伝説と現実

 

序、忌まわしき……

 

オルドレイク=セルボルトは、まどろみの中にいた。現世に生を受けて既に六十四年。老境と呼ばれる域に入ったが、未だ気力は衰えず、肉体的能力も常人を遙かに凌ぐ。(塔の力)と呼ばれる、人類を超越するための階段、その上位まで昇り詰めた彼の肉体は既に老いる事をやめており、そればかりか今も能力的な成長を続けていた。

別にオルドレイクは選ばれた人間でも、才能に恵まれていたわけでもない。現在の能力は後天的に身につけた物であり、凄まじい努力の末に手に入れた力だった。また、かっては現在のように人類社会そのものを否定しているわけではなく、その慈愛の心は全てにあまねく注がれていた。少なくとも、青年期まではそうだった。彼が変わったのは、特定の事件が原因ではなく、膨大な情報と、経験が故にであった。しかし、変わり行く最初のきっかけとなる事件はあった。

オルドレイクは昔、ごく平凡な召喚師だった。特に優れた力を持つわけでもなく、だが慈愛の心だけは誰にも勝っていた。更に言えば、自分の犠牲と他者の幸福を並べられれば、真っ先に自己犠牲を選ぶ人間でもあった。そして、その特性は、人類社会で生活する事には、決定的に向いていなかった。

人間は他者の犠牲を幸福とし、痛みを悦楽とし、死に快哉を叫ぶ生物だからである。

 

オルドレイクは信仰と無縁だった。まがりなりにも上流階級である召喚師の家系に産まれた彼は、宗教という物の本質や、それが生み出す物を良く知っていた。それだけでなく、さほど有能ではなかったが前向きな姿勢で周囲に慕われた両親によって、(道を自身で切り開く事)の大事さを叩き込まれたからである。青年期にさしかかった頃のオルドレイクは、既に(常に前向きに自身で道を切り開く事)を信念としており、それを確固たる物としていた。彼は誰にも頼ることなく、どんな苦難にぶつかったとしても、かならず自分で切り開いてきた。例え、どんな時間を掛けたとしてもである。結果、彼は才能以上の実力をありとあらゆる分野で発揮し、周囲の若者より頭一つ分ぬきんでた存在となっていた。また、彼は心においては傑出した物があり、そのような情況になっても決して奢る事がなかった。もし小利口なだけの小才子であったら、ここでスポイルされてしまった事が疑いないが、オルドレイクは逆に自身を高める試金石に出来た。

オルドレイクの長所は幾つかあったが、そのいずれもが精神に関係した物だった。何事にも屈せぬ精神の強さ。他者より優れていたとしても、奢る事なき心の強さ。そして最後に、如何なる情況であっても弱者をいたわり、護ろうとする精神である。それが召喚術や運動能力と言った能力レベルでの実力を、水準以上に高めた要因だった。過剰な精神論はむしろ有毒な場合が多いが、オルドレイクにとっては別に苦労でも不可能でも何でもなかった。

蒼の派閥で召喚術を学んだ彼は、瞬く間に頭角を現し、寒門出身者だというのに同級生を追い越し次々に召喚術を学んでいった。エクスと出会ったのもこの頃であり、だが召喚師の友人自体は決して多くはなかった。理由は簡単である。当時の蒼の派閥には、既に軍需産業の利権が網の目のように張り巡らされており、内部は無数の派閥内派閥が作られ、それは子供達にも影響を与えていたからである。子供達も家柄を元に派閥を作り、大人顔負けの暗闘を繰り返した。そんな中、権力や金銭にまるで興味を見せないオルドレイクはむしろ気味悪がられた。成績は図抜けて良かったが、教師達にも彼はあまり好かれなかった。人格が良くても、どうにもならなかった。蒼の派閥の召喚師学校は、腐敗した沼の底のような、障気がたまった魔境だったのである。

しかし、オルドレイクはここでも耐え抜いた。彼は基本的に、自らに与えられたプレッシャーには大概絶えられる強さを持っていたのである。それに、数こそ少なかったが、彼の周囲には人格的に優れた友人達が集まり、互いに支え合って闇にうち勝った。無能で、金と家柄で成績を買った名門召喚師の卵達とは異なり、実際にあらゆる召喚術を身につけて、オルドレイクは卒業した。

オルドレイクは、心が非常に強い人間だった。だから都合が悪い事から目は絶対に背けなかった。即座に噛みつくほど思案がないわけではなかったが、必ず改革する事を心に決め、対策を練る人間だった。

オルドレイクが故郷に戻り、地元の有力者として活躍し始めたのは、二十歳の少し前だった。そこで、全てのきっかけとなった、流れの最初となる事件が起こった。在学中に既に他界していた両親に代わり、オルドレイクは小さな都市の顔役になっていた。彼の仕事は兎に角確実で、また年長者の言う事を良く聞き、良く考えて判断し、上よりもむしろ下の人間達に慕われた。だからこそ、その(事件)により深く関わる事になった。

その事件とは、地元住民による、戦争難民の虐殺である。

 

オルドレイクのいた地区に、(その者)達が流れ込んできたのは、秋を少し過ぎた頃の事だった。収穫を終えてほっとする農村に、不審な人影がちらほら現れ始めたのである。不安がる地元住民を後目に、その者達は河原に勝手な建築工事を始め、みすぼらしい掘っ建て小屋を幾つも立て始めた。

早速オルドレイクは部下を伴って、その不審な者達を調べに行った。敵視する視線の中、不安がる部下達を押さえて、オルドレイクは言う。

「私はこの地区の顔役の一人だ。 君達の代表者に会いたい」

返事はなく、敵意のある視線ばかりが返ってくる。咳払いすると、オルドレイクは続けた。無意識で武器を構える部下達と違い、オルドレイクは落ち着いていて、それが致命的な激発を避ける。

「君達が不安なように、この地区の民も皆不安がっているのだ。 私は、歩み寄りを促進するために来た。 互いを知るためにも、応えて欲しい」

「……わしじゃ」

オルドレイクの前に現れたのは、延び放題の髭を蓄えた老人だった。この辺の住民より多少肌の色が白く、部下がオルドレイクに耳打ちする。

「オルドレイク様、あのじいさん、北方人ですぜ」

オルドレイクの住む地域は、丁度聖王国の辺境に位置し、民族的な違いには特に敏感である。無意識で身構える部下達をもう一度制すると、オルドレイクは務めて優しい口調で言った。

「まず、何故此処に来たのか教えて欲しい」

「……戦争でな、村が焼かれてしもうた上に、わしらの村があった所に軍隊が基地を作り始めたんじゃ。 わしらは帰る所もなく、仕方なくこんな所に来た。 それだけじゃよ」

「こんな所だと?」

「よせ。 なるほど、戦争難民であったか。 何か足りない物や、今後いる物があるなら言ってくれ。 出来るだけ援助はしよう」

「……どういう風の吹き回しじゃ?」

露骨に不審の視線で刺してくる老人に、オルドレイクは笑顔で応えた。

「何、困ったときは、お互い様というだけだ」

オルドレイクの言葉は正論だったが、残念ながら住民達はそれでは納得しなかった。対し、誠意ある態度は難民達を次第に安心させていき、態度を軟化させていった。一月も経つと、難民達はオルドレイクを慕うようになったが、それが事態を悪化させた。噂を聞きつけて、更に多くの戦争難民が流れ込んできたのである。もともと蓄えがさほどあるわけでもなく、その全てを助けられるわけでもなかった。オルドレイクは必死に東奔西走して物資をかき集め、また摩擦の解消に尽力したが、どうにもならなかった。個人の力ではどうにもならない事があると、此処でオルドレイクは初めて思い知った。しかも、頼みの綱である聖王国もオルドレイクの書状を無視し、物資の提供を拒否したのである。蒼の派閥も、(金にならない)事に表向きは尽力しているくせに、様々な言葉をさながら手品のように出し入れして、オルドレイクの救援要請には一切応えなかった。

難民達は、オルドレイクの事は全面的に信頼した。だが、住民達との摩擦は一日ごとに強くなっていった。物資がどうしても足りなくなり、何度も盗難が発生した。また、不潔な環境で暮らしているから疫病も発生し、地元住民にも感染した。数が多くなってきた難民達は畑を荒らす事もあり、ついに殺人事件が発生すると、摩擦は発火を呼んだ。

オルドレイクが、必死に彼方此方をかけずり回っている間の事であった。住民達は兵士達と共に、難民キャンプを強襲、女子供も構わず皆殺しにしたのである。急を聞いてオルドレイクが駆けつけたときには、既に悲劇は起こり、さらには終わっていた。炭化した子供の死体、切り刻まれた男の死体、服を剥がれて転がされている娘の死体。少し前に彼がここを訪れたときには、皆貧しいながらも力強く生きていたのだ。笑顔を浮かべる努力をして、必死に生きていたのだ。あまりに無惨な光景に、オルドレイクは無力感を覚えて頭を振った。

「何と言う事だ……」

「へっ、いいざまだ。 見苦しい流れ者共が、地獄に堕ちろ!」

唖然としたオルドレイクが振り向くと、部下の一人が笑顔で死体を蹴飛ばしていた。さらには、それを咎める者どころか、その場のオルドレイク以外の全員がそれに賛意を示していた。オルドレイクは、人間という生物が産まれ持つ(本質)に、このとき初めて疑惑を抱いたのである。

 

少なくとも、その頃のオルドレイクは公平な人間であり、それだけでは人間という存在の全てを判断しなかった。彼は感じた疑問を客観的に判断するため、それから様々な事を行った。人間の本質を知るためには、人間が最も原初的な感情を見せる場所がいいと考えた彼は、傭兵として紛争地域に足を運び、何度も死線を潜った。戦場における人間の本性を学習すると、オルドレイクは故郷に戻り、政務に携わった。政治とは人間の本質を極めて現実的に理解し、直視出来る者でなければ行えない難行である。彼は民から(近来にない名君)と湛えられたが、極端な話それはオルドレイクが(人間観察)をした結果に過ぎなかった。更にオルドレイクは政治的情況が安定すると、育て上げた部下に全てを任せ、各地を回ってありとあらゆる情報をかき集めていった。オルドレイクは真面目だった。人間を判断するには、絶対に客観的情報が必要不可欠だと思っていた。

禁呪を始めとする数々の(禁忌)を調べ始めたのも、この頃からである。オルドレイクの探求心は兎に角貪欲で、手に入る資料は何から何まで全てに目を通した。賢者達と会って語らい、人間の言葉に満足出来なくなった後は、何度も人ならぬ存在に会って話を聞いていった。その過程でオルドレイクの思考は人間的なものから世界的なものへと変動していき、知識欲は際限なく拡大していった。そして、彼の中で、(塔の力)が目覚めた。特殊なきっかけではなく、彼は実力と努力でそれをつかみ取ったのである。オルドレイクは(塔の力)を数年がかりで解析すると、後は実力を伸ばすために利用し、そして世界最強の戦闘能力を得たのである。

蒼の派閥が、オルドレイクを危険視し始めたのはこの頃からである。やがて、人外の実力を手に入れたオルドレイクは、各地で(反社会的)行為を行い、世界を形作る秩序に喧嘩を売り始めた。社会的弱者を助け、社会的強者を文字通りの力尽くで叩きのめしていったのである。世界最強の戦闘力と、豊富な知識と、膨大な経験を持つ彼を仕留める事が出来た者など一人もいなかった。数十年をかけて、オルドレイクは無色の派閥を作り上げていき、その規模は少しずつ着実に拡大していった。

オルドレイクは、現在、世界を変えるために動いていた。人間社会ではなく、世界そのものに変革をもたらすためである。社会的弱者に犠牲を強い続けるこの愚かなる社会が、どうしても彼には許せなかったのである。

虐殺された難民達のためだけに、ではない。ましてや、自分自身のためにでもない。オルドレイクの思考と観念は、数十年に渡る探求と錬成の末に培われた、極めて強靱な物だった。だからこそに、それは現行の世界にとって、危険な物だった。彼の部下には、世界を壊す事だけがビジョンとしてある者も少なくないが、オルドレイクの視点は更にその先、未来を見据えていたのである。

(想いの力)と呼ばれる、強大無比な精神力と共に。

 

まどろみから覚めたオルドレイクは、サイジェント城のテラスに出た。空はあくまで青く、無限の広がりを見せている。その空すらも変えんとする男は、しばしそれを眺めやった後、遠巻きに城を包囲する金の派閥、蒼の派閥、サイジェント連合軍に視線を移した。それはオルドレイクにとって、計画実行上の単なる駒に過ぎなかった。無心に駒を眺めるオルドレイクに、背後からクジマが声を掛けた。

「オルドレイク様、連絡がありました」

「うむ、なんだ」

「敵が攻撃を予定している模様です。 いかが致しましょうか」

「君とザプラで、出鼻をくじいてきたまえ。 力を見せつけるだけでいい」

頷くと、オルドレイクと志を同じくする少年はかき消えた。オルドレイクにとって、彼らは実の子のように愛しい相手だった。遠巻きに包囲している、駒と違って。

 

1,真たる歴史

 

樋口綾の前には、四つの光が浮かび続けている。それは直接心に語りかけ、自らを(世界の意志たる存在)と名乗り、綾を(リンカー)だと言った。床は水晶のようで空は暗く、エルゴと名乗った物以外に光はない。しばしの沈黙の後、最初に口を開いたのはレイドだった。

「分からない事が多すぎる、今何が起きているか説明してもらえないだろうか。 それに、出来れば言葉を証明して欲しい」

「承知した、レイドよ」

声は名乗りもしていないレイドの名をぴたりと当てると、他の者達の名も順次当てていった。更に個人的な嗜好をもずばり当てていったのである。とどめにそれが現在好きな異性の話に移ろうとしたとき、耳まで真っ赤になりながら、慌ててジンガが両手を振った。

「わー、わーっ! 分かった、分かったから、話を進めてくれっ!」

「? ジンガ君、どうしたんですか?」

「何でもないよ、アネゴ! あははははは、そ、それよりさ、俺っち話の続きが聞きたいかなって」

あまりにも自身の内情を吐露しているジンガの反応、更に普段の明晰さが嘘のようにジンガの行動に小首を傾げている綾を、呆れた眼差しでアカネが見ていた。セシルは口を押さえて笑っており、ミモザは意味が分からないと言った様子できょとんとしている。ともあれ、話を進める事自体に異論がある者はいなかったから、エルゴは話の続きに移った。

「……まず、今この世界に何が起ころうとしているか話そう。 お前達が魅魔の宝玉と呼ぶ物により、サプレスの力がリィンバウムに流れ込み続けている。 そしてそれは、近いうちにサプレスの最も暗き力を呼び込むだろう。 獣神、と、お前達が呼ぶ存在を」

「獣神?」

「私達は、召喚獣の中でも、特に強力な存在を(獣王)と呼んでいるわ。 そして、これは派閥の中でも秘匿されているんだけど、更に強力な存在が各世界にはいるの。 それが、獣神。 召喚獣達の話で存在は知られてはいたけど、実際に呼び出した例は今だ無いわ」

綾の疑問に応えたのはミモザだった。更にその言葉に、ギブソンが続けた。

「サプレスの獣神は、大魔皇帝フォレイトース。 一般的には魔王と呼ばれている。 もし、そんな物を、この世界に呼び込まれたら」

「そんな事は問題ではない。 お前達が滅びようと、我らには知った事ではない。 いや、もうつきあいきれないと言うのが正しい言葉か」

「なっ……!」

「我らが問題にしているのは、それによって世界の力のバランスが崩れる事、更にエネルギーの流れが変動してしまう事だ。 それはかってのリンカーが我らと契約した事項を破綻させ、再び五つの世界は乱れに乱れるだろう。 故に我らはそれを是正する代行者の選定に入った」

拳を固めて震え始めたギブソンと違い、他の者達は、特にガゼルやスタウトはきょとんとしていた。話のスケールが大きすぎて、いまいち飲み込めないのである。咳払いしたのは綾で、丁寧に言葉を選びつつ言った。

「まず、リンカーとは何か、エルゴとは何か、契約とは何か、何故私が貴方達にリンカーと呼ばれるのか、説明して頂けませんか?」

「順を追って説明しよう。 まず、かってリィンバウムと、それを取り巻く世界が如何なる形を取っていたかからだ。 お前達の頭を先ほど覗かせて貰ったが、我らとの契約を忘れ去り、自身に都合のいい事のみを記憶しているのが明らかであるからな。 少々不快ではあるが、仕方がない」

本当に不愉快そうな調子でエルゴは言い、世界の記憶を話し始めた。それは、リィンバウムの人間が誰も知らない、世界の存在の核心に迫る話であった。

 

最初に文明が産まれたのは、ロレイラルだった。そこで発生した人類は、やがて空間を渡る技術を身につけ、また様々に価値観を発達させた。そして自らの足を、ロレイラルに近い四つの世界へと延ばしていった。それが、リィンバウム、シルターン、メイトルパ、そしてサプレスである。一番ロレイラルに近かったのがリィンバウムであり、それを中心として四つの世界が周囲にあった。リィンバウムを中継点としての各世界交流は続いたが、時が流れるにつれて、始祖たるロレイラルと別の世界は、異なる世界としてその存在を変化させていった。

かって、リィンバウムとそれを取り巻く四つの世界は、現在よりも遙かに身近な存在だった。精神文明を発達させたサプレス、機械文明を発達させたロレイラル、自然との共存を選んだメイトルパ、武の道を選んだシルターン。そしてリィンバウムは、その中心にて、各世界の橋渡しをする世界だった。リィンバウムの人間、サプレスの悪魔や天使、シルターンの鬼神、それにメイトルパの獣人、ロレイラルのサイボーグ達、彼らは皆始祖を同じくする存在なのだ。

リィンバウムの人間は確かに非力であったが、代わりに商売に長けていた。これは強大な力を有する他の世界に対抗するべく、自然に身に付いていったスキルだった。事実他世界との摩擦を時々起こしつつも、リィンバウムは大過なく時を送っていた。それが終わりを告げる事になったのは、二つの原因からである。一つの原因は、世界間貿易によって大富を得たリィンバウム人の驕り、今ひとつは各世界の物資不足である。

 

マナと呼ばれる根元的なエネルギーを無尽蔵に有するばかりか、それを発生させる力さえ持ったリィンバウムは、人類にとって最初約束の地とされた。物資も豊富で、さながら其処は楽園だったのである。だがロレイラルを出た人類の殆どは、あえてその地を選ばなかった。なぜなら、既に世界をも滅ぼしうる実力を持った人類がその地に降り立てば、世界を壊し尽くすまで戦いあう事が明白だったからである。そこで各世界に足を延ばした人類の代表は互いに相談の結果、リィンバウムにはあまり多数の移民をしない事に決めた。その結果、各世界はバランスが取れ、平和が訪れたのである。

しかしながら、時が移ろいゆくと、それに伴って社会的情勢は変動していった。まず最初に異変が訪れたのは、もっとも古き世界ロレイラルである。ロレイラルでは、完熟した機械文明に依存しきった結果、人類が生物的に弱体化し、それが社会の劣化すら呼んでいた。劣化した種族の生命力を補うためには、健全な他の世界の遺伝子が必要不可欠だったが、残念ながら決定的に不足していた。続いて異変が訪れたのはサプレスで、彼の地では水が不足し始めたのである。サプレスでは、様々な魔法を使う際に、水が持つ魔力的なエネルギーが必要とされた。無論サプレスではリサイクル技術を極限まで発達させていたが、それにもやはり限界があり、ふと気付くと水の絶対量が致命的に不足していたのだ。そしてシルターンにも異変が起こった。相次ぐ戦、戦、また戦の結果、鉱物資源が底を突いてしまったのだ。メイトルパだけは物資の不足とは無縁だったが、元々自然を第一に考えるメイトルパ人は、他の世界の人間にあまり寛容ではなかった。青ざめた顔を集めてシルターン、サプレス、ロレイラルの代表者は会議を繰り返し、やがて不足する物資を充分以上に保有しているリィンバウムに助けを請う事にした。それは切実な要求であり、最初はリィンバウム人も二つ返事で応じていたのだが、相手が非常に切迫した情況である事を知ると、彼らはあろう事か其処につけ込んだのである。

ロレイラルはその文明を、サプレスは魔法を、シルターンは人材を、略奪同然でリィンバウムに奪われた。彼らが絶対に必要とする物資を得るために、リィンバウム人はあまりにも膨大な対価を要求したのだ。リィンバウムは世界間貿易によって発展した世界だったから、倫理観念よりも自身の利益を優先する社会的風潮があった。背に腹を変えられぬ各世界は、あまりにも巨大な要求に愕然としながらも、要求をのまざるを得なかった。リィンバウム人は呆れた事に、弱腰になった相手に対し、更に無茶な要求を突きつけた。それは拡大の一方を続け、やがて最初にロレイラルが悲鳴を上げた。社会が劣化どころか、このままでは失血死に至ってしまう事が明白だったからである。ロレイラルは世界を上げてリィンバウムに抗議したが、帰ってきたのはせせら笑いだけであった。サプレスも、シルターンも情況は同じだった。やがて疲弊したロレイラルに、奢りきったリィンバウムは、植民地になる事を要求したのである。この瞬間、ロレイラルの長老達の、長年耐えに耐えてきた堪忍袋の緒がついにはじけ飛んだ。ロレイラルはサプレス、シルターンに使者を派遣、タイミングを合わせて、リィンバウム人が見た事も聞いた事もない圧倒的な軍勢を持ってして、同時侵攻を開始したのである。

戦いに慣れた各世界の軍勢は、商売しかした事がなかったリィンバウム人の軍隊を、文字通り踏みつぶした。無論リィンバウム人も、各世界から強奪した武器や物資で理論上は強力に武装していたが、そんなものは実戦経験が無ければ幼児の玩具に等しいのだ。怒り狂った三つの世界の軍勢は、瞬く間にリィンバウムの各地を制圧、抵抗勢力を沈黙させていった。特にリィンバウム人に怒りを強く持っていたサプレス人(主に悪魔)は、占領地で怒りにまかせて大量虐殺を行い、サプレスの占領地は無人の土地と化していった。さらにシルターンから派遣されていた人材は奴隷同然に扱われていたため、ここぞとばかりにそろって反旗を翻し、リィンバウム軍は内部からも壊滅した。

ある一定の領土的戦果を上げた占領連合軍は、圧倒的な力の差を前にもはや抵抗を諦めたリィンバウム人を後目に、今まで血が出るような代価を払って手に入れていた必需物資を、故郷へと搬送していった。そして驚いた。リィンバウムの物資は想像以上に豊富で、瞬く間に必要量が充たされてしまったのである。各世界は今までの反省を生かし、それらを大事に使っていく体制を整えると、改めて会議を行った。これ以上侵攻を継続するか、戦果を満足な物として撤退するか、である。事実一部侵攻軍の蛮行はそれぞれの世界にも報告されていて、苦々しげな目で見られていたのである。穏健派はもう充分だとして撤退を主張し、逆に強硬派はリィンバウムに決定的な打撃を与え、(二度と巫山戯た真似が出来ないようにすること)を主張した。両者の対立は日ごとに深まり、陰湿な争いに発展していった。長期の派兵による戦費もかさみ、やがて三つの世界の軍は、時期こそちがえどそれぞれに駐屯軍のみを残して侵攻を停止した。だが、一部の高位悪魔や上級鬼神は、リィンバウムで報復のために暴れ回り、各地で不遜な略奪者ではなく哀れな子羊に成り下がったリィンバウム人を叩き潰していった。それを問題視した穏健派の大天使や龍神がリィンバウム人に味方して彼らとの戦いを始め、各世界の本国でもそれに伴って緊張が高まっていった。このままでは世界の内部で致命的な戦いに発展しかねない事を悟った三つの世界の代表は、メイトルパに使者を派遣して、ある提案をした。それは即ち、人間の視点ではなく、世界レベルでの監視態勢を作り上げる事である。それはロレイラルにて提案された事が、記録として残っている。後に言う、プロジェクト・エルゴの発動であった。

エルゴと呼ばれた存在は、ロレイラルの科学技術、サプレスの魔法技術、シルターンの戦争に対する知識、更にメイトルパの生命力を結集して作り出された。ロレイラルでプロジェクトが発足すると、長引いた緊張状態に苦慮したシルターンが最初に、サプレスが続いて、興味を持ったメイトルパが最後にプロジェクトに協力した。リィンバウム人の代表は呼ばれなかったが、これは仕方のない事であっただろう。

やがて完成した(人工神)とも呼べる存在は、五号機まで作られ、五つの世界にそれぞれ分配された。人工神はプロジェクト名をそのままとって、エルゴと呼ばれた。エルゴは端末を延ばし、順調に世界そのものと一体化していき、それぞれの世界の最高実力者と精神レベルで融合した。サプレスでは、魔王と呼ばれる悪魔の最高実力者及び、神と呼ばれる天使の最高実力者と。ロレイラルでは惑星大の超巨大コンピューター二機と。シルターンでは、龍神族の長と、鬼神族の長と。メイトルパでは、光と闇の竜皇帝達と。リィンバウムでは、融合すべき存在を得なかったため、世界そのものと一体化した。

それで各世界の代表者達は、事態の打開が計られるかと安心したが、エルゴは意外な行動を取った。五つの世界に関わる事であるから、リィンバウムの代表者の意見も必要だと言ったのである。そうして選ばれたのが、現在召喚師達の間で、(エルゴの王)と呼ばれる存在だった。エルゴの王はエルゴ達からは、自らと契約する事を誓約した存在、リンカー(誓約者)と呼ばれた。

 

エルゴの王は、様々な苦難の末、膨大な実力を身につける事が出来た人間だった。彼はエルゴに選ばれると、一つの提案をした。五つの世界間に、表立ってではない、だが裏では厳然とした協力関係を確立する事であった。各世界の代表を交えた話し合いの末、それは容認された。そうして選ばれたのが、送還術と召喚術である。

まず最初に使われたのが送還術であった。エルゴの王はリィンバウムで未だに暴れる、サプレスの悪魔を中心とする勢力を、自身と弟子達の送還術で強制的に追い出していった。送還術が今形に伝わっていないのは、その威力が伝わっているだけの事であって、実際に使った人間が極少数だったからである。一部の大悪魔、特に悪魔王メルギトスを代表とする勢力はしぶとくリィンバウムでの凶行を繰り返していたが、エルゴの力には流石の彼も為す術が無く、何とか逃げ延びたものの力を奪われて無力化した。それが終わると、各地に駐屯していたサプレス、ロレイラル、シルターンの各軍勢は撤退していった。リィンバウムから、異界への恒常的なゲートを作る技術を、慎重に取り除きながらである。

続けて行われたのが、召喚術の供与と、契約であった。各世界は必要な物資を得るのに既に成功していたが、しかしこのまま交流が続かなくなると、やはりマナが不足するのは目に見えている。そのため、リィンバウムからマナを得る方法が必要になったのである。そこで、リィンバウムに送還術を逆用した召喚術を普及させる事が決定された。これは要するに、傭兵としてメイトルパ、シルターン、ロレイラル、サプレスの者達をリィンバウム人が呼び出す代わりに、各世界にマナを支払うという物である。召喚術の際、召喚師が消費する魔力は、このシステムによって各世界へ供給されているのだ。四つの世界以外からも、たまにリィンバウムへ呼び出される者がいたが、これは単純な術のバグであった。そして、事態は安定した。リィンバウムから恒常的に供給されるマナは各世界を潤し、リィンバウムも他世界への干渉を行えず、復旧していった。こうして、現在に至るまで、良好な各世界間の関係が継続されたのである。

 

2,最初の試練

 

エルゴの話が終わると、場はしばし沈黙に満たされた。必死にメモを取っていたミモザは汗を拭って嘆息し、ギブソンは頭を振って何かを呟いている。流石に蒼の派閥の現役召喚師達にとって、今まで彼らが知っていた歴史と全く異なる真実は、ショッキングなものだったのであろう。

「以上、何か質問はあるだろうか?」

「はい、いいですか?」

誰も質問しなかったので、しばしためらった後綾が挙手した。

「歴史と、各世界の関係についてはよく分かりました。 特に話に矛盾もありませんし、召喚術と送還術の存在にも納得がいきました。 ただ、エルゴさんの数が足りないようなのですが」

「サプレスのエルゴは、此処にあり、此処にない。 リィンバウムに最も触手を伸ばしているのがかのエルゴだ。 そしてそれが故、形を取らない。 だが、話は聞いているから、安心して話すがよい」

『? リィンバウムに概念的存在として定着していると言う事でしょうか? 或いは何処にでもあるような存在となっているとか、関わっているとか。 何処にでもある存在というと……』

「流石に鋭いな。 大体そんな所だ」

心をまたしても見透かされて、綾は口をつぐみ、頭を振った。精神的なプライバシーを覗かれて気分が良くないのである。怒りを伴うのではなく、むしろ嫌悪感なのだが。憮然とする綾に対し、エルゴは口調を緩めた。

「リンカーの心証を悪くしてはいかんな。 では、以降は心を覗かない事とする」

「すみません、エルゴさん」

「話を進めよう。 次は、何故汝を我らが選んだかという点だ」

何の遠慮もない言い分は、何処か最初の頃のカシスのそれに似ていた。忌々しげに舌打ちするガゼルの横で、ラムダはもっと不快そうに目を細めている。エルゴはそれらを一切無視して、話を続けた。

「汝は不思議な(塔の力)を身に宿している。 覚えがあろう」

「はい」

「本来それは、長き修行の末、膨大なる知識と力量を得た人間が手にする力だ。 だが、汝は特殊な状況で身につけた。 しかしながら、現在汝はそれを非常に上手く使いこなしている。 それが我らが、汝を選んだ理由だ。 本当のところ、候補者はもう一人いたのだが、その者はこの世界のバランス倒壊に根本から関わっている。 故に素質として劣る汝に白羽の矢を立てた。 汝には、我らの代行者として、お前も分かっている歪みの根元の排除を行って欲しい。 我らが直接歪みを補正する事も出来るが、それには各世界の代表者による承認も必要となる。 我らが直接動く事には反対する者も多く、再び各世界を巻き込んだ大乱が起こる可能性がある。 サプレスのため、リィンバウムのためにも、代行者たるリンカーに歪みの排除をさせるのが適任だと我らは判断したのだ」

「おい、どういう事だ?」

ガゼルの疑問に、綾は唇に指先をあて、しばし考え込んだ後に返答した。彼女としても、説明が難しい所だったからである。

「ええと、私が時々不意に新しい力を手に入れるのは知っていますよね」

「ああ、何だか良くわからねえが、手に入れてたな」

「此方に召喚されてからなのですが、私の心の中には、不思議な塔のイメージが出来ていました。 何か経験を積んだり、覚悟を決めたりしたとき、その天井が一枚ずつ破れるイメージが浮かんで、新しい力を手に入れていました。 ただの精神的なイメージだと思っていたのですが……」

「それが、此奴らの言う(塔の力)、だって言うのか? 確かに不思議な力だけどよ、そんなにとんでもねえ力だったって言うのか?」

不安そうな綾の視線と、いぶかしげなガゼルの視線を受けて、エルゴは淡々と応える。

「それは、人が人を越えるための力だ。 いや、生き物としての限界を越える力と言っても良い。 我らエルゴは、(超越者の塔)と呼んでいる」

「おいっ! そんな力使って此奴の体は大丈夫なんだろうなっ!」

「今のところは、大丈夫だ。 しかし今後は、大丈夫ではなくなる」

音が場から消えた。しかしそれは長続きせず、さながら霊安室のように静まりかえる空間に、再びエルゴの声が響き渡る。

「塔の力の詳細は、世界の記憶の集積体たるアカシックレコードより情報をダウンロードするものだ。 今までその娘は、体に負担がかからない範囲内でそれを使ってきた。 だが我らと契約し、世界を是正しうる力を得れば、それは過去形になる」

「具体的に、何がやばいんだ?」

「その娘は、徐々に人ではなくなる」

「なん……だと?」

ガゼルの減らず口さえ精彩を欠く。黙り込んだ彼に代わって、レイドが前に出た。皆が困っているときに、行動する意味を知るレイドだから出来た事だった。

「どういう意味だ、それは」

「精神的に、人ではなくなっていくと言う事だ。 アカシックレコードよりダウンロードされた情報量が人間の許容出来る範囲を超え、内的世界が強制的に膨張を開始する。 それに伴い、本人には激しい拒絶反応が心身共に出るだろう。 更に、過剰な力を持つ人間が、どういう扱いを周囲から受けるかという問題もある。 特にリィンバウムでは、な」

「私は……私達は、何があっても彼女を護る。 愚かな連中から、必ず!」

「良く言ったぜレイド、俺も同感だ。 俺達の大事な仲間を、世間なんてもんにずたずたにされてたまるかよ!」

レイドとガゼルに続いて、モナティが綾の腕を取って、エルゴに舌を出した。カシスはずっと黙って話を聞いていたが、ガゼルとレイドの視線を受けて、確固たる決意を瞳に宿して頷いてみせる。しばし俯いていた綾に、エルゴは言った。

「……やる気のない者に、大役を任せるわけには行かぬ。 時間をやろう。 自らの身を削って、世界を是正するか。 それともこのまま帰り、別の適任者が現れるのを期待するか。 選ぶがよい。 拒否したとしても、我らは責めはしない。 というよりも、お前を責める資格のある者など誰もいないだろう」

「……いえ、時間なんて、いりません」

「既に、心は決まっているというのか?」

「はい。 私は、契約を受けさせて頂きます」

 

「本当に良いの? やらなくったって、誰も君を責めたりしないよ?」

サモナイトソードを鞘から抜いて、刀身を点検している綾に、カシスが後ろから声を掛けた。しばし鏡のように磨き抜かれている刀身を眺めやった後、綾はサモナイトソードを持ち直し、角度を変え、自身の顔を映しながら言った。そこには、綾の優しげで儚げな笑みがあった。いつもと変わらない、平常心の笑みが。

「バノッサさんの言葉、覚えていますか?」

「どの言葉?」

「覚悟についての、言葉です」

「……うん」

バノッサが吐き捨てた、妄執に満ち、だがある意味では正しかった言葉。全てを賭けてでも、欲しい物を手に入れたい強烈な意志の発露。俯くカシスに、調子を変えずに、綾は言う。

「私、みんなを護りたい、と思います。 みんなが私を護りたいと言ってくれたように、示してくれたように。 だから私も命をかける。 それだけです」

「人間じゃ、なくなっていくとしても?」

「はい。 命を失えば、いずれにしても人ではなくなるのです。 戦場では、誰もが命をかけて戦っています。 覚悟の量は違えども、それに代わりはないはずです。 その後の人生、未来、展望、その全てを賭けて。 多少普通と違う形であっても、それと同じだと思えば……」

「でも、怖くないの?」

綾はサモナイトソードを鞘に収めた。軽妙な音と共に、素晴らしい切れ味を示す刀身が身を隠す。次に姿を見せるときは、敵を切り裂くときだ。刀とは、武器とは、結局相手を殺すための道具である。そして誰かを護ると言う事は、そのために敵を殺すと言う事だ。護るために戦うというのは、護るために傷つけると言う事なのだ。

「怖いです、もちろん。 でももう決めました。 今私が頑張らないと、サイジェントが滅茶苦茶になってしまいます。 それに、エルゴさんの話からすれば、これからリィンバウムが酷い事になるのは確実です。 私、そんなのは嫌です。 そんな事になれば、リプレや子供達や、みなさんが確実に苦しみます。 ……フラットのみんなは、はじめて(私)を見てくれた、命より大事な仲間です。 みんなに助けられた事は、もう数え切れないほどです。 だから私は、覚悟を決めました」

「斬るの? バノッサを」

「はい。 必要であれば」

「……分かった。 君は、私が護ろうとしなくても、充分に身を守れるかも知れないね」

「ううん、嬉しいです、カシス。 いつも私を護ろうとしてくれて」

その時カシスに返した綾の笑顔は、今までのいつの笑顔よりも澄んでいた。皆の前にゆっくり進み出る綾。エルゴの声が、辺り一帯へ均等に響き渡る。

「準備は万端なようだな。 では、契約について説明する。 契約は、四つの試練を伴う物となる」

「試練、ですか?」

「お前の力や戦歴は調べさせて貰ったが、やはりリンカーになるにはそれ以上の実力を各世界の住人に見せる必要がある。 そうでなければ、世界の意志たる我らエルゴとの契約を、誰が容認しようか」

「分かりました。 具体的な試練の内容をお願いいたします」

僅かにサモナイトソードを持ち上げながら綾が言う。手首には汗が浮かんでいて、身体的な緊張が高まっているのは明らかだった。

「第一の試練は、我リィンバウムの試練。 お前には、門を潜って貰う」

「……?」

「人を斬ってもらうぞ。 敵を殺した事は何度かあるようだが、同族に対するタブーは今後の戦いで邪魔になる。 実際に他を殺せる覚悟でなければ、幾ら抱いたとて無駄なのでな」

綾の眼前で、小さな影が、ゆっくり身を起こした。それは、そのまま綾の姿をした存在だった。ご丁寧にも刀を手にしており、だが目には感情がなかった。

「他の者は手出し無用だ。 どちらかが死ぬまで、戦いは続く。 それは影だが、血もあれば肉もある。 感情はないが、当然斬れば苦しむぞ」

「なんてえ、趣味が悪いやり方だ」

「しかし、同意が出来ぬ訳ではないな。 戦いに身を置く者なら、誰もが潜る門でもある」

「確かにそうですね。 しかし、何とも凄惨な」

スタウトの言葉に、ラムダが戦人としてのフォローを入れた。イリアスは不安げにそれを見ながら、多少の苦言を呈する。綾が頷き、無言でカシスは引き下がった。皆の視線が集まる中、徐々に戦気は高まっていき、どちらからでもなく、二人の綾は腰を落として獲物の鯉口を切った。しばしの睨み合いを経て、両者は激突した。

 

スピードは、完全に五分。水晶のような地面に僅かにつもった埃が跳ね上げられ、全く同じ二つの影がぶつかり合った。一合、二合、三合、激しい金属音が響き、地面を踏みしだく音が散る。閃光が跳ね、絡まり合ってほどける。業の限りを尽くして相手に剣を貫き入れようとする二人の綾。オリジナルの綾は、しばし刃を交えた後、素早く思惑を巡らせた。

『パワー、スピード、テクニック、いずれもが計ったかのように五分ですね。 しかし、(影)の動きには、まるでムラがありません。 付け入る隙があるとすれば、そこです』

数歩下がるオリジナルに対し、影はそのまま距離を詰め、激しい斬撃を叩き付ける。完全に殺すための一撃で、容赦という物がない。技量も五分であるし、下がった方が不利になる。だがオリジナルの綾も下がりつつ的確に攻撃を阻み続け、容易に付け入る隙を見せなかった。戦いは長期戦になるかとも思われたが、徐々に乱れ始めたのは、影の方だった。逆にオリジナルの綾は激しい斬撃を受けきると、汗を振り払って、攻勢に転じた。影が蹌踉めき、オリジナルは遠慮無く斬撃のラッシュをかける。

『やはり。 感情が落ち着きすぎている分、ペース配分を知らないようですね。 このまま、一気に決めます!』

大上段からの一撃を叩き付け、影が一歩蹈鞴を踏む。それに乗じてオリジナルは間を詰め、以前ラムダに貰ったような膝蹴りを鳩尾に叩き込んだ。だが流石に影、吐血こそすれどただでは屈せず、続けての攻撃を打ち込もうとするオリジナルに近距離からゼロ砲を叩き込んだのである。とっさの一撃であったから、さほどの威力はなかったが、オリジナルを吹き飛ばすには充分だった。数度地面を転がった後、オリジナルは受け身を取って跳ね起きたが、体制を整えた影は間近に迫っており、再び激しい連打を繰り出す。再び戦況は五分に引き戻され、眉を急角度で跳ね上げたラムダが言った。

「おい、エルゴ。 俺達から何か口出しはしても良いのか?」

「口だけなら構わぬ」

「そうか、ならば遠慮無く言わせて貰おう。 アヤ! 自らを相手に、理屈だけでは勝てんぞ! 覚悟を持て! 俺の背を地に着かせたときのような、覚悟を持って挑めっ!

『! そうでした、覚悟を決めないと! 感謝します、ラムダさん!』

中段からの重い一撃をからくも弾くと、再びオリジナルは一旦守勢に戻った。そして影の動きを冷静に見ながら、チャンスをうかがう。影は短時間で急速に感情を学習してきているが、まだまだ駆け引き自体には疎い。だが、此処で失敗したら、もう同じ手が通じる保証は無い。自分の癖も考慮し、相手の一挙一同を見ながら戦うオリジナルの額に汗が浮かび、小さく息を吐く。次の瞬間、チャンスが訪れた。影が、一歩退いたのである。そのままオリジナルは袈裟懸けにねらい澄ました一撃を叩き付けるが、影は肩から胸に掛けて浅く切り裂かれつつも、素早い動きで下がって致命傷は避けた。そして、大上段に構え、体勢を崩したオリジナルへ渾身の一撃を叩き付けた。これこそが、待ちに待った瞬間であった。

オリジナルが息を止め、(集中)の力を最大限に駆使する。そのままサモナイトソードの刃を逆向きに返し、自らも踏み込んで、斜め下から敵心臓を狙う。集中を駆使したのは、頭への斬撃を避けるため、そして一撃を的確に決めるため。集中によって僅かに体を左にずらすと、右腕を捨てる覚悟で、オリジナルは影へと体ごとぶつかって行くような勢いで突貫した。集中を駆使しているとは言っても、恐ろしく早く刃は迫ってくる。そして、最初にオリジナルの体に刃が届いた。肩へ焼け付くような痛みが走り、瞬く間に皮膚を切り裂いた刃は肉を切り、骨にまで達した。だがオリジナルは歯を食いしばり、一息にサモナイトソードを敵の体、その中心へ貫き入れたのである。それによって威力が鈍ったといえど、敵の刃は肩骨の半ばまで食い込み、鮮血が吹き出している。だがサモナイトソードもみずみずしい肉を味わい、刀身を朱に染めつつ、歓喜の声にも似た音を立てて獲物の中へ入り込んでいった。そして背中の皮を突き破って、顔を出したのである。血みどろの顔を。

集中が切れた。流石に影、一撃は心臓を僅かに外したが、動脈を損傷し大量に吐血して蹌踉めく。オリジナルも、右手に強烈なしびれが走り、凄まじい脱力感が身を覆っていた。影はそのまま、苦悶の表情を浮かべつつ、刃を更に引こうとする。オリジナルも、遠くへ行きかける意識を必死に引き戻し、一息にサモナイトソードを引き抜かんとする。そして、勝利したのは、オリジナルだった。心の中で、影に謝りながら、一気に綾はサモナイトソードを相手の肉体から引き抜いたのである。

のけぞった影の胸から鮮血が吹き出し、数歩の後退の末、どうと倒れる。オリジナルも肩に敵の刀を差したまま蹈鞴を踏んで蹌踉めき下がる。だが、何とかオリジナルは踏みとどまった。柄まで朱に染まったサモナイトソードを肩から流れ落ちる鮮血で更に染めながら、必死に握りしめる。肩で息をつきながら、大量の出血と、何より人間の肉を切った際の強烈なインパクトで遠くへ行きかける精神を必死に引き戻す。

『これが、人を斬る感触ですか……なんて、嫌な感触っ!』

痛みではなく別の理由で、オリジナルの目からは涙が流れ落ちていた。霞む視界を、凝らし、オリジナルは倒れて痙攣している影に歩み寄っていく。既に床には血だまりが出来ていて、気をつけなければ滑って転ぶ事が疑いない。自分以上に呼吸を乱し、もだえ続けている影の上に立つと、オリジナルは、樋口綾は、両手でサモナイトソードを逆手に握る。そして崩れ落ちるように座り込みながら、首筋へと突き降ろしたのである。刃は狙い違わず頸動脈を貫き、一度大きく痙攣して、影は動かなくなった。殆ど血は流れきっていたのか、それ以上血が噴き出す事もなく、無言のまま綾は今殺した影を眺めやっていた。感覚が麻痺するほどの痛みが全身を覆っていたが、それ以上に心の痛みは激しかった。世の中には嬉々として人を殺せる者も多いが、綾にとってそれは地獄だった。

綾は身を起こそうとしたが、それは出来なかった。緊張が解け、そのまま右に、転ぶように血だまりの中へ倒れ込む。血は赤を通り越して黒く、強烈な酸化鉄の匂いがした。一張羅を鮮血に染めながら、綾は最後の意識で考えていた。まだ刺さっていた刀は更に傷口を大きくしながら外れ、床に転がった。

『これが……私の覚悟の形。 私が決めて……踏み込む世界……』

 

綾が意識を取り戻すと、そこはまだエルゴの世界だった。身を起こそうとする綾を、モナティとレイドが制止する。

「いや、まだ寝ているんだ。 それにしても、よくやったな。 君の勝ちだ」

「マスター、痛くないですの? 血が、いっぱいでてましたの」

「痛いです、とても。 でも、大丈夫。 頑張れます」

綾は肩に手を触れたが、出血は何とか止まっていた。その代わり、失血が酷く、全身に脱力感が残っていた。また、傷は完全には消せず、跡になるのが一目瞭然である。ありとあらゆる意味で、もう日常には戻れない事を綾は悟った。

『オプテュスの人達に裏切られたとき、宝玉を飲み込んだとき、バノッサさんはこんな気持ちだったのでしょうか……』

ふと気付いてカシスを探すと、件の召喚師は床にへばって大きく肩で息をついていた。プラーマを連続で使用した事は一目で分かる。半身を起こして礼を言おうとした綾に向け、エルゴが声を発した。

「見事だ。 汝は試練の一を突破した。 我、リィンバウムのエルゴは汝を真たるリンカーと認めよう。 残り三つの試練を越えたとき、五つの世界が汝を認める事となろう」

「残り三つの試練は、何処にあるのですか?」

「今分かる」

次の瞬間、今までにないほど強烈なイメージが、綾の中に入り込んだ。塔の天井が十枚以上も一度にはぜ割れ、粉々になって降り注ぐ。同時に強烈な嘔吐感が現出し、綾は激しく咳き込んだ。失血による脱力感と、嘔吐感が全身を締め付け、激しく彼女を責め付けた。

だが、エルゴの言葉は正しかった。今まで綾は、新しく手に入れた力を、検証せねば正体を特定出来なかったが、現在は違った。自分がどういう力を手に入れたか、綾は具体的かつクリアに悟っていた。苦しむ綾にはお構いなしの様子で、エルゴは続けた。

「汝が間に合わなければ、我らは力尽くで事態を解決する。 そうなれば、リィンバウムの半分は焦土と化すと知るがいい。 そしてそうなれば、もう我らは、二度とこの世界の人間には文明を与えぬ」

「こほ、こほっ! 二つ、聞かせてください。 一つは、何故魔王が召喚されてしまうのか。 いま一つは、どうしてそれほどリィンバウムの人間に、愛想を尽かしているのですか?」

「一口に獣神と言っても、その存在は果てしなく巨大だ。 その中には無数の肉体的精神的存在があり、様々な側面がある。 今、リィンバウムに呼び寄せられようとしているのは、魔王の中でも最も原初的な部分だ。 それは蛾が灯りに引き寄せられるように、この世界に来ようとしている。 ただそれが意図的なものかそうではないかまでは、流石に我らにも分からぬ」

『なるほど、文字通り(神)と呼ぶほどに強大な存在なのですね』

想像以上に巨大な獣神の存在を実感した綾に、エルゴはさらなる核心を投げかける。

「そして、この災厄は、人の罪業によって生み出された。 むしろリンカーとして世界を導くほどの者を絶望させ、破壊に駆り立てたのは、人間だ。 それを忘れるな、リンカー足る者よ。 我らはリィンバウム人の傲慢さが原因で生み出され、今又その愚かさの尻ぬぐいをしようとしているのだ」

「ケッ! 全部の人間が、そうじゃねえよ」

「貴方達が認めたのも、また人間ではないですか」

「だが、そう言った人間が相対的に多すぎるのは確かだ。 それは認めざるを得まい」

ガゼルとスウォンを一言で黙らせると、エルゴは今まで以上の光を放ち始めた。それは辺りを白一色に漂白していき、やがて空とエルゴは見分けがつかなくなり、さらには誰も目を開けてはいられなくなった。

「人間達よ、汝らは決して特別な存在ではない。 それを常に思い出し、奢るな」

エルゴの声が響いた。憂いと、悲しみと、切なさを含む声だった。

 

意識を取り戻した綾が顔を上げると、其処は南スラムの一角だった。欠けている者は誰もいなかった。一瞬幻覚を見たかと思った綾の服は肩の辺りで切り裂かれ、傷の跡が残っていた。それに、今までにない強大な力が、体の中で蠢いているのも感じられた。

視線をずらすと、辺りには変わらぬ南スラムの姿。遠くには、フラットのアジトも見えた。其処には灯りがつき、子供達の声も聞こえた。カシスに肩を借りて立ち上がりながら、綾は言った。

「みんな……私が護ります。 絶対に」

何者にも砕けぬ決意が、其処にはあった。厳然として、確固として。

 

3,試練への出立

 

「おかえりなさい」

「ただいま。 迷惑を掛けました」

「ううん、そんな事無いよ。 すぐ夕食作るわね」

何事もなかったかのように、リプレは言った。子供達に心配を掛けぬ為、様々な配慮をしていたであろう事。更には、いつ帰ってきても良いよう、様々に準備をしていてくれた事。一目でそれらが明かであった。限りない感謝と共に、綾は彼女に礼をした。レイドは入り口で皆に振り返り、言った。

「悪いが、ガゼル、カシス、君達は夕食後に居間で会議だ。 後の皆は、めいめい休んでくれて構わない」

「わりい、言葉に甘えさせて貰うわ。 レイド兄さん、アンタも無理はしないようにな」

「取り合えず、僕は今日泊まっていきます。 迷惑をおかけします」

「アヤ、君は先に着替えてきてくれ。 流石にそれは、子供達に見せるわけには行かない」

口々に言い、疲れ果てた様子でジンガとスウォンが居間に入っていった。ラムダはそれを見ながらセシルとスタウトに振り返り、言った。

「俺達は戻るぞ。 リシュールとペルゴと合流し、情況の整理を行う」

「へいへい、早めに切り上げて休みましょう」

「そうだな。 お前達は休んでいてくれ。 後は俺達で片づけておく」

「ラムダ様、お体に触ります。 少しはお休み下さい」

心配するセシルの言葉に、ラムダは笑顔で首を横に振り、さっさと歩き始めた。アキュートのリーダーとして、今此処で先に休むわけには行かないのである。レイドも情況は同じである。そして、一番辛い綾も、何度か夜道を走らねばならないガゼルも、同様に重い責務を背負っている。

リプレの夕食はすぐに出て、名人芸のその味は皆の重い心を多少なりと癒した。全員が意図的に戦いの話を避け、だがレイドは子供達の話し相手をきちんとした。子供達は、大変な所に行って帰ってきた事だけは知っていたが、具体的に何をしてきたかまでは知らなかった。適当に話を濁しつつ、レイドは笑顔を交えていた。

綾は一旦部屋に戻り、学生服に着替えてきていた。久しぶりに着る学生服は冷たく、何か自分には似合わないような気がしていた。肌からはまだ多少血の臭いがして、綾は苦笑した。

『本当はお風呂に入ってきたかったのですが、無理ですね。 それに食欲もありませんけど、此処で食べておかないと』

先ほどの嘔吐感は今も残っており、美味しいはずのリプレの料理も、さっぱり味がしなかった。笑顔を崩さないまま無理矢理口に夕食を押し込むと、再びこみ上げる嘔吐感を何とかこらえ、綾は続けて行われた会議に参加した。一旦リプレは子供達の世話をするために席を外し、レイドはガゼルとカシス、それにエドスとローカスだけのメンバーで、手短な会議を開始した。まず最初にレイドはエドスとローカスに事情を説明し、半信半疑ながらも巨漢と元怪盗は頷いて事情を飲み込んだ。続けて現在の情報を求めると、エドスは不可思議そうに小首を傾げる。

「それがな、分からない事ばかりだ。 城に立てこもったバノッサは出てこんし、城の外に陣取った大軍は動こうとせん。 いや、動いてはいるが、遠巻きに間合いを計ってる感じだな」

「何処の軍隊かは、分からないのか?」

「それはもうわかっとる。 蒼の刃の連中の話によると、蒼の派閥と金の派閥の連合軍だそうだ。 サイジェント軍も、体勢を立て直して、それに加わったらしい。 サイジェント軍の一部は街の中の何カ所かに展開して、市民に食料を配布してるが、街道はもう全部封鎖されとるな」

「軍の規模は合計でおよそ一万と聞いたが、そうなると相当前から準備していたな。 ……包囲軍も、城に立てこもった連中がただ者ではない事は把握しているのだろう。 しかし、城に立てこもった側は何をしているんだ?」

「あんたたちが消えてから五日も経ったんだが、何も分からずじまいだ。 すまないな」

エドスは首を横に振り、ローカスは嘆息した。何しろ無色の派閥は城だけを押さえて、街には一切手を出していないのである。北スラムは蹂躙されたが、その後の北スラムは悪魔の影も形もなく、騎士団先発隊の占領下にある。ただし、城に入った蒼の刃の隊員は、一人も帰ってこなかった。

皆の疲れが見えてきたので、多少重要事を確認すると、ガゼルが言った。欠伸をかみ殺すのが、いい加減に辛そうである。

「それで、これからどうするんだ?」

「エルゴの試練を受けて、一刻も早く事態の打開を計ろう。 アヤ、エルゴの話によると、試練の場所は分かると言う事だが?」

「はい。 地図を見せてもらえますか? 出来るだけ縮尺が大きいものが良いのですが」

すぐに今までに何度も作戦会議に使った地図が出されたが、それに触れた瞬間綾は首を横に振った。不審そうに、ローカスが眉をひそめる。

「ん? どうしたんだ?」

「この地図の外にあります。 三カ所とも」

「おいおい、エルゴの力ってのは伊達じゃねえな。 もっと大きな地図というと」

「これなんかどう?」

戻ってきたリプレが、二つ地図を出してくれた。おそらく途中から話を聞いていて、気を利かせてくれたのであろう。そのうち一つは大陸の半分ほどを網羅するほどの広域地図で、小さいが若干雑であった。今ひとつは大きさこそかさばるが、非常に精緻で詳細な地図であった。先に綾は広域地図に手を触れ、目を閉じた。彼女の体が蒼く発光し、四秒ほどの沈黙の後、目を開けた誓約者見習いは激しく咳き込んだ。

「お、おいっ! 大丈夫か?」

「ごほっ! ごほごほっ! は、はい。 すみません……」

「明日にした方が良くないか? 体に触るだろう」

「いいえ、一刻も早くこの力に慣れないと。 リィンバウムのエルゴの力を受け取ってから、わかり始めました。 もう残っている時間はそう多くありません。 エルゴの試練を受けて帰ってきたら、殆ど時間的に猶予はないはず。 無理、しなきゃ行けないのです」

額の汗を拭うと、今度は大きな地図を広げて、上に指を走らせていく。その上の三カ所で、綾の指は止まった。用意良くリプレが印を付けていき、それを終えると綾は席に倒れ込んで、ぐったりした様子で息を吐いた。レイドは彼女をフォローするように、地図を見据える。

「此処は見覚えがある。 おそらく剣竜の峰だろう」

「何だそりゃ?」

「剣士の目的地として有名な所だ。 何でも膨大な数の剣を蓄えている竜が住んでいるとかで、気に入った人間にはコレクションを進呈するそうだ。 ただし、非常に険しい土地ではぐれも出るから、並の実力では会う事さえ出来ないらしい。 その上、気にいられるには、まず超一流の実力を持たないと駄目だそうだ。 剣竜に気にいられる事は、文字通り剣士の夢だ」

「そいつが第一の試練の相手か。 他は?」

レイドは首を横に振り、ローカスが深刻そうに続いた。

「なあ、此処なんか旧王国領だぞ。 まっすぐ入り込むのは難しそうだな」

「となると、その分の時間ロスも考えないと行けないな」

「ちょっと」

リプレが二人の会話を止めたのには訳があった。綾が目を閉じ、蒼白になっていたからである。どれほど彼女の消耗が大きいか皆はすぐに悟り、無言のまま会議は解散になった。リプレは肩を貸して、綾を部屋まで送り届けた。ベットの上に、蹌踉めきつつ綾が倒れ込む。リプレは、いつになく真剣な顔で言った。

「血の臭い、すごいわよ。 人斬ったの?」

「……はい。 ごめんなさい」

「そう。 貴方がそうせざるを得ないほどの情況だったのね。 謝らなくても良いわよ」

信頼しきってくれているリプレの言葉が、綾には痛かった。リプレは布団を掛け、それ以上は何も言わずに部屋を出ていった。もう、意識を維持している事も出来なくなった綾は、そのまま眠りに落ちた。

 

翌朝、リプレが気を利かして湧かしてくれた朝風呂に入って血の臭いを落とすと、綾は違和感を感じて掌を見た。疲労がかき消すように消えているのだ。それに、幾らプラーマを連続で掛けたからとはいえ、肩の傷も回復していた。多少跡が残ってはいたが、幾ら何でも回復が早すぎる。それでいながら、微妙な嘔吐感は消えておらず、総合的に体調は悪いままだった。

エルゴが言った、徐々に人間ではなくなると言う言葉。頭を振ってそれを追い払うと、綾は居間に入った。其処では既にフラットとアキュートの主要メンバーが集まって、情報の交換をしていた。流石に今日は、ジンガやアカネも参加している。綾が居間に入るのを見ると、レイドが手を叩いていった。

「では、本題に入ろう。 例の試練の話だ」

「俺は半分ぐらいの人数が良いと思う。 もしバノッサが攻めてきた場合、残ってる人数が少ないと、かなりやばいはずだ」

「同感、だな」

ガゼルの言葉にスタウトが頷く。二人の顔を順に見ながら、ラムダが続けた。

「次は、行くべき人間だが、どうやって選ぶ?」

「まず、実力者だな。 力が足りない奴は、アヤが出てる間に修練しておく必要があるだろうし」

「となると、ラムダ様、レイドさん、それにガゼル君とカシスさん、貴方達は決まりね」

「セシルさん、僕も行って良いですか?」

おそるおそる手を挙げたのはスウォンである。彼は皆の視線が集まる中、地図の一点を指さした。綾が指定した試練の一カ所は、鬱蒼とした森の中にあったのだ。

「この森を抜ける際、僕の知識は役に立つと思います」

「そうだな、確かにその通りだ」

「はいはーい、私も行って良いかしら?」

「み、ミモザ?」

ミモザが嬉々として挙手する。不安げに言うギブソンの背を叩き、彼女は綾に笑顔を向けた。

「蒼の派閥関係者として、ううん、召喚術の研究に命をかける本当の意味での蒼の派閥の召喚師として、誓約者の誕生に立ち会うのと、歴史の真実を見るのは夢なのよ。 それに、包囲陣を抜けるときにも、私の存在は必要なはずよ」

「確かにそうですね。 ミモザさんがいれば、余計な手間が省ける気がします」

「ギーブーソン、此処に残って蒼の刃の指揮と、報告書まとめておいてくれない?」

「どうせ、私の体力では着いていくのは無理だろう。 仕方がない、やっておこう」

やはり、ギブソンも本当は同行したかったのだろう。うなだれる様は少し哀れであったが、二人のうちどちらかが残らなければならないのも事実であった。ミモザは勿論情報を最大限収集する事を約束したが、最後までギブソンは少し残念そうにしていた。モナティは体力がないために参加を却下され、綾になだめられて着席した。エルカも同様である。二人をなだめ座らせる綾をみながら、レイドが言った。

「セシル、君にも同行を頼めないだろうか」

「私が?」

「医療技術を持つ者の同行は心強い。 それに、ストラも使える事だしな」

「そうね、ありがとう。 喜んで同行させて貰うわ」

若干安心したようにセシルが言い、ラムダの方を見て嬉しそうに目を細めたが、それには綾以外誰も気付かなかった。

続いて挙手したのはアカネである。もはや出自を隠さねばならぬ事さえ忘れて、脳天気極まりない声で言う。

「あたしもいくー! ねえねえ、いいでしょ? あたしこれでもくのいちだから、周囲の偵察や、情報収集はおてのもんだよ。 スウォン君と組めば、食料の現地調達だってちょちょいのちょいなんだから!」

「確かにその技能は野外行動では心強い。 ……大体、この位か?」

「先輩、僕も行きます」

「イリアスか、騎士団長としての責務はいいのか?」

多少揶揄するようなラムダの言葉に、イリアスは笑って言う。

「実際問題、騎士団はサイサリスがいれば大丈夫です。 更には、イムラン殿も人が変わったように優れたお人になられました。 私に今できるのは、アヤ殿、貴方を助ける事だけですよ」

「……ありがとう、ございます。 よろしくお願いしますね」

「ふむ、なるほど。 騎士団の指揮を執るより、そちらの方がサイジェントに貢献出来るというのだな。 その意気、流石だ」

感心して言ったラムダが辺りを見回すと、これ以上名乗り出る者はいなかった。以上、綾と共に出る者は、ガゼル、レイド、ラムダ、カシス、スウォン、ミモザ、アカネ、セシル、イリアスの九名に決まった。残留組は、エドス、ローカス、ジンガ、モナティ、ガウム、エルカ、スタウト、ペルゴ、ギブソンの九名である。

「エドス、留守は頼む」

「おう、まかせておけ。 お前さんより強くなっておいてやるわい」

「ペルゴ、留守の総指揮はお前に一任する。 スタウト、皆の訓練を見てくれ」

「はい、ラムダ様。 必ずや留守を守り通して見せます」

「おうともよ。 みなの実力、三割は引き上げて見せますぜ」

レイドとラムダが口々に言い、残留者の代表に事後を託した。すぐにガゼルは進行路のチェックに入り、セシルはアキュートの一般兵士に命じて必要物資の確保に当たらせた。ローカスはつてを伝って街の情報収集を開始し、また包囲側の情報も調べ始めた。ギブソンは難しい顔で自らが体験した事を整理し始め、ミモザは再び旅に出るための準備を始める。そんな中、綾はふと疑問に思った。今まで戦略レベルの会議には必ず関わってきたリシュールがいないのである。

「ラムダさん、リシュールさんはどうしたのですか?」

「彼奴は蒼の刃と兵士を会わせて十人ほど連れて、街の外壁に上がっている。 包囲陣のチェックと、今後の対策を練るためだそうだ」

『流石です、リシュールさん。 行動が早い』

「だが、ここ数日は彼奴もやる気をなかなか出せなかったそうだ。 我々が帰ってきたとき、嬉しそうな顔は全然見せなかったが、影では物凄く喜んでいたらしいしな。 セシルが言うのだから間違いないだろう」

何か楽しそうにラムダが言うので、綾は自らも笑みをこぼしていた。出発の準備は急ピッチで進められ、午前中には終了した。行程は予定では三週間ほどだが、念のため二月分の食料とそれを買える金を用意し、荷車も用意した。慌ただしい午前中が終わる頃、綾は新しく貸与された服の袖に腕を通していた。前回と同じデザインだが、そもそも予備のつもりでリプレが作った物だと、制作者本人が言った。もう、綾は、学生服が馴染まなかった。彼女にとって、今着ている服こそが、自らの制服になっていた。自室で、一回ターンして見せて、綾はリプレに言った。

「似合いますか?」

「うん、凄く似合うよ。 ……ねえ。 本当に今日出発するの? 少しは、休まなくて良いの?」

「無理、しなくてはならないんです。 大丈夫、何とかなります」

「分かった。 もう、止めない」

リプレは小さく息を吐いて、目を伏せた。そして数度頭を振ると、しばしの逡巡の後、言った。

「ただ、私怖いの。 大事な友達が、遠くへ行ってしまうような気がして」

待つ側の気持ちを吐露されて、綾は言葉を返せなかった。この人を護るためにも無理をしなければならないのに、無理をしすぎれば却ってこの人を悲しませてしまうのが分かったからである。

後ろ髪を引かれつつ部屋を出ると、ラミが待っていた。綾は笑みを浮かべて腰を落とし、小さな体を抱きしめると、耳元に囁くように言った。

「行ってきます。 絶対に帰ってきます」

それは、ラミへの言葉と言うよりも、自分への誓いであったかも知れない。

子供達に見送られながら、九人の仲間達と共に、綾はサイジェントを出た。もはやすっかり故郷となった街。護るために、一度離れなければならない街。名残惜しげに振り返った綾の耳に、彼女を呼ぶ声が響いた。

「アーヤー!」

「? リシュールさん?」

街の外壁の上から、リシュールは手を振っていた。小さく上品に手を振る綾に、リシュールは手首を翻し、何かを投げ渡した。それは、非常に使い込まれた手帳だった。

「餞別だ! 貸してやるから、絶対に生きて帰って来い! こっちはまかせろ! お前達が帰ってくるまで、城にいる奴らにも、外にいる奴らにも、好きなようにはさせん!」

「せ、先生! いいのかそれ、貸しても!」

「ガゼル、その子を頼むぞ! 何があっても、道を踏み外させるな!」

その台詞だけでも、如何にその手帳が貴重な品か、一目瞭然であっただろう。ガゼルは多くを語らなかったが、綾はまた大きな感謝と共に、心の中にて一礼していたのであった。

 

4,第二の試練

 

ミモザが指し示す方にある蒼の派閥陣地は、厳重に警備を敷いていたが、ミモザがなにやら豪華な装丁の手紙を差し出すと、兵士達の態度はがらりと変わった。緊張した面もちで敬礼する兵士達に、ミモザは今度は小汚い紙切れを取り出し、言った。

「エクス様に、これ届けといて。 特A級機密文書だから、絶対に中を見ないようにね」

兵士を最大限に脅かすと、けらけら笑いながらミモザは陣地の中を率先して歩き出した。綾は周囲をしばし見回しており、やがて言った。

「ミモザさん、少しよろしいですか?」

「うん? 何?」

「この陣地、欠陥があります。 あの地点から攻撃されると、多分ひとたまりもありません」

「えっ? マジ?」

慌ててミモザが振り向き、綾が指摘した地点を見たが、すぐに腕組みして小首を傾げた。彼女は召喚術こそ優れているが、軍団レベルでの戦闘には疎い。

「ホント? ごめん、よく分からないわ」

「おそらく、大丈夫だとは思うのですが、念のためにエクスさんという方に報告してはどうでしょうか」

「うーん、ま、いいでしょ。 こちとら一万、城にいる敵は多分百人以下だし。 それにエクス様、今凄く大変だと思うのよ」

最後の言葉には非常に辛い調子であったので、綾もそれ以上は追求出来なかった。

……数週間後、綾の危惧は図に当たるのだが、それはまた別の話である。

 

数日をかけて、幾つかの街を経由し、十名は北東へと進んだ。その間カシスとアカネは積極的に辺りを偵察しては、地図上の位置を確認し、また盗賊などの襲撃を事前に防いだ。また、スウォンはその優れたサバイバル技術を最大限に発揮し、方角を完璧に見定めて、皆を迷わせなかった。適材適所という言葉があるが、自薦した者達は見事に自身の得意分野を生かしていたのである。

更にリシュールの手帳には、サイジェント周辺の地理風土について、恐るべき詳細な記述が書き込まれていた。地図には無い底なし沼や、危険な盗賊団の存在など。鉱山から復帰した後に書き込まれた物も、その前の物もあった。いずれにしろ、それは皆を著しく助け、前進への大いなる力となった。

歩きつつ、不意にカシスが綾に聞いた。

「ねえねえアヤちゃん。 エルゴ探す以外には、どんな力が身に付いたの?」

「幾つかありますけど、送還術や、それに……因果律操作、ですね」

「送還術は分かるけど、因果律ナントカって何?」

「多分、口で説明するよりも見る方が早いと思います。 その辺の岩に適当にナイフを投げて頂けませんか?」

小首を傾げながら、カシスは無造作にナイフを放った。次の瞬間、不意に風が吹いてその軌道をそらし、ナイフは近くの岩に当たって跳ね返された。そして、投げた速度以上の高速で、綾に襲いかかったのである。

唖然とする皆が動くより早く、弾かれるように動いた綾が、指二本でナイフを挟み込んでキャッチしていた。セシルが汗を拭い、誰よりも動揺してカシスが言う。

「ご、ごめんっ! 大丈夫だった!?」

「ううん、今のは私がやりました。 要するに、運を極端に悪くする事で、ナイフが私に飛んでくるようにしたのです」

「ほへ?」

「本当はこの力、今までも無意識で使っていたみたいです。 でも、正体を把握した事で、かなり使いこなせるように……こほこほっ!」

咳き込む綾は、何とか戻さなかったが、その後暫く調子が悪そうにしていた。カシスはそれを見てから目立って綾を気遣い、偵察時以外はいつも一緒にいるようになった。

サイジェントの領土を抜けて暫くすると、人家がまばらになり、山が目立って険しくなってきた。そして、立て札にある文字が浮かぶようになり始めた。

剣竜の峰、である。

 

針のように尖った山には、岩石ばかりが転がっていた。風はあくまで冷たく、もはや人家の一つもない。途中三回もはぐれ召喚獣の襲撃があり、それを退けなければならなかった。一応見晴らしがいい場所に陣取ると、綾は結論から先に言った。

「間違いありません。 この辺りから、気配を感じます」

「となると、いつまた化け物が出るかわからねえな」

「ねーねー、あたしが偵察してこよっか?」

「まて、おぬしら」

アカネの言葉にラムダが応えようとした瞬間、場に第三者の声が割り込んだ。別に殺気を放っていたわけでもなかったのだが、それでもかなりの近距離まで上手く気配を消して近づいてきた事から、相当な強者だと一目瞭然である。

男は和服を身に纏った、時代小説に出てくる剣豪がごとき姿である。腰に大小二本の刀を差しており、アカネが口笛を吹いた。

「ひゅう、すごいすごい、こんな所で侍に会えるなんて」

「サムライ?」

「ああ、えっとね、アタシの世界の職業軍人階級みたいなもん。 ちょっと違うけど、似たようなもんだと思って良いよ。 アンタもシルターンのはぐれ召喚獣? へへ、アタシもなんだ」

「おお、こんな所で故郷の人間と会えるとは。 有り難い話でござるな」

「で、何用だ?」

咳払いしたラムダに、男は鋭い目つきを向けた。相手の実力を値踏みしつつ、続ける。

「拙者はカザミネ。 剣の道を究める事を願い、この地で修行する者でござる。 この先には、恐るべき竜が住んでおる。 即刻引き返されよ」

「そう言うわけには行かぬ。 忠告だけ、感謝して受け取っておく」

「分からぬか。 お主ら程度では死ぬと言っておるのだ」

「なっ……。 言いたい事を!」

カザミネの言葉に、イリアスが露骨にむっとするが、それを手で制止したのがラムダである。

「だが、少々事情があって、奴と会わねばならん。 それよりも、奴の事を知っているのなら是非色々教えて欲しいな」

「お主がこの一団の将でござるか? ならばお主から説得されよ。 味方を死に誘うのが将たる者の役目ではありますまい。 死ぬと分かっていて、教える事など何もござらぬ」

「ふっ、やってみなければわからぬよ。 それにこの一団のリーダーは俺ではなく、其方のレイドだ。 それに、今此処には、そこにいるアヤのために来ている」

「よろしくお願いします、カザミネさん」

「よ、よろしくお願いいたす、アヤ殿」

綾とまともに視線を合わせると、何故かカザミネは赤面して咳払いした。そしてわざと語勢を荒げながら、自らにも言い聞かせるように言う。

「ともかく、でござる! 引き返されよ。 見れば若い娘が何人もいる様子、なおさら無駄死にはさせられぬ」

「それほどに強いのですか?」

「拙者は幸い腕を認められて何度か稽古をつけて貰ったが、箸にも棒にも掛けられず殺されてしまった者も何人か見てきたのでござる。 少なくとも、拙者よりは何倍も強いとお思い下され、アヤ殿」

「なら、私が貴方に勝てば、通して頂けますか?」

笑顔のままで言う綾に、カザミネは面食らったような顔をし、今まで以上の勢いでまくし立てた。

「な、なりませぬぞ! 絶対にいかん! 若い娘が、戦場に身を置くなど、あってはならない事でござる! その白い肌に傷でも付いたら、どうするのでござるかっ!」

「あーあー、いるんだよ、何処の世界にもこーゆーのが」

「一見紳士的だけど、実は男尊女卑なだけだよね☆」

カシスとアカネが聞こえるようにわざと言い、真っ赤になったカザミネが睨むと視線をさっとそらした。綾は笑顔を崩さぬまま、サモナイトソードを抜きはなって言った。笑顔のままながら、その身から強烈な戦意が迸り、綾の実力を悟ったカザミネの顔つきが変わった。

「退屈はさせないと思います。 さあ、構えて頂けませんか?」

「むう……そこまで言われては仕方がござらぬ。 いざ、参る!」

元々の思想よりも、剣士としての本能が上回ったのである。カザミネの瞳に戦意が宿り、そして刀を抜きはなった。

 

数分の死闘の後、小さく嘆息して額の汗を拭う綾に対して、カザミネは座り込んで遠くを見つめていた。その背中には哀愁があり、黴さえ生えそうなほど落ち込んでいた。結果は綾の勝ちであったが、カザミネは絶倫の技量で容易に勝ちを譲らなかったのである。だがそれだけに、負けをはっきり悟って大きなショックを受けたようである。

ガゼルは戦いの一部始終を見ていたから、決してカザミネの実力を過小評価しなかった。果実を囓りながら、カシスがそれに応じる。

「彼奴、本当に強かったんだな」

「かなりできるね☆ 多分ラムダさんといい勝負出来るよ」

「拙者の剣が、又負けてしまった……無念」

「カザミネとやら、悪いが、案内を頼む。 我らには時間がないのでな」

本当に落ち込むカザミネを見て右往左往している綾をみかねて、ラムダが助け船を出した。死人のような顔色で彼は立ち上がると、覚束ない足取りで歩き出した。途中昼食を取る事になったが、綾は謝絶した。

「すみません、私は遠慮しておきます」

「? どうしたの?」

「多分、戻してしまいますから」

「そう。 出来るだけ私達でサポートするから、頼ってね」

最近綾は、セシルの診療を必ず受けていた。だがセシルは、時々巧妙に繕いながらも、難しい顔をしている事があった。綾は覚悟の上だと割り切って、カザミネに続いて歩を進めた。

岩山をしばし進むと、そこには死の世界があった。今まで以上に殺風景な岩ばかりの空間に、屏風のようにそそり立つ岸壁。草など生えておらず、所々に転がっているのは武装した髑髏である。そして、さび付いた剣が、そこら中に刺さっていた。

やがて十一人は洞窟の前に着いた。カザミネが咳払いし、中に呼びかける。

「剣竜殿! 貴方に挑戦したいという方々を連れてきたでござる!」

「……今行く」

足音もせず、巨大なドラゴンが這い出してくると思った皆は拍子抜けした。やがて綾が振り向き、それに釣られて皆が振り向くと、側の岩山の頂上に、小さな影が座っていた。身の丈以上もある大剣を背負った、子供の剣士である。顔立ちから男か女かは分からないが、声は子供らしく高かった。洞窟は、たんなる伝声管だったのであろう。

「待ってたよ、リンカー。 それとカザミネ、ご苦労さん」

「? 知人でござるか?」

「ま、そんな所だ。 メイトルパのエルゴから話は聞いてる。 早速試練に移りたいんだけど、いい?」

「はい、よろしくお願いします」

いつも通り完璧な角度で礼をする綾。剣竜は案外落ち着いた表情で微笑み返すと、着いてくるように促し、飛ぶように軽い足取りで、山の向こうへと消えていった。しばし震えていたミモザが、不意に自らの肩を抱いて大喜びした。

「凄い! 凄い凄いっ! あの子、多分帝竜族よ!」

「帝竜?」

「メイトルパのドラゴン達の頂点に立つ者達よ! アレくらいのクラスになると、高度な頭脳と人間に変身するのなんてお茶の子さいさいな魔力を持つの! 気性が荒い者が多いんだけど、あの子は違うみたいだし! うーん、会えるなんて、幸せだわっ!」

「そいつと今から戦うんだろうが。 どうして喜んでられるんだよ。 大体この光景見て、どうして気性が荒くないなんて思えるんだ」

「此処だけの話、大人しそうで無茶苦茶に恐ろしい方でござるぞ。 気をつけてくだされ」

ガゼルとカザミネがぼそりと言うが、全く聞こえていない様子で、ミモザは真っ先に歩き出した。山の向こうには平らな土地があって、山々には今まで以上の数の剣が刺さっていた。一番高い岩山の上で腰掛けながら、さらりと剣竜は試練の内容を告げた。

「今度の試練は、僕の攻撃から皆を守り抜く事。 一人でも死んだら、君の負け。 カザミネ、君も一緒に試練うけなよ。 良い修行になるよ」

「おお、望む所でござるっ!」

少年が右手を振ると、山々に突き刺さっていた剣が震え始め、一本、また一本と抜け始めた。そして宙に浮き上がり、小刻みに揺れながら、空を占拠していく。剣が抜ける際の、鉄を槌で打つような音は、徐々に増えていき、やがてぴたりと止まった。辺りに刺さっていた、全ての剣が抜けたからである。空に浮いた剣の数は、軽く千本を越す。そして剣竜は、返答を待たず、攻撃開始も告げず、その剣を綾と仲間達に叩き付けたのである。

 

「アヤ、どうする?」

「円陣を組んで、防御に劣る人を内側へ! 半分は私が引き受けます!」

「よしっ!」

レイドは返答を聞くと、素早く周囲に細かい指示を飛ばした。すぐにレイド自身と、それにラムダとイリアス、カザミネが飛び来る剣を弾きながら外縁に出、内側にミモザとスウォン、それにセシルを庇う。アカネとガゼルは防御円陣から少し外に出て、遊撃の姿勢を取った。カシスは中位置に立ち、予備戦力として残る。綾は輪の中から一歩抜けで、小さく息を吐くと、精神を集中した。ほぼ同時に、その身から、膨大な蒼光が溢れ出た。

「む? め、面妖な!」

「へぇ。 因果律操作。 面白い業を使うね」

面食らったカザミネと対称的に、右手以外を全く動かさない剣竜は即座に綾の使った能力を当てて見せた。剣は途中で不意に動きを変えたり、風に吹かれて姿勢をずらしたり、岩にぶつかって跳ね返ったりして、言葉通り半分が綾に襲いかかる。さながら舞うようにして、綾はそれを滑らかに避け、或いはサモナイトソードではじき返していった。折れ砕け、両断された剣が、たちまち辺りに積み上がっていく。動きにはまるで無駄が無く、ラムダでさえそれを見て小さく口笛を吹いたほどである。

円陣を組んだレイド達も負けてはいない。強大なパワーでラムダが、堅実な剣技でレイドが、素早い剣捌きでイリアスが、飛び来る剣を次々に払い落とす。叩き落とされた剣は地面に突き刺さり、或いは刀身を砕き、微動だにしなくなる。カザミネも余裕を持って剣を叩き落とし、隙を見せなかった。

「おいっ! カシス、そっちへいったぞっ!」

「まかせといてっ!」

アカネとガゼルは最小限の動きで剣をかわしながら、内側の味方に素早く的確な指示を出した。カシスはガゼルの言葉に頷き、紙一重で剣をかわすと、柄を掴んで地面に突き立てた。コンビネーションは完璧で、ミモザやセシルの出番が無いかと思われた。しかし、剣竜は口の端を少しつり上げると、攻撃パターンを変えたのである。

剣竜が左手を挙げ、右手と一緒に動かす。途端に剣の動きが鋭くなり、しかも攻撃パターンがえげつなくなった。地面すれすれまで降りた後、水平に飛び、更に目前で跳ね上がって襲いかかってくる。円陣の真上まで飛んできて、自由落下で落ちてくる。一度に襲いかかってくる数も増え、レイドは素早く視線を周囲に飛ばした。綾は今まで同様、体から蒼い光を発し、剣を払いのけ続けているが、力自体が今まで以上に負担を強いる事は分かり切っている。だが、綾を信頼し、レイドは叫んだ。

「ミモザ、召喚術で頭上を護ってくれ! ただ、視界が塞がれてしまうから、傘を展開し続けないように気をつけるんだ!」

「分かったわ! 誓約においてミモザが命ずる! 現れ出でよ、フォールフロール!」

その言葉の直後、イリアスが三本同時の一撃を受け、吹っ飛んで後ろに転がった。カシスが冷静に補助に入り、穴を埋めるが、徐々に皆対応しきれなくなってきている。剣を二本、三本と叩き落としながら、カシスが言った。

「このままじゃヤバイよっ!」

「確かに、アヤが半分受けてくれなきゃ、もうまずいぜ!」

余裕が無くなってきたガゼルが大振りのダガーを取りだし、避けきれない分はそれで弾きながら応える。金属がぶつかり合う音がひっきりなしに響き、その場にいる者達の鼓膜を叩き続けた。無言のままスウォンが参戦、神業級の弓技で次々に剣を叩き落とすが、焼け石に水程度の効果しかない。怪我人も増え続け、流石にガードもしきれなくなった瞬間、更にまずい事態が起こった。綾が蹌踉めき、地面に片手を着いたのである。誰も助けに入る余裕など無い。剣竜はゆっくり立ち上がると、両手を天に向けて突き上げた。残っていた剣が一斉に円陣を向き、同時に今まで以上の速度で襲いかかった。視界が埋まるほどの数であった。スキル関係無しの、だが圧倒的なまでの力。絶対的な物量攻撃。それは、嫌らしい今までの攻撃とは違い、絶望的な代物だった。

 

綾は混濁した意識の中、ゆっくりと集中していった。多少使っただけでも、胃の中身を吐き戻すほど消耗していた因果律操作であったが、何度か検証した結果、ようやく消耗を押さえて少しずつ使いこなせるようになっていた。しかしこれほどの長時間、しかも実戦に交えて使うのは初めてであったから、その消耗は桁が違っていた。何度も遠くに行きかける意識を、精神力の縄をつけて引っ張りながら、綾は機会を練っていた。敵が、剣竜が一斉攻撃を仕掛けてくる瞬間をである。額の血管が破れて、鮮血が顔を伝っていたが、それも綾には気にならなかった。

『やはり、一斉攻撃で来ましたか。 私が因果律操作を使ってみせれば、必ず消耗の大きさを見抜いて、持久戦に持ち込もうとするはず。 そして私が消耗しきった所で、一斉攻撃を掛けてくるはず。 的中しましたね』

多少蹌踉めきつつも、綾は立ち上がる。彼女は不思議な感覚を覚えていた。精神に絶望的な苦痛があるのと同時に、その先に何かあるように感じていたのである。また、集中力自体は全くとぎれていなかった。味方への信頼も、である。それに、冷静さを保てば、後方の味方が傷つきつつも、一人も倒れていない事が明白である。

此処で召喚術を使えば、しかも今使おうとしている特大の術を発動すれば、明らかに精神力の限界を超えてしまう。しかしそれくらいの覚悟がなければ、皆を護りきる事など出来ない。理屈ではあり得ない事なのだが、考えを変えてみれば、それは人間の理屈だ。リンカーとしての力が、人間の理屈には当てはまるとは、綾にはどうしても思えなかった。しかもその人間の理屈は、エルゴを到底作り出せない、彼女の世界のものなのである。

立ち上がり、顔を上げた綾をみて、味方から歓声が飛んだ。そして、剣竜が興奮して叫ぶ。子供の姿をしたこの帝竜が、楽しんでいるのは明白だった。命を俎上に乗せて、楽しんでいるのだ。純粋故に、危険な存在だった。綾はバックステップし、味方の円陣の中へ入る。

「へえ、流石だね。 でも、これをどう防ぐっ!?」

「……リピテエルっ!」

『みんなを護る、力を!』

膨大な蒼光が、辺りを覆い、山を駆け上っていった。光の中、空間の裂け目から、螺旋状の天使が現れ、防御シールドを展開する。綾だけを護る第一形態ではなく、一方向だけを護る第二形態ではなく、半径十メートルほどの空間を絶対防御する、だが第二形態の数倍の精神力を消費する、第三防御形態。

巨大なグランドピアノを、叩き慣らすような音が響き渡った。同時に叩き付けられた無数の剣が、シールドに当たって一斉に折れ砕けたからである。豪雨のような音は、粉々に砕けた剣が、辺りに降り注ぐもの。千々に砕かれた鉄の破片に、陽光が反射し、光が乱舞した。さびた剣も、砕けた断面は、新品のように美しく光っていた。それが止むと、シールドが解け、リピテエルが帰還していった。

 

「お、おいっ! 大丈夫かっ!?」

ガゼルの第一声はそれであった。もう浮いている剣は無く、剣竜も唖然と口を開けて此方を見ている。だが、綾の返事はなかった。無言のままカシスが駆け、案の定後ろに倒れかけた綾を抱き留めた。額の血管が切れた綾の顔を、小さな紅い川が伝っている。それは顎から首にかけて垂れ落ちており、慌ててセシルが治療に入った。

綾がこの瞬間を待っていたのは、今の業が一瞬しか使えない事を知っていたからだと、その場にいた全員が悟っていた。ぼそりと、ミモザが言う。

「召喚獣を、印もなく呪もなく、名を呼ぶだけで呼び出すなんて。 念じるだけで召喚術を使った、エルゴの王に近づいてるわね……」

「今はそれどころじゃありません! セシルさん!」

「大丈夫、何とか。 でも……」

「でも、なんだ」

ミモザをスウォンが窘め、治療を彼に促されたセシルはゆっくり地面に綾を横たえ、血をハンカチで拭き取りながら、本人に意識がない事を確認して言った。

「脈がおかしいんです、ラムダ様。 今まで以上に早く強く動けるのに、運動をしていないみたいに、異様に遅いんです。 体が、心臓なんて関係無しに、別の要素で動いてるみたいな……」

「これが人をやめるって事なのか?」

「ほ、ホントに、ホントに大丈夫なの、それっ!?」

「分からない……こんなケース、見た事も聞いた事もないから。 ただ、出来れば本人の前で、その話題は振らないで」

「無駄だよ。 本人はもう、とっくに気付いているからね」

いつの間にか地面に降りてきていた剣竜が、綾を見下ろしながら続ける。

「短縮呪文で君達が言う獣王クラス召喚獣の能力を完全に引き出すとはね。 流石はリンカー。 僕の試練は合格だ」

「なあ、此奴の体は、どうなるんだ?」

「このまま強くなっていけば、じき(生物)ではなくなる。 それに従って、彼女は強烈な精神の鎖に縛られる。 究極の力を得ると同時に、究極の檻へと入るのさ」

「具体的に言ってくれ。 それでは、意味が分からない」

イリアスの言葉は、その場の全員を代弁した物であったかも知れない。きょとんとしているのはカザミネだけで、彼にしても途方もない存在の誕生に立ち会おうとしている事は理解出来ていた。

「エルゴの仲間になるっていったらいいかな。 以前同じ道を選んだ人間は、役目が済むと自分を時間凍結氷壁に永遠に封じたけどね」

つまり、神になる……

「そう言う事。 そして神って奴は、力は出鱈目な広さに展開出来ても、精神はそうじゃないんだよ。 信念、想い、何と言っても良いけど、そう言う物に縛られ、老いもせず、衰えもせず、悠久の時を生きる事になる。 まして彼女の想いは、エルゴに聞く所によると人間が進歩しないと充たされない物だそうじゃないか。 待っているのは、君達風に言えば、地獄って奴かな? 同じような願いを持ってた先代リンカーは、凍結した時の中にさっさと逃げた。 ある意味、賢明な判断かな」

「ど畜生が……」

ガゼルが吐き捨て、拳で地面を殴りつけた。地獄へ堕ちる事も厭わず、苦しむ事を厭わず。綾の覚悟は、凄まじい物であった。だが極端な話、それだけの覚悟を決めたからこそ、これほどの力を発揮出来るのである。そして、(助ける)には、今のうちに殺すしかない。だがそんな事をすれば、リィンバウムの半分は、エルゴの実力行使によって焦土と化すのである。

ゆっくり目を開けた綾は、しばしうつろな目で周囲を見回していた。蒼白な顔だが、意識ははっきりしていた。カシスは無理矢理に笑顔を作って、言う。

「大丈夫、勝ったよ」

「良かった。 みんなを、守り切れましたね」

「じゃあ、エルゴから任されてる力を渡しておくよ。 これからも頑張ってね」

全く調子を変えず、剣竜はひらひらと手を振った。綾の中に、又一つ、エルゴの力が流れ込んできた。それは天井を破る事はなかったが、ダウンロードされていた能力を、強力にインストールしていったのである。まだ、完璧にと言うわけには行かなかったが。

すぐに綾は身動き出来るようになり、剣竜の峰を後にした。その後ろ姿を、複雑な面もちで、剣竜はずっと見守っていたのである。

 

5,団結と非団結

 

(無色の派閥の乱)が開始されて七日目、最初の戦術的勝利は無色の派閥側の手に帰した。そして、それは以外に大きな影響を包囲側にもたらした。

戦い自体は、些細な物であった。下水道を利用して城外に出たクジマとザプラが、数名の部下と悪魔と共に、野営陣地を建設中の蒼の派閥軍に奇襲をかけたのである。一時は混乱した蒼の派閥軍であったが、敵が少数だと知るや、叩きのめそうと反撃に出た。それに押されて逃げる無色の派閥軍。戦闘経験が少なく、戦功に飢えていた蒼の派閥軍は、考え無しにそれを追った。

追ったのは三百名ほどの数だった。彼らは彼方此方振り回され、追いつけそうで追いつけない敵に食いついていった結果、いつの間にか死の沼地に入り込んでいたのである。そして、慌てて引き返そうとした彼らの前に降り注いだのは、機界の破壊神ヘカトンケイレスの無情なる一撃だった。出口に殺到し、密集した事が、被害を更に増やした。

蒼の派閥軍は緒戦にて百名以上の死者を出し、一部の陣を立て直す必要を迫られた。

 

敗戦の被害自体はたかが知れた物であったが、これがもたらした影響は大きかった。まず最初に怒声を上げたのが、蒼の派閥軍の指揮を任されたラースト中将である。彼は蒼の派閥首脳部の独断専行に腹を立てており、今回も例外ではなかった。さもありなん、今回の敗因は、蒼の派閥の上級召喚師が彼の意見を聞かずに布陣を変更した挙げ句、指示を待たずに追撃した事だったからである。その上級召喚師はもう先の戦闘で鬼籍に入っていたが、ラーストの怒りは収まらなかった。

「だから言ったではないか! 戦場の事は私に任せるようにと!」

「まあまあ、落ち着きまえ、ラースト君」

「今後は私に指揮を一任してもらいますぞ! このままでは、勝てる戦いも勝てなくなる!」

「そんな事よりも、重要な事があるのではないのかね?」

皮肉たっぷりに言ったのは蒼の派閥派閥長カンゼスだった。その視線は、イムランとサイサリスに向いている。

「敵はどうやって街の外に出たのだ? 騎士団とやらは何をしていたのかね?」

「街には広大な地下下水道があります。 其処に監視の目を全て張り巡らせるのは難しいのです」

「ふん、どうだかな。 責任は我が軍には無いような気もするがなあ」

イムランは舌打ちし、視線を下へ移した。ほんの少し前までの自分が眼前にいたからである。咳払いしたのはファミィで、笑顔のまま周りを見回した。

「ともかく、再発は防ぐ工夫が必要ですわね。 軍は将軍さん達に任せて、監視を強化する方がよいですわ」

「まあ、そうだな。 少数の敵を相手に、これ以上醜態を重ねるわけにもいかん」

「その事についてなのですが、私の部下が今、有力な情報を手に入れました」

エクスは皆の視線を集め、丁寧に装丁した資料を示した。

「敵は一ヶ月ほどで籠城が出来なくなるようです。 原因は幾つかあるようですが、確率は九割を超えます」

「ほう、となると力攻めは避けるのが賢明か」

「ふむ。 敵は手強い事が分かったしな、これ以上恥を上塗りする訳にもいかぬな」

カンゼスと金の派閥派閥長ビルイフが口々に言ったが、責任を負いたくないのが明白であった。エクスは小さく頷くと、言った。

「では、持久戦に切り替えましょう」

「分かった、そうするとしよう」

 

迷霧の森では、大規模な土木工事が行われていた。指揮を執っているのはラーマで、同志や召喚獣を叱咤して、最後の仕上げに取りかかっていた。元々攻めにくい地形であるが、此処しばらくの工事で、難攻不落の要塞とかしつつあった。

無色の派閥は、最高幹部の一人ラーマを此処に残した事からも分かるように、決戦の地を此処に設定していた。ラーマを残したのには、非戦闘員も殆どが此処にいて、見つかると危険だった事もある。派閥員達の士気は高く、工事志願者は多く、皆積極的に働いた。半ば見つかるのを覚悟しての工事は続いた。小休止して汗を拭くラーマに、部下の一人が敬礼する。

「同志ラーマ様!」

「どうしたの?」

「はっ! スペアナンバー19の調整はほぼ完了、後一月ほどで理想的な状態に仕上がるそうです」

「いよいよね。 さあ、私達も頑張りましょう」

部下をねぎらって下がらせると、ラーマはふと気配に気付いた。そして、舌なめずりする。獲物が迷霧の森に入り込んだ事に気付いたからである。発見されるにしても、敵をただで帰してやる必要など無かった。

「三人ほど来なさい。 ゴミ掃除に行くわよ」

全く容赦しない事は一目瞭然であった。部下達は、苦笑混じりに敵に同情しながら、ラーマについていった。

 

リィンバウムを巡る戦いは、或いは小規模に、或いは大規模に、彼方此方で進行していた。それが一つの糸に帰結する事を知るものは、未だ少ない。その一人である樋口綾は、剣竜の峰を越え、山越えをして旧王国領へ入ろうとしていた。今一人であるオルドレイクは、サイジェント城のテラスにて、包囲軍を、余裕を持って眺めやっていた。

二人の(塔の力)保持者が、ぶつかり合う日は、すぐ其処まで近づいていた。しかしながら、限りない悲劇がそれに伴う事までは、未だ誰も気付いていなかった。

 

(続)