総力戦、そして……

 

序、軍神の生贄

 

古代地球において、戦が始められる際には、勝利を祈願して軍神に生贄が捧げられた。それはごく一般的な風習であり、特に珍しいことでもなかったが、時代が進むにつれて(蛮行)として執り行われなくなっていった。一般的に(蛮行)とは、必ずしも言葉通りの物だとは限らない。だがこの事に関しては正確に事実を指摘した言葉であったから、狂信的な者を除いて中止に反対する者もおらず、時代が下るに連れて自然に排除されていった。

翻って、リィンバウムではどうか。情況はほぼ同じであり、今時意識して軍神に生贄を捧げようと言う者などはいない。しかし、意図せずして、端から見ると(軍神に生贄を捧げた)とも取れる情況が起こる事はあった。

後に(無色の派閥の乱)と呼ばれる動乱は、発生の時期を求めるのが非常に困難な局地戦闘であった。元々一般的に知名度も低く、蒼の派閥においても金の派閥においても秘匿されていた事件であったから、研究者が少ない。そういう事情も、研究の遅延に拍車を掛けていた。だが、判明している事も多々ある。何しろ非常に長い時間を掛けて行われた戦いであり、その過程で様々なエピソードをこぼし落としたからである。多数のエピソードがあったが故に、その発火点は何処であったのかを求めるのは、多数の研究者を要しても非常に難しかった。ましてや少数の研究者であれば、さもありなんというものであろう。

この動乱の主核となった(魅魔の宝玉)をオルドレイクが強奪した件を乱の始まりとするのなら、既に十七年前から戦は始まっていた。しかし歴史の表に乱が現れた時期を特定するとなると、サイジェントの北スラムで行われた虐殺がその開始であると言えるだろう。その日北スラムには、身を切るほどに寒い風が吹きすさんでいた。だがそれを忘れさせるほどに、強烈な死の匂いがその場を包んでいたのである。

 

バノッサの元を離脱したオプテュスの者達は、ヤルフトを中心に北スラムの一角に集まっていた。バノッサは簡単に離脱を許してくれたものの、今までの行為が行為だから、彼らが北スラム以外で生活出来るわけがない。責任を全てバノッサに押しつける事を考えた者がいたが、そんな事でごまかせる事ではなかった。彼らの全員が楽しみつつ、自主的に悪行を重ねていた事など、サイジェントに住む全員が、幼い子供でさえ知っていた事だった。また、ヤルフトは指導者としての力に欠け、参謀としての力も持たず、皆を糾合して名案を示す事も出来なかった。集まりはしても、もう彼らは組織ではなく、(無法者の集まり)以上でも以下でもなかった。まがりなりにもバノッサの下では彼らも特殊な不文律の元団結していたが、もうそれすら無かったのである。

「……これから、どうするんだ?」

「俺が知るか」

誰かが禁句となっている言葉を呟き、忌々しげに他の誰かが応じる。一応蓄えは持ち出しては来たが、そんなものはすぐに底をつく。そして今、北スラムには奪う物資すらもないのだ。食料でさえ、騎士団が行っている炊き出し等に頼っている情況である。ようやくマーン家三兄弟は今までの失政を改める姿勢を見せ始めたが、まだその良い影響は表れてはいなかった。オプテュスに残る方法は、一つしかない。盗賊団になる事である。以前と大差はないが、繁華街や商店街を中心に、より荒っぽい手を取る事になるだろう。そして騎士団や兵士達との激しい戦闘も、簡単に想定された。そして、彼らをそれ以上に及び腰にさせたのは、フラットの存在だった。特に綾の戦闘力は、バノッサ抜きの彼らでは、全員束になってもかなうかどうかと言うレベルである。それを知るオプテュスの者達の表情は暗く、打開点は見つかりそうもなかった。やがて誰かが不意に顔を上げ、ヤルフトが忌々しげにそれに食いついた。

「何だ、どうした?」

「何か、臭くねえか? 変な匂いがするぞ」

「誰かが屁でもこいたんじゃねえか?」

もう部下に敬語を使わせる事すら諦めて、自嘲気味にヤルフトが言った。それに笑った者は極少数で、如何に彼らが疲弊しているかは明白だった。しかしバノッサの性格上、帰った所で許してもらえる可能性など皆無である。誰もが、バノッサの元を離れた事を後悔し始めていた。しかし、もう遅かったのである。

彼らの至近で、何かが砕けるような音が響いた。面倒くさげにヤルフトが顔を上げると、一人の上半身が消えていた。腸をぶちまけた下半身が痙攣する上にいるのは、五メートル強もあるシャコのような生物で、もぐもぐと口を動かしている。静かだったのは、皆があまりの事態に唖然としていたからである。だが、やがて誰かが声を絞り出した。

「ひっ! ぎゃああああああああああっ!」

それがきっかけになり、一斉に脱兎と逃げ出すオプテュスの者達。巨大シャコは地面に残した獲物の下半分をくわえると、ゆっくりそれをかみ砕いて飲み込んでいった。なぜなら、獲物が逃げられはしない事を知っていたからである。オプテュスの者達の前の地面が盛り上がり、土を吹き飛ばして新手が現れる。右からも左からも、そして上からも、異形の怪物が現れた。怪物は呆然とする北スラムの人間も含めて、目に付く獲物を片っ端から喰い殺していった。右往左往するヤルフトの前に現れたのは、大剣を持ったカノンだった。事態を即座に理解したヤルフトは、抵抗の意志を捨てて懇願した。

「か、カノン!」

「……ごめんなさい、ヤルフトさん。 バノッサさんの命令ですから」

「た、助けてくれ! 前より下っ端でいい! 靴だって磨くし便所だって掃除する! だから、命だけは、命だけはぁあっ!」

ゆっくりカノンは、悲しげに目を伏せ、首を横に振った。絶望に絶叫したヤルフトを、首の長い猿のような怪物が、真横からくわえ、真っ二つに引きちぎって飲み込んだ。

一人だけ、悪魔達の間を潜って逃げおおせた者がいた。以前オルドレイクに剣を向け、一撃で叩きのめされた男である。彼は必死に走って北スラムを逃げ出そうとしたが、その前に巨大な剣を背負った老人が現れる。オルドレイクだった。悪魔はその足下にひれ伏す事さえあれど、牙を剥けるような事は一切無かった。それを見た男は、オルドレイクが如何なる存在か悟った。圧倒的な闘気に威圧された彼は、精神の均衡を失い、一番しては行けない事をしてしまった。オルドレイクに剣を向けたのだ。

「て、て、てめえはっ!」

「お前はいつぞやの。 そうか、ついに悪事の報いを受けるときが来たのだな。 かくなる上は、悄然と報いを受けるが良い。 さすれば晩節を汚す事も無かろう」

「黙れえっ! こ、殺して、殺してやるっ!」

躍りかかる男、咆吼を上げ、一気に間を詰める。オルドレイクは苦笑すると、大剣を背中から抜きはなった。そして、公約を護った。剣ごと、轟音と共に敵を両断したのである。剣を振って血を払うと、オルドレイクは傍らのザプラに言った。

「……それにしても、無惨な事をする」

「スペアナンバー19の望みです。 部下だけでは満足出来ないそうでして」

「……うむ」

周囲を見回し、オルドレイクは小さく息を漏らした。彼の理想を成就するためとはいえ、(より弱きもの)を犠牲にしてしまったからである。これから犠牲にするバノッサや、今犠牲にしているオプテュスの者達に、オルドレイクは一切同情を感じなかったが、他はそうではない。単純な(弱者)ではなく、より弱き者である(社会的弱者)が傷つくのには特に敏感だった。

オルドレイクは、二度と(より弱き者)が蹂躙される事なき(約束の地)を作るために邁進している。そのために犠牲を払ってきたし、自らの身も削ってきた。しかし、その過程で失ったものを思うと、必ず心に痛みを覚えるのだった。しかし、彼の心は折れる事がない。(新たなる世界を作る)という、強烈な意志力が支えているからである。いわゆる、(想いの力)と呼ばれる、強大無比な心の力であった。

転んでしまった子供が、悪魔の餌食になりそうになった。オルドレイクが無言で手を横に振ると、悪魔は子供の一ミリ前で牙を止め、不満げに、だが渋々と別の方へ向かった。意識を失っている子供の怪我をリプシーで治してやると、オルドレイクはザプラに言った。

「同志ザプラよ、この子を安全な場所に届けてやれ。 それと、適当な所で攻城戦に移るようにな。 そして、君から手を回し、より弱き者には手を出させるな。 ……例え何があろうと、我らは奴らと同じになってはならないのだ」

「同志オルドレイク様、了解いたしました」

オルドレイクの考え方は、ザプラを初めとする部下達にも大きな影響を与えていた。ザプラも、むしろ安心したように、その命令を受けたのだった。

だが同時に、オルドレイクは社会的弱者でない人間にはまるで冷淡であり、涙腺も乾ききっていた。目の前で悪魔に襲われる大人を見ても、彼は助けようともしなかったのである。社会を構築する人間そのものが、彼の憎悪の対象であった。悲鳴を上げ、悪魔に喰われ行く男に対して注がれる視線は、氷のように冷え切っていたのであった。

 

僅か半時間で、殺された人間の数は五十名を超し、三百名以上が負傷、更にその数倍が家を追われた。死者はその半数がオプテュスの所属員で、市民は少数だったが、住む場所を失われた者は少なくなかった。荒事に慣れた北スラムの住民は結構要領よく逃げたため、人命に対する被害は意外なほど少なく抑えられた。大規模な火事さえ発生しなかったが、潰れた家屋は数百軒に達し、その惨状は正に地獄だった。暴れた異形の者達は、サプレスに住む(悪魔)という生き物であり、北スラムにて破壊と暴虐を尽くした後、城へと進軍していった。

後にサイジェントの歴史で言う、(北スラムの血晩餐)である。そして、地獄の晩餐は、これからが本番だったのである。

 

1、いくさの前に

 

フラットのアジトで、最も朝早くから活動しているのはリプレである。彼女が起きた後には、大体最初にレイドが、次に綾が起きてくる。リプレは家事一切を取り仕切り、一番早く起き、一番最後まで寝ない。レイドは朝早くに周囲を見回った後、備品のチェックや訓練を行う。そして綾は、大体日課である薪拾いのために早起きしていた。

居間の戸が開き、綾が部屋に入ってくる。多少ふらついていて、心配げにリプレとレイドが視線で追う。ゆっくり周りを見回すと、綾は多少精彩を欠きつつ言った。

「おはようございます……」

「おはよう。 昨日は寝ずの番、御苦労様」

「はい。 薪を拾いに行ってきます……」

寝ぼけ眼で綾は言い、心配げにリプレがその背中を見送った。工場でバノッサと戦ってから、綾はラムダや仲間達と頻繁に手合わせして、必死に戦闘経験を増やしていた。更にそれで徹底的に肉体をいじめ抜きつつも、寝ずの番や日課は通常通りに行っていたので、最近は、特に朝は疲労の色が隠せなくなっていた。

アキュートでは、死者がついに出ていた。無色の派閥との交戦状態に入ってから二日後、北スラム近くを巡回していた偵察要員が殺されたのである。三人一組であったし、決して弱かったわけではなかったのだが、うち一人が殺され、二人は重傷を負った。悄然とするフラットの面々に、ラムダは言った。

「命をかけての任務だ。 お前達が気にするな」

レイドが落ち着いていたから、皆は精神的な動揺を最小限に抑える事が出来たが、警戒度が無言のうちに引き上げられたのは自然な事であった。そんな中で、少しでも技量を上げるべく訓練を行っていたのだから、綾にしても他の者にしても疲れているのは仕方がなかっただろう。

綾が少し覚束ない足取りで森に向かうと、全身から余剰元気を発散しながら、エルカが駆けてきた。そして目を輝かせつつ、足を止める。

「何処行くの?」

「薪拾いです」

「なーんか元気ないわね。 しっかりしなさいよ!」

笑いながらエルカは綾の背中を叩き、列んで歩き始めた。エルカは文句を言いつつも、綾の言う事は基本的に聞いたから、最近はかなり家事の手伝いを頻繁にしていた。掃除などはかなり有能で、褒められると喜んで更に頑張ったので、最近はますます上手くとけ込む事に成功していた。むしろとけ込めていないのは、ギブソンであった。

ギブソンとミモザはフラットのアジトに滞在する事になったのだが、がさつでも人なつっこいミモザと違い、ギブソンは何事もよそから見ているような雰囲気があったため、とけ込む事がなかなか出来なかった。自分の事を棚に上げて、エルカが言う。

「あのローブ男、今日も難しい顔で本読んでたわよ。 少しはみんなと交流すればいいのにねー」

「そうですね。 でもギブソンさんは、思慮深い人です。 きっと何か考えがあるんですよ」

「そうかしら? 私には、むしろただ単に心許してないように見えるけどね」

『うーん、本当は私も同意見です。 ただ同盟者であっても、仲間というわけではありませんから、仕方がない事なのかも知れませんね』

苦笑しながら綾は薪を集める。最近は大分手際が良くなってきて、時間を大分短縮出来るようになっていた。一旦アジトに戻った後、朝食に出かけるエルカとモナティを見送ると、綾はようやく朝食を取る。リプレの作る料理は相変わらず美味しく、質素だが温かかった。昨日はスウォンとフラットの面々で協力して、森で食材を集めた事もあって、ここ数日は多少料理が豪華であった。また、気前よくミモザとギブソンが高額の滞在費を入れてくれたので、少し台所事情が好転した事情もあった。リプレの料理は活力となって、綾は元気を取り戻した。普段釣りに出かける時間には、すっかり目も冴えていた。今日は防衛のために自宅待機が決まっていたので、出かける事はなかったが。

今日、昼はアキュートのアジトで取る事に決まっている。これはリシュールの提案であったが、今日ようやく実行の段取りが着いたのである。さほど豪華な昼食ではなかったが、一番楽しみにしているのはリプレで、朝食が終わると鼻歌交じりに繁華街に出かけていった。綾もそれを手伝おうとしたが、彼女を制止したのは意外な人物であった。昨日からずっと何かを考え込んでいたギブソンである。彼は(大事な話がある)と前置きすると、カシスが出かけている事をわざわざ確かめ、貸与されている部屋に綾を招いて、戸を閉じた。部屋には既に、ミモザも待っていた。二人の顔は険しく、綾は自然と表情を引き締めた。

「単刀直入に聞きたい。 カシスは何者だ?」

「? どういう意味でしょうか」

「君は、カシスが名字を名乗る所を見た事があるか?」

「いえ、ありません」

ミモザの瞳に宿る剣呑な光がより強さを増し、ギブソンは咳払いした。そして、そのまま話を進める。

「召喚師にとって、名字は何より大事なものなんだ。 出自、実績、実力、この全てを表すと言っても良い。 実際は、名門の出身でもまるで無能な召喚師もいるし、逆に寒門出身でも実力者はいる。 蒼の派閥の副派閥長であるエクス様などが良い例だ。 ただ、余程の事がなければ、召喚師が名字を名乗らないと言う事はないんだ。 エクス様だって、名乗る際はわざわざ名字がない事を相手に告げるくらいだからね」

「つまり、カシスが怪しいとおっしゃるんですね?」

「そう怖い顔をしないでくれたまえ。 ……怪しまれてしまう要素が彼女にあるのは事実だ。 君の口から、真相を聞き出せないだろうか? 彼女の実力は前回の対大悪魔戦で拝見したが、蒼の刃の中で、彼女を危険視する意見が出たのだ。 彼女のためにも、誤解はといておきたい」

「分かりました。 機会があれば、聞いておきましょう」

ギブソンはその返答を良しとしたようで、若干表情を緩めて頷いた。ミモザが髪を掻き上げ、同じように多少表情を緩めて聞く。

「私達に、聞いておきたい事はある?」

「はい。 無色の派閥とは、具体的には何者ですか?」

「世界でも最も危険なテロリストの一味だ。 ある強大な召喚師を筆頭に、反社会的な犯罪者や凶暴な異常者を集め、各地でテロを繰り返してきた危険な連中だ。 今だ奴らの目的ははっきりしないが、分かっているのは蒼の派閥や金の派閥の支部を相手に幾度もテロを繰り返してきた事、各地で破壊活動を行ってきた事、などだ」

「明確な政治的思想などは標榜していないんですか? 資金源等は?」

綾の問いに、ギブソンは首を横に振った。それを見て、妙な違和感を綾は覚えていた。彼女が対戦した無色の派閥構成員は、狂気と無縁だった。危険になれば整然と撤退していったし、論理的にくみ上げた戦い方を行っていた。そればかりか仲間を庇って、互いを護りながら戦っていた。第一単なる狂信者が、他人越しに話を聞いただけでもその凄まじい規模が伺える蒼の派閥と金の派閥を同時に手玉にとり続けているというのは何とも妙な話である。

「他に分かっている事はありませんか?」

「残念ながら。 奴らの本拠地はおろか、構成人員の数さえも分からない状態なんだ」

「お話を伺う限り、かなり長い間蒼の派閥と戦ってきた相手に思えます。 蒼の刃のみなさんは、私には無能には到底思えません。 それでも、なのですか?」

「ああ。 ……すまない、力になれなくて」

ギブソンの謝罪を笑って受け入れつつ、綾は悟っていた。この者達が、何かしらの隠し事をしていると。まあ、開けっぴろげすぎるのも考え物だが、それでも多少引っかかるものを覚えるのも事実だった。

「こんな事を聞いたのも、政治的思想、嗜好などが分かれば取るべき手も自然と浮かぶと思ったからです。 アカネさんの話では、バノッサさんは北スラムからまた出てこなくなってしまったそうですし、このままだと後手に回ってしまいますよ。 早くしないと、大変な事になります」

「うむ……」

何とも歯切れが悪い返事をしたギブソンに、もう一言言おうとした綾の耳に、ノック音が届いた。戸を開けると、そこにいたのは、満面の笑みを浮かべたモナティだった。

 

高鳴る心臓を押さえて、リプレはその店に足を踏み入れた。必要もないのに辺りを見回すと、そこはエプロン姿のリプレが入るような雰囲気ではなかった。何とも落ち着いた雰囲気の店で、客の視線も紳士的であり、照明の明るさも雰囲気作りに一役買っている。小さく安堵の息をつき、リプレは顎を引いて、姿勢を直す。ガゼルの言葉通り、穏和そうな大男が店番をしており、彼はリプレを見ながら穏やかに言った。

「先生は奥にいます。 そこの壁を押して入ってください」

「は、はい」

「落ち着けよ。 先生、全然変わってねえからさ」

「わ、分かってるわよ!」

此処はアキュートのアジト、つい最近までフラットと交戦していた者達の本拠地。そしてリシュールは、そこで軍師をしていた。一つは恩義のため、一つは街のため。リプレも会議には毎回参加していたから、経緯は全て知っていた。

生きていただけでも良かったじゃないか。絶望したガゼルに、リプレはそう言って慰めた。だが、本当に慰めて欲しかったのは自分ではなかったのか。だが、リシュールが連れて行かれてから、フラットの母となったリプレには、甘えは許されなかった。

それにしても、とリプレは思う。ついこの間までガキ同然だったガゼルの成長ぶりはいかなる事なのか。特にアキュートとの戦いを乗り越えてからは、今までリプレが見た事の無かったような大人の表情を浮かべる事が多い。リプレはガゼルに対して恋愛感情は持たないが、競争意識はある。何しろ二人は姉弟同然であり、対等な立場の仲間であったからだ。自分も頑張らなくては行けない、そのためには先生に会わないと行けない。リプレはそう考えていた。

戸は簡単に回った。そしてそこには、リシュールがいた。先生であり、精神的な親であるリシュールは、少し痩せ、松葉杖をついている他は、殆ど変わっていなかった。

「先生……」

「久しぶりだな、リプレ。 おっきくなったじゃないか」

リプレは、普段の多弁にも似合わずそんな事しか言えなかった。無言のままリプレはリシュールに抱きつき、もう殆ど背も変わらないかっての師は、苦労してそれを抱き留めた。ラムダはわざわざ気を利かせて席を外してくれたので、隠し部屋には今彼ら三人しかいなかった。

「おかえりなさいは、言わないよ」

「ああ、助かる。 私が帰るのは、この街がちゃんとしてからだ。 ごめんな、それまでは迷惑を掛けるよ。 リプレにお帰りなんて言われて、美味しい料理出されたら、決意が揺らぐからな」

「うん……」

「さ、どれだけ腕を上げたか見せて貰おうか。 ガゼル、手伝え」

「おうっ!」

リシュールの決意は固く、リプレは自身の気持ちを押し殺して、それを容認した。いや、容認出来たのである。

それでも、リプレは嬉しかった。また家族の時間が、縮小したとはいえ、此処に戻ってきたからである。せめて……この時間だけでも。

 

少人数でさほど時間も掛けずに作った料理だから、分量などたかが知れている。またこの情況であるから、宴に参加出来た者も多くはなかった。だが、誰もがその出来を絶賛した。酒場のマスターだけあり、料理にも習熟し舌も肥えているペルゴが、彼には珍しく料理の出来を絶賛した。

「これは素晴らしいですね。 この塩加減はもとより、焼き加減が何とも。 素材のうまみを完璧に引き出している」

「いつぞやのセシルが作った焦げ焦げとは比べも……ごふうっ!」

「もう一度言ったらぶつわよ、スタウト」

「もうぶたれましたが……」

楽しく食事する彼らと一つ離れたテーブルで、ラムダも無言で食事していた。一番最後に店に来たため、彼と相席になった綾が、しばしためらった後会話を試みた。

「美味しいですね。 流石リプレです。 リシュールさんも、とても料理が上手だったんですね」

「うむ。 素材が同じなら、腕自体はペルゴ以上かも知れないな」

「此処にいないみなさんにも、食べさせてあげたいですね」

「うむ、そうだな」

ラムダが不器用に笑ったので、綾は少し安心した。そのままラムダはナプキンで口を拭くと、視線をミモザとギブソンに向けた。料理をがっつくミモザと、丁寧に音も立てずに食べるギブソン。今度はエドスとガゼルにも、カシスとレイドにも。端の方の席には、ローカスが無言のまま食事を取っている。少しずつ歩み寄りの姿勢を見せてくれている彼に、ラムダは静かに、気付かれぬように小さく礼をした。そんなラムダの不器用だが誠実な様子に、綾は安心感を覚えた。

「ジンガ君にも残しておいてあげたいですが、冷めてしまっては美味しくないですよね」

「そうだな、此処は全部食べておくのが吉だろう」

更にそれに綾が応えようとした瞬間、憩いの時は終わった。遠くで爆音が轟き、感覚が鋭い何人かが同時に立ち上がる。程なく、ジンガが店に飛び込んできた。事態は、誰の目にも明らかだった。

「アネゴっ! 大変だ!」

「何処で暴れ出したんですか?」

「え? あ、ああ、北スラムだ! もう無茶苦茶な有様で、死人が沢山出てる!」

「アヤ、すぐ行こう! みんないつでも出られるはずだ!」

立ち上がったガゼルが言うが、綾はすぐにコメントするのを避けた。リプレに支えられて歩いてきたリシュールが、咳払いする。

「落ち着け。 これは陽動だ」

「ヨウドウ?」

「囮だよ、お、と、り。 おおかた我々や騎士団を北スラムに引きつけて、本隊は城を攻略するつもりだろう。 バノッサはあれで無能じゃあない。 如何に部下の裏切りに腹立てても、全力で北スラムを潰すような愚挙はしないさ」

「じゃ、じゃあどうすれば?」

ジンガの言葉に、リシュールは空いた机の一つに素早くサイジェントの地図を広げ、素早く何カ所かの地点を指さした。

「まず、精鋭部隊が城に急行、敵本隊の排除を行う。 それと並行して、防御専門の部隊が北スラムに向かう。 兵士達は全員北スラムで良い。 北スラムの方の目的は、民間人の救出と非難、それと残敵の排除だ。 無理はしなくて良い、向こうも本気で戦わないはずだ。 兵力分散は愚の骨頂だが、この場合は仕方がない。 だが、同時に両方で攻勢には出るなよ」

「……じゃあ、俺が行こう。 北スラムは、これでも結構良く知ってる」

立ち上がったのはローカスだった。エドス、ペルゴが続けて北スラムに赴く事を言明した。二人とも守勢に一日の長がある者達で、正に適任であった。頷くと、まだ戦闘経験が少ないエルカも其方に振り分け、リシュールは続ける。

「城の方は多分死闘になる。 それで、退路の事も考えて戦って欲しい。 もし敵の力が手に負えないほどの物だったら、一旦引き上げるんだ。 私はここから指揮を執る」

「分かった。 レイド、お前が城での前線指揮を執れ」

「先輩!」

「おそらく、バノッサにはアヤをぶつけなくてはならなくなる。 俺はそのために最前線で突破口を開かねばならん。 指揮を執る人間は別に必要だ」

「まって、アヤちゃんは私が護る」

「カシス、お前では大悪魔の攻撃を、体を張って止められまい。 これは俺にしか出来ぬ」

有無を言わさぬ口調でラムダが言う。彼が立ち上がると、重厚な鎧がぶつかり合う音が店内に響き、皆は一斉に気を引き締めた。サイジェントを左右する死闘の火蓋は、此処に切って落とされたのである。

 

2,炎上する城

 

この日、サイジェント城には、騎士団員と一般兵士を会わせ三百五十ほどが駐屯していた。街で暗躍する謎の組織の事は騎士団長であるイリアスの耳にも届いていたから、弛みきっている兵士達と異なり、騎士団員達は皆気を引き締めて警備に当たっていた。

時刻が昼を少し回った頃、まず第一の異変が起こった。北スラムで異形の怪物が大量発生し、住民を虐殺し始めたのである。イリアスは直ちに騎士団員に出撃を命じたが、サイサリスがそれに異論を唱えた。

「イリアス様、お待ち下さい」

「サイサリス、何故止める」

「これは罠です。 おそらく、陽動攻撃だと思われます」

「だとしても、黙って見過ごすわけには行かない。 市民が怪物に殺され苦しんでいるというのに見捨てる等という行為は、私の職務に対する責任と、騎士としてのプライドが絶対に許さない」

サイサリスもそれ以上の反論はしなかった。イリアスは更に兵士達を集め、そして驚くべき事態に直面した。最近人が変わったという噂のイムランが、弟二人と一緒に、緊迫した面もちで歩み寄ってきたのである。精神的に身構えるイリアスに、イムランは言う。

「騎士団長、話は聞いた」

「何でしょうか」

「我々も協力しよう。 我々の私兵の他、近衛兵団も連れて行ってくれ」

「……はあ。 協力してくれるというのは嬉しいのですが、どういう心境の変化ですか?」

「何、街を支えるのは市民で、それを護るのは我々だと気付いただけだ。 指揮権は君に渡す」

イリアスは半信半疑ながらも、五十名ほどの追加兵力を加え、北スラムに合計百名ほどの兵力を派遣した。急いで出撃したから、さほどの重装備は整えられなかったが、ともあれ訓練を受けた兵士を中心とした部隊である。指揮を執ったのは冷静な事に定評があるサイサリスで、その人選に異を唱える者はいなかった。

イリアスはサイサリスの言った事を疑っていたわけではない。サイジェント城は防備よりも美観を優先した城であったが、一応の防御能力を有してはいる。門は東西南北に一カ所ずつあり、その全てに防御を固めるべく、イリアスは伝令を飛ばした。次の瞬間、第二の異変が起こった。不意に城が揺動したのである。数人の兵士が転び、だがイリアスは規律を保った。いつもの柔らかな物腰から一転した、厳しい戦人としての声が飛ぶ。

「何事だっ!」

「は、はっ! すぐに調査いたします!」

慌てて駆け去った兵士が、報告を持ち帰るまで少し時間がかかった。息せき切って戻ってきた兵士は、驚くべき報告を告げたのである。

「報告します! 北門に来襲!」

「やはり、サイサリスの危惧は正しかったか! 敵兵力は?」

「それが、たった一人です! しかし鬼神の如き強さで、召喚術も使うようです! 既に十人以上が倒され、負傷者も多数出ています!」

「たった一人だと? ……分かった、私が出る。 兵を集めろ!」

イリアスは愛剣を手に取ると、手近な部下達を連れ、北門へ急行した。そこはさながら、地獄絵図のような有様だった。重厚を極めた北門は外側から粉々に吹き飛ばされ、辺りには無惨な死体が散乱している。そして、片腕だけで武装した兵士をつり上げているのは、あろう事か巻き毛の少女たった一人だった。唖然とするイリアスの耳を、真上からの咆吼が撃つ。彼が視線を上に向けると、そこには深紅の鱗を持つ、メイトルパの凶獣がいた。ドラゴン、しかもその中でも特に強力な赤竜である。赤竜は少女の傍らに舞い降りると、城中を咆吼で揺動させた。ゆっくり少女が振り返り、イリアスは背筋に寒気を覚えた。その目にあったのは、想像を絶する、剰りにも凄まじい憎悪だったのである。

 

サイジェント北門に、その少女が訪れたのは昼少し前だった。北スラムが襲われてすぐの事だったから、城は騒然としており、門番も緊張して辺りに視線を走らせていた。そんな中、その巻き毛の少女、トクラン=メルキリウスは何事もなかったかのように城へと歩いていった。兵士は流石に注意したが、トクランは口の端をつり上げると、右手を城門へ向けた。

「誓約においてぇ、トクラン=メルキリウスが命じる! 全てを滅ぼせ、偉大なる溶岩竜王、破壊の女帝ゲルニカ!」

一瞬おいて、虚空に出現したのは巨大なる竜。硬直する兵士達を見もせず、ドラゴンは無造作に巨大な火球を撃ち放った。火球は門に着弾し、凄まじい音と共に炸裂した。それに巻き込まれた兵士は一瞬で炭とかし、生き残った者も悲鳴を上げつつ堀に飛び込む。鉄製の城門が炎上し、解け落ちていく中、悠然とトクランは歩を城内に進めた。騒ぎを聞きつけた兵士達が、慌てて彼女の前に立ち塞がった。

今日、オルドレイクからトクランに与えられていた指示はただ一つ。北門から城に侵入、二時間其処に留まり、抵抗する人間を皆殺しにしろ。以上であった。時間場所共に制限付きとは言え、思う存分暴れて良いと言われたトクランは、心の中に燃えさかる復讐の炎の出力を最大にしていた。

槍を構える兵士の前から、トクランがかき消える。否、残像を残して宙に跳躍したのである。そのまま彼女は踵落としを見舞い、兜ごと兵士の頭を粉砕した。更に横に飛ぶと、首を刈るように横にいた兵士の頭に後ろ回し蹴りを見舞った。首の骨を折られた兵士は吹っ飛び、地面に転がって絶命する。

純粋な破壊力だけなら、トクランのそれはクジマ以上である。三人目、四人目、五人目、ろくに抵抗も出来ずに兵士が文字通りひねり殺される。轟音を立てて迫るトクランの、尋常ならぬ目を見た兵士が、蒼白になって怯えた声を上げた。

「ひ、ひいっ!」

「うふふふふふ、ふふふふふふふふふ! つーかまーえたぁっ!」

そのまま兵士の顔面を掴み、トクランは跳躍した。そして、壁に凄まじい勢いで叩き付ける。卵のようにはぜ割れた兵士の頭からこぼれ落ちる鮮血と脳味噌。それを手を払って落とすと、逃げ腰になる兵士をトクランは捕らえ、片手でつり上げた。

「遅かったじゃない」

鈍い音と共に、兵士の首の骨が潰れた。トクランが言葉をかけた相手は、彼女の護衛獣赤竜ガルトアラーズ、それに現れた敵増援。特に敵増援の司令官はそれなりに手応えがありそうで、トクランは思わず舌なめずりしていた。敵司令官は、剣をトクランに向け、怒りを込めて吠えた。

「おのれ、それ以上の狼藉は、例え女子供といえど許しはしないぞ!」

「だから? 私、暴れたくてウズウズしてるんだ。 悪いけど、相手になって貰うよぉ」

「……! 弓隊、前へ!」

司令官が手を振るのと、ガルトアラーズが前に出るのは同時。そして、一瞬早く、ドラゴンの口から炎が放たれた。流石にゲルニカに比べると見劣りするが、その破壊力、正に地獄の炎と言うに相応しい。弓隊の中央に着弾した火球は、数人を一気に吹き飛ばし、無事だった者も態勢を崩した。その間に間を詰めたトクランが、容赦なく拳を叩き込もうとするが、敵司令官はとっさに剣を振るい、剣の腹で強烈きわまる殴打を受け止めた。

「ほう? やるぅ〜」

「はあっ!」

一瞬の均衡の後、司令官は剣を振るってトクランを弾いた。トクランはその一撃を余裕を持って受け流すと、柔らかく着地し、側面にいた一人を無言で蹴り倒した。声もなく首をへし折られ倒れる兵士、絶叫し、突貫してくる敵司令官。振り下ろされる剣は殺気に満ち、舌なめずりしたトクランは、右手でそれを受け止めた。右手に装着した手甲が刃とぶつかり合い、激しい音を立てる。そのまま手を翻し、刀身を掴むと、吸い寄せられるように間を詰めたトクランは、むしろ優美な動作で敵司令官の腹に膝を叩き込んでいた。蹌踉めく相手の首を掴むと、今度は頭突きを叩き込む。更に体勢を崩した敵から手を離すと、遠心力を付けた回し蹴りを撃ち込む。木がへし折れるような音が響き、二度地面でバウンドした敵司令官は、壁に叩き付けられ、そのままずり落ちた。壁には鮮血が糸を引き、兵士達は露骨に逃げ腰になる。手甲を振るい、鮮血を落とすトクランが、愉快げに目を細めた。その隙に突っかかった兵士がいたが、トクランは振り返りもせず裏拳をたたき込む。顔面を砕かれた兵士が膝から崩れるのには目もくれず、ゆっくりトクランは歩を進めた。

「へー、これ喰らっても立つ。 良かったなあ、良かったよ此処に来てさぁっ!」

「ぐっ……君は何者だ。 その拳法、ただ事じゃない……な」

「これは古流武術、波浪砕山拳。 戦闘の基本である(敵を破壊する事)のみを考えた、今はもう失われた武術の一つだよぉ」

「か、かはっ! は、破壊の為だけの拳法……だと?」

かろうじて立ち上がった敵司令官に、トクランは無造作に前蹴りを叩き込んだ。再び壁に叩き付けられた敵司令官は血を吐き、壁には巨大な亀裂が走った。蹌踉めく間もなく、間を詰めたトクランは追い討ちの掌底を打ち込んだ。敵司令官の白い鎧が砕け、人間の腹筋を痛めつける愉快な感触が、トクランの手にそのまま伝わる。後方で響くのは、ガルトアラーズが雑魚を掃討する音であろう。燃えさかる炎の音、さらには悲鳴が響き、心地よさにトクランは舌なめずりする。普通の人間なら即死している一撃を何度も受けているのに、敵司令官はまだ生きており、それがトクランを余計に興奮させていた。

「いい気味。 みんな壊れれば良いんだ。 私だけじゃなくて、同志クジマや、同志ラーマや、同志ザプラや、同志オルドレイク様を苦しめ続けた世界なんて、このまま焼き尽くされてしまえばいいんだっ! さあて、頑丈な君もそろそろ限界でしょぉ? 最後は一息に、首をむしり取ってあげ……」

トクランの言葉が止まったのには訳があった。真右から、彼女を狙って複数の手裏剣が襲いかかったからである。不意のその攻撃は鋭く、三本のうち一本が右腕に突き刺さった。舌打ちしたトクランはバックステップし、振り返って襲撃者を捜した。次の瞬間、殺気が襲いかかり、殆ど無意識的にトクランは腰を落として左腕を上げ、襲撃者のハイキックをガードしていた。襲撃者は、朱色の着物を着た、トクランより少し年上に見える娘だった。娘の目には、トクランの物とは別種の怒りがたぎっていた。

「アンタ、いくらなんでも、いっくらなんでもやりすぎだよっ!」

「……はん! うざいわっ!」

娘は相当な使い手だったが、トクランから見ればまだまだ未熟だった。そのまま不意に力がかかる場所をずらし、体が泳いだ所に、脇腹に抜き手を入れる。殺すつもりの一撃だったが、それは空を切った。正確にはクリーンヒットしなかった。元々娘は逃げる事しか考えていなかったようで、トクランの一撃の急所をずらすと、鎧を放置して敵司令官を背負い、城内に走り去っていったのである。鋭い抜き手は皮膚を傷つけ切り裂いてはいたが、致命傷には至っていなかった。

無言のまま辺りを見回すと、もう周囲に殆ど生きた敵はいなかった。かろうじて生き残っている者も戦闘力を失い、地面で呻いている状態である。右手に突き刺さった手裏剣を引き抜き放り捨てると、トクランはそのまま城内へ向かおうとする。その背から、制止の声がかかった。

「いけません、トクラン様」

「ガル、なんで止めるのぉ? いいじゃん、暴れて来いって言われてるんだし」

「そうではありません。 トクラン様の守備範囲はあくまで北門です。 これ以上突出されますと、作戦が成り立たなくなります。 第一、その腕、早く治療しないと」

トクランは頬を膨らませ、露骨に不満を示したが、彼女にしてもガルトアラーズが自分を心配している事は良く知っている。このまま暴れれば、右手の傷を悪化させてしまう事はトクランからしても目に見えていたのだ。何しろトクランは、誰かを護って戦うとか、何かを庇って戦うとか、そう言った戦いは最も苦手としていたからである。忌々しげに、側に倒れていた虫の息の兵士の頭を踏みつぶすと、そのまま少し戻って石に腰掛ける。高熱に溶けたドアが傾き、外側に倒れて大きな音を立てた。戦いの音は、南門からも響き始めていた。

 

「南門より怪物侵入! 数はおよそ三十体! 兵士達が応戦していますが、支えきれません!」

「おのれ、北門の敵は囮であったか……何と言う事だ……! カムラン、領主様を逃がすための算段をしろ! サビョーネル、一緒に行け!」

「はい、兄さん!」

「よろしいのですか、此処は危険になりますが」

「私の危険より、サイジェント全体の事を優先しろ! いいから行けっ!」

北門に行ったまま戻らないイリアスに代わって、城内ではイムランが指揮を執っていた。かっての彼であったら兵士達が従うか疑問な所であっただろうが、周囲の兵士達は先ほどの会話から、彼が本当に代わった事に気付き始めている。カムランも動きはきびきびとしており、的確な指示を周囲に下して、領主を護って西門から脱出した。サビョーネルは目を細めてその様を見守ると、イムランに敬礼し、その場を後にした。そのままイムランは兵士達を従え、南門に出た。そして驚愕に身をこわばらせた。サプレス系召喚師である彼は、怪物の実体、そしてそれが示す絶望的な事態を悟ったからである。

「大悪魔……! な、何という事だ……!」

「ほぉ、てめえが親玉かよ」

強張るイムランの前に、双剣を抜きはなった白い肌の男が歩み来た。その体から迸る圧倒的な魔力を悟ったイムランは、交戦を放棄した。正確には、勝ち目がない事を悟ったのである。此処にいる大悪魔だけでも三体、雑魚の悪魔でも十体近いのだ。

「し、城に残った者達に連絡。 全員撤退だ。 今此処にいる戦力だけで、どうにかなる相手ではない!」

「イムラン殿は?」

「最後まで残る。 ……早く行け、カムランにもそう伝えろ!」

「は、承知しました!」

それだけ言い残すと、イムランは敵に向き直った。元々大した戦闘力を持つわけでもなく、実戦向きの召喚術を使えるわけでもない。しかし樋口綾に殴られてから視野を広げた彼は、いまや自然と支配者階級の義務を理解していた。震える彼に、白い男は笑みを浮かべたまま、ゆっくり歩み寄っていく。彼は途中で右手を振り、大悪魔達が頷くと、南門の方へと向かった。男の体からは膨大な魔力が迸っており、悪魔がいなくてもその凄まじい実力は一目瞭然である。大悪魔がいなくても、此処にいるイムラン達を掃討するなどこの男には文字通り朝飯前なのだ。

覚悟を決めたイムランが、どうせ効かないと分かっていつつも、己が保有する最大の召喚術を唱えようとする。何人かの兵士がその決意にうたれ、彼と共に残らんとその周囲を固めた。せせら笑い、更に前に進む白い男。その歩みが不意に止まる。同時に、イムランも喧噪に気付いた。

「ん? 何だ?」

「き、北スラムに行った部隊が戻ってきたのか?」

「……へっ、ちげえよ、おっさん。 どうやら運命の女神とやらは、俺に最高の舞台を用意してくれるようだなあ」

もはやイムランには一顧だにせず、男は振り返った。そして嬌笑し、吠えたのである。

はぐれ女ァ! 俺は此処だ! 今こそ、今こそ決着をつけてやろうじゃねえぁあああああああっ!

程なく、それに応えるが如く。南門の方から響いていた、戦いの音が近づき始めた。その音は更に接近し、そして悪魔が一体、左右に両断されて崩れ落ちた。崩れ落ちていく悪魔の、後ろから現れた人物は、イムランを変えた張本人だった。

「バノッサさん……!」

「待ってたぜ、はぐれ女ァああっ! 今度こそぶっ殺してやる!」

その娘、樋口綾は、剣を振るって言った。かなりダメージを受けている事が明白だが、その身に纏う戦意は衰えていない。バノッサと呼ばれた白き悪鬼は、殺意と悪意と狂喜を持って、その来襲に応えたのである。

 

3,総力戦

 

サイジェント城に向かったフラットの面々は、リシュールの言葉が正しかった事を確認していた。城の南門では悪魔達が群がり、抵抗する兵士達を文字通りなぎ払っていたからである。珍しく感情を乱し、歯を噛むレイドを、ラムダが押さえる。

「落ち着け、レイド」

「……くっ。 アヤ、情況をどう見る?」

「南門の敵を排除しなければなりませんが、他の地点にも敵がいる危険があります。 後背を突かれないようにするためにも、偵察要員を派遣する必要があると思いますが、あまり多数を裂くわけにはいきませんし……」

「そうか。 ならばアカネ、その任務頼めるか?」

「ほいほい、行って来るよ!」

レイドは即断し、指揮官としての力を周囲に見せ、皆を安心させていた。すぐにアカネは城門に添って走り出し、姿を消す。そのままレイドは剣を抜き、猛々しく言う。

「敵は手強い、出来るだけ大人数で各個撃破するんだ! 行くぞ、突撃!」

「おおっ! 我らがサイジェントを、あんな奴らに渡すなっ!」

最初の一撃を叩き付けたのはガゼルだった。彼が投擲した六本ほどのナイフは、城門で暴れていた小柄な悪魔の目を次々に貫いた。絶叫する悪魔を、ジンガとレイドがタイミングを合わせて叩き伏せ、地に這わせる。それに伴って、悪魔、そして大悪魔クラスの敵が、続々と振り向き、咆吼を上げてフラット・アキュート連合軍の面々に襲いかかった。生き残りの兵士達は態勢を立て直し、反撃を開始する。見る間に場は大乱戦の修羅場と化した。

 

悪魔は人間とかけ離れた容姿をしている者が多く、また根本的な能力の差もあって、その戦闘力は強大を極めた。だがフラットの面々は人間の中でもまず一流と言っていい使い手の集まりであったし、何より息が合っている。特に指揮を取る者がいるわけでも無い悪魔達を、巧妙に分断し、各個撃破していく。レイドの指揮は冷静で、時々綾の意見を仰ぎつつ、的確な指示を出して被害を最小限に押さえていった。

だが、それにも限界がある。南門から二十メートルほど侵入した所で、強固な敵の壁にぶつかったのである。大悪魔が実に三体、無言のまま立ちはだかった。一体は人間とさほど変わらぬ姿をしているが、全身は銀色で、目も鼻も口もなく、頭の上からは長い刃のような突起が延びている。一体は背の高いワニのような姿で、背中からは無数の触手が生え、その先端部にはいずれも目がついていた。最後の一体はいわゆる幽霊蜘蛛に似た容姿で、小さな本体を、十二本に達する長大な足で支えていた。いずれも強大なプレッシャーを放ち、鉄の壁が如き無言の威圧感を放っていた。ゆっくり前に進み出たのは、ワニのような大悪魔である。

「なかなかやるな、人間。 俺はゼクルフォン、そっちの頭に歯が着いているのがクシャエル、足が長いのがパキケファセル。 悪いが、ここから先には我ら三名がとおさん」

「どうしても、戦わねばなりませんか?」

「それが仕事なのでな。 ただ、仕事を脇に置いておいて、お前達と戦いたいというのが本音でもある。 手応えのある相手を見たら、戦ってみたくなるのが性分なのでな」

綾の言葉にゼクルフォンは口の端をつり上げながら応え、そして大きく口を開けた。その口中に、膨大なエネルギーが集まっていく。それと同時に、クシャエルの姿が残像を残してかき消えた。ラムダが無言で、綾の側に向け大剣を振り下ろす。激しい激突音が響き渡り、クシャエルが少し離れた所に出現した。

「ほう……やるな……。 だが、いつまでついてこれるかな?」

風船が破裂するような音と共に、再びクシャエルがかき消えた。殺気を感じたジンガが飛び退こうとするが、その背中を鋭い刃が抉る。更にモナティがはじき飛ばされ、かろうじてガードを取ったセシルもはじき飛ばされる。正に疾風、常識外の早さである。更にクシャエルはスウォンに襲いかかったが、狩人の少年は間一髪でかわし、地面を二度横転すると、素早く反撃の矢を見舞もうとした。だが前方から、綾の、緊迫した制止の声がかかった。

「スウォン君! 避けてっ!」

「! うわあああっ!」

前方から飛来した無数の光弾が、スウォンだけでなく、地面に倒れているジンガや、モナティを容赦なくはじき飛ばした。一発一発の破壊力はどうと言う事もないが、何しろ数が凄まじい。一撃を放ったのはゼクルフォンであった。何とか一撃をかわす事が出来た綾は、抜刀し、至近に現れたクシャエルの鋭い一撃を弾きつつ思惑を巡らす。

『高速で移動出来るクシャエルさんと、大砲であるゼクルフォンさんの同時攻撃。 どちらかに対応しようとすると、もう一方への対応がおろそかになる。 厄介ですね……それにパキケファセルさんの能力も気になります。 ならば……!』

綾はクシャエルの一撃をはじき返すと、そのまま彼の右に回り込もうとした。だが素早い大悪魔は再びかき消すように姿を消し、今度はガゼルに真上から襲いかかった。体捌き自体はそれほどでもないが、恐るべき早さと機動力を持つ相手であり、舌打ちしたガゼルは弾かれたように飛び退いてなんとか一撃をかわす。だが綾は、それを見計らってカシスに目配せする。綾の背後を常に護るように戦っていたカシスは、小さく頷くと、印を切り呪文を詠唱した。

「誓約において、カシスが命ずる! 焼き尽くせ、霊界の邪虫フォーワーム!」

空間の穴から現れたのは、禍々しい姿の芋虫であった。双頭で、長い足は四十本近く、背中にはぞわぞわと無数の毛が蠢いている。それは口を六方に開くと、火球をゼクルフォンへ向け撃ち放った。だが、その時パキケファセルの能力が発動した。ゼクルフォンの眼前、すぐの地点で、火球は雲散霧消してしまったのである。パキケファセルの周囲には魔力が渦を巻いており、綾が呟く。

「成る程、一人は防御担当ですか」

「そう言う事だ! もう一発行くぞっ!」

ゼクルフォンが放った光弾は、途中で無数に分裂し、軌道を変えながら地面に降り注いだ。数人が吹き飛ばされ、地面に転がる。更にクシャエルも宙に躍り上がり、ついに援護が無くなったミモザに、頭をたたき割るようにして躍りかかった。レイドは良く周囲を指揮し、的確に負傷者の手当と後方搬送をさせているが、彼も手が回らない。綾は印を素早く組みながら、絶叫した。

「ラムダさん! 其方を頼みます!」

無言のまま動いたラムダが、ミモザの前に立ちはだかり、鋭く突き出されたクシャエルの抜き手を体で止めた。その一撃は鎧を砕き、脇腹に突き刺さったが、ラムダは屈しなかった。そのまま敵の手を押さえつけ、絶叫する。クシャエルが驚愕の声を上げた。

「な、何ぃっ!」

「今だ、やれっ!」

「おのれ、させるかっ!」

「それは此方の台詞よ! 誓約においてミモザ=ロランジュが命ずる! 我が友を護れ、フォールフロール!」

慌てたゼクルフォンが綾の背中に極小の光球を放つが、一瞬ミモザが早く放ったフォールフロールが盾となって綾を護った。そのまま綾は、一気に召喚術を発動した。現れ出でるはヴォルケイトス、巨大な口を開け、その中に光の雷が具現化する。

「誓約において、樋口綾が命ずる! ヴォルケイトスよ、我の敵を殲滅したまえ!」

「く、くそおおおおおおおおっ! ぎゃあああああああああっ!」

ヴォルケイトスの光弾が、クシャエルを直撃した。それは大悪魔を吹き飛ばし、粉々にうち砕いた。ラムダも吹き飛ばされたが、よろけつつ何とか立ち上がってみせる。額の汗を拭う綾、意気上がるフラットの面々、それに兵士達。対し下級の悪魔達は逃げ腰になり、ゼクルフォンが歯ぎしりした。それに対し、一旦綾は後退し、何人かに素早く耳打ちした。

「おおのれぇ……! だが、まだまだっ!」

『今までの攻防で、シールドの展開地点は分かりました。 長期戦は出来ませんから、一撃で決めます!』

ゼクルフォンが大きく口を開け、今までにない強大なエネルギーが集まっていく。辺りの空気をスパークが伝い、小石が浮き上がって弾かれる。兵士達が何人か矢を射かけるが、いずれもシールドに弾かれて地面に落ちた。だが、冷静に綾は印をくみ続け、ヴォルケイトスを再び呼び出す。だが連続して大業を放つ以上、ただで済むわけもない。消耗は誰の目にも明かで、ゼクルフォンが目に余裕の光を湛える。そして、特大の光弾を撃ち放ったのである。

凶悪な光をばらまきながら、唸りを上げて光弾が飛ぶ。同時に空間の裂け目に前足をかけたヴォルケイトスが、同じく特大の光弾を放った。両者は中間点……シールドの展開地点で激突、炸裂した。閃光と爆音がサイジェント城南門を制圧し、しばし暴れ回った。巨城とは言い難いサイジェント城が揺動し、一瞬だけ激しい戦いが止まった。煙が晴れると、無傷のゼクルフォンが巨体を表し、からからと笑った。消耗は、誰の目から見てもほとんど無い。対し、綾は肩で息をついており、背後にいる者達も数度のゼクルフォンによる砲撃でかなり深刻なダメージを受けている。優位を確認した大悪魔は、尻尾をゆっくり左右に揺らしながら、目に嗜虐的な光を湛える。戦いが好きと言うよりも、手強い敵を更に強い力でねじ伏せ、痛めつけるのが好きな目をしていた。

「くははははははははは、確かに素晴らしい破壊力だが、そう何度も撃てまい! それに、何度やっても私に貴様らの攻撃は届かぬ! さあ、とどめにもう一撃行くぞ!」

「はあ、はあ……。 ……すみません、それはありえません」

「何っ!? ……! パキケファセル!」

綾の返答に嫌な予感を覚え、弾かれたように振り向いたゼクルフォンの目に、深々と矢がつき立った僚友の哀れな姿が映った。蹌踉めくパキケファセルに、更にガゼルとスタウトが投擲した無数のナイフが突き刺さり、勢いに乗った兵士達が放った複数の矢が突き刺さった。とどめとばかりに、先ほど綾を護ったフォールフロールが一本の矢となり、本体を貫通した。蹌踉めき、ゆっくり倒れるパキケファセル。丁度枯れ木が崩れるように、巨大なる蜘蛛の悪魔は死んだ。

「お、おのれっ! 私の攻撃の瞬間を見きり、シールドの穴が空く位置に矢を打ち込ませたか!」

無言は即ち肯定であった。正確には爆発の一瞬後をねらい澄まし、綾の指示通りにスウォンが矢を叩き込んだのである。綾を追い越すように駆けたレイドが、ギブソンが放ったポワソが、容赦なく盾が無くなったゼクルフォンをうち貫く。だが、流石はリーダー格、それだけでは屈しなかった。全身から血をばらまきながらも、レイドを、巨体を揺すってはじき飛ばし、小型の光弾を無差別に乱射する。長大な尻尾を振るって接近する相手を牽制し、巨大なあぎとで近くの物を手当たり次第にかみ砕いた。対しナイフや矢が無数にゼクルフォンに襲いかかり、それらは次々と悪魔の肌を貫いて、双方共に激しい流血を伴う凄まじい消耗戦が展開された。その時、光弾を物ともせずに突貫したのは、一同の中で最も臆病かと思われるモナティだった。彼女の視界の隅には、光弾の乱射で吹き飛ばされ、未だ立ち上がれない綾、体を張って綾を護るカシスの姿があった。モナティは近くの岩を持ち上げると、そのままゼクルフォンの口へ投擲したのである。一抱えもある巨石は光弾を物ともせず、ゼクルフォンの口を直撃した。それと同時に、モナティが崩れ伏す。見れば、右腕に大きな火傷の後がある。痛くて泣きたいだろうに、モナティは歯を食いしばり、絶叫した。

「ぐがっ!」

「今ですのっ!」

「任せておけっ!」

突貫したのはラムダである。彼は岩を砕く事が出来ず、四苦八苦の末ようやくはき出したゼクルフォンの手前で跳躍、大剣を脳天に突き降ろしたのである。先ほどにクシャエルの猛烈な一撃を受けたとは思えぬほどの鋭い動きで、隙をつかれ、急所を貫かれたゼクルフォンは絶叫した。

「お、おのれええええええっ! 私が、私が、人間如きに……! ぎぃぎゃああああああああああああっ!」

大量の鮮血を辺りにぶちまけつつ、大悪魔ゼクルフォンは無念の言葉を吐く。その瞳からは、急速に光が失われていったのである。

 

「被害はどんな様子だ?」

「とりあえず、俺達の中に何とか死人はいねえ。 だけど、見ての通りだ」

レイドの言葉に、ガゼルが辺りを視線で指しつつ言った。辺りには兵士や騎士の死体が累々としており、サイジェント城の守備隊は文字通り全滅状態だった。フラット、アキュート連合軍側でも、何とかかすり傷で済んでいるのはスタウトだけで、セシル、スウォン、ガゼル、レイドがそれぞれ軽傷、綾、ジンガ、モナティが相当な傷を負い、ラムダは常人なら気絶するほどの怪我をしていた。ミモザ、カシス、ギブソンの召喚師戦力はそれぞれ魔力を半分ほども消費していて、かなり情況は悪い。今カシスがプラーマを使ったから、彼女の消費は更に激しくなった。

レイドの側に歩み寄ってきたのは、騎士の一人だった。傷ついているが、言動ははっきりしている。老いた騎士であるが、腕は確かで、先ほどの戦いでもかなり善戦していた。

「すまない、君達が来なければ全滅していた」

「確か貴方はラッツ先輩……」

「レイドか、腕を上げたな。 ラムダ様もおられるとは。 ……自分たちを虐げたサイジェントのため、此処までしてくれるとは。 今まで、助けになれずにすまなかった」

「……」

深々と頭を下げるラッツに、レイドは複雑な表情をした。喜んで良い物か分からなかったのである。カシスのプラーマと、ジンガのストラで何とか立ち上がる事が出来た綾が、レイドに申し訳なさそうに頭を軽く下げた。それを見たレイドは、意味を悟って咳払いした。貴重な時間を思い出話でロスするわけには行かないのだ。

「ラッツ先輩、我々はこれから悪魔共の親玉を叩きます。 負傷者を連れて、城から撤退してください」

「しかし、まだ中には……」

「自分からも……命令する。 負傷者を救出して、撤退……するんだ」

「イリアス隊長! はっ! 分かりました!」

レイドの背後から現れたのは、アカネに肩を借りたイリアスだった。鎧は既に失い、アカネも脇腹を切り裂かれて血を流している。イリアスは地面に崩れ落ちるように倒れると、絶望をはき出した。

「北門には、とんでもない使い手が現れました。 ……歯が、立ちませんでした。 部下を目の前で大勢殺され、逃げることしかできませんでした……」

「イリアス……」

「ならば腕を上げて倒せばよい。 それに我らと一緒であれば、勝機は見えるかも知れない」

二人を彼らしい言葉で励ましたのはラムダだった。何とか応急処置は施したものの、未だ完全とは言い難い情況である。なのに彼は、何という精神力であろうか、苦悶の表情を尾首にも見せなかった。ラムダはそれ以上の言葉はなく頷き、レイドは言った。

「良し、応急措置が済み次第、バノッサを撃退する! 奴を倒せば、悪魔共の発生源はたたけるはずだ!」

歩き出した皆の耳に、バノッサの凶咆が届いたのは、その瞬間であった。

はぐれ女ァ! 俺は此処だ! 今こそ、今こそ決着をつけてやろうじゃねえぁあああああああっ!

 

北スラムでも、サイジェント軍は苦戦していた。何しろ悪魔と言えば人間以上の力を持つ存在であるし、北スラム自体の地理に軍は詳しくなかったからである。悪魔達はゲリラ戦を展開、各地で軍を捕捉し撃破していった。マーン家の私兵達や近衛兵は、主人が最前線で勇敢に戦っていたために逃げはしなかったが、士気自体は決して高くはなかった。その結果、かろうじて足を引っ張らない程度の活躍しか出来なかった。また、サイサリスは冷静な指揮を執ったが、それも被害を減らす程度の効果しかなかった。

悪魔達はさほど数が多くはなかったが、動きは俊敏で的確だった。最前線で戦っていたキムランは、いつの間にか自分の周囲に数人しか残っていない事に気付いた。真後ろで悲鳴が上がり、おそるおそる振り向くと、巨大なシャコのような悪魔が兵士の一人を頭からかみ砕いていた。その大きさに逃げ腰になる近衛兵達。キムランは奥歯をかみしめると、吐き捨てる。

「ちいっ! おい、そこのでかいエビ! 聞いてんのか、あぁんっ!?」

「ナンダ、俺ノ事カ」

「うぉっ! しゃ、しゃべりやがった! お、お前なんかな、お前なんかな、(あいつ)に比べたらカス同然だっ!」

「ホウ……面白イ……挑発シテイルノナラ乗ッテヤロウ」

シャコに似た悪魔はゆっくり振り向き、無数の足を蠢かせて乗っていた廃屋の屋根から降り、二本の鋏をゆっくり下げる。シャコの武器は鋏による強烈な殴打で、それによって外敵を退け、貝の殻にも穴を穿つ。見かけ通りこの悪魔も、同様の業を使うようであった。強烈なプレッシャーを受け、冷や汗の滝を背中に作りながら、キムランは召喚術を発動する。盾のような形をした生き物が彼の頭上に現れ、淡い光のシールドで召喚主を護る。

「誓約においてキムラン=マーンが命ずる! 俺の身を守れ、アーマーチャンプ!」

「ナンダ、ソノ情ケナイ術ハ……」

滑るように動いたシャコの悪魔が、強烈なブローをキムランに叩き込んだ。無言のまま吹っ飛んだキムランは、廃屋に叩き付けられて派手な音を立てる。それを見て、今まで戦っていた近衛兵が逃げようとするが、その前に首が長い猿のような悪魔が立ち塞がった。悲鳴を上げる兵士達、だが続いて絶叫したのは猿の悪魔だった。その頭に剣士が這い登っており、脳天に鋭い一撃を叩き込んだからである。鮮血が盛大に吹き上がり、白目を剥いた猿が倒れる。地響きがして、ゆっくり忌々しげにシャコの悪魔が振り向き、キムランが立ち上がった。

「誰だ……余計な事……しやがって! あぁんっ?」

「俺だ。 前は色々と世話になったな」

「ろ、ローカス! 貴様、生きていたのかっ!」

「お前が言う(彼奴)に助けられてな。 ……それよりも、一時休戦と行こうぜ。 今は戦ってる場合じゃねえからな」

崩れ落ちる猿から飛び降り、危なげなく着地して、不敵な笑みを浮かべたのはローカスだった。剣を振って、鮮血を払い落とす余裕さえ見せている。彼はかってのキムランの宿敵であり、何度か激しく戦った相手でもあった。そのローカスの行動の意味を悟ったキムランは、頭を振ると、凶暴な笑みを浮かべる。

「いいだろう。 ここでこんな雑魚にやられたら、俺の望みなんてかなえられっこないからな!」

勇気を取り戻したキムランは、愛用の大刀を構え直す。シャコの悪魔は忌々しげに舌打ちすると、咆吼と共に二人に襲いかかった。

 

サイサリスの元には、悲惨な情報ばかりが届いていた。部隊単位の連絡途絶、連絡途絶、また連絡途絶。敵の具体的な兵力は未だに把握出来ず、後方の様子も分からない。城から煙が上がり、浮き足立つ兵士達を落ち着かせるのに必死になるサイサリス。彼女が冷や汗を拭い、新たな命令を下そうとしたとき、兵士達がざわめきだった。

「久しぶりですね、サイサリス」

「貴方は、アキュートの……」

身構えるサイサリス、それに軽く笑って見せたのはペルゴだった。その後ろには、十人ほどのアキュート兵と、エドス、それにエルカの姿もあった。

「何をしに来ました」

「貴方達と同じですよ。 悪魔などに、この街を好き勝手にさせるわけには行かないのでね。 そんな事よりも、良いように敵に振り回されているようですが?」

「……! 貴方が知った事ではありません」

「敵は地理にこそ長けていますが、おそらく兵力自体は少数です。 また、精鋭も出払っているでしょう。 しかしながら、今のように無理に攻撃しようとしても、兵を損なうだけです。 一旦兵を集結させ、各個撃破する事を考えてみてください」

それだけ言い終えると、ペルゴは素早く去っていった。程なく、人のものではない悲鳴が上がり、地響きが轟く。逃げ腰になっていた兵士達がそれを聞いて少しずつ勇気を取り戻し、サイサリスは爪を噛んだ。隣にいた騎士が、心配げに司令官に話しかける。

「サイサリス様、これは……」

「おそらく彼らの言う事が正しいですね。 兵を集結させなさい」

サイサリスの指示は迅速に実行され、兵が集結し始めた。それを見て、兵士達が驚く。何の事はない、確かに被害は受けていたし、絶望的な報告ばかり届いていたが、実被害自体はそれほどでもなかったのである。敵が少数だというペルゴの言葉を真実だと確信したサイサリスは、以降は防御主体の戦い方に切り替え、敵を殲滅する事より生き残った住民の救出に力を注いだ。そして、それは正しい判断だったのである。

 

エルカが数度鼻を動かして、一点をにらみつけた。そして、周囲の者達に警戒を呼びかける。

「いるわね。 あっちに、この世界の原住民と、余所の世界の生物が混じった匂いがするわ。 悪魔とは、また違う匂いよ」

「良くやってくれました、エルカ」

「ふんっ!」

下らないと言葉で言いつつも、顔には如実に喜びが出るエルカ。ペルゴは預けられた部隊を二手に分け、一方は安全地帯での救出活動を、一方は精鋭を集めて敵の掃討を行っていた。案の定此方にいるのは普通の悪魔ばかりで、袋だたきにすればさほど苦労もせずに倒せる相手ばかりであった。ただし、彼らの実力を持ってすれば、の話である。それに、犠牲が出なかったわけでもない。既に数人が倒されており、汗を拭って、緊張した面もちでエドスが言う。

「どうする? 一気に叩くか?」

「いえ、敵司令部の位置が分かれば充分です。 一旦引き返して、救出活動の援護をしましょう。 ほら、軍の方も作戦を切り替えたようですし、敵が実働戦闘力を失うのも時間の問題です」

「良くわかんない話ね、一気に叩いちゃえばいいじゃない」

「リシュールが言ったとおり、兵を分散させての同時攻勢は愚の骨頂です。 するにしても、情況をよく見て、タイミングを計ってからの話です」

「ふーん」

いまいち納得出来ない様子でエルカが黙り込み、一旦ペルゴは味方と合流、状況の確認と、事態の報告を行った。味方勢力圏は既に北スラムの半分に達しており、予想された城の兵士達との衝突も殆ど起こらなかった。危地に落ちた兵士達をアキュートの者達が何度も助けた事もあるが、より強大な敵の存在を見せつけられて、団結せざるを得なかった事情もある。安全圏では急ピッチに救出活動が行われたが、アキュート兵の報告にペルゴは首を傾げた。

「はて、それは変ですね」

「どうした、何が変なんだ?」

「それが、犠牲者は殆どが大人ばかりだそうです。 子供は殆どが無事だとか。 悪魔達が、一番楽に手に入れられそうな獲物を襲わないと言うのは妙な話ですね」

「……バノッサの心にも、一抹の良心が残っていたのだといいんだがな」

エドスがため息をつき、瓦礫を押しのけて又一人住民を助け出した。辺りに指示を出しながら、ペルゴが又何か言おうとしたとき、息せき切って部下が駆けてきた。

「報告します! リシュール様よりの伝言です。 北スラムに展開した部隊は、北スラムに残る残敵を掃討し、城への援護に向かわせるな、との事です」

「……ほう?」

「城側の部隊は、相当に苦戦している模様です。 この上背後を突かせるわけには行かない、とリシュール様はおっしゃっておられました」

「なるほど、分かりました。 今から我々は、精鋭を指揮して敵司令部を叩きます」

ペルゴは最精鋭を五名ほど集めると、先ほどの地点へ再度向かった。途中、シャコのような悪魔を苦戦の末に撃破したローカスと合流し、一緒にいたキムランも協力を申し出た。敵の数はもう殆ど残っておらず、抵抗は散発的だったが、油断は出来なかった。司令部には、強敵が残っている可能性が非常に高かったからである。結果的に攻撃は空振りに終わったが、後に彼の冷静な判断力は高く評価される事になる。

 

4,サイジェント城、陥落

 

バノッサと綾は、しばし無言でにらみ合っていた。その背後にいるイムランと一群の兵士達は、固唾をのんでその様を見守る。やがて、最初に口を開いたのは、ボロボロになったイリアスを視認したイムランだった。

「騎士団長、無事で良かった。 もう退去命令が出ている、早く君も逃げろ」

「……どうやら、貴方は本当にお変わりになったようだ。 イムラン殿、此処は私達が引き受けます。 早く城外に出て、態勢を立て直してください」

「しかし私には、執政官として、最後まで現場に残る義務がある! 自分だけ逃げるわけにはいかん」

完全に識見が目覚めたイムランは、手を横に振ってそう言った。この識見がもっと早く目覚めていれば、鉱山で死んだ人間はもっと減っただろう。暴動も起こらず、家を奪われる者もいなかっただろう。情けなさと悔しさ、だが一抹の嬉しさを覚えながら、イリアスは言った。

「ここは、我ら騎士の領分だっ! 貴方の仕事は燃え落ちる城の中で死ぬ事ではなく、民を護って事態を安静化させる事のはずだろう! さあ、此処は私達に任せて、行けっ!」

「……死ぬなよ、騎士団長」

唇を噛んだイムランは、それだけ言い捨てると、西門へと消えていった。バノッサは、それを追う事さえしなかった。口の端をつり上げて、彼は右手を天にかざす。同時に場へ、今まで以上のプレッシャーを周囲に与える大悪魔が出現した。姿はいわゆる剣歯虎に似ており、背中には魚のような背びれが、さらには全身を銀色の装甲が覆っている。それでいながら、動きは恐ろしく軽やかだった。

「さあ、始めようぜぇっ!」

「……行きます」

もはや説得は無益と知っている綾が、サモナイトソードを構えた。

 

この戦いに、フラット・アキュート連合軍側の明確な戦略があるとすれば、バノッサの無力化であろう。逆にバノッサ側からすれば、無尽蔵に悪魔を呼べるバノッサさえ護りきれば勝ちなのだ。つまり戦略課題はバノッサに対する駆け引きとなり、それ以上でも以下でもない。そしてそれは、この場の全員が理解している事だった。更に言えば、凄惨な死闘以外の選択肢がない事も、それは意味していた。

最初に仕掛けたのはサーベルタイガーの大悪魔だった。軽やかに宙に躍り上がると、何もない空間を蹴って加速、鋭い牙を見せながら最前衛にいた綾に襲いかかったのである。食肉目特有の柔軟な肉体が撓り、鋭い牙が空を切り裂く。最初に右手での一撃が綾の真左から襲いかかり、それを伏せてかわした彼女は、敵の気配が背後に移った事に気付いて愕然とした。間をおかず、鞭のような尻尾が叩き付けられる。かろうじてガードだけは出来たが、四メートル近く吹っ飛ばされ、強烈に背中を打って動けなくなる。頭を打っていたら、即座に死んでいた可能性が非常に高いだろう。数秒間は呼吸さえも出来ず、死の沈黙が去った後は、激しく肺が悲鳴を上げた。

「かはっ! はあ、はあっ……!」

「ほう……今のを受けて死なぬ人間か……」

淡々と大悪魔が紡いだ言葉は、オペラ歌手が発するようなバスであった。しかも非常に綺麗な発音で、何処か遠くから響いてきたような今までの悪魔の言葉とは違う。こういう喋り方をする存在を、もう一人綾は知っていた。サビョーネルである。

「死ねえええっ!」

わめき散らし、バノッサがブラックラックを呼び出した。不死の召喚獣の手から、今までより更に強烈な炎が発せられ、まだ立ち上がれない綾に襲いかかる。何とかミモザが間に合い、フォールフロールで防ぐが、全ては無理だった。三秒ほどの激しいぶつかり合いの後、壁と化していたフォールフロールが軋みを上げ、形態をほどいてはじき飛ばされる。残された余波が綾に襲いかかり、再び彼女は悲鳴を上げて地面に倒れる。何とか致命傷は避けたが、目を開けているだけでも辛いのは一目瞭然である。しかし綾は何とか立ち上がり、再び剣を構え直す。バノッサに向けて。

尻尾を揺らしてそれを楽しげに見た大悪魔が再び飛ぼうとするが、間を詰めたラムダが大上段からの一撃を叩き込む。大悪魔は食肉目らしい軽やかな動きでそれをかわし、カウンターの前足を叩き込もうとしたが、逆方向から迫ったセシルがストラ拳を相手の脇腹に叩き込む。それは見事な一撃だったが、多少敵を蹌踉めかせただけで、致命傷にはほど遠い。忌々しげにセシルとラムダをはじき飛ばすと、大悪魔は咆吼、今度はレイドに躍りかかった。必死にその鋭い爪をかわすレイドの目に映るのは、更に増援を呼び出すバノッサの姿。今度現れたのは、大きな蛞蝓のような悪魔。プレッシャーはさほどでもなく、今後更に増援を呼ぶつもりだろう。

先ほどの戦いでの消耗はやはり大きい。動きが大分鈍くなっている上に、相変わらず底なしのバノッサの召喚術が、皆の気力を更に削ぐ。ジンガとセシルは必死にストラで皆を回復して回ったが、とても追いつくものでは無い。そんな中、大剣を振るって一旦サーベルタイガーの大悪魔を下がらせ、前に出たのはラムダだった。

「アヤ、行くぞ。 俺が何としても護るから、奴を黙らせろ」

ラムダのダメージは、綾にさほど劣らない程酷い。常人なら等に後方へ撤退し、病院で絶対安静を命じられているほどのものだ。だがこの剣豪は、そんな痛みを超越した高みにいるように、小揺るぎもしなかった。しかし、バノッサは、絶対的な優位を占めせせら笑う。

「此奴を見ても、そんな事を言ってられるかなあ?」

「させるかっ!」

態勢を低くしたラムダが、そのまま小石をバノッサに向け蹴飛ばした。そのスピードは凄まじく、慌てて蛞蝓の悪魔がガードに入る。小石はその目の一つを潰し、悪魔は無惨な悲鳴を上げた。そして、その体を視界的な盾にして、二人は一気にバノッサへと間を詰めていった。バノッサは焦りの声を上げ、部下に呼びかける。

「ちぃっ! 何やってる、ウォーブレイ!」

「お任せを」

レイドを叩きのめし、ギブソンを口からはき出した光弾で吹き飛ばし、縦横無尽に暴れ回っていたサーベルタイガーの大悪魔、ウォーブレイが振り向き、跳躍する。だが、人間側も黙ってはおらず、スタウト、ガゼル、それにスウォンが相次いで飛ぶ大悪魔へ己の獲物を投げつけた。だがそれをせせら笑うように大悪魔ウォーブレイは加速、いずれもが軽やかなる大悪魔の背後を流れるように飛んでいった。しかし一つだけが、鋭く着実に直撃した。しかも、先ほどセシルがストラ拳をクリーンヒットさせた箇所、さらには鎧の継ぎ目にである。突き立ったのは小振りな日本刀、それを投げたのは、先ほどからイリアスを護り、息を殺していたアカネだった。それは初めて有効打になり、大悪魔の顔に苦悶の表情が浮かぶ。続けて、イリアスが同様に剣を投げつけ、苦痛にウォーブレイが絶叫した。だがしかし、大悪魔はまだまだその程度では屈しなかった。そのまま頭を振って痛みを払い、一気に綾の背後へと間を詰めていく。もう綾には敵の接近を分かっていても、かわしたり、ましてや倒す気力は残っていない。

「うおおおっ!」

「させんっ!」

だが、ラムダが立ち塞がる。彼は前足での鋭い一撃をかろうじてかわすと、敵の巨大な口の中に愛剣を突き込んだ。しかしそれが喉を突く前に、大悪魔ウォーブレイは冷酷非情な牙をかみ合わせる。二つの気迫が凄まじい勢いでぶつかり合い、綾は完全に戦いの中から自由になった。そのまま彼女は最後の距離を詰め、悲鳴を上げている蛞蝓の悪魔に手を着く。そして、残された力の全てを賭けて、無言のままゼロ砲を撃ちはなった。

哀れな蛞蝓の悪魔は、ものの見事に吹き飛んだ。そして、命を無くしたその肉体は宙を舞い、バノッサに激突した。その衝撃は凄まじく、白き悪鬼は無惨な悲鳴を上げる。

「がっ! ぎゃああああああああっ!」

「っ!?」

「油断したな……終わりだ!」

一瞬気を逸らしたウォーブレイ、ラムダは愛剣から手を離すと、全身の力を込めてそれにタックルした。牙を折りながら彼の分身である剣は敵の喉を貫き、ウォーブレイが声にならない絶叫を上げる。とどめとばかりに、ギブソンとカシスがゼロ距離から召喚術を叩き付け、断末魔の悲鳴が上がった。

綾は遠くへ行きかける意識を必死に戻しつつ、倒れているバノッサに向け歩き、その喉にサモナイトソードを突きつけた。しかし、バノッサは不意に目を開け、その切っ先を掴み、凶暴な笑みを浮かべたのである。

「俺様に負けはねえんだよ、はぐれ女ぁっ!」

「……!」

「ヒャハハハハハハハハハッ! こんな傷、痛くねえっ! こんな傷で、俺様が屈してたまるかあっ!」

もし、間に蛞蝓の悪魔がいなければ、倒せていたかも知れない。しかし悪魔の最後の執念が、バノッサを致命傷から護ったのは揺るぎない事実。唖然とする綾は、意識が遠のくのを感じた。バノッサはそれを見逃さず、綾を思いっきり蹴飛ばした。もう悲鳴を上げる気力もなく、綾は他愛もなく転がる。サモナイトソードを手放さなかっただけでも、大健闘であったかも知れない。モナティとカシスが、ふらつきつつも綾に駆け寄る。綾は何とか生きていたが、口の端から血が伝い、意識があるのも奇跡と言った情況である。カシスは回復用の召喚術を唱えようとして、忌々しげに下を見た。もうそのような魔力、体の何処にも残っていなかったのである。綾もそうであったが、彼女も完全なガス欠に陥っていたのだ。

ラムダは地面に膝を突き、大剣を杖代わりにやっと体を起こしている情況である。暴れ回ったウォーブレイのせいで、余力を残している者など誰もいない。文字通りの万事休す。更にバノッサの行動が、それにとどめを刺す。

「殺さねえ限り、俺様から宝玉は奪えねえよ。 見なっ!」

服を開いて、腹を見せるバノッサ。彼の腹部は青紫に発光し、内側に何があるか一目瞭然である。ガゼルが、戦慄を押し殺しながら言う。魅魔の宝玉を飲み込んだ事によって、その力を最大限に発揮していた事を悟った皆は、一様にもう戦意を砕かれていた。

「い、いかれてるぜ、お前っ!」

「何とでも言えっ! これが、俺の覚悟の形なんだよっ!

バノッサが新手を呼び出す。悪魔ばかりだが、しかし十体以上である。先ほどの攻防でウォーブレイに壁に叩き付けられていたレイドが、かろうじて起きあがり、声をからして絶叫した。

「撤退だ! みんな、逃げろっ!」

しかし、逃げる事は出来なかった。バノッサが発動した特大最大出力のブラックラックが、城の南門前広場、彼らが戦っていた戦場そのものを吹き飛ばしたからである。

しかしながら。破滅の瞬間、不可思議な光が、その場にいたフラット・アキュート連合軍の諸子を包み、いずこかへ転送していた事に、誰も気付かなかった。バノッサも、そして転送された者達も。後には、沈黙だけが残っていた。

サイジェント城は、無色の派閥の手に落ちた。守備隊およそ三百の内、逃れ出る事が出来た人数はおよそ百ほど。文官、非戦闘員も多くが鬼籍に入り、死者は合計で五百名を越した。かろうじてマーン家三兄弟と領主は脱出できたが、彼らは北スラムにいた部隊と合流すると、衛星都市の一つへ待避していった。誰の顔にも一様に敗北感が張り付いていた。それを払拭する材料は、今のところ見つかりようがなかった。

 

北スラムでは、悪魔達の抵抗が止んでいた。フラット・アキュート連合軍が司令部を叩いたのではない。作戦が完遂されたため、裏道を通ってさっさと撤退したからである。ペルゴは敵司令部を急襲したが空振りに終わり、敵の完全撤退を確認した後は一旦アジトに引き上げ、落ち込む部下達の顔を見て唖然とした。

「どうしたのですか」

「……ラムダ様達からの、連絡が途絶えました。 敵の親玉を叩くと言って、奥へ入っていってそれっきり」

「まさか!」

絶句したペルゴは、アジトから出て、煙上がる城を見上げた。城門は閉じられ、中からは戦いの音が止んでいる。直ちに槍を取り、其方へ向かおうとするペルゴの肩を、背後からリシュールが叩いた。

「やめておけ。 無駄死にするだけだ」

「放してくださいっ! 中にはまだラムダ様が!」

落ち着けっ! 彼奴らが簡単に死ぬようなタマか? それに、彼奴らが死んだと思ってくよくよしている暇など無い」

「ど、どうして貴方はそう冷静なんですかっ! 貴方の教え子だって……」

言いかけて、ペルゴは口をつぐんだ。リシュールの表情が、彼女が冷静でないなどと、何より雄弁に告げていたのである。

「すみません……軍師リシュール」

「いや、いい。 それより、善後策を練る。 ぴーぴー泣いている暇なんか、何処にもありはしないんだ」

リシュールの言葉は正論だったが、それだけで皆が落ち着きを取り戻すわけではない。一番呆然としていたのはエルカで、話を聞くと床にへなへなと崩れ落ちてしまった。エドスも壁を拳で殴りつけると、そのまま押し黙ってしまった。ローカスも舌打ちすると、酒瓶を取り、手酌で傾け始めた。その時、皆を立ち直らせたのは、リシュールではなかった。笑顔で手を叩いた、リプレだった。

「みんな、元気出して。 大丈夫、彼奴らみんな生きてるから」

「どうしてそんな事が言える……」

「私はね、ずっと彼奴らと一緒に暮らしてきたのよ。 だから分かるの。 彼奴らがこんな簡単に死ぬ訳ない、絶対に生きて帰ってくる。 だから帰ってきたときのために、準備しておきましょう」

ローカスは再反論しかけて辞めた。リプレの表情に、今まで彼が見た事もないほど強く、気高いものがあったからである。やがて最初にリシュールが元気を取り戻し、てきぱきと指示を下し始めた。いち早く敗北感から立ち直ったのは、サイジェントの住民では彼らが初めてだった。

 

5,無色の派閥の乱

 

蒼の派閥本部にて、副派閥長エクスは動員令を発布していた。彼の元にサイジェントにおける無色の派閥の活動が確実である事、更に魅魔の宝玉が使用されている事、の報が届いたからである。それまでに届いていたミモザとギブソンの報告から会わせても、無色の派閥がそれに関わっていたのは明白。軍を動員する意味は充分にあるという物であった。自軍だけでなく、エクスは金の派閥へも連絡を飛ばしていた。それに対し、パッフェルが言う。

「敵の戦力は、召喚獣が主みたいっすよぉ? ウチの軍だけでも充分じゃありませんかね?」

「蒼の刃と君には、引き続き敵本拠地を探って貰う。 それに動員出来るだけの兵力を先にまとめておいて、無駄な損害は避けた方がいい」

「なるほど、そうすか。 じゃ、行ってきますね」

パッフェルは敬礼し、すぐにその場を去った。蒼の派閥の私兵、聖王国の兵、あわせて約三千が聖王都を出立したのは翌日の事であった。金の派閥本部があるファナンから、五千の兵が同様に出立したのが更に三日後である。両軍は粛々と合流すると、一週間ほどかけてサイジェントに向かった。エクスは現状戦力以上の援軍を要求し、聖王国は二つ返事でその準備に取りかかった。

蒼の派閥の軍を指揮するのは、聖王国の中将ラーストである。四十三歳になる彼は、エクスの旧友であり、だが極めて真面目な性格故今回の出兵を快く思っていなかった。金の派閥の兵を率いるのは、同じく聖王国中将パムフである。パムフは五十一歳、猛将タイプの将軍で、全面攻勢の巧みさには定評がある。二人の将軍はさほど仲がよいわけではなかったが、何度か共同作戦を行った事があり、今回も自然に協調していた。作戦自体にさほど興味を見せない金の派閥長ビルイフや、蒼の派閥長カンゼスはビジネスの話をしており、彼らを横目に、ラーストはエクスに言う。

「分かっておるかも知れぬが、我が軍の士気は高くない。 強敵とぶつかると、損害は大きくなるぞ」

「分かっている。 出来るだけ、被害を少なくなるよう、我々からも働きかける」

「というのもな、兵士達は皆何のために自分がかり出されるかわからんのだ。 一部の兵士達に至っては、これを召喚師同士の内輪もめだと思っておる。 ……まさか、そうではあるまいな」

エクスは首を横に振ったが、否定もしきれなかった。彼にしても、オルドレイクの真の目的は未だに分からないのである。それに、兵士達の心情がエクスにはよく分かった。事実がどうあれ、世界を好き勝手にしている召喚師共の内輪もめに参加させられ、死ななければならないなどと言うのは、彼らとしてはまっぴらであろう。一応いつもより多めの給料が出されてはいるが、カンゼスはそれを渋ったほどで、エクスの見ていない所ではピンハネしている可能性さえある。カンゼスは無能ではないが、同時に召喚師以外の者を人間だとは思っておらず、その行動は傲慢を極めた。

サイジェントの国境に着いた頃、サイジェント城陥落の報が連合軍に届いた。若干の動揺が首脳部に走り、なおかつ国境では最初かなりの摩擦が心配された。サイジェントを支配するマーン家三兄弟の無能さは金の派閥でも有名であり、領主の無能さもそれに従って知られていたのである。しかし、予想はよい方向で裏切られた。サイジェント軍は一週間ほどで既に混乱から立ち直っており、堂々たる態度で連合軍に応じてきたのである。エクスはむしろそれを見て安心し、腰を低くして事態をつげ、サイジェントにはいる事に成功した。

金の派閥、蒼の派閥連合軍は、徐々に集結しつつあるサイジェント軍と合流、合わせて一万弱の戦力を持って、サイジェントを包囲した。出立から二十日目の事であった。

このときを持って、(無色の派閥の乱)の開始が、正式に聖王国へ通達された。

 

「どうした、浮かない顔をしているな」

「なんでもねえよ……」

サイジェント城の、今だ復旧しきっていない玉座で、憮然とバノッサは呟く。からかうように声を掛けたのはザプラである。

城を制圧した後、バノッサは意気消沈しているように見えた。戦意を失って降伏した者には手を掛けず、(丁重に)城からたたき出すだけで済ませたし、無闇にありとあらゆる物を焼き払うような事もなかった。北スラムで指揮を執っていたカノンが戻ってきてからも、様子は変わらなかった。

城の宝物庫には、膨大な宝物が蓄えられていた。かっては金銭に膨大な関心を持っていたはずのバノッサは、それをザプラに見せられても、何も感銘した様子がなかった。カノンの悲しげな視線にも、何も感銘しなかった。

バノッサは、力尽くで玉座を手に入れた。だが、ただ玉座に座っただけだったのである。

「どうする? 城下へ何かしらの政策を発表するか?」

「……くだらねえ、適当にやってくれ」

「新しい国号は? 何か正式な発表は?」

「しらねえよ……」

無気力なバノッサに、ザプラは口の端をつり上げた。それは、予想通りの反応だったからである。

玉座の間に、新たな人影が現れる。ザプラが粛々と、控えている大悪魔達が慌てて頭を下げる。バノッサも陰気に礼をしたその相手は、オルドレイクだった。

「良くやったな、バノッサよ」

「アンタか……俺が城を手に入れられたのも、アンタのお陰だ。 感謝しているぜ」

「うむ。 それよりも、蒼の派閥、更に金の派閥の連合軍、約一万がサイジェントを包囲した。 新領主殿に、何かしらの対策を伺いたい所だが?」

「アンタが適当にやってくれ。 入ってきた奴は、俺が叩き潰す。 だけど、それ以上の事をする気はねえよ」

オルドレイクは軽く鼻を鳴らすと、城外へと歩き出した。ザプラとクジマ、それにトクランが、いつの間にかその左右を固めていた。ザプラが皆を代表し、言う。

「作戦は順調に進行しております、同志オルドレイク様」

「うむ、君達を部下に持てた事は、私にとって最大の誉であるな。 迷霧の森に残ったラーマにも、警戒を最大限にするようつげよ。 戦いはこれからが本番であるがゆえ、な」

「はっ」

ザプラは頷くと、かき消すように姿を消した。

サイジェント城は不気味なまでの沈黙を守り、陥落後はほぼ何の動きも外部へ見せなかった。住民達は不審がり、不気味に思ったが、城外に陣を張った軍と騎士団による巡回と経済支援が治安を思ったよりも安定させていたため、致命的な混乱には至らなかった。それにサイジェント軍に呼応して現れたかのような大軍は盗賊団等を意気消沈させ、暴れる意欲を奪ってしまったのも確かだった。

サイジェントは混乱の前後の激動を経て、再び身動きしない不思議な情勢に陥っていたのである。

 

綾は闇の中にいた。辺りは冷たくも温かくもなく、上も下も分からなかった。痛みもなく、そして楽でもなかった。無言の浮遊感の中、綾は心中にて呟く。

『……死んでしまったんですね、私』

様々な思いが心の中を駆けめぐる。バノッサの暴走を止められなかった事、皆を護りきれなかった事。結局最後の瞬間、心を折られてしまった事。最後まで心を強く持っていれば、非情になりきってバノッサを殺し、事態を好転させる事が出来たのかも知れない。しかし、全ては遅かった。味方は全滅し、今此処に死の世界を漂っている……。

「目覚めよ……」

「えっ……?」

「目覚めよ……誓約者(リンカー)よ……」

不意に声が響く。ゆっくり目を開けると、そこは水晶のような地面を持ち、四つの光に照らされた奇妙な世界だった。そして辺りには、彼女の仲間達が、累々と倒れていた。

「いっつつつつつ……」

頭を押さえて立ち上がったガゼルが、辺りを見回す。ラムダもレイドも、順に体を起こした。彼らは相当に酷い傷を負っていたはずなのに、全てふさがっていた。

「マスター! ご無事で良かったですのー!」

喜色満面のモナティが綾に抱きついた。となりでは、カシスがいつにない優しい笑顔で彼女を見下ろしている。綾が苦笑したのは、情況から考えて、どうしても生きているとは思えなかったからである。いつしか皆の視線は、空に輝く四つの不思議な光へと注がれていた。

「……此処はあの世か?」

ぼそりと呟いたのはレイドだった。それに対して、光が応えた。

「お前達があの世と呼ぶ世界とは異なる。 此処は狭間の世界、そしてお前達は、私達が死の寸前に助け出した。 故に、お前達は生きている」

「確かに傷は消えているし、体の調子はいいな。 で、てめえらは何者だ」

右手を振って調子を確認しながらガゼルが問う。この辺の威勢の良さは、流石と言わざるを得ないだろう。光は、早速彼の疑問に応えてくれた。

「我らはエルゴ。 世界の意志たる存在」

『……! まさか、私達の前にいるのは、神様ですか?』

「リンカーよ、お前が概念的に抱く神と、我らは似て非なる存在。 今より我らが何故お前達を助けたか、何が起ころうとしているのか、全てを空かそう。 五つの世界が維持してきたバランスが、崩れ果てようとしているのだ」

心を読みすかされた綾が、慌てて両手で口を塞ぐ。エルゴはそれに構わず、蕩々と話し始めた。

世界のバランスの崩壊の危機、それに世界に起こりつつある事について。それは。リィンバウムの根幹に関わる、世界で最も重要なる情報との対面であった。

 

(続)