遠き夜明けへ

 

序、待ち人達の時間

 

迷霧の森を包囲していた金の派閥、蒼の派閥連合軍は、不意に降り注いだ無数の雷によって、壊滅的な打撃を受けていた。ようやく立て直した陣の各地からは煙が上がり、兵士達は逃げまどい、呆然としている。主力を何とか建て直し、周囲を落ち着かせようと必死になっているラーストの元に、意外な人物が現れた。金の派閥の副派閥長であり、派閥長が行方不明の現在暫定的に指揮を執っているファミィである。殺気立っている武人達を前に、ファミィは落ち着きを保ち、飄々と言う。

「一旦後退しましょう、ラースト将軍」

「言われるまでもない。 だが、陣を立て直さねば、追撃を受けたときに全滅する!」

「おそらく敵にその気はありませんよ。 正確には、余力も残っていないというべきね」

無色の派閥の獣王クラス召喚獣四体が暴れ回る前に、加えられた容赦ない攻撃は、味方にも大打撃を与えたが敵にも大きな被害を与えていた。何しろ兵力差は二十倍以上である。味方にとってはちょっとした被害であっても、敵には重傷になるのだ。特に敵に大きな損害を強いていたのは、指示を出されていた三カ所に対する攻撃である。これがなければ、無色の派閥側は追撃を行う余裕があった可能性が非常に高い。

しばしの沈黙の後、ラーストは後退を部下達に指示した。そして何とか撤退戦を指揮し、最小限の混乱で、数キロを後退した。程なくパムフも後退を開始し、両軍は合流と再編成を同時進行で開始した。並の指揮手腕で出来る事ではないし、同時に膨大な精神力を費やす作業でもある。

決戦の火蓋を切ってから、まだ半日と過ぎては居ない。しかし、実に三千近くもの兵士が戦死していた。ラーストは何とか撤退と再編を完了したパムフと列んで、迷霧の森の上に広がる、巨大な黒雲を見た。後ろでは、怯える戦慣れしない召喚師達に、ファミィが的確な指示を飛ばしていた。

「あれが、人のなせる業だというのか?」

「おそらく、もう人ではありませんよ」

ファミィの言葉に二人の名将は顔を見合わせ、戦慄を隠し切れぬ様子でその場を後にした。

 

サイジェントの工場区の近くでは、今日も鍛冶屋が営業していた。周囲の店は殆ど閉めているか、開店休業状態だったのだが、鍛冶屋だけは平常通り動いていた。鋼を打つ音が、代わらず響く中、店の奥で彫像の如く鎮座していたウィゼル老人が顔を上げた。

「……兄弟が、戦っておるな」

かって彼が、サモナイト石から鍛え上げた究極の剣。強度が素晴らしいのではなく、サモナイト石で出来ているという特性を生かし、持ち主の能力を吸収し強くなる剣。最初の一振りは、世界の改革を求む強き男へ。次なる一振りは、弱くも優しい賢き娘へ。そして彼らが戦う事になるのは、もうウィゼルにはとうの昔から分かっていた事だった。そしてそれが、世界の行く末を左右する戦いにもなると。

「悲しいか、おう、悲しいじゃろうな。 しかし、剣と産まれたからには、ぶつかり合わねばならぬ時もある。 ……どちらも、負けぬようにの」

ウィゼルの独り言は、それで終わった。彼は鍛冶屋を出ると、北東の空を見上げた。濛々たる黒雲が渦巻く魔境を。

 

「サイサリス様、北の空に異常が見えます」

サイジェント城にいたサイサリスの元に、部下である騎士の一人が息せき切って駆けてきた。彼女はフラット・アキュート連合軍によって奪還されたサイジェント城の内部をチェックする仕事の最中であり、補修や、破損した美術品の金額算定に大わらわだった。だから不快げに眉をひそめて、呼ばれるままテラスに出、そこで硬直した。

北東の空にかかる巨大な黒雲は、サイジェント城からもよく見えた。渦巻く黒い流れ、降り注ぐ無数の雷。当然それはサイジェント城の兵士達にも見える。城の各所で、それに怯える兵士達の姿。サイサリスはしばしの沈黙を終えると、思惑を巡らせた。

混乱を起こした軍隊ほど、脆いものはない。ましてや今、サイジェントは一旦主城が落とされるという混乱を経た後で、隙を見せるとよからぬ輩につけ込まれる可能性がある。リシュールから知らされた蒼や金の派閥の性質からしても、今隙を見せるわけには行かなかった。サイサリスは控えている騎士に振り向くと、真剣な眼差しで言った。

「一旦、補修及び調査は中止。 全員を集めて、警備体制を強化しなさい」

「はっ! 怯える兵士達にはどう説明しましょうか」

「私も最前線で警備に当たります」

司令官が臆することなく表に出て、脅威に対して戦う姿勢を見せる。それは正しい判断である。多少の不安を残しつつも、凛とした態度のサイサリスを見て、兵士達は静まった。内心ではサイサリスも無論嫌な予感は感じていたのだが、指揮官として、此処で臆するわけには行かなかった。

部下と一緒に要所を周りながら、ぼそりとサイサリスは呟く。

「まだ、騎士団長にはなりませんよ」

「はい?」

「……何でもありません」

サイサリスは顔を背けると、二度と意味不明の言葉を呟かなかった。

 

アキュートのアジトには、リシュールが常駐し、アキュートの一般構成員達や、騎士や蒼の刃のメンバーに指示を出していた。騎士や蒼の刃のメンバーも、今やリシュールには一目置くどころか崇拝の年さえ抱くようになっていた。蒼の刃の何人かは元の組織から協力するように言われていたが、それ以上に彼らの忠誠心は強固になりつつあった。凡人からすると、神がかって見える知性がカリスマとなり、彼らを引きつけていたのである。

「リシュール殿! 北の空に異常が見えます!」

蒼の刃隊員が、主君に対する言葉遣いでリシュールに向け跪いた。無言のままリシュールは外に出ると、目を細めた。彼女の目には、北東の空に広がる、明らかに異常な巨大黒雲が映っていた。リシュールは立ちつくしながらも、平静を保ち、一言も発しない。動揺している周囲とは、明らかに一線を画した態度である。しばしの無言を保った後に、リシュールは言う。

「警備開始。 無用の混乱を、最小限に押さえる努力をしろ」

「はっ!」

慌ただしく駆け去る数人の男達を見送ると、リシュールはずれた眼鏡を直し、呟く。

「ラムダもレイドも、まだ死ぬには早いぞ。 まだ生きて、生きたまま伝説になって貰わないと困る。 今サイジェントに必要なのは、象徴としての英雄ではないからな」

その後リシュールは第一線で指揮を執り続け、臆する様子を一切見せなかった。

 

フラットのアジトでは、子供達と、リプレだけが残っていた。リシュールが派遣してくれた兵士が数人外で警備に当たっているが、リプレと子供達しか中には居ない。皆が危険な所に出かけているというのは、子供達にも周知の事実であり、皆黙り込んで不安げな顔をしていた。リプレも、例外ではなかった。それでも、彼女は自身の義務を淡々とこなしていく。夕食の準備をして、掃除や洗濯をして、余った時間で備品をチェックする。そして、勿論リシュール先生の部屋の掃除は欠かさない。リシュールが当分帰ってこないのは分かり切っているが、少し前までの、半分以上諦めていた情況から比べれば百倍も千倍もましであった。いつか帰ってくる先生のために、フラットの創始者であり、リプレの本当の意味でのお母さんのために。リプレは丁寧に先生の私物を整理し、部屋を片づける。いつ帰ってきても、心地よく過ごせるように。また、あのときのように暮らせるように。

昼食を終えて、食器を片づけるリプレの袖を、ラミが引いた。腰をかがめて用事を聞くと、ラミは無言で窓の外を指さした。外には子供達も集まっていて、不安げに北の空を眺めている、リプレにも、その意味がすぐに分かった。

北の空に、巨大な黒雲がかかっている。それはさながら巨大な蛇のように蜷局を巻き、渦を巻き、ゆっくり回転している。地獄の蟻塚と呼ばれる鉱山の東、今綾達が戦っている辺りの空にかかった巨大な雲。無数の雷を下に投じる、漆黒の塊。雷の音はさほど大きくはないが、膨大な数の雷が落ちているのが視認可能であった。

「母さん、みんな、大丈夫かな」

「……」

「大丈夫だよね?」

アルバとフィズが口々に言い、リプレを見た。フラウはずっと、目をつぶって何かを祈っていた。ジンガの無事を祈っているのは疑いない。ラミは熊のぬいぐるみを抱きしめたまま、微動だにしない。リプレも、心の中には不安の雲が充ち満ちていたが、此処で弱きを見せるわけには行かなかった。彼女は、フラットの母なのだから。仲間達の帰りを待つだけではなく、他にもする事は幾らでもあった。帰りを待つだけのひ弱な女性ではないリプレは、子供達の肩を笑顔で叩いた。

「大丈夫。 みんなが帰ってこなかった事なんか、今までに一度でもあった?」

帰ってきたのは、絶大な信頼に満ちた笑顔。リプレは自らにも言い聞かせながら、もう一度北の空を見た。

「大丈夫。 みんな無事で、絶対に帰ってくる」

リプレがフラットの母であるが所以が、此処にあった。

 

1,超絶の戦い

 

異空間で、二人の超越者が相対していた。直径数十キロメートルの小さな異空間は、淡く発光する足場が無数に浮かぶ乾いた地である。中心部にある黒い足場に向けておよそ1Gの重力が働いており、足場自体が発光していて光はある。空気は地球の大気成分とほぼ同じ、だが若干湿度が低く、周囲は乾燥気味だった。

誓約者として完全覚醒した綾は、アカシックレコードから自在に情報を引き出す事が出来るようになっていた。無数の達人達の戦闘経験。魔王達や、龍神達の戦いの記録。力の使い方、それに数々の業。その能力は、残念な事に無限ではなかった。やはり生物を超越したとしても、存在にはやはり限界という物があり、引き出す情報は取捨選択しなければならなかった。そして、オルドレイクも同じだと言う事が、ごく自然に彼女には分かっていた。

綾の全身を包む蒼い光が、更に充実し、力強さを増していく。そしてそれは、オルドレイクの体を包む紅い光も同じだった。両者の纏う光は、同等の質感を有し、互い劣らず高まり続けた。それに比例して、両者の間の戦意も一秒ごとに高まっていく。間の空間では実際にスパークが走り、小さな石が幾つもはぜ砕けた。それは一瞬ごとに多くなり、やがて戦意が収まりきらなくなる。帯電していた戦意が限度を超えた瞬間、うっすら発光している無数の足場が浮かぶ閉鎖空間で、生物を超越した二人はついに激突した。

最初に仕掛けたのは、やはりオルドレイクであった。煌々と輝くサモナイトソードを振りかぶると、一息に振り下ろす。巨大な光の矢が放たれるが、綾はほんの僅か体をずらすだけでそれを避けた。だが次の瞬間、それは背後の至近で炸裂、綾は煙に包まれる。しかし、攻防はあり得ぬほど目まぐるしい。一秒も置かずに煙を斬り払った綾が、跳躍し、大上段からの一撃を叩き付ける。どちらも声を発さぬ、金属音と足捌きと、空気を切り裂く音だけの戦い。振り下ろされた綾のサモナイトソードを余裕を持って受け止めたオルドレイクの足場に巨大なひびが入り、だがオルドレイクは小揺るぎもしない。そのまま襲撃者を弾き返し、笑った。綾はそのまま数十メートルをずり下がると、無言でついてもいない埃を払う。そして左手を開閉した。綾がずり下がった地面には、黒い筋が二本残っており、煙を上げていた。

「力が有り余りすぎて、制御しきれないか?」

「それもあります」

今度は綾から仕掛けた。綾はもう、感情には左右されなかった。オルドレイクがやった事は、カノンを殺した事は、今でも(許す事が出来ない)と認識しているが、それが身体や、本能レベルでの精神に影響を与えないのだ。それはとても悲しい事のはずなのだが、それでも一切乱れは出なかった。

超高速で剣閃が交錯し、衝撃波で地面がえぐれる。秘技の限りを尽くして戦う両者であったが、どちらも隙を全く見せない。無駄に力を削り会うだけの戦いから、両者は同時に身を引き、大きくはじきあって距離を取る。既に今乗っている、虚空に浮かぶ足場は半壊状態になっている。右手を振って綾はサモナイトソードの感触を確かめつつ、今の戦いで初めて笑った。まだ人間だったときに良く浮かべていた、困ったような笑みを。

「そろそろ、扱えるようになってきました」

「奇遇だな。 私もだ」

「本気で行きます」

「来たまえ」

アカシックレコードから情報を引き出せる者同士の戦いである以上、引き出した情報は敵が知っていて何の不思議もない。つまり、勝負は引き出した情報を如何に自己流にアレンジするかで決まる。それを的確に行えた方が、敵を凌駕する事になるのだ。綾は異界の地を疾走しつつ、左手で印を切り、呪文を組み立てる。数十の意味を持つ言葉を組み合わせ、練り上げ、再構築しながら。対しオルドレイクも、同じように呪文を組み立て、印を切った。当然の事ながら、それはどちらも知らない物だった。

吸い寄せられるように、両者の剣がぶつかり合う。同時に、綾が最初の呪文を発動していた。空間が歪み、体の周囲を、不可視の魔力が覆っていく。それが再構築され、形を為していく。やがて、綾の左腕を、紅蓮色のガントレッドが覆っていた。複数の節を持ち、無数の触手と棘が覆ったそれは、蠢きつつ膨大なプレッシャーを周囲にはなっていた。

これは、一種の召喚術だった。召喚獣をそのまま召喚する、通常の召喚術。霊的なレベルの召喚獣を、目的の体内に召喚する憑依召喚。それらとは違う、第三の召喚術。召喚獣を霊的なレベルで召喚、自らの魔力で再構築し、特定の形で物理的に纏う。名付けて、隷属纏召喚。エルゴ並みの実力者二人が戦う戦場では、もう獣王クラス召喚獣でもまともに呼び出しては役に立たない。それを考慮してくみ上げた召喚術の強化形態であった。今綾が召喚したのは、最も接近戦等向きなシュレイロウである。

「せいっ!」

踏み込んだ綾が、相手の鳩尾に向けて左手で掌底を叩き込んだ。オルドレイクは無論ガードしたが、その上から一撃は痛烈に相手に伝わっていた。オルドレイクは百数十メートルを飛ばされ、浮いている別の足場に突っこみ、それを崩壊させた。

続けて綾は次の攻撃に移ろうとしたが、反撃が来た。反射的に綾が飛び退くと、彼女が一瞬前までいた地点が爆発した。

『! 飛んできた様子はありません。 この攻撃は、一体……』

「なかなかに素晴らしいな。 召喚術の一種のようだが」

瓦礫を押しのけて、オルドレイクが立ち上がる。その周囲には、紅い光が球状に結晶化し、複数浮かんでいた。印をオルドレイクが切ると、その幾つかがかき消え、綾の至近で炸裂、爆発した。不規則に立ち位置をずらしつつも、全てかわせるわけでもなく、四発目で避けきれず、綾は崩壊した足場ごと、下の足場へ落ちていった。オルドレイクは印を切り、とどめを刺そうとしたが、今度は綾の対応が早かった。綾は冷静に、シュレイロウをヴォルケイトスに切り替える。隷属纏召喚されたヴォルケイトスは、無数の目を持つ節くれ立ったガントレッドになった。そして、逆さまに落ちつつ、綾はヴォルケイトスの火力を開放した。瞬間、ガントレットが後背に延びて大きく開き、巨大で有機的な羽を形成する。同時に、巨大な砲となったガントレットから、極太のエネルギービームが発射された。虚空を超絶の破壊が貫き、複数の足場が巨大なエネルギーの余波で爆発する。それは成熟した星間文明の要塞主砲並の破壊力であった。砲撃はオルドレイクが張った光の膜を直撃、周囲の複数の足場ごと巨大な爆発に包み込む。反動で大きく飛ばされた綾は、反転すると最小限の威力でヴォルケイトス砲を放ち、落下の衝撃を緩和した。

ゆっくり下の足場に降り立った綾は、先ほどの爆発で受けた傷を修復しようと計ったが、その時間がない事を悟って断念した。再び先ほどと同じ一撃が、彼女の至近に連続して着弾したからである。一旦サモナイトソードを鞘に収めると、右手で印を切り、因果律操作で着弾地点をずらす。かっては自分の運勢をマイナスに操作することしかできなかったが、現在はより多くの消耗で、プラスに操作出来るようにもなっていた。それで何とか着弾は避けられたが、召喚術を駆使しつつの因果律操作は、現在も変わらず消耗が大きい。光が少しずつ弱まっていく綾の眼前に、光の膜に包まれたオルドレイクが現れた。そしてサモナイトソードを振りかぶり、容赦のない一撃を叩き付けてきた。とっさに左手のガントレッドで受けつつ綾は後退し、サモナイトソードを再び引き抜いて続いての袈裟懸けの一撃に対処する。オルドレイクの猛攻を何とか凌ぎつつ、綾は思惑を巡らせた。

『やはり、この世界を通って私の側に着弾した形跡はありません。 それに、周囲に残るこの魔力は、やはり召喚術によるものですね。 となるとおそらく今の攻撃は、攻撃用のエネルギーを異世界に一回送り、其処から相手の体内に直接召喚する……そんな所でしょうね。 複数次元転移攻撃とでも言うべきでしょうか。 これは正体が分かっても対処し切れません。 厄介な攻撃です』

「その様子では、もう私の攻撃の正体に気付いたようだな」

「厄介な攻撃を組み立てましたね、オルドレイクさん」

「何、君のその第三の召喚術も、充分厄介だ。 先ほどの一撃、シールド越しでも相当に効いたぞ」

やはり生物を超越した後でも、両者の特性は継続されていた。異常なほどの戦闘経験とパワーで戦うオルドレイク、頭脳と召喚術で戦う綾。弱点も継続されていた。やはりオルドレイクに比べると、綾はスタミナ不足であった。逆に召喚術の腕前は、二段も三段も上回っていたが。

「勝たせて貰うぞ! ぬうんっ!」

オルドレイクが印を切る。綾が気付いたときには、彼女の周囲は淡い光の膜に覆われていた。その意味を悟った綾が戦慄するのと、オルドレイクが次の攻撃に出るのは同時。今までにない数の紅い球体が出現、そして一斉に消え失せたのである。

「これをどう避ける!?」

極めて攻撃的なシールドの利用であった。因果律操作で多少出現位置をずらしても、爆発はシールドの内部で反響し、綾に襲いかかる。ヴォルケイトスなりの攻撃系召喚術でシールドを壊そうとすれば、その間に攻撃の全てが直撃する事になる。そうなれば、如何に生物を超越した状態の今の綾でも、ひとたまりもない。これぞ、正に必中必殺の攻撃であった。

次の瞬間、場が閃光に包まれた。

 

2,己の誇りと護るべき者と

 

迷霧の森の上には、分厚い黒雲がかかっていた。周囲にはひっきりなしに雷が落ち、巨大な破砕音が響き続ける。森には不思議と一つも落ちず、その周囲にばかり落ちる天の災厄。その中で、対峙するフラット・アキュート連合軍と、無色の派閥幹部達。どちらの顔にも、雷に対する恐怖などはなかった。あるのは自らの大事な者達に対する憂慮と、目の前にいる最強の敵に勝たねばならないと言う事実を見つめる心。そして、誰の目にも、もはや恐怖はなかった。

 

アキュートのリーダーであるラムダは、激しくザプラと剣を交えていた。剣撃の音が響き渡り、大地を踏みしだく音が重なる。戦いは激化の一途を辿り、終わる気配も見せなかった。だが、ラムダの技量は、明らかにザプラに劣っていた。ラムダが敗北しなかったのは、彼を複数の鬼神が援護していたからである。一対一では、もうとうに勝負がついていた事は疑いない。

ザプラは途轍もない使い手であり、その実力はおそらく剣士として文句なしに世界最強。数度剣を交えただけで、ラムダとの力量差はあきらかであった。絶大な力量を誇るラムダでさえ、ザプラの前ではそこそこの使い手程度にしか見えない。強者の上には果てしなく強者が存在する。剣に生きる者達の世界では、それが常識であった。かろうじてパワーだけはラムダが勝っていたが、それ以外の要素では全てがザプラが上だった。

ザプラの周囲には、ラムダを援護すべく、カイナが呼び出した数体の鬼神がおり、時々タイミングを合わせてザプラに拳を叩き付けていたが、何一つ効果を上げる事が出来なかった。尽く拳は空を切り、次の瞬間には切り伏せられてしまう。鬼神をまるで赤子扱いである。右往左往するカイナに、ザプラの鋭鋒を必死に防ぎながら、ラムダが言う。タフさがウリの彼であるのに、かなり息が上がっていた。

「カイナ! 雑魚では呼ぶだけ無駄だ! 一番強い奴を呼べ!」

は、はい!

カイナが怯えた顔で頷き、慌てて鈴を鳴らす。それを横目で見ながら、ラムダは呼吸を整えていく。ザプラとの戦いでは、綾との戦いのような、強者との戦いがもたらす高揚感が全く得られなかった。無数の命を背負った者同士の戦いであったから、という理由もあった。だがザプラの剣は、それ以上に怨念に満ちた凄みを有しており、とても戦いを楽しめる代物ではなかったのである。一瞬の隙をつき、ザプラがラムダとの間合いを蹂躙していた。そして、一撃が脇腹につき立っていた。

「ぐがっ!」

思わず一歩下がるラムダは、空いている左手で剣を掴んでいた。傷口から鮮血が垂れ落ち、それが地面にしみこんでいく。ガントレット越しでも、ザプラの剣は冷たい殺気を、ラムダの体へ送り込んでいた。

ラムダも武の道を生きてきた男である。修羅の世界で剣を磨き、死線など数限りなく潜ってきた。しかしザプラのそれは、根本的に違う。ラムダのこなしてきた戦いなど、ザプラのこなしてきたそれに比べればままごと遊びに等しい。発せられる殺気だけで、ラムダはそれを理解していた。互いの力が釣り合い、拮抗する。やがてザプラはラムダを蹴飛ばし、体を離しつつ強引に剣を引き抜いた。立派に整えられた髭に覆われた口元を、ザプラはゆがめた。

「流石に強いな。 配置しておいた大悪魔達を、危なげなく倒してきただけの事はある」

「いやみにしか聞こえんな」

「そうか? 私は純粋に褒めているのだぞ」

ザプラは不意に振り向くと、剣を斜めに振るっていた。後ろに回っていた鬼神が、腰から両断され、上半身が後ろに倒れる。下半身がそれに続き、内蔵をぶちまけた。痛烈な痛みと、注がれ続ける悪意に、ついにラムダが片膝をついた。その横に、カイナが呼び出した鬼神将ガイエンがゆっくり歩み出たが、彼をしてもなかなかザプラには打ち込めなかった。背中を向けている相手に、である。ザプラは口元に手をやりながら、背中を向けたままラムダに言う。

「所で君は、私の髭をどう思う?」

「不可思議な事を。 別にどうも思わん」

「それは残念だな。 私はこれを大いに気に入っている。 気にいる事が出来た、初めてのものだと言ってもいい」

苦笑しながら、ザプラが振り返る。ラムダは傍らのガイエンに小声で指示をすると、前に出る。彼には分かっていた、今ザプラが言った言葉の意味が。どういう環境に生きてきたかが。そして今、彼の生きる環境が、如何に彼にとって大事なものかも。同時に、不要な恐怖も消えていった。逆に、いつものような高揚に代わっていった。ザプラは修羅だが、それ以上に何かを護ろうとする者としての意地がある。それが、彼の実力を何割も引き上げているのだ。ラムダにしてみれば、それが確認出来れば充分だった。

ラムダは大上段に剣を構えた。それは名高き断頭台。彼の最強を誇る必殺剣で、勝負に出る事を決意したのである。対し、ザプラは左手を空けたまま、少し低めに剣を構えた。対峙は一瞬、交錯も一瞬だった。

「おおおおおおっ!」

粘つく時間の中、ラムダは走る。そして絶妙の位置で踏み込むと、敵を粉砕してきた必殺の一撃を敵へとはなった。ザプラは左手を挙げると、ラムダの剣の背中を掴んだ。そして、一撃を止めてしまったのである。単純な力がなせる業ではない。相手の力のかかり方を読んでいるからこそ、出来る事であった。ラムダは驚愕している暇など無かった。そのまま、ザプラが空いている右手で、剣を振るったからである。それはラムダに向くことなく、側面から躍りかかったガイエンの左手を、手首の辺りまで真っ二つにしていた。巨大な剣で打ちかかろうとしたガイエンはバランスを崩し、よろけつつザプラの後ろを通り過ぎていく。だが、次の瞬間、ラムダが最後の力を振り絞った。

「ぉおおおおおおおおおおお、らあああああああっ!」

十年若返ったような、威き叫びと共に、ラムダは相手へ膝蹴りを叩き込んでいた。初めて入ったクリーンヒットである。くぐもった声を漏らし、二歩下がるザプラ。今一度踏み込み、剣を振り下ろすラムダ。だがザプラも、横一文字に剣を振るっていた。二つの剣は交錯することなく、相手の体を抉っていた。

ラムダの剣は、ザプラの左腕を半ば切り落としていた。傷口からは骨すら見えた。対しザプラの一撃は、ラムダの腹から胸にかけて切り裂いていた。鮮血が吹き上がり、ラムダは白目を剥き、前のめりに倒れた。

 

渾身の剣撃をもらい、蹌踉めいたザプラだったが、流石にただでは屈しない。彼は体を無理矢理起こし、振り向いて剣を叩き付けてきた鬼神将の一撃をのけぞって避けると、腕を斬り払った。二の腕から左腕を切断されたシルターンの猛者は絶叫し、剣を取り落として仰向けに倒れた。彼の手を離れた巨大な剣が、ザプラの真横に突き刺さる。それは、ザプラの脇腹を貫き、裂いていた。

「ぐ、おおおおおおおおおおおおおおっ!」

思わぬ一撃にザプラはうめき、数歩下がって尻餅をついた。今の交錯で、どちらもほぼ戦闘力を喪失、これ以上戦う余力を失っていた。ザプラは地面でもがいているラムダと、同じく立ち上がれない鬼神将を見やると、唯一残ったカイナを凄まじい眼で睨んだ。露骨に怯えるカイナに、ザプラはゆっくり歩み寄っていった。

「残るは、お前、だけだ。 今、楽に、してやる」

怯え慌てつつも、懐からクナイを取りだし、ザプラに向け投げるカイナ。速度は遅く、何より軌跡に延びがない。クジマのナイフと比べると、文字通り月と鼈である。ザプラにはそんな飛び道具など蠅と同じはずであった。だがザプラは避けきれず、クナイを脇腹に貰っていた。凄まじい顔でザプラが睨み付けると、カイナは涙さえ流しながら、首を横に振った。先ほどのラムダと比べるとあまりに貧弱な反応に、ザプラは怒りさえ覚えていた。

「良くそんな覚悟で、戦場に出てくる事が出来たな」

ご、ごめ、ごめんな、さい……

残っていた何体かの鬼神が、ザプラの前に立ちはだかる。いつもなら屁でもない相手なのに、ラムダから物凄い一撃を貰った今、彼らの相手は厳しかった。千切れかけた左腕から流れる鮮血が、彼の意識を一秒ごとに不鮮明にしていく。彼が意識を保っているのは、部下達を護らねばならないと言う信念が後押ししているからだ。瞬く間に二体を切り伏せ、もう一体を胴切りにする。だが後ろに回り込んだ鬼神の拳を貰い、ザプラは吹っ飛んで転がった。だがその鬼神も、胸に剣を突き立てたまま、力つきて前のめりに倒れた。ザプラとカイナの間には、誰もいなくなった。立ち上がり、凄絶な笑みを浮かべるザプラ。だがカイナは、意外な反応を見せた。

……ま……せん

「何!?」

まけ、ません! 負けるわけには、いきません!

呆然とするザプラに向け、カイナは突進してきた。剣を失ったザプラは、鳩尾に膝蹴りを叩き込んだが、力がどうも入りきらなかった。更にはカイナも、駆けよりざまに当て身を浴びせて来た。二人はもつれ合うように、地面に倒れ込んだ。ザプラは最後の力を振り絞って、上に乗ったカイナを放り捨てた。眼鏡が地面に落ちて、割れ砕けた。カイナは気絶していたが、とどめを刺す余裕など無かった。

今貰った一撃は、威力こそ大したことがなかったが、今の彼には文字通りの致命的な一撃だった。背中から受け身も取れずに倒れ、重くはないにしても一人分の体重をもろに浴びた事が痛い。

「はあ、はあっ! 立たなければ、まだ、負けるわけには、負ける、わけには! 皆を、同志ラーマを、同志トクランを、同志クジマを、援護、せねば!」

もう、ザプラは体を起こす事も出来なかった。そんな彼に、声が浴びせられる。

「ま、まだ負けるわけにはいかん。 それは、俺も、同じ、だ!」

ザプラが見たのは、同じく起きようとしつつも、起きられぬラムダの姿だった。二人はしばし無駄な努力を繰り広げた後、立つ事を断念した。上がった息を整えるザプラに、ラムダが言う。

「何故、召喚術を、使わなかった」

「一つには、もう、使えるほど力が、残っては居なかった」

「もう、一つは?」

「くくくくっ、貴様らのような強者と、掛け値なしの勝負がしたかった」

肩を振るわせて笑うと、ザプラは続ける。

「昔の私は、感情さえ与えられぬ、人形、だった。 同志オルドレイク様に救われて、初めて、人としての、心を持った。 それと同時に、欲求も、産まれた。 強い奴と戦ってみたいという、戦士としての、欲求がな」

「分かる気がする」

「くく……貴様、とは、互いに力を高め会う、強敵(とも)となれたの、かもしれぬのに、な。 くく……くくくくく……。 無論同志オルドレイク様の夢の実現には、優先、出来なかった。 だが、戦えて、誇りに……おも……う……ぞ」

二人の会話は、それきり止んだ。どちらも、会話する余力を喪失したからである。他の場所では、まだ死闘が、飽くことなく繰り広げられていた。

 

大悪魔ゴルゴンズルクの戦闘能力は、今までエドスが見たどの悪魔よりも上だった。エドスもサイジェント城攻略戦や、その他の戦いで、数々の恐ろしき悪魔達の実力を見せつけられてきた。しかしそれすらも、ゴルゴンズルクの前では霞んでしまう。

単純に強固な装甲を持ち、強力な武器で身を固めている。実にわかりやすい強さの持ち主であるゴルゴンズルクは、頭も良かった。地味ではあるが、それが故にひたすらに強い。何度もその突進を避け、必死に酸の唾液を避けながら、エドスはそれを思い知らされていた。隣で戦うカザミネにも余裕がなく、二人の息は上がる一方だった。それに対し、ゴルゴンズルクは余裕綽々である。体を優雅にくねらせ、二人をかみ砕く機会を的確に計っている。額の汗を拭うエドスは、その一挙一動に戦々恐々のし通しだった。

『これは、ワシも覚悟を決めんと、ダメかな』

「エドス殿! これは、かなりやばいでござるぞ!」

「ああ、わかっちょる!」

カザミネの言葉を受け流すと、エドスは必死に考えを巡らせるが、元々緻密な頭脳の持ち主でもないし、戦略戦術立案に長けているわけでもない。ふとエドスが視線の先に、あるものを見た。先ほどから枯れ木立ち並ぶ森へ徐々に後退していたスウォンの、手招きする姿である。エドスはカザミネに顎でしゃくると、数歩飛びずさり、森へと走り込んだ。

無論ゴルゴンズルクは追ってきた。だが数度スウォンが放った矢が牽制をした結果、適度な距離を置き、一度その射程範囲から逃れる事に成功した。必死に息を整えながら、エドスとカザミネは、スウォンの元で体勢を立て直す。二人を見比べると、スウォンは咳払いして言った。

「気付いていましたか?」

「うん? 何の事だ?」

「ゴルゴンズルクというあの大悪魔に放った矢、奴の近くで弾かれてしまうんです」

「そう言えば、そうだな。 どういう事だ?」

「おそらく以前見たシールドの一種だと思います。 それで、先ほどから何度か狙撃した結果、幾つか分かりました」

スウォンは顔を上げ、ゴルゴンズルクの様子を確認すると、声を落として説明した。

「矢が弾かれるのは、あの悪魔の手前一メートルほどです。 その位置に到達すると、軌道を変えて、明後日の方向へ跳んでいってしまいます。 また、その瞬間は、必ずエドスさん達の攻撃を避けようともしています」

「そう言えば、一発だけ入ったクリーンヒットも、お前さんの狙撃と同じタイミングだったな」

エドスが枯れ木の影からゴルゴンズルクを除く。巨大な百足の装甲には、一カ所大きな傷が付いていた。一度だけ、カザミネの一撃がもろに入ったのである。

「はい。 以上から、多分、壁を創って矢を防ぐのではなくて、矢の飛ぶ方向自体を変えているんだと思います。 そしてその瞬間は、無防備にもなる」

「なるほど。 で、どうやって攻める?」

もう一度ゴルゴンズルクの様子を確認してから、スウォンは続けた。

「僕が分かるように合図しますから、その瞬間を狙ってください。 後はおそらく、激しい消耗戦になります」

「それならば、望む所だ」

「相談は済みましたかな?」

三人が飛び退くのと、枯れ木が木っ端微塵に吹き飛ぶのは同時だった。枯れ木をかみ砕いたゴルゴンズルクは、敏捷な動きでエドスに食らいつこうとするが、斜め後ろから飛来した矢を、体をひねってかわした事で隙ができた。その間にエドスは敵の間合いから逃れ、見た。スウォンが二本同時に矢をつがえ、速射するのを。

「はっ!」

短い叫びと共に放たれた矢の内、一本目は弾かれた。そして間髪入れずに放たれた二本目も弾かれた。だがその次の瞬間、ついに懐に入り込んだカザミネが、愛刀を一閃させていた。強固な装甲に亀裂が入り、凄まじい勢いで後ずさってゴルゴンズルクが舌打ちした。

「むう、私の結界の弱点を見つけたようですな」

「よし! これなら行けるぞ!」

「ふっ、まだまだこれからですよ!」

ゴルゴンズルクは不敵に言うと、枯れ木の間を不規則に這うような動きを見せ、再び三人へ躍りかかっていった。

 

ゴルゴンズルクは文字通りの忠臣だった。彼はラーマに全幅の忠誠を捧げており、その人格を尊敬していた。当然ゴルゴンズルクは、主君がどういう人生を送ってきたか知っていた。故に、リィンバウムの人類社会を徹底的に軽蔑もしていた。

自分に比べれば遙かに年若い主君に忠誠を捧げるきっかけになった原因を、今でもゴルゴンズルクは覚えている。リィンバウムに召喚される前、彼は近衛大悪魔と呼ばれる存在であり、サプレスでも有数の実力者であった。近衛大悪魔とは、魔王の腹心の側近である。当然サプレスの重鎮で、名誉も家族もあった。だが、他者を護りたいという気持ちという物がなかった。自分が世界で一番貴重だとも考えていた。

リィンバウムに召喚された当初、ゴルゴンズルクはラーマをあまり良くは思っていなかった。正確には、その感覚が理解出来無かった。何故、他者に尊敬の念を抱けるのか。ラーマの能力は、ゴルゴンズルクから見ても素晴らしかった。その能力が、他者に、オルドレイクに対する尊敬の念と、仲間達を護りたいと欲する心に起因しているというのが、どうしても理解出来なかった。自らを高めるのに、自らを利するため以外の理由が、ゴルゴンズルクには想像出来なかったのだ。

無論、ゴルゴンズルクの考えは、一つの理念として成立する物である。更に言うと、サプレスでもゴルゴンズルクは若干浮いた考えの持ち主だった。ゴルゴンズルクは、ラーマの側にいれば、その浮いた考えの是正が出来るような気が、いつの間にかし始めていた。

ラーマは有能であり、賢い娘だった。彼女の元で働いている内に、ゴルゴンズルクは自分の考えを見透かされてしまっていた。だが別に、ラーマはそれを否定も批判もしなかった。ただ、一言言っただけであった。理由などどうでも良い、私の大事な人達を、助けてくれればそれでいい。たんなるひ弱な娘が、こうも強くなれるのか。何かを背負うと言う事で、弱くなる者は確かに多い。だが同時に、最強になれる者も少数いる。その後者と巡り会った事で、ゴルゴンズルクは考えが根本的に変わるのを感じていた。この存在に、全ての忠誠を捧げたい。いつの間にか、その考えは確固たる物となっていた。

元々近視眼的なゴルゴンズルクは、そうなってしまうとラーマの絶対的な僕となっていた。だが、それで二人の間は上手く機能していた。絶対的な忠誠を捧げる理由を、互いに知り、理解していたからである。そして今彼と戦っているのは、ラーマと同じ、背負う事で幾らでも強くなれる希有な者達だった。

乱射される矢が、彼の防御結界を打ち据える。ゴルゴンズルクは素早く周囲の状況を把握しながら、エドスとカザミネの突進をかわし、素早く思惑を巡らせる。結界の弱点を見抜かれた以上、あまり彼にも余裕はない。軽く敵をあしらった後、ゴルゴンズルクは決めた。まず最初に、狙撃手を叩く事を。敵は森林戦のエキスパートであるが、負けるわけには行かない。これからラーマの援護に行かねばならないからである。

「「おおおおおおおおおっ!」」

二つの声が重なり、左右から強烈な斬撃が同時に襲いかかってきた。更に、複数の矢が、連続して結界に襲いかかる。ゴルゴンズルクは素早く蜷局を巻くと、尻尾を振り回し、周囲全てをなぎ払った。その過程で彼も傷つき、はじき飛ばしてやったエドスとカザミネも枯れ木につっこんで傷ついた。だが若干の余力があったのはゴルゴンズルクである。そのまま体を翻し、移動を続けるスウォンへと突撃する。目を見開いたスウォンが、彼の複眼に映る。大きな口を開けて、ゴルゴンズルクは最も厄介な敵にかぶりついた。同時に、至近まで逃げなかったスウォンが、矢を放っていた。

スウォンの矢は、ゴルゴンズルクの右目を深々と刺し貫いていた。同時に、ゴルゴンズルクも敵をかみ砕き損ねさえしたものの、充分な手応えと共にはじき飛ばしていた。宙に跳ね飛ばされた狙撃手は、二度ほど回転し、倒れ転がる枯れ木の中に後頭部から突っこみ、動かなくなった。同時に、ゴルゴンズルクの背中と頭に、同時に灼熱が走った。

「ぐおおおおおおおおおおっ!」

平たい尻尾を振り、今の攻防の隙に、頭に飛び乗ったカザミネをはり倒す。カザミネは超巨大な平手打ちに為す統べなく吹っ飛んだが、飛ばされる瞬間後方に飛び退いて威力を最小限に殺していた。だが、殺しきれるはずもなく、スウォンの隣に突っこみ、動かなくなった。だが、問題なのは残りの一人だった。エドスが居る位置はゴルゴンズルクにとって死角であり、どう暴れても彼は落ちなかったのである。

「落ちん、落ちんからなあっ!」

斧が更に外皮を傷つけ、体内に潜り込んでくる。体液が漏れ、こぼれ、力が抜けていく。何度か体をひねって枯れ木にサンドイッチしてやるが、それでもエドスは離れなかった。ゴルゴンズルクは脱力感の中、咆吼していた。

「おおおおおおのれえええええええっ! 離れろぉおおおおおっ!」

「出来ん相談だっ!」

ゴルゴンズルクが激しく暴れる過程で、エドスの力も確実に削がれていったが、それでも敵は離れなかった。ついに、ゴルゴンズルクは抵抗能力を喪失、地面に力無く横たわった。エドスはそれを見てようやく背中から降り、倒れている仲間達へと歩いていく。

薄れる意識の中で、何と不幸な事かと、ゴルゴンズルクは思った。酷く傷ついたその背中は、主君であるラーマと同じだった。だからこそ、負けるわけには行かなかった。最後の力を振り絞って、ゴルゴンズルクは無防備なエドスの背中を尻尾で一撃していた。はじき飛ばされたエドスが仲間達の横へと突っこみ、動かなくなる。ゴルゴンズルクも、同時に力つき、意識を失っていた。

 

エスガルドが、ローカスと息を合わせ、双剣を扱う鬼神に左右から一撃を叩き付ける。鬼神は呆れるほど身軽に飛び回りながら、その鋭鋒を避け、周囲で援護に当たっているロレイラルの召喚獣を切り伏せていった。砲身を真っ二つにされ、装甲を紙のように切り裂かれ、兵器達が爆散する。だが、尋常ならぬ気迫でエルジンは次々に増援を呼び出し、周囲を固め、エスガルドの援護にまわした。

敵の鬼神は兎に角寡黙で細く、叫び声すら上げずに黙々と戦っていた。だが、感情まで無いわけではない。徐々に追いつめられ、苛立ちを隠せず、呼吸も動きも業も乱れ始めていた。エスガルドはそれを敏感に悟り、相手が最大の隙を露出する瞬間を、今か今かと待ち受けた。

その時は、程なく来た。エルジンが召喚した戦闘ロボットが、一瞬の隙をついて鬼神を羽交い締めにしたのである。鬼神はすぐにロボットを振り払って切り伏せたが、既にその時にはローカスとエスガルドが死角に回り込んでいた。ローカスの横振りの一撃、首をはねんとした一撃は、虚空を抉った。鬼神は信じられぬ体捌きで体を低くし、それをかわしたのである。しかしそれが故に、背中のブースターから囂々と火を吐くエスガルドの突進を、鬼神はかわす事が出来なかった。機械で創られた体だから、エスガルドの重量は数百キロに達する。それがタックルを浴びせたのだから、人間大の鬼神などひとたまりもなかった。鬼神は文字通り吹っ飛んで、十メートルほど先でバウンドし、頭から枯れ木につっこんだ。枯れ木が大きな音を立てながらへし折れ、ゆっくり地面に倒れ込んでいく。エルジンが拳を振り上げるが、エスガルドがその小さな体をすぐに制した。

「や、やったあっ!」

「イヤ、マダダ。 超高密度エネルギー確認!」

「鬼神は姿を使い分けるとか言う話だったな。 今まではお遊びで、これからが本番って訳か」

減らず口をたたきながら、ローカスが乾いた唇を舐めた。鬼神は見る間にその体積を増していき、身長にして三メートル強の怪物と変化していた。破れた服を千切り捨て、小さくなった双剣を放り捨てると、鬼神は天に向けて咆吼していた。

「オオオオオオォオオオオオオオオオオオオ! 良くも、下賤な者どもが、この儂を傷つけたなああああ! この鬼神将ゴキ、貴様らを誇りにかけて殺す!」

「悪いな、化け物野郎。 俺達だって、負けるわけにはいかねえんだよ」

余裕がない様子で、ローカスが剣を振った。エスガルドはそれを横目で見やると、二歩ほど前に出た。

「私ガ隙ヲ創ル。 チャンスヲ逃スナヨ」

 

元々義賊などをしていた事からも分かるように、ローカスはぶっきらぼうであってもとても優しく真面目な男だ。金銭に対する執着も無く、ただ自分が護れる者達を護りたいとだけ願い続けてきた。彼を偽善者と呼ぶ者もいたが、それは間違いである。彼は自分の善意で掛け値なしに事を行っていたからだ。ただし、善意の押しつけである事は事実であったし、偽善者という言葉には、表面上平静を保ちつつも、実はかなり傷ついていた。

フラットに助けられ、共に戦うようになってから、ローカスは補助を誰よりも的確にこなし続けてきた。派手な業の持ち主ではないが、基礎がきちんと出来ている上に、地味に確実に戦う事が出来る男だった。また、男の不器用さや考え方も良く知っていたから、リプレや綾をそう言った面でサポートする事も多かった。不器用な男の行動等というのは、どうしても女性には理解しづらい物である。彼が的確にフォローを入れなければ、綾もリプレも、それに理解を示してきたかはかなり疑わしい。

現在のローカスは、フラットと共に生きたいと考えている。かっての仲間達を、彼は誰一人護れなかった。だからこそ、今の仲間達を護らねばならなかった。例え相手が悪魔だろうと、ドラゴンだろうと、巨大な鬼神だろうと。その決意は不屈である。エルジンが呼び出した数体のロレイラル召喚獣と、エスガルドを順に見比べると、ローカスは鬼神の動きを観察し始めた。義賊をやっていた彼は、必然的に観察眼が鍛えられている。ましてや今回は、エスガルドに頼まれてさえ居るのである。何か一つでも、見逃すわけには行かなかった。

鬼神が吠え、近くの大岩を持ち上げ、放り投げた。先ほどとは全く違う戦闘スタイルである。巨大な岩がさながら小石のように飛来し、エスガルドが間一髪でかわす。ゴキと名乗った鬼神は巨体に似合わぬ速さで間合いを詰めると、拳を真上から繰り出す。一見粗暴なようで、体勢を崩した相手への的確な責めであった。横に滑るようにしてこぶしをかわしたエスガルドであったが、鬼神の動きは早い。そのまま外側へ払うようにして、エスガルドに裏拳を直撃させていた。数百キロの機体が蹌踉めき、更に鬼神は攻勢に出る。エルジンが慌てて指示を出し、召喚獣達が怪物へ攻撃を続けるが、どれも強固な外皮に弾かれるか、或いは避けられてしまう。鬼神は面倒くさげにエスガルドを蹴飛ばすと、近くに落ちていた五メートルほどもある太い枯れ木を拾い上げ、召喚獣を一機ずつ叩き潰していった。派手に爆音が上がり、地面を紅蓮が塗装する。エルジンは新たに召喚獣を呼び出そうとするが、鬼神の動きは止まらない。そのまま、槍投げの要領で、枯れ木を放り投げたのである。至近に巨大な枯れ木が炸裂、悲鳴を上げてエルジンは吹っ飛んだ。だが、必死に体を起こす。ローカスは的確に立ち位置をずらしながら、鬼神の観察を続けた。もう少しで、何かが掴めそうだった。

「まけ、まける、まけるもんか!」

「エルジン!  モウイイ、逃ゲロ!」

「嫌だっ! 嫌だあああああああああっ!」

今までにない巨大な召喚獣が、エルジンを護るように出現する。六本足で、ミズスマシのような姿をしている機械である。その体が左右に分かれ、三つの砲がせり出した。鬼神が再び枯れ木を拾い上げ、構えを取る。この瞬間、ローカスには付け入るべき隙が分かっていた。

『なるほど、あの化け物野郎、新しいものを見ると一瞬だけ躊躇しやがるな』

両者の緊張が高まる中、ローカスは近くに倒れていたエスガルドに走りより、素早く耳打ちした。鬼神の拳と蹴りを受けて半壊状態のエスガルドは小さく頷くと、体を無理矢理起こす。エルジンが呼び出したミズスマシと、鬼神が互いの戦意を爆発させたのはその瞬間だった。まず鬼神が、巨大な枯れ木を抗し難き勢いで投擲する。ミズスマシは三門の砲の内、一番上の物を発射、枯れ木を爆砕した。次の瞬間、鬼神が距離を半分ほどにまで詰め、ミズスマシが残りの砲を打つのと同時に拳を振るっていた。太いビームが二本、鬼神の脇腹と左腕を貫き、血しぶきと肉片を吹き上げる。だが同時に、ミズスマシの体半ばまでゴキの拳は食い込んでいた。一瞬の後、ミズスマシは爆発、ふらつきながらも立っていたエルジンは地面に投げ出され、動かなくなった。次の瞬間、エスガルドがドリルのついた右手を鬼神に向けていた。そして、全エネルギーを其処へと集中する。鬼神の視線が、エスガルドに固定される。隙が最大になる。その瞬間、ローカスは鬼神の体を蹴って駆け上り、頸動脈に愛剣を突き立てていたのである。硬直した鬼神であったが、吠え、暴れ始めた。

「オ、オオオオオオオ、グゥルオオオオオオオオオオオオ!」

「今だ、俺ごとやれっ!」

鬼神が焦げた右腕でローカスを掴み、その凄まじい握力に義賊の全身の骨が嫌な音を立てた。吐血するローカスは、それでも剣を更に深く突き立てる。吹き上がる血、そしてエスガルドが、残りの全エネルギーをかけ、切り札を撃ち放っていた。

「反物質収束砲、ファイヤー!」

蒼いエネルギーの槍が、エスガルドから鬼神に直進し、その腹を貫通する。一瞬の事であり、鬼神は悲鳴を上げる暇もなかった。前のめりに倒れる鬼神将ゴキ、地面に投げ出されるローカス。エスガルドは砲を打ったままの態勢で硬直していた。ローカスは激痛走る全身を引きずりながら、まだ戦っている仲間達へと顔を向けた。遠近感が急速に消滅していく中、薄れる意識の中、ローカスは手を伸ばす。護るべき仲間達へ。護れなかった仲間達へ。

「お、俺は、護りきった……! へ、へへ、やった……やったぞ……ど、どうだ……おれ、は……偽善者、なんか、じゃ、ね……え……おもい……しった……か」

ローカスの手が地面に落ち、剣が転がった。

 

3,新しい世界の形

 

迷霧の森で続く凄惨な戦い同様に、異世界でも死闘は終わる気配も見せなかった。オルドレイクは、自らが発生させた小さな超新星を油断無く見据えていた。必殺の攻撃が、どうしたわけか必殺にならなかった事が確実だったからである。距離を取り、慎重に構える彼は、一瞬後に分析が的中した事を悟っていた。

極太のエネルギービームが、空間を直線的に切り裂き、オルドレイクとの距離を蹂躙し尽くしていた。シールドは張ってはいたが、それでも防ぎきれる物ではない。途方もない負荷にオルドレイクの額から汗が飛ぶ。更に続けて、無数のミサイルが飛来、シールドを多角的に乱打した。無数の光の華が咲き、周囲の足場が吹っ飛んで粉々になっていく。

「おおおおおおっ!」

一旦シールドを解除したオルドレイクが、跳躍しながら回転、サモナイトソードに蓄積した紅い光を周囲の全角度に開放した。その余波を受けて爆発する無数のミサイル。ひびが入る多くの台地。流石の彼も消耗が濃くなってきており、小さな欠片になってしまった足下に着地すると、自らを覆う紅いオーラの減少に愕然とした。その時、ようやく熱と光が晴れ、綾が姿を見せた。彼女は銀の機械的な装甲で左半身を覆っており、虚空に浮いていた。それには背中の部分に二本の飛翔装置も付いていて、浮くにはそれを利用している事が疑いなかった。今の一撃を耐え抜いたと言っても、綾も大きく消耗を受けている事は明らかである。オルドレイクは口の端をつり上げると、サモナイトソードを構え直していた。

 

今の瞬間、綾は因果律操作とリピテエルの隷属纏召喚を同時に行っていた。因果律操作により、オルドレイクの複数次元転移攻撃の出現地点を、オルドレイクのシールドと重ねる事によって、それを破砕しなおかつ爆発のエネルギーを逃がす。更にリピテエルを隷属纏召喚することによって、ダメージを軽減する。無論防ぎきる事は出来なかったし、消耗は凄まじかったが、何とか致命傷は避けた。後は、相手の油断を武器に、反撃するだけだった。

今の攻防で、両者は凄まじいまでの消耗をした。そればかりではなく、この空間の平均温度自体が大分上がっており、酸素もかなり減少している。人間だったらもうとっくに耐えられなくなっている所である。隷属纏召喚したガフォンツェアの飛翔装置を使って、まだ無事な足場の一つに降りると、綾はオルドレイクに呼びかけた。

「一つ、聞かせてください」

「うむ?」

「どういった風に、世界を改革するつもりなのですか?」

「私は、私の庇護下にあるより弱き者達だけを助ける気はない。 全てのより弱き者を助けるつもりだ。 そのために、世界の法則そのものを書き換える」

『なるほど、やはりそうでしたか』

綾はオルドレイクの人となりから、彼が相当に巨大なスケールの策謀をしている事に気付いていた。既存の世界における権力機構を多少いじるくらいなら、別に神になぞならなくても出来る。歴史上の英雄達は、皆やってきた事だ。事実オルドレイクほどの男なら、リィンバウムを統一して新しい政治形態を作り出す事も不可能ではないのだ。

其処が不思議な点であった。もしも綾がオルドレイクの立場にいたら、既存の政治体制を転覆し、新しい秩序を造る道を選んでいた事は疑いない。しかし、やはり綾とオルドレイクは似てはいても、別の存在である。ミクロ的な視点を持つ綾に対し、マクロ的な視点を持つオルドレイク。どちらが優れていると言う事はないが、相容れる事も、理解し合う事も、やはり難しかった。オルドレイクの考えは、そもそも既存の思考の外、或いは上にあったのだから。綾は思考を整理しながら、更に問いかける。

「どのように、世界の法則を変えるつもりなのですか?」

世界を形作っているのは、弱肉強食という基本法則だ。 君も知ってのとおり、人間社会はその弱肉強食を否定する形で成り立っているが、人間という生物は、惜しいかな、弱肉強食に基づいて生きている。 故に、どんなに取り繕っても矛盾が起こる。 だから私は、その弱肉強食の法則自体を世界から排除する

「待ってください。 それでは、世界が凍結してしまうのではありませんか?」

強者による弱者の排除。自然界の取捨選択。それは、世界に変化をもたらし続けてきた。進化というものは、要するに情況に応じて最も適した変化を行う事であり、逆にありとあらゆる生物は自分の生きる場所において究極の進化を遂げていると言っても良い。それをもたらしているのは、強き者が弱き者を排除する世界の法則そのものだ。それは正しいわけでも間違っているわけでもなく、ただそう言う法則として存在している。

弱肉強食の法則そのものを排除すれば、確かに(平和)が来るかも知れない。更に言えば、今のオルドレイクの力であれば、絵空事ではなく手の届く事なのだ。しかし同時に、それがなった暁には、変化の凍結と、世界の扁平化が起こるのは疑いがない。以上の意味が綾の言葉には込められていた。無論オルドレイクは、それを察して、静かに笑った。

世界の法則が、普遍である必要などはない。 変化が、常に起こらなくてはならないわけではない」

「しかしそれでは、進歩も未来も無くなってしまいます!」

だから、それが必要ない世界を私は創るのだ

『……全ての存在がそれぞれ独立した究極の個体となる世界。 いうならば、全ての存在が神の世界。 確かにそれならば、誰も差別はされず、誰も傷つかず、誰もが侵す必要なく、誰もが奪う必要なく、誰もが平穏に生きられるかもしれませんが』

確かに究極的な平和の世界だが、同時に何という冷たい世界であろうか。綾はそうも思った。もしも知的生命体が絶滅せず、究極的な進歩を遂げた暁には、そういった世界が到来するのかも知れない。全ての人間が、全ての生物が、生物である事を超越してしまった世界。既存の世界とは、あまりにも、いや根本的に違うものだった。

それを否定しかけて、綾は止めた。それも一つの世界の形であり、望まれる到達点である事は間違いなかったからだ。変化や摩擦によって傷つく者が出るのは当然の事であり、傷ついた者にしか痛みは分からない。そしてオルドレイクの護ってきた者達は、世界の摩擦によって、最も酷く傷ついてきた者達なのだから。強者の理論で、彼らの痛みを否定する事だけは、綾はしたくなかった。それに、究極的な進歩を遂げた先には、それ相応の楽園が待っているかも知れないのだ。進化の究極は破滅だ等という言葉もあるが、それは精神的にも肉体的にも究極的な進化などしていない人間が、自分の視点で勝手にほざいた理屈に過ぎない。進歩にしても進化にしても、その到達点に何があるかなど、人間にはかれる事ではない。なぜなら、誰も其処へは到達していないからだ。

世界は客観的に見て、暖かい物などではない。常に摩擦を繰り返し、敗者を飲み込んではかみ砕き、強者の餌としてその食卓に乗せる存在だ。悪いとか良いとかではなく、単純にそう言う存在なのである。

中庸という言葉もあるが、基本的に世界の法則自体にそれはない。人類社会ではそれを創ろうと多くの人間が四苦八苦しているが、上手くいっているとは言い難い。逆に、いつまで経っても進歩しない事に対する言い訳になり果てているのが現状だ。

『大体、摩擦と変化の抹殺に疑問を呈する前に、私はどうなのでしょうか。 既存の世界をありのままに肯定するのか、或いは……』

護りたいという感情を、究極的な部分にまで到達させているオルドレイクに、綾は少なからずショックを受けていた。

無論、仲間達を護りたい。だが、既存の世界を維持したままで、護りきれるのか。今のままでは、綾を護ろうとして、仲間達が傷ついてしまう可能性が高い。それでいいのだろうか。そう考えて俯く綾に、オルドレイクはなおも問いかけた。

君は私に勝って、何を得る? 私は君に勝って、我が愛すべき者達の約束の地を得る」

「私は……」

しばしの沈黙の後、綾は顔を上げた。迷いは、払わねばならなかった。リプレの言葉を思い出す。護るべき者達の言葉を思い出す。してくれた事を思い出す。彼らにしてあげたいと思った事を思い出す。

「私は、摩擦して、傷つけあいながらも、生きていく皆の顔が見たいです」

「既存の世界を、肯定するわけだな」

「いいえ、もしも彼らを理不尽に強力な力が襲ったら、躊躇無く叩き潰します。 蒼の派閥だろうが、金の派閥だろうが、その連合軍だろうが、容赦なく潰します。 私が、あの人達を護るって、決めましたから。 でもまだ私は、諦めずに世界を信じてみたいのです」

「そうか。 ……どうやら吹っ切れたようだな。 そろそろ、再開しようか」

二つの光が、再び激突した。互いを理解し合ったのにもかかわらず、戦火は止まなかった。そればかりか、ますます激しくなっていく一方だった。理解しあっても、互いを認め得ぬ事は厳然としてあるのだ。

閉鎖空間を、爆発が彩る。オルドレイクも綾も、更に新しい技を練り上げて、ぶつけていく。空間に満ちたエネルギーの密度は更に増していき、陽炎が立ち始め、やがて発火する地面すら出始めた。だが、戦いは止まない。交差する音はますます激しく、光はますます早くなっていく。両者が纏う光は衰え始めていたが、戦いは激しくなる一方だった。もはや、この戦いには、出口が存在しないかのようだった。

 

4,悲しき復讐者

 

「おおおおおおおっ!」

イリアスが叫び、連続して突きを繰り出す。彼の持ち味である高速剣技は、数々の実戦を経た結果、今や円熟の域に達していた。だが、それをもってしても、今彼が戦っているトクラン=メルキリウスには遠かった。剣を避けて軽くその背中を掴むと、相手の体を引きつけながら、トクランはイリアスの顔面に掌を押しつけた。強烈な負荷が騎士の首に掛かり、蹈鞴を踏んだ騎士は、回し蹴りを貰って吹っ飛んでいた。兎に角、戦い慣れの度合いが異常な上に、パワーが常軌を逸している。戦闘経験の量が、まるで大人と子供の差だった。

セシルは肩で息をつきながら立ち上がり、周囲を見回す。ジンガは不屈の闘志で立ち向かっているし、イリアスもふらつきながら立ち上がる。味方の戦意は申し分ない。が、敵には付け入る隙がないのだ。

以前イリアスが、トクランと交戦した際に聞いたという拳法波浪砕山拳を、セシルは時間を見つけて自分で調査していた。結果、恐るべき事が分かった。元々この拳法は、相手を殺すだけを目的に考案された代物で、戦乱の中で磨かれ、完成した物だった。修行や肉体強化も厳しいのだが、何より必要とされるのは復讐心。膨大な復讐心を敵にぶつける事で破壊力を強化、敵を粉砕するという心構えの元に創られていたのである。故にその使い手はいずれも人格的に壊れた者が多く、廃れる原因になっていったのだ。

トクランが一族や、オルドレイクを護ろうとしてこの拳法に手を出したのは事実だろうと、セシルも思う。しかし、その力を強めているのは、圧倒的なまでの復讐心である。セシルもトクランの事情は聞いている。ずっとスラム街に押し込められ、不当な差別を繰り返され、家族をドラゴンの餌食にされた。そして、そのような虐待行為を行ったクズ共は既存の情況では確実に無罪放免にされるのである。世界に復讐心を抱くのは当然なのかも知れない。

しかし、そんな事で得たとしたら、何とも悲しい力だった。或いは当人も分かった上なのかも知れないが、だとするともっと悲しい話である。しかし、負けるわけにも行かない。セシルは頭を振って雑念を追い払い、再びトクランへと突撃した。

拳のラッシュを叩き付けるが、トクランには兎に角隙がない。いずれも軽々と捌かれてしまい、攻撃の終末点には確実に手痛いカウンターが帰ってくる。拳法家としては、おそらく世界最強の使い手である。ラッシュを続けながら、同じ轍を踏まないように、セシルは中途で一旦間合いから逃れた。その瞬間、セシルは勝機を見つけた。激しいラッシュを捌き続けたトクランの拳から、血が伝い落ちている。だが彼女は、全くそれを気にしていない。蹴りや当て身も加えて、激しい攻撃を続けているイリアスに、セシルは叫ぶ。

「騎士団長! 時間稼いで!」

「分かった!」

「ふーん、どうやらぁ、何か工夫をしてくるようみたいだね。 でも、無駄無駄っ!」

トクランが反撃に転じ、途轍もなく重い拳が連続してイリアスを打ち据える。その鎧がへこみ、だがイリアスは屈しない。叫び声を上げ、時ならぬ嵐の中、敵へ食らいついていく。息をのむジンガに、セシルは素早く耳打ちした。

「ほ、本当か? セシル姉さん」

「ええ。 勝負は一瞬よ」

「良し……!」

ジンガは素早く印をくみ上げると、精神を集中し、ストラを高めていった。セシルもそれに習う。それが終わった瞬間、イリアスがトクランの途轍もなく強烈な踵落としを貰い、地面に這っていた。

セシルは此処暫く特訓していた、ストラの内部強化を実行していた。ストラ拳は実に強力な業だが、同時に敵に危険だと一目で教えてしまう欠点も持っている。そこで、ストラを敵に叩き込むまでは体内で錬成し、接触の瞬間に爆発させるという業を開発したのだ。ストラに習熟していないと出来ない業であり、しかも二度は通用しない。その上消耗は途轍もなく大きいのだが、此処で使わなくていつ使うというのだ。練り上げ終わったセシルは、ゆっくり顔を上げた。トクランは舌なめずりしながらイリアスを何度も踏みつけ、吐血したイリアスは完全に意識を失った。仕掛けるのは、今を置いてなかった。

 

呼吸を整え、最大出力のストラ拳を準備し終えたジンガの前で、セシルが数歩前に出た。息をのむ少年に、一度だけ大人っぽい落ち着いた笑みを向けると、セシルは駆け出す。チャンスは一瞬。ジンガは、今までした事がないほどに、深い静かな集中の中にいた。

最初に仕掛けたのはセシルである。まず踏み込み、右上段から突きを放つ。それを軽く捌いたトクランに、体を旋回させて後ろ回し蹴りを打ち込む。それを片手で受け止められると、肘を相手の側頭部へうち下ろしたが、トクランの反応が一瞬早い。相手の右掌が深々とセシルの脇腹に叩き込まれ、吐血した彼女が蹌踉めく。そして、トクランはセシルの腹部へ抜き手を打ち込んでいた。拳法着を貫いた抜き手、鮮血が吹き出す。笑みを浮かべるトクラン、だがセシルは苦痛に顔をゆがめつつも、よろめき、地面に倒れる寸前に相手の左膝に触っていた。トクランは顔をサディスティックにゆがめ、とどめの蹴りをセシルの胸郭にぶち込んでいた。肋骨が数本、まとめてへし折れる音が響く。同時に、ジンガが駆けだし、跳躍した。

「うぉおおおおおおおおおおおおっ!」

ジンガが繰り出したそれは、師匠と綾にしか破れた事がないオリジナルのラッシュであった。踵落とし、その足を起点にしての回し蹴り、そしてストラ拳のアクロバティックな連続攻撃。トクランは最小限の動きで踵落としを避けると、続けての回し蹴りも危なげなく避けようとし、失敗した。膝が、動かなくなったのだ。

ジンガは先ほど聞いた。トクランの弱点は、復讐心と殺意が完璧に肉体を凌駕してしまっている事だと。結果、痛みを完璧に忘れ去り、それが故にダメージに気付くのが遅いのだと。先ほどの接触の瞬間、セシルはトクランの膝に、ストラを叩き込んでいたのだ。今、気付いた所で遅かった。それでもジンガの蹴りをブロックし、だが踏ん張りが利かずにトクランは蹌踉めく。更に叫び声を浴びせながら、ジンガはストラ拳を、最大出力のストラ拳を相手に向け放っていた。だが、トクランも、驚くべき執念で態勢を立て直していた。

拳が炸裂した。

ジンガの拳は、確かにトクランの腹部に深々とめり込んでいた。だがトクランはその腕を掴むと、ヘッドバットをジンガに見舞った。鼻骨を砕かれてのけぞるジンガを左手で掴んだまま、トクランは吠えた。

「があああああああああっ!」

密着状態からの拳が、ジンガをめった打ちに打ち据えた。肋骨がへし折られ、腕が折られ、足が砕かれた。急所という急所に、超破壊力を持つ拳を叩き込まれ、ジンガは瞬間的に意識が遠くへ行くのを感じた。更にトクランは踏み込むと、左手を離し、両手あわせての掌底をジンガの鳩尾に叩き込んでいた。ジンガは、数メートルを吹き飛ばされ、力無く地面に転がった。

「すげえ……すげえよ……なんて……つええんだ」

薄れ行く視界の中、ジンガは見た。崩れ落ち、二度と立てないトクランの姿を。大悪魔達を倒し、ドラゴンさえ屠ったストラ拳の直撃を受けてさえ、其処までの底力を見せたとも言って良い。ジンガは落涙していた。

「でも、悲しすぎるよ、アンタ……。 それに、俺も……アンタみたいな強さを求めてたんだな……。 でも……途中で……姉御に会えて……かわれて……よか……」

言い切る事は出来なかった。ジンガの意識は、闇の中へ落ちていった。

 

ガルトアラーズは、現在でこそ理知的なトクランのブレーキ役だが、かってはそうではなかった。昔の彼は、他の赤竜族と同じ、いや仲間内でも最も凶暴な一人だった。彼が変わったのは、リィンバウムに来て、トクランに出会ってからである。トクランに会い、ガルトアラーズは知った。理不尽な力でねじ伏せられた、最も悲惨な犠牲者の姿を。そして、自らが、今まで行ってきた事の意味を。それから、彼は変わった。変わる事が出来る者は決して多くはないが、彼はその一人だったのだ。

だから、ガルトアラーズは、トクランが復讐に身を任せ、敵を手当たり次第に殺していくのが辛かった。トクランは間違いなく犠牲者だったが、今や加害者になっていたからである。無論トクランの特性はそれだけではなかった。仲間を思う心は確かであったし、一族の者達を護るためにも強くなろうとしていた。だが一方で、復讐心と殺意に任せて暴れる鬼としての一面も持ち合わせていたのだ。それを知ったからこそ、ガルトアラーズは、彼女のブレーキ役になる事を決めていた。トクランを、かっての自分にしないためにも。

今、ガルトアラーズの眼前にいるのは、彼が見てきた人間の中でも最強の一人であろう剣士と、メイトルパの獣人が二人。人間はレイドと、獣人達はモナティとエルカと名乗った。いずれも余裕を持って倒せる相手ではない。ゆっくり間合いを計りながら、ガルトアラーズは敵の隙を探した。トクランを護るためには、まだ此処で倒れるわけには行かなかったからである。如何なる手を使っても、彼は勝つつもりだった。自らの、大事な存在のために。

かってガルトアラーズは、凶暴ではあったが同時に戦士としての誇りに満ちた存在でもあった。彼は護ろうとするが為に、ある物を得、別の物を失っていたのである。

両者は激突した。最初に仕掛けたのは、ガルトアラーズだった。赤竜という種族名の由来ともなっている、灼熱のブレスを吐きつける。炎の吐息は地面さえ溶かし、溶岩化した地面が泡立ち歪んだ。敵は三人ともそれをあっさりかわし、それぞれが側面へと回り込もうとする。レイドを尻尾を振るって牽制すると、逆側にいるモナティへ鋭い爪の着いた前足を叩き付ける。ナイフのように研がれた爪が襲いかかり、頭を押さえて逃げまどうモナティを紙一重の差で掴み損ねた。しかし、これらはいずれも陽動である。敵の獣人の内、一人はメトラルである以上、打ってくる手など大体知れているのだ。

案の定、気配を消して上に回り込んでいた最後の一人が、飛び出しながら叫ぶ。

「もらっ……」

絶妙のタイミングで首をひねったガルトアラーズが、凄まじい勢いで歯をかみ合わせた。敵の落ちてくる軌道に、それは完璧に適合していた。

 

「……ぁあああああああああああっ!」

エルカが悲鳴を上げた。無理もない話である。彼女の決して太くない腕は、ドラゴンの巨大な口にてかぶりつかれていたからである。必死に魔眼を乱射し、ドラゴンは鬱陶しそうに離したが、地面に落ちたエルカは受け身を取る余裕もなかった。慌てて走り寄ったモナティが体でクッションにならなければ、そのまま地面に激突していただろう。

エルカの右腕は、中程から千切れかけていた。傷口を押さえるエルカの白い手が、見る間に朱に染まっていく。元々狩猟民族とは言え、箱入りに可愛がられて育ったエルカは、こんな凄まじい痛みは経験した事がなかった。以前蟷螂の大悪魔に叩き落とされたときでさえ、これほどの痛みではなかった。涙がこぼれるのを止められず、悲鳴が漏れるのもしかり。優しく肩に手を置かれたのは、そんな瞬間だった。

「エルカさん、暫く休んでいてくださいですの。 後は、モナティとレイドさんで頑張りますの」

減らず口を浴びせる余裕もなかった。軟弱なくせに、不器用なくせに、戦いではきちんと此処一番で役に立つ小憎たらしいレビット。周りにこんなクズが認められているのが悔しくて、わざわざ冷たく当たっていたというのに、いつもへらへらと笑っていた娘。この瞬間、エルカは悟っていた。戦いに対する心構えもそうだが、根本的な部分で、自分はこのレビットに及ばないのだと。震えながらも、ガウムを構え、ドラゴンを睨み付けるモナティの気高い横顔を見て、エルカは心底自身の情けなさと非力を呪った。

「うぉおおおおおおおおおっ!」

叫んだレイドが、鞭のように振り回される尻尾をかいくぐり、絶倫の技量で剣を何度も赤竜に叩き付ける。同じく側面に回ったモナティが、馬鹿力を発揮して、轟音と共にガウムを叩き付けた。苦痛に絶叫する赤竜。だが二人は殆ど同時にはじき飛ばされ、地面に転がる。だが屈せず、何度でも突進していく。もう感覚がない右腕を押さえ、エルカは落涙した。ドラゴンの恐怖にすくむ体の、心の惰弱さを呪った。大好きなあの人に、決して近づけない事を悟って無念さを感じた。

ドラゴンは若干有利に二人、いや三人相手に戦いを勧めていたが、不意に尻尾をエルカに向けた。尻尾は器用に動き、エルカを絡め取って、宙に巻き上げた。傷ついた腕を圧迫され、エルカは悲鳴を上げたが、ドラゴンは意に介さない。レイドが純粋な非難を目に宿した。

「くっ! おのれ、卑劣な!」

「私は勝たねばならない! トクラン様を、護るために、如何なる手を使ってもな!」

「エルカさん! エルカさんっ!」

心底から心配するモナティの声が、エルカの耳には痛かった。この瞬間、エルカの中で、何かがはじけた。彼女の体が、痛みをねじ伏せた。

「バカにしてるんじゃ、ないわよっ!」

叫び、尻尾にかぶりつく。あまりにもお行儀が悪い行動だが、そんな事を言っている場合ではなかった。驚くドラゴンに、エルカは残る全ての力を注ぎ込んで、魔眼を叩き付けた。ドラゴンが硬直する。レイドが突進し、剣を鱗の間に叩き込む。そしてモナティが、ハンマー状になったガウムで、それを更に体の奥へと叩き込んだ。

「ぐ。 が。 ごおおおおおおおおおおおおっ!」

魔眼の束縛からとかれた赤竜が絶叫する。相当に効いたらしく、動きには明らかに痛みがもたらす憎しみが混じった。エルカを締め付ける尻尾の力が増し、骨が鳴る音がする。エルカは呼吸困難に陥り、そのまま意識を失った。

 

「エルカあああああああっ!」

叫んだレイドが、剣を無理矢理引き抜いた。殆ど同時に、体勢を立て直したドラゴンが、巨大な掌を叩き付け来る。硬直するレイドを突き飛ばしたのは、モナティだった。モナティの小さな体が吹っ飛び、地面に叩き付けられ、数度バウンドして止まった。赤竜ガルトアラーズは明らかに動きを鈍化させていたが、まだ倒れる様子はない。レイドは静かに呼吸を整えると、最後のチャンスを狙い、構えを取り直す。ドラゴンも大きく体を反らせ、ブレス放出の態勢に入った。そして、紅蓮の塊を発射した。

灼熱の炎が、大地をこがしながら疾走した。威力は大分落ちてはいるが、まともに喰らったら即死である。かろうじて、本当に紙一重でかわすと、レイドは愛剣を投擲した。それは狙い違わず、竜族最大の急所である口の中へと飛び込んだ。赤竜の動きが止まる。よろけつつ、レイドが動きを見守る。見えていたはずなのに、彼は振るわれた尻尾をかわしきれなかった。はじき飛ばされたレイドは、地面にしたたか叩き付けられ、動けなくなった。彼に二秒遅れて、赤竜ガルトアラーズも地面に倒れ、二度と起きあがれなかった。

「みんな、負けるなよ……」

意識こそ失わなかったが、何本かの骨が折れ、レイドはもう身動き出来なかった。今彼に出来る事は、皆の無事を祈る。ただそれだけになってしまっていた。

 

「はあ、はあ、はあ……」

トクランは体を引きずり起こそうとしたが、どうしても体が言う事を聞いてくれなかった。悔しさに歯をかみしめながら、トクランは呪詛の声を上げる。

「なんで立てないんだよぉ! どうして言う事を聞かないんだよぉっ! どうして、どうしてっ!」

トクランの目から、涙がこぼれ落ちていた。痛みなどどうでも良い事だった。吐血し、地面に紅い小さな池を創りながら、彼女は拳を地面に叩き付ける。

「今、動かないで、いつ、戦うんだ! 今、護らないで、いつ、護るんだ! 今、同志オルドレイク様を助けないで、いつ助けるんだ! 動け、動け、動けえええっ!」

だが、体はどうしても動かなかった。トクランの意識も、一秒ごとに遠くへ行く。歯をかみしめ、幾多の敵を殴り殺してきた必殺の拳を握りしめて、トクランは呟く。

「ごめんみんな……助けに行けない……ごめん……ごめんよぉ……」

「とく……らん……さま……」

「ガル……」

トクランはようやく気付いた。すぐ近くで、倒れ伏しているガルトアラーズの姿に。手を伸ばせど、彼女は触れる事が出来なかった。落涙は止まらなかった。トクランは、それ以上動く事が出来なかった。

 

5,互いに譲れぬもの

 

八十メートルほどの距離を置いて、綾とオルドレイクは相対していた。周囲の温度は高くなる一方であり、この空間に充満している異様なエネルギーの量が伺われる。凄まじい戦いには何度か小康状態が生じていたが、今もその一つだった。だが、これは動へと転じるための静であり、決して戦いの終わりを意味する物ではなかった。二人とも息が上がっているが、戦いにまだまだ終わりは見えない。

今二人が立っているのは、この空間に最後に残った大きな大地。残りは戦いの余波や、或いは攻撃そのものを浴びて、皆砕け、吹っ飛んでしまった。この大地は二百メートル四方ほどの大きさだが、今の二人の保有火力から言って、既にその運命は風前の灯火と言っても良い。肩で息をついていた綾が、素早く印を切る。眉をひそめたオルドレイクが、上段にサモナイトソードを構えた。

接近戦では、オルドレイクに一日の長があった。更に、もう少し相手の消耗を狙わないと、勝ち目自体が産まれない。だから綾は、リスクの高い接近戦だけで勝負を決める気はなかった。ヴォルケイトスでは隙が大きすぎる。ガフォンツェアでは決定打に欠ける。つまり、現時点ではパワーそのものを増強するシュレイロウしかない。やがて呪文をくみ上げた綾は、隷属纏召喚を発動した。左腕を大きく覆う朱色の手甲。オルドレイクは構えを崩さぬまま、顎をしゃくった。

灼熱の空気が立ちこめる中、二つの影の距離が縮まった。粉々に砕けた無数の大地が蛍のように煌めいて光を放っているこの空間で、数十年来の仇敵が如く、二人の超越者は間を詰める。最初に剣を叩き付けたのは、今回は綾であった。袈裟の一撃を危なげなく捌くと、オルドレイクは大剣を振り、距離を測る。一歩バックステップすると、綾は態勢を低くし、紅い手甲に覆われた左腕を振るい、あまりにも簡単に地面を砕いた。

「むうっ!?」

無数の瓦礫が舞い散り、大地が割れる中、オルドレイクは不審に声を上げていた。

 

幾つかの足場を使って周囲を見やすい場所へ移動するオルドレイクは、綾を見失った事に気付いた。気配も完璧に消していて、どうしても居場所が掴めない。だが、右往左往するような真似はせず、幾つかの印を組み終え、何が来ても対処出来るようにする。用心深い彼らしい対処であり、理にかなった物である。もう超越者同士の戦いのノウハウは彼もとっくの昔に掴んでいたから、人間の戦いの常識に縛られるような事もなかった。

恒星の核並の超高温に熱したオーラが、サモナイトソードを覆っている。この一撃を浴びせれば、彼の勝ちである。大分消耗している綾が、これに耐え抜けるはずはない。もうオルドレイクも殆ど余力を残してはいないが、これさえ浴びせれば勝てる自信はあった。目を閉じ、周囲の環境の変動に備えるオルドレイク。そして、それは突然に来た。

大きめの破片の一つが、回転しながら飛んできたのである。オルドレイクは切っておいた印の一つを開放する。複数次元転移攻撃である。内部から爆散した大地が、無数の破片を周囲に飛び散らせる。オルドレイクは再び周囲に注意を払い、また飛んできた巨大な足場を危なげなく破砕した。

三つ目、四つ目、次々に飛来する足場。砕き、押しのけ、オルドレイクは隙を見せない。下らない攻撃だと呟きながら、更に飛んでくる大地の欠片を砕き続ける。消耗を誘っているつもりなら、あまりにもリスクが大きすぎる。これだけ多角的に攻撃してきている以上、いつ気配を察知されてもおかしくないし、シュレイロウの力を使っているとしても消耗が大きいのは確かだからだ。足場に隠れて接近するつもりと言う可能性もあるが、綾が得意なのはむしろ頭脳戦である。接近を挑むにしても、何かしら他の策を講じてからの可能性が高い。

「ふむ……!?」

いつのまにか、周囲を無数の小さな足場が覆っている事に気付いて、オルドレイクは呻いていた。多角的な攻撃を捌くべく、威力最小限の業で対応していた結果、周囲はそのような情況になっていたのである。しかし、別に視覚だけが敵を捕らえる手段ではない現在、別に恐ろしい情況でも何でもない。構えを崩さず、油断もしないオルドレイクは、また一つ足場が飛んでくる事に気付いた。それを危なげなく砕き、オルドレイクは気付いていた。サモナイトソードを覆っていたオーラが、弱体化しているのに。

「しまった……」

思わず唇を噛む。先ほどの勢いから、短期決戦かと踏んでいたから、短期決戦用に業を組んでいたのだ。神経を削る多角攻撃の間に、ためて置いた熱量が放散してしまったのである。同時に、無数に浮かんでいた岩の破片の一つの影から、綾が飛び出していた。これは予想の範疇であったが、それにばかり気を取られて、肝心の切り札の調整を忘れていたのだ。だが、オルドレイクは慌てない。この辺の精神的なスタミナは、世界を相手に数十年も戦い続け、その結果培った物だ。自身の戦力と情況を再確認し、迎撃に入るオルドレイクの目に、焦りはない。

「リピテエルっ!」

綾が叫び、薄紫の高貴な手甲が彼女の左手を覆う。オルドレイクは叫びと共に、切り札である超高熱サモナイトソードを叩き付けていた。消耗する前であれば、リピテエルのシールドごと綾を両断する自信が、オルドレイクにはあった。だが、今は、突破出来ないのが分かり切っている。しかし、やるしかなかった。

途方もない熱が周囲に放出されていく。周囲に無数に浮かんでいた小さな足場が、溶け、蒸発し、更にはプラズマ化していく。サモナイトソードが熱を失い、やがてリピテエルのシールドが相討ちになる形で砕けた。相討ちではあったが、とっておきの切り札を失った事で、オルドレイクは若干不利になった。現在、両者の余力はほぼ五分。半ば溶けかけた足場に降り立つと、綾は横殴りの一撃を、遠慮無くオルドレイクに叩き付けた。オルドレイクも熱を失ったサモナイトソードを、袈裟懸けに叩き付ける。魔力に覆われぬサモナイトソードでは、もう致命傷にはならない。多少斬られても、多少血が出ても、死にたくても簡単には死ねない。互いに避けない。互いに逃げない。護る、生きて帰る、皆を護る、生きて帰る、まもる、かえる、まもる、かえる。もうその思念だけしか、両者の頭の中には無かった。故に、迷霧の森で行われている死闘同様に、戦いは際限なく凄惨な物になり、延々と続く。

膨大なエネルギーが満ちたが故に、空間そのものが不安定になりつつあった。水を入れすぎた風船のように、空間を形作る外殻自体が不安定になっているのだ。呼吸を整えながら、綾が構えなおした。オルドレイクも残る全ての力を、己の剣に込め構えた。二人の視線はぶつかり合い、離れなかった。

「最後だ! 行くぞ!」

「はい!」

溶け、形を失っている足場の上で、両者は申し合わせたようにぶつかった。果てしなく長く続いた超絶の戦いが、終わるときが来たのである。

最後の激突は、意外にも、静かな物となった。

 

6,越えるべき相手

 

無数の枯れ木が折れ重なる戦場で、爆発が起こった。何度も何度も、数限りなく。濛々と煙が上がる中、繰り返し爆発が起こる。戦いが続いている様を、周囲に見せつけるように。煙の中を、ペルゴが見回す。かってはサイジェントの騎士であり、現在ではラムダの参謀である彼は、攻めあぐねていた。

兎に角敵は戦い慣れしていて、そこら中にトラップを仕掛けているのだ。今のところ二種類の攻撃、爆発札と貫通札しか使っては来ていないが、それでも充分に思える展開度である。見えにくい位置に爆発札を張っておく等というのは当たり前、枯れ木の撓りを利用して近づくと飛び出してくる貫通札、土を浅くまぶして置いて踏むと爆発する爆発札等、正直質が悪すぎる。しかも爆炎と煙を上手く利用して身を隠し、また根本的に気配を消すのも相当に上手く、居場所さえなかなか明かしはしなかった。しかし放って置いて、他の敵の援護にいかれてしまっては最悪の事態を招く。何としても、此処で倒さなければならないのである。

騎士だったペルゴは、貴族がどういう連中か良く知っている。自分の立場を勘違いし、貴族だから偉いと妄想している馬鹿共である。彼らの先祖は或いは偉大だったのかもしれないが、現在の貴族はただの病んだ無能者の集まり以外の何者でもない。しかも、サイジェントの貴族はまだマシだというのだから、聖王国や帝国に住む貴族がどんな奴らなのか、想像するのも怖気が走る。旧王国などは、いわずもながや、である。そんな連中や腐れ召喚師、それに狂った資産家どもに、文字通りの食い物にされたラーマ。彼女に同情こそしすれ敵意などはない。しかし、サイジェントの街を無茶苦茶にし、世界そのものを壊そうとしている一味である事は事実なのだ。である以上、倒さねばならない。気が重い事ではあった。

先ほどからペルゴとミモザ、それに蒼の派閥から参戦したパッフェルは、互いに背中を向けて視界をカバーしている。これは敵の攻撃を防ぐと言うよりも、むしろ敵を発見するためだ。この状況下に置いてはラーマも簡単には手出しが出来ない、はずだった。だが均衡状態は、そう長くは続かなかった。

不意にミモザがフォールフロールを展開、爆発が連鎖した。振り向くペルゴのすぐ横を、貫通呪札が数枚かすめていく。警告は間に合わない。数枚の呪札がミモザを貫き、右腕、左足、右脹ら脛を打ち抜かれたミモザは、悲鳴を上げて地面に倒れた。トラップを利用しての時間差攻撃だというのはペルゴにも分かったが、この情況はまずい。ミモザは地面に倒れたまま身動き出来ず、眼鏡は地面に転がっている。ペルゴは素早く槍を構え直し、続けて飛来した貫通呪札三枚を叩き落とすと、叫ぶ。

「パッフェル殿!」

「なんっすか!?」

「私が何とか敵の攻撃を防ぎます! 貴方は敵の位置を特定してください!」

反応を待たず、続けて飛び来る札を或いは弾き或いは叩き落とす。その幾つかは予想を裏切らずに炸裂、屈強なペルゴも強烈な熱と爆風に苦痛の声を上げた。槍も熱くなっており、両腕は大きく火傷している。攻防がしばし続いた後、パッフェルが叫ぶ。

「三時方向から四時方向へ移動中!」

「分かりました!」

地面を蹴ったペルゴは、枯れ木や呪札を蹴散らして突貫した。普段の戦い方とはかけ離れた力業だが、今は誰かが囮にならないといけないと、彼は知っていた。

「見つけましたよっ!」

跳躍した彼は、呪札を三枚叩き落としながら、ついにラーマを視認する事に成功した。ラーマは落ち着いたもので、発見された所で別に驚くでもなく、淡々と懐から六枚の呪札を引っ張り出し、ペルゴに投擲した。六枚全部が爆発呪札。ペルゴは覚悟を決めた。

 

六度爆発が連鎖し、立ちつくしていたペルゴが煙を上げながらどうと倒れる。傷口から大量に出血し、意識が遠くへ行きかけていたミモザは、唇を噛んで顔を上げた。身を挺して道を造ってくれたペルゴの闘志を、無駄にするわけには行かないのだ。彼女を支えてくれていたパッフェルが、立ち上がると、決意の面もちで頷いた。ミモザも眼鏡を拾ってかけ直すと、同じように頷く。パッフェルが駆け出す。もう、彼女による防御は期待出来ない。フォールフロールを組み直し、矢の形にする。チャンスは一瞬。外したら負けるだけだ。

ラーマが印を組み、呪文を発動させた。獣王クラス召喚獣をあれほど暴れ回らせた後だというのに、まだ召喚術を使えるというのだ。他の幹部達に比べて戦闘能力は若干大人しめのようだが、その魔力は文字通り絶大。おそらく、樋口綾やオルドレイクを除けば、召喚師として世界最強であろう。呼び出されたのは、サプレスの悪魔。扁平な姿に、体の左右には複数の硬質化した鰭、口からは二本のしなやかに曲がる突起が延び、宙に浮き続けている、そんな存在だった。

「行きなさい!」

小さく頷くと、悪魔はパッフェルに飛びついた。パッフェルも何度も投擲された呪札に傷つきながらも、悪魔に正面から組み付いていった。悪魔の牙が、彼女の肩に食い込む。だが、パッフェルは屈せず、そのまま自分の体ごと、さっきペルゴが創った道の外へ飛び出した。そう、トラップの巣の中へ。

爆発が起こった。

ミモザが印を切るのと、ラーマが呪札を更に取り出すのは同時だった。フォールフロールが虚空を滑り、一本の矢となってラーマに襲いかかる。複数の呪札が投擲され、猛攻に晒されたフォールフロールが、地面に墜落する。だが、ここからが本番だった。更にもう一体、フォールフロールを呼び出す。忌々しげに、ラーマが呪札を投擲する。幾つかの貫通呪札が、更にミモザを貫いた。悲鳴が口から漏れるが、ミモザは屈しなかった。

寒門出身者であるミモザは、蒼の派閥でもろくな扱いをされていなかった。実力よりも家柄が物を言う世界で、彼女の実力を正統に評価してくれたのはエクスだけだった。無論エクスも悩みながら汚い事をしている事は知っている。怖気が走るような下劣な陰謀に、参加している事も知っている。アルナ族、今戦っているラーマを始めとする不幸な者達の境遇を、見て見ぬ振りをしてきた事だって知っている。だが、ミモザの主君はエクスだけだった。エクスが護ろうとする世界のために戦う事が、ミモザの全てだった。

まだ闘志を失わないミモザと、ラーマの視線がぶつかり合う。ラーマの目にあるのは、憎悪と復讐心。それを引き出す原因が自分たちにもある事を知っているミモザは辛かったが、負けるわけには行かなかった。道を造ってくれたペルゴのためにも、パッフェルのためにも。

「外道が、いい加減にくたばりなさい!」

「貴方達には外道って言われても仕方がないかも知れない! でも、私だって、大事な人達のために、負けるわけには行かないのよ!」

最後の集中力を駆使して、ミモザは二体のフォールフロールを操った。そう、二体。撃墜されたと思われた一体が鎌首をもたげ、虚空を滑って襲いかかる一体に気を取られたラーマの脇腹を貫いた。更に煙を上げる体を酷使して、その体に巻き付く。蹌踉めきつつも、だがラーマも屈しない。震える手で呪札を取りだし、新しい方のフォールフロールに十枚近い爆発呪札を投げつけて撃砕、更に貫通呪札を取りだし、ナイフのようにして巻き付いているフォールフロールを真っ二つに切り裂いた。

体液をまき散らし、暴れるフォールフロールが、ラーマから無理矢理離れた。傷口が拡大し、ついに力つきたラーマが地面に倒れる。ミモザももう、精神力の限界だった。体を何カ所も打ち抜かれて、身動きも出来なかった。

「ギブソン……あんたも……まけるんじゃないわよ……」

悪魔と折り重なるようにして倒れているパッフェル。倒れたまま身動きしないペルゴ。彼らに少し遅れて、ミモザも戦闘継続能力を喪失した。

 

雨が降り始めた。空に巨大な黒雲があるのだから、当然かも知れないが、ともかく雨が降り始めていた。さほど激しい雨ではないが、冷たく、もの悲しい雨だった。

その中、サビョーネルとゼンキは相対する。彼を援護してくれている、スタウトとギブソンもかなり息が上がっているが、サビョーネルの消耗も大きい。刃物になっている右腕を振って、水を落とすと、サビョーネルは再び間合いを計り始める。

マーン家当主であり、金の派閥の副派閥長であるファミィ=マーンの護衛獣である彼サビョーネルは、微妙な立場にあった。彼はファミィを全面的に信頼していたから、その愚かな弟達の面倒を見る事を引き受けていた。ファミィも彼を信頼してくれていたから、この他の誰にも頼めない任務を任せてくれていたのである。最近は滅多に会えない主君だが、心は通じ合っていた。

実際ファミィは、大天使であり長い長い時を生きてきたサビョーネルから見ても、充分に大した人物だった。判断力や精神力、行動力に企画力、いずれもかなわないと思わせるものを持っている。根本的な存在の大きさが、サビョーネルとは違うのだ。彼女に仕える事が出来たのは、忠実な大天使にとっても誉だった。

弟達、イムラン、キムラン、カムランらが、まともに成長してきた現在、サビョーネルはファミィの元へ戻れる日が近いかも知れないと考えていた。だが、彼らが校正したのは、サビョーネルの力ではない。サビョーネルが尊敬するもう一人の人物、樋口綾の手によるものだ。彼女への恩を返したいというのが、サビョーネルの本音だった。マーン三兄弟も、恩を返したいと考えていたようであった。長いトンネルの向こうで、ようやくサビョーネルと三兄弟の心は通じていた。ならばその架け橋となった人物のために命をかけるのが、筋というものだった。

眼前にいるゼンキという鬼神は、くわえている葉巻を忌々しげに吐き捨てると、新しい一本を取りだした。三人がかりの攻撃で大分傷ついているが、鬼神族には肉体強化という秘技がある。緊張の色が隠せないサビョーネルに、ゼンキは凶暴な笑みを浮かべた。

「安心しな。 俺は肉体強化はやらねえ主義なんでな」

「ほう。 それで我らに勝てる自信があるわけですかな?」

「そうじゃねえ。 美学の問題だ。 どうも俺は、俺じゃなくなるってのが好きじゃねえのさ。 俺ら鬼神将でも、肉体強化すると理性が飛ぶ奴がいるんだ。 ゴキもそうだし、俺もそう。 強くなる事は確かだけどよ、俺の好みじゃねえ」

「なるほど。 伊達や酔狂で戦っている訳ですな」

グレートソードを構え直すと、葉巻を上下に揺らしながら、ゼンキは微妙な光を湛える。今までの戦いは単なる削りあい以上でも以下でもなかったが、今後はそうではなくなる。自身も武器を構え直しながら、サビョーネルは心の中で、ファミィに詫びた。生きて帰れる自信がなかったからである。

サビョーネルは翼を広げ、中空へ舞い上がった。そのまま斜め上から、ゼンキを強襲する。スタウトがサイドステップしながらナイフを叩き付けて援護し、ギブソンのポワソも同様に援護を行う。だが、ゼンキは強かった。右手一本でグレートソードを振り回してサビョーネルをはじき飛ばし、左手を振るってポワソを叩き落とす。スタウトのナイフが数本脇腹に突き立つが、気にせず上段からの一撃を叩き付けた。途方もないパワーの前に地面が砕け、岩塊が飛び散る。鋭く尖ったその一つがスタウトを直撃、禿頭の元暗殺者はくぐもった声を上げて吹っ飛んだ。それに気を取られたギブソンは、続けて飛んできた左手の裏拳を避けきれず、弾かれ数メートルを飛ばされていた。とどめを刺そうとするゼンキに、体勢を立て直したサビョーネルが飛びつき、刃を振るう。サングラスが砕け、葉巻が半ばから千切れる。顔に大きな向かい傷を貰ったゼンキは舌打ちすると、機動力を生かして飛び回るサビョーネルに向け跳躍、凄まじい斬撃を叩き付けた。サビョーネルは、それを避けきれなかった。だが、ただではやられなかった。

一撃はサビョーネルの脇に深々食い込んでいた。だがサビョーネルの鎌も、ゼンキの右腕を根本から叩き落としていた。空中で切り離された右腕が回転し、突き刺さったグレートソードが抜け落ちる。二人の血がぶちまけられ、次の行動に出たのはサビョーネルだった。無理矢理体をひねって、袈裟懸けの一撃を叩き付けたのである。

「ぐがあああああああああっ!」

悲鳴を上げたゼンキが、左腕でフックを繰り出し、サビョーネルを捕らえた。サビョーネルは回転しながら地面に突っこみ、泥水を跳ね上げながら転がった。着地に失敗したゼンキは、血走った目で周囲を見回した。サビョーネルは無力化し、もう立ち上がれなかった。

 

つまんない奴。ギブソンは、誰にもそういわれた。ギブソン=ジラールのもう一つの呼び名が、(つまんない奴)だった。子供の時からずっとそうで、大人になってからもそうだった。蒼の派閥の一員になってからも、変化はなかった。

ギブソンは、確かに召喚術の成績だけは良かった。だが、元来の体の弱さや、合理的にものを考えすぎる事が、そんな風な評価を定着させていた。寒門出身者と言う事もあって、彼はエクスに拾われるまではろくな環境にいなかった。無論友達もいなかった。ミモザはギブソンにとって、恋人と言うよりも初めて出来た友達であり、絶対に手放したくない相棒だったのだ。ミモザがどう思っているかは兎も角として、少なくともギブソンはそう思っていた。そしてそれこそが、ギブソンのエクスに対する忠誠心の源泉だった。孤独だった彼に、対等な友達をくれたのだから。(つまんない奴)と呼ばない、相棒をくれたのだから。だからギブソンは、命をかけるつもりだった。

左腕が折れた。ギブソンは冷静にそう分析していた。隣ではスタウトが立ち上がろうとしている。彼もまともな情況ではないのが目に見えているが、ギブソンも同じである。元々精神力に自信がないギブソンは、意識を保つだけで必死だった。スタウトは、苦痛を浮かべながらも、吠え猛るゼンキを見据えていった。

「なあ、細いの」

「ギブソン、だ」

「ああ、ギブソン。 何か、奴に致命傷を与えられる業は持ってるか?」

ギブソンは首を横に振り、スタウトは舌打ちした。禿頭には血が伝っており、雨でも流れ落ちる様子はない。

「なら、俺がやるしかねえな。 耳を貸せ」

「……! ……いいのか、死ぬぞ」

「俺はな、人の命を奪って生活の糧にしてた。 そんな俺を拾ってくれたラムダ様が、一緒に戦おうって奴がいる。 蒼くって、だが強い娘だ。 まだ食べるには熟してねえが、命をかけて護るには充分な相手だよ」

彼らしい下品な冗談を交ぜながら、スタウトは大振りのナイフを取り出す。年代物の、いかにも業物と分かる逸品だ。

「大事なときには、いつも俺を助けてくれた魔法のナイフだ。 今日も、酷使してやるさ」

「スタウト、私は……」

「ギブソン、俺はお前さんの事を、弱いなどとはおもわん。 お前さんとは違ってな」

額の雨を拭うと、ギブソンは片腕を失って吠えるゼンキに向け走り出した。ギブソンも必死に体を起こすと、残る力の全てを賭けて印を組む。今戦わずに、いつ戦うというのだ。ギブソンは今までにないほど集中し、スタウトとゼンキを見据え、召喚術を発動するチャンスを狙った。

スタウトが駆け、ゼンキが拳を叩き付ける。地面にめり込み、砕く強烈な拳。流石に鬼神将、通常形態でも鬼神の強化形態以上のパワーである。紙一重でそれを避けたスタウトが、無数のナイフを投擲する。例のナイフはまだ投げない。半数が鬼神の体に突き立ち、鬼神が絶叫する。スタウトが例のナイフを取りだし、信じがたい精神力で体を起こしたゼンキが、轟音さえ伴ったストレートを打ち出す。ギブソンが動くのは、今、この瞬間だった。

「聖天使エルエル!」

出現した聖天使が、シールドを張る。ゼンキの拳はそれを直撃、指が全て砕けるのがギブソンの位置からも見えた。悲鳴を上げたゼンキ、消えるエルエル、そしてスタウトが守護神たるナイフを投擲した。それは、狙い違わず、サビョーネルがつけた袈裟懸けの傷に潜り込み、深々突き刺さっていた。動きが止まるゼンキ。だが、恐るべき最後の執念で、スタウトに回し蹴りを叩き付けていた。

二人はその場に、重なるように倒れた。雨が血を洗い流していく。ギブソンは、泥まみれになりながら、呟いていた。

「……私はまだ、貴方達には及ばない。 だが、役に立てた事を……誇りに……おも……う……」

倒れているミモザが、視界の隅に入った。ギブソンは手を伸ばそうとして、意識を失った。

 

「とうとう、降り出しやがったか!」

ガゼルが悪態をつき、飛来する銀糸を身を低くして避ける。アカネもなかなか近づく隙が無く、カシスと共に定距離を保ったまま様子見に移っていた。

カシスは充分に一流の使い手であり、度重なる戦いで成長したアカネも引けを取らぬ使い手である。ガゼルも実力は二人に全く引けを取らない。しかも連携は慣れているから、並の相手なら速攻で撃破出来る。しかし、今彼らが相対しているクジマは、あまりにも強かった。戦いは長引くばかりで、不利になる一方だった。

とにかくクジマは早い。早く、攻撃の全てが致命傷を狙っている。典型的な一撃必殺型の戦士であり、しかも鬼神とのハーフだけあってパワーも素晴らしい。戦い慣れの度合いも度が越している。正統派の戦士としては奇計に走りすぎるなど多少小首を傾げざるを得ない点がちらほらあるが、戦士としては途轍もなく強い分類に入る。文字通り最悪の敵手と相対している事を悟って、アカネは戦慄を覚えていた。

戦いは出来るだけ避け、常に切り札を温存しろ。アカネはそう叩き込まれて育った。これは要するに、最も効率のいい方法で任務を達成するための教えである。暗殺の骨子はターゲットを殺す事であり、その過程で強敵と技を競う事ではない。アカネは出来るだけ楽に勝つべく頭を働かせていた。周りもそうだと思っていた。いざというときは、逃げる事さえも視野に入れていた。

だがガゼルは、彼女の考えを、真っ向から否定する発言をした。

「カシス、さがれ。 これ以上、手出すな」

「え?」

「ちょっとちょっと、どーゆー事?」

「周り、見て見ろ。 もう、立ってるのは俺達だけだ」

ガゼルの言葉通り、周囲は凄惨だった。意識を失っているもの、息も絶え絶えに地面にはいつくばっている者。人間も召喚獣も関係なく、皆戦闘能力を残してはいない。息をのむアカネに、ガゼルは続ける。

「俺は、皆を護って、生きて帰るつもりだ。 だからカシスには、力を温存して貰いたいんだ。 彼奴も戻ってきて、無事だとは思えねえ。 回復の召喚術が仕える奴が、無事である必要があるんだ」

「でもでも、この情況じゃ」

「俺は、妥協する気はねえ。 ……いや、もう妥協してる。 敵だって、本当は殺したくねえんだ」

本当に辛そうな様子で吐き捨てると、ガゼルは視線を一瞬だけカシスに移し、すぐにクジマへ戻した。

「そう言うわけだ。 頼む。 此処は引いてくれ」

「……どうしてみんな、私に無理な注文ばっかりするかな。 こんな情況で待ってろって言ったり、大事な仲間が傷つこうってのに、手を出すなって言ったり。 初めて人間扱いしてくれた君達が死んだら、私……」

「悪い。 でも、な……。 先生がいなくなったときでさえ、もうこんな気分は沢山だって思った。 これ以上、あんな気分は味わいたくねえ。 いや、俺は良いんだ。 リプレやちび共や、フラットの仲間達には、もう味あわせたくねえんだ」

「……分かった」

カシスは数歩下がり、一旦戦闘継続圏から離脱した。しかし、いつでも加勢出来る態勢を崩さない。ガゼルは一歩ずつ間合いを詰めながら、アカネに言った。

「悪いな、こんな事につきあわせて」

「いいよいいよ、別に」

「最悪の場合も、お前の命だけは絶対に護る。 ……その、なんだ。 返事はまだ待って欲しい。 でも、好きだなんて酔狂な事言ってくれる女を、護るのが男ってもんだからな」

「話は終わったか?」

ずっと黙り込んでいたクジマが、銀糸を手元に戻しながら言う。両者の間に存在する戦気は衰えて等いないのに、何故か穏やかな雰囲気が同時にあった。

「世界とは、せまいものだな」

「どういう意味だ?」

「戦いたくない相手と、戦わねばならぬからだ。 もっと世界が広ければ、我らが受け入れられる場所もあっただろう。 お前達とも戦わずにすんだだろう。 蒼の派閥や金の派閥のクズ共は何匹殺しても心は咎めないが、お前達とは、正直戦いたくなかったよ」

「奇遇だな、俺もだよ。 お前らがやった事はゆるさねえ。 でも、お前自身とは、戦いたくねえ。 でも、やるしかねえな」

奇妙な感情の交換だった。アカネは向き合う不器用な男共を見比べると、小さく苦笑し、そのぶつかり合いに荷担し、命をかける決意を固めた。

「最後に。 俺は、お前は人間だと思うぜ。 お前を化け物なんて呼ぶ奴がいたら、俺が代わりにぶん殴ってやる」

「感謝する」

閃光が交錯した。

ガゼルが疾走する。銀糸が飛び、その頸動脈を切断しようとする。足場が悪いというのに、ガゼルのスピードは衰えない。以前、雪上戦で鍛えた結果である。ガゼルは肩口を切り裂かれつつも跳躍、そのまま跳び蹴りを見舞う。だがクジマはそのまま体をひねってかわし、着地したガゼルは反転、拳を相手の顔面へ打つ。クジマもそれを迎撃する。両者の拳が同時に相手へ届いた。クロスカウンターの形になり、拳の直撃を貰ったクジマが蹌踉めく。だが一瞬後にパワーで劣るガゼルが弾かれる。

「やあああああああああああっ!」

ガゼルの影から飛び出したアカネが、捨て身の特攻を掛けた。跳び蹴りはガードの上からも痛烈に決まり、敵が蹌踉めく。だが態勢を立て直し、踏み込んで後にクジマが放った拳は、痛烈にアカネの腹に入った。吐血するアカネ、吠え、ガゼルが肘撃ちを見舞う。態勢を整えきれないまま、クジマは銀糸で周囲全てをなぎ払った。ガゼルもアカネも切り裂かれて、派手に血をぶちまけるが、だが致命傷にはならない。やはり踏み込みが甘い。一撃必殺の銀糸さえ封じれば、封じ切れたとは言えないが、それでもこの情況を維持していくほかに勝機はない。

「離れるかよっ!」

叫び、ガゼルは血みどろの銀糸を掴むと、至近からナイフを叩き付ける。三本、それが相手の脇腹に入る。同時にアカネも数本の手裏剣を投げつける。蹌踉めきながらも、クジマは屈せず、まず裏拳でガゼルを、回し蹴りでアカネの側頭部を捕らえた。ガゼルは背中から地面に落ち、アカネは横倒しになって受け身を取りきれず、泥水が跳ね飛ぶ。密着状態の凄まじい消耗戦が続く。身軽にそのまま跳ね起きると、口から伝う血も意に介せず、ガゼルはクジマに頭突きを見舞った。

数歩さがるクジマ、立ち上がり、構え直すアカネ。三者の視線が交錯し、そして距離が縮まった。銀糸を放り捨てたクジマが、構えを取り直す。最初に突撃したアカネが、低い弾道から、掌底で相手の顎を跳ね上げる。更に体をひねって回し蹴りを見舞おうとしたが、クジマはその足を掴むと、逆落としに地面に叩き付けた。アカネが押し殺した悲鳴を上げた。クジマはそのまま振り向くが、ガゼルの姿はない。後ろに回り込んでいたのだ。もう半回転して、ガゼルと向き合うが、しかし先手を譲ってしまう。ガゼルは全体重を込めた、最後の力を全て込めた拳を、クジマの鳩尾に叩き込んでいた。だが同時に、クジマも残る力を全て込めて、ガゼルの背中をしたたか打ち据えていた。

「ぐ、く……っ」

アカネが、やっと肺から息を絞り出した。今の一撃は、彼女が温存していた切り札の業だった。あの後四つ連続して体術を叩き込む業だったのだが、途中で止められてしまった。流石、クジマである。アカネは心の中で、相手を素直に賞賛していた。

先ほどから、右目が見えなくなっていた。地面に叩き付けられた影響で、一時的な視力低下だというのは明らかだ。胃が焼け付くような焦燥感に襲われながら、アカネはガゼルと、クジマを探した。

二人とも、すぐ側に倒れていた。ガゼルは意識がない様子である。アカネもそうだが、先ほどの銀糸で体を切り裂かれ、酷い有様であった。アカネは手を伸ばそうとして、二の腕が酷く切り裂かれ、骨が露出しているのに気付いた。乾いた笑いが、肺の奥から込み上がってきた。人を殺す事などに、抵抗など無かったはずなのに。傷つける事を、躊躇などした事は無かったのに。ましてや、傷つく事を、悲しんだ事など一度もなかったのに。今、アカネは、とても悲しかった。

「ガゼル……」

伸ばした泥まみれの手は、届かなかった。

 

カシスは立ちつくしていた。迷霧の森深部、祭壇の広場で立ちつくしているのは、彼女だけになっていた。皆を回復しなければ行けない。それは分かっているのに、体が動かなかった。

視界の端には、精神力を使い果たして未だ立ち上がれないエクスと、彼を護る事で精一杯の蒼の刃の者達があったが、もうどうでも良かった。雨は小雨から本降りになり始めており、天を見上げてカシスは呟いていた。

「ガルガンチュア……私……生き残ったよ……。 それに……もう……追いかけられる事もないよ……」

涙が止まらなかった。あれほどしてきた戦いだったのに。カシスはこみ上げる悲しみを、押さえる事が出来なかった。

「なんで、なんでこんなに悲しいんだろう。 涙が、止まらないんだろう」

地面にへたり込むと、カシスは声を上げて泣き始めた。今や彼女は、ごく普通に泣けるようになっていた。ごく普通に悲しめるようになっていた。

戦いは、終わった。迷霧の森で決着が付いた丁度その頃、異世界でも戦いが終わっていた。

 

7,二つの……

 

小さな小さな足場だけが残っていた。恒星の深部並の高音に充たされた異世界の中で、それだけが残っていた。最後の一撃は、その上でかわされていた。正確には、止まっていた。

綾の一撃は、袈裟に振り下ろされ、オルドレイクの首筋を捕らえる寸前に。オルドレイクの一撃は、真横から振られ、胴に食い込む寸前に。それぞれ止まっていた。二人はしばし止まっていたが、先に口を開いたのはオルドレイクだった。

「まさか、この様な事になるとはな」

「……」

二人はほぼ同時に剣を引き、嘆息した。決着をつけるのは、もう不可能だった。

 

周囲を見回す綾は、空間の強度が限界に来ている事を感じていた。内部でぶつかり合ったエネルギーが、空間の許容量を超えてしまったのだ。もしこれ以上激突すれば、この狭い空間は風船のように破裂する。そうすれば、もっとも此処に近いリィンバウムがどうなるか、予想するのは容易だった。最低でも、リィンバウムのある星は、粉々に消し飛ぶ事が間違いない。

綾の振り下ろした剣は、一瞬だけ早かった。だが、それにしても、相討ちは避けられない事態だった。オルドレイクはサモナイトソードを鞘に収めると、言った。

「……取引を、持ちかけたい」

「内容次第です」

「世界を、二つに分けよう」

オルドレイクは結論から先に言うと、細かい説明に移った。

「別に世界を私と君で分割支配する、等という提案をするつもりはない。 此処に満ちている膨大なエネルギー、そうさな、迷霧の森で消費された膨大なエネルギーもあわせて、世界の可能性を二つに分ける」

世界は無数に存在している。人間を軸に据えてみれば、人間が発生しなかった世界、もう滅んでしまった世界、或いはとても素晴らしい文明を築いている世界等。世界はそうなるであろう可能性によって、幾らでも分化するのだ。可能性こそが、世界を形作っていると言っても良い。

オルドレイクの提案は、それを人為的に起こそうというものであった。しばしの考慮の末、綾は顔を上げた。

「私が勝った世界と、オルドレイクさんが勝った世界に、ですか?」

「それでは無理が出よう。 私が帰った世界と、君が帰った世界というのはどうだ? そして私の愛すべき同志達は、私が帰った世界へ皆召喚する。 君の仲間達は、君が自身の世界に全員呼んでしまえば良い。 分離直後なら、存在が重なっているから、存在の融合に無理は起こらないはずだ。 そうすれば矛盾の量が少なく、消費するエネルギーも押さえられよう」

沈黙は長く長く続いた。やがて綾は、オルドレイクの頬を、軽く平手で張った。

「……分かりました。 方法は他に無いようですね。 でも、私は、貴方を絶対に許しません」

「罪は、罪として受け入れよう」

「これすらも、考慮に入れていたのですか?」

「いや、私も万能ではない。 流石に此処までは考えてはいなかった」

綾もサモナイトソードを鞘に収めると、辺りの情報を調査し、把握し始めた。オルドレイクも目を閉じると、それの手伝いを始めた。

流れていた巨大なエネルギーが、水飴のように練られ、徐々に形を為していった。新しい宇宙が誕生しうるほどの超高密度エネルギーに圧縮していく。やがて綾は、現在のリィンバウムともそれを掛け合わせ、世界の影を創っていった。神に祈るようなポーズのまま、全てを新たにくみ上げていった。

狭い空間が冷えていった。もしこのとき斬りかかれば、苦もなく相手を倒せた。しかし綾もオルドレイクも、そんな事は考えもしなかった。

世界という名のシャボン玉が、二つに分かれた。

 

「多くの者が消えていった。 私は、世界で一番罪深い男だな」

「一番罪深く何てありません。 おそらく、一番罪深いのは……」

「君がそれ以上言うな。 君がこれから過ごしていく地獄が、更に辛くなるぞ。 辛くなったら、私を憎め。 そうすれば、大分楽になる」

オルドレイクはサモナイトソードの鞘を叩くと、綾の目をまっすぐに見据える。

「私は新しい世界を創るために、もう行く」

「一つ、約束してください。 より弱き者だけではなく、誰もが安らかに暮らせる世界にしてください」

「私の手は、より弱き者達さえ護りきれないほど小さかった。 だが、今後は、君の希望を出来るだけ叶えていくようにしよう。 ……私からも、一つ。 君は、決して諦めるな」

力を使って世界に干渉する道と、出来るだけ使わずに見守っていく道。どちらが正しいと言う事もない。いうならば、どちらもどちらなりに正しく、間違っている。ただの道であり、其処に存在している通路だった。

オルドレイクの姿が消えていく。綾はそれを見送る。二人の超越者は、結局力携えることなく、二つの道へと別れていった。二度と交わる事のない、小さな道は、果てしなく未来に向け延びていたのだった。別の道を行くオルドレイクの背中を、綾は見送った。いつまでも、いつまでも。

 

力が僅かに余ったので、綾は幾つか作業をしていった。

最初に、故郷の様子を見た。もう当時の塔の力の覚醒情況からいって、大体事情は分かっていたが、確認する必要はあった。結果は、案の定であった。

父、樋口泰三はもう亡くなっていた。リィンバウムに来た数時間前に、交通事故で亡くなったのだ。無意識下に因果律操作で皆を護るのと同時に、最低の選択肢だけを避けていた事を、今の綾は知っている。父が亡くなった状況下で、リィンバウムに来るか、日本に残るか。前者の方がましだと、無意識下で綾は判断していたのだ。リィンバウムと日本は時間の流れが根本的に違っている。綾が呼ばれたのは、色々な意味で結局偶然ではなかったのである。

もう日本では、樋口財閥が解体され、別の人間がそれぞれに長に収まっていた。今綾が帰っても、混乱が加速するだけだった。綾は頭を振ると、帰る選択肢を心の中から完全に排除した。

もう、彼女の居場所は、日本には存在しなかった。

 

迷霧の森の上にかかっていた雲が引いていく。降り続けていた雨が止んでいく。そして迷霧の森には、もう無色の派閥の人間は、一人も残ってはいなかった。

ずっと其処にいたように、綾が戻ってきたのは、丁度その時だった。ゆっくり周りを見回し、綾は惨状に悲しみを覚えた。だが、別にもう、体に影響は出なかった。流そうと思えば幾らでも涙は流せたが、感情の肉体的な反応はもう起こらなかった。

「……アヤちゃん!」

泣きじゃくっていたカシスが立ち上がり、綾に抱きついた。綾はその頭を撫でながら、出来るだけ優しく言う。泥まみれで、傷だらけで、どう見ても美しい図ではなかった。だが、そんな事はどうでも良い。

「約束通り帰ってきました。 だから、みんなで、生きて帰りましょう」

「うん……」

「まだやる事は、幾らでもあります。 さあ、頑張りましょう」

綾の道は、この先につながっている。まだ、道の入り口にさしかかったばかりである。

二人で回復の力を持つ召喚獣を呼び出し、怪我人を直していく。重体だった者達も、何とか全員が死なずにすんでいた。綾の力も無限ではないが、何とか全員命をつなぎ止める事が出来た。生命力が並はずれた者達だったから、助かったという事情もあった。一息ついた綾は、額の汗を拭った。

彼女は、護る事が出来た。皆、護る事が出来た。だが、仲間しか護れなかった。

オルドレイクが、(より弱き者)しか護ろうとしなかった訳が、今の綾には分かっていた。超越者となった今でもこの有様なのだ。オルドレイクは、断腸の思いで、そう選択したのだろうと。

皆酷い姿だった。泥まみれで、傷だらけで、血だらけで、襤褸襤褸で。綾も例外ではなかった。だが、全員の顔に、余裕が戻り始めていた。綾が告げたオルドレイク達の行った道を聞いて、不平を漏らすものは誰もいなかった。戦いを通じて、敵と味方の心は通じていたのだった。

誰かが勝つ一方で、誰かが負け、死んでいく。ならば自分が勝った世界ばかりでは、不公平ではないか。綾は掛け値なしにそう思った。オルドレイクの行った道は、或いはふさがっているのかも知れない。しかし行く前から、それを否定するのはあまりにも傲慢だというものだった。戦ったのは、慈悲の心を持たない悪の大魔王などではない。悩み苦しみ、仲間を護ろうと考え続けた、人だったのだから。

「クジマの奴が、言ってたんだけどよ」

まだ立ち上がれないガゼルが、泥まみれの地面に座ったまま言う。アカネがハンカチを取りだして、衆目を気にせず彼の頬を笑顔で拭いていた。

「世界って、狭いんだな。 俺も、そう思うぜ」

「そうですね。 もう少し世界が広ければ、あの人達を受け入れる場所だってあったのでしょうに。 そして世界を狭くしているのは、人間そのものなのですね」

「ああ。 だから俺達は、世界を良くするように、動いていかないといけねえな」

この世界は保持された。だが、この世界の全てを肯定していては、何度でも同じ事が起こる。人間だから仕方がない、というのは最低の言い訳だ。

歩けるようになっているレイドが、同じく軽傷の仲間達を指揮して、帰る準備を始めていた。話し込む綾とガゼルに、彼は咳払いする。

「体が動くようになったら、この場を後にしよう」

「……花の一つも、供えていきてえ所だな」

「その必要はない。 ……さっき、偶然見つけた」

レイドは指さした。遠くに、白い何かがある。ガゼルはしばし目を凝らした後、納得して頷いた。

枯れ果てた森の奥に、白い花が咲き乱れる、小さな楽園があった。

 

8,戦い終わりて

 

「……我々は、撤退した後、この森を調査する」

部下に支えられながら、エクスがそう言った。蒼の刃のメンバーも撤退を開始しており、蒼の派閥長の死体をわざわざ焼却していた。綾はそれを見て、事態を大体悟り、苦笑した。

「その必要はないと思います」

「うん?」

「無色の派閥が残したものは、私が全部異世界に召喚しました。 そこで私が責任を持って保管します」

存在自体の召喚などと併せて、先ほど綾が行った作業の一つがそれだった。今後綾は、人類の罪業を全て記録していこうと考えていた。人類が種として進化した、遠い未来のために。

無色の派閥の所持品には、蒼の派閥が行った犯罪行為や、金の派閥が行った残虐行為の証拠が山ほどあった。エクス自身は信用出来るが、蒼の派閥も金の派閥も信用ならない。彼らに任せておいても、証拠を隠滅するだけだ。綾が言った言葉の意味を悟って、エクスは小さく吐息した。

「そうか、それが一番良いだろうな。 私では、証拠を護りきれないだろう」

「それと、もう一つ。 今後私に喧嘩を売って来る分には構いません。 幾らでも喧嘩を買います。 ただし、私の仲間達や、他の人を巻き込んだときには、一週間以内に蒼の派閥と金の派閥は、過去の遺物と化すと心しておいてください」

さらりとはかれた言葉に、むしろ驚いたのはカシスだった。ガゼルはにやにやと笑って、愉快げに事態を見守っていた。ガゼルは綾の本音を悟っているはずだ。もしそんな事態になれば本気で派閥を潰しにかかるが、出来ればそうはしたくないという本音を。そして綾の今の実力を持ってすれば、それが十分に可能だという事実も、

「分かった。 我々も、エルゴの王を敵にするほど無謀ではない」

「御願いします、エクスさん。 私も貴方を敵に回したくはありませんから」

 

サイジェントに戻った綾は、真っ先にフラットのアジトに戻った。途中、再会を約束して、手を振りながら去っていったギブソンとミモザ、それにサイジェントの正門で別れたサビョーネル。アキュートのアジトで別れたラムダ、スタウト、ペルゴ、セシル。彼らとは、毎日でも会える。

アジトにたどり着いた。その場にいる仲間の数は減っていたが、それでも大人数である事に変わりはない。アカネがアジトの前で待ち伏せしていたシオンに連れて行かれたが、これはまあ、仕方がない事であろう。スウォンも丁寧に挨拶をすると、一旦家へと帰っていった。

いつでも会える。それは実に大きい。生きているのだから、その気になればいつでも。死んでしまった者とは、もう会う事は出来ないのだ。バノッサもカノンも。彼らの魂を救済することは、今の綾には簡単だし、もう済ませた。だがそれがなんだというのだ。輪廻転生があろうと人生は一つで、取り返しがつかないのだ。彼らの分も生きる事だけが、今できる事だった。

「ただいま」

ドアを開けて言うと、リプレがすぐに現れた。洗濯物を抱えて、全然いつもと同じ様子である。泣かれても、抱きつかれても困る所だ。いつものように迎えてくれる、それが如何に大きな意味を持っているか、綾は今更ながらに悟っていた。

「おかえり。 あら、あーあー、みんなドロドロのボロボロじゃないの」

「あ、これは、その……」

「はい、女の子達、全員風呂場直行。 着替え済ませて。 男共は少し待ちなさい」

「ひ、ひでえ。 疲れてるんだぜ、俺達」

何か文句でも?

蒼白になったガゼルが首を横に振り、レイドが苦笑した。フラットの支配者の言葉に、逆らえる者など存在はしない。

泥だらけになった靴を入り口で脱いで、アジトの中を見回し、綾は改めて心の中で呟いていた。

『ただいま、私の家』

 

……その後サイジェントは、着実に復興を続けていく事になる。サイジェント復興の立て役者になったのは、何よりもわざわざマーン家三兄弟から請われて政務に携わるようになったリシュールである。リシュールも最初は難色を示したのだが、全面的な謝罪を行ってきた彼らの顔を立て、政務の助言を開始した。

リシュールはアキュートに入って以降、独自の情報網の構築に務め続け、それはサイジェント全域どころか聖王国や帝国まで達するものとなっていた。またその政治的識見と政治手腕の巧みさは誰をも納得させ、数々の合理的な政策を短時間で実行、成功させていった。マーン家三兄弟も手腕がリシュールに及ばない事は素直に認め、自分たちは産業の発展と資産を生かしての様々な事業誘致に務めるようになった。リシュールは逆にそれが苦手だったから、得意分野を住み分けた事になる。リシュールの施政の元、不安定だったサイジェントの情況は落ち着いていき、十年ほどで完璧な復旧を見る。以降は(最も発展した辺境都市)(北部インダリオス最大の都市)等と呼ばれ、右肩上がりの発展を遂げていくようになった。

リシュールがフラットのアジトに戻るようになったのは、サイジェントが落ち着いてより更に七年後の事であった。労働法は既に十分な整備がされ、各地の工業都市でそれは手本にされた。膨大な利権を狙って帝国や聖王国が動き始めていたが、隙が全くないのでいずれも手出しは出来なかった。金の派閥も蒼の派閥もつけ込む隙が無く、サイジェントへの介入は諦めざるを得なかった。マーン三兄弟も、金の派閥にはサイジェントへの介入を許さなかった。後に、リィンバウム一発達した工業都市と歌われる、サイジェントの基礎はリシュールが築き上げた。

ラムダはしばしの修行の後に請われて騎士団に復帰し、幾つかの国境紛争やはぐれ召喚獣の討伐で大きな功績を挙げた。彼のいる部隊の強さは近隣で有名となったが、結局最後まで一戦士である事を貫き、騎士団長になる事はなかった。また本人は騎士以上に戦士としての自分を磨く事に余念が無く、五十代後半になっても立ち会いを申し込まれれば必ず受けていた。後に希代の剣豪として名を残す彼だが、それにはこういった、徹底した剣に対する姿勢が大きな影響を与えていた。スタウトとペルゴはラムダの部下(同僚であったが、彼らは部下だと必ず主張した)として働き続けたが、結局セシルは医師の道を選んだ。ただ、軍属にはならなかったものの、ラムダの伴侶になったわけだから、彼らが離ればなれになったわけではない。

レイドはラムダ同様、騎士団に請われて復帰を果たした。イリアスを騎士団長とする騎士団は、知恵袋のサイサリスと冷静沈着なレイドの補佐により、サイジェントの治安をがっちりと護っていく事になる。イリアスの没後は老齢を押して騎士団長になり、生涯現役を旨にサイジェントに尽くし続けた。最前線で戦い続けたラムダに比べると、その経歴は若干地味だが、サイジェントの安定を築き上げた英雄である事を否定するものは誰もいない。

フラットは戦闘的な性質を自ら捨て、以降は純粋な孤児院として機能し続けた。その一方で院長になったガゼルは、いわゆる地元の名士となって、隠然たる実力者となった。彼は師であるリシュール仕込みの情報操作能力で各地の情報を把握し続け、(誰かが噂をすれば、ガゼルの耳には三分後には届いている)等と冗談交じりに言われたが、その力を悪用する事はなかった。また彼は、同じくフラットの経営を行ったリプレには全く頭が上がらず、同じく妻であるアカネにも全く逆らえない恐妻家であった事が後世に知られている。かって義賊として知られたローカスも、影でガゼルの情報網把握に関わり、手助けし続けた。また、フラットには、力持ちのエドスや、弓の名人のスウォン、熱血漢のジンガ、高飛車なエルカや愉快なモナティなど、童話的な楽しさを持つ人物が多数集まり、街の者達からは終始愛された。

カザミネは後に(メルギトス動乱)と呼ばれる戦いに、カイナと共に参戦した事が確認されている。剣の道に生きてきた彼であるが、カイナと所帯を持ってからは大分性格が丸く柔らかくなったと記されている。エスガルドとエルジンも同様の戦いに参加し、後に蒼の派閥の庇護を受けている。

メルギトス動乱は蒼の派閥が大きく関わった戦いであり、彼らエルゴの守護者は全員が蒼の派閥の勝利に大きく貢献したため、多少脚色されつつも史書に名を残している。無論、彼らが愛すべき性格の持ち主であると言う事も、名を残した要因であった。

ミモザとギブソンは、ごく自然に蒼の派閥の幹部として、後世に名を残している。どちらも有能で、部下の信望も篤かった。彼らもメルギトス動乱に参戦し、大きな戦力として蒼の派閥の勝利に貢献した。

サビョーネルに関しては、あまり多くの資料が残ってはいない。だが金の派閥の名派閥長と呼ばれたファミィの影に、常に大天使の姿があった事は事実である。

 

迷霧の森で戦った者達は、概ね幸せな人生を送る事が出来た。地獄の如き死闘を経たが故に、それを掴む事が出来たと言っても良いであろう。

だが残念な事に、それだけが、幸せだけが、未来ではなかったのである。

 

エピローグ,今だ幸せ来ず

 

荒野に響いているのは、子守歌だった。優しく、もの悲しい子守歌だった。それを歌っているのは、膝に血みどろの子供を乗せた、樋口綾だった。辺りにあるのは無数の無惨な死体、それに燃えさかる掘っ建て小屋、潰されたテント。噎せ返るような血の臭いと、人肉が焼ける臭いが漂い、燃え落ちた小屋が崩れ落ちる。その中で、彼女は瀕死の子供が少しでも楽になれるように、子守歌を歌っていた。あまりに酷い傷で、もう助ける事が不可能だったのだ。幾ら綾でも、死人を助ける事は出来ない。更には、もう生命力が残っていない者も、助ける事は出来なかった。

あれから三百五十年が過ぎた。リィンバウムの人類はまるで進歩する様子を見せず、召喚術や兵器を駆使して、下らない争いを続けた。綾はカシスと共に各地を周り、弱者を救済するために様々な活動をしていたが、まるできりがなかった。子守歌が止まったのは、子供の息が止まったからである。無言で綾は哀れな子を抱き上げ、埋葬した。土をかけているうちに、後ろから声がした。

「終わったよ、下手人も首謀者も全部処分してきた。 首謀者はありとあらゆる拷問をくわえて、人格ぶっ壊してから首もいできた」

「カシス……」

青紫のローブをかぶったカシスが、地面に生首を放り捨てた。彼女はサプレス系の召喚術を極め、その魔法技術を吸収して、ブラックラックのようにリッチとなったのである。綾の助けをするために、彼女もまた死ぬ権利を捨てたのだ。正確には、人としての人生を放擲して、綾に仕え続ける道を選んだのである。長き努力の結果、今やカシスは綾についでリィンバウムでも二番目の実力者である。カシスにとって、千や二千の軍など潰すのは造作もない事だった。無惨な生首を見て、綾は小さくため息をつく。

「何も其処までしなくても」

「コイツ、いったい何て言ってたと思う? ゴミ共が我が領地から消えてせいせいした、だってさ。 こんなクズ、死んで当然だ!」

無造作に生首を踏みつぶし、カシスは更に続ける。彼女の声には、如実な怒りが籠もっていた。

「ねえ、いつまで続けるの? こんな無駄な事!」

 

事の起こりは、隣国における飢饉だった。どうしても生活が出来なくなった貧民達が、食料を求めて(まだましな統治が行われている)というこの国へ入り込んできたのである。最初は兵士達が武器で脅かしたが、貧民達に帰る場所など無かった。そんな時に、綾とカシスがこの土地に到着したのである。

綾は各地のつてに手を回して食料を集め、カシスは同時に彼らが帰れるように役人に交渉を行った。病気の者達は優れた回復系召喚術で助け、怪我人も救った。衰弱しきっていて助けられない者もいたが、誰もそれは責めなかった。無論彼らだけを特別扱いせず、摩擦の調停にも積極的に当たった。

だが、彼女らの行為は水泡に帰した。領主は下劣な差別主義者であり、隣国の民を人間だとは認めていなかった。彼は事態を知ると高圧的に難民の国外退去を命じ、カシスと交渉を進めていた役人の首をはねてしまった。その上、綾とカシスが難民キャンプから出かけた隙をついて、およそ二千の兵士でキャンプを襲わせたのである。戦う術も逃げる場所もない難民達は、無惨な末路を迎えた。

恥知らずには、すぐに当然の報いが下った。蛮行の直後に帰ってきたカシスが、軍を襲撃、虐殺に荷担した軍人をその場で皆殺しにした。更に領主はそのまま異界に拉致、想像を絶する苦痛を与えた末に殺した。そして、現在である。

 

カシスは綾と違って、まだ感情が肉体に影響を与える。彼女は落涙し、拳を固めていた。しばしの沈黙の後、カシスは拳で涙を拭い、手を横に振った。

「これで何度目だよ、アヤちゃん! 一体何年経てば、世界は良くなるんだよ!」

「カシス、もう少し長い目で見ましょう」

「私が、私が絶対に許せないのは!」

わざわざ言葉を切って、カシスは目に炎を宿す。悲しみが、怒りにまで昇華していた。カシスは、今踏みつぶした首を親指で指さし、吐き捨てる。

「こんな奴らのために、君が傷つかなきゃいけないって点だ! こんな奴らは、いつまで経ってもいなくならない! 前は、私、親父のやってた事が分からなかった! 何考えてたかも、良く分からなかった! でも今は、今の私は、親父がどんな気持ちだったかよく分かるっ! なんでこんな奴らのために、君が傷つき続けなきゃ行けない! 世界のために死ぬ権利まで捨てた君が、なんで苦しみ続けなきゃいけないんだっ! 君には幸せになる権利があるはずだ! それが、どうして、どうして……!」

「……」

無言で綾は、カシスを抱きしめた。泣き時雨に見舞われたカシスに、優しく諭すように言う。

「私は、気にしていません。 私、フラットの仲間達と一緒にいた数十年は、掛け値なしに幸せでした。 それに、まだ三百年ちょっとじゃないですか。 諦めずに、人を信じ続けましょう。 きっと、未来は良くなるはずです」

「君は……君は……っ!」

言葉に詰まるカシスの肩を優しく叩くと、綾は歩き始めた。彼女は、まだ人類に対する視点を、冷え切らせてはいなかった。まだ、未来に希望がある事を信じていた。

「私、諦めません」

綾の言葉は、虚空に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。

 

……その後、綾が幸せになれたかは、定かではない。

 

(暗黒サモンナイト、完)