ほんの僅かな違い
序、前哨戦
迷霧の森は、かってない数の人間と召喚獣によって包囲されていた。東部に展開した包囲軍は、蒼の派閥軍およそ四千五百。西部に展開した包囲軍は、金の派閥が率いる約六千五百。これはいずれも本部からの増援、及び聖王国への要請によって、出撃時よりも数割増の戦力になっていた。また、軍には、召喚師達が召喚した異形の者達が数多く混じっており、兵士達は不安を互いに囁き会っていた。
森の周囲には朝霧が立ちこめていた。それも徐々に晴れ、要塞化された森の様子が、遠くからでも確認出来るようになっていく。その堅固な様子に、兵士達の不安はますます高まる。総合的に見て、兵士達の戦意は決して高いとは言えなかった。
蒼の派閥軍の指揮を任されたラースト中将は、敵の布陣を確認しつつ、僚友であるパムフ中将と意見を交わす。二人の意見は、戦略レベルではほぼ一致していたので、今は現状を確認しつつ、細かい戦術レベルでの打ち合わせとなっていた。
ラーストの元には、エクスからの指示が届いていた。特定地点への攻撃集中がそれであったが、彼は不審に声を曇らせながら、僚友に言う。
「貴殿はどう思う?」
「全く問題がない」
「うむ。 ……不審なのは、これを誰が進言したかなのだが」
地図上の三つの地点には、印が付けられていた。それはエクスが彼らに指示してきた地点であり、これ以上もないほど理にかなった戦略的に重要なポイントであった。問題なのは、エクスの側にまともな軍師など居るわけもないという事実だ。召喚師達が集団戦には全く無知無能だと言う事は、ここ一ヶ月でラーストもパムフも、嫌と言うほど思い知らされていた。
「誰であるかは分からぬが、召喚師ではあるまい」
「うむ……。 しかし、一千の兵に匹敵する怪物が、敵には五体もいる。 無惨な情況が、その何者かの手で少しは改善されると喜ばしいのだが」
「ラースト将軍! パムフ将軍!」
二人の会話に、急に割り込んできた者が居た。見れば、ラーストの副官である。ラーストが誰何すると、同時に森の方で煙が上がった。舌打ちすると、パムフは吐き捨てた。
「仕掛けたのは誰だ」
「それが、金の派閥の召喚師達が、傭兵部隊をけしかけたようです。 しかも、敵の待ち伏せにあって、半ば潰走状態に陥っている模様です」
「……チッ、バカがっ! 馬を引けっ!」
パムフが愛馬に飛び乗り、自陣へと慌てて戻っていった。度し難い阿保共であるが、これも戦力として計上しなければならないのが、司令官の辛い所であった。
傭兵部隊およそ二百名は、五十体ほどの悪魔に包囲され、殲滅されていた。部隊の中には少数ながら召喚師もおり、彼らが呼び出す召喚獣は善戦していたが、複数の悪魔に襲いかかられると手も足も出なかった。また、悪魔達も率先して召喚師を狙い、その牙に次々と戦い慣れしない召喚師をかけていく。
蝙蝠に似た悪魔が、兵士を真上から掴み、空中でかみ砕く。巨大な蠍に似た悪魔が、尻尾を振り回し、プレートメイルを悠々と差し貫く。歴戦の傭兵達も、人間外の相手にはその実力を発揮しきれず、被害を一秒ごとに拡大していた。彼らを救ったのは、召喚術ではなく、パムフ率いる最精鋭だった。猛将と名高い彼はおよそ五百名の直属精鋭を率いて、包囲網の側面を強襲、敵の一角を数に物を言わせて突き崩したのである。グレートソードを振り回し、悪魔を斬り捨てながらパムフは吠えた。隣では、副官がボウガンを操って、背を向けている悪魔を射殺した。
「悪魔共は手強いが、決して倒せぬ相手と言うわけではないな!」
「しかし、一対一で戦うには分が悪すぎます」
「何、倒せる事が分かれば充分だ! 味方を助け次第撤収!」
「了解しました!」
秩序ある彼の精鋭は見事な動きを見せ、包囲されていた傭兵部隊を助け出す事に成功した。しかし傭兵隊の三割が戦死し、残りの半数が重傷である。また、傭兵隊に所属していた七名の召喚師は全員が戦死していた。この森周辺における戦いでの、最初の戦術的勝利は、無色の派閥軍に帰した。
「何故、命令もなく攻撃を行った!」
這々の体で出頭した傭兵隊のボスを、パムフは叱責した。彼は俯いていたが、やがて白状した。
「それが、敵を捕まえれば、賞金を出すと言われまして。 部下の一部が敵の陣地に見えた人影に突進して、気付いたらこうなっておりました」
「賞金、だと?」
その金額を聞いて、パムフは思わず呻いていた。流石に資金潤沢な金の派閥である。何を考えているかは分からなかったが、その金額では兵士達が血迷うのも無理はない話であった。
パムフは一旦兵士達を下がらせると、召喚獣を最前衛に配置し、部隊の編成に若干の変更を加えた。
「ほう、やるわね」
物見櫓で、戦況を見ていたラーマが呟いた。敵の動きは見事であり、包囲された部隊を救出して撤退に成功した。櫓に絡みつくようにして、ラーマの顔をのぞき込んでいたゴルゴンズルクが言う。
「此方もそれなりの損害を出しました。 敵を侮ってかかるわけにはいきませんな」
「ええ。 でも、金の派閥の無能な召喚師だけが相手になるよりも、此方の方が張り合いがあるというものね。 ただ、前線の者達には酷だわ」
「我らがその分だけ、頑張ると致しましょう」
無言で頷いたラーマが、櫓の下をのぞき込む。彼女を呼ぶ声がしたからである。
「同志ラーマ様! 東部戦線の、同志ザプラ様より伝言です!」
「どうしたの?」
「敵がいよいよ動き出しました! 一斉攻撃に出る模様です!」
「分かったわ! 此方も予定通りの行動に出ると、同志ザプラに伝えて! 武運を!」
敬礼した派閥構成員が、飛翔能力のある悪魔に飛び乗り、森の東へと消えていく。東部戦線はザプラが、西部戦線はラーマが指揮を執っていた。トクランは西部戦線で、クジマは東部戦線で、静かに出番を待っている。これは単純に得意分野を担当しているだけの事で、それは皆承知していた。兵力は約二十分の一と劣勢であったが、無色の派閥軍には一つの強みがあった。戦闘要員は、全員が召喚術を使えるのである。殆どは小技ばかりだが、それでもこれは非常に大きな事であった。何しろ、召喚獣戦力だけなら、敵を確実に凌ぐ事が出来るからだ。加えて、派閥構成員達の士気は例外なく高い。敵の侵入を許せば、森の深部にいる非戦闘員達が何をされるか、知っていたからである。
圧倒的な数の敵が、土煙を上げて攻め寄せてくる。ラーマはゴルゴンズルクの背に乗ると、トクランと共に、最前線へ出た。まだ彼女らの出番は来ないが、最前線で指揮を執るのが当然の義務だった。
組織化された悪魔達が、壕や塀の上に潜み、命令を待つ。他にも天使や、ドラゴン、鬼神、ロレイラルの戦闘兵器などが静かに命令の瞬間を待っていた。ラーマが右手を挙げ、敵が一定距離に近づいた瞬間、一気に振り下ろした。
「全軍、攻撃開始!」
ドラゴンが攻め手に炎を吐きかけ、天使や悪魔が己の得意とする攻撃を叩き付ける。ロレイラルの機械は優れた文明が生み出した兵器を発射し、鬼神達は岩を投げつける。寄せ手は一瞬混乱したが、すぐに隊形を立て直し、勇敢な召喚獣達の突進と、無数の矢で反撃を開始した。同時刻、森の東でも、全く同じ光景が展開されていた。
決戦の火蓋は、今此処に斬って落とされたのである。
1,血に染まる大地
「分かってはいたことだが、堅固だな」
戦況を見ながら、ラースト将軍が呟く。敵の防備はまさしく鉄壁で、味方の再三に渡る波状攻撃がはねのけられている。しかも東部戦線も西部戦線も、敵の指揮官は揃って有能だった。だが惜しいかな、敵の兵力は僅か二十分の一である。此処は圧倒的な物量に物を言わせ、攻めて攻めて攻めまくり、疲弊を誘うのが定石だ。そして、実際に効果があるから、定石は誕生するのだ。
それにしても、味方の被害は大きい。しかし、逃げて良いとも言えない。攻撃を終えて戻ってきた部隊を再編成し、新手と取り替える。召喚獣の被害も大きいが、兵士達の被害もまた大きい。敵は勇敢で、まるで死を恐れなかった。しかも、要害同然の堅固な地形に、味方は突撃の足を鈍らせる。多少の苛立ちを交えながら、ラーストは副官に聞いた。
「例の作戦とやらは、具体的にはいつ頃始動するのだ?」
「はっ! カギとなる人物が此方に昼頃到着するとの事で、それからだそうです」
「まあよい。 分かってはいたが、これは攻城戦だ。 腰を据えてかかるぞ」
七度目の波状攻撃が撃退されたのを見ると、ラーストは周囲に指示を飛ばし、編成を終えていた第六連隊を再投入した。大威力の召喚術を使いこなす召喚師を数名含んだ部隊で、出来れば敵の一角を崩せればいいとラーストは考えていた。だが、考えが甘い事を、すぐに思い知らされた。
敵陣から二体の巨大な人影が現れ、剣を振るっていきなり召喚師達を斬り殺したのである。更には縦横に暴れ回り、混乱と同時に敵が突撃する。
「あの化け物は何だ!?」
「シルターンの鬼神かと思われます! 他の鬼神とは段違いの強さのようですが」
「このままでは被害が大きくなるばかりだ。 第四連隊、第七連隊を投入、撤退を援護させろ。 第六連隊は後退だ!」
ラーストの指示で、すぐに第四、第七連隊が敵を側面から敵を圧迫、第六連隊はその隙に何とか逃げる事が出来た。だが大威力の召喚術を使いこなす召喚師が複数倒され、被害は甚大である。対し、敵は悠々と陣地に戻り、味方の死体を回収していく余裕さえ見せていた。
「ちいっ! 敵は召喚師の弱点を知り尽くしているな」
ラーストは吐き捨て、机に拳を叩き付けた。
東部戦線の蒼の派閥軍は、やられてばかりではなかった。攻撃を集中するように指定されたポイントでは、一進一退と言って良い攻防を繰り広げていたのである。ただ、狭隘な地形であり、大軍を投入する事は出来なかったが、敵に着実な被害を与える事が出来た。兵力差からいっても、これは後々、徐々に効いてくる事が疑いない。ラーストは報告を聞き、重畳至極と言うと、後は指揮に戻った。
西部戦線を担当する金の派閥軍も、似たような情況であった。ただ違ったのは、パムフ将軍は常に最前衛で戦い続けていた事である。そろそろ老境に入ろうかというパムフであったが、その勇猛さに陰りはなく、最前線で味方を叱咤激励し続けた。手にしたグレートソードは、得体の知れない血に柄まで染まっていた。
ただ、その激しい戦いぶりから、当然味方の被害も甚大であった。既に三百名近くが戦死し、しかもそれはまだ増えつつある。激しい攻撃に及び腰になるのはむしろ味方で、返り血を浴びて立ちつくすパムフを見て、尻込みする召喚師も多かった。
最前線に出ると、パムフは獣となる。彼が最も得意とするのは全面攻勢だが、それは常に最前線に立ち、戦場の動きを把握し続けていると言う事が大きい。犬のような悪魔の突進をタワーシールドで防ぐと、脳天を大剣でたたき割り、鮮血を振り落としながら言う。
「敵に休む隙を与えるな! 突撃、突撃、突撃、ただ突撃だっ!」
最前線で戦い続けるその姿は確かに立派であったが、同時に不要な損害も加速していった。やがて、副官が暴れ回る彼の横に駆け寄ってきた。
「パムフ将軍! ラースト将軍より使者です!」
「うむ! どうした!」
「言付けです。 《敵はまだ本気で戦っていない。 張り切りすぎるな》との事です」
「ちいっ! 余計な事を! ……だが、確かにその通りだな」
敵には切り札がある事を思い出し、パムフは舌打ちした。一旦彼は後退し、陣地に戻って鎧を代えた。鎧は大小の傷に覆われており、如何に激しい戦いを経てきたか一目瞭然である。幾つか負った傷を手当てさせながら、パムフは言う。
「戦況は?」
「敵陣地を突破出来ません。 味方の被害は増えるばかりです。 ただ……」
「ただ、なんだ」
「集中攻撃するように指定された例の地点では、そこそこに味方が良い戦いを展開しております。 徐々に敵の被害も増しています」
パムフは頷くと、新しい鎧を着込み、外に出た。朝早くから始まった戦闘は、既に五時間以上に及んでいる。太陽は高く登り、影は短くなっていた。
前線で激しく戦う彼は、換えの馬を複数用意して常に戦いに望んでいる。二頭目の愛馬に跨ると、返り血をふき取ったグレートソードを抜く。そして戦いに戻ろうとした彼の足を、爆音が止めた。
「何事だ!」
叫びながら、パムフは見た。攻撃を終え、一旦後退して再編成に移っていた部隊の真ん中から、火柱が上がるのを。副官に聞くまでもなく、彼は悟っていた。
敵が、本気になったと言う事を。
「一体で、一千の兵士に匹敵する怪物のお出ましか。 東部戦線西部戦線会わせて全部で四体か」
「パムフ将軍!」
「狼狽えるな! かねての指示通りに動け! 死にたくなければ、はやくしろ!」
防御陣地の最前衛で、指揮を執っていたラーマの元に、その指示が来たのは昼少し前だった。ラーマに敬礼すると、無色の派閥員は、緊張した面もちでいった。
「同志ラーマ様! 同志オルドレイク様からのご指示です!」
「ええ」
「敵が一時後退した隙を狙い、獣王クラス召喚獣の火力を完全解放、一斉反撃に出るべし、との事です」
「お疲れさま。 少し後方で休んでいなさい」
ゴルゴンズルクに跨りながら、ラーマは敬礼した。すぐ脇には、ガルトアラーズが飛来する。背には、既に臨戦態勢のトクランが乗っていた。二人は一旦東へ飛び、森の最南端である最前線の一角へ移った。其処には、既にザプラとクジマが待っていた。クジマの護衛獣ゼンキとゴキが血にまみれているのを見て、ラーマが言う。
「同志クジマ、ダメでしょう、指示がある前に暴れちゃ」
「すまない。 つい、二人を投入してしまった」
「同志ラーマ、そのへんにしてあげてよぉ。 それよりも、いよいよだね」
「ああ。 いよいよであるな」
クジマが、トクランが、ザプラが口々に言う。四人は頷きあうと、既に待機していたロックスワロウの背に飛び乗った。鬼神達二体は、それぞれがロックスワロウの背を借りた。ゴルゴンズルクは長距離の飛行が出来ないため、三体のロックスワロウが協力して持ち上げた。
四人が暴れる地点は、既に指定されていた。再編成中の兵士達がいる、前線よりも若干後方の地点である。ロックスワロウは天を駆け、四人を素早く搬送していった。空に何か居る事に、兵士達が気付いたときにはもう遅かった。
「誓約においてぇ、トクラン=メルキリウスが命じる! 全てを滅ぼせ、偉大なる溶岩竜王、破壊の女帝ゲルニカ!」
「誓約において、ラーマが命ずる! 蹂躙し、滅ぼし、業火の中へたたき込め! 美しき大魔将、ツヴァイレライ!」
「誓約において、ザプラが命ずる! 神々の恐れを浴び、今伝説を再現せよ! 機界の破壊神、ヘカトンケイレス!」
「誓約において、クジマが命ずる! 汝の敵は仙界の敵! 粉砕し、叩き潰し、そして無へ帰せ! 大いなる門番、開明獣!」
密集した兵士達の間から、四本の火柱が上がった。ゲルニカが超高熱の炎を逃げまどう兵士達に浴びせ、地面に凄まじい音と共に着地する。開明獣が十個の口を開き、破壊音波を地面にまき散らす。ヘカトンケイレスの六本の腕が発光し、無数の雷を辺りへと投擲する。そしてツヴァイレライがニデルクに跨り、目にもとまらぬ早さで手当たり次第に兵士を切り伏せていった。無論召喚師達も己の最強の業をぶつけているが、殆どのれんに腕押しであり、見る間に蹴散らされてしまう。
百人、二百人、二百五十人、秒刻みで兵士が命を落としていった。凄まじい業火が、炭になる暇さえ与えず不幸な兵士を蒸発させる。ツヴァイレライの槍が、数人ずつまとめて兵士を貫いていく。開明獣の音波を浴びた者は、文字通りの紅い霧となってしまった。ヘカトンケイレスの放つ雷は、辺りの人間を片っ端から焼き尽くし、なぎ払っていった。
「た、助けてくれーっ!」
「いやだ、死にたくない、死にたくないーっ! ぎゃあああああああああああっ!」
兵士が絶叫し、逃げまどう。即死出来た者はむしろ幸運で、体の半分を焼かれた者や、膨大な雷撃が体をかすめた者は苦しみながら息絶えていった。膨大な恐怖が、辺りに充ち満ちていく。それは渦を巻き、迷霧の森の周囲を漂う。魔力を見る事が出来る者達は見た。膨大な負の精神力が、森の中枢へと引き寄せられていく様を。
「うん?」
最初に異変に気付いたのはトクランだった。ゲルニカの上に立ち、辺り構わず焼き払わせていた彼女は、敵が組織的な反撃に出た事に気付いたのである。一時の混乱から立ち直ると、敵は小集団ごとに別れ、ヒットアンドアウェイを基本の機動戦を開始したのである。
ゲルニカの炎が、敵の一集団をまとめて焼き尽くす。しかし敵は細かい部隊に別れ、与えうる打撃効率は著しく低下した。また、彼らはゲルニカには目もくれず、トクランのみを狙って矢を大量に放ってきた。鬱陶しげに矢を払い落としつつ、トクランは言う。
「流石に戦争のプロ。 金の派閥の無能共とは違うね。 やる事分かってるじゃんか」
だが、トクランにしても、それは予想の範疇内だった。彼女はガルトアラーズの背に移ると、さらなる猛攻を開始した。上級ドラゴン二体が手当たり次第に暴れ回り、辺りは惨劇の地とかした。
敵は新たな策に出たとはいえ、恐怖を完全に殺しきれるわけもない。圧倒的な獣王クラス召喚獣の実力は、兵士達の肝を冷やさせるに充分であり、やはりある程度及び腰になった。そして、怯えを湛えた兵士は、真っ先にゲルニカに踏みつぶされていった。
蒼の派閥、金の派閥軍の四カ所で、同じ光景が展開されていた。
「それにしても、何という化け物だ」
暴れ回るヘカトンケイレスを見ながら、ラーストは呟いていた。一旦敵陣への攻撃を中止し、高速機動一撃離脱戦法を主に立ち向かってはいるが、それにしても凄まじい敵である。ただし、長時間は展開出来ないと言う報告も聞いているので、それが救いだ。
一部の部隊は潰走状態に陥っており、陣を立て直すのにラーストも必死だった。容赦のない猛攻で、敵もかなりの損害を出しているはずだが、これは後の世の者達に誇れない戦だと、ラーストは自嘲していた。
「エクス様が動き出した模様です!」
「ようやくか。 さて、戦況はどうなるかな……?」
腕組みして、ラーストは言う。自陣に、また一つ火柱が上がった。
2,乾き果てた森の戦い
綾達フラット・アキュート連合軍が戦場の後方に到着したのは、無色の派閥軍による一大攻勢が開始された直後だった。陣から火柱が上がり、悲鳴がとどろき渡る。混乱し、右往左往する彼らを見て、ガゼルが呟く。
「ひでえな……」
「ああ。 だが、これが戦争だ」
ラムダが言い、近づいてくる人影へ視線を移した。現れたのは、蒼の刃の隊員十名ほどと、グラムスであった。
「お待ちしておりました」
「エクスさんはどこですか?」
「エクス様は、派閥長カンゼス様と共に、既にスタンバイしております。 これから貴方達を案内した後、時間差を付けて迷霧の森へと潜入する手はずが済んでおります」
綾の言葉に、グラムスはよどみなく応え、すぐに部下を手配して森の西へと走らせた。綾達は森の東へと移動したが、その途中も、陣地からは火柱が上がり続けていた。凄まじい破壊力の召喚獣が暴れ回っている様子が、戦場の外縁部からもよく見える。兵士達の悲鳴に、モナティは思わず耳を塞ぎ、ジンガも俯いていた。
森の一番東は、小高い崖のようになっている。大軍が侵入しようとするとすぐに気付かれてしまうが、少数で一気に突破すれば内部に入れる可能性がある。無論それを成功させるには、崖の上の拠点を維持しうる使い手が居る事が必須だ。しかもそれが前線を維持している間に、後続が崖を登り切り、合流して森の奥へと駆け抜ける必要があった。通常であれば特殊部隊でも尻込みする、難度の高い任務である。口をつぐんで考え込む綾に、ラムダが言った。
「ぎりぎりまでお前は手を出すな。 何とか、俺達で道を切り開く」
最初に崖を登り終えたのは、綾とラムダ、それにカシスであった。続いてアカネが登り切り、素早く皆を呼ぶ。崖の上に半分ほど登り終わった所で、敵の声が響いた。
「敵……!」
叫んだのはまだ若い男であったが、その服は返り血に染まっていた。無言のまま間を詰めたラムダが、鳩尾に拳を叩き込み、気絶させて近くの樹下へと放り捨てた。周囲に、殺気が充満し始める中、一斉に皆が武器を抜きはなっていた。
茂みをかき分けて、蠍に似た姿の悪魔が現れる。続けてその後方から、数体の悪魔が現れた。真っ先に迎撃しようとしたラムダの足が止まったのには理由がある。閃光が奔り、先頭の悪魔が真っ二つになったからである。鮮血を吹き上げ崩れ落ちる悪魔、尻込みする他の悪魔達を見据えたまま、現れたその存在は言った。
「助太刀に駆け参じました。 アヤ殿」
「サビョーネルさん!」
「イムラン様からの御伝言です。 我々では到底役には立てないから、役に立てる人材を送る。 ささやかな礼だが、是非活用して欲しい、との事です」
「有り難うございます。 とても心強いです」
小さく頷くと、サビョーネルは残りの悪魔達を無言で淡々と斬り伏せていった。ラムダとアカネがそれに加わり、敵の第一陣は殆ど間をおかずに壊滅した。だが、後続が控えているのは間違いない。レイドが味方を叱咤し、素早く崖を登るように促した。周囲を警戒しながら、アカネが言う。
「方角確認終了! 急いで急いで! また敵が来るよっ!」
何とか全員が崖を登り終えたのが、十分ほど経った頃であった。素早く隊形を組み直すと、サビョーネルを加えた連合軍は、森の中へと疾走した。最初の半分ほどの距離は殆ど敵も居なかったが、丁度真ん中ほどの地点で強固な壁が出現した。悪魔を中心とした部隊が、簡単な陣を引いて待ちかまえていたのである。敵中には体長八メートルほどのドラゴンが一体含まれており、目からは凶暴性が、口からは火の粉が漏れていた。前に出ようとする綾を、レイドが制する。ガゼルが油断無く敵との間を詰めながら言った。
「いいから、力を温存しろ! ギリギリまでな」
苦しく長い戦いの、これが始まりであった。
ドラゴンがその巨大な体を震わせ、咆吼した。その口の中には炎が宿り、一瞬の空白の後、灼熱のブレス(息)が放出される。レイドが自らも逃げながら絶叫した。
「散開しろ! 正面には絶対に回るな!」
灼熱の炎が地面を舐めつくし、土が溶解して煙が上がった。その隙に、全員が悪魔との間合いに入り込み、敵との相対距離をゼロにする。各々が死力を尽くして悪魔と戦いつつ、ブレスを吐くタイミングを計るドラゴンへ距離を詰めていった。悪魔を切り伏せるレイドに、アカネが絶叫する。
「三時方向に敵影! 数、およそ三十!」
「分かった! アヤ、どうする!?」
「このままだとどんどん増援が現れます! 不利な体勢になりますが、現状の敵を撃破してから強行突破しましょう!」
「うむ!」
地面を蹴ったレイドが、自らジグザグに走りつつ、ドラゴンへ間合いを詰める。ドラゴンはそれに対して、小さな火の玉を複数、叩き付けるようにはき出した。火球が不幸な悪魔を直撃し、或いは地面で炸裂し、辺りが紅蓮に染まる。一声吠えると、レイドは跳躍、ドラゴンの首に斬りつけた。硬い鱗が件を跳ね返し、五月蠅そうに前足を叩き付けるドラゴン。飛びずさると、レイドは剣を構え直し、もう一度突貫した。それに対し、後ろ足だけで立ち上がると、ドラゴンは再びブレスを吐く。大地を灼熱の炎が覆った。
一瞬の空白の後、悲鳴を上げてドラゴンが後ずさる。ギリギリで今の一撃を避けたレイドが、剣を腹に突き立てていたからである。丁度鱗の継ぎ目を抉った一撃であり、鮮血が辺りに振りこぼされる。尻尾が唸りを上げて飛び、よけ損ねたレイドをはじき飛ばす。だが、地面に転がりながらも、レイドは叫んでいた。
「今だ、ジンガ! セシル!」
「おおっ!」
レイドの影から飛び上がるようにして、ドラゴンへ突進したのはジンガだった。彼は絶妙のタイミングで、刺さったままの剣に強烈な蹴りを叩き込んだ。剣が更に奥へ潜り込み、苦痛に吠えるドラゴンが蹌踉めき、頭を下げる。そして、二度と頭を上げる事はなかった。跳躍したセシルが、隕石のような勢いで、竜の脳天にストラ拳を叩き込んだからである。閃光が爆発し、二秒ほどの静止の後、ドラゴンは横倒しに倒れた。
主力であるドラゴンを失い、四散した敵には構わず、綾達は更に森の奥へと走った。後方からは、先以上に有力と思える敵が追ってくる。時々とって返して反撃しつつ、また前方から現れる敵を蹴散らしつつ、死の行軍は続く。サビョーネルの働きは図抜けていたが、しかし彼としても周囲の者達と比べて絶対的に強いわけでもない。味方と丁寧に連携して、敵の急所にナイフを叩き込んでいくガゼル。圧倒的なパワーとタフネス、絶倫の技量で悪魔を切り伏せるラムダ。容赦のない戦いぶりで、敵をねじ伏せていくカシス。モナティとエドスは巨大な獲物を振り回して敵を寄せ付けず、ガウムはモナティの周囲を飛び回って死角に回ろうとする敵をはじき飛ばす。ローカスはトリッキーな剣で、イリアスは閃光が如き高速剣で、カザミネは熟達した達人の業で、敵を切り伏せる。ペルゴの槍が唸り、悪魔の眉間を差し貫く。スタウトの投擲したナイフが、鬼神の喉を貫く。カイナは常時十体ほどの鬼神を呼び出して周囲を援護し、ミモザとギブソンは互いの背中を護りながら、接近戦闘組を的確に援護する。エルカは枯れ木の周囲を飛び回って、空を飛ぶ悪魔を迎撃、何体も叩き落とした。エスガルドはエルジンを護りながら、ドリルで敵の頭をたたき割る。ジンガとセシルは今の戦いで多少消耗はしていたが、それでもその拳に陰りはない。レイドは自らも戦いつつ、彼らを確実に指揮していた。綾も力を温存しつつ、近寄る悪魔達を一蹴、寄せ付けなかった。
時々現れる大悪魔さえ危なげなく撃破しながら、連合軍は前進していった。敵に組織的な防衛体制を整えられたら終わりだから、今回の行軍は時間との勝負である。だが流石に、無傷で敵を突破出来るわけもなかった。最前衛で悪魔を切り伏せていたラムダが眉をひそめる。隣で戦っていたエスガルドが、ドリルを振って返り血を落とし、無機質に言った。彼らの前には、キャタピラで前進するロレイラルの召喚獣が四台いた。上部にはミサイルポットが設置されており、左右には砲も取り付けられていた。枯れ木を踏みしだくキャタピラの音が、辺りへ響く。それは音化した威圧と恐怖だった。召喚獣の側には数人の無色の派閥構成員がおり、細かく指示を出している。
「マズイナ。 アレハ、1022式自律思考型陸上戦闘車両ダ」
「手強いのか?」
「ウム。 エルジン! 私ノ後ロニ!」
召喚獣を何とか操って戦っていたエルジンが、慌ててエスガルドの背後に逃げ込んだ。キャタピラを不敵に回転させながら、カーキ色に塗装された1022式自律思考型陸上戦闘車両は連合軍へ接近し、ミサイルポッドをせり上げた。その周囲には随伴歩兵の役目を果たす悪魔達が分厚く壁を創っており、その中には空を飛ぶ輩もいる。隙が見いだせず、スウォンが弓を下げて舌打ちした。車両の少し後方に控えている無色の派閥召喚師が、一気に手を振り下ろしていた。同時に、最前線に綾が躍り出ていた。手近な悪魔を二三体切り伏せると、彼女は叫ぶ。
「みんな、下がってください!」
「ミサイル斉射! 一匹たりとも生かして帰すな!」
『二つの力を同時使用するのは初めてですが、試してみます!』
綾が印を組み終えるのと、戦闘車両がミサイルを発射するのはほぼ同時。虚空を切り裂き、発射された小型ミサイルの数はおよそ二百。煙を引きながら、それは空中で軌道を変え、全てが綾に襲いかかった。無数の煙が空中に軌跡を書き殴り、ミサイルが飛翔する音がレクイエムのように辺りを覆う。そして、それらは一発残らず、最前線で立ちつくし、強烈な蒼い光を放出し続けている綾を直撃した。
凄まじい爆発が連鎖し、轟音と閃光が辺りを圧する。紅蓮の炎が大地を焦がし、濛々たる煙が周囲に充満し、悪魔達でさえ下がって固唾をのんで様子を見守った。
辺りに満ちた、枯れ木が燃える音。その中、響くのは無色の派閥構成員の笑い声。だが、それが不意に止んだ。高笑いが止まったのには、当然理由があった。無色の派閥構成員は、あまりな光景に引きつっていた。
「……ば……ばか……な!」
煙の中から、無傷の綾が現れた時点で、悪魔達も、周囲の召喚師達も、戦意を喪失していた。後ずさる召喚師、背中を見せて逃げ出す下等の悪魔。綾は額の汗を拭うと、頭上のリピテエルを見上げた。因果律操作でミサイルを全て自分に集めつつ、リピテエルを呼び出してシールドを展開したのである。実戦で試すのは初めての業であったが、それでも満点に近い出来であった。服に付いた埃を払いつつ、彼女は小さく息を吐き出していた。精神疲労は大きいが、今無理をしなければいけなかったのだ。
『因果律操作と召喚術の併用、何とか上手くいきました。 消耗も乗数的ですが、まだなんとかやれます』
奇声を上げつつ、やけになって突っかかって来る悪魔を、振り向きもせずに斬り払うと、無言のまま綾は下がった。対し、彼女の仲間達が最前線に躍り出、逃げ腰になった敵を片っ端から切り伏せていった。エスガルドが突貫、戦闘車両にドリルを叩き込む。更にカシスの召喚した巨大な剣がミサイルポットを貫通し、哀れな兵器は二機同時に爆発炎上した。残りの二機は、怯えるようにキャタピラを回転させて後退に転じ、転がるように無色の派閥構成員が逃げていく。一人は爆発に巻き込まれ、炎上する戦闘車両の隣で炭になっていた。逃げ出した者達は確かに臆病であったが、それを責める事が出来る者は、果たしていただろうか、いやいない。手近な敵を全て切り伏せると、少しふらついている綾にローカスが叫ぶ。激しい戦いで、彼の剣も服も、既に朱に染まっていた。伊達男が台無しであるが、周りの者達も皆似たような情況だった。レイドも、剣を振って返り血を落とし、心配げに歩み寄ってきた。
「大丈夫か! 凄まじい業を使ったようだが!」
「はい! まだ行けます!」
「よし! フォーメーションをDへ変更! そのまま目的地へ前進する!」
精神疲労と消耗が激しいエルジンや、激しく木々の間を飛び回って下にいる悪魔達にナイフを叩き付けているエルカを一旦休憩に移らせ、内側に庇うと、レイドは素早く陣形を再編、再び森の中へ行軍を開始した。逃げ腰になった敵に代わり、気合い充分な新手が現れるまで、そう時間は掛からなかった。人間は殆ど居ない、悪魔中心の戦力だが、数体の大悪魔も含まれている。果てしない消耗戦、だが、着実に目的地との距離は縮まっていたのである。
カギムシによく似た大悪魔が、口から酸の唾液を垂らしながら、凄まじい勢いで突貫してくる。連合軍もその威容と巨体に恐れることなく、間を詰め各々の武器を叩き付けた。
フラット・アキュート連合軍が迷霧の森に突入してから、少し時間差を付けて、蒼の派閥特殊部隊が迷霧の森へ突入した。パッフェルが指揮する十五名の蒼の刃隊員と、エクス、それにカンゼスで構成された十八名である。カンゼスはロレイラルの獣王クラス召喚獣機竜ゼルゼノンを使いこなす事が出来、周囲が援護さえすれば大砲として機能する。ゼルゼノンはゲルニカにも匹敵する超破壊力を持つ召喚獣であり、その実力は言語を絶する。また、エクスも獣王クラス召喚獣である海帝竜エイヴィスを使いこなす事が出来、周囲が援護さえすれば充分に強い。
現在、無色の派閥が保持する獣王クラス召喚獣の使い手五人のうち、四人が前線で暴れている。残る一人であるオルドレイクは、前線で姿が確認されておらず、魅魔の宝玉とバノッサを護りつつ総指揮を執っている事がほぼ疑いない。更には、以前の打ち合わせ通り誓約者が敵の注意を引いていてくれるため、敵へと比較的安全に接近する事が可能であった。だが、どうしても敵との戦いは避けられなかった。
数体の悪魔を、寄ってたかって切り伏せる。逃げようとする敵も、容赦なく背中から斬る。戦い方としては、正しい物であった。悪魔や人間の死体を面倒くさげに避けて歩きながら、カンゼスは言う。
「また、随分と敵が少ないな。 これでは張り合いがないという物だ」
「派閥長、敵は我らが同盟者が引きつけていてくれているのです。 彼らの行為を無にせぬ為にも、急ぎましょう」
「同盟者? 首領は誓約者だそうだが、それを差し引いてもたかが二十名ほどの人間が対等な同盟者だというのかね? ふっ、くくくくくくくくっ! エクスよ、ビルイフに言われた事を思い出したらどうだ? もっと大人になりたまえよ」
「急ぎましょう。 早くしないと、敵が来るっすよ」
カンゼスの暴言に俯くエクスを庇い、パッフェルが言った。鼻を鳴らして蔑みの目で彼女を見ると、カンゼスはさっさと前に歩く。その背中を、パッフェルは氷点下の視線で突き刺していた。彼女は声を落とし、エクスにだけ聞こえるように言った。
「……やっぱり、死ぬなんで言わないでくださいよぉ。 私、あんな奴らの下につくのなんてまっぴらっすから」
「だが、私も何かしら責任は取らねばならないさ」
エクスは自嘲気味に応え、派閥長の後を追った。数度の戦いを経て、慎重に敵陣の間を縫いながら、彼らは敵の本陣、即ち祭壇に達した。その時には六度の戦闘を経ており、四名の蒼の刃隊員が殉職していた。
祭壇は立ち枯れた木に囲まれた円形の広場で、地面は良くならされており、幾つかの防御施設が構築されていた。その中央には、石造りの大きな円盤があり、その上に巨大な円柱状の石が乗せられていた。円盤には複雑な文字が無数に書き込まれ、周囲の戦によって発生する負の感情が、絶え間なく流れ込んでいた。
そこにはオルドレイクがおり、他に数名の人間が居た。蒼の刃隊員達はすぐに隠れ、パッフェルは、祭壇の側にある、白い色の奇怪な塊を視線で指して言う。それは生物のようであったが、直径は数メートルに達し、時々痙攣していた。
「なんっすかね、アレ」
「……分からないが、強烈なサプレス系の魔力を感じる。 それに、もう隠れている意味はないようだな」
エクスが立ち上がるのと、オルドレイクが振り向くのは同時であった。無色の派閥の隊員達が剣を抜き、或いは槍を構える。やがて、最初に発言したのはオルドレイクだった。
「ほう。 誓約者自体をおとりに使ったのか。 相変わらず姑息だな、エクスよ」
「何とでも言え、オルドレイク。 ……もう降伏しろ。 今此処には私と派閥長、二人の獣王クラス召喚獣の使い手が居る。 貴様が如何に常識外の強さを持っていても、我らには勝てない」
「それがどうかしたか? 三体なら脅威にもなるが、お前達程度の実力で、二体なら何とかなる」
「バカが、やはりお前はただの狂人だな」
せせら笑い、前に出たのはカンゼスである。周囲の蒼の刃隊員達が、パッフェルの指示で慌てて周囲に展開する。絶対的な優位を確信して、カンゼスは目にサディスティックな光を宿した。故人であるビルイフほど強烈な金の亡者ではないカンゼスだが、内に秘める残虐性はそれを凌ぐ。舌なめずりさえしながら、山羊に似た髭を持つ蒼の派閥派閥長は下劣な言葉を垂れ流した。
「くくくくくくっ。 降伏したら許してやろう。 無論薬漬けにして、生体兵器開発の素材にさせて貰うがな。 ……そう言おうと思っていたのだが、貴様にはそんな価値すらもないな。 我がゼルゼノンの力で、灰も残さず消し飛ばしてくれるわ」
「やれるものならやってみるがよい」
「おうとも! 言われずとも、やってやるわ!」
不敵に笑うと、オルドレイクは大剣を引き抜き、部下達へ下がるように促した。オルドレイクと、エクスとカンゼスが呪文を唱え、印を切るのはほぼ同時。召喚獣を呼び出したのはオルドレイクが最初であったが、圧倒的に早いわけでもない。コンマ五秒もおかず、エクスもカンゼスも召喚術を完成させ、召喚獣を呼び出していた。この辺は、流石に召喚術の世界的な権威であると言えよう。
「誓約において、オルドレイク=セルボルトが命ずる! 千の神雷にて、我が敵を掃討せよ! 巨なる瞳の大天使、プラミュデセス!」
「誓約において、エクスが命ずる! 現れ出でよ、海の皇帝! 深遠たる長き竜、静かなる力の持ち主! エイヴィス!」
「誓約において、カンゼス=プルートが命ずる! 壊し、潰し、噛み砕け! 機界の守護竜、大いなる文明の使者、機竜ゼルゼノン!」
おののき、下がる蒼の刃隊員、それに無色の派閥構成員達。彼らの前には、ウナギのような姿をし、額から巨大な角を生やしたエイヴィス、鋼鉄で出来た巨大なる竜ゼルゼノン、そして巨大な目玉の姿をしたプラミュデセスが現れていたからである。最初に動いたのはエイヴィスであり、プラミュデセスの投じる雷を受けつつも、ひるむことなくその長大な体で巻き付いた。大天使は高く飛翔し、巻き付いた敵を激しく地面に叩き付けるが、エイヴィスは余裕を持って耐え抜き、敵に噛みつく。だが大天使の肌も簡単には破れず、全身から雷撃を放って巻き付く竜へ浴びせた。死闘を繰り返す二体を後目に、地面に降り立ったゼルゼノンは、オルドレイクを見て咆吼する。金属で出来た体は淡く発光しており、ダークグレーに塗装された機体は、具現化された暴力という事実を周囲の者達にアピールしていた。だがオルドレイクも、そしてその背後にいる者達も逃げようとはしなかった。
「さて、楽しませて貰おうか。 獣王クラス召喚獣とて、己の世界でなければ、最強でも無敵でもないと思い知るが良い」
オルドレイクが不敵に笑い、そして地面を蹴った。機竜との間が、見る間に縮まっていく。カンゼスが、つばを飛ばして叫んだ。
「殺せえええええっ!」
鋼の竜が、全身から無数の兵器をつきだし、猛き吠え声を轟かせた。迷霧の森の奥にて、殺意の炎が上がり、終末の宴が今此処に開始されたのである。
3,塔の力保持者VS機界の破壊竜
機竜ゼルゼノンの全身から、無数のミサイル、ビーム兵器、更には砲が突き出す。オルドレイクは知っていた、ゼルゼノンがメイトルパのドラゴン、しかも帝竜族をベースに創られた殺戮兵器だと。だが、その力を行使するのはあくまでロレイラルに限られており、リィンバウムでは若干力が制御される。それを差し引いても、一千の兵士に匹敵する力の持ち主だという事実に変化はない。
後方には、魔法的な最終調整が済み、後は時を待つだけのバノッサが居る。もう誰が見ても人間に見えないが、それでもまだ彼は人の心を残していた。つまり、もうしばしの精神的な調整が必要になる。誓約者とその一味との戦闘がある事を加味し、トクランら幹部達が暴れた後に戻ってくる事も加えると、勝負は五分五分である。間を詰めていくオルドレイク、それに対し、先手を取ったのはゼルゼノンだった。全身を振るわせると、小型ミサイルを乱射する。無数のミサイルが、オルドレイクに空気を切り裂きながら迫る。対しオルドレイクは走りながら印を切り、左手をつきだした。同時に、紅い光が吹きだし、彼の手を頂点に円錐形に広がりながらミサイルを迎撃した。
「ぬううんっ!」
ミサイルが爆発する。煙幕を切り裂き、オルドレイクは更に接近するが、機界の竜は流石に簡単には近づけさせてはくれない。背中に装備された二門の大砲が火を噴き、オルドレイクの至近に着弾する。更には両腕に装着された砲が回転しながら火を噴き、オルドレイクの姿は煙の中に消えた。
「ひははははははは! 大口を叩いておいてその程度か!」
カンゼスの笑い声が響く。オルドレイクも、流石に獣王クラス召喚獣を呼び出しつつ塔の力を使うのは酷であり、煙を斬り破りながら舌打ちしていた。取り合えず直撃弾はないが、疲労は激しい。現れたオルドレイクを見ても、ゼルゼノンは別に驚く事もなく、口を開いて巨大な砲をせり出した。更に地面に両手をつき、尻尾を地面と並行にする。ハンマーで壁を叩くような音がしたのは、地面に杭を打ち込み、自らの体を固定したからだ。両手両足だけではなく、尻尾もその節ごとに杭を地面に打ち込み、体を固定する一助にしている。砲が如何に凄まじい反動を産み威力を持っているか、これだけでも明らかだった。容赦なく、砲へ光と粒子が収束していく。それに対し、オルドレイクは態勢を低くし、居合いのような構えを取った。地面すれすれに構えたサモナイトソードに、紅い光が集まっていく。ゼルゼノンの光も徐々に高まり行き、そして両者は同時に爆発した。極太のビームが、ゼルゼノンの口から発射される。間をおかず、オルドレイクがサモナイトソードを振り、たまりにたまった紅い光を叩き付けていた。両者は丁度中間点にて炸裂、衝撃波と破壊的なエネルギーを周囲にまき散らした。地面が揺動し、枯れ果てた木々が吹っ飛ぶ。その中にあって、祭壇は微動だにしなかった。その麓に蹲るバノッサも然り。
「ひははははははは、はははははははははは! どうだ、オルドレイクよ! 我がゼルゼノンの力は! 破壊の竜の力は!」
ゼルゼノンの破壊力を、自分の物と勘違いしているカンゼスが、立ち上がりながら言った。数秒の空白の後、徐々に煙が晴れていき、その中から、オルドレイクが姿を見せたのである。相当な傷を負い、片膝をついてサモナイトソードを杖代わりにしていたが、まだせせら笑う余裕さえあった。
「ふむ、流石にゼルゼノン。 素晴らしい戦いだ」
まだ余裕を見せるオルドレイクに、ゼルゼノンは立ち上がると雄々しく咆吼した。再び両手についている砲が火を噴くが、今度はオルドレイクの反応が一瞬早い。かき消えるような早さで間を詰めると跳躍、斜めにサモナイトソードを走らせたのである。閃光が消えた後、機竜の右手は、砲ごと地面に落ち、爆発していた。苦痛に絶叫するゼルゼノンは、それでも尻尾を着地直後のオルドレイクに叩き付ける事を忘れない。バックステップしつつ、サモナイトソードを盾にするオルドレイクも流石に無事では済まず、勢いよくはねとばされ、地面に叩き付けられていた。
「がはっ!」
「キルルルルル……ルガアアアアアアアアアアッ!」
機竜の右手の切り口は、激しくスパークしていた。オルドレイクはゆっくり立ち上がると、多少ふらつきながらもサモナイトソードを構えなおした。両者の間の戦意が、再び爆発した。機竜が吠え、無数のミサイルが発射される。地面が立て続けに爆発し、その中を残像さえ残しながらオルドレイクが疾走する。無傷ではなく、飛び散った地面やミサイルの破片で傷つけられつつも、オルドレイクは再び間合いを蹂躙する事に成功していた。強敵との戦いがもたらす純粋な喜びに口の端をつり上げながら、オルドレイクは愛剣を機界の破壊竜へ叩き付ける。
「接近戦では、私の方が上のようだな!」
今度はゼルゼノンの左足から火が噴き出し、半ば千切れていた。バランスを崩した竜は横倒しになって絶叫し、だが下がろうとするオルドレイクも機竜が苦し紛れに振るった左手に弾かれ、数メートルを飛び祭壇に叩き付けられていた。地面にずり落ちるオルドレイク、祭壇に血の跡がはっきりとついた。激しく咳き込み、口を手の甲で拭いながら、それでもオルドレイクは立ち上がって見せた。機竜も流石に獣王クラス召喚獣、立ち上がれないがその目には炎があり、両者の間にたゆたう戦意の爆発はまだ続いていた。一方は生物、一方は機械、だが両者は誇り高き戦士という点で完全なる一致を見ていたのである。
戦いに巻き込まれて、倒れた枯れ木。蒼の刃の隊員達も、必死に地面に伏せ、カンゼスを護る事は半ば忘れている。また、エクスもエイヴィスを制御するのが精一杯で、プラミュデセスを出し抜いて此方に手を出すほどの余裕がない。オルドレイクにしてみれば、此処でカンゼスを斬るのは、或いは部下を指示して斬らせるのはたやすい事だった。
本当であれば、此処でカンゼスを倒してしまえば簡単に勝てる。だが、オルドレイクはあえてそれをしなかった。機竜は先ほどから戦いを楽しんでいる。自らと戦えるほどの存在と、なかなか会えなかった事は疑いがない。それはオルドレイクも同じ事である。オルドレイクもまた、強大なる機界の竜に最大限の敬意を表しつつ、己の全てを賭けて戦っていた。不器用な者達の、不器用だが誇り高き戦いが其処にはあった。
地面に剣を突き立て、印を切るオルドレイク。背中からアンテナをのばし、首をねじ曲げてオルドレイクから視線を離さない機竜。オルドレイクの全身から、今までにないほどの膨大な紅い光が迸るのと、ゼルゼノンが口の端をゆがめ、居丈高に吠えるのは同時だった。傷ついた体で、一心不乱に呪文を唱えるオルドレイク。それに対し、機竜はただオルドレイクを見据え続けている。そして、二人の頭上から、尋常ならざるプレッシャーが漂い来ていた。超常たる戦いの、次が最後の攻防になるのは、誰の目にも明らかだった。オルドレイクが眼を見開き、叫ぶ。
「行くぞ! 誇り高き機竜よ!」
「ルガアアアアアアアアッ!」
次の瞬間、真上から火の玉が一つ、超高速で降ってきた。オルドレイクは、その正体を知っていた。かって世界間戦争の際、ロレイラルがこの世界で打ち上げた衛星兵器に装備されたサテライトキャノン。機竜ゼルゼノンはそれにアクセスし、自在に操る事が出来るのだ。錐を揉み込むように地面に突き刺さった火の玉が爆発、瞬間的に土を蒸発溶解、地面に直径数メートルのクレーターを創る。罪のない枯れ木が再び吹き飛び、衝撃波にはり倒されたエクスが地面に叩き付けられてくぐもった悲鳴を漏らした。態勢を低くしながら、カンゼスはただ笑い続けていた。頭のねじがゆるんでいるのは確実だった。
「ひひはははははははは、素晴らしい! 素晴らしいっ!」
誰もそれには同調しない。機竜も咆吼することなく、静かに爆炎の中を見上げていた。サテライトキャノンの凄まじい火力に溶け、濛々と煙を上げ続ける地面。其処にオルドレイクの姿はない。オルドレイクの姿は、ゼルゼノンの頭上にあった。機竜がそれに気付くのと、紅く膨大な光を蓄えたサモナイトソードがその背に尽きたつのは同時だった。
今の瞬間、オルドレイクは精神放出能力も応用して一気に加速、次の瞬間サテライトキャノンが背後の至近に着弾していた。機竜は明らかにオルドレイクの動きを分析しており、スピードも算出していた。だがオルドレイクはそれを読んでおり、今まで以上の早さで動いて直撃を避ける事に成功していたのだ。
しかし直撃を避けてもなお、威力は凄まじかった。再び精神放出能力を応用して、オルドレイクは爆風に吹き飛ばされつつその威力を軽減、機竜を遙かに飛び越してなぎ倒された枯れ木の中へつっこんでいたのである。あまりにも激しい熱と爆発の中、誰もそれには気付かなかった。そして今、自分を捜していた好敵手の頭上へ跳躍、背中にサモナイトソードを突き立てたのである。背中からスパークを上げ、苦痛に絶叫する機竜ゼルゼノン。必死に暴れるも、片腕片足を失った彼では、オルドレイクを振り落とす事は不可能だった。対空砲が敵を探して回転するが、虚しく回るばかりで、オルドレイクの姿は発見出来ない。オルドレイクも額から血を流し、左腕は飛び来た破片に大きく切り裂かれて出血し、他にも体中を無数の傷に覆われていたが、恐るべき気力で精神力を振り絞り、にいと笑って見せた。
「これで終わりだ! 奥義! サウザンズ・ジャッジメント!」
それは、単純な精神放出能力ではなく、極限まで圧縮先鋭化させた精神力を、数十本の束にし、剣先から放出するという物であった。当然破壊力は常軌を逸しており、消耗もまた凄まじい。しかも、サモナイトソードの刀身は、半ばまでゼルゼノンに潜り込んでいるのだ。機竜の全身から光が迸り、体の各所で同時に連続して爆発が起こった。断末魔の悲鳴を上げつつ、地面に押しつけられるように倒れる機界の破壊者。慌てて飛び離れ、何とか着地するオルドレイク。その背後で、機竜が爆発した。紅蓮の炎が機械の体から上がり、それは祭壇を煌々と照らし続けていた。勝者であるオルドレイクを、祝福し、或いは畏怖するかのように。この世界の終末の訪れを、周囲に告げるかのように。
肩で息をつきながら、立ち上がったオルドレイクを、カンゼスは呆然と見ていた。既にプラミュデセスとエイヴィスは相打ちになるような形で、共に己の世界へ帰還している。程なく、丁度カンゼスの精神力切れになったため、ゼルゼノンもロレイラルへ強制帰還していた。あそこまで派手に破壊されると、流石に修復には相当な長時間がかかる事は疑いない。
「馬鹿な……ゼルゼノンが……ゼルゼノンが……!」
「年貢の納め時だな、カンゼスよ」
「ああこれは夢だ……夢に違いない」
「ならば、夢の中で死ね」
歩み寄ったオルドレイクが、無造作にサモナイトソードを振って、カンゼスの首を叩き落とした。数度転がって地面に落ちた首は、暫く口を開閉していたが、やがて動かなくなった。同時に、噴水が如く鮮血を吹き上げていた胴体も、前のめりに倒れる。ほぼ同時に、体勢を崩したオルドレイクが、地面に片手をついた。今まで遠く離れていた部下達が、慌てて走り寄ってきた。
「同志オルドレイク様!」
「問題ない。 理想世界を創らずに、同志たるお前達を其処へ導かずに、私は死ねぬのでな」
顔を上げたオルドレイクは、エクスを見据えた。エクスの前には、現在の蒼の刃の長であるパッフェルが立ち塞がるが、その顔には恐怖があった。無理もない話である。蒼の刃隊員達も、逃げ腰になってはいたが、その周囲に集まって人の壁を創った。部下達が見守る中、立ち上がったオルドレイクは、ゆっくりと其方に歩み寄っていく。観念した様子のエクス。だが、次の瞬間、不意に音程が狂った笑い声が響き渡っていた。
「ヒヒ、ヒヒャハハハハハ、ヒヒヒヒャハハハハハハハ!」
「……来たか。 随分早かったな」
もはやエクスには一顧だにせず、オルドレイクは振り返った。バノッサがあれほど楽しげに笑う事がどういう意味を持つか、考えるまでもなかった。案の定、オルドレイクの目には、吹き飛ばされた木々の中立ちつくす、誓約者の姿が映っていた。無論、その仲間達もいる。誓約者樋口綾は、サモナイトソードを振って血を落とすと、バノッサとオルドレイクを交互に見た。
「オルドレイクさん……それに……バノッサさん」
「侵入を予想し、あれだけ配置しておいた大悪魔達を一蹴するとはな」
オルドレイクの言葉とほぼ同時に、頭上から四人の人間がその場に降り立った。前線で充分に暴れ、敵を一時敗走に追い込んだトクラン、ラーマ、クジマ、ザプラの四名である。彼らを見、口の端をつり上げると、オルドレイクは言う。
「役者は揃ったようだな。 さあ、始めようか。 最後の戦いを!」
「もう、止めてください! これ以上、これ以上まだ人を死なせるつもりですかっ! 悪魔さん達だって、どれだけ傷つければ気が済むんですかっ! もう……もう止めてください!」
誓約者の口から漏れたのは、一人の娘らしい、優しい人間らしい感情的な言葉だった。元々情況を丁寧に整理出来、感情を分析出来る娘が、こんな感情的な言葉を言う事がどういう意味を持つか、オルドレイクにも充分理解出来ていた。だが、オルドレイクは寂しく首を振った。
「私の愛すべき同志達。 彼らの出自、もう知っているだろう?」
「……っ。 知っています」
「ならば何も言うな。 もう、語るべき時は終わったのだ。 世界が滅びるか、我らが滅びるか、二つに一つしかない。 それとも君は世界から、愚かな人間共から、彼らを護りきる事が出来るとでも言うのか?」
返答はなかった。オルドレイクは、乱れた呼吸を整えつつ言った。
「年こそ違うが、君と私はよく似ている。 私も、君も、護りたい。 ただ、それだけなのにな。 ただ、それしか望んではいないのにな。 そして、私には、これしか方法がないのだ。 そして君が自分の大事なものを護るには、私達を皆殺しにするしかない。 愚かしく、わかりやすい話ではないか」
再び、場には沈黙が満ちた。世界には、どうにもならない事がある。今この場面が、正にそれであった。環境さえ違えば、これ以上もないほどの友人になれたはず。互いを理解し合っている、同盟者になれたはずの存在。だが、今は互いを殺し尽くさなければ、己の望む未来を作れない存在であった。運命という物が如何に残酷か、如実に示す出来事であった。
「マテよ、オルドレいク。 其奴ハ、俺がコろスんだよ」
巨体を引きずり、両者の間に進み出るバノッサを一瞥すると、オルドレイクは任せると言って数歩後方へ下がった。エクス達は広場の縁を回って、誓約者側に合流している。後の味方は前線に出払っているし、第一そうではなかったとしても、彼らとぶつけるのは酷という物だ。しばし戦況を見て、確実に勝つべく必要なタイミングで動かなければならない。また、切り札になる自分自身の力を、出来るだけ回復しておかねばならない。
もう、感傷に浸る時間など、とうに終わりを告げていた。これから始まるのは、戦争だった。いや、殲滅戦だった。である以上、より弱き者達を護るためにも、同志達を救うためにも、彼は全力を尽くさなければならなかった。
それが、残酷なる現実だったのである。
4,歪んだプライド、一方的な愛情、そして真実の刃
一瞬、綾は現実が理解出来なかった。それは最初、白い無様な塊に見えた。それがバノッサだというのは分かっていた。バノッサの声も、それから響いていた。だが心の何処かが、現実を拒絶していたのだ。
白い塊が、ゆっくり顔らしき物を上げる。モナティが両手で口を押さえた。其処にあったのは、とんでもなく歪んでひずんで無惨な肉塊とかしつつも、間違いなくバノッサの顔だったからである。モナティが、綾にすがって悲鳴を上げた。震える彼女を、責める者など誰もいなかった。
「い、いやあああああっ! マスターっ!」
飛び出した目玉が、まるで玩具のように回転し、綾に焦点を合わせて止まった。耳らしき箇所まで裂けた口にはずらりと白い牙が列んでいた。体はかっての彼と同じく、病的な白に統一されているが、所々紅い筋肉が露出し、蠢いていた。顔も赤黒く、それが無惨さを更に助長していた。手も足も同じような太さになっており、六本、丸っこい体の横から生えている。更に体の最後尾には、申し訳程度についた二本の足があり、長く伸びた体を支えていた。その姿は、さながら巨大なクマムシである。言葉もない綾に、怪物化バノッサは言う。その側には、カノンが無言のまま控えていた。
「ヒ、ヒヒヒひヒッ! 良く来タナあ、はぐれ女ぁ」
「バノッサ……」
「どうダよエドス、この体ハ。 ヒヒッ、半端ナ覚悟じゃどウアがいテも勝てネエかラな、もう人間止メル事にシタぜ、完璧ニな! どウだ、こえエか、こえエだロっ! ヒヒヒヒャハハハははハハハハハハハハハ!」
拳を固めて俯いてしまうエドス。前に一歩進み出ると、綾は少しだけ視線を下げた。バノッサの背後には、見るだけでとてつもない使い手と分かる者達が四名、最低でもサビョーネル並みの実力を持つと一目で分かる護衛獣が四体居る。その上、少し後ろにはあのオルドレイクも控えているのだ。まともに正面からぶつかっても勝ち目はない。咳払いし、レイドが言う。
「どうする?」
「敵はおそらく、相当にコンビネーションになれています。 また、オルドレイクさんに指揮を執らせてしまっても、勝利は難しいでしょう。 ならば乱戦に持ち込んだ後、一人一人分断して、各個撃破する事を考えた方が勝機が見えてくるはずです」
「分かった。 此方は任せてくれ。 ……君はバノッサを楽にしてやってくれ」
「はい」
頷いた綾は、だが足を止めて振り向いた。疲弊した様子で、エクスが呼び止めたからである。肩で息をつきながら、蒼の派閥副派閥長は言う。
「パッフェル、君も参戦しろ。 アヤ殿、彼女も使ってあげて欲しい。 頼む」
「エクス様? まあ、私は構わないっすけど」
「このまま逃げるわけには行かない。 それに、彼らが負けたら、逃げた所で同じ事だ」
「よろしく御願いします」
軽く頭を下げると、もうそれ以上は振り返ることなく、綾は変わり果てたバノッサへ間を詰めていった。後ろの足四本で上体を起こすと、バノッサは前足二本をたかだかと振り上げた。腹部には魅魔の宝玉は見あたらず、また目印になるような物もない。また、このサイズだと、今は何処に入っていてもおかしくない。腰を落とし、下段に構える綾に、バノッサは一気に覆い被さるように襲いかかっていた。既に周囲では、乱戦が開始されていた。
「ヒャハハハはハはハ! さあ、コロス! 殺しテやるぜはグれ女ぁ!」
巨大な前足が地面に叩き付けられた。パイルバンカーを地面に叩き込むような音が響き、長大で黒々とした爪が空気を裂いて凶悪な悲鳴を上げる。少し後退し、最小限の動きでそれをかわした綾は、次の横殴りの一撃も、身を低くして同じようにかわす。更に上から叩き付けられた掌も、綾を捕らえる事は出来なかった。緩やかに下がりながら、綾はバノッサを、誰もいない方へと誘導していく。連続して叩き付けられる拳は確かに凄まじいパワーを持っていたが、まだ相手は本気ではないし、余裕を持って避ける事が出来ていた。
『様子を見ながら、戦況が見やすい所へ誘導した方が良さそうですね。 ……もし、私がバノッサさんに負けていれば、こんな悲劇は起こらなかったのでしょうか』
意味不明の言葉を呟きながら、バノッサはラッシュを掛けてくる。痛々しい姿であったが、爪を斬り払いながら、綾は同情を止めた。バノッサが望む勝利とは、綾の存在が消滅する事だ。そしてそれは、仲間達への冒涜になる。命をかけて、人を捨ててまで、護ろうとした仲間達への。色眼鏡無しに自分を初めて見てくれた、本当の仲間達への。それに、バノッサが魅魔の宝玉に手を出さなくても、他の(スペア)達が代用されたのは目に見えている。頭を振って、綾は雑念を追い払った。
やがて綾は、無数の枯れ木が散らばる足場が悪い地点までバノッサを無事誘導した。此処なら、乱戦状態の味方がよく見えるし、何より足場が悪いので巨体は動きづらい。人間の腕ほどもある舌を伸ばし、自分の顔をなめ回しながら、バノッサは言った。くるくると玩具のように回り続ける目玉が、無惨さを更に煽る。
「ヒ、ヒヒッ! 相変わラず論理的ニ戦うジャねえか、はグれ女」
「……」
「何度カ戦って、一つ分カった事がアる。 俺はお前ニハ、業でモ召喚術デも頭デモ勝てネえ。 だが、今の状態なラ、勝つ見込みガ一つあルンだよ」
「純粋なパワー、ですか?」
「ヒヒヒヒヒヒ! 察しが、良いじゃネエかっ!」
再び巨大な腕が一閃、綾が寸前まで居た木を砕いた。跳躍した綾は、次の瞬間反撃に出ていた。そのままバノッサの右に回り込むと、四本の手足を立て続けに斬り払ったのである。白い肌が傷つき、血が噴き出すが、バノッサは苦痛の悲鳴も上げなかった。ゆっくり振り返って、バノッサは再び舌で顔面をなめ回す。傷は、見る間にふさがっていった。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハ! 無駄だ、無駄無駄ァ!」
『なるほど、パワーゲームに持ち込むつもりですか。 確かに、スタミナに欠ける私としては、出来れば避けたい所です』
「気付いタって、もウ遅いんダヨっ! 今日はコロスだけジゃあスマさねエ! 頭かラ喰ってやルカらナ! 覚悟シろ!」
唸りを上げて迫る拳が、枯れ木を砂糖細工のように粉々に砕く。更に、腕は伸縮を繰り返し、間合いが不規則に変わり続けた。爪も伸びたり縮んだりし、通過した後はヤスリで研いだような斬れ跡が残る。単純に肉体的に強いという強みを最大限に生かし、バノッサは散らばる枯れ木の間を飛び回る綾を攻め続けた。何度斬っても再生するバノッサを見て、素早くバックステップすると、綾は思惑を組み立てる。息が大分上がり始めていた。
『魅魔の宝玉の力を体に作用させているとすると、性質は悪魔さん達に近いはず。 悪魔さん達の今までの傾向からして、よく似た生物の特徴を上手く取り入れているか発展させている事が殆どですね。 ならば超低温や超高温にも耐え抜くクマムシを模したバノッサさんは、少々の攻撃に耐え抜いて当然です。 内部から破壊するとなると、ヴォルケイトスかゼロ砲ですが、果たして通じますか』
突進してきたバノッサの一撃をいなし、再び綾はその側面を鋭く切り裂いた。すぐに傷は回復していくが、ある事に同時に気付く。勝機が見えた瞬間だった。彼女が呼び出せる四体の召喚獣の内、最適任なのは一番苦手なシュレイロウであるが、文句など言ってはいられない。印を切る綾に、バノッサは前足二つを組み合わせ、真上から飛びつくように襲いかかった。振り下ろされた拳は、地面を一メートル近くへこませる程の破壊力であり、盛大に砕かれた地面や岩が飛び散る。若干集中力が落ちていたため、それを避けきる事は出来なかった。跳ね飛ばされた綾は、枯れ木の欠片が積み重なる中に突っこんでいた。体が損傷したという情報が、頭の中に流れ込んでくる。額から流れ出した血を手の甲で拭うと、サモナイトソードを片手に何とか立ち上がり、ふらつきながらも印を切り続ける。対オルドレイク戦を考えると、これ以上消耗するのは絶対に避けなければならない所だからだ。肉体的な傷はある程度リプシーやプラーマで何とか出来るが、精神力の消耗はどうにもならない。傷ついた綾をみて、バノッサは前足の一本を向け、狂ったように笑った。否、既にバノッサの精神は、完全に暴走している。
「ドウダ、いてエダろ、苦しイだろっ! もっと痛めつけテやるゼっ!」
綾は印を切る手を止め、首を横に振った。流れる血が顔を伝い、顎から地面に落ちていく。半分以上人間をやめているにもかかわらず、血だけは相変わらず紅かった。
「バノッサさんに比べれば、全然痛くありません」
「何……!?」
「ごめんなさい。 でも、私は負けるわけにはいきません!」
再び印を切り、綾は呪文を完成させていた。膨大な蒼い光が当たりに広がり、砕けた木や、穴を穿たれた地面を照らしていく。祭壇を駆け上り、戦う皆を照らし、そしてその中心にいる綾が、召喚獣を呼び出していた。
「誓約において、樋口綾が命ずる! 汝は老獪なる策士、大地の守護者たる龍神! 鋭き翼と強き棘の持ち主よ、今此処へ現れ出でよ! シュレイロウ!」
空間の裂け目から、イラガの幼虫のようなシュレイロウが現れる。再びこの軽薄な召喚獣は何か綾に言おうとしたが、真剣な眼差しで見つめられて黙り込んだ。そのまま綾は、召喚獣の耳元に指示を囁く。バノッサは、激高して突っかかってきた。
「ヨそ見シてるンじゃねエええエエエえっ!」
左右に飛び別れるシュレイロウと綾、バノッサは迷うことなく綾を追った。今のダメージで多少動きが鈍くなっている綾に、連続して間合いが計りづらい攻撃を打ち込む。パイルバンカーを打ち込むような音が連続して響き、何度か攻撃がかすり、三度目でよけ損ねた綾を弾く事に成功した。地面に叩き付けられ、ふらつきながら立ち上がろうとする綾に、舌で顔をなめ回しながらバノッサは躍りかかる。その瞬間、彼の背中にはシュレイロウが取りついていた。
「おうおう、ぼうず。 いかんぞお、おじょうちゃんにそんなかおでせまっちゃあー」
そのままシュレイロウは口を開け、太く長いストロー状の突起をバノッサの背中に突き刺した。それはバノッサの体に潜り込み、刺さった周囲が変色、煙を上げ始めた。バノッサが絶叫する。
「ぎああああアおおおオオオオおおおオおっ!」
続けて、綾が今の隙に間合いを詰め、バノッサの右前足を斬りつけた。跳躍しての渾身の一撃は、千切れんばかりに右足を切り裂いたが、バノッサは余裕に笑みを浮かべかけ、失敗した。傷が回復しないのだ。
「な、ナんダトおおオオおおオっ!」
『やはり。 二カ所同時に傷を回復出来ませんね。 さっき、端から傷が治っていくからぴんと来ましたが。 シュレイロウさんが、酸を恒常的に注入し続ければ、外傷を治すどころではなくなるはず!』
もがくバノッサを、綾は容赦なく斬り伏せた。右前足を、左前足を、更には腹を。動きを止めた相手の周囲を回りながら、滅多切りに斬りつける。白い液体が飛び散り、全ての足を無力化させられたバノッサは、地面に転がって悲鳴を上げた。シュレイロウは翼を延ばして上手くバランスを取り、背中から落ちる様子など微塵も見せず、膏薬のように張り付いている。もがき、体を蠢かせるバノッサ。綾は正面に回り込んで飛びつくと、その顔面に、サモナイトソードを突き立てていた。壊れた絶叫が上がった。
「ギャアアアァあああアアああアアぁアアあアあ!」
耳を塞ぐ事もなく、綾は血みどろの左手でバノッサの体を掴んで、両足を適当な出っ張りにかけて姿勢を固定したまま、更にサモナイトソードを突き刺し、上下に抉る。白い液体が飛び散り、潰れた片目から煙が上がる。もう、バノッサを助けるには殺すか、壊すしかない。だから綾の攻撃は、熾烈勝つ苛烈なものとなっていた。これで死ななければ、心を完全に壊すまでの事であった。激しくかみ合わされるバノッサの口だが、無言のまま綾は少し体を下にずらし、顎を思いっきり蹴り上げた。バノッサは舌を噛み千切ったばかりか、歯の半ばが折れ砕け、更に悲鳴は表記不可能、理解不可能の代物へなっていった。落ちていく舌を見ながら、綾は呟いていた。表情を消す事など出来ず、落涙しながら。
「地獄には、私もすぐに落ちます。 手が綺麗な英雄を気取るつもりはありません。 でも、バノッサさん……ごめんなさい! 早く楽になって下さい!」
綾の左手に、蒼い光が宿る。砕けた歯が列ぶ口の中に、ゼロ砲を叩き込む事にしたのである。今の綾のゼロ砲は、ヴォルケイトスの一撃に迫る破壊力を持つ。更に、一回だけではなく、もう二三回なら撃つ余裕があった。再生不能のこの状態なら、魅魔の宝玉以外の肉片を、全て消し飛ばす事も可能である。白い血液をまき散らし、なおももだえるバノッサから、その壊れた表情から目を離さず、綾は今ゼロ砲を叩き込もうとした。バノッサの体が縮み始めていたが、そんな事は関係ない。数秒の躊躇の後、綾は哀れな男に、とどめを刺そうとした。
「お姉さん、待ってください!」
手を止めた綾が振り向くと、カノンが土下座していた。
「もう、バノッサさんの負けです! 僕の命を代わりにあげます! 僕が代わりに命で責任を取ります! だから、バノッサさんは、許してあげてください!」
バノッサの抵抗が止んだため、綾は一旦離れた。ハンカチを取り出す余裕もなく、綾は左手の甲で涙を拭う。左手についた血で、顔が化粧された事は疑いない。心中で呟く綾に、カノンは地面に頭をこすりつける。
『私……酷い顔してるんでしょうね』
「お姉さんが、バノッサさんを許せないのは分かります! だから、僕を代わりに切り刻んでください! だから、だからバノッサさんは許してあげて!」
「……」
俯く綾の前で、バノッサの体は縮み続け、やがては人ほどの大きさになっていった。怪物のままであったが、人の形だけはしていた。やがて、嫌な音と共に、サモナイトソードは抜け落ちた。シュレイロウも、跨ったまま、動きを止めた。ストロー状の口から、少しずつ酸はしたたり落ちていたが。白い人型の塊になったバノッサは、左目が潰れた顔を上げた。額には大きな穴が空き、老人のようにしわがれており、口の中に歯は殆ど残っていない。覚束ない足取りで歩み寄ると、カノンは泣き出した。綾はそれを見て、シュレイロウをシルターンに戻した。サモナイトソードを拾い上げた綾は、哀れな兄弟を見下ろした。
「もう、止めてください、止めてくださいバノッサさん……」
「おれは……おれは……かてない……のか……」
「……」
例え理由があったとしても、バノッサの妄執を加速したのは、自分の責任である事は疑いがない。ハンカチを取りだして、落ちる涙を拭くと、それは真っ赤に染まった。
『今の私に、相応しい色ですね……』
「お姉さんのせいじゃありません」
心を読むように、カノンが言う。そのままカノンは、(人型の物体)と化したバノッサに、なおも語りかけた。いつの間にか、周囲の戦いは小康状態になっており、何カ所かに分散した後の睨み合いになっていた。彼らはグループごとに別れつつも、皆が時々綾達の方を見つめていた。バノッサは、うつろな目で言う。
「おれはまけいぬのまま、しぬんだな。 にんげんさえやめて、ぶざまに……」
「いいじゃないですか、負け犬でも」
「……」
「バノッサさんの側にいられて、僕は幸せです。 負け犬だって、貴族だって、召喚師だって、バノッサさんの肩書きに過ぎないじゃないですか。 僕は、バノッサさんに忠誠を誓ってるんです。 召喚師の血を引くバノッサさんに、忠誠を誓って居るんじゃありません! 強いとか、弱いとか、関係ありません!」
いつの間にか、側にはエドスが立っていた。肩で大きく息をついてはいるが、その表情は静かだった。
「バノッサ、もういいだろう。 プライドなんて、捨ててしまえば良いではないか」
「エドス……」
「そんなもののせいで、お前さんは本当なら理解者になってくれるアヤに、そんな酷い戦いを強いてしまったんだぞ。 それに、本当のお前さんを受け入れてくれているカノンを、そんなにも苦しめてしまったんだぞ。 お前が生きるのに、それが必要だったのは確かだと、ワシも思う。 大事にする気持ちも分かる。 だが今のお前に、それは必要なのか?」
バノッサの両目から、黄色く濁った涙が流れ落ちた。
「おれの……おれを……うけいれて……」
「僕は気にしていません。 だから、もう止めてください」
「おれは……なんておろかだった……んだ……」
「最初からお前がそれに気付いていたら、私はお前を仲間として受け入れていたのだがな」
不意に場に割り込んだ声は、オルドレイクの物だった。
構えを取るエドス、涙を拭って振り返る綾、不安げに見つめるカノン。オルドレイクは厳しい表情で、いつの間にか近くに立っていた。彼は、バノッサを刺すように見つめた。
「本当は弱くも何ともないのに、下らないプライドに拘泥するあまり、自らの周囲に災厄をもたらし続けたお前。 そして、取り返しのつかない過ちを引き起こしてしまった」
「だまれっ! バノッサさんを、バカにするなっ!」
「私が助けてきた者達は、プライドをかなぐり捨ててもなお、どうにもならない境遇に生きてきた者達ばかりだ。 食肉として不条理に強力な力に狩られ、弱者を痛めつけたいという人間の欲求の餌食にされ、一方的な都合で一方的にゴミのように捨てられ、姿が違うからと言って、産んだ母親までをも面白半分に焼き殺された! しかもそれをやったのは狂人ではなく、一般的なごく普通の何処にでもいる人間共だ! 私はお前のように、自分の下らぬプライドに拘泥し、愚行に走り続ける人間が一番嫌いだ。 なぜなら、お前こそが、人間の基本的な姿だからだ! そして我が愛するより弱き者達は、お前のような奴らにこそ虐げられ、痛めつけられてきたのだっ! 人間の全てが悪だとは言わぬ。 極少数ながら、善良な者も存在する。 だが、ここで断言しよう。 貴様は、まごうことなく愚かな最悪の人間で、世界の恥部だ!」
「あ、ああ、ひぃいいいいああああああああ!」
完全な正論という最強の刃で、完璧に事実を突き刺されたバノッサが、乾涸らびた両手で頭を押さえた。なお、バノッサを庇おうとするカノンに、オルドレイクは悲しみの瞳を向けた。
「……お前は、違う。 最初から、その愚物を護ろうとし続けた。 自分の境遇を受け入れ、より強く生きようとした」
「……」
「本来なら、お前は私が護らねばならない存在だ。 だが、許せ。 ……理想世界のためだ」
「! カノン君っ! オルドレイクさん、やめ……!」
アヤの制止は届かなかった。オルドレイクが無造作につきだしたサモナイトソードは、音もなくカノンの心臓を貫通していた。同時に飛来したナイフが、カノンを背中から貫いていた。再び無造作にオルドレイクの手が少しだけ動き、剣を引き抜く。鮮血が、前後に吹きだした。最後の言葉もなく、断末魔もなかった。前のめりに倒れたカノンの周囲に、血だまりが広がっていった。オルドレイクは、ナイフを投げた、鬼の面を着けた少年を見ながら言った。
「……余計な事を」
「あああああああああ……ああああああああああああああ!」
意味を為さない音を口から漏らしながら、バノッサはカノンに触った。即死したカノンは、痙攣こそすれ、彼の言葉にも、触れた指先にも応えなかった。バノッサは、絶叫した。
「い、いやだああああああああああああああっ! カノン、カノオオオオオオオオン!」
揺り動かしても、カノンは全く動かなかった。綾は思わず、両手で口を押さえていた。
「も、もうはぐれおんなとは、たたかわねえ。 そ、それに、もうなにもいらねえ! だから、だから! かえってきてくれ、かえって……かえって……!」
手が血にまみれたのを見て、小刻みに震えながら、バノッサは頭を押さえた。そして、悲鳴を上げた。今までにない、途轍もないサプレスの力が、朽ちた体から溢れ始めていた。寂しげな笑みを湛えたまま、オルドレイクは言う。
「よし。 後は、残り一つ」
「貴様あああああああっ!」
「待ってください!」
爆発したエドスを、綾が一喝した。拳を固めた彼女は、うつむき加減で唇を噛んでいた。掌からも、唇からも血が流れ始めていた。そして、今までにないほどの、凄まじい蒼光が全身からあふれ出していた。
「私が、殺ります。 エドスは、みんなに加勢してください」
「アヤ、しかし」
「早くっ! もう、自分を押さえておく自信がありません!」
「すまん……すまんっ!」
エドスは不器用に敬礼すると、斧を構え直し、もう一度だけオルドレイクをにらみつけ、仲間達の方へ戻っていった。ゆっくり顔を上げた綾は、記号化した感情の爆発に襲われ、それが外部に漏れだしていた。悲しみと、それ以上の怒りである。
「オルドレイクさん……!」
「来い。 勝負を、つけるとしよう」
「私、貴方を憎み切れません。 貴方がやっている事は、或いは合理的なのかも知れません。 貴方が今した事は、悲しみの末に決断しての事なのかも知れません。 必要な事なのかも知れません! でも、でも……! 今貴方がした事は、絶対に許す事が出来ません!」
「奇遇だな。 私もだ」
悲鳴を上げ続けるバノッサは、再び膨張し始めていた。もう元の原型は止めず、ただ何だかよく分からない肉の塊へ。クマムシや、ましてや人間などとは似ても似つかぬ、力を蓄えただけの器へ。その前に立ちはだかりながら、オルドレイクは言う。
「……バノッサの究極的絶望により、魅魔の宝玉は完全にその力を開放した。 これで、もう放っておくだけで、バノッサの肉を媒体に、魔王が、正確にはその一部がリィンバウムに降臨する。 それが整うまで、変化中のバノッサを倒させるわけには行かん。 理想世界構築まで、後必要とする段階は一つ。 我が命に代えても、此処は通させはせぬ」
「言いたい事はそれだけですかっ!」
カムランをはり倒したときよりも、数段強烈な怒りが、綾の中で荒れ狂っていた。堪忍袋の緒は、とうの昔にはじけ飛んでいた。感情が薄れつつある今でさえ、制御出来ないほどの。綾は剣を構え直し、さながら滑空砲のような勢いで、オルドレイクに突撃した。同時にオルドレイクからも紅い光が迸り、蒼い光を迎撃する。響いたのは、爆音ではない。両者の剣がぶつかり合う音である。工事現場の機械がアスファルトの道路を叩くかのような頻度で、それが響き続けた。
膨大な憎悪と憎しみと悲しみと、負の感情達が、戦場の外からも内からも集まっていく。そして祭壇に吸い込まれ、更にはバノッサへと注ぎ込まれていく。怒りを爆発させた綾は、それに気付いてはいなかった。
5,それぞれの戦い
立派な髭を生やした男の前に立ち塞がったのは、ラムダとカイナであった。カイナは数体の鬼神を召喚したまま、不安げにラムダと敵を見比べている。カイナにとって、ラムダは(怖いおじさま)であり、もっとも苦手なタイプの人間だった。良くしたもので、ラムダの方でもカイナを避けている節があった。相性の悪さはあきらかであり、案の定すぐ敵に見抜かれた。
「ふむ、相性の悪い者同士で組むとは、余程私を見くびっているようだな。 私の名はザプラ。 以降お見知り置きを願おう」
「俺はラムダ、後ろのはカイナだ。 戦力的にはこれで申し分がない。 勝たせて貰うぞ」
「ふっ、そっくり同じ言葉を返してやろう」
ラムダが不敵に言い、ザプラも笑いながらそれに返した。カイナには正直ついていけない世界であったが、勝ちたいという気持ちは皆に負けては居なかった。自分を一人前に扱ってくれた、仲間達の恩に報いるためにも。弱い自分を見て虐めるどころか、フォローしてくれた仲間達を護るためにも。
ザプラが腰から引き抜いたのは、見るからに切れ味鋭い剣だった。しかも、素人であるカイナでさえ分かるほど、見事な構えで隙がない。ラムダもまた、隙のない構えを見せるが、ザプラにはどうしても見劣りした。
「行くぞ……」
「来るがいい!」
二つの影は、申し合わせたように激突した。呆気に取られていたカイナも、眼鏡をずりあげ、周囲の鬼神達に指示を出しすぐに援護を開始した。
ペルゴは枯れ木が無数に積み重なった、戦場の最外縁にいた。彼の前には、理知的な容姿の女性が立っている。一目で超一級の使い手と分かる、手強い相手が。ペルゴの右隣にはミモザが、少し後ろには先にパッフェルと呼ばれた蒼の刃首領がいる。パッフェルは、慎重に間合いを取りながら、ペルゴに言った。
「あの女はラーマ。 爆発と貫通の呪札を扱う敵っすよ」
「……となると、彼女がアルナ族の」
「あら、何処でそれを知ったの?」
「カシスから聞きました。 貴方の心中はお察し申し上げますよ」
自己紹介をした後、人好きのする笑みを浮かべるペルゴに、ラーマも落ち着いた大人の女性らしい笑みで返した。
「じゃあ、さっさと死んでくれると助かるわ」
「それは無理な相談ですね。 ……戦いは、どうしても避けられませんか?」
「無理よ。 貴方ももう、分かっているとおりにね」
会話はそれで終わった。三人はそれぞれ己の得意とする間合いを取りながら、ラーマとの距離を詰めていく。ラーマも不敵に微笑むと、複数の札を、ずらりと並べて見せた。
最初に仕掛けたのはパッフェルだった。だがその動きは、若干鈍く、余裕を持ってラーマは突進をかわし、数枚の呪札を叩き付けていた。連続して爆発が巻き起こり、必死にそれから逃れるパッフェル。ペルゴもその隙に突貫しようとするが、寸前で思いとどまってバックステップする。次の瞬間、彼が踏もうとしていた枯れ木が炸裂した。
トラップだった。しかもこの周囲は、何処にトラップがあるか分からない危険な戦場である。ペルゴは油断無く構え直すと、ミモザに振り返らずに言った。
「もし敵に隙を見つけたら、容赦ない攻撃を! また、私も貴方を庇っている余裕はありません」
「え、ええ!」
連続して爆発が起こり、その中から複数の呪札が飛来した。ペルゴは走りながら、或いはそれを迎撃し、叩き落とし、或いは避けた。彼が今まで経験した中でも、最も強い相手との、最も厳しい戦いの始まりだった。
カシスは緊張した面もちで、眼前の相手を見つめていた。鬼の面を着けた、暗殺術の師匠を。無色の派閥幹部の一人であるクジマを。今、ナイフをカノンに向けて投げつけた相手を。カシスの隣には、ガゼルとアカネが居る。二人とも超級の使い手だが、クジマの実力はそれ以上である。最初に重苦しい口を開いたのは、ガゼルだった。
「……なんで、カノンを殺した。 最後だから、聞かせろ」
「まあ、いいだろう。 魔王を呼び出すために必要だからだ」
「もう一つ。 なんで、てめえは一瞬躊躇した?」
「彼奴は、俺達と同じ、より弱き人間だからだよ。 それに……境遇も、よく似ているのさ。 同志オルドレイク様だけに、手を汚させたくは無かったのも理由の一つだが」
そう言って、クジマは面を外した。アカネが一歩下がり、ガゼルの顔が驚愕に歪む。カシスにしても、師の素顔を見るのは初めてだった。半分鱗に覆われた、半分鬼神の顔を見るのは。
「ふふ、カノンか。 見かけは人間の彼奴と違い、俺は元からこうだがな」
「……そうか。 そういうことだったのか」
「そういうことだ。 そしてもう、語るべき時は終わっている」
クジマの手から、銀糸が垂れ落ちる。それは不規則に揺れつつ、殺気を放った。
「どちらにも背負うものがある以上、殺るか殺られるか、それだけだ」
戦いは、不可避だった。しかし今のカシスは、素直に師に同情する事が出来るようになっていた。同時に、戦う心構えも出来ていた。
「師匠、行くよ」
「良いだろう。 どれほど腕を上げたか、俺に見せて見ろ」
ナイフを引き抜くと、カシスは頷いた。四つの影が、ほぼ同時に、大地を蹴っていた。
ジンガはかってないほどの使い手と相対している事を悟っていた。目の前にいるのは、巻き毛のとても可愛い女の子だが、その体から発せられるプレッシャーは、尋常なものではない。師匠と本気の立ち会いをしたとき、途轍もない壁を感じたが、それすらままごと遊びに過ぎなかったような、そんな感触だった。相手が何かする度に、心臓をわしづかみにされるようなプレッシャーが襲ってくる。息をのむジンガを、セシルが叱責した。
「しっかりなさい! 飲まれたら負けよ!」
「あ、ああ。 すまねえ、セシル姉さん」
「で、そろそろ良い? 私はトクラン=メルキリウス。 ま、冥土の土産に覚えておいて損はないよぉ」
「私はサイジェント騎士団長イリアス。 部下達の仇は、取らせて貰うぞ」
そういえば、サイジェント城の戦いで、イリアスを叩きのめした相手も巻き毛の女の子だったと、ジンガは聞いていた。つまりこのトクランという娘が、その正体と言う事になる。無理もない事だと、ジンガは心中で呟いていた。何しろ、構えていないのに、前に出る事が困難なほどの威圧感である。三対一でも、勝てるかどうか微妙であった。
最初に仕掛けたのはセシルだった。連続して拳を叩き付けるが、トクランは左腕だけで余裕を持ってそれを捌く。更に逆側からイリアスが回り込むが、間髪入れずに裏拳を貰って跳ね飛ばされた。叫び声と共に、やけになってジンガは突撃し、拳をセシルと一緒に叩き込む。だが次の瞬間、トクランがあり得ないほどの速さと重さで放った回し蹴りが、二人をまとめてはじき飛ばしていた。
「がっ! ぐわっ!」
悲鳴を上げて叩き付けられるジンガ。先ほど戦ったドラゴンよりも、遙かに強大なプレッシャーを放つ人間の攻撃は、彼の戦意を奪い去っていた。だが、セシルの叱責が、彼の心を取り戻す。
「此処で負けたら、アヤちゃんは一生貴方を一人前として見てくれないわよ!」
「!」
その言葉が、ジンガに昔の心を思い出させる。強い者と戦う喜び、自分を高めたいという純粋な思い。いつしか、忘れていた心。綾に片思いした頃から、忘れ果てていた気持ち。
ジンガは確かに綾に懸想していた。だがそれは、女性的な魅力がどうのという話ではなかった。その強さに憧れたからだ。傷つき苦しみながらも、仲間のために誰よりも強くなる、その姿に惚れたからだ。生物的なメスに惚れたのではなく、人間的魅力に惚れたからだ。ジンガは立ち上がると、絶叫した。
「お、うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
膨大なオーラがその全身から迸った。セシルに勝るとも劣らぬ、圧倒的な分量のオーラが。だが、トクランにはまだ遠かった。目を細めると、トクランは右手を前につきだし、人差し指で三人を招いた。
「いいね、私も昔、そんな風に願ったよぉ。 罪を犯した一族のみんなを護れるように、同志オルドレイク様のぉ、手助けになれるように! そして、今の私の力がある!」
「俺は強くなる! アネゴに認めてもらえるくらい! アネゴを護れるくらい! 今は無理でも、いずれ絶対にっ!」
セシルとイリアスが頷きあい、構えを取り直した。本当の意味での戦いが、今始まった。
多少息が上がっているサビョーネルの前には、余裕の表情を湛えるゼンキが居た。以前は小競り合いだったが、本気での戦いとなると少し分が悪い相手だった。数度刃を交えたが、パワー、スピード、技量、全てが敵に劣っている。すぐに倒されるほどではないが、着実に不利になり続けていた。
ゼンキが舌打ちし、バックステップする。彼が一瞬前まで居た位置に、数本のナイフと、ビット状の召喚獣が叩き付けられたからである。振り向くサビョーネルの目に、スタウトとギブソンの姿が映っていた。
「加勢するぜ、旦那」
「何処まで役に立てるかは分からないが、全力を尽くす」
「私はマーン家の護衛獣だ。 それでも構わないのか?」
「今はそんな場合じゃねえだろ? 確かに、マーン家の連中は、今でも嫌いだよ。 ようやくまともになったようだから、殺す事は考えないでおいてやるがな。 だが、あんたはあのバカ息子共の尻ぬぐいをずっとしてたんだろ? だったら、恨む筋合いはねえ」
にやにやとやりとりを見つめ続けていたゼンキが、大剣を軽々と振り、構えを取り直す。サビョーネルも再び構え直し、後ろの二人に言う。
「奴は強い。 自分の身は、自分で護って頂きたい」
「ああ、言うまでもねえ!」
スタウトが右手にシミターを、左手に鋭く研がれたナイフを数本持つ。ギブソンが精神を集中し、召喚獣を自分の周囲に集める。死闘が、今此処に開始された。
レイドの前にいるのは、先ほど交戦したドラゴンよりも更に巨大な竜だった。体は紅い鱗に覆われ、尻尾は長く、そして打ち込む隙がない。慎重に後ろで間合いを取っているモナティとエルカ。モナティの隣では、ガウムが短く断続的にうなり声を上げていた。
「レイドさん、あれは、赤竜族ですの」
「赤竜?」
「メイトルパでも、帝竜族につぐ実力を持つ、最強のドラゴンですの! とっても凶暴で、怖いんですのっ!」
「戦えるか?」
無言で頷いた二人を見て、レイドは満足して振り返った。ドラゴンは四人の様子を見据えつつも、隙をついて襲いかかってくるような事はなかった。そればかりか、戦闘態勢を整えたレイド達を見て言った。
「我が主君のためにも、此処は勝たせて貰うぞ」
「主君が間違った事をしたら、止めるのも部下の仕事ではないのか?」
「主君は、お前達の世界自体に虐げられた。 その怒りと悲しみは、とても強い。 理屈で、あれをどうにかする事は出来ぬよ」
赤竜は若干寂しげに言うと、次の瞬間それを振り払って見せた。
「本音で言うとな、私は主君の為になる事をしてあげたい。 あの子は、幸せを望む権利があるからだ。 だから、今此処で君達を倒す!」
「その幸せのために、幾万の人が犠牲になるとしてもか!」
「愚かな。 誰が主君を其処まで追いつめたか、少しは考えてみるが良い! 人類は、罪を償う必要があるのだよ。 そして自分で償わぬというのなら、無理に償わせるだけの事だ。 そして私は、社会に虐げられ続けた主君に、幸せをもたらす!」
「そうか。 では、戦うしかないな」
じりじりと間合いを計りつつ、両者は接近した。レイドは、すり足で距離を詰めながら言う。
「名を聞いておこうか、誇り高き赤竜。 私はレイド、此方はモナティ、ガウム、そしてエルカだ」
「私は赤竜ガルトアラーズ! 行くぞ、我が炎の味、地獄にて喧伝するが良い!」
飛びずさってカザミネが、巨大な百足がはき出した酸をかわす。地面が派手に煙を上げ、長い体をくねらせて、百足は迫ってくる。スウォンが何度と無く援護射撃を行うが、百足の強固な外殻には通じず、はじき返されるばかりであった。
「何という強大なあやかしでござるか!」
「褒め言葉として、受け取っておこう。 私は大悪魔ゴルゴンズルク!」
「拙者はカザミネ! ぬうっ、しかし何という速さだ!」
「再び、お褒めにあずかり光栄だ!」
巨体に似合わぬ素早い動きで、ゴルゴンズルクはカザミネに追いつき、幾度もかぶりつくように巨大な口を閉じた。冷や汗を流しながら、カザミネはそれをかわし、チャンスを狙う。不意にゴルゴンズルクが体をひねり、後退した。一瞬遅れて岩が投じられ、それはゴルゴンズルクの鼻先をかすっていた。
「ちいっ! はずしたか!」
「エドス殿!」
「カザミネ、加勢するぞ。 スウォン、援護を頼む!」
「分かりました。 出来るだけ、チャンスを創ります!」
長大な触覚を揺らすと、ゴルゴンズルクは少し体を反らし、連続して唾をエドスとカザミネに吐きかけた。唾と言っても、それは強烈な酸だ。カザミネの着物はそれがかすったため、煙を上げて嫌な匂いを立てた。慎重に距離を測りながら、エドスは言う。
「何か、弱点は思い当たらんか?」
「唾が効くという話がござるが、これはおそらく迷信。 相手の装甲が硬いなら、継ぎ目を狙うか、或いは打撃を主にするかでござる!」
「よしっ!」
エドスは巨大な斧を低く構えると、叫び声を上げながら突進していった。カザミネは一瞬躊躇したが、彼の勇気を無駄にするわけには行かない。彼も強大なる大悪魔に、捨て身の突進をした。スウォンの援護を受けながら、二人の戦士は、大悪魔へ格闘戦を挑んだ。
エスガルドの前にいたのは、双剣を持つ、若干華奢な鬼神だった。パワー自体はカザミネより劣るが、スピードと技量が尋常ではない。エルジンが呼び出した召喚獣も次々に屠られ、幼い召喚師は肩で息をついていた。鬼神は流れるように動くと、後ろに回り込み、エルジンに向けて剣を振るった。大きく目を見開くエルジン、エスガルドは間に合わない。剣撃の音が響いた。
「悪いな、そうやすやすとは殺らせねえよ」
「ローカス!」
「加勢するぜ、エスガルドの旦那!」
鬼神が振るった剣を受け止めたのは、ローカスだった。彼は不敵に微笑むと、卓絶した技量で連続して鬼神に攻勢を仕掛ける。正統派の剣と言うよりは、若干トリッキーな剣筋であるが、それも基礎が出来ているからなせる業だ。
ローカスが食らいついている間に、体勢を立て直したエスガルドは、エルジンを護りながら言った。
「大丈夫カ、エルジン」
「うん。 エスガルドは?」
「私ハ大丈夫ダ。 ……モシ辛イノナラ、逃ゲロ。 今ナラ、簡単ニ逃ゲラレルハズダ」
呆然とするエルジンに、更にエスガルドは諭す。
「敵ニハ当然正義ガアル。 負ケラレヌ理由ハ誰ニデモアル。 コレハ、正義ト悪ノ戦イデハナイ。 敵ニモ護ルベキ者ガアリ、ダカラ戦イハ凄惨ニナル。 コノ後ハ、間違イナク地獄ニナル。 誰モ、逃ゲテモ責メハシナイ」
「でも、でもっ!」
「エルジンハ、リンカーガ嫌イダロウ?」
鬼神を見据えつつ、エスガルドは言った。黙り込むエルジンに、徐々に不利になりつつあるローカスを瞳に映しながら、エスガルドは更に続けた。
「嫌イナ事ハ別ニ構ワナイ。 彼女モ、別ニ責メハシナイダロウ。 ダガ、彼女ノ戦イニ身ヲ置キ、共ニ死ヌクライノ覚悟ガナケレバ、コノ先ハ戦エナイ。 ダカラ、エルジン」
「いやだあああああああああっ!」
絶叫したエルジンの全身から、膨大な魔力が迸る。彼は印を組み、召喚獣を呼び出していた。一度に四体もである。目に尋常ならざる炎を宿らせ、少年は言った。
「僕は、もう誰もいなくなってほしくない! エスガルドの足手まといになるのも、エスガルドが居なくなるのも嫌だっ!」
「エルジン!」
「リンカーは今でも嫌い! 好きになれるかも分からない! でも、エスガルドが彼女のために命をかけるなら、僕だって! 負けて、負けてたまるかあああああっ!」
小さく頷くと、エスガルドは立ち上がった。そして、エルジンに言う。
「行クゾ! モウ臆スルナ!」
「うんっ!」
エスガルドの背中から、炎が囂々と吹き出す。そして当たるべからざる勢いで、機界の騎士は、鬼神へと突撃していた。四体のロレイラル召喚獣と、ローカスが、尋常ならざる勢いで、それに続いた。
6,覚醒……
膨らみ、巨大化していくバノッサだったものの傍らで、綾とオルドレイクの死闘が続いていた。今までになく、戦士としての本能に身を任せ、攻撃を叩き付ける綾。その勢いはかってない程の物で、オルドレイクをじりじりと押していた。振り下ろされた剣を、サモナイトソードを斜めにして受けながら、綾は体を反旋回させ、回し蹴りを叩き付ける。脇腹にそれはクリーンヒットし、蹌踉めくオルドレイクに、更に掌底を叩き込む。左ローキック、肩を掴んでのヘッドバットと続き、咆吼と共に踵落としを叩き込んだ。ふらつき、片膝をつくオルドレイク。綾は、全身から膨大な光を発しながら、確かにオルドレイクを圧倒していた。いつもなら冷静に考えながら戦うのに、半ばバーサーク化している彼女は、殆ど本能で戦っていた。オルドレイクは、バックステップして距離を取ると、苦笑した。
「普段優しい者ほど、本気で怒れば怖いものだな」
「オルドレイクさん……!」
「来い。 まだ、その程度では私は倒せぬ」
綾が斬りかかるが、今度はオルドレイクの方が速かった。そのまま鍔迫り合いで上を取ると、密着状態へ持ち込んで膝蹴りを叩き込む。今度は綾が蹌踉めき、続けざまに放たれた回し蹴りで吹っ飛んだ。何とかガードは取る事が出来たが、その上からも痛烈に効いた。肩で息をつきながら立ち上がる綾は、ようやく頭が冷静に働き始めるのに気付いた。
『これは、私の影と戦ったときに、私がしたのと同じ事ですね。 スタミナ配分を考えずに戦うとは、我ながら迂闊でした』
「さあ、まだまだだっ! 来るが良い! 来なければ、私から行くぞっ!」
冷静に息を整え、綾は相手の剣閃にサモナイトソードを会わせていた。大小二つのサモナイトソードがぶつかり合い、蒼い光と紅い光が絡まり合って、紫の光が辺りに満ちる。囂々と音を立てて渦を巻くそれが、祭壇に吸い込まれていく事に気付いた綾は、愕然としていた。カシスの言葉が、今更ながら脳裏に甦る。綾ですら、計画の一端で利用しているはずだという警告が。それを思い出すと、頭が若干冷えてきた。カノンを殺した事は、今でも絶対に許せないが、それとは別に、綾は思惑を巡らせた。
『今までの事が全て計画通りとすると、あの祭壇に集められている負の心も、という事になりますね。 となると、戦争を起こしたのも、負の心を効率よく集めるため? ……成る程、そう言う事でしたか』
横殴りの一撃を何とか受けきると、数歩下がり、綾は連続して反撃の刃を叩き付ける。以前と違い、両者の消耗は現在ほぼ五分。戦いも、ほぼ互角に展開する事が出来ていた。風を切って迫る大剣を、力をそらして的確に弾きながら、綾は言う。
「バノッサさんの絶望が召喚のカギになるとしても、それだけで魔王が呼べるとは思えません。 負の心を集めているのは、魔王召喚のためですね? 蒼の派閥と、金の派閥を挑発して、戦争を起こさせたのも!」
「それもあるが、同時に少し違ってもいるな。 ふっ、もう隠しておく必要もないから教えよう。 正確には、魔王を呼ぶ事だけは可能だが、そのままでは呼び出すだけしか出来ない。 負の力を集めたのは、呼び出した魔王に餌を与え、強化するためだ。 恐怖や怒りは、奴の離乳食なのだよ。 一方で、金の派閥や蒼の派閥の下郎共の力を削ぐ必要もあった。 作戦が失敗したとき、後進のためにな!」
「何故、自分の血統に拘ったんですか!?」
「それはまだ教えられぬな! アカシックレコードにでも、聞いてみるが良いっ!」
鈍い音がして、二つの刃が今までにない激しい衝突を起こした。それは力の爆発も呼び、両者は等量の力で後ろに飛ばされ、地面に転がる。体はもう擦り傷だらけであるが、気力はまだかろうじて残っていた。綾は数度失敗した後、何とか立ち上がる。何にしても、そろそろ限界が近かった。オルドレイクも、動きの鈍化からして、情況は同じである。呼吸を整えるのが、途轍もなく難しくなりつつあった。
二人は同時に、構えを取り直していた。次の衝突が最後になるのは、目に見えていた。切っ先を互いに向け、塔の力保持者二人が、互いの光をぶつけ合う。赤と蒼は中間点で混じり合い、紫の気流となって上昇し、祭壇へと吸い込まれていた。
もう、叫び声を上げる事もなかった。静かに二人は吸い寄せられ、光がはじけた。そして、互いの位置が入れ替わった。綾の脇腹が大きく裂かれ、鮮血が吹き出す。前のめりに倒れながら綾は振り向き、オルドレイクが肩口から鮮血を吹き上げ、仰向けに倒れるのを見た。両者力を振り絞り、出し尽くして後の相打ちであった。
もう立ち上がろうにも、力が入らなかった。サモナイトソードを握る力も、一秒ごとに弱くなってきていた。紅い池が、体の下に広がっていく。大きく裂かれた腹からは、腸がはみ出していた。流れ出る血に比例して、意識が薄れ始めていた。塔の力を使い果たした上に、肉体的なダメージは絶望的な段階にまで達していた。
「は、はははははははは、はーっはっはっはっはっはっはっは!」
オルドレイクの笑い声が、辺りに響き渡った。最後の力を振り絞り、地面を這いずって敵に向き直る綾は、オルドレイクがまだ立ち上がるのをみた。袈裟懸けに斬られ、鮮血を垂れ流しながら、笑い続けるオルドレイク。もうどんなに力を振り絞っても、綾は立てなかった。オルドレイクは、笑うのを止めると、とぎれとぎれに言う。
「バノッサの……調整は終了した。 後は……最後の……仕上げだけだ」
首を必死にねじ曲げてバノッサを見ると、もう膨張は止み、巨大な球体になっていた。体の周囲は血管が覆い、時々脈動している。体の中央には巨大な目があり、更には腕らしきものが二本、その左右から生えていた。無惨すぎる姿に、綾は目を背けた。
「私は、多くの罪を犯してきた。 私は、全てのより弱き者達を護りきれなかった。 そればかりか、護るべき者を手に掛けてしまった」
「……オルドレイクさん」
「だから、最後に私は罪を償おう」
大剣を杖代わりに、オルドレイクはバノッサの側に歩いていった。彼の部下達が、激しい戦いを行いながら、ちらちらと其方へ視線を送っている。その視線が悲しみに満ちているのに、綾は気付いた。そして、オルドレイクが、何をする気なのかも。
「や、やめて……ください!」
「バノッサ! 良く聞け!」
「が……うが……があああああああ」
腕のような物を振るわせて、バノッサが音声を発する。オルドレイクは、出来るだけ憎々しげな表情を創りながら、言った。
「私が、お前の父親だ」
「な……なん……なんだと……!」
綾は知っていた、それは半分本当で、半分嘘である事を。バノッサの血統上の父親は確かにオルドレイクだが、憎んでいる真の意味での父親は金の派閥派閥長ビルイフである事を。もう声も出ず、綾は必死に手を伸ばすが、それは届かなかった。
「おま、おまえ、だったのか! おまえが、かあさんを、やさしいかあさんを、すてた、のか!」
「そうだ。 さながら、ゴミのようにな」
「ゆるさねえ、ゆるさねええええええ、ゆるさねえええええええええええっ!」
『違う……違います……こんな……こんなことは……!』
これ以上もない無力感が、綾を包んでいた。彼女の目の前で、バノッサから延びた触手が、オルドレイクを貫いていた。
「ひ、ひひひひ、ひひ、ひっ……ざざ、ざ、ま、みやが、れ……」
巨大な塊になったバノッサが、奇怪な音を立てていた。必死に意識を引っ張りながら、綾はバノッサに語りかける。声はかすれて、殆ど音量はでなかったが、どういうわけかバノッサには通じた。
「バノッサさん……」
「はぐれ、お、んな」
巨大な目が、一度上を向き、そして下を向いた。
「う、うそ、だったんだろ、いまの、ひひひひっ。 あいつ、しぬ、き、だったん、だろ?」
「分かって、いたのですか?」
「ひ、ひひっ! わかって、いたけど、も、ももう、どうにも、でき、できな、かったんだ。 も、もう、げんしょの、かん、じょうと、か、らだ、が、おさえ、ら、れねえ」
笑い声と思われる奇怪な音が爆発した。カシスが、ガゼルが、エドスが、敵を牽制しつつ、ちらちらと此方を見ていた。彼らもそれ以上の事は出来ないほど、敵は強かった。オルドレイクの死を見ても、敵は全く戦意を失っていない。即ちこれは、打ち合わせの範囲内だったと言う事だ。絶望に身を掴まれる綾に、バノッサは言う。
「もう、も、もう、おれの、こころ、は、きえる。 もう、おれの、おれのな、かには、ま、まおうがいる。 さっき、お、おれのぜつ、ぼうが、よんじまった。 さっき、から、ながれ、れ、こんで、い、いるちからが、つよく、つよ、く、して、やが、る。 ひひひひひっ! だから、さいごに、さいごに、いう」
「……」
「すま、ねえ、な。 おれが、ばかだった、ばっかり、に」
「ううん。 気にしてはいません。 地獄で、待っていてください。 私もきっと、すぐに行きますから」
「ばか、やろう。 てめえは、ずっと、あと、あとに、て、てんごく、とかいけ。 おれと、お、おれと、おなじに、なんか、なんじゃ、ねえ」
それっきり、バノッサの声は消えた。その後何が起こるのかは、綾には分かっていた。だが、もうどうにもできなかった。どうする力も残っていなかった。
祭壇から、バノッサだった塊に、更に膨大な力が注ぎ込まれ続ける。それは一秒ごとに脈動し、巨大化し、形を為していった。形容は難しいが、様々な生物の長所を取り込んだ、合成生物的な存在。蟷螂のような鎌、かぶと虫のような鎧、蠍のような針、ワニの如き牙、蛇のような尻尾、鮫のような肌、ヴェロキラプトルのようなかぎ爪。一旦形が安定すると、それは天に向けて咆吼した。
天が割れた。そして其処から、無数の雷が、森の外へと投下された。凄まじい爆音が、此処まで響いてくる。森の外に布陣した蒼の派閥、金の派閥連合軍が、如何なる状態になっているかは、容易に想像がつく。凶暴な目を揺らし、魔王は再び咆吼した。クジマの銀糸を避けながら、ガゼルが叫ぶ。
「畜生、どうにもならねえのかっ!」
「うふふふふふ、これからだよ、まだまだ!」
トクランの声が、更にそれに覆い被さった。魔王の咆吼が、雄叫びから悲鳴へと代わる。小さな紅い光の球が、不意に出現し、魔王の肉体に潜り込んだ次の瞬間の事であった。綾は、サモナイトソードを掴む事で必死に意識を保ちながら、呟く。もう、誰の耳にも届かないほどの小さな音量であったから、自分に確認するための作業であった。
「ようやく分かりました。 オルドレイクさんが、生贄を血族にすることに拘ったわけが」
魔王は縮んでいった。だが、その体から発せられるプレッシャーは、全く衰えない。苦痛の声を上げながら、魔王は縮み、そしてある形を為していく。
魔王は人間ほどの大きさになっていた。始めはマネキン人形のようにのっぺりと何もなかったが、最初に顔が現れ、次に鎧が体を覆った。徐々に全体に色が付いていき、肉体が蠕動しつつ細かい部分の形を整えていく。
「魔王を呼んで世界を改革して貰おうと思ったのではありません。 魔王を呼び、それを喰らう事で、自らが超越者の力を手に入れ、それによって世界を改革する。 そのためには、魔王を乗っ取るため、生贄になる器が自分と近い霊的波長を持つ必要があった。 ……そうですよね、オルドレイクさん!」
「そうだ。 そのとおり。 そして私は、今、生物を超越した!」
ついに、元の形を取り戻した肉塊が、にいと笑みを浮かべて見せた。バノッサ同様、本当に小さな声なのに、どうしてか届いていた。それは、近くに転がっていた自らの愛剣を拾うと、満足げに振り回す。そして天に高く掲げ、目に高揚を湛えた。
それは、もう魔王ではなかった。魔王を喰う事により、超越者の塔を登り詰めた存在。人を越え、生物を超越し、即ち神となった男だった。紅き光の球は、彼の魂。名は、オルドレイク=セルボルト。本来は、誓約者になるはずだった男である。神々しい紅いオーラが、全身から迸るように立ち上る。
「理想世界を、今此処に創造せん!」
『……だめ……もう……勝て……な……』
オルドレイクが叫ぶと、彼の部下達の間から歓声が上がった。それを聞く綾は、ついに精神の限界に達し、意識を失った。
7,誓約の戦士、光臨
「よう、ピンチじゃねえか」
綾が気付くと、そこは塔の中だった。相変わらず響き来る声に、綾は半身を起こして、困ったようないつもの笑みを浮かべて見せた。声は嬌笑すると、続ける。
「なあ、お前がいつ塔の力に目覚めたか、覚えているか」
「此方の世界に来たときですか?」
「外れ。 お前はな、お前の世界にいた頃には、もう塔の力を無意識下で使ってたんだよ」
不意に塔の一面がスクリーンになり、映像が映し出された。小さな駅の、コインロッカー。財布を探り、コインを取り出そうとしていた一人が気付く。慌てて呼ばれる駅員。慌ただしく開けられ、中から取り出される赤ん坊。もう泣き声を上げる力もない、脱水症状寸前の哀れな子供。大騒ぎになる周囲。
「お前だ。 お前はこのとき、死の恐怖から逃れようとした。 そして、無意識下で、塔の力を覚醒させていたのさ。 こっちの世界にお前が来たとき、正直驚いたね。 微弱とは言え、塔の力を覚醒させている人間なんてそうはいないからなあ」
無言のまま、綾は俯いた。オルドレイクが塔の力を覚醒させるのに、どれほどの苦労を有したか。幼い子供が原初的な感情の中、絶望的な死を確信し逃れようとするほどの労苦。それを意図的にするのが、どれほど大変な事か。文字通り血を吐くような苦労の末だと、綾は悟っていた。
「で、お前、これからどうするんだ?」
声が響いて、悲しみに俯いていた綾は顔を上げた。声は揶揄するように、更に続けた。
「このまま死んじまえば、楽になれるぜ」
「ううん、そんな気はありません」
「いいじゃねえかよ、あんな世界どうなったって。 新しい世界とやらが悪いとはかぎらねえし、人間が自業自得で招いた結末なんだぜ?」
「でも、私の仲間達を護れるなら、最後まであがいてみます」
少し息を切ると、綾は笑みを浮かべて見せた。
「……サプレスのエルゴさん。 いや、魔王、神でもある存在」
「くくっ。 いつ、気付いたんだ?」
声は、心底楽しそうに応えた。
綾が声の正体に気付いたのは、エルゴと対面を果たして後の事であった。エルゴは言った。サプレスのエルゴは、この世界の何処にでもあると。それは即ち、人の心だ。
精神世界であるサプレスのエルゴが、人間の心、具体的には全ての人間が共有する意識である普遍的無意識を媒体としてリィンバウムに干渉しているという推測は、すぐに組み立てる事が出来た。後は簡単だった。塔の力への干渉力や、善悪を超越した感覚、人間を外から見る視点。全てが結論へ導いていた。
声がする上を見る綾に、サプレスのエルゴは、口調を変えずに言う。
「俺は正確にはな、お前が呼ばれたときに一緒に間違ってこっちに呼ばれた、サプレスに常駐しているエルゴの魔王寄り端末だ。 まあ本体と大差はないから、同調して今は此処で遊んでるけどな。 ……俺はな、何度も言ったがお前が好きだ。 自分じゃ大した力もねえのに、大事な人間を護るためなら誰よりも強くなれるお前をな。 だからこそ、ここから先へは行かせたくねえ。 分かってるだろうが、此処の先は地獄だぞ。 俺達みたいな辛い思いをする奴は、出来るだけ増やしたくねえんだよ」
「それでも、私は行かなければなりません」
「オルドレイクは、お前と同じ事を考えて、超越者となったとしてもか? お前と奴の考えは、ほんの少し違うだけなんだ。 彼奴は正真正銘弱者の味方で、より弱きものを護るために、全てを捨てる決意をした。 お前は、自分を認めてくれた仲間達を護るために、全てを捨てる決意をした。 自分のためじゃねえ、自分以上の価値がある者達のために全てを捨てようと考えた。 鏡に映したように、良く似ているんだぞ」
「決意は、変わりません」
最後のエルゴの力が、綾の精神世界に流れ込んできた。塔の天井が、派手な音を立てて砕け散っていく。エルゴの声が、落ち行く天井の破片に混じり、響き続けた。
「頑固だな、全く。 分かったよ。 俺も力を貸してやる。 オルドレイクは嫌いじゃねえが、俺の体の一部を喰いやがったのは事実で、それに関しては多少ムカついてるからな」
塔の外壁に、ひびが入っていく。既に天井は残っていない。綾の中に、途轍もなく膨大な情報が流れ込んできた。それが人間が許容出来る限界を超え、それ以上の存在が許容出来る限界も超え、更には生物自体の限界も超えたとき、塔自体が吹き飛んでいた。この瞬間、綾は完全な意味での、誓約者となっていた。かってのエルゴの王と同じ存在に。
「ようこそ、無限の地獄へ」
エルゴの声に頷くと、綾は意識の世界から現実世界へと戻る。今では、それが自在に出来るようになっていた。
倒れていた綾の右手が動く。体を、蒼い光が覆っていく。全身に、かってないほどの力が溢れていく。綾が立ち上がると、仲間達の間から歓声が上がった。
綾の体から迸る蒼い光は、途轍もない質感を有し、柔らかく暖かい。周囲に満ちていき、紅い光と打ち消しあう。腹の傷も、全身を無数に覆っていた傷も、精神の消耗も、全て消え失せていく。圧倒的な、膨大な力が満ちあふれていく。
「……ほう。 君も超越したか」
「貴方と同じです」
「「大事な者達を、護るために!」」
二人の声は、同時に発せられ、全く同じ意味を有した。オルドレイクが右手を挙げ、周囲の空間が、リィンバウムから切り離され始める。綾は仲間達の方を向き言った。
「必ず、帰ってきます!」
「待ってる……」
信頼を込めて発せられたカシスの言葉に、綾はただ頷いた。同時に、切り離された空間は、リィンバウムを離れ、独立した一つの世界となった。リィンバウムに比べればさほど広くはない、球の内部のような空間。だが、ざっと見ただけで、数十キロ四方の奥行きがある。先ほど切り離した空間よりずっと大きいが、これは切り離した空間を元からあった別の小宇宙につなげたからだ、と綾は分析した。辺りは無数の岩塊が浮き、遠くは何も無い闇のみが広がっているが、今の綾には何故か境目がどこだか理解出来た。重力はあり、地面に降り立つ事は出来る。綾は辺りを見回し、空いている左手を開閉してみた。力が凄すぎて、制御するには時間がかかりそうである。もう光など無くても相手の存在は関知できたが、周囲にはどういう訳か光が満ちていた。何の事はない、無数に浮く地面が淡く発光していたのである。
「今の我々が総力を挙げてぶつかり合えば、迷霧の森など一瞬で消し飛んでしまう。 私にしても、君にしても、それは本意ではない。 だが、此処でなら、思う存分戦えるというものだ」
「感謝します、オルドレイクさん」
「気にするな。 私も好きでやった事だからな、遠慮は無用だ。 再び、全力でぶつかり合うとしようか!」
会話は、それで切れた。煌々と輝く二本のサモナイトソードが、互いの死を求めて向き合う。およそ十秒ほどの相対の後、戦いは始まった。
リィンバウムの未来をかけた終末の宴の、メインディッシュが、今此処に並べられた。
それを味わうのは誰か。もはやエルゴ達にさえ、見当もつかない事だった。迷霧の森で、或いは独立した異空間で。総力を尽くした最後の戦いは、今此処に佳境を迎えていたのである。誰も未来を占えぬ、己の全てを賭けた最後の戦いが。
(続)
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