)とか(さん)とか付けなくて良いよ!」

「……ありがとう。 フィズは、おままごとが好きなの?」

「うん、少なくとも将来の役には立つでしょ?」

『わあ、ませた子ですね。 でも、アルバも小さいのにしっかりした考えを持っているし、みんなしっかりしているのかな、この辺の子は。 ……私とは、大違いですね』

ラミは積極的に会話しようとせず、大きなぬいぐるみに隠れるようにしてじっと座っていた。そして綾が視線を向けると、おずおずと絵本を差し出した。どうも読んで欲しいらしい。綾は可愛いしぐさだと思いながら絵本を受け取り、一ページ目を開いて硬直した。

「……おねえちゃん、読んで」

『ろ、廊下の字と同じ……読めない……』

綾の背中を冷や汗が流れ落ちた。蒼白になった彼女が顔を上げると、不思議そうな顔でアルバとフィズが彼女を見ている。正に絶体絶命の危機であろう。更に悪い事に、ラミは熊のぬいぐるみに隠れるようにして、だが期待の目でじっと綾を見ていた。読めないなどと言おうものなら、先ほど同様泣き出しかねない。

『も、もしラミちゃんを泣かせてしまったら……私もリプレさんに……! きっと、あんな事やこんな事をされてしまいます! それだけは、それだけは避けないと!』

「お姉ちゃん?」

『逃げるにはどうしましょう。 おなかがすいたふり? いや、それでは時間稼ぎにもなりませんね。 話を逸らす? ううん、ラミちゃんがあれだけ努力して本を読んで欲しいと言ったのに、それは可哀想すぎます。 おトイレに行くふり? ううん、帰ってきた途端にもう一度本を読んでとせがまれるに決まっています。 どうしましょう、どうしましょう、どうしましょう……』

自分で出来る限りの最高速でこの危機を逃れる術を考える綾に、不思議そうにフィズが小首を傾げた。

「アーヤーさん?」

リプレの声が背後からかかり、綾は死を覚悟した。さっきのガゼルとそっくりな動作で、まるで人形のように振り向くと、そこには満面の笑顔でリプレが立っていた。

「は、はい……」

「子供達と遊んでてくれたんだ。 ありがと。 嬉しいんだけど、もう時間よ」

綾には、リプレが天使に見えた。後光さえ差しているように見えた。

「えー、お姉ちゃんともっとお話ししたいー」

「駄目よ。 お姉ちゃん此処に来たばかりで、まだ身の回りの物もないんだから。 我が儘言わないの」

子供達は、それ以上は不満も言わず、リプレの言葉に従った。これだけ見ても、子供達にリプレが如何に大きな影響力を持っているか明らかだっただろう。

「また……遊んでね」

ラミが綾の背中に、小さな声で言った。綾が笑顔で頷くと、少女は初めて嬉しそうに笑った。その笑顔を、綾はこれ以上もなく貴重な物だと感じた。

 

2,街の情景

 

リプレに連れられて、綾は建物を出た。後ろからは、両手をポケットに突っ込んで、いかにも不満そうにガゼルが着いてくる。リプレが荷物持ちが必要だといって半ば強引に連れてきたのである。実際問題、力関係から言っても、ガゼルがリプレに逆らえるはずもない。チームのサブリーダーであっても、家事を全て押さえている者にあらがうのは無謀というものだ。

綾が子供達に言われた事を告げると、リプレは喜んでそれを承諾した。すなわち、さんだの君だのをつけずに呼び合うと言う事である。事実、それは互いの距離を縮めるのに有意義であっただろうから、互いさえ許せばなにも問題はなかった。ガゼルは一瞬不満そうな顔をしたが、渋々承諾した。

暫くスラムを東進すると、家の造りが俄然良くなってきた。道の回りのゴミが減り、廃屋が目に見えて減り始める。道の左右には簡単ながらも下水道が整備され、時々上水を供給するらしい水道もあった。水道には水をくみ上げるらしい手動の装置も付いていて、さびてはいたが大きな蛇口もあった。辺りは汚れていたが、流石に生命線だけあり、水道だけは大事にされているようだった。

所々にはガス灯があり、意外と文明のレベルが高い事を伺わせる。建物には木造だけでなく、煉瓦造りや石造りの物もある事もわかり始めた。また、道路は中央が膨らみ、左右の脇がへこんでいる。これは下水へ水を流し込みやすくする工夫であろう。合理的で、街を清潔にする工夫である。辺りを見回しながら、綾は心中で呟いた。

『中世ヨーロッパくらいの文明かと思いましたけど、多分それより進んでいますね。 産業革命が起こるか起こらないか、くらいの文明でしょうか』

しばし進むと店がちらほら見え始め、その中にはなかなかおしゃれな物もあったので、綾はショッピングをしてみたい等と考えたが、そうはならなかった。そこそこに洒落た店の前に止まると、リプレは真剣な眼差しで展示されている服の一着に目をとめ、そのまま右後ろ手をガゼルに向け差し出した。左手は、もう既に小さなメモ帳を取りだしている。

「ガゼル、鉛筆」

「ほら、早くしろよ」

「……? 何してるんですか?」

「うん? ちょっと静かにしてて」

振り返りもせずにリプレは言い、メモ帳に凄い勢いで鉛筆を走らせた。

「……リプレの技だよ。 小遣い稼ぎに注文された服を造ったりもしてるんだが、それを特殊技能まで高めててな。 見た服を、彼奴は簡単に自作しちまうのさ。 必要なのは布と糸だけ。 お陰で服にかかる金が非常に浮いて助かる」

「へえ……凄いですね」

「ケッ、それは違うな。 少ない収入でやりくりするための苦渋の策だよ。 本当はリプレだって、こんな泥棒まがいの事何てしたかないさ。 今日の朝食だって、お前がお客様だからって、少ない蓄えから無理して出したんだぞ」

綾は想像以上に苦しい台所事情を知って俯いた。実際問題、そうでなければガゼルもあんな追いはぎまがいの事をする必要がないはずなのだ。言葉を綾は失ったが、意外にもガゼルはそれを見て表情を改めた。

「事情はレイドから聞いてる。 だから今すぐ出てけ、何て無情な事いわねえよ。 アンタがウチに転がり込んだのには、俺が悪いって事もあるしな。 ただ、感謝だけは忘れないでくれ。 俺なんかじゃなくて、レイドとリプレにな」

「はい、勿論です」

「おまたせー。 終わったわよ」

リプレが不意に二人の肩を後ろから叩いたので、慌てて計ったようなタイミングで二人は振り向いた。どうもリプレは全く聞いていなかったようだが、綾はいずれ感謝の言葉を述べる必要があると改めて感じていた。

そのまま商店街を三人は進んでいったが、高級店には当然の事ながら一つも寄らず、どちらかといえば寂れた雰囲気の店に何件か寄っていった。金はレイドから渡されているそうなのだが、あまり余裕はないのだろう。この街に来たばかりの綾が見ても分かるほど、明らかに最低限度な品物ばかりを備えていく。

ようやく買い物が終わった頃には、一時間以上が過ぎていた。だが、予想より早く買い物が終わったらしく、荷物を両手に持つガゼルを後目に、リプレは言った。

「丁度いいから、街の中を案内しておくわ」

「はい、ありがとうございます」

「荷物、置いてきていいか?」

流石にこれ以上は勘弁して欲しい、といった様子でガゼルが言う。リプレは意外にも素直に頷き、その提案を受け入れた。

「一旦工場区の方へ行くから、広場で待ってなさい」

「へいへい、了解しました、ご主人様」

気の毒そうに綾がガゼルを見送るが、リプレはそれに構わずさっさと歩き始めた。慌てて追いついてきた綾を横目で見ながら、リプレはさらりと言った。

「処で、アヤさん。 貴方、字は読めてる?」

「すみません、実は読めないんです」

「やっぱり。 そうだろうと思った。 ラミの前で絵本広げてるときの貴方、指先まで真っ青だったもの。 おおかた字を読めないのをどうごまかすか、必死に考えてたんでしょ」

『リ、リプレ、鋭いですね。 これはますます逆らえません』

ずばり図星を指されて、綾は苦笑しながらそんな事を考えた。

「大丈夫だって。 この町で、字読める人なんてそもそも殆どいないから。 うちはたまたまレイドがみんなに教えてくれたけど、字が読めないって言っても子供達は何とも思いやしないわよ。 此処だけの話、ガゼルやエドスだって最近やっと字が読めるようになったんだから」

笑いながらリプレは綾の肩を叩いた。小柄なのに、結構力が強くて、ますます綾は苦笑した。

「ええと、リプレ達は、どういう人達なんですか?」

「私達はね、ガゼルを中心に集まってきたのよ。 私は彼奴の幼なじみ、エドスは昔の遊び友達ね。 アジトは、元々孤児院だったの。 子供達は、皆孤児院の子だったのを、みんなで面倒見ようって決めたのよ」

「そうなんですか。 レイドさんは?」

悪い事を聞いてしまったかと綾は思ったが、リプレは全然気にしていないようだった。流石にそれ以上無為に深入りするのは悪いと考えたので、綾は話を逸らした。

「レイドはね、昔騎士だったのよ。 ガゼルとは色々縁があったみたいで、今は後見人をしてくれているわ。 色々人脈もあるみたいだし、何より知識も深いしね。 頼りになるわ。 レイドも、さんを付けなくていいわよ」

これも深入りしては悪いと考え、綾は当たり障りのない話に変えた。結局、以降はごく普通の、全く当たり障りのない話だけになり、皆の事を知る事は出来なかった。

 

商店街を北西に抜けて、リプレが進んだ方向には、無数の煙突が立ち上り、黒煙が立ち上っていた。空気が明らかに悪くなり、下水にはどす黒い水が流れていた。少し開けた所に出ると、壁は煤で黒ずんでいる。

「この辺が、この町の生命線。 この町は、鉱山業と、紡績業で成り立っているの。 紡績業には召喚師の力が必要不可欠で、彼らはこの街を支配する材料の一つにしてるわ」

「紡績業に、ですか?」

「糸を吐く(キルカ虫)自体が、そもそも召喚獣なのよ。 それに工場で稼働している機械の多くも、召喚師が余所から持ってきた物らしいわ。 流石にそれが召喚した物なのかもっと技術が発達した別の街で造ったものかは分からないけど」

其処まで聞いた時点では、綾は特に疑問はなかったが、ふと彼女は気付いた。工場の壁は非常に高く造られており、出入り口もまた少ないのである。しかも入り口には厳めしくよろい、鋭い眼光で槍を持った歩哨が油断無く立っている。これでは、工場と言うより、むしろ刑務所である。しかし、今日は結局それについて聞く機会がなかった。

リプレはそのまま、手早く工場がどの辺まで広がっているか指し示すと、今度は北に向かった。北へ行くとすぐに空気の汚れは緩和され、その代わりに緑が増え始める。街路樹という概念が既にあるようで、しかもそれはかなり多めに配置されていた。やがて視界が開けた先に、綺麗な蒼い河が現れた。

「ここがアルク川よ」

「綺麗な川ですね」

「綺麗でしょー。 でもね、排水が流れ込んでるから、下流に行けば行くほど汚くなるのよ。 この辺りは立ち入り出来るけど、もう少し上流には私達は入れないわ」

「どうしてですか?」

無言で、リプレは上流を指し示した。そこには、明らかに庶民とは桁が異なる力を持つ者達の、美麗でどこか空虚な住居が無数に建ち並んでいた。

「あっちは、高級住宅街。 私達は殆どの場所で立ち入りを禁止されているわ。 あの辺のアルク川はまだ綺麗だけど、貴族が遊ぶ場所だからって、私達は入っちゃ行けないんだって。 召喚師達の家もあっちにあるわ。 あの一番大きな屋敷がそうね」

肩をすくめたリプレの目には、明らかに非好意的な光が籠もっていた。ふと綾は川の表面に瞬いた輝きに気付いた。それは魚の群であった。充分に食用に耐えうる大きさの魚が、結構な数泳いでいる。綾は最近の日本人の若者には珍しく魚が好きで、美味しそうだとそれを見やったが、リプレが促したので、雑念を払って歩き出した。

 

南下し、手ぶらになったガゼルと(広場)で合流すると、三人は北東へ向かった。広場は周囲が綺麗に整備され、(広場)というよりもむしろ(市民公園)といった印象を与える場所だった。

「またお祭りが開催されたら楽しいのにねー」

「ああ、ちび共も喜ぶだろうな」

「どんなお祭りなんですか?」

「もうやってねえよ。 なんでも召喚師共が、無駄な事だからやめさせろって領主に進言したとか言う話だ。 ケッ、俺らの唯一の楽しみをよ」

『ある程度の息抜きが必要なのは、政策の常識なのに。 その召喚師という人達は、本当に無知なのか、無能なのか、或いは私腹を肥やす事しか考えていないみたいですね……』

心の中で綾は言い、苦笑を浮かべてその後も続いたガゼルの召喚師に対する悪口を聞いた。再び商店街を過ぎると、繁華街になったが、人通りはさほど多くない。街自体の活気が、どうも根本的に少ないようである。恐らくこれは愚劣な政策の悪影響であろう。

「ところでガゼル」

「なんだ?」

「アンタ、まだスリだの恐喝だのやってるんじゃないでしょうね」

ガゼルが息をのむのが、綾にははっきり見えた。ガゼルが普段から初対面の綾にしたような事やスリをしているとすれば、ここはおそらく彼の主要な仕事場だろう。リプレが差した釘は急所どころか経絡秘孔につき立った事になる。そしてそれが事実である事は、言葉を詰まらせたガゼルの表情が物語っていた。

「……そう。 でも覚えといて。 そんな事していると、レイドが言うみたいにいつか報いを受けるわよ」

「ああ、分かってる」

『え? てっきりまた怒るかと思ったのに。 ……そうか、リプレもガゼルが子供達やフラットのために悪事をしている事を知っているんですね。 それにしても、幾ら何でもこの街の貧富格差は酷すぎます』

「アヤ、何考えてるの?」

「えっ? ええと、人通りが少ないかな、って」

不意に話を振られた綾は、とっさに街の事情を聞く事を思い立ち、そんな事を言った。

「そりゃあな。 収入の四割以上も税金でもってかれるわ、税金納めなければ捕まって工場や鉱山で強制労働だわ、そんなことをやってりゃみんなやる気なくすぜ」

「バカッ! 言う場所を選びなさい!」

「……すまん。 悪かった」

鋭い声でリプレがいう。その表情は、今までにないほど怖いものだった。今のガゼルの台詞や、リプレの表情から言っても、この街が内包する火種の想像以上の大きさははかりしれない。それを敏感に感じ取って、綾は戦慄せざるを得なかった。そして、先ほどの工場の塀の高さの意味を同時に悟る事となった。彼女は心中で、情況を整理して呟く。

『要は税金を納められない人達を無理矢理働かせる、強制収容所だったんですね。 英国が産業革命の時、労働力の主体になったのは(囲い込み)で土地を追われた農民さん達でしたが、此処では犯罪者とされた民衆が、強制的にその役を担わされているのですか……なんて酷い。 ガゼルさんが怒るのも、無理は無いですね……』

幸い辺りに兵士などはいなかったから良かったが、今ガゼルが言った事は立派な政策批判である。そして愚劣な政策で民衆を苦しめている召喚師達や領主が、理性的な判断などするわけもない。おそらくばれれば、ガゼルは死刑、更にフラットは全員刑務所に入れられるだろう。子供達は仮に運が良かったとして刑務所に入れられなくても、幼い彼らだけでスラムに放り出される事になるのだ。逆に言うと、それが分かっていても不満を漏らさざるを得ないほど、皆は追いつめられているのだろう。心の中で、綾は住民を思いやって嘆息した。

『この街、そう長くは持ちませんね。 だとすると、みなさん可哀想。 沢山血が流れて、その濁流に押し流されるんでしょうから。 出来るだけ血を流さずに革命が起こればいいのですが』

繁盛していない名前だけの繁華街を抜けると、そこは高級住宅地だった。柵があり、武装したいかめしい顔つきの兵士が槍を持って仁王立ちしている。向こうにはひときわ大きな領主の館が建っている。要塞のような作りであり、特に門は立派だった。民衆の血と汗を搾り取って造った、虚栄の館だった。

領主の館を見るだけ見ると、三人は帰路に就いた。途中、街で唯一見ていない地域があるのを思い出し、綾は聞いた。

「街の東の端はどうなっているんですか?」

「絶対に行くな」

「え?」

「私達が住む辺りを南スラム、そっちの方を北スラムっていうんだけど、北スラムはこの街で一番危険な地域よ。 犯罪者やテロリストが逃げ込む場所でもあるし、兵士だって怖がって入ろうとはしないわ」

深刻な顔で言うリプレに、ガゼルが更に付け加える。その口調は深刻であると同時に、露骨な敵意も含んでいた。

「それに、(オプテュス)って物騒な連中もいやがる」

「(オプテュス)? マフィアか何かですか?」

「近いな。 北スラムの悪ガキ共が、(バノッサ)っていうきれた奴の下に集まって出来た無法者集団だ。 元々北スラムは強力なリーダーが不在で、小さな組織同士が血を血で洗う抗争をしていたらしいんだが、バノッサがそいつらをひとまとめにして、従わない奴は追い出すか殺すかして自分の天下をつくったらしい。 連中、繁華街や北スラムを縄張りして、やりたい放題だ。 更に、南スラムに手を出そうともしてるって噂もある」

『本物の無法者ですね。 怖いから、出来るだけ近寄らないようにしておきましょう』

だが、綾のその考えは、ほんの数分後に実現不可能となる。戦争どころか、つい昨日は喧嘩さえ知らなかった樋口綾と、いわば負のライバルとなる存在との邂逅は、刻一刻と近づきつつあった。

 

3,負との邂逅

 

「おう、ちょっと待ちな」

繁華街を通って帰ろうとした三人の背後から、不意にドスの利いた声が掛けられた。周囲に人はおらず、渋々ながら綾が振り向くと、そこには男が三人、にやにやしながら立っていた。単ににやけた笑いではなく、目の奥には殺気がちらついている。今の綾には、その殺気の存在がごく自然に分かっていた。男のうち、最も背が高く最も体格がいい輩が、値踏みするように小柄な綾の全身を視線でなめ回しながら言う。

「お前、みかけねえ面だな。 何処の誰だ?」

「無視しろ。 こいつらがさっき言ったオプテュスだ」

小声でガゼルが言い、そのまま綾とリプレに歩くように促したが、もう一人隠れていたらしい男が現れ、その退路を塞いだ。おそらく、この手際の良さから言い、北スラムから付けてきていたのだろう。近くの家の窓が、大きな音を立ててしまった。オプテュスの悪名は、彼らを充分に恐れさせるのであろう。無理もない話である。

「口が利けねえのか!? 何とか言ったらどうだ?」

男の口調が荒々しさを帯び、言葉の中には露骨な殺気が籠もった。見かねたガゼルが、二人を庇うようにリーダー格らしい男の前に出た。

「此奴らは俺の連れだ。 分かったらさっさとどきな」

「お? おー? 俺達に命令するのは何処のどなた様かと思えば、素晴らしい腕前を持つこそ泥のガゼル王様ではないですか。 となると、そっちの二人はさしずめ王の妾ですか?」

「此奴らはそんなんじゃねえっ!」

ガゼルの声にも迫力が籠もったが、男達は動じない。綾は意外に冷静に、この状況を分析していた。

『まず第一に、この人達はこの様な事に慣れているんですね。 第二に、おそらく数を力だと確信しているんですね。 ならば……』

無意識的にリプレを背後に庇いながら、綾は周囲を見回した。そして、敵の配置を確認し、適当な地形を見つけて小さく頷いた。その後、自分が恐怖を全く感じていない事に気付き、少し驚いた。目の前にいる四人が、昨日戦った者達よりも明らかに凶暴で質が悪いと言う事は分かり切っているのに、それ自体には恐怖を感じていないのである。昨日は、特に力が覚醒する前は、怖くて怖くて仕方がなかったというのに。

「てれんなよ、小さな小さなガゼル王様。 小さな王にふさわしい乳臭いチビでも、女は女に変わりないだろう?」

「此奴らはそんなんじゃねえっていってんのがわからねえのか? さっさとどけ! このうすらバカが!」

「お、おー? うすらバカだってよ。 それは喧嘩をお売りになっていると判断していいんですね? ならば、相手してやろうじゃねえか」

舌なめずりして、男が拳をならした。ガゼルは諦めた様子で、綾とリプレに言う。その決意の口調を聞いて、綾も覚悟を決めた。

「悪い、乗せられちまった。 責任取って、此奴らは俺がくい止める。 お前達はさっさと逃げろ!」

「私は残ります!」

「「アヤ?」」

二人に向け、綾は笑みを浮かべた。

「悪いのは明らかにあの人達です。 それに、お世話になりっぱなしなのに、その上守って貰ってばかりではいけないはずです。 だから私は此処に残ります」

「何ぐだぐだいってんだ。 タムザ! 逃がすな!」

『まずは、退路の障害を排除します!』

そのまま綾は、タムザと呼ばれた男につっこんだ。そして、昨日と同じように(集中)する。綾の体を淡い蒼光が包み、目を見開いて突っかかってくるタムザの動きが、スローモーションのようにゆっくり見え始めた。力のかかり方、向かう先、その弱点、いずれもよく見える。昨日対戦した相手に比べて大分隙が少ないが、まだ充分手に負える相手だと綾は本能的に悟っていた。また、(集中)の最中は自らも動きが鈍いのも同じであったが、昨日よりは動きやすく綾は感じていた。そのまま伸ばされた手を、体を低くしてかいくぐると、相手の勢いをそのまま利し、背負い投げする。昨日より幾分か見事に決まり、敵は悲鳴を上げて地面に叩き付けられた。相手の鳩尾に、綾は更に自由落下で肘打ちを見舞った。敵が悶絶したのを確認すると、強くなりつつある娘はリプレに言う。

「今です! 早く!」

「う、うんっ! エドスとレイドを呼んでくるから、絶対無事でいてねっ!」

 

昨日よりも、(集中)による消耗は大分少なかったが、それでも連続使用は無謀であろう。殺気だった敵が、三人揃ってガゼルに突貫する。しばしガゼルは驚くべき素早い身のこなしで、一人で三人をあしらっていたが、流石に人数差もあり不利は否めない。綾は立ち上がると、激しい消耗に痛む頭を押さえながら、呼びかけた。

「ガゼル、こっちへ!」

「? お、おうっ!」

そのまま二人は、わざわざ狭い建物の間に逃げ込んだ。後ろからは、殺気と怒声をまき散らしながら健在な三人がおってくる。綾が先に走りながら、ガゼルに小声で言った。

「私が右に出ますから、ガゼルは左に出てください。 そしてタイミングを合わせて、最初の一人に足をかけてください。 一人はこれでやっつけられます」

「おう、まかせとけっ!」

綾の言葉は、そのまま完璧に再現された。敵が左右に消えた事で焦りを刺激された先頭の一人が、見事なタイミングで掛けられた足払いを受けて、顔面から地面につっこんだのである。凄い音がして、鼻血をまき散らしながら、男は動かなくなった。

「て、てめえらっ!」

しかしながら、まだ情況は好転しなかった。怒声を上げつつ、後ろの一人がそのままガゼルに飛びかかり、組みついたのである。もみ合う二人を見ながら、ゆっくり余裕を持ってリーダーらしい男が、建物の間から出てきた。

「さあーて、どう料理してやろうか? 舐めくさった事しやがって、娼館に売り飛ばされるくらいですむと思うなよ、嬢ちゃん」

「本気、ですね。 分かりました、全力で排除します。 痛いと思いますが、我慢してください」

「やれるもんならやってみろやゴルァ! 俺はさっきのようにはいかねえぜ……」

男は余裕を持って綾に近づいてくる。パワー、スピード、ともに排除した二人とは段違いであろう。更に、ガゼルはまだ組合いの喧嘩をしていて、加勢出来そうもない。(集中)の力を使っても、勝てるかどうかは微妙であり、更に言うと未知の要素が多い(召喚)の力ではガゼルを巻き込むおそれがある。

綾はゆっくり目を閉じると、呼吸を整え、塔のイメージをもう一度思い出した。そして、確信した。今ならもう一枚破れると。男は口の端をつり上げ、綾に手を伸ばした。次の瞬間、綾の体を一瞬だけ蒼い光が包んだ。

「な、なんだ?」

手を引っ込め、懐疑の目で綾を見る男。それに対し、不思議そうに綾は自分の目を見た。確かに何か力が覚醒したようなのだが、それが何か分からないのである。しかし、もう目の前の男は脅威に見えなかった。綾は無言のまま前に進み、面食らった様子で男は拳を固め、容赦なく綾の顔面にそれを放った。無言のまま綾は(集中)を使う。拳は彼女の頬をかすめ、皮膚を削って僅かに血を蒔いた。敵の力のかかり方が、今まで同様、いやそれ以上に非常によく見える。更にそれに加えて、今の綾には、取りうるべき選択肢がもう一つ増えていた。本能的にそれを悟り、綾は獣のように身を躍らせた。

『試してみますっ!』

無言のまま体を沈め、綾は敵の最弱点に向け両手を繰り出した。敵の力の流れに逆らわないように、敵の力が最も弱い場所へと手が伸びる。意図せずそれは、両手を重ねての掌底突きの形となっていた。鈍い音と共に、男の鳩尾にそれが炸裂した。

「ご、がはあっ!」

頭一つ分ほども大きな男が、体をおり、嘘のように蹈鞴を踏んだ。綾は手に相当な負担がかかるかと覚悟していたのだが、それも予想ほどではなかった。そして、ようやく彼女は、自分が覚醒させた力の正体に気付いた。

『そうか、そういうことでしたか。 要は、力が単純に強くなったんですね。 今の感触からして、多分普通の男の子くらいの力に。 二つの力を同じくらいの消耗で同時に使えているという事は、おそらく永続的に肉体の力自体が底上げされたんですね。 ……複雑な気分。 ある意味、もうお嫁に行けないかも』

そして、顔を上げた綾の前で、ガゼルが腹部を押さえて倒れ込んだ男に跳び蹴りを見舞った。瓦礫につっこみ、男は動かなくなった。

「はあ、はあっ! やったな」

ガゼルの背後には、彼に飛びついた男が白目を剥いて転がっていた。ガゼルも一発二発拳を貰ったようで、口の端からは血が伝っていた。それを手の甲で拭うと、親指を立ててにいと笑ってみせる。綾も疲労の色が濃かったが、まだ倒れるほどではない。ガゼルと同じように、少しずつ強くなり始めた娘も、親指を立てて笑って見せたのだった。

「アヤ、お前、血が出てるぞ」

「えっ? あ……ああああっ! ほ、本当にっ!」

自分の頬に手を当て、出血に気付いた綾が蒼白になって混乱した。痛い思いをすることは良くあっても、血まで出る事はそう無かったからである。しかも、傷自体は浅くとも出血は派手で、掌の半ばを朱が占拠していた。さっき以上の精神疲労を覚えて、綾は意識がぐらつくのを覚えた。

「此処にいたか、心配したぞ」

二人が振り向くと、そこにはレイドがいた。厳めしく鎧を着て、帯剣したその姿は、実に強そうで迫力がある。隣にはエドスもいて、心配げに二人を見ていた。

「二人だけで四人を倒したのか?」

「はい、何とか」

「アヤ、お前さん、やはり強いな。 ガゼル一人じゃ、四人どころか三人にも勝てなかっただろうよ」

エドスの言葉は、女の子である綾には微妙な褒め言葉であっただろう。日本にいた頃、男子が良く儚げで素敵だと噂していた、困ったような笑顔を綾が浮かべると、巨漢は大笑いした。一瞬和やかな雰囲気が場を包んだが、レイドが手を叩き、真剣な顔で言うと皆表情を引き締めた。

「傷の手当てもあるし、すぐに此処を離れよう。 ……それに、今後の対策を練らないと行けないからな」

『そうか、今回の事で、私達はオプテュスに戦いを挑んでしまったんですよね』

「……すまん。 俺が乗せられちまったばっかりに」

「事情はリプレから聞いた。 不可抗力だし仕方がない。 それより、いそごう」

理性的なレイドの言葉は、確かに皆を安心させた。四人は最小限の距離と時間で、アジトに戻ったのだった。

 

「しかしまあ、まずい事になったな」

アジトの今で、エドスが憮然と呟いた。レイドは腕組みをして、目をつぶって周囲が話すのに任せている。手当を終えた綾とガゼルは、それぞれ頬にガーゼを張って話に加わっていた。リプレは机の傍らで、心配げに皆の話を聞いている。

「彼奴らが俺達を目の敵にしていたのは今に始まった事じゃねえだろ? いつかはこうなっていたはずさ」

「そうなんですか?」

「ああ。 連中は南スラムに進出する足がかりとして、ウチに目を付けていてな。 時々圧力を掛けて、傘下にはいるように言ってきていたのさ。 なかなか従おうとしない俺らに苛ついて、今日は強硬手段に出ようとしたんだろうよ」

綾の言葉に、ガゼルが実に忌々しげに言う。今までのオプテュスに対する言動からして、恐らく相当しつこく圧力を掛けられていたのだろう。ガゼルの言葉が終わると、レイドが目を見開き、静かに、だが重々しく言った。

「事はそう簡単じゃないぞ。 アヤ、今日戦ってみて分かったと思うが、奴らは女子供であっても一切容赦しない。 今後は、リプレや子供達にも危険が及ぶことになるんだ」

「すみません……」

「すまない、確かに軽率だった」

「もう済んでしまった事は仕方がない。 それよりも、今後の対策を……」

レイドの言葉が止まり、その目が細まる。そして、剣を手に立ち上がった。

「どうやらもうお出ましになったようだ。 リプレ、後は頼んだぞ」

「分かったわ」

「数は恐らく、七人、いや八人か。 私達が必ず何とかするから、それまで絶対に外に出ないようにな」

 

夜闇に、複数の人影が浮かび上がっている。数はレイドが言ったとおり八人。その中には、先ほどガゼルと綾に撃退された者達も混じっていた。そして、昼間と違い、彼らは棒や剣で武装していた。

綾は倉庫から引っ張り出した、小さな刀を手にしていた。形状はまんま日本刀で、見かけより遙かに重い。力が底上げされる前だったら、持ち上げる事さえ出来なかっただろう。簡単に使い方をレイドに聞きはしたが、何とか使わずに済ませようと綾は考えていた。

「よぉ、昼間の件で、挨拶しにきてやったぜ?」

『あの人がオプテュスの首領バノッサ? 若い、凄く若い人ですね』

進み出た男を見て、綾は最初にそんな印象を受けた。全身から強烈な殺気を放つ男で、全身異様なほど肌が白く、目つきは刃のように鋭い。体と同じく髪までも白く、腰の両側に二本の禍々しい剣を付けていた。強い、相当に強いと、綾は一目で判断した。

後で綾にとって負のライバルと言っていい存在になるバノッサとのこれが邂逅であったが、最初はどちらも、極散漫な印象しか互いに与えなかった。

 

4,チーム・フラットへ

 

「バノッサ……」

最初に口を開いたのはエドスだった。その言葉には、相手を哀れむような響きがあった。だがバノッサは、エドスに一瞥すら与えなかった。リーダーであるレイドをまっすぐ見据え、蕩々という。

「俺様の子分共を随分可愛がってくれたんだってな? それについて、ちいと説明をしてもらいに来たぜ」

「お前達が先に手を出したんだろうが」

五月蠅エッ! てめえらの事情なんざどうでも良いんだよ。 要は俺様の縄張りで、俺様の顔に泥を塗ってくれたって事が重要なんだよ。 さあて、どう説明してくれる? 返答次第じゃ、一切容赦しねえぜ」

バノッサの目には爛々と殺意が宿り、辺りを圧する。返答次第ではフラットの者達を、無論子供達も皆殺しにしかねない。いや、この男は、本当に容赦なく子供でも殺すだろう。怖い、と綾は思ったが、しかし今は怖がっている場合ではなかった。小さく息を吸い込むと、エドスの制止を振り切って、綾は前に一歩進み出た。

「お、おい!」

「私です」

「あん? 誰だてめえ。 みかけねえ面だな」

「貴方の子分さん達に手を出したのは私です。 フラットの人達は関係ありません。 私、此処に来たばかりで、貴方の事も、オプテュスの事も知りませんでした。 事の責任は、全て私にあります」

その場の全員の視線が綾に集まっていた。綾は途轍もない恐怖を感じたが、此処で屈すれば子供達が死んでしまうのだ。無邪気なアルバも、おしゃまなファズも、人見知りするラミも、みんな凶悪な暴力によってその後の人生をたたれてしまうのである。恐怖などに、屈している場合ではなかった。進み出れば待っているものは身の破滅以外にあり得なかったが、子供達が殺される事の方が、綾には怖かったのだ。バノッサはしばし綾を見ていたが、やがて小さく笑い声を漏らした。

「ほぉ……そうかそうか。 なら話は早えな。 そいつを引き渡しな、そうすれば許してやるよ」

「私、行きます。 い、いままで、ありがとうございました」

綾は皆に礼をし、震えを必死に殺し、唇を噛んで前に進み出た。進み出れば良くて壊れるまで輪姦される、悪ければ二目と見られない程無惨に殺されるだろう。しかし、綾は決意をし、爪が掌に食い込むほど拳を固めて前に進んだ。無論絶望的な恐怖が彼女を包んでいたが、子供達の命を守るためならば、と綾は思っていた。恩人達を守るためならば、と綾は決意を固めていた。一人、孤独に、かって気弱だった娘は進む。だが、後ろからの声がそれを引き留めた。ガゼルの叱責だった。

「オイ、ちょっと待てっ! 何二人で勝手に話を進めてるんだよっ」

更にエドスが前に出、綾の進路を塞いだ。そして、バノッサをにらみつけながら言った。

「此奴を渡すわけにはいかんな。 何しろ彼女は、大事なワシらのお客人なのでな」

「そう言うこった。 てめえにそいつを好きなようにさせる気なんざ、俺達には端からねえんだよ。 さっさと失せろっ!」

更にガゼルも前に出、威勢良く啖呵を切った。そして最後に、レイドが剣を抜き放ち、月光を刀身に反射させながら言った。

私達が、お前の要求を聞くなどと言った覚えはない。 そして付け加えるならば、従うつもりもないっ!」

「ほう、そうかよ」

バノッサが、口の端をつり上げ、両手で剣を引き抜いた。全面戦争の口実と、殺戮正当化の理由が出来たからであろう。浮かべた笑みは、正に血に飢えた狂鬼のものだった。

「ならば全員、この場で叩き潰してくれるわ!」

右手に持った剣、左手に持った剣、いずれも刀身が禍々しく光を放っている。バノッサはそれを頭上にかざし、短く獣のような叫びを上げた。それが合図となり、彼の部下達が棒やら剣やらを振りかざし、一斉に襲いかかった。

 

ガゼルは懐から数本の投げナイフを取り出すと、サイドステップしてそれを敵正面に叩き付けた。狙いはいずれも違わず炸裂し、肩を貫かれた二人が地面に崩れ落ち、絶叫する。更にエドスが突進し、巨大な拳を振るって一人を殴り倒した。別格だったのはレイドで、剣を持って躍りかかってきた三人を相手にし、一歩も引かない。むしろ、三人をじりじりと押していったほどである。一度に多数とは戦わず、必ず一人一人を巧妙に相手にしつつ、足捌きを利して立ち位置を変え、敵を着実に追いつめていった。

『みなさん、強い! でも……』

滑るように近づいたバノッサが、斜めからの剣閃をガゼルに叩き付けた。間一髪少年はそれをかわしたが、今の剣技、レイドの物にもそう劣らない。しかも、何とか致命的な一撃をかわしたガゼルに、バノッサはねらいすました回し蹴りを見舞った。小柄なガゼルは脆く吹っ飛び、壁に叩き付けられて大きな音を立てた。エドスは先ほど綾と戦った大柄な男と戦っており、レイドにも加勢する余裕はない。綾は日本刀を慌てて引き抜くと、ガゼルの援護に向かった。

「みじけえつきあいだったな、ガゼル。 死ね!」

倒れたガゼルに、バノッサが全く容赦なく剣を振り下ろした。短い風の音、鋭い金属音が続けて響き渡る。脇から割って入った綾が、それを受け止めたのだ。剣撃は重く、綾は思わず片膝を突きそうになった。元々、刀など使った事もなく、(集中)で相手の剣の力の流れを見切り、何とか打撃を分散して耐え抜いたに過ぎないのだ。ガゼルはよろよろと安全圏に逃れたが、反撃をする余裕はない様子である。更に悪い事に、バノッサは今の攻防から相手の力量を察したらしい。白き悪意は短く笑うと、綾の脇腹に遠慮無く蹴りを叩き込んだ。いつも遭うような痛みより、ずっと強烈な、それこそ命に関わる痛みを覚えて、蹈鞴を踏んだ綾は激しく咳き込んだ。(集中)を駆使して、力がかかる場所から身をそらし、ダメージを軽減したのだが、それでもこのありさまである。流石にスラム街を若くして仕切るだけあり、その戦闘力は相当な物であった。

「か、かはっ! ごほっ!」

「オラ、さっきの覚悟はどうしたよ。 まさかそれで終わりじゃあるまいな」

『ま、まずいです。 今の私では、接近戦をして勝てる相手ではありません』

綾は片膝を突いていたが、不意に横に転がって、バノッサの注意を逸らした。そして何度かバックステップし、その攻撃圏内から逃れた。勝利を確信し、笑みを浮かべて近づいてくるバノッサ。綾の精神力は限界に近く、選択肢はもう少ない。その上、まだ塔の次の天井は破れそうもない。

『ヴォルケイトス、ガゼルを傷つけず、ただあの人だけをやっつけて!』

「……? ヴォルケイトス?」

自分の頭の中に浮かんだ名前に、一番大きな疑問を抱いたのは綾だった。だが、集中を止めるわけには行かない。そのまま、頭の中に浮かんだ名前を連呼し、集中を続ける。綾の全身を蒼光が、激しく、今までになく激しく包んだ。

『ヴォルケイトス、ヴォルケイトス、ヴォルケイトス! 助けてっ!』

「……? な、な、なんだっ!?」

バノッサの驚愕自体が、起きた出来事の全てを物語っていた。昨日現れた物と同じ、奇怪な生き物が空間の亀裂から顔を出し、その顔面を開いて巨大な舌と無数の目を晒したのである。恐怖の声を上げ、逃げ腰になるバノッサの手下達。そして生き物は、バノッサを、昨日と同じくいかにも面倒くさそうに光の球を放って攻撃したのだった。

「しょ、召喚術だと! が、ぐあああああああああああああっ!」

吹っ飛んだバノッサが壁に叩き付けられた。だが、バノッサは驚くべき事にそれに耐え抜いた。ゆっくりと、よろよろと立ち上がったのである。自らの剣を杖にして、目には殺意を宿したまま、彼は顔を上げた。

「そこまでだ。 剣を捨てろバノッサ」

バノッサの喉には、レイドが剣を突きつけていた。今の騒ぎで逃げ腰になった事を利し、彼は戦っていた三人を相次いで叩きのめすことに成功したのである。エドスも既に勝利しており、ガゼルも立ち上がって脇腹をさすっていた。骨は折れていないようだった。剣を捨てたバノッサは、壮絶な表情を浮かべた。何にしても、今の攻撃によるダメージは痛烈であり、もうまともには戦えないだろう。信じられないタフさで立ち上がりはしたが、所詮彼は人間に過ぎないのだ。

「お、俺様が負けるなんて、ありえねえ! みとめねえ、みとめねえぞっ!」

バノッサが綾をにらみつけた。それは憎悪と殺意で練り上げられた黒き視線であり、地獄の矢であった。綾は傷む脇腹を押さえながら、その視線を受け止めた。彼女をエドスが脇で支えており、(支えられている)という事が大きな勇気を与えていたのだ。

「てめえら、自分が何したか、これからどうなるか分かってるんだろうな!」

「もう、こうなったら逃げも隠れもしねえよ。 いつでもかかってきな。 受けて立ってやるぜ」

親指を下にし、ガゼルが言った。更に、レイドはバノッサに、いつもの彼からは信じられない苛烈な視線を向けながら言った。

「貴様が私達を憎もうが恨もうが勝手だ。 いつでも相手になろう。 しかしリプレや子供達に手を出してみろ……私は絶対に貴様を許さない! 地獄の底まででも追いつめ、必ずや首をはねる! さあ、行けっ!」

それだけ言って、レイドはバノッサを離してやった。バノッサはもう一度綾をにらみつけると、獣のような叫び声を上げながら、闇へと消えていった。

 

恐がりな自分、臆病な自分。誘いは断れず、相手に迎合するばかりで、楽な方ばかりへ向いていた自分。弱く貧弱な自分。しかし、綾は今日、自分の意志で幾つも大きな事をした。リプレを守るために自ら戦いを選び、子供達を守るために自ら死をも厭わぬ行動に出る事が出来た。

この世界で、評判や財閥の娘だからという偏見から綾に無理な期待をかける者はいない。白紙の状態から、全てを作り上げる事が出来る。それが、かえって綾を強くしていた。それに気付いた綾は、幸せな気分を味わっていた。自分の意志で、こんな大きな事が出来たのが、信じられないほど嬉しい事だったからである。それが出来たのも、僅かながら強くなる事が出来たからであった。皆が自分の力を、偏見無く正当に評価してくれている。それが綾にとってどれほどの支えになるか、彼女以外の人間には到底分からなかっただろう。力がどうやってもたらされたのか、その正体は何か、それはさておいて、綾は今ある幸せに浸っていた。

綾も骨には異常が無く、他の皆も軽傷で済んでいた。敵が完全に撤退した事を確認すると、レイドは再びチーム全員を集め、会議に入った。子供達はもう眠ったとリプレは言ったが、おそらく戦闘中は皆奥の部屋で息を殺していたはずだ。あの騒ぎ、とても隠しきれるものではない。

「これからどうするか、だな。 もう後にはひけんぞ」

「こうなったら仕方ねえよ。 攻めてきたら、何度でも受けて立ってやればいい事だ」

「簡単に言うがな、子供達やリプレはどうする? うちにいつもいるのがガゼルだけじゃ、心細いぞ」

「大丈夫、もう一人いるじゃねえか。 ここによ」

ガゼルがそう言って綾を見、肩を叩いた。今日二回行った戦闘の後、彼は綾に笑顔を見せるようになっていた。

「私、ですか?」

「そうだな、今日の戦いぶりなら、安心してここを任せられる」

「おう、留守の守りは万全になるな」

「子供達、みんな喜ぶわ」

皆の意思を確認すると、レイドは表情を改めた。そして、綾に軽く頭を下げた。

「というわけで、もし君が良ければ、フラットに入ってくれないか? 君が帰るまででいい。 これは我ら皆の願いだ」

「そんな、私、私……」

「だめか?」

「ううん、嬉しい、とても嬉しいです。 喜んで参加させて頂きます!」

「では、改めて挨拶させて頂こう。 チーム・フラットへようこそ! そして、今後は誰にもさんをつけずによんでくれ。 私達は、仲間だ」

自分を仲間として認めてくれた者達の存在。今までには絶対に存在しなかったもの。綾はこの世界に来て良かったと、このとき思った。

 

5,蠢く闇

 

迷霧の森の奥、五つの人影が会議を行っていた。オルドレイクと、その(同志)達であった。彼らは最近今までになく活発に行動しており、会議の回数は明らかに増えていた。

「では、まず同志ラーマよ。 首尾はどうであったか?」

「ロッテンブルクの蒼の派閥支部を壊滅させてきました。 一般兵士約五十、敵召喚師七名を撃破。 当方は被害ありません」

「これで五つ目だな。 順調だ」

クジマが地図上の街に、×印をつけた。五つの×印は、この迷霧の森とは全く関係ない凶暴な召喚獣が住み着く洞窟を中心とした円周上にあり、敵の目をそらす配慮は既に行われている。

「うむ、しばし休んで静養せよ、同志ラーマよ。 君の頭脳と君自身は、この(無色の派閥)に必要不可欠であるからな」

「お心遣い、感謝します、同志オルドレイク」

「続いて、同志トクランよ。 実験の成果はどうだ?」

「捕縛した金の派閥被験体による融合実験は、成功しましたよぉ。 ほら、これを見て見て! すごいでしょー!」

自信満々のトクランが、檻にかけられていた布をはぎ取った。そこには見るも無惨な、奇怪としか称し得ない生き物がいて、うなり声を断続的に上げていた。その胸の中央部には、濃く禍々しい紫色をした球体が、吸い付くようにして埋まっていた。

「流石はトクラン同志。 私は君と同志である事を誇りに思うぞ。 では、(例の物)を外し次第被験体は処分してくれ」

「了解! 恨み重なる奴らの一味だし、私のゲルニカの餌にしちゃいますぅ!」

「うむ。 さて、後は同志ザプラよ。 成果はどうだ?」

「リストアップは完了しました。 (スペア)二十七名の内、未だに二十三名が生存しております。 後は、能力的な分析と振り分けを行い、煮詰めていく作業ですな」

オルドレイクは頷き、同じようにザプラも褒め称えた。そして表情を改めると、話題を変更した。机上に植木鉢を乗せると、皆から感嘆の声が挙がった。そこに植えられた植物は、白く儚げな花を確かに付けていた。

「ところで、これを見て欲しい。 そう、この汚染された森の土で、ついに花を咲かせる事に成功したのだ。 人間共が極限まで汚したこの森も、我らの努力次第で甦らせる事が可能だ。 何と素晴らしい事だろうか」

「オルドレイク様の友たちも、森に暮らせる日が来るやも知れませぬな」

「来るかも知れぬ、ではない。 来させるのだ、我らの力で。 運命は変える事が出来る、不埒なる神は倒す事が出来る! 宿命などは存在せず、未来は必ずや切り開く事が出来る! そしてこれら理想の成就は、(約束の地)建設の際必ずや大いなる力となろう」

オルドレイクの言葉に、作為的な部分はない。もしあったとしたら、地獄を生き抜き人間の暗黒面を知り尽くした同志達に、すぐさま見破られてしまっただろう。正真正銘の本音から、これらの理想を語る事が出来るから、同志達は皆彼に背中を預けるのである。

オルドレイクの理屈は強い者の、あるいは強くなりうる者のものであった。だが、彼はそれを常に同志を守るために使った。だからこそ、ここまでの信頼を得る事に成功したのである。

「同志クジマよ、次は君の番だな。 次の任務は大きい、心して取りかかってくれ」

「はっ! 了解しました!」

クジマに続いて、皆が立ち上がり、オルドレイクと共に敬礼した。彼らの思いは一つであり、それは揺るぐ事なき強固な意志の鎖であった。少なくとも同志に対し、彼らは崇高なる友であり、誇れる仲間なのであった。

 

サイジェントの闇の中、膝を抱えたカシスは孤独だった。彼女はまだ監視を続けており、今日もそれに変動はなかった。(あの娘)は一戦ごとに着実に強くなり、召喚術も的確に使いこなしている。そして今回、明らかに仲間と思われる者達と共同し、別集団と戦闘を行っていた。今後は監視が厳しくなる事が疑いなく、何かしらの手を打つ必要があるだろう。

今のところ、カシスの元に(お父様)及びその(同志)、さらにはその刺客は現れていない。現れたらどうあがいても絶対に勝てない。特に(同志)達は、全員が全員数人の召喚師を難なく一人でねじ伏せるほどの使い手である。(お父様)であるオルドレイクに至っては更にその上を行く。カシス程度では、例えガルガンチュアがいたとしても、全く歯が立たないであろう。カシスは生き残るため、戦うのではなく逃げなくては行けない立場だった。

店と呼ばれる物質交換所から持ってきた木の実を囓りながら、カシスは再び雑踏を眺めやっていた。明るい子を探すために。明るい子となるために。

「そっか、最初の挨拶は、そう言う風に言えばいいのか……」

全く感情のこもらない声で呟くと、カシスは観察を続けた。どうやら(明るい子)に分類されるらしい者を見つけたためである。その一挙一動をコピーすべく、カシスは目を凝らし続けていた。最初は表情を、次に口調を、続けて動作を。

「やっほー……」

無表情のまま、カシスは呟く。次は表情を造って、同じように呟く。更に動作を真似しながら、同じく呟く。やがて、程なく完璧にそれを再現出来るようになっていた。

カシスの視界の中で、(明るい女の子)は軽薄な言動を叩いている。どうも男友達らしい者に、様々な事を言って困らせている。からかったような言動自体も目立つが、カシスは心自体が全くそれとは正反対の方向を向いている事も、的確に把握していた。

「……楽しいや。 見てて、クラレット、ガルガンチュア。 すぐに明るい子になってみせるから。 それで、生き延びてみせるから」

初めてカシスの顔に、生の表情が浮かんだ。優しく、そして憂いを帯びた表情だった。

「やっほー」

もう一つ、カシスは呟いた。今度は誰の真似でもない、自分の生の表情で。

(続)